般若の面
町からはなれて、街道の片ほとりに一軒の鍛冶屋がありました。朝は早くから、夜はおそくまで、主人は、仕事場にすわってはたらいていました。前を通る顔なじみの村人は、声をかけていったものです。
長かった夏も去って、いつしか秋になりました。林の木々は色づいて、日の光は、だんだん弱くなりました。そして枯れかかった葉が思い出したように、ほろほろと、こずえから落ちて、空に舞ったのであります。
もうこのころになると、この地方では、いつあらしとなり、あられが降ってくるかしれません。百姓は、せっせと畠に出て、穫りいれを急いでいました。鍛冶屋の主人は、仕事の間には、手をやすめて、あちらの畠や、こちらの畠の方をながめたのです。そして、天気がよく、ほこほことして、あたたかそうに、秋の日が平和に、林の上や、とび色に香った地の上を照らしているときは、なんとなく、自分の気までひきたって、のびのびとしましたが、いつになく曇って、うす寒い風が吹くと、これからやってくる冬のことなど考えられて、ものうかったのです。
ある日の晩方から、急にあらしがつのりはじめました。落ち葉は、ちょうど、ふいごを鳴らすと飛ぶ火の子のように、空を駆けて、ばらばらと雨まじりの風とともに、空へ吹きつけたのでした。
「いよいよ、このようすだと、二、三日うちには雪になりそうだ。」と、主人は、独り言をしました。
女房は、勝手もとで、用をしていましたが、彼は暗い奥の方をわざわざ向いて、
「晩には、雪が降るかもしれないから、みんな外に出ているものは、取りいれろや。」と、大きな声でいって、注意をしたのでした。
彼は、やがて、女房と二人で、そこそこに夕飯をすましました。ふたたび、仕事場にもどって、鉄槌で、コツコツと赤く焼けた鉄を金床の上でたたいていました。戸の外では、あらしがすさんでいます。彼は、思わず、その手をやめて、あらしの音に聞きとれたのでした。
このとき、戸の外で、だれか呼びかける声がしました。
だれだろう? この暗い、あらしの晩に、しかも、いまごろになって声をかけるのは……と、主人は考えました。きっと、村の人が、なにか用事があっておそくなり、そして、いま帰るのだろう……と、こう思って、彼は、立って雨戸を細めにあけて、のぞいたのです。
戸のすきまから、ランプの光が暗い外へ流れ出ました。そこには、まったく見知らない男が立っていた。主人は、目をみはりました。すると、その男は、
「私は、旅のものですが、知らぬ道を歩いて、日が暮れ、このあらしに難儀をしています。宿屋のあるところへ出たいと思いますが、町へは、まだ遠いでございましょうか?」と、たずねました。
主人は、その知らぬ男のようすをしみじみと見ましたが、まだ、それは若者でありました。どう見ても、ほんとうに、困っているように見られたのです。
「それは、お気の毒なことです。まあ、すこしこちらへはいって休んでから、おゆきなさい。」と、人のよい主人はいいました。
若者は、喜んで、あらしに吹かれてぬれた体を、家の内へいれました。この若者も、性質は、善良ですなおなところがあるとみえて、二人は、やがて打ち解けて話をしたのであります。
「私は、事業に失敗をして、いまさら故郷へは帰れません。私の故郷は、ここから遠うございます。どこかへ出かせぎでもして、身を立てたいと思って、あてもなく、やってきたのです。」と、若者は、いいました。
鍛冶屋の主人は、それは、あまりに無謀なことだと思ったが、すべて、成功をするには、これほどの冒険と勇気が、なければならぬとも考えられたのでした。
「それで、これから、どこへいきなさるつもりですか。」とたずねました。
「私は、北海道に知人がありますので、そこへ頼っていきたいと思います。しかし、それにしては、すこし旅費が足りません。それで、死んだ父の形見ですが、ここに時計を持っています。いい時計で、父も大事にしていたのでした。これを町へいったら、手ばなして、金にしたいと思っています……。」と、いうようなことを、若者は、話しました。
主人は、なんとなく、この知らぬ旅人の正直そうなところに、同情を寄せるようになりました。
「どれ、どんな時計ですか?」といった。
若者は、時計を出して、主人に見せました。小型の銀側時計で、銀のくさりがついて、それに赤銅でつくられたかざりの磁石が、別にぶらさがっていたのでした。その磁石の裏は、般若の面になっています。
「なるほど、いい音だ。これなら、機械は、たしかだろう……。」
「まだ、その時計にかぎって、機械の狂ったことを知りません。」
「すこしくらいなら、私が、ご用立てをしましょう。そのかわり、いつでもこの時計は、あなたにお返しいたします。町へいって、お売りになるのなら、それくらいの金で、私が、おあずかりしてもいいですよ。」と、主人は答えました。
若者は、どんなに、うれしく思ったかしれない。じつは、ここへくるまでに、他国の町で見せたことがあった。しかし、あまり安かったので売る気になれなかったのですが、若者は、そのことも打ち明けました。すると鍛冶屋の主人は、
「その値に、もうその値の半分も出したら、どうですか?」といった。
若者はよろこんで、それなら北海道へゆくのに余るほどだといって、主人に時計を買ってもらうことにしたのでした。
「これは、あなたのお父さんの形見だ。いつでも、ご入用のときは、さし上げた金だけかえしてくだされば、時計をおかえしいたします。」と、主人は、重ねていいました。
戸の外には、あらしが、叫んでいました。つるしたランプが、ぐらぐらとゆらぐほどでありました。若者は、厚く礼をのべて、教えられた方角へ、町を指してゆくべく、ふたたび、あらしの吹きすさむ闇の中へ出て、去ったのであります。その後を、しばらく主人は、だまって見送っていました。
二
いつしか、二十余年の月日はたちました。
空の色のよくすみわたった、秋の日の午後であります。一人の旅人が、町の方を見かえりながら、街道を歩いて、村の方へきかかりました。田は、黄金色に色づいていました。小川の水は、さらさらとかがやいて、さびしそうな歌をうたって流れています。木々の葉は、紅くまた黄色にいろどられて、遠近の景色は絵を見るようでありました。
旅人は、道のかたわらにあった、木の切り株の上に腰をおろして休みました。そのとき、ちょうど町の方から、村の方へゆく乗合自動車が、白いほこりをあげて前を通ったのです。彼は、それを見ると、
「そうだ、二十年にもなるのだから、あの時分と変わったのも無理がない。」と、ひとりでいったのです。
この旅人は、ずっと以前に、あらしの晩、鍛冶屋の戸をたたいた若者でありました。あの後、北海道へゆき、それから、カムチャツカあたりまで出かせぎをして、いまは、北海道でりっぱな店を持っているのでありました。
「あの時計は、まだあるだろうかな。いろいろお世話になった。あのご恩は忘れられん。しかし、あの時計についている、磁石の般若の面は、子供の時分から父親の胸にすがって、見覚えのあるなつかしいものだ。いまも、あのかざりだけは目に残っている。よくお礼をいって、時計をかえしてもらいたいばかりにやってきたのだが……。」
こう旅人は、昔を思い出して、だれにいうとなくいいました。やがて、また街道を歩きながら、右を見、左を見て、あらしの晩にいれてもらった鍛冶屋をさがしたのであります。その晩は真っ暗でした。そして、すさまじい風の音につれて、ランプのゆれるのを見たのでした。それが、いまはこの村もすっかり電燈になっていました。
たしかに、ここと思うところに、一軒の鍛冶屋がありました。旅人は、その前に立って、しばらくためらい、胸をおどらして中へはいると、思った人は見えなくて、まだ若い息子らしい人が、仕事をしていたのです。
彼は、昔のことをこまごまとのべました。
「それで、ご主人にお目にかかって、お礼を申したいと思って、遠いところをやってきました。」と告げたのであります。すると、息子は、目をまるくして旅人をながめましたが、
「父はもう三、四年前に亡くなりました。」と答えた。これを聞いた旅人は、どんなに驚いたでしょう。
北海道から持ってきた、いろいろのみやげものをさし出して、あらしの夜の思い出などを語り、そして、あの時分、買っていただいた時計を、まだお持ちなさるなら、譲っていただきたいと思ってきたことなどを話したのであります。
「母親は、年をとって、それに、あいにくかぜをひいて、あちらに臥っていますが。」と、息子は答えて、奥へはいったが、やがて時計を持って出てまいりました。
「この時計でございますか?」
旅人は、なつかしそうにその時計を手に取り上げてながめました。息子は、
「私は、子供の時分、そのくさりについている般若の面をほしいといって、どれほど、父にせがんだかしれません。しかし、父は、これは大事なのだといって、ほかのものは、なんでも、私が頼めばくれたのに、その磁石だけは、どうしてもくれなかったが、なるほど、この時計に、そんな来歴があったのですか?」と、昔を思い出していいました。
旅人は、この話を聞いているうちに、自分が子供の時分、ちょうど、それと同じように、般若の面をほしがったことを思い出しました。そして、この小さな、一つの磁石によって、自分と息子とが、同じように父親に対して、なつかしい記憶のあることをふしぎに思い、なんということなく、この人生に通ずる一種のあわれさを感じたのでありました。
「いくら、昔を思い出しても、なつかしいと思う父親は、もう帰ってきません。せっかく遠方からおいでなさいましたのですから、どうか、この時計をお持ちください。」と、息子がいいました。旅人は、その言葉をしみじみ悲しく身に感じました。
「形見の時計は、手にもどっても、自分の父親とてもふたたびこの世に帰るものでない。自分は、愚かしくも昔の夢をとりかえそうと思っていたのだ。そればかりか、息子の夢をも破ってしまおうとした。この時計などは、あのカムチャツカの雪の中にうもれてしまったものと思っていればよかったのである……。」こう考えると、もうその時計を取りかえす気にはなれませんでした。それから、二人はいろいろと話をして、またたがいに会う日を心に期しながら、別れたのであります。
青空文庫より引用