おりき
信濃なるすがの荒野にほととぎす
鳴く声きけば時過ぎにけり
――万葉東歌――
八ヶ嶽の、雄大な裾野の一角。
草場と、それから此のあたりでカシバミと呼んでいる灌木の叢に取り巻かれた麦畑。黄色によく実った麦の間には既に大豆が一尺近く育っている。
麦畑の奥は向うさがりに広がっていて、此方から見えるのは、その極く一部分だけ。周囲の草場の一部は草が刈り込まれ、そこが麦こきの仕事場になっていて、刈り集められた麦の束が積んであり、その傍には荒むしろが三四枚ひろげられ、その上に牛くさの千歯が据えてある。
小径は仕事場のむしろの傍を通り草場を抜けて左右に伸びている。下手に伸びた小径は、麦畑のふちを通って、八ヶ嶽の峯々が合掌するように空に連っている方へ。上手に伸びた小径はカシバミの叢の中を廻って正面奥に下って消えている。
ただ見れば平地であるが、実は海抜二千メートル以上の高地である。眼を開いていられぬほどに明るい夏の午後。
人の姿はなく、ただ麦畑の穂波の一個所が、モゴモゴと動いている。
シンカンとした永い間。
奥の谷の方から、小径を踏み分けてスタスタと登って来る青年。まだ少年と言ってもよいほどの頬をした、スッキリと明るい若者で、ズボンに巻脚絆に靴、あまり大きくないリュックサックにピッケルと言った、無造作な、だがしっかりした山歩きの装具。
草場のはずれの所まで来て、ピッケルを立て、カーキ色の散歩帽を脱いで、白い額に流れる汗を手拭いでふきながら、越えて来た山の方などを見渡している……。
いきなり、麦畑の中に立ちあがった人がある。きたない、ボロボロの姿をした百姓。刈取った麦の束を両わきに抱え込み、ムシロの方へ行き、積んである麦束の上に麦をおろす。そしてホッとして、少し曲っている腰を伸ばして膝の所から仰向けになるような姿勢をして、頬かむりから僅かにのぞいている眼と鼻のあたりに流れる汗を、まるで鍋のふた程もある大きな手のひらで、ブルンと横なぐりに拭く。棒縞の腰きりはんてんに、つづれ織りの帯をしめ、紺のももひきに素足にわらじ 、頬かむりの上から小さい菅笠をかむった、このあたりの百姓姿である。着ている物の全部が縞目もわからぬ程になった古いもので、そのあちこちを何十度繕ったものか、まるでさしこの着物の様になっている。僅かにかむっている手拭だけが少し白い。
青年はそれを眺めている。百姓は、しかし、山国の人が山の中で一人で働く時の常で、そのあたりに人が居ようなどとは思っても見ないので傍目もふらず、直ぐに又、何かわけのわからぬ鼻唄を無心にフンフンとやりながら麦畑のウネをヒョコリヒョコリと越えて穂波の中にもぐり込んで行き、鎌を掴んで、再び刈りはじめる。その急ぎはしないが、又休みもしない鎌の音と、低い鼻唄が静かにきこえる。そう言えば、その鎌の音と鼻唄とは、まるで高原の真昼の静けさ自身のつぶやきのように、はじめからきこえていたのである。……もっ立てた尻が、麦の波の中に動く。青年、水筒の口をとり、水を呑みながらおかしげに動く尻を見ている。
――間。
やがて再び、百姓は刈取った麦を抱えて、仕事場の方へ。
青年 ……(近づいて来る百姓を見迎えて)あのう、ちょっと ――?
百姓 わい!(ビクッとして一二歩飛び退るようにする。無心に歩いている子供が不意に物蔭から飛び出して来たものにおどかされるのと同じで、仕事に没入しきって何物も見も聞きもしなかったのを急に呼び醒されて驚いたのである。眼をパシパシさせて青年を見る)ほっ!
青年 ……(相手の驚きようがあまりひどいので、却って此方がビックリして)あのう……チット 、伺いますが……。
百姓 へえ……あんだあ。(おかしくなって)ハッハッハハ。フッ!
青年 ……どう――?
百姓 ハハ、出しぬけだもんで、へえ――(クスクス笑いながら仕事場の方へ行き、麦束を置く)
青年 (これも笑いながら、それについて五六歩行く)……麦ですか。おそいんですねえ、此の辺は。
百姓 うん?……(まだクスクスやりながら、腰の手拭を取って襟もとの汗を拭きながら、曲った足腰をウネの間に突っぱるようにして立ち、青年の頭から足の先まで見上げ見下している)うむ。……赤獄の天狗さんかと思うたよ。じょうぶ 、びっくらした。ハハ。……学生さんでやすかい?
青年 ? いえ、まあ……すみませんでした。チョット道を聞こうと思って――。(胸のポケットから折畳んだ地図を出す)
百姓 はい。……(りちぎに相手の言葉を待っている)
青年 小海線と言うんですか……此の地図にゃ載ってないんで……野辺山という駅まで、まだよっぽどありますか?
百姓 野辺山なら、もう、へえ、訳あ無え。此処から一里に少し欠ける――ユックリ行っても、さようさ、あんたらの足なら、一時間というとこだらず。
青年 そうですか。で、道はやっぱり、これを行きゃあ――?
百姓 うむ、どっちへ行っても行ける。この辺の道なんぞ、有るような無いようなもんで、下手をすると甲州へ出やすよ。
青年 そうか、そいつはどうも――。なんしろ昨日から人っ子一人逢わないもんですからね、道を聞こうにも――どっちの方角ですか?
百姓 ……お前さま、全体どっちからおいでなすった?
青年 こっちから来たんですけど――(自分の歩いて来た小径の方を指す)
百姓 んだから、どっから来なすった――?
青年 はあ東京……横須賀から、東京へ寄って、そして――。
百姓 んだからさ、どこを歩いて――?
青年 (相手の言う意味がやっと掴めて)はあ、自分は、八ヶ岳を越えて――。
百姓 そうかい。それじゃ、海の口の牧場を通って来なすったずら?
青年 さあ、よくわかりませんが、……あれが牧場だったんですか? 柵で囲んだ所を通りました。
百姓 そうかい。……そうよ、野辺山なら、この草ん中あドンドン此の方角へ行きやすとな、いろいろ小径が有るがそんなもんに目をくれずとな、真直ぐに七八丁行くと、営林区の林道に突き当るから……林道と言っても草の生えた、そうよ、唐松の林を二間幅ぐれえに一直線に切り倒したとこだあ、それを左へ行くと直きに運送の道路に出るだから、それに附いてドンドン行くと、県道になるからな、それを右へ取って行くとひとりでに野辺山の駅だ。
青年 ……七八丁行って、林道に出て、左へ曲って運送の……(と道筋を頭に入れながら)運送と言うと?
百姓 牛に引かせる荷車だよ。そいつの通る路ですよ。輪の跡がグッとへこんでるから、直きにわかる。
青年 (うなずいて)それを行って、県道に出る。右へ取って――わかりました。ありがとう。一時間か……(腕時計を見て)たしか十五時の上りが有りましたねえ?
百姓 十五時と――?
青年 ……三時何分かの小淵沢行き――?
百姓 うむ、小淵沢なら一時半と、その次ぎは三時だ(語りながらも、ムシロをチャンと引っぱったり、千歯を据え直したりしている)
青年 そうか。……(ホッとするが、尚もう一度たしかめるため、ポケットから時間表を出して時間を繰っている)
百姓 東京へ行くんだら、なんでも、その次ぎの六時ので行っても、レンラクは有ると聞いたがなあ。(麦こきの仕度が出来て、一息入れるために笠をとる)
青年 なに、東京へチョット寄って、今夜中に横須賀へ出なくちゃならんもんだから。……ええと十九時……よしと。ハハ、なんしろ道に迷ったんじゃないかと思ったもんだから……しかし、こうなると却って時間が余ってしまった。――(言いながら頭を上げて相手を見て、びっくりして言葉を切る。時間表を調べている間に笠をぬぎ頬かむりを取ったのを見ると、殆ど白髪になった頭髪に小さく結った髷が現われる。しわが寄り、陽に焼けて、眼つきのおだやかな、とぼけたような感じの老媼の顔。先程平手でこすった時に附いた土が鼻のあたりに鬚のように残っている)
百姓 さようさ……(額に掌を当てて少し傾いた太陽を見上げ、次ぎに、ぬいだ手拭で顔を拭きなどして)今から三時の上りに乗るんでは、いくらユックリ歩いてっても、だいぶ間があらあ。……(相手がマジマジ見ていることなどにとんちゃくなく、拭き終った手拭いを今度は姉さまかぶりにして、さあてと言った顔になり、黒い両手にペッペッとつばきをくれて、麦束の方へ)
青年 ……(フッと笑えて来る)
百姓 んだが、この辺じゃ、別に見るようなとこも無え。あっちを見ても此方を見ても、へえ、唐松林と山ばっかりでな、(麦束を取って、片足でシッカリと千歯の踏板を踏んで、麦の穂をこき落しはじめる)
青年 はあ、……(おかしさが止らず、声を出してクスクス笑う)……
百姓 珍らしいもんなんぞ、何一つ無えづら。この信濃なんという国は、へえ、昔っから山ばっかりだ。飽きもしねえで、じょうぶ、山ばっかり拵えたもんだ。(ブリブリと音させて麦をこいで行く)
青年 ハッ、ハハ、ハハ、
百姓 (青年の笑い声で、その方を見る)……?(相手が自分の顔ばかり見ているので、顔に何か附いてでもいるかと思い片掌でツルリと顔を撫でる。すると又眼のあたりに泥が附く)
青年 いやいや……ハハ、ハ……
百姓 なんでやす?
青年 ……そう言えば、声は女の人のようなんで、なんだか変だと――
百姓 おらかい?
青年 だけど、小父さんだとばっかり思っていたもんだから――。
百姓 おれは、おなごだあ。よっぽど、こんで古くこそなったが、へえ、おなごの古くなったので……やっぱし、こんで、ババさまだらず。(殆んど福々しいと言える位に柔和な笑顔)
青年 どうも――
百姓 ……(前歯の抜けてしまった大口をパクパク開けて笑いながら、麦こきを続ける)……こんで、暗くなってから家さ戻ったりすると、孫共あ、火じろのわきから俺の方ジロリジロリ見て「おばあ、チョックラ 向う向いて見な」などと言いやす。お尻からシッポでも生えてるかと思うづら……ハハ。もっとも、こんで、シッポこそ生えねえが、甲らあ固くなりやした。
青年 おいくつになりました?
百姓 齢かい? フフ……六十七だ。どうして六十七なんてなっただか、知らん間に年ばかり拾って、足腰あ利かなくなるし、へえもう、しょう無えよ。
青年 ……よく、しかし、精が出ますねえ、(話しながら草場に腰をおろしている)……小麦ですか?
百姓 ……そうだよ。
青年 そこに生えてる、そいつは……?
百姓 うん? ああ、そりゃ、大豆だ。
青年 へえ……大豆が此の辺にも出来るんですかね?
百姓 うむ、そりゃ此の辺にも出来ねえ事あねえが、この大豆は唯の大豆と違う。満州から去年戻って来た奴が、二升ばかり種え呉れたから、出来るか出来んか、……食っちまやあ、それっきりだでね……とにかく蒔いて見た。此の辺じゃ俺だけだあ……どんなもんか……(その大豆を、ずるそうな横眼を使ってジロジロ見て)でも、へん、ヤッコめ、生えるにゃ生えただから……(まるでその大豆の木が生きもので、こっちの言葉を聞けば怒りでもするかのように、声を少し低くして言う。話をしながらも麦こきの手は休めない)……だまくらかされて、ちったあ実もならすか……
青年 ……お百姓も大変だな……
百姓 大変な事なんぞ無えよ。俺なぞガキの時分から、山あ好きで、こうして、へえ、山で稼いでりゃ、頭痛位なら治っちまいやす。……第一、地べたなんて、正直なもんだ。此の畑なんぞも、木の根っこや草あ、ほじくり返して、種え蒔いといたら、こうして出来やす。世話あ焼いただけのもなあチャンと返してくれら。苦労なんぞ、なんにもねえよ。……ただ、へえ、飽きちゃ駄目だあ……飽きさえしなきゃ、馬鹿にでも出来やす百姓なんぞ。好きな時に起きて寝て、泥の中さ、へえずり廻ってな、大飯くらって屁えこいてりゃ済まあ。……こら、こん野郎!(と千歯の歯に引っかかった麦束の穂を力まかせに引き抜く)
青年 ……近頃は、しかし、増産々々で、やかましいようで――
百姓 ……うむ……増産かい。そうよ、百姓は年中増産増産だあ。……昔っから、一升でも二升でもたくさん取りてえのはきまってたこんだ。十六七年前に穀物の値がうんと下った時分にゃ、作付を減らせと言われてなあ。……そん頃だって俺だちゃ、ちっとでもたくさん取ろうと思ってウンウン言ったもんだ。ハハ。そんなもんよ百姓なんつうもんは。
青年 ……今年はどうです、出来の具合は?
百姓 今年は良えだよ。……土用に入ってからの天気順が良かった。……殊に麦作は良え。こら、こんな実の入りようだ……(こき落した麦の穂を掴んで見る。青年も寄って行きそれにさわる)……去年あたりに較べりゃ 、一倍半と言うとこずら。ハハ……
青年 やっぱり、出来が良いと嬉しいでしょうね?
百姓 うん、そりゃ、うれしい……んだが年まわりと言うもんが有ってね、いくらうまくやっても悪い年も有る……こんで、だから、作が良くっても俺たちゃあ、それほど喜こびもしねえし、悪くたって、それほどしょげ返りもしねえですよ。……二年三年位じゃ、泣いたり笑ったりも出来ようが……こんで十年の間をならして見ると、良えも悪いもねえ、毎年同じだあ。
青年 ……(なんの気もなくポツリポツリと語りながら、休まず急がず麦こき進んで行く相手の横顔を見守っている)
百姓 ……やれ、どっこいしょと、……ほう、少し風が出て来た。丁度、叩いてすます頃にゃ、ええあんべえの風にならす……(麦をこき落しながら、無意識に鼻歌が出て来る)
(間)
青年 ……なんの歌です?
百姓 あんだえ?
青年 その歌は、なんという歌ですか?
百姓 歌?……なんの歌だ?……
青年 ……先刻も小母さん歌っていた……?
百姓 おらがかえ?……(少しびっくりして青年を見てから、頤を引いて、自分の胸や左右の肩のあたりをキョトキョト 見まわす)
青年 ……もっと大きな声で歌って聞かせてくれませんか?
百姓 ……(更に青年の方へ眼をやってから、自分が鼻歌を歌っていたのを思い出したのか思い出さないのか、どっちとも附かず、ただ、急に女らしい、と言うよりは、殆んど少女の示すような、はにかみを現わした顔。その顔を、しかし、片手で邪慳にゴシゴシとこすりまわして)……へえ、おら、歌など唄えねえ。
青年 ですから、今唄っていた――
百姓 ハハ、お前さまこそ、歌あ唄って聞かしておくんなせえ。東京の衆は、うめえづら。……(チュン、チュンと思い切りよく手ばなをかんで、再び麦こき)
青年 ……(クスクス笑いながら)……じゃ、僕が唄えば、小母さんも唄ってくれますか?
百姓 う? へえ。……(それには返事をしないで)学生さんは、ノンキでようがすの。
青年 小母さんが聞かしてくれれば、私も唄いますよ。
百姓 フフ……お前さま、なんの学校でやす? いずれ大学校づら?
青年 いや、学生ではありません。ズーッと……船に乗っとる者で――
百姓 船かえ?……船になあ……するちうと、海の上、走っているだね?……太平洋なんと言う――?
青年 はあ、……先ず――
百姓 そんだら、ガ……ガタル……ガタル……ガダ……あんでも、ガダ……へえ、舌あ噛みそうだ。
青年 (微笑)……ガダルカナルですか?
百姓 そうそう、そったらカナルだ。行ったことがありやすかね、そこへ、お前さまあ?
青年 いや、まだ行きませんが……どうしてです?
百姓 ううん、いや……(何か考えているらしいが、麦こきの手は休めない)……(気を変えて)船の人が、だども、山へ登ると言うなあ――? 今どきあ、忙しからずに?
青年 三四日、休暇が出たもんですからね……急に此方へ来たくなって――だけど、馴れないもんだから、山路の遠いのにゃ、驚ろきました。直ぐ其処に見えてる山を越えるのに、とんでもない所をグルグル廻る……。
百姓 山登りは、はじめてかね?
青年 いえ、もともと山は好きなんで、以前少しは登ったんですが、八ヶ嶽は、はじめてです。……富士見に降りて、あの辺を歩いて見ようと思って……少し歩いていたら、急に此方へ越えて見たくなりましてね……。
百姓 ふむ、富士見からね? そいつは御苦労さまだ。
青年 なに、おっ母さんの室の窓から、年がら年中、見えるものと言えば此の山です。あれを越して行けば、川上、野辺山……それを抜けてズンズン行けば秩父へ出られる……何度も、そんな風に聞かされているもんだから、つい、どうも……。
百姓 おふくろさんは富士見にござらすかえ? そうかえ。おふくろさんに逢いに戻って来やしただね?
青年 はあ、……いえ。――
百姓 すると、お前さまのおふくろさんは富士見の人かえ? そうかえ、富士見にゃおらの知ってる人も居る。森田の宇えさんと言って、じょうぶ鼻のでっけえ――
青年 いえ、村の人間じゃ無いんです。久しく富士見の病院に入っていたんで。……中学時代に僕あ、チョイチョイ、見舞いに来て……その病院の窓から、おっ母さんが此方を指して話してくれたんで――
百姓 ……すると、病気かえ? そいつは、いけねえ。そんで、ちったあ、良い方かね?
青年 なんです?
百姓 おふくろさんよ、その。
青年 (びっくりして、それから微笑)ああ、母は、死んだんです。……ズッとせん、富士見で。
百姓 ……(フッと麦こきの手を停めて、青年の方を見る)……そうかえ。
青年 (少しテレて、微笑している)なに……ですから、なんとなく……そこいらを歩き廻って見たくなったもんだから……
百姓 ふむ……(両手を、曲った腰に当て、シミジミと青年を眺めている)……いくつの時だあ?
青年 ……十七んときです。
百姓 今、いくつになりやした?
青年 僕ですか?……二十六です。……どうも、ハハハ。……(困って、手持ぶさたで、積んである麦束に近づき 、なんとなく、麦束を取り上げ、それをこく真似をする。次ぎにホントにこいで見る気になって、踏板をしっかり踏んで、ブリブリとこく)
百姓 ……(その姿を、まだ見ている)
青年 ……(相手の視線を無視して、一束こき終った時に、右のズボンのポケットにゴロゴロする物が邪魔になるのに気付き、それを取り出すと、紙袋に入った飴玉)
百姓 ……さぞ、なあ。
青年 ……(百姓の方へ寄って行き)これ、残りもんですが……(自分で紙袋から飴玉を一つ出して、百姓に渡す)
百姓 う?……(別のことを思っているので、ウッカリしたまま手を出して受取る)……なんだ?
青年 ……(紙袋の方も渡して、百姓の手元を見ている)
百姓 そりゃ、へえ……ごっつおさまだ。(無造作にポイと飴玉を口に入れる)
青年 その手……指は、どうしました?
百姓 うん?……(チラッと自分の手を見てから)うむ、……ヒビやアカギレだらず……年中、こうだ。……あに、へえ、痛くも痒くも無え、……こりゃ、へえ、ぢょうぶ甘えもんだ。(歯の無い口の中を飴玉を彼方へやったり、此方へやったりしながら、やっぱり腰に両手をかった姿で、無表情な顔のまま、再び麦こきにかかった青年の姿に目をやっている)……ふむ……おふくろさんに逢いたからず?
青年 ……(チラッと百姓の方を見るが、直ぐはにかんだような微笑を浮べて麦こきの上にかがみ込む)
百姓 ……いとしげに。……(その大きな荒れた指先を眼の下へ持って行って流れて来た涙をこすり取る。いつまでも小さくならない飴玉を歯の無い土手でゴリゴリと持ちあつかいながら)
(間……青年が何かムキになってこき進む音だけが、ブリリ、ブリリと響く……)
青年 ……ドッコイショ、と……いけない、こいつはまだ残っている……(もう中止しようと思う最後の麦束を、もう一度叮寧にこき直して……)やって見ると、これで、コツが有るもんですね……(中止して手をはたきながら少し上気した顔で百姓を振返ると、まだボンヤリと自分を見ている百姓の眼にぶっつかって、チョット目を止めるが、テレて片掌で額を拭き)ハッハハハ……(先刻からの会話から醸された 気分を打切るように笑う)ハハ。
百姓 ……(しかし、これはその笑いに乗って行こうとせず、単純な自然な動作で、黙ってトコトコと寄って来て、青年と入れ代って麦こきにかかる)
青年 ……そうだ、飯を食っちまっとくか。……(リュックサックの方へ行き、それを開けにかかる)
百姓 ……(身体を動かしながら)おまんま食べるんだら、湯でもわかしてやろうかな?
青年 いや、水でたくさんです……(言いつつ握り飯の包みを取り出しかけて、フとリュックサックの一個所に目を附け)いけない、……何かに引っかけた。ええと……そうだこっちが先だ。(草の上に坐り、握り飯の包みを傍に置き、リュックのポケットから、小さいケースを取り出し、それを開いて、糸と針を取り出して、馴れた手付きで針に糸を通して、サッサとリュックのほころびをつくろいにかかる……。
百姓 ……(急に青年が黙りこんでしまったので、そっちを見る)水なら、そのヤカンに――(飯を食べていると思っていた青年が針を使っているので、しばらく眼をこらして見ていたが)どうしやした?
青年 やあ……(セッセと縫う)
百姓 ……(また二つ三つ手を動かして麦をこくが、なんとしても気になる様子で青年の手元へ眼をやったままである。そのうちに、そっちの方へ自然に引き寄せられるように寄って行く。片手に麦束を握ったまま)
青年 ……借りて来たリュックですからね……そいつが、また、なかなかやかましい山男で……ほころびをさせたりしていると、説教だ。……(縫いながら)
百姓 うーむ……(低く唸るような声を出す。腰を曲げ、両方の膝に両方の手を突いて、青年の手元を覗く)……うめえもんだなし! 男のくせに……おらなどより、うめえ。
青年 なに……年中船の中にいるもんだから、……みんな、こうです。
百姓 そうかい、そいつは……(青年が縫い終るまで、まじろぎもしない)
(そこへ下手の小径からスタスタ出て来る二人の人。前は野良着に巻脚絆に戦闘帽の中年の男。伸ばしっぱなしにした不性髭の中から眼鼻が覗いている毛深い農夫で、荒縄の帯に鎌を差し、横ぐわえにした煙管から煙、後はまだ廿四五の若い女で、キリリとした袷にカルサンに草履、片手に小さいフロシキ包みを下げ、白粉気の無い白い顔が引きしまり、沈んだ眼の色。……二人は老農婦が此処で働いている事をよく知っていてやって来たもののようで、直ぐに百姓と青年の姿を認めて、スタスタ寄って来る。殆んど足音を立てないので縫物に集中している青年も、それを穴のあくほど見守っている百姓も、気が附かぬ。中年男と若い女は二人から三四間の所に立停って、黙って突立ったまま、同じように青年の手元を覗き込む……)
青年 ……これでよしと。(縫い終ってケースから小さい鋏を出して糸を切る。中年男と若い女にも此の場の様子がわかって来る)
百姓 へえ! なんたらチャッケエ鋏だあ!(讃嘆の叫び声)
青年 ハハ、これで、案外よく切れるんですよ。(鋏を百姓の手に渡して見せる)
百姓 (それを、大きい掌の上で打返し打返して見ながら)へえ、まあ! かわゆらしい! こんでなあ、切れるかや?(それまで珍らしくも無いと言った様子で眺めていた中年男が、肩をすくめる)
青年 (ケースを示して)これが指ぬきです。これが糸、これが針差し、先の曲った針もあります。そいから――
百姓 一式そろっていやすね! ふーむう(惚れ惚れとして見入っている。中年男はニヤニヤしている。若い女はきまじめな顔をして立っている)
青年 ……(たかが裁縫道具に百姓の讃嘆があまり子供らしく度はずれに激しいので、微笑しながら道具をしまいかけそうにするが、相手が殆んど撫でさすらんばかりにしているので取上げるわけにも行かず、そのままにして、包みを開いて握り飯を食いはじめようとして、何の気もなくそっちへやった眼が、中年男と若い女を見つける)
百姓 (そんな事には一切気付かず)第一、この箱がキレイだ。なんと、まあ――
青年 ……(二人を見ている)
百姓 東京には、こんなもん売っていやすかえ?
青年 いや……なんでも、かなり昔のもんです。(黙って立っている二人を気にしながら、飯を噛みはじめる。様子が百姓の所に来た人達らしいので二人と百姓を見くらべて)あのう……。
百姓 そうだらず。へえ、いまどきの物とは違うようだ。うむ!(一人うなずいてケースを老眼にくっつけて見たり離して見たりする)
中年 ワッハハハハ、ハハハ!(こらえ切れなくなって、くわえていた煙管を片手に取り、鼻の穴を空へ向け、腹をゆすって笑い出している)ワッハハハハ!
百姓 う?……(働いている時に声をかけられてあれ程びっくりした人が、今度は出しぬけに哄笑されても大して驚ろきもしない。その方を見て)……なんだあ、国三さんかえ?
中年 ハッハハハ! ハッハハ! (笑いながら尻餅をつくようにして草の上にドタンと腰をおろして煙管に煙草を詰める)
百姓 いつの間に来ただ? シゲも一緒にか?
女 今日は、ええあんべえです。へえ、小父さんの見舞がてら寄ったら、国三さまも見えやして、此方に来ると言いなさるんで、そんで一緒に――
百姓 へえ……(まだクスクス笑っている中年の男の方を見て)又、なんか用づら? 堆肥の事かや?
中年 堆肥の事も堆肥の事だけんど、先ず、まあ、その裁縫の道具、手から離さっし。
百姓 うん?(言われて、まだ自分の手に有ったケースを見て、急にドギマギして)へえ……その……(握り飯を手に持ったまま、三人のやりとりを見ていた青年に)では、これ、どうもへえ……ありがとうござした。
中年 ヘッヘヘヘ。
百姓 フッフ――(少し顔を赤くして、掌で顔をゴシゴシとこする。若い女もニッコリして見ている)
青年 ……(ケースを胸のポケットにしまって)どうしたんです?
中年 ハハ、なによ、このばさまに、針だの糸だのを見せたら、もうへえ、おしめえだあ! ハッハハ……(若い女も、それから笑われている百姓自身も笑っている。青年も意味はわからないながらニコニコして飯を噛む)
百姓 国三さの阿呆。(口の中でブツブツ言う)
中年 ……(煙草に火をつけてプカプカ煙を吐いていたが)へえ、阿呆に違え無え。阿呆でなきゃ、こうして二日も三日も、バッタの様に頭を下げ詰め、足あ、すりこぎにして、喜十がとこと海尻との間あ、お百度踏んでいやしねえづら。ハハ(まだ笑いながらであるが、此処にこうしてやって来た話の、いきなり中心点から語り出したらしい)……部落常会の世話役も、俺あ、もうへえ、大概いやになりやした。大体、俺なんぞ、世話役なんぞやる器量で無え。百姓やりながら、おこさまの指導員やってる位が精一杯だ。もっとも、おこさまも近頃みてえじゃ、指導員もあがったりでやすがね。ハハハ。
百姓 ……(ポカンとして聞いていたが、やがて中年男の話の後半を全然無視して)喜十がとこじゃ、どうでも、それじゃ、甲府へ出るちうの諦めねえだか?(中年男、ひげ面でガクリとうなずく)……こねえだの寄合いで、あんだけ皆の衆から言われてもなあ?(中年男ガクリガクリとうなずく)……夏場忙しい時あ、村の家ごとに廻りもちで人手を出してやると言ってもかえ?(中年男うなずく )……うむ、……そんで、海尻の須山さんじゃ――?
中年 須山さんじゃ、はじめから言っている通りでなし。今更こんな山ん中へ入り込んで自分手であんなむずかしい二段歩からの水田を作りつづけて行く人手は無え。喜十がどうしても甲府へ出るんならば、致し方無え、丁度整理する時期も来ているで、銀行に渡してしまう……
百姓 うーむ……
中年 なんしろ、あすこでもかしら息子が兵隊に出て以来、居まわりでやっている二町歩足らずでも精一杯だで……こうなると論でも無きゃ筋でもねえ。現にやれねえだからなし、話したからって法がえしは附かねえ次第だて――
百姓 ……すると、喜十に泣いて貰うほかに仕方が無え――
中年 その喜十がでさ、……なんしろへえ、須山さんや、なんなら年貢なぞ段当り一俵ずつへらしてもええと言うとるんじゃが、こんで、叩き分けの時分に較べりゃ先ず五俵からの儲けじゃが……俺あ、へえ、年貢が高えの安いのを言っとるんじゃ無え、たとえどんなに安くっても、いまどき、俺達みてえな、からっ小作、やってけねえものは、やってけねえ……甲府の娘の内も見てやんねえばならねえし、暮しが二手に分れていて物入りもかかる。このまま行けば両方とも首くくりもんだ。んだから甲府へ出て家を一つにして俺あ職工になる。行くなと言われる皆の衆の話はわかるけれど、そんじゃ、俺達の一家で首くくれと言うのか。……どうでも俺あ行く。行くのが悪ければ、仕方が無えから、俺とこ、好きなようにしてくれ。……こうだ。まるでもう、血相変えていやす。喜十の身になって見りゃ無理も無え。無理も無えことが、ようくわかっているから、俺たちにも、これ以上……。
百姓 ふむ……んでも、先ず、秋になって取入れをすます迄は、これで、だいぶ間もあるから、野郎にようく考え直さして――
中年 それが、へえ、喜十の口ぶりでは、秋になっての話がうまく運ばねえような見込みだと、青田のまんま、今直ぐにでも売っ払って、年貢は金にして払ってでも、国越えをする気らしいで……へえ。
百姓 ……そいつば思い切ったもんだ。……(草の上にアグラを組んだ足の、わらじを穿いた足の先きで、夜なべ仕事の癖ででもあるか、その辺の草の葉でワラジを 編む手附きを無意識にやりながら、語られている問題を考えているのか考えていないのか、遠くを見ている……)
中年 ……(落着いて、煙管に煙草を詰め代え ながら、百姓の横顔を見ている。……青年は先程から握り飯を食べながら此の場の話に耳を傾けていたが、話の筋道はよくのみこめないながら、重要な話であることはわかるだけに、百姓が黙り込んでポカンとなってしまったことも、それを黙って待っている中年男の様子も、少し腑に落ちぬため、二人を見くらべている)
百姓 うむ……(とうとう返事はしないで、フと若い女の方へ眼を移し)シゲ……お前は、また、なんの話だあ?
女 ……わしあ、後で、なにするから――(下げて来たフロシキ包みを解き、中から新聞紙に包んだ白い丸い物をいくつか出して、草上にひろげる)少しばかし拵えて来たから……へえ、ソバ粉が残りもんで、うまかあ無えけど……
百姓 そうかい、そいつは御馳走だ。(丸い大きなダンゴの様なものを一つ掴み取って、紙を中年男の方へ押しやる)
中年 へえ、今頃、ソバのおヤキは珍らしいな。(遠慮なくこれも一つを取って食う。相談事などは何処かへ行ってしまったような景色である)
百姓 (食べながら)……お前さまも一つ食って見なせえ。(一つを取って、握り飯を食べ終って水筒を開けかけている青年に手渡す)
青年 なんですか、これ?
百姓 おヤキと言ってな、ここいらの食い物で、大して、うまかあ無え。(人が土産にくれたものをズケズケと 言う)
中年 (若い女を顧みてクスリとして)ばさまにかかっちゃたまったもんで無え。(青年の方へ眼を移して笑いながら、食っている)
女 ……(ニッコリして、これも青年を見る)
青年 やあ!(口をつけて呑もうとした水筒がスッカリ空である)
百姓 水かえ? 水なら……(傍のムシロの端に置いてある黒いヤカンと茶碗を取ってやる)
青年 すみません……(ヤカンから茶碗に水を注ぐが、水はチョロチョロと少しばかりこぼれて来るだけ。変に思ってヤカンのフタを開いて覗いて見て笑い出す)
百姓 ……?(口を動かしながら青年の顔を見る)
青年 川はどっちに有りますか?(立ち上る)
百姓 うん?
青年 汲んで来ます。
百姓 あ、そうかえ!(大きな声を出す)そうそう、うっかりしていた、空だったて! ハハハハ、阿呆だ、俺は!(立って)よしよし、へえチョックラ汲んで来やす。(青年からヤカンを取る)
青年 いや、自分が行きますから。(上手を指して)この下でしょう?
百姓 下は下でも、ここいらの沢あ深いで、五六丁も谷をおりる。第一、路なんぞ無えから、お前さまにゃ無理だ。
青年 でも、それじゃ――
女 (既に歩き出している百姓の後を追うようにして)おばさん、水汲みなら、わしが行って来やすから。
百姓 なにさ、俺あ、ついでに川っぷちのタンボの水加減見て来なきゃなんねから……お前はそこで休んでいな。
女 水、おとすんかい? 水おとす位の事なら、わしにだって出来るから。
百姓 おとすんじゃ無え、水口の温度見て来るだ。今日ら、少し煮えてるずら、今丁度稲あホキてる最中だからな、下手あするとしくじらあ、……(立停って)それとも、シゲにタンボの水加減、わかるか?(からかうようにニヤニヤして女を見る。女はモジモジしている)
中年 やあ、そいつはおシゲさん、やめにしときな。此処らの稲作のことで、そのばさまにかなう者は居るもんじゃ無え。(笑う)
百姓 ハッハハ。(笑いながら、上手のカシバミの叢を分けてサッサと歩み去る)
(短い間……谷の方へ降りて行きながら歌い出している百姓の歌の声)
青年 (貰ったおヤキを食べにかかりながら)……そんなに農作のことにくわしいんですかね、あのおばあさん?
中年 くわしいにも、なんにも、――わしら、これで農産の指導員みてえな事していますがね、年中叱られ通しだあ、ハハハ……こんで此処らあこんな山ん中だで、タンボでも畑でも、平坦地方とは加減がまるきり違いやすからね、そこで、なんせ、五十年からの功を積んでる仁だもの、喧嘩にゃならねえ。
青年 だけど、気の軽い、面白いおばあさんですね。(思い出して微笑)はじめ、お爺さんだとばかり思っていて――。
中年 そうですかい。いやあ、気が軽いだか重いだか――へえ、唄あ唄ってら。(百姓の唄声が風に乗って流れて来る。しばらくして、崖でも降りたのか、フッと消える。若い女は千歯の所に行って麦をこきはじめる)
青年 あれは何の歌です? この辺の昔からの?――
中年 なに、ズッとせんに、流れもんの炭焼きから習ったとか言うこったが、ほんとだか嘘だかな。お天気が良かったり、仕事の運びがうまく行ってる時なんぞにゃノベツ歌ってるが、改たまって歌えと言っても、歌うこっちゃ無え。いいかげん、デタラメづら。
青年 ハハハ……ノンキでいいなあ。
中年 (びっくりしたように相手の顔を注視するが、直ぐに笑い出す)佐様さ、ハハハハ……全く、とんだ、クワセモンのばさまさ。
青年 ……クワセモン――?
中年 あんた東京でやすか?
青年 はあ、いや……
中年 東京へんでは、近頃、だいぶ、この、野菜物なんぞ不自由だと言うが、白菜だとか大根だとか、どんな具合ですかね?
青年 さあ……僕には、どうも、よくわかりませんが――
中年 この辺からもチット東京にも出したいと思うとるが……こんな土地で、いろんな野菜は出来ねえが、白菜と大根それにジャガイモだけは、ほかに負けねえ……なんせ、しかし、荷受先が、以前から名古屋あたりばかりで、東京へは、まだ、へえ、いくらも出して無え。――んでも、この、東京あたりも、前からみると、だいぶ変ったそうでやすね?
青年 そう……変ったそうですね。
中年 まあ、へえ、わしらも、野菜位、町の人に食って貰いてえと思っているが、なんせ、荷造りをして運賃を見て積出しても、仕切値段が、こっちの手間代も出ねえと言う具合じゃ、一時はまあ何とかやっていても、永続きはしねえ訳でね。そこんとこ、何とかうまい具合にして貰えんもんかと思いやす。……こんな事言うと、又、ばさまに叱られるがね、ハハハ。(百姓の去った方を見る)
青年 ……(相手の言葉をうなずきながら聞いていたが)すると今のおばあさんは、その……どう言うんです? 何と言う――?
中年 ばさまの名前かね?……ハハハ、そいつは、村の者でも、ばさまばさまだ。なあシゲちゃん、お前、ばさまの名前知っているか?
女 ……(麦こきの手をチョット休めて、微笑)栃沢リキづら?
中年 ほう、知ってるか。(青年に)この人は、ばさまの姪っ子で やしてね。俺も実は遠縁になっていやす……うむ、此処の村じゃ――板橋と言うて、村々と言ってはいるが、ホントは大字でね、小さな部落だ――大概縁つづきの家が多くて、栃沢と言う苗字の家だけでも十二三軒有る。そんでいて、りき、……栃沢りき……おりきさんだなあ、ハハハ――ばさまの名を知っている者あ、珍らしい位のもんだ。それもそうだらず。へえ、芋んこみてえな、よごれたばさまが畑へえずり廻ってるだけだもの。ハハハ(と自分の形容に自ら笑う)
青年 ……(相手の話しぶりに微笑)
中年 ハハハ……全体、あのばさまなんて者は、へえ、村で……俺達の村で、へえ、なんと言ったらええだが……(この或る意味では雄弁な男が、手に取るように知っている老婆のことに就いて説明しようとすると、どこからどんな風に言えばよいのか直ぐには言葉が見つからない。しまいに若い女を振返って)……なあ、そうだらず?
女 へい……(これは微笑して、多くを語ろうとしない)
中年 ……なにさ……うん、あたりめえの、ばさまだ。どこの村にだって同じようなばさまの二人や三人、いつでも居るべし。川一つ山一つ越しゃ、へえ、誰一人知りゃしねえ。そんでも、ばさま居てくれねえと、やっぱし、こんで、俺達チョット困らあ。
青年 (おかしくなって)……よくわかりません。
中年 ……(うまく言えないので、自分に少しかんしゃくを起して、煙管を掴み、少しポンポンした口調になっている)んだがらさ……全体この……俺達が、なにしに此処へ来たと思いやす?(少し逆ねじの語勢)
青年 (やや閉口して)……先刻話していられた、その、家を畳んで、甲府の方へ行くといううちの事で――
中年 それだ! 喜十というマットウ仁でやすがね、甲府に縁付いた妹の家が貧乏で子供が多くてね、おまけにその妹が病身でなあ、これまでもズッとこっちから仕送りをして来やしたが、喜十の方だって、カツカツやっている位のこんで、近頃じゃ、とてもやってけねえと言うんで、仕方が無えから、甲府の家に一緒になっちまって、自分は工場へでも、どこへでもつとめて稼ぐ――そう言うわけだ。そんでまあ、小作田を旦那の方へ返すと言うだがね。旦那の方じゃ、ただ返されても困る。代りに誰か借りてくれないようなら、仕方無えから、銀行の手に移すと言う。銀行の手に移れば、後はどうなるだか……まさかおっぽり放しにもしめえが、なんせ、唯でせえ、めった人も来ねえようなこんな山又山の中のタンボだからな、当分手が届かねえのは知れたこっでね。せっかくウンウン言って田普請をしてから、二十年から人手に可愛がられて来た三段歩近くの立派な水田が、荒れることは定だ。第一、米や麦を一升でも二升でもよけいに作らなきゃならねえという今日が日に、そんな事になっちゃ事だからね。そんでまあ――
青年 誰かほかの人が借りて作るわけには行かないんですか?
中年 それが、へえ、駄目だ。こんな時勢で、出るだけの人間は一人残らず出て行った後だからね。板橋部落三十軒ばかり、どこの家でも浮いている人手なんぞ、それこそ半ぎれだって有りゃしねえ。精一杯のカチカチの所まで働いているんで、この上、小作などを引受ける家は無え。……そんでまあ、こうして来やした。(まわりくどい言い方でやっと此処まで言って、相手にそれが解ったかどうかにおかまい無く、自分だけは説明し尽し得たりとして、ホッとして、煙草に火をつける)ハハハ、なあシゲちゃん。
女 ……(微笑しつつ麦こき)
青年 ……だけど、そんな、誰にもどうにも出来ない事を、あのお婆さんに。
中年 谷の方さ行ったなあ。それだ、ハハ、田の水う引っかきまわしながら、考えるづら。何事によらず、相談事もちかけられると、先ず 仕事をしる。仕事しながら、黙あって考えてら、おかしなばさまだよ。
青年 ……(考えている。相手の何もかも任せきった調子に対し、おりきのために、軽い反感を感じながら)しかし、そいつは――
中年 それだけじゃねえ。手の足りねえ出征家族に加勢する仕事でも、炭を山から運び出すことでも、そのほか此処らの村で目ぼしい事は、ばさまが大概先頭だ。ほかの者あ、大概理屈を言ってから、その理屈がのみ込めてから、はじまる。ばさまは理屈言わねえ。やらなきゃならん事は、やるべし。そんだけだ。ほかの者が理屈言ってる間に、ばさま手を出しちゃってる。米麦増産だあとなったら、黙あって、あくる日から自分だけ、今迄、朝五時に畑さ出ていた 奴を四時に出はじめたのもばさまだ。
青年 四時にですか?
中年 此処だって……此処は村の草刈場でね、共有の入会地だ。おとどしだったか、一人でコリコリやってると思ってたら、見る内に麦い蒔いちゃってる。じょうぶ 、手が早えと言っても!
青年 (麦畑を見まわして)これを一人でねえ……。
中年 ハハハ……(立ちあがって、黙って麦束を掴んで千歯に寄る。一言も言わなくても、代って麦こきをする気であることが解り、若い女は麦こきの手を止めて、わきに寄って、立って見る。その交代する様子が、馴れていると見えて、自然である)……(ブリブリとこきながら)へえ、近頃じゃ、村会のお旦那の言うことなど、どうかすると聞かねえ者も、ばさまの言う事は聞きやす。もっとも、ベラベラしゃべくるわけじゃ無えから気が附かねえ者あ、まるきり気が附かねえ。黙ってやってるのを、一人二人と見ならってやって行くだけだがね。……(青年はジット眼の前を見詰めていて返事をせぬ。中年男は三束四束とこき進んで、しばらく口をつぐんでいたが、何を思い出したか、急に笑い出す)ハッハハハハ、ハハハ……だども……ばさまにも一つだけ、どうにもならねえ事がある! 弘法さまにも筆のあやまりか。ハハハ……
青年 ……?(中年男を見る)
中年 こいつだけは、畑で作り出すわけにゃ、いかねえから、いい気味だ。なあシゲちゃん。お前、持って来たかえ?
女 へえ、いや……二三日前、小諸に行ったもんで捜したけど、近頃配給になってしまって、ロクなもん手に入らなくて……(帯の間から紙につつんだ小さい物を出す)ホンの二三本……
中年 縫針かあ、そいつは豪勢だ。俺あ、へえ、捜したりしている暇あ無えし、仕方無えで、組内かっさらって、木綿糸が、たったこいだけだ。(笑いながら、懐中から小さく巻いた糸のかたまりを出す)
青年 ……?
中年 (物問いたげにしている青年を見て笑い出し)ハハハなにね、此処のばさまは、物見に出歩くじゃ無し、三百六十五日、野良着で働くだけで、食うものにも着るものにも、まるっきり慾はなしね。野良さえ稼いでれば、金え溜めても仕方がねえと言った仁でさ。ただ、ボロッ着物や袋なぞのツクロイ仕事をするだけが、じょうぶ好きでね、雨や雪で、野良へ出られねえ日は、ヒジロんとこで、ボロ縫う、そんだけが道楽だ。だもんで、縫針や糸やなんぞにゃ、まるきし、目がねえ。まるで、へえ、女の子みてえに、針や糸ほしがる。そんでね、村の者あ、ばさまの所に来る時あ、針や糸持って来ちゃ、帰る時にこうして、置いて行きやす。(言いながら、自分の持って来た糸と若い女の針の包みとを、千歯のそばに置いてある箕の尻の出っぱりの上に置く)
女 (微笑)……いつか、おばさん、なにか、是非して見たい事はねえかって、聞いたらば、そう言ったですよ……スフやなんかで無え、丈夫な、そして白だの黒だの赤だの青だの、いろんな色の糸どっさりそろえて、思い入れ、ボロ縫って見たら、良え心持だらず――
中年 ハッハハハ。
青年 (これも笑いながら)……すると、先刻、この(と胸のポケットにチョット触って)裁縫の道具のことも――?
中年 そうだそうだ! ばさま、ヨダレを垂らしていたづら! アッハハハ。
女 ……(はじめて声をだして笑う)
青年 ハハ……(これも釣られて笑うが、しかし直ぐに笑いやむ。笑うには余りに深い所で打たれている)
中年 猫にカツオ節の候であらすか! アッハハハ、ハハッハハ。
(そこへ、上手のカシバミの叢を分けて、片手にヤカンを下げた百姓が、相変らずのヒョタヒョタしたような歩きつきで戻って来る。以前と少しも変らないニッタリとした瓢々とした顔と態度である――これは最後まで変らない)
百姓 (中年男に)あんだえ?……(寄って来て)なんの話だ?
中年 ハッハハ、猫にカツオ節の話だあ。ハハハ。
(若い女もクスクス笑う)
百姓 カツオ節か、ふむ……(笑おうとはしない。ヤカンを青年に渡す)へい。
青年 どうも、すみませんでした。(百姓が戻って来てから彼女の顔ばかり見守っている)
百姓 なんなら、そこいらで火い燃して、わかして飲みなせえ。
青年 はあ、いや、これで結構です。
百姓 (青年がまるで自分の顔から何かを捜しでもするように見詰めているので)……どうか、しやしたかい?
青年 いや……
百姓 ……ふう……シゲ、お前、わかしてやれ。(言いながら千歯の方へ)
女 へえ……(そこらに落ち散っている小枝を掻き集めにかかる)
百姓 ……(自然な動作で、麦束を中年男から受取って、こき始める。中年男は傍にどいて、立ったまま彼女を見ている。青年も彼女の方を見守っている。その二人の視線の中で、黙ったまま一束をこき終り、二束目をこき、こき終った穂先きに、こき残りの穂が無いかと調べながら、ヒョイと声を出す)……へえ、喜十は甲府へ出たら、よくねえづら。
中年 そりゃ、はじめから、わかっていやす。そいつを、しかし、喜十がどうしても聞かねえから――
百姓 (相手の言うことを聞いているのか聞いていないのか、こき残りの穂を指でむしり落しながら)板橋にゃ、総体で七八町歩しきゃ水田は無えだ。そん中から二段歩も荒してしまうことになると、ことだあ。……甲府は甲府でやって行きゃ、ええ。なんなら、甲府を引払って喜十がどこへ皆で来るだ。
中年 そいつがさ、そいつが……そりゃ、はじめっから、わかってやす。それを承知で、どうでも行くと言って聞かねえんだから、組内でも、へえ、どうにもこうにもアグネ切って――
百姓 国三さ……米あ今、一粒でも二粒でも、よけいに作らざならねえづら?
中年 そ、そりゃ、この際じゃから、勿論――
百姓 虫のせいやカンのせいでは、無えづら。ウヌが儲けようと言うでも無え。
中年 勿論そりゃ、お国で、どうしても要るだから――
百姓 そうづら? そんだら話あ、わかってら。
中年 それがさ、喜十が、あんとしても――
百姓 ハハ、喜十がとこへは、今晩、俺が行くべし。
中年 へえ! ばさま行ってくれるかえ? そうか、そうして貰えりゃ、もうへえ……こんなありがてえ事あ無え。そうかい、そんじゃ、そんな風に頼んます。へえ、そうしてくれれば――
百姓 どうでも苦しいと言うんだら、須山さんの旦那のとこ俺が出向いて、年貢を二三年まけてくれるように頼んで見るべ。
中年 そりゃ……へえ、それだと部落会の方からも俺達一緒に行ってもようがす。旦那の方でそれ聞いてくれ、喜十も考え直すことになりゃ、あっちもこっちも丸く行かあ。
百姓 もし、へえ、どうしても、喜十も聞かねえ、旦那も聞かねえとなったら、あのタンボ、当分、実行組合でみんなでやりやす。
中年 ……ふーむ、……んでも、やりやすと、大きに、ばさまだけでそう決めこんでいても、なにせ、どこの家でも手一杯のギリギリまでやってるだから、下手あすると、村中の段取りがガタガタにならあ。
百姓 みんなが駄目だら、おらがやる。……(淡々として言い放って又、麦こきにかかる)
中年 どうも、へえ……その……(百姓の言葉や態度の中には、何一つ烈しい所は無いが、もうこうなれば、却ってその淡々とした中に抗弁しがたい物が有るらしい。それをよく知っているので、ホッとすると同時に、言葉のつぎ穂を失って、頭を掻きながら、ボンヤリ百姓の麦こきの手元を見守っている)ふう……。
(こちらでは青年が二人のやりとりを眺めている。若い女は枯草や小枝に火をつけ、そこらに転がっていた竹の三本足にヤカンをつるして、火をかけ、その火尻を吹いたり、燃えるものをつぎ足したりしている。微風のために一方に流れて行く白い煙)
百姓 ……(ヒョイと中年男を横眼で見てニコニコして)国三さ、お前、そうしてポカンとして……仕事は無えだか?
中年 (びっくりして、飛びあがる)ほい! どうも、へい、そいじゃ、ばさま、頼んましたぞ! いいな! 今晩ひとつ、頼んますぜ。ええと……へえ、仕事が無えだんかえ! こやしを出しているまっ最中だあ! へえ、そいじゃ!(青年に)ごめんなんし。(言いながら、横っ飛びに、出て来た方へ小走りに立去りながら)ばさま、頼んだぞう!
百姓 ハハハ、ハハ(相手の、足元から火が附いたような、あわてかたに笑う。若い女も青年も笑う)国三さよ! そいで、なにかえ――
中年 (消えようとして、カシバミの叢の中に下半身を入れたまま立停まり振返る)……?
百姓 こやしで思い出した。カリンサンの割当ては、やっぱし、ふえねえか?
中年 ふえるだんじゃ無え。カリンサンはそのままだけんど、豆板あ、こんだから少し減る模様だ。
百姓 ふん……すると、みんな堆肥もう少しずつ余計に積込まねえと、裏作あ、うまく行かねえづら?
中年 そうでやす。組合でも頭痛に病んでいやす。と言って、堆肥をもっと積込むと言っても、今迄が精一杯に積んで来たんじゃから!
百姓 草あ山へ入って行きゃ、いくらでも有らあ。
中年 草あ有っても、人手が無え。時間が無え。
百姓 ハハハ、なによ、組合がそう言って、みんな一時間ずつ 早く起きるだ。
中年 ひゃあ……するちうと、ばさまなんど、今でも三時に起きてるの、どうなる?
百姓 二時に起きるべし。
中年 ひゃあ……どうも、へえ、かなわんなあ! ハハハハハ……そいから、ばさま、麦の供出の方は、どんな風にしやすかい?
百姓 麦かい? 麦あ、此処のを出すよ。
中年 何俵だ?
百姓 十二三俵も有るづら。
中年 へえ、すると、此処の、みんな出すのか?
百姓 みんな出しちゃ、そっちで困るかえ?
中年 こっちは困るだんじゃ無え。ばさまの内で困るべえ?
百姓 あに、オサキの畑で五六俵取れるから、此処のは内じゃ当てにして無え。
中年 へっ! なんせ、俺達あ、もうかなわねえよう! 好きなように勝手にさっし! へえ、とんだばさまだあ!(良いキゲンでわめき散らしながら、小走りに消える)
百姓 ハハハ……(手を動かすのはやめない)んでも、へえ、感心なもんだあ、……ああして忙しい中を駆けずり廻って村の世話あ焼いてる。……あねえな仁が居るから、この辺も何とか、かんとか、へえ、やって行けらあ。もとは、あれでも農学校途中まであがった仁でやすがね(と青年に)へたに学校なんぞにあがると、こんで、地百姓なんぞになりたがらねえもんだが、あの仁だけは、へえ、いつの間にか良え百姓になりやした。……なかなか出来るこんで無え。ふむ……(首を振り振り、麦こき)へえ、まだ湯はわかねえかや?
女 うん、もうチョット……(しきりとヤカンの下に小枝をくべる)
青年 やあ、水でもいいのに。
百姓 うんにゃ、此の辺の水は山水だからなし、馴れねえ衆が飲むと、腹あ下す。……(片手で眼の上にひさしをして空を迎ぎ)ええと、もう一刈り刈って、それを落して、叩いてしまえば、先ず 今日はおしめえかな(又、ニッコリとこきはじめながら)シゲ、お前は、なんだ?
女 ……おばさんにチョックラ逢いたくなって――
百姓 なんの話だ? 言え。
女 うん……(青年をはばかって言いよどんでいる)……
百姓 戦地から手紙あ、来るだか? 元気でやっているかえ、源太郎?
女 へえ、こないだ手紙来やした。……元気だって。……
百姓 そうか。
女 ……甲州の慎太郎兄さんとこ、慎市ちゃん、試験、どうしやした?
百姓 さあなあ。なんせ、あの嫁あ険のん性でなあ。俺がそう言ってやって、受けさせるだけは受けさせたようだが、へえ、どうしただか。
女 そうでやすか……
百姓 ……すると、なにか、そんじゃ、お前が岩村田から実家に戻っているのは、源太郎知ってるだな?
女 へえ……だども、今度――
百姓 ……なんとした?(と言いながらも千歯にかかっているので、別に話を追求すると言う風でも無い。青年は、若い女が自分をはばかって話しにくいらしいのを見てとって、ユックリ立上って、小便でもしに行く風に上手へ歩き出す)……おっかあ、その後、あんべえはどうだや?
女 おっかさんは相変らず腸が悪い腸が悪いと言うて……そりゃいいが、近頃又一倍気むずかしくなって――(ユックリ歩いて上手のカシバミの叢の方へ消えて行く青年の後姿をチラチラ見る)
百姓 うん、ありゃ 気で患うと言う人だ。しっかりもんだが、カンがきつ過ぎらあ。おやじと入れ代ってりゃ丁度良かった。お前のおやじと言うのも、へえ俺の弟だが、百姓は巧者だが、なんせ気がゆるくていけねえ。つまらねえ所だけ俺に似やがった。ハハハハ。
女 ……そんでね、おばさん……源太郎からの手紙には、こう言って来やした。(その手紙を懐中から出して開くが、それを読むと言うわけでは無く、手で開いたりたたんだりしながら、もう既に何度も繰返して読んでよく憶えている内容を言う)……自分は岩村田の母のキツイ性質はよく知っている。又弟や妹が事毎にお前にあたる事も自分の出征前からの事なので、充分に知っている。特に妹は不具者であるために、一倍ひがみが強いのだ。……それから母親がお前に当るのは、小さい時から同じ兄弟でありながら妙に母は弟がヒイキで、内心では弟に家督をつがせたいのだ。それで俺の家内であるお前が邪魔になるのだ……自分の母親の事をこんな風に言うのは、俺も悲しい。又、ムカムカする事もある。しかし母がそんな風になったのも、父が死んでから以来、永い事女手一つで俺達三人の兄弟を育てて来るために、いやでもキツクならなければならなかった事を思うと、俺には母を悪く思うことが出来なくなる。……お前が岩村田で箸のあげおろしに母や妹に当られ、山ん中で育った者は米の飯が珍らしいと見えて、よく食うなどと言われている事を思うと、俺は苦しくなってしまう。シゲさんは近頃ひどく痩せたように見えると、この間、小諸の賀山君の妹さんから言って来ている。……賀山さんと言うのは源太郎の学校友達でやす。
百姓 ふむ、ふむ……
女 んだから、俺には、お前に、どうしても岩村田の家に俺の留守中、暮していてくれとは言えない。川上の実家に戻っていてくれても、よいと思う。どちらにしても、お前が居心持の良い所に居てくれ。それが一番だと思う。……特に川上の実家に居れば、川上ではお前のお母さんは病身だし、小さい弟が一人きりしか居ないのだから、かなり家の手助けになるだろうと思うから、結局、当分、実家に居てくれてもよいと思う。
百姓 ふむ……
女 ……ただ……ただ……お前は、たとえ何処にいても、俺の妻であると言う事だけは忘れないでくれ……それを忘れないで、しっかり、シャンとしてやってくれ……お前は気が弱いから、それを俺は――(胸が迫って来て、プツンと言葉が切れる)
百姓 ふむ……ふむ……(千歯のケバをむしったりして、何とも言わない――)
(間)
女 ……(涙声になりそうなのを、こらえながら)そしてね、……そしたら、四五日前、岩村田から源次郎さんがヒョッコリやって来て――
百姓 へえ……その性の悪い弟がかえ?
女 うん……そいで、何だと思ったら、源次郎さん今度徴用になって、なんでも飛行機拵える工場に行くようになった……そんで、岩村田の内が、母と妹きりで無人になるので、是非帰って来てくれ……そう言って――
百姓 徴用か……そうかや……
女 おっかさんは、あんだけいじめ抜いて、飯を食わせるのも惜しむようにして、追い出すようにして返しときながら今更になって、いくらそんなわけが有るにしろ、又戻って来てくれは、あんまり身勝手すぎる……そう言って、どんな事があっても岩村田へやるわけには行かねえと言いやす……おっかさんは、あの気性で、いったん言い出したら、聞かねえ。お前が岩村田へ戻るようなら、もうへえ、かんどうする……わしも困っちまって――
百姓 ……そうかや。
女 ……どうしたらよかんべと思って――。
百姓 ……そうかや。……そんで、お前はどうしようと思ってるだ?
女 わしかえ?……んだから、わしには、どうしてええかもうへえ、よくわからねえ。……実あ川上にこうして居ても、ほかの事はなんとも無えけど、源太郎の事を思うと、わしも辛いのです。……んだけど正直言って、これから又、岩村田へ戻って、あすこのおっかさんや道代さんと一緒に暮さなきゃならんと思うと、身をきられるような気がする。……死んだ方がましだと思うことが三日にあげず有るだから。……そりゃ、おばさん、ホントに辛いで。……だもんだから、え、どうしてええか、わからねえ。(泣き出す)
百姓 ……そうかえ。……その気性じゃ、先ず 、そうだらず。……とんだ、お前も苦労をするもんだ。ふむ……(千歯の歯を片手で掴み片手の指で、涙を頬にこすりつけていたが、それでは間に合わなくなって、姉さまかぶりしている手拭を取って、顔中をゴシゴシ拭く)……そうさ……(途方にくれたように若い女を見たり、その辺を見廻している中にひどく悲しそうな心細い顔付きになり、ヒョタヒョタと二三歩その辺を歩き廻り、ウロウロとその辺を見まわしていた眼が、千歯の傍に積んであった麦束が残り少なになっていたのを認め、麦畑の方へ目を移していたと思うと、やがて、後帯にはさんでいた鎌を抜き持って、麦畑の方へヒョコリヒョコリと行ってしまう。麦を刈る気になったらしい。忽ち、麦の穂波の向うに見えなくなり、そちらからの鎌の音がザクリザクリと聞こえて来る。その一切の動作が、ひどくみじめな、頼り無いものに見える)
女 ……(黙ってその後姿を見送っている。やがて涙を拭き、火に小枝をくべたり、ヤカンのフタを取って覗いたりする。あと、煙を見詰めながらションボリして坐っている)
(青年が上手の叢を出て、チョット此方を見ていてから戻って来る)
青年 ……なるほど向うは随分深い谷のようですね!
女 ……へえ。
青年 板橋という部落は、川下ですか、この?
女 へえ、ズット下って……あの山の裾です。
青年 そうですか。(その方を眺める)
女 あの……お湯がわきやした。
青年 はあ、……おばあさんは?(喜びながら火のそばに腰をおろす)
女 (麦畑の方へ眼をやって)又、麦刈って――
青年 (女の注いで出す茶碗を受けて)すみません。(つづけさまに二三杯、うまそうに呑む)……御主人は出征なさっている……?
女 へ?……へえ。
(間。――女は火を見つめている。青年は茶碗を手にしたまま、見るともなく麦畑の方に眼をやる。その方からは鎌の音がするだけで歌声は聞こえぬ)
青年 ……いつも、こうですか? 実に、よく働く――
女 ……へえ。……そこへ、わしらが、年中、詰らねえ話ばかり持って来て。……おばさんの内を本家にして、親類の家がウンと有りゃして、……始終、どっかの家で、何か有ると直ぐやって来る……親類だけでは無く、さっきの人のように、村中の事から、よその家のもめごとまで、手に負えなくなると持ち込んで来やすから。……へえ、おばさんも大変でやす。……それに、自分の身の上の事では、へえ、笑ってばかりいて、人の事となると、直ぐに泣く……へえ、直ぐに泣き出すんだ。(又、涙声になっている)たまったもんで無え。……そうで無くても、へえ、自分とこの苦労だけで、背負い切れねえんでやす。
青年 ……内で、すると、困っている――?
女 ううん、困ると言っても……少うしだけんど田地も六七段有るし、小作もちったあやっているが、とんかく、働いてさえ居れば食うに困ると言う程では無えが、楽ではありません。……病人は居るし……伯父さんが、腎臓が悪くてもう三年ばかし寝たきりでやす。だもんだで、サダちゃんとおばさんがシンになって稼ぐのです。そこに、慎造さんとこの慎吉ちゃん――小さい子でやすが……慎造さんと言うのは、おばさんの二番目の息子でね、分家して甲州に行ってやすが……子供が多いので、孫の慎吉を一人だけおばさんが引取りやした……
青年 ……すると、おばさんの子供さんは全部で――
女 八人です。五人が男で、三人が女だ。……総領の慎太さんは満州で戦死しやした。……おかみさんも病気で死んだ。その子がサダちゃんでやす。……二番目の息子が、今言った甲州にいる慎造さんで、三番目は、よそへ養子に出て、四番目は出征中で、末の道雄さんは、こねえだ、ガダルカナルちゅう、とこで戦死しました。……娘は、みんなもう片づいてやして、その中の、まん中のスズさんの旦那が、やっぱし、今出征中……。
青年 ……すると、五人の息子さんの中で二人戦死なさって一人が出征中で――?
女 いえ、甲州の慎造兄さんも出征したんだけど、けがあして戻って来やした。
青年 そうですか。……
女 苦労の絶間が無えのです。……ことに、ガダルカナルで死んだ道雄さんと言うのは末の子じゃあるし、おばさん、じょうぶ 可愛がっていたんで……黙ってなんにも言わねえでいるけど、へえ、つらかんべえと思いやす。(涙)……道雄さんから一番しめいに来たハガキを、おばさん、肌身に附けて、いつでも持っていやす。……いとしげに……。そんでいて、あんな風で、おかしなことばかり言ってる。人の事じゃ直きに泣き出す人が、自分の事では泣いてる暇も無えのづら。……腹ん中あ思うと、わしらが、へえ、いろんな事言って来られるわけのもんじゃ無えんだけど……へえ、つい、来るのでやすよ。……なんの事も無え時にゃ、おばさんの事なぞ、みんな、まるっきり思い出しもしねえ……苦しい目に会うと、急におばさんが恋しくなって逢いに来るだ……へえ、自分勝手なもんでやすよ。わしら――(涙を拭きながら、笑う)
青年 ……いや、私も、はじめ何でも無い唯のお婆さんだと思って……段々聞いていると、まるで、どうも……。はじめポッチリ雲が出て、なんでもない雲だと思っている間に気が附くとそいつが空一杯の入道雲になっている――船に乗っていると、そんな事があります。それと同じような気がします。びっくりしました。
女 ……(相手の言葉がよくは解らぬ)……そうでやすかね。
青年 しかも、自分では自分の大きさを知らずにいる。なんと言ったらよいか……私は、実は、非常にうれしい――うれしいと言うのも、変なものですが……ハハ(思い出したように軽く笑って)なんです……小さい時に別れたおふくろの事を考えていたら……あんなお婆さんに逢って……妙な気がします。なんですねえ、人と人とが、たった一度きり逢って、それっきり別れる……なんと言う不思議な因縁でしょうねえ。誰に向ってお礼を言ってよいか、わからん。ありがたくなります。
女 へえ、おふろくさんでやすか?……(なんの話だかわからず、青年を見る)
青年 ハハ、いや、それは此方の話です。どうも――
(言っている所へ、奥の麦畑の方から刈り取った麦束のかさばったのを、荒縄で引っかけて 背負いにした百姓が、前こごみになってユサユサと戻って来る。青年と若い女がそれを見迎える。……百姓は千歯の傍の所で、荷物ごと仰向けにひっくり返るような具合にして麦束をおろす)
百姓 どっこいしょと!(立上り、後ろへ廻って、千歯の踏板を踏む)
女 おばさん、湯がわいた。一服したら――。
百姓 ……(それには返事もせず、麦束を一つ取って千歯にかけながら、いきなり話し出す)へえ、昔なあ、板橋の下の宿に五兵衛と言う半百姓の猟師がいた。えら年功を終た 熊が出やがってなあ……うむ、昔はこの辺にも熊が居たそうだ。畑あ荒すし、第一、物騒で山仕事も出来ねえつうので、とっつかまえろと言う事になってよ、この奥に追い込んだ。……そんで五兵衛さんと言う衆が、そいつば打ちに行く時に……じょうぶ でけえ熊だで命がけだ。……そで無くても、冬のさ中の雪の深い山ん中へ行くだから、下手あして、崖にでも落ちると、凍えて 死なあ。……その出がけに、五兵衛と言う人が、おかみさんに言ったそうだ。俺が戻って来るまで、火ば絶やすな。……そ言って出たっきり、三日三晩というもの戻って来ねえ。おかみさん心配で心配で、何にも手が附かねえ。んでもほかにどうしよねえから、胸ん中で亭主の無事を念じながら、セッセと火じろを燃やしてたそうだ。
女 ……(めんくらって)なんの話だえ?
百姓 (相手の質問を無視して語り次ぐ。その間も麦こきの手は休めない。傾聴している青年)……三晩立って、四日目の昼過ぎ五兵衛さん半死半生で戻って来ての話にな、熊に出会って、鉄砲玉あ奴の身体にぶち込んだにやぶち込んだなれど、死んだとも何ともハッキリ見とどけねえ中に、此方も崖からすべり落ちて頭あ打って、気い失ってる間に夜になっていた。気が附いて沢伝いに歩き出したが、とうとう道に迷っちまったそうだ。いくら歩いても里へ出ねえ。腹あ空くし、疵は痛む。その中に凍えて眠くなっちまって雪ん中でぶっ倒れてチョット寝ていちゃ、こうしていてはいけねえと気い取直しちゃ少し歩き、又あ眠くなって、ぶっ倒れる。又、歩く、……へえ、じょうぶ苦労して、やっと戻って来たそうなが、その眠くなっちゃ雪ん中さつっころげてウトウトしかけると、きまって、おデコの辺がムシムシしてな、家の火じろで火が燃えてるのがチラチラ見えたそうな。そんで、こうしていちゃいけねえと思っちゃ、引っぺがすようにして歩き出したそうだ。……あん時が危なかったと言って、後になって五兵衛さん身ぶるいしていたそうな。俺が小せい時に聞いた話よ。ふむ……そ言ったもんで、どこの家でも、火じろにゃ、火の神さまが住んでござらっしゃらあ、亭主が居る時は、亭主が火を燃す。……亭主が留守の間は、そのおかみさんが、火をみてるもんだ。……そで無きゃ火の神さまあ、家のむね離れてしまうて、よそに居る亭主は、つっころげた まま、それっきりになってしまわあ。……そこの家のおかみさんと言うものはそれがつとめだらず。……たとえ、どんな辛え事があっても、へえ、火じろの所から動いちゃならねえづら。
女 うん……(はじめは、めんくらっていたが、百姓が、その廻りくどい言い方で以て何事を話そうとしているかがおぼろげながら解って来て、うなだれて聞いている)
百姓 そうだらず? な、シゲ。……その、二三日前に来た弟にしても、先方のおふくろさんにしても、身勝手と言や身勝手だ。……よっぽどの衆らしいや。……おっかあが 、どうでもお前をやらねえと言うのも、もっともだ。……だども、考えて見ろ、人間、誰一人身勝手で無え者があるかや? おっかあにしてもそうだ、お前にしてもそうだ、俺にしても身勝手よ。誰にしても、ウヌの尻がかゆい時に、人の尻を掻きやしねえ。ウヌの尻がかゆいのは、かゆい訳が有ってかゆいだ。どうにもなるもんでねえ。言わば、そう言うめぐり合せが来てそうなるだから、良いの悪いの言い立てて見たって、どうならず。へえ、そんな事あ、なるように打っちゃっといて 、自分は自分のするだけの事あするだ。……言わば、こらえてやるだ。……全体、女のする事あ、こらえてやる事だけだ。こらえる事の出来るのあ、女だけだ。……男にゃそったら事あ出来はしねえ。……女がこらえてやらねえじゃ、誰がこらえてやるかや?
女 へえ……。(しみじみと聞いている。青年は百姓の言葉の中から、彼女が言おうとしている事を掴もうとして、百姓の顔を見守っている)
百姓 ハハハ、俺が栃沢の家へ嫁に来てからの十四五年の間なんと言うものの辛さなんちうものを見せたら、お前なぞ眼え廻すべし。おふくろさまもおやじさまも、むずかしいの なんのと言って。それに小じうとが五人から有らあ。……へえ、丁度道雄が生れる頃までと言うもの、俺あ、へえ、三百六十五日、帯い解いて寝た事なぞ、めったに無かった。……その道雄にしてからが――(言いさして、道雄と言う名が出て、何かをフッと思い出し、しばらく言葉を切って千歯の歯を見詰めていたが、やがてフッと笑って)あの小僧が腹に出来ていて、へえもう、おっこちそうになっていても一日半日寝てることも出来ねえ。やっぱし畑に出ていて、あんまり差し込んで来るで、こらえ切れなくなって、家へ戻る途中、畑の路で、まるでへえ、おっことしちまった 。……そんで、まあ、道で生れたと言うので、道雄だあ、あん野郎。
女 フ、フ、フ……。(青年も笑い出す)
百姓 フフ……万事が、先ず、そ言った調子だ。そんでも、へえ、俺がこらえてやらねえじゃ、家ん中で誰もこらえてやってく者は無かった。辛えと言えば、朝眼がさめた時から夜寝るまで辛く無え時なぞ一刻もあらすか。……んだから、しめえには、辛えなんて思う時も一刻も無しよ。……物事、そうたものさ。ハハハ、シゲ、お前岩村田へ帰れ。
女 ……へえ。
百姓 俺あ、源太郎が兵隊に出てるから、んだから、がまんして帰って居れと言うんじゃ無えぞ。……そりゃ、兵隊によけいな心配かけちゃ、いけねえ。いけねえけんど、こんな事は亭主が兵隊であろうとなかろうと、同じだ。……亭主のことを、いとしいと思うたら、帰れ、帰って、岩村田の家の火じろの所で、ぶっ坐っていろ。そんで源太郎も、いい戦が出来るだ。……源太郎も、それや、手紙ではお前に気の毒で、どっちに居てもええなんて言ってるが、ホントは帰って欲しいだ。
女 ……だども、うちのおっかさんが、どうでも反対じゃと言うて――
百姓 反対してもかまん。何を言ってもかまんから、うっちゃって、明日にでも突っ走って行っちまえ。後は俺がええ具合にしてやらあ。
女 へえ、んじゃ、わし。岩村田へ帰りやす。
百姓 そうしろ、そして、どんな辛え事があっても、もう川上にゃ戻って来るな。俺が辛抱すれば源太郎がシャンとして やってると思え。俺が辛抱出来ねば、源太郎、どっかでつっころげて、敗け戦あしてると思え。そう思って、岩村田の火じろに、ぶっ坐っているだ。たとえ、ぶたれても、蹴られても、源太郎のこといとしいと思うならば、動くな。
女 ……よくわかった。そんじゃ、川上のおっかさんの事、よろしく頼みやす。
百姓 ええともよ。全体お前のおっかあなんて言うものは、カンばかり強くって、なんでも直ぐに悪い方悪い方ばかり考えるだ。苦労性と言うやつだらず。病気にしたってそうだ。へえ、自分じゃ年中、今にもおっ死ぬような事ばかり言っているが、そんなにひでえ病気ならば、もうへえ具合が悪いと言い出してから半年の上になるじゃもの、とうの昔にくたばっていらあ。
女 (肩の荷が降りたような明るい顔になっている)……近頃じゃ、おっかさん、川上のおがみやさんに拝んで貰っていてね、二三日前にもそう言われたと、あんたにゃ御先祖の仏様がたたっている――
百姓 たたっていると? 御先祖の仏様がか?
女 うん……だから、チャンとして供養をしねば、いくら薬飲んでも治らねえ――
百姓 フフ……フフ、フフ、ワッフフ……阿呆を言うな。それは、フフ、おがみやの食いものにされているのよ。何を馬鹿な、ハハハ、御先祖様と言うのは、おら達をこうして生み附けて下さった人達だぞ。自分達で生み附けといて、そいつにたたるなんて言う、しちめんどうな事をなさるものか。フ、フ、フ……第一、どこの仏様にしてからが、生きている人間にたたりきれるもんで無えよ。たたりきれるもんで無え。そうじゃ無えか。考えて見ろ、今迄代々死んでった仏様の数をみんな合せりゃ、生きている俺達の数よりも何層倍も多いわい。一々たたったりしていた日にゃ、仏様同志で鉢合せすらあ。
女 ハハ……(笑いながら立上ってフロシキをたたみ、立去る仕度をする、青年も笑い出している)
百姓 フフ……(笑っている女と青年を、ずるそうな表情で見くらべながら)そうだらず? 大体、俺が始終言ってる。あんなおがみやなんぞの、もったいぶった、むつかしげな小理屈なんぞに、煙に巻かれるのが悪いだ。……世間の事だって、人間の身体にしたって、へえ、そんな小むずかしげな物であろかい。みんな、タンボや畑の事と同じよ。こやしを程々にくれて、手入れをまめにしていりゃ、成り物あチャンと出来らあ。こやしをやり過ぎて、根が煮えるとイモチが出る。こやしを惜しんで手入れを怠っていりゃシイラが出らあ。わかりきっているだ。地めんは正直だあ。論法通りに行かあ。へえ、ホントの理屈なんてもなあ、そんなしちめんどうなもんで無えさ。一年生が見ても、わかりきってら。……そのわかりきっている事を、いろいろにひねくり廻す奴が段々事をむずかしくしてしまうのよ。ハハハハ(哄笑)んだから、この前も、俺が言った。腸が悪いんだら、悪いように、そんな拝み屋などに頼んじゃおさいせんを巻き上げられてる暇に、その金で、チョックラ小諸か甲府にでも出かけて、立派なお医者の先生さまに見て貰うて、薬を貰うて来るなり、養生のしかたを教わって来るなりしろ。餅は餅屋だ。お医者さまは病気にかけちゃ玄人だ。一度見て貰って、養生はそれからの事にしろと、あれだけ言ってもきかねえで、へえ、拝み屋だ、仏様のたたりだあ。……馬鹿なこんだあ、うぬがウッカリして歩いていたために、木の根っこに蹴つまずいて 、ひっくら返った奴が、ひっくら返ったなあ地めんのたたりだなんと言おうもんなら、人が笑うぞ、じょうぶ !
青年 ハッハハハ。
女 フフフ……だども、おっかさん、あの気性で、わしなどが、いくら言ってもお医者に行こうとはしねえから――
百姓 よし、俺がよくそう言ってやる。なんなら、俺が連れてってやっから ……心配しねえで、行きな。
女 へい……そいじゃ……二三日中に岩村田へ行きやすから……そんじゃ――
百姓 二三日なんて言ってねえで、明日行け。メソメソしねえで、向うへ行ったら、へい今日はと言うて、踊り込んで行け。
女 ……(笑いながら)いろいろと……そんじゃ……伯父さんも大事に。
百姓 うむ……。
女 ……(青年に向って頭を下げて)ごめんなんして。
青年 はあ、どうも――。
(若い女、出て来た方へスタスタと歩み去って消える。百姓、その後姿をチョット見送っているが、直ぐに又、麦をこきにかかる。……青年は、先程から強く動かされているが、その感動は、非常に静かな底深いものであるために、差し当りどんな表現もとり得ない)
百姓 ……あやつも、苦労する……(片手をあげて、その人差指の先で、眼頭の涙を拭く)……ふん……(涙を出したことに、はにかむような微笑で青年をチラリと見てから、千歯の端をトントンと叩いて)さあて、こんで、へえ……(前に廻って来て、ムシロの上にかがみ込んで、こき落した麦の粒と、まだ穂のままになったものとを手であら選りをして分ける)
青年 ……おばあさん……その、ハガキと言うのを、見せてくれませんか。
百姓 なんだえ?
青年 いえ、そのガダルカナルでなくなられた息子さんの……
百姓 ……(立上り、ムシロの一端を掴んで、パッパッと調子よく内側にはたいて、麦の粒を一個所に集めながら)道雄のハガキでやすかい?
青年 はあ。……すみませんが。
百姓 だども、なんとして、お前さま?
青年 ……別に……ただ、読ませていただきたいと思うんです。
百姓 ……ふん……(しばらくためらっていたが、やがて、単純に帯の下を掻きさぐって、布で包んだものを取り出し、布をほどいて中から何枚も何枚もの紙でくるんだ古いハガキを取り出し、きまり悪そうにそれを差し出しながら)へえ、つまらねえハガキだあ。
青年 ……(受取ったハガキの表をジッと 見、やがて裏を返して見詰め、粛然として読む。……その間も百姓は、穂のままの麦を掻き集める仕事に余念も無い)
青年 ……(読み終って、静かな無表情な顔で頭を下げ、ハガキを百姓に返す)……ありがとう。
百姓 うむ……(ハガキを元の通りに紙と布で包んで帯の下に突込み、それからムシロの傍に置いてあった叩き棒を取る)
青年 御最後の模様は、わかっていますか?
百姓 ……やあ、そいつは、まだ、よくわからねえ。だども、へえ、兵隊のこんだ、いずれ 、ほかの兵隊と同じようにして打ち死にしたづら。……噂では、しめえ頃は、みんな食う物も 無くなったって言わあ。ふむ……
青年 ……それは、さぞ……
百姓 (叩き棒で軽くトントンと麦穂の上を叩き試しながら)……こうして、麦作るにも米作るにも、へえ、道雄や、慎太郎に……慎太つうのは満州で死んだ総領だ……食わしてやる気でやってる。……死んじまったような気がしねえもの……どっかで、まだ戦さしているような気がしやす。未練じゃ無え、未練じゃ無えけど……それ思うとジッとしてなんぞ居れねえ。ハハ……(本式に叩きはじめる)
青年 ……(頭を垂れて聞いていたが、やがて、これも、もう一本の棒を持って、百姓と交る交る麦穂を叩きはじめる)
百姓 (叩きながら)俺達みてえに……貧乏なもんは……したいと思うても格別の事あ、出来ねえ。――たんだ、兵隊にひもじい思いだけは、……させたく無え、……へえ、よその子も、ウヌが子も……ありやしねえ。……腹一杯食わして、戦さあ、さしてえ、……日本国中、方々でおっかあや、おかみさんが……そう思って……ウヌあ、食わなくても……みんな、働いてるづら。……へえ、どっこいしょと!
青年 ……(相手の言葉が明るく淡々としているだけに余計に迫って来るものがあり、叩きつづけられなくなり、叩くのをやめて、棒を立て、調子を取って麦を叩く百姓の姿をシミジミと見守る)
百姓 ……そうだらず?……ハハ……どっこいしょと!(叩き続ける、トン、トン、トンと響くおだやかな音が、高原一杯に拡がって行く)
(その音に混って、遠くの方から呼声が聞えて来る……はじめそれは棒の音に妨げられて二人の耳に入らない。その内に青年が先ずそれを聞きつける)
声 おーい、ばあやあーん! ばあやあーん! ばあやんよーうい! (その少年の声は、下手から此方へ向って走って来ながら呼んでいるもので、忽ちの中に間近になり、小径の方から兎の様に飛び出して来た、十五六才の元気な少年。かすりの着物に戦闘帽に手造りの草履)
少年 ばあやん! 来たぞう!
百姓 ほう、慎市、来たか。(叩くのをやめてニコニコして見迎える)
少年 来た、来た、来た!……(言いながら、走って来た勢いで、いきなり、ムシロの上の、麦のこぼれて無い部分で、デングリ返りを打ち、立上り、又反対の方向にデングリ返りを打つ。三度四度と、うまい)ばあやん、来たぞっ!
百姓 これ、これ! なによ、するだ!
少年 んだから、来たじゃ無えかい!(言いながら今度は百姓に飛びかかり、その帯のわきを両手で掴み、百姓の腹に頭突きをするように頭を当てて、グリグリしながら、両脚をピンピン跳ねる。孫が久しぶりに逢った祖母に甘えかかるにしても、少し度を過ぎている)
百姓 こら、こら! ハハハ、この小憎め! 来たな、わかったから、そねえに跳ねるな馬鹿!
少年 そうじゃ無えってば! これだ!(言って、懐中から封書を出し、その中から紙を出して百姓の鼻の先きに突きつける)今朝、来たんだ! んだから、ばあやんや、じいやんや、慎吉に見せようと思って、俺あ二番の汽車で――へえ、読んで見ろ!
百姓 すると……試験受かっただか?(言いながら渡された紙を、顔から引離して眺める)ふむ……(当惑して、その辺を見廻した眼が青年に行き)甲州の孫でやすよ。二番目の慎造と言う野郎の総領だ。
青年 ……(微笑してうなずく )
少年 (ふくれて)ばあやん、そりゃ 、逆さだあ。
百姓 うん? そうか……へえ、何が何やら、俺にゃ読めねえ。んでも、受かったもんなら、それでよからず。
少年 母さんは、まだブツブツ言ってらあ。
百姓 なに、俺があんだけ言ってやったんだから、それでええのよ。(青年に)なにね、総領息子だから、女親にして見りゃ、そうは決心していても、なかなか、ふんぎりが附かねえのは当り前でやして――
青年 なんですか?……(百姓が手の紙を渡す。その上の文字をサッと見て)ほう、飛行機の方を志願したんだな。採用の通知じゃありませんか。(少年を見て)……おめでとう……(紙を返す)
少年 へえ、……フ、フ、フ、フ(山国の少年のことで、知らない人にてれて顔をこすったりしながらも、こみ上げて来る悦びをおさえ切れない)
百姓 (ニコニコしながら)そいで、いつだ、先方へ行くの?
少年 あと五日あらあ。父やんが連れてってくれるって。
百姓 そうか……慎も、じゃ、行くか?
少年 うむ……フ、フ、フ、フ……半年すると飛行機にのっけて貰えら。そしたら、この辺へも飛んで来て見せべえ。ばあやんが働いてるとこ、空から見たら、どんな風に見えるべな?
百姓 なによ、山の上から下の方見るのと同じづら。ばあやんなど、へえ、地面の一所がモグモグしてるだけだらず。ハハハ
少年 そんで、一人前になったら、道雄おじさんを、やった奴を、おら、じょうぶ 、やって来るぞ!
百姓 どうだかな。
少年 ああとも! やれら!
百姓 ほんまに、やって来るか?
少年 やって来る! へえ、一人も残すもんかえ! へっ !(言い放ち、上にあげた両手を、盆踊りの手つきに曲げる)へっ! へっ! へっと!(二度三度四度五度と、両手を揃えて右へ左へと交互に振り、それに合わせて足を踏み出して、素朴な踊りの動作)へっちゃら、へっ!
百姓 へっ! へっか!(言いながら、少年を真似て、無骨な動作で盆踊りの手附きをする。足つきだけは少しヨタヨタしている)ハッハハハ! へっ、か!
少年 ハッハハハ、んじゃ、おら、おじいやんと、慎吉んとこへ行かあ!(言って、もう正面奥の方へ駆け出している)
百姓 (その後姿へ)今夜泊って行くか?
少年 ああよう!(もう姿は消えている)
百姓 フフフ……(笑いながらチョット後姿を見送っていたが、直ぐに再び叩き棒を掴み、なんの事もなかったように、麦を叩きはじめる)
青年 ……(踊り跳ねるようにしながら走って行く少年を、いつまでも見送っている。やがて、百姓が麦を叩いていることに気付き、自分も再び棒をあげて、叩きはじめる……トントントンと、二人が交互に拍子をとって叩く音。双方黙ったまま、かなり永い間叩き続ける。……その内に、はじめそれと気が附かぬ位に低く、次第にハッキリと聞きとれる程に高くなって、百姓がフンフンフンと鼻歌を歌っているのが聞こえる。……青年、それに気が附き叩く手を休めて、百姓を見ている……間)
百姓 ……(叩き終り、散り拡がった麦を両手で掻き集め、ムシロの端を掴んで盛り上げる。その間も無心に歌う鼻歌の声。……青年は、相手の歌をやめさせぬために、声をかけるのも、動くのも控へて、此方でジッと 立ったままでいる。……百性は麦を盛り上げ終り)さて、と……(風に当ててふるうために、ムシロの隅の箕を取ろうとして、その尻にのせてある縫針の包と糸に気附き)ふん……(中年男と若い女の立去った方を振返って見た上で、二つを取り上げ、まじめな顔でそれらをユックリと見、しらべた上で、大事そうに帯の間にしまい込む)
青年 ……(百姓のユックリした動作を見守っていたが、フト顔色を動かし、胸のポケットから裁縫道具の皮ケースを取り出す)……おばあさん、これもあげます。
百姓 む?……そりゃ、さっきの?……俺に、くれるだと?(びっくりしている)
青年 (ケースを百姓の手の上にのせて)おばあさん使って下さい。
百姓 だども……へえ……こんなみごとなものを、俺が貰うなんて、へえ、とんでも無え!……第一、そんな、わけが無えだから――
青年 いいんです!(押返すのを無理に握らせる)貰って下さい。……わけは無い事は無いんです。(微笑)……実は、休暇をいただいて、東京に出ても、親戚がチョットと友達が一人二人あるきりで、親も兄弟も無し……急に、母の亡くなった所に来て見る気になりました。……子供らしいと人が聞くと笑うでしょうが……笑われても、いいんです。無性に、ただ母の事を思い出して、もう一度、最後に――いえ、――とにかく、そんな気で山を越えながらも、なにか、甘えているような……そいで、あなたに逢った。……母が私を此処に連れて来て、あなたに引合わせてくれた……そう言ったような……なにか、これでいいと言う気がしました。
百姓 さうかえ……うむ……おふくろさんを、そんなに、なあ……(もう涙ぐんでいる。涙でケースがよく見えないので指で眼尻を拭く)
青年 (微笑)それから、なんだか、ひどく安心しました。……帝国、万才だと思いました。……実は、その道具は、母が自分の父の所にかたづいて 来る時に、母の母が――つまり私のおばあさんが、母に買ってくれたものだそうで、母は大事にしていましたが、自分が最後に富士見に見舞いに来た時に、呉れました。……だいぶ役に立ちましたが、……今度船に乗れば、多分、もう要らんだろう――いえ、持っていて、なくしても詰らないですから、おばあさんにあげるんです。チットも遠慮はいりませんから――
百姓 ……名前は何と言いやす?
青年 自分は藤堂と言います。
百姓 おふくろさんはえ?
青年 ……母はフサと言いました。
百姓 おフサさんかえ……ふむ……(マジマジとケースを見ている)見たからず……なんぼう、そんなに大きくなったお前さまを、おフサさん、見たからず。……へえ、母親の気持なんてもんは、どこの母親でも、同じだ。……いくつになっても……もうへえ、死んじまってからだっても……子供が学校に初めてあがった頃、学校へ行く子を門口から見ていてやるからと言って、小さくなるまで見送った、その姿あ、忘れねえもんだ。……ハハ(と涙をこぼしている自分を軽く笑い消して)いただいときやんしょう。そんなわけの物なら、尚の事、大事にして。(掌の上のケースを額につけて、いただき、叮嚀に懐中へ)
青年 (頭を下げて)いやあ、そんなに大事にして下さらなくても、いいんですよ、ハハハハ……その代り――と言っちゃ、なんですが、お願いがあります。
百姓 あんだえ?
青年 この麦を少しばかり、下さい。
百姓 麦かえ? お安い御用だ、いくらでも持って行きなせ。さあさ、(こごんで両掌で麦粒をすくって出す)
青年 ……(ハンカチを出して、麦を受ける)
百姓 もっと――
青年 いえ、これでたくさんです。(叮嚀にハンカチをむすぶ)
百姓 それんばっち、どうしやす? 第一、このままで、食えはしねえが。
青年 いいんです。ハハハ、……船で今度ガダルカナル辺へ行ったら、こいつを出して見ようと思います。(胸のポケットに入れる)
百姓 ガダ、ガダルカ?(まだ言いにくそうである)あんだえ?
青年 ハハハハハ。……おばあさん、自分が歌を歌います。おばあさんの歌を聞かせて貰ったお礼に。
百姓 俺が歌――?
青年 いえ、先刻聞きました。約束ですから……下手ですが……(ニコニコしながら、草の上にアグラをかいて、上体を真直ぐに伸ばし、頭を昂然と上げ、両膝に両手をチャンと置いて、なにものとも知れず、正面はるかな所へ、キチンと一つ頭を下げる。しばらくそうしていてから、頭を上げるや、いきなり、器量一杯の声で歌い出す)
花の花とも、言うべき花は
わが日の本の桜花
散れよ朝陽に、匂いつつ(白頭山節)
百姓……(口を開けて聞きすましていたが)やれ、うめえもんだなあ! へえ、よ! なんつう歌だ、そりゃ!
青年 ハハハ、これ位しか歌えません。ハハ……それでは、もう時間が有りませんから、これで失礼します。どうか、おばあさん、お大事に。
百姓 やれまあ、そうかえ。……なんだか、へえ、おなごれ惜しいみてえだ……じゃあま、お前さまもお大事にな。
青年 (リュックサックの 口を締めながら)多分もう……この辺に来る事もないでしょうが、……おばあさんの事は忘れません。……それから道雄さんと言う人の事も憶えて置きます、……では、これで、……(靴のかがとを揃え、ピシッと不動の姿勢、帽子を脱いでキチンと頭を下げる)
百姓 (相手の様子にびっくりしている)
青年 ……(漸く頭を上げて)海軍中尉、藤堂正男と申します。……ありがとうございました。……(リュックを肩にピッケルを取る)
百姓 ……(それをジッと見守っていたが、やがて)お前さま、海軍さんかえ?
青年 はあ……いや……ハハハハ。では――
百姓 そうかえ! そりゃ、んだが……そんじゃ、ま、……ふむ……(何か言おうにも、急には、うまい言葉が出て来ないのに、相手は、もう、下手の小径へ歩き出している。それを追いかけるように、ヨタヨタと一二歩前へ行き、口をモガモガさせたり両手を上げたり下げたりしていたが、トッサにはどんな表現も有り得ようがなく、いきなり、その黒い大きな両掌を合せる)……へえ……じゃ、ま……よろしく頼みやす。
青年 (振返って、それを見て、テレて頭を掻きながら、ニコニコして)おばあさんも、よろしく頼みますよ。……此方ですね、道は?
百姓 それだ、それだ。……それズーッと 行って……よしよし、俺が此処に立って見ててやらず。ああ、それズンズン行って、運送道へ出たら、林道を右へ――曲って、(言っている間に青年の姿は見えなくなる。……間……遠くから青年が何か手真似をするらしい。それに答えて、大きくうなずきながら 、手を振り、叫ぶ)ああ、そっちだそっちだ! それを、まっつぐに行くだあ! 気を附けてな! ……(立ちつくしている。既に青年の姿は小さくなって、消えて見えなくなったらしい)
(……間……やがて、彼女は、ムシロの上にかがみ込み、麦をすくい込んであった箕を肩の所まで持ち上げ、吹いて来る微風を斜めに受けるようにして、箕を静かに傾けて、麦を少しずつ こぼして行く。風で麦をふるい分けるのである。……ふるいながら、青年の去った方を見返ったりしながらも、既に、労働の平常の姿になっている)
(……奥の谷の方から、気の遠くなるように流れて来る山鳩の鳴声)
(幕)
青空文庫より引用