陸中雑記
御明神の風俗
所は陸中の国である。盛岡から西へ六、七里も行くであろうか。雫石と呼ぶ村に入る。そこから更に進むと間もなく御明神の村に達する。余り訪う人もない所であるが、一度訪うた者には忘れ難い土地となろう。なぜならここに珍らしい風俗が残るからである。女たちが野良に出て働く時の身なりである。京の大原女は世にも名高いが、実はそれよりももっと美しく、もっと特色があり、もっと複雑である。日本の地方に見られる風俗としては真に特筆すべきものと思える。また世界の様々な女の身なりの中に入って、人目を殊に惹くものの一つと思える。なぜこんなにも珍らしく、見事な風俗が、移り変りの激しいこの世に残ったものか。私は何も昔を物語っているのではない。今も用いられる着物について述べているのである。それも年とった者だけが用いるのでは決してない。うら若い女たちが身につける風俗である。ちゃんと一と通りの身なりを整えるのに幾つの品が要るのか、とても数々が入り用なのである。
編笠はまるでフランスの女たちの持ち物のようにさえ見える。草で編んで左右の端がいたくそる。縁を黒のびろうどでとり、それに五色の色糸で美しいかがりをする。頂きはしばしば四つの総で飾られてある。糸かがりが面白いのみか、笠の裏側がまた美しい。色々な布で色々な形の裏をつける。皆綿入で裁縫の手並をここでも見せる。日本の津々浦々には、様々な編笠がある。四国土佐の産で美しい細工のを見かけたが、御明神のはそれにも増して特色がある。
笠だけでもおそらくこの村の名が記憶されるであろうが、それはその風俗のほんの一端である。多くは紺絣の細袖の着物を着、これに股引をはき前掛をかける。時としてこれらのものに刺子を施すのを悦ぶ。
さてこの仕度が整えば日除けの背中当(ひごも)をつける。多くはみごで作り、側を紺の布でとりこれに糸や布で模様をつける。様々あるが多く見るのは扇面である。縁起を祝うのであろう。幅一尺ばかり丈は四尺に及ぼう。背中当としては珍らしい形である。余り他国では見かけない。
それは背に当てるが、別に胸当をも作る。多くは紺地の布で、形は長方形である。そうして背と前とを帯紐で結ぶ。さて次には手甲(てうえ)をはめる。手甲の上には紺地に白糸で、草模様などの刺繍が見える。もとより包むのは両手のみではなく、頭布をかぶるのは言うを俟たない。それはかなり大きな「しはん」と呼ぶ布であって、頭のみならず、襟や顎の方までが被うようにされる。
だが草々《くさぐさ》の身仕度はこれでしまいなのではない。最後に珍らしい二つのものを身につける。一つはあの浦島太郎がつけているような総々《ふさふさ》とした腰蓑(まえあて)である。多くは白の麻で編んだ紐から成る。稲刈の時根株をここで揃える。これに加えてもう一つ不思議なものを添える。それは凡そ五、六寸角のものであろうか。馬の毛で細かく編んだ一枚の網である。それを顔の前にあてるのである。いわばヴェールである。この「顔当」は昼野良で仕事をする時、虫を除けるためだといわれる。
これで一通りであるが、雨の降る時や雪の降る時、また重い荷をかつぐ時には上から蓑を着る。その蓑の襟飾りにとても美しいのがある。そうして一挺の鎌をもって野良に出てゆくのである。足袋や藁靴を足に用いるのは言うを俟たない。足袋にはしばしば美しい刺子をする。藁靴の出来も形もまたいい。全体幾個あったら一と揃いになるのか、十数個の品数が集って、この珍らしい服装が整うのである。花嫁が着るのか、祝いの時にでも着るのか、田植えの晴れ着かと思うであろう。しかしそれは働くための身なりである。何も必要から発した品々に過ぎない。誰がこれを定めたのか、いつの時代から始まったのか。何も詳ではないが、ともかくこんな念入の仕事仕度があるとは誰も考えなかったであろう。これは今もある日本の風俗のうちの特筆されていい一つに違いない。
こんなものが残ることは有り難いではないか。ひとえに洋風に走る現世である。こんな純日本の服装が、今も見られるとはむしろ不思議である。それにただ珍らしいというのではなく、美しさが伴っていることを特に記憶したい。こういうものこそ地方が有つ特権といえよう。都の身なりはこれに並べると味気がない。借りものが多く、偽りが多いからである。ただ好奇心からのみ、地方の風俗を楽むというのではなく、地から生れた固有の風俗は、日本の大切な持物なのだという意識と誇りとを有とうではないか。
荒屋新町の漆器
その道の人も余り多くは訪ねない。陸中から羽後にぬける鉄道に、荒屋新町と呼ぶ駅がある。しかしここの名はいつか大きくなるであろう。少くとも名が響いていい色々の要素がある。さて、この村から一と条に浄法寺へとぬける街道がある。今でもそうだが、多くの者が椀だとか片口だとか木皿だとかを担って市日へと出かけてゆく。浄法寺が中心で月始めの毎二日と日が定まっていて市日が開かれる。商人がここに集って品物を買ってゆくのである。地元の陸中北部にゆき渡りはするが、しばしば遠く北海道へも持ち運ばれた。その歴史も今となっては古い。
南部椀と呼んで珍重される椀は、おお方このわたりの産と見ていい。昔から随分と出たと思える。一番いい証拠は荒沢村字浅沢小字石神にある斎藤善助氏の家で、間口十八間とかいう宏大な建物が残っている。文政三年に建ったのだという。この家が主だって漆器を作り出したことはこの界隈では誰も知っている。今でも漆の仕事部屋が続いている。しかしその近所近在に漆塗を業とする者が沢山いる。塗りばかりではない。挽物師も一緒である。それどころではない。この辺では漆の木が沢山植えてある。山へ行けば掻き落とした幹をしばしば見出すであろう。山奥の仕事であるから、そうして多くは雑器を作るのであるから、あの輪島のようなまたは会津のような華かな名は伝っていない。もっと田舎くさい仕事をする。だが私はこんなにも多くの望を抱かせられた漆場はない。名のあるどんな所よりも心を惹くものが多い。草々の理由について書きたいと思う。
私が日本の品物についていやになる点は、出来上りを余りにも神経質に綺麗にこしらえてしまうことである。腕の冴えをそういう所で見せようとの仕ぐさではあるが、このためにどんなに損をしていることか。結果から見て冷たく味のない死んだものに陥ってしまう。こういう点で所々方々の品を見返すと、この癖を一番有たないのは、今までは飛騨の細工であったと思う。この山国の産は不思議であって、最後の仕上げに無駄な手を入れない。だから自然で勢があって、確かさや強さが一段と加わってくる。飛騨のものは大体朝鮮ものにいたく近いが、作る気持ちや作り方が互に非常に似ているのだと思う。朝鮮ものの雅致については今更述べるまでもなかろう。工藝品の美しさに対して、自然の力を残しておくことは何より肝心だと思える。余り人為的に完成してしまうものは、どうしても力が弱くまた冷たい。
漆器を業とする所はいたく多い。が飛騨の仕事のような雅致を残している所は、私の知る限り、独り陸中二戸郡の仕事だけである。何もそれを識ってしているのではない。識ったらおそらく駄目になるであろう。有り難いことには普通ものを作るので、手荒い仕事で終っているのである。この事情が仕事を救っている秘密である。特に高台の削りの如き昔風で、他に例を見ない。上等のものを志す所は、手に手を入れてしまうので、救われないほど死んでしまう。荒屋新町の仕事に私がいたく望みを掛けているのは、実にこの活々《いきいき》した要素が残っている唯一の所と思えるからである。あのアイヌの家に伝っている南部椀の雅致は、私の忘れ得ぬところである。この息が今も続いている所なのであるから、私は心を動かさざるを得ないのである。
だがそれだけではない。長い歴史のお蔭でここでは色漆で絵を描く。好んで黒地に黄や朱で絵を描く。その絵に山水だとか桃だとか銀杏だとか伝った模様があっていたくうまい。ちょっとこれだけ活々と描き得る画工は他にそう見当らない。技術的に緻密なものを描く上手な腕は他にいくらもあるが、皆もう勢がなくなってしまった。しかるにこの村ばかりは未だ活々したものを描く。模様への本能が急に下がってしまった今日、こんな画工の残っているのは、真にもっけの幸である。
轆轤と絵とがよければ既に充分な素質だが、この荒屋新町で特筆されていいことは、地漆を七割も使うことである。今はどの国も地漆がほとんどなくなって、材料を支那や印度に仰ぐが、どうもいい漆とはいえぬ。何といっても日本の漆に如くはない。それが地元で出来るのだから強味である。質がいいのはいうまでもない。
それに有利なことにはほとんど一村挙ってこの仕事をする。あるものは素地を、ある者は轆轤を、ある者は塗を背負う。こんな事情のいいことはない。それも半農半工が多く、仕事ずれした職人たちといたく気風が違う。もしこの村を充分に働かし得たら、日本が漆器の国だという歴史的名誉を再び取り戻すことが出来よう。私はそれを眼前に見得るので今も心が北の国に動くのである。
だが私がここでいい添えたいことの一つは、この村の漆器もいわゆる上等のものはかえって悪い。他国のものを真似たり、仕事に精気がなくなったりして見るべきものが乏しい。特に貿易のために新しく計画されたものは、地方的特質がなく、この村の名誉ある産物ではない。それで見るべきものはむしろ在来の安ものの椀や「ひあげ」や木皿等である。ただ安ものであるため、塗りが落ちて堅牢を欠くのは如何にも惜しい。もし塗りさえもっと着実にしたら、更に確実な存在となろう。在来の形は素晴らしくいいのだから、塗りで一段と活かしたい。
鳥越の竹細工
ここは陸中国二戸郡浪打村字鳥越小字八木沢である。福岡に行く街道筋から一里ほど手前の所を左に折れてこの村に入る。ここを訪ねたのは村の多くの男たちや女たちが作る竹細工を見るためであった。竹といっても寒い北国には太い男竹は茂らない。山から切ってくるのは径四、五分もあろうか、細い篠竹である。土地では黒竹と呼ぶ。皮が黒ずんでいるからであろう。自然の威圧は材料を制限する。だがこの不自由は一面から見れば、南国には見ない材料を与える。だから他の暖い国では生れない固有の工藝が与えられる。それをむしろ自然の恵みだと考えることが出来よう。不自由だと嘆くのは人間の我儘な嘆きであって、むしろ自然の仕組みの不思議さを讃える方がいい。陸中の竹細工はどこにもない独自の存在である。その形や編み方は細い竹からのみ来る必然な結果である。だからここで独自の美しさが生れる。その美しいものの数々がこの村で出来る。一戸や福岡あたりの荒物屋を訪うと、面白い方言で色々とこれらの竹細工を扱うのを見るであろう。八戸あたりにも販路が広がり盛岡や日詰の町々にも出る。「大丸木縁」「小丸木縁」(縁附丸笊)「かこべ」(桑籠)「荒とす」(「とす」は「通す」の意で篩)、「おぼけ」(緒桶の意か)等色々に呼ぶ。その他最も多く作るのは行李である。大中小様々あるが、大きいのはもとより旅の用、小さいのは弁当箱まである。小型のものには、しばしば黒で染めた竹を編み込んで色々と模様を出す。最も上等なのはただに編みが細かいのみならず、二重張りで両面に表が出る。品格があって美しい。細い竹を裂くから柔軟で、縁作りも籐のように自在である。
見ると家中の者が手伝って励む家庭の手工藝である。見るとなごやかな場面である。静な村で人知れず生れてゆく品物である。不思議にも形に醜いものはない。
いつ頃から、どうしてこんな業が、こういう土地で生い立ったのか。村の古老はこう語ってくれる。ある僧が旅で病んだがこの村の人が手篤く看護したために癒えたという。坊さんはそのお礼にといって、竹で籠を編む手法を村の人に教えてくれたという。それが始まりでいつとはなしに村の仕事にまで広がっていった。農事の傍らにする手細工だが、今では村の経済を支えるのになくてならない仕事である。それよりも南部の人たちの家庭にはなくてならない品物である。
「この村は不思議な村です。日清、日露の役に随分兵隊を送りましたが一人だって戦死者が出ないのです。こんどでもきっと一人も死なないでしょう」。それは昭和十三年のことであった。村の人がそういって吾々に話しかけた。何か運命について疑いを有たない信心が見えた。
「おしら様をおがませて頂けないでしょうか」。吾々の仲間がそういい出した。「おしら様」というのは、神秘な土俗的な神様で、陸中のある村ではこの信仰がまだ厚い。人間の運命を司る世にも不思議な力であって、誰もこの神を怖れ崇める。
「他人様にお見せすべきものではありませんが、貴方がたには特別お出し致しましょう」。そういって主人が奥の方へ入った。暫くして携えて来たのは、新しい筵である。吾々に縁に腰かけるようにと持ち出したのだと考えた。だがそうではない。おそるおそる不思議なものを抱えてその筵の上に座らせた。丈は一尺ばかり、細く裂いた布が、総のように上から垂れ下り、それがほとんど丸い形にまでふくれている。聞けば年毎に一つずつ裂布を、お着せするというから、おそらく百余年もたっているに違いない。煙に燻ぶって黒ずんでいるが、実に色様々なものが用いてある。もし許して手に触れさせてもらえたら、百余年の織物の歴史が一目で分るに違いない。だが誰もそんなことをする気持ちはない。何か物凄く怖く気味の悪い姿がなまなましく心に迫る。何が布の中に匿れているのか分らない。だがそれはしばしば棒であり、その棒の頭には時折人間の顔や馬の首が刻んである。今日まで知られているものでは、おそらく天正の銘記のあるのが一番古いであろうか。少しでも不敬なことをすればそのたたりは覿面で激しいという。だから誰も恐れ敬っている。
こんな土俗的な神がどこから起ったのか。オロッコやアイヌの守神(シャーマン)の様子を想い起さないわけにゆかぬ。削りかけの中に御神体が埋まっている様は、どうしてもその間に因縁があるのを想わせる。だが私はこんな民俗学者の問題をここに取り扱おうとするのではない。こういう信仰を土俗的とか迷信とかいって一途に蔑むくせがあるが、そんな安価な見方で農村の暮しを判いていいだろうか。そのことの方が私には問題である。禁制の恐れは、人間をどんなに真面目にしていることか。彼らのいい手仕事の裏に、彼らの信心が動いてはいないだろうか。なぜ東北の工藝に見るべきものが多いのか。それを信仰の暮しに帰すことは誤りであろうか。迷信は棄てていい。だが迷信の奥深くに潜んでいるある神秘なものをも棄てていいだろうか。私たちの生活にはこの神秘さがないばかりに、偽りの暮しに流れるのではないか。都会の工藝がなぜ醜くなったかの原因について想い廻らさないわけにゆかぬ。この鳥越の村の暮しと手仕事とを見て、私どもはこういう問いに入る。
衣川の漆器
衣川といえば誰も歴史に覚えがあろう。近くの平泉は金色堂の名において、藤原三代の栄華の跡を語っている。この地を過ぎて芭蕉が咏じたという「夏草やつはものどもが夢の跡」という句は、あるいは一番永く残るのかも知れぬ。だが私がここで語るのは、それらの名だたる史実についてではなく、小さな寒村にささやかな仕事を営んでいることについてである。
村の名は同じ衣川であるから、歴史に響いている所である。だが私のいう衣川は、衣川の村でも奥の奥で、その道を進めば秋田ざかいに出るという所である。陸中国胆沢郡衣川村増沢と正しくは呼ぶ。今は愛宕まで水沢から乗合が通うから、そこから一と山越えて一里余りを歩けばいい。だが地図で見るなら如何に衣川村の谿谷の、一番奥の小さな村だかを知られるであろう。この増沢は五十戸ほどよりなく、人々を集めても四百人に足りない。私がここにその小さな村について語るのは、この村が漆器の村として、広く知られていいからである。わずか十二戸、三、四十人余りの人が携っている仕事に過ぎなくはあるが、語るに足りる様々な事柄がある。今まで詳しく伝えた人がないので、代って筆を執りたいのである。
漆器の村としてどれだけの歴史があるか。今はしかと記憶する者がいない。飢饉のため幾度か倒れ、倒れてはまた起きた事実があるので、遠いことの記録は何も残ってはいない。今知っていることはわずか五、六十年を溯らないようである。また村に古いものとして残るものも、そんなに時代があるとは思われない。だが陸中は古くから漆器を以て名高く、平泉の文化が何かの形でここにも残ったと想うのは、強ち無謀な空想ではない。だから漆器の村としての増沢の歴史は、相当古いのではないかと考えられる。近在に漆の木も決して少くはない。
この村から現に産出する品物の年額はほぼ三万円以内というから、漆器の産地としては決して大きなものではない。だが生産の組織にとても不思議な一面が見える。今は組合を作って、なるべく公平に仕事が行き渡るように仕組まれているが、村の人の話によると、出来た漆器を今まで一度も商人に売ったことがないという。まして百貨店の注文を受けたり問屋の仕事をしたりすることはないという。今時珍らしい現象で、仕事は皆個人の注文だという。多くは二十人前を単位に漆器一と揃いの注文を受けるのだそうである。四十人前一揃いのことも稀ではない。注文主は近在はもとより陸中一帯、多少は陸前へも延びるという。
これで、はたと思い当ることがある。陸中の田舎を訪ねて土蔵を見せてもらうとしよう。そこにしまってある器物の大部分は漆器なのである。昔から秀衡椀とか南部椀とか名があって、この地方と漆器とは切っても切れない関係にある。大体徳川時代の初期に焼物が盛に作られるまでは、日本人の食器といえばほとんど凡て漆器であった。しかし焼物の出現は嵐の如く食器界を風靡してしまった。寺のようなよく旧習を守る所や、庄屋のような古い家は別であるが、食器の多くは陶磁器に変ってしまった。
しかし伊万里とか瀬戸とかから遠い北方の国々には、容易に行き渡らなかったと見える。それに北国の人々は保守的であるから在来の習慣を破ることをなかなかしない。今もなお陸中では漆器を用いる習慣が非常に固く残っている。それに都会とは違って田舎では婚礼の時、葬式の時、棟上の時等、村中の人が寄り合って、大勢で食事をとる習慣がある。だから二十人前三十人前の食器が揃えてなければ不自由である。これを有たないことは一種の恥じなのである。少し財産が出来れば土蔵を建て、まずそこに納めるのが漆器なのである。特にこの国は漆器を用いる地方として、日本一ではないかと思われる。実にこういう事情が衣川の小さな村を多忙にしているのである。人々は商人から買うよりも直接に注文する方が一層安くてかつ手堅いものを得られるのである。村の人々も旅を続けて注文を取って歩き廻る。かくして個人からの注文のみで仕事が続くのである。「われながら、よくもこういう注文が長年続くものです」と村の人も述懐している位である。
これは手工藝の仕事に見られる実に珍らしい現象といえよう。ごく昔は自然にこういう形態で仕事が為されたであろうが、商業主義の旺盛になった近代では、ほとんどあり得ないことといっていい。皆問屋や商人の下敷になって、苦しい産業を続けている始末である。ところが増沢ではそんな不幸を知らない。このことは産業上の素晴らしい仕組といっていい。これがためか、村の人に激しい貧富の懸隔はない。
では作っているものはどんなものか。私は最初この村を訪ねて品物を見せられた時、少しく失望を感じた。私の知っている南部椀系統の古格ある形ではなくして、会津風な新しい形のが多いからであった。理由を聞くと、近年会津から講習員を招いて教わったのだという。淳朴な田舎の人は、自分の所のものはおくれていて悪いものだと思い込んでいるのである。ただこういう錯誤は別として、塗りの手堅いことには一驚を喫した。かなり安い椀にも随分手をかける。決して誤魔化しをやらない。「衣川の漆器は丈夫だという評判です」。そう村の人も話している。実に手堅い塗ということが、この衣川漆器の生命である。これを荒屋新町のものと比較すると丁度反対である。衣川のものは塗が上等であるが、形が外来のものであるため、損をしている。荒屋新町の方はかえって安ものに昔風のいい形のが残っている。ただ塗がずっと落ちるのが欠点である。もし一方に形をよくし、一方に塗をよくしたら、陸中は漆器の国として再び日本に冠たることが出来るであろう。村が小さいだけによく統制すれば素晴らしいものを産み得るに違いない。これに反し輪島とか会津のような大きな産地は、改善することが至難である。
なぜ衣川の漆器が手堅いか。それは単に素地の乾燥がいいとか、塗が丁寧だとか、材料がいいからとかいうことだけではない。想うに村の人々の暮しに誠実なものがあるからである。最も大きな力となっているのはおそらく「かくし念仏」の行であろう。この念仏宗は今は東本願寺の系統に属しているが、別に僧侶を設けない。文字が示す通り一種の秘密宗派であるが、篤心な念仏行者の集団である。「かくす」ということには歴史的圧迫等が働いているのだと思えるが、一面真言秘密の場合と同じように、また原始宗教が凡て禁制(タブー)に依るのと同じように、猥りに口外すべきことでなく、またこれを犯す者は天罰を受けるという固い信仰による。この禁制は「恐れ」を伴うほど無上である。そうしてこの「恐れ」こそは、ゆるみがちな人の心を厳粛にさせねばおかないのである。それ故この行は村の人を自から道徳的にしている力である。「かくし念仏のお蔭です」と村の人もいう。この念仏の行が続く限り、増沢の漆器が悪くなることはないであろう。この村では犯罪がなく、巡査も月に一度ぐらいただ廻ってくるに過ぎないという。別に駐在所などはない。要らないのである。
この村は不便であって、小学校にも一里余り、郵便局には三里近く、医者はいない。他県人はごくわずかで、皆土地の者だという。水沢や一の関には五、六里の行程である。
話が前後したが、この村で用いる漆も地漆が七割で、有り難いことだといっていい。このことも衣川の手堅い塗の大きな要素といわねばならない。こういう村のことを思うと、本格的な漆器をどうかしてここに育てたい念願にかられる。人も揃い、技も揃い、材料も整っているのである。そうして何より職人気質が残っているのである。あとは正しい形と模様とを植えつければ、昔の秀衡椀に伍す品を作ることは決して難事ではない。未だそこなわれない内に、正しい生長を望みたいのである。結果が目前に浮ぶので、この村への希望が燃えてくる。おそらくここほど容易に秀でた品物を将来産み出し得る可能性のある所はないであろう。この村を守る者に課せられた大きな悦ばしい責任である。
青空文庫より引用