歌の話


 うたはなしについて 

 このたび高濱虚子たかはまきよしさん・柳田國男先生やなぎだくにをせんせい と御一ごいつしょに、この一部いちぶ書物しよもつつくることになりました。その高濱たかはまさんの御領分ごりようぶん俳句はいく同樣どうように、短歌たんかといふものは、ほんとうに、日本國民につぽんこくみん自身じしんしたもので、とりわけ、きはめてふる時代じだいに、出來上できあがつてゐたものであります。さうして、それが偶然ぐうぜんわたし先生せんせいでもあり、またあなたがたのこの文庫ぶんこにおけるおなじみでもある、柳田國男先生やなぎだくにをせんせい がおきのことわざちとも、原因げんいん竝行へいかうしてゐるのは、不思議ふしぎ御縁ごえんだとおもひます。

 一、短歌たんかおこり 

 短歌たんかは、唯今たゞいまでは一般いつぱんに、うた といつてゐます。けれども大昔おほむかしには、うた とづくべきものがおほかつたので、そのうち、一番いちばんあと出來できて、一番いちばん完全かんぜんになつたものが、うた といふもつぱらにしたのであります。
 かういふと、不思議ふしぎおもかたがあるかもれません。あなたがた御覽ごらん書物しよもつには、たいてい短歌たんかおこりを、神代かみよのすさのを のみことのおさくからとしてゐるでせう。もちろんこれは、ふるくからのいひつたへで、あなたがたが、古代こだいかんがへてゐられる奈良朝ならちようよりも、もつと/\以前いぜんから、さうしんじてゐたのです。だからそのてんにおいて、そのおうたが、第一番だいゝちばんのものでなくとも、なに失望しつぼうする必要ひつようはありません。
 短歌たんか出來できるまでには、いろんなかたちをとほつててゐます。第一だいゝちに、世間せけんひとは、みじか單純たんじゆんなものがはじめで、それがひろがつて、なが複雜ふくざつなものとなるといふかんがかたの、くせつてゐます。ところが、物質ぶつしつ進化しんか方面ほうめんと、精神上せいしんじようのことゝは反對はんたいで、複雜ふくざつなものをだんだん整頓せいとんして、簡單かんたんにして能力のうりよく出來できることが、文明ぶんめいすゝんでゆくありさまであります。短歌たんかなどもそれで、日本につぽんはじめのうたから、非常ひじよう整頓せいとんおこなはれ/\して、かういふ簡單かんたんで、おもひのふかかたちが、出來できたのであります。

 二、ことわざと、うたと 

 いまひとの、かんがへることの出來できないほどふるい、とほ祖先そせん時代じだいには、となごとといふものがありました。それが、もすこすゝむと、ものがたり といふものになつてました。さうして、このふたつながら、ならんでおこなはれてゐました。そのとなごとが、今日こんにちでも、社々《やしろ/\》の神主かんぬしさんたちのとなへる、祝詞のりとなのであります。このふたつの言葉ことばは、もと日本につぽん古代こだい神樣かみさまのおつしやつた言葉ことばとして、しんじられてゐたのですが、そのうち、だん/\その言葉ことばのうちにもつと、しつめたみじか部分ぶぶんを、神樣かみさま言葉ことばかんがへ、そのほか言葉ことばを、かるかんがへてかたむきが出來できました。だからとなごとのうちにも、かみのお言葉ことばがあり、ものがたり のうちにも、かみのお言葉ことばはさまれてゐるもの、とかんがしたのであります。このとなごとのうちのある部分ぶぶんが、ことわざとなり、ものがたり の肝腎かんじん部分ぶぶんが、うたとなつたのであります。神樣かみさままをげるかたは、たふとくもありまた、おそろしくもあるかたで、われ/\の祖先そせんにおつしやつた言葉ことばは、祖先そせんひとたちがおそつゝしんでうけたまはり、實行じつこうしなければならない命令めいれいでありました。ですから、となごと全體ぜんたいが、もと命令めいれい意味いみつてゐました。そのなが命令めいれい言葉ことばのうちに、それをしつめたものが出來できたことは、すでまをしました。これが、たいていふるくは、大體だいたいふたつのに、まとまるものだつたようです。ところが、そのとなごとからかはつた、ものがたり のうちのうた も、そのくつをいへば、意味いみがはつきりしてるとおもひます。つまり、神樣かみさまおほせにたいする、おこたへであります。いひへてると自分じぶんこゝろがわかつていたゞくように、説明せつめいをし、おねがひをし、おびをするもので、根本こんぽん精神せいしんにおいては、このとほり、わたしどもは服從ふくじゆうまをしてをります、といふちかひの意味いみになります。
 ですからことわざは、命令めいれい意義いぎから、だん/\變化へんかして、社會的しやかいてき訓戒くんかいあるひは、人間にんげんとしてのこゝろがけをくといふ方面ほうめんに、意味いみ變化へんかしてました。それとともに、時代じだいうつると、言葉ことば意味いみや、むかしにいひならはしたわけが、わからなくなるために、後世こうせいでは、なんのくつもわからない『いひならはし』となつてしまつたのであります。このことはながまをさずとも、柳田先生やなぎだせんせい のおはなしでゝも、おわかりになることゝおもひますから、わたし分擔ぶんたんに、關係かんけいふかいところばかりでやめておきます。
 さてうたは、どこまでも、自分じぶんこゝろくはしく、相手あひてこゝろくようにいひすものであります。そして、ひく神樣かみさまあるひ位置いちたか人間にんげんから、神樣かみさままをげる言葉ことばが、次第しだいに、人間にんげんどうしのいひかけいひあはせる、かけあひ の言葉ことばに、利用りようせられてました。さうして、神樣かみさま言葉ことばすらも、やはり、うたあらはされることになりました。それは大方おほかたみつつのかたちになつたものらしくかんがへられます。

 三、うたのいろ/\ 

 このみつつのかたちうたを、のちには、片歌かたうたといつてゐます。これは、うた半分はんぶんといふことでなく、完全かんぜんでないうたといふことであります。なかには片歌かたうたを、短歌たんか半分はんぶんといふようにおもつてゐるひともあるが、これが完全かんぜんになると、旋頭歌せどうか (せんとうか とはみません。習慣しゆうかんで、せどうか といふのです) といふかたち出來できます。
 片歌かたうたは、三句さんくから出來できてゐて、一番いちばんめの五音ごおん二番にばんめの七音しちおん第三だいさんがまた七音しちおん、といふふうになつてゐるのが普通ふつうで、その音數おんすうには、多少たしよう變化へんかがあります。これは、うたのばしたり、ちゞめたりしたからでせう。
 神武天皇じんむてんのうが、大和やまとくにのたかさじ といふところで、のち皇后樣こう/″\さまになられた、いすけより ひめといふおかたに、はじめておひなされたとき、おとものおほくめ のみことが、天皇樣てんのうさま代理だいりで、おひめさまのところへあゆつて、ものをいひにくと、いすけより ひめは、おほくめ のみことのさいてあるのにがつかれて、うたをうたひかけられました。をさくとは、めじりを、とげのようなものでいて、すみれて、いれずみをすることをいふ、ふる言葉ことばであります。その文句もんくは、むかし大學者だいがくしやたちも、わからないとまをしてゐる、むつかしいもので、これからさき、あなたがたのうちから、説明せつめいしてくださるひとが、るかもれません。
 
あめつゝちとりましとゝ 何故など ける 利目とめ
 
まへは、なぜそんなにいれずみがしてあるのか、といふ以上いじように、たしかな説明せつめい出來できひとがないのです。
 
 これにたいして、おほくめ のみことこたへました。
 
をとめに たゞにあはむと わがける 利目とめ
 
あなたのようなうつくしい、わかいおひめさまにふために、わたしいれずみをしておいた、このめじりいれずみです。
 
 なんのために、いれずみすることが、さうした目的もくてきかなふのかわからないが、うた意味いみはともかく、さうにちがひありません。御覽ごらんのとほり、はじめのが、四音しおんになつてゐるが、ともかく、5・7・5といふみつつのかたちを、基礎きそとしてゐます。これが、われ/\でれるかぎりの、うたふるかたちで、このように五音ごおんでなく、四音しおんであるのと反對はんたいに、五音ごおん七音しちおんであるところを、音數おんすうおほくしたものもあります。げんに、このうた同樣どうように、おほくめ のみこと神武天皇じんむてんのうとのかけあひにうたはれたといふうたが、それであります。
 
やまとの たかさじを、なゝく をとめども。たれをしまかむ (おほくめ のみこと) 
     ×
かつ/″\も、いやさきてる をしまかむ (神武天皇じんむてんのう) 
 
この大和やまとのたかさじを、七人しちにんとほるをとめたち。そのうちのたれを、おきさきになさいますか。
ちっとばかりさきになつてゐる、あの年長者ねんちようしやを、きさきにしよう。
 
 このふたつのうたについてると、片方かたほうは、4・6・4・5・7といふへんなかたちになつてゐるが、大體だいたい短歌たんかの5・7・5・7・7といふのと、かずてゐます。それでは、これが短歌たんかかといふと、第一だいゝち片歌かたうた約束やくそくそむきます。片歌かたうたは、片歌かたうたどうしあはせるもので、けっして、短歌たんか一組ひとくみにはなりません。さうすると、おほくめ のみことうたも、片歌かたうた音數おんすうして、はやうたはれたものとおもふほかはありません。最初さいしよ一句いつくは、『やまとのたかさじ 』の十音じゆうおんから出來できてゐます。二番にばんめのは、『なゝくをとめども』の九音くおんが、七音しちおんながさでうたはれた、といふことがかんがへられます。さうしてると、このとき二對につい片歌かたうたの、かけあひがあつたのです。けれども、うっかりると、そのうちに、短歌たんかふるかたちのようなものが、まじつてゐるようにもえます。もちろん、かういふ音數おんすうおほ片歌かたうたも、三句さんくから出來できてゐるのだといふことをわすれて、五句ごくになつたところからも、短歌たんかは、出來できるのであります。だから、このなが片歌かたうたは、短歌たんか歴史れきしうへから、おろそかに出來できない材料ざいりようであります。

 四、やまとたける のみことのこと。ならびに旋頭歌せどうか 

 おなじような片歌かたうたはなしが、やまとたける のみことにもあります。このみこと東國とうごく平定へいていとき甲斐かひくに酒折さかをりみや宿やどられて、もやしてゐたおきなに、いひかけられました。
 
にひばり つくばをぎて、いくか つる
 
あの新治にひばり近邊きんぺん筑波つくばをとほりぎて、今夜こんや幾晩いくばんたとおもふ、といはれたのです。
 
かゝなへて、には こゝのには とをかを
 
指折ゆびをかゞめて勘定かんじようして、今晩こんばんは、よるまをせば、九晩こゝのばんひるまをせば、十日とをか經過けいかいたしましたことよ。かういふおこたへをしたのです。
 
 これは、まへ神武天皇樣方じんむてんのうさまがた御歌おうたよりも、もっと名高なだかく、つたはつてゐます。それは、このふたつの片歌かたうた連歌れんが (れんが) といふものゝはじめだ、としんじてゐるからであります。ところが、さういふふうにかんがへるのなら、もっと時代じだいふるい、神武天皇頃じんむてんのうころ片歌問答かたうたもんどうほうが、連歌れんがはじまりだ、といつてよいわけではありませんか。まづ、日本につぽんうたにおいては、ながかたちのものがたり から、次第しだい變化へんかして、長歌ながうた (ながうた) といふものが出來でき一方いつぽうに、そのうちえきす とも、えっせんす ともいつてよい片歌かたうたが、ふたあはさつて、旋頭歌せどうかといふものに發達はつたつしてくと同時どうじに、片歌かたうた自身じしんが、短歌たんかつくげるように、次第しだいに、おんかずし、内容ないよう複雜ふくざつになつてゐました。わたしはなしは、短歌たんかのみならず、日本につぽんうた大凡おほよそわたつて、知識ちしきをおけしたいとおもふのですから、こんなことから、はじめたわけです。それで一口ひとくちだけ、旋頭歌せどうかについてまをしませう。このうたかたちは、つまり、まへ問答もんどううたひとつとすれば、それなのです。萬葉集まんにようしゆうかられいをひいてると、
 
新室にひむろしづが 手玉ただまらすも。
たまごと りたるきみを、うちにと まをせ
 
新築しんちくいへんで、屋敷やしきのわるいたましひしづをんなが、きつけたたまを、いまらしてゐることよ。そのたまのように、かゞやいていらつしやるうつくしいお客樣きやくさまを、どうぞうちらへ、と御案内ごあんないまをげてくれ。
 
 このとほり、三番さんばんめので、かっきりとれて、四番よばんめのから、あたらしく、おなかたちをくりかへしてゐます。それで、はじめかへうたといふ意味いみで、旋頭歌せどうかづけられたのでありました。なかには旋頭歌せどうかが、まだ片歌かたうた一組ひとくみであつたとき姿すがたを、のこしてゐるものすらあります。やはり萬葉集まんにようしゆうの、
 
水門みなとあし末葉うれはを たれか たりし。
わがせこむと われぞ たをりし
 
川口かはぐちの、あしのたくさんえてゐる、そのあしさきが、みんなとれてゐる。これは、たれつたのかとまをしますと、それは、わたしです。わたしをつとなるあなたの、わたしつけてあひずにつていらつしやるおそでを、よくようとかんがへて、わたしつたのです。
 
 これなどは、一首いつしゆのうちに、自問自答じもんじとうのように、うたつてあります。

  五、すさのを のみこと短歌たんか 

 
やくもたつ いづもやへがき。つまごめに 八重垣やへがきつくる。その八重垣やへがき
 
 この名高なだか い、すさのを のみことのおうたは、じつは、よく意味いみがわからないのです。でも普通ふつうはかう説明せつめいしてゐます。
 
いくすぢものくもが、どん/\とのぼつてゐる。そのあらはれてゐるくもめぐつてつくつた、幾重いくへかきのようなくもわたしつまなかれるために、幾重いくへものかきつくつてゐる、その幾重いくへものかきよ。これがわれ/\の結婚けつこんいは自然しぜんのしるしである。
 
 こまかいところになると、むかしから多少たしよう、別々《べつ/\》の意見いけんはあつても、大體だいたいかういふふうに、意見いけん一致いつちしてゐます。ところが、わたしにいはせると、意味いみだいぶんちがつてます。
 
出雲人いづもびとつくつた、幾重いくへにもまはす、屏風びようぶとばりるいよ。われ/\、あたらしく結婚けつこんしたものをつゝむために、幾重いくへかこひをつくつてあることよ。あゝ、その幾重いくへ屏風びようぶとばりよ。
 
 このやくもたつ といふ言葉ことばが、うたうへでいふ枕詞まくらことばなのです。すなはちこの場合ばあひは、いづも といふ言葉ことばおこすための、ゑことばなのです。枕詞まくらことばは、もと意味いみのわかるのもあり、わからないのもありますが、わかるのは、大體だいたいに、あたらしいものゝようです。このやくもたつ なども、ふる書物しよもつ説明せつめいにさへ、いくすぢものくもかこんだところから、いはれたものとしてゐます。けれども、それはいけないので、ほかに、いづも といふ言葉ことばと、特別とくべつ關係かんけいがあつたにちがひありません。
 これは結婚けつこん先立さきだつて、あたらしいいへてる、その新築しんちくむろ言葉ことばで、同時どうじに、新婚者しんこんしや幸福こうふくいの意味いみ言葉ことばなのです。それはともかくとして、このうたは、あなたがたがおみになつても、大體だいたいわかるほど、意味いみがよくつうじます。ところが、このおうたよりも、はるかにあたらしい時代じだいのたくさんなうたが、けっしてあなたがたばかりでなく、大人おとなの、しかも專門せんもん學者がくしやたちにさへも、わからないものがおほいのです。ちょっとかんがへても、時代じだいあたらしくなるほど、うたがわからなくなるといふような、不自然ふしぜん事實じじつを、あなたがたはまともに、うけれますか。だからこのうたは、はるかに後世こうせい短歌たんかさかんになつてのちおこなはれして、そのつくつたひともわからなくなり、また、非常ひじように重々《おも/\》しいちからのあるものとしんじられた時代じだいに、こんなうただから神代かみよ神樣かみさまで、ことに出雲いづも關係かんけいふかい、名高なだかかたのおさくだ、としんじられたものにちがひはなからう、とかんがへてゐます。
 大昔おほむかしうたには、このうたかぎらず、歴史れきしではつたへてゐても、つくつたひとべつであり、時代じだいちがつてゐるとねばならないものが、だん/\あるのです。
 わたしはこのおうたが、神武天皇じんむてんのうのおうただといふ片歌かたうたよりも、ふるいものだとは、あるひはもったいないかもれないが、しんじるわけにはまゐりません。短歌たんかかたちといふものは、もっともっと、おくれて出來できたもので、すさのを のみことはもちろん、神武天皇じんむてんのうも、やまとたける のみことも、御存ごぞんじにならなかつたにちがひない、とかんがへてゐるのです。

 六、景色けしきんだうた 

 
狹葦川さゐかはよ 雲立くもたちわたり、うねびやま さやぎぬ。かぜかむとす
 
さゐかはから、くもがずっとつゞいて、この畝傍山うねびやま、そのやまが、さわいでゐる。いまかぜかうとしてゐるのだ。
 
畝傍山うねびやま ひるくも、ゆふされば、かぜかむとぞ さやげる
 
畝傍山うねびやま。それには、やまが、ひるは、くもがかゝつてゐるように、ぢっとしづまつてゐて、日暮ひぐれがると、かぜすといふので、そのさわいでゐる。
 
 この二首にしゆうたは、うたがひもなく、景色けしきんだうたであります。畝傍山うねびやま附近ふきんの、ちひさな範圍はんい自然しぜんうたつた、いはゆる敍景詩じよけいしといふものであります。ところが、このうたんだゞけで、べつ氣持きもちがうかびませんか。それはなんだか、このうたのうちに、ちがつた氣持きもちがかくされてゐる、といふ氣分きぶんおこることであります。うた表面ひようめん一種いつしゆたとへで、なにべつのことがいつてあるのだらうといふ心持こゝろもちが、おこりませんか。きっとおこるとおもひます。それでむかしひとも、このたゞ敍景じよけいうたぎない、二種にしゆうたたいし、かういふつたへをかたつてゐました。
 神武天皇じんむてんのうがおかくれになつてのちさきまをしたいすけより ひめが、自分じぶんのおみになつた三人さんにん皇子みこたちを、ころさうとするものゝあることを、むきだしにいふことは出來できないから、かういふふうにほのめかしてさとされたのだ、と古事記こじきといふ書物しよもつにさへつたへてゐます。日本につぽん古代こだいの人々《ひと/″\》は、かういふふうに、一首いつしゆうたについても、なにかみこゝろあるひは、さとしがふくまれてゐるのだ、といふかんがくせつてゐました。その習慣しゆうかんが、ひさしくつゞいてて、ごく近代きんだいおよんでゐます。だから偶然ぐうぜんおこつてた、ひとつゞきのうた文句もんくにも、たゞうた表面ひようめん意味いみ以外いがいに、なにかはつた内容ないようがありそうなかんじをつたのであります。
 このうたべつですが、おほくさうしたふうにどこからともなく、かぜおこるようにはやつてうたを、不思議ふしぎ氣持きもちで、びく/\しながら、みゝてゝいてゐました。さうしてさういふ種類しゆるいうたを、一般いつぱんに、わざうた とまをしました。では、童謠どうようとあてをします。が、ほんとうの意味いみは、かみ意志いしあらはれたうた、といふことらしいのです。たゞおほどもたちが、さういふうたを、無心むしんうたひろげてくところから、あてをしたのでありませう。この二首にしゆうたも、おそらく、いすけより ひめのおうたでも、おさくでもなく、またさうした惡人あくにんが、騷動そうどうおこさうとしてゐる、注意ちゆういをなさい、といつた意味いみのものでもありますまい。それにしても、こんなにふる時代じだいに、このような敍景じよけいうたが、うたはれるわけはないのです。その證據しようこは、これから以後いご、ずっとはるかなのちまで、ほんとうに景色けしきんだうたといふものが、ないのであります。いくらか、さうしたものゝえるのは、或時あるとき仁徳天皇にんとくてんのうが、吉備きびのくろ ひめといふひと訪問ほうもんせられたところが、青菜あをなんでゐたのをつくられたといふおうたであります。
 
山縣やまがたける青菜あをなも、吉備きびびとゝ ともにしめば、たぬしくもあるか
 
天子てんし御料ごりようの、はたけのある山里やまざといた青菜あをなも、そこの吉備きび國人くにびとと、二人ふたりんでゐると、がはれ/″\とすることよ、といふ意味いみのことをいはれたのです。
 
 これなどは、まづ自然しぜんのものにたいして、緻密ちみつ觀察かんさつをしたものゝ、書物しよもつたはじめといつてよからうとおもひます。やまがた といひして、土地とち樣子ようすからその性質せいしつべて、そこに青々《あを/\》とした野菜やさいいろを、印象深いんしようぶかくつかんで、しめしてゐます。それ以前いぜんうたは、みな表面ひようめん景色けしきんだようにえても、ほんとうにあぢはつてると、たゞのうはっつらだけのところで、實際じつさい景色けしき見据みすゑたものだ、といふことが出來できません。
 かういふふうに、ごくわづかづゝ、自然しぜんたいする見方みかたすわつてました。そして、ほんとうの敍景詩じよけいしといふものが出來上できあがるのは、奈良朝ならちようちかくなつてからのことであります。あるひは、もっと精確せいかくにいふと、奈良朝ならちようになつてからといはなければならないかもれません。それにもかゝはらず、神武天皇じんむてんのう時分じぶんに、ちゃんとあゝいふ調とゝのつた、景色けしきうたがあるといふことは、どうしても、不自然ふしぜんなようにかんがへられます。だからこの二首にしゆのおうたも、じつ後世こうせいのもので、なんだか、へんな暗示あんじかんじさせるところからして、しぜん、畝傍山うねびやま・さゐかは――さゐかはは、いすけより ひめのお屋敷やしきのあつたところ――などいふ地名ちめいから、歴史上れきしじよう事實じじつむすびつけて、かんがへられたものだとおもひます。

 七、旅行りよこううた 

 それではどうして、景色けしきうたうまれてたかといふと、それはわれ/\の祖先そせんが、よく旅行りよこうをしたからです。あるひは、旅行りよこうをしたときおな心持こゝろもちで、うたつく場合ばあひがあつたからです。旅行りよこうをしたさきで、いつもあたらしく小屋こやがけをして、それに宿やどりました。さうしてかならず、その小屋こやをほめたゝへるうたんで、宴會えんかいひらきました。これを、新室にひむろうたげといひます。その習慣しゆうかんは、旅行りよこうをしないでも、一年いちねんのうちに、かならず一回以上いつかいゝじようは、自然しぜんむらにゐておこなうたものでした。毎年まいねんれがすむと、やはりいへつくりかへ、あるひ屋根やねへたりして、おなじく、新室にひむろのうたげをおこなひました。かういふ場合ばあひにはかならず、もの内外ないがいにあるものを、れるにしたがつてして、それが最後さいごに、ひとつのよろこびの氣持きもちにまとまる、といふふうなつくかたになつてゐました。
 たとへば、萬葉集まんようしゆうにある皇極天皇こうぎよくてんのうのおうたとして、つたはつてゐるものがそれです。
 
夫子せこ假廬かりほつくらす。かやなくば、小松こまつしたのかやをらさね
 
わたし大事だいじかたは、小屋こやつくつていらつしやる。がどうも、くさがないので、こまつてゐられるようだ。そんなにかやがないならば、むかうにえる、あの小松こまつしげつてゐる、そのしたのかやをば、おりなさいな。
 
 これなどはいかにも、旅行中りよこうちゆう新室にひむろえんらしく、あかるくてゆったりとした、よいおうたであります。現在げんざいかやが、むかうにえてゐる、とをしへてゐられるのではありません。すくなくとも、さうしてちついて宴會えんかいひら數時間すうじかんぜんまでは、みんな苦勞くろうして、かやをあつめてゐたのです。その勞力ろうりよくおもしてのおうたなのですが、その席上せきじようにゐるひとは、みなこの經驗けいけんをついいまさきにしたのですから、このおうたを、きっと、自分自身じぶんじしん氣持きもちをんでもらつたように、愉快ゆかいがしたにちがひありません。いへのうちにゐて、その内外ないがい樣子ようすむといふところから、景色けしきうたうまれてるのであります。それが次第しだいすゝんで、旅行中りよこうちゆううたにはほんとうに自然しぜんみこなした立派りつぱなものが、萬葉集まんようしゆうになると、だん/\てゐます。
 
いそのさきけば、あふみのうみ 八十やそのみなとにたづさはに
 
いははなをば、まはつてくごとに、そこにひとつづゝひらけてる、近江あふみ湖水こすいのうちのたくさんの川口かはぐち。そこにつるおほてゝゐる。
 
 八十やそみなとといふのは、ひょっとすると、土地とち名前なまへで、いま野洲川やすかは川口かはぐちをいつたのかもれません。さうすると、うた意味いみが、しぜんかはつてます。がどちらにしても、いかにもつるいてゐることが、き/\とうつされてゐます。これがまだ、奈良朝ならちようになつたかならないまへうたなのです。高市黒人たけちのくろひとといふひとつくつたものであります。このひとは、日本につぽん敍景じよけいうたの、まづはじめての名人めいじんといつてもさしつかへのないひとで、こののち次第しだいに、かうした方面ほうめんにすぐれたひとます。山部赤人やまべのあかひとなども、この黒人くろひとに、せてつくつたとおもはれるものがあります。たとへば、
 
和歌わかうらしほみちれば、かたをなみ、あしべをさしてたづきわたる
 
和歌わかうらしほがさしてると、遠淺とほあさうみ干潟ひがたがなくなるために、ずっと海岸かいがんちかくにあしえてゐるところをめがけて、つるいてわたつてる。
 
 これは、赤人あかひと名高なだか和歌わかうらですが、黒人くろひとに、すでにそのお手本てほんがあります。
 
さくらたづわたるあゆちがた潮干しほひにけらし。たづわた
 
さくら といふところに、つくつてあるところへ、つるいてわたつてく。その手前てまへにあるあゆちがた。そこはしほ退いてゐるにちがひない。それであゝいふふうに、つるわたつてくのだ。
 
 どちらも今日こんにちからると、すこしおもしろみがぎました。趣向しゆこうこらしてゐるところが露骨ろこつえるが、赤人あかひとほうは、よくかへしてると、いかにもごた/\してゐるでせう。ことに、二番にばんめの三番さんばんめのに、注意ちゆういなさい。おなじく趣向しゆこうこらしたところはあつても、さくらへのほうは、いかにもすっきりと、あたまひゞくように出來できてゐます。これはやはり、おやと、師匠ししよう弟子でしと、先輩せんぱい後輩こうはいといふほどのちがひがあらはれてゐるのであります。でも、この赤人あかひとといふひとは、かういふ傾向けいこう景色けしきうたひてをくして、だん/\自分じぶんすゝむべき領分りようぶん見出みいだしてきました。そしてつひには、日本につぽんうたが、赤人あかひとふうのものになる時機じきを、とゞけたのでありました。そのことをおはなしするのには、いま一人ひとり赤人あかひと先輩せんぱいとも、先生せんせいともいはなければならない、柿本人麿かきのもとのひとまろのことをまをさねばなりません。

 八、日本につぽん短歌たんか第一人者だいいちにんしや柿本人麿かきのもとのひとまろ 

 今度こんどのおはなしでは、短歌たんかならしようせられてゐる長歌ちようかのことは、はぶきたいとおもひます。がこれは、大體だいたい第一章だいいつしようのところでべてある物語ものがたりうたから、變化へんかしてたものとてさしつかへありません。
 柿本人麿かきのもとのひとまろは、平安朝へいあんちようすゑになると、神樣かみさまとしてまつられるほど尊敬そんけいをうけるようになりました。それは、短歌たんかうへ成績せいせきによつてゞありますが、人麿ひとまろきてゐた時分じぶんあるひはそのひさしく人麿ひとまろ評判ひようばん のたかかつたのは、この長歌ちようかつくちから非常ひじようにあつたてんでありました。だがそれとともに、人麿ひとまろ短歌たんかにすぐれてゐたといふことも、たれうたがふものもなく、さらわたしなどからいふと、長歌ちようかよりはむしろ、短歌たんかほうで、立派りつぱなものをたくさんのこしてゐます。がこのひと功勞こうろうは、それにはかぎりません。じつのところは、人麿ひとまろて、短歌たんかといふものが、非常ひじようさかんになつたのであります。人麿ひとまろうたると、なるほど天才てんさいといふものはえらいものだといふ心持こゝろもちが、つく/″\します。あなたがたにも、たゞむかしからのいひつたへだからといふ以上いじように、ほんとうに、人麿ひとまろのねうちをつてほしいとおもふのです。
 じつのところ人麿ひとまろるまでは、短歌たんかは、まだうみのものともやまのものともきまらないありさまでありました。このひと短歌たんかといふかたちを、はじめて獨立どくりつさしたものとて、まづさしつかへはないとかんがへます。あんまりえらいひとだつたので、人麿ひとまろぬとまもなく、いゝうたであれば人麿ひとまろうただ、とかんがへるようにさへなつて、今日こんにちのこつてゐる萬葉集まんにようしゆう人麿ひとまろうたといはれてゐるものにも、どこまで、ほんとうに當人とうにん作物さくぶつか、判斷はんだんのつかぬところがあります。それとともに、人麿ひとまろうただとつたへられてゐないもので、ひとのためにかはつてつくつた、このひとうた非常ひじようにたくさんあるようにおもひます。こゝには大體だいたい、まづ人麿ひとまろちがひないとしんじられてゐるうたについて、すこまをしませう。
 
あらたへの ふぢえがうらすゝき海人あまとからむ。たびくわれを
あまさかる ひな長道ながぢゆ れば、明石あかしより、大和やまとしま
 
ほかにも、とほつてゐるふねがある。自分じぶんふねつて、たびをしてゐる。あゝして、むかうとほつてゐるふねかられば、われ/\をばこの藤江ふぢえうらで、すゝきりをしてゐる海人あま村人むらびとてゐるだらうよ。この旅行りよこうをしてゐるわたしであるのに。
 
 こゝのあらたへの といふのは、やはり枕詞まくらことばです。たへ は着物きものといふことで、手觸てざはりのあらいものが、あらたへ なのです。さうした着物きものは、やまふぢ纎維せんいつたものがおほかつたので、藤江ふぢえのふぢ をおこすために、あらたへの といふ言葉ことばを、ゑたのであります。ぎのうた
 
われ/\は、とほみやこはなれた地方ちほうなが距離きよりをば、こがれてやつてた。そして、いまこのときがつくと、この明石あかし海峽かいきようからうちらに、畿内きないの山々《やま/\》がえてゐる。
 
 あまさかる は、やはり枕詞まくらことばで、ひな のひ といふおこしてゐます。意味いみは、てんとほくかゝつてゐるといふことなんです。それから、ひな といふ言葉ことばには、意味いみうへでは無關係むかんけいで、たゞおんうへに、つゞけてたのであります。
 やまとしま といふのは、天皇てんのう御領地ごりようちあるひは、自分じぶんしたしいくにのことを、しま といつた時代じだいに、やまとのくにあるひは、畿内きないくにをさして、やまとしま といつたのです。けっして、海中かいちゆうしまをさしたのではありません。
 かういつてると、うた非常ひじように、おもしろくなくきこえるかもれませんが、一度いちどこの意味いみあたまれて、そののち度々《たび/\》、かへしてください。さうすると、自然しぜんにわかつてるでせう。たとへば、こんなうたになると、さうしなければ、けっしてあぢはひをることが出來できません。
 
印南野いなびぬも ぎがてにおもへれば、こゝろこほしき加古かこしま
 
 なんだかはじめてのかたには、外國語がいこくごでもいてゐるかんじがするかもれません。印南野いなびぬといふのは、播州ばんしゆう海岸かいがんひろわたつた地名ちめいで、加古川かこがは中心ちゆうしんとして、印南郡いなぐん加古郡かこぐんひろがつてゐます。そして、歴史上れきしじよう名高なだかいところとなつてゐます。このうたでは、人麿ひとまろみやこから西にしくだつたのか、それともとほくにからみやこもどつてたのか、その事情じじようがわかりませんが、このうたかんがへるうへには、べつにさしつかへはありません。わたしはまづ、とほくにときのものとしてておきませう。
 
だん/\とほりぎてく。どこもみななごりしいが、いまとほつてゐる播州ばんしゆう海岸かいがん印南野いなびぬも、とほりすぎきれないほどになつかしくおもつてゐると、ちょうどむかうのほうに、なんだか、ちかよつてきたいこゝろおこさせる、加古川かこかはくちの、加古かこしまえてゐるといふ意味いみです。
 

 九、人麿ひとまろうたつたへにいろ/\あること 

 このひとうた名高なだかかつたので、うたによつて、いろ/\に文句もんくかはつてつたはつてゐます。このうたにも、五番ごばんめのが、『かこのみなとゆ』といふふうにいたほんもありました。そしてそのほうが、うたとしてははるかにすぐれてゐるとかんがへます。
 
おきとほつてゐて、印南野いなびぬ草原くさはらを、はるかにてゐる。そのうちに、とほ加古川かこかは川口かはぐちえてた。あの川口かはぐちは、つてゐるんだ。なつかしい舟泊ふなどまりのあるところだ。
 
 心細こゝろぼそ氣持きもちでながめてゐるのです。さぁこれで、も一度いちどかへしてください。
 こんなうたをあげてると、人麿ひとまろといふひとは、かなしいうたばかりんでゐたひとのようですが、なか/\どうして、どっしりとしたつようたを、たくさんのこしてゐます。むしろこのほう得意とくいであつたのかもれません。
 
おほきみはかみにしませば、あまぐもの いかづちうへにいほりせるかも
 
 このうたは、持統天皇じとうてんのうのおともをして、いかづちをか――また、神岳かみをかともいふ――へ行幸ぎようこうなされたときに、人麿ひとまろたてまつつたものなのです。
 
天皇てんのうは、神樣かみさまでいらつしやる。それでこの普通ふつうならば、そらくもなかつてゐるかみなり、そのかみなりであるところのやまうへに、小屋こやがけをして、おとまりになつてゐることよ。えらい御威勢ごいせいだ。
 
 かういふふうに、天皇てんのう讃美さんびしてゐます。このひとうたは、自然物しぜんぶつうつ場合ばあひにも、自分じぶん感情かんじようべる敍情詩じよじようしといふものゝ場合ばあひにも、じつ見事みごと出來できてゐるので、どちらがよいといひることは出來できませんが、世間せけんでは、人麿ひとまろ感情かんじようをうたふのにたつしてゐたひとだ、といふことにしてゐます。わたしはさうもおもはないが、さきまをした黒人くろひとくらべてはなすのに便利べんりなため、まづ普通ふつうかんがへを採用さいようしておきませう。

 一〇、山部赤人やまべのあかひと 

 この二人ふたり先輩せんぱいうた手本てほんにして、だん/\自分じぶん本領ほんりようしてたのが、さきべた山部赤人やまべのあかひとなのです。このひとうたでは、特別とくべつ名高なだかいものとして、
 
吉野よしの象山きさやまぬれには、こゝだも さわぐとりのこゑかも
ぬばたまの のふけけば、楸生ひさぎおふるきよ川原かははらに、千鳥ちどり頻鳴しばな
 
 これなどは、ひとみとめまた實際じつさいにねうち もあるものです。
 一體いつたい文學ぶんがくなどいふものは、一人ひとりがよいといひだすと、いつまでもその批評ひひようつゞくものでたれかれも、まへひと言葉ことばからはなれてかんがへることの出來できないものであつて、存外ぞんがいつまらないものでも、むかしひとめたのだからといふので、安心あんしんしてよいものだとおもつてゐることがたび/\あります。赤人あかひとれいつてると、さきの、
 
和歌わかうらしほみちれば、かたをなみ、あしべをさしてたづきわたる
 
 のようなもので、これがよいとおもふようでは、あなたがた文學ぶんがくあぢはちからりないのだと反省はんせいしてもらはねばなりません。他人たにんがよいからよいとおもふのは、正直しようじきでよいことですが、さういふのを支那しなひとはうまくいひました。それは、耳食じしよくといふ言葉ことばで、ひとがおいしいといふのをくとおいしいとおもふのは、くちべるのではなくて、みゝべるのだ。見識けんしきがないといふ意味いみ使つかつてゐます。書物しよもつはたくさんまなくても、耳食じしよくひとにならない用心ようじん必要ひつようです。うた解釋かいしやくしてると、
 
吉野川よしのがはそばにある象山きさやまやまのま、すなはちそらせつしてゐるところのこずゑ見上みあげると、そこには、ひどくたくさんあつまつていてゐるとりこゑ、それがきこえる。
 
 これなどは、たかやまうへつめてうたつてゐるので、くちから出放題でほうだいつくつたものでは、けっして、かうはうまくゆきません。つぎのは、
 
ぬばたまの は、くろいものゝ枕詞まくらことば。それで、よるにも關係かんけいがあります。
 よるがだん/\けてると、ひるておいたあのきさゝげののたくさんえてゐる、そして、景色けしきのさっぱりしてゐたあの川原かはらに、いまこの深夜しんやに、千鳥ちどりがしっきりなくいてゐる。
 
 これもよるしづかにむろのうちにこもつて、みゝすまし、には、そのとりいてゐる場所ばしよ光景こうけいを、あきらかにうかべてゐるのであります。こんなうたになると、赤人あかひとは、人麿ひとまろにも黒人くろひとにもけることはありません。ところが、だん/\變化へんかしてつたとえて、世間せけんからさわがれてゐるかういふうたつくつてゐます。
 
はるに すみれみにとわれぞ、をなつかしみ、一夜ひとよにける
あすよりは 春菜はるなまむとめしに、きのふも 今日けふも ゆきりつゝ
 
 かういふうたが、さきにいつたとほり、後世こうせいてはやされて、これをまなひとおほかつたのであります。あとうたからいひませう。
 
二三日にさんにちまへに、わたしはかういふ計畫けいかくをした。あしたからは、こゝではる若菜わかなまうと繩張なはばりをしておいたこのに、いよ/\まうとおもつて、あさると、ゆきつてゐる。きのふも、り/\してゐた。今日けふも、り/\してゐる。
 
 ちょっとおもしろいとおもふでせう。そのおもしろいとおもこゝろが、文學ぶんがくから縁遠えんどほいものなのです。このうた興味きようみは、ごくきはどい工夫くふうにあるので、若菜わかなまうとしてゐたこゝろに、自然しぜんかなつてくれないといふことを、自分勝手じぶんかつてに、つごうよくつくなほしたものであります。あるひはさういふふうな趣向しゆこうつくれば、ひとがおもしるがるとかんがへてつくつてゐるあとが、ありありとえてゐます。でもこのうたなどは、まだよろしい。はじめのうたなどになると、とてもいけません。
 
ゆふべ、じつはこのはるへ、れんげそうみにとおもつてた、その自分じぶんが、あんまりのなつかしさに、いへへもかへらないで、つひ/\、そこで一晩ひとばんくらしたといふ意味いみです。
 
 このころのすみれ は、いまのれんげそう、もっと普通ふつうに、げんげ といつてゐるはなで、あのむらさきのすみれではありません。

 一一、文學ぶんがくのねらひどころ 

 そんなことはさておいて、このうたかんがへてゐるところは、ほんとうのことではありません。あなたがたのうちには、すでに風流ふうりゆうといふ言葉ことば御存ごぞんじなかたがありませう。かういふのが、風流ふうりゆううたといふのであります。
 けれども實際じつさい、われ/\の生活せいかつとは關係かんけいのないことをうたつてゐるので、文學者ぶんがくしやだから、普通ふつうひととはちがつたかんがへをしなければならないとおもつてつくつたものです。ほんとうにげんげをみにて、ひとがありませうか。きつねにでもつまゝれなければ、さういふことをするはずがありません。かういふのがよいとかんがへるのは、實際じつさい生活せいかつからはなれたところに、文學ぶんがくがあるのだとするかんがへで、もういまひととは關係かんけいのない、優美ゆうびといふ趣味しゆみであります。だからこのうたは、全然ぜん/\うそうただといはねばなりません。かうしたうそかさね/\して日本につぽんうたが、だん/\わるくなつてるのは、もちろんのことであります。でさきにいつた平安朝へいあんちよう古今集こきんしゆう一番いちばん手本てほんになつたのは、赤人あかひとのかういふふうのもので、そのためにうたは、次第しだい空想的くうそうてきになり、實際じつさいはなれ、それとゝもにわるくなつてました。文學ぶんがくといふものは、われ/\の實際じつさい生活せいかつからはなれたものが、よいのではありません。
 萬葉集まんにようしゆうには、まだ/\上手じようずひとが、たくさんにゐます。だが日本につぽんうた歴史れきしは、とてもわたしのためにあたへられた紙數しすうではつくすことは出來できないので、このへんでげて、つぎの時代じだいうつります。

 一二、古今集頃こきんしゆうごろうた 

 つぎに名高なだかうた書物しよもつは、萬葉集まんにようしゆう書物しよもつになつてのち百年ひやくねん以上いじようつてからた、古今集こきんしゆうといふ歌集かしゆうであります。これは御存ごぞんじの醍醐天皇だいごてんのう御代みよ出來できたもので、普通ふつう天子てんしおほせでつくつた歌集かしゆう第一番だいゝちばんのものだといふことになつてゐます。かうした歌集かしゆう敕撰集ちよくせんしゆうといひます。敕撰集ちよくせんしゆう第一だいゝちのものであるために、古今集こきんしゆううたが、それ以後いごうたうごかすべからざる手本てほんとなつてしまひました。
 この古今集こきんしゆうると、不思議ふしぎなことには、古今集こきんしゆう出來でき當時とうじきてゐたひとうたは、たいていよくなくて、んでひさしくなつて、さへつたはらないひとうたあるひ宮中きゆうちゆうでのおまつりにつたへられてゐたうたなどが、とびぬけてすぐれてゐます。それはいつたいどういふわけでせうか。つまり古今集こきんしゆう時分じぶんには、うたはかういふものだとちひさな標準ひようじゆんをきめてかゝつて、それにあてはまるものをあつめたから、規模きぼちひさい、方向ほうこうあやまつたものが、おほたわけであります。
 古今集こきんしゆうえらんだひと四人よにんあるが、そのうちもっとも名高なだかいのは、あの紀貫之きのつらゆきといふひとであります。このひとは、さういふうたむことが上手じようずだつたけれども、本式ほんしき文學ぶんがくらしいものをつくることは、ほとんど出來できませんでした。さうしてると、やはり下手へたといふより爲方しかたがありません。
 
一、近江あふみよりあさたちれば、うねのにたづぞくなる。けぬ。この
二、まがねふく吉備きび中山なかやま。おびにせる、細谷川ほそたにがはおとのさやけさ
三、みさぶらひ。みかさまをせ。宮城野みやぎの下露したつゆは、あめにまされり
 
(一)あさ (只今たゞいまあさ意味いみとはすこちがつてゐます。まだのあけない時分じぶんをいふのです) つて、近江あふみくにをばやつてると、このうねのに、つるいてゐることだ。あゝけた。このは。
 
 いかにも、くらよるあさかはつたよろこびが、『あけぬこのは』といふ簡單かんたんのうちに、みなぎつてゐるではありませんか。そしてくらがりからあかるくなつてて、いままであるいてゐたみちのほとりに、つる寢泊ねとまりしてゐた沼地ぬまちのようなものゝあつたことに、のついた樣子ようすが、あきらかにかんぜられます。ほとんど、なんのやかましい思想しそうつよ感情かんじようもないが、あかるい、にこにこした氣持きもちが、われ/\をこゝろそこからゆすりてるようにかんじないでせうか。
(二)まがねふくは、枕詞まくらことば
 
吉備きびくに中山なかやま――美作みまさかにある――よ。それがこしのひきまはしにしてゐる、細谷川ほそたにがはおとんできこえることよ。
 
 あなたがたは、このうたると、内容ないようがからっぽだとかんじるかもれません。しかしさういふふうに早合點はやがつてんしてしまふようでは、日本につぽんうたはわかりません。日本につぽんうたには、意味いみ思想しそうからはなれて、また特別とくべつのねうちをつたものさへあるのです。そしてその代表的だいひようてきなものがこのうたです。まづ第一だいゝちに、調子ちようしたかいことをかんじるでせう。のびやかで、ひっぱりげるような調子ちようしが、あるてんまでつて、ぴったりとちつきよくをさまつてゐるではありませんか。
 かういつても、あなたがたかんがへててくれなければわからないことだが、幾度いくどもくりかへしてもらひたくおもひます。意味いみからいへば、かはおとがよいといふだけのことです。そして吉備きび中山なかやまおびにしてゐるといふようなことは、べつめづらしくもなんともないのであるにもかゝはらず、われ/\はそれにたいして、ほがらかな氣持きもちをけずにゐられません。このうたは、萬葉集まんにようしゆうにもたものがあつて、
 
おほぎみの御笠みかさやまおびにせる、細谷川ほそたにがはおとのさやけさ
 
 となつてゐます。だがわたしは、まへほういとおもひます。なぜなれば、『おほぎみの御笠みかさやま』といふところに、ひとあたまが、もつれをかんじます。純粹じゆんすい單純たんじゆんにすっきりとはひつてないのです。
 まがねふく は、てつきわけるといふもと意味いみわすれてゐて、こゝでは、たん吉備きびおこすための枕詞まくらことばにすぎません。こんな單純たんじゆんなうちに、われ/\のこゝろゆたかにする文學ぶんがくあぢはひがうたにはあるのです。かういふあぢはひは、祖先そせん以來いらいあたへられてゐる大事だいじなものだから、それをうしなはないようにするのが、われ/\のつとめといふよりも、われ/\のよろこびとかんじなくてはなりません。
 三番さんばんめになるとだいぶん複雜ふくざつで、
 
(三)おきのひとよ。おかさであるとまをげい。この宮城野みやぎのうへからふりちるつゆあめ以上いじようである。
 
 これは、自分じぶん大事だいじおもつてゐるひとたいするあつこゝろあらはれで、なにもわざ/\おきのひとんでいつてゐるのではなく、かりにさうしたありさまを、むねうかべたゞけです。りようかけたひとが、つゆれておでになるだらう。おきのひとが、おかさをさしげてくれゝばよいのにとかんじてゐるのを、直接ちよくせつにいひかけたように、んだのであります。
 このうたになると、あなたがたにもおもしろみはわかりませう。だがなほこのうたについて、注意ちゆういせねばならぬのは、みさぶらひ のみ 、みかさ のみ 、みやぎの ゝみ がかさなつてゐるてんであります。もっといふと、み のおん關係かんけいふかいま 行音ぎようおんの、まをせ 、まされる のま があります。これを頭韻とういんといつて、日本につぽんうたでは、あらかじ計畫けいかくしてかういふことをするのはすくないが、偶然ぐうぜんこんなかたち出來できることがあります。このうたこゝろよ調子ちようしも、おんかさなつてゐるところからてゐるのであります。けれどもこれは、始終しじゆうくりかへされると、あき/\するものだといふことをかんがへなければなりません。
 そのほかに、まう二三首にさんしゆ古今集こきんしゆうからすぐれたうたやら、かはつたうたくはへておきませう。

 一三、在原業平ありはらのなりひら 

 平安朝へいあんちようのたくさんの歌人かじんのうち、ことに名高なだかく、また實際じつさいねうち もあつたひと一人ひとりは、在原業平ありはらのなりひらといふひとであります。このひとうたは、大人おとなでなければわからない氣持きもちをあまりみすぎてゐるので、今度こんど説明せつめいをすることは出來できないが、一例いちれいをあげると、自分じぶんしたしくつきあつてゐたひとが、くことも出來できぬところにかくれてしまつてのち、そのひとのゐたいへ訪問ほうもんして一人ひとりかなしんだ名高なだかうたがあります。
 
つきやあらぬ。はるむかしはるならぬ。わがひとつは、もとのにして
 
 ちょっとたゞけでは、わかつたようでわからぬうたです。おなじようなかさなつてゐると、自然しぜん片一方かたいつぽうほうは、一部分いちぶぶんりやくする習慣しゆうかんがあります。この一句いつく二句にくは、『つきむかしつきにあらぬ。はるむかしはるならぬ』といふのがほんとうなのです。うたでなく普通ふつう文章ぶんしようなら、さうかねばとほりません。それをかういふふうにして、意味いみあらはあひだに、やす氣分きぶん保存ほぞんしようとするのが、うたうへ工夫くふうであります。工夫くふうでなくとも、自然しぜんにその作者さくしやこゝろつてゐると、かういふふうにつごうのよい氣分風きぶんふうあらはかたが、くちをついてるのであります。
 
はるむかしはるではないか。つきむかしつきではないか。つきはるも、むかしのまゝのものである。自然物しぜんぶつはさうしてかはらないでゐるにかゝはらず、自分じぶんだけはもとのまゝにして、さうして……
 
 とあとたれにもかんぜられることだから、いひつくさなかつたのです。これはわざといひつくさなかつたといふより、いひつくしたゞけでは滿足まんぞく出來できなかつたので、かういふ尻切しりきれとんぼのようになつてゐるのですが、かへってひとこゝろに、ふか印象いんしよう聯想れんそうとをおこさせるものなのです。つまりこのあと言葉ことばおぎなへば、わたしりあひのひともとではないといふ言葉ことばにすぎません。さうした言葉ことばれるのとひと氣持きもちにまかせるのと、どちらがいとおもひますか。
 わたしはこのうたたとへば百點ひやくてんうただといふほどには、めるにはなりません。がすくなくとも、平安朝へいあんちよう短歌たんかのうちではすぐれたものであるといふことだけはいひたいとおもひます。いかにもねばりづよい、あきらめにくいかなしみのこゝろが、ものゝまとひついたように、くね/\した調子ちようしあらはれてゐるのがかんじられませう。かういふうたが、こののちまたひとつのお手本てほんとなつてるのであります。しかしながら、完全かんぜんにこの手本てほんをまねをうせあるひはのりしたといふものは、さうありませんでした。
 ついでに、あきうたのうちから、二首にしゆぬいておきませう。

 一四、作者さくしやのわからぬうたに、よいもののあること 

 
ひぐらしきつるなべに、れぬ。とおもふは、やまのかげにぞありける
のまよりつきの かげれば、こゝろづくしのあきは にけり
 
 これは二首にしゆながら、よみびとらずといつて、つくつたひとのわからないうたとなつてゐます。ところが、さきにもいつたとほり、古今集こきんしゆうのよみびとらずのうたのうち、すぐれたものがおほいので、これなどはどこへしてもづかしくない立派りつぱうたであります。
 
ひぐらしいたとともに、れてしまつた、と自分じぶんがふっとさうかんがへたのは、やまのかげが、いへほうへさしてて、うすぐらくなつたためだつたのだ。
 
 かういふうたになると、さきはなし調子ちようしでいふと、あるひ趣向しゆこうをもつていつたうただとおもふかたがあるかもれません。「はくれぬとおもふは」などいふところがよくのみこめなければ、さういふふうなかんじがしそうです。けれどもこの作者さくしや中心ちゆうしんとしてんでゐるのは、そんなところでなく、何事なにごともないごく退たいくつな生活せいかつをしてゐるひとが、けふもまたれて、ひぐらしいてゐるとかうおもつてゐて、しばらつてのちよく/\ると、それはほんとに、れたのでなかつたといふことを、説明せつめいでいつてゐるのでなく、氣持きもちからひとこゝろれてつてゐるのであります。
 あなたがたがこのうたからけるかんじは、たしかにさうした方面ほうめんおもなのだとかんがへてもらはねばなりません。とおもふ はなどいふ調子ちようしは、いかにもくらしかねてゐる退たいくつなひとのあくびでもしたいような氣持きもちがてゐるとおもひます。
 いまひとは、あきだつてはるだつて、さうかはつた心持こゝろもちをちません。それがほんとうはよろしいので、あなたがた特別とくべつに、あきかなしいものだといふふうにかんじてゐてはいけないのです。しかしながらむかし歌人かじんは、あきかなしいものだとかんじることの出來できるのは、自分じぶん歌人かじんとしての大事だいじ資格しかくだとおもつてゐました。あきのさびしさかなしさのわからぬものは、文學者ぶんがくしやでないとぢてゐたのです。それはかういふうたがいくつもかさなつた結果けつかあきかなしいものだといふ約束やくそく出來できてしまつたのです。だがさういふ不自由ふじゆう約束やくそく出來できないまへうたると、たとあきかなしくさびしいものだとんでゐても、それがかく個人こじん實際じつさいかんじとして人々《ひと/″\》のむねつよれるのであります。強制きようせいせられて爲方しかたなしやつてゐるのと、みづかすゝんでやつてゐるのとちがふわけであります。
 
いつも、あきになるといふと、こゝろをめちゃくちゃにする、そのあきはまたやつてたとおもふ。木立こだちのあひだから、れてさしてつきかげが、いろかはつてかんじられる。それをると、あゝまたさびしいあきだ、とかうおもふといふうたです。
 
 あなたがたわかこゝろには、かういふうた興味きようみはわからないかもれませんが、日本につぽん文學ぶんがくには、かういつたしづかなかすかなあぢはひが、よい作物さくぶつにはずっととほつてゐます。それをもの單純たんじゆんかんがへるひとは、悲觀的ひかんてき涙脆なみだもろ氣持きもちだといつて、いけないものとしてゐるが、人間にんげんはいつもにこ/\わらつてゐるものばかりのものではありません。さびしくあるひかなしい氣持きもちになつたときに、はじめてほんとうの自分じぶんといふものをかんがへてるものです。だからかういふうたも、あながちに排斥はいせきすることは出來できません。もちろんかういふうたをまねたものがおほいからといつて、日本につぽん文學ぶんがく悲觀的ひかんてき文學ぶんがくだなどゝ、よくも道理どうりらないで、一概いちがいにばかにしてかゝるのはいけないくせだとおもひます。外國がいこくたとへにも、金持かねもちが天國てんごくくのは、おほきなぞうはりあなをとほらせるよりもむつかしいといつてゐますが、さういつた滿足まんぞくしきつた氣持きもちばかりでゐては、人間にんげんにはしみ/″\と、自分じぶんかへりみるときないのであります。

 一五、うた見方みかた 

 今一いまひとつ、古今集こきんしゆう名高なだかうたをあげて、評判ひようばん實際じつさいとはこれほどちがふといふことを證明しようめいしてたいとおもひます。
 勅撰集ちよくせんしゆう第一番だいゝちばん古今集こきんしゆうはるのはじめにあるものといへば、そのうちでも第一番だいゝちばんうたといふことになるから、自然しぜんひとは、それをおもます。在原元方ありはらのもとかたといふひとうたで、『舊年ふるとし春立はるたちけるよめる』といふだいで、
 
としのうちに、はるにけり。一年ひとゝせを、こぞとやいはむ。今年ことしとやいはむ
 
 このうた偶然ぐうぜんよいものゝようにかんがへられてゐます。ところが明治めいじになつて、ふる歴史れきしのある日本につぽん短歌たんか改正かいせいして、新派和歌しんぱわかといふものをとなした一人ひとり正岡子規まさをかしきといふひと第一だいゝちにこのうたわらひました。こんなうたがよいのならば、またかういふふうにんでもうただといふことが出來できるといつて、
 
日本人につぽんじんと、西洋人せいようじんとのあひのを、日本人につぽんじんとやいはむ。西洋人せいようじんとやいはむ
 
といふのでした。
 これは子規しきが、説明せつめいのわかりやすいようにつくつてたゞけで、もとよりたとへにすぎません。子規しきのは三十一字さんじゆういちじのたゞの文章ぶんしようで、うたではありません。いくらまづくともつまらなくとも、『としのうちに』のほうには、多少たしよう意味いみ以外いがいやすらかな、そしてどもらしい氣持きもちになつておこした氣分きぶんてゐます。そのてんはもちろんかんがへねばなりませんが、さうかといつて、このうたがよいうただとおもふのは、たいへんいけないことです。
 ふるとしといふのは、新年しんねんたいする舊年きゆうねんであつて、むかしこよみではとしけないうちに、立春りつしゆんせつといふこよみうへ時期じきがやつてることもあつたのです。普通ふつうかんがへでは、はる正月しようがつとが一致いつちするものとしてあります。これは、習慣しゆうかんから心持こゝろもちであります。ところがときとすると、こよみうへにさういつたちがひが出來できます。としかはらないうちにもうはるたといふ氣持きもちは、文學的ぶんがくてきではないけれども、たしかに文學ぶんがく生活せいかつうへでは、一種いつしゆ注意ちゆういをひくことであります。それでこのうた出來できたのでありました。
 
まだ、としかはらない舊年ふるとしあひだに、あゝはるがやつてたことだ。してると、この一年いちねんふたつにわかれて、きのふまでを去年きよねんといはうか。今日けふからのちを、今年ことしといはうか。
 
 それもくつからはをかしいが、かんがへればなんでもないところに、わづかな興味きようみおこしたにすぎません。だからけっしてよいうたではありませんが、子規しきのいふような、あひのうたたようなものでもありません。しかしながら、かういふうたが後々《のち/\》、だん/\はやつてきて、かぞへきれないほどたくさん、同種類どうしゆるいのものが出來できました。つまり一種いつしゆとぼけたうたといはなければなりません。

 一六、西行法師さいぎようほうし新古今集しんこきんしゆう 

 古今集こきんしゆうのち、たくさん勅撰集ちよくせんしゆうやらいろんな歌人かじんのめい/\の家集かしゆうといふものがてゐるが、うたのほんとうの性質せいしつといふものは、だいたい、古今集こきんしゆうびとらずのうたすなはちさき解釋かいしやくしたようなものにあるといふふうにかんがされました。
 古今集こきんしゆううたは、全體ぜんたいとしてはいけないうたがありますが、短歌たんかはどんなものかとかんがへると、古今集こきんしゆううたがまづあたまうかぶのであります。その二百年にひやくねんあまりのあひだに、だん/\うたといふものゝ、かういふものでなければならないといふ、漠然ばくぜんとした氣分きぶん出來できました。さうしてみなさんもつてゐる鎌倉時代かまくらじだいちかくなると、京都きようと貴族きぞくたちのうたが、つてかはつてました。それは、新古今集しんこきんしゆうといふ歌集かしゆうればよくわかることです。
 後鳥羽上皇ごとばじようこうは、非常ひじよう御熱心ごねつしんでもあり、ごくまれなほどの名人めいじんでもいらつしやいました。いはゆるるところにたまで、この新古今集しんこきんしゆうときほど、日本につぽんうた歴史れきしうへで、名人めいじん上手じようずといふべきひとが、たくさんそろつてたことはありません。たゞみなあまり仲間なかまづきあひがさかんにおこなはれたゝめに、うたは、おたがひによい影響えいきようばかりでなく、わるい流行りゆうこうおこすことになりました。文學ぶんがくうへによいひとがたくさんたから、かならずしもよい文學ぶんがく出來できるといふわけのものではないといふ事實じじつを、このときほど、はっきりとせたことはありません。つまり上手じようずどうしが、みな肝腎かんじんてんよりもごく枝葉えだはにわたるところに苦勞くろうをして、それをおたがひにほこりあつたゝめに、それがかさなり/\して、いけないことがおこつてました。それでもなかには、よいものがずいぶん出來できてゐます。なんといつてもすぐれたひとつくつた文學ぶんがくにはよいものがないではゐないわけなのです。
 
あふち外面そともかげ つゆおちて、さみだれるゝかぜわたるなり (前大納言忠良さきのだいなごんたゞよし) 
 
 あふちは、普通ふつう『せんだん』といつてゐるで、むらさきがゝつたはな夏頃なつごろきます。それがいへ外側そとがは木立こだちのなかに、まじつてゐるわけであります。それを作者さくしやがさみだれのころてゐるうたで、
 
あふちいてゐるいへ外側そとがは木立こだちの下蔭したかげに、ぽた/\とつゆちるほどに、かぜきとほる。それは、幾日いくにちつゞいてをつた梅雨ばいうあがかぜである、といふ意味いみです。
 
 かういつたところで、あぢはひは、あなたがたがめい/\に、幾度いくどもくりかへんでなければおこつてないとおもひます。
 このころ先輩せんぱいに、名高なだか西行法師さいぎようほうしといふひとがあります。御存ごぞんじのとほり、世捨よすびととして一風いつぷうかはつた、しづかな、さびしいうたつくつたといはれてゐます。そしてこのひとうたが、新古今集しんこきんしゆううたふうに、非常ひじよう影響えいきようあたへたともられてゐます。だがこのひとうた全體ぜんたいに、かならずしも世間せけんでいふようなものばかりでなく、やはり當時とうじ流行りゆうこうの、はでなこせ/\したものもないではありません。だがこのひとのものでいゝのになると、かういふものがあります。
 
吉野山よしのやまさくらえだゆきりて、はなおそげなるとしにもあるかな
くもかゝるとほやまばたの、あきされば、おもひやるだにかなしきものを
 
 吉野山よしのやまは、ふるくからずいぶんながく、ぼうさんそのほか修道者しゆどうしやといつて佛教ぶつきよう修行しゆぎようをするひとこもつてゐたことは、あきらかな事實じじつでした。その經驗けいけんから、はじめのうた出來できたのであります。
 
吉野山よしのやまよ。その吉野山よしのやまさくらえだに、てゐると、ゆきがちら/\りかゝつてゐて、これでは、はながいつきさうにもおもはれない。今年ことしは、はなくことのおそくおもはれるとしよ、といふのです。
 
 さびしい修道者しゆどうしや仲間なかますくな山家やまがくらしのうちにも、なにまうけるこゝろがあつて、たのしみになつてゐるものです。もうはるになつてゐながら、せめてたのしみにしてゐるそのはなさへも、とてもきそうにえない。さういふしづかなひと物足ものたりない心持こゝろもちを、さびしいともかなしいともいはないで、それかといつて、ゆきのふりかゝつてゐるのをうらむでもなく、自然しぜん景色けしきをそのまゝにながめてゐる氣持きもちがよくてゐます。わりあひいゝうたおほ西行さいぎようにも、これほどのうたは、さうたくさんにはありません。あとほうは、これにくらべるといくらか露骨ろこつに、西行さいぎよう氣持きもちをしすぎてゐるが、こゝまでつっこんでうたつたひとがないものですから、一例いちれいとしてあげました。
 
くもかゝる遠山とほやまはた といふのは、くものかゝつてゐる景色けしきが、えてゐるのではありますまい。おそらく西行さいぎようつたひとが、西行さいぎようおなじように、遠山とほやまにかすかな修道しゆどう生活せいかつをしてゐる。それが、あきになつて時分じぶんおもされる。その遠山とほやまばた――このはた は、やまそばといふことでなく、やはり、やまはたけでせう――そのあきくもが、えずかゝつてゐるはずの、とほ山家やまがはたけのあるところが、あきるといふと、たゞ想像そうぞうしてかんがへてるだけでも、その生活せいかつかなしく、むねかんじられる。まして、このさびしいあきを、山畠やまばたのあたりにんでゐるひとは、どんなにかなしからうといつたものらしいのです。
 
 このうた特徴とくちようは、想像そう/″\してゐる景色けしきが、實際じつさいにあり/\とうかんでるようになつてゐるところにあります。これを文學ぶんがくうへ把持力はじりよくといつて、自分じぶん經驗けいけんをいつまでもわすれずに、にぎりしめるちからがあつて、機會きかいがあると、それを文章ぶんしようあらは能力のうりよくをいふのであります。一句いつく二句にく景色けしきは、西行さいぎようにそのつよちからのあることがうかゞはれます。それによつて、その以下いかおもひやるだにかなしきものをといふような、むしろありふれた言葉ことばまで、いき/\とひとむねに、なんだかたまらないようにせまつてるのであります。

 一七、ほんとうに優美ゆうびうた 

 おな新古今集しんこきんしゆうに、藤原良經ふじはらよしつねといふひとがあつて、攝政太政大臣せつしようだじようだいじんにまでなつたひとですが、よほどのうたよみでありました。
 
うちしめり、あやめぞかをる。ほとゝぎすくやさつきのあめゆふぐれ
 
 このうたなどは、そんなにたくさん類例るいれいのないほどよいものであります。ものゝかんかた非常ひじやう鋭敏えいびんで、はなみゝはだなどにれるものをするどることの出來できめづらしい文學者ぶんがくしやであつたことをせてゐます。
 
五月ごがつあめつてゐるゆふぐれのことです。どこからともなく、あやめのいたはなのかをりがしてます。それが、かをりがするといふほどでなく、なんとなくかんじられるといふ程度ていどにほつてるのです。それをあめのために、にほひがやはらげられて、ほとんど、あるかないかのように、しんみりとしたふうにかをつてる、とべてゐます。
 
 説明せつめいしたゞけではなんでもないことですが、この時代じだいに、これほどこまかくとらへがたいことをあらはしたひとはないのです。
『ほとゝぎすくやさつき』といふのは、なにもそのときほとゝぎすがいてゐるのではありません。さつき といふために、習慣的しゆうかんてきにほとゝぎすがくところのといふ言葉ことばいてたのであります。いはゞ一種いつしゆ枕詞まくらことばで、かういふふうしづかなうたでは、すこしでもいひすぎたり内容ないようえすぎると、全體ぜんたい調和ちようわやぶれてます。むしろ、内容ないようのないものをれなければならないのです。それでかういふ言葉ことば利用りようせられてゐるのです。けれどもどうしてもほとゝぎすくやといふと、ほとゝぎすがいてゐる實際じつさい樣子ようすうかびます。これがこのうたすこしのきずであります。
 このうたつくりかへて、べつかはつた領分りようぶんひらいたものがあります。それは明治めいじになつてんだ京都きようと蓮月れんげつといふあまさくで、
 
朝風あさかぜにうばらかをりて、ほとゝぎすくや うづきの志賀しが山越やまご
 
 これになると、ほとゝぎすは、實際じつさいいてゐるようにんでゐます。けっして枕詞まくらことばでなく、四月しがつ意味いみするうづきの、自然しぜん景色けしき一部いちぶとしてゐます。が、こゝを中心ちゆうしんとしてると、どうしても良經よしつねうたから、暗示あんじつくつたにちがひありません。そして良經よしつねうた氣分きぶんをすっかりつて、一種いつしゆうたまとめてゐます。さら今少いますこし、さっぱりとしたかんじがてゐるようです。
 四月頃しがつごろには、野茨のばらはなくものです。このにほひがまた非常ひじようによろしい。かぜなどにつれてにほつてると、なんだか新鮮しんせんのするものです。志賀しが山越やまごえといふのは、むかしからうたにたび/\まれた、京都きようとから近江あふみえるところです。
 このうたおそらく空想くうそうでせうが、この場所ばしよあるひはさうした景色けしきは、蓮月れんげつ始終しじゆうてゐたにちがひありません。だから空想くうそうであつても事實じじつおなじであり、むしろ事實じじつより力強ちからづよひとこゝろひゞくのです。野茨のばらにほひがしてて、自分じぶんみちそばに、ほとゝぎすのこゑのするところの志賀しが山越やまごえよ、といふのです。かういふふうつくりかへが、また短歌たんかうへにたびたびおこなはれました。けれども、わざ/\つくりかへようといふかんがへをつたときには、たいてい失敗しつぱいして、もとうたから獨立どくりつしたねうちのない、文學的ぶんがくてきにはだめなものがおほいのであります。蓮月尼れんげつにうたなどは、つくときにはおそらくうちしめりのうたのあることもわすれてゐながら、どこかに記憶きおくのこつてゐて、その調子ちようし、その氣分きぶんが、あらはれてたものでありませう。

 一八、調子ちようしつたうた 

 後鳥羽上皇ごとばじようこうのおうたは、そのあらはかた非常ひじようがこんでゐて、ちょうどうでのよくいたひとつくつた、工藝品こうげいひんるようでありますから、あなたがたに、そのおもしろみをかんじてもらふのは、むつかしいとおもひます。こゝにはごく平凡へいぼんなものをあげておきませう。
 
あきふけぬ。けや。霜夜しもよのきり/″\す やゝかげさむし。蓬原よもぎふつき
 
あきふかくなつてしまつた。この霜空しもぞらばんいてゐる、こゑかれ/″\のきり/″\すよ。もっと出來できるだけけ。そらからてらひかりも、つめたかんじられる。その蓬原よもぎばらのようになつたいへてらつきよ。そのしたで、きり/″\すが、ほのかにいてゐる。
 
 きり/″\すといふのは、こほろぎだといつてゐます。
 かういふふうにくろうとらしいうたをおつくりになつたので、歴代れきだい皇族方こうぞくがたうちでは、文學ぶんがく才能さいのうからまをして、第一流だいゝちりゆうにおすわりになるかたです。けれども、時代じだいさきまをしたようですから、そのおさくも、自然しぜんおもしろさがかたよつてゐて、完全かんぜんなものとはまをげることが出來できません。
 天皇てんのうさまをはじめ、皇族方こうぞくがたのうちで、圓滿えんまんうたつくられたおかたさがしてると、それから時代じだいさがつて、南北朝なんぼくちようのはじめごろ伏見天皇ふしみてんのう、それからその皇后こう/″\さまの永福門院えいふくもんいんといふおかた、このお二方ふたかたが、まづとびぬけていらつしやるとおもひます。勅撰集ちよくせんしゆうでいふと、新古今集しんこきんしゆう八番はちばんめの歌集かしゆう、それから後六あとむつつめすなはち、古今集こきんしゆうから勘定かんじようして十四番じゆうよばんめの玉葉和歌集ぎよくようわかしゆう十七番じゆうしちばんめの風雅和歌集ふうがわかしゆう、このふたつのものに、特別とくべつ關係かんけいがおふかいのであります。

 一九、發達はつたつしきつたうた 

 
ゆふぐれのくもびみだれ、れてく あらしのうちに、時雨しぐれをぞきく
いつはとも こゝろときはわかなくに、をちのやなぎの はるになるいろ
 
 これが伏見天皇ふしみてんのうのおうたです。後鳥羽上皇ごとばじようこうから、もひとすゝんで、さらにその一種いつしゆくせいた素直すなほなおうたになつてゐます。
 
夕方ゆふがたそらには、いつぱいくもみだれてゐて、あちらこちらにはやまはつてゐるとききおろす山風やまかぜが、あら/\しくいてゐる。そのにもみゝにも、すさまじい景色けしきことにはげしいかぜおとにもされずに、しづかな時雨しぐれおとのしてゐるのを自分じぶんいてゐる。
 
 これはちょっとると、「くもみだれ」、「れてく」などいふ言葉ことばが、ごた/\してゐるようであるが、わたし解釋かいしやくしたようにれてくから、べつかんがへてると、空模樣そらもようさらくはへて、はげしいかぜ樣子ようすかんじられます。このおうたしづかな時雨しぐれおとを、さうしたあひだみゝめてゐたといふところに、かはつた興味きようみおこされたので、かういふかたうたは、これ以前いぜんにもこれ以後いごにも、まづ類例るいれいのないあたらしい、さうしていゝものだといふことが出來できます。あらし といふのはやまおろしのことで、暴風ぼうふうではありません。
 
いまは、ふゆはるこゝろうへまよはずにゐられない時分じぶんである。こゝろではいつとも時候じこう區別くべつがつかないのに、るものは、すでにすくなくとも、ひとつだけははるらしいしるしをしめしてゐる。これは遠方えんぽうつてゐるやなぎの、いかにも春景色はるげしきになつていろあひがそれである。
 
 はるになるいろといふのは、まだはるになりつてゐるわけではありません。はる樣子ようす調とゝのつてつてゐることをいふのです。
 いろといはれたのは、漠然ばくぜんとどこかはるらしい樣子ようすいろあひのえることを、氣分式きぶんしきしめされたのです。をちのやなぎといふのも、はっきりと、何本なんぼんあるとも、どのくらゐ距離きよりにあるともいはれないで、まづほのかないろあひで、幾本いくほんならんでゐるといふかんじをおこさせるためなのです。いつは といふのは、いつ といふのとかはりがないとておいてよろしい。
 
やまもとのとりこゑよりめて、はなもむら/\ いろ
なにとなきくさはなべのはるくもに ひばりのこゑものどけき
 
 これが永福門院えいふくもんいんのおうたです。御覽ごらんのとほり、ものいろあひ、あはせが、非常ひじよううつくしくつくられてゐます。
 
やまふもとほうに、とりこゑがする。そのとりこゑのするあたりから、だん/\けかけて、あちらにひとかたまり、こちらにひとかたまりといふふうに、やまさくらはないろあらはれて、だん/\あきらかになつてく。
 
はなもむら/\いろく』などいふところにのついたのは、やはり時代じだいがずっとあたらしくなり、ひとこゝろ自然物しぜんぶつたいして、敏感びんかんうごくようになつてたからです。しかし普通ふつうひとは、文學ぶんがくうへではやはりむかしのまゝのかたどほりにつくつてゐるにかゝはらず、すぐれたひとは、その時代じだいひとらしいで、ものかんじるものであります。さうしてあたらしいとはいひながら、やはらかでおだやかなよい氣持きもちをやぶらないで、上品じようひんさをちながらうたはれてあるのが、このうたなどのよいところです。こと二番にばんめのうたなどになると、ほとんど、只今たゞいまひとつくつたものか、とうっかりおもはれるようなおさくであります。まづ普通ふつうひとならば、のない雜草ざつそうはななどはみません。ところがこの門院樣もんいんさまは、その雜草ざつそうはな興味きようみつてゐられます。なんといふことのないかはつたてんもないくさはな、このいてゐる春景色はるげしき、とぱっとひろ樣子やうすあらはしてて、しもで、自分じぶんはどこにをつて、なにをしてゐるかといふことを、はっきりとあらはしてあります。そのくさはないてゐるところにすわりこんでそらあふぐと、くもてゐる。そのくものあたりへあがつて雲雀ひばりこゑがついて、そして、いまかうしてゐることのほかに、なんの爲事しごとわづらはしさもこゝろがかりもない、ゆたかな氣持きもちをかんじてゐることを、のどけきといふ言葉ことばしめされてゐます。
 このころにも、このお二方ふたかたりまいて、名人めいじんといつてよい人々《ひと/″\》がだいぶんゐるのですが、そのおはなしは、只今たゞいまいたしません。こんなすぐれたうたが、しかも非常ひじようたふとい方々《かた/″\》のおさくてゐるにかゝはらず、世間せけん流行りゆうこうは、爲方しかたのないもので、だん/\、わるほうへ/\とかたむきました。さうして、この玉葉集ぎよくようしゆう風雅集ふうがしゆうなどのうたは、いけないつまらないうただ、とねうち をきめてしまふようになりました。これは世間せけん評判ひようばんと、ほんとうのもののねうち とは、たいていの場合ばあひ一致いつちしてゐないそのもっとも適當てきとうれいであります。これからのち室町時代むろまちじだいからときぎて江戸えど時代じだいいたるまで、そんなにすぐれた歌人かじんは、おほくはてまゐりませんでした。つまり平凡へいぼんなお手本てほんうつしになぞつてくものですから、だん/\つまらなく、その作者さくしや特徴とくちようすことが出來できなくなつたわけであります。

 二〇、江戸時代えどじだいうた 

 ところが江戸時代えどじだいになると、徳川氏とくがはし政治せいじ方針ほうしんがさうであり、またなかをさまつてたゝめか、學問がくもんさかんになつてました。そして支那しな學問がくもんからさらすゝんで、日本につぽん學問がくもん日本につぽん文學ぶんがく研究けんきゆうおこなはれしてました。さうして學者がくしや文學者ぶんがくしやも、かならずしも上流社會じようりうしやかいの人々《ひと/″\》ばかりでなく、かへってひく位置いちひとほう中心ちゆうしんうつつてるようになりました。
 むかし文學ぶんがくむかし短歌たんか研究けんきゆうした結果けつかいままでやつてゐたのはいけなかつた。五百年ごひやくねん千年せんねんまへうたほうが、自分じぶんたちのものよりはるかにあたらしく、もつと/\熱情ねつじようこもつてゐるといふことに、みんなこゝろづくようになりました。さういふよい影響えいきようあたへたのは、第一だいゝちに、萬葉集まんにようしゆうあたらしくかへされたことであります。それから學者がくしや文學者ぶんがくしやあひだに、一足飛いつそくとびに、よいうた激戟しげきせられて 、あたらしいうたつくる人々《ひと/″\》がえてました。
 さういふひとたちは、かぞげることの出來できないほどたくさんありますから、こゝにはごくわづかの代表者だいひようしやだけをしておきませう。

 二一、歌人かじんとしての國學者こくがくしやたち 

 よくいふ國學こくがく四大人しうしのうちで、一番いちばん文學者ぶんがくしやらしかつたのは賀茂眞淵かものまぶちであります。そしてそれ以前いぜんにも、だん/\萬葉まんにようぶりのうたつくつたひとがあるが、このひとからひとつの主義しゆぎとして、さういふ方面ほうめんすゝうた出來できました。でもこのひとうたは、評判ひようばんほどもすぐれたものではありません。だから一首いつしゆだけいてきませう。
 
あきの ほがら/\と、あまはらつきかげに、かりわた
 
ほがら/\といふと、夜明よあけのそらのあかるさをしめ言葉ことばです。それを、つきつてゐるそら形容けいようもちひたので、いかにもひるのようなあかるいてんかんじられます。すみからすみまでからりとあかるく、ひろそらつてゐるあき光線こうせんのさしてゐるうちに、かりわたつてくといふうたです。
 
 かんじてゐるところはよろしいが、うへ三句さんくがごた/\として、かんじた氣分きぶんがすっきりとあらはれてゐません。けれどもこのひとは、まづ大體だいたいかういふ調子ちようしに、一筋ひとすぢうたふのが得意とくいだつたとえます。
 おなじようなうたならべてませう。上田秋成うへだあきなりといふひとは、眞淵まぶち孫弟子まごでしあた文學者ぶんがくしやですが、このひとも、うたはその散文さんぶんほど上手じようずではありませんが、かなりつくれたひとであります。
 
つきに、かりのまれびとわたる。わがともは、こよひなくに
 
 こんなうたになると、このひとほうが、はるかにすぐれた才能さいのうつてゐたことがわかります。
 
そらつてゐるあきつき。その月光つきかげのさしてゐるそら遠方えんぽうからやつてかりが、れつをなしてきとほつてく。こんなばんには、いつしょにしたしむともだちの訪問ほうもんたれる。けれどもわたしつてゐる仲間なかまは、今晩こんばんはやつてないでゐるのに、さうしてわたし一人ひとりあかるくほがらかな天地てんちつきたいしてゐるのに、そのうへかりれてとほる、といつた滿足まんぞくはしてゐながら、あるてんに、自分じぶんかんじをいつてかせたい仲間なかまのゐない、ものらなさをべてゐるのです。
 
 しかしそれも、けっしてくつらしくはてをらずに、このほがらかな調子ちようしに、たまのようにつゝまれて、たゞつきひかりに、およかりれつうごかされた氣分きぶんとして、むねれてます。かういふのが、ほがらかな、たけたか調子ちようしといふのであります。さきうたくらべてると、こんなかたちうたるまでは、それでも相當そうとうえたものが、なんだかつまらなくかんじられるでせう。
 まれびと といふのは、おきやくさまといふことですが、ごくたまにめづらしいひとといふのがふる意味いみです。わたどりなるかりをば、この珍客ちんきやく見立みたてたのであります。それをたとへのようにいはないで、直接ちよくせつにまれびとなるかりといふふうにいつたところに、にごりがなくなつてをります。

 二二、加納諸平かのうもろひら 

 眞淵まぶち弟子でし本居宣長もとをりのりなが、その弟子でし夏目甕麿なつめかめまろ、このひとで、紀州きしゆう醫者いしやいへ養子ようしとなつた加納諸平かのうもろひらといふひとがあります。ちひさなときからちゝともをして、諸國しよこくあるいて攝津せつつくにときに、酒飮さけのみの父親ちゝおやは、つきとらへるのだといつて、うたともだちなどがめるのもきかずに、いけなかへをどりんでにました。それからすぐに和歌山わかやまられてつて、ひさしくくにかへることもしませんでした。加納家かのうけみこんでから、はじめて遠江とほたふみはゝのところへ歸省きせいしたことがあります。かういふ傳記でんき一部いちぶつて諸平もろひらうたむと、まことおもふかいところがかんじられます。
 うた俳句はいくうへでは、そのかたちみじかちひさいだけに、はしがき ――また、詞書ことばがきともいふ――や、そのうたつくつた事情じじようなどをるといふことが、ほか文學ぶんがくとはべつ大事だいじなことであります。つまりその作物さくぶつ背景はいけいになつてゐるものをのみこんで、しんうたなり俳句はいくなりをあぢはるといふことが、どうしても必要ひつようなのです。
 
旅衣たびごろもわゝくばかりに はるたけて、うばらがはなぞ、にほふなる
 
 青年せいねん一人旅ひとりたびをしてゐるといふことを、あたまつてください。わゝく といふのは、きれや着物きもののぼや/\になつてることで、長旅ながたびをしたゝめに、れてたりしたところがある樣子ようすです。
 
てゐる旅行りよこう着物きものが、わゝけるほどにはやはるたびも、すでに春深はるふかくなつて、道傍みちばた雜草ざつそうのようにいてゐる野茨のばらはなが、にほつてかんぜられる、といふ意味いみです。
 
がそれはもちろん、實際じつさい以上いじよううたらしいあぢをつけようとしてゐます。くつっぽくいへば、和歌山わかやま遠江とほたふみまでのあひだに、たびごろもがわゝけるといふほどのこともあるまいし、また早春そうしゆんたのが晩春ばんしゆんになつたといふほどのこともありますまい。けれどもそれほどのことは、文學上ぶんがくじよう一種いつしゆ誇張こちようといふもので、いくらかをかけてかんふかくいひあらはすのが、文學ぶんがくのほんとうの爲方しかただと、いまですらもかんがへてゐる學者がくしや文學者ぶんがくしやおほいのですから、これくらゐのことは、むかしうたとしてあたりまへだとていゝとおもひます。このころひとはすべて、あまり自分じぶん生活せいかつうたあらはれるといふことをきらつたので、さういふふうなのを無風流ぶふうりゆうだとしりぞけてゐました。このうちにこんなのがると、さすがにちょっと、むねをうたれるがするのです。
 
ゆふ月夜づくよ ほのめしあぢさゐの、はなも まどかにきみちにけり
 
 これはちょっとると、いかにも紫陽花あぢさゐはな樣子ようすこまやかにうつしてあるようにえますが、じつ紫陽花あぢさゐつくつたのでなく、見慣みなれてゐるはな模樣もよう空想くうそううかべて、うつくしく爲立したてたにぎません。だから近頃ちかごろうた文學ぶんがくうへからは、かういふ態度たいどはよいとはいへないが、それにしてもつくつたものが相當そうとうによければ、やはりよいといふよりほかはありません。空想くうそうつくりながらこれまでにつくげたのだから、その作者さくしやちから十分じゆうぶんあつたことがわかります。このひと學者がくしやであり文學者ぶんがくしやですから、言葉ことばのあやを十分じゆうぶん心得こゝろえて、すこしのむだもしないでゐます。それがかへって、いまでは邪魔じやまになるのです。たとへばわれ/\の時代じだいには、ゆふづくならば、ほんとうに夕方ゆふがたのおつきさまがてゐるとかんじるだけで滿足まんぞくするのに、このひとうたでは、むかし習慣しゆうかんしたがつて、ほのめしの枕詞まくらことばなるゆふづくといふ言葉ことばを、まづゑたのです。もちろんたゞの枕詞まくらことばだけでなく、夕月ゆふづきころにほんのりえかけたといふ意味いみにはいつてゐるのですが、學問的がくもんてきにもこのふたつの連絡れんらくをつけてゐるわけなのです。むかしはかういふことの自由じゆう出來できるのが名人めいじんだとおもはれたのですが、いまではかへって、文學ぶんがくあぢはうへ足手纏あしてまとひとして、けねばならぬことであります。夕月夜ゆふづくよといふのは夕月ゆふづきといふことでなく、月夜つきよつきのことです。で、夕月ゆふづきころといふと、新月しんげつ時分じぶんといふことになります。
 
そのころにはまだ、ほんのりえかけてゐた紫陽花あぢさゐのそのはなも、もういまでは、まどかにまんまるく、圓滿えんまんいてゐることだ。
 
 紫陽花あぢさゐはなのだん/\調とゝのつてくありさまが、よくんであります。そのうへに、いかにも紫陽花あぢさゐてきした氣分きぶんてゐます。たゞそれだけで滿足まんぞくせずに、新月しんげつころから注意ちゆういしてゐたのが、こんなにおほきく立派りつぱいたといふようなおもしろみをけたのは、ほんとうはよくないのです。けれどもそれはあなたがた年頃としごろでは、こまかにいてもむりですから、もっとながうたしたしんでもらつて、自分自身じぶんじしん批評ひひよう出來できるまでは、まづよいうただとかんがへていてください。そのうへこのうたでは、まだ/\言葉ことばそとにいひふくめたものがたくさんあります。
 あぢさゐの花も とも の使つかつてゐるのは、そらのお月樣つきさまがちょうどまんまるになつてゐるころ、あぢさゐもまんまるになつた。かういふことをかんじさせようとしてゐるのです。なかなかむかしひと苦勞くろうしたものです。がそんなことは、文學ぶんがくうへではむだ骨折ほねをりといふものです。それをまた、おもしろいとおもつてゐてはいけないのです。

 二三、おもひをべるうた 

 このひとにはうたうへに、まだいろ/\のこゝろみがあつて、おもしろいことをしてゐるが、その一例いちれいをあげると、
 
つきいちかぜたかみ ちりのこらず れしそらかな
つきなみひゞきもけにけり。たれか うきねのそでしぼるらむ
つきにうつ大城おほきつゞみしばして。くだちゆくを、たれか しまぬ
 
 かういふ一續ひとつゞきのうたが、まだ/″\あるのですが、これだけにしてきます。
 
つきつてゐるところいてゐる、まちのとほりにゑてあるに、あたるところのかぜおとたかさに、なるほどひどいかぜだとおもつてそらると、げられたちりも、どこへつたかわからぬほどみきつて、れきつてゐるつきそらよ。
月光げつこうてらもときこえてるそのなみひゞきも、おもへばけたかんじのすることだ。かうしたばんに、このうみ舟旅ふなたびをして、ふねなかめてゐるひともあらう。そしてみづうへいててゐるそでしぼるほど、なみだらしてゐるだらう。
つきかゞやいてゐるそらひゞくおしろ太鼓たいこ。それは、もう門限もんげんだといふらせなのです。だがまうしばらく、つのをつてくれとかんじるのは、現在げんざい心持こゝろもちのなくなるのをしむこゝろなのです。それにもかゝはらず、太鼓たいこはどん/\つてゐます。それにたいして、なるほどはだん/\けてくが、このけてしまないひとが、誰一人たれひとりとしてあらうか、とかういふ心持こゝろもちです。
 
 全體ぜんたいつきに何々《なに/\》といふふうに、かしらいてゐるために、幾分いくぶんうた上調子うはちようしになつてゐるが、眞底しんそこにはやはりよいものがあります。いちといつても、いま市場いちばではなく、商人しようにんみせつらねてゐる町通まちどほりで、そこには、いま街路樹がいろじゆたものをゑたのです。それはふるいことで、この歌人かじんのゐた時分じぶんのことではないが、うたうへではかういふふうに、現代げんだいふるいものに爲立したてゝつくることもあつたのです。まぁあなたがたにわかりやすいためには、東京とうきよう銀座ぎんざそのほか街路樹がいろじゆうわつてゐる商店街しようてんがいの、ふけてさわいでゐたひとも、寢靜ねしづまつたのち月光げつこうおもうかべてればよからうとおもひます。
 といふのは、水鳥みづとりが、なみうへることからうつつてて、人間にんげんにも、舟旅ふなたび夜泊よどまりの場合ばあひもちひます。それにも、うきね といふ言葉ことばきといふいやな、なさけない悲觀ひかんすべき意味いみ言葉ことばが、おんからかんじられる習慣しゆうかんになつてゐます。このうた内容ないようよりは、調子ちようしながれすぎてゐるのですが、作者さくしやつきばんに、さびしいこゝろになつて、ほかにもかうしたひとがあるといふことにおもおよぼしてゐる心持こゝろもちが、このひとをなつかしくかんじさせます。大城おほきつゞみといふのは、和歌山城わかやまじようの『とき』の太鼓たいこです。
 このうたべつふかおもひこんでゐるのでもないたのしみを、ぢっとつゞけてゐたといふだけのものですから、調子ちようし意味いみとがぴったりとしてゐます。さうしてこれらのうたは、みなうたつて氣持きもちのいように、調子ちようし調とゝのつてゐます。
 
おきさけて うか鳥船とりふねときのまにかけりもくか。いさなゆらし
 
熊野くまのやまめぐりをしたときうたですが、おきとほはなれてうかんでゐるとりのようなふね、それがいま、そこにをつたかとおもふと、瞬間しゆんかんおよばないとほいところにかけつてつてゐることよ。それはくぢらえたにちがひない。
 
 こんなうたになると、自由じゆううかれるような調子ちようしが、ぴったりともり を鯨船くぢらぶねのすばやい動作どうさあらはすに適當てきとうしてゐるではありませんか。鳥船とりぶねといふのは大昔おほむかし國語こくごで、ふね名前なまへでもあり、同時どうじふねについていらつしやる神樣かみさまのお名前なまへでもありました。あなたがたならば、ふねはやいからとり見立みたてたのだとおもつていてさしつかへありません。熊野くまのくぢらつきのうたです。

 二四、香川景樹かがはかげき 

 この諸平もろひらのゐた時分じぶんに、近世きんせいでもっとも名高なだか香川景樹かがはかげきといふ歌人かじん京都きようとにゐました。非常ひじよう上手じようず評判ひようばんがあり、門人もんじんおほく、その一門いちもんさかえていままでもつゞいてゐるほどのひとでありました。明治天皇めいじてんのうのお師匠番ししようばんになつたひとも、このながれのものであります。そのためにたいへん名人めいじんのようにかんじられてゐますが、これもまた、評判ひようばん實際じつさいとの價値かちちがきた手本てほんで、このひとうたにはほとんど文學ぶんがくとしてねうち のあるものはえません。まづ一例いちれいつてまをしませう。
 
春日野かすがの若菜わかなめば、われながら むかしひとのこゝちこそすれ
 
 これはこのひとのものでもいゝ部類ぶるいうたです。けれども、さき諸平もろひらうたがあるのとならべてませう。
 
曳馬野ひくまのはりはらみだれ、春日はるひくらすは、昔人むかしびとかも
 
 景樹かげきのは、『歴史的れきしてきにいろ/\な記念きねんのあるこの春日野かすがので、自分じぶん若菜わかなんでゐると、むかしひとも、かうして若菜わかなんでゐたのだから、うっかりすると、自分じぶんでゐてむかしひとのようながする』といふのです。おもしろいとおもふでせうが、これは説明せつめいでおもしろくえてゐるので、うたそのものは、たゞさういふおもしろさをかんがへてたゞけで、ほんとうに氣分きぶんうへにまで、むかしひとになつた心持こゝろもちがてゐません。これを知識ちしきうへあそびといひます。それとゝもに、氣分きぶんすこしもともなはない のですから、散文的さんぶんてきうたといはねばなりません。ことにわれながらといふのは、いかにも常識的じようしきてきで、自分じぶんつてゐて、わざとそんなことをいつたゞけだといふことをせてゐます。
 それとくらべてると、諸平もろひらのはさすがにもっと熱情ねつじようてゐます。自分じぶんむかしひとらんとかううたがつてゐるので、そのうたがひのおこみちびきとして、『曳馬野ひくまの――萬葉集まんにようしゆうなどにえてゐる土地とちで、濱松はまゝつからきたへかけての平野へいや地方ちほう――のあたらしくてゐる。――そのはる と、はりののはり とをひっかけてうたつたもの――はり の木原きはらにめちゃくちゃにりこんで、このはる一日いちにちあそんでゐるのは、あの萬葉集まんにようしゆうてゐるひとたちなのからん』とうたがつたので、その一人ひとりとして、諸平もろひら自身じしんふくめていつてゐるわけです。
 景樹かげきうたほうが、みんなにわかりやすからうとおもひますが、そこが散文さんぶんとのちがふところで、意味いみうへからおもしろいことが、きっとうた完全かんぜんなねうち をきめるものだといふわけにはいけないのです。世間せけんのものをても、たれにもわかるものが、きっとよい文學ぶんがく藝術げいじゆつであるとおもつてゐるひともあるが、それはたいへんな間違まちがひであるといはねばなりません。景樹かげきのことはこれでよします。
 景樹かげきなどがさわがれてゐたかげに、評判ひようばんにならずにゐたひとが、まだ/\ありました。その一等いつとうにつくひとは、越中えつちゆう富山とやま橘曙覽たちばなのあけみであります。このひと明治めいじ以後いご新派しんぱ和歌わかといふものに、非常ひじよう影響えいきようあたへたひとですが、それまではあまりひとからさわがれなかつたのです。江戸えどすゑから明治めいじはじめにかけてきてゐたひとです。いひつたへでは、たいへん貧乏びんぼうくらしをしてゐて、しかも國學こくがくうたたのしみをてなかつたひとであります。このひとにも、諸平もろひら同樣どうようおなをはじめにゑてんだうたがあります。

 二五、橘曙覽たちばなのあけみ 

 なかでも、『獨樂吟どくらくぎん』といふのは、五十首ごじつしゆからもあります。名高なだかいものだから、そのうち、六七首ろくしちしゆならべておきませう。
 
たのしみは、くさのいほりの むしろき、ひとり こゝろをしづめをるとき
たのしみは、すびつのもとにうちたふれ、ゆすりおこすも知らでねしとき
たのしみは、めづらしきふみひとり、はじめ一枚ひとひら ひろげたるとき
たのしみは、妻子めこむつまじくうちつどひ、かしらならべてものをとき
たのしみは、こゝろうかぶはかなごと おもひつゞけて、たばことき
たのしみは、晝寢ひるねめざむるまくらべに、こと/\とえてあるとき
たのしみは、とぼしきまゝに人集ひとあつめ、さけのめ ものをへといふとき
たのしみは、わらはすみするかたはらに、ふではこびをおもひをるとき
たのしみは、かみのみくにたみとして、かみのをしへをふかくおもふとき
 
 かういふふうに、最後さいごみなとき』でをさめてゐます。おそらくくちから出任でまかせに、たいして苦勞くろうなしにつくつたとおもはれますが、それがみな下品げひんでなく、あっさりとほがらかにあかるい氣持きもちでげられてゐます。このほかたのしみのうたはありますが、としわかいあなたがたにはわかりにくいものははぶきました。これらのうたならば、あなたがたにも大體だいたいわかりませう。そしてとしくとともに、これらのうたあぢはひが、かはつてかんじられてるのです。だからまづ暗記あんきしておいてほしいとおもひます。
 一番いちばんはじめのうたは、むしろいて、そこにすわりこんで、ぢっとしてゐるこゝろくつろぎをよろこんでゐるのです。
 たばこのうたで、はかなごと ゝいふのは、かんがへなくてもよいようななんでもない、かるいことゝいふことです。これはやはり、大人おとなでないとわからない氣持きもちです。第一だいゝちあなたがたにはたばこをひと氣持きもちがわかるはずがないのです。貧乏びんぼうながら、こせつかずにくらしてゐたことはとぼしきまゝのうたて、いかにもひとなつかしい、善良ぜんりようなこの歌人かじん性質せいしつおもはれます。
 やはりあなたがたにはわかりにく興味きようみかもれませんが、わらはすみする などのうたは、ぢっくりとちついた、そしてなんともいへないこゝろのはづんでゐるのがかんじられるものです。
 最後さいごうたは、よくなかひとつくりそうな道徳的どうとくてきうたですが、このひと眞底しんそこから、さうかんがへてゐたゝめに、ひとからたのまれてつくつたといふようないたところをせてゐません。ことに、かみのをしへをふかくおもふとき、などいふあぢはひは、これからさき、あなたがたにだんだんわかつてるだらうとおもひます。
 このひとは、またもの名前なまへばかりあつめて、一首いつしゆうたつくつてゐます。
 
木樵きこうた とりのさへづり みづおと ぬれたる小草をぐさ くもかゝるまつ
 
 山中さんちゆうといふだいです。山中さんちゆうみゝきこえるものをいつとほりならべて、そしてものしづかなやま樣子ようすかんがへさせようとしたのです。けれどもこれは、和歌わかではまづ出來できない相談そうだんで、おそらくこのひとが、かういふふうな思想しそうあらはかたをする俳句はいくにも、興味きようみつてゐたから出來できたものなのでせう。どうかんがへても、このいつつの現象げんしようが、ひとつの完全かんぜんやまのありさまにてゝかんじられてはません。こんなひとですから、時々《とき/″\》おどけたうたつくつて、ひとわらはせようとしました。そしてやはり、下品げひんすぎるといふほどでなく出來できてゐるのは、人格じんかくによるのです。
 
ものひめ/\に、をひりて、しらみ神代かみよはじまりにけり
わたいりのひめにかしらさしれて、ちゞむしらみよ。わがおもふどち
やをらでゝ、ころものくびありき、われするしらみどもかな
 
 むかしひとは、しらみとなじみがふかかつたゝめに、なんでもなく、かういふうたつくつてゐます。そしてきたならしいあの昆蟲こんちゆうにくんでばかりもゐません。
 最初さいしようたは、すこしおどけぎて、しもなどはわるいとおもひます。二番にばんめのわがおもふどちは、おれのなかよしだといふくらゐの意味いみで、おれだつてしらみとおんなじことだ、とまるで、綿入わたいりの着物きものひめに、あたまをつゝこんでちゞかんでゐるしらみばかりをわらふことは出來できないといふのです。それをふかくおもひんだようにいはずに、かるみすてゝゐるのです。
『やをらでゝ』といふのは、すこ説明せつめいしすぎてゐますが、しもほうになると、いかにも自分じぶんひとからうけたづかしい經驗けいけんを、そのまゝかるこゝろうたつてゐるところがえて、わるいうたではありません。このひと先生せんせいは、加納諸平かのうもろひら同門どうもん田中大秀たなかおほひでといふ飛騨ひだくに學者がくしやでした。その師匠ししよううたとき旅行りよこううた
 
旅衣たびごろもうべこそさゆれ。こまの くらたかねに、みゆきつもれり
 
旅裝束たびしようぞくをとほして、さむさがこたへるとおもつてゐたが、なるほどやついたはずだ。あのむかうにえる、るこまのくらといふまへの乘鞍のりくら高山たかやまに、ゆきつもつてゐる。
 
 このひとは、このやま甲斐かひくに乘鞍山のりくらやまいてゐるが、これはやはり只今たゞいま飛騨山脈ひださんみやく日本につぽんアルプス)のなかのあのやまでせう。このうたはどうかすれば、うまつてたびをしてゐて、それをすぐさま枕詞まくらことばとして、くらたかねといつたようにもおもはれるが、さうかんがへてはいけません。

 二六、大隈言道おほくまときみち 

 なほ明治めいじよりまへ歌人かじんとして、わすれることの出來できないのは、福岡ふくをかひと大隈言道おほくまときみちであります。このひと曙覽あけみのようにかるあかるくあまりかんがへないで、自由じゆううたつくつたらしいひとであります。やゝおもしろさにつりまれて、下品げひんうたもないでもありません。けれども、うたよみとしてはすぐれたひとといふことが出來できます。ことにどもらしい氣持きもちをうた自由じゆうみこんだひとで、そんなのになると、つい/\よいわるいをわすれて、同感どうかんせずにゐられません。しかし曙覽あけみうたで、さういふ種類しゆるいうたをあげすぎましたから、こゝでは、まじめなものを二三首にさんしゆならべるだけにしておきませう。
 
うちわたす をち方人かたびとの、みちおそくつまじき 景色けしきかな
 
 これも、うたにはすくない材料ざいりようで、はるかすんでてがなくかんじられるうへに、みんなこゝろののんびりしてゐる氣持きもちが、よくてゐて、しかも非常ひじよう古風こふう上品じようひん出來できてゐます。
 うちわたす は、見渡みわたすといふくらゐの意味いみ。をち方人かたびとといふのは、むかうのほうあるいてゐるひとみちおそくとは、あしがはかどらないでゐる樣子ようすを少々《しよう/\》かはつたいひまはしでいつたのです。つまりさうしないと、平凡へいぼんうはすべりがするとおもつたのでせう。だから、直譯ちよくやくして、みちがはかどらないでとつておけばよいでせう。とても今日こんにち一日いちにちではききるまい、といふ氣持きもちを、つまじき景色けしきかな、とかういつたのです。
 いままでのうたちがつて、おもくるしいけれども、やはりよいかんじがするでせう。
 
かへりて、たるわらべのたもとより、あたまだせるつく/\しかな
かへるかり、かへりてはるもさびしきに、わらはのひろふ小田をだのこぼれ
 
 このひとどもがすきだつたゝめに、同時どうじに、どもがんでもわかるようなうたあるひ自分じぶんをさな氣持きもちになりきつてつくつたものがたくさん出來できたものらしくおもはれます。
 はるになるとかりが、きたほうかへります。そのあとに、かりはねが、田圃たんぼなどによくのこつてゐます。それをどもがひろつておもちゃにしてあそんでゐるのをつくつたので、さういふ材料ざいりようをごく重々《おも/\》しく爲上しあげてゐるのです。はるかへかりが、かへつてしまつたのちはないても、どもはかり姿すがたえないので、『がん/\竿さをになれぼうになれ』といふ童謠どうよううたふことも出來できないでゐるそのどものさびしい氣持きもちを、はるもさびしきといつたので、大人おとな作者さくしや自身じしん氣持きもちをべたのではありません。さういふ場合ばあひに、そんなどもが、におりてつて、かりのこぼしてつたはねひろつてよろこんでゐるといふうたです。それをすっかり、大人おとながはからつくつてゐるのです。
 もひとつ、どもをたねにしながら、おもうたをあげておきませう。
 
わがこそなにともおもはね。めこどもの してふなべに、うきこのかな
 
 これも、あなたがたにわかりにくい氣持きもちかもれません。がおとうさんおかあさんのとしごろになると、いへ生活せいかつが、よくてもあしくても、なんだか社會的しやかいてきくらしといふものが、重荷おもにかんじられてるものです。さういふとしごろになると、このうたんだ言道ときみち心持こゝろもちがわかるでせう。
 言道ときみちもやはり、曙覽あけみ同樣どうようまづしいくらしをしてゐました。けれどもそれについて普通ふつうひとでありませんから、たいしてにかけたりあせつたりはしてゐなかつたのです。が時々《とき/″\》、もっとよいくらしがしたいといふ氣持きもちがおこらなくもありません。それはおほくは家族かぞくのものたちが、主人しゆじんうつたへる場合ばあひあるひはさういふ心持こゝろもちをかほあらはしてゐる場合ばあひおこつて氣持きもちなのです。
 
自分じぶんはそれはなんともおもつてゐないが、しかし、時々《とき/″\》悲觀ひかんすべき世間せけんだ、とおもふがする。自分じぶんつまが、いやだ/\となかのことをいふにつれて、いやおもはれるこのよといふのです。
 
 すこしものらないところもありますが、いへあるじちそうな氣持きもちをよくいつてゐます。なべに といふは、それとともにと同時どうじになどいふ意味いみですが、このころひとは、かるくゆゑに といふくらゐの意味いみにももちひたのです。以上いじようの人々《ひと/″\》で、江戸時代えどじだい歌人かじん代表だいひようさせたつもりです。



青空文庫より引用