畳まれた町
一
ボーン! 音だ! ピストルの音だ! ……と、そんなように思われた。
で探偵が走って来た。
町は相当賑かであった。
電車が五ツ通っていた。家根は黒く車体は緑で、そうして柱はピンク色であった。車輪が黄金色で車道は青い。だが何うしたというのだろう。客が一人も乗っていないではないか。自動車が九ツ流れていた。その中の一つは貨物自動車で、黄色い荷物をのっけている。
往来の左側にビルディングがあるがあまりに色の強い化粧煉瓦で、胴体のあたりを飾っているので、どっちかというとあくど過ぎた。
そのうしろにもビルディングがある。これは木製で茶色である。
そのうしろの遥かなたに、匂うような薄緑の大ビルディングが、町を圧して聳えていたが、その高さは五層楼で、窓が無数に眼を開けていた。だがそれにしてもその窓々が、薄紅く見えるのはなぜだろう? 時計台が頂きにある。カーン、カーンと二ツ打った。今は午後の二時と見える。
その大ビルディングの少し手前に、事務所めいた家が立っていた。家根がセピア色に見えるのは、銅でも張ってあるのだろうか? いやいや断じてそんなことはない。そんな高尚な建物ではない。ペンキ塗のがさつな建物なのである。
その事務所めいた建物のうしろ――大ビルディングの前の方に、ゴチャゴチャと沢山の小家があった。いずれも安っぽい洋風の家で、町の美観を傷つけていた。
ところで往来の右側と来ては、全く形容のしようもないほど、小さい、貧弱な、和洋折衷の――色ばっかりが、けばけばしく、造作からいえばやにっこい、数え切れないほどの住宅が――調子のこわれた音楽のように、文字通り目茶苦茶に櫛比していたが、それは全く見る人の心を、都会嫌忌にまで導くに足りた。不快な存在といわなければならない。自然そういう家々の中に、もぐり込んで住んでいる人間をも、軽蔑しなければならないだろう。
そういう町を遮断するように、運河めいた堀川が横たわっていた。苫をかむった四個の舟、煙を吐いている一個の川蒸汽、浮かんでいるものといえばそれだけであった。
石造の橋がかかっていた。
それは本当に立派な構造で、美しい人だけが通らないことには、どうにも不似合だと思われるほどに、磨きさえもかかっているのであった。
だから探偵が欄干により、ぼんやり町の方を眺めているのは、十分冒涜といわなければならない。その探偵はみぐるしいのだから。
黄味をぼかした空の一所に、電線が筋をひいているのは、都会の空としては当然であるが、更に一層当然なることが、空の一所で行われていた。茶色の巨大な飛行船が、ビラをまいているのである。ビラが二三枚舞って来た。だが探偵は拾わなかった。拾ったら後悔をしただろう、或る綺麗な踊女が(探偵の身分ではどうにもならない)或る一流の劇場で(探偵の収入では行くことは出来ない)踊りをおどるという広告なのだから。
探偵は思案に余っていた。
「ピストルの音を聞いただけだ。誰が打ったのか判らない。誰が打たれたのか判らない。どこで打ったのかも判らない。……そうして町はにぎやかだ。そうして世間は明るくて広い。……そうして人達は忙しそうだ。そんな悠長にピストルなどで、殺人事業をしているような、ノンビリした所などどこにもない。……それにあらゆる人間が、一人残らず犯罪顔をしている。……だから全く手がつかない。……犯罪顔をしていない人間がどこかに一人でもあろうものなら、まずそれから調べるのだが」
――で、探偵は寂しかった。
だが探偵よ、突っ立っていてはいけない! 君よ、職務をどうするね!――と誰かに叱られたかのように――でも、探偵はあるき出した。
「矢っ張り常識で行くとしよう」
で、露路の方へ突進した。
露路には露路としての美しさが、大方の場合あるものである。
金魚屋が店を出していた。植木屋が店を出していた。一冊十銭の古本屋さんもあった。虫売の店では虫が鳴いているし、錠前屋は錠を鳴らして通った。
「まあ綺麗な花ですこと」
「このひなげしいくらですの」
「何んて可愛い金魚でしょう」
「あら」
「え」
「何んでもないのよ」
「だってどうしたんだい?」
「いやァな人」
などというような声もした。
人が歩いているのである。
こういう露路で見る時には男は大概穢く見え、女は大方下素張って見える。
二
そうして探偵には一人残らず、犯罪人に見えるのであった。だからどうにも手が付かない。たよりない心を抱いたままで、探偵は突進をつづけることにした。
間もなく出たのが遊園地であった。そこは六感というのであろう、犯罪の行われた現場なるものが、探偵には遊園地に思われた。で突進したのであるが、裏切られざるを得なかった。
何んという美しい遊園地だ! 何んという素朴の遊園地だ!
木挽小屋が立っている。水車小屋が立っている。シーソーが出来ている。そうしてぶらんこが出来ている。花! 満開! 美しいことよ! 昼顔、木苺、百合、蘭、……駒鳥が葉蔭へ巣をかけている。啄木鳥が椋の木をつついている。四十雀が枝をくぐっている。閑古鳥が木の股で啼いている。そうして池には蛙がいる。おはぐろとんぼが舞っている。鴨の親子とあひるとが、それの水際に羽搏いている。蝶の飛んでいるのはいうまでもない。だが草の間を辷るように、いたちが走って行ったのは、少し不似合といわなければなるまい。
蜜蜂! とかげ! 甲虫! てんとう虫に紙切虫! そんな物まで巣食っている。大木には蔦が青々と萌え、切株をとりまいて歯朶が生えている。毛虫だっているのである。そうして薊の葉の蔭に、狸が眼を開けているのである。
大人といえば三人しかいない。
水車小屋にいる一人の爺さん。木を伐っている二人の木樵。
後は揃って子供である。
シーソーに乗っている坊ちゃんと嬢さん。手網を振廻している悪戯児。ぶらんこを揺すっている洋服の娘。小さい滝の岸に座って、手を延ばしている七八歳の少女――その手の先には水蓮がある。何かしらわめいているエプロンの小娘。生捕った小魚の尾尻を摘んで、瓶へ入れている麦藁帽子の少年。
……で、空はよく晴れて、一切合財が田舎のようであった。
だが探偵を驚かせたのは、そういう田舎じみた風景ではなかった。では何が探偵を驚かせたか? 物の形が人間世界とは、すっかり変っていることであった。
「かえるが子供より大きいではないか。とんぼが兎より大きいではないか。鈴蘭が水車より高いではないか。あッ、そうして、あの虹は!」
虹がかかっているのであった。そうしてその虹は薔薇の蕾を、無闇と投げ下ろしているのであった。
「俺には一切が解らなくなった」
――で、探偵の心持が、たよりない以上にたよりなくなり、愁をさえも感じたのは、当然なことといわなければなるまい。
だがそういう探偵の心も、一ツの築山を向うへ巡り、芝生の上へ立った時、喜びのために膨れ上がった。
「被害者だけはやっと目っけた!」
一人の可哀そうな兵隊さんが、殺されて斃れていたからである。
「だが、加害者は何者だろう?」
呟いたが探偵は顫え上がった。
市街や露路や遊園地や、そういうものを縦断して、途方もなく大きな鉄砲が、横たえられていたからである。
「ああこれで凶器もわかった」
とはいえ、そういう喜びも、ほんの一瞬間のものであった。
「ウーン」という声が聞こえて来て、巨大な拳が突き出されて、それに腹部を突かれることによって、探偵も死んでしまったからである。
「ねえお母さん、おやつ頂戴。……オヤオヤ僕は昼寝しながら、空気銃の引金を引いたと見える。キルクの弾が飛び出しているよ」
絵本と玩具の世界からいえば、大変もない巨人だが、人間の世界からいう時は、十歳にも足りない坊やさんが、昼寝の床からムズムズと起きた。
「おや、お眼覚め、よい児よい児」
やさしいお母さんが這入って来た。
「まあどうでしょう、取り散らしてあることは」でお母さんは片づけ出した。
で鉛の兵隊さんも、でセルロイドの探偵さんも、ポンポン籠の中へ投げこまれた。
そうして町も遊園地も、ええとそうして露路までも、パンと音を立てて閉ざされてしまった。絵本に描かれたそれらなのであるから。
青空文庫より引用