神秘昆虫館
一
「お侍様というものは……」女役者の阪東小篠は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」
「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流の名手であり、父は田安家の家臣として、重望のある清左衛門であった。しかし小一郎は仕官していない。束縛されるのが厭だからで、放浪性の持ち主なのである。秀でた眉、ムッと高い鼻、眼尻がピンと切れ上がり、一脈剣気が漂っているが、物騒というところまでは行っていない。中肉中丈、白色である。そうして性質は明るくて皮肉。
「どんなにあなたがお強くても、人を切ったことはございますまい」阪東小篠は云い出した。
「泰平の御世だ、人など切れるか」
「では解らないではございませんか。……はたしてお強いかお弱いか?」
「鐘巻流では皆伝だよ。年二十三で皆伝になる、まあまあよほど強い方さ」一式小一郎は唇を刎ね、ニヤニヤ笑ったものである。
「お侍様というものは、お強くなければいけません」
「だからさ、強いと云っているではないか」
「ねえ、あなた」と阪東小篠は、そそのかす ように云い出した。
「一度でも人をお切りになった方は、度胸が決まると申しますねえ」
「どうやらそんな話だな」
「お侍様というものは、度胸がなければいけませんねえ」
「云うまでもないよ」と小一郎は笑止らしく横を向いた。
「あなたに度胸がありますかしら?」
「あるともあるとも大ありだ」
「人を切ったこともない癖に」
「小篠!」と云うと小一郎は、ちょっと睨むように相手を見た。「何か目算がありそうだな」
「何んの何んのどう致しまして」小篠は例によって笑ったが、微妙な笑いであると共に、吸血鬼的の笑いでもあった。「ねえ、あなた、ただ妾はこう云いたいのでございますよ。――すべて女というものは、男が度胸を見せた時、すぐ飛びかかって行くものだとねえ」
「うむ、惚れるということか?」
「はいはいさようでございます」
「なるほど」と云ったが小一郎は、いくらか物憂そうに考え込んだ。と、話題をヒョイと変えた。
「それはそうとオイ小篠、南部集五郎はやって来るのかな?」
「よくお呼びしてくださいます」
「あいつも根気がいい方だなあ」
「ホッホッホッホッ、あなたのように」
「そうさ、俺だって根気はいいよ。……ところで小篠、どっちが好きだな?」
「南部様もそんなことをおっしゃいました。――一式氏とこの拙者と、どっちにお前は惚れているかなどと」
「で、どっちに惚れているのだ?」
「どっちがお強うございましょう?」
「ふふん、それでは強い方へ、お前はなびく というのだな?」
「そんな見当でございます」小篠は妖艶にニッコリとした。
「そうか」
と云うと一式小一郎は、ズイとばかりに立ち上がった。「小篠、それではまた会おう」
「もうお帰りでございますか」
「うん」
と云うと部屋を出た。
ここは深川の、桔梗茶屋の、その奥まった一室である。一人になった阪東小篠は、心の中で呟いた。
「南部さんにも云ったものさ。人一人お切りなさいましと。……妾のためにお侍さんが、罪もない人間を叩っ切る! ああどんなにいいだろう! そこまで妾に惚れてくれなければ妾の方だって惚れてはやらない。お二人の中でサアどっちが、希望を叶えてくれるかしら? いい見物だよ、待っていよう」
桔梗茶屋を出た小一郎は、考えながら歩いて行く。
「小篠という女、俺は好きだ。美しい上に惨酷性がある。完全な女というものさ。惨酷性のない女なんか、女ではなくて雌だからなあ。……それにしても随分手強い女だ。俺は半年も呼びつづけたかしら? それで未だにうんと云わない。……その上とうとう本性を現わし、人を切れなどと云い出してしまった。……いかにあいつのためとは云え、罪もない人間は切れないなあ。……そう云っても人を切らなければ、手に入れることは出来ないだろう。……そうしてまごまごしている中に、あの恋仇の南部奴に、かっ 攫われまいものでもない。こいつだけはいかにも残念だなあ。……それはそうとここはどこだ?」
四辺を見廻わすと小梅田圃で、極月十日の星月夜の中に、藪や林が立っている。
二
「これは驚いた」と小一郎は、思わず足をピタリと止めた。
「いかに考えて歩いたとはいえ、小梅田圃へ出ようとは! こいつ狐につままれたかな?」
いやそうでもなさそうである。
「寒い寒い、急いで帰ろう」歩き出したがまた考えた。「だが全く竹刀の先で、ポンポン打ち合った剣術は、実戦の用には立ちそうもないなあ。……人間一人サ――ッと切る! 手答えあって血の匂い! ヒーッという悲鳴、のた 打つ音! ……悪くないなあ悪くないなあ。……一度辻切りをして見たいものだ」
ふと小一郎は誘惑を感じた。
「切るにしても女や町人はいけない。うんと 屈竟な武士に限る!」
考えながら歩いて行く。と、行手に藪があり、ザワザワと風に戦いでいる。その、裾辺まで来た時である、
「む、こいつは可笑しいぞ」小一郎はスッと後へ退き、ジ――ッと藪を隙かして見た。
何んにも変ったことはない。が、小一郎には感ぜられるらしい。小首を傾げたものである。
「どいつかいるな! 刀を按じて!」
迫身ノ刀気ハ盤石ヲ貫ク、心眼察スル者則チ豪――鐘巻流の奥品にある。その刀気を感じたらしい。で、寂然と動かなかった。
不意に小一郎は左手を上げ、鞘ぐるみ大刀を差し出したが、柄へ手をやると二寸ほど抜き、パチンと鍔鳴りの音をさせた。
と、黒々と藪を巡り、一個の人影が現われた。
「さすがは一式小一郎氏、拙者のいるのを察しられたと見える」
「や、貴殿南部氏か!」
「さよう」というと南部集五郎は、二歩ほど前へ進み出たが、「尾行けて参った、深川からな」
「ははあさようか、何んのご用で?」小一郎は油断をしなかった。
「率直に申す! お立ち合いなされ……」
「ほほう」と云ったが小一郎は、一つの考えを胸へ浮かべた。
「さては貴殿におかれても、阪東小篠にけしかけられ ましたな?」
「では貴殿にも?」と南部集五郎は、いささか興醒めたというように、
「それでは益※ 恰好というもの、遁がしはせぬ、お立ち合いなされ!」
「さようさ、こいつは遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃れましたな」
「何故な?」と集五郎はトホンとした。
「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」
「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。
「アッハハハ御世の有難さで」
「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。
「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急くのは集五郎である。
「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこち ましたよ、あの小篠という河原者にな」
「抜け!」と集五郎は威猛高である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」
「剣侠も女にはまって は」と小一郎はかまわず云いつづける。
「いやはや一向値打ちござらぬ」
「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」
「剣より女の方が魅力がある」
「何を馬鹿な! それがどうした」
「そこで俺は徹底する」
「え?」と集五郎は一歩退いた。
「人を切れという小篠の言葉、それに手頼って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。
はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。
同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱くと早襷! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来れば搦み落とす、翩翻自在の構えである。星を刻むような鋒止先、チカチカチカチカと青光る。居付かぬように動かすのである。ブ――ッと剣気そこから湧き、暗中に虹でも吹きそうである。
三
だが南部集五郎、こいつも決して只者ではなかった。東軍流ではかなりの手利き、同じく飛び退くとヌッと延し、抜き持った太刀柄気海へ引き付け、両肘を縮めて構え込んだが、すなわち尋常の中段である。
「なるほど」と呟いたは小一郎で、「かなり立派な腕前だな。だがこの俺の敵ではない。よし」と云うと揶揄し出した。「さあ南部氏、かかってござれ! 立っているばかりが能ではない。お揮いなされ、そのだんびら を! ちょうど星空だ光りましょうぞ! 廻わり込みなされ、右の方へ! すると拙者は左へ廻わる。と、ご両人ぶつかり 合う。そこでチャリ――ンと一合の太刀! ナーニ二合とは合わせませんよ、一合でちゃ アんと片が付く。もちろん貴殿が負けるのさ。それ石卵は敵しがたし! 唐人も時にはうまいことを云う。石と卵とぶつかれ ば、間違いなく石の方が勝ってしまう。拙者が石で貴殿が卵、さあ卵氏、卵氏はずんで、飛び込んでおいでなされ」喋舌りながらも考えた。「俺は案外大胆だな、今夜が最初の実戦だが、大して怖くも恐ろしくもない。うむ、これなら人間が切れる。……よしよしこっちから迫り詰めてやれ」
足の爪先蝮をつくり、土を刻んでジリジリと、廻わりも込まずに前へ出た。
次第に後退さる集五郎、いわゆる気勢に圧せられ、ともすると太刀先が上がろうとする。上がったが最後、「突き」が来る。そこで押し静め、押し静め、盛り返して一歩出た。と、小一郎は一歩引いた。と、集五郎また一歩! と、小一郎一歩退がった。「しめた」と考えた集五郎、相手が「釣手」で退くとも知らず、ムッと気息、腹一杯、籠めると同時に躍り込んだ。両肘を延ばし、太刀を上げ目差すは小一郎の右の肩、そいつをサッと左袈裟!
「駄目だよ」と小一郎は一喝した。瞬間に鏘然たる太刀の音! つづいて大きく星空に、一つの楕円が描かれた。すなわち一式小一郎が敵の刀を払い落とし、身を翻えすと片手切り、大刀宙へ刎ねたのである。こいつが落ちれば集五郎の首は、斜に耳から切られただろう。
その際どい一髪の間だ、女の声が聞こえて来た。
「蝶々をご存知ではございますまいか」
美しい清浄な声であった。ス――ッと小一郎の心から、殺伐な邪気が抜けてしまった。
と、また女の声がした。
「永生の蝶でございます。……蝶々をご存知ではございますまいか」
どこにいるのだろう、声の主は? 木立があって、藪があって、後は吹きさらしの、小梅田圃。女の姿などどこにも見えない。それにもかかわらず女の声は、すぐ手近から聞こえるのであった。
「もしご存知でございましたら、昆虫館までお届けください」
するとどうだろう、それに続いて、老人の声が聞こえて来た。「娘よ、駄目だよ、永生の蝶、何んのこういう人達に、探し出すことが出来るものか」
非常に威厳のある声であった。手近の所から聞こえて来る。だがやっぱり姿は見えない。
「人殺しをしようという人間に、永久に生きる神秘の蝶が、何んの何んの探し出せるものか」老人の声がまた聞こえた。「さあ娘よ、そろそろ行こう」
「はい、お父様」と女の声がした。「それでは他へ参りましょう」それから優しくもう一度云った。「お止めなさりませ……お侍様……殺生のことはね……さようなら」
もうそれだけしか聞こえなかった。立ち去る足音もしなかった。声だけが突然土から生れ、倏忽と空へ消えたようであった。
風が少しく強まったらしい。藪がザワザワと揺れ出した。
刀を宙へ振り上げたまま、じっと聞き澄ましていた一式小一郎、で思わず溜息をしたものである。
「南部氏!」と呼びかけた。「今夜の立ち合い、止めにしましょう」
「よろしい」と云うと南部集五郎は落とした刀を拾い上げた。
パチンと鍔音高く立て、刀を納めた小一郎、「お別れ致す」と云いすてると、町の方へスタスタ歩き出した。
「何んだろういったい永生の蝶とは?」小一郎は歩きながら思案した。
「昆虫館とは何んだろう?」何が何んだか解らなかった。「それにしても美しい声だったなあ。心が一時に清まってしまった。……若い美しい娘なんだろう。……逢ってみたいような気がするなあ」
彼の屋敷は麹町にあった。そこへ帰って来た小一郎は、意外な話を聞いたものである。
四
意外の話を話したのは、他ならぬ清左衛門であった。
「それお前も知っている通り、この頃田安家と一ツ橋家とは、何彼につけて競争ばかりし、面白くない気勢が醸されているが、とうとう変なものを争うようになったよ」こんな調子に話し出した。「と云うのは、他でもない、江戸の四方五十里の内に、昆虫館という建物があり、永生の蝶と云われている雌雄二匹の蝶がいて、神秘の伝説を持っているそうだ。すなわち二匹を手に入れて、交尾をさせて子を産ませた者は、莫大な財宝を得られるとな。云い出したのは女方術師、お前も知っておる鉄拐夫人だ。で今やお館には、二匹の蝶を手に入れようと、苦心惨澹をしていられる。が、こいつは、馬鹿な話さ。永生とは何か、無限に生きることだ。ところが蝶は一年とは生きない。永生の蝶などある筈がない。云い出した人間が悪い。方術師とは由来道教の祖述者、虚無恬淡を旨とする、老子の哲学を遵奉するもので、無慾でなければならない筈だ。ところが例の鉄拐夫人、無慾でもなければ恬淡でもない。ヤレ錬金だの、仙丹だのと、金持ちになることと永生きすることとを、セッセとお館に進めている、彼奴決して方術師ではなく、精々のところ手品使い、初歩の忍術の使い手に過ぎない。かような女を召し抱えたは、お館にとって不幸だが、これとてやはり競争から来ておる。一ツ橋家の方でまず最初に、蝦蟇夫人という女方術師を抱え、大仰に吹聴したからさ。で、噂による時は、一ツ橋家でも同じようなことを、その蝦蟇夫人が云い出したため、やはりそいつを手に入れようと、お館にはご苦心をされておるそうだ。今日も一日中御殿では、その評定で大騒ぎだった。困ったものだよ。こういう迷妄はな」
こいつを聞いた小一郎が、驚きと興味とを感じたのは、説明するにも及ぶまい。膝を進めて訊いたものである。
「で、お父様、昆虫館は、どの辺にあるのでございましょう」
「云ったではないか、江戸を中心に、五十里以内の所にあると」
「確かなあり場所は解りませんので?」
「そうだよ、解っていないそうだ」
「鉄拐夫人が方術師なら、方術を用いて昆虫館のあり場所、すぐにも探し出してよさそうなもので」
「だからよ、彼奴め、贋方術師さ」ここで清左衛門は眉をひそめたが、「もっとも彼奴め、こんなことを云ったよ。『半島にして樹木森々、大地あって土地高燥、これ永生の蝶に適す』とな。アッハッハッハッ何を云うやら」
「昆虫館の持ち主は?」
「昆虫学者の老人だそうだ」
「美しい涼しい声を持った、娘と一緒ではございませんかな」
「え?」と清左衛門は眼を円くした。
「いえ何これはこっちの方の話で」こうはごまかし たが小一郎は、心の中では考えた。「不思議だな、随分不思議だ。小梅田圃でも永生の蝶! 家へ帰っても永生の蝶! あっちでもこっちでも昆虫館! 待てよ」と一層沈思した。「小梅で聞いた二つの声、その中一つは老人の声で、神々しいほどにも威厳があった。学者か宗教家か剣聖か、とまれ達識の人物でなければ、ああいう声は出せないものだ。永生の蝶を探していたっけ! ひょっとかするとあの声の主が、その昆虫館という建物の、持ち主などではあるまいかな。……いやいやそうではなさそうだ」小一郎は尚も考えた。「なにも昆虫館の持ち主なら、永生の蝶を探す筈はない。と云うのは蝶を持っているからさ、では全然別人かな。……いやいやそうでもなさそうだ」またも小一郎は考えた。
「たしかあの時娘の声で『もしご存知なら昆虫館まで、どうぞお届けくださいまし』と、こうハッキリ云ったのを聞いた。とすると、どうしても声の主達は、永生の蝶と昆虫館とに、関係あるものと見なければならない」ここで一層考えた。
「永生の蝶というようなものが、本当にこの世にいるのなら俺は是非とも手に入れたい。昆虫館というようなものが、本当にどこかにあるのなら、是非とも行って見たいものだ。しかしそれよりより一層、俺の心から殺伐の邪気を、ス――ッと一度に引っこ抜いてくれた、美しい涼しい声の主に、是非とも逢って見たいものだ。全くあの声はよかったよ。あんなにいい声の持ち主だ、素晴しい美人に相違ない。よし俺は探しに行く!」
年が返って新年になった。天保十一年一月十日、その晴れた日の早朝に、一式小一郎は屋敷を出た。
深編笠に裾縁野袴、柄袋をかけた蝋鞘の大小、スッキリとした旅装い、足を入れたは東海道で、剣侠旅へ出たのである。
「考えてみればあぶなっかしい 旅さ」小一郎は心中可笑しくもあった。「たった一度だけ耳にした娘の声を手頼りにして、声の主を探しに行くのだからなあ」
長閑にボツボツ歩いて行く。
五
川崎の宿まで来た時である。
「お武家様え、お馬に召しませ」可愛らしい娘の声がした。
振り返った一式小一郎、見れば駄賃馬の手綱を取り、女馬子が立っていた。
「さようさな、乗ってもよい」
「これは有難う存じます。どこまでお供いたしましょう」
「そうさなあ、どこへ行こう」
「どこへでもお供いたします」
「さあてどこへ行ったものか、これ女馬子、どこへ行ったらよいな?」
「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑ったが、「京大坂などいかさまのもので」
「ちと遠いな」と小一郎はこれも笑いながら考えたが、「これ女馬子、聞きたいことがある。土地高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある、そういう土地はあるまいかな?」
すると女馬子はどうしたものか、チラリとその眼を険しくしたが、すぐに、表情を取り返した。
「三浦三崎の関宿など、似つかわしいように存ぜられます」
「ああなるほど、そこがよかろう。では関宿へやってくれ」
小一郎はヒラリと馬へ乗った。ドー、ドー、ドーと馬子が云う。カパカパと馬が歩き出した。シャンシャンシャンと鈴が鳴る。旅が旅らしくなって来た。
「旦那様え」と女馬子は、手綱を引きながら話しかけた。「ご遊山旅でございますか」
「まあザッとその辺だ」
「ご遊山にはお寒うございます」ちょっと皮肉な調子である。
「寒さなどには驚かない」
「それはさようでございますとも」クスッと笑ったが話しかけた。「土地が高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある。そういう土地で旦那様は、何かをお探しなさいますので」
「何!」と云ったが小一郎は、かなり吃驚りしてしまった。「どうしてお前、そんなことを聞くのだ!」
「そういう土地には色々の不思議が、沢山あるからでございますよ」
「この女馬子怪しいぞ」はじめて気が付いた小一郎は、仔細に女を観察した。立派な体格で品がある。肌は白く、髪は多く、顔の道具も充分調い、上流の商家の娘のようだ。特にその眼が美しい。情熱のためには理性など、うっちゃって しまいそうな眼付きである。上唇に黒子がある。かえって愛嬌を添えている。「こいつは本物の馬子ではないな」小一郎はひそかに考えた。「女賊などではあるまいかな」
すると女が声を掛けた。「大丈夫でございますよお武家様、妾悪人ではございません」
「ううん」と小一郎は参ってしまった。「何を申すか、つまらないことを!」
「お心で思っていらっしゃったくせに」
これにも小一郎は参ってしまった。
「お前には解るのか、人の心が!」
「旦那様のお心なら解ります」
「これは驚いた。どうして解る?」
「好きなお方でございますもの」
「え?」とまたまた小一郎は、胆を潰さざるを得なかった。「お前は俺が好きなのか!」
「一眼で好きになりました」
「ヤレヤレ」と小一郎は苦笑した。「途方もないことになってしまった」
「恋しいお方のお心持ちだけは、恋している女に解ります」
「馬子! あんまり嚇してはいけない!」
「ホ、ホ、ホ、ホ、ご免遊ばせ」
どうにも小一郎には見当が付かない。何んだろういったいこの女は? そこで身の上を調べることにした。
「ところでお前の名は何んというな?」
「はい、君江と申します」
「ああ、君江か。年は幾個だ?」
「はい、十八でございます」
「で、両親はあるのかな?」
「はい健康でございます」
「で、家はどこにある?」
「三浦三崎の関宿に」
「えッ」と小一郎はまた嚇された。「これ、あんまり嬲るものではない」
「いえいえ本当でございます」女馬子の声は真面目であった。
「妾の家は三浦三崎、関宿にあるのでございます。それで妾は旦那様を、妾の家へお連れしようと、こう思っているのでございます」
「それはいったいどうした訳だ?」
「旅籠商売でございますもの」
「ははあそうか、旅籠屋か。……旅籠屋の娘が何んのために、馬子稼ぎなどをやっているのだ?」
「探していたのでございます」
「ふうんそうか、何者をな?」
「はい恋人をでございます」こう云うと女馬子はニッコリした。
「そうしてとうとう今日はじめて、恋しいお方を探し当てました。旦那様あなたでございますの」
さて剣侠一式小一郎は、この女馬子に逢ったばかりに、意外の事件に続々ぶつかり、恋と怨み、悪剣と侠剣、暗黒と光明、迷信と智恵、神秘の世界と現実の世界へ、隠見出没することになった。
六
その日からちょうど五日経った。
三浦三崎の君江の家、その家号を角屋と云って、立派な構えの旅籠屋である。その門口からフラリと出たのは、他ならぬ一式小一郎で、口先に微笑を漂わせている。
「君江という娘、嘘は云わなかった。まさしく家は旅籠屋で、両親もピンピン健康でいる。そうして俺には親切だ。親切といえばあの君江、ほんとに俺を愛しているらしい。ちと困ったが迷惑でもない。明るくて快活でわだかまりがない。たしかに野に咲いた一輪の名花さ。そうは云ってもこの俺には、他に愛する女がある。姿形はまだ見ないが、小梅田圃の切り合いの最中、声だけ聞いたあの女だ。是非是非探しあてて逢って見たいものだ。……それはそれとしてその君江、大池のあるという森林の中へ、何故この俺を行かせないのだろう?」
立ち止まって四辺を見廻わした。冬ざれた半農半漁の村が、一筋寂しく横仆わっている。それを越すと耕地である。耕地の向こうが大森林で、檜や杉の喬木が、澄み切った空を摩している。
ヒョイと何気なく振り返って見た。「はてな?」と云ったのはどうしたのだろう? 十五、六人の侍が、いずれも立派な旅姿で、スタスタとこっちへ来るからであった。
「こんなに辺鄙な関宿などへ、ああも沢山の侍が、入り込んで来るとは只事でない。可笑しいなあ」と呟いたが、物蔭へ隠れて窺った。
それとも知らぬか侍達は、ガヤガヤ話しながら通り過ぎる。
「まずともかくも森林へな! 昆虫館があるかも知れぬ」こう云ったのは頬髯のある武士で、「なかったら今度は伊豆の方へ行こう」
「いわば我々は先乗りで、探りさえすればいいというものさ」こう云ったのは段鼻の武士。
「永生の蝶! 永生の蝶! はたしてそんな 物ありましょうかな」こう云ったのは赤痣のある武士。
「昆虫館も永生の蝶も、拙者には用はござらぬよ。小梅田圃で耳にした、美しい涼しい声の主、それに是非とも巡り会いたいもので」
こう云ったのは誰あろう、恋仇南部集五郎であった。
タッタッと森林の方へ行ってしまった。
物蔭から出た小一郎は仰天せざるを得なかった。
「一ツ橋家の武士どもだな! 一ツ橋殿の命を受け、昆虫館を探しあてようと、さてこそやって来たらしい。……憎いは南部集五郎だ、またもや俺の恋仇となった。あの時耳にした声の主を、昆虫館の関係者と、彼奴も目星を付けたらしい。……これはこうしてはいられない。誰が止めようと森林へ分け入り、彼奴らより先に声の主を、目付け出さなければ心が済まぬ」
彼らの後を追うように、サ――ッと小一郎は走り出したが、その時角屋の門口から、ヒョイと一人の娘が出た。
「あれ!」と叫んだが君江であった。「お父様大変でございます!」
「どうした?」と云いながら現われたのは、五十年輩の立派な人物で、英五郎と云って君江の父、この辺一帯の顔役で、髪は半白、下膨れの垂れ頬、柔和の容貌ではあるけれど、眼附きに敢為の気象が見える。
「小一郎様が森の中へ!」
「おお行かれたか! 困ったなあ」
「お父様! お父様! どうともして……」
「さあはたして助けられるかな!」
「ああ小一郎様のお身の上に、もしものことがあろうものなら……死んでしまいます! 死んでしまいます!」
「よし!」と英五郎は決心した。「ともかくも乾児を猟り集め、森中手を分けて探してみよう! ……しかし名に負う木精の森だ、入り込んだが最後出られない魔所! 目付かってくれればいいがなあ」
木精の森の底の辺に、一つの岩が聳えていた。裾から泉が湧き出している。
側で話している二人の男女があった。一人は※ 《ろう》たけた 二十歳ばかりの美女で、一人は片足の醜男である。
「先生には今日もご不機嫌で?」こう訊いたのは片足の醜男。
「吉や、困ったよ、この頃は、いつもお父様には不機嫌でねえ」こう云ったのは美女である。
「それというのも大切な雄蝶を、お盗まれになってからでございましょうね」片足の男の名は吉次であり、そうして美女の名は桔梗様であり、その関係は主従らしい。
七
桔梗様の年は二十歳ぐらいで、痩せぎすでスンナリと身長が高い、名に相似わしい桔梗色の振り袖、高々と結んだ緞子の帯、だが髪だけは無造作にも、頸で束ねて垂らしている。もっともそのため神々しく見える。いや神々しいのは髪ばかりではない。顔も随分神々しい。特に神々しいのは眼付きである。霊性の窓! 全くそうだ! そう云いたいような眼付きである。
山住みの娘などとは思われない。と云って都会の娘とも違う。勝れた血統を伝えたところの、高貴な姫君が何かの理由で、山に流されて住んでいる――と云いたいような娘である。永遠の処女! こう云ったらよかろう。物云いが明るくて率直で、こだわらないところが一層いい。
これに反して吉次の方は、かなり醜くて毒々しい。低い鼻、厚い唇、その上片脚というのである。しかし不思議にも智的に見える。学殖は相当深いらしい。筒袖を着て伊賀袴を穿き、松葉杖をついている。年は二十七、八でもあろう。
桔梗様は昆虫館主人の娘、吉次は館主の助手なのである。
「吉次や、そうだよ、お父様はね、あの雄蝶をなくして以来、ずっと不機嫌におなりなすったのだよ」桔梗様の声は憂わしそうである。
「私は不思議でなりませんなあ」吉次は松葉杖を突き代えたが、「だってそうじゃアございませんか、尋常な蝶ではございませんのに、どこかへ消えてなくなったなんて。……」
「でも本当だから仕方がないよ。現在蝶はいないんだからね」
「どうやら先生のお言葉によると、盗まれたように思われますが、さあはたしてそうでしょうか?」
「そうねえ、それはこの妾にも、どうもはっきり解らないよ」
「ねえお嬢様、ようございますか、あの永生の蝶と来ては、盗めるものではございませんよ。こうも厳重に私達が、お守りをしているのですからね。それにお山は要害堅固、忍び込むことなんか出来ません」
「ところがそうばかりも云えないようだよ」いよいよ桔梗様は不安らしく、「この頃お父様問わず語りに『恐ろしい敵が現われた』と、こんなことを二、三度おっしゃったからね」
「へえ、そんな事を? 初耳ですなあ。で、いったいどんな敵なので?」
「今のところでは解らないよ。……それはそうと妾としては……」こう云うと桔梗様はどうしたものか、じーッと吉次の顔を見たが、「ああそうだよ妾としては、そんなお父様のおっしゃるような、恐ろしい敵がなかろうと、盗もうと思えば永生の蝶、誰にだって盗むことが出来ると思うよ」
「へえ、さようでございましょうか?」吉次は不安そうに訊き返した。
「お前にも盗めるし妾にも盗める」これは暗示的の言葉であった。
「何をおっしゃいます、お嬢様!」吉次は一足引いたものである。
「仲間うち の者なら盗めるよ」
「ああそれではお嬢様は、仲聞のうちに裏切り者があって、そいつが盗んだとおっしゃるので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
と、大岩の背後から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏っているのは胴服であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。戴いている帽子も和蘭陀風で、清教徒でも用いそうな、鍔広で先が捲くれ上がっている。
八
帽子を洩れた白髪の、何んと美しいことだろう。肩に屯して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学に相違ない。きわめて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘型である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った顎も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振る舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、見付からないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹を手に入れたところで、全く役に立たないばかりか、それを手に入れた人間は、かえって禍いを蒙るのだからなあ。それで恐らく吃驚りして、逃がしてしまうに相違ないよ。逃がせば蝶は帰って来よう。ああそうだよ、この山へな。で、そいつを待つことにしよう。よしんば永久に帰らないにしても、後に残っている雌蝶をさえ、握っていれば大丈夫だよ。神秘の秘密は解けるものではない。とはいえもちろん心掛けて、絶えず捜索はするんだなあ。私の云いたいのはこうなのさ。なくなった雄蝶ばかりに心を取られ、雌蝶の方を疎かにしては、かえってよくないとこういうのさ。桔梗、お前はどう思うな?」頤髯を撫したものである。
「これはごもっともに存じます」桔梗様の声は嬉しそうである。
「ようご決心が付きました。ほんとうにさようでございますとも。いずれは帰るでございましょう。待ちましょうねえお父様。……そうしてどうぞお父様には、以前通りご機嫌のよいお父様となり、ご研究にお尽くしくださいまし」
「ああいいとも、そういうことにしよう。不機嫌になったって仕方がない。なかなか浮世というものは、思うようにはならないんだからなア。で、私はこれまで通り、愉快な明るい人間となり、セッセと仕事をやろうと思うよ。吉次、お前はどう思うな?」
すると吉次も安心したように、「まことに結構に存じます。先生に憂鬱になられましては、全く私どもがどうしてよいか、途方に暮れてしまいますので」
「アッハハハ、そうだろうて、主人の私が怒っていたでは、誰も彼も仕事がやりにくかろうて。よしよしこれからは快活にやろう。いつも明るく笑ってな」そこでもう一度笑ったが、取って付けたような笑い方であった。「さあさあ吉次、働け働け、行ってみんな を指図するがよい。ええと今日は温室の整埋だ。ええとそれから孵卵器の取り付け、ええとそれから蜂の巣の製造、忙しいぞ忙しいぞ随分忙しい……はてな?」
と云うとどうしたものか、昆虫館主人は耳傾げた。何かを聞こうとするらしい。森林を渡る風の音、岩から滴る泉の音、何んにも聞こえない、それ以外には……だが、どうやら昆虫館主人には、別の物音が聞こえるらしい。見る見る顔が険しくなり、気むずかしそうに眼が顰んだ。「どいつか来るな、邪魔をしに!」
「うるさいことでございますね」こう云ったのは桔梗様で、おんなじように眼を顰めた。
「どっちの方角からでございます?」こう訊いたのは吉次である。
「麓の方からだ、関宿の方から」
「いつもの手段で追っ払いましょう」吉次は、松葉杖をポンと上げた。
「うむ、吉次、追っ払ってくれ!」
「ご免」
と云うと走り出した。非常に敏捷な走り方である。二本足を持った人間より、ずっとずっと敏捷である。
「桔梗、部屋へ行って茶でも飲もう。……どうもうるさい よ世間の連中、時々住居を騒がせに来おる!」
「ほんとにうるそう ございますねえ」
「じっくり研究さえさせてくれない。全く俗流という奴は、鼻持ちのならない厭な奴だ。好奇心ばかり強くてな。そうしてそいつの満足のためには、他人の迷惑など何んとも思わない」
「参りましょうよ、お部屋へね」
で、二人とも岩を巡り、奥の方へ姿を消してしまった。
トコトコトコトコと泉の音が、微妙な音楽を奏している。小鳥の啼音が聞こえて来る。冬陽が明るく射している。静かで清らかで平和である。
だがこの平和を乱すべく、大乱闘の行われたのは、それから間もなくのことであった。
九
木精の森を踏み分け踏み分け、一式小一郎は歩いている。
「一ツ橋家の武士達より、どうともして先に昆虫館を、目付け出さなければ意地が立たない。だがどうにも歩きにくいなあ」
喬木がすくすくと聳えている。枝葉が空を蔽うている。昼だというのに陽が射さない。四方が宵のように薄暗い、灌木や蔓草が茂っている。それが歩く足を攫おうとする。巨大な仆れ木が横仆わり、それがやっぱり足を止める。丘のような大岩が転がっている。所々に古池がある。突然飛び出したものがある。純白の兎の群である。サラサラと枝を渡るものがある。幾匹かの野生の猿である。カーッ、カーッと啼くものがある。鳥のようでもあれば獣のようでもある。季節は一月、所は大森林、凍りつくばかりに冷々《ひやひや》する。ヒューッ、ヒューッと風の音がする。梢を渡っているのだろう。だが樹が密生しているためか、森の中には吹き込んで来ない。地面は凍てついてるらしい。その上を腐葉が蔽うている。で、ズボズボと足がはいる。
一式小一郎は傾斜面を、ズンズン上へ上がって行く。気が忙くので足が早まる。だが息切れのしないように、丹田へ力をこめている。
「考えてみればあぶなっかしい ものだ」小一郎は心中で考えた。
「案内知らぬ森の中を、こんな塩梅にただむやみと、上へ上へと上がったところで、そのあるという大池へ、辿りつくことが出来るかしら? そうしてはたして大池の畔に、昆虫館があるかしら? 幸い大池と昆虫館とを目付け出すことが出来たとしても、あの美しい声の主を、発見することが出来るだろうか? ……だがマアそいつ は考えまい。ただ歩くんだ歩くんだ! ただ進むんだ進むんだ!」
そこでズンズンと突き進んだ。と、森の木がまばらとなり、小広い一つの空地へ出た。一座の大岩が聳えている。
「はてな?」とその時小一郎は足を止めて耳を澄ました。その大岩に反響し、人の足音が聞こえたからである。どうやら大岩の向こう側から、こっちを目指して来るらしい。一人や二人の人数ではない。十五、六人の人数である。
「一ツ橋家の侍ども、ははあさてはやって来たな。さてどうしたものだろう?」――こうなっては他に思案もない。逃げるかもしくはぶつかる ばかりだ。「どうなるものか、ぶつかってしまえ」
早くも決心した一式小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、足場を計るためだろう。「ちょうど幸い大岩がある。こいつを早速楯として、構うものか、叩っ切ってやろう」
及び腰をして待ち設けたが、それとも感付かぬ岩向こうの人数、ガヤガヤ喋舌りながら近付いて来た。その時小一郎は声をかけた。
「ご用心!」とまず一声! それから凛々と云ったものである。
「あいやそこへ参られたは、南部集五郎殿をはじめとし、一ツ橋殿のご家中でござろう。その目的は昆虫館探し、何んとさようでござろうがな」ここでちょっと言葉を切り、先方の様子を窺った。
と、ひどく驚いたらしく、足音が止み声が絶えた。がすぐ南部集五郎の、物々しい声が聞こえて来た。
「そういう貴殿は何者かな? いかにも我々は一ツ橋家の家臣!」
そこで小一郎は声を上げた。
「南部氏だな、声で解る。拙者は一式小一郎、貴殿にとっては怨みあるもの。拙者にとっても怨みがある。小梅田圃では意外のことから、せっかくの果たし合いが中折れ致した。あの夜の続き、今日こそ果たそう。さて次に」と小一郎は、ここで一段声を張ったが、「一ツ橋家の爾余の方々、お互い私怨とてはござらぬが、拙者は田安家のまず家臣、貴殿方は一ツ橋殿の家臣、近来田安家と一ツ橋家、各※ 方にもご存知通り、事ごとに競争致しております。そこで」と云うと小一郎は投げたような調子に言葉を変えた。
「お館同志の競争は、家臣同志の競争でござる。そいつが迫り合うと喧嘩になる。喧嘩のどんづまり は果たし合い! これはもうもう決まった話だ。そこで喧嘩! そこで果たし合い! 勝負だア――」
と威嚇的に叫んだ。それからじいいっ と耳を澄ました。向うからは何んの返辞もない。だが何んとなく騒がしい。どうやら用意をしているらしい。
「敵は多勢、俺は一人、多少詭計を用いずばなるまい」こう考えた小一郎はわざと厳めしく声をかけた。「拙者は大岩のこっちにおる。いつまでもここでお待ち受け致す。左からなりと右からなりと、ご随意にかかっておいでなされ。左右同時にかかられるもよかろう。岩を巡って、さあさあ参られい」
スルリと刀を引き抜くと、スルスルと大岩の左の角、そこまで行くと腹這いになった。
十
腹這いになった小一郎は地面へ耳をおっ 付けたのは、この方面から一ツ橋家の武士ども、幾人来るか足音を、聞き澄まそうとしたのである。と、忍びやかに腐葉を踏み、近寄って来る足音がした。「うむ、大略七、八人だな。……ははあそうすると反対側からも、七、八人がやって来るらしい。お誂え通りだ。左右から廻わり、腹背を衝こうとするらしい。よし」と尚も聞き澄ました。「三間……二間……立ち止まったな。……また歩き出した、怖そうに。……来たな!」
と小一郎は飛び上がったが、飛び上がった時には飛び出していた。上げた一刀、片手切りの呼吸、カーッと掛けたは喉的破音、狙いは感覚、サーッと切った。
「ガッ」という悲鳴、倒れたのは、真っ先に進んで来た段鼻の武士で、頭の鉢を右から斜、左の眼頭まで割り付けられた。
「おッ」と叫んだは赤痣のある武士、二番手として進んで来たが、凄い気合、素晴しい剣技、目前味方の斃されたのを見ると、居縮だように棒立ちになった。そこを目掛けて小一郎は取り直した大刀、柄を廻わし、一歩踏み出すと身長を縮め、相手の左胴を上斜めに、五枚目の肋六枚目へかけ、鐘巻流での荒陣払い、ザックリのぶかく 掬い切った。
痣のある武士、ムーッと呻くと、ポタリと刀を落としたが、全身を弓のように蜒らせると、ヒョロヒョロヒョロヒョロと前へ出た。
と、小一郎は、抑えた呼吸で、ヒョイと刀を手もとへ引いた。連れてドッタリ斃れた敵、ドクドクドクドクと流れる血、下は腐葉だ、滲み込んでしまった。瞬間に二人を討って取られ、浮き足立った一ツ橋家の武士達、思わずタジタジと引くところを、
「参るゾーッ」と声をかけ、ヌッと右足を踏み出したのは、追い迫る気勢を示したのである。胆を奪われた一ツ橋家の武士ども、刀を引くと一息に、元来た方へ逃げてしまった。
追っかけると見せて身を翻えし、岩角まで飛び返った小一郎は一瞬耳を澄ましたが、「いるな」と呟くと一躍した。はたして七、八人そこにいた。真っ先に立ったは頬髯のある武士で、突然小一郎に飛び出され、ギョッとして一足引くところを、
「参るゾーッ」と例の大音、まず一喝くれて置いて、毬のように弾んで飛びかかったが、刀の柄頭を胸へあて、肩を縮めたも一刹那、うむ と突き出した双手突き、極った! まさしく! 敵の咽喉へ! だがその間に敵の一人、右手から颯と切り込んで来た。何んの驚く、飛び返ると、狙いを外した敵の一人、自分の力に自分から押され、トントンと二、三歩前へ出た。背が低まって右の肩が、さも切りよげに小一郎の、眼の前三尺へ泳いで来た。そこをすかさず小一郎は、刀を上げると横撲り、軽くスッポリと切り付けた。
右腕を肩から落とされて、悲鳴を上げるとキリキリキリと、独楽のように二、三度廻わったが、まずグンニャリと腰を砕き、すぐに横倒しに倒れてしまった。
ここでも一式小一郎は瞬間に二人を斃したのである。二人斃された一ツ橋家の武士ども、太刀を構えたまま後退り、次第次第に下がったが、岩角まで行くと背中を見せ、一斉に岩蔭へ引いてしまった。
左右の敵を左右に追い込み、一人となった小一郎はここで気息を抜くような、そんな不鍛練な武士ではない。ピッタリと大岩へ背をもた せ、敵、眼前にあるがよう、グッと前方を睨んだが、にわかにシーンと体を沈め、ヒョイと踏み出したは右の足だ、膝から曲げて左足を敷き、曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀を付けてしまった。得意の構えだ、下段八双。棒の「掻い手」から編み出された鐘巻流では必勝の手。さてそれからユルユルと、頭を巡らすと右手を見た。が、はたして一ツ橋家の武士ども、岩角を巡って現われたが、以前に懲りたか遠廻わりをし、タラタラと正面数間の彼方へ、一列に並んで構え込んだ。
「ほほう来たな」と呟いたが、小一郎は頭を巡らすと、左手の方をゆるやかに見た。思った通りだ、岩角を巡り、一旦逃げた一ツ橋家の武士ども、同じく遠廻わりに廻わりながら、タラタラと正面数間の彼方へ、一列を作って立ち並んだ。
つと進み出た武士がある、「一式氏」と声を掛けた。余人ではない。南部集五郎だ、年の頃は二十七、八、赧ら顔で大兵肥満、上身長があって立派である。眉太く、眼は円、鼻梁長く、口は大きい。眉の間に二本の縦皺、これがあるために陰険に見える。「一式氏」ともう一度呼んだが、嘲笑うように云いつづけた。「悪縁でござるな、貴殿とは! 一人の河原者を争って、小梅田圃で切り合ったばかりか、どうやら今度は姿さえ知れない、美しい声の持ち主を、争わなければならないようで。……と云うとあるいは貴殿には、さようなものはとんと 存ぜぬ。争いの種を阪東小篠、ないしは神秘な昆虫館……などと云われるかも知れないが、何んの何んの、そんなことはござらぬ。小梅田圃で聞いた声、あの美しさを耳にしては、どんな人間でも引き付けられますて。現に」と云うと集五郎は、好色漢らしい厭らしい、不快な笑いを浮かべたが「現に」ともう一度、繰り返した。「拙者においても引き付けられ、その声の主を目付けようと、ここまで出張って来たほどでござる。で、貴殿におかれても、やっぱり美しい声の主を、探しに来られたに相違ござらぬ。狂いましたかな。この眼力! ……だがそれにしてもこんな所で、貴殿にお逢いしようとは、いささか意外でございましたよ。そこでいよいよ悪縁と云う、この言葉がピンと響きますて。……が駄弁はこのくらい。……方々!」というと集五郎は、味方の勢を振り返った。
十一
味方を振り返った集五郎は、注意するように云ったものである。「一式氏はな、鐘巻流の名手、瞬間に四人を討ち取ったほどの、素晴らしい腕を持っておられる。とても敵いませんよ、一騎討ちではな! そこで一同一つに集まり、半円を作ってヒタヒタ攻め、乱刃の中へ取り込めましょう。抜からぬように、よろしいかな。……一式氏!」と集五郎は、今度は小一郎へ声を掛けた。「さあさあ弾んで飛び込んでござい。真ん中を襲わば拙者お相手、その間に左右両翼が、引っ包んで討って取りましょう。左に向かわば右翼が返り、右に向かわば左翼が返り、同じく引っ包んで討って取る。もしいつまでも岩を背に、縮んでおいでなさるなら、よろしいよろしい次第に迫り詰め、十二本の白刃一時に、雨のように浴びせてお目にかける。……方々!」とまたもや集五郎は味方の勢を見返ったが、「とりかかりましょうか、人間料理!」
声に応じて一ツ橋家の武士達、左右に延びて半円を作り、ジリジリジリジリと攻め寄せた。
一方一式小一郎は、岩を背後に下段八双、構えたままで動かない。とはいえ心では考えていた。
「いかにも集五郎の云う通り、真ん中を襲ったら左右の翼、瞬間に畳んで来るだろう。取り込められては敵わない。と云って右を襲っても、ないしは左を襲っても、取り込められるに相違ない。やっぱりここに構えていよう。引き寄せられるだけ引き寄せてやろう。そこで翻然と飛び出して行き、憎いは南部集五郎、まず真っ先に叩っ切ってやろう。もう 二、三人仕止めたら、おおかた逃げて行くだろう。……来るわ来るわ、ジリジリと。寄せるわ寄せるわ、ジリジリと。……十二人と一人、ちと手強い。ナーニ大丈夫だ大丈夫だ!」
いよいよ体を押し沈め、腰から上の上半身を、徐々に前方へ傾げたのは、飛び出して行く用意である。
間隔が次第に縮まって来る。今は双方とも物を云わない。十二本の剣がヌラヌラと、宵闇のような森の中を、一本の剣へ迫って行く。そいつを迎えた一本の剣、鶺鴒の尾のように上下へ揺れ、チカチカチカチカと青光る。
殺気に充ちた静けさである。その殺気に驚いたか、数十羽の雀が棹をなし、森の一方から一方へ、啼く音も立てずに翔け通った。翼に煽られて散る枯葉、ハラハラ、ハラハラ、ハラハラと、向かい合った剣へ降りかかる。
だがその時どうしたんだ、麓の方から竹法螺の音が、ボーッとばかりに鳴り渡った。それに続いて大勢の者が、声を揃えて呼ぶ声が、木精を起こして聞こえて来た。
「一式様!」
「小一郎様!」
「オーイ、オーイ!」
「オーイ、オーイ!」
関宿の侠客英五郎と、その乾児の者百人あまり、娘の君江も中に雑った、小一郎さがしの同勢が、大森林を上へ上へと、今や上って来るのであった。
真っ先に立ったは英五郎で、それに引き添って君江がいる。
「お父様大丈夫でございましょうか?」君江の声は顫えている。
「さあそいつ は解らないよ」英五郎の声は不安そうである。
「魔所だからなあ、この森は。大勢の人間の叫び声がしたり、突然大岩が転がって来たり、にわかに大水が流れて来たり、幾十人かの片輪者ばかりが、手を繋いで現われたり、そうかと思うと天人のような綺麗な娘が一人きりで、木にもたれてションボリ考えていたり、そうかと思うと神様のような、神々しい老人が虫籠をさげて、木の枝に腰をかけたり、怪しいことばかりがあるのだからなあ……普通の人間の分け入るのを、厭っているのだよ、この森はな。……」
十二
「だから申したのでございます」顫えた声で君江が云う。「小一郎様、一式様、あの森へはおはいりなさいますな。恐ろしい魔所でございます。はいったが最後、お身の上に、きっと危険がございましょう。いけませんいけません。はいっては。……それだのにあの方憑かれたように、スルスルとはいって行かれました。……お父様お父様急ぎましょう! 早く早く目付けましょう! ……どうぞご無事でいられますよう。……妾はこんなに顫えています。……だんだん胸が苦しくなる!」
「そうだそうだ、急がなければならない。早く目付けないと取り返しが付かない。……やいやい野郎ども声を上げろ! お呼びしてみろ、お呼びしてみろ!」
そこで一同呼び立てた。「小一郎様! 一式様!」
声々が森に反響する。「小一郎様!」と返って来る。「一式様!」と返って来る。一緒になって君江も呼んだ。君江の声が一番高い。恋人探しの若い娘の、一生懸命の声だからである。
一人がボーッと竹法螺を吹いた。木精ばかりが、ボーッと返る。
ドンドン一同押し上る。歩きにくい歩きにくい。
と、一所森が途切れ、小広い空地が現われた。そこに一座の大岩があった。その前に一人の武士がいた。他ならぬ一式小一郎で、ピッタリ太刀を構えている。それを半円に取り囲み、十二人の武士が構えていた。
全く意外な光景であった。英五郎も君江も乾児の者も、アッと一時に釘付けになった。
その時である。小一郎は、一躍前へ飛び出した。キラッと光ったは刀であろう。一声悲鳴が森を縫った。一人の武士がぶっ倒れた。しかしその次の瞬間には、十一人の武士がグルグルと、小一郎を真ん中に引っ包んだ。
「お父様!」
「君江!」
と親子二人が、思わずヒョロヒョロとよろめいたのは、一式小一郎が、十一人の武士に、討って取られたと思ったからであろう。が、そいつは杞憂であった。数合の太刀音、数声の悲鳴、二人の武士が転がった。と、爾余の武士達が、ムラムラと左右へ崩れ立った。その隙間から毬のように、ポンと飛び出した武士がある。小一郎だ、岩を背負い、軽傷も負わぬか、たじろぎ もせず、刀を付けて構え込んだ。
「野郎ども!」と英五郎は、はじめて大音を響かせた。「やっつけてしまえ、背後から! 鏖殺にしろ! 三ピンを!」
竹槍、棍棒、道中差し、得物をひっさげた百人あまりの乾児、ワーッとばかり鬨の声を上げた。英五郎を先頭に君江までが、武士達の一団へ切り込んだのである。
しかしこの時何んという、不思議なことが起ったのだろう!
森の奥から気味の悪い、妖精じみた叫び声が、はっきり二声聞こえたのである。
「お山を穢すな! お山を穢すな!」
それからゴーッという音がした。
それから大水が流れて来た。河というよりも滝というべきで、石を転ばせ木を倒し、灌木の茂みを根こそぎ にし、そうして人間を押し流した。小一郎はどうしたろう? 一ツ橋家の武士達はどうしたろう? 英五郎や君江達はどうしたろう?。
さてその日から数日経った。
ここは森林の底である。周囲半里はあるだろうか、大きな池が湛えられている。その岸に点々と家がある。
ひときわ大きな木造家屋は、全く風変りのものであった。一口に云えば和蘭陀風で、柱にも壁にも扉にも、昆虫の図が刻ってある。真昼である、陽があたっている。
と、玄関の戸をひらき、現われた一人の武士がある。何んと一式小一郎ではないか。
前庭をブラブラ歩き出した。
「いい景色だな、風変りの景色だ。日本の景色とは思われない」
こんなことを口の中で呟いている。
「小一郎様」
と呼ぶ声がして、家の背後から現われたのは、笑みを含んだ桔梗様であった。
「ご気分はいかがでございます」
「お蔭で今日はハッキリしました」小一郎は愉快そうに笑い返した。
「憎い大水でございましたことね」
「かえってお蔭で昆虫館へ参られ、私には本望でございましたよ。その上美しい声の主の、あなたにお目にかかれましたのでな」
「おや」と云うと桔梗様は、花壇の方へ眼をやった。四季咲き薔薇の花の蔭から、誰か覗いていたからである。二人の話を盗み聞くように。
十三
「どうなされました?」と小一郎は、桔梗様の顔を見守った。
「いいえ何んでもございません」こう云ったは桔梗様で、いくらか不安そうな様子である。
だが覗いていた眼の主は、すぐに姿を消してしまった。コツンコツンと音がする。松葉杖の音である。覗いていたのは吉次らしい。花壇を巡って立ち去ったらしい。
そこで小一郎と桔梗様とは、大池の方へ歩き出した。
「あの大水には驚きました。幸いに岩蔭におりましたので、私は流されはしませんでしたが、他の連中は一人残らず、流されたことでございましょう」小一郎は笑止らしく云ったものである。
「しかし私も実際のところ、したたか水を飲ませられ、かなりひどい目には合わされましたよ」
「お気の毒でございましたこと」桔梗様は美しく笑ったが、「ご縁があったのでございましょうよ、何んとなく妾心配になり、平素にもなく召使いどもを連れて、あの大岩まで行って見ましたところ、綺麗な若いお侍様が――あなたのことでございますよ――気絶しておいで遊ばすので、すぐお助け致しましたものの、父は不機嫌でございました」
「あなたのお父上昆虫館ご主人、ちと変人でございますな。アッハッハッ」と笑ったが、「学者にあり勝ちの憎人主義者のようで。……それはそうとあの大水、人工だそうでございますな?」
「槓杆一本を動かしさえすれば、大池の水が迸しり、流れ出るのでございます」
「とんでもない悪い槓杆で」小一郎はしかし愉快そうである、「いや俗流を追っ払うには、よい考案でございますよ。承われば、その他にも、いろいろの防備がございますそうで」
「はい」と云ったが桔梗様は、それについて話すのを好まないらしい。ヒョイと話題を変えてしまった。
「厭なお方でございますこと」こんな事を云い出した。
「は?」とちょっとばかり 面喰らったが「どなたでございますな、厭な奴とは?」
「奴などと申しは致しません」――言葉を慎しめと云いたそうに、桔梗様はちょっと睨んだが、
「厭なお方でございますこと」
「は、どうやら私のことのようで?」
「はいはいさようでございますとも」
「すると」小一郎は故意らしく、誇張した悲しそうな表情をしたが、「美しいお声の令嬢に、恋を捧げるということは、あなたにはお気に召さないようで」
「嗜好に合いませんとも、妾にはね」
桔梗様も故意と空呆けた。「恋には捧げようがございますよ」
「承わりましょう、捧げようを?」
「跪座くのでございます」
「ああそれではこんなように」突然小一郎は跪座き、両手を上向けて捧げるようにしたが、「お受けくださいまし、私の恋を!」
「騎士よ」と桔梗様は笑いながら云った。「大岩の蔭や小梅田圃などで、むやみと太刀を揮わないように」
「ああなるほど、そのことで、厭な野郎とおっしゃったのは?」
「厭なお方と申しましたのは」
「心得ました。今後は注意! ――で、令嬢よ、私の恋は?」
「お立ちなさりませ! 妾の騎士!」それから片手をつと延ばした。
その手を握りしめた小一郎は、立ち上がると今度こそ本当に、歓喜の声を上げたものである。
「あああなたは私のものだ!」それから心で考えた。「こんなに早くこの恋が、成り立とうとは思わなかった」
だが桔梗様は不安そうに、「伴いそうでございますよ。恐ろしい恐ろしい危険がね! ああ何んとなく私達の恋には!」
「お信じください」と小一郎は、自分の胸を指さした。「防いでみせます。この楯で」それから両腕を差し出した。「お信じください、この腕を!」
二人優艶に抱き合おうとした。
大池へ通う小径である。小径の左右は花壇である。早春の花が咲いている。縞水仙の黄金色の花、迎春花の紫の花、椿、寒紅梅、ガラントウス、ところどころに灌木がある。白梅が枝を突っ張っている。貝のような花をつけている。昼の陽が小径に零れている。敷かれた砂がキラキラと光る。二人の影が落ちている。行手に見えるは大池の水で箔を置いたように輝いている。背後に立っているのは昆虫館で、玄関の戸が開いている。窓のカーテンは引かれている。柱や板壁に彫りつけられた、昆虫の模様にも陽が射している。
と、そこから呼ぶ声がした。「桔梗、桔梗、ちょっとおいで!」
カーテンが開けられて現われたのは、昆虫館主人の顔であった。
十四
桔梗様と別れた小一郎は、大池の方へ歩き出した。胸の中は幸福で一杯であった。
「態ア見やがれ南部集五郎め!」こんなことを呟いた。「勝ったよ勝ったよ俺の方が、昆虫館も先に探し出したし、美しい声の主の桔梗様も、お前より先に手に入れてしまった。もっとも今のところ『心』だけだが。その中身体だって手に入れて見せる。だが集五郎めどうしたかしら? 大水に流されて谿へ落ち死んでしまやアしないかな」それからまたも呟いた。「態ア見やがれ、阪東小篠め! あんな女には用はない!」ここでちょっとばかり憂鬱になった。「だが君江はどうしたろう? 英五郎殿はどうしたろう? 確かにこの俺を助けようとして、あの時大勢でやって来たが、やはり大水に流されたらしい。死にはしないかな、谿へ落ちて。もしそうなら気の毒なものだ」しかし小一郎は諦めることにした。「考えまいよ、そういうことは。現在の幸福に浸ろうよ」
大池の岸へ出た小一郎は、枯草を敷いて眺めやった。別に変わった池でもない。熔岩だろう黒い岩が、グルリと池を取り巻いている。池の形は楕円形で、いささか人工は加えられているが、天然に出来たものらしい。黒いまでに蒼い水の色、早春の水としては当然である。漣一つ立っていない。すなわち風が吹かないからだ。ちょうど鞣し革でも敷いたようである。一所箔のように輝いている。日光の加減に相違ない。水鳥が幾羽か浮かんでいる。水草がのびのびと流れている。じっと見ていると心が和み、つい恍惚となってしまう。
池の周囲に点々と、沢山の家が立っている。それとて変わった造りではない。小さな木造の日本家屋である。だがいずれも平屋建てで、障子が白々と陽に光っている。ここの住民は花好きと見え、家々の前庭には花壇があり、早春の花が咲いている。
池と家とを守護るようにして、空を摩すような大森林が、錆びた鉄のような頑丈な幹と、黒曜石のような黒い葉とで、周囲をグルリと取り巻いているのは、まさしく偉観と云ってよかった。で、この場の風景は、こんなように形容することが出来る。大森林という円筒の中に、穏かな池と可愛らしい家と、そうして美しい花壇とが、こっぽり 囲まれて出来ていて、そこで大勢の人達が、さも愉快そうに働いていると。――
全く大勢の人達が、そこで働いているのであった。家の中にも人がいる。家の外にも人がいる。みんなクルクルと動き廻わっている。男もいれば女もいる、年寄りもいれば子供もいる。笑い声、話し声、唄い声、それが快い合唱となって、大池の方へ蒔かれている。何を働いているのだろう? 昆虫館の館主のために、各自の仕事をしているらしい。
森林にかこまれているためか、寒い風など吹いて来ない。季節はたしかに一月だが、気候から云えば三月のようだ。いい天気だ、あたり明るく、小鳥が八方で啼いている。桃源境! 別天地! だが不具者の社会でもあった。
と云うのはそうやって働いている、大勢の人間の一人一人が、片耳であったり片足であったり、てんぼう であったり盲目であったり、唖者であったり聾者であったり、満足な人間はないからであった。
想うに碩学昆虫館主人が、世の廃人を拾い集め、ここに別社会を建設し、何らか事業をしているのらしい。
だが遠くから見ていると、不具者などとは思われない。みんな健康そうな人間に見える。
「平和で長閑で美しい。いい境地だ。住みよさそうだ」うっとりしながら小一郎は、こんなことを考えた。「あの桔梗様と婚礼をし、あの学者を舅に持ち、ここでいつまでも住みたいものだ」
少し睡気がさして来た。横になろうとした。しかしその時近寄って来る、人の気勢が感じられた。コツンコツンと松葉杖の音が、灌木の叢の裾を巡り、現われたのは片足の吉次で、小一郎の前へ立ち止まると、不遜な目付きでジロジロと、小一郎の体を嘗め廻わしたが、
「騎士よ」と云い出したものである。それから嗄れ声で笑い出してしまった。笑いおえると云ったものである。「ここ神秘なる昆虫館で、厳重に禁じられているものを、一式氏にはご存知ないと見える」
「厭な奴だな」と小一郎は、快い睡気を醒ましたが、明るくて皮肉な性質である。負けずに云い返した。
「拙者新米、昆虫館の掟、さようさ、とんと 存じませんて」
「そうらしいの」と片足の吉次は、いよいよ不遜な態度をとったが、「穢してはならぬよ! 女王をな! 女王との恋は禁じられているよ」
「ははん、さようか、それはそれは」一式小一郎はこう云ったが、女王が何者だかということは、すぐに推察することが出来た。
十五
そこで小一郎は云い出した。
「穢しはせぬよ、崇めるばかりだ」
「それがいけない」と片足の吉次は、「崇めた後では穢すものさ」
「名言」と小一郎は一笑してしまった。「君の人情観察には、徹底したものがあるらしい。で、一応は受け入れて置こう」
「守らっしゃい!」と押し付けるような声で、吉次はグッとたしなめ にかかった。「いっそ昆虫館をお立ち去りなされ!」
「さあてね」と小一郎は、わざと困ったような顔をしたが、「女王殿下が許しましょうかしら?」
「ソレソレソレ、それが悪い!」吉次は今度は叱るように、「許すもない、許さないもない、本来神秘昆虫館へは、下界の人間を入れぬが規則、そいつを破って貴殿一人を、ここへ住居を許したのは、桔梗様特別のお慈悲だからだ」
「だからよ」と小一郎は冷っこく、「その桔梗様がこの拙者を、お放しなさるまいと云っているのさ」
「だからよ」と吉次も云い返した。「そういうお慈悲深い桔梗様だ、恋してはならぬ、手を取ってはならぬ、うむ、そうして跪座いてはならぬ」
「ははあ隙見をしていたな」
「見守っていたのだ、厳しくな!」
「手を下されたのは桔梗様だ」
「お前がそれを強請んだからさ」
「恋の告白をしただけさ」
「オイ」と吉次は憎々しく、「この昆虫館にいるほどの者で、誰一人として桔梗様を、恋していない者はないのだよ。ただそいつを云い出さないまでさ!」
「そこでこの俺が云い出したのさ」
「そうだ、外来者の外道めが!」
「外道、よかろう、恋の勝利者!」
「俺が許さぬ!」とヌッと吉次は、松葉杖を上げると進み出た。
「俺が許さぬ! な、俺が!」
だがどうやら小一郎には、一向それが風馬牛らしい。「いったいお前は何者かな? 兄か、弟か、桔梗様の?」
「世にも忠実なる女王の僕さ!」これが吉次の返辞であった。
「そうか」と小一郎はゲラゲラ笑い、「引き立ててやろう、この俺がだ! 女王の※ 馬になった時!」
怒るかと思ったら反対であった。片足の吉次は、声を窃め、諂うように頼むように、囁くような声で云ったものである。
「まあさまあさ小一郎殿、角目立つのは止めにしましょう。お互いろくなことはありませんからな。で、今度はご相談、いやいやむしろお願いでござる。と云うのは他でもないが、今も私申しました通り、昆虫館に住むほどの者で、あのお美しい桔梗様を、愛し崇めていない者は、一人もないのでございますよ。まさしく文字通り女王様でござる。だからどうしてもあの方だけは、永遠の処女で置かなければ、治まりがつかないのでございますよ。一人が占有しようものなら、それこそ誰も彼も怒りますて。まして貴殿は外来者、そうでなくてさえ白い眼で、みんなに見られているのでござる。そういう貴殿が占有したとあっては、昆虫館住民一斉に、騒ぎ立てるは見たようなもの、これが私には心配でな……。で願わくば昆虫館を、至急お立ち去りくだされたいもので」ここで上眼を使ったが、さらに一段声を窃め、「それが厭だとおっしゃるなら、よろしいよろしいお住居なされ。ただし充分ご注意くだされ、今後は決して桔梗様の側へ、お立ち寄りなどなさいませんよう。そうして」と云うと狡猾らしく、二、三度眼瞼を叩いたが、「そうしてどうぞ桔梗様へ、このようにおっしゃっていただきたいもので、『先刻下されたあの御手は、何かのお間違いかと存ぜられます。で、私におきましては、失礼ながらあなた様との恋は、この際お断わり致します』とな。……そうするといつまでもこの里は、平和を保つことが出来ますので」
こう云われて見れば小一郎も、一思案せざるを得なかった。
「なるほどな、そんなものかも知れない」心の中で呟いた。「昆虫館住民一人残らず、桔梗様を崇めているという、これには嘘はなさそうだ。外来者の俺が占有したら、たしかに不快に思うだろう。せっかくの平和が破れるだろう。こうなっては仕方がない。惜しい恋人ではあるけれど、桔梗様を見棄ててここを去ろう。そうして一まず関宿へ帰り、角屋の安否を尋ねて見よう。それから江戸へ帰るとしよう。だが待てよ」と小一郎は、吉次の顔をつくづくと見た。「醜貌ながらも智恵ありげだ。それもどうやら邪智らしい。こいつの言葉をそのままに、はたして受け取っていいだろうか?」ふとこの点へ気が付いた。
と、早くも片足の吉次は、小一郎の心中を読んだらしい。ヒョイと二、三歩飛び退ると、俄然態度を一変した。
十六
「ふふん」とまずもって片足の吉次は、毒々しく笑ったものである。
「承知か、それとも断わるか、俺の云うこと、どうだどうだ! もしも」と云うとピョンピョンと、二足ばかり飛び出したが、「断わると云うなら覚悟がある! 落ち下るぞよ、恐ろしい危険が! しかも即座だ! さあ返答!」
云いながら奇妙にも全身を、満足の一本の足の方へ、そろりそろりと傾けて来た。
「はたしてこいつ奸物だわい」見抜いた一式小一郎は、グンと突っ刎ねたものである。「恋も捨てぬよ、この地へも止どまる、アッハッハッ、気の毒だなア」
「きっとか!」と吉次は、いよいよ益※ 、片足へ全身をもたせかけたが、心持ち両肩を縮めると、首を突き出し、上眼を使い、狙ったは小一郎の頤の辺。「見損なうなよ、この吉次を!」
「見損なうなよ、一式小一郎を」
とたんに、「うん!」という凄い呻きが、吉次の口から迸しったが、瞬間ピューッと空を裂き、刎ね上がったは松葉杖で、ピカッと光ったは杖の先に、取り付けてある鋼鉄の環、それとて尋常なものではない、無数の鋭い金属性の棘で、鎧われたところの環である。意外な利器、素晴らしい手並み、しかも呼吸の辛辣さ、武道以外の神妙の武道!
「あっ」と叫んだは小一郎で、微塵に下頤を叩っ壊され、上下の歯を吹き飛ばし、舌を噛み切り血嘔吐を吐き、グ――ッ背後態にへたばったなら、ヤクザな武士と云わなければならない。何んの小一郎が、そんな武士なものか、「あっ」と叫んだ一刹那、大略二間背後の方へ、束に飛び返っていたのである。
柄へ片手はかけたものの、抜こうともせず悠然と、吉次の様子を眺めやった。
すると吉次は、一本足で立ち、高々と松葉杖を振り上げたが、姿勢の立派さ、驚くばかり、地へ生え抜いた樫の木だ。と、そろそろと松葉杖を、下へ下へと下ろして来た。トンと突くと倚っかかり、して云い出したものである。
「見事、さすがは、一式氏、よく避けましたな、拙者の一撃! 百に一人もなかった筈だ。だが……」と云うとピョンピョンと飛んだ。「二撃がある、三撃がある、四撃五撃といつまでも襲う! 遁がさぬぞよ、遁がすものか! 逃げたら卑怯、武士とは云わせぬ! さあ抜け抜け、汝も抜け!」
小一郎の前方約一間、そこまで迫って来た片足の吉次は、例によって全身を左へ傾け、一本の足で支えたが、ジリジリジリジリと松葉杖を、上へ上へと上げて来る。狙いはどこだ。解らない! ただジリジリと上げて来る。
「ちょっと凄い」と小一郎は、睨み付けながら考えた。「足か、胴か、横面か、それとも頤か、さっきのように。……あいつ を受けたら粉微塵、骨肉共にけし 飛ぶだろう。……習った武道とは思われない。あしらいにくいよそれだけに。……切って捨てるに訳はないが、しかし相手は片輪者、それに昆虫館土着の人間、非難が起ころう、討ち果たしてはな」
思案に余ってしまったのである。
その間もジリジリと松葉杖は、上へ上へと上がって来る。一尺二尺、さて三尺! と、グ――ッと振り冠った。光るは棘のある環である。陽に反射してキラキラキラキラと、非常に綺麗な宝石のようだ。そうして吉次は、一本足で、ヌ――ッと突っ立ち微動もしない。例によって樫の木、生え抜いたようだ。
と、何んとその吉次であるが、翻然片足を刎ね返すと、小一郎の正面三尺の地点、そこまで飛び込んで来たではないか。
同時に「うん」という例の呻きが、吉次の口から迸しるや、シ――ン真っ向から松葉杖が、小一郎の脳天へ降り下ろされた。
ひっ 外して 外して」は底本では「ひっ外 して」]右へ小一郎が、飛び交うのを追っかけた吉次の、その素早さ、どうでも妖怪、二本足のある人間より、遙かに遙かに遙かに早い。
「ド、どうだア――ッ」と松葉杖で、一式小一郎の足を払った。
きわどく、左転、小一郎は、飛び交ったが決心した。
「もういけない、叩っ切ってやろう!」
腰を捻ったおりからであった、「一式様」と、呼ぶ声がした。つづいて、「吉次や!」と同じ声がした。
すがすがしい桔梗様の声である。
その桔梗様は花壇を巡り、二人の方へ近寄って来た。
「お話しいたしたいと申しまして、父が待っておられます。おいでくださいまし、一式様」
吉次の方へ顔を向けた。
「行って砂糖をやっておくれ、蜜蜂を飢えさせていけません」
十七
ここは昆虫館館主の部屋で、和蘭陀風に装飾われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所に額がある。昆虫の絵が描かれてある。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外に向かって二つの窓、その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻られてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄かな芳香が馨って来る。長椅子、卓子、肘掛椅子、暖炉、書棚、和蘭陀箪笥、いろいろの調度や器具の類が、整然と位置を保っている。特に大きいのは書棚である。幅一間、高さ一間半、そんなにも大きい頑丈な書棚が、三個並列して置かれてある。だがそれでも足りないと見え、塗り込めになっている書棚があり、昆虫を刺繍した真紅の垂れ布が、ダラリと襞をなしてかかっている。いやそれでも足りないと見え、二個の瀟洒とした廻転書架が、部屋の片隅に置かれてある。さてそれらの書棚であるが、日本の書籍などきわめて少く、大方洋書と漢書とで、ふくれ 上がるほど充たされている。
パチパチパチパチと音がする。暖炉で燃えている火の音である。暖炉の上に置かれてある花は、五月に咲くというトリテリヤである。温室花に相違ない。床には絨緞が敷かれてある。やはり昆虫の模様があり、その地色は薄緑である。
それは黒檀に相違あるまい、しなやか に作られた卓子の上に、幾個もの虫箱が置いてある。いや虫箱はそればかりではない。ほとんど無数に天井から、絹紐をもって釣り下げられてある。で、この部屋へはいる者は、多少頭を下げなければ、その虫箱に額をぶッつけ 、軽傷を負わなければならないだろう。
一方の壁に扉がある。隣り部屋へ通う扉らしい。
「誓ってこの扉をひらくべからず」
こういう張り紙が張られてある。秘密の部屋に相違ない。
もう一つの壁にも扉がある。それは廊下への出入口で、その扉にも昆虫の図が、彫刻られてあることはいうまでもない。
窓から日光が射し込んでいる。その日光に照らされて、書き物卓子が明るく輝き、一枚の図案を照らしている。図案というより模様と云った方がいい。微妙な単純な斑紋を持った、一個の蝶の模様である。絵と云った方がよいかも知れない。
長椅子にゆったり腰かけながら、話しているのは昆虫館主人で、鵞ペンを指先で弄んでいる。大分機嫌がいいらしい。
「……あなたは全くいい人だ。あなたのような人物なら、決して私は苦情は云わない。いつまでも昆虫館においでください。……だが恐らくあなたとしては、さぞ不思議に思われましょうな。私のこういう生活と、そうしてここの社会とが。……第一住んでいる人間が、私と桔梗とを抜かしてしまえば、全部が全部不具者というのが、不思議に思われるに相違ありますまいな。だがこれとて何んでもないことで、由来不具者というものは、その肉体が不具だけに、心も不具だと思われていますが、これはとんでもない間違いなので、本当のところは正反対ですよ。肉体が不具であるだけに、心の中にひけめ があり、傲慢にならずに謙遜になります。人を憎まず、愛されようとします。ところが一般世間なるものは、そういう心持ちを理解せずに、肉体が不具だという点で、その不具者を軽蔑しますね。これが非常によくないことで、これあるがために不具者達は、僻み心を起こすのです。だから私としてはこういうことが云えます。健全な肉体の持ち主こそ、かえって心は不具者で、不具な肉体の持ち主こそ、その心は健全であるとね。そこで私は考えたのです。不具者ばかりを寄せ集め、一つの独立した社会を作ろう、そうしてそういう人達に、思う存分働いて貰い、私の研究をつづけて行こう。……と、こんなようにお話ししたら、この昆虫館の組織なるものが、奇もない変もない合理的なものだと、きっとあなただって思われるでしょうな。そうしてそれはそうなのですよ。……さてところで私の研究ですが、これとて何んでもありゃアしません。私の好きなは昆虫なので、その昆虫の生活状態を、科学的に徹底的に研究してみよう、そうしてその結果法則を見出し、それが人生に必要なものなら、早速人生に応用してみよう。――と云うぐらいなものなのでね。……この試みは成功でした。蜂と蟻との集団生活、この二つを知ることによって、理想的人間の生活の、法則を知ることが出来ましたよ。で、その中あなたへも、お話ししようとは思っていますが、一口に云えばこうなるようです。王への忠誠、公平の労働、完全の分業、協同的動作、等、等、等、といったようなものでね。いや実際人間などより、どんなにか昆虫の生活の方が、正しくて平等だか知れませんよ」
学者らしい淡々とした口調である。
向かい合って椅子へ腰をかけ、聞いているのは一式小一郎で、その顔付きは熱心である。
十八
「だがご主人」と小一郎は、躊躇しながらも訊いてみた。「世間の噂によりますと、永生の蝶とかいう不思議な蝶が、この昆虫館にはありますそうで、どういう蝶なのでございましょう?」
するとにわかに昆虫館主人は、いくらか憂鬱な顔をしたが、「結局私にも解らないのです」
「ははあ」と云ったが一式小一郎は、ちょっと物足りない思いがした。
「雄と雌との二匹がいて、二つを交尾えて子を産ませた時、莫大な財宝を得られるという、伝説的の蝶だそうで?」
「あれは絶対に子を産みませんよ」どうしたものか昆虫館主人は、こうにべもなく云ったものである。
「人工的蝶でございますからな」
「ははあなるほど、人工的なもので?」
「だがやっぱり生きてはいます」
これは小一郎には解らなかった。
「では人間の力をもって、生命というものは作れますもので?」
「さあそいつ も解らない」主人はいよいよ憂鬱になったが、「とにかくあの蝶は人工的のもので、非常な大昔に作られたものです。しかしやっぱり活きてはいます。だが絶対に子は産みません。しかしひょっとか すると すると」は底本では「しかしひょっ とかすると」]産むかもしれない。それとて普通に云われている、子というものとは違いますなあ。千古の秘密は持っています。だがその謎は解けませんよ。私にさえ解けなかった謎ですからな。しかも不覚にもこの私は、雄蝶の方を逃がしてしまいました」
「ああその雄蝶をお探しになるため、小梅田圃などへ参られましたので。……それにしてもあの時お声だけ聞こえて、お姿の見えなかったのはどうしたのでしょう?」
「藪の中にはいっていたからですよ」
こう聞いてみれば何んでもなかった。むしろ飽気ないくらいである。
しばらく部屋の中はしずかである。働きながら唄っているらしい、昆虫館住民の歌声が、窓を通して聞こえて来る。平和と喜びの歌声である。
と、不意に昆虫館主人は、卓上の図案を指さしたが、
「これでござるよ、一式氏、行衛を失なった雄蝶というのは」声がにわかに威厳を持って来た。
そこで一式小一郎は、じっと図案を眺めやった。翅に付いている斑紋が、とりわけ小一郎には奇妙に見えた。普通の蝶の斑紋ではない。それは地図のような斑紋である。どんな人間でも一眼見たら、オヤと思わざるを得ないほど、変わった斑紋と云ってよい。
「奇妙な斑紋でございますな」
「さよう」と主人は頷いたが、「もう一匹の蝶の翅にも、これに似た斑紋がありましてな、どうやら私の考えによれば、どこかの地図かと思われますよ」
でまた部屋の中がしずかになった。やっぱり歌声が聞こえて来る。窓から花の香が馨って来る。早春などとは思われない。汗ばむほどに暖かい。どうでも酣の春のようだ。
「それに致しても」と小一郎は不審しそうに訊き出した。
「どうして先生にはそんな蝶を、お手に入れられたのでございますかな?」
「さあ」と云ったが昆虫館主人は、ここで沈黙をしてしまった。と、気軽に云い出した。「和蘭陀の首府ブラッセル、そこで偶然手に入れましたよ」それからこだわらず に云いつづけた。
「私はこれでも名門でな、門地から云えば徳川の連枝、もっとも三代将軍の頃、故あって家は潰されましたが、血統だけは今に続き、まず私が直系の後胤、青年の頃から欧羅巴へ渡り、そこで一通り昆虫学を学び、帰朝したのは最近のことで。……がマアそれはどうでもよい、ところで問題の雌雄の蝶だが、これは決して外国産ではなく、作られたのは間違いなく日本、それから朝鮮、支那を経て、和蘭陀の国へ渡ったようです。証拠もいろいろありますが、それは専門に属していることで、お話ししても解りますまい。……これは可笑しい!」
と昆虫館主人は、にわかに長椅子から突っ立ち上がった。
「敏感な麝香虫が騒ぎ出した」スルスルと窓まで走ったが、「困ったことだ! 何か起こる! 俺には解る、大事件が起こる!」
ちょうどこの頃のことである。片手の小男が馬に乗り、関宿とは反対の方角から、大森林を上へ上へと、昆虫館を目差して走っていた。非常に周章てているらしい。非常に恐怖しているらしい。
「さあ大変だ大変だ、早く先生へお告げしなければならない。攻めて来る攻めて来る彼奴らが!」
こんなことを口の中で呟いている。馬術は精妙、木立をくぐり、険路を突破して走って来る。
やがて間もなくこの伝騎は昆虫館へ馳せ付けるだろう、そうしたら何かが語られるだろう。美しい平和な昆虫館に、そのため騒動が起こらなければよいが。
伝騎が着いた。小男が叫んだ。――
「ご用心なさりませ、山尼の徒が、続々入り込んで参りました!」
十九
「昆虫館閉鎖は山尼の徒の為なり」
こう古文書に記されてある。
山尼というのは何んだろう? いわゆる山姥の別名なのだろうか? それはハッキリ解らない。とにかく山間に住んでいる、一種の神秘的の人間らしい。どうしてそういう山尼の徒が、昆虫館を閉ざしたのだろう? それもハッキリ解らない。ただし昆虫館を閉ざしたのは、むしろ館主自身なのであった。
「山尼の徒が攻めて来た!」――伝騎が昆虫館へ知らせて来ると共に、次のような事件が起こったのである。
(一)「とうとう俺の心配していた、恐ろしい敵が攻めて来た。戦えばこっちの負けである。彼らはこの俺から永生の蝶を、手放させようとしているのだ。これはどうでも放さなければならない」こう云いながら昆虫館館主が、一匹残っていた雌蝶の方を、空高く放してやった事。
(二)「昆虫館は閉鎖する。館民は自由に立ち去るがいい」こう云いながら昆虫館館主が、建物の内へ引き籠ったので、多くの集まっていた片輪者達が、館を見すてて立ち去った事。
(三)ただし助手の吉次だけが、一人頑固に居残った事。
(四)桔梗様も父の館主と共に、昆虫館の内へ籠ってしまった事。
(五)そこで一式小一郎は、一旦関宿へ引っ返し、水難を遁がれた英五郎や君江と、再び顔を合わせた事。
美しくて平和で神秘的であった昆虫館という別社会は、こうして実に一朝にして、寂寞の天地に化したのであった。
さてその日から十日ほど経ったあるよく晴れた快い日に、一人の武士が馬に乗り、一人の女馬子が手綱を引き、三浦半島の野の路を、江戸の方へ向かって辿っていた。
武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であった。
「もうお帰りなさいまし」こう云ったのは小一郎である。
君江は笑って聞こうともしない。「いいえお送り致します」
そこで小一郎は揶揄うように、「かえって迷惑でございますよ」
君江は承知だというように、「お気の毒さまでございますこと」
今度は小一郎怒ったように、「ちと無礼ではございませんかな」
「まんざらそうでもございますまい」君江は少しも動じない。
シャン、シャン、シャンと鈴の音、カバ、カバ、カバと蹄の音、二人の旅はつづいて行く。
「どこまでお送りくださるので?」やがて小一郎はこう訊いた。
「はい、どこへでも、あなたまかせ」君江の返辞はハッキリしている。
「拙者、江戸表へ帰ります」
「それでは江戸までお送りします」
「いささか執拗ではござらぬかな」小一郎は今度は窘めにかかった。
「妾の性質でございます」依然として君江は驚かない。
「江戸までお送りくださるとして、一人で帰られるのは寂しかろうに」小一郎は今度は同情してしまった。
「何んの妾帰りましょう」
「え?」と小一郎は訊き返した。
「妾、いつまでもお側にいます」
「ははあさようで、それはそれは、しかし拙者は江戸へ帰れば、父の邸へ入るつもりで」
「お小間使いとなって住み込みます」君江は益※ 長閑そうである。
「驚きましたな」と小一郎はほんとにひどく 驚いてしまった。「誰が小間使いに頼みますので?」
「ホ、ホ、ホ、ホ、あなた様が」
「いやはやどうも」と小一郎はさらに驚きを重ねたが、「拙者決して雇いませんな」
「何んのお雇いなさいますとも」君江はすっかり安心している。「こんないい小間使いでございますもの」
――どうにもこうにもやり切れない――小一郎は当惑したものである。そこで改めて云って見た。「いやいや拙者江戸へ帰っても、父の邸へは入りますまい。一戸を借り受け所帯を張ります。さよう剣術の道場をな、荒くれ男達が出入りしましょう」
こいつを聞くと娘の君江は、さも嬉しそうに晴々《はればれ》と云った。
「まあまあ結構でございますこと、それでは妾妹として、お勝手の切り盛りを致しましょう」
――最初からこの娘には嚇されたが、どうやら最後まで嚇されそうだ。――さすがの一式小一郎も、微苦笑せざるを得なかった。
二十
だが一式小一郎には、君江の心が解っていた。「無茶苦茶にこの俺を愛しているのさ」
そうしてそれは小一郎にとっては、決して不愉快ではないのであった。否々むしろ嬉しいのであった。
「何んと云っても風変りの娘さ。こんな娘と所帯を持ち、町家住居をやらかしたら、とんだ面白い日が暮らせるかもしれない」
そうはいっても小一郎には、桔梗様のことが忘れられなかった。「あの桔梗様の美しさは、いわば類稀れなるものだ。君江などとは比べものにはならない」とはいえ今に至っては、どうすることも出来なかった。「それにしてもどうして桔梗様は、この俺の恋を入れながら、この俺と一緒に来ようとはせず、昆虫館などへ残ったのだろう?」これがどうにも不平であった。「恋人の愛より親の愛の方が、魅力があったというものかな?」そうとしかとるより仕方なかった。「若い娘というものは、親の愛なんか蹴飛ばしても、愛人の方へ来るものだと、俺は今日まで思っていたが、どうもね、今度は失敗したよ」それが不服でならなかった。
にわかに小一郎は馬の上で、ク、ク、クッと笑い出してしまった。
「何んの馬鹿らしい、考えてみれば、せっかく昆虫館をさがし中てた結果、いったい何を得たかというに、あの『騎士よ』という言葉だけだったってものさ」
自嘲的にならざるを得なかった。
「何をお笑いなさいます?」君江はちょっとばかり怪訝そうに訊いた。
「騎士よ、騎士よ、ハッハッハッ、こんな言葉を覚えましたので」
「綺麗な言葉でございますこと」
「その癖中身はからっぽ で」
「どういう意味なのでございましょう?」
「恋人の前へ跪坐き、恋人のお手々を頂戴し、そのあげくお手々をふんだくられ 、ひどい目に会わされるさむらい の、毛唐語だそうでございますよ。云ってみればちょうど拙者のようなもので」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな騎士!」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな拙者!」
「でも、妾なら裏切りません」
「また拙者にしてからが、あなたの前では跪坐きません」
「好きでございます、そういうお方こそ。……女を認めないで虐めるお方! 本当の男でございます」
二人の旅はつづいて行く。
ふと小一郎は気になった。
「ご両親はご承知でございましょうな? あなたが拙者と住むことを?」
「妾、勘定に入れませんでした」
「ああ」と思わず小一郎は、嘆息の声を筒抜かせた。それから口の中で呟いた。「何も彼も一切反対だ、あの桔梗様とこの君江とは」
二月である。野は寒い。枯草がサラサラと戦いでいる。山々が固黒く縮こまっている。花などどこにも咲いていない。旅人の姿も見あたらない。ひっそり閑とただ寂しい。
シャン、シャン、シャン……カバ、カバ、カバ、この音ばかりが響き渡る。二人ながら今は黙ってしまった。江戸へ江戸へと歩いて行く。が、このまま江戸入りをしたら、奇もなければ変もない、平凡な旅だと云わなければなるまい。ところが一つの事件が起こった。と云うのは林へ差しかかった時、枯葉でもあろうヒラヒラと、一葉の葉が舞って来た。全く無意識というやつである、ヒョイと小一郎は右手を出し、パッとばかりに掌で受けた。
と、落ちて来たその木の葉であるが、掌の上に静もったが……
見れば!
蝶だ!
季節違いの!
「ううむ」と小一郎は翅を見た。「斑紋がある! あの斑紋!」それからホーッと吐息をした。
「ああこれこそ永生の蝶!」
さてこの蝶を得たばかりに、江戸入りをした小一郎はさまざまの危難に遭遇し、その剣侠の剣侠たる所以を、縦横に発揮することになった。
二十一
春がやって来て春が去り、江戸の町々は初夏となった。
ここは深川上の橋附近の、中洲の渡しに程近い地点で、そこにささやかな町道場があった。道場の主人は一式小一郎で、君江と二人で住んでいる。一人甚吉という下男がいる。内弟子もない質素な住居――と云いたいがそうでもない、いろいろの人間が集まって来た。浪人、遊び人、小旗本の次男、仲のよい田安家の友人達、安御家人やごろん 棒、剣術好きの町家の番頭、それから勇みの鳶の者。
鐘巻流剣道指南。
門に看板が上がっている。
時々竹刀の音もするが、それより無駄話や高笑いの方が、一層繁く聞こえて来た。
剣道指南所というよりも、倶楽部と云った方がよさそうである。
「父親から仕送りが来るんだよ、束脩や月謝なんか宛にするものか」
これが小一郎の心持ちであった。
父清左衛門云って曰く、「どうせお前は次男の身分だ。養子に行くか別家するか、どうかしなければならないのだが、どっちもお前には適しないらしい。戦国の世にでも産まれたら、小城の主ぐらいにはなれたかもしれない。ちょっと当世には向かない性だ。遊侠の徒になるもよかろう。町道場をひらくもいい。好きな娘とくらすもいい。そうしてそうやってくらしていることが、やがては君侯田安家のおために、ならないこともなかろうからな。いろいろの人間と交わって、沢山同志をつくるもよかろう。台所の方は引き受けたよ。まさかお前に食い潰されもしまい」
こういう背後楯があるのである。小一郎たるもの喜ばざるを得ない。
とはいえ一式小一郎は、そういう父の寛大に付け込み、暢気に遊んでいるような、そんなナマクラな人物ではなかった。
「手に入れた永生の蝶の秘密を、是非とも解いて見たいものだ」――こいつに腐心をしているのであった。
さてその永生の蝶であるが、まことに不思議なものであった。たしかにそいつは生きていた。呼吸もしていれば脈搏っている。しかし翅から肢体から、普通の蝶とはまるで異う。普通の蝶のように軟らかくない。鋼鉄で造られているのである。――いや鋼鉄で造られていると、そう云わなければ云いようのないほど、特殊の堅い物質で、精巧に造られているのである。
それは実際こういうことが出来る。
――生命を持った人工の蝶と!
火にくべても焼けそうもなく、水へ入れても溺れそうになく、懐中へ入れて抱きしめても、潰れもしなければ死にもしない。
水も飲めば砂糖も食べる、そうして部屋の中を舞い遊ぶ、指を差し出せば指へも止まる、そうかと思うと幾日も幾日も、一つ所に静まっている。
普通の蝶のように驚き易く、その上もなく敏感かと思うと、無生物のように鈍感でもある。
「奇怪な存在」と云わざるを得ない。
「だがいったいこの蝶は、雄蝶の方だろうか雌蝶の方だろうか?」これが小一郎には疑問であった。「もしこいつが雄蝶だとすれば、昆虫館から盗まれたものだし、もしもこいつが雌蝶だとすれば、昆虫館主が逃がしたものだ」しかし遺憾ながら小一郎には、雌雄の見分けが付かなかった。「昆虫館主の話によれば、翅に置いてある斑紋が、非常に大切だということだが、どうしてこんな斑紋が、そんなにまでも大切なんだろう?」――小一郎の手に入れた蝶の翅にも、地図のような斑紋が置いてあった。
「盗まれたという雄蝶の翅に、置いてあったという斑紋を、俺は昆虫館館主の部屋で、昆虫館主によって見せられたが、その斑紋と非常に似ている。ではこの蝶は雄蝶だろうか? しかしその時昆虫館主は、もう一匹の雌蝶の翅にも、そっくりの斑紋があると云った。ではこの蝶は雌蝶かも知れない。……俺は実際惜しいことをしたよ、あの時見せられた雄蝶の斑紋を、もっと詳しく見て置けばよかった。不幸にも俺は瞥見しただけだ。で、ハッキリとは覚えていない。で、この蝶の斑紋が、雄蝶の斑紋だとは云い切れない。そうして一方雌蝶の方は、俺は全然見ていない。だが」と小一郎は考えた。「雄蝶であろうと雌蝶であろうと、そんな事は結局どうでもいい。是非ともこの際必要なのは、もう一匹蝶を目付けることだ」
ところがこの蝶を手に入れて以来、そうして道場を持って以来、次々に左のような奇怪なことが、小一郎の身の上に起こって来た。
(一)絶えず何者か小一郎の家を、深夜になると立ち廻わる事。
(二)一回夜の往来で、何者か小一郎を襲った事。
(三)一回小一郎の不在中に、何者か小一郎の家を襲い、乱暴狼藉を極めた事。
(四)そのつど不思議な美人が現われ、小一郎を危難から救った事。
(五)敵の中にも美人がいて、それが指図をしていた事。
二十二
第一の場合はこうであった。
夜更け人帰り寝静まった頃、家の周囲を忍びやかに、幾人かの者が歩き廻わり、囁き合ったり合図し合ったり、どうやら家の中へ忍び込もうとする、そういう気勢を示すのであった。ある夜の如きは厳重な雨戸が、自然にス――と開いたかと思うと、長い白布がヒラヒラと、生あるもののように入り込んで来て、パッと消滅したりした。突然窓があくこともあった。そうしてそこから袋のような物が、ヒョイと「顔」を覗かせたりした。そうかと思うと若い女の声で「経」を読むのが聞こえたりした。もっともその「経」は意味の解らない、呪文のようなものであったけれど……
第二の場合はこうであった。
ある夜一式小一郎は、お茶の水の辺を歩いていた。と突然七、八人の武士が、お誂え通りの黒装束で、木蔭からムラムラと現われたかと思うと、刀を抜き連れて切ってかかった。何者? と訊いたが答えがない。止むを得ず小一郎も刀を抜き、峯打ちに二、三人叩き倒した。と、若々しい女の声で「妾にお任せよ」というのが聞こえ、それと同時に長い白布が、ヒラヒラと小一郎の方へ延びて来た。と思った瞬間に、小一郎はポッと気が遠くなり、グッタリ地上へ倒れてしまった。それからどうやら武士達は、小一郎の体を調べたらしい。そんなように小一郎には感じられた。「持っていないよ。残念だね」こう云う女の声もした。それから幾刻経ったろうか、誰かが介抱するようであった。で、ポッカリ眼を覚ますと、やはり黒装束で身を固めた、五、六人の武士が並んでいたがそれは敵ではなさそうであった。
「我ら介抱いたしてござる。ひどい目に会われたな、ご用心なされ」
こう云いすてると立ち去ってしまった。たしかにその中に一人の女が、立ち雑っているように思われた。
第三の場合はこうである。――
ある夜友人の一人から、一杯飲もうという使いが来たので、指定された茶屋へ行ってみた。ところが友人はやって来ない。酒を命じ女をよび、夜の更けるまで待ってみたが、さらに友人はやって来ない。「ははあ」と感付いた小一郎は、いそいで家へ帰って見ると、家内は乱暴狼藉を極め、君江がその眼を真ん丸にし、こんな事を云って説明した。「黒装束のお侍さん達が、ドタドタ家の中へはいって来て、『どこにあるどこにある』と云いながら、何かを探したのでございます。するとその時戸外の方から女の声が聞こえました。呼びかけたのでございます。すると黒装束の武士の中からも、一人の女の声がして、どうやらそれに答えたようでした。そうしてすぐに周章てたように、みんな立ち去ってしまいました」
「ははあ」と小一郎は自分へ云った。「永生の蝶を探しているのだ。この前お茶の水で襲われた時、おおかたそうだろうと思ったのだ。今夜は懐中へ入れて行ったので、幸い取られはしなかったが、いささか物騒になった。……二つの出来事を推し計ると、蝶を盗もうとする者と、保護をしようとする者と、二組あるように思われる。いったいどういう連中だろう? そうしてこの俺が永生の蝶を、所持しているということを、どうして知っているのだろう? ……どっちみちこうも襲われては、俺といえどもやり切れないよ。さてどうしたものだろう?」
一式小一郎も参ってしまった。
「面倒臭いから放してしまうか」こんなようにさえ思うようになった。
だがその後しばらくの間は、これという変ったこともなく、まずは平穏無事であった。しかし小一郎は油断せず、外出をする時には、永生の蝶を懐中に入れ、またある時は家へ残して出た。
相変らず色々の人間が、小一郎の道場へ出入りした。全身綺麗に刺青をした遊び人などもやって来た。
豪放快活で洒落気があって、一面蕩児の気持ちをさえ備えているところの小一郎である。ふと刺青に誘惑された。
「よしよし俺も刻ってやろう」
そこでその頃有名の、浅草にいる刺青師の、蔦源の店へ出かけて行き、刺青を彫って貰ったりした。
「これでどうやらこの俺も、一人前の悪武士になったらしい。アッハハ、面白いなあ。どうせ浮世は思うようにはならない。したい三昧をするがいいさ。……だがどうも俺はこの頃になって、少し性質が変わったようだ。桔梗様に失恋したからだろう」
物憂い初夏の日が続こうとした。
しかしとうとうある夜のこと、またも小一郎は敵に襲われ、大事な獲物を失った代わりに、より大切の素晴らしい宝を、偶然手に入れることが出来た。
その夜であるが小一郎は、フラリとばかり家を出た。円々《まるまる》としたよい月夜で家々の屋根も往来も、霜が降りたように蒼白い。
大川を左に家並を右に、歩いて来た所が尾上河岸、別にこれと云って用もなく、明月に誘われて出たのである。と、にわかに足を止め、じっと行手を透かして見た。
二十三
黒装束で身を固めた、見覚えのある武士が一人、家の蔭から現われて、行手を遮ったからである。
「一式氏」とその武士が云った。すたわち南部集五郎であった。
「また逢いましたな、これで三度目」
「南部氏か」と小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、「貴殿一人ではあるまいな」
「さようさ」と云ったが集五郎は、とぼけ たような調子となった。
「今のところは拙者一人で」
「三度逢ったと云われたが、拙者を襲ったのは五度目でござろう」
「どう致しまして、三度目で」
「先夜お茶の水の往来で、拙者を襲ったのも貴殿の筈だ」
「ははあ感付きめされたかな。……ひどくあの時は一式氏、いつもに似げなくお弱うござんしたな」
「留守中の拙宅を襲ったのも、貴殿一味でござろうがな」
「敏感敏感、その通りで」
「だからよ五度目だ、今夜を入れて」
「御意!」と集五郎は揶揄的に笑った。「下世話に三度目が定の目というが、そいつが延びて五度目が定の目、今夜こそ遁がさぬ、一式氏、充分観念なさるがよろしい」
「さようよなア」と小一郎は、伝法な口調に砕けたが、眼では四方をジロジロ見廻わし、ちょっとの油断もしなかった。そうして心で考えた。「間を持たせて様子を見てやろう」そこで悠々と云い出した。「それはそれとして南部氏、よく水難から遁がれましたな」
「あああれ か」と集五郎は、鼻白んだ声音を作ったが、「いや全く三浦半島、木精の森の大水には、さすがの拙者も参ってござるよ。一同谷間へ流されましてな、アブアブ水を飲みましたっけ。が、それそこは天祐というやつ、二、三人怪我はしましたが、命に別条はげえせん でした」頼むところがあると見え、南部集五郎いつもに似気なく、寛々《ゆるゆる》としておちついて いる。「貴殿こそあの際どうなされた?」
「さればさやっぱり天祐というやつ、水にも溺れずピンシャンと、ご覧の通り壮健で」
「めでたい」と集五郎はいよいよ揶揄的に、「その上貴殿におかれては、昆虫館へ参られたようで」
これにはちょっと小一郎は驚かざるを得なかった。「よくご存知だの、どうして知られた」
「永生の蝶を持っているからよ」
「よくご存知だの、どうして知られた?」
「女方術師、蝦蟇夫人、その本名は冷泉華子、そのお方の透視で知れた」ここでウンと威張ったが、「その華子様仰せらく『江戸を中心に五十里の地点、そこに住んでいた永生の蝶、その一匹が江戸へ入った』――そこで探しにかかったところ、目付かりましたよ、貴殿の道場が。鐘巻流剣道指南、一式小一郎とありましたからな。ははあとすぐに感付いて、それからそれと探りを入れると、知れましたなあ、永生の蝶をたしかにお持ちということがな」
「そこでその蝶を奪おうと、再々拙者を襲われたのだな」
「御意」と集五郎はまた揶揄的に、「どうだな、柔順に渡されては」
「さればさ」と云ったが小一郎は、わざとらしく首を引っ傾げた。
「余人へならば渡してもよい。が、貴殿へは渡されぬよ」
「ウフッ、なるほど、恋敵だからで」
「その恋敵で思い出した。これ南部氏、集五郎氏、小梅田圃で耳にした、例の美しい声の主に、拙者面会致してな、恋の告白をしたところ、早速承知というところで、お手を下されたというものだ。うらやましかろうがな、いかがのもので」――こん畜生め! というような調子、そいつで小一郎はまくし立てた。
こいつを聞くと集五郎は「ううむ」と唸ったがその唸り、さすがに気色が悪そうであった。「そうさどっちみち 昆虫館へ入り込み、永生の蝶を盗み出した貴殿だ、乙女の恋も盗んだでござろう」
「無礼な!」と小一郎は一喝した。「盗みはせぬよ、永生の蝶を、手に入れたのだ、偶然にな!」
「さようか」と集五郎は毒々しい。「まあまあそいつはどうでもよい。そうともそいつはどうでもよい。とまれ貴殿永生の蝶を、持っているのは事実だからの。でこっちへふんだくる 、それだけで当方用はない。そこでちょっくら 聞きたいは、たった今貴殿ご自慢の、美しいお声の主との恋、首尾よく成就しましたかな? 云い換えるとご婚礼しましたかな?」
「ナニ婚礼!」と小一郎、これにはギョッとしてつまずいたが、「うむ、婚礼か、いや未だ」
「それではいつ頃?」
「いずれその中……」
「気の毒だなあ」
「何が何んだと!」
「プッ」と集五郎はどうしたものか、にわかに吹き出したものである。
「昆虫館主のご令嬢、美しい声の桔梗様が、山を下ってつい この頃、江戸へはいったを知らないと見える」
「えッ」と仰天した小一郎は、「それは本当か!」ヌッと出た。
「迂濶な武士め!」
「何を! ……嘘だ!」
「よかろう」と集五郎はヘラヘラ笑い、「嘘だ嘘だと思うがいい。その中我らひっ 攫う」
「云え!」と小一郎の凄じい声! 「云え云え云え、どこにいる!」
「ある所によ、かくまわれ てな」
「どうして知った?」
「透視だあ――」
「参るゾーッ」
と小一郎は、例の大音に怒りを加え、吠えるがように響かせたが、腰を捻ると抜き打ちだ。鞘走らせたは一竿子忠綱、月光を突ん裂き横一揮、南部集五郎の左胴、腰の支えをダ――ッと切った。
だが抜き合わせた集五郎、チャリーンと鍔元で払ったが、ジタジタと退くと、脅えた声で「方々出合え、方々出合え!」
声に応じて家蔭から、ムラムラと現われたは二十人ほどの武士。
二十四
引っ包まれた小一郎は、既に覚悟は決めていた。何んのビクとも驚くものか。例によって下段に太刀を付け、身を沈ませて構えたが、残念地の利が悪かった。背後は大川、引くことが出来ぬ。前には敵の二十人、揃って太刀を中段につけ、掛け声もかけず静まり返り、半円を作って寸から寸? ジリジリジリジリと寄せて来る。
「ちと手強い」と小一郎は、考えざるを得なかった。「木精の森で切り合った、あの時の連中より強いらしい。じっと構え込んだ様子で解る。……ふふん例によって集五郎め、衆の真ん中に控えておる。こいつも今夜は懸命らしい。……さあてこれからどうしたものだ」考えがグルグル渦を巻く。桔梗様のことに気が付いた。と、カーッと血が湧いた。「桔梗様が江戸にいると云う。本当か知ら? いるなら是非とも逢いたいものだ。どうともしてお探ししたいものだ。……」にわかに一式小一郎は、その場から遁がれたいと思い出した。「永生の蝶などどうでもいい。南部一味にくれてもいい。蝶さえ渡したら文句はあるまい。こんな奴らとかかりあい、傷でも受けたらつまらない。トッ放そうかな、永生の蝶を」
その間も敵は逼って来る。
中段に付けた敵の刀が、月光を吸ってキラキラと、鋩先を上下へ動かすので、無数に螢が飛ぶようだ。
次第に半円が縮まって来る。後へ後へと小一郎は、退かざるを得なかった。
「どうしたものだ、どうしたものだ!」小一郎は焦燥を覚えて来た。下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背後、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めながら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒の振り袖を纒っている。裾が朦朧と暈けている。裾模様を着ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸けているのは何んだろう? 袋のようなものである。
と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉華子でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟に小一郎は感付いた。「女方術師の蝦蟇夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」
その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そいつに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下がる。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出来ない。一足引けば転落だ。
またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
「うむ」と呻いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!
蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろうとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、ベッタリ地上へへたばる と、何んと生あるもののように、ムクムクと背中を持ち上げ たではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラスラと、一筋の白布が濛気のように、空に向かって巻き上がったが、飛び去る蝶を追っかけた。
何んという卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。
シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
もがいているのは小一郎で、今や溺れようとしているのであった。小一郎は水練には達していた。しかし全身疲労れていた。転落する時腕を挫いた。で、泳ぐことが出来ないのである。
「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
どこからも救いは来ないらしい。
だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」
つづいて現われたは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、そんなような形の舟である。船首に竜の彫刻がある。その先から総が下がっている。月光に照らされて朦朧と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶を握っている。
小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門になろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こう云ったのは梶を握っていた女。
「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は韋駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐ごが惚れなければいいが」
「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クックックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛って行く。
ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こうの岸は三囲社、こっちの岸は金竜山、その金竜山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。
「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いたは男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人ではあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纒っている。「それはそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚きましたよ」
「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。
二十五
「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困ったな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷く憂鬱になり、部屋へ一人で閉じこもり、研究に浮身をやつしているとは。……ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹ともなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学者というものは変なものだな。変梃な蝶をなくしたことぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここを自分の家だと思って、気随気儘にくらすがいい。何んと云っても私とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になるだろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然遊んでいたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うがいい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひとつ反対に弟子でも取って、お前さんの方で教授するかな。……いや待ったり他のことがある、生花や茶の湯を習うがいい。山の中にいたお前さんのことだ、そういうことは知らないだろう。茶の湯、生花、これからお習い! え、何んだって、知っているって? 痩せ我慢はいけない、気取ってはいけない。山家育ちのお前さんなどが――と云っても大変別嬪だが、何んの茶の湯や生花などを、知っていることがあるものか。え、本当に知っているって? ふうん、そうか、それは感心。そうかも知れない。そうかも知れない、打ち見たところ上品で、女一通りの芸や作法は、どうやら心得ているように見える。何さ何さ一通りどころか、十二分に心得ているらしい。とするとどうも困ったな。何を習ったらいいだろう? おおそうだ、いいものがある、お習いお習い、泥棒をね」
葵ご紋の威厳のある武士は、能弁に愉快そうに喋舌って来たが、とうとうこんなことを云い出してしまった。泥棒を習えというのである。
これにはさすがの桔梗様も、驚いたかというに驚かなかった。
したたるような美しい眼と、恍惚するほどの美しい声とで、負けずに愉快そうに云ったものである。
「叔父様、結構でございますこと、習いましょうねえ、泥棒を」
「え?」とこれには叔父の方が――葵ご紋の武士の方が、あべこべに仰天したらしい。「本当かな、習う気かな、泥棒という商売を?」
「はいはい妾習いますとも、大喜びで習いますとも。あの、必要がございますので」桔梗様は真面目に云ったものである。
「これはこれは」と葵ご紋の武士は、いよいよ胆を潰したらしい。「度胸がいいの。偉い度胸だ。どんな必要かな? 云ってごらん?」
すると桔梗様は一層真面目に、それでいて途方もなく愉快そうに、ズケズケこんなことを云い出した。
「お探ししたい人がございますの、綺麗な綺麗なお侍さんなの。少し皮肉ではございますが、そこがまた大変よいところで、可愛らしいのでございますの。……云い交わした人なのでございます、恋し合った方なのでございます。……たしか只今は江戸住居で。どうともしてお探しし、お逢いしたいのでございますの。……ようございますわね、泥棒は。どこへでも勝手に忍び込め、どんな方とも逢うことが出来、ほんとに何んて結構なんでしょう。でもねえ叔父様」と甘えた声で、「よい先生がございましょうか、上手に泥棒をお教えになる」
「待ったり」と叔父様は――葵ご紋の武士は、眼を円くすると手を振った。「私は知らぬよ、こんな娘は! 驚きましたね、二の句も継げない。どうも当世の娘っ子は、油断も隙も出来ないの。叔父さんを前にちゃアンと据えて、恋人があるというのだから。とんだ姪さんを持ったものさ。私は謝罪まる、私は謝罪まる。……そうは云っても面白いの。やっぱり血統は争われない、反骨稜々侠気充満、徳川宗家に盾突いて、日本は狭いと云うところから、海を渡って異国へ行った、我々のご先祖の血液が、お前のお父さんにもこの私にも、お前さんにも通っているらしい。……うむ!」と云うとどうしたものか、葵ご紋の威厳のある武士は、にわかに不思議な表情をしたが、すぐに磊落に笑い出した。「先生かな、泥棒さんの。いるともいるとも、ここにいるよ」云うと一緒に手を延ばし、手首を曲げると人差し指を延ばし、ポンと自分を指さした。それから云ったものである。
「大泥棒! 異国をさえも盗む! そういう泥棒の先生がな」
――でまたそこで磊落に笑った。
二十六
磊落に笑った大きな声に、吃驚したというように、床に活けてあった牡丹の花が、一片ポロリと床の上へ零れた。
顔輝筆とも思われる、蝦蟇仙人と鉄拐仙人、二人を描いた対幅が、床一杯に掛けられてある。それが名筆であるだけに、三十畳ぐらいは敷けるであろう。そのくらい広い部屋の中に、一種云われぬ蒼古な妖気が、陰々として漂っている。
実際それは名筆であった。二人とも活けるがようであった。二人ながら乱髪である。二人ながら跣足である。そうして二人ながら襤褸を纒い、二人ながら岩に腰かけている。ただし、一方蝦蟇仙人は、左手に躑躅の花を持ち、右肩に蝦蟇を背負っている。白味を帯びた巨大な蝦蟇で、まるで大きな袋のようである。パックリ開いた醜悪の口から、布のように見える白気を吐き、飛び出した眼を輝かせている。一方鉄拐仙人は、腰に大きな瓢を付け、両足の間に杖を※ み、左手で奇形な印を結び、すぼめた 口からこれは黒気を、一筋空へ吐き出している。そうして黒気の行き止まりの辺に、同じ姿の鉄拐仙人が、豆のように小さく走っている。秘術を行っているところだ。鉄拐仙人には髷があり、蝦蟇仙人には髷がない。で前者は老人に見え、そうして後者は老婆さんに見える。
二人ながら物凄くいやらしい。
ちょっとの間部屋中静かであった。
対に立ててある雪洞の灯が、蒔絵の脇息を照らしている。それに悠然と倚っている、葵ご紋の武士の顔は、昆虫館主人と非常に似ている。広い額、窪んだ眼窩、きわめて高い高尚な鼻、しかし異ったところもある。昆虫館主人は白髪だのに、こっちは艶々しい黒色である。昆虫館主人の眼と来ては、霊智そのもののような眼であったが、こっちの眼は意志的英雄的である。昆虫館主人よりも身長が高く、そうして一層肥えてもいる。健康そのもののような体格である。昆虫館主人は学究として、あくまでも真面目、あくまでも真剣、しかるにこっち葵ご紋の武士は、洒々落々としたところがあり、人を食ったようなところがある。
だがいったい葵ご紋の武士は、何んという姓名を持っているのだろう? 世間の人達は敬称して、隅田のご前と云っている。葵の紋服を着ている以上、将軍家の連枝には相違あるまい。
隅田のご前を前に置き、端然と坐っている桔梗様と来ては、清浄で、美しくて、自由で無邪気で、いかにもいかにも処女というものを、掬い固めたような俤がある。
この二人の対照は、全く一幅の絵と云っていい。
まだ二人は黙っている。
と、どこから来たものか、四方雨戸をとざしてあるのに、一匹の火捕り虫が飛んで来た。バタバタバタバタと雪洞へ中る。
「遅いの」と不意に隅田のご前は、独り言のように呟いた。それが桔梗様の気にかかったらしい。
「誰をお待ちでございます!」
「ああ待ち人かな、泥棒さん達だよ」隅田のご前は道化出した。「私はな、大変な大泥棒だ。で沢山手下がある。その手下を待っているのだよ」無邪気な可愛い桔梗様を、嬲ってみるのが面白いのらしい。
「おやおやさようでございますか」桔梗様は一向驚かない。「妾もお待ち致しましょう」
「ご用でもあるかな、私の手下に」
「はいはい沢山ございますとも、参りましたらとっ 捉まえ、忍び込みの術を教わります」
「あッ、話はそこへ行くのか、忍び込みの術を教わって、その恋しいお侍さんを、探しに行こうというのだの」
「はいはいさようでございますとも。でもねえ叔父様、実を申せば、もう一つ大切なご用があって、探しているのでございますの。その一式様というお侍さんを」
「ほほう」とご前眼を円くした。「その恋男のご姓名は、一式様というようだの」
「一式小一郎様と申します」
「で、何かの、大切の用とは?」どうやら興味を持ったらしい。
「お父様からお預りをした、大事な大事な大事な物を、お渡ししたいのでございます」
「何?」と云うと隅田のご前は、いくらか驚いた様子があった。「それでは何かの、お前のお父様も、承知しておられるご仁かの、その一式という人物は?」
「私達の住居の昆虫館へ、訪ねておいでくださいました時、お父様もお逢いでございました。そうしてお父様もそのお方を、大変好かれたのでございます」
「ふうん」と云ったが真面目になった。「私はそうとは知らなかったよ、そんな恋人の話など、お前の出鱈目と思っていたよ。うむうむそうか、本当の話か。で、何かの、大事なものとは?」
「はいこれでございます」
何か帯から出そうとした時、隅田川の方から声がした。
「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」それはこう云う声であった。
そうしてこの声が次第に近付き、隅田のご前の屋敷の前で、にわかにプッツリと切れてしまい、つづいて幽かではあったけれど、水門の開く音がした時から、この物語の局面は、新しく展開されることになった。
まず隅田のご前様が「来たな」と云うと立ち上がり、それから桔梗様へ云ったものである。
「お前もおいで! 度胸がある。見せて置いてもいいだろう。……紹介せて置こう、変った奴らを。無頼漢どもだがためにもなる奴らだ」
で、部屋から廻廊へ出た。云われるままに立ち上がり、桔梗様が後から従った。
少し行くと階段になる。螺旋形をした階段である。下り切った所に池があった。隅田の川水を取り入れて、作ったところの池らしい。小さい入江! こう云った方がいい。小船渠! こう云った方がいい。水がピチャピチャと石段を洗い、小波をウネウネと立てている。石段の左右に龕ある。青白い燈火が射しいる。その燈火に照らされて見えるのは、七福神の宝船、それに則って作られた船と、満載されてある武器弾薬と、そうしてそれへ乗り組んでいる、七人の異様な水夫達であった。
いやもう一人人がいた。それは水に濡れた侍であった。
「あッ、あなたは一式様!」
「おっ、これは桔梗様!」
二十七
さてその翌日のことである。
一式小一郎は自分の家の、自分の部屋にこもっていた。襖を締め切り黙然と坐り、じっと膝の上を見詰めている。西向きの窓から夕陽が射し、随分部屋は熱いのに、そんなことには無感覚らしい。視線の向けられた膝の上に、銀製の小さな鍵がある。だが小一郎の表情から推せば、鍵について考えているのではなく、別のことを考えているらしい。
道場の方からポンポンと、竹刀の音が聞こえて来る。弟子達が稽古をしているのであろう。
お勝手の方からコチンコチンと、器物のぶつかる 音がする。君江が洗い物をしているのであろう。
「気の毒なものだな、あの君江は」小一郎はふっと呟いた。
「俺は逢ったのだ、桔梗様に。本当の本当の恋人に。で、君江は正直に云えば、俺には不用の人間になった。邪魔な人間になったともいえる。……がそれはそれとして、全く昨夜は意外だったよ。南部に襲われ蝶を逃がし、大川の中へ転がり落ち、負け籤ばっかり引いたかと思うと、今度は恋人の桔梗様と逢う。塞翁が馬っていうやつさな」微笑したいような気持ちになった。「それにさ随分変な人間に、一時に紹介されたものさ。隅田のご前という凄いような人物や、七人の異様な無頼漢達に。……屋敷の構造も変なものであった。……悪人の住家ではあるまいかな? あんな所へ桔梗様を置いて、はたして安全が保たれるかな?」これが小一郎には不安であった。だがしかしすぐに打ち消してしまった。「葵の紋服を召していた。では隅田のご前という人物は、高貴な身分に相違ない。それから桔梗様がその人を、叔父様叔父様と呼んでいた。とすると血筋を引いているのだろう。それでは安全と見てもいい」
小一郎の心へは次から次と、昨夜のことが思い出された。
船から上げられて介抱されたこと、濡れた衣裳を干して貰ったこと、別室で桔梗様と二人だけで、しばらく話を交わせたこと……
「昆虫館でのお約束を、反故にしたのではございません」こう桔梗様が云ったこと。「父は憂鬱になりました。『俺は一人で研究したい。娘よ、お前は江戸へ行け! 人間の世を見て来るがいい』こう云って妾を山から出し、人を付けて江戸へ送ってくれました」こう桔梗様が云ったこと。「その節父が申されました『一式氏は人物である。あのお方とお前との交際を、私は好んでお前へ許す、ついてはあの方を探し出し、この鍵を是非とも手渡しておくれ。雌雄二匹の永生の蝶を、一式氏が手に入れて、もしそれが子供を産んだ際には、この鍵が役に立つかも知れない』――で、お渡し致します」こう桔梗様が云ったこと。等、等、等を思い出した。「一式氏とやら、お暇があったら、時々お遊びにおいでなされ。があらかじめ申し上げて置く、拙者の屋敷の構造や、拙者の行動に関しては、絶対に世間へ洩らされぬように。うち見たところ貴殿には、一個任侠の大丈夫らしい。その中拙者の計画や、心持ちなどもお話し致す。時々遊びに参られるよう。それにどうやら姪の桔梗が、そなたを愛しておられるようで、遊びにおいでなさるがよい」――隅田のご前という人が、云ったことなども思い出した。
「時々どころか毎日でも行って、桔梗様と話をしたいものだ」小一郎は恋しくてならなかった。
「今日も、これから行ってやろう」
フラリと立つと大小を差した。だが何んとなく気が咎める。「気の毒だな、君江には」そこでこっそり 足音を盗み、玄関へかかると雪駄を穿き、「まるで間男でもするようだな」苦笑しながらも門を潜り、うまく君江にも目付からずに、夕陽の明るい町へ出た。
差しかかった所が大川端で、隅田の屋敷の方へ、急ぎ足に歩き出した。夕暮れ時の美しさ、大川の水が光っている。そこを荷舟が辷っている。対岸の白壁が燃えている。夕陽を受けているからである。鴎が群れて飛んでいる。舞い上がっては舞い下りる。翼が夕陽を刎ね返している。甍を越して煙りが見える。どうやら昼火事でもあるらしい。人々の罵る声がする。「火事だ火事だ! 景気がいいな!」間もなく煙りが消えてしまった。小火で済んだに相違ない。渡し船には人が一杯である。橋にも通る人が一杯である。物売りの声々が充ちている。江戸の夕暮れは活気がある。
「ひどく俺は幸福だよ」小一郎はこんなことを呟いた。「桔梗様にも愛されているし、君江どん にも愛されている。色男の果報者というやつさ。……だが待てよ」と考え込んだ。「いかに何んでもこいつ はいけない。桔梗様とは昨夜逢ったばかりだ。それだのにノコノコ今日行っては、あんまり俺がオッチョコチョイに見える。大人物らしい隅田のご前にも、裏を見られないものでもない。それにさ、幸福というものは、そう続け様に求めても、そう続け様に来るものではない。うかうか図に乗って逢いに行って、変な顔でもされた日には、とても助からないことになる。それにさ、幸福というものは、その幸福を抱きしめて、一人で味わうことによって、二倍の幸福を感ずるものだ。今日は行くのは止めにしよう。それより静かな所へ行き、楽しそうなことを考えよう」
そこで小一郎は横へ反れた。
来た所が品川の海岸で、この頃はすっかり日が暮れて、月が真ん円く空へかかった。もうほとんど人通りがない。宛なしにブラブラ歩いて行く。海では波も静からしい。青葉の匂いが馨しい。
「幸福だな、幸福だ」
呟きながら彷徨って行く。
だがはたして小一郎の幸福は、幸福のままで済んだろうか? 鮫洲の宿までかかった時――一挺の駕籠が江戸の方から、飛ぶように走ってやって来て、小一郎の傍を駈け抜けて、そうして夜の東海道を物怪のように走り去った時――そうしてその駕籠から何物か、地上へポンと落とされた時――そうしてそれを小一郎が、不思議に思って拾い上げた時、彼の幸福は覆えされてしまった。
拾い上げたのは簪であった。脚に紙片が巻き付けてある。それに文字が書かれてある。恐らく小指でも食い切ったのだろう。そうしてその血で書いたのだろう、生々しく赤くこう書かれてあった。
「悪者に誘拐されております。どなたかお助けくださいまし 」そうして「桔梗」と記してあった。
「ム――」と呻いた小一郎は、ブルッとばかりに顫えたが、「駕籠待てエーッ」と思わず大音に呼んだ。しかしその駕籠はついに馳せ去り、もちろん姿は見えなかった。気勢で呼んだまでである。
「これはこうしてはいられない!」
大小の鍔際を抱えるように、グッと握って胸へあてたが、片手で裾を端折ると、さながら疾風が渦巻くように、月夜に延びている街道を、走り下ったものである。
二十八
だがそれにしても桔梗様は、誰に誘拐されたのだろう? どこへ運ばれて行ったのだろう? 隅田のご前というような、あんな立派な人物によって、城廓めいた宏大な屋敷に、秘蔵されていた桔梗様だのに、どんな手段で誘拐されたのだろう?
そうして一式小一郎は、はたして駕籠へ追い付いて、取り返すことが出来るだろうか?
今、月夜の東海道は、人通りがなくて静かである。
と、その時江戸の方から、一つの掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ!」――だんだんそれが近付いて来る。と、間もなく月光に浮かび、畸型な群像が現われた。屈竟な六人の若者が、体をピッタリくっつけ 合わせ、六本の腕を組み合わせ、巧みに作った「手組輿」――その上へ一人の女を乗せ、空いている片手で調子を取り、舞うように走って来るのであった。七福神と称されて当時の旗本や大名などに、非常に恐れられた怪盗である。彼らの掛けるエッサの声が、水上であれ陸上であれ、一旦掠めて通った後には、犠牲者が出来たという事である。だが決して細民や、女子供など襲ったことはなく、衣裳だの宝物だの器具調度だの、そんな物を盗んだこともなく、黄金か武器か弾薬かを、唯一に盗んだということである。町方でも苦心して捕えようとしたが、捕えることが出来なかったそうだ。「ある素晴らしく高貴な方が、蔭ながら保護をしているからだ――」ある方面での噂であった。町方で探ったところによると、蛭子三郎次、布袋の市若、福禄の六兵衛、毘沙門の紋太、寿老人の星右衛門、大黒の次郎、弁天の松代、これが彼らの名であって、弁天の松代が一党の頭で、そうして松代は美しい、若い女だということであった。彼らが水上を駛る時は、宝船に則った軽舟を用い、また陸上を走る時は、彼ら独特の「手組輿」――そういうもので走ったそうである。
その怪盗の七福神組が、今や走って来たのであった。
手組輿とは変なものではあるが、要するに七人が七人ながら、心と体とを一つに食っ付け、一緒の行動を取ろうがために、彼らの案じた人間輿で、意味深いものでもなさそうである。しかし七人が心身を一にし、一致の行動をとるのであるから、自由の活動、敏速の歩行、これは出来るに相違ない。
何んと云う速さだ! 走って来る!
と、突然女の声がした。「おっと待ったり、お止めお止め!」「合点」と一団止まってしまった。同時にバラバラと手組輿が崩れ、ヒラリと飛び下りたは一人の女で、髪は結綿、鬼鹿子、黄八丈の振り袖を纒っている。頭の弁天松代である。手を延ばすと地面から、何かをヒョイと取り上げたが、月に翳すと、「やっぱりそうだ!」
「え?」と六人が同音に声を掛けたが首を延ばした。手甲脚半腹掛け姿、軽快至極の扮装である。一同お揃いの姿である。
「桔梗様の持ち物の銀簪が落ちていたのさ、これここにね。月が当たってピカピカと光っていたから目付かったのさ」
「それじゃア姐ごの思惑通り、こっちへ攫われて来たんだな」腕に蛭子の刺青のある小頭の蛭子三郎次である。
「それじゃアどこかに血で書いた、小菊の紙が落ちていなけりゃアならねえ」こう云ったのは十七、八の前髪のある男である。すなわち布袋の市若である。
「ところがどこにもねえようだぜ」四方をキョロキョロ見廻わしたのは、三十を一つ二つ越したらしい、顔の細長い男であったが、これ福禄の六兵衛であった。
「なにさなにさ風だって吹く、どこかへ飛ばされて行ったんだろう」こう云ったのは爺むさい小男、他ならぬ寿老人の星右衛門。
「さっき浅草で拾ったのは、これも桔梗様の持ち物? ※ 瑁の櫛へ巻き付けた血書! そうしてここには銀簪! とするとこれからも要所々々へ、何か品物を落とすものと見える」こう思料深く云ったのは、四十がらみの大男、すなわち大黒の次郎である。
「何はともあれ走ろうぜ」こう云ったのは髯面の男、「突っ立っていたって仕方がねえ」こいつは毘沙門の紋太である。
「そうともそうともさあ行こう」弁天の松代は意気込んだ。「思案している時じゃアない。桔梗様には処女だ。一刻半時の手違いで、取り返しの付かない身ともなる。それこそ泣いても泣かれない。それにしてもさ、一体全体、どいつがこんなことをしたんだろう。七福神組を出し抜いて、途方もない真似をしゃアがる。と、云って怒ったってはじまらない。見付け出すより仕方がない! ……さあさあお組みよ、手組輿を!」
二十九
声に応じて六人の男は、颯と片手を差し出したが、肩と肩とをすぐ組んだ。ガッシリ手輿が築かれたのである。
「お乗んなせえまし。さあ姐ご!」
「あいよ、あいよ、ソレ乗るよ」
裾を翻めかすと燃え立つ蹴出しだ、火焔が立つかと思ったが、弁天松代ちゃアんと 乗った。
「急いでおやりよ! さあおやり!」
「おっと合点」
「エッサ、エッサ」
こんな場合にも愉快そうに、こんな場合にも仲がよく、月光を蹴散らし走り出した。
ちょうどこの頃のことである。全然別の方角で、別の事件が起こっていた。
ここは赤坂青山の一画、そこに一宇の大屋敷がある。大大名の下屋敷らしい。宏壮な規模、厳重な構え、巡らした土塀の屋根を越し、鬱々と木立が茂っている。
御三卿の一方田安中納言家、そのお方の下屋敷である。
その裏門が音なく開き、タラタラと一群の人数が出た。黒仕立てに黒頭巾、珍らしくもない密行姿、いずれも武士で十五、六人、ただしその中ただ一人だけ、黒小袖に黒頭巾、若い女が雑っていた。みんなが尊敬をするところを見ると、これら一群の支配者らしい。身長高く痩せてはいるが、一種云われぬ品位がある。鬼気と云った方がいいかも知れない。あるいは妖気と云うべきかも知れない。縹渺としたところがある。裾の辺が朦朧と暈け、靄でも踏んでいるのだろうか? と思わせるようなところがある。
一挺の駕籠が舁ぎ出された。
「鉄拐ご夫人、お召しなさりませ」
一人の武士が会釈した。
すると頷いたが乗ろうともせず、駕籠の上へ片手を載せたまま、女方術師鉄拐夫人は、頸を反らせると空を見た。
「とうとう後手へ廻わされて、永生の蝶一匹を、一ツ橋家へ取られたが、今度はどうでも先手を打ち、あの桔梗という森の娘を、こっちへ奪って来なければならない。だが迂濶に立ち廻わると、今度も煮え湯を飲まされそうだよ。現に攫われてしまったんだからねえ」
心配そうに呟いた。
「だが行先は解っている。それだけがこっちの付け目だろうさ。それもさ街道を辿って行けば、随分時間もかかるだろう。近道を行けば何んでもない。柵頼柵頼」と声をかけた。
「は」と云って進んだのは、今会釈をした武士であった。
「神奈川の宿から海の方へ、ずっと突き出た芹沢の郷、そこまで近道を走っておくれ」
「かしこまりましてござります」
「道の案内は妾がしよう、ああそうだよ。駕籠の中からね。さあそれでは戸をお開け」
コトッと駕籠の戸が開いた隙から、スルリとはいった女方術師、
「それではおやり、足音を立てずに」
駕籠を包んだ田安家の武士達、トットットッと、走り出したが、見当違いの玉川の方へ、駈け去ってやがて見えなくなった。
月ばかりが後を照らしている。
シ――ンと界隈静かである。
いやいや界隈ばかりでなく、江戸内一帯静かであろう。
敢て江戸内ばかりでなく、日本国中夜のことだ。少くも昼間よりは静かだろう。
がしかしそれは表面だけのことで、裏面においては昼間よりも、さらに一層夜だけに、罪悪が行われているかもしれない。
まさしく罪悪が行われていた。
芹沢の郷の海岸に、不思議な建物が立っていた。
その中で行われていたのである。
その建物の珍奇なことは!
三十
海に臨んで造られた館は、一口に云えば唐風であった。幾棟かに別れているらしい。鶴の翼を想わせるような、勾配の劇しい瓦屋根が、月光に薄白く光っている。しかし館は土塀に囲まれ、その上森のように鬱々《うつうつ》とした、庭木にこんもり取り巻かれているので、仔細に見ることは出来なかった。
館の一方は海である。岸へ波が打ち上げている。白衣の修験者でも躍るように、穂頭が白々と光っている。館の三方は曠野である。木立や丘や沼や岩が、月光に濡れて静もっている。遙か離れて人家がある。みすぼらしい芹沢の里である。
と、その時里の方から、一挺の駕籠が走って来た。二、三人の武士が守っている。館の方へ走って来る。
その裏門まで来た時である、内と外とで二声三声、問答をする声がした。
と、門が音なく開き、音なく駕籠が辷り込んだ。
後に残ったは月ばかりである。蠢めくものの影さえない。館からも何んの物音もない。沼で寝とぼけた水鳥が、ひとしきり羽音をバタバタと立てたが、すぐにそれも静まってしまった。
だが間もなく人影が、ポッツリ丘の上へ現われた。館の方を見ているらしい。と、丘を馳せ下った。
月に曝された顔を見れば、他ならぬ一式小一郎であった。
「確かにここへはいった筈だ」
土塀に沿って小一郎は、館の周囲を廻わり出した。
「うむここに裏門がある」
そっと裏門を押してみたが、ゆるごう とさえしなかった。で、またそろそろと歩き出した。やがて表門の前へ出た。押してみたがやっぱりゆるぎ さえしない さえしない」は底本では「やっぱりゆる ぎさえしない」]。でまたそろそろと歩き出した。もうどこにも出入口はない。
「さてこれからどうしたものだ?」土塀に体をもたせかけ 、一式小一郎は考え込んだ。
「桔梗様をさらった駕籠の姿を、やっと神奈川の宿外で目付け、後を追っかけてここまでは来たが、こんな不思議な建物の中へ、引き込まれようとは思わなかった。いったいどういう建物なんだろう?」
だが酷く胸が苦しかった。非常に息切れがするのである。走りつづけて来たからである。
「休もう、万事はそれからだ」
地面へ坐って胡座を組み、小一郎は心を押し静めた。
「いやこうしてはいられない」小一郎はにわかに立ち上がった。
「どんな危険が桔梗様の上に、ふりかかっていないものでもない。館の中へ忍び込み、何を置いても様子を見よう」
土塀へ体を食っ付けたが、武道で鍛えた身の軽さ、一丈以上の高さを飛び、ポンと向こう側へ飛び下りた。
飛び下りたが音さえ立てなかった。胸をピッタリ地面へおっつけ、腹這いになって様子を見た。庭木が真っ暗に繁っている。ところどころに斑のように、葉漏れの月光が射している。ずっと奥深い正面に、建物が一つ立っている。
「まずあれ から探ってみよう」
そこでソロリと立ち上がり、小一郎は忍びやかに歩き出した。
「役目は終えたというものさ」不意に人声が聞こえて来た。いかつい 男の声である。
「有難い役目ではなかったよ」これはゾンザイな声であった。
「美人誘拐というのだからの」
「それもさ」ともう一人の声がした。「口を開かせて秘密を云わせ、云わせた後では南部氏が、手に入れようというのだからの」
三人の人影が現われた。
「あれほどの美人を手に入れる、ムカムカするの、うらやましくもある」
「詰所へ帰って酒でも飲もう」
三人ながら武士であった。広大な庭の反対側に、別の建物が立っていたが、そこが彼らの詰所と見える。木立を縫って築山を越して、小一郎が窺っているとも知らず、庭下駄の音をゆるやか に立て、三人そっちへ歩いて行く。
こいつを聞いた一式小一郎が、怒りを心頭に発したのは、まさに当然というべきであろう。
「さては桔梗様を攫ったのは、南部集五郎の一味だったのか。憎い奴らだ、どうしてくれよう」
平素は思料深い小一郎ではあったが、怒りでそれさえ失ってしまった。
「三人血祭りに叩っ切り、その上で家内へ切って入り、桔梗様をこっちへ取り返してやろう」
身を平めかすと背をかがめ、暗い木蔭を伝わったが、行手へ先廻わりをしたのである。
築山があって築山の裾に、石楠花の叢が繁っていた。無数に蕾を附けている。蔭へ身を隠した小一郎は、刀の鯉口をプッツリと、切り、ソロリと抜くと左手を上げ、タラリと下がった片袖の背後へ、右手の刀を隠したが、自然と姿勢が斜めになる、鐘巻流での居待ち懸け、すなわち「罅這」の構えである。
「来い!」と心中で叫んだが、「一刀で一人! 三太刀で三人! 切り落とすぞよ、アッとも云わせず!」
ムッと気息をこめた時、ヒョッコリ一人現われた。
それを見て取った小一郎は、斜めの姿勢を閃めかし、正面を切ると肘を延ばし、一歩踏み出すと横払い! 四辺が木立で暗かったので、ピカリとも光りはしなかったが、狙いは毫末も狂わない、耳の下からスッポリと、一刀に首を打ち落とした。
と、切られたその侍であるが、そこだけは月が射していた、その中でちょっとの間立っていたが、やがて前仆れに転がった。
もうこの頃には小一郎は、刀をグルリと背後へ廻わし、元の位置へ返ってひそまっていた。
「おいどうした?」
と云う声がして、二人目の人影が現われた。
「つまずいたのか? 転んだのか? 生地がないなあ、起きろ起きろ」
トンと立ち止まって同僚の死骸を――死骸とも知らず見下した時、全く同じだ、小一郎は、一歩踏み出すと、肘を延ばし、颯と一刀横っ払った。これも同じだ、首を刎ねられた敵は、そのまま一瞬間立っていたが、すぐ前仆れにぶっ 仆れた。
「あッ」と叫んだは三番目の武士で、「曲者でござる! 狼藉者でござる!」
身を翻えして逃げようとした。
猛然と飛び出した小一郎は、全身を月光へ浮かべたが、
「騒ぐな」
と抑えた辛辣の呼吸! とたんに太刀を振り冠り、脳天からザックリと鼻柱まで、割り付けて軽く太刀を引いた。
プーッと腥い血の匂い! その血の中に三つの死骸が、丸太ン棒のように転がっている。
見下ろした一式小一郎は、ブルッと体を顫わせたが、血顫いでもあれば武者顫いでもあった。
「さあ三人、これで退治た、……桔梗様は? 桔梗様は?」
血刀を下げて小一郎が、館の方へ走ろうとした時、詰所らしい建物の雨戸が開き、数人の武士が現われた。屋内から射す燈火で、ぼんやりと輪廓づけられている。
「騒々しいの、何事でござる」
一人の武士が声をかけた。衆の先頭に身を乗り出し、縁側の上に立っている。まさしく南部集五郎であった。
早くも見て取った小一郎は、新しく怒りを燃え立たせたが、「集五郎!」とばかり走り寄った。「拙者だ、拙者だ、一式小一郎だ! ……卑怯姦悪未練の武士め! よくも桔梗様を誘拐したな! 出せ出せ出せ! 桔梗様を出せ!」
血に塗られた一竿子忠綱を、突き出すとヌッと迫り詰めた。
「おっ、いかにも汝は一式! やあ方々!」と集五郎は、仰天した声を張り上げたが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ、潜入致してございますぞ! 出合え出合え! 打って取れ!」
幾棟か館が建っている。その幾棟かの館の戸が、声に答えて蹴放され、槍を持った武士、半弓を持った武士、捕り物道具を持った武士が、ちょうど雲でも湧くように、群れてムクムクと現われて、小一郎をおっ取り囲んだのは、実にその次の瞬間であった。
「しまった!」と小一郎は呻いたが、要害さえも解っていない、敵は目に余る大勢である、飛び道具さえ持っている、どうする事も出来なかった。
「ううむ、残念、軽率であったぞ」
摺り足をして後退さる。
築山を背負い、木立を楯に、膝折り敷いて下段の構え、小一郎は備えは備えたものの、どうにも勝ち目はなさそうである。
月が明るいので敵勢が見える。自分の姿も見えるだろう。
とパッチリ音がした。すなわち弦返りの音である。敵の一人が射たらしい、征矢が一本月光を縫い、唸りを為して飛んで来た。
際どく飛び違って小一郎は、刀を上げて払ったが、すぐに続いてもう一本!
あぶない、あぶない、あぶない、あぶない! ……だがこの時リーンという、微妙な音色の聞こえたのは、いったいどうしたというのだろう?
三十一
ここは館の一室である。――
一人の女が仆れている。
髪がグッタリと崩れている。裾が淫りがわしく乱れている。死んでいるように動かないが、決して死んでいるのではない。幽かながらも呼吸をしている。どうやら気絶をしているのらしい。誰だろういったいこの女は? 他でもない桔梗様であった。
と、桔梗様は眼を開けた。
「おや妾はどうしたんだろう?」呟くと衣裳を調えた。「まあ奇妙なお部屋だこと」
で、グルリと見廻わして見た。眼についたのは大釜である。部屋の正面に据えてある。三人以上の大男が、両手を繋いで抱えなければ、抱えることは出来ないだろう――そんなにも大きな釜であった。そこから湯気が上っている。熱湯が湛えてあるらしい。釜の下には火炉がある。焔がカーッと燃えている。釜の形は筒形である。上の方で花のように開いている。そうして周囲には彫刻がある。どうでも日本風の釜ではない。古代唐風の釜である。火炉もやっぱり唐風である。唐獅子の首だけを切って来て、押し据えたような形である。ワングリ開いた巨大な口! そこが火口になっている。燃えている焔の真紅の色が、まるで血汐でも含んでいるようだ。
火炉と釜との背後にあたって、大きな棚が置いてある。一個ではない、三個である。で正面の部屋の壁は、棚ですっかり埋められている。棚には幾個か段がある。段には壺が載せてある。壺の数は無数である。そうして形が各自異う。角形のもの、円形のもの、菱形のもの、円錐形のもの、八角形のものもある。そうしてその色も異っている。ある壺は紫色を呈している。ある壺は青磁色を呈している。
薬を盛った壺らしい。
薬棚の前、釜の横、そこに彫像が立っていた。等身大の像である。まるで生身の人間のようだ。そんなにも活々とした像なのである。今にも物を云いそうである。しかし唇は結ばれている。唇の色の美しさ! 紅を塗ったように紅である。だが顔色は蒼白い。端麗な女の顔である。開いたらどんなに美しかろう? そう思われるような両眼が、軽く軟かく閉ざされている。棘のように高い鋭い鼻、それはむしろ兇相である。肩へかかった髪の黒さ! いや黒いのは髪ばかりではない。着ている衣裳も漆黒である。が形は日本風ではない。胸に刺繍が施してある。裾にも刺繍が施してある。袖は長く指先を蔽い、その形は筒形である。道教の奉仕者方術師、その人の着るべき道服なのであった。すなわちそこにある彫像は女方術師の彫像なのであった。片手に杖を持っている。何んとそれは黄金ではないか! 黄金の杖を持っているのである。
美しい女の像ではあるが、全体に凄く幽鬼的で、ゾッとするようなところがある。
彫像である! 動かない! がもしそれが動いたら、一層物凄く思われるだろう。
部屋全体が煙っている。紫陽花色に暈かされている。とは云え煙りこめているのではない。それは光の加減からであった。
穹窿形をした組天井、そこから龕が下っている。瓔珞を下げた龕である。さあその容積? 一抱えはあろうか! 他界的な紫陽花色の光線が、そこから射しているのであった。
部屋の四方は板張りである。板張りは純白に塗られている。釜の据えてある左手に、錦の帳が懸けられてある。部屋の外へ通う戸口だろう。深い襞を作っている。襞の窪みは蔭影をつくり、襞の高みは輝いている。
足が冷々と冷たかった。で桔梗様は床を見た。床は石畳になっていた。白と黒との碁盤形、それに畳まれているのである。
シン、シン、シンと湯の煮える音! それが唯一の音であった。
が、もう一つ音がした。ドーン、ドーンという音である。岸にぶつかる波の音だ。非常に遠々しく聞こえて来る。
それからもう一つ音がした。ドン、ドン、ドン、ドンという音である。滝の落ちるような音である。
その他には音はない。部屋内は気味悪く静かである。
気丈で無邪気な桔梗様にも、この光景は恐ろしかったらしい。
「ここはいったいどこなんだろう」顫え声で呟いたものである。
と、すぐに声がした。「錬金部屋でございます。女方術師蝦蟇夫人、その本名は冷泉華子、その人の部屋でございます。……所は海岸、芹沢の郷、……江戸の中ではございません。……建てたお方は一ツ橋様! そうしてあなた様は囚人で、逃げようとなされても逃げられません。……そうして妾こそその華子なので。でも恐れるには及びません。無益に危害は加えません。……で、お答えなさりませ、これから妾のお訊きすることに!」
彫像が物を云ったのである。
三十二
釜の横に立っていた女の彫像、それが物を云ったのである。いやいや彫像ではなかったのであった。蝦蟇夫人事華子なのであった。
桔梗様が気絶から蘇甦るのを、それまで待っていたのらしい。
と、華子は一足出た。閉じていた眼が見開かれている。結んでいた口が綻びている。眼には針のような光がある。捲くれた唇から見える歯にも、刺すような冷たい光がある。
と、リーンと音がした。手に持っていた黄金の杖を、石畳の床へ突いたのである。
「昆虫館主のお嬢様の、桔梗様へお訊ね致します。雌雄二匹の永生の蝶の、その一匹は手に入れました、さようでございます、この華子が! もう一匹の蝶のありか を、さあさあお教えなさりませ」
またも一足踏み出して、またも黄金の杖を突いた。と、リーンと美しい音色が、部屋へ拡がったものである。
事の意外に桔梗様が、ポッカリとその口を無邪気に開け、ポッカリとその眼を無邪気に見張り、しばらく物の云えなかったのは、当然なことと云わなければならない。
もちろん返辞はしなかった。もちろん微動さえしなかった。呆然見詰めているばかりであった。
この桔梗様のそういう態度は、見ようによっては図々しくも、また大胆不敵にも見える。
それが華子を怒らせたらしい。俄然態度を変えたものである。
「オイ」と云ったが、その声は、優しい女の声ではなく、残忍な悪婆の声であった。「処女に似わず図々しいの、フフンそうか、そう出たか、よろしいよろしいそう出るがいい。が、すぐにも後悔しよう、顫え上がるに相違ない、悲鳴を上げるに相違ない、そうして許しを乞うだろう、見たようなものだ、見たようなものだ! まず!」
というと冷泉華子は、そろそろそろそろと黄金の杖を、斜めに上へ振り上げた。
「打ちはしないよ。何んの打とう、もっともっと凄いことをする。……ご覧!」
と今度は嘲笑った。と、クルリと身を廻わし、釜の方へスルスルと寄ったかと思うと、振り上げていた杖を斜かい に、グーッと釜の中へ突っ込んだ。瞬間湯気が渦巻いたが、すぐに杖を引き出した。尖端から滴たったは水銀色の滴で石畳へ落ちたと見る間もなく、どうだろう石畳の一所へ、小穴が深く穿たれたではないか! 水銀色の滴には、世にも恐ろしい力強い、腐蝕作用があるのらしい。
と、華子であるが腕を延ばすと、スーッと杖を突き出した。桔梗様の顔から一尺のこなた、そこまでやると止めたものである。
「穴が穿きましょう、綺麗な顔へ! 鉛を変えて黄金とする、道教での錬金術、それに用いる醂麝液、一滴つけたら肉も骨も、海鼠のように融けましょう、……さて付ける、どこがいい? 額にしようか頬にしようか? 眼につければ眼が潰れる、鼻へ付ければ鼻がもげる 、耳へ付ければ耳髱が、木の葉のように落ちてしまう! さあさあさあ、それそれそれ!」
そろり と杖を突き出した。距離を五寸に縮めたのである。
「お云い!」と華子はそこで云った。「お前は昆虫館館主の娘、蝶のありか を知っている筈だ! もう一匹、さあどこだ?」
そろそろそろそろと杖を出す。その杖の先と桔梗様の顔と今にも今にも触れ合おうとする。杖の先が顫えている。と一滴その先から、ポタリと滴が床に落ちた。幽かながらもジーッという音! ポーッと立ったは糸のような煙り! 小穴がまたも開いたものである。
怪奇な光景と云わざるを得ない。
龕から射している他界的の光、その中に立っている女方術師、背後で燃えている唐獅子型の火炉、その上に滾っている巨大な釜、……そうしてキラキラキラキラと、黄金の杖が輝いている。そうしてその杖の尖端から、水銀色の滴が落ち、落ちると同時に煙りが立ち、碁盤形の石畳へ穴を穿ける。
怪奇な光景と云わざるを得ない。――
桔梗様には夢のようであった。魘されていると云った方がいい。何が何んだか解らなかった。解っているのは次のことであった。
夕方叔父の屋敷から出て、隅田の流れを見ていると、突然背後から猿轡を噛まされ、おりから走って来た駕籠に乗せられ、誘拐されたということである。誘拐されたと感付いたので、小指を食い切り血をしたたらせ、懐紙へそのことを認めて、持ち物へそれを巻き付けて、幾個か落としたということである。
三十三
「それでは妾を誘拐したのは、雌雄二匹の永生の蝶々の、ありかを云わせようためだったのか。……でも妾はありかは知らない。雌蝶の方はお父様が、昆虫館から放してしまった」――で桔梗様は当惑した。と云って黙ってはいられなかった。いつまでも黙っていようものなら、杖の先で顔を突かれるだろう。突かれたら顔へ穴が穿こう。トロトロに顔が融かされよう。
そこで桔梗様は云ったものである。
「存じませんでございます」それから正直に云いついだ。「雌雄二匹の蝶の中、雄蝶は盗まれてしまいました。随分探しましたが、目付けることは出来ませんでした。雌蝶の方はお父様が、手放してしまったのでございます。……雌雄二匹の永生の蝶々、只今どこにおりますや、存じませんでございます。……」それから嘆願するように、「叔父様が待っておりましょう、家へお帰しくださいまし。妾何んにも悪いことなど、致した覚えはございません。どうぞ虐めないでくださいまし。本当に知らないのでございます。何んにも知らないのでございます。決して嘘など申しません。どこに蝶々がおりますやら、本当に知らないのでございます」
偽りのない態度である。偽りのない云い方である。そうして沈着いた様子である。
しかしそういう一切のものは、反対に見れば反対にも見られる。すなわち図太く見られるのである。
女方術師冷泉華子はどうやら反対に見たらしい。
「嘘をお云いよ!」と一喝した。とたんに引いたは黄金の杖で、斜めに上げると釜の中へ、再びボーンと突っ込んだ。引き上げると滴る水銀色の滴! と、その滴をしたたらせたまま、ズーッとその先を突きつけた。「お云い!」と云ったが憎さげである。「一匹逃がしたのは本当らしい。それを手に入れたのがこの妾だ! で、それは信じよう。盗まれたなどとは信じられない。そう甲斐撫でに盗まれるような、そんな永生の蝶でもなく、それにまた蝶を盗まれるような、ヤクザな館主でもない筈だ! お聞き!」と云うと歯を剥いた。惨酷に刺すように笑ったのである。「お前の父親昆虫館館主は、無双の学者で恐ろしい人物、唯一の証拠は最近まで、昆虫館のあり場所を、知らせなかった一事でも知れる。何んの貴重な永生の蝶を、他人に盗まれることがあろう。親子ひそかに巧らんで、どこかへ隠したに相違ない。お云い!」
と云うとスルスルと、黄金の杖を突き付けた。と滴がポッツリと落ち、ボーッと白煙が立ち上ったが、小穴がまたも出来たものである。
桔梗様は黙っている。ただ杖の先を見詰めている。云いたいにも云うことがないのである。
端然として動かない。
波の音が聞こえて来る。滝の落ちる音が聞こえて来る。依然部屋内は静かである。
と、どうしたのか冷泉華子は、ガラリと態度を一変した。まず突き付けた杖を引き、片膝を突くと首を延ばし、愛想笑いを眼に湛え、その眼で桔梗様の顔を覗き、猫撫で声で云い出したのである。
「立派なお心掛けでございますよ。そうでなければなりますまい。それでこそ昆虫館館主の令嬢、感心を致してございますよ。……云わぬと決心したからには、そこまで徹底しない事には、本当の女丈夫とは申されますまい。嚇して聞こうと致したは、妾の間違いでございました。もうもうすることはございません。……が、桔梗様、そうは云っても、妾も女方術師の、冷泉華子でございますよ。これと一旦決心したことは、きっとやり通してお目にかけます。たとえば……」というと冷泉華子は、いよいよ声を優しくしたが、「たとえばあなたを隅田の屋敷から、ここへお連れして来ましたのも、そうしてあなたが、三浦三崎の、木精の森から下られて、江戸へおいでになりました事を、探って知ったのも妾でございます。もっとも直接それをしたは、妾の部下で一ツ橋の家臣の、南部さんというお侍さんと、その一味ではございますが、命じたのは妾でございます。……いやそればかりではございません。まだ色々のことを知っております。昆虫館が閉ざされたこと、郷民がみんな立ち去ったこと、みんな探って知っておりました。知ろうと思えばどんなことでも、きっと妾は知ってみせます。で……」と云うと冷泉華子は、穏かではあるが気味の悪い、叮嚀ではあるが威嚇的の、矛盾した微笑を浮かべたが、「で、あなたがどう隠し、どう口をお噤みなさろうと、最後には一匹の蝶のありか を、きっと云わせてお目にかけます。つまりあなたと致しましては、隠すだけが損なのでございます。いつまでも強情にお隠しになると、好んでしたくはございませんが、今度こそ本当に醂麝液で、あなたのお美しい顔や手を、焼け爛らせてお目にかけます。オヤオヤ」と華子は苦笑いをした。「またも妾の厭な癖の、嚇しの手が出たようでございますね。いえ嚇しません嚇しません、嚇して口を開くような、そんな臆病な桔梗様ではなかった筈でございますから。……嚇すどころではございません、お願いするのでございます。どうぞお明かしくださいませ、どうぞお知らせくださいまし、永生の蝶の一匹のありか は、いったいどこなのでございましょう」
どんなに云われても桔梗様には、返事をすることが出来なかった。永生の蝶の居場所を、真実知っていないからである。
首をうなだれた 桔梗様は、ただ繰り返すばかりであった。
「妾嘘は申しません。どこに蝶がおりますやら、存じませんでございます。どうぞ虐めないでくださいまし。どうぞ叔父様のお屋敷へ、お帰しなすってくださいまし」
両袖を顔へあてたのは、涙を見せまいとしたのだろう。やがて泣き声が洩れて来た。肩が細かく波を打つ、耳髱へかかった後毛が、次第に顫えを増して来る。
三十四
しばらく見ていた冷泉華子は、舌打ちをすると突っ立った。取り上げたのは黄金の杖で、引きそばめると後退りし、煮えている釜の横手まで、一気にスーッと引っ返した。
「なるほど!」
と云ったが凄じい声だ!
「なるほど、それほどの強情なら、殺されるまでも明かすまい。……女よ! お死に! 殺してあげよう! 嬲り殺しだ、まずこうだ!」
ジーンと不気味の音がした。杖を釜の中へ入れたのである。湯気が渦巻き立つ。それを貫いて斜かいに、黄金色の線が引かれている。すなわち黄金の杖である。そろそろとそれが引き上げられた。と杖の先が現われた。弧を描いてその先が、部屋の空間へ差し出された時、ポッツリと一滴水銀色の滴が、石畳の上へしたたった。ボーッと上がったのは煙りである。石畳へ出来たのは小穴である。幽かな顫えを見せながら、杖の先が延びて行く。それの止まった正面に、両袖で顔を蔽い隠した、桔梗様の姿がうずく まっている まっている」は底本では「姿がうず くまっている」]。それを黄金の杖で繋ぎ、向かい合って延々《のびのび》と立っているのが、女方術師の華子である。
黒の道教の道服を纒い、真っ直ぐに立っている華子の姿は、太くて円い墨の柱が、一本立っているようであった。その頂上に白い物がある。仮面のように冷静な顔である。まくれ上がった唇から、上の前歯が露出している。鈍い銀色の真珠貝、そんなように見える二つの眼が、一点をじっと見詰めている。
「さあ桔梗様、両袖を、顔からお取りなさいまし」
命ずるような声である、催眠性を持った声である。反抗することは出来ないだろう――そんなように思われる声であった。
「はい」
と云ったのは桔梗様である。
と、桔梗様は袖を取った。涙で洗われていよいよ益※ 、可憐にも見え美しくも見える、桔梗様の顔が現われた。
「綺麗なお顔でございますこと」
黄金の杖を差し向けながら、華子は冷やかに云ったものである。
「左の眼から焼きましょうか。それとも右から焼きましょうか。ドカリと二つの真っ暗な穴が、顔へ出来るでございましょう。口があって鼻があって、そうして眼だけが二つながらない、どんなに変った面白い顔が出来上がることでございましょう」
杖の先を次第に近づけた。桔梗様は見詰めている。放心したような眼つきである。眼を放すことが出来なかった。黄金の杖に磁気があって、それが引きつけているように、眼を放すことが出来なかった。だが心ではハッキリと、こんなことを考えていた。
「妾は決して殺されはしまい。妾は怪我だってしないだろう。何も悪いことをしないのだから。冷泉華子という人は、冗談をしているのだろう。妾を嬲っているのだろう」
だがもし桔梗様が眼を上げて、華子の顔を一眼でも見たら、そういう考えは消えてしまったろう。
華子の顔は無表情であった。まるで事務的の顔であった。どこにも感情は見られない。惨酷な精神の持ち主が、惨酷の行いをやる場合、多くは無表情の顔になる。その惨酷な無表情な顔が、今の華子の顔であった。
杖の先がだんだん延びて行く。その先から今にも滴ろうとして、水銀色の醂麝液が、顫えを帯びて光っている。と、杖の先が、一息に、桔梗様の左の眼へ延びて来た。
この時外から聞こえて来たのが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ潜入致してございますぞ! 出合え!」という声であった。
「あッ、それでは一式様が!」
叫んで立ったのは桔梗様である。
と、ひときわ甲高く、リーンという音がした。すなわち華子が黄金の杖を、石畳の上へ突いたのである。
一本二本目の矢を払い、難を遁がれた小一郎は、築山を背に木立を前に、例によって太刀を下段に構え、この時ホッと息吐いたが、敵勢百人はあるだろうか、四方八方取り囲まれ、遁がれ出る隙間はなさそうであった。
と、左右から二人の敵が月光を刎ねて飛び込んで来た。
「うむ」と呻いたが小一郎は、左の一人へ太刀をつけ、瞬間足を踏み交えると、右手の一人へ太刀をつけた。
左手の一人は肩を割られ、右手の敵は真っ向を割られ、等しく弓のように反り返ったが、月でも捕えようとするように、両手を高く上げたかと思うと、そのまま延びて仆れてしまった。
スッと後へ引いた小一郎を追って、突き出されたのは一筋の槍だ。
いうところの逆モーション。かわすところを反対に、前へ飛び出した小一郎は、これもあくまで逆モーション、刀を揮って払いもせず、千段巻を握ろうともせず、飛び込みざまの双手突き、ウンとばかりに突っ込んだ。
悲鳴をあげたのは槍の持ち主で、槍を前方へ突き出したまま、しばらく堪えて立っていたが、やがてポロリと槍を落とすと、背後ざまに地に仆れた。
もうこの頃には小一郎は、束に背後へ飛び返り、ふたたび太刀を下段に付け、「来やアがれーッ!」と構えたが「あッ」とその次の瞬間には、驚きの声を迸らせた。
月夜に楕円形の抛物線を描き、蛇のようなものが翻然と、小一郎へ飛びかかって来たからである。
「残念! やられた! 鎖鎌だ!」
叫んだ小一郎の声と共に、ガラガラという音がした。同時にピカッと何物か、閃めき飛んだものがある。
三十五
争闘の後の静けさよ! ただ声ばかりが聞こえて来る。
「一尺になった! 二尺になった!」
それから少し間を置いて、
「三尺になるのも間もあるまい!」
滝の落ちる音が聞こえて来る。これまでの音とは少し違う。ドンドンドン……ドンドンドン……これがこれまでの音であった。しかるに今はザーッ、ザーッと、あたかも夕立ちの降るような、そんな音に変わっている。
女方術師蝦蟇夫人の、その本名は冷泉華子、その華子の錬金道場の、その道場を囲繞している、樹木の鬱々と繁った所は、宏大もない庭である。
先刻まで、一式小一郎が、南部集五郎一味の者と、切り合っていたところの庭である。
その庭の隅の一所に、一個の建物が立っていた。木口で作った建物ではない。岩で作った建物である。その形は正方形、いや丈の方がうん と高い。長方形と云うべきであろう。十畳敷きぐらいの大きさである。その一方に扉がある。どうやら鉄で出来ているらしい。外から閂が下ろされてある。ずっと高い一所に、四角の窓が開いている。その窓から巨大な棒が、一本ヌッと掛け渡してある。その棒の外れに聳えているのが、雑木に蔽われた崖である。その距離は精々一間であろう。崖からは滝が落ちている。いやその滝は先刻方まで、崖を伝って滝壺へ、素晴らしい勢で落ちていたのであるが、今では少し違う。と云うのは今では滝の水は、巨大な棒――樋なのであるが、それを伝って岩組の建物――すなわち華子の垢離部屋なのであるが、その中へ落ち込んでいるのであった。
崖の一角へ足場を定め、窓から垢離部屋を覗き込みながら、叫びを上げている武士がある。他ならぬ南部集五郎であった。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい。五尺六尺となるだろう。部屋が滝の水で一杯になろう、と窒息だ! すなわち溺死!」さも愉快そうに叫んでいる。
垢離部屋の中に武士がいる。囚われた一式小一郎である。
大水が頭上から落ちて来る。部屋の扉は閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。水の疏口も閉ざされたのだろう。部屋の中の水は増すばかりである。
窓から外光が射している。青々とした月光である。で岩組の垢離部屋の中が、幽かながらも朦朧と見える。
「鎖鎌で刀を捲き落とされた。そこを大勢に組み付かれた。二、三人投げたがおっつかなかった 。手を取られ足を取られ、担ぎ上げられたと思ったら、ドンとこんな部屋へ投げ込まれた。……水が落ちて来る! 水が湛まる! 天井は高い! 窓も高い! 扉が開かない! 逃げることは出来ない! だがこうしてはいられない! まごまごしていると溺死する! どんなことをしても逃げなければならない! どんなことをしても出なければならない!」
で、一式小一郎は、扉の方へ走って行った。水が股までつい ている。足を取られてヨロヨロする。扉を押したが揺るごうともしない。
「どこかにないか! どこかに出口は!」
で、一方の岩壁へ走った。叩いたが岩壁は動かない。ツルツルしていて足がかりもない。
もう一方の岩壁へ走って行った。やはり叩いたが動かない。もう一方の岩壁へ走って行った。やっぱり駄目だ。打っても叩いても、岩壁は微動さえしなかった。
どっちの壁を叩いても、微塵動こうとはしないのである。そうしてどの壁も垂直であり、手もかからなければ足もかからないで、岩壁をよじ上り、窓まで行くことも出来なかった。
ザ――ッ、ザ――ッと水が落ちる。見る見るその水が量を増す。腰までつい た。腹までつい た。ととうとう胸までつい た。
間もなく首までつく だろう、すぐに顎までつく だろう。そうして口までつく だろう。鼻までつい たら最後である。
岩壁へもたれた小一郎は、「無念! 駄目だ! 俺は死ぬ! あッあッあッ、溺死する! ……桔梗様アーッ」と呼ばわった。
「そうだ桔梗様はどうしているだろう? 恐ろしい恐ろしいその館、ここに囚われている限りは、ロクな目に逢ってはおられまい! 命のほども危ぶまれる! 助けなければならない、助けなければならない! 桔梗様アーッ」と呼ばわった。
考えがグルグル渦を巻く。その間も滝は落ちて来る。ズンズンズンズン水が増す。
「出なければならない、この部屋から! ……助けなければならない、桔梗様を! ……だが出られない! 助けることも出来ない! ……桔梗様! 桔梗様!」
ザ――ッ、ザ――ッと落ちる水! 次第にまさる水の量!
一式小一郎はこの部屋で、溺死しなければならないだろう。
だが本当に桔梗様は、この頃何をしていたろう?
三十六
ここは華子の錬金部屋である。床へペッタリくず 折れて、身悶えしているのは桔梗様である。袖で顔を蔽うている。肩で烈しく呼吸をしている。歔欷ている証拠である。
その前に墨の柱のように、黒の道服を身に纒い、立っているのは華子であった。黄金の杖を差し出している。杖の先からは醂麝液が、水銀色をして落ちている。落ちるに従って石畳の上に、小穴がポッツリポッツリと穿く。そうして煙りがポ――ッと立つ。
唐獅子型の火炉の中では、火が赤々と燃えている。火炉には釜がかかっている。巨大な唐風の釜である。釜から立ち上っているものは、乳色をした湯気である。部屋全体が煙っている。紫陽花色に煙っている。天井から下がっている瓔珞龕、そこから射している灯の光それが煙らしているのである。
少しも変わらない錬金部屋の光景!
いやいや一つだけ変わっている。出入口に垂れてあった錦の帳が、今は高々と掲げられ、開いた戸口から遠々しく、声が聞こえて来ることであった。
「一尺になった! 二尺になった!」それから少し間を置いて、「三尺になるのも間もあるまい!」――南部集五郎の呼び声である。
と、華子は云い出した。
「あなたの恋人の一式様は、岩組で作った垢離部屋の中に、閉じ込められてしまいました。あなたの身の上を案じられ、助けに来られた一式様が! ……お聞きなさりませ滝の音を! ザ――ッ、ザ――ッ、ザッ、ザ――ッと聞こえて来るではございませんか! 落ちているのでございますよ、その岩組の垢離部屋の中へ! ……一尺になった、二尺になった、三尺になるのも間もあるまい! お解りになりましょうか、この意味が? 水が湛まったということです。……湛まり湛まって滝の水が、垢離部屋一杯になった時、溺死することでございましょう、あなたの恋人の一式小一郎様は! で、悪いことは申しません、永世の蝶の一匹の在家を、一口お打ち明けなさいませ、そうしたら滝の水を止めましょう。そうして一式小一郎様と、あなたとをお助けいたしましょう」
で、じっと 桔梗様を見た。
桔梗様は返辞をしなかった。云いたいにも云うことがないからであった。永生の蝶の一匹の在家を事実知っていないからであった。
恐ろしい拷問と云わなければならない。
助けにやって来た恋人を、一方において水責めに、断末魔の時期を刻々に告げ、さらに一方では恐ろしい、腐蝕性ある醂麝液を、突き付けて威嚇するのである。永生の蝶の一匹の在家を、もし桔梗様が知っていたら、一も二もなく明かせたであろう。そうでなくとも桔梗様に、少しでも不純の心があったら、出鱈目の在家を告げることによって、一時の危難から遁がれたかも知れない。桔梗様にはそれは出来なかった。と云うよりむしろ桔梗様には、一時遁がれの口実等を、考える事さえ出来なかったのである。そんなにも心が純なのであった。
「一式様とご一緒に死ぬ! それこそ妾の本望だ。ちっとも妾は悲しくない。それにしても一式小一郎様は、どうして妾の居場所を、突き止めて助けに来られたのだろう? ……誘拐されたと感付いたので、小指を噛み切り、血をしたたらせ、そのことを懐紙へ認めて、櫛や簪に巻き付けて、幾個か往来へ落としたが、ひょっとかすると その一つを、一式様がお拾いになり、それからそれと手蔓を手繰り、ここをお突き止めなされたのかも知れない。もしそうなら妾と一式様は、よくよくご縁があるというものだ。そういうお方と同じ場所で、同じ一味の悪者の手で、同時に殺されてこの世を去る。恋冥加! 怨みはない!」これが桔梗様の心持ちであった。
で少しも取り乱さなかった。とは云えやっぱり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身顫いをし、顔から袖を放さなかった。
その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえて来た。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい! 五尺六尺となるだろう! 部屋が滝の水で一杯になろう。と窒息だ! すなわち溺死!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音が、伴奏のように聞こえて来る。
と、またもや集五郎の声が、「腰まで浸いた! 腹まで浸いた! おおとうとう胸まで浸いた!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
と、また集五郎の声がした。
「喉まで浸いたぞ! 頤まで浸いたぞ!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
つと 華子は踏み出した。「まだ云わぬか! 汝強情! 云え云え云え、蝶の在家を! まだ助かる、さあ桔梗!」
ヌ――ッと杖を突き出した。キラキラ光る黄金の杖! 水銀色の醂麝液が、その尖端で顫えている。
だがとうとう聞こえ来た。「口まで浸いたぞ! 鼻まで浸いたぞ! 水が全身を乗り越したぞ! 姿が見えない! 水ばかりだ! 溺れた溺れた! 一式小一郎は!」
「汝も共々!」と冷泉華子は、一気に杖を突き出した。「くたばれくたばれ! 殺してやろう!」
が、桔梗様はそれより早く、グ――ッと横仆しに転がった。気絶か、それとも本当の死か? 仆れた桔梗様は動かない。
恋人同志、桔梗様と小一郎は同時にこの世を去ったらしい。
だからこの時この館を目掛け、芹沢の方から七福神組が、手組輿に弁天松代を載せ、掠めた調子でエッサエッサと、掛け声を掛けながら馳せつけて来たが、手遅れになったと云わなければならない。
だが乱闘の始まったのは、それから間もなくのことであった。
三十七
裏門まで馳せつけた七福神組は、バラバラとそこで手を解いた。手組輿がこわれた。
ヒラリと下り立ったのは弁天松代で、ズ――ッと館を見廻わしたが、
「さあさあいよいよ乗り込みだ。唐の建物に則った、珍妙を極めた家のつくり、棟数も随分多いようだ。人数も大分こもっているらしい。七人の仲間がバラバラに、別れて探しにかかった日には、打って取られる恐れがある。成るたけ七人かたまって、片っ端から一棟ずつ、虱潰しに潰すとしよう。何んの何んの潰すんじゃアない。桔梗様を見付けて取り返すのさ。どうせ切り合いになるだろう。刀の目釘を湿すがいい。ええと合言葉は『船と輿』だ。そうは云っても乱闘となったら、チリヂリバラバラに別れるかも知れない。そうなったら仕方がない、各自思うさま働くがいい。そうして危険にぶつかったら 、合図の手笛を吹くことにしよう。一声永く引っ張ってな。ええとそれから誰でもいい、誰か桔梗様を目付けたら、手笛を二声吹くとしよう。……さあさあ乗り込め、まず妾から」女ながらも一党の頭、隙のない手配りを云い渡したが、やがて土塀へ手をかけると、翩翻と向こうへ飛び越した。
後の六人も負けてはいない、これも土塀を飛び越した。
宏大な庭が拡がっている。樹木や築山が聳えている。泉水も小川もあるらしい。それに介在して建物が、到る所に立っている。月光が、それを照らしている。ある建物からは人声がする。ある建物は沈黙である。
地に肚這った七福神組は、しばらく様子をうかがったが、
「オイ」と松代がまず云った。「手近の建物から調べよう」
「合点」と答えたのは六人である。もちろん掠めた声である。
眼の前に一宇の建物がある。厳重に雨戸で鎧われている。そこは怪盗七福神組だ。そこまで素早く走ったが、神妙を極めた潜行ぶりで、葉擦れの音も立てなければ、足音一つ立てなかった。
と、松代だがピッタリと、雨戸へ耳を押しあてた。
「どうやらここは図書庫らしい。人の気勢が感じられない。紙魚くさい匂いばかりが匂って来る」すなわち六感で感じたのだろう。「さあさあ、向こうの建物へ行こう」
そこで七人また潜行し、もう一つの建物までやって来た。と、ピッタリ弁天松代は、雨戸へ耳をおっ 付けたが、「ここには四五人人がいる。だが一人も女はいない。何んとなく刀気が感じられる。これは武器庫に相違ないよ。随分沢山蔵ってあるらしい。これがいつもの私達だったら、決して決して見逃しては置かない。踏ん込んで行って攫うのだが、今夜はそうしてはいられない。攫うものが他にあるのだからね。……さあさあそれでは向こうへ行こう」
行手にあたって林がある。と云っても楓の植え込みである。林のように繁っている。月光を遮って闇である。その右手に建物がある。
「まず植え込みへ隠れよう」こう云ったのは弁天松代。
「合点」と六人は頷いた。
で七人が潜行し、素早く植え込みへ身を隠した時、ザ――ッ、ザ――ッとさっきから、響を立てていた滝の音が近増さったのか、高く聞こえ、何んとなく凄く感じられたが、その滝の鳴る方角から、肩に月光を浴びながら、一人の武士が小走って来た。右手の建物へ行くのらしい。
それと見て取った弁天松代は「オイ」とまたもや囁いた。「侍が一人やって来る。館の住人の一人だろう。二、三人同時に飛び出して行き、有無を云わせず引っ捕え、ここへしょび いて来るがいい。桔梗様の居場所を聞いてやろう。が、いいかい間違っても、音を上げさせちゃアいけないぜ」
「おっとよい来た」と答えたのは、小頭の蛭子三郎次である。
「それじゃア俺らも手を貸そう」こう云ったのは大黒の次郎。
「面白いの、俺も行く」こう云ったのは布袋の市若で、前髪立ちの美男子だ。
三十八
それとも感付かぬその侍は、植え込みの前を行き過ぎた。
とたんに飛び出した布袋の市若は、敏捷さながら猟犬のように、背後からパッと飛び付いた。同時に左腕を鈎に曲げ、侍の首へ捲き付けたのは、声を上げさせないためなのだろう。
「うまいぞ市若!」と大黒の次郎は、つづいて颯と飛び出すと、小手を揮って眼潰しだ、侍の眼の辺をひっ叩いた。
で、侍はひとたまりもなく、捕虜にされたかと思ったら、結果はむしろ反対であった。布袋の市若がドッサリと、まず地上に投げ付けられ、つづいて大黒が蹴仆された。非常に武道の達者らしい。だがこの侍は何者であろう?
他でもない南部集五郎で、一刀流では達人である。七福神組が怪盗でもまた行動が敏捷でも、なんのそれらにムザムザと、捕えられるようなヤクザではない。ともすると一式小一郎と、互角に勝負をするほどの、腕に覚えのある人物であった。
垢離部屋に滝の水が一杯に充ち、一式小一郎が完全に、その水に溺れて見えなくなったのを、今や充分確かめて、それを冷泉華子の耳へ、入れてやろうと崖から下り、ここまで小走って来たところであった。
「これ、誰だ!」と集五郎は、一喝声を浴びせかけた。それからグルリと見廻わして見た。不思議なことには誰もいない。たしかに二人の人間を、投げ出し蹴仆した筈であるが、どうしたものか姿が見えない。
これは見えないのが当然であった。七福神の連中と来ては、動作の素早さ身の軽さ、驚くべきものがあるのであった。で、布袋と大黒だが、投げられ蹴仆された一瞬に弾んだ毬のように刎ね上がり、刎ね上がった時には横へ反れ、闇を領して繁っている、楓の植え込みの真ん中へ、飛び込んで姿を眩ませたのである。
「可笑しいなあ」と集五郎は、刀の柄へ手を掛けながら、油断なく前後を睨め廻わしたが、自然と気配が感じられたのだろう。楓の植え込みへ眼をつけた。じっと見込んだが愕然とした。異風をした六、七人の人間が、地上に腹這い鎌首を立て、こちらを狙っている姿が、闇を一層闇にして、黒々と浮かんで見えたからである。
そこで集五郎は大音を上げた。「やあ方々お出合いなされ! 我らの秘密の道場へ、またも何者か忍び入ってござる! しかも今回は一人ではない、六、七人はおりましょう! いずれも異風の怪しい連中! 討ち取りなされ! 討ち取りなされ!」刀を引き抜くと「出ろ汝ら!」
ガラガラガラ! と戸を開ける音や、バタバタバタ! と走り出る音が、四方八方で聞こえたが、人影がムラムラと集まって来た。すなわち幾個かの建物に、閉じこもっていた武士どもが、南部集五郎の声に応じ、得物得物をひっさげて、楓の植え込みを包囲するように、一度に集まって来たのである。
「やあ方々!」と南部集五郎は云った。「曲者はそこだ、植え込みの中だ! 押し包んで一気に乱刃に、討ち取りなされ、討ち取りなされ!」
「心得てござる!」
と十五、六人は、抜いた白刃を「突き」に構え、植え込みの中へ突き行った。
「おっどうした!」「これは不思議!」「いないではないか!」
「一人もいない!」
まさしく楓の植え込みの中には、人の子一人いなかった。
駈け引き自在の七福神組達、形勢非なりと見て取るや例の神速の行動で、七人七方へバラバラと、潜行してしまったに相違ない。
正しくそれに相違なかった。
次の瞬間にあちこち から、喚声と悲鳴とが聞こえて来た。
「ここに曲者! ……一人目付けた!」
築山の方からの声である。
「何を!」と凄い突っ刎ねる声、「斃ばりやアがれーッ」ともう一声!
つづいて「ワッ」という恐ろしい悲鳴!
七福神組の一人が、一ツ橋家の侍を、どうやら一刀に切ったらしい。
と反対の竹藪の方から、「ここにも一人! 異風の曲者!」
「うるせえヤイ!」と答える声!
すぐに続いて「ワッ」という悲鳴!
七福神組の一人に、またもや一ツ橋家の侍が、どうやら討って取られたらしい。
と、遙かに距離をへだてた、泉水のある方角から、「曲者でござる! 曲者でござる!」
すぐにチャリ――ンと太刀の音! つづいてドブ――ンと水の音!
「態ア見やがれーッ」と言う声がした。
一ツ橋家の武士が一人、七福神組の一人に、切られて泉水へ蹴込まれたらしい。
三十九
太刀音、悲鳴、罵る声、四方八方から聞こえて来る。
と、石橋のある方角から、数人の声が聞こえて来た。「ここにも曲者」「しかも女!」「異風してござる!」「しめたしめた!」
「さあ取りこめたぞ!」「手捕りにしろ!」
「馬鹿め!」と裂帛の女の声! どうやら頭の弁天松代が、一ツ橋家の武士どもに、目付かって包囲されたらしい。
だがその次の瞬間であった、そっちの方角から一声永く、ヒュ――ッと笛の音が聞こえて来た。と、忽ち宏大の庭の、木立を揺るがせ、灌木を揺るがせ、枝葉に光っている月光を散らし、三方四方から六個の人影が、まるで小鬼でも走るように、眼にも止まらぬ素早さで、笛の聞こえた方角へ、一度に走って行くと見えたがチャリ――ン、チャリ――ンと太刀の音! 「ワッ」という、悲鳴! 仆れる音! 「船だよ!」「輿だよ!」の合言葉! 物凄じく鳴り渡ったが、間もなく女の声がした。
「もう大丈夫! さあお隠れ! そうしてお探し、桔梗様を!」
とにわかにひっそり となり、またもや月光を刎ね飛ばし、木を揺るがせ、木立を揺るがせ、黒々とした人の影が、七個散るのが見て取れた。
すなわち頭の弁天松代が、合図の手笛を吹き鳴らし、散っていた六人の仲間を集め、包囲した一ツ橋家の武士どもを、力を合わせて切り散らし、そうして再び六人の仲間に、自由の行動をとらすべく、分散させたものと思われる。
で、にわかにひっそり となった。が、わずかの間であった。色々の声が聞こえて来た。
「ム――」……手負いの呻き声である。「どっちへ行った? どっちへ行った?」……一ツ橋家の武士達が、七福神組の連中を、さがし廻わっている声である。
いろいろの音が聞こえて来た。
「サラサラサラ! サラサラサラ!」灌木や木立を押し分けて、走り廻わっている音である。七福神組の連中もいよう、一ツ橋家の武士達もいよう。ザ――ッ、ザ――ッ! 滝の音だ! 一式小一郎を葬って、死骸の上へ尚一層、落ち下っている滝の音だ。チャリ――ン! 太刀音! 衝突したのだ! 七福神組の連中と、一ツ橋家の武士達とが。
キラッと閃めく物がある。揮った刀や槍の穂に、月の光がぶつかった のだ。
一所に石楠花の叢があった。その叢の根にうずくまり、様子を窺っている人影があった。
ソロリと立ち上がった姿を見れば、手に小脇差しを引っ下げている。ベットリと血に濡れている。小褄をキリキリと取り上げている。その下から見えるのは、緋縮緬の長襦袢で、その裾から見えるのは白いふっくり とした綺麗な脛だ。髪は結綿、鬼鹿子、着ているのは黄八丈の振り袖である。が、両袖とも捲くり上げている。頭の弁天松代である。衣裳も手足も紅斑々、切られたのではない返り血だ。敵を幾人か切り斃し、その血を浴びたものらしい。
「さあてこれからどうしたものだ。うむ」と云うと合点をした。「さっき隠れた楓の植え込み、右手に立っていた一つの建物。妾にゃア何んとなく気になるよ。ひとつあそこ を探って見よう」
これも六感で感じたのだろう、呟くと同時に弁天松代は、クルリと体の向きを変え、暗い木間を伝い伝い、その方角へ引っ返した。
四方へバラバラに散ったと見え、一ツ橋家の侍達は、その辺に一人もいなかった。「有難いねえ」と弁天松代は、サ――ッと建物へ馳せつけた。円錐形の外廓を持ち、鶴の翼を想わせるような、勾配の烈しい屋根を持った、全く独立した建物であった。その外廓は朱塗りである。屋根の瓦は緑である。月が瓦を照らしている。木洩れの月光が外廓の、諸所へ銀の斑を置いている。全体がきわめて神秘的である。グルリと欄干が取り廻わしてある。その欄干も朱塗りである。「入口はないか? 入口はないか?」松代は欄干を飛び越した。そこは廻廊である。建物について廻廊を、松代はグルリと一周した。入口だろう口があり、錦の帳が掲げられ、掲げられた隙から紫陽花色の、燈火の光が射していた。「しめた!」と呟いた弁天松代は、一躍すると駈け込んだが、
「おっ、これは!」と立ち縮んだ。
巨大な火炉が燃えている。その上に大釜が懸かっている。朦朦と湯気が立っている。プ――ンと異臭が鼻を刺劇く。その傍に黒々と、道服を纒った女がいる。左手に持ったは黄金の杖で、そうして右手に抱えたは、死んでいるのか気絶しているのか、両眼を瞑ってグッタリと、延びている乙女の体である。女のくせに何んと大力、道服の女――冷泉華子は、抱えた乙女を――桔梗様を、グ――ッと上へ差し上げた。きっと釜の中を睨んだが、「融かしてやろうぞ! 融かしてやろうぞ!」まさに桔梗様を投げ込もうとした。
「待て!」と叫んだ弁天松代は、あたかも雌豹、飛びかかった。
と、飛び退いた冷泉華子は、思わず桔梗様を床へ置き、黄金の杖を突き出したが、「誰だ誰だ汝は誰だ!」
「世上に名高い七福神組、その頭領の弁天松代だ! 汝は誰だ! 汝は誰だ!」
「女方術師蝦蟇夫人さ! ……弁天とやら、何んしに来た!」スルスルと黄金の杖を出した。
脇差しを構えた弁天松代、「云って聞かそう、取り返しにだ! 昆虫館館主のご令嬢を」
「桔梗をか※ 」と冷酷に、「ここにいるわい! 生死は知らぬよ!」
「貰うぞ!」と叫んだが弁天松代は脇差しを揮うと飛び込んだ。
気勢に圧せられた冷泉華子はタジタジと後へ退ったが付け目、片手を延ばすこれも大力、松代は桔梗様を引っ抱えた。
「お礼は後日! ……思い知れよ!」
捨て科白を残して弁天松代が、部屋から駈け出ようとした時である。
「女賊め、ならぬ!」
と声を掛け、戸口から現われた武士がある。ドギツク白刃を下げている。
「邪魔だよ、退きな!」と弁天松代。
「行手は封じた! 遁がさぬぞよ!」
「汝は誰だ?」
「南部集五郎だ」
「一ツ橋家の侍だな」
「桔梗様に焦心れている者だ!」
「さては汝が……」
「誘拐したあア――」
「観念!」
と投げ付けた声と共に、松代は片手で突きをくれた。
と、チャリ――ンと太刀の音! すなわち南部集五郎が苦もなく払って退けたのである。「蟷螂に斧だ! くたばれ女郎!」
その時ジ――ンと音がした。冷泉華子が黄金の杖を、素早く釜の中に入れたのである! 引き出すとスルスルと突き出した。水銀色の滴が垂れ、例によって床から煙りが立ち、そうして床へ穴が穿いた。
「熔ろかせてやろう。醂麝液で!」左手からジリジリと詰め寄せた。
上段に振り冠った集五郎、右手からシタシタと廻わり込んだ。「女郎! 助けぬ! きっと殺す!」
後へ退った弁天の松代は左右の敵を睨んだが、俄然床の上へ膝を突いた。抱いていた桔梗様を放したかと思うと、人差し指を鈎に曲げ、口に含むと合図の笛だ、長く二声吹き立てた。
と、聞こえる足の音! むらむらと込み入った人数がある。六人組の怪盗である。
「や、姐ご!」
「お前達!」
「おお桔梗様が?」
「目付かったよ」
「しめたしめた、引き上げろ!」
「手輿をお組みよ!」
「おっと合点!」
六人は片手をガッシリと組んだ。飛び上がった弁天松代は、桔梗様を軽々と抱き上げたが、「表門から行こう、さあ行け行け!」桔梗様を手輿へ舁きのせた。
「それ!」と叫ぶと怪盗六人、片手の抜身を水平に突き出し、シタシタシタシタとそよがせ たが、敵を寄せ付けぬ算段である。
一切の行動が風のようだ。弁天松代を先頭に、サ――ッと戸口から走り去った。
冷泉華子と南部集五郎は、あまりの意外、あまりの神速、そのやり口に胆を奪われ、しばらく茫然と立っていたが、気が付くとまず集五郎は後追っかけて走り出た。
「やあ方々!」と大音声、「七人の曲者一団となり、表門の方へ走ってござる! 追っかけめされ追っかけめされ!」
つづいて華子が走り出た。「方々!」とこれは金切り声、「秘密の道場を剖いた彼ら、遁がしてはならぬ、討って取りなされ! 一手は裏門へお廻わりなされ! 先廻わりをなされ! 先廻わりを!」
二手に別れた一ツ橋勢、表門と裏門とへ向かったが、既にこの時弁天松代は、表の大門の閂へ、ピッタリ両手を掛けていた。
ガラガラド――ン! 門が開いた。
「さあさあ早く」
「エッサエッサ!」
依然松代を先頭に、七福神組の怪盗一団、魔のように門を駈けぬけた。
後追っかけるは一ツ橋勢! だが怪盗の神速には、到底及びもつきそうもない。
とはいえこの時行手にあたり、喊声の起こったのはどうしたのだろう? 裏門をひらいて走り出た、一ツ橋家の一手の勢が、七福神組の先に廻わり、今やおっ 取り囲んだのである。
四十
ところがちょうどこの頃のこと、大森の方角から海岸づたいに、一団の人影が走って来た。一挺の駕籠を取り巻いた、十五、六人の武士達で、いずれも 密行姿である。女方術師鉄拐夫人、その本名は北王子妙子、それを駕籠へ乗せた田安家の武士で、桔梗様を救いの人数であった。
すなわち田安家の裏門から、この夜こっそり忍び出て、方角違いの玉川の方へ走って行った一団なのであるが、どこをどうして廻わって来たものか、この時姿を現わしたのである。
海岸を一散に走って行く。と、妙子が声をかけた。
「お急ぎお急ぎ、急いでおくれ! まごまごしていると間に合わない! ……妾には解る、妾には解る! 昆虫館主の娘の桔梗が、今危難に墜落っている! 生死のほども気づかわれる! 一刻を争う場合だよ! お急ぎお急ぎ、お急ぎお急ぎ!」
駕籠の一団はひた 走る。
砂山がある。砂山を越す。流木がある。流木を飛ぶ。とまた砂山が出来ている。それを越さなければならなかった。
「可笑しいねえ。どうしたんだろう? 何んとも云えない不安の気が、海の方から襲って来るよ」
北王子妙子の声がした。
「走るのをお止め! 駕籠をお止め!」
――止まった駕籠からスルスルと、北王子妙子は現われたが、浪打ち際まで歩いて行き、ズーッと海上を眺めやった。
が、海上には何んにもない。月光に暈かされて茫漾と、煙りこめているばかりである。
だが北王子妙子には、どうやら何かが見えるらしい。いつまでも不安そうに眺めている。
と、にわかに振り返ったが、
「柵頼柵頼!」と声を掛けた。
「は」寄って来た武士がある。柵頼格之進という武士である。慇懃に小腰をかがめたが、「は、何事でございますか?」
「ご覧、海上を、船が来るだろう?」
柵頼格之進は海上を見たが、船の姿などは見えなかった。
「いえ、見えませんでございます」
「そうかい」と云ったが妙子の声は、依然不安を帯びていた。「お前達のような凡眼には、時刻は深夜、間隔は遠し、なるほどねえ、見えないかも知れない、が、確かに恐ろしい船が、一隻帆走って来るのだよ」
「どういう意味でございますかな? 恐ろしい船と申しますのは?」
「船は何んでもないのだよ。恐ろしいのは乗っている方さ」
「いかなるお方でございますかな?」
「秘密を握っている方さ」
「何んの秘密でございましょう?」どうにも柵頼格之進には、妙子の云うことが解らないらしい。
「妾の秘密を握っている方さ! そうして妾の競争相手の、冷泉華子さんの秘密もね」
「そのお方のご身分は?」
「偉い方だよ、力を持った方さ」
「ご姓名は?」
「うるさいねえ!」
「は」と格之進は引っ込んだ。
「こんな場合にあのお方に、出現されてはたまらない ! 何も彼もみんな駄目になる」譫言のように呟いたが、「ナーニそうなりゃア怨み恋なしだ! 妾ばかりが困るのではない、華子さんだって困るのだ。諦めなければならないかもしれない」
尚も海上を眺めやった。
だが、海上には何んにもない。風の凪いだ海は、穏かで、事実人魚というようなものが、ほんとに海の中に住んでいるなら、波に浮かび出て美しい声で、歌でもうたいそうにさえ思われる。
クルリと方角を変えた北王子妙子は、駕籠の傍まで引っ返したが、
「案じていたところで仕方がない。やるところまでやるとしよう」駕籠へはいると声をかけた。
「おやり! 急いで! 一生懸命!」
海岸を伝って一散に、駕籠を囲んで田安家の武士達は、芹沢の方へ走ったが、駕籠の中では北王子妙子が、不安そうに呟いていた。
「船! ……あのお方! ……手も足も出ない!」
だが本当にそんな 船が、そんな恐ろしい人物を乗せて、海上を渡って来るのだろうか?
妙子の透視には狂いがなかった。
遙か離れた海上を、一隻の船が帆走っていた。
四十一
船首には老婦人が立っている。
悠然と行手を眺めている。
と、老婦人が声をかけた。
「これこれ鯱丸、どうしたものだ、眠ってはいけない、起きたり起きたり」
「阿呆らしい」とすぐに返辞が来た。「何んの眠ってなんかおりますものか、こんなに大きくパッチリと、眼をあいているじゃアありませんか」こう云ったのは少年である。船尾の方に坐っている。青い頭の小法師である。年はようやく十四、五らしい。可愛い腰衣をつけている。帆をあやつっているのである。
その帆であるが変わった型で、三角型のものもあれば、菱形をなしたものもある。一本の丁字形の帆柱に、鳥が羽根でも張ったように、風を孕んで懸かっている。だがその地質はひどい 物で、継接をした襤褸なのである。
船の形も珍しかった。と云うよりそれは筏なのであった。あの木曽川とか富土川とか、山間の河を上下するために、山の人達は丸太を組んで、堅固の筏を作るものであるが、その船もそういう筏なのであった。
それにしても、速力の速いことは!
筏船は駸々《しんしん》と走って来る。歌のような帆鳴りの音がする。泡沫がパッパッと船首から立つ。船尾から一筋水脈が引かれ、月に照らされて縞のように見える。
「嘘をお云いよ、嘘をお云いよ、何んの鯱丸がパッチリコと、眼なんか開いているものか。居眠りをしていたに相違ない」老婦人はこんなことを云い出した。「その証拠には三角の帆が、ダラリと下がっているではないか」
「おや」と鯱丸は吃驚りした。「向こうを向いている癖に、こっちのことが解ると見える。背後に眼でもあるのかしら。小気味の悪い婆さんだよ」
優れて美しい容貌にも似ず、鯱丸は口が悪いのである。
ところが老婦人の性質は、寛大で剽軽で磊落だと見え、一向それを咎めようともしない。
「背後にもあれば前にもある、足にもあれば手にもある、胸にもあれば背中にもある、妾は体中眼なんだよ。何んのそればかりではない! 頭脳! 頭脳! ね、頭脳、頭脳そのものが眼なんだよ。だからさ、妾にはどんなものでも見える、……だからさ、今度山を下り、江戸へ入り込んだというものさ」老婦人はこんなことを云い出した。
「いよいよ迷惑な婆さんだよ」小法師の鯱丸は毒舌である。「江戸入りしたのはいいけれど、筏船を作って帆を上げて、隅田川を上へ溯って、大きな屋敷の水門から、屋敷へ入り込もうとしたかと思うと、にわかに後へ引っ返し『鯱丸よ、行手変えだ! 芹沢の郷! 芹沢の郷! やれやれやれ、そっちへやれ』などとむやみに急き立てて、こんな方へ走らせて来たんだからなあ。その途方もない沢山の眼で何を見たのか知らないが、梶取りの俺らは疲労れてしまう」どうやら鯱丸は不平らしい。「一体全体何んのために、そんな所へ行くのだろう」
「それはね」と云ったが老婦人の声は、この時いくらか真面目になった。「人を助けに行くのだよ」
「人を助けに? 怪しいものさ」
「綺麗な綺麗な娘をね」
「ふうん、何んだか解るものか」
「そうして叱りに行くのだよ」
「だんだん解らなくなって来た」
「妾の家来でありながら、その妾を裏切って、よくないことをやっている、二人を叱りに行くのだよ。……鯱丸!」と俄然いかつくなった。
「船をお廻わし、陸の方へ! 街道の方へお近付け!」
「はい」と云ったが神妙であった。鯱丸はグ――ッと綱を引いた。ハタハタハタ、ハタハタハタと、方向が変えられた幾個の帆は風を孕んで靡いたが、筏船は素早く方向を変え、街道筋の方へ辷り出した。
と、間もなく街道が――東海道の陸の影が、遙かにぼんやりと見えて来た。
「鯱丸」とまたも命令的に、「さあさあ松火へ火をおつけ!」
カチッ! と燧石の音がした。すぐにボ――ッと火が立った。鯱丸が松火を点したのである。
「およこし」と云ったが老婦人は、松火を取ると頭上へかざし、二、三度グルグルと渦を描いた。
と、どうだろう、それに答えて、陸から松火の桃色の火が、一点ポッツリと見えたではないか。
何者かそこにいると見える。
何者どころではない行列なのであった。
頭髪こそ削らずに切り下げとして、肩へ掛けてはいたけれど、無地の鼠の衣裳の上へ、腰衣を纒い袈裟をかけた、尼の一団が足並みを揃え、その数およそ三、四十人、トットと走っているのであった。
有髪の尼僧の一団なのである。
筏船に乗っている老婦人も、全く同じ姿であった。鼠の無地の衣裳を着、黒の腰衣を纒っていた。そうして袈裟を掛けていた。その袈裟ばかりは金襴である。松火の火に照り返り、まばゆいまでに美しい。美しいといえばその顔も、随分美しいものであった。男のような高い鼻、凛々しく引き締まった大型の口、延び延びと引かれた長い眉、それより何より特色的なのは「神秘」という言葉を如実に示した、大きくて、窪んで、光が強くて、そうしてともすれば残忍にさえ見え、そう見えるために美しい弓形をした眼であった。血色もよく皺もない。が老女には相違なかった。肩を蔽うている切り下げ髪が、白金のように白くもあれば、眉毛さえも白金のように白いのだから。
四十二
火を吹き消した有髪の老尼は「鯱丸」とまたも命令的に云った。
「これでよろしい、方向をお変え! 芹沢を目指して一直線! 乗っ切れ、乗っ切れ、さあ乗っ切れ!」
方向を変えた筏船は、帆鳴りの音を響かせて、しんしんしんしん と走り出した。
有髪の老尼は何者であろう?
街道を走って行く尼の行列は、どういう身分の者だろう?
もちろん今は解らない。
とはいえ両者は味方らしい。
そうして両者の行先は、芹沢の郷に相違ない。
とにかく水陸呼応して、奇怪な尼僧の一団が、月の明るい更けた夜を、走り走って行くのである。
ここは芹沢の郷である。七福神組の怪盗七人が、一ツ橋勢に遮られた。
ドッとあがったは喊声である。一ツ橋家の武士どもが、同音にあげた喊声である。と、同時にキラキラと、月にきらめく もの もの」は底本では「月にきらめ くもの」]があった。彼らの構えた太刀である。
グ――ッと一列に押し列び、来い! 通さぬ! と構えたのである。
「先廻わりをされたよ、残念だねえ! しかしナーニびくつく ものか!」こう云ったのは松代である。
「さあさあみんないつもの手だ! 卍廻わりに押し廻わり、突き破って行こう、切り抜けて行こう!」
「合点」と云ったのは六人の部下で、で、グルグルと廻わり出した。
卍廻わりとは何んだろう? 彼ら独特の戦術なのであった。手組輿の上へ桔梗様を乗せ、群像のように塊まった。七福神組六人が、塊まったままで廻わるのであった。まず左へグルグルと廻わる。それから右へグルグルと廻わる。それからまたも左へ廻わり、それからまたも右へ廻わる。これを無限に繰り返すのである。そうしてそのように廻わりながら、先へ先へと進むのである。廻わる間も進む間も、右手の太刀を前方へ突き出し、それを上下へシタシタと戦がせ、敵を寄せ付けまいとするのである。
ただし頭の松代ばかりは、一団から離れて先頭に立ち、「左へお廻わり! 右へお廻わり!」こんなように指揮するのである。
今やグルグル廻わり出した。
何という変わった見物だろう?
月が上から射している。で、白刃がキラキラする。輿の上にいる桔梗様は、蒼白い顔を月光に曝らし、廻わされるままに廻わっている。ダラリと下がった両袖が、廻わるに連れて翻えり、風を孕んでハタハタと鳴る。蝙蝠が翼を振るようである。
背後には館が立っている。黒々と立っている態が、異国の魔塔を想わせる。
右手に煙っているものは、月光に暈された海である。
何んだろう、あれは、点々と、左手に見える赤いものは? 芹沢の里の燈火である。
依然行手には一ツ橋勢が、抜き身を揃えて並んでいる。
それらのものに囲まれた、深夜の広い野の上で、群像が廻わっているのである。
そうして先へ進むのである。
変わった見物と云わざるを得ない。
と、松代が声を上げた。
「さあさあ右へお廻わりよ!」
群像は右へ廻わり出した。
「今度は左だ! 廻わったり!」
群像は左へ廻わり出した。
白刃が光る、足が揃う、群像がグルグル渦を巻く。
「お進みお進み、さあお進み!」弁天松代の指揮である。
廻わりながら群像は進み出した。
凛々《りり》しい松代の姿である。裾をキリキリと取り上げている。両袖を肩で結んでいる。深紅の蹴出しから脛が洩れ、脛には血汐が着いている。たくし上げられた袖から抽きでて、二の腕まで腕が現われている。それにも血汐が着いている。手に握ったは白刃である。中段に構えて押し進む。
廻わる群像! 進む群像! 指揮をして走って行く弁天松代!
タッ、タッ、タッ、タッと押し進む。
一ツ橋家の武士たちが、胆を潰したのは当然と云えよう。全くこんな戦術は、かつて見たことも聞いたこともなかった。
切り込んで行こうにも行きようがない。取り抑えようにも抑えようがない。迂濶に切り込んで行ったが最後、六本の太刀の幾本かが、同時に落ち下るに相違ない。また抑えようとしたところで、群像の行動は素ばしっこい 、容易に抑えられるものではない。
多勢を頼んで遮ってはみたが、進みもならず一様に、後へ後へと引くばかりであった。
七福神組は進んで行く。一ツ橋勢は引き退く。
結果はどうなることだろう?
そうは云っても一ツ橋家の武士にも、全然勇士がないことはなかった。果然、一人、月光を刎ね、猛然と群像へ切り込んだ。だがその結果は無残であった。それと見て取った七福神組は、一斉に刀を振り上げたが、廻わりながらの薙ぎの手だ、サ――ッとばかりに振り下ろした。すぐに起こったは悲鳴である。つづいて起こったは仆れる音! 一本の刀に脳天を割られ、一本の刀に肩を切られ、もう一本の脇差しに肋を刎ねられた一ツ橋家の武士が、悲鳴を上げて仆れたのである。
「こんなものだよ!」と愉快そうな声! 弁天松代が云ったのである。「乗り越せ乗り越せ! さあお進み!」ポンと死骸を飛び越した。
「合点!」と同音! 六人の部下だ。これも死骸を飛び越して、タッ、タッ、タッ、タッと押し進んだ。
群像は進んで行くのである。依然グルグル廻わるのである。
蒼白いは桔梗様の顔である。月に向かって曝らされている。翻えるは桔梗様の袖である。蝙蝠が翼を振るようだ。
手組輿の上の桔梗様は廻わされるままに廻わっている。生死のほどは解らない。されるままになっているのである。
四十三
ひた 走るひた 走る七福神組! 芹沢の里の方へひた 走る! こうして首尾よく七福神組は、桔梗様を救うことが出来るだろうか。
いやいやそれは出来そうもなかった。
味方の一人を目前において、討って取られた一ツ橋家の武士達は、かえって怒りを発したと見える、四、五人一度に声を掛け合わせ、同時に猛然と飛びかかって来た。
が、その結果は駄目であった。
七福神組の六人が、一斉に上げた六本の太刀が、廻わりながらの薙ぎの手で、サ――ッと一度に下ろされた時、数声の悲鳴がすぐ起こり、つづいて仆れる音がした。
四、五の死骸が野に転がり、その死骸から血が吹き出し、飛沫のように散った先が、煙りのように茫と霞み、月の光を蔽うたので、月が血煙りに暈されて、一瞬間赤く色を変え、まるで巨大な酸漿が、空にかかったかと思われたが、それを肩にした弁天松代が、
「こんなものだよ、驚いたか! 七福神組の卍廻わり、そう甲斐撫でには破れない! 相手になろうよ、幾度でもかかれ! ……乗り越せ乗り越せ! さあ進め!」死骸を向こうへ飛び越した。
「オッと合点! さあ行こうぞ!」
群像は、形を崩さずに、松代の後に従って、死骸を向こうへ飛び越した。
左へ廻わる。右へ廻わる。そうして先へ進んで行く。
次第次第に一ツ橋勢は、後へ後へと押されて行く。
だがこの時背後にあたって、ドッと喊声の起こったのは、いったいどうしたというのだろう?
表門から走り出た、五、六十人の一ツ橋家の勢が、ようやくこの時追い付いたのである。
ここに至って七福神組は、腹背敵を受けてしまった。
と、数声弦鳴りの音が、背後にあたって聞こえたが、数本の征矢が飛んで来た。
瞬間に上がった六本の太刀が、キラキラキラキラと閃めいたのは、矢を切り払ったためだろう。
だが第二の弦鳴りの音! だが第三の弦鳴りの音! ひっきり なしに響くに連れ、唸りをなして飛んで来る征矢も、次第に繁くなって来た。
背後から逼って来た一ツ橋家の勢が、打ち物業を故意と避け、飛び道具で打ち取ろうとするのであった。
それと察した弁天松代は、甲高く声を響かせた。
「さあさあみんな寝るがいい。一時息を抜こう息を抜こう!」
声に応じて六人の部下達は、忽然姿を消してしまった。
と云ってもちろん煙りのように、消えてなくなってしまったのではない。蒼茫たる月光を刎ね飛ばし、卍廻わりに廻わっていた、七福神組の群像が、一刹の間にバラバラに分かれ、地面へピッタリひれ伏したのである。
桔梗様が地上へ寝かされている。傍に松代が体を伏せている。二人を中心に大円を描き、松代の部下の六人が、地面へ体を食っ付けている。で姿が解らないのである。
が、一ツ橋家の武士達は、どうやらそうはとらなかったらしい。射掛けた征矢を一斉に喰らい、斃れたものと解したらしい。
で、腹背の二手の勢は、ドッと喊声を響かせたが、思慮浅くムラムラと、七福神組へ走り寄った。
待ち設けていたことである、弁天松代は飛び上がった。
「いい潮合いだ。やっつけろ!」
「それ!」
と声を掛け合わせ、猛然刎ね上った六人の部下、「馬鹿め!」「くたばれ!」「思い知れ!」
喚きを上げて飛び込んだ。
で、太刀音だ! 仆れる音! 悲鳴に続く呻き声!
と、バラバラと人の影が、四方八方へ別れたが、切り立てられた一ツ橋勢が、逃げて走って行く影であった。
気勢に乗った七福神組は、追い討ちに後を追っかけたが、心配したのは松代である。
「長追いするな! 引き上げろ! 集まれ集まれ、一所へ!」
しかし足音や喊声や、太刀打ちの音に遮られ、松代の声は通らなかった。
六人の部下達は、追っかけ追っかけ、馳せ違い行き違い切り仆す。
いよいよ周章てた一ツ橋勢、館へ逃げ込もうとしたのだろう、分かれていたのが一つに集まり、表門の方へ走り出した。
四十四
と、その一団が馳せ付けた時、表門から一手の勢が、丸く塊まって現われた。
冷泉華子を真ん中にし、南部集五郎を先頭に立てた、一ツ橋家の新手の勢で、その数およそ三十人もあろうか、逃げ込もうとする味方の勢を、押し返すようにして現われたのである。
「やあ方々何事でござる!」こう叫んだのは集五郎である。
「相手は鼠賊、たかが七、八人、討ち取るに手間隙は入らぬ筈、逃げ込むなどとは沙汰の限り、引っ返しなされ、引っ返しなされ!」
これに勇気づいた一ツ橋勢は、グルリ振り返ると喊声を上げ大波のように引っ返した。
「引っ包んで討って取れ!」
「逃がすな逃がすな縛め取れ!」
グルグルグルグルと包囲した。
取り込められた七福神組は、いかに行動が敏捷でも、敵の人数は十倍にも余る、多勢に無勢、敵うべくもない。
「しまった!」
「やられた!」
「どうしたものだ!」
「とにかく一所へ集まろう!」
「頭はどうした」
「桔梗様は」
互いに呼び合い注意し合ったが、駈け隔てられ追い詰められ、一所になることも出来なければ、頭の松代や桔梗様を、探し出すことも出来なかった。
「もうこうなっては仕方がない! 死ねや死ねや、切り死にをしろ!」
そこで六人六方へ分かれ、飛び込んでは叩っ切り、引っ返しては叩っ切る。
全く混戦となったのである。
月光は益※ 冴えて来た。四方が明るく暈けて来た。
その中で乱闘が行われている。
あっちに一団、こっちに一団、切り結んでいる影が見える。
サ――ッと一組が走り出す。サ――ッと一組が追っかける。
組と組とがぶつかり 合う。
ヒュ――ッと笛の音がする。
そっちへ走せ付ける人の影!
と、すぐに太刀の音!
混戦! 混戦! 混戦! 混戦!
四十五
次第に時間が経って行く。
時間が経つに従って、一ツ橋勢が益※ 気負い、七福神組がそれに反し、気萎えするのは当然と云えよう。
こうして間もなく七福神組は、一人残らず討ち取られるだろう。
しかしその時意外の事件が、忽然として勃発した。
まず凄じい鬨の声が起こり、つづいて太刀音が消魂しく起こり、一ツ橋勢の一角が、見る見る中に崩されたのである。
田安家の武士達が到着し、一ツ橋勢の横手から、この時切り込んで来たのである。
こうして一層の混戦が、展開されることになった。
と、その混戦の場を抜き、一挺の駕籠が飛んで来た。
衆に守られた冷泉華子、それの前から数間の手前、そこまで来た時駕籠が止まり、スルスルと現われたものがある。
「華子さん!」と云ったが妙子であった。「貰いに来ましたよ、桔梗様を!」
「妙子さんか!」
と冷泉華子は、驚いたように進み出たが、「勝手に連れて行くがいいよ。妾は知らぬよ。その生死は!」
「ついでに貰うものがある」妙子は一足踏み出したが、「永生の蝶さ! こっちへおくれ!」
「駄目だよ!」と華子は突っ刎ねた。「お気の毒だが上げられないよ」
「取って見せるよ。腕ずくでね」
「面白いねえ。取れたらお取り」
「どれ」
と云うと北王子妙子は、腰の辺りを探ったが、ヒュ――ッと何物かを空へ投げた。
小さな小さな二つの車輪、そいつを棒で繋いだようなもので、瓢と云った方がよいかも知れない。
クルクルクルクルと空で舞う。
と、何んという不思議だろう、冷泉華子の懐中から、キリキリ舞い立ったものがある。それは永生の蝶であった。
「おっ」
と叫んだは冷泉華子で、肩に掛けていた袋よう のものを、ドッサリと地上へ投げ付けた。と、その背中がムクムクと動き、パックリ口をあけたかと思うと、ヒラヒラヒラヒラと気を吐いた。
もうその頃には車輪よう のものは、空から地の上へ落ちていたが、袋よう のものと向かい合い、独楽鼠のように廻わり出した。
その中間の虚空では、蝶がグルグルと舞っている。
どっちへ行くことも出来ないと見える。飛び去ることも出来ないと見える。
それを眺めている女方術師の、北王子妙子と冷泉華子とは、身動き一つしようとさえしない。
まさに変わった光景と云えよう。
だがそういう光景に対し、何んのかかわるところもなく、混戦は引き続いて行われていた。
と、その混戦の場を抜け、一人の女が彷徨っていた。
気絶から醒めた桔梗様である。
フラフラフラフラと歩いて行く。
まるっきり意識などなさそうである。無我夢中でいるらしい。何か口の中で呟いている。
「どうしたのだろう? 解らない! ……切り合っているよ! 恐ろしい! ……妾はどうしたらいいのだろう? ……逃げなければならない! 逃げなければならない! ……」
フラフラフラフラと歩いて行く。
どこへ行こうとするのだろう? 自分にも解っていないらしい。どこへ行くのが至当なのだろう? 自分にも解っていないらしい。
館の方へ歩いて行く。裏門の方へ歩いて行く。
これこそ正気でない証拠である。
恐ろしい恐ろしい館ではないか! 彼女を捕えて苦しめた、敵の住んでいる館ではないか! それだのにそっちへ行こうとする。
フラフラフラフラと歩いて行く。
どうして誰もが止めないのだろう? 弁天松代はどうしているのか? やっぱり戦っているものと見える。
桔梗様はフラフラと歩いて行く。
とうとう裏門から入り込んだ。
ザ――ッ、ザ――ッと音がする。
滝の落ちている音である。
そっちへ桔梗様は歩いて行く。
「綺麗な滝! 落ちているねえ」
佇んで桔梗様は眺めやった。
石造りの建物がある。その一所に窓がある。そこから滝が落ちている。一式小一郎を葬って、垢離部屋を一杯に充たした水が、窓から落ちているのである。
「落ちているねえ。……綺麗な滝が!」
――とその時声がした。
「桔梗様! 桔梗様!」
滝の中からしたのである。
「どなたか妾を呼んでいるよ」
――その時滝の水を分け、ヨロヨロと現われた人影があった。全身水に濡れている。おお水死人の幽霊だ!
「あああなたは?」
「小一郎でござる!」
「一式様か!」
「桔梗様!」
抱き合ったとたんに鬨の声が、館外にあたって響いたが、つづいて叫び声が聞こえて来た。
「山尼だ! 山尼だ! 山尼だ!」
と、裏門からムラムラと、一ツ橋勢が逃げ込んで来た。
「や、汝は!」とその中の一人が、一式小一郎へ切りかかった。
「まだ生きていたか! どうして遁がれた!」
危くヒョロヒョロと小一郎は、身を反わせたが苦しい声で、
「ナ、南部か! 集五郎!」
桔梗様はフラフラと歩き出した。
「小一郎様! 小一郎様! お逃げなさりませ、お逃げなさりませ」
フラフラフラフラと裏門を出た。
「桔梗様!」
と小一郎は、足もと定まらず追おうとする。
そこを背後から集五郎は、肩を目掛けてただ一刀!
それから一月の日が経った。女馬子の引く馬に乗り、一人の武士が旅をしていた。
四十六
秩父連山の中腹であり、武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であったが、その同じ日に三浦三崎の方へ、八人連れの旅人が、事ありそうに歩いていた。
隅田のご前を前後に守り、七福神組の連中が、目立たぬ旅の装いをして、密かに歩いて行くのであった。
だがもし仔細に見たならば、大工や行商人や、修験者や、農夫や虚無僧や浪人者や、そういう者に身を※ 《やつ》した、二百人あまりの同勢が、無関心な様子はとりながらも、隅田のご前を警護して、先になったり後になったり、歩いて行くのに気が付くであろう。
すなわち英雄の俤のある、隅田のご前が部下を引き連れ、三浦三崎の方角へ、密行しているものと見なければならない。
隅田のご前は例によって、悠々寛々たる態度をもって、弁天松代を相手とし、剽軽な口を利いている。
「いやはやいやはや偉いことになったぞ、こんな俺のようないい年をした者が、草鞋穿きでテクテク三浦三崎などへ、出て行かなければならないのだからなあ。……そうは云ってもよい景色だの。一方は海岸一方は野原、秋草も綺麗に咲いているわい」
葵の紋服など着ていない。無紋の単衣にぶっさき 羽織、自然木の杖をついている。顔を見られるのを嫌ったからだろう、編笠を目深に冠っている。
「そうは云ってもひょっと かすると、今度は大騒動になるかもしれない。私は騒動は嫌いでな。わけてもちっぽけ な日本国内で、いがみ 合うことなどは大嫌いだよ。……と云ってもどうも今度ばかりは、うっちゃって置くことは出来そうもないよ……。何しろこの私の兄にあたる、昆虫館主がやられる のだからなあ……。そうは云っても一方から云えば、私にはこの旅が面白いのさ。久しぶりで兄弟と逢えるのだからなあ。……お前達にとっても楽しかろうよ、変わった建物が見られるのだからな。昆虫館という建物さ。……がその代わり間違うと、それこそ本当に腥い、死山血河の大修羅場が、演ぜられることになるだろうよ。いやそうなったらお前達が力だ、思い切って腕を揮ってくれ」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは松代である。道行を着てその裾から、甲斐絹の甲掛を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。「ご前のおためでございましたら、どのようなことでもいたします」充分謹んだ言葉つきである。
「ご前という言葉はよくないなあ。お爺さんとでも呼ぶがいい。人目を避けての旅だからな」
「はいはいそれではお爺さん」
「それがよろしい、さて娘や」
こんな具合に話して行く。
こうして一同関宿まで行き、それから森林を分け上り、昆虫館まで行くのであろうが、この頃小一郎と君江とは、例の秩父の中腹を、上へ上へと辿っていた。
「例によりましてあなたの位置は、お気の毒様でございますなあ」こう云ったのは小一郎である。
それに答えて君江が云う。「大してそうでもございません」
馬の足掻きがパカパカと聞こえ、そうして鈴の音がシャンシャンと鳴る。
少し秋めいた夏の陽が濃緑の葉を明かるめている。人通りがないので寂しいが、それだけに長閑と云ってもよい。
「そうではないとおっしゃっても、やっぱりそんなようでございますよ」小一郎の調子は軽かったが、それは努めての軽さであり、本当の心持ちは重いのである。「桔梗様を目付けに行きますので」
「はいはいさようでございますとも」君江の調子も軽かった。そうしてこれは雑り気のない、心からの本当の軽さらしい。「桔梗様を目付けに行きますので。そうして是非とも桔梗様を、お見付けしなければなりません」
「だが」と小一郎は気の毒そうに、「いよいよ桔梗様が目付かったとして、どうなりましょうな、あなたの位置は?」
「何んの変わりがありましょう。おんなじ位置でございますよ」君江は少しも動じようとしない。そんなようにこだわらず に云うのであった。
「さあはたしてそうでしょうか?」小一郎の方が心配そうである。「変わるだろうと思いますよ」
「何んの変わりがありましょう」君江には自信があるようである。「妾の心が変わりませんもの」
「そういう私の心持ちも、昔と変わっていませんので。と云うのは昔から今日が日まで、あの桔梗様を心から、愛しているのでございますよ」
「それを知らないでどうしましょう。妾は以前から知っておりました」
「ええとところで桔梗様の方でも、私を愛しておりますので」
「それもあなたから一再ならず、承わった筈でございますよ」
「で、桔梗様が目付かったとすると、どういう結果になりましょう」
「どういう結果になりましょうとも、妾には関係ございません」本当に関係がなさそうに、君江の調子には変わりがなかった。「この妾といたしましては、あなたを愛しておりますので、ただそれだけでございますよ」
「しかし」と小一郎はやや物鬱く、「競争になるかも知れませんなあ」
「いずれは競争になりましょう」やっぱり君江は変わらないのである。「あなたを取り合って二人の女が、競争することでございましょう」他人事のような調子である。
「さあどっちが勝ちますやら」かえって小一郎の方が不安そうである。
「はい、妾が勝ちますとも」
「随分自信がありますようで」今度は小一郎は可笑しくなった。
「そういう自信がないことには、何んで妾がお供をして、桔梗様をさがしの旅などへ、進んで出かけて参りましょう」
「いかさまこれはもっともで」
話がここで切れてしまった。
手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。一見長閑な旅である。
どこへ向かって行くのだろう? ズンズン行けば桐窪へ出る。それでは桐窪へ行くのだろうか?
それにしても一式小一郎は、芹沢の里に建てられてあった、冷泉華子の道場の、水に充たされた垢離部屋から、どうして出ることが出来たのだろう? それこそ何んでもなかったのである。高い窓から遁がれたのである。水が窓から流れ出るまで、小一郎は垢離部屋で立泳ぎをしていた。そうして流れ出る水と一緒に、窓から外へ出たのである。窓が大きくなかったら遁がれ出ることは出来なかったろう。幸いに窓は大きかった。で、出ることが出来たのである。もしまた南部集五郎が、さらに一層注意深く、窓まで水が浸く前に、早く樋口を引いたなら、遁がれ出ることは出来なかったろう。集五郎は周章てていたようである。で、樋口を掛け放しにして、華子へ知らせに走ったのであった。そうしてその後に起こったのが、あの凄まじい乱闘で、そうして乱闘の行われている間に、窓まで水が浸いたのであった。
それから小一郎はどうしたか?
乱闘の場を辛く遁がれ、自分の屋敷へ帰ったのであった。もっとも修羅場を遁がれ出る時、彼はこういう叫び声を聞いた。
「桔梗様を山尼が攫って行く!」と。
屋敷へ帰った小一郎が、傷付いた体を養いながら、山尼なるものの性質と、その居場所とを調べたことは、云うまでもないことであったが、知ることは出来なかった。
ただし一旦家を出て、隅田のご前をお訪ねした時、計らずもそれを知ることが出来た。
四十七
隅田のご前がこう云ったからである。
「桔梗を山尼が連れて行ったそうだの。いや一切知っておる弁天の松代が話してくれた。いやいや少しも心配はない。桔梗はむしろ安全だろう。と云って捨てては置かれない。……夫婦の間の憎悪は、恐ろしい結果を呼ぶものだからの……一番不幸なのは昆虫館主さ……が、まあまあそれはよい。この俺が処置をつけてやる。……どっちみち桔梗だけは安全だよ。……と云ってお前の身になってみれば、安心してはおられまい。山尼の何者かを知りたかろう。では簡単に話してやろう。山岳行脚の尼僧の群だ。と云って尋常な尼僧ではない。一種特別の放浪者だ。不思議な業さえ心得ている。兇暴な性質も持っている。……ところで居場所だが解らない。天幕生活をしているのでな。もっとも大略の見当はつく。秩父山中の桐窪にいよう。……これ以上は教えられない」
そこで一式小一郎は、それだけの言葉を手頼りにして、桔梗様を探しに出て来たのであった。
手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。懸巣が林で啼いている。野の草が風に靡いている。
二人は旅をつづけて行く。
はたして一式小一郎は、山尼の居場所を突き止めて、ふたたび恋人の桔梗様を、取り返すことが出来るだろうか?
一つの森が現われた。と、その森の向こう側から、大勢の人声が聞こえて来た。
「はてな?」と耳を傾げた時には、風の吹き具合が変わったのだろう、もう話し声は聞こえなかった。それにも拘らず小一郎は、非常に不安の様子を見せた。話し声に聞き覚えがあったからである。
「とは云えまさか あの連中が」口の中で呟いた。「ナーニこの俺の聞き違いだろう」
いやいやそれは聞き違いではなかった。小一郎にとっては恐ろしい敵が、その時その森の向う側を、まさしく歩いていたのであった。
山駕籠に乗った冷泉華子を、南部集五郎とその一味とが、守護するように引き包み、話しながら辿っていたのであった。
山駕籠の引き戸が開いている。華子がそこから覗いている。景色を眺めているのだろう。傍に引き添ったのは集五郎で、旅の装いを凝らしている。
人数にして三十人あまり、同じ方角へ歩いて行く。
「はたして目付かるでございましょうか?」こう云ったのは集五郎であった。何んとなく不安な様子がある。
「たしかに目付かると思うがね」こう云ったのは華子であった。だがやっぱりどことなく、不安な様子を見せていた。「山尼の居場所を見付けるのは、大して困難ではないのだよ。目付けた後が困難なのさ。つまり取られた永生の蝶を、取り返すのが困難なのさ」
「ひどい目に逢ったというもので」こう云うと集五郎は苦笑をした。「やっと捕えた一匹の蝶を、横取りされたのでございますからな」
すると今度は冷泉華子が、苦笑を口もとへ浮かべたが、「妾のニラミに狂いがなければ、永生の蝶を取られたより、桔梗という娘を取られた方が、お前さんにとっては苦痛のようで」
これには集五郎も参ったようであった。
「率直に申せばその通りで、あれは残念でございましたよ。が、それにしても何用あって、永生の蝶や桔梗という娘を、あの不思議な山尼達は、横取って行ったのでございましょう」
「それは妾には解らないよ。……そうは云っても永生の蝶は、あれだけ名高いものではあり、それの秘密を剖いた者は、道教でいうところの寿福栄華を、一度に掴むことが出来るのだから、山尼の長の高蔵尼が、欲しく思ったのは当然といえよう」
「その高蔵尼でございますが、あなた様や北王子妙子にとっては、どのような関係がございますので」集五郎にはこれが疑問らしかった。
「旧師匠なのだよ、私達のね。……これ以上は云われないよ。……一度あのお方に出られたが最後、妾にしてからが妙子さんにしてからが、それこそ手も足も出ないのだよ」
「ははあ」と云ったが集五郎には、腑に落ちないところがあるようであった。「それにしても奇観でございましたよ、あなた様の方へも行くことが出来ず、妙子の方へも行くことが出来ず、宙に舞っていた永生の蝶が、あの高蔵尼が現われるや否や、一気にそっち へ翔けて行き、袖へ飛び込んだのでございますからなあ」
「強い力をお持ちだからさ」
「どういう力でございましょう?」
「妾や妙子さんの持っている力と、同じような力なのさ。それが十倍も強いだけさ」
一行はズンズン歩いて行く。
やはり秩父の山中の、桐窪が一行の行く先らしい。山尼の居場所が目的地のようだ。
「おや」と集五郎が呟きながら、ちょっと小首を傾げたのは、森の向こう側からシャンシャンという、馬の鈴音が聞こえたからである。「旅人が通っているらしい」何んとなく不安の気のしたのは、所は道のない野原であり、山越しをして行く旅人などが、めったに通らない場所だからであった。
「馬の鈴音が聞こえましたようで」華子に向かって声をかけた。
「ああ妾も聞こえたよ」
「同じ方角へ行きますようで」
「どうやらそんな様子だねえ。だが大概は旅人だろうよ」案外華子には苦にならないらしい。
「しかし今回の私どもの旅行は、絶対の秘密になっております。人に姿を見られましては、あまり感心いたしません」
「云うまでもないよ、その通りだよ」
「で、好んで峠路を避け、道のない野原を辿っております」
「そうした方が安全だからね」
「森の向こう側の旅人に、見られないものでもございません」
「同じ方角へ行くのだから、いずれはどこかで出合うだろうよ」
「その旅人が人里へ下って、我々の様子を吹聴しましたら、いささか困りものにございます」
「と云って旅人を掣肘して、旅をするなとは云えないではないか」
「ともかくもどういう旅の者か、確かめて置いた方がよろしいようで」
「なるほど、それだけは必要かも知れない」
「森の向こう側へ人をやり、見させることに致しましょう」
「そうだねえ、そうしてごらん」
「山本氏、山本氏」武士の一人を呼びかけた。
「は」と云いながら近寄って来たのは、二十七、八の武士であった。
「ご貴殿森の向こう側へ行き、馬に乗って通る旅人の様子を、それとなく窺がってくださるよう」
「委細承知」と云いすてると、森を分けて武士は走り去った。
で、一行は進んで行く。
華子の乗った山駕籠が、列の先頭を切っている。それに引き添ったは集五郎である。それに続いて三十余人の武士が、旅装いかめしく付いて行く。一ツ橋家の武士である。
右手は鬱々とした森である。左手は起伏した丘である。行手にも幾個か森がある。長く続いた林もある。小山もあれば谷もあり、川も流れているらしい。灌木や藪が飛び散っている。山は斜面をなしていたが、登りはそれほど険しくはなかった。空を横切って小鳥が飛ぶ。遙かの山の頂きに、入道雲が屯している。晴れた空が海のように深く見える、山地特有の空である。
一行はズンズン進んで行く。
五町あまりも歩いたろうか、森は途切れたが林となった。林の左側に沿いながら、一行はさらに進んで行く。
と、今度は小山となった。山の斜面に瘤のように、うずくまっている小山である。小山の裾を巡りながら、一行は尚も進んで行く。
と、小山の反対側から、またも馬の鈴が聞こえて来た。
ところがどうにも腑に落ちないのは、物見に出て行った山本という武士が、いまだに帰って来ないことであった。
「どうしたのだろう、可笑しいではないか」
集五郎には不思議でならなかった。
「山本氏が帰りませんようで」華子に向かって不安そうに云った。
「そうだねえ、どうしたのだろう」
日光を遮って駕籠の中は、ボッと薄暗く煙っていたが、その中に浮いている華子の顔には、幽かながらも不安があった。「十や十五の子供ではなし、迷児になったのではあるまいが、それにしても少し手間取り過ぎるよ」
「それに旅人の鈴の音が、小山の向こう側で聞こえております」
「もう一人物見にやってごらん」
「北条氏北条氏」呼ぶ声に連れて、北条という若い武士が、すぐに後列から走って来た。
「は、何事でございますかな?」二十五、六の武士である。
「お聞きの通り小山の向うで、馬の鈴音が聞こえております。どのような旅人が通っておるか、行ってお調べくださるよう」
「かしこまりましてございます」
北条という武士は馳せ去ったが、すぐに山の向うへ隠れてしまった。
一行はズンズン進んで行く。
四十八
小山と云っても丘のようなもので、高さから云うと知れたものであったが、その延長は著しかった。で、その裾に添いながら一行はズンズン進んで行った。
依然鈴の音は聞こえて来る。悠々と歩いていると見えて、その鈴の音もおちついている。
だがその鈴の音が急に止み、罵り合う声が続いて起こり、すぐに消魂い悲鳴が聞こえ、同時に鈴の音が乱調を作し、甲高く響いた瞬間から、局面が一変することになった。
「悲鳴が聞こえた、不思議千万!」呻くように云ったのは集五郎である。
「うむ」と華子も呻くように云ったが、「そなた小山へ馳せ上り、向こう側の様子を窺うよう」
「心得てござる! では早速!」
小山には灌木が生えている。しかし丈の高い木などはない。走り上がった集五郎は、頂きに立つと手をかざし、山の向こう側を見下した。と、山の裾の草の中に、見誤りはない山本という武士が、俯向けになって斃れている。肩を大袈裟に切られたと見え、血が流れ出て日に光るのが、かなり間遠ではあったけれど、不思議のようにハッキリと見えた。
「おっ! やられたか! ウーム気の毒! が、それにしても旅人は?」
集五郎は眼を走らせたが、すぐに旅人を目付けることが出来た。女馬子の引く馬に乗り、旅仕度をした一人の武士が、小山が途切れて谷になっている、そっちを目掛けて急がしく、飛ぶように走らせているのであった。背後姿ではあったけれど、集五郎には見覚えがあった。
「まさしく彼奴だ! 相違ない!」
唸るがように云った時、馬上の武士が振り返った。
「また逢いましたな。南部氏! 拙者は一式小一郎、貴殿の部下の二人の武士を、殺生ながらも手にかけてござる。と云っても敢て理不尽ではござらぬ。拙者の行手を遮ったからで……いずれは貴殿のことである。ムザムザ拙者を見遁がしはしまい! 大勢でかかって来られるだろう。遠慮はいらない、かかってござれ! が拙者は騎馬しておる。貴殿方は徒歩らしい。滅多に滅多に追い付くまい!」
間隔は相当へだたっていたが、高原の空気は澄み返り、雑音が雑らないためでもあろう、粒立って声が聞こえて来た。
とまたもや小一郎が、嘲けりの声を響かせた。「それ石卵は敵しがたし、拙者は石で貴殿が卵、幾度ぶつかっても 拙者が勝つ――と云う事はずっと以前に、小梅田圃で云った筈でござる! さあさあ卵氏卵氏、ぶつかって ござれぶつかって ござれ! ぶつからぬ かな、ではご免!」
クルリと振り返ると小一郎は、女馬子へ何か云ったようであった。とそのとたんに女馬子であるが、持っていた手綱を放したが、その手を延ばして馬の背へかけると、翻然飛び乗ったものである。馬上でピッタリ男女の者が、縋るようにして抱き合ったが、キューッと、ひと 締め! 締め!」は底本では「ひと締 め!」] 馬を締めた! タッタッタッ! タッタッタッ! 野花を蹴散らし砂塵を上げ、走る走る驀地!
怒りとそうして驚きとを、同時に感じたのが集五郎であった。小山の頂きに突っ立って、地団太を踏んだが及ばない、そこでグルリと振り返ったが、
「やあ方々一大事でござる、ご存知の一式小一郎が、山本氏と北条氏とを、切ってすてましてござります! 旅人の正体は小一郎、同じ方角へ向かうからは、我々と同じく山尼の居場所へ、訪ねて行くものと存ぜられます! 谷へ向かって馬を飛ばし、今や驀地に走って行きます! 追っかけなされ! 討って取りなされ! 谷を包囲し隙間もなく、探し探してお討ち取りなされ!」
こう呼び捨てると集五郎は、小一郎の後を追っかけて、一散に小山を馳せ下った。
そう呼びかけられて一ツ橋勢が、動揺したのは当然と云えよう。
華子の乗った山駕籠を、真ん中に包むと三十余人、同じく谷の方へ走り出したが、もうこの頃には一式小一郎は、谷の斜面の大岩の蔭に、君江と一緒に隠れていた。
四十九
「切り合いをするは容易いが、他に大事な目的がある。敵は大勢こっちは一人だ。お前は女で用に立たぬ、怪我でもしては大変である。ああは大言は払ったもののうまく危難を遁がれたいものだ」
いささか心配だというように、小声で小一郎は話しかけた。
「思い付いたことがござます」こう云ったのは君江である。「鹿毛を放すことにいたしましょう」
「ああ馬をか? ふうん、何故な」
「ごらんの通り木が繁って、谷間は暗うございます。しかもその木は大木ばかりで、馬が走って行きましても、恐らく姿は見えますまい」
「うむ、そうだな、それは見えまい」
「蹄の音は聞こえましょう」
「おおなるほど、それで解った。馬を走らせて蹄の音を聞かせ、一ツ橋家の武士どもを、迷わせようというのだな?」
「うまく行こうではございませんか」
「鹿毛は戻って来るだろうか?」
「云い聞かせることに致しましょう。きっと大丈夫でございますよ。利口な馬でございますもの」
大岩を巡って木立がある。二人の居場所は薄暗い。その薄暗い一所に、馬が静かに立っている。青草を食べているのである。君江の愛馬の鹿毛である。三浦三崎の実家から、小一郎を乗せて江戸へ出て、そのまま小一郎の屋敷の裏で、飼われていたところの馬である。
君江は立ち上がって近寄ったが、優しく鼻面を手で撫でた。「鹿毛よ」と云ったが情のある声だ、「私達にとっては一大事、それをお前にお願いします。さあさあ谷底へ駈けて行っておくれ。そうして谷底を駈け廻わっておくれ。ドンドン遠くまで走って行っておくれ。疲労れた頃に帰るがいい。いつまでも待っているからね。さあおいでよ!」
と云いながら、君江は馬の平首を打った。
君江の言葉を聞き分けたからか、ないしは打たれて驚いたからか、馬は一声嘶いたが、谷底を目掛けて馳せ下った。
予想は中ったというべきであろう。
馬の姿は解らない。蹄の音ばかりは聞こえて来る。
「うむ、これなら大丈夫だ」
「うまくゆくことでございましょう」
二人が微笑して眼を見合わせた時、谷の上から声がした。
「蹄の音だ! 聞こえる聞こえる!」
「ソレそっちへ追いかけろ!」
つづいて木を分け草を分け、大勢の馳せ下る音がした。一ツ橋家の武士達であろう。馬の蹄の鳴る方へ、追っかけて行くものと思われる。
「計画的中! しめたしめた!」
笑みを湛えたが小一郎は、決して油断はしなかった。二人の武士を叩っ切り、血に濡れている大刀を抜いたまんまで膝へ引き付け、全身を大岩の蔭へ隠し、立て膝をして窺った。木洩れ陽が一筋射している。それが刀身を照らしている。そこだけがカッと燃えている。がその他は朦朧ている。引き添って背後に坐っているのは、女馬子姿の君江である。用意をして来た懐刀を、帯へ差したまま柄を握り、見現わされたら女ながらも、切り捲くってやろうと構えている。
蹄の音が遠ざかる。追って行く武士の足音も、それに続いて遠ざかる。
いよいよ危険は去ったらしい――と思った瞬間であった。二人の真上から人声がして、走り下って来る足音がした。
「これはいけない、見現わされそうだぞ!」さすがにハッとして小一郎が、抜き身をユラリと取り直した時、五、六人の武士が馳せ下って来た。とその中の一人であるが、スルスルと大岩の頂きへ登った。見上げた小一郎の眼の上に、わずか一間の間隔を置き、その武士の穿いている野袴の裾が、風に煽られて靡いている。蹄の聞こえる方角を、じっと眺めているようである。もしその武士が振り返り、大岩の蔭へ眼を落としたら、一式小一郎と君江の姿を、見て取ることが出来ただろう。
「平林平林、何をしている。さあさあ早く追っかけよう」大岩の向こうから声がした。一ツ橋の武士達が、そこに五、六人いるようであった。
「むやみと追っかけても仕方がない」岩の上の武士が云い返した。「それに俺には不思議でならない。蹄の音が軽すぎるよ。人間を背にして走っている、馬の足音とは思われない」
「うむ、なるほど、そうだなあ」岩の向こう側からの声である。「ちょっとこいつは可笑しいぞ」
するともう一人の声がした。
「馬だけ放して小一郎奴は、どこかに隠れているのではないかな」
つづいてもう一人の声がした、「オイこの地面を見るがいい。草があちこち千切れている。どうやら馬が食い千切ったようだ」
「ではこの辺で小一郎奴は、馬を休ませたに相違ない」岩の上の武士の声である。「それから馬だけ放したかもしれない……。ひょっとかするとこの辺に、小一郎奴は隠れているかも知れない」
「ではともかくも探してみよう」岩の向こうからの声である。
「よかろう」という声が同時にした。と、大岩をゆるゆると、こっちへ巡って来る足音がした。
五十
「もういけない」と小一郎は、覚悟の臍を固めたが、俺一人なら飛び出して、切り死にしても構わないが、君江という娘が附いている、優しい忠実な娘である、一緒に死なしては相済まない、――そこで一式小一郎は、逸る心を押し沈め、目付けられて声を掛けられるまでは、隠れていよう隠れていよう……そこで一層大岩へ、ピッシリ体を押しつけて、尚も様子をうかがった。この時またもや頭上にあたって、数人の人の声がした。つづいて馳せ下る音がした。一直線に大岩の方へ、走り下って来るようである。
華子の乗った山駕籠を守り、一ツ橋の武士達が、四、五人下って来るのであった。
こうして小一郎と君江とは、腹背に敵を受けてしまった。
目付けられるに相違ない。目付けられたら切り合いになろう。相手は三十余人もある。小一郎は一人である。足手纒いの君江もいる。勝敗の数は知れている。剣侠一式小一郎も、命を落とさなければならないだろう。
だがそのおりから谷を越した、ずっと向こう側の山の上から、ドッと喊声が湧き起こった。
一挺の山駕籠がまず現われ、それに続いて二、三十人の武士が、黒蟻のように現われた。谷を見下ろしているのである。
「おおあれは田安勢だ!」こういう声が聞こえて来た。冷泉華子の声である。山駕籠の中から叫んだのらしい。「あの山駕籠に乗っている者は、北王子妙子さんに相違ないよ」
こうして田安勢と一ツ橋勢とが、顔を合わせることになったが、それにしても田安勢は何んのために、北王子妙子を山駕籠に乗せ、こんな所へあらわれたのだろう。
説明するにも及ぶまい。同じく山尼の居場所を突き止め、永世の蝶を取り返そうと、やって来たものに相違ない。
ふたたび乱闘は行われよう。
秩父山中を血に染めて、切り合うことになるだろう。
それにしても小一郎や集五郎や、冷泉華子や妙子までが、探し求めている山尼の群が、はたしてそんな秩父山中の、桐窪などにいるのだろうか?
ここは桐窪の一画である。
盆地が広く開いている。
晩夏の日光を刎ね返し、天幕が無数に立っている。わけても大きな天幕の中に、さも長閑そうに話している、面白い対照の男女があった。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、こうおっしゃったのでございますよ。ほんとに面白いお師匠様で」
こう云ったのは鯱丸である。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、面白い言葉でございますこと、どういう意味なのでございましょう」
こう云ったのは桔梗様である。
「そうかと思うとお師匠様は、こうも云うのでございますよ。鯱丸よ鯱丸よパッチリコ! 鯱丸よ鯱丸よパッチリコ!」
「おやおや今度はパッチリコで、どういう意味なのでございましょう」さも楽しそうに桔梗様が訊く。
「そうかと思うと、お師匠様はこう云うのでございますよ」またもや鯱丸はやり出した。
「グルグルチン! グルグルチン!」
とうとう桔梗様は吹き出してしまった。
「だんだんむずかしくなりますのね。ねむねむゴーからパッチリコになり、そうしてそれからグルグルチン……何んだか妾には解らない」
「何んでもないのでございますよ」いよいよどうやら鯱丸は、その説明に取りかかるらしい。「ねむねむというのは、眠れということで、ゴーというのは鼾のことで、つまりゴーッと鼾を立てて、眠れということなのでございますよ。私が晩くまで起きていますと、そうお師匠様がおっしゃるので、パッチリコと申すのは反対なので、眼をパッチリコと開けるようにと、こういう意味なのでございますよ。朝寝坊をしておりますと、そうお師匠様がおっしゃいますので、ところでグルグルチンですが、谷川へ行ってグルグルと、顔を洗ったら音を立てて、チンと鼻をかむ がいいと、こういう意味なのでございますよ。はいはいみんな何でもないことで」
なるほど説明を聞いてみれば、何んでもないことではあったけれど、鼠の衣裳に腰衣を付けた、縹緻のいい愛くるしい鯱丸が、真面目な顔をして話すのであった。
どうにも桔梗様には可笑しかった。で明るく笑った時、その明るさを抑えるかのように、陰気な不気味な梵鐘の音が、盆地の一所から聞こえて来た。
五十一
「昆虫館再興は山尼の徒の為なり」
こう古文書に記されてある。
同じ山尼の連中によって、昆虫館は閉鎖されたのであったが、それがふたたび興されたについては、重大な理由がなくてはならない。
秩父連山の山尼の部落の、深い谷の底から鐘の聞こえたのは、衆を集める合図であった。で無数の山尼達が、めいめいの天幕から走り出て、谷底の方へ走って行ったが、それは壮観というべきであった。切り下げ髪を風に靡かせ、また腰衣を風に靡かせ、数百の尼が走って行く。
その谷の底の大岩の上に、一人の山尼が立っていたが、他でもない高蔵尼であった。
「物見の者から知らせが来た。昆虫館では衆を集め、戦いの準備をしているそうだ。だから棄てては置かれない。昆虫館へ押し寄せることにしよう」
これが高蔵尼の命であった。
それから行われた行軍は、非常に面白いものであった。一挺の山駕籠へ高蔵尼を乗せ、それを囲んで有髪の尼達が、秩父連山を縦断して三浦三崎の方へ出かけたのである。
ところが一方昆虫館でも、一つの事件が起こっていた。
と云ったところで変わったことでもなく、戦いの準備をしているのであった。
隅田のご前の部下の者や、七福神組が走り廻わり、それの準備をやっているのであった。
「さあ壕を掘れ、鹿砦をつくれ、墻壁をこしらえろ、掩護物を設けろ、小杭を打ち込め、竹束を束ねろ! 武器の手入れだ、武器の手入れだ! 槍を磨け、刀を磨け、鉄砲の筒を掃除しろ。……一手は森林の裾へ行け。そこへ幕営をつくるがいい。一手は森林の底へ行け。そこへ地雷を伏せるがいい。……火薬袋に注意しろ。点火の手筈の狂わぬよう。……谷川へは橋をかけるがいい。……物見だ物見だ、物見に行け!」
指揮しているのは、隅田のご前で、昆虫館の建物の前へ、牀几を出して腰かけている。
人々が八方へ駈け巡る。伝令が四方へ飛んで行く。遠くで鉄砲の音がする。恐らく試射をやっているのであろう。と、ゴーッという音がした。水の流れる音である。槓杆を動かしたに相違ない。そこで湛えられた湖水の水が、森林をひらいて流れたのであろう。
と、麓の方角から、一団の人数が上って来た。醜い不具者の群である。ずっと以前に昆虫館にいて、閉ざされると共に立ち去ったのだが、昆虫館の大事を聞き、今や集まって来たのである。
ひっそりと寂しかった昆虫館は、こうして活気を呈したが、むしろ活気というよりも、殺気と云わなければならないだろう。
だがこういう殺気の場を、一向無関心に横目に見て、一人働かない人物があった。他ならぬ片足の吉次である。
「立ち廻われ立ち廻われ騒げ騒げ。が、この俺は騒がないよ」
岩から落ちて来る滝の前に佇み、滝壺の中を睨んでいる。
と、「吉次さん」と云う声がして、ヒョッコリ現われた女がある。他ならぬ弁天松代であった。
「ヨー。これは松代さんか」
吉次はニヤニヤ笑い出した。群まって来た連中の中で、吉次の一番好きなのは、この弁天松代だからである。
「松代さん相変わらず綺麗だなあ」
「ああいつだって綺麗だよ」松代は並んで佇んだが、「どうしてお前さん働かないんだい」咎めるような調子である。
「一本足じゃ働きもならない」
「そりゃアそうだねえ。もっともだよ」
「それに俺らは不賛成なのさ」
「何んのことだよ、不賛成とは!」
「むやみと騒がしく立ち廻わることさ」
「だって戦いが始まるんじゃないか」
「さあその戦争だが嫌いなのさ」
「成るようにして成ったんだから、どうにも仕方がないじゃアないか」
「へえ、そりゃアどういう訳だえ」
「だって、山尼の連中は、永生の蝶が欲しいのだろう? ところがその中一匹の方は――つまり盗まれた雄蝶の方だが、どんなことをしたって目付からないのだよ」ここで吉次は変に笑ったが、「松代さんだからちょっと明かすが、盗まれた永生の蝶のありかを、一人だけ知っているものがあるのだよ」
五十二
「へえ、そりゃア誰だろうね?」さも不思議そうに松代は訊く。
「さあ何奴が知っているかな」吉次は依然として笑っている。と、話題を一変させ、「桔梗様もさらわれた ということだの」
「山尼の連中がさらって行ったのさ」
「つまり囮に取ったってわけだな」
「え、何んだい、囮というのは?」
「つまり桔梗様を返すから、永世の蝶を引き渡せと、こう連中は云うつもりなのさ」
「ああ山尼の連中がね。そうすると桔梗様は可哀そうだねえ」
「可哀そうには相違ないが、どうも桔梗様という人は、少し見識が高すぎたから、たまには酷い目に逢った方がいいよ」
「見識の高い方がいいじゃアないか」
「そうだろうかなあ、そうだろうかなあ」吉次は何んとなく不満そうである。「が、見識の高い人は、他人の思いなどを受け入れないからなあ」
「おや」と松代は妙に思った。で、黙って吉次を見た。
滝が涼しそうに落ちている。小さな小さな滝なのである。滝壺の水面は泡立っている。日光が横から射しているので、滝の泡沫に虹がかかり、何んとも云えず美しい。
「そりゃアそうと、ねえ松代さん、俺らはお前さんが好きなんだよ」こんなことを云い出した。気恥ずかしそうなところがある。
「おや」ともう一度思ったが、松代は故意と何気なく、「妾もお前さんが大好きさ」
「ふうん、何んだか解るものか」こうは云ったものの嬉しそうである。
「色気のないところが好きなんだよ」
「ところで俺らはお前さんの、見識張らないところが好きなのさ」
「見識張られる身分じゃアないよ」
「また俺らにしてからが、色気の出せる身分じゃアない」
「一緒にくらしたら面白かろうね」
「え」と云ったものの片足の吉次は、松代の顔を盗むように見た。「嬲っちゃアいけない。嬲っちゃアいけない」
「何んの妾が嬲るものか。本当のことを云ってるのさ」――だが嬲ってはいるようである。
「そうかなあ、そうかなあ」吉次は茫然として考えたが、「俺らは醜男で片輪者で、女に思われたことなんかない。俺らの方では想ったがな。でもその女は見高で、相手にしようともしてくれなかった。……だから俺らはやったん だ。……だが俺らには金はある。少しばかり考えを運ばしたら、どっさり金を儲けることが出来る。半分手に入れているんだからなあ。……永生の蝶っていう奴は、水の中ででも活きられるのだよ。……」
「お金がありゃア尚いいねえ。楽な生活が出来るんだからねえ……ほんとにお前さんにあるかしら?」窺がうような調子である。
「少し考えを運ばせさえすれば、莫大な金が手に入るのさ」
「ねえ、吉次さん」と寄り添った。
「うん」と云ったが片足の吉次は、凝然と滝壺を見下ろしている。
ひん 曲がった美しい劇的光景! それはこう云ってもいいだろう。一人は片足の醜男である。一人は妖艶な女賊である。それが互いにもたれ 合い、滝壺を覗いているのである。
大岩の背後には人声がする。戦闘準備の雑音もする。
だがここばかりはひそやか である。虹が相変わらず懸かっている。
五十三
その日の午後のことであったが、昆虫館の一室で、二人の老人が話していた。
「兄ごお前さんは不賛成だろうな」こう云ったのは隅田のご前。
「行くところまで行ったのだから、どうにも仕方があるまいよ」こう云ったのは昆虫館主人で、悩ましい表情が顔にある。
「兄ご夫婦の関係は、私には不思議でならないよ」隅田のご前が云ったのである。
「元からそうではなかったのだが、そういうことになったのさ」昆虫館主人は憂鬱であった。
「と云うのも永世の蝶からだろうね?」
「ああそうだよ」と昆虫館主人は、いよいよ悩ましい様子をしたが、「本はといえば扱い方の相違だ。見方の相違と云ってもいい。即座にあれ を役立てよう。――と云うのがあれ のやり方だったのだ。私はそれとは反対だった。まず飼って置いて様子を見よう――」
「どっちみち和睦をした方がいいよ」隅田のご前が不意に云った。
「和睦をしろとはおかしいではないか。こんなに戦備をして置いてからに」怪訝だというような表情である。
隅田のご前は笑ったが、「和戦両様に備えたのさ。浮世は万事がこういかなければいけない」
「何も私だって争いたくはないよ。……が、向こうのやり口が悪い。……娘に罪はないのだからな」
「実の親子だ。逢いたかったまでさ。それでおおかた連れて行ったのだろう」
「私にはそうは思われない」昆虫館主人は首を振ったが、「威嚇の道具に使うのだろう。囮に使おうとしているのだろう。永生の蝶を奪おうためにな」
「さあその永世の蝶という奴だが、兄ごは充分調べた筈だ」
「そうして未だにわからない」
「これから調べても解るまい」
「そうよなア、解らないかもしれない」
「では先方へくれてやるさ」
「一匹は取ったということではないか」
「芹沢の郷で取ったそうだ」
「もう一匹は不明なのだ。どこへ行ったかわからないのだ」
「ふうん、それは本当のことかな?」
「嘘は云わぬよ、盗まれたらしい」
「では先方へそういうことを、云ってやったらよかりそうなものだ」
「云ってはやったが信じないのだよ」昆虫館主人は苦々しそうにしたが、「どうしてもこの土地にいるというのだ」
部屋は昔と変わりがない。和蘭陀風に装飾われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所に額がある。昆虫の絵が描かれている。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外に向かって窓がある。その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻れてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄かな芳香が馨って来る。長椅子、卓子、肘掛椅子、書棚の類が置いてある。床には絨緞が敷いてあり、それには昆虫の模様が織られ、その地色は薄緑である。
黒檀細工の卓子の上に、幾個かの虫箱が置いてある。そうして例によって天井からも、無数の虫箱が釣り下げられてある。
昔と何んの変わりもない。いくらか古びているばかりである。で、この部屋にあるものと云えば、学究的の静寂である。それも昔と変わりがない。
と、不意に昆虫館主人が、かけていた椅子から立ち上がり、一つの虫箱を覗いたが、
「敏感な麝香虫が騒ぎ出した。……いよいよ山尼の一隊が、迫って来たに相違ない」
こう云って窓まで身を寄せて行ったが、これも昔とそっくりであった。
こういう事件の行われている頃、秩父連山の一所でも、風変わりの事件が行われていた。
馬に乗った一式小一郎が、女馬子の君江に手綱をとらせ、谷の底を歩ませていたのである。
その左側の谷の上を、山駕籠を囲んだ同勢が、同じ方角へ進んで行く。冷泉華子の一隊である。
と、右側の谷の上を、同じような同勢が辿っている。北王子妙子の一隊である。
「いや面白い旅行だわい」こう云ったのは一式小一郎で、愉快そうな笑いを漂わせている。「危機一髪、もういけまい。こう思った時現われたのが、あの田安家の勢なのだからなあ。それに牽制されたので、一ツ橋の連中にも討って取られず、両家の者に左右を守られ、こんな塩梅に旅が出来る。どうも浮世って皮肉なものだ」
「結構な皮肉でございます。時々こういう皮肉があるので、ほんとに私達は助かります」
こう云ったのは君江である。君江の様子も愉快そうである。
「一ツ橋勢が谷へ下り、俺達を討って取ろうとすれば、田安家の連中が下りて来て、この俺達を救ってくれる。この俺達が谷を上り、田安の連中と一緒になろうとすれば、一ツ橋勢が追っかけて来る。そこでどうでも俺達とすれば、いつまでもこうやって谷の底を、辿って行かなければならないのさ」
「面白い身の上でございますよ。強い二つの大きな国に押し付けられておりながら、威張り巻くっている小さな国、それが私達でございますよ」
「俺達がちょっとでも間違うと、すぐに平均が崩れてしまう」
「私達が穏しくしていれば、いつまでも現状はつづいて行きます」
「だから随分危険だとも云える」
「危険だからこそ面白いので」
「君江、相変わらず面白いことを云うな」
「あたりまえのことでございますよ」
「そのあたりまえということが、なかなかもって云えないものさ」
谷底の道は辿りにくい。でも二人は辿って行く。
五十四
随分辿りにくい谷底である。大岩が諸所に盛り上がっている。藪や灌木が蔓っている。谷川が一筋流れていて、パッパッと飛沫をあげている。秩父名物の猿の群が、枝から枝へと飛び移り、二人を見ながら奇声を上げる。と、闇のような所へ出た。喬木が蔽うているのである。二人は先へ辿って行く。
その時右側の谷の上から、ドッと鬨の声が湧き起こった。田安家の勢が一ツ橋家の勢へ、どうやら挑戦したらしい。と左側の谷の上から、それに答える鬨の声がした。一ツ橋勢が応じたものと見える。
こうして二、三回鬨が上がったが、事件らしい事件も起こらなかった。
「面白いな」と小一郎。
「陽気でよろしゅうございます」
――で、三組の同勢は、先へ先へと進んで行く。目差すは同じ場所である。すなわち山尼の居場所である。
先へ先へと進んで行く。
だが先は続かなかった。
遙か向うに盆地が見え、そこに点々と幾個かの天幕が日を受けて白く見渡された。
それこそ山尼の部落である。
谷を作っている左右の山も、盆地に向かって傾斜をなし、盆地に到って尽きている。谷も盆地で尽きている。
で自然の勢いとして、田安家の勢も一ツ橋家の勢も、そうして君江も小一郎も、盆地で一緒にならなければなるまい。
そういう盆地の中央にある、一つの大きな天幕の中で、桔梗様と鯱丸とは話していた。
桔梗様を守護する山尼の徒が、十数人残っているばかりで、その他の無数の山尼達は、秩父の山にはいなかった。昆虫館をさして馳せ去ったのである。
「大変寂しくなりました」
こう云ったのは鯱丸である。
「ほんとにひっそり としましたことね」桔梗様は何んとなく物憂そうである。
天幕の中へ日が射している。それが桔梗様の顔を照らし、鯱丸のぼんのくぼ を照らしている。
「どこへ行ったのでございましょうね?」
鐘が谷の方で鳴り渡って、山尼の徒がそっちへ走って、そうしてそのまま大忙しに、山を下って行ったことだけは、桔梗様にも解っていたが、その他のことは解らないのであった。
「わけの解らない連中なので、さあどこをさして行ったものやら」早熟た口調で鯱丸が云う。
「ところで高蔵尼とおっしゃる方は、いいお方なのでございましょうね」
芹沢の里の乱闘の際、突然高蔵尼に攫われて以来、そうしてこの土地へ来て以来、ただ親切にあつかわれるばかりで、高蔵尼という尼様の素性は、いまだに桔梗様には解らないのであった。
「口小言のうるさい婆さまで」鯱丸は依然として、口が悪い。「でも結構な婆様で」今度は鯱丸は褒めるのであった。
「それにしてもここの人達は、何をして生活しているのでしょう?」
一月あまり住居してみたが、桔梗様には山尼の生活が、どうにも胸に落ちないのであった。毎朝毎晩看経をするのは、尼としては当然のことであったが、突然一同が打ち揃って、どこへともなく行くことがあった。托鉢に行くのだとも思われたが、そうでもないようなところもある。規律はいかにも整然としていて、女軍のようなところもある。そういえば武器さえ貯えている。
今こそ秩父の山中にいるが、以前には信州や上州や、美濃や飛騨にもいたそうである。
わけのわからない団体なのであった。
五十五
そこで鯱丸に訊いたのであった。
ところが鯱丸の返辞たるやまことに、簡単なものであった。
「人里の人間を憎んでいる、尼さん達の集まりなので。時々行衛を眩ますのは、人里へ出て行って掠奪をやるので。そうしてお師匠さんの素性はといえば、謀反人の血統だということなので」
こう云われていよいよ桔梗様には、山尼の性質が解らなくなった。
しかしそれよりも桔梗様にとっては、一式小一郎の身の上が、心にかかってならなかった。芹沢の里で別れて以来、絶えて消息を聞かないのである。死んだであろうか、生きているだろうか? その点さえも心もとない。
それより何より桔梗様には、小一郎が恋しくてならなかった。自分はこんな山の中にいる。恋人小一郎の行衛は知れない。もう一生逢えないかもしれない。これが悲しくてならないのである。それにしても何んの必要があって、自分をこんな山の中へ、山尼達は攫って来たのだろう? これからどうするつもりだろう? 一生人里へは返さずに、山の中へ止めて置くのだろうか?
これを思うと桔梗様は、不安で不安でならなかった。
しかし桔梗様のその不安は、一瞬の間に喜びとなった。
というのは盆地の外れにあたって、二派の武士達でも衝突したような、凄じい叫び声が忽然と起こり、太刀打ちの音が聞こえて来たかと思うと、その方角から馬に乗った武士が、女の馬子を後に従え、桔梗様の方へ走って来たが、天幕の前までやって来ると、ヒラリと馬から飛び下りた。
「おお桔梗様、いられたか!」
「まあ、あなたは小一郎様!」
「お助けに参った、さあさあ馬へ!」
――で、桔梗様を馬へ乗せ、君江を先立て一式小一郎は、一散に麓へ下ったからである。
しかしその時邪魔がはいった。いつの間に先に廻わっていたものか、南部集五郎が二、三人と共に、翻然木蔭から飛び出して、素早く行手を遮ったのである。
「やらぬぞ一式!」
切り込んで来た。
「集五郎か」
と太刀を抜いたが、股を一揮! 充分に切った。
「あっ」
という悲鳴! 集五郎だ。切られてグダグダに膝を突いたところを、
「許してやろうぞ! 命ばかりは! ……やれ! 君江!」
「あい!」と云うと、君江は馬を追い立てた。
馬は一散に馳せ下る。馬上の桔梗様の袖が靡き、崩れた髪の毛が渦を巻く。
血刀を片手に下げたまま、後を追って走る一式小一郎の、その勢いに恐れたのであろう。誰一人それを追おうともしない。
盆地の一角では田安家の勢と、一ツ橋家の勢とが切り合っている。
「昆虫館再興は山尼の徒の為なり」
だが本当を云う時は、
「昆虫館再興は弁天松代の為なり」
こう云わなければならないのである。
と云うのは山尼の一団と、昆虫館の一団とが、いよいよ衝突しようとした時、片足の吉次が盗み取った雄蝶を、吉次をたぶらかして滝壺から出させ、それを奪って昆虫館へ駈け込み、昆虫館主人に渡したので、それを山尼の一団へ渡し、戦いを未然に防いだからである。
「神秘昆虫館」の物語も、数種説明を加えることによって、大団円とすることにする。永世の蝶の持っていた、奇怪の謎は解けただろうか? 山尼の徒が持ち去ってしまった。そうして山尼はどこへ行ったものか、その消息を失ってしまった。自然永世の蝶の謎もどうなったものか解らない。山尼の迫害から遁がれたため、昆虫館は昔にかえり、昆虫館主人はそこに住んで、研究をつづけたということであるが、そもそも昆虫館主人とは、どういう素性の人物なのであろう? ある伝説による時は、家光に亡ぼされた駿河大納言の、正統の血を引いている人物であり、そうして隅田のご前なる人は、同じく妾腹の血を引いた人で、幕府にとっては二人ながら、恐れられていた人達であり、そうして高蔵尼という一女性は、駿河大納言を亡ぼすべく、活躍したところの本多上野介の、血を引いた姫だということである。昆虫館主人と高蔵尼とは、敵同志でありながら、どうしてかつては夫婦などになったのか? これこそ疑問というべきであるが、詳しいところは伝説にもない。
ところで一式小一郎は、その後どういう生活をしたろう? 桔梗様と結婚したそうである。では君江は気の毒ではないか。いやいや彼女は風変わりの女で、そうして楽天家でもあったため、自分の運命を悲しみもせず、例の愛馬の手綱を取り、故郷へ帰ったということである。
隅田のご前に至っては、依然隅田川の岸へ住み何やら大きな企てに、専念したということである。
北王子妙子や冷泉華子の、その後の消息も明記されていない。
青空文庫より引用