時計とよっちゃん
一
よっちゃんは、四つになったばかりですが、りこうな、かわいらしい男の子でした。
よっちゃんは、毎日、昼眠をしました。そして、たくさんねむって、ぱっちりと目をあけましたときは、それは、いい機嫌でありました。
「チョット、チョット。」といって、よっちゃんの頭の上から、このとき呼ぶものがあります。よっちゃんは、ぱっちりした目を上に向けますと、茶だんすの上にのせてあった、目ざまし時計が、いつもの円い顔をして、にこにこ笑っているのでありました。
よっちゃんは、いつもおなじところに、じっとしている時計をば不思議そうにながめていました。たまには、歩いて、ほかへ動きそうなものだとおもったからです。
だまって見ていると、時計が、
「チョット、チョット。」と、おなじいことをいっています。
よっちゃんも、時計を見上げて、にっこり笑いました。
「うま、うま……。」といって、かわいらしい手をあげて、時計の方へさし出しました。けれど、時計は、お菓子をくれませんでした。やはり、笑っているばかりでした。よっちゃんは、じつに、さびしくなって、泣き出しました。すると、お母さんが、あちらから、あわてて駈けてきました。
「よっちゃん、お目が、さめたのかい。」
二
「よっちゃん、そうお菓子ばかり食べるとぽんぽんが痛くなりますよ。」と、お母さんはいわれました。お菓子を食べてしまうと、よっちゃんは、すぐに、また、その後から、「お菓子……お菓子。」とねだって、お母さんが、なんといっても、ききわけがなかったのです。茶だんすの上には、いつもの目ざまし時計が、円い顔をしてこの有り様を見ていました。このとき、お母さんは、茶だんすの上にあった、目ざまし時計を指しながら、「あの長い針が、ぐるりとまわったらお菓子をあげましょうね。」といわれました。よっちゃんは茶だんすの上の円い時計を見ています。しかし、長い針が、なかなか早くは、まわりませんでした。「ねえ、お菓子……おかあちゃん! お菓子くれないの。」と、よっちゃんはいいました。
「この長い針が、ここまできたら、あげますよ。それでなければ、だめ。」と、お母さんは答えました。よっちゃんは、指をくわえながら、うらめしそうな顔つきをして、時計をながめていました。
三
「チョット、チョット。」と、時計は、よっちゃんが、昼眠をして目をさますと、頭の上でいつものごとく呼びかけました。よっちゃんは、そのたびに、びっくりして、ぱっちりとした目で、一度は、きっと時計の円い顔をながめましたが、黒い、長い針を見ると、お菓子のほしいときにも、意地悪をして、なかなか早くは動いてくれないことを思って、もうその顔を見たくもなかったのでした。しかし、よっちゃんの力では、その長い針をどうすることもできなかったのです。なぜなら、時計の円い白い顔の上には、厚い、ぴかぴかと光るガラスが張られていたからです。あるとき、よっちゃんは、お母さんが針仕事をしていなさるそばであそんでいました。お母さんは、よっちゃんの美しい着物を縫っていられました。このとき、よっちゃんは、お母さんの物差しを持って、茶だんすの前にゆきました。そして、物差しで、こつ、こつと時計の顔をたたきました。
「あ、よっちゃん、そんなことをしては、いけません。」と、お母さんはいわれました。しかし、よっちゃんは、すぐには、やめませんでした。なぜなら、時計の円い、白い顔がしゃくにさわったからです。つづけて、こつ、こつたたきました。「これ、よっちゃん、およしなさい。」と、お母さんはしかって、物差しを取りあげてしまいました。
四
おとなりのみいちゃんがあそびにきて、よっちゃんは、二人で、座敷で、青いはとぽっぽや、赤い汽車のおもちゃなどを出して、仲よくあそんでいました。よっちゃんは、汽車のことを、チイタッタといっていました。チイタッタといって、汽車が線路の上を走ってゆくからです。ちょうどこのときでした。ぐらぐらと家が揺れはじめました。よっちゃんもみいちゃんも、なんだろうと思って、びっくりしました。そのうちに、ガラス戸が、ガタ、ガタ、鳴り、障子がはずれかかりました。「大きな地震だ!」といって、あちらからおかあさんが駈けてきて、片手によっちゃん、片手にみいちゃんをだいて逃げ出しました。すると、たなの上にあったものが、ガラガラと鳴って、落ちてきました。お勝手の方ではもののこわれる音やころがる音などがして、大騒ぎでありました。外へ出ると、あっちの屋根からも、こちらの屋根からも、かわらが落ちてきました。しかし、みんなは、安全に、広場へ逃げてまいりました。そこへは、みいちゃんのお姉さんも、お母さんもきあわせました。よっちゃんは、おそろしかったこともわすれて、あたりがにぎやかなので、よろこんでいました。
五
だんだん地震も静まった時分、みんなはめいめいの家へはいりました。よっちゃんも家へはいって内の有り様を見てびっくりしました。壁が落ちたり、茶だんすの上にあったものが落ちてこわれたり、ころがったりしていたからです。
円い、白い顔の時計も、たたみの上へ、ひっくりかえっていて、ガラスが微塵に破れていました。「まあ、まあ……。」といって、お母さんは時計を取り上げて、茶だんすの上へのせられました。よっちゃんは、ガラスのなくなった時計を、だまってめずらしそうにながめていました。しかし黒い、長い針は、もとのように、ついていました。その日から時計の針は前のごとく、動きはじめました。よっちゃんは、当座は、いままでのように、おちついて、昼寝も、お母さんに抱かれながらするようになりました。そして、目がさめると、「チョット、チョット。」と、頭の上で、時計が呼んだのであります。時計の白い円い顔の上には、ガラスがなくなって以来、まだ、新しいガラスが、はまっていませんでした。よっちゃんは、なにを思ったか、お母さんの針箱をふみ台にして、それへ上がって、時計の白い顔を不思議そうにながめていたのです。
六
よっちゃんは、また、お菓子をお母さんにねだりました。「ええ、あげますよ。いまたべたばかりだから、あの時計の長い針が、ぐるりとまわって、まっすぐになったらあげますよ。」と、お母さんはいわれました。お母さんは、あっちにいって、茶わんを洗ったり、おもてを掃いたりしていられました。よっちゃんは、茶だんすの前に立って、時計を見上げていましたが、そのうちに、お母さんの針箱をひきずってまいりました。そしてその上に乗って、かわいらしい指で時計の長い針を動かしたのでした。「チョット、チョット。」と、時計はいつもおなじことをいっていましたが、よっちゃんが、なにをしてもおこりはいたしませんでした。よっちゃんは、指に力をいれて、うなりながら、長い針をぐるりとまわして、そして、まっすぐにいたしました。よっちゃんは、針箱からおりると、いそいでお母さんのいなさるところへ走ってきました。「お菓子……ねえ、お母ちゃん、お菓子くれない。」といいました。「まだ、長い針は、まわりませんよ。」と、お母さんはいわれました。「まわった、お母ちゃん、針はまわったよ。」と、よっちゃんは、しきりにいいました。
七
「どれ、どこまで、長い針がいったか、見ましょうね。」と、お母さんは、よっちゃんが、しきりにいうので、家へ上がって、茶だんすのところへやってきました。そして、時計を見てびっくりしました。
「まあ、おまえは、もうはや、こんなわるい、いたずらをするの?」と、お母さんはいって、よっちゃんを、抱き上げてしかりながらほおずりをしました。「もう何時だか、時間がわからなくなって、困るじゃないの。」と、お母さんはいって、外へ出て、近所の家で、時間を聞いてきました。そして、時計の針を直しました。「ねえ、お母ちゃん、お菓子くれないの。」と、よっちゃんはねだりました。「こんな、悪いいたずらをする子は、お母ちゃんは、いや。」と、お母さんはいわれました。すると、よっちゃんは、悲しくなって、泣き出しました。「もう、これから、こんな、おいたをしなければあげますが、もうしない?」と、お母さんは聞きますと、よっちゃんは、かわいらしい手で、目のあたりをこすりながら、うなずきました。よっちゃんは、お菓子をもらって、外へ小さなげたをはいて、あそびに出ました。そして、いま、お母さんにしかられたことを、もう忘れていました。
八
晩方、お父さんが、役所から帰ってこられると、お母さんは、よっちゃんが、針箱をふみ台にして、時計の長い針をまわした話をいたしました。お父さんは、よっちゃんが、りこうだといって、笑われました。そして、あの時計も、はやくガラスをはめなければならんと、いわれました。しかし、時計屋へ直しにやると、あとでほかに時計がないので不自由なものですから、一日、一日延びてしまうのでありました。お母さんは、どこか、もっと高いところへ時計を置いたら、よっちゃんが、いたずらをしないと思いましたから、翌日は、たんすの上へ置きました。
もう、よっちゃんは、針箱をふみだいにしても手がとどきませんでした。また、着物をいれるたんすは、脊が高いから、その前に立ってもよっちゃんは、円い白い時計の顔を見ることさえできませんでした。よっちゃんは、どんなにさびしく思ったでありましょう。けれど、時計をそんな、高いところに載せておくのは、お母さんにも、不便でありました。なぜならお母さんは、すわっていて、時間を見ることができなかったからであります。いつのまにか、お母さんは、また、時計を茶だんすの上へ持ってきました。よっちゃんは、また、円い白い顔をいままでのように見ることができるようになりました。
九
ある日のこと、よっちゃんは、お母さんといっしょに、近所の、よっちゃんをかわいがってくださるおばさんのお家へゆきました。よっちゃんは、お母さんにだかれているうちに、眠けがさしてきて、いつしか眠ってしまいました。「そのまま、そっとここへお寝かしなさい。」と、おばさんは、よっちゃんのお母さんに向かって、いわれました。「こまった子ですこと。」と、お母さんはいって、よっちゃんを、おばさんの敷いてくださったふとんの上へ寝かしました。よっちゃんは、いつも、いまごろ昼寝をしますので、いい心地で眠ってしまいました。「お目がさめましたら、私が連れてゆきますから。」と、おばさんはいわれました。よっちゃんのお母さんは、よっちゃんを残して、家に帰ってしまったのであります。
よっちゃんは、たくさん眠ると、目がひとりでにさめました。よっちゃんは、寝起きがいいのであります。ぱっちりした目をあけて、しばらくあたりを見まわしていました。「チョット、チョット。」と、頭の上で、いつもよっちゃんを呼ぶ時計の音がしなかったのです。よっちゃんは、どうしたことかと気づいてあたりをさがしますと、まったく、ようすがちがっていて、茶だんすも、まるい、白い顔の時計もないので、急に、恐ろしくなって泣き出しました。
十
おばさんは、すぐ、よっちゃんのそばにやってきて、「よっちゃん、ここは、おばさんの家なんですよ。」といいきかせましたけれど、よっちゃんは、泣きやみませんでした。おばさんは、しかたなく、よっちゃんを抱いて、よっちゃんのお家へつれてまいりました。そして、お母さんの手に渡しました。よっちゃんは、お母さんの顔を見ると、ますますかなしくなりました。ちょうど、このとき、茶だんすの上にあった目ざまし時計が、「チョット、チョット。」といって、よっちゃんを頭の上で呼びました。よっちゃんは時計の、円い白い顔を見ると、やっと自分の家へ帰ったことがわかって、安心しました。
その翌日も、よっちゃんはいつものように昼寝をしました。そして、ぱっちりと目が開くと、また昨日のように、ほかの家ではないかと、頭をあげて、あたりを見まわしました。すると、茶だんすの上にはおなじみの、円い、白い顔をした時計が、にこにこと笑っていて、「チョット、チョット。」といって、よっちゃんを呼びかけるのでした。よっちゃんは、それを見ると、安心して、にっこり笑いました。そして、こちらへ走ってきて、「お母ちゃん、お菓子……。」といって、はや、ねだるのでした。お母さんは、その声を聞くと、喜ばしそうな顔をして、すぐに、よっちゃんのそばへやってきました。
青空文庫より引用