白菊


 茅野停車場の十時五十分発上りに間に合うようにと、いわおの温泉を出たのは朝の七時であった。海抜約四千尺以上の山中はほとんど初冬の光景である。岩角に隠れた河岸かしの紅葉も残り少なく、千樫ちがしと予とふたりは霜深き岨路そばみちを急いだ。顧みると温泉の外湯の煙は濛々《もうもう》と軒を包んでたちのぼってる。暗黒な大巌石がいくつとなく聳立しょうりつせるような、八ヶ岳の一隅から太陽が一間半ばかり登ってる。予らふたりは霜柱の山路を、話しながらも急いで下るのである。木蘇きそ御嶽山おんたけさんが、その角々しき峰に白雪をいただいて、青ぎった空に美しい。近くは釜無山それに連なる 甲斐の駒ヶ岳等いかにも深黒な威厳ある山容である。
 予らふたりはようやく一団の草原を過ぎて、ふもとを見渡した時、初めて意外な光景を展望した。
 諏訪一郡の低地は白雲はくうん密塞みっさいして、あたかも白波はくは澎沛ほうはいたる大湖水であった。急ぎに急ぐ予らもしばらくは諦視ていしせざるを得ない。路傍の石によろよろと咲く小白花はすなわち霜に痛める山菊である。京で 見る白菊は貴人の感じなれど、山路の白菊は素朴にしてかえって気韻きいんが高い。白雲の大湖水を瞰下みおろしてこの山菊を折る。ふたりは山を出るのが厭になった。



青空文庫より引用