地底獣国
プロローグ
モスクワの科学翰林院は、第二次五カ年計画期間中における文化的国家事業として、三つの企画をあげ、国民教育省および国家計画委員会を通じて中央委員会に提出し、第八回連邦ソヴィエト大会で承認された。
三つの計画のうち最初の二つは次のようなものであった。
1 計画・Л《エル》―北極洋冬季航路開発。
2 計画・Ч《チェー》―北極圏横断飛行、「スターリン空路」の開拓。
「計画・Ч《チェー》」の「北極圏無着陸横断飛行」は、一九三七年六月、シカロフ操縦士のANT《アー・エヌ・テー》二五型によって、北極の極寒を征服して両半球をつなぐ定期航空路開拓に成功した。
六月十八日、午前四時五分にモスクワのスケールコポ飛行場出発。滞空時間六十三時間二十五分をもって二十日午前八時、加奈陀ヴァンクーバーの飛行場に到着し、征空一万二千キロの新記録を樹立した。
「計画・Л《エル》」の「北極洋冬季航路開発」のほうはどうだったかというと、モスクワ科学アカデミー、地理学研究所の地質学部長エス・エル・カルピンスキー博士によって、五十七名よりなる調査隊が組織され、一九三五年三月にモスクワを出発、インジギルカの河口のクスムトエイに根拠地をおいて、翌々年、一九三七年の秋まで、足かけ三カ年にわたって、タイミル半島のベキチェフ港とカムチャッカ県の北マリインスク港を結ぶ一万露里の航路調査に従ったが、三六―三七年の大寒波襲来に遭い、予定の二十パーセントの効果をもあげることができず、調査としては、なんら見るものもなくモスクワに帰着した。
ところで、翌三八年、共産党赤軍を初めとして、いっさいの分野にわたって徹底的に行なわれた峻烈な粛清工作中、探検隊のサボタージュを煽動し、調査作業を失敗に終らしめた反革命陰謀を遂行したという名目で、「右翼偏向・トロツキスト・ブロック」の一員として、カルピンスキー博士は六月五日に銃殺されてしまった。(六月六日―「プラウダ」紙)
さて、最後の「計画・Я《ヤ》」のほうは、Я《ヤ》の頭文字によって、その提出者が、有名なヤロスラフスキー博士だということが推察されるだけで、内容は、全然不明であった。提出された題目は、単に、次のように誌されているだけであった。
(ψ62°30′N. λ140°17′0″E)
「計画・Я《ヤ》」は、全同盟科学研究計画会の秘密会で討議研究された末、一九三七年三月、実行の承認を得、各一名の隊長および分隊長、八名の学術部員、および各一名の写生画家と婦人速記者十二人の人間によって探検隊が組織され、翌々五月十日、北緯六十二度三十分、東経百四十度十七分の秘密境に向けて、モスクワを出発した。
同年五月十一日の国家出版所の「公報」と「プラウダ」紙に、「極東管区における主要なる地質的・軍事的学術研究」と題して、全員の氏名が発表されている。
調査隊長 ウクライナ科学翰林院地質学部長 イヴァン・ヤロスラフスキー
分隊長 同教授 ニコライ・モローゾフ
学術部員 同気象学教授 ボリース・シルーキン
……………………………………………
速記者および助手 ナターシャ・イワーノヴナ
一行は、翌三八年十月末にモスクワに帰着し、その調査の結果は、国家出版所から「北緯六十二度三十分における調査報告」と題して印刷に付せられたが、どんな理由によってか、刷了の翌日、中央委員会の命令によって頒布を禁止され、一部だけを残して、紙型とともに全冊数が焼却され、その一部は、国立図書館の「危険書類書庫」の金庫の中へ納められてしまった。
「北緯六十二度三十分における調査報告」とは、いったい、どんなものであったろう。その秘密は、永遠の時間の中へ完全に埋没してしまうはずであったが、はからざる機縁によって、驚異すべき調査の主題と、その蔭にひそむ人智に絶した秘境の実相が、さる同朋の口から曝露されたのである。
さる邦人というのは、いまから十年前、すなわち、昭和五年の夏、勘察加のパランスクで密漁中、監視砲艦のために撃沈され、スタノヴォイの苔原地帯に流刑され、河流工事の強制労働に従事させられていた、第二神風丸(舶籍、小樽市)の乗組員、漁場監督・篁栄二郎、一等運転士・清水岩吉以下六名であった。
一、苔原と Radio
寂漠たる苔原地帯。せいぜい一尺ぐらい、それより育たない矮小な白樺と松。湿風が吹いて通る。琥珀色の太陽。雁の声。空寂。
苔地の涯にゆるい山脈がつづいている。バイカル湖の東から勘察加の北までつづくスタノヴォイ山脈である。
この辺は、勘察加土人が、 Полхои《プラホーイ》 (哀れな土地)と呼ぶ地方で、ヤクーツク自治共和国に属する朔北の無人境である。人間が住んでいるところへ出るためには、南か東かどちらかへ三百露里ずつ歩かねばならない。そういう長い旅行をしてそのすえに、馴鹿の群をつれて遊牧している二つか三つの北露人の天幕に行きつくのである。山脈を越えて、インジギルカ河を北へ二十露里ほど遡ると、インジギルカ河とコリマ河との合流点の広い三角洲に脊椎動物の一群が棲息している。人間ではない。ヤクーツク州の「第二十七流刑地」で水路工事の強制労働に従っている流刑囚の一群である。汚穢、陋習、饑餓、困憊、悪疫……、あらんかぎりの惨苦のしみとおった獣の生活がそこにある。山脈の向う側とこちらと、これだけのものを全部ひっくるめたのが、「哀れな土地」の風土なのである。
黄昏。北緯62°30′ の、長いながい黄昏。太陽が、夕方から次の朝まで、光のない黄銅色を持ち越す。
苔原のはては突然、立ち上ってロバトカ山(一三二七)になる。苔原と山裾の、ちょうど間ぐらいのところに、四つの天幕が張ってある。探検隊用の頑丈なちょっとした小屋のようなクニッペル式の大天幕である。
ところで、その中のひとつから、突然にラジオの音が洩れてきた。空寂たる無人の自然と近代文明の唐突な交錯。
書類や、地図や、さまざまの図表、六分儀、クラウゼン式測深器、バフマン氏気圧計、猟銃、携帯電灯、鉱山用のハンマーと小鶴嘴、罐詰、刻み煙草、雑多な書籍、そんなものを背にして、肩幅の広い、頑丈な、六尺一寸のヤロスラフスキー博士が掛けている。白髪の童顔、桃色の頸筋、白木のテーブルの上の火皿では、海豹の油が燃えている。小屋の中には、やりきれない温気と、獣脂の燃える匂いと、ぼんやりとした闇が立ち罩めていた。
博士の向いには、ニコライ・モローゾフ教授が、長身の精悍な身体を、テーブルのほうへ倒しかけて、その上で、頬杖をついている。
鉤鼻。スラブの赤い口髭。歯並のいい白すぎる歯。光のある鋭い眼。……その眼が、さっきから、博士の顔のうえにじっと据えられている。右の手は、鞣皮の半外套の脇のポケットに突っ込まれている。
そのほか七、八人、つまり「極東管区における秘密調査隊」の一行は、全部この天幕の中にいる。他の八人の学術委員はカンヴァスの椅子や、罐詰の空箱や、ロープの束など、思いおもいの場所に、高低さまざまに掛けている。
秘密調査隊のただ一人の女性、婦人速記者。今年二十五になる、ナターシャ・イワーノヴナは、天幕のいちばん奥の、折畳式の寝台の上に腰をおろし、陰気なようすで指の爪を噛んでいる。美しいというほどではないが、不縹緻というのにもあたらない。学問に対する盲目的な帰依が、美に対する感覚を消磨してしまった。むきだしの浅黒い肌。ボウボウの眉毛。眼だけは大変に魅惑的である。深い黒い眼。フン族の系統、さもなくば、日本人の直情をあらわす、切れの長い、大きな眼である。
その隣にいるのが、気象学者のボリース・シルーキン。強度の近眼鏡。臆病そうな顔。調査隊の中で、ただ一人の無髯の男だ。蒼白い細面。長い白い指で額をおさえて俯向いている。
沈黙。待ちかねて、みなが焦らいらする。ようやく、またラジオが鳴り出す。
「六月五日、モスクワ・ホドウインカ局発信。第二十七号。……『ブハーリン派陰謀事件』の公判のつづきです。……北極洋冬季航路開発を遅延挫折させた、モスクワ科学アカデミー教授エス・エル・カルピンスキー博士の反革命的行為は、ただいま、午前十時、公判終結によって、次のように闡明いたしました。外駐英国大使ならびに外務人民委員代理クレスチンスキーは、伊太利ミラノにおいてトロツキーの指令を受け、対日対独戦におけるソ連の敗北は、政権奪取の好機であるとなし、一九三四年、赤十字国際会議の日本渡航を利用して、東京滞在中、ソヴィエト政権転覆のため、武力援助を日本側代表に乞い、敗戦後、独逸にはウクライナ、日本には沿海州を与えることを約束しました。この間博士は、交通人民委員のローゼンゴリッツを通じてトロツキスト・ブロックに結びつき、リヤコフ島ならびにコテルニイ水道において、何らなすことなく荏苒と日を送り、島民に対しては不満を植えつけ、築港工事の怠業を煽動し、さらに、レナ三角洲の運河開鑿工事を妨害するなど、広汎な反革命陰謀を遂行したのであります。……次に、前内閣人民委員ヤゴーダは……」
ヤロスラフスキー博士は、手を伸ばして、ラジオのスイッチを切る。また無人地の太古以来の寂寞がかえってくる。
泣いてるのかと思われるように、博士は白髪の頭を低く垂れて、長い間じっとしている。それから、突然、顔を上げると、悲痛きわまる眼つきで、ぐるりと一座を見まわした。いつもの寛容な表情のなかに、やるせない憤激の色が圧しつけられていた。
「……諸君、お聴きのとおりの次第です。合同本部事件、トハチェフスキー事件の時と同じように、スターリンは、『諜報関係』という名目で、あの高潔なわれわれの先輩、カルピンスキー博士を銃殺しようとしている。……いったい、こんなことが、現実にあり得ることなのでしょうか」
だれも、返事をしなかった。気象学者のボリース・シルーキンだけが、弱々しく肩を揺すった。博士は、あらためるように、一人ずつ順々にその顔を眺める。
「諸君、私はすこし昂奮しているようだ。それは認めます。この世には、冷静な科学者の心緒を徹底的に攪乱するほどの不公平な事実があるものだということを、私は、今、つくづくと考えているところです。……博士がトロツキスト・ブロックに結びついたなどというのは、まるっきり根も葉もないことだ。博士の調査を遅延させたのは、反革命的精神などではなく、太陽の黒点増大による『ゼーマン効果』のせいだ。異常寒波の突然な襲来が博士の調査を蹉跌させたのだということを、われわれは、よく知っている。……その博士が謀反人 の汚名を着せられて、二十四時間以内に銃殺される……」
分隊長のモローゾフ教授が、顎の下から左の拳を抜き出して、テーブルの上に投げ出す。どすん、という激しい音がした。
「ところで、それは、同時に、われわれの運命でもあるのですね。博士」
博士は、軽く身体を痙攣らせた。表情の中に、沈鬱な色が濃くなった。
「われわれの運命?」
葦が風に慄えてるような、細い声である。
モローゾフ教授はテーブルごしに博士のほうへ身体をのばして、「われわれは失敗した。……この北緯六十二度三十分の地点には、あなたが、想像されるような事実は何ひとつなかった。……この十カ月の間、われわれは破壊帯と可塑帯の二つの層のあいだを漫然と彷徨していたのにすぎない。……いかにもそれらしい事実はあるにはある。しかし、それはあなたがおっしゃるような状態においてあるんじゃない。中心圏を透して、まっすぐにどろどろの火が燃える岩漿帯に向っているのです。……これが、第二次五カ年計画における文化的国家事業の末路。同時に、われわれの末路です。……それに違いないですねえ、博士。……調査の結果は? そこでわれわれが答える。ロバトカ山の岩石圏をちょっと覗いて来ました。別に、なにもありゃしないのです。よろしい。お前達の駈引は、こちらにはよくわかっている。お前達のしたことは、反革命的行為である。銃殺だ! もう退ってもよろしい!……ズドン、ズドン! われわれのうち一人として助かるものはない」
「つまり、こんな顔をして、くたばるんです」
モローゾフ教授が、目を剥いて、だらりと舌を出す。
博士が、冷静な声で、口をきる。
「モローゾフ君、われわれはまだ、何ごとにも着手していないんです。今まで、われわれがやったことは、調査にたいする準備でしかない。従って、……」
教授が手をあげて遮る。
「あなたのおっしゃりたいことはわかっている。……つまり、失敗などはしない、というんでしょう。……それなら、それで、いいですとも! 強いてあなたのご意見に反対しようとは思いません。……あなたの意見などは、どうあろうとかまわない。ともかく、われわれは、何の希望もなく、変朽安山岩をほじくり返すことに飽きあきしてしまったんです」
「われわれ、と、おっしゃるのは?」
「つまり、あなたを除いた、あと全部」
博士があらためて、ひとりずつの顔を眺める。
「すると、あなたの意見が?」
「われわれ全部の意見の総和です」
「いつ?」
「昨夜、第三天幕で決議しました」
「調査を中止して、このままモスクワへ帰ろうというんですね。モローゾフ君」
「とんでもない。そんなことをいっちゃいません。われわれは、ただ、このうえこういうことを続けるのは嫌だといってるだけです。あなたの滑稽な空想のために、われわれの仲間がもう、二人も死んでいる。われわれの中から、断じて、三人目を出すまいと決議したのです」
博士は、瞼をゆっくりと上げて、淀まぬ眼差しで、モローゾフ教授の眼をみつめる。
「モスクワへも帰らない。……このうえ、調査を続けるのは嫌だとなると、いったい、どういうことになるんですか」
教授は、鼻唄でも歌うような顔つきで、
「誰か、かわりの人間を火口へ入れればいい」
博士が微笑する。
「苔原と白樺と雁。……ここには、われわれのほか誰もおりませんよ」
「山の向う側の、インジギルカの三角洲に、流刑囚がたくさんいます。それを入れようじゃありませんか。そして、その結果を持って、われわれはモスクワへ帰る。それで、万事うまくゆくというもんだ。……まかり間違って、一人残らず死んでしまったって、どうせ、役に立たない連中だ。かくべつ惜しいこともありませんからねえ。……われわれが、調査の間に、二十人も人を殺したといったら、中央委員会でも、よもや、われわれを怠慢呼ばわりしないでしょう。われわれは、そこで、モスクワ大学の、静かな庭にかこまれた自分たちの研究室に落着くことができる。……ああ、何という魅力だ。……あの楡の木の側のひっそりとした研究室……」
博士の眼から、刺すような光が流れ出す。おだやかな童顔のうえに燃えるような血の光がさす。
「諸君! ……諸君は自分たちの静かな研究室へ帰るために、何人かの流刑囚を、虐殺しようというのですね? ……それに違いありませんか? ……なんという恥辱! ……私なら、そういう血だらけな記憶にまみれるよりは、銃殺されたほうが、よっぽどましです。……諸君は、じつに、見さげはてた魂を持っていられる!」
沈黙。シルーキン教授が、近眼鏡の奥で、臆病そうに眼をしばたたきながら、おずおずと立ち上る。
「……博士、どうか、私だけは、別にしてください。……ともかくも、……少なくとも、……私は、あなたと同じ意見です。おっしゃるとおり、そんなことをしたら、後でひどく苦しみそうです……」
眼に見えない動揺が、波のように、他の七人に伝わる。調査隊附の写生画家のアレキサンドル・ペトローウイッチが、思いきったように、ロープの束の上から腰を上げる。
「博士、私も……」
皮の半外套のポケットの中へ入っていた、モローゾフの右手が抜き出される。手の中には拳銃を握っていた。シルーキン教授の胸の真中へ筒先を向けると、無情な顔つきで撃鉄をひいた。
銃声。それから、筒口からゆっくりと白い煙が吐き出す。シルーキン教授が、右手で胸をおさえて、瞬間、呆気にとられたような表情で、ぼんやりと皆の顔を見まわしてから、お祈りでもするように、のろのろと、地面の上へ膝をつくと、がっくりと前へのめる。近眼鏡が、遠くのほうまでけし飛んだ。
モローゾフ教授が、拳銃をぶらぶらとぶら下げたままテーブルの角をまわって、博士のほうへ近づいて行く。博士の胸に筒口を押しつけると、ゆっくりと、いった。
「ヤロスラフスキー博士。どうか、われわれの決議に従ってください」
二、地球の抜け穴
〔Cu_ntcu_ius lavas〕 ――つまり、うねうねと大地の下を走る「熔岩隧道」に対する関心は、すでに、紀元前から始まっている。地の底を通って、できるだけ遠くへ旅行してみたいという思想は、誰しもが、一度は感じることである。空と海底と地の底。この三つの部分を征服することが長い間、魅力の対象になっていた。
熔岩隧道の中へうまく潜り込むと、かなり遠くまで行かれるはずだというので、いろいろな人間が、長い間、時間と労力をかけて探しまわった。ヒッパクルスもグレゴリーも、みなやった。
コペルニカスは、熔岩隧道のことを、「地球の抜け穴」といっている。
ところで、この「地球の抜け穴」は、世界には数多くある。もっとも有名なものだけを挙げてみると、
1 伊太利カプリ島の浪※ 洞。
2 仏蘭西ルールドの大暗道。
3 グランド・キャニヨン風洞。
4 氷島イスランジャ山の大地底道。
熔岩隧道というのは、熔岩が流れ出してあとにできるトンネルのことである。いったい、熔岩というものは、外側が冷却して固まった後も、内側はそうとう長いあいだ熔融状態を保っているものなので、傾斜したところを流れた熔岩流の、下端に近い外皮に割目ができると、内部のどろどろな部分が、すっかりその割目から流れ出してしまう。融熔部がすっかり流れ出して、固まった外殻だけがガラン洞になると、長いながい洞窟となって残る。
その形は、天井が多少アーチ型で、底は平らになり、鉄道のトンネルのようにどこまでも蜿蜒とつづいているから、それで熔岩隧道というのである。熔岩隧道は、天井の高さは三メートルから五メートルぐらい、時には、両側の壁の下のほうが土手のように高まったのや、肋骨型の凸起があったりするものがある。日本では富士山の十二の風穴がそうである。
ときどき、熔岩隧道の一部か、または、そうとう長い部分が墜落して、その後に、熔岩溝というものができることがある。熔岩隧道は、応々こうした時に発見される。
カプリ島の浪※ 洞のような洞窟はどうして出るかといえば、専門的にいうと、「熔岩メーサ」というやつで、長々と続いていた熔岩隧道が、河谷で切断されたり、海底の隆起でその口が切断面で露呈したのである。ルールドの暗道も、だいたいそれと同じである。
ところで、最後の氷島の「イスランジャ大地底道」は、前の三つと、すこし別な条件を持っている。
このイスランジャという火山は、ラミラド褶曲の直後ぐらい、つまり、白亜期と第三期の間、いまから三千万年ほど以前に活動をやめてしまった古い死火山で、ここでは、熔岩隧道が噴火口の横っ腹に開いていて、ゆるい傾斜を保ちながら、無辺際空に東南の地底へ走っている。
最初にこの「地球の抜け穴」に入ったのは英国の Thomas Levington という地質学者で、一八九二年に、三十マイルほど地底の旅行をつづけて、氷島のスネフェリス山の下まで行った。
それから八年後、一九〇〇年六月にまた Paul Jannussen というデンマークの地理学者が、ボッツランドの岬の下を通って大洋の下へ出、とうとう北緯十度西経七十一度二十分、つまり英国の真下ぐらいまで歩いて行った。
この旅行記の手記は、
「地球の抜け穴。――倫敦までの地底三カ月の旅」( ※ La Poterne du Globe. ――“Trois mois de voyage soussol, jusqu'〔a`〕 Londre”※ 1903. )
という題で書かれ、巴里の古文書保管所に保管されている。これを読むと、地底の風景の異様な美しさに思わず恍惚としてしまう。官能的美しさ。意外。驚異。重苦しい感動。一種の昏迷状態。そういう、さまざまな感覚に、しっかり、魂が掴まれて、巻を措くあたわざるの思いをさせる。ウインパーの「アルプス登攀記」は別として、これは、この世でもっとも美しい、奇異な旅行記である。
すこし、ここへ抜萃してみよう。
六月八日
朝の八時に、三人前後して眼を覚した。
どこからともなく、微かな光が射してくる。元気はだいぶ恢復していたので、大急ぎで、朝飯をつめこむ。
私は昨日から非常な渇をおぼえ、どんな悪水でも一滴得られたらと、それこそ、渇くような思いで地上の清洌な流れを瞼に思い浮かべた。
朝飯が済むと、ガンスは片手にランプを下げ、片手に斧を持って、邪魔な砂岩を砕きながら進んで行く。クワルツ土の結晶が砕けてランプの光に映じ、たとえようもなく美しい。幾度か、崩れかける側壁に度胆を抜かれながら、ゆるい勾配を下って行くうちに、いっそう空気が稀薄になって来た。しかし、微風のようなものが、時々、顔を撫でていく。それで、わずかに息をつく。
咽喉の中で火が燃える。松明行列のようなものが、胃袋と口蓋のあいだを上ったり下ったりする。しかし、どうすることもできぬ。六千フィートぐらい降れば、石泉に行きあたるだろうと、たがいに慰め合った。
六月十日
一面に Emeri《エムリ》(金剛砂の一種)の床だ。勾配がなくなって、地面が平らになったので、地の底まで来てしまったような気がする。はるか前面に、異様な光景があった。安山岩の黒い山が、天に聳えるようにそそり立っている。黒ともつかず、濃紺ともつかず、きわめて negatif《ネガチフ》 な陰鬱なようすをしている。しかし、地底に山などのあろうはずがないのだから、近づいて行って見ると、変朽安山岩が正規浸蝕谷の中へ落下して来たもので、リヒトホーヘンが、西班牙語をそのまま採用して、リア(Rias)と呼んでいる現象だということがわかった。この辺は、非常に広濶で、ところどころに「熔岩の棘」と呼ばれる、仙人掌のような恰好をした黒い塩基性の熔岩塔が立っているので、ちょうど、メキシコの沙漠の中にでもいるような気がする。強烈な、白い太陽の光のかわりに、ここには蛍光色とでもいえるような、ぼんやりした微光が Emeri《エムリ》 の原野の上に漂っているだけである。
六月二十一日
今日の午後、スネフェリス山から五十マイル下のところへ来た。一八九二年に、トーマス・レヴィングトンがやって来たところである。なにか記念でもあるかと思って、その辺を探しまわったが、何も見あたらなかった。こうして立っていると、遠くのほうでかすかに海の鳴るような音を聞いた。一心に音のするほうを見渡したが、例の微光が遍満しているだけで、なにも見えない。削岩壁の間から、一条の光が細い糸を引いたように透けて見える。それは、太陽の光らしかった。
ガンスは耳に手をあてて、海鳴りのような音をきいていたが、突然「リジンブロックスコイ!」だと、叫び出した。
訊きただしてみると、「リジンブロックスコイ」というのは、氷島の伝説にある地底の大洋の名だということだった。
地底の海! その奇異な景観に直面する瞬間を想像して、私は突っ立ったまま恍惚となっていた。レヴィングトンが、なぜここから引返したか、その理由をはじめて了解した。
六月二十三日
今日の昼頃、渺々たる大海原の見えるところへ出た。奇妙な形をした鱗木のたぐい。――フォルチャ・ヘテロフィラと呼ばれる三畳紀の松柏類やポトザミテスという中世代の 蘇鉄類がしんしんと繁り、その根元には、網羊歯や土筆のたぐいが足の踏み場もないほどはびこっている。渚の浅いところには、海百合や腕足類や、さまざまの巻貝。モーフィリテスやアンモナイトが、のそのそと動きまわっていた。
ヤヌッセンは、ここで、助手のガンスと同伴者と、三人で、筏を造りはじめ、一週間後に、地底の青海原に乗り出す。パンの屑で、イロニクティスという古代の鱈を釣ったり、「ジイゼル」と名づけられている地底の島の噴火山を眺めたりする。
モスクワの科学アカデミー地質学部長イヴァン・ヤロスラフスキー博士が、ロバトカ山の火口壁に熔岩隧道が口を開けていることを推定したのは、すでに、一九二〇年代のことだった。
当時、博士は、樺太の西海原で腕足類や藤壺の繁殖状態を調査していた。ある夏の一日、杖を振りながら、樺太山脈の低山帯へハイキングをし、その時、恵須取山の旧火口の近くで、まったく思いがけないものを発見した。それは学名を C. pyarus stanovos という、シベリヤ※ 《のろ》の一種で、スタノヴォイ山脈にだけ棲息する、鼻面の白い、毛皮に白斑のない、特別のやつだった。樺太には昔から※ は棲息していない。それなのに、ここにシベリヤ※ がいるとすれば、どんな方法かで、そこから移行して来たものでなくてはならぬ。たぶん、黒竜水道が氷結した時、ラザレフ岬の隘峡の上を渡ってやって来たのだろうというところへ、博士の考えがだいたい、落着きかけていた。
ところで、博士が、背中に杖をかくして、そろそろとそのほうへ近づいて行くと、シベリヤ※ は、ヒラリと身をかわし、恵須取山の旧火口の中へ、ピョンと飛び込んでしまった。
たったこれだけのことだが、これが博士の世界的発見に、重大な示唆を与えることになったのである。
博士は、こんなふうに推断した。つまり、樺太の西海岸を縦走する樺太山脈が、正しく北緯六十度の線にそって北上し、露領樺太のアレクサンドロフスクの近くで、突然海中に入り、一種のフィヨルドを作りつつ、海底を北へ進み、カムチャッカ県のオホーツクの近くで上陸し、県界に東西に走っているスタノヴォイの横っ腹へ、ちょうど北緯六十二度三十分東経百四十度十七分の地点で、T字型に接触する。そして、この接触点がロバトカ山なのである。博士はこれで、ロバトカ山と樺太の恵須取山の旧火口までの間に、完全な「地球の抜け穴」が通ってることを推断したのだ。
博士は、一九三〇年以来、コムアカデミーに、この熔岩隧道の調査を申請したが、一九三七年になって、突然、中央委員会がこれを承認したのは、もっぱら、軍事的な意味で取り上げたのである。
三、コリマの泥洲
河が、この荒蕪の土地に、多少の滋味を加える。水ぎわの粘土質の土のうえに、「第二十七流刑管区」の幾人かの人間がみずから喰うための、少しばかりの里麦が、ひよわいようすで河風に揺れている。
三角洲というよりは、これは島である。公式の N2 O, Na を思わせる、手先を入れる気にもならないような、腐った牡蠣のような色をした水が、島の三方をかこんで、のたりと流れている。二つの河が、この三角洲で落合い、流刑囚の番犬の役をつとめる。この河を泳いで逃亡しようとする者があると、惨忍な口をあけて呑み込んでしまう。逃亡者は、見せかけだけの河の、底なしの泥洲の中へズルズルと沈み込んでしまうのである。機械を外された砕氷船が、浅瀬に乗り上げて赤錆になっている。そこから、河流工事のトロッコのレールが、うねうねと始まっていた。
中洲のうえには、草のようなものがまばらに生えていてその涯に、流刑囚の小屋と、監視人の小さな家があった。
二人ずつ鎖で結び合わされた八人の流刑囚は、トロッコに腰を掛けたり、地べたにじかに坐ったり、シャベルを突いて立ったりして、低く首をたれて、モローゾフ教授の話を聞いていた。
惨苦が額に烙印をおす。どれもこれも、鉛色の顔をし、ぼんやりと漂うような眼付をしていた。裸足。むっとするような獣類の匂い。剃りあげた不気味な顱頂。足を曳きずるような奇妙な歩き方。無感動な、沈鬱な物腰。酷使されて、どんなことにも感じなくなった、家畜の、あの、魯鈍なようすをしていた。はだけられた胸の上に、いくつも光った横縞があった。おびただしいこの笞刑の痕が、長い流期の象徴になっていた。
日本人。これが、十年前にカムチャッカで、汽船もろともオホーツク海の鉛色の海へ沈んでしまったと思われていた、篁栄二郎以下八名であった。
モローゾフ教授の後ろで、婦人速記者のナターシャ・イワーノヴナが、高く積み上げた軌条の上に小妖精のような恰好で腰をかけ、陰気に指の爪を噛みながら、じろじろと八人のようすを見おろしていた。
ナターシャは、日露の混血児だった。父はウクライナ人。母は、ほっそりとした、眼差しの美しい日本婦人だった。長崎の山のたたずまいや、棟の低い灰色の家並がぼんやりと記憶に残っていたが、それも、まもなく忘れてしまった。五歳の時には、もう、ペトログラードに、父と二人だけで住んでいた。ところで、その父のほうも、商用で、シベリヤのノヴゴロードへ行くといったきり、帰って来なかった。捨てられたのだ。
ナターシャは、日本の港街の風景を、ぼんやりと、思い出す。この八人は、そこから来た人達だ。ソヴィエトの荒々しい辺境で、足を鎖で結び合わされながら、ソヴィエトの河の流水工事をしている。ソヴィエトのために!……なにか屈辱に似た感じが、心をかすめた。この獣類のような人間達のために、なぜ、自分が屈辱を感じなければならないのか。彼女は、想像の中で、美しい英雄的な生活を、いくつも味わってしまった。愚鈍なものや、悲惨なもの、敗北したものなどを見るのを好まなかった。たぶん、そのせいだろうと思った。
心には、また別のことを考えていた。モローゾフ教授の丁寧な言葉使いが、ナターシャをいらだてる。こんな獣類たちにあんなまわりくどいことをいって聞かせている。モローゾフ教授は尊敬に価する人だけど、やはり、部分的には間違っている。
ナターシャは、モローゾフ教授を尊敬している。それに、いくぶん愛の感情がまざっていた。「冷淡な人間だけが誤謬を犯さない」。ナターシャは、教授の冷淡なところに、惹きつけられているのだった。
ナターシャは、教授がシルーキンを撃ち殺したことを、自分の個人的な利益のためにやったのだとは思っていない。確実に、モローゾフ教授のような天才的な頭脳は、博士のいまいましい誤謬の犠牲になって、ロバトカ山の岩漿帯の中でなど亡びてはいけないのだ。
モローゾフ教授が、ようやく説明を終って、ゆっくりと煙草に火をつけながら、自分の弁舌の効果を試すように、かわるがわる八人の顔を眺めはじめる。
何の効果も、ひき起さなかった。八匹の家畜たちは、物憂そうに首を垂れたきりで、もぞり と身動きするでもなかった。この男達は、もう、どんなことも感じる力がなくなってしまったのだ。教授のこの提案の意味を噛みわけたら、歓喜のために躍り上らなければならぬはずなのに、歓喜どころか、溜息ひとつ、つこうとしない。怖るべき鈍重。
モローゾフは、舌打ちをした。
(獣類め!)
そして、ナターシャの方へ振りかえった。二人の心はすぐ通じ合った。ナターシャは、キュッと唇の端を歪めて見せた。
いちばん近くに坐っていた男が、ようやく、顔を上げた。どんよりと濁った魚のような眼をしている。鼻梁のわきのところを、蠅がいそがしそうに歩きまわっている。
「……すると、なんですか、……その、山の噴火口へ入ると地面の下を通って、日本まで行けるというのですか……」
モローゾフ教授は愛想よく笑った。
「そうですよ。樺太の西海岸の恵須取山へ出られるんです、ひょっくりとね」
「……そこを、歩いてさえ行けば、ひょっくりと、……ひょっくりと……」
そこまでいって、急に、ぐっと口を噤んでしまった。モローゾフがつけ足した。
「日本へ、出られるんですよ。……つまり、私は、諸君を、日本へ還してあげようと、そういっているのです」
また、深い沈黙が来た。長い沈黙。
いちばん向うの端にいた小柄な男が、足を踏みかえた。鎖ががちゃりと鳴った。
「……恵須取といえば、……おらが家のすぐそばだ、……おらが家の……」
これが、キッカケだった。
けだものどもが、いっせいにわめき出した。叫びとも、唸りともつかぬ、腹の底から絞り出すような声で、
「あー、あー……」
と、犬の遠吠えのように呻きつづけるのだった。
「あーン、あーン」
それが、今度は、涙が、ゆっくりと流れ落ちていた。
どこから、こんなに涙が出て来るかと思われるほど、眼の中からも、鼻孔からも、溢れるように流れ出して、顎から咽喉、咽喉から胸へと、したたり落ちた。
ぞっとするような気狂いじみた発揚状態が一同の上へやって来た。てんでに地べたの上に身を投げ出すと、両手の爪を蟹のように曲げて、すさまじい号泣をつづけながら、地の上をかき※ 《むし》る。向うでは、地面の上を、ごろごろのた打ちながら、手で土を掬っては、泣きながら自分の頭にふりかけている。たがいに反転しあうので、鎖が縺れあって、二人の身体をひとつに引き締める。すると、抱きつぶしてしまうという勢いで、たがいに抱き合い、それからまた、ごろごろと転げまわった。トロッコの上に腰をかけていた一組は、シャベルを取り上げると、わう、わうと吼えながら、ゆっくりと土を掬っては、トロッコの中へ投げ込んだ。
高低さまざまな泣き声が、惨澹たる諧調をつくりながら、いつまでも続く。ひとりが、含嗽をするような声で叫んだ。
「ああ、どんなだべな、……どんなだべ」
恵須取山の火口を出て、十年ぶりに日本の景色を一目見たときは、いったい、どんな気持がするだろう、という意味らしかった。
ひとたまりもなかった。すこししずまりかけていた号泣の声は、これで、以前にもまして凄まじくなった。
その間を貫いて、突然、けたたましい笑い声が響きわたった。痩せこけた、眼ばかり大きい、影のような老人だった。右足は膝ぎりしかなくて、そこに、木の副木をあてていた。
火のついたような笑い声は、それから、しばらく続いていたが、まもなく、低いすすり泣きの声にかわって、
「……おら、こんな不具だすけ、とッても、そんなとこさ、ついて行けねえべ。……おら、ひとり、こんなとこさ残されて、どうしてこれから、生きていかれるべ。おら、いやだ、おらいやだ」
血死期のように叫ぶと、同じ鎖に繋がれている、二十四、五のだぶだぶのルパシュカを着た男を、とつぜん、後から羽交締めにして、
「留吉、あきらめで、おらどいっしょに、死んでけれ。……な、な、……頼むすけ」
羽交締めにしたまま、力まかせに泥洲の方へ曳きずってゆく。
そこから河岸までは、ものの、十歩とはなかった。留吉という痩せた青年は、蠅のようにいそがしく手先だけを動かしながら、もう、必死の声だった。
「待ってけれ、親爺、頼むから、待ってけれ」
「おらのほうも、頼むから、……頼みだから……」
「あぶねてのに、……ちょっと……ちょっと、この手ばどけてけれ……」
そういいながら、ずるずると曳きずられて行く。眼もあてられないようすで、河岸まで青年を引っぱって行くと、
「いっしょにな、留」
横ざまに泥洲の中へ突き飛ばした。留吉は、うわアー、と絶叫して、頭から先に平らに泥洲の中へ落ち込む。間髪をいれずに老人も、鎖に引かれて、これも滑り込むように、ズブズブと足の方から陰険なようすをした泥河の中へはまりこんで行った。泥の上を流れている、浅い河の面に、ちら、と留吉の手の先らしいものが見えたが、それも瞬間で、ただそれだけのことだった。老人のほうは、泥の上に胸から上を出しておッ立っていたが、腕から肩、胸から咽喉、まるで、風呂へでもつかるようなぐあいに、ゆるゆると、沈んでゆく。
もう、顎に泥がつく。咳ばらいのようなことを、ひとつすると、
「帰ったら、おらの餓鬼どもに、いいあんべえにいっとおいでけれ。……ンだば、さいなら……」
唇が動いただけで、最後の「さいなら」はよく聞こえなかった。がぶッと、自分から泥のなかへ顔を入れ、それっきり、見えなくなってしまった。
六人が河の岸で、腑抜けのような顔で、ぼんやりと眺めていた。誰一人、ものをいうものもなかった。
モローゾフが、ナターシャに囁いた。
「つまり、動物的敏感というやつですね。私も、あの跣は置いて行くつもりだった」
そういって、革外套のポケットから、拳銃を取り出すと、
「あまり、ぞっとしない役割ですね」
やりきれないといった顔で、ちょっと、ナターシャに微笑んで見せ、それから、監視人のいる小屋のほうへ、大股に歩いて行った。
四、地獄の入口
山の頂には、強い風が吹いていた。一列になって、火口の外輪を廻り込む。
三千万年の前に死滅してしまったこの火山は、どの岩もみな古めかしく、縄状熔岩がいたるところで縄のように捩れあい、黒や鉄色や、赤味がかった岩が、垂直に無限の闇黒のなかへ逆落しになっていた。瘴気のような薄い霧。死んだ岩と熔岩。この永遠の沈黙のなかで、一羽の黒鷹が、ゆるゆると輪をかきながら飛んでいた。まるで、地獄のような景色だった。
山の上には、十二人のひとがいた。沈着な面だましいをした篁栄二郎以下六人の漁師たち。調査隊のほうからは、ヤロスラフスキー博士とモローゾフ教授、そのほかに、六人の学術部員が見送りに来ていた。
六人の漁夫たちは、みな、見上げるような大きなリュックサックを背負い、安全灯や、ロープや、手斧や、そのほか、雑多なものを、腰に差したり、吊したりしていた。おびただしい雑貨の中で、大きな身体が埋没しかけていた。
一同は、リュックサックをおろして、頂上の岩蔭でひと休みした。漁夫たちは誰一人、不安な顔はしていなかった。むしろ、依怙地にも見えるくらいな、冷静な面もちをしている。
博士が、六人に一本ずつ巻煙草をくばると、おしいただいてから、ゆっくりと燻らしはじめた。これから、じぶんたちがどんな破天荒なことをやろうとしているのか、まるっきり感じていないふうだった。予測し難い数々の危険。飢餓。飢渇。圧死。窒息。大負傷。そんなものが行く手に立ち塞って、六人を待ちかまえていることに、まるっきり気をつかっていなかった。
出発の前の晩。博士は、一同に、この旅行中に起り得るさまざまな危険と、それが、どんな困難な旅行であるかを説明した。
六人の漁夫は、黙然と聞いていた。篁という、六人のリーダー格の男が、ゆっくりと顔を上げると、どっしりと幅のある声で、いった。
「なアに、わすら、やってみるです」
そして、みんなのほうへ向いて、
「な」
と、同意を求めた。いっせいにうなずいた。
どの顔も自若として、露ほどの恐怖の色もあらわしていなかった。
博士は、熔岩隧道というものについて、それから、ロバトカ山の隧道の状態を、わかりやすい言葉でできるだけ詳しく説明した。
ロバトカ山の暗斜道は、東に一キロほど行き、そこでゆるいカーブを描きながら、東南東へ下っている。そこから、さらに一キロばかりのところで、二叉にわかれ、一つは、脈状に青い粘土をはさんだ堅固な安山岩盤で行きどまりになってしまい、一方は、分岐点から二百六十メートルばかりのところで、変朽安山岩で塞がれている。プロピライトというのは、安山岩が風化して、輝石類が緑泥化したもので、掘ればほるほど天井から崩れてきて、どうしてもその先へ進むことができない。
つまり、調査隊の一行は、十カ月の間、このプロピライトと空しい格闘をしていたのだった。
博士の推定では、プロピライト道のほうは断念するのほかはなく、安山岩の岩盤をダイナマイトで破壊して、隧道の口を探すことだけが、最後の希望なのだが、その上の天井は、集塊岩が石泉の作用を受けて、軟化しているので、ダイナマイトなどを使用すると、どのような危険が起るか予想できない。そういう躊躇のために、岩盤破壊の決心がつかず、プロピライト道のほうに一縷の望みをかけて、むなしく今まで掘りつづけていたのである。
これに対しても、篁は、
「なアに、わすら、やってみるです」と、同じ返事をした。
博士の話で、隧道の中の危険な様子がはっきりすればそれだけ、いよいよ昂然とした意気を示すのだった。博士の心のどこかには、危険を誇張して、できるなら思いとまらせたいという気持があった。しかし、こういう様子を見ると、どのような制止も益のないことを悟った。
どうしても翻意させることができないと見てとると、今度は、博士は、真剣になって、地下旅行のいろいろな注意を与えはじめた。
地下旅行でもっとも困るのは、飲料水の問題であるが、地下には石泉というものがあるから、できるだけ、それを利用すること、岩側に耳を当てると、底流している石泉の音を聞くことができる。そこを目がけて掘ってゆけば水に行きつくが、非常な勢いで噴出するから、じゅうぶん注意しなければならない。溢れ出した石泉をすぐ飲もうとすると大火傷するから、何かに汲んでおいて、じゅうぶん冷ましてから飲むこと。石泉を噴流するにまかせて先へ進んで行くと、隧道の中が水びたしになるおそれがあるから、飲むだけ飲んだら、穴はかならず、塞いでおくこと。それから、食物に対する注意、バロメーターの使い方、隧道内の空気の検査法、宿営の場合の注意など、すべてにわたって、手落ちなく話して聞かせた。
六人の漁夫たちは、膝に手をおいて、いちいち、はい、はい、と朴訥にうなずくのだった。
博士は、ひとりずつリュックサックの中を検討して、あれこれと、不足なものを補足した。
前例のない、この、破天荒な門出を祝うために、調査隊は心ばかりの別宴を張って、じぶんたちの身代りに、この六人の人間が死んでしまうのかと思うと、粗末な饗応ではすまされないような気がするのだった。
ところで、六人の漁夫たちは、コップに一口くちをつけると、いい合したように下へ置いてしまった。できるだけ歓待しようと、天幕中があたふたと駆けまわっているのを眺めながら、わしらは、これで寝ますから、ごめんをいただきます、といって、さっさと自分たちの天幕へ引き上げてしまった。
モローゾフ教授が、ナターシャに囁いた。
「礼儀をわきまえているといってもいいくらいだ。けだものにしてはできすぎている」
ナターシャは、教授のいい方に軽い反感を感じながら、
「そうね」と、答えた。
この地底旅行には、もし成功したら、また六人でそろって戻って来て、委細の報告をするという条件がつけられていた。提議したのは、いうまでもなく、モローゾフ教授である。
ナターシャが、訊ねた。
「全部 そろって戻って来いというのは、どういう意味なのですか。半分ぐらいだってかまわないわけでしょう」
「いや、全部でなくてはいけない」
「ですから、なぜ?」
モローゾフ教授が、こたえた。
「全部殺してしまわなくては」
ナターシャは、チラとモローゾフ教授の顔を見上げた。そして、急いで眼を伏せた。何か鋭いものが、チクリと心を刺した。……
最後の煙草を喫いおわると、漁夫たちはいっせいに立ち上った。太いロープが截り立った削岩壁の肌にそって、混沌と黒い口をあけている火口底のほうへ垂らされた。
最初は、北原省三という、片目の若い漁夫だった。
「したば、さいなら」
かくべつ身構えをするでもなく、身軽にロープに取りつくと、岩壁に足を突っ張りながら、だんだん下のほうへ降りて行った。その身体は、まもなく、張り出した熔岩の瘤の下へ見えなくなってしまった。
学術部員たちは、一種凄愴な気持でそれを眺めていた。大地の下をはるばる樺太まで行って、すぐまたその足で引返して来ねばならない。なんというひどい苦難が、そこにあるのであろう。そして、そのあげくに殺される。成功しても、失敗しても、どっちみち命のないこの六人の人間。この荒涼たる地獄の風景の中で、このような境遇を目睹することは、さすがに、心寒い思いがするのだった。
篁栄二郎が最後に残った。リュックサックをみな吊り降してしまうと、博士のほうへ近づいて来て、
「戻って来るのは、どうせ秋口になると思いますが、あんまり、寒くならないうちにやって来るつもりです」
そして、一人ずつの前へ行って、丁寧にお辞儀をし、沈着なようすでロープに手を掛けた。まもなく、最後の一人も、見えなくなってしまった。
つぎの朝、モローゾフ教授が、じぶんの天幕にいると、写生画家のペトローウィッチが、蒼い顔をして飛んで来た。
「ニコライッチ、大変なことが起きた」
「何?」
「博士が、天幕にいないんだ」
モローゾフが、厳しい眼つきをした。
「それで?」
ペトローウィッチは、ぐっと唾を呑んで、
「たぶん、博士は、逃げ出してしまったんだ」
「命令したとおり、看視はつけて置いたのだろうね」
「オグダノフ教授が、朝まで天幕の外で見張っていたのですが、うまく、してやられてしまったのです。……天幕の後ろに博士の匍い出したあとがあるんです。コンパスやリュックサックもなくなっているし……。漁夫たちを追いかけて、隧道へ入って行ったのだとすると、われわれ全体の破滅です。もし成功したって、どうせわれわれのところへなぞ帰って来るはずはない。……それに、われわれのサボタージュは、復讐的に博士が公表するだろうし……。どうも、大変なことになった。あちらで皆、騒いでいます」
モローゾフ教授は、無言のまま天幕の外に出ると、じくじくと水気を含んだ苔原を踏みながら、三百メートルばかり歩いて行き、そこへ立って、空漠たる地表を見まわした。ツンドラの上には、人影らしいものもなかった。
モローゾフが、じぶんの天幕へ戻って来ると、天幕には調査隊の全員が集っていた。モローゾフはそのほうへは眼もくれず、天幕の奥のほうへ歩いて行って、釘から弾帯をはずして肩にかけ、それから、ゆっくりと銃を取り上げた。天幕の入口のところで、振返って、
「ちょっと、行って来ます」
ナターシャが、立ち上った。
「わたしもいっしょに行きます」
モローゾフ教授は、調べるような眼つきで、ちらとナターシャの顔を眺めたのち、きっぱりとした口調でいった。
「来るなら、きみも銃を持って来たまえ」
五、陰険なる攻略路
休息のない過激な行進のために、誰も彼も死ぬほど渇ききっていた。
三日目の夕方、一行は最初の地下水に行きあたった。
暗道の光沢のある橄欖石の側壁が、そこだけ花の萼のようなかたちに穿れ、その中にあふれるばかりの水をひっそりと湛えていた。水。
先頭に立っていたヤロスラフスキー博士が、最初にそれを発見した。
博士は、安全灯の光を差し向けながら、不思議なものにでも出っくわしたように、ぼんやりとそれを眺めていたが、やがてクルリと後ろを振りむくと、聞きとりにくい、嗄れたような低い声で、
「水だ!」とつぶやいた。「諸君、ここに水がある!」
しんねりとした沈黙が、これにこたえた。篁栄二郎の後ろにつづいていた五人の漁夫たちは、篁が立ちどまると、それにならってピタリと足をとめただけだった。
半裸体の群像。血のような汗の滴りがそれを浸している。長い惨苦の流刑のために、みじめに削りとられた鉛色の肉体のうえに、直接に山のような背嚢を背負い、シャツはひろげて、南洋の土人のように、腰へ巻きつけていた。
「水だ!」
どの顔も、感激の色も喜悦の徴もあらわさなかった。気が狂いそうな激しい飢渇。それは、いかなる苦難をも克服しようとする執拗な意力の下でガッチリと圧し殺されていた。六人の漁夫たちは、休めの姿勢で、飲んでもいいという博士の許可を、しずかに待っていた。
博士は、岩萼のそばへ跪いて掌で水を掬って飲んだ。すこしばかり硅素を含んだ氷のような水が、カラカラに燥ききった咽喉の奥に痛烈にしみとおっていった。
「大丈夫だ!」そして、手真似で、飲んでもいいという許可を与えた。
「しばらく休憩しよう」
博士は、経緯儀を取り出すと、手ばやく自分らのいる地点の観測に取りかかった。
六人の漁夫たちは、背嚢をおろすと、かわるがわる水を飲み、水筒をいっぱいにし、それから、側壁にもたれて坐った。誰ひとり寛いだような恰好はしていなかった。命令だから止むを得ずこんなふうにしているのだといったようなようすだった。六人の漁夫たちの面には、すさまじい緊張の色が圧しつけられ、ちょっとした身振りにも、なにか迫るような凄気が感じられた。
近くに罅隙があるらしく、湿気を帯びた風が、そっと皆のうえを吹き通っていった。
一行の前には、穹窿形の天井をもった地向暗斜道が、ゆるい傾斜を保ちながら、「石炭市」の横坑のようなおそるべき単調さで無限につづいていた。
ソヴィエト極東区。辺疆の苔原のなかに聳え立つロバトカ山の火口壁から、東経百四十度の線にそって南下し、カムチャッカ県の荒漠たる無人地と、波荒い鉛色のオホーツク海の下を横断して、南樺太の恵須取山の旧火口へ抜ける、千六粁 、約四百里の蜿蜒たる熔岩隧道!
かつて、なんぴとも想像だになし得なかった前人未踏の地底大秘道――。コペルニカスのいわゆる「地球の抜け穴」なのである!
それは、デンマークの小説家、Ludvig von Hollberg の「ニコラス・グリムの地下の旅」で空想されたような、軽石だらけの索漠陰惨な横穴でもなく、Paul Jannussen の「倫敦までの地底三カ月の旅」の中に誌されたような、金剛砂と熔岩塔の悲痛な原野でもなかった。たとえば、アラビヤの「ボッカ・キュイ宮」の壮麗な拱門のような、官能的な異様な美しさをもった穹窿形の洞道だった……。
天井までの高さは約六メートル。幅四メートル。胴張は全然なく、ドリヤふうの美しい楕円拱の内輪がそのままスラリと垂直に垂れさがって、ほとんど平坦な洞底に接している。
塩基性輝石安山岩の岩側は、数千万年の風湿のために研磨されて艶々《つやつや》とした滑肌になり、黒曜石のようなどっしりとした深みのある光沢を持っていた。罅隙から吹きこむ冷洌な風が、密度の低い洞中の空気に逢って急激な断熱冷却をおこし、なめらかな漆黒の岩側に無数の水玉をむすび、安全燈の光があたるごとに、微妙な閃光を発しながら眼もあやに燦きわたる。鏡のような両側の壁は、たがいにその光を反映し、はねかえし、それがまた天井の内輪へ照りかえって、洞道全体が、赫奕たる光の氾濫の中へ溺没する。やや遠い、よく光のとどかないところでは、高いところの水滴が宝石でもこぼすように、何ひとつ物音のない無限の静寂の中へキラキラとしたたり落ちていた。
いまだ、いかなる生物も足を踏み入れたことのない地球の胎内。死界。永遠の闇と夜。おそるべき寂寞。無窮の倦怠。……それは、生成第四期における地球の状態を物語りながら、しずかに死滅した輪廓を燦めかせていた。有史以前の壮大な抒情感。
しかし、洞道のこの異様な美しさも、七人の一行にはなんの感じも惹きおこし得ないようだった。六人の漁夫たちは、博士が日誌を書きおえると、待ちかねたように背嚢を背に負い博士を先頭にして、飛ぶような歩調で、また無辺際空の暗斜道を走りおりはじめた。
四百里の、この破天荒な地底旅行の前途に横たわる予期せられざるさまざまな危険と困難のほかに、一行の背後にいま恐るべき死の手が追いせまっていた。ペターセン自動小銃を持った十人ないし二十人の兇悪なる追跡者が、刻々に彼我の距離をちぢめていたのである。
この七人の一行は、一梃の銃器も身につけていなかった。ここで彼らに追いつめられたら、なんの抵抗もなし得ずに犬のように射ち殺されてしまわなければならない。
事態はきわめて険悪だった。一分の猶予もゆるされない。この三日の間、七人は三時間ほどの睡眠と、一日二回、各十分の小休止のほか、小休みもなく疾走をつづけて来た。
博士の脱走。その裏切と内通は、直接に学術探検隊一同の生命の危機を意味していた。
「北緯六十二度三十分における学術研究」の秘密目的。――戦慄すべきその意図の全貌と、探検隊のサボタージュの事実が、博士や六人の漁夫たちの口から曝露されたら、「トロツキスト・ブロック」の一系列と認定され、反革命陰謀を遂行したという名目で、否応なしに銃殺されてしまわなくてはならない。
探検隊の一行は、突然、このうえもない危険な境遇へおしやられることになった。暗道の中で七人を追いつめて、全部射殺してしまう以外に、この悪運から遁れる途はなかった。
ヤロスラフスキー博士は、モローゾフ教授の冷徹なやり方を熟知している。
モローゾフ教授は、自分らのサボタージュを掩蔽し、一同を無事安全に、静かな庭にかこまれたモスクワ大学の研究室へかえすために、すでに、四つの冷酷な殺人を行なっている。シルーキン教授。それから、「第二十七流刑管区」の三人の看守。
モローゾフ教授は博士の脱走を発見すると、時を移さずに追撃隊を組織して辛辣な追及を開始したのに相違なかった。
身軽な「死の追手」は、刻々に距離をちぢめている。それに備えて、大安山岩壁の口に構築しておいたバリケードを破壊する時間だけが、追跡者の側のわずかなハンディになっている。しかし、博士の計算によれば、それも、三日以内に取りもどすことができるはずだった。
その三日目の夜が来た。死の跫音は七人のすぐうしろに聞こえていた……。
七人を死滅させても、絶対に掩秘しなければならない「学術研究の秘密目的」とは、そもそも、どんなものであろう?
それには、日本の国防にゆゆしい脅威を与える、恐るべき企図が隠されてあったのである。
ソヴィエト連邦政府は、ヤロスラフスキー博士の「ロバトカ=恵須取の地底道」が実証されたら、日本海軍に対する在来の作戦基地たるウラジオストックの軍備強化を放棄し、トルク・シブ鉄道の建設技術員と土木労働者をスタノヴォイに大量移動して地底道の大仕掛な掘鑿工事を行ない、世界の歴史はじまって以来、かつて、いかなる国家も企図したことのなかった破天荒な、「地底の攻略路」によって、いっきょに日本の北辺を衝かんとする陰険辛辣なる重大作戦計画を案出した。
モスクワの科学アカデミー地質学部長イヴァン・ヤロスラフスキー博士が一九二九年以来、コムアカデミーを通じて熱心に申請した「ロバトカ山の熔岩隧道調査」が、一九三七年にいたって突然承認されたのは、右に述べたような驚嘆すべき理由によるのだった。
この企案は、企劃・軍部・建設・地理・交通の各技術委員を網羅した全同盟科学研究計画会秘密会において、細部にわたって厳密に討議研究され、前代未聞の作戦計画が決定された。
この恐怖すべき攻略路が完成した暁には、ソ連邦は日本帝国に対して、次のような広汎な軍事的優越をもつことになる。
第一、優勢なる日本海軍の万力による日本海上の閉出し、ならびにソヴィエト海軍基地ウラジオストック封鎖の裏をかき、日本領土内に兵器・兵員・食糧の輸送にたいする無限の自由性・安全性をもち得ること。
第二、ウラジオストック放棄、ならびに日領樺太におけるソ連空軍基地の進出による日本海・空軍の戦略の全般的攪乱。
第三、カムチャッカ作戦基地よりするスピーディな水上・潜水巡洋艦と、アムール河上ニコライエフスク作戦基地の航空巡洋艦の活動は、日本海軍の作戦に並行して、自国沿岸防備以外の、日本沿岸封鎖の重要作戦をとり得ること。
地底旅行開始の前夜、調査隊の一同が、第二天幕で送別晩餐会のしたくに忙殺されているすきに、博士は、自分の天幕に篁を呼び入れ、この探検の真の目的と、六人にたいする探検隊の無慈悲な策計を手短かに話し、自分の生命の保全のためではなく、自分の研究の結果を目睹するために、探検隊を脱走して六人と行動をともにしたいと申し出た。
それは、容易ならぬ危険を意味していた。
熔岩隧道の口は大きな安山岩盤で塞がれている。追跡者が追いつくまでにそれを破壊することができなければ、そこで一人残らず惨殺されてしまわなければならない。
篁は、眉も動かさずに博士の話をきいていた。一分ほど考えてから、すぐ返事をした。
「いらしてくだせえ。あンたのために死ぬんだば、皆も嫌だとはいわねえすべ」
あの夜、六人の漁夫たちが、匆々《そうそう》に天幕へ引きとって早寝してしまったのは、探検隊の一同が酔い痴れているすきに、火口壁の暗道の中へ、手動鑿岩機と博士の観測機械類をひそかに運び入れておくためだった。
探検隊の一行に見送られて暗斜道へ入ると、一同は飛ぶようにして安山岩盤のところへ走って行った。
周囲の岩側の変朽のために、見上げるような大きな輝石安山岩が、暗道の真中に落下してきて、ガッチリと行く途を塞いでいた。
真夜中ごろ、博士が天幕から脱走して来るとして、それまでに、わずか十二、三時間の時間しかなかった。その短い時間のあいだに、鋼鉄のような弾力をもったこの大岩盤に、どうして穴を穿つか? ほとんど見込が立たなかった。
六人のうちの亀井という漁夫が、須田と額を集めて何か相談していたが、とつぜん、
「ンだば、それでやって見るか。うまく行くかもしれねど!」
と叫ぶと、鑿岩機をかかえて安山岩盤の頂天まで登って行き、天井の集塊岩と接触しているところへ孔をあけはじめた。最初に頂点から掘りはじめ、次に中脊打、土平落しと下のほうへ掘り下げてくる日本式のトンネル掘鑿の方法だった。
六人の漁夫の前身は、色とりどりだった。鯨の銛打ち、土工、剥皮夫、導坑師、猟師、船大工。……導坑師の亀井金太郎と土工の須田松吉の前身が、このきわどい時に役に立ったのだった。探検の学者連が十カ月もかかって成功しなかったのを、二人でわずか十時間ばかりで鳧をつけてしまった。
博士がやって来た時には、岩盤の頂上に、どうにか人が通れるくらいの穴があいていた。
それから、また二時間。皆がかりで※ 《ずり》を集めてその通路を塞ぎおえると、奇異な大地底旅行の最初の一歩を踏み出した。
六、「嘆きの河」
「第八観測点 bis.(午後三時〇分)経緯儀による方位角。北緯六十二度二十一分、東経百四十度226mt. 羅盤方位 SE60°nt. 測距計、九〇・三粁。温度三一・六。深度一二七メートル?――いぜんとして、塩基性玄武岩輝石安山岩および橄欖石。増温率四四・七……」
第六日 (六月二十五日)
可能の限界において、海底ならば、どれほど深く沈んでも、皮膚が太陽の微光を受けることができる。が、この地球の胎内では、われわれの官能は、日光のいかなる 〔de'bris〕《デブリ》 をも感じることができない。
今日で、もう六日の間、何の変化もない単調な暗斜道の、永劫の闇の中を歩きまわっている。
どこまで行っても、同じようなアーチ形の天井の輝石安山岩の側壁。進んでいるのではなくて、同じところをグルグル廻っているのにすぎないというような奇妙な錯覚におそわれる。耐えがたい倦怠と激しい焦燥感が、意志の力を草の葉のように揉み砕く。たしかに前へ進んでるのだと自分にいってきかせるには、超人間的な意力を奮いおこす必要があった。今日は三度も観測を繰返した。経緯儀と測距計だけが、われわれの進行を保障してくれる。第七観測点の八八・三に比べると、われわれは、さらに二キロだけ日本のほうに近づいたことがわかる。
われわれの前進を、精密な科学機械が証明する。それを信じるいっぽう、地底の異常な圧力や磁気力が、経緯儀や測距計を狂わしかけているのではないかという懐疑からのがれることがむずかしかった。追跡者は、今日もまだ追いついて来ない。自分の計算では、すくなくとも三日前の夕方に追いつくべきはずであった。いったい、何をしているのだろう。彼等の間に何が起ったというのだろう。彼等の到着は、ただちにわれわれの死を意味するにかかわらず、来たるべきものが来ないという当外れ が私を苛立たせる。
第七日 (六月二十六日)
追跡者は、今日も追いついて来ない。
今日にいたって、私はその理由を発見した。
追跡者の中にナターシャ・イワーノヴナが混っている。
彼等が最初のハンデキャップを取り返せないのはそのためである。しかし、それには限度があろう。ナターシャのためにわれわれに追いつくことができないのだということになると、モローゾフ教授は、ナターシャを抛棄して活発な追跡をはじめるであろうから、われわれは追跡者の速度に関する算出の基礎を変えるわけにはゆかない。今日の午後、洞道の側壁にジュラ紀の蘇鉄類 Pothoxamites《ポトザミテス》 と松柏類 Forthia《フォルチャ》 の熔岩樹型を発見した。
この熔岩隧道へ入ってから、八日目に、はじめて生物らしいものに遭遇したわけである。
一千万年前の蘇鉄と柏の凹鋳型彫。私は異常な感激をもってそれを眺めた。
これらは、われわれを慰安してくれたばかりでなく、このおそるべき単調な旅行に何かの変化が起りかけていることを漠然と示唆してくれた。
一キロほど進むと、われわれの行く途に、なんともつかぬぼんやりとした微光が漂っているのを認めた。月光のような蒼白さではなく、霧のような乳白色でもない。たとえば、緑柱玉の輝きを紗を透してながめたような、淡いあわい海緑色の、それ自体、冷涼たる輝きをもった……ヤヌッセンが 〔Be'ryl〕《ベリイル》 と呼んでいるある異様な微光だった。六人の漁夫たちは、しばらくの間、ものもいわずにそれを眺めていたが、やがて、いっせいに、お祈りする時のような敬虔なようすで跪いて両手を合わせた。
じじつ、それは現世の感覚を超越した、浄土の寂光ともいえるような瞑想的な感じをもっていた。
われわれは微光に向って歩き出した。
洞道は、その辺からゆるいカーブを描きながら曲りはじめた。およそ、百二十メートルも歩いたと思うころ、われわれの眼前に、突然、異様な光景が現出した。
眼界は広々と展け、深い谷を越えたはるか向うに、氷河のような色をした断崖が、夢のように白々と聳え立っていた! この八日のあいだ、われわれを導いて来た暗道は、なんの前ぶれもなく、唐突に硝子のようななめらかな急傾斜で底も見えぬ無限の暗黒の中へ逆落しになり、丸木橋のような細い岩橋でわずかに向うの断崖へつづいている。
すさまじい形相で黒い口を開けている千仭の谷の上に、美しい弧を描きながら、白い虹のように、はるばると架け渡っている。
あたりは、しんと静まりかえり、なんとも名状しがたい透明な淡緑の微光が、月の世界のような草一本、苔ひとつない冷涼たる風景の中を満していた。岩橋も、斜面も、はるか向うの断崖も、すべての物象はたがいにぼんやりとした影を投げ合いながら、碧玉髄のように玲瓏と輝きわたり、同じような色の模糊たる空間の中へ溶け込んでいる。
この突然な断層、――「熔岩メーサ」は、氷河の作用によってひき起されたものだった。
そのころの地球は、すでに風化し、傷みやすくなっていた。電光や雪崩や暴風や急湍が仕残した仕事を氷河が完成した。ただ一つの岩橋を残して暗道の胴中をすっかり持って行ってしまったのである。
第九日 (六月二十八日)
昨夜、おそくまで凝議した結果、向う側の断崖の側面に口をあけている暗道までたどりつくには、ナイフの刃のような、この危険な虹の橋を渡るほかに方法がないということになった。こちらの急斜面には足場になるようないかなる割目も凸起もないからである。以前山案内人の経験をもつ山口が先頭に立った。われわれの胴中をロープで結びあわして導いていった。彼は相当うまくやった。ところが、また困ったことが起きた。命の綱とたのむ岩の橋に大きな亀裂が入って空中で断ち切れていることだった。その間隔は少なくも六フィートはあった。われわれは、すぐ眼の前に向うの暗道の口を見ながら、進むこともしりぞくこともできないことになってしまった。
六フィートの空間の向うは、やや広い平面をもった鞍部の突端で、その上に大きな岩塊がひとつ載っていた。山口は、橋の端に腹ばいになっていたが、まもなく、身体をおこして馬のりになると、われわれの方へ振りむいて、ニヤッと笑ってみせた。われわれは、それを、彼がこれから必死な試みをしようとしているという意味にとった。彼は橋の突端に立ち上ると、ひと跳躍で向うの鞍部へ飛び、その岩に獅噛みついた。その途端、あっけなく岩が揺ぎだした。アッというまもなかった。山口は岩を抱いたまま、底知れぬ無限の谷底へ真逆落しに墜ちていった。
第二十二日 (七月十一日)
「第二十七観測点。(午後四時二十分)観測ナシ」
あの不幸な朝、同行者の一人とともに、経緯儀や測距計などの重要な計器を納めてあった背嚢を、酷薄な谷が呑み込んでしまった。もちろん、だれの過失でもない。あの戦慄すべき放れ業を演じおえるために、背嚢は当然犠牲にしなければならなかった。食糧が入ったほうが残らず助かったのは幸いだった。もしそうでなかったら! それから八十日の旅行を、どんなふうにしつづけようというのだ。
こういう事情のために、正確な調査や観測によって、歩度を進めて行くことができなくなった。私の時計の鎖についている小さな磁石を頼りに、これからの困難な旅行を続けなくてはならぬ。七日前に、ついに、塩基性輝石安山岩の暗道が終りをつげ、われわれは、地球の胎内の暗い深い谷間を彷徨することになった。
一八八〇年に、露西亜の地質学者イノストランツェフがオレネツ地方で発見した、中期原生代のシュンガ石や、妙な噴出物が、あらゆる怪奇な形をして、伸び上ったり、聳え立ったりしている、ダンテの「神曲」の地獄篇の、死の谷のような風貌をした悲痛陰惨な地隙の底である。斧でけずりとったような四角四面な熔岩台。大蛇がよじれあっているような縄状熔岩。それからさまざまな形をした熔岩の針。――サボテンのような、トーテム・ポールのような、麒麟の首のような、こういう異様な羅列が、中期原生代の赤錆色の湧出物でおおわれた不気味な谷間の中にヒョイヒョイと立っている。この谷間には、例の微光はなく、そのかわりに、瘴気のような薄い霧が仄暗く立ち迷い、驚くほど高い地殻の罅隙(たぶん噴火口であろうと思われる)からくる黄昏のようなおぼろ気な光がぼんやりと遍満している。
谷は、向うのほうでおいおいに狭まって、その端に大きな洞門を持った五十フィートばかりの絶壁が聳え立ち、コールタールのような濃黒色の河が、ところどころに瀞をつくりながら暗い洞門の中へのろのろと流れ込んでいる。
「嘆きの河」――アマゾン河系のトカチンやマデーラ、オリノコ河の支流のルエランパゴーを流れる、西班牙語で Rio negro(黒い河)と呼ばれる特異な水質を持つそれと同一系列のものだということがわかった。「黒い河」には浮遊動物も魚類も絶対に棲息しない。鳥も蚊もその上は飛ばないのである。この黒檀色をした陰鬱な河。薄い霧。死滅した熔岩。悲しげな黄昏の色。カトリック教の「地獄」というのは、たぶん、こんな形容を持っているのであろう。われわれは、この奇異な熔岩柱の谷間へ追いつめられ、黒い河の流れにそって洞門の中へ入り込むほかに進行の方法がなくなった。
七、千万年前の沼
洞窟は進むにつれて広くなった。
朱や白や代赭や紫黒の、さまざまな熔岩流の層が、瑪瑙のような美しい縞目を見せ、その底を重油の流れのような黒い河が、のたりと動いている。それが、安全燈の光の加減で、紫がかった紺青になったり、深藍になったり、黒紺になったり、眼もあやに変化する。
プランクトンが棲んでいないので、水はガラスのように透きとおり、五十フィートほどの深い底で珊瑚のようなかたちの熔岩塊が、青い琅※ 《ろうかん》色をしてスクスクと直立しているのがはっきりと見える。
一行六人は、篁を先頭にして、帯のように細長い岩廊を黙々と進んで行った。流れは幾度もうねるので、三十フィート以上遠くを眺めることができない。いまにも行止りになるかという不安が、たえず一同を締めつけた。
そのうちに、おいおい天井が低くなってきて、流れが大きくカーヴしたと思うと、行く途に、ぼんやりと明るく洞口が見え出してきた。
異様な風景があった。
それは、ひろびろとした沼だった。原始混沌のような褐色の泥に取巻かれた沈鬱な沼。見渡すかぎり草らしいものもなく、ただ一本、貝殻ででき上ったような奇妙な幹をもった蘇鉄に似た樹が、二十フィートほどの高さで、沼の岸に直立している。
捕捉しがたい乳白色が、漠々と沼の上を蔽っていた。地上の空ではない。地底の国の模糊たる天蓋。想像を超えた、高いたかい地殻の裏側が、ここで曇日のような曖昧な空をつくっているのだった。
うち沈む灰色の死の沼。悼ましい混沌の泥洲。その岸の孤独な蘇鉄。
洞窟や、古沼や、孤島や、断崖などの奇異悲壮な風景をかくサルヴァトル・ローザも、これほど悲哀に満ちた風景は描き得なかったであろう。一瞥するだけで、限りない憂愁の情にとらえられるような傷ましい風景だった。
博士と五人の漁夫たちは、沼の岸に腰をおろして少憩した。磁石の針の示すところでは、この岸にそって行進をつづければいいのらしかった。この三十五日間、絶えて変化のない一同の食糧だった乾麺麭と燻製の鰊を取り出して単調な朝の食事を始めた。一同の面には疲労の色が濃くあらわれていたが、みな元気だった。
突然、六人の頭の上で、金属でもきしるようなキーッ、キーッという鋭い鳴き声がきこえ、頭に三角形の鶏冠のある、竜舌蘭の葉のようなヒョロリと長い奇妙な翼をもった灰褐色の鳥が、糸の切れた凧のように沼の上に逆落しに落ちてきて、水面とすれすれのところで鱶のような鋭い歯の植わった嘴をあけて、もう一度、キーッと鳴くと、ギクシャクと電光形に空間を縫いながら、また空へ舞い上って行った。
翼手竜!
一千万年前、剣竜や雷竜などという巨大な爬虫獣が前世界を横行していたころ、中生代の空をわがもの顔に飛びまわっていた、あの翼手竜!
ところで、つづいて、また別なやつがやって来た。
濡れた布を強く振るような、ハタハタという音が高いところで聞こえ、蝙蝠に鵜の顎をくっつけたような怪異な形をした真黒なものが、大きな煤でも落ちて来るようにヒラヒラと舞いおりて来て、蘇鉄の枝にぶらりとぶら下った。
それは、蝙蝠竜だった!
……そのころ、地球は、テチスという大海をへだてて、その南にアンガラ、北にゴンドワナという二つの大陸があるだけだった。三畳紀の終りごろから、そろそろと火山活動がはじまり、白亜紀の末期になると、天地をくつがえすような天変地異がやって来た。たえまない大地震と大噴火。ものすごい地盤の昇降。陥没と隆起。大海嘯。大海侵。大陸が一夜のうちに海になり、海の中から忽然と大陸が現出する。地殻の大変動と大変貌。そして、地球上を横行していた巨大な爬虫獣から海中に棲む貝類にいたるまで、一つ残らずことごとく絶滅してしまった。その後で、天地創造がふたたび繰返され、新世界、すなわち、新生代がはじまった。
それから、もう九百万年! ……その飛竜類がいまだに生存をつづけ、こんなところで飛びまわっている。……想像にも空想にも絶した驚異な事実で、現在、眼で見ながら、これが事実だとはどうしても信じられないのだった。
博士は、眩暈のするような自失状態の中で、意識を霞ませているうちに、沼の真中ほどのところが急にザワザワと波立ちはじめ、白い水煙が虹のように空ざまに立ちのぼったと思うと、凄まじい噴流の間から大木の幹のようなものがヌーッと現われてきた。
一瞥には、それは、大きな海蛇のようなものだった。キラキラと光る眼をもった大錦蛇のようなものは、みるみるうちにスルスルと二十フィートも伸び出し、ややしばらくの間、水面から二、三尺ばかり上のところでクネクネとくねり廻っていたが、そのうちに、今度は、中洲のようになった浅瀬の上へ、濃灰色の、小山のような厖大なものが※ 然とのしあがって来た。
「おーッ!」
という驚異の叫びが、期せずして一同の口から迸った。
なんという怪偉!
それは、大蛇のような長い頸を持った、象の五十倍もあろうと思われる巨大な四足獣だった。沼の上を這いまわっている頸の長さだけでも三十フィート以上。背中は蘇鉄の二倍ぐらいの高さのところにあって、その後に、さらに二た抱えほどもある太い尾を、長々と四十フィートも曳いていた。沼の底が隆起して、濃灰色の島が突然押し上げられたかと思われるような、形容に絶した壮大な景観だった。
博士は、長いあいだ茫然と眼を瞠っていたが、やがて、唐突に、
「ブロントサウルス」
と、絶叫した。地球が生んだ最も巨大な動物だとされているジュラ紀の大爬虫獣。雷竜!
前世界とともに、まったく絶滅してしまった雷竜が、わずかばかりの沼の水を隔てた、すぐ眼の前の浅瀬で、丘がゆらぐようにのそのそと動きまわっている。
博士と五人の漁夫は、中生代の沼のほとりに佇んで、現在、おのれの眼で一千万年前の大爬虫獣の生態を目撃している! あろうとも信じられぬ奇絶な境遇だった。
ジュラ紀の世界! 黙示録が、詩的な名称で比喩した「地底の獣国」の中へ、知らずしらずまぎれ込んで来たのだった!
博士は、恍惚たる眼差でこの巨獣を眺めつくすと、何ともつかぬ深い嘆声を上げながら蘇鉄のそばまで行って、掌でその幹に触れた。
それは、古生代三畳紀のレーチック植物といわれるものの一種で、そのころ、羊歯や木賊などとともに地球の全表面をおおっていた Nilsonia《ニルソニア》 という蘇鉄である。博士の掌は、いま、じかに千万年前の植物の肌に触れている!
「呼吸がつまる!」
すすり泣くような声で呟くと、博士は両手で白髪の頭をかかえて蘇鉄の根元へしゃがみ込んでしまった。
自然科学者として、古生物学と地質学を専攻する数多い学者たちのうちで、かつて、なんぴとも出遭うことのできなかった至幸至福な境遇の中で、博士は、感きわまって、昏睡しかけているのらしかった。
博士は、つい、いましがた通りぬけてきた洞窟の中のジュラ系が、逆倒層になり、片麻岩が厚くその上をおおっているのを認めた。それを以ても、その辺の地殻変動がどんな激烈なものだったかが、容易に想像できる。いま自分らのいる、シベリヤのツルノニア圏と呼ばれる陸成層の一部は、その際、爬虫獣と爬虫鳥と古代鱗木をのせたまま、地底深く陥没し、その上を厚い片麻岩の地殻で蔽われてしまった。こういう事情によって、これらの爬虫類は絶滅をまぬがれ、依然として、千万年前のままの生活をつづけていたのだった。
もちろん、五人の漁夫たちは、博士ほどの深甚な感動は持ち得なかった。が、それにしても、あまりに奇異な景観に、誰も彼も魂をうばわれ、乾麺麭を手に持ったまま、喰べることも忘れて、茫然と眺めいっていた。
むかし、銛師だった、めっかちの北原省三が、感にたえたような声で、叫び出した。
「でっけえなァ! あれァ、象だべか、鯨だべか。……銛打って見てえもンな。あれさ、銛打ったば、どんな気持するべ!」
ここに手馴れた銛がないのを嘆くように、無念そうに足ずりするのだった。
そのようすが、いかにも可笑しいので、みなが、ドッといっせいに笑い出した。
博士は、その声で、夢から醒まされたように顔を上げると五人のほうへ戻って来て、黙々と食事のつづきにとりかかった。機械的に口へ食物を持って行くだけで、眼は灼きつくように雷竜のほうへ注がれている。
亀井が、大きな傷痕のある眉間を、突き出すようにして、博士にたずねた。
「先生さま、あれァ、いってえ何という獣なんです」
博士の返事は、たいへん素っ気ないものだった。自分の感動を邪魔されるのを厭うように、ちょっと眉を顰めると、
「あれは、大昔に生きていた動物だ」
と、ぶっきら棒に答えた。それっきりだった。
「へえ。そいで、あいつは、悪さをしませんのですか。あんなやつにやられたら、ひとったまりもありませんからねえ」
「あれは、草を喰うやつだから、人には害をしないが、あれがもし、恐竜という肉食するやつだったらたいへんだ。われわれは、ひとりだって助かりはしない」
そして、もう何も話しかけてくれるな、というふうに手を振って見せた。
雷竜は長大な頸を振りながら、浅瀬の上を歩きまわっていたが、そのうちに、足のほうからズブズブと沼の中へ入り、水の上に頸だけ出しながら、向うの岸のほうへ歩いて行ってしまった。
食事がすんで、いよいよ出発という時になって、清水岩吉が、この蘇鉄の樹で刳舟を作って、舟で行ったらどうだろうという意見を持ち出した。時間の経済にもなるし、陸にいる何やらという獣の難を避けることもできる。皆がかりでやれば、三日もあれば立派な刳舟ができるから、と、いうのだった。神風丸の二等運転手で、造船の心得もある清水としては、いかにもふさわしい意見だった。須田が口をはさんだ。
「ンだども、こんなとこで、三日もまごまごしてたら、追っ手に追いつかれる」
清水が意見を吐いている間、皆が心で感じていたことだった。
清水は、頷いてから、
「そのこたァ、俺だって考えねいわけじゃねい。だが、今日でもう三十五日になる。追いつくものなら、もっと早く追いついてるはずだと思うんだ。俺ァ、多寡をくくるンじゃねえが、今まで追いつかなかったものが、この三日の間に急に追いついて来るとは思われねえ。それに、もうひとつは、おらたちが刳舟にしてこの木を持ってってしまうと、やつらは嫌でも陸を大廻りしてやって来なくちゃならねえ。こちらはドンドン舟で行くのに、やつらはテクテク陸を歩いて来るとなれァ、この先、今にも追いつかれるとビクビクすることァいらなくなるわけだ。どうだろう、乗るか反るか、ひとつ三日を賭けてみべえじゃねえか」
うまくゆけば、この先、追手に追いすがられる心配がなくなる。犬のように撃ち殺されるという惨めな運命から解放される。これが、他の三人の心を動かした。みないっせいに篁の顔を眺めて、その裁断を待った。
どんな場合でも、漁場監督の篁の意見によって行動することがカムチャッカの漁場以来、一行の不文律になっていた。博士も、篁がどんな返事をするかと思って、その顔を見まもっていた。博士も清水の意見に賛成だった。舟で行くと、また別の爬虫獣を見られるかもしれないと思ったからである。
篁は、太い眉のあたりを緊張させ、物を考えるときにいつもする腕あぐらを組みながら、一分ばかり考えていたが、やがて、たったひと言、
「よし、やるべ!」
と、いった。
一同は、一度背負いかけた背嚢をまたおろすと、腰に差していた手斧を抜き取って、蘇鉄の根元に斧を入れはじめた。用心のために、土工の須田が洞門の出口で張番する役にまわった。洞窟の中でチラッとでも安全燈の光が見えたら、馳けて来て急を告げる約束だった。
蘇鉄は、石のように硬かったが、それでも、日暮まえにとうとう伐りたおしてしまった。一同は、清水の指揮に従って、刳りやすくするために、蘇鉄の幹の上に小枝を山のように積み上げ、それに火をつけた。
もう日暮も近く、沼の上は、灰白色からぼんやりとした薄墨色にかわって来た。
突然、十間ほど後ろの洞門の方で、鋭い二発の銃声がした。ぎゃーッ、という須田の血死期の絶叫が聞こえ、ちょっと間をおいて、白いひと塊りの煙が、スーッと洞門から流れ出して来た。
いっせいに棒立ちになった。
死の追跡者が、とうとう追いついて来た。
博士は地面の上にそっと斧をおくと、蒼ざめた唇を動かして、
「やって来た!」
と、呟いた。
漁夫たちの顔の上には、さして恐怖の翳はなく、そのかわり、甘く見すぎたという苦々しい後悔の色が浮かんでいた。篁だけは、観念したような顔で蘇鉄の幹に腰をかけ、立ち上ろうともしなかった。
洞門の闇の中から、冷徹な面持をしたモローゾフ教授が現われて来た。手の中にペターセン六連発の大きな自動拳銃を握っていた。その後ろから、革の半外套に革のゲートルをつけたナターシャ・イワーノヴナが出て来た。
モローゾフ教授と、ナターシャの二人きり。その後ろに続くものはなかった。これがまず、五人に意外な思いをさせた。それに、どちらも、五人が想像していたような剽悍な装備はしていなかった。自動小銃も持っていなければ、弾帯もつけていない。教授の手に一梃の拳銃があるだけだった。
例のとおり、非人情、冷酷な眼つきをしているが、見るからに憐れを催すほどひどく憔悴し、シャツもズボンもズタズタに裂け、ところどころに、とっぷりと血の斑をつけていた。
ナターシャのほうは、もっとひどかった。外套の衿元は無慙にひき裂け、じかに露われた白い肩のところに、獣の爪にでも※ 《むし》られたような、ゾッとするような傷がついていて、そこから生々しい血が竪に筋をひいていた。
教授は、一同から二十フィートほど離れたところに立ちどまって、感情の翳のささない、一種沈鬱な眼差で、ゆっくりと、ひとりひとりの顔を眺めはじめた。
二人の惨めなようすを目撃したとき、一同の心には、咄嗟のうちに、期せずして同じような作戦ができ上っていた。多寡が拳銃一梃。もうすこし近寄って来やがったら、誰か一人ぶっ喰らわされているうちに、皆がかりで殺っつけてしまう。
ところが、冷静な教授の頭脳には、防衛と攻撃の両全の法に対する緻密な距離の計算ができ上っていた。ちょうど二十フィートほどのところに立ちどまって、そこから一歩も進もうとはしなかった。
教授は、ソロソロと銃口を上げて行って、まともに篁の胸を狙いはじめた。
いよいよ、最後の瞬間が来た。三十五日のひどい苦労も、これで虻蜂とらずになる。ただ、流刑地の三角洲から百五十里ほど日本に近いところで死ねるということだけが皆の慰めだった。
曳金にかかった教授の指が、ピクッと痙攣した。篁は、大きな眼玉をギョロつかせてそれを眺めながら、日本語で、三人だけに聞えるように囁いた。
「野郎のピストルには、弾丸が四発しかねえのだから、一発で一人ずつ殺ったとしても、誰か一人残るわけだ。残ったやつは、あの野郎と女を殺めて、どんなことがあっても、日本まで帰れよ」
三人は、うん、と頷いた。
それにしても、誰が残るだろう? 博士か? ……博士に対する教授の憎しみの感情だけでも、とても博士を生かしてはおくまい。とすると、四人のうちの誰かが生き残るわけになる。
弾丸は飛び出さずに、そのかわりに、教授が、鋭い声で命令した。
「縦隊をつくれ!……後ろのやつは、前のやつの肩へ両手を掛けろ」
一同は、命令に従って、縦列をつくった。先頭が、博士だった。教授はつづいて、第三の命令を発した。
「そのままで、沼の方へ後退!」
一同は、後退りに一歩ずつ沼の方へ退りはじめた。
何という緻密な頭脳。教授は、殺戮に対する自分の側の不備をちゃんと知っていた。ところで、漁夫のほうも教授がこれから何をしようとしているのか、すぐ察してしまった。弾丸が一発足りないので、五人を泥洲の中へ沈めて殺そうとしているのだ。
留吉という若い漁場見習を引きずって、自分からコリマの泥洲へ沈んでしまった不幸な仲間のことが思い出された。あいつのほうが、俺たちより利巧だった。亀井が、
「ふふん」
と、笑った。その心がすぐ、みなに通じた。後退りをしながら、他の三人もクスクスと笑い出した。
第三の命令が来た。
「止れ! ……ヤロスラフスキー博士、あなただけ一人でこっちへやって来てください」
博士は、列から離れて、一種毅然たるようすで教授のほうへ歩いて行った。もう蒼ざめた顔はしていなかった。
今まで、泥の上に腰をおろしてジロジロと成行を観察していたナターシャが突然立ち上って、博士のほうへ近づいていった。狂信者のような不気味な眼つきで博士を睨みつけながら、
「裏切者!」
と叫ぶと、平手で力まかせに頬を打ちすえた。博士は、ヨロヨロとよろめいた。
「破廉恥漢! 利己主義者! 犬!」
ナターシャの激昂がおさまるのを待って、教授がしずかにいった。
「博士、私は意見を変えたんですよ。恵須取山の旧火口から日本を一瞥する時まで、あなたとあいつらの処刑を延期するつもりなのです。あなたは、私とナターシャが、これから快適な旅行が続けられるように、あいつらと協力してください。……驚嘆すべき「地底の獣国」の発見の名誉が、あなたのものにならないのははなはだ遺憾ですが、それも、自業自得。私がここへ来る動機を作ったのは、あなたなんですからねえ、博士……」
八、「迦摩の閨房」
刳舟は、死んだように、小波ひとつ立てないとろりとした沼の面を辷って行った。
沼の涯は模糊として霞み、天蓋の乳白色が沼の面に反映して同じ色でひろがっているので、ちょうど、空の中を進んでいるような気がする。
刳舟は三間以上もあり、七人がゆっくり坐れるほどの広さをもっていた。舳にはナターシャとモローゾフ教授が坐り、艫には、博士が坐を占めた。四人の漁夫は、一列になって刳舟の底へあぐらをかき、教授の拳銃の筒先の活殺自在な調整に従って、舟の速度と方向を変えてゆくのだった。
櫂の音に驚いて、長頸竜が駝鳥のような頸をひょっくり水の上に現わしたり、沼の浅いところで肺魚が泳いでいたりする。すると、教授はその方へ舳を向けさせ、丹念に観察したりスケッチをしたりする。時には、沼の上に半日も舟を停めて、長頸竜や翼手竜の生態を二十通りにも写生をする。ナターシャは、その間、拳銃を膝の上へおいて、囚人監視人の役目をつとめるのだった。
そんなわけで、三日目になっても、舟は沼の中ほどのところまでしか進まない。漕手はすっかり退屈して、かわるがわる居眠りをする。ただひとり、銛師の北原だけは、暇さえあれば、沼の岸でひろった硬い泥炭の塊でコツコツと銛を作っていた。どうしても雷竜に一矢をむくいるつもりらしかった。
七日目の朝になって、ようやく向う岸が見えるところまで近づいた。対岸には、異様な褶曲をもった高い丘がつづき、切り立った断面に洞門の黒い口が見え、沼の水が激しい水路をつくりながら、その中へ流れ込んでいる。沼の水面と洞底の間にはげしい落差があるらしく、とうとうと流れ落ちる水音が洞窟に反響して、遠くまで聞こえた。
運転手の清水が真っ先に気がついた。漕手を励まして、水路から抜け出そうと夢中になって漕ぎはじめたが、その時はもう遅かった。舟は、磁石に引かれる鉄片のように、艫に白い泡を噴きながら、えらい勢いで洞門の方へ走り出した。見るみるうちに向うの断崖が眼の前に迫ってきた。刳舟は、渦に乗って入口のところで急激に一度半回転し、ゴーッというものすごい音とともに真暗な洞門の中に引き込まれ、三十度ぐらいの角度で、真っ逆落しに落下しはじめた。
ちょうど、むかし、遊園池にあったウォーター・シュートのような具合だった。舟から跳ね出されなかったのが、むしろ不思議なくらいだった。ドタドタと舳の方へ将棋倒しになり、一塊りになって揉み合っただけで無事にすんだ。いちばん下にいた博士が、皆の下敷になってひどい目にあった。
洞門の入口でクルリと半回転したので、舟は艫のほうから先に落ちてゆく。従って、こういう、きわどい情況の中でも、教授は依然として五人を監視するのに都合のいい位置を占めることになった。揉み合いに鳧がつくと、片手で舷側を掴みながら、素早く後退りに後尾のほうへ上ってゆき、抜目なく拳銃を膝にひきつけた。ナターシャは安全燈の光を五人のほうへ差向け、これも油断なく監視をつづけるのだった。
三十分。永劫とも思われる長いながい三十分が経ったが、依然として、舟は落下をやめない。恐るべき無限の落下。暗黒の洞窟の中で、耳も聾するばかりのすさまじい水音が囂々《ごうごう》と轟きわたり、一同の聴覚を麻痺させる。
つづいて、異様な現象がはじまった。
舟の落下につれて、洞内の温度が急激に嵩まっていく。一時間の終りごろになると、誰も彼も汗みずくになって、犬のように舌を出してハアハアと喘ぎはじめた。少なくとも四十二、三度を超える暑さだった。
モローゾフ教授は、顎からポタポタと汗のしずくを垂らしながら、辛辣な諧謔を弄した。
「ねえ、博士。われわれは、今どろどろの岩漿帯の中へ落ち込もうとしているのですな。私が地獄の道連れなら、あなたも、さぞ、ご満足でしょう」
博士が、生真面目にはねかえした。
「岩漿帯の中へ流れ込む水流などあるはずはないから、そのうちに落下は終るでしょう」
教授は肩をピクンとさせると、やりきれないといった顔でおし黙ってしまった。
博士の予想どおりだった。それから十分ほどすると、だんだん落下の速度がのろくなり、大きな水のうねりに二、三度急激に押し上げられたと思うと、舟は洞門をくぐりぬけ、唐突に羊歯や木賊が参々《しんしん》と密生した仄暗い沼沢の中へ押出された。
鬱然たる亜熱帯の沼沢地。一同の眼前に、ボルネオの癘湿地のような遠景があった。
水は澱んでとろりと重く、動いているのがわからないくらいの流れにひかれて舟がしずかに進んで行く。
流れの岸には、奇妙なようすをした古生銀杏の細い枝や、白柏木の根茎が蛇のようにからみあって、不気味に水の上へ垂れさがり、白亜紀のブエンタタという木賊や網羊歯や、棕櫚羊歯が足も踏み込めぬほどに繁茂し、剣のような葉をもった胡留陀木の群が、踊でも踊っているような特有な姿で立っているのが遠くのほうに見えた。
ここもひどい暑さだった。大気はソヨとも動かず、その中に、嗅いだこともない、恍惚とするような不思議な香気がムッと重苦しく立ち罩めていた。羊歯の間には、直径七尺ほどもある、向日葵の化物のような真紅な蘇鉄花がいたるところで悪夢のような毒々しい花を開き、二尺もある大蜻蛉や、七宝細工のような絢爛たる燐光蝶が夢遊病にとりつかれたようにその上をフワフワととび廻っている。酔うような不思議な香気は、その花からやって来るのだった。この沼沢地全体が蘇鉄花の媚薬の瘴気に包み込まれ、愛の夢の中でうっとり昏睡している。……いったん、その中へ入り込んだら、玄妙な花の香りに陶酔して、そのまま眠るように死んでしまうという、印度のジャクダブール河の上流にある Camarayana《カーマラヤーナ》 ――「迦摩の閨房 」の陶酔境は、ちょうどこのようなものだろうと思われるのだった。
誰も彼も、汗になってとけてしまいそうだった。熱気はおそろしく高く、どんなに勇気を出しても、五分とはつづけて漕がれなかった。そのうえ、同じような羊歯の岸をもった流れが迷路のように右にも左にもあって、磁石を見ては幾度もはじめからやり直さなければならなかった。
モローゾフ教授は、ここでも自在に舟を停めさせて、花や羊歯に眼を近づけて熱心に観察したり写生をしたりした。鉛筆も手帳も取り上げられてしまった博士のほうは、眼の中へ書きつけておこうとでもするように、灼きつくような眼差でそれらを眺めていた。
そのうちに、水路はだんだん狭まって来て、はるか向うに緑色の木賊で蔽われた広い湿原がひらけ、その上で、四、五匹の大きな爬虫獣の群がさまよっていた。
博士は、急に手をあげて、舟を停めさせた。教授が、たずねた。
「どうしたというんです」
博士は、指で爬虫獣のほうを指した。
「危険だから……」
「あれは、剣竜でしょう。べつに危険なことはありますまい」
博士は、首を振った。
「信じがたいことだけれど、われわれは、もう、ジュラ紀にはいないのだ。白亜紀にいるのです。われわれをとりまいている網羊歯植物界が、はっきりとそれを証明している。従って、この沼沢地には、ジュラ紀の剣竜などはいない。白亜紀の肉食性の獰猛な種類、……禽竜とか恐竜とかがいるはずなのです。……向うの湿原でうろついているのは、たしかにそいつらだと思います」
「ここに、網羊歯があるというだけで? 地質時代の水陸の変遷や植物の移動などを考えに入れれば、こういう喰いちがいはむしろ自然でしょう。……六日前までジュラにいて、今日は白亜紀にいるというのは、どういう科学的な根拠によることなのです?」
「つまり、われわれは、この一時間ほどの間に、唐突にジュラ紀から白亜紀へ落下して来たという事実だけ。……それ以上の説明はつきません」
「一時間で、一千万年の落下! なんという幻想!」
そして、口をすぼめて、ほう、と冷笑した。しかし、無理に舟を進めようともしなかった。
磁針の指すところでは、どうしても湿原を横切って行進をつづけるほかはない。一同は、流れの中に舟を停めて、獣群が立去るのを辛抱強く待っていた。夕方近くになって、ようやくそれが動き出し、はるか向うの黒い蘇鉄の森の中へノソノソと入っていった。
櫂の音を忍ばせながら、そろそろと舟を進め、根茎が纏繞植物のように絡み合っている薄暗い岸に上陸し、篁を先頭にして縦隊をつくり、用心深く網羊歯の中を進んでいった。
モローゾフ教授とナターシャは、いつものとおり、五人から三十間ほど離れて後尾につづいた。
およそ、半露里ほど歩いたころ、五人のうしろで、突然、つんざくような恐怖の叫声が起った。
戦慄すべき出来事が起っていた!
一匹の巨大な恐竜が前肢を胸のところへ引き上げ、象牙のような反った太い尾をピンとうしろへ跳ねあげ、カンガルウのような格好で跳躍しながら、教授とナターシャを追いかけて来ていた!
恐竜! 爬虫獣中の暴君。惨忍な殺戮者。地球が生んだもっとも兇暴な動物だとされている恐竜!
体長はゆうに五十フィート以上あり、立上ったその頭は、三十フィートもある宇留陀木の頂からまだ上に出ていた。前肢には宮守のような蹼があり、後肢には偃月刀のような鋭い爪があった。
代赭色の大きな口をクワッと開け、七インチぐらいの、見るもすさまじい剣のような歯をむき出し、一跳躍に三間くらいずつ跳ねながら瞠然たる地響きを立てて二人の後ろに追い迫っている!
博士と四人の漁夫は、ひと塊りになって、ややしばらくの間惘然とそれを眺めていた。咄嗟に、何が始まりかけているのか理解することができなかった。が、まもなく、この湿原で自分等の生死を分けるような非常な出来事が起りかけているのだということを了解した。
ナターシャと教授だけの問題ではない。まごまごすると、ここで一人残らず殺されてしまわなければならない。万死に一生を得るには、こちらから攻勢に出て、ぜがひでも相手を斃してしまうほかはなかった。
教授とナターシャは、恐怖に顔を引きゆがめ、何か聞きとりにくい切れぎれな叫び声をあげながら、息も絶えだえに走りつづけている。しかし、一と飛びに三間ずつも跳ねてくる恐竜の歩度には敵わなかった。恐竜は、教授のすぐ後ろに迫っていた。
「ぎゃあーッ!」
赤ん坊の泣声のような鋭い悲鳴が、寂然たる中生代の湿原の中に響きわたった。
恐竜は、最後の一と跳躍をすると両手で教授を掴みとり、三十フィートもある高い胸のところに抱きあげた。蹼のついた、蘇鉄の葉のような異様な前肢の中で、みじめなくらいに小さな教授の手と足が、蠅のようにあわただしくもがき廻っている。その足の下で、ナターシャが気を失って倒れていた。
最初に飛び出したのは北原だった。長い柄のついた泥炭の銛を水平に肩の上に引きあげ、ギリシヤの投槍兵のような恰好で恐竜のほうへつき進んで行った。
猿のような顔を額ぎわまで紅潮させ、丹精して作りあげた銛が使えるのが嬉しくてたまらないといったふうに、顔中を笑皺だらけにしてニコニコと笑っていた。
「なアに、鯨と一つごっこだ。でッけえぐれえにおどろくけえ、阿呆!」
体当りでもするように恐竜にぶつかって行き、両後肢の間に突っ立つと、ふり仰ぎざま、右の眼をめがけて、発止と銛を打ちつけた。
銛は、綱にひかれるように真直ぐに上って行って、恐竜の眼の下にのぶかく突き刺さると、ブルンといちど柄を顫わせた。
恐竜は、ぐわッとものすごい悲鳴をあげ、胸に抱えていた教授を羊歯の上へ叩きつけると、巨大な口を開けて北原をくわえこみ、クルリと身をかえして鬱然たる暗い蘇鉄の森の中へ跳ねこんでいってしまった。
これが、気丈な北原の最後だった。
九、 ‘Ай《アイ》’ ――地底の海
断崖の下には、大海の波が押しかえし、巻きかえし、四時止むときなく轟くような音を立てている。海から上った灰色の霧が、屍衣のようにぼんやりと岩角へまといつき、あらゆる鋭角を曖昧にし、不気味な島のようすをいっそうミスチックなものにする。
周囲、十露里。断崖絶壁。島の中央には、ニコーデ型の火山が唐突に二千メートルも立ち上り、すさまじい火柱を空に噴き上げている。
怒濤の咆哮。風の号泣。海鳥の叫声。火を噴く山。それから、岩に獅噛みついたわずかばかりの羊歯と腕足類。そのほかに、何ひとつない、地底の海の、荒涼たる孤独の島。メンデルスゾオンの序曲「ヘルブリデス島」の寂寥哀感も、この前世界の孤島のそれに遠くおよばない。
ツルノニア圏の湿原で、恐竜に襲われた時から今日でもう二カ月になる。秋も、そろそろ終りかけている。あの時七人だった一行は、今は、たった四人になってしまった。私(モローゾフ教授)それから、三人の漁夫、――篁、清水、亀井。
ヤロスラフスキー博士は、今日から二週間前の朝、この島の断崖の下に棲んでいる長者貝の採集に出かけたきり夜になっても帰って来ない。次の朝、探しに出かけて見ると、右の手に長者貝をしっかりと握ったまま、西側の崖下に墜落して惨死をとげていた。執念。博士にふさわしい最後だった。
ナターシャは、これも同じころ、壊血病で死んでしまった。咽喉をやられ、最後の時には、もう、物をいうことができなくなっていた。血膿のたまった歯茎を指さしながら、
「あー、あー」
と、叫ぶだけだった。
われわれには、それが、どういう意味なのかすぐわかった。ナターシャは、自分の歯を日本の土(Nagasaki?)に埋めてくれと頼んでいるのだった。臨終の一週間ほど以前、彼女の自白によって、彼女がどういう目的で私に従って来たか、すでに知っていたからである。
彼女は、六人の漁夫の生命を庇護し、私の殺戮から救うためにやって来た。日本人だった彼女の母の血に対する敬意と郷愁。それが、主想だった。「熔岩メーサ」の岩橋を渡るとき、過失と見せかけて、二人の小銃と弾帯を谷底へ投げ落したのはそのためである。
彼女は成功した。沼のかたわらの洞門で、一人の犠牲者を出しただけで、あとの六人(博士も含めて)の命を私の殺戮から完全に救うことができた。なぜなら、あの時、私の拳銃の弾倉には、じつはもう、一発の弾丸も残っていなかったからである。
彼女は、母の血に対する儀礼をすますと、今度は、私の調査中、空の拳銃を握って、漁夫達の不意の反撃から、最後まで私を護ってくれた。ところで、この優秀な婦人青年隊士は、ソヴィエトではなく、日本の土の下で眠ることを欲した。母の土の下で。
漁夫の篁が、懇篤に頷くと、ナターシャは乏しい微笑をうかべ、咽喉をゴロゴロいわせながら死んでしまった。
われわれがこの地底の孤島に停滞してから、もう二十日になる。
ツルノニア圏の湿原を出てから、金剛砂とクワルツ土の広漠たる原野を彷徨したのち、ふたたび輝石安山岩の単調な暗道へ入り、七十六日目の朝、突然、この島の胴中へ出た。
怒濤に取包かれた、木一本ない不毛の岩島。どんな方法でこの海を渡ろうというのか! われわれは、あと二百キロというところで、完全に進行を阻まれてしまった。嘆声をあげながら鉛色の海を眺めるばかりだった。ヤヌッセンは、氷島の地底の大海に「喜ばしき海」と命名した。われわれは、嗟嘆の声をそのまま、この海を「 Ай! (鳴呼!)」と名づけることにした。
壊血病が皆を侵しかけている。食糧も尽きかけている。こういう状態で、もう一度スタノヴォイまで引きかえすことはとうてい不可能だった。博士も三人の漁夫も、この地底の島で死ぬことに覚悟をきめたらしく見えた。
われわれは、食糧の欠乏を補うために魚を釣ることを思いついた。鱈に似た魚がいくつも釣れてきた。ジュラ紀の古鱈科のエロニクティスというやつらしいという博士の意見だった。
一千万年前の鱈! われわれは、それを貪り喰った。
次の日、清水と亀井が軟足類の奇妙な貝を拾って来た。見ると、それは、石炭紀のあの貴重なプレウロトマリアだった。生きている長者貝! これが、博士を夢中にした。狂気したように、西側の断崖の方へ駆けて行ったが、それっきり帰って来なかった。
海鳩の卵と古鱈の常食が、われわれの壊血病に拍車をかける。今朝、突然亀井が失語してしまった。ようするに遅速の問題である。早晩、同じ運命が他の三人をも襲うことになろう。希望のない生活がつづく。死が徐々にやってくる。ああ、太陽! まもなく、われわれはあのなつかしい光も見ずに、深海の盲目魚のように、死ぬ。(九月十日記)
手紙 (モスクワ大学地質学部ニコライ・ラザレフ教授宛)
これは、全同盟科学研究計画会に提出した、「 ψ62°30′N. λ140°17′0″E における学術調査報告」とは何の関係もなく、純粋に、あなた個人にあてた私信であることを、あらかじめご承知おきください。訣別にあたり、報告書には記載しなかったちょっとした隠れた事実をお伝えして、渝らざるあなたの友情への感謝のしるしにしたいと思うのです。
この島へ釘づけされてから、ちょうど二十三日目、つまり、九月十三日の朝の九時二十分ごろ、突然、島の南側で、ゆるい汽笛の音がきこえ、海霧の中から一艘の汽船がぼんやりと姿を現わして来ました。幻影ではない。真実の汽船! OTARU MARU という船名さえ、はっきりと舷側に読みとることができます。
この時の私の混乱と狼狽はどのようなものであったか、あらためてここへ書きつける必要はありますまい。
ヤロスラフスキー博士は成功しました。
地底の道は、たしかにロバトカ山から日本領地の一部へ貫通しています。しかし、それは南樺太恵須取山の旧火口ではなく、カムチャッカ半島に接した千島列島の北端の島へ抜けているのです。
この事実は、今度の学術探検の真の目的たる、あらゆる軍事上の意味を失わせました。その島は、カムチャッカ作戦基地たるペトロパウロスク港から、わずか八十浬ほど離れたところにある、周囲十露里ほどの小さな岩島にすぎないからです。
われわれが、地底の海だと思っていたのは、じつはオホーツク海なのでした。 АЙ と名づけた島は、すでに、阿頼度島という名で日本の地籍台帳に明瞭に記帳されています。博士がジュラ紀の古鱈だと思っていたのは、じつは、この辺の海で無量に漁れる介党鱈で、石炭紀の長者貝だと信じていたのは千島琥珀貝という Hawaiia《アワイイヤ》 の一種だったのでした。
これらの、ちょっとした悲喜劇と、博士の墜死の真の原因を報告書に記載しなかったのは、博士に対する友情というよりは、むしろ、学究としての連帯心によることなのです。報告書とあなたあての手紙は、三人の漁夫が、小樽のソヴィエト領事館へ届けてくれることになっています。
私は?……私は、「地底獣国」の調査の正確を期するために、もう一度地底道を通って、スタノヴォイに帰るつもりなのです。食糧もじゅうぶんではなく、壊血病にもかかっているので、たぶん、私は途中で倒れるでしょう。しかし、やれるだけやってみるよりしようがない。……では、ごきげんよう。夫人と二人の愛嬢によろしく。とりわけ、アンナさんに、どうぞ!
青空文庫より引用