ひすいを愛された妃
昔、ひすいが、ひじょうに珍重されたことがありました。この不思議な美しい緑色の石は、支那の山奥から採れたといわれています。そこで、国々《くにぐに》へまで流れてゆきました。
その時分の人々《ひとびと》は、なによりも、真理が貴いということには、まだよく悟れなかったのです。そして、ひすいの珠をたくさん持っているものほど偉く思われましたばかりでなく、その人は、幸福であるとされたのであります。
ふじの花咲く国の王さまは、どちらかといえば、そんなに欲深い人ではなかったのでした。けれど、妃は、たいそうひすいを愛されました。
「私は、じっと、この青い色に見入っていると、魂も、身も、いっしょに、どこか遠いところへ消えていきそうに思います。」とおっしゃいました。
王さまは、妃をこのうえもなく愛していられましたから、自分はこの石をさほどほしいとは思われなくとも、妃の望みを十分にかなえさせてやりたいと思われました。
「いくら高くてもいいから、いいひすいの珠があったら持ってまいれ。」と、家来に申しわたされたのです。
ある日、家来の奉った珠を王さまは、手に取ってながめられ、なるほど、美しい色をしている。どうして、このようなみごとなものがこの世の中に存在するだろうかといわれました。
家来は、王さまのお言葉を承ってから、おそるおそる申しあげました。
「美しい、女王さまを飾るために、空から降ってきた露が、石になったものと思われます。」
王さまは、うなずかれました。
「まことに、そうかもしれない……。」
こう、いわれると、いつしか、喜びが悲しみの色に変わってゆくのが見えました。なぜなら、生ある、すべての美しいものに、いつか死のあることを思い至られたからです。
ほんとうに、妃は、麗しい、白い香りの高い花のような方でした。その目は、星のように澄んでいました。その唇には、みつばちがくるかとさえ思われたくらいです。けれど、すべての美しい婦人は、弱々《よわよわ》しかったように、妃は首のまわりに懸けられた、青い石の首飾りの重みを支えるに耐えられないほどでした。
「私は、この青い石の重みにおされ、その中にうずまって死にたい。」と、妃は、おっしゃいました。
いかに、その姿は、小さく、美しくても、欲望に限りのないことが知られたのです。そして、それは、怖ろしいことでした。
流行は、ちょうど黴菌のように感染するものです。そして、また、それと同じように、人間を禍いするものでした。
国々《くにぐに》に、ひすいの珠は、貴重のものとなりました。どの女王もその首飾りをかけられるようになりました。ひとり、王さまや、妃が、愛されたばかりでなく、国々《くにぐに》の金持ちは、青い珠を集めるようになりましたから、たちまち、青い宝石の価は、かぎりなく上がったのです。こういうように、いくら出してもいいからという人たちがたくさんになりますと、ひすいの珠は、しぜんと世間に少なくなりました。少なくなるにつれて偽物が現れるようになりました。
遠い国から、わざわざ船に乗って、ひすいを高く売りに、ひともうけしようと笑ってやってくる商人もありました。船が港に着くと、早く、その商人から、この青い石を買おうと思って見張っている人までありました。
ふじの花咲く国の妃は、もはや、かよわい身につけられないほど、青い珠がたまりました。美しい姿で、この重い宝石の首飾りをひきずって、そのうえ、腕にも、冠にも、ちりばめて、なよなよとした姿で、御殿の中をお歩きなさるようすはうるわしくもあり、またすごいようでもあり、なんといって、形容のしようがなかったのでした。王さまは、妃のようすをごらんになって、
「空の星が、一時に揺らぐようじゃ。」と、仰せられたのです。また、その青い珠から放つ、一つ、一つの光に、目をとめられて、
「なんという神々《こうごう》しさじゃ。」と、仰せられたのです。
このとき、妃のお顔には、不安の色が浮かびました。
「私は、心配でなりません。このごろは、真物をも負かすほど、巧みに偽物が造られるということを聞きました。悲しいことに、私の目は、まだ、それを見分けるだけの力がありません……。私の身をこうして飾っている珠の中にも偽物があって、それを陛下までが美しいとごらんなされるようなことはないかと思うと、胸の中が穏やかでないのであります。」と、おっしゃいました。
王さまは、いとしい妃のお言葉を、だまって聞いていられましたが、
「おまえの心配は、もっとものことじゃ、偽物を神聖な体につけて、知らんでいるとは、すなわち私の不徳にもなることじゃ、さっそく珠の真贋を見分けることのできる人物を召し抱えることにいたそう。」と、仰せられたのでありました。
宝石を見分ける名人が、募集されることになりました。そして、いろいろの人たちが集まってきましたけれど、結局名人というのは、最後に残された一人に過ぎません。
そのものは、腰の曲がった、あごに白いひげの生えた老人でした。このおじいさんは、若い時分支那からチベットの方へ、山から山と、ひすいをたずねて歩いた経験があって、一目石を見れば、それが真物か、贋物かということの見分けがついたのです。
おじいさんは、さっそく、御殿に召されました。そこで、妃の首飾りについている珠を鑑定させられました。おじいさんは、ひざを折って、うやうやしく青い珠を掌の上に載せてながめていましたが、その中から、一つ、一つ分けはじめました。青いたくさんの大きな、また小さい珠は、左右に二分されました。
「右の方に置きましたのは、真物で、左の方に置きましたのは贋物であります。」と、おじいさんは、申しあげました。
「まあ、これが……。」といって、妃は、美しい顔に、驚きの色を浮かべられた。なぜなら、かつて、みごとな珠だと見とれられました、大きな珠も贋物の中にはいっていたからであります。
「おそれおおいことでありますが、真物のひすいは、そうたくさんあるものでありません。」と、おじいさんは、つけくわえました。
その後、いっそう、ひすいの価は高くなったのです。ある日のこと、この年とった鑑定家は、
「私が、いままでに見たひすいのうちで、西国の女王の首にかけてある飾りの珠ほど、不思議な美しいものはありません。青白い珠のうちに、瞳をこらして見ますと、夢のような天人の姿がうかがわれるのであります。これこそ、広い世界のうちで、いちばん貴い石と思われます。」と語りました。
この話は、やがて、妃のお耳にまで達すると、妃は明けても、暮れても、その珠が空想の目に浮かんで、物思いに沈まれたのであります。王さまは、それと悟られると、天にも、地にも、ただ一人の愛する妃のために、西国の女王が持っていられる、青い珠を手にいれて与えたい、と思われました。しかし、そのことは、一国の富を尽くしても、おそらく、西国の女王の承諾を得ることはむずかしかったのです。
「どうかして、西国を征服することはできないものかな。」と、ふじの花咲く国の王さまは考えられました。そして、その機会を待っているうちに、両国間にちょっとした問題が起こりました。ついに、それをきっかけとして、戦争は、はじまったのでした。
双方とも死力をつくして戦いましたから、容易に勝敗はつきませんでしたが、多くの犠牲をはらって最後に、ふじの花咲く国は勝ったのでした。そして、西国の女王の首にかかっていた貴重なひすいは、ついにふじの花咲く国の妃の首飾りになったのであります。
ほどなくして、美しい妃は病気となられました。王さまは、国じゅうの名医をお呼びになって、なおそうとなされたけれど、命数だけは、人間の力でどうすることもできなかったのです。妃は青い石に、かぎりない未練を残して、この世から去ってしまわれました。
王さまは、泣いて、妃をふじの花が咲く山のふもとに葬られました。後に残されたたくさんの青い珠は、むなしく御殿の中にさびしい光を放っていました。王さまは亡くなられた妃の供養のために、大きな鐘を鋳ることになされました。そのとき、妃の大事にされた、数々《かずかず》の宝石をごらんになって、この青い宝石を砕いて、鉄といっしょに熔かして、形をなくしてしまおうとお考えなされたのです。
石も、鉄も、熔かしてしまうために強い火がたかれました。鐘を鋳るものは、王さまの命令に従って、仕事に苦心をしました。そして、大きな、重い、青みを含んだ鐘ができあがったのでありました。
その鐘は、街から仰がれる山の上に、鐘楼を建て、そこにつるされることとなりました。朝、晩、その鐘をつくときに、鐘の響きは、森を越え、街の家々《いえいえ》の空に、鳴りわたるだろう。人々《ひとびと》は、その妙なる鐘の音を聞くたびに、きっとわが、美しい、やさしかった妃のことを思い出すにちがいない。それが、すなわち、功徳になるのだと、王さまはお考えなされたのであります。
いよいよできあがった鐘をつるすときにあたって、あまり、その鐘が重いもので、どんな綱も切れてしまいました。
「これは、どうしたというのだろう。」
王さまは、お考えになりました。なにかこれには、子細のあることかもしれない。ともすると、妃の魂が、この世に対して、深い未練をもっているからかもしれない。ひとつ占ってもらうことにしようと、思われたのです。
ちょうど、そのころ、どこからともなく城下へまわってきた占い者がありました。鳥のように諸国を歩いて、人々《ひとびと》の運命を占う、脊の低い、目の光の鋭い男でした。
王さまの命令によって、その占い者は、召されました。占い者は、山へ登って、鐘のそばにすわって、祈りを捧げたのでした。そして、しばらく、瞑目していましたが、はじめて夢からさめたように、顔を上げると、
「死なれた、お妃の望まれるところでございます。どうか、千人の若い女の髪の毛で縒った綱をもって鐘をつるしてもらいたい。そうでなければ、けっして、上へは、懸からぬとのことでございます。」と申しあげました。
王さまは、深い悲しみのうちに、占い者の言葉を聞かれました。いとしい妃の望みとあれば、せめて、この最後の望みをもかなえてやりたいものだと思われたので、このことを国じゅうに布令されますと、若い女たちは、娘も、女房も、どうか加護にあずかりたいと思って、自分の髪の毛を惜しげもなく切って、奉ったのであります。
日ならずして、太い女の髪の毛で造られた綱ができました。にぎやかな儀式が行われた後で、その綱で鐘を釣り上げましたところ、やすやすと鐘楼につるされたのでした。
これを見た一同のものは、いまさらながら、事の不思議なのに感心されたのであります。
それで、ひすいを見分けるために、御殿へ召された老人は、妃が亡くなられると、もはや、仕事がなくなったので暇を出されました。一時は、王さまにも、妃にも寵愛されて、厚いもてなしを受け、いばっていたものが、御殿を出されると、ふたたび、さすらいの旅に上らなければなりませんでした。
老人は、以前とちがって、すでにぜいたくに馴れてしまったから、昔のように、山に寝たり、野原に伏すことができなかった。老人は、こんどは、西国へいって、女王に仕えようと思って、とぼとぼとやってきました。
しかし、西国では、それどころでありません。女王は、老人を見ると、たいそうお怒りになりました。
「おまえが、つまらないことをいったばかりに、ふじの花咲く国と戦争をするようになってしまった。この国では、ひすいばかりでない。いっさいの青い石は禁物である。もう、おまえには、用事がない。」と、いわれたのであります。
この国からも追われた老人は、その後、どこへいったか、知るものはなかったのでした。そして、いつしか、ひすいに対する異常な流行は、やんでしまいました。
* * * * *
そのときから、幾世紀は、山をゆく雲の流れとともにたったのであります。ふもとの街は、田畑となり、山の上の鐘楼は、昔の形見として、半分壊れたまま長い間残り、そこには、青さびの出た鐘が、雨風にさらされてかかっていたけれど、だれも、それを鳴らすものがない。たまたま見物に、山を登ってゆく人はありましたけれど、道は草にうもれて消えかかっていました。ただ、当年と変わりのないのは、初夏のころになると、ふじの花が、ところどころ、みごとに咲いて山を飾っていたのでした。
「この鐘の中には、ひすいが熔かし込んであるという話だが、青い色が、なんとなく底光りがして見えるな。」と、旅人は、壊れかけた鐘楼にたどり着いたときに、見上げながら連れのものに話したのでした。人が、山を降ると、あたりは寂然としました。みつばちが、翅を鳴らして、ふじの花の上へ集まっています。小鳥は、巣を造るために、鐘楼に止まって、鐘をつるしてある綱の髪の毛をつついては、引きちぎって、どこへかくわえて飛んでゆきました。
ある日のことであります。ここから遠く離れた街にあった、鉄工場の主人は、この鐘が雨風にさらされているということを聞いて、惜しいものだと思いました。安い価で、鐘を買い受けて、ひともうけしようと思って、わざわざ山へ見にきました。
すると、いつ落ちたものか、鐘をつるしてあった綱は切れて、鐘は、下に転がっていました。主人は、まゆをひそめて、子細に鐘を検分しましたが、もう古い鉄は、ぼろぼろになっていて、なんの役にもたちそうでなく、まったく自分の、くたびれ損に終わったことを知りました。
――一九二八・四作――
青空文庫より引用