幼き日
正ちゃんのお母さんは、かわいい坊やが、病気になったので、髪もとかさずに心配していました。
お医者さまは、正ちゃんを診察して、
「なるたけ、静かに、寝かしておかなければなりません。」といったので、お母さんは、家に帰ると、ふとんをしいて、正ちゃんを眠らせようとしました。
昨夜から、熱が高かったので、気持ちがいらいらしているとみえて、正ちゃんは、よく眠りませんでした。そして、むずかって、だだをこねてお母さんを困らせたのであります。
「さあ、おとなしくして、ちっとの間、ねんねなさいね。じきによくなりますから。」と、お母さんは、どうかして静かに、寝かしつけようとしていました。
「ねんね、ころころ、ねんねしな、
坊やは、いい子だ、ねんねしな。」
お母さんは、正ちゃんを抱いて、子守唄をうたいながら、へやのうちを歩きまわりました。そのうちに、やっと、正ちゃんは、すやすやと眠ったようでした。お母さんは、そっとふとんの上へおろして、
「あの山、越えて、どこへいった。」
口で子守唄をうたいながら、なおも、坊やの脊中をトン、トンと、軽くたたいていました。昨夜から、よく眠らなかったので、疲れたとみえて、正ちゃんは、ほんとうに、よく寝ついたようです。
「ああ、いいあんばいだ。」と、お母さんは、やっと脊中をたたくのをやめて、ほっとしました。
「どうか、すこしでも長く眠ってくれればいいが……。」と、自分の眠らなかったことや、疲れたことなどは、まったく、忘れて、すやすやと眠っている正ちゃんの顔をながめていました。
このとき、あちらから、らっぱの音が聞こえました。つづいて、パカ、パカという、馬蹄の音が、したのであります。
「あ、兵隊さんが、通るのだな。坊やは、起きなければいいが。」
お母さんは、気をもみました。ちょうど、窓の外の往来を、兵隊の列が通るのであります。平常は、勇ましいらっぱの音も、また、坊やが元気でいて見たなら、さぞ喜ぶであろうお馬のひづめの音も、このときばかりは、にくらしくなりました。
「どうぞ、坊やが、目をさましませぬように……。」と、お母さんは、口のうちで、神さまに念じていました。
とうとう坊やは、目をさまさずに、兵隊の列は通過してしまいました。ほがらかならっぱの音も、なんとなく勇ましい馬のひづめの音も、だんだん小さく遠くなってしまいました。
「やれ、やれ。」と、お母さんは、いって、家のなかをかたづけにかかりました。正ちゃんが、病気になって、驚いたり、手当てをしたり、医者へつれていったりしたもので、あたりは、ちらかりほうだいになっていたからです。
「こんど、目をさましたら、この水薬を飲まさなければならない。」と思って、お母さんは正ちゃんのまくらもとに、薬のびんをおきました。
すると、あちらから、こんど☆ 羅宇屋が、ピイー、ピイーと、笛を鳴らして、屋台車を引きながら、のろのろとやってきたのです。正ちゃんの家は、往来のそばにありましたから、前を通る音は、なんでも、よく聞こえたのでした。
「ほんとうに、やかましい音だこと。坊やが、目をさまさなければいいが。」と、お母さんは、また、気をもまなければなりませんでした。
平常は、あまり気にかけなかったものまでが、こうしたときには、いろいろと気にかかるのが不思議なくらいでした。まるで、人間は、音の世界の中に住んでいるもののようだと、正ちゃんのお母さんには考えられたほどです。
しかし、一方から見れば、羅宇屋さんは、お天気はいいし、それに、自分の鳴らしている笛の音に、人が気をもんでいようなどと知るはずがないから、のんきに、ガラガラと車を引いてきて、正ちゃんの家の前で止まりました。
「坊やが、目をさまさなければいいが……早く、いってくれないかしらん。」と、お母さんは、じっとしてすわっていることができませんでした。
お母さんは、いっそ、羅宇屋さんに、そういって、早く、自分の家の前から、あちらへいってもらおうかと、思いましたが、そういうのも、あまりかってらしい気がして、どうしたらいいものかと惑っていますと、いつも、長く止まっている羅宇屋さんが、こちらの思いが通じたものか、いつもより早く、ガラ、ガラと車を引いて、家の前を去ってしまいました。
「ああ、いいあんばいだ。」と、お母さんは、喜びました。
正ちゃんは、よく眠っていました。すると、こんどは、小さな足音が、入り口にして、
「小母さん、正ちゃんは?」と、はいってきた子供がありました。それは、八つになった、近所の吉雄さんであります。吉雄さんは、正ちゃんが大好きでした。よく正ちゃんを遊ばしてくれました。今日も、正ちゃんは、どうしているだろうと思ってやってきたのです。
しかし、いつになく、家の内が、しんとしていましたから、どうしたのだろうかと思ったのでした。そこへ正ちゃんのお母さんは顔を出して、
「吉雄さん、正ちゃんは、病気で寝ているのですよ。昨夜、すこしも眠らなかったので、いまになってからつかれて、眠ったのですけれど、外がやかましいので、目をさましはしないかと、小母さんは心配しているのですよ。」といいました。
吉雄さんは、正ちゃんが病気になったと聞くと、びっくりしました。そして、かわいそうでならなかったのです。
「小母さん、たいへんに悪いの?」と、心配して、たずねました。
「お医者さまにかかっているから、じきになおりますよ。だけど、熱が高いから、よく眠らせなければならないの。よく眠ると、熱が下がるのだから、よくなったら、また、遊んでやってくださいね。」と、お母さんは、いいました。
吉雄さんは、だまって、うなずきました。
このとき、子供たちが、わいわい叫んで、四、五人こちらへ駆けてきました。
「吉雄さん、遊ぼう!」と、一人は、元気よく呼びかけました。しかし、吉雄さんは、その言葉には、耳もかさずに、
「正ちゃんが病気なんだから、あっちへいっておくれ。」と、みんなに向かっていいました。
それから、吉雄さんは、正ちゃんの家の前に立っていました。あのかたことまじりにものをいう、りんごのように紅いほおをした、かわいらしい正ちゃんが病気で悩んでいると知ると、正ちゃんのお母さんといっしょになって、正ちゃんの眠りを守ってやらなければならないという気が起こったのです。
チリン、チリンと、自転車が、ベルを鳴らして、往来の上を走ってきました。吉雄さんは、それを見守りながら、このベルの音で、もしや、正ちゃんが、目をさましはしないかと、びくびくしましたが、早くも、自転車は、軽く、黄色いほこりをたてて、あちらへ消えていってしまいました。
しばらく道の上に立っていると、吉雄さんは、退屈しました。そして、あちらへいって、みんなと遊びたくなりました。そう、思ったことに無理はありません。しかし、吉雄さんは、もし自分が番をしなかったら、だれか、考えなしに、この家の前で、大きな声を出して、正ちゃんの目をさまさないものでもないと考えたから、大急ぎで、自分の家へ帰って、半紙に、「コノ家ノ、小サイ正チャンガ、ビョウキデスカラ、シズカニ前ヲトオッテクダサイ。」と書いて、持ってきて、正ちゃんの家の、窓の下のしとみにはっておきました。
ここを通りかかった人々《ひとびと》は、なにか書いてある紙が、ひらひらと風に吹かれているので、なにかと思って、立ち寄ってみますと、子供が病気らしいので、いずれも静かに歩いてゆきました。
正ちゃんのお母さんは、正ちゃんが、よく眠ってくれたので喜びました。また、いつになく、あたりが、静かであったのをありがたく思いました。
すると、午後になってから、近所の人たちが、さも、心配そうな顔つきをして、入り口から、はいってくると、
「正ちゃんが、ご病気だそうですが、いかがでございますか……。」と、みまいを述べました。
「はい、ありがとうございます。なに、寝冷えなんでございますよ。」と、お母さんは、お礼をいいながら、どうして、こう早く近所の方がたに、正坊の病気ということがわかったろうかと、不思議に思っていました。すると、
「あの、お窓の下に、書いてあったものですから。」と、近所の人は、いったのでした。
「まあ、なにが書いてあるか、ちっとも知りませんが……。」と、正ちゃんのお母さんは、びっくりして、外に出てみますと、窓の下に、紙がはってありました。それを見るうちに、お母さんの目の中に、熱い涙がわいてきました。その幼げな文字で、すぐに、だれが、書いたかということがわかったからです。
「なんという、やさしい子だろう……。」と、お母さんは、思いました。
その後、正ちゃんの病気は、じきになおって、吉雄さんは、また、あいかわらず、学校から帰ると、こまをまわしたり、三輪車に乗せたりして、正ちゃんを喜ばせたのであります。
* * * * *
月日は、いつしかたちました。しかし、正ちゃんのお母さんは、そのときのことを、いつまでも忘れることができませんでした。そして、正ちゃんに話をして聞かせました。
いま、正吉さんは、中学の二年生で、吉雄さんは、今年、中学を卒えて上の学校へ入ったのであります。
――一九二九・三――
☆羅宇屋──キセルの中央の竹の管をなおす商売の人。
青空文庫より引用