少女がこなかったら
寒い、暗い、晩であります。風の音が、さびしく聞かれました。ちょうど、真夜中ごろでありましょう。
コロ、コロ、といって、あちらの往来をすぎる車の音が、太郎のまくらもとに聞こえてきました。もう、だいぶねあきていましたので、彼はふと目をあけて、その車の音に、耳をすましたのでした。
「いま時分、あんな車を引いてゆくのは、どんな人間だろう?」
こう、彼は考えました。すると、それは怖ろしい人のようにも思われました。というのは、その音は、いま、はじめて聞く車の音ではなかったのです。
まだ、自分が小さかったとき、夜中に起きてなにかむずかると、やさしい母は、
「あの音は、なんだろう……。だまってだまって、ああ、怖い、ああ、怖い。」といって、しっかりと自分を抱きすくめられたのを、太郎は、昨日のことのように、忘れなかったのであります。
それから後、彼は、たびたび真夜中ごろに、この車の音を床の中で聞いたことがありましたが、いつも、それは、人間とは思われないような、怖ろしい姿をしたものが、まったく人通りの絶えた往来の上を、車を引いてゆく有り様を目に描いたのでした。
この晩も、彼は、やはりそんなような空想にふけったのです。
「雲の切れめから、すごい星の光が、きらきらと輝いている。真っ白に霜は、電信柱に、屋根の上に降っている。寒い北風が、あのように音をたててゆく。乾いた道の上には、枯れた落ち葉がころがって、人通りもない、しんとした往来を、怖ろしい男が、あのように、だまって車を引いてゆくのだろう……。」
彼は、覚えず、夜具のえりに、顔を埋めて小さくなりました。
* * * * *
太郎の家へ、三、四か月前、田舎からきた女中がありました。彼女は、まだ、十六、七になったばかりです。
この夜、あまり寒いので、ふと目をさますと、ちょうどこの車の音を、彼女も聞いたのでありました。
「おさよ、おまえは、夜、目をさますことがあるかい。」と、家の人に、たずねられましたときに、
「いいえ。」と、顔をあかくして答えたことがありました。それほど、昼間働くので、夜は疲れてよく休むのでした。それですから、めったに車の音を聞いたこともなかったのであったが、今夜、ふと車の音を聞きますと、つぎからつぎといろいろのことが思い出されて、彼女はしばらく床の中で、頭をまくらにつけて、空想の後を追ったのでありました。
おさよは、田舎にいる時分のことを思ったのです。
おじいさんは、車に、芋や大根をのせて、まだ暗いうちから、提燈に火をつけて、それを下げて、村から四里ばかり隔たった街へ引いてゆきました。
家のものも、いっしょに起きて、街へゆかれるおじいさんを見送ったのです。村から、こうして、車を引いて、出てゆくものは、ほかにも幾人かありました。炭俵をつけてゆくもの、また薪のようなものをつけてゆくもの、それらの車のわだちの音が、後になり、先になりして、暗いさびしい道をあちらに消えていったのであります。
「おさよ、今日は、帰りになにか買ってきてやるぞ。」と、出てゆくとき、おじいさんにこういわれると、おじいさんの帰りが、待ち遠しくてたまらなかったのでした。
毎日のように、おじいさんは、秋から、冬にかけて車を引いてゆきました。雪が降ると、もう車を引いて出ることはできなかったからです。
彼女は、おじいさんの引いてゆかれる車の音を聞き分けることができました。
「あの音は、だれの車……。あの音は、だれ……。あの車の音は、おじいさんのだ!」
いつも、燈火の下で、村から、あちらへ遠ざかりゆく、車の音に、耳をすまして、その音を聞き分けていたのでした。
「ああ、おじいさんは、どうなさったろう? お父さんも、お母さんも、妹も……。そして、もう、雪が降る時分だに……。」
彼女は、こんなことを思うと、眠れなかったのです。
* * * * *
あくる日の晩も、おさよは、ちょうど車の通る時分に、目をさましました。
コロ、コロ、と車は、風の吹く、暗い、乾いた夜道をきしってゆきます。きょうは、その車の音が、おじいさんの車の音に、よく似ていました。しかし、おじいさんの車の音が、幾百里もある遠くから、聞こえてくるはずはありません。彼女は、まくらから、頭をあげて、もっとよく、車の音を聞こうとしました。そして、耳をすまして聞けば、聞くほど、おじいさんの車の音に似ていました。
おさよは、もうじっとして、我慢していることができなかった。さっそく、起きて着物をきると、家の人たちに、気づかれないように、そっと戸を開けて、寒い、暗い、外へ自分の体を抜け出したのです。
彼女は、車のコロ、コロとゆく、往来の方へ走ってゆきました。
男が、牛に荷車を引かして、往来を街の方へゆくのを見ました。
「やはり、おじいさんでなかった。」と、彼女は、口の中でつぶやいて、ふたたび家へはいり、戸を閉めて、自分の床の中にもぐりました。けれど、すぐには眠つかれませんでした。目の中には、いっぱい涙がたまっていました。田舎のおじいさんのことを思うと、悲しかったからであります。
* * * * *
おさよは、夜、外へ出て、だれが車を引いてゆくか見たのを、家の人たちに気づかれなかったと思ったのに、翌日、みんなの前で、
「昨夜、おまえは、外へ出たが、どうしたの?」と、奥さまに聞かれました。
彼女は、顔を赤くして、うつむいていましたが、
「どうしたのか、いってごらん。」と、重ねて聞かれると、彼女は、ついに包みきれずに、おじいさんが、街へ車を引いていったのを思い出して、だれが、あの車を引いてゆくのか、見たいと思って、出たことを話しました。
太郎は、そばで、女中がお母さんに話すのを聞いていましたが、どこでも百姓は、夜もろくろく眠らずに働くのかということを、はじめて深く感じたのです。そして、それは怖ろしい人でなく、みんな哀れな女中のおじいさんのような、やさしい人であろうと思うと、いままで心なしに車の音を聞いた自分を恥ずかしく思いました。
――一九二八・一〇――
青空文庫より引用