金が出ずに、なしの産まれた話


 ある金持かねもちが、毎日まいにち座敷ざしきにすわって、あちらのやまていますと、そのうちに、
「なにか、あのやまから、たからでもないものかなあ。」というような空想くうそうにふけりました。
 そのやまというのは、あまりたかくはなかったが、かたちがいかにもよかったのです。
 ちょうど、そのころ、たび技師ぎしが、このむらとおって、
「このやまには、どうがありそうだ。」といったといううわさを金持かねもちはききこみました。
「やはりむしらせたのだ。毎日まいにち自分じぶんはあのやまていると、なにかたからがありそうながしてならなかった。」
 ある金持かねもちは、かなづちをこしにさして、やまかけてゆきました。そして、やまなかに、あたましているいしを、コチン! とっては、いてみました。すると、ぴかっとしてひかりに、金色こんじきにかがやくものがまじっていました。それから、夢中むちゅうになって、あたりにちているいしってみたり、ひろげて、にさらしてみたりしますと、どれにも、なにかぴかぴかとひかるものがはいっていました。
どうばかりでなく、きんるかもしれない。」
 金持かねもちは、もうあたまなかは、たからりあてたときのよろこびでいっぱいになって、かんががおをしてもどってまいりました。
 それからのちのことです。
地主じぬしさんのまくらもとへきんほとけさまがおちになって、やまれとおっしゃった……。」とか、
「だんなさまが、お座敷ざしきにすわって、あちらをていなさると、やまほうで、きんほとけさまが手招てまねきなさった……。」とか、むらにはいろいろのはなしがりました。
 三にん熟練じゅくれんした坑夫こうふが、きたとおしまから、ばれることになりました。
「さあ、たからりあてて、大金持おおがねもちになるか、貧乏びんぼうをして、はだかになるか、うんだめしだ。ちからのつづくかぎりやってみよう。のるもそるも人間にんげんの一しょうだからな。」
 金持かねもちは、ついひまなものだから、ちょっとした空想くうそうが、おおきなことになったので、自分じぶんながらあきれましたが、もう、そのときは、むらひとたちもたくさん仕事しごとやとわれて、はたらいていました。しまからきた、三にん坑夫こうふは、めいめいいうことがちがっていました。
「このやまには、どうも、ぎんも、きんも、てつもあるけれど、まだ、としわかい。」と、一人ひとりがいいました。
 これをいた金持かねもちは、
としわかいそうだが、もう、何年なんねんばかりたつと、ちょうどよくなるかな。」とたずねました。しかし、これは、や、人間にんげんのようなものではありません。坑夫こうふわらいながら、
「五千ねんから、一万年まんねんばかりですかな。」といいました。金持かねもちは、あたまって、
「それじゃ、まごだいやくにもたたない。」と、ためいきをついたのです。
「いや、わかいことはないだろう。百しゃくばかりげたら、いい鉱脈こうみゃくにぶっつかるようながするが。」と、一人ひとり坑夫こうふは、自信じしんありそうにいいました。
 そこで、その事業じぎょうにかかることになりました。
 いままで、さびしかったむらは、きゅう活気かっきづいてあかるくなり、にぎやかになりました。煙突えんとつから、くろけむりがり、トロッコは、あちらのさかおとをたててはしりました。
 しかし、地中ちちゅう秘密ひみつや、人間にんげん運命うんめいは、ひっきょう、だれにもわかるものでありません。一ねんとたたぬうちに、金持かねもちは、財産ざいさんつかいはたしてしまいました。その時分じぶんから、いろいろな、きんや、どうのあるいしてきました。
 三にん坑夫こうふも、いまここでやめてしまうのは、しいものだといいました。
「じゃ、もうあと一月ひとつき。」
「あと十日とおか。」
 こうして、希望きぼうって無理むり仕事しごとをつづけるうちに、金持かねもちは支払しはらいができなくなって、どこへか姿すがたかくしてしまいました。昨日きのうまで、はしっていた、トロッコはまる、けむりは、煙突えんとつからたなくなりました。むらは、むかしのように、さびしくなりました。むらひとたちは不平ふへいをいいながら、ふたたびくわをるようになりましたが、しまからきた三にんおとこは、かえ旅費りょひもなく、いつまでも、やま小舎こや寝起ねおきをしていなければなりませんでした。
兄弟きょうだいこんなめにあうくらいなら、くるんでなかったな。」
「おれは、いい仕事しごとにありついたとおもってやってきたんだに……。」
「はやく、旅費りょひだけでもかせいでかえりたいもんだ。」
 三ぼんは、かお見合みあわせて、こんなはなしをしていました。そのうち一人ひとりわる疫病えきびょうにかかりました。二人ふたりねむらずに看病かんびょうしましたが、かれらも、感染かんせんして、三にんは、まくらをならべてたおれると、くるしみつづけて、とお故郷こきょうゆめながら、とうとう、前後ぜんごして、んでしまいました。
 むらひとたちは、三にん坑夫こうふうえあわれにおもいました。その死骸しがいやまにうずめて、ねんごろにとむらい、そこへ、三ぼんのなしのえたのでありました。
 やまうえとおってかぜは、なしの若木かわぎきました。やまうえぐるあめは、なしのをぬらしました。こうして、月日つきひは、たっていったけれど、なしのには、はなきませんでした。
「このは、はなかないな。」と、ここをあるくたびに、むらひとはいくたび、をながめていいましたでしょう。
 しかし、三にんのなしのは、びて、おおきくなりました。そして、はあちらのうみが、えるほどのたかさになったとき、はじめて、三ぼんともしろはなをつけたのであります。めじろや、ほおじろが、そのえだにとまって、あかるいうみほうそらやりながらさえずりました。
 三ぼんのなしのは、なつすえには、いずれもみごとなむすびました。むらひとは、それをとってべると、あまり、そのあじがうまかったので、たちまち、評判ひょうばんになりました。
「このむらに、なしのえるべえ。」と、百しょうたちはかんがえつきました。
 むかし金持かねもちのんでいた屋敷やしきも、れはててそのままになっていたが、いつしか、そこにもなしのなえは、えられたのです。はるになると、むらのあちら、こちらに、ゆきのような、しろいなしのはなきました。そして、いずれも、なつのころにはみごとにみのったのであります。
「どういうものか、この土地とちは、なしにしょううとみえるだ。」
 こういって、むらひとは、平地へいちといわず、山地さんちといわず、なしの栽培さいばいして、これを名産めいさんにしようとくわだてました。やがてこのむらは、なしの名産地めいさんちとなりました。すると、方々ほうぼう村々むらむらでも、かねもうけのことなら、なんだって見逃みのがしはしないので、かぎりなく、なしのえたのであります。それは、あのくもをつかむような、どうや、きんや、ぎんすのと、わけがちがったからです。しかし、このなしも、どこにも、よくできるというのでなかった。ただ北海ほっかいなみおとこえるだけのひろさにかぎっていました。そして、ほかのより、水気みずけがあって、あまかったけれど、また、なんとなく、そのあじには、あわかなしみがありました。



青空文庫より引用