海の踊り
日本海の荒波が、ドドン、ドドンといって岸を打っています。がけの上に、一本の松の木が、しっかり岩にかじりついて、暗い沖をながめて、嵐にほえていました。
そこへ、どこからともなく、紅い、いすかが飛んできて、松の木にとまりました。
「松の木さん、なんで、そんなに腹だたしそうにどなっているのですか?」といいました。
松の木は、頭の毛を逆立て、いまにも岩からはなれて、沖の方へ飛んでゆきそうな、いらだたしげなようすをしながら、
「まだ、あの船が見えないからだ……。」と答えました。
いすかには、ただ、それだけ聞いたのでは理由がわからなかった。
「あの船って、どんな船ですか。それにはだれか、あなたのお知り合いの方でも乗っているのですか。」と聞きました。
ぶっきらぼうの松の木は、いすかにくどくど聞かれるのを好きませんでした。なぜなら、自分の心配をひとに話したって、どうなるものでもなく、また、それにかかわりのない他人が聞いても、なんのためにもなるものでないと思われたからです。で、この小鳥を枝から振り落としてしまおうかと思ったが、黒い目をした、りこうそうな顔つきを見ると、そうもできなく、松の木は、ありのままの話をして聞かせました。
「英吉という、若者の乗っている船が、二、三日前に沖へ出たが、まだもどってこない。それに、海はこのような嵐なのだ。あの高い浪を見るがいい。どんなに、強いきかぬ気の若者でも、これを乗り切ることはできまい。おれはそう思うと気が気でなく、こうして、夜となく、昼となくほえているのだ。」と、松の木は、いいました。
紅い、いすかはしっかりと、小枝につかまって、耳を傾けて聞いていたが、
「その若者とあなたとは、どんな関係があるのですか?」とたずねました。
「おお、それを話そう。そうだ、雪のたくさん降った年だった。おれは、頭の上にかかる雪をはらっても、はらってもあとから降って、だめだった。あの野原や、小山に生えているような松の木とちがって、おれは、ひどい嵐にも、また雪にも負けるものじゃない。それが、とうとうその年ばかりは、雪の重みに堪えずに、根もとから二つに裂けてしまった。それどころか、もうすこしのことで、おれの半分の体は、がけの下に落ちてしまうところだった。おれは、そうなるまいと我慢をした。そのうちに、待っていた春になったのである。海の水が紫色に見え、消えてしまったが、ただ、おれの体の傷口は、沖から吹いてくる寒い風にさらされて、痛んで、このまま過ぎたら、枯れてしまうとさえ思われたのだ。このとき、下の漁師村から、少年が、がけの上へ登ってきた。そして、おれを見ていじらしく感じた。たいていの子供たちなら、考えなしに、いたずらをして、無理にも引きはなしてしまうのを、『ああ、雪で裂けたのだな、こんながけの上で、岩にしがみついて、一日として平穏に暮らしたことのない木を、かわいそうに……。』と、少年はいって、わざわざ家から、もちを持ってきて、裂けめを合わせて、ぐるぐると繩で傷口を開かないように縛ってくれた。なんとしんせつでないか。おれは元気だったから、体の恢復するのも早かった。あれから、十年にもなったろう……。英吉というのは、その少年の名だった。」
だまって、聞いていた、いすかは、
「ああ、それでわかりました。あなたが、その若者の身の上を心配なさるのは、もっとものことです。なんという、その人は、やさしい心でしょう?」
松の木は、身ぶるいしながら、
「あの人は、小さい時分に、両親をなくして、おばあさんの手で育てられた。そうした、不幸を味わわないものだったら、どうして、同情をするようなことがあろう……。」と答えました。
遠い、北の寒い国に生まれて、またその方へ帰ってゆこうとする、いすかは、寒いことには平気でしたから、それによく飛びましたから、今夜にも、海を越そうとしていました。ものすごい、沖の方から、たえず波は、ドドウ、ドドウとがけの下に打ち寄せている。そして、かなたの空は、真っ暗でありました。そこには、無数の白いうさぎが、駆けているように、波頭が光って見えるばかりでした。
* * * * *
人間でもそうであるように、まれには、仲間どうしだけで、宴会を開きたいものです。海の男女の神たちは、急に、舞踏会を催すことになりました。
「おまえの力で、人間の船を、みんな吹き飛ばしてくれ。」と、男の神は、風にいった。
急に、空模様が変わってきたので、あたりをこいでいた船は、あわてて港をさして逃げました。
「さあ、今年の冬の踊りおさめに、みんながうたって、騒いでくれ。」と、一人の神が命令すると、風は、凱歌をあげ、幾百千万の波は、手をたたいて乱舞し、黒雲は、雷を鳴らして、火を振りまわしながら駆けり、そして、ここににぎやかな、舞踏会は開かれたのでありました。
女神らは、手を取り合って、素足で、長い、緑色の裳裾をひきずって、入り乱れて舞いました。また、男神は、声高らかに、
海は、自由だ。海は、若い、
幾千万年前も、いまも変わりはない、
だれが、海を征服しようというか?
海は、自由だ。海は、若い、
さあ、うたえ!
さあ、踊れ!
ちょうど、このとき、ほかの船は、姿を消してしまったのに、英吉の船だけが、嵐の舞踏する、渦巻きの中に残されたのでした。そして、幾たび、あやうく波にのみ込まれようとしたかしれません。これを見た、海の神たちは、怒りました。
「なんという自然の怖ろしさを知らぬばかじゃ。大浪よ、ちょいと一のみにしてしまえ。」と、男神は、いいました。
「まあ、お待ちください、あのものは、なにか手を合わせて祈っているようです。わたしが、よく見とどけてまいりますまで。」と、なかにも、やさしい、女神は訴えました。
すぐに、女神は、飛んで、英吉の乗っている、破れかけた船のほばしらの頂にきてとまりました。そして、清らかな瞳で、下をみつめました。
「海の神さま、どうぞ、私をお助けください。私は、頼りない年とった祖母があります。父は、やはり海で死んだのでした。母は、これを悲しんで、その後まもなく、なくなりました。海を生活の戦場とするものには、海の上で死ぬことは、本望です。私の命は、海に捧げます。どうぞ、祖母の達者のうちだけ、私の命を助けてください。」と、英吉は、ひざまずいて祈っていました。
「おまえのそばにある、紅い、小さな花はなんの花か?」
女神の声は、目に見えない、不思議な泉のように、若者の魂に、ささやくと、彼は、涙ぐましい感激にむせびました。
「神さま、私は、自然に対して、いつも謙遜な心を抱いています。海、鳥、花、木……すべて生命あるものに対して、真心をもっています。この紅い、小さな花は、雪割草です。おばあさんが、この鉢に、水をやるのを忘れるといけないと思って、私は、船の中まで持ってきました。春を待つ、この花の短い命を救ってください。」
女神は、いそいで去りました。そして、このことを他の神々《かみがみ》に、告げました。許されたのか、風が変わって、英吉の船をいままでとは反対の方角に吹きつけると、逆巻く波は、つぎからつぎへと、船をほんろうして、ちょうど木の葉をもてあそぶようでありましたが、船は、いつしか港の方へ追いやられたのでした。そして、日暮れ方から、幾分か海の上が、穏やかになったので、英吉は、喜んで、陸の方へ、あらんかぎり、腕に力を入れてこぎだしました。
村では、人々《ひとびと》が、英吉の船が、まだもどらないので心配していました。暗くなると、がけの上に火をたいて、暗い沖の方に向かって合図をしました。
また、年老った祖母は、海の見える窓ぎわに、仏壇にろうそくをあげ、孫が、闇の中をこいでくる時分に、この燈火を目あてにすることもあろうと、その下にすわって、無事に帰るようにと、祈っていました。
英吉は、これらのちらちらする火影を、遠くからながめました。そして、しんせつな人々《ひとびと》の心づくしに感謝しました。また、その一つの火影の下にすわって、こちらの沖を見つめているおばあさんの姿を、ありありと目に描いていたのです。
松の木と別れた、いすかは、若者の無事を知ると心から祝して、日暮れ方前に、船の上を過ぎて、遠くへ飛んでゆきました。そして、ただひとり、日が暮れても、松の木だけは、物狂おしそうに、海に向かって、ほえていました。
青空文庫より引用