はちまきの話
一
現在の事物の用途が、昔から全く変らなかつた、と考へるのは、大きな間違ひである。用途が分化すれば、随つて、其意味もだん/″\変化して来る。はちまき の話は、ちようど此を説明するに、よい例になるだらうと思ふ。
さて、はちまき は、どういふ処から出たか、と今更らしく言ふまでもないが、被りものゝはちまき に到るまでに、幾度かの変遷を経てゐる。はちまき ・手拭ひ などは、もとは一つもので、更にはちまき は、頭に巻くものか、顔を隠すものか、ほゝかむり するのがほんとうか、と言ふ点になると、色々の問題が含まれてゐる。手拭ひは恐らく、以前は顔を隠すものと、手を拭ふものとの両方面があつたのが、だん/″\手を拭ふ方面へ進んで来たのかと思はれる。
私が沖縄へ行つた時撮つた、かつら やはちまき の写真があるが、誰でも此を見れば、かつら とはちまき とは関係のあるものだ、と考へるに違ひない。とにかく、今役者のつけるかつら と、昔の人が被つたかつら とは、同一の起原から出たものだと言ふことだけは訣る。
名高い山城の桂 里にゐた「桂女」は、一種の巫女であつた事は、色々説明せられてゐる通りであるが、桂 里に住んでゐたから桂女と称するのか、それともかつら を著けてゐるから桂女と称したのか、尠くとも、二様の見方があるであらう。かつらおび と称するものも、果して、桂女がするからさう称するのか、其とも、もとはかつら であつたのが、変つてからでもかつらおび を称せられたのか、色々と考へられる。ともかく、桂女と言ふのは、頭にかつら をしてゐたから、さう言はれたのだらう、と私は考へる。桂 里に、必、住むものとは限らないから、偶然、桂 里に住んでゐたのであらう。
かつら の呼び方であるが、かつら と清んで言ふのが正しいか、かづら と濁るのが正しいか。昔は音の清濁は、其ほど正確ではなかつたのだから、かづら と濁つてもよいので、寧、私の考へ方からいふと、かづら と言ふ方が統一がついて都合がよいのである。
さてかづら からどういふ風にして、はちまき にまで到達する変化を経たか。
二
桂女が巫女であつた事はあたりまへで、柳田先生が「女性」の七巻五号に「桂女由来記」と言ふ論文を載せられて、色々材料も提供せられてゐるが、女が戸主であつたこと、将軍家に祝福に行つたこと、御香宮に関係のあつたこと、それから巫女であつた事に間違ひはない。社から離れても、巫女であつた事は事実である。そして、かづら を頭に纏いてゐたからかつらめ と称したので、かつらまき ・かつらおび のかつら も、かづら である。
かづら には、ひかげのかづら ・まさきのかづら が古くからあり、神事に仕へる人の纏きつける草や柔い木の枝などで、此が後のかもじ となるのである。髢は、神々の貌をかたどつたから、称するのだといふが、かつら の「か」を取つてか文字 と言うたのが、ほんとうであらう。倭名鈔にかつら ・すへ とある。かつら は頭全体に著けるもので、すへ はそへ毛である。又、源氏物語末摘花の巻に、おち髪をためて、小侍従にかつら を与へた、とあるのは、髢である。
桂女の被るかつら 、役者の著けるかつら と言ふ風に色々あるけれども、つら はつる と同じ語で、かづら はもと「頭に著ける」蔓草と言ふことであらう。蔓草を、ひかげのかづら なる語にも見える様に、かげ とも称したことは、古今集東歌に、
筑波嶺のこのもかのもに、蔓はあれど、君がみかげに、ますかげはなし
とあるのを見れば訣る事で、此歌は、山のどの方面にも蔓草があると言うて、みかげ 即お姿と言ふ語を起した恋歌なのである。
あめのみかげ ・ひのみかげ には、祝詞に現れたゞけでも四通りの意味があるが、最初の意味は、屋根の高い処から、垂れ下げた葛の事である。即、蔓草で作つたつな に過ぎない。
五節のひかげのかづら は、後に被りものになつてしまうた。出雲国造神賀詞にあめのみかび といふ語が出て来る。「美賀秘」と書いてあるが、みかげ の書き違へか、伝へ違へであらうと言ふから、やはり頭に被るものである。播磨風土記にも蔭山 里の条に、御蔭とあり、同じく被りものゝ意に用ゐてある。此等は、皆、被りものに近づいたもので、物忌みのしるし であり、神に仕へる清浄潔白な身であることを示すのである。所謂たぶう である。冠の巾子を止める髻華は、後に簪となるのであるが、此はもと、かづら から固定して、此様な別な意味を持つ様になつたのであらうと思ふ。
正月十四日の夜、宮中で行はれた男踏歌には、高巾子といふ白張りの高い巾子を著けて、踊つて出た。踊つて出るものは、綿で顔を蔽うて出た。勿論、絹綿であらう。眼だけ出して、高巾子の著いた白張りの冠を被つたので、支那の不良の徒の姿をまねたのだ、と言はれてゐるが、すべてさうした風を輸入する時には、何か其処に結合する点がなくては出来ないのだから、全然、此風を輸入だ、とは解せられない。踏歌は、もと歌垣のなごりで、年の始めのほかひ の意味のあつたものが支那化したのである。顔を隠すのは、常世神が村々を訪れた時と同じく、神だから隠してゐるのである。
また栄華物語若枝の巻、枇杷殿大饗応の条に「御霊会の細男手拭して、顔を隠したる心持ちする」とある。細男はさいのを で、朝廷では人がなり、八幡系統のものには人形であつた。御霊会には、真の人間が扮装して出たのであらう。顔を隠すのと、頭に被るのとは、かうした関係があるのだが、も少し辿つて行つて見よう。
三
はね蘰今する妹をうら若み、いざ、率川の音のさやけさ(万葉集巻七)
を始め、万葉集には其他に三首、はねかづら を詠みこんだ歌があるが、皆、性欲的な歌ばかりである。恐らく、女の元服の時に、はねかづら を為たものに相違ないが、どう言ふものであつたか訣らない。契沖は、花蘰として解してゐるが、はねかづら は其まゝで解したいものである。
沖縄では、加冠の時に、黒※ 空頂を予め拵へて置いて、被せる。黒※ はかづら の変形であらう。そして、男が元服の時、黒※ をつけたと同様に、女ははねかづら を著けたのではなからうか。
万葉の歌を見ると、処女に手のつけられない、男の悶えを詠んだ歌が沢山あるが、通経前の処女に手を著けるのは、非常に穢れだとしてゐたもので、先年、私が伊豆の下田で聞いた俗謡にも、未だに、其意味が謡うてあつた。ふれいざあ 教授は「ごうるでん・ばう」の中に、少女の月事を以て隠れてゐるのを、犯した男が罰せられるのは、少女の神聖を破る為だ、と説明してゐる。併し、此にも、も少し深い意味を考へなくてはならない様である。
元服以前の女に手を附けると、神罰に触れると言ふけれども、日本の神道では、月事があつたり、夫を有つたりすることは巫女たる資格には影響のないことで、神功皇后は二人の主を持たれたので、仲哀天皇は夙く崩御されたのだ、と言ふ程である。だから、神に仕へる女は、真の処女(一)と、過去に夫を有つたことはあるが、今は処女の生活を営む者、即寡婦(二)と、夫を持つてゐても、ある期間だけ処女の生活をするもの(三)とに、分けることが出来る。
尚考へなくてはならぬのは、処女にも二通りある事である。此は男の側から言うても同じで、少年がまづ最初に元服すると、村の小さな祭り、即、道祖神祭りなどに与る事が出来、二度目に元服して、若者となつて、初めて、村の祭りに係る事が、出来る様になるのと同じ様に、少女にも、男の通ひ得るをとめ と、真のをとめ と二通りあつたのだ。結婚の資格の出来るのは、初めの元服、即裳著の後であらう。そして、二度目に元服する時に、はねかづら をしたのではなからうか。
壱岐の島では、独身者が死ぬと、途々花を摘んで頭陀袋に入れてやる。此を花摘み袋と言ふ。死んで行つても、生前村の祭事に与る資格のなかつた者は、行くべき霊の集合地に行つても、幅が利かないので、花を摘んで持たせて遣つたのである。其は、元服の時には物忌みの標にかづら を被ることを意味する。今も、沖縄では其標に三味線かづら を著けるが、殊に、久高島では、のろ は籐の様なものを御嶽から取り出して、頭に纏ふのを見ても、元服の時に花を挿したことは疑はれない。即、元服したと言ふ標をして、冥土に送るのである。かづら は、ものいみ の標である。
古く領巾と言ふものがあつた。采女が著けたものだ。昔は、ずつと短かゝつたのであらう。其にしても、其用途は未だに、はつきりしてゐない。「領巾かくる伴のを」などでは、団体を示した様にも見える。女に限らず、隼人などもやつてゐた様である。まじなひ の為か、髪を包む為か、どちらかであらうが、私は、髪の毛を包む為に、まじなひ の力を持つてゐるのだ、と解したい。采女は、宮中の勝手向きの為事ばかりしてゐた、と考へるのは間違ひで、国造の女・郡領の女、即、国々の神主の女だつたのだから、皆巫女であつたのである。其が、宮廷に上られる事によつて、中央の神道が地方に普及せられたのである。天皇は神であると同時に、神主でもあるのだから、天子の配膳に仕へ、或は枕席に侍ることもあつた。随つて、天子以外の者が手を触れゝば、重い罰を受けたのである。
さうすると、采女の領巾は、髪を乱さないやうにする為に、用ゐてゐたことは明らかである。隼人も其と同じく、神事に関係してゐた為に、蛇ひれ ・蜈蚣ひれ と称する様に、まじなひ の効力を生じたのである。
四
かう考へて来ると、蔓草を以て頭を纏ふかづら 、布巾を以て頭を被ふ領巾と、二つの系統のある事が訣る。これの合一したのが、桂女の桂まき である。能や狂言の女形が、後で結んでゐる帯をかつらおび と言ふのも、能狂言はもと神事から出たのだから、かづら をしたのである。助六のはちまき も、初めは小さかつたもので、若衆には、是非とも必要なものだつたのである。此が変遷して、野郎帽子になつたのであらう。
一体演劇は、東・西其出発点を異にしてゐるので、其時分は、或処では紫帽子、或処では桂帯をしてゐたのだ。此処にも、帽子とはちまき と二通り並ぶ訣だ。女形は後結びのはちまき をしたが、此がはちまき の変形とは考へられない。二つが並び行はれてゐたかも知れないのである。神社芸術から出た能・狂言、その要素を含んで現れた歌舞妓は、女歌舞妓の時代から桂帯を著けてをり、若衆歌舞妓になつても、其風を追うてゐる。団十郎は若衆の家であり、助六も若衆である。二代目団十郎から出た曾我 五郎も若衆である。助六のはちまき も、実は、狂言の筋以外の、神社芸術をやつてゐた人の服装の約束なのであつた。
上達部の意味は、文字からでは訣らぬ。祭時に祓ひ浄める者をかむだち と言ふ処から見て、まうちぎみ と共に神事に関係するものであらう。沖縄の紫の帯を著けたまちぎ は、まうちぎみ と同じで、やはり神事に与る。
物部の意義も色々説かれてゐる。外から災を与へる霊魂をもの と言ひ、鬼は此である。平安朝時代には、鬼のことを「もの」と言うてゐる。自分の霊魂は「たま」である。随つて物部は、外から災する恐しい力を持つた霊魂を、追ひやる部曲と解するのが、本義であらう。
武士のするはちまき には種々あつて、即、後で立てるもの、前で立てるもの、狂言に出る町の女房などのするもの等、此等は皆、兜を被る時、下に著けるものと同じで、時には烏帽子を被ることもある。はちまき と烏帽子とは、実は同じもので、戦争に出る人の物忌みの標だつたのである。物忌みをして、敵の持つ力を拒ぐのである。今も片田舎に行くと、お客の前でわざ/\手拭ひを被ることをする地方がある。賓客を神として扱ふ遺風で、此例は沢山ある。
おび と、かづら と、手拭ひとは、結局一つである。現に、泉州から曾て私の家に来てゐた若者は、帯のことを帽子と言うてゐた。女は、臨時の物忌みの標に、三尺の布巾を腰に結び、頭に結んだので、帯であると倶に、手拭ひであつたのだ。手拭ひがはちまき になるのも、不思議はないのである。次に、帯は結んでゐるのが本体か、常はせないのが本体か、即、かづら の類か、領巾の類か、と言ふ事は考へなくてはならぬが、領巾は木綿から出発してゐて、此を纏きつけるところから、かづら と同じ効果を現すもの、と考へてよからうと思ふ。二つの系統の習慣が、一つの帯・手拭ひ・帽子と結びついて、近世の如くに、物忌みの標が更に訣らないところまで進んだのである。
青空文庫より引用