死と話した人
A《エー》は、秋の圃へやってきました。夏の時分には、小道をふさいで、脊高く伸びていた、きびや、もろこしの葉は、褐色に枯れて、茎だけが、白さびの出たと思われるほど、かさかさにひからびて、気味悪く光っていました。そして、ところどころに、赤い実のとうがらしが、頭を上げて、すきとおるような、青い空をながめていたのです。
もう、北の方から吹いてくる風は、なんとなく冷ややかでした。あたりは、しんとして、これらの景色は、ガラスに描かれた絵のように、音もなかったのでした。
彼は、なんの気なしに、圃の中へはいってゆきますと、見知らぬ大きな男が、すぐ前に突っ立っていました。
「見なれない百姓だな。」と思って、彼も、立ち止まって、その顔を見上げますと、赤銅色に日に焼けて、角張った顔は、なんとなく、残忍な相をあらわして、あちらをにらんで、身動きすらしなかった。鼻の先がとがって、両眼が落ちくぼんで、手ぬぐいで向こうはち巻きをして、きっと口をむすんでいます。
彼は、多少、無気味になりました。
「それにしても、鋳物のように動かないのはおかしいな。まさか、かかしではあるまい……。」
こんなことを考えているうちに、それが、普通の人間としては、ばかに大きいということに気がついた。このとき、A《エー》の胸はどきどきしました。幻を見ているわけではあるまいと、自分の心に問うてみたのです。
「あ!」と、彼は、思わず叫びをあげた。
「かま……?」
そのかまは、大きく、鋭く、そして、三日月のように細いのを、大男は、右手に握っていたからです。
「死だ! 死だ!」A《エー》は、口のうちでささやきながら、急いで、きた道をもどると、中途から、人家の見える村をさして、駆け出したのであります。
* * * * *
沿海線に沿うて、レールが走っていました。小高い丘の上に、停車場があって、待合室は風に吹きさらしになっています。
A《エー》は、段を上がって、待合室にはいると、がらんとして、人影はなく、ただ一人、黒い服装をした外国のおばあさんが、ベンチに腰をおろして、下を向いて、なにかしていました。
「どこの国のおばあさんだろう。故国は、遠いにちがいないが、いま、どんな気持ちで、ここにきて、なにをしているのだろうか?」と、そんなことを思いながら、彼女を驚かさないように近づいたのでした。
雲をもれて、おりおり、見渡すかぎりの自然の上へ、太陽の光線は、虎斑のようなしまめを描いています。そして、どこともなくあちらの方から、鈍い波の音がきこえてきました。砂原の上を、その音は、ころげてきたのでした。
ド、ド――
ド、ド、ド。
「おばあさんは、なにをしているのだろう?」
彼は、近づいてみると、無数の小さなビーズを、ひざのあたり、黒い衣服の上にまいて、その一つ一つに針を通しながら、それらの赤・白・青・黄・紫のビーズを糸につないでいました。
「なるほど、きれいなビーズだが、これも外国から持ってきたのかもしれん。なんという、あの青い色は、ペルシアのつぼのように、あくどく、冴えた色をしていることだろう……。」
彼は、しばらく立って、ぴかぴか光る針と糸につながれてゆくビーズの色にひきつけられていました。
電線を吹く、風の音。
波の音。
ド、ド――
ド、ド、ド。
いつまでたっても、ほかに、だれも上がってこなかった。また、耳を傾けても、汽笛の音さえきこえなかったのでした。
「いまにも、汽車がきたら、ビーズがひざにあって、おばあさんは、どうして立ち上がるだろう?」
そう考えると、いぶかしくなりました。紙にもつつんでないから、みんな地にこぼれてしまうだろう……。ちょうど、そのとき、おばあさんが、顔を上げました。あっと、彼は、驚いた。なぜなら、二つの目は、魚のうろこを張ったように、白く、瞳がなく、まったくの盲目であったのです。
「死だ! 死だ!」
こう叫んで、彼は、丘を駆け下りました。
* * * * *
寒い夜のことです。
明るい燈火の下で、A《エー》は、細君と話をしていました。二人の家庭は、むつまじく、そして、平和でありました。それにつけて、A《エー》の友だちの死は、いっそう、考えさせられたのです。
「ほんとうに、あの方は、快活な、陰気なことの大きらいのお方でしたわ。それに、日ごろあんなに健康そうに見えましたのに……人間の命というものは、わからんものですわね。」と、細君はいいました。
「ほんとうに、あの男が、急に死のうなどとだれも思うまいよ。彼自身だって思わなかったにちがいない。これをみても、こうして、無事に、一日が送られるということは、幸福なことだよ。」と、A《エー》は答えました。
「もし、死ということがなかったら、人生は、どんなに幸福でしょう?」
「それは、そうでない。死があってこそ生ということがあるのだ。生きているという意識は、死の恐れを深く知るものにだけ、それだけありがたいのだ。夜がなかったら、太陽の輝きはわかるまい。この二つは、自然の大きな力なんだ。」と、A《エー》はいいました。
「あの男は、この自然の力について考えただろうか。」
彼は、そんなことも思いました。
だれか、外の戸にさわったようなけはいがします。A《エー》は立ち上がって、出口の戸を開けてみました。すると、そこに、頭から、黒い着物をかぶった脊の高いものが立っているので、びっくりしました。
「おまえは、だれだ?」
「死だ! この家へはいろうかとのぞいていたのだ。俺のことを話したのも、みんな聞いた。」
A《エー》の心臓は、氷の手で、ぐっと握られたように、ぞっとして、ものがいえなく、ふるえていました。
「しかし、おまえたちは、俺の存在を忘れないだけ感心だ。こんどだけは、はいるまい。」
こう、死は、冷ややかにいい放って、大またで歩いて去りました。
空には、こぼれ落ちそうに、星がきらきらとして、低くささやきながら、風が吹いていました。
――一九二八・一〇作――
青空文庫より引用