グリュックスブルグ王室異聞
はしがき
「その時わたくしは、下町のフォーゲル街で父の遺した家に母と暮していましたが、四月初め頃のある朝、……まだ日陰には雪が残って、その中から……ミルザの花が咲いていましたから、三月末頃だったかも、知れません。ある朝事務所の前に、すばらしいイスパノスイザの高級車が停まって、頬髭いかめしい年輩の執事が訪れて来ました。中央公園のドラーゲ公爵家から来たものだが、お願いしたいことがあって、大奥様がお待ちになっていらっしゃるから、すぐ御足労願われまいかという、口上だったのです」
とイングリード・アイネス嬢は、話し出した。……というところから書き出すと、簡単なのだが、それでは何のことやら読者には、わからない。そこで、イングリード・アイネス嬢とは、いかなる婦人ぞや! ということを、初めに申し上げておくことにしよう。
今から三十年ばかり前、一九二四、五年代に、聖林で一代の天才とうたわれた、アスタ・ニールゼンという名女優を、読者は御記憶であろうか? この女優は独逸の生まれであるが、その名の示すごとく丁抹の人である。
ニールゼン嬢は殊に、ストリンドベルヒの戯曲、伯爵令嬢ジュリアの役を、得意としたものであるが、初めてアイネス嬢に逢った瞬間、私がそのニールゼン嬢の俤を思い出したと言ったならば、この婦人の持つ美貌、殊に理智的な美しさや、金髪の波うつ生際、幾分憂鬱な眼光は見せながらも、全体に抱きしめてもみたいほど、若さと健康の匂った愛くるしさなぞが、少しは読者にわかってもらえるのではなかろうかと、考える。
これが今、丁抹で持て囃され、ひいては欧州一般にまでも名を轟かせている二十七歳の女探偵であろうか? と、いくたびか私に眼を瞠らせずには措かなかったのであるが……と申し上げたら、これでようくおわかりになったであろう。すなわち嬢は、丁抹切っての有名な婦人探偵なのである。
二年ばかり前、仏蘭西へ行ったついでに、北欧三カ国へも足を延ばして丁抹を訪れ、警視庁から頼まれたこともあって私が同嬢とも、しばしば会談する機会を持った時のことであったが、コペンハーゲン市の山の手ニュールンベルグ街端れの、有名なゲンテフテの森に近い嬢の家へ行くと、応接間の暖炉棚から右側の壁を埋めた、飾り戸棚の中一杯に、政府や個人会社等から贈られた、勲章、賞牌、徽章等が無造作に押し込んである。
中に一つ豪華な、物凄く人目を惹く、金目の置き物があった。十吋幅くらいの部厚な銀台に精巧な頸飾りを彫刻して、ほんものの幾つかの小粒のダイヤが鏤められ頸飾りの輪を結んだ上には、大鷲の掴んだ青銅板の中に、「深甚なる感謝をもって、イングリード・アイネス嬢へ、ドラーゲ公爵家より」と刻まれてある。
「ほう、これはすばらしい、これは素敵だ」
と感嘆して、ためつすがめつ、私は眺めていたが、一体このドラーゲ公爵というのは何ですか? と問うたのに対して、
「年代を、見て下さいな、もうかなり、以前のものですわ」
と何かこの飾り物には、触れるのを好まぬらしい様子であった。年代は一九四八年、私の訪問に先立つさらに、四年ばかり以前のものと思われた。
この物語は、その時根掘り葉掘り、しつこく私が穿くり立てたのに対して、初めは幾分羞恥と躊躇の色を見せていたが、そのうち諦めたのか苦笑しつつ、到頭詳しく話してくれたところを、今私が順序立てて、物語に拵えようとしているものである。と、これだけのことを付け加えさせておいてもらおうか。
海蛇の頸飾り
そこで食事を済ませると、早速同嬢は公爵邸へ車を走らせることとした。なにしろドラーゲ公爵といえば、丁抹全土に隠れもない名家である。ユトランド北部、スカーゲン方面に宏大な農地を持ち、先々代のフレデリック・ドラーゲ公は、確か総理を務めたことがある。亡くなった先代のクヌード・ドラーゲ公も商務大臣を、そしていくらか現王室とも繋がりがあるように聞いていた。
世継公爵はまだごく若い人であったが、ともかく丁抹国内でドラーゲ公といえば、誰知らぬものない大貴族であり、大富豪でもあった。中央公園脇の王様丘に、王城のような大邸宅を構えて、定紋打った大門の鉄扉を潜ってから、両側に並んだ石造の獅子や、毛氈を敷き詰めたごとき眼も遥かな芝生、丈高い羊歯の群生した道の長いこと長いこと。
絵のような樹苑を向うに眺めながら、やがて見事な大樹が双方から掩い被さって、自然の緑門を拵えた見上げるような大玄関へ着くと、昔ながらの金筋いかめしい仕着せの召使が、壮麗な応接間へ導いてくれる。
と、待つ間ほどなくそこへ、大奥様と呼ばれる商務大臣を務めた先代のクヌード・ドラーゲ公未亡人がはいって来た。
デップリと肥満した、五十余りの未亡人はいかにも大貴族の大奥様らしく、大柄の堂々たる恰幅をしているが、顔色がひどく、冴えないように思われる。
「あなたがイングリード・アイネス嬢? お呼び立てして失礼だとは思いましたが、折り入って一つ、お頼みしたいことができましてね……実はわたし共の頸飾りが昨夜盗難にかかりましてね」
というのっけからの挨拶であった。
「まあ! 海蛇が? あの海蛇の頸飾りが盗られたんですの?」
とびっくりして嬢は一足歩を進めたが、公爵家の海蛇の頸飾りといえば、公爵家の名前よりもっと昔から、丁抹全土に響き渡っていた。いいや、国内はおろか! 宝石マニヤ垂涎の的として、欧州中にも轟き渡っていたかも知れぬ。
「どういうわけで、海蛇なぞと不思議な名前がつけられているのか、……形からそういわれているのか? さまざまなことをいう人はありますけれど、ハッキリした由来はわかりませんのよ。ただ、昔からそう呼ばれてますの。なんでも、十九世紀中頃とかに、公爵家の御先祖が戦功をお立てになって、瑞典のシーゲムンド六世とかから、お貰いになったものですとか。それ以来、公爵家の無二の家宝になっていますのよ」
〇・六五、八五の小粒は元より、一カラット、二カラット、四カラットから中には十カラットくらいの大粒のダイヤが、絡み合った二匹の海蛇を象った精巧な白金の鎖に百何十個も鏤めてあるという、評判であった。到底時価になぞ、換算できるものではないが、もし強いてすれば、おそらく七、八千万クローネから一億クローネ近くのものであろうと噂されている。
「まあ、お掛けになって」
と未亡人は、そこの椅子を指し示す。自分も肥満した身体を掛けながら、
「少し考えがありますから、国家警察局にも都市警察庁へも、どこへもまだ届けてはありません。わたくし共は、少し王家の続き合いになってるものですから、こんなことで王室に、御迷惑をおかけしたくもないと思いましてね」
と妙なことを言い出してきた。
「しかし、盗まれたものはどうあっても、取り戻さなければなりません。御婦人の探偵では、心細いと思わぬでもありませんが、ここは一つあなたに全力を尽していただこうと思いましてね」
そうら、始まった! と嬢は苦笑した。一億クローネの頸飾りの盗難は公爵家にとって痛事には違いなかろうが、婦人の探偵なるが故に心細いといわれるほど、彼女にとって不愉快な侮辱はない。
それほど頼りになる探偵が御入用でしたら拳闘家崩れの耳欠け鼻欠けでも、お頼みになったらよろしかったでしょうに! と、皮肉の一つも言いたくなってくる。
「何もわたし、女だてらに好き好んで、探偵なぞになったわけではありませんのよ。別段この仕事に、意義を感じてるわけでもありませんし……ただ……父が亡くなったもんですから」
と一瞬嬢は口籠った。
「やっぱり探偵だった父が、たくさんの負債を遺して亡くなったばっかりに、この仕事以外ではお金が返せそうもありませんし……それでいつの間にか、ズルズルとこんな鑑札なんぞ、つけてしまいましたのよ」
とやや羞い気味に、幾分愁然と上衣の内側を裏返して見せた。そこには、拳銃使用の許可証と同時に、丁抹内務大臣によって下付される、王冠と獅子と白鳥を組み合わせた銀の小型の探偵章が、燦然と煌いている。
「そういうわけで、一つ存分に、お骨折り願って……いかがでしょう? こちらにもちょっと見当をつけてるところはありますが、取り返して下さる自信は、おありでしょうね?」
「ハ、お話を伺ってみなければ、ハッキリした御返事も申し上げられませんけれど、……わたくしできるだけのことはいたしまして」
「できるだけのことなぞと、そんな頼りない御返事では、困ります。できてもできなくても、必ず取り返してやる……と」
と肥大な二重頤の眼が底光って、強いの強くないの、まるで我の中から生まれてきたような婦人であった。
「……いかが? アイネス嬢、ハッキリと引き受けてもらえましょうかね?」
「では奥様、わたくし責任を持ちまして必ず、……ともかく、事件の顛末を、お聞かせ下さいまし」
「わたし共の方こそ、篤くりと一つ、聞いていただかなくてはなりません」
公爵家では、当主のヘンリク・ドラーゲ若公爵二十五回の誕辰祝賀のため、昨夜百七、八十名ばかりの知人を招いて夜会を催した。
「王室からは、国王陛下の御名代として、スヴェン・フィリップ・殿下が、おいで遊ばして……」
フィリップ殿下と聞いた途端、ハッとして彼女は、顔を曇らせた。が、急いで素知らぬ顔を装って、耳を傾けていた。宴は殿下を中心として七時半から始まって、十時に終った。引き続いて、十時から十一時半まで舞踏会に移り、客が全部引き揚げたのは、十二時ちょっと過ぎくらいではなかったかと思われる。来客の引き揚げた後、二階の寝室へ引き取って、未亡人が金庫へしまおうとして頸飾りを取り外してみると……。
「いつの間にそんな偽物と、すり換えられていたのか、わたしにはなんとしても腑に落ちないのです。お客様方がおいでになる前に、……そうですね、七時頃からわたしはホール入口に立って、お客様方をお迎えしましたから、着物を着換えて、頸飾りを金庫から出した時は、六時半頃だったか知れません。その時は間違いなく、ほんものの海蛇だったのです。それが外してみると、……いいえ、外してもまだ、わからなかったのです。金庫へしまおうとして、掌に載せた感触が、どうもおかしいなと気が付いて、よくよく見たら色といい形といい、似ても似つかぬ偽物だったのです。そんなものをかけて大勢のお客様方に御挨拶申し上げていたかと思うと、まったく穴あらば、入りたいくらいです」
と肥った未亡人は苦り切っている。
「これが、その偽物です」
と腹立たしげに、卓子の端に載っている紙包みを開いて見せた。いかなる紛い宝石よりも、ダイヤの真を写すものは硝子だといわれているだけあって、白金の鎖に鏤めてあるものは、ことごとく硝子玉ばかりである。しかし、キラキラと光芒を曳いて、取るにも足らぬ硝子玉が、なかなか立派に見える。色沢といい、精巧度といい、犯人はもちろん初めから、海蛇を狙ってこの偽物を準備したものであろう。白金鎖も、絡み合った二匹の蛇体を象っている。
会場なぞで、この堂々たる恰幅の未亡人が着けていたら、誰でもほんものと見誤ったかも知れぬ。ふだん見慣れている当主夫妻でさえ、母親の騒ぎ出すまでは、気が付かなかったという。
「では、七時半から十一時半までの間に――宴会が始まってから舞踏会が終るまでの間に、お奪られになったということに、なりますね。その間に、御気分でも悪くて、しばらく席を外しておいでになったというようなことは、おありになりませんでしたか? 軽い眩暈でも、なさったとか……」
「ありません。倅や嫁が一緒におりましたから、この二人が、よく知っております」
「思いがけなく誰か、寄り添ってきたというようなことでも? ……出合い頭に、誰かブツカッタというようなことでも、ございませんでした?」
この質問は、驕慢な貴婦人の気持を、よほど傷つけたと見えて、
「そんな、はしたないことは、ただの一度もありません。皆さん御身分のある、お方ばかりですから」
と御身分というところへ、イヤに力を込めてくる。
「舞踏は、どなたかと?」
「少々糖尿の気がありましてね、医者から禁じられていますから、一切しません。禁じられなくても、もうこの年ではね」
と贅肉を湛えた頬に、苦笑を泛べる。
「では、……大勢お客様方のいらっしゃる前に、おかけになっていらした頸飾りが奪られて、偽物がかけられていたと、ひとまずそういうことにしておきまして、……後刻また、詳しく伺わせて下さいまし」
とここで質問を、一応打ち切ることにした。
「では奥様、実物の頸飾りの恰好を、お話し下さいませ。この偽物と実物は、どの点がどういう風に違っているのか、宝物は幾カラットくらいのものが、どこについていたとか? そういう点をできるだけ細かに、……もし奥様だけの御記憶でなんでしたら、若奥様もお呼び下さいまして。写真でもあれば、なお結構なのですが」
「さあ、特別に頸飾りだけを、撮したというものもねえ」
「ございませんでしたら、奥様のお写真で、結構ですわ。頸飾りをおかけになりましたところを」
現場も調べてみなければならぬし、召使たちの口占も、合わせてみなければならぬ。自宅へ電話をかけて、エッベとオーゲの二人の助手を呼ぶこととする。その二人の来るまでに写真や未亡人の話を基として、盗まれた頸飾りの大体の見取図を作り上げた。
公爵未亡人
頸飾りは二重に廻して、中の輪の中心に十カラットがついている。その外を大円を描いて、外輪がゆるやかに胸の上に垂れ、九カラット、八カラット、順次に三、二、一カラットから、〇・八五、六五までのもの、いずれも欧州一といわれる粒選りのダイヤばかり、百二十二個が鏤めてある。
台は二匹の海蛇を象った、糸のように繊い白金の鎖、全長五十四吋ある。重さは正確なことはわからぬが、この偽物と掛けた感じはまったく、同一である。それだから、スリ換えられても少しもわからなかったのだと、未亡人が言い添える。ともかく、この偽物は持って帰って、指紋を検出しなければならぬ。
当主公爵は、すでに会社へ出勤して留守であったが、そこへ公爵夫人が現れた。深窓に育った姫君といったように、結婚しても公爵夫人とは名のみで、家政の一切は男勝りの未亡人が切り廻して、夫人は夫公爵とともに部屋住みの人形のような生活を送っているのであろう。
「あの頸飾りは、お母様がほんとうに大切にしていらっしゃいますの。めったにお使いになることもございませんし、召使たちには絶対触れさせもなさいませんわ。昨夜はお客様方がいらっしゃいますので、久しぶりで金庫からお出しになりましたの。早く見つかってくれれば、嬉しいと思いますわ」
これではどうにもならぬ。この小娘のような若夫人から、何らかの手懸りが得られようとは、思われぬ。
ともかく、昨夜の宴会場へ、案内してもらうことにする。
「御名代殿下が、ここへお就きになりまして、そのお隣りのお席へ、ガーネット亜米利加大使様の奥様、お隣りが保守党のアムンダゼン総裁様でございました。こちらの隣りのお席へ、ハイベルグ外務大臣様が、お就きになりまして」
と未亡人は居間へ引っ込んで、今朝来た例の頬髭の執事が、代って仔細に説明してくれる。
「大奥様は、殿下の向って左……このお席でございます。そのお隣りがスタッセン英国大使様、御当主様は、ここへお就きになりまして、……ハイ、若奥様はあの辺でございました。手前は、この辺に立っておりました。最初の前菜の時は、あすこでスチュワートたちとお客様方の御接待をいたしておりましたが、三鞭になりましてからは、ここに立っておりました」
「お客様方のお名前はおわかりでしょうね?」
「ハイ、御招待の控えが、手前のところにございますから」
「後で大奥様のお手許まで出して下さいな、拝見したいと思いますから」
「畏まりました」
来客たちが歓談したという控えの間や大食堂前の大廊下へ出る。さらに幾つかの廊下を折れ曲って、大舞踏室へ案内される。これらの廊下には、高価な暗緑色のペルシャ絨毯が敷き詰められて、諸所に長椅子や棕櫚や、龍舌蘭等の熱帯樹の植木鉢が飾られてある。
壁には名匠の油絵や、天鵞絨で掩われた壁龕がところどころに設けられて、大食堂も廊下も大舞踏室もことごとく、内庭の芝生に臨んでいる。
「では、一応金庫も、見せていただけませんか?」
再び未亡人が出て来る。
「お前はもうよろしいから、あっちへ行って」
と、さすがに金庫をあけるところだけは、執事にも見せたくないのであろう。未亡人自ら、牝牛のような身体を運んで、先に立つ。今見てきた建物を鍵の手に折れて、大階段を二階へ上ると、正面の扉が未亡人の亡夫、商務大臣を務めた先代のクヌード・ドラーゲ公生前の居間になっている。
並んで右側が、未亡人の居間。寝椅子、長椅子、安楽椅子、大卓子等のゴタゴタした調度の間を通り抜けると、向う側が穹窿形に刳り抜かれた厚い壁になって、どっしりとした帷が裾を曳いている。ここが、未亡人の寝室であった。寝台の右手には窓に向って、大きな六面鏡が据えられてある。
そして寝台の斜め後方の壁が一呎ばかりも刳り抜かれて、中はおそらく厳重な、鋼鉄張りの耐火設備にでも、なっているのかも知れぬ。おまけに同じような壁紙が金庫の扉を掩うて、支那製の螺鈿の衝立が前に飾ってあるから、到底人には気付かれぬ場所である。これが夫人のいわゆる金庫、宝石類を入れておく、隠し金庫であった。
「まあ、おかけなさい」
と穹窿越しに居間の椅子を指し示した。
「少し、お話しておきたいこともありますから」
そして、未亡人とそこの椅子に差し向ってまた、問答が始まってきたのであった。
「失礼ですが、奥様、どなたにでも、記憶違いということはございますから、奥様はそう仰有いますけれど、いつの間にか金庫の中で、スリ変っていたと……奥様がほんものだとお思いになって、お着けになった時はもう、偽物だったということは、ございますまいかしら?」
「わたし何度でも、ハッキリと断言しますが、着物を着換えて階下へ降りた時には、間違いなくほんものだったのです。長年見慣れていますから、わたしに見損いなぞということは絶対にありません」
「奥様が階下へお降りになってから、お客様方がお帰りになるまで時間にして、ほんの四時間ばかりということになりますが、お客様方の眼の前で、おかけになっていらっしゃる頸飾りが取り換えられたということは、普通では考えられぬ、魔術のような早業だということになります。やっぱり、金庫の中で換わっていたのでは、ございませんかしら?」
「絶対に、間違いはありません、アイネス嬢! まだ疑いがお晴れにならなければ、一つ証拠を御覧に入れましょうかね」
その解けない謎を解くのが、探偵の役目ではないか! といわんばかりの様子で、蔑むような薄笑いが、未亡人の唇に泛んだ。
「もう一度、こちらへいらっしゃい」
また、寝室の衝立の陰へ入る。壁紙と同色のその金庫の扉を開くと、奥にもう一つ、頑丈な鋼鉄の扉が見える。
「いいですか、アイネス嬢! ここまではなんともありませんよ。しかし、もしこの中の扉に誰か手をかけたが最後、電流が通じてありますから、この邸の中六カ所で、同時に電鈴が鳴り響く仕組みになっています。これだけは、どこにあるかあなたにも申し上げることはできませんがね」
と未亡人の面を、狡そうな色が掠めた。
「この二つの部屋のうちのどこかに、わたしだけの知っているスイッチが、隠してあります。わたしが出し入れする時は、そのスイッチを切ってから扉を開けますから、電鈴は絶対に鳴りません。これで、御納得がいったでしょう? 今日まで邸中の電鈴が鳴って、騒ぎ立てたなぞということは、ただの一度もないのです」
言葉そのままを鵜呑みにするわけではないが、こうまで強く言い張られると、しばらくその言を信じておくほかはない。金庫は別段、コジ開けられた様子もないが、一応指紋検出の薬を、扉にかけることだけを許諾してもらう。
ともかく未亡人の言葉どおりとすれば、その御身分のあるお客様方の御接待をしている間に頸にかけている一億クローネの頸飾りは衆人環視の前で、三文の値打ちもない硝子玉に変ってしまったということになるが、そんな摩訶不思議なことのあるべきはずもないから、ここで嬢の質問の形が変ってくる。
「偽物を御覧になりまして、……表面から眺めただけではわかりませんが、ごく些細な点で……たとえば裏の留金の締まり工合とか、硝子の嵌め工合とか、よほどよく宝物を知っていなければ、これだけの偽物は作れないと、お感じになりましたでしょうか?」
「オホホホホホ」と未亡人が笑い出したと言いたいが、この驕慢な夫人は、男でも顔負けするくらいの、体格雄偉な大女であったから、その笑い声もオホアハと、男女混声に響いてくる。
「オホアハハハこの偽物はそれほど入念には、拵えてありませんよアイネス嬢! お客様方がいらっしゃる時でしたから、わたしも取り上せていましたが、ふだんならば、スグに見分けがつきますね。ほんの、一時間に合わせのものですよ」
探偵のくせに、そんなことばかり穿くって何になる。犯人の目星はちゃんと、ついてるじゃないか! と言わんばかりの苛立たしさを、露骨に頬に現している。
「では、実物と偽物の違いは、……ほんの一度か二度、奥様のおかけになってるところを見ただけでも、拵えられる程度だと仰有いますのでしょうか?」
「そのとおりです」
「かなり重さのあるものが、大体、似ているとすれば、……一度くらい自分の手に取って見たのでなければ、見当がつきませんでしょう?」
「それは、そうですね。しかし、この程度の粉い物なら 、一度手に取って見れば、スグ拵えられますよ。ほんの見たところだけの、ごく大ザッパな模造ですから」
「奥様、今日までに頸飾りに興味を持って、見たいと仰有った方たちの、お名前は、おわかりでしょうか? 手に取って御覧になった方たちの、お名前だけで結構でございますが」
「さあ、それは……」
と未亡人が当惑した。
「わたし共に、こういうものがあることは、皆さん御存知ですから、随分大勢の方が、今日までに見たいと仰有って、御覧に入れたことがあります。……たとえば、首相のシュレイゲル様、外務大臣のハイベルグ様もそうですし、近くは西班牙大使のエスピネル様も、手に取って御覧になったことがあります」
まさかその人たちを疑うわけにもゆくまい? といわんばかりの、嘲った調子であった。
「大勢ですから、思い出すのも容易じゃありませんね」
「では、後程で結構ですから、お思い出しになりましてから、お聞かせ下さいまし。……ともかく、この偽物から考えられますことは」
と考え考え、言った。
「これほどの周到な犯人が、ただ迂闊に、手を抜いた模造品を拵えるとは思われませんから、この犯人が実物を、微細な点までは知らない人間か、さもなければ奥様のお気付きになるのが、そう長い後でなくても、ほんのお客様方のいらっしゃる間だけでも、お気付きにならなければいいというくらいのつもりで、拵えたものではなかろうかと思われます。わたくしには、この犯人は自分の立場というものに、よほどの自信を持っている、生易しい身分の方ではないような気がいたします」
「そ……そうですよ、そのとおり、さすがは探偵でいらっしゃる」
と初めて我が意を得たりとばかり、この我の強い未亡人が、手を叩かんばかりに頷く。
「それであなたにも、少しお話があるのですよ。さっきも言いましたように、内密の御相談があるのです。ただし、これはあなたの御参考までに、この場限りのことにしていただいて、絶対に他言は困りますがね」
と声を潜めた。
「昨夜の御名代が、どなたでいらっしゃるか御存知でしょうね?」
嬢が頷く。
「フィリップ殿下には、大分いろいろなお噂が纒わりついていることは、御職業柄、あなたももちろん御承知でしょうね?」
と、また念を押してくる。
もう一度、嬢が頷く。
「たとえ王弟殿下でいらっしゃろうとも、そんな忌まわしい噂の、お立ちになっていられる方を、わたし共好んで、お招きしたわけではありません。でも、国王陛下の御名代として、御臨席下さいますものを、わたし共御辞退はできないではありませんか。ところが、たちまちこういうことが起って! このことをあなたは、どうお考えになります?」
「…………」
「確たる証拠もないのに、わたし共何も、殿下をお疑いしてなぞいませんよ。しかし殿下は、今恐ろしい世間の噂の、中心になっていられるお方ですよ。その方がおいでになったら、わたし共の頸飾りが、たちまちこんな不思議な紛失り方をしたとなると、あなたは一体、このことを、どうお考えになります? アイネス嬢」
「…………」
フィリップ殿下と大怪盗
殿下の身辺をめぐって、容易ならぬ暗雲が立ち込めていたのは、事実であった。一口にいえば王弟殿下は凄まじい怪盗でいらっしゃる。それも千万や二千万くらいの財宝を狙う、有り触れた怪盗ではない。
名家、大富豪の何千万何億クローネという世にも得難い宝石ばかりをお狙いになる、神出鬼没、人に正体をお見せにならぬ、世にも恐ろしい大怪盗でいらっしゃるという噂が、一部貴族富豪階級の間に立ち込めていたのであった。しかもその噂を立てているのが、一般国民大衆とは違って、伝統や格式を重んじるごく一部の貴族富豪の特権階級だけに、それらの噂はパッと燃え上りもせぬが、同時に消えもせず、燃え残りの焚火がプスプスと、いつまでも煙っているような工合であった。
なるほど殿下ならば、王権の袖に隠れて、一切高見の御見物であろうから、ほんの数時間気付かれぬ程度の模造品でよかったであろう。何もそう精巧な偽物を拵えるにも及ばなかったかも知れぬが、怪しい噂の取り巻いている殿下が、姿を現されたからとて何の証拠もないのに、スグに殿下にのみ嫌疑をかけるということは、あまりにも軽率千万ではないか。
犯罪の捜査が、そんな単純な考え方で済むくらいなら、何も探偵を呼ぶ必要もないであろうし、同時に探偵にもまた、明智や明断なぞの要素は、何の必要もないことになる。そんなら殿下なら、人の掛けてる頸飾りをどういう風にして奪い去って、そこへ模造品を掛け換えておくのでしょう? と聞いてみても、この未亡人には返事ができぬに違いない。世間の噂がそうだから、そう思っているとのほかには、何の答えもできぬに違いない。そんな人一倍我や感情の強いらしい、この未亡人との雑談は後廻しにして、まず証拠材料を探し出さなければならぬ。
見残している邸の残りを、検分して来ようかしら? と、嬢が思案しているのを見ると未亡人はいよいよ大きな膝を乗り出してきた。一層声が低まってくる。
「一度ですけれど、殿下はあの頸飾りを見たいと仰有って、わたし共へお立ち寄りになったことがあるのですよ。昨夜のことが起って、ふとそれを、思い出しました」
五、六カ月ばかり以前の、ある秋晴れの日の、昼下りであった。北並木通りまでドライヴに来たのだが、お宅の前を通りかかったからと、お立ち寄りになったことがある。端麗というよりも、女優にも見紛わしいほど婉麗な二十二、三の侍女が、お供についていた。
王弟殿下のお立ち寄りだというので、公爵家では下へも措かず歓待したが、御歓談の間にふとお思い出しになったように、そうそうお宅には、有名な海蛇という頸飾りがあった。夫人、あなたの掛けていられるところは見たこともあるが、手に取ったことはまだ、一度もない。世にも、珍しいものなそうな。一度見せて下さらぬか? という仰せであった。
お安いことと、早速取り出して御覧に入れたが、その時お見せしたものは、頸飾りだけではない。エグムンド朝以来伝わる、黄金作りの太刀や、楯、鉾といったものも、取り出して御覧に入れた。殿下もまた特に頸飾りだけに、眼をお留めになっていられたとは、思われぬ。手に取って頸飾りを陽に透して御覧になったり、笑いながら侍女の頸にかけて御覧になったり、公の席で眺めたことはたびたびあるが、手に取ったは初めて、色艶といい形といい、さてさて聞きしに優る名品であるが、昔のものは随分重いものであるな! と、感嘆遊ばされた。そして、せっかくなれば御ゆっくり遊ばして、晩餐でも御一緒にと、強ってお勧め申し上げたが、前触れもなく不意に立ち寄って、そんなお騒がせするも本意ではないと侍女をお顧みになって、さ、もう少し白鳥の池の方でも廻って帰ろうか? と仰有って、お立ち去りになったことがある。
その時は、何とも思わなかったが、今思い出してみると、もしやその時分からこの頸飾りに、殿下は眼をおつけになって模造品を準備してひそかに機会を窺っておいでになったのではなかろうか? と、思われる。
「それに、今考えてみると、その時の侍女というのが、どうもわたしには曲者だと思われますね」
と、未亡人は一層声を潜ませた。
「殿下が、アンネマリー姫と御婚約なすっていらっしゃりながら、かれこれ一年近くもなるのにまだ、御結婚の御予定がないと新聞なぞで大分騒いでいるのは、あなたも御存知でしょうね」
「存じております」
と頷くのを見ると、未亡人の眼がしたり顔に瞬いた。
「そうでしょう? ですからわたしは、あの時の侍女こそ曲者だと踏んでますね。何かそこには曰く因縁があるとね。高い声ではいえませんが、もしかするとあの侍女こそ、殿下の寵姫ではなかろうかと、考えております」
重い帷が微風を受けてそよいでいる。
「たった一度手に取られただけで、あんな偽物をお作りになるということは、常識では肯えぬことですが、世上の噂に従えば、殊更に宝石ばかりをお狙いになるには、何かそれ相応にその方面の御才能が、おありになるのでしょう。……このことはあなたに、大変な参考になりはしませんか? いかがです、アイネス嬢」
しかも、そればかりでない、こういうこともつけ加えた。
「昨年の十月、グリネ・ビョルゲ邸で、頸飾りと腕環の盗難事件のあったことも御存知でしょう?」
それも存じておりますと、もう一度嬢の頷いたのを見ると、
「ね、それで、一切合財、明白じゃありませんか!」
と肥った顔の眼が、いよいよ異様な輝きを増してくる。
「ビョルゲ邸では、あの時早速、国家警察局へも、都市警察庁にも訴えて、両方から探偵たちが入り込んで、……騒ぎばかりえらくて、肝心のものは、出やしないじゃありませんか? 随分、取り乱してるじゃありませんか。強盗を捕まえたり、殺人事件ならともかく、こういう品物を下っ端探偵なぞが、いくら騒ぎ立てたからとて、出てくるわけがあるもんですか! そこは女ですよ、美しい婦人に、限るのですよ。頭がなくては困りますが、頭が冴えて美しい婦人が、綺麗な衣装でも着けて殿下に近付いて御覧なさい。どんな悧巧な人でも、男なぞというものは、案外脆いものですからね」
と、そこで未亡人は、話を切った。
「おわかりでしょう? アイネス嬢! それでわたし共では、どこへも届けずにまずあなただけにお頼みするわけですよ」
と、自分の話した効果を試すように、じっと嬢の顔を見守っている。静かな一分か二分かが流れてゆく。
「金ばかりあってもビョルゲのような、成り上り者とは違いますからね。わたし共には王室との繋がりがありますから、迂闊な騒ぎはできないのですよ。殿下に悪名を着せず、失せ物だけを取り戻したいのです」
女の探偵では心細いという横から、女なるが故に適当だと思ったといい、間々《あいだあいだ》には恩着せがましいことをいって、王室との関係を誇示したり、華やかな生活の背後で、虚飾と陰険の爪を研いでいる、上流社会特有の円滑な言い廻しの示唆であった。フィリップ殿下にばかり嫌疑をかけていて、もし盗品でも出なかったらこの人は、一体何といい出すのだろう? とアイネス嬢は苦笑せずにはいられなかった。
ともかく、できるだけ意志に副うよう、最善を尽すことを約束した。ただ、盗難品が国外へ持ち出される場合、国境各駅や各港々の密輸出を厳戒する必要上、そういうことは国家機関の発動に待つ以外には、テがないことであったから、極秘に至急国家警察局へだけは、手配を御依頼なさるようにと、この典型的な大貴族未亡人へ勧めておいた。
もう一度窓から地上までの距離や、人がそこを攀じ上った形跡があるかないか? そして隠し金庫のあたりの床の上や、この居室入口の扉なぞ、あらゆる点に眼を配ってみたが、やはり外部から犯人の侵入した形跡は全然ない。
助手のオーゲはさっきから、控えの間脇の一室に陣取って、昨夜の召使たちの口占を調べている。もう一人の助手のエッベも、窓の下で二階を見上げながら、立ったり屈んだり、犯人の足跡でも探しているのであろう。そのエッベに手を振って、上っておいで! と知らせて、邸内のさっき見残した部分を、二人で検分することとする。
喋るだけ喋った未亡人は、これから習慣の午睡をしなければならぬと、そのまま寝室に籠って、またさっきの頬髭が、二階各室から、階下地階へと案内してくれる。二階は全部で十六室、当主公爵の書斎……居間……若夫人の居間……寝室……直角にずっと離れて南へ曲った端れに、若様と呼ばれている当主の弟の、十六歳になるヨアンネス少年の部屋がある。それぞれに見終って、階下へ降りる。階下は八室、さっき通された応接室のほかに、もう一つ小応接室があり、その向い側に撞球室、ピアノやヴァイオリンの並んだ音楽室……別段どこにも注意を惹くものはない。
大階段からは薄暗い中廊下を越えて、羅馬風の大穹窿を潜ると、ホールへ出られる。が、同時にその大階段の下から鍵の手に曲って小階段を伝わると、地下へも抜けられるようになっている。その地下……ここもまた天井が高く、階上に劣らぬ壮麗さを極めている。サラセン模様の、ズウガ織りを敷き詰めた両側には、女中部屋、下男部屋、執事の部屋、家庭教師の部屋等が、無数に取り囲んでいる。
大体この邸は、総理を務めた先々代ドラーゲ公の父君が、ミールダアル城と呼ばれた昔からの居城内郭の廃墟跡を基として建てたせいか、外観は近世ゴチック式でありながら、どこかにミールダアル城の昔時を偲ばせるものが多分にあり、地下の通路はさながら迷路のように交錯している。
「こちらからも、お出になられますから」
と執事の案内してくれた、キビラ石むき出しの隧道の通路は、右に折れ左に曲りして、二度三度横の通路と交叉しながら、やがて狭い螺旋階段となって、ヒョッコリと控えの間隣りの一室へ出た。この向い側の部屋では、今オーゲが召使の一人一人を呼んで調べている。
「ここが大殿様時分には、供待ち部屋というところだったのでしょう。昨夜は、殿下のお供の方たちが、ここに詰めておいでになりまして」
と執事が言った。
「侍女の方たちですか?」
と聞いたら、
「いいえ、男の方ばかりでございます。お一人は副官様でいらっしゃいましたが、そのお方は宴席の方へおいでになりましたから、家職の方御三人が詰めていらっしゃいました」
「殿下のお帰りになるまで、その方たちは、一体何をして、待ってたのでしょうね?」
「さあ、……手前がお食事を運ばせました時は、皆さんで将棋を指して、おいでになりました」
オーゲのところへ行って、しばらく召使たちの調べを手伝っていたが、やがてアイネス嬢だけは、当主ヘンリク公爵に逢うべく、海岸通り近くの丁抹農産公社の総裁室に、車を走らせることとした。二十五歳の公爵総裁は、若夫人同様おっとりとして、鷹揚で典雅で上品で、その代り悪くいえば爺青年のように萎びている。若さなぞというものは薬にしたくもない。
昨夜の殿下の御動静、二つ三つばかり質問をして、切り揚げる。ともかくこれで、今夜の仕事は済んだ。後はまた明日……早く帰って、母の料理の手伝いでもしようか! と、車をヴェステル街から皇帝街の方へと走らせていると、夕靄の中に瞬き出した市街の灯と同時に、いつかのビョルゲ邸の事件が、まざまざと蘇ってきた。金ばかりあっても成り上りものと、さっき未亡人の言ったグルネ・ビョルゲ氏邸の盗難事件が!
ビョルゲ邸事件
王弟のフィリップ殿下が、姿なき怪盗と噂され出したのは、もちろん、ビョルゲ家の事件からばかりではない。その前からちらほらとそんな噂が漂っていたのであるが、このビョルゲ事件で一層評判に、※ 《しんにゅう》がかかったということができる。
もちろん嬢が、この事件に関係していたというのではない。それはさっきも公爵未亡人のいったとおり、事件はすぐに国家警察局へも都市警察庁へも急報されて、探偵係官が入り乱れて、大捜査陣を張った。が、その甲斐もなくついに迷宮に入ったまま、今もって犯人の目星はもちろん、奪られた頸飾り、腕環の行方も、杳として判明せぬのである。
ちょうどその時分、彼女はコンゲンスニトロフの広場を散歩していて、偶然亡くなった父親のごく親しいベルグランド・ハルトアン氏に行き逢ったことがある。ハルトアン氏はコペンハーゲン地区検事を務めて、直接事件の捜査に当ったわけではないが、検察当局の責任者として、事件の報告は巨細となく受けている身であった。したがって、
「や、どうしたい、お嬢さん、久しぶりだね、お茶でもつき合わないかね?」
と、肩を叩かれて、その辺の料理店へでも入れば、探偵と検事だから自然話は、今世間を騒がせているビョルゲ事件に移ってくる。
「探偵らしくもない質問だと、小父様はお思いになるかも知れませんけれど……」
と、この検事の小父様が彼女のことを、ふざけてお嬢さんと呼んでるように、彼女の方でもこの人を小父様と呼んでいる。
「どう? 小父様はやっぱりこの犯人は、フィリップ殿下だと、お思いになる?」
と聞いてみたら、
「オドロイタね、これは! 恐ろしく単刀直入な質問だね」
と小父様は、笑い出した。
「そっちが、そういう質問をするのなら、わたしも一つ、検事らしからぬ返事をしようかね。残念ながらわたしにも、やはりそうではないかという、予感がする。事件が迷宮へ入っているのに、係り検事が無茶を、言い出してはおかしいがね」
と、あたりに人の姿の見えぬのを幸い、声を潜めて細かい経過を説明してくれた。
これも丁抹国内で、一、二といわれる大富豪のノルディスク汽車製造会社長のグルネ・ビョルゲ氏邸で、昨年十月初め結婚十周年の錫婚式記念夜会が催された時であった。主賓はスヴェン・フィリップ殿下、王妹インゲボルグ殿下にも御招待が発せられたが、王妹はアイスランド大統領御訪問の御予定とかで、御出席をお断りになった。来客は二百人余り……宴が終って舞踏会に移る。オーケストラにつれて満場、胡蝶のごとくに北欧晩秋の宵を踊り狂っている時であった。
ポルカを踊りカドリールを踊って、さっきからエレン夫人は軽い疲れを覚えた。公爵邸のごとくに舞踏会の扉は、ここも広やかな内庭に向って、開け放たれている。その扉の陰に佇んで、給仕の持って来た冷たい物を飲んで、一息入れている時にふと傍らに、人気を感じてハッと居ずまいを正した。ほほ笑みながら立っていられたのは、フィリップ殿下であった。殿下は二十七歳、白※ 《はくせき》の額、亜麻色の髪涼やかに、長身の眼許凜々《りり》しい独身の容姿は、全丁抹乙女の憧れの対象でいらせられる。その殿下が、萌黄色龍騎兵大尉の軍服、肩章、飾帯の御軍装で、にこやかに立っていられるのであった。
「夫人、お相手を願えまいか?」
「ハ、恐れ入ります、殿下」
と夫人は裳裾を抓んで、会釈した。
「では、どうぞ……」
そして殿下に手を執られて踊りの波へはいって行った。オーケストラはすでに曲を替えて心も浮き立つような、ウィンナの森の物語であった。女と生まれて、丁抹乙女憧れのお方と踊る光栄さ! 男らしいお胸に顔を寄せて、恍惚とした何分かが過ぎてゆく。しばらくぶりに夫人の胸の血が若やいだ。その若やいだ夢見心地の何分かが、また過ぎてゆく。
ふと軽い眩暈を、夫人は感じた。別段、頭が痛むというのではない。気が遠くなったのでもない。なんだか、あたりが茫っとして庭の芝生に寝転んででもいるような、楽の音や周囲に踊っている人たちが、どこかへ遠のいてゆくような……かと思うと、また急に賑やかに蘇ってくる。腰に廻された御手、軽く握られたお手……別段殿下には、変った御様子もない。相変らずにこやかな笑みを湛えて曲に合わせて見事な弧を描いていらっしゃる。
と、その瞬間、またオーケストラや踊りの波が、遠ざかってゆく。ハテどうしたのかしら? と思った。別段、気分が悪いという感じではないが、もし殿下に粗相でもしてはと、気になった。
「お、どうかなされたか?」
と眼敏く殿下が眼を留めて、囁かれる。
「お顔色が、優れぬように思われるが……」
「ハ、別段に、大したことも……」
その瞬間に、殿下の顔がまた遠のいていった。
「……時々何か、……茫っと、いたしますような……」
「それはいけぬ。今宵は、大分温かい、逆上せられたのかも知れぬ。では、さ、あちらへ抜けてまいろう。少し夜気にでもお当りになったら、よろしかろう」
そして、ワルツの旋回を続けながら、殿下は巧みに踊りの輪を抜けて、次第に出口の方へリードして下さった。内庭に面した扉の両脇には、長椅子が設けられて踊りを待つ間の来客が歓談している。顔見知りの夫人連の目礼に答えたような、そうでなかったような気もする。
殿下に手を執られて、甃を踏んでしっとりと露を帯びた、芝生へ降り立った。※ 《ぶな》の大木が鬱蒼と枝葉を繁らせて、葉陰に二、三脚のベンチが置かれてある。人のいない一脚に腰を降したまでは覚えているが、さて殿下が何か仰有ったような……どうもその辺の記憶が定かでない。
「さ、夫人ここがよろしかろう。しばらくここで、休んでいられたがいい」
そして殿下も、傍らに腰を降された。
「恐れ入ります、飛んだ失礼を、申し上げまして……」
大空一杯に星を燦めかせた、冷え冷えした夜気が熱した頬に触れて、言わん方なく心地よい。そしてここから眺めていると、眩い灯光を浴びて踊っている人々が、何か影絵のような、映画の一駒でもあるような、違った世界を覗いているような気持がする。一分たったのか二分過ぎたのかを記憶せぬ。が、気分は段々に直ってきた。軽い疼きを頭の芯に覚えて、いつか脳貧血を起した時のように、掌がネットリと汗ばんでいる。そして、刻一刻、爽やかさを取り戻してきた。ふと気がつくと、前に殿下が佇んでおいでになる。両手にコップをお持ちになって……。
「夫人、これでも召し上って、もうしばらくじっとしていられたがいい。しばらくそうして休んで」
「まあ、こんなお心遣いまで、していただきまして……申し訳ございません」
殿下もお立ちになったまま、グッと一息に飲み干された。歯に沁みて、冷たい果汁が気分を蘇らせる。それからもしばらく殿下は、腰を降していられたような気がする。
「大分直られたようだな、顔色がずんとよろしくなられた。……いや、そのままそのまま……まだ立たれてはいかん」
と手をお振りになった。
「さ、それでは、こちらで休んでいられると、御主人にもお知らせしておこうか」
と独言のように言って、起き上られた。
「もう、どうぞ殿下、おかまい下さいませんで、ほんとうにもうよろしいのですから……どうぞお心遣い遊ばしませんで」
と、その時は、こんなことで来客たちのせっかくの興を殺いではならぬと、そのことのみで胸が一杯であった。別段夫の来るのを、待っていたというわけではない。さりとてまんざら待っていなかったというのでもない。しかし、いつまでたっても夫の来る気勢はなく……いいや夫ばかりかは! それっきり殿下も、もう姿をお見せにならなかった。
その間に気分がまったく回復したから、夫人はまた人々の談笑の中へ戻って来たのであったが、舞踏室に沿って、長い廊下を右へ折れると、そこが控え室になる。その一角にオーケストラが屯して、各種とりどりの鉢植えの植物が葉を繁らせている。その奥手に椅子にもつかずに、ギェラップ船舶相や、バング蔵相、来朝中のベテレヘム製鋼会社長のシューレンバック氏、賜暇帰朝中のヴェルトネル駐仏大使らの一団が、葉巻をくゆらして酒杯片手に、賑やかに笑い興じていた。南阿の狩猟談に話の花が咲いているらしく、夫も傍らに肥った身体に酒杯を持って笑っているし……しかも夫人が眼を瞠ったのは、なんとその哄笑の中心に、殿下もほほ笑みながら酒杯を挙げていられることであった。
夫人が近付いて来たのも気付かれぬように、……いいや、気は付いていられたのかも知れぬ。優しい笑みを含んで、こちらの方は眺めていられるが、なんと! それは今の今まで、木陰のベンチで自分をいたわって、冷たい飲物まで運んで来て下さった、あの御親切な殿下の親しさのそれではない。いわんや、夫に知らせて下さるも何もあったものではない! さながらさっきからこの座の中心として、夫人なぞとは何の関係もなかったように、素知らぬお顔である。
その素知らぬ殿下の笑顔の前に、夫人は呆気に奪られて佇んでいた。船舶相も蔵相も、製鋼会社長や大使らも、それぞれに相手を擁して舞踏へ入って行ったのを見計らって、
「殿下、唯今は飛んだ失礼を申し上げまして……」
と近付いて行った。
「お陰様で、スッカリ気分も、直りまして……まことに有難うございました」
とお礼申し上げた途端に、言い出した夫人は引っ込みがつかなくなった。
「え……?」
とびっくりなさったように、殿下は一瞬眼を瞠られたが、当惑が夫人の瞳を走ったのを見られると、
「ああ結構でした。それは何よりでした」
と、急いで笑顔を作ってお頷きになった。が、それはまったく、夫人の言葉に調子をお合わせになったというほかには、言い現しようもないものであって、取って付けたような言葉というのほかはない。唖然として、狐につままれたような気持で、夫人は殿下の顔を眺めていたが、殿下はどうかしていられるのかしら? と、まったくそう思わずにはいられなかった。一瞬、人違いかしらとも自分の眼を疑ったが、今眺めている丈高い軍服姿、胸には白く十字を現したダネブログ勲章のコマンドル章を佩びられたところもさっきのままであるし、優しい眼……凜々《りり》しい口許……よく透る声……さっきまでの御親切だった殿下と、何の変ったところもない。縦から見ても横から眺めても、さっきのとおり正真正銘のフィリップ殿下である。
ともかく、気分はスッカリ元に復したから、小首は傾げながらもまた夫人は、生き生きとして来客たちの接待に余念もなく、当夜の客にいささかの不快も与えず会は成功裡に終ったのであったが、殿下が御帰館になったのは、来客たちの引き揚げる三、四十分ばかりも前であったろうか? 夫人の記憶するところでは、その後殿下がお踊りになったのは、白耳義大使夫人に請われて御一回、イエンス・アンナセン赤十字社長の令嬢、評判の美人アストリード・アンナセン嬢にお相手を請われて、もう一回……都合、この二回だけであったように覚えている。
「御歓待で、まことに愉快な夜を過ごすことができました。明日は、陛下の御名代を務めねばならぬので、失礼だがこの辺で、お暇したいと思う」
と丁寧な御挨拶であった。そして、オーケストラ総起立、舞踏を中止して満場その場でお見送り申し上げているうちに、顕官名士夫人らと握手を交されて、やがて国家吹奏裡に 副官を随えて、お帰りになったのであったが、その際も何事も仰せにはならなかった。玄関まで御見送り申し上げたビョルゲ夫妻と、温かい握手は交されたが、今度こそ何とか仰せあるか? と、胸を躍らせていた夫人には、ついに一言の御見舞いの言葉も下さらなかったのであった。
夫人が寝室へ退いたのは、かれこれ、一時二時頃でもあったろうか? ドラーゲ公爵未亡人は、取り外す時に、その感触の違いで気が付いたのであるが、ビョルゲ夫人もまた、外す時に気が付いている。腕環……それから頸飾り……外そうとして、何気なく手をやって、いつもとはまったく手触りの違うのに、おや! と気が付いた。
同じような重さのものを、頸にかけ腕に嵌めていたばっかりに、手を触れてみるまでは何の違いも感じなかったのであったが、今取り外してみると、外観こそ精巧に見ゆれ、台は白金でもなんと! 似ても似つかぬ硝子を鏤めた粗製極まる模造品であった。夫人は掌に載せて眺めていた。あまりの驚きに、叫びを挙げることすら、忘れていたのであった。
ドラーゲ公爵家の頸飾りのように、昔から伝わる品ではなかったから別段特別の名称もなかったが、それでも一代の大富豪が、金に飽かせて贅を凝らした大粒のダイヤであったから、これもまた両方合わせれば、おそらく四千万、五千万クローネ……あるいはそれ以上の値打ちのものであったかも知れぬ。
しかも、驚いたのは、そればかりではない。もっともっと肝を冷させられたのは、その晩どうも頭の芯に、軽い疼痛が起ってならぬ。無事に祝宴の済んだ気疲れか? とも思ったが、ともかく身体がなんとなくだるい。念のため寝る前に、いつも来てくれる主治医のハンメル博士を呼んで、診てもらった時であった。毎度のことで博士は、
「大丈夫ですよ、奥様、軽い脳貧血でも、お起しになったのでしょう」
と気にもかけずに脈を見たり、聴診器を当てたりしていたが、そのうちにおや? といった不審の色を眉に走らせた。
「これはちょっと、おかしいですね、その時何か匂いましたか? どんな匂いがしたのです?」
と改まって急に症状を聞き質す。
「芝生に寝転んだような気が、なさった? フム……青臭い匂いがなさった? と。……フム……フム……奥様これは、その時麻酔剤を、お嗅ぎになったのです。軽微な……ごく軽微なクロール・エチルを、お嗅ぎになったのです」
とさらに念を入れて、診察し直したのには驚かされた。してみると、さっきお相手をしている間に、殿下は麻酔剤をおかけになったのであろうか? それだから芝生に寝転んでるような青臭い匂いがして、あんなに頭が茫っとしたのであろうか? そして、庭のベンチに凭れている間に、親切そうに装いながら、ほんの一分か二分の間に、殿下は頸飾りを外して腕環を外して、スグには気付かぬようにそこへ模造品をかけ換えておおきになったのであろうか? 第一、右手を背へ廻し左手を執って、踊りながらどうして麻酔剤をおかけになることができるのであろう? ……考えてきて、それはまんざらできぬことでもないと、夫人は思案した。殿下は丈が高くて自分は殿下の肩のあたりくらいまでしかない。もし殿下が胸のポケットにでも、ゴム球か何かへ入れて麻酔剤を忍ばせておかれれば、殿下自身には何の危険もなくて、ステップを踏むごとに発散するクロール・エチルを、自分だけが吸い込むことになる。
では、それで麻酔を嗅がせることはできるとしても、それならばたとえ眩暈だけは覚えていても、大体の意識はハッキリしていたのにどういう方法でそれだけの早業を、――頸にかけ腕に巻いているものを取り去って、後へ同じようなものをつけておくという早業ができるのであろうか? 殿下はすでに、自分とは二、三回も宴席を共にして、邸へも一度、お見えになったことがある。そうした時に、腕環や頸飾りを御覧になって、ちゃんと偽物を御用意になっていられたのであろうか?
今日まで人一倍殿下をお慕いしていただけに瞬間夫人の心には憎悪が、たぎり立った。
「エステル!」
と噛みつかんばかりの声を出して、じだんだ踏んだ。「国家警察局へ電話をかけて、唯今盗難にかかりましたと、知らせなさい! 都市警察庁へも大急ぎで、電話をかけて! 何をぐずぐずしてるんですよ! 早くおしでないか!」
と小間使をガミつけた。ビョルゲ邸からの訴えに接して、国家警察局からも、都市警察庁からも、腕利きの探偵たちがスッ飛んで行った。相手が高貴な方でいられるから、極秘の上にも極秘にして、周到な捜査陣を敷いたが、物的な証拠というものが一切ない。
「この高貴な方へ手を入れるには、よほどの証拠固めをしてかからねばならぬ。調べれば調べるほど混沌として、半年たった今でもまだ有耶無耶なのだよ!」
と小父様は、投げ出すように溜息を吐いた。
「でも、……その時殿下ではなくて、誰か殿下と瓜二つの人間が、殿下を装ってビョルゲ夫人の相手をしたものがある……とそう考えて、その方面をもっともっと、調べてみる人はなかったのでしょうか?」
「フィリップ殿下と聞くと、丁抹中の若い女が顔色変えるが、名探偵! お前もソロソロ顔色が変ってきたじゃないか!」
と小父様は笑い出した。
「お前に言われるまでもない。もちろんそういうことも、充分考慮に入れて、調べてるさ。なんでもその時分、局の刑事部長も、お前と同じようなことを、言うとったようだ。しかし、殿下と瓜二つの人間がなぞとお前はいうが、殿下の御臨席になっていられる同じ部屋へ――いいかね、いくら舞踏室が広くても、別の部屋ではないのだよ。その殿下のいられる同じ部屋の中へ、同じ軍服の偽者が現れてそういう早業ができるとお前には、考えられるのかね? 人間の頭に想像もつかんことじゃないか」
その人間の頭に想像もつかぬ所に、犯罪は起りますのよ、小父様! ということはわかっていたが、父の親友の小父様に、まさかそんな口も叩けぬから、アイネス嬢は黙っていた。
その検事のハルトアン小父様から聞いた、ビョルゲ邸事件の顛末が、車を走らせている嬢の脳裏に、今ゆくりなくも泛び上ってきたのであった。
ヨアンネス少年
はたして事件は、初めから非常な困難を見せてきた。調べれば調べるほど、いよいよ混沌として、手懸りが掴めぬ。厳密な検査を施してみたが、頸飾りの偽物からは何の異なった指紋も現れぬ。もちろん、例の隠し金庫の扉からも、指紋なぞは何ら検出されなかった。
とすると、当夜の召使たちの証言というものが、事件に重要な鍵を握ってくる。
が、その召使たちの証言すらも――召使というより、むしろこの場合は家族というべきであったろうが、事々に大きな食い違いを見せてくるのであった。まず第一に、その大きな食い違いの一つ……その晩奥様は、気分が悪くて一時別室でお休みになったとか、出合い頭に突然誰かとオブツカリになったようなことは、ありませんでしたか? と聞いてみたのに対して、未亡人はことごとく、否と答えている。殊に最後の問いに対しては気分を害ねたらしく、そんなはしたないことが! とばかりに、ろくろく返事もしなかった。それは前に言ったとおりであったが、しかも調べてみると誰にも逢わぬどころか、当夜未亡人は一人の少年と、控えの間裏手の長椅子で、膝突き合わせて話しているのであった。
少年というのはつい四、五日前に、足を捻挫して歩行には差し支えなかったが、杖を突いているばっかりに当夜宴会へは顔出しせずに、二階南端れの自室に引き籠って目下コペンハーゲン全市の青少年たちの間に大流行を来している模型飛行機の製作に余念もなかった、当主公爵の弟のヨアンネスという十六歳になる子供であった。母が弟と隅の長椅子で話しているところを見たと当主公爵も言っていれば、公爵夫人もまた言っている。
メルタ、エリーザベット、マリーヤの小間使たち、そのほかにも何の話かは知らぬが、大奥様が若様とお二人で、お話なさっていらっしゃるところを見たと言ってる召使が、三人ばかりもいる。殊にその一人の、エーディトという女中は、若様が大奥様のお頸に両手を廻して接吻していらっしゃるところを見たと、ハッキリ証言している。これは事件の大きな決め手ともなるべきことであった。
時間はちょうど食堂が開かれようという間際、奏楽も始まって一番に混雑している頃であったというから、もちろんすでに夫人が夜会服に着換えて、問題の海蛇を帯びていた時ということになる。そのほかには誰かが未亡人に接近していたという事実もないのであったから、もちろん嬢はこの事実を、重く視た。
「奥様! 奥様はヨアンネス様と、お話をしていらっしゃいましたと伺いましたが、その時の模様を、お話し下さいませんでしょうか?」
「アイネス嬢、相手はヨアンネスですよ、子供のヨアンネスと話していたことが、あなたに何の参考になります?」
「でも、一応、お伺いしませんと! ……」
「バカバカしいじゃありませんか、親が子供と話していたことなんぞ……」
と例によって未亡人が不快の色を漂わす。そんな下らんことばかり詮議だてする暇に、なぜ殿下に近付く工夫でもしないんですよ! と詰らんばかりの、この我儘な婦人を促して嬢の聞き得たところは、大体こういうことであった。
当主の公爵、公爵夫人、手伝いに来てくれた、アンドレーセン子爵に縁づいている姪のソールヴェイグ夫人、その母親のフロム夫人、それらの人々ともどもホール入口で客を迎えて、すでに来客たちのことごとくが大広間や控えの間一杯に満ち溢れて、歓談笑声煙草の煙は濛々と、邸の内外にゴッタ返している時であった。もっと詳しくいえば、御名代殿下も、先程御到着になって、その御接待で天テコ舞いしている時であった。
その人波を縫って、母親の姿を探しているらしい杖を突いた、ヨアンネス少年の顔が入口に見える。丈だけはほぼ当主とおっつかっつだったが、やっと長洋袴になったばかりの子供。殊に出席しないはずだったから、服も着換えてはいない。キチンとした短衣やネクタイは着けているが、それは学校の制服でそんな装をして――装はともかくも、足を曳きずって杖なんぞ突いて、この盛装綺羅びやかなお客様の中へ出て来られては困る。
「何ですね、そんな恰好をして! 何の用ですよ?」
と未亡人は、今貰った花束を抱えたまま飛び出して来た。
「僕ね、お母様……ちょっと僕、お願いがあるの」
そこも人でウヨウヨしているが、その大廊下をちょっと折れると、溜りがある。溜りというよりも、小窓を切ってカーテンをかけ、油絵を飾って植木を並べて、天鵞絨張りの腰掛けがあるから、壁龕というのが当っているであろう。角の長椅子には、婦人連が笑い興じているが、壁龕には誰もいない。
「いけませんね、そんな恰好をして出て来ては! 何の用ですよ、お母様は忙しいじゃありませんか!」
と未亡人は、そこへ掛けた。膝を触れ合わんばかりに、少年も掛ける。
「お母様! まだ足りないものがあるの、どうしても僕、発動機をもう一つ、買わなくちゃ! お金をもう少し欲しいの、お金が、足りなくなっちまったんですもの」
「なんですよ、そんなバカバカしいことを今! 後だって、いいじゃありませんか」
「ううん、だってもうでき上りかけてるんですもの。発動機さえ入れれば、もう明日学校へ、持って行けるんですもの。もう一万クローネばかり、頂戴よ。……サーラに、買いに行かせるんだから」
「大奥様は、おいででございませんかしら?」
と、小間使のエーディトが探しに来た。
「アノ……大奥様……若奥様が、お呼びでいらっしゃいますけれど……」
それではいよいよ開宴であろう。気が急いていたから、ヨアンネスの言葉をハッキリとは覚えていない……発動機がもう一つ要ると言ったのは、頭に残っているが……たしかサーラに買いにやるんだからと、言ったような、言わなかったような……。
「さあさ、お母様は忙しいんですよ、お前の相手はしていられない……ではね、今そんなことを言ったって、ここには何にも持ってないじゃありませんか! ユーワンのところへ行って、お母様がそう言ったからって、出してもらっておいで」
ユーワンは、例の頬鬚の執事であった。
「じゃ僕、そうしましょうっと! お母様、有難う、有難う……やっぱり僕のお母様だった!」
と嬉しそうに少年は、両手を廻して未亡人の頸を抱いた。そして頬に接吻をする……。
「ほらほら、イヤですね、髪が崩れるじゃありませんか、もういい、もういい、わかりましたよ……」
突き当りの扉を開けると、お客たちの前を抜けずとも、二階へ上る階段がある。
「お母様、有難う……有難う」
と少年の顔が、薄暗い扉の向うで笑っている。
「では皆様方、食堂を開きましたから、どうぞ!」
とユーワンの声が聞えてくる。賑やかな奏楽の音が、耳を打ってくる。早く行って御名代殿下のお手を執らなければならぬ。未亡人はそのまま、殿下のおいでになる控えの間へ急いで来た……。
これが渋々ながら苦い顔をした未亡人から聞き得た顛末であった。
「失礼なことを伺いますが、その時何かいつものヨアンネス様と、お変りになっていらした感じでも、なさったでしょうか?」
「……別段に……」
「もう一つ……では、ヨアンネス様はそういうことが、たびたびおありでしょうか? そういう時に、お小遣いを貰いにおいでになると、いうようなことが……?」
「わたし共では子供に別段、小遣いといっては渡してありません。入用なものがある時、その都度都度に召使に、買いにやることにしています。執事に言えばいいのでしょうが、金額が張ると思ったから、一応わたしの許しを受けに来たのでしょう」
月に幾ら幾らと小遣いをあてがって、それを始末して物を買うなぞということは、平民共の習慣ですよ! といわんばかりに、五月蠅げな答えであった。
「御職業柄でしょうけど、アイネス嬢! ヨアンネスはわたし共の子供ですよ、そんなことまでお聞きになるのは、ちいっとお門違いじゃありませんかね?」
焦点が……焦点が……その焦点が外れてるぞ! といわんばっかりに、未亡人の顳※ 《こめかみ》がピクピクするから、ひとまず問答もこれで打ち切らざるを得ぬ。
少年の学校から帰って来た時刻を見計らって、
「坊っちゃん、小母さんがいいお土産を持って来ましたよ」
と、ケニョン会社特製模型飛行機用の、極上のガソリン発動機を持って嬢がヨアンネス少年の部屋を訪れたのは、翌る日の正午頃であった。相変らず少年はその辺を、機械工場のように取っ散らかして、部分品の取り付けに余念もない。思いも寄らぬ人の訪問と、思いもかけぬ贈り物にびっくりして、当惑したように顔を赧めて、モジモジしながら手を動かしている。
未亡人の話では、発動機さえ取り付ければ、今日にもでき上るような話であったが、まだまだそこまで進んでる様子もない。さすがに幾万クローネという大金をかけて、血道を挙げてるだけあって模型とはいいながら、両翼の全長は一メートル半くらいもあり、五哩くらいはわけなく飛んで行きそうな、精巧極まる玩具であった。
「坊っちゃんの今お拵えになっているのは、何の飛行機ですの?」
「…………」
「独逸旅客機に似てますけれど、違いますかしら?」
「ルフト・ハンザは、翼がここから付いている……僕、端典旅客機を 作ってるんです」
「そうそう、スカンディアでしたね。まあ、随分よくできてること」
「小母さんはいつから家へ来てるの?」
とややあって、少年が不思議そうに聞く。
「小母さんは、坊っちゃんのお家の人じゃ、ないんですのよ。坊っちゃんお聞きになったことがある? 坊っちゃんのお家で、ちょっと紛失ったものがあって、それを調べに来てるんですのよ」
「……ああ頸飾り……」
「まあそんなものですわ。……でも坊っちゃんのお家には、大切なものね。小母さんはそれを探しに来てるんですけれど、坊っちゃんその話詳しく、お聞きになったことある?」
「僕知らないや! 僕に関係ないもの……」
と少年が頭を振る。
「そうね、坊っちゃんには、何にも関係がなさそうね。……あ、そうそう、今度来る時小母さん坊っちゃんに、またいいもの持って来て上げましょうね? 坊っちゃん、何がお入用? やっぱり飛行機の道具?」
すくすく生い立ったといわんばかりの、子供である。大柄だから丈だけは高く、大人並みになっている。
「僕要りませんよ。知らない人から何か貰うと、叱られるもの」
「小母さんは別よ、小母さんは坊っちゃんのお母様から頼まれて、御用をしてるんですから、叱られませんけれど……でも、いいわ、そんなこと! 小母さんが何か持って来てからにしましょうね。それよりも、忘れていましたけれど坊っちゃん、お足もうよろしいんですの? こないだはお出にならなかったんですってね。その飛行機を、お作りになっていらしたの……?」
「だから、こんなにでき上っちまったんですよ」
と少年の頬に、得意の色が泛ぶ。
「でも……発動機買っていい? って、お母様のところへいらしたんでしょう? その発動機は、もう付いたんですの?」
「もう疾っくに、入っちゃってますよ! だから僕、大笑いしちゃったんですよ。お母様ばかりじゃないや、発動機なんて先から持ってるのに、お兄様もお義姉様も……マリーヤだって、エーディトだってみんなでそんなバカなことばかり言ってるから、だから僕みんな頭どうかしてるんだって、レギイネ先生と大笑いしてるんですよ」
と少年は笑って、首を竦めて見せた。レギイネ先生というのは、あの晩遅くまで少年に手伝っていてくれた家庭教師の老婦人であった。
「そう……それじゃ坊っちゃんは、お母様のところへ発動機のことなんか、お話にいらしたんじゃありませんね?」
「行きませんよ! もう持ってるんだもの、行く用なんかありゃしないや」
と母夫人が立派に認め、当主公爵も公爵夫人も、メルタ、エリーザベット、マリーヤ、エーディトら大勢の召使たちまで、ハッキリと目撃していることがここでまったく覆されてしまった。
「部屋の外へなんか一足だって僕出ませんよ、第一食堂だって行かないや。ロヴィーサがここへ運んで来て、僕レギイネ先生と一緒に、食べたんですもの、ロヴィーサだってよく知ってる」
ロヴィーサは、当夜ここへ食事を運んで来た小間使である。
「じゃ、坊っちゃんのお笑いになるの無理ありませんわね、みんな何をいってるんでしょう、オホホホホホ」
とさりげなく調子は合わせたが、大分少年が馴染んできたのを見ると、ここで方向を換えた。
「でも、もしかすると坊っちゃんのお友達で誰かそんな真似をして、悪戯した人があるかも知れませんわね? 坊っちゃんのお友達みんな飛行機作ってらっしゃる?」
「みんな作ってるよ、英国旅客機だってジェットだって、スカンディアだってジャンジャン拵えてるよ」
「その中で、坊っちゃんより上手に、作ってるお友達あります?」
子供の気に入るように楫さえ取っていけば子供は造作なく馴染んでくるものである。
「僕一番上手ですよ、……だけどゲイエルの方が、ちょっと僕より上手かな?」
「坊っちゃんのお友達で、坊っちゃんの真似をして、お母様のところへ行ってお小遣い頂戴なんて、びっくりさせる悪戯っ子あります?」
「僕の友達なんて、みんな僕のお母様を怖がってるから、誰も口なんて利きゃしませんよ」
「だけど……偶にはそんな悪戯っ子だって、いるでしょう?」
「そんなバカな奴、一人だっていやしませんよ」
と到頭少年は、笑い出した。
「第一お母様なんて、大きな眼球してピリピリしてるんだもの、怖なくて誰も、寄っ付く奴なんかいませんよ」
「そう……どこにだって、悪戯っ子はいるんだけれど……じゃ、坊っちゃんのお友達には、そんな悪戯っ子なんかいないのねえ……」
少年が頷く。
もう一度方向を転換してみる。
「時に坊っちゃんは……レギイネ先生はお好き?」
「そりゃ、好きさ!」
「先生は厳ましい?」
「勉強は厳ましいけれど、遊ぶ時は一緒に遊んでくれるから、僕大好きだよ」
「坊っちゃんは、ウソなんかお吐きにならないでしょうけれど……吐いたら厳ましい?」
「知らない……そんなこと一度もないから、僕知らない……」
「おやおや……坊っちゃんとお話してると面白いもんだから、わたしうっかりして随分坊っちゃんのお部屋で、長居しちゃった。御免なさいね……じゃ今度来る時、何かいいもの、持って来て上げましょうね」
それで少年の部屋を出たが、この少年がウソを吐くような子供か吐かぬ子か、彼女がその足で少年の登校している中学校に受持ちの教師を訪ねて行ったのは、もちろんであった。
「あの少年の、学業成績はごく普通でしてね、取り分け優秀という点は、別段ありません。かといって、できないという側ではもちろんないのですが……そんなことよりも、あの少年はいかにも物事すべてが、貴族的におっとりしてましてね、およそウソなんぞ吐くような、そんなヒネクレタ性質や才走ったところなんぞ、微塵もないですね。やはり、生まれは争えません。その点名門の子弟として、典型的な素質だと思っています」
これが受持ち教師の観察であった。してみれば、当夜一歩も部屋の外へは出なかったというヨアンネス少年の言葉には、充分信を置いてもよろしいであろう。が、少年に信を置くとなれば、発動機を買う許しを得に来て、お母様有難う有難うと頸を抱いて接吻して行ったと主張している母夫人や、当主公爵夫妻、その他の召使たちの証言は、一体これを、何と解釈したらいいであろうか?
二人の殿下と二人の少年
しかも食い違いを生じているのは、未亡人とヨアンネス少年のみではない。もう一つ、別の食い違いが現れてきた。ただしこれは、食い違いというよりも、一人だけ不思議な目撃者が現れたといった方がよかったかも知れぬ。執事、小間使、奥向き女中、ボーイ、下男等々、全部で二十五人からいる召使中、当夜客席に出ていた小間使、ボーイ、下男の召使が十八人……その十八人の誰一人、そんなことを言い立てるものもないのに、ただ十九になるロヴィーサという小間使だけが、御名代殿下が本館二階から降りておいでになるところを、確かに見たと言い張っているのである。
未亡人は元より当主公爵も公爵夫人、執事をはじめ、他の召使たちも、そんなバカなことのあるべきはずがないと、ロヴィーサの言うことを一笑に付している。御名代殿下は当夜主賓として、終始座の中心においでになって、晩餐が始まるまでは控えの間に、晩餐が始まってからは大食堂の中央に、舞踏が始まってからは舞踏室に、御帰館になるまで絶対にお一人で、フラフラお歩きになったことのあるはずがない。自分たちがお相手を勤めていたのだから、これほど確実なことはない、何かロヴィーサの記憶違いであろう、と頭からこの小間使の言うことなぞ執り上げてもいないのであった。
もちろんそれは、執り上げない方が当然であって、ロヴィーサの記憶違いだろうと笑われても仕方のない話であった。初めての日、嬢も検分したごとくに、本館二階は純然たる公爵家家族の住居であって、来客なぞの行く用のいささかもない所である。
未亡人の居間、寝室、当主夫妻それぞれの居間、寝室、それに当夜宴会に出なかったヨアンネス少年の部屋等、陛下の御名代ともあろうフィリップ殿下が、そんな所へ好奇心にお立ち入りになる理由がないことであった。が、しかし、嬢はロヴィーサのこの申し立てに、非常に重大なものの潜んでいることを感じた。
もしフィリップ殿下が、そんな二階へなぞ一人でお上りになったということになると、当然殿下は、御名代としてではない何かある不純な考えを持っていられたということになる。前にも言ったとおり未亡人は我の強い、感情一方に支配されている人であって、しかもその我と感情で、腹の底から殿下を疑い抜いている人である。
本来なれば、こういう殿下に不利益なことは、未亡人が真っ先に執り上げそうなものであるのに、その肝心の未亡人はかえってそれを否定して、何の関係もない小間使の方が殿下の不利益になることを言い張っているということになる。しかも言い張っているその小間使は、公爵邸にもう二年余りも勤めて、未亡人の絶対の信頼を克ち得ている女であったから、何かこの辺に事件の鍵があるのではなかろうか? と、嬢はこの申し立てにも、多大の重さを置いた。
早速助手のオーゲを連れて、この証言の真実性を、もう一度調べてみることにした。
当夜、フィリップ殿下のお供の人たちが詰めていたという部屋の前、いつかオーゲが召使たちの一人一人を呼び入れて調べていたあの部屋が、今も臨時の調べ室として公爵家から提供されている。ここへ、その小間使のロヴィーサを呼び入れた。
はいって来たのは小間使とはいいながら、軽妙な敏捷さなぞの少しもない、どこか鈍重とも評したいほど田舎染みて、口の重そうな縮れ髪の女であった。
「あなたは当夜七時二、三十分頃――殿下が二階の廊下をお一人で歩いていられるのを見たと、言われるそうですね。殿下はどこから出て、どこへ行かれるところでしたか、もう一度話してみて下さいな」
「それはわかりませんです。わたくし大階段を降りておいでになりましたところで、お眼にかかりましたのですから」
「その時あなたは、何をしておいでになったの?」
「ダーリンさんの言い付けで……ダーリンさんは料理人長さんです。地下室から若様やレギイネ先生のお食事を、運んでまいりましたのです」
「そう……あなたはあの晩お客様方のお席へは、出られなかったのでしたね。それで、地下室から出て階段へかかろうとするところで、二階から降りておいでになったフィリップ殿下にお逢いになったわけですね。その殿下は、どんな御様子でした? 何か、お急ぎにでもなっていられるような……?」
「別段、ふだんとお変りになったところは、ございません。ゆっくりと、降りておいでになりました」
「そして……?」
「わたくし脇へ避けて、頭を下げておりましたから……」
「殿下がお降りになってから、あなたは二階へお上りになったわけですね?」
「ハイ」
「では、お降りになってから殿下が、どちらの方へおいでになったか、気が付きませんでしたか?」
「ハイ、わたくしそのまま、お二階へ上ってしまいましたから……」
「あなたのほかに、その時殿下のお姿を見た人はありませんか?」
「誰もいませんでしたから、見たものはなかったかも知れません」
「あなたは今仰有ったことを、大奥様の前でもハッキリと仰有られますね?」
「ハイ、ほかのことは存じませんけれど、知っておりますことはどなたの前でも……」
「でも、大奥様は、当夜の主賓でいらっしゃるから始終お側にいられましたが、殿下が席をお離れになったことは、一度もないと言ってらっしゃるのですよ。第一殿下が、そんな母屋の二階へなんぞ、お上りになられるわけがないと言ってられるのですがね、ロヴィーサさん、何かあなたの思い違いじゃないのでしょうかね?」
「でもわたくし、確かにお眼にかかったんですから、思い違いじゃございませんです」
「では、ようござんす、ちょっとそこにいて下さい、オーゲ、大奥様をお呼びして頂戴」
と嬢は、オーゲを顧みる。未亡人がはいって来た。ロヴィーサが、モジモジする。
「奥様、このお女中さんはいくたび聞いても、前言を翻しません。失礼ですが、奥様の方のお間違いじゃ、ございませんでしょうか?」
「ロヴィーサや、お前が家へ来てからちょうど、二年とちょっとになります。お前がウソ出鱈目をいうような人でないことは、わたしがようく知っている。しかし、今お前のお言いのことだけは、何かお前の思い違いじゃないのかえ? もう一度考えてごらん!」
と未亡人が、ゆっくりロヴィーサの方に向き直った。
「お前が殿下にお眼にかかった七時二、三十分頃といえば、ちょうどわたしにも覚えがある。食堂の開くスグ前で、……わたしは殿下に腕をお貸しして、廊下を食堂へと御案内申し上げていた時刻ですよ。そしてその前には、わたしはヨアンネスと控えの間裏で話をしていましたが、殿下はあの棕櫚の置いてあるあたりで、外相様や米国大使様方とお話をしていらっしゃった。どこに殿下が、二階へなぞお上りになる暇があるでしょう……何かお前の勘違いじゃありませんかえ?」
「大奥様、わたくし確かに殿下と、擦れ違いましたんです。決して、間違いではございませんです、紅い筋の入った、緑色の洋袴をお召しになりまして」
「お靴は、長靴でしたかえ?」
「いいえ、普通のお靴を……金色の拍車の付いた、普通のお靴をお召しになりまして……そしてお胸には……ハッキリ覚えておりませんけれど、銀色の勲章飾りをお着けになりまして……」
「ではやっぱり、殿下に違いないわ!」
と未亡人は嘆息した。ロヴィーサの言うとおり、それが当夜のフィリップ殿下の御服装なのであった。金の拍車の付いた短靴を召されて、銀色の勲章飾りというのは、佩びていられたレレファン・ブラン大綬章の略綬を指すのであろう。そのとおりであった。お客様の前へ出なかったロヴィーサとしては、この広い邸の中で、あの人混みの中でもし殿下にお逢いしなかったならば、どうしてこれだけのことを知ることができたであろう。
「不思議だ、これは不思議だ、しかしお前の言うことも、間違いではない……アイネス嬢、これの言うことも、間違いではありませんがね、どうもわたしには、何のことやらサッパリわからなくなりました」
と解せぬ面持で頭を振り振り、未亡人は出て行ったが、そうそうわたくし、申し上げるのを忘れていましたと、ロヴィーサがまた重大なことを付け加えた。
「その時殿下は、白い手袋を持っておいでになりましたのです」
「そう……白い手袋をねえ……」
と嬢は打ち案じたが、これでロヴィーサが殿下に逢ったということは、もはや動かし難い事実となった。それが殿下の癖と見えて、白キッドの手袋だけは、いつも預り場へお預けにならず、必ず洋袴のポケットへお仕舞いになる。そして時々それを手に握っておいでになるということがよく噂されている。
「この女中は、もう詮議するところもないですな、正直そうな女だ」
とロヴィーサの出て行った後で、オーゲが呻くように言った。
「未亡人と廊下を歩いていられる殿下と、二階から降りて来られた殿下と、お二人あるということになる。これがわかると、事件の決め手が付くのだが……」
「まだあるわよ、オーゲ! 二階で飛行機を拵えてるヨアンネスと、階下で未亡人と話してるヨアンネスと……この解決が付くとねえ……」と嬢も眼を閉じて、鉛筆の尖で、机を突ついた。ビョルゲ事件が初めから混迷していたごとく、この事件もまた最初から手の付けようもない混沌さを見せてきた。外部から賊が侵入したのでもなければ、金庫の中でスリ換わったのでもないとすれば、これらの証言に基づいて捜索してゆくほかはないが、ともかく初めから非常な難航を予想させている。
もちろんこの小間使のロヴィーサの身許もエッベを飛ばせてスグ洗い立てさせる。この女は公爵邸へ来るまでは、コペンハーゲン市西南へ二十七哩、ロシデ在の貸自動車屋で、女中奉公をしていた。エッベが車を飛ばして、そこへ調べに行く。
「あの娘が、何かしでかしましたかい?」
と自動車屋のオヤジがびっくりして、眼を円くする。
「正直まっとうな、あんな安心のできる人間は、ありませんや。家にいてもらいたくてしようがねえんですがね。当人が何が何でも、都の空気を吸いてえって! それで暇を取ったんでさァ。時にあの娘が、何をしましたかい?」
当人が何をしでかしたというのではないが実はかくかくしかじかでと、まさか頸飾り盗難を明らさまにも語れぬから、適当に口実を拵えて、主人はこう言ってるが当人はこう言ってると、告げる。
「ロヴィーサの言ってることにゃ、絶対間違いありませんや!」
とオヤジにとっては双方の言い分の、白も黒もあったものではない。
「あの娘がウソなんぞ吐いたことは、ありゃしませんや。そんなわからねえことを言ってるんなら、公爵も伯爵もあったもんじゃねえ、そんな家はさっさと暇を取って、こっちへ来てくれ、こっちゃ待ってるんだと、そう言っておくんなさえ。また子が生まれて、あの娘に帰って来てもらいたくて、しようがねえんでさア!」
ここまで前の主人に信用されている人間というものは、大したものであった。それだけにロヴィーサという女がウソをいう人間でないとわかっただけに、事件の持っている難解さというものは、いよいよ幅を増してきたのであった。
夏至祭の頃
ビョルゲ事件が、初めから混迷のうちに出発したごとく、この事件もまたいくたびか暗礁に乗り上げて、幾度何遍嬢はこの事件から手を退こうかと気弱く、投げ出しかかったか知れぬ。そして毎日、懊悩の日を送っていた頃のある日、例の検事のベルグランド・ハルトアン小父様に連れ出されて、アンデルセン街の自由人倶楽部で、小半日ばかりを息抜きさせられたことがある。もちろんハルトアン氏は、嬢がドラーゲ公爵家の事件に没頭して、苦心し切っていることを知っている。
「国家警察局の腕利きたちでさえ、四人も五人もかかって埒口のあかんことが、女のお前にそう楽々と解決のつくわけがないじゃないか。ま、焦らずに、ゆっくりやるさ。さ、昼飯でもやろう。くよくよせずにつき合いなさい、つき合いなさい」
探偵の苦労というものを熟知しているこの検事には、親の亡い娘の身で、苦労し抜いている亡友の子への不愍さが加わっているのであろう。酒好きだから、料理を前にして大好物のスナップスに眼を細くしている。めったに嬢は、こんな倶楽部へは来たこともないが、検事はしょっちゅう顔出ししていると見えて、
「やあ、しばらくでしたな。その後、お変りもありませんか」
なぞと、脇を通る定連たちと盛んに挨拶を交わしている。今起って、懐かしそうに握手しているのは、鶴のように瘠せて丈高い、銀髪の老紳士であった。
「ほう、来月早々ブエノスアイレスへ、おいでになる? 年をお取りになってから、息子さんや娘さんのところを廻って歩かれるなぞとは羨ましい御身分ですな。それはそれは、お楽しいことで……ま、いらっしゃい、しばらくのお別れだ、別杯でも挙げましょうや」
到頭席へ引っ曳ってきた。
「お連れさんもお見えのようじゃが、御迷惑ではありませんかな?」
と慇懃に挨拶して、席に就いた老紳士は、もう七十幾つかとも思われる。生涯を地道にコツコツ叩き上げて、今では恩給で暮しているといわんばかりの、物堅そうな紳士であった。
以前は王子傅育官を務めて、今も嬢の頭の中を転がっている、フィリップ殿下の御幼少時代は、この人が御養育したのだという。もちろんそれはもう十幾年も昔のことであろうが、来月初めにはブエノスアイレスの大使館員に嫁いでいる娘さんを訪ねて、亜爾然丁へ出掛けるという。別段話もないから、キルシュカでも舐め舐め嬢は、二人の老人の話に耳を傾けていた。
丁抹には、夏至祭といって、毎年六月の二十二、三日頃には、二日も三日もブッ通しに国を挙げて祝う、盛大な祭りがある。
ちょうどその夏至祭も、いよいよ旬日の彼方に近付いて、それをアテ込んだ商店の花自動車が予行しているのであろう。この老人と話している時、急に窓の下がさざめいて、楽隊車を先頭に六台も七台も、花で飾りたてた車の上に仮装の人物たちが乗って、マングス街の方から練って来た。
「ほほう、これは面白い物が、来ましたな」
と食事を中止して窓から顔を出して眺めていたが、二階だから仮装の人物がよく見える。
丁抹の生んだ大彫刻家、トルヴァゼンに扮したもの……海水着の美女たちが、豊満な肢体も露に群集の喝采に会釈して行くもの……丁抹中興の英主、クリスチャン五世に扮して、剣を按じたもの……殊に精巧なのは、四番目の仮装であった。丁抹切っての名優として、現在盛名を全国に馳せているオールプ・アレニウスに扮して、心持ち左眉を挙げ加減に気取ったポーズで群集に挨拶している、チョビ髭を生やした片眼鏡の顔といい、右足を突き出して反っくり返った身体といい、ほんもののアレニウスそっくりであった。笑いながら群集もこの四番目の自動車に一番喝采を送っている。
「よう似とるわ。ほんもののアレニウスそっくりじゃなア」
と検事が感心して、頻りに花自動車の行方を見送っている。座へ戻ってからも、しばらくは今の仮装の巧妙さで持ち切りであったが、老人はなかなか検事の賞讃をそのままには受け入れぬ。年を老るとつい目前の事物には反撥感が起って、事々に昔を懐かしむものであろうか。今のも下手だとは言わないが、ほんとうに仮装の巧みな人物の仮装というものを、ハルトアンさん、あなたにも見せて上げたいようじゃなアという。
「今でも私に忘れられぬのは、アマリエンボルグ宮にいた時ですわい」
アマリエンボルグ宮というのは、王子御殿のある所、先王の時代には現国王も王子王女たちも、ここで育たれたのであった。
「そのアマリエンボルグ宮にいた頃、殿下の御学友に……」
ハッとしたように老人は口を噤んだが、さりげなく続ける。
「王子殿下たちの御学友でしたがな、その方がいやもう器用とも器用とも! あんな器用な方は、見たことがありませんわい。ある時インゲボルグ王女殿下お付きの侍女で、五十幾つの老婆にヒョイと変装して見せた時には、顔貌歩きぶりは申すに及ばず、顔をしかめる当人の癖から声まで、いやもう似てるとも似てるとも、ほんものと寸分違わずじゃ。おまけに、キョロキョロしながら出て来た本人の片方の耳環まで、ヒョイト外すと自分の耳につけて、……それをまた当人がサッパリ気が付かぬのが可笑しゅうて……イヤ笑ったにも笑ったにも! あまり騒ぎがどえらいので、仕舞いには王女殿下も出て見えられましたがな。長年側近く召し使うておられながら、王女殿下には到頭、ほんものと偽者との区別が、おつきになりませんでしたわい。間違えて偽の方に用をお言いつけになったりして、……笑いましたにも、笑いましたにも……みんなで腹を抱えましたっけが」
老人は眼に涙を湛えて、笑い出した。
検事も嬢も笑い出した。
「ホホホホホホ、その御学友は俳優にでもおなりでしたの?」
「なんのなんの……俳優どころか! 歴としたお方ですから、今ではクラーグ造船の、重役におなりですわい」
クラーグ造船といえば、丁抹切っての大会社である。
「ルンド様?」
「いいや、あの人は社長の子息……」
「どなたかしら? ステーンセン伯爵様……?」
まんまと図星を指されて、老人は眼を円くした。
「……そう……そう……あの方の、御幼少の時でしたかな。たしか、十六くらいにおなりだったかな?」
「御学友たちは、大勢いらっしゃいましたの?」
「なんの、……その方お一人ですわい」
過ぎ去った日を思い出すのは、老いたる人にとっては楽しい夢であったろうが、ステーンセン伯爵を知らず、いわんや伯爵の幼少時代を知らぬ検事やアイネス嬢は、どんなにその人の変装が技神に入ろうとも、大して興味のある話題ではない。老人が笑うから、一緒に笑ってみただけで、その話はおしまいになってしまった。
やがて老人も立ち去り、嬢とハルトアン氏とは、近着の雑誌か何かを見て倶楽部を出たのは、もう夕暮れ近くであったろう。町にはそろそろと靄が漂って、家路に急ぐ人々が雑踏を始めている。ブラブラとオステル街やオルヒュース街の飾窓を覗きながら言葉もなく足を運んでいるうちに、ふと電光のごとくに嬢の頭に閃いたものがある。ハッとして歩を停めた。いつか写真で見た、フィリップ殿下の気高い顔が、そこの飾窓の衣裳の陰に映っているような気がした。
現国王ヘンデル七世陛下の御兄弟は、王弟フィリップ殿下、王妹インゲボルグ殿下のほかにはない。が、巷間寄り寄りに伝えるところではまだそのほかにお一方……先王オスカル三世が何かの弾みに侍女に手をつけて、おできになったお子様がどこかで秘密に成人していられるということを噂している。さっき老人が、御学友なぞと言っていた造船会社のステーンセン伯爵とは、もしかすると……もしかすると、先王陛下のその秘密のお子様ではないかしら?
その伯爵ならば……と嬢は考えを逐う。名うての道楽者として評判の人物である、リヨン大学の造船学科に在学中、関係した仏蘭西生まれの女を夫人として、ズルズルに邸に引き込んでいる。そのほかにもしょっちゅう女の噂の絶え間がない。
世襲貴族として上院にも籍を置いているが、議員も会社もほんのつけ足りで、先代ルドヴィ・ステーンセン伯爵は、単に先王の侍従長として、さしたる財産家とも聞えぬのに現在の伯爵はグリプトテークの美術館脇に壮麗無比な大邸宅を構えて、どこからあんなに金が入るのか、王侯を凌がんばかりの豪奢な生活を営んでいる。その人がフィリップ殿下の秘密の弟君とならば、生活の豪奢さもわからんことはないが、伯爵は手先が器用で変装が巧みで、わずか十六歳の頃に、五十幾つの侍女に仮装して、朝晩侍かれているインゲボルグ殿下にさえも真偽の見分けがつかなかったという。
そんなに変装が巧みなら、もちろんフィリップ殿下にも化けられるであろうし、時には当主ドラーゲ公の弟十六歳のヨアンネス少年にも変装することができるであろう。そして……そして……侍女の気付かぬ間に耳環さえ外してしまう腕前ならば、お母様と頬摺りした瞬間に頸飾りをスリ換えてしまうくらいは、お茶の子サイサイであろう……。
考えてそこまできて、凄まじく自分の顔色の変ってきたのを、嬢は感ぜずにはいられなかった。
何にも知らぬハルトアン氏と別れて、一散に駆け出して家へ帰ると、嬢は大急ぎでステーンセン伯爵の住所を調べた。そして、受話器を執り上げる。
オーゲを呼び出して、フルステンボルグ城を厳重に洗って! と、言いつけた。オーゲは四十幾つ、探偵として押しも押されもせぬ腕利きであるが、亡くなった父親に世話になったのを徳として、父親が亡くなっても独立もせずに今もって嬢を助けていてくれる。嬢が父親の跡を嗣いで、探偵を開業したのもオーゲを頼みとしているところが多分にあったのであろう。もちろん殿下はもう、フルステンボルグ城に住んではいられないが、この腕利きには殿下といわずとも、フルステンボルグ城とのみで飲み込めたのであろう。
「O・K! MISS《フリョーケン》・イングリード!」
と力強く送話器の向うから太い声が響いてくる。
「大方そうくるだろうと思ったから昨日から二人ばかり、つけてありますぜ。もう二、三人ばかり狩り出して、みっちり洗ってみましょうかね」
という返事であった。続いてエッベを呼び出したが、これはどこへ廻っているのか電話が通ぜぬ。お座敷へ出せる代物ではないが、嬢にはもう一人キテレツな手先がいる。毒蛇と綽名されてるラルフ。前科六犯の追い剥ぎ、強盗、掬摸、窃盗……悪事ときたら何でもござれの、デパートみたいな男であったが、これも亡くなった父親に助けられたのを徳として、フッツリと悪の道を絶って、今ではこの私立探偵親子二代にわたって、忠実な手先を務めている。コブラは印度の毒蛇、一遍見込んだが最後、カブリツイテ放さぬ猛毒性からきた綽名であろう。
「どうしたい姐御、バカに息を切らしてさ! 陽気の変り目で、ちいっと心浮き浮き、てえところじゃねえのかね?」ときた。
「それどころじゃないのよ、ラルフお前すぐ、場所を変えておくれでないか? クラーグ造船の、ステーンセンという人のところへ!」
「クラーグ造船のステーンセンてえと?」
「ほら、美術館脇に、大きな邸を構えてる伯爵の……」
「ようがす、じゃこれから、スグにかかりやしょう」
「今のところは全部引き揚げて、お前の手の内みんなで、かかってみておくれな」
「合点だ! だが姐御、声が可笑しいやね、心浮き浮きてえところじゃねえのかね?」
浮き浮きどころか! いよいよ殿下が背後で糸を引いていられると知った途端から、気が鬱陶しくて感情を介入させてならぬとは知りつつも、何か幻滅の悲哀といったものが感じられてくる。それが受話器は措いてもしばらくそこに、彼女を喘がせていた。
不幸なる人の友
フィリップ殿下は二年ばかり前に、フルステンボルグ城内のメルビイ宮を出て、今では郊外西南へ三キロ、セーゲルフォス丘に程近い民家を買い上げて住んでいられる。
付近の牧羊業者の主婦連、退役官吏の古手、町の浮浪少年たち、手の内全部を動員して、オーゲは厳重な見張りを続けているのであろう。聞き込みが頻々《ひんぴん》と齎されてくる。何も一時にその聞き込みが入ってきたわけではないが、総合すると大体、こういうことになる。
「殿下は、極めて規則正しい生活を送っていられる。毎朝九時の御出勤、夕方四時頃にティルボンの龍騎兵連隊から退けて帰られるほかは、絶えて外出の御模様もない。偶に国王陛下の御都合で、御名代をお務めになるくらいのものである。
夕食後は、書斎にお籠りになると見えて、裏庭から向って右側二番目、白樺の木立ちに囲まれた二階の部屋からは、深夜一時二時頃までも、電灯が煌々《こうこう》と輝いている。
殿下に女出入りの風評は、さらにない。
殿下の面会日は、毎週水曜日と金曜日の午後である。この日は殿下の御徳を慕うて、全国から癈疾者、不具者、孤児、寡婦らが集って来る。多い時は一日に十五、六人も寄って来ることがある。
殿下もまた、快くこれらの哀れなる者たちを御引見になって、それぞれの福祉機関へお世話になったり、労って金品をお恵みになっている。これらの者たちは涙を流して、殿下の御仁慈を感泣している。
昨年三月、殿下はそれまで二十数人いた家職の大半を御解雇になった。目下はわずか八名の召使のみである。料理人、掃除人の末に至るまで、ことごとく男ばかり、女は一人もいない。そして極度に経費の節減を図っていられる。宮家経費は、王室費予算中に潤沢な計上を見ているにもかかわらず、何が故に極端な倹約を図っていられるのか、一般に深い謎とされている。目下の生活は、中流の中くらいの程度であろうと、家職の一人も言っている。
一昨年の二月、フルステンボルグ城離宮を去られて、一庶民としての生活を始められたことと相待って、この辺のところが殿下の御性格中の不明朗な点であろう。強ち自己に奉ずるの念、薄きところからきたものとのみは、解し難い。むしろ御性格中に、守銭奴的な、黄金狂的なものがあるのではなかろうか? と、取り沙汰されている。そこにあるいは、宝石狂的なものが潜んでいるのかも知れぬ」
オーゲの寄せてきた聞き込みを要約すれば、こういうことになる。一方ステーンセン伯爵邸を見張っているエッベや毒蛇のラルフたちからも、せっせと注進がくる。これも寄せ集めてみると、こういうことになる。
「ベーデル・ステーンセン伯爵は、本年二十七歳。フィリップ殿下と同年であるが、一九二一年の生誕であるから、殿下より半年遅い生まれである。故侍従長、ルドヴィ・ステーンセン伯爵の子として、届けられてある。が、生誕の時、故侍従長は六十三歳であった。はたして故伯爵の実子であるか否かは、不明である。
十七歳まで、現国王ヘンデル七世陛下やフィリップ殿下、インゲボルグ王女殿下らとともに、アマリエンボルグ宮殿内で育ったことは事実である。表面は、王子らの御学友ということになっているが、待遇は王子王女と何の変りもなかったことが判明した。が、この事実から直ちに、先王オスカル三世陛下の御子と判断することは、不可能である。侍従長夫妻は、他に子供なく、一九二七年、同二九年相継いで他界した。
伯爵は、現在上院議員、クラーグ造船会社副社長として重役陣に列している。が、議会も会社もほとんど出席したことがない。議会の籍は、統一保守党に置かれてある。
趣味は狩猟、撞球。賭博に耽り、漁色、飲酒癖強く、放縦奢侈なる性格のように思われる。生活は非常なる豪奢を極め、ローレンス街の邸宅は華美壮麗、一九四五年、猶太人豪商オルテヴ・イ・グンドルフ氏から買い受けたものである。ヘルシンゲールに別荘があるが、ここ一年ばかり伯爵の赴いた形跡はない。グンドルフ氏は、仏蘭西に帰化して、目下、巴里に住んでいる。
嬢の推定のごとく伯爵は容貌体格ともに、フィリップ殿下に酷似している。丈が殿下より心持低く、もっと肥り肉のように思われる。が、ほとんど見分け難い。ただ、伯爵が髭を蓄えているだけの違いである。音声は不明。
召使は、全部で十八名。南米、主として亜爾然丁、ウルグァイ方面よりの来信電報すこぶる多く、二、三日前には、国境ヴェステルバーゲンの税関からも、厚い封書が三度ばかりきたことがある。
昼間、伯爵邸へ来訪するものはほとんどない。訪客は、暮夜訪れ、伯爵邸に一泊の後、立ち去る模様である。
夫人イエルヴァは仏蘭西人、ナンシー郊外アヴィアンの生まれ、妖艶にして二十四歳、仏蘭西名レオンティーヌ。噂のごとく、外出がすこぶる多い。極星座付俳優ヘニング・ローマンとの浮名が立っているが、伯爵は一切関知せざる模様、夫妻の間に風波はない様子である」
毒蛇のラルフに、こんな緻密な聞き込みなぞのできるわけがない。これはもちろん、エッベの注進を主として、それへ「姐御姐御」と柄の悪い大声を挙げて、ラルフが齎してくるものを加味して、嬢が仮に作り出した要約なのであるが、これもオーゲ同様、一時に齎されたものではない。張り込ませてから約二カ月ばかりの間に、その都度都度に寄せられ、この聞き込みを得た時分から、今度の犯罪に対する決め手として、嬢の頭の中で次第次第に※ 醸されてきたものである。
そして、今確立した嬢の見通しによれば、ドラーゲ公爵邸における事件は、こういう風に推理される。
海蛇の頸飾りを奪った犯人は、正しくこのステーセン伯爵である。伯爵は殿下の随員を装って、公爵邸へ紛れ込んだ。未亡人に接近して、飛行機材料を買う小遣いをネダッタものは、少年ヨアンネスに変装したこの伯爵に違いない。
控えの間脇の供待合室で、ほかの者たちが将棋に打ち興じている時、伯爵はひそかに室の一隅の螺旋階段を下って、――この通路が地下でキビラ石むき出しの隧道になって、二つ三つの横の通路と交叉して、やがて二階へ上る大階段脇へ出ることは、いつかその道の逆を執事の頬髭に案内されて、嬢の検分したところである。伯爵はこの通路を抜けて二階へ上っている。
二階の北側の一番奥の部屋は、客用の羽根蒲団、敷布、不用の絨毯等の置き場として、現在用いられている。しょっちゅう出し入れするために、鍵がかけられていない。この部屋もいつか検分した時に、嬢は見ておいた。おそらく伯爵はこの部屋に入って、用意して行ったヨアンネス少年の服装を着けたに違いない。そして何食わぬ顔をして、正面階段を降りて来て、未亡人を呼び出して小遣いをネダッタものに違いない。
もちろん少年の服装や容貌等は、学校の往き帰りその他の場合に、前もって入念に調べておいたに違いない。同時に少年が飛行機の製作に、家庭教師と二人で夢中になっていることも、その晩の宴席へ出ないことも、充分見究めておいたに相違ない。そして未亡人から金は執事に貰いなさいと言われて、有難うお母様、有難う有難うと、未亡人の頸を抱いて接吻した時に、稀代の妙技を奮って、未亡人の頸飾りを奪ったのであろう。そしてそこへ偽物を掛け換えておいたに違いない。
犯行後、二階へ戻ってまた前の雑具部屋で、ヨアンネス少年の服を脱ぎ棄てると、今度はフィリップ殿下の軍服に着換えた――本来なれば、ここで随員の服装に改むべきはずのところを何が故にわざわざ殿下の軍服に着換え直したかは、何と考えてみても嬢にはわからなかった。わからなかったがしかし、嬢はこの自分の推理を疑う気には、微塵もなれなかった。ともかく、龍騎兵大尉の殿下になり澄ました伯爵は、悠々として二階正面の階段を降りて来た。そこで、小間使のロヴィーサに逢っている。したがって、二階から降りて来る殿下に逢ったというロヴィーサの証言も真実なれば、ほんものの殿下はさっきから少しも席を動いてはいられないのであったから、未亡人がムキになってロヴィーサの言葉に反駁を加えている態度も、また真実であるということができる。
伯爵の偽殿下は、ロヴィーサと別れると、そこの裏階段をまた地下へ潜り抜けて、螺旋階段を上って供待ちの部屋へ戻っている。ただし部屋に入る前に、おそらく階段の薄闇がりで、殿下の服装を脱ぎ棄てて、扈従の装に変えたのであろう。こうして伯爵は、殿下の帰られる時悠々とお供に加わって引き揚げて行ったのであるが、この場合伯爵は偽の頸飾りのほかに殿下とヨアンネス少年との二通りの衣装一切を準備して行ってるということになる。
しかもそれらの証拠を残さずに、また持って帰っているところを見れば、およそこういうことが殿下の支持なり諒解なしに行われ得ようとは絶対に思われない。すなわち何食わぬ顔をして殿下は、伯爵の犯罪の一切を諒解していられるということになる。事件の起る四、五カ月ばかり前、蒸し暑い日の午後に、北並木通りまでドライヴに来たと言って、殿下が美しい侍女を連れて立ち寄られたということを、未亡人が言っている。もちろんこれも、ほんものの殿下ではない。殿下はそのことを知ってはいられたであろうが、その立ち寄った殿下というのは、この変装した伯爵である。侍女というのは、もしかすると……もしかすると……仏蘭西生まれのイェルヴァ……レオンティーヌ夫人ではなかろうか? と、考えられる。
これが、ドラーゲ事件に対する嬢の推理であったが、伯爵が犯人だと仮定すると、いつかハルトアン検事から聞いたビョルゲ邸事件の解決も即座に付いてくる。すなわち舞踏室で、エレン夫人に踊りの相手を申し込んだ殿下は、もちろんほんもののフィリップ殿下ではない。殿下に変装した、このステーンセン伯爵である。殿下は初めから、船舶相や大蔵大臣、ベテレヘム製鋼会社社長らとの歓談の席を外してはいられなかった。そして踊りながらエレン夫人に、麻酔剤を嗅がせたのは、もちろん夫人の推察のとおりである。
内庭の※ 《ぶな》の木陰のベンチで、夫人が半醒半眠で休んでいる間に、腕環、頸飾りを奪ってしまったのである。その場合もまた、殿下の従者として安全に、ビョルゲ邸を引き揚げている。ただしこの場合、ビョルゲ邸内のどこで伯爵が殿下に変装し、またどんな抜け道を通って、舞踏室と供待ち部屋の間を往復したものか? そしてエレン夫人の腕環や頸飾りの類を、いつどこで調べて偽物を用意しておいたかは、不明である。嬢が直接関係した事件ではないから、そういう点は一切不明だが、しかしそんなことくらいは、この姦智に長けた伯爵にとっては、易々たるものであったろう。変装しようと思えば、便所の中でもできるであろうし、夫人の腕環や頸飾りを調べたければ、随時随所で前もっていくらでも、フィリップ殿下に仮装して調べることができたであろう。
そう考えてくると、殿下、先程は有難うございましたと、夫人が礼を述べた時に、え? と初めは吃驚されたようであったが、
「ああ、それは結構でした、何よりです」
と、取って付けたような返事をされた殿下の態度にも、充分頷けるものがある。いずれにしても殿下が、これらの事件の首魁であり、主役であり、黒幕を務めていられることは、もはや一点の疑う余地もない。
伯爵の罪はもちろん許すべからざるものであるが、殿下の仮面に較べれば、……孤児院協会総裁として、養老協会総裁として、丁抹赤十字社総裁として、殊にオーゲの聞き込みによれば、面会日には不具者、癈疾者、孤児、寡婦ら不幸な人々十五、六人余りも寄り集って来るという。表にはそれらの人々に哀れみを施して、裏ではこれだけの陰険な悪事を企んで伯爵を嗾している殿下の方こそ、伯爵に十層倍し、二十層倍し、百層倍増した悪漢中の大悪漢であると、嬢は頬に血を上らせた。
もちろん盗品は、まだ伯爵の手許に匿してあるだろうから、まず第一に伯爵邸に踏み込まなければならぬが、その上で殿下にのっ退きならぬ証拠を突きつけて――伯爵という生き証人を突きつけて、このえせ総裁のえせ仁慈のえせ偽善者の世にも恐ろしい食わせ者の、大怪盗殿下の面皮を引っ剥がさなければならぬと嬢は憤ろしさに、身を震わせたのであった。それはもう、幻滅の悲哀なぞという、そんな生易しい感情くらいのものではない。もっともっと突き詰めた憤ろしさのそれであった。
そして、躍る胸を抑えて、なお動かし難い証拠の挙がるのを待っているうちに、やがてそののっ退きならぬ証拠も、
「姐御、姐御!」
と到頭、毒蛇の嗅ぎつける日がきたのであった。
「いやもう、あれは大変な家ですぜ、伏魔殿みてえな家だア! 地下にゃ、秘密の仕事場が、あるってやすぜ。厳重な鍵をかけて、召使一人だって、寄せ付けるもんじゃ、ねえってまさア。そこで奪った宝石の解体をしてるんだと、あっしゃ踏んだね。模造品や何かは素人にゃ手に負えねえから、どっか遠い所で作らせてるかも知んねえが。かまわねえから、姐御! 踏ん込みなせえ、踏ん込みなせえ! 毒蛇様の眼は、ダテに付いちゃアいねえんだから」
と、意気軒昂たるものがある。
仏蘭西生まれの夫人の父親は村の錺職であった。錺屋の父親を持っている以上、もちろん大人にも盗品の頸飾りや腕環類の分解なぞは、造作なくできるであろう。さらに続けてエッベからも、もう一つ重大な注進が入ってきた。いつか検事のハルトアン氏と一緒に倶楽部で逢った元傅育官だったという老人……あの律義そうな老人が、四、五日前に伯爵邸へ訪れて来たきり、今もって姿を見せぬという。
来月早々亜爾然丁へ行くもクソも、あるものか! まだ市内にマゴマゴしてるのであった。おまけに邸の中へ入ったきり、どこへも出て行った様子は、絶対にないという。この老人こそフィリップ殿下と伯爵の間に立っている連絡者だと、嬢は睨んだ。かくて嬢の直観は信念となり、信念はいよいよ胸の内に燃えて、今や沸騰点に達してきた。
今度の決め手が違ったら、もうこれで探偵の看板は下してしまおう! と、覚悟の臍を固めた。が、いよいよ手を入れるとなると、ここに問題が一つ起ってくる。上院議員も会社重役も大したことはないが、ただ厄介なのは高貴な血を引く相手だけに、民間探偵としてはその筋の諒解なしには、濫りに手をつけられぬことであった。いわんや背後には、フィリップ殿下が控えている。
ついに決心して嬢は、国家警察局の諒解を求めるべく、ある日長官を訪ねて行ったのであった。初めてあの傅育官の老人に逢って、伯爵邸と殿下の御動静に見張りをつけてから約二カ月半ばかりの後、北の国の夏は束の間に過ぎて、蕭条たる秋がもうその辺までやってきている頃であった。
伯爵夫人と外務次官令嬢
長官は万一の見込み違いを慮って、国家警察局から応援を出すことは憚るが、都市警察庁の私服七、八人くらいは繰り出してもいいと言ってくれた。毒蛇には危険で持たせられぬが、かねてからオーゲに眼をかけさせている手の内が七人、エッベが四人、これに都市警察庁を加えて、狩り出しが全部で二十人、外出先の伯爵を適当に嬢がアヤなしている間に、これらの者たちが躍り込んで一挙に、虱潰しの家宅捜索を行うことに方針が決まった。
今日か明日かと機会を窺っているうちに、局面が百八十度の展開を見せてきた。邸の中がザワめいてどうやら盗品の解体も終えて、国外へ持ち出すのではないか! と、エッベからの注進であった。続いてエッベの知らせを確認して、毒蛇の聞き込みが入ってくる。ペルナンブコ経由で大荷物が三個、今日リオデジャネイロへ向けてアウガスタ号に積み込まれた。バーゲルス街角の時計店ナアゲルで、伯爵夫人イェルヴァが、自分で身分柄にも似ず、縦十吋幅八吋くらいの真鍮の安物の歌い時計を買った。どうやら伯爵夫人がまず一人で出かけるらしいというのである。
この時計の中に、宝石を詰め込むんだなと嬢は直観した。
毒蛇もそうらしいという。さて、中央停車場からフレデリシア・フレンスブルグ経由、ハンブルグ行きの大陸急行に伯爵夫人が乗り込んだのを見定めて、大急ぎで嬢が列車の最後部に飛び移ったのは、それから何日ばかりの後であったろうか? 朝から霧雨がビショついて肌寒い日であった。その方がかえって人目につかぬと見たのであろう。前から五両目の一等車の車室には、――丁抹語でこれをヒュッテという。その車室には、侍女も連れずただ一人、表面は貴婦人の一人旅と見せかけて、伯爵夫人が乗っている。
中型の旅行鞄が二つ、角から粗末なボール函を覗かせた、思い出してほんのその辺で買ったといわんばかりの、紙包みが一つ。人目には何の奇もないこの紙包みこそ宝石入りの歌い時計が入っていると、嬢は睨んでいた。後部七両目の三等車には、都市警察庁の探偵が三人、普通の旅客に交じって眼を光らせている。前部二等車の入口には、国家警察局の次長がこれも、旅客を装って平服で腰かけている。
嬢はオーゲやエッベを連れず、毒蛇のラルフだけを連れている。海蛇の頸飾りを追っかけるのに陸の毒蛇のコブラとは! と、その取り合わせの妙に苦笑する。車室の準備の整うまで、しばらく一等車のデッキに佇んでいた。国家警察局の手も、都市警察庁の手もスッカリ廻っているのであろう。ほんものの車掌は車室に引っ込んで、
「オールセン様のお嬢様で、いらっしゃいますか?」
とそこへ車掌に化けた毒蛇が通りかかって外務次官オールセン令嬢と名乗る女探偵の前に、小腰を屈める。
「唯今スグに、伯爵夫人にお願いいたしますから、どうぞもうしばらくのところ、お待ち下さいまし。夫人はブレーメンまでの、通し切符をお持ちでいらっしゃいます」
と、知らせてくれた。そして去り際にあたりを見廻して、ニヤッと頬を歪めた。
「姐御はやっぱり、眼が高えぜ。代物は、ボール函包みの中だア、絶対間違えはねえ。もう袋の中の鼠だア」
と、力づけてくれた。汽車がいよいよ、リンリスハーフェンに近付いた頃おいに、
「さあ、どうぞお嬢様、伯爵夫人にお願いしておきましたから」
と毒蛇の車掌が先に立って車室へはいった。彼女は初めて眼のあたり、この伯爵夫人と顔を合わせることができた。なるほど昔リヨンで踊り子をしていた時分に、伯爵に見初められたというだけあって、水々しい眸、魅力的な潤みを帯びた睫毛、どこか雌豹を偲ばせる嫋やかな脚! 豪奢なミンクの毛皮を纏って、傍らに虎の膝掛けを置いて、人目を眩ずる艶やかさの上に、貴夫人の雅やかさを装っている。
「では奥様、恐れ入りますがハンブルグまで、このお嬢様と御同室でどうぞ! あいにく込み合っておりますもんですから」
「奥様、失礼いたします」
と外務次官の令嬢も、同じような淑やかさで、夫人の向い側に席を占める。
「さあ、どうぞ!」
とにこやかに会釈を返して、窓枠に頬杖を突きながら夫人は身体を斜めに、移り行く窓外の景色に見惚れていた。美しさといい上品さ鷹揚さ、どこから見てもまずは寸分の隙もない上流貴婦人である。殊に際立って眼が婀娜っぽい! ハハアこいつだな、頸飾りを調べに偽フィリップ殿下のお供をして行った女は! そして公爵未亡人から、殿下の寵姫と思われている女は! と頷く。問題のボール函包みは無造作に網棚に抛り上げられてある。旅行鞄の一つは足許に、もう一つの小型の方は、大切そうに脇に引きつけられてある。
誰が見ても、その引きつけられた旅行鞄の方に大切なものが詰まってると思うだろう。なんとか近付きになりたいが、そう無暗に話しかけるわけにもならぬ。嬢も、自分の旅行鞄に片脚を載せて、雑誌を出して読み出した。雑誌の陰から眼を走らせると、何か思案顔に夫人はサラサラと、電報用紙に万年筆を走らせている。書き終ると車掌にでも頼むのであろう、扉をあけて出て行った。
と、やがて戻って来ると、用が済んで吻としたといわんばかりの面持で膝掛けを引き寄せながら途端に彼女と眼が合った。にっこりと靨を刻んで、人を逸さぬ調子で話しかけてくる。
「お嬢様は、どちらまで、おいでになりますの?」
「ハ、わたくし、あの……巴里まで、まいります」
「まあ巴里まで、わたくしブレーメンまでまいりますのよ、ではしばらく御一緒に、まいれますわね。……いいですわ、今頃おいでになりますと、巴里はまだまだ暖かですから、シャンゼリゼーなぞ、さぞ賑っておりますでしょう、いいですわねえ」
と、恍惚と眼を細めた。
「わたくしも子供の時分巴里で育ちましたから、いつまでたってもあの景色、忘れられませんわ」
と独語のように呟く。
「巴里はどちらにいらっしゃいましたの?」
と今度は、外務次官の令嬢が問う。
「ハア、あの、拉丁区にねえ、セーヌを越して、エッフェル塔や凱旋門の見えますあたりにねえ……父が永らくあすこで、商売をしていましたもんですから。ほんとうに懐かしい所ですわ」
水の流れるように、爽やかな声音であった。
パチンと、宝石を鏤めた琥珀の煙草ケースを開く。
「いかが? お嬢様、お一つどうぞ」
自分も一本抜いて、フーッと薫り高い息を吐き出した。丁抹では、コペンハーゲン市のことを商人の都と呼んでいる。
「キョーベンハムは、どちらにお住まいでいらっしゃいますの?」
「ハア、王貴街に父の官舎がございますもんですから……でもわたくし叔父がボストンにおりまして、子供の時分から永らく、向うへ行っておりましたの。亡くなりましたもんですから、帰ってまいりましたら自分の故国でもなんだかまるで、よその国へでも行ったような気がいたしましてオホホホホホホ」
とこの亜米利加帰りの外務次官の令嬢も、伯爵夫人に負けず劣らず、流暢の弁を奮う。
「まあ、どうしても、長いこと向うにいらっしゃいましたんでは、そういう気がなさいますでしょうねえ」
と夫人が情濃やかそうな瞳を瞬く。
「わたくし、ローレンス街に、住まっておりますのよ。御存知でいらっしゃいましょう? グリプトテークの美術館のございます所、あの広場の脇のごく閑静な所ですわ。……わたくしイェルヴァ・ステーンセンと申しますの。伯爵ステーンセンと、お聞き下さいますればスグわかります。お帰りになりましたら、ぜひどうぞ、お訪ね下さいまして」
「わたくしこそ、これを御縁に、どうぞ! わたくし、クラーラ・オールセンと申しますの」
と女探偵は、次第次第に外務次官令嬢に深入りしていったが、こんな会話のやり取りほど、世にも実意のない、狐と狸の化かし合いはなかったであろう。オールセン外務次官の弟が、ボストンにいて死んだというのも、ほんものの次官が聞いたら眼を廻すであろうが、伯爵夫人の父親が商人で、巴里に住んでいたというのも、眉唾ものであろう。アイネス嬢の洗い立てたところでは、この女はナンシー郊外アヴィアン村に生まれて、八つの年にリヨン市に移っている。父親は村の錺屋、商売に失敗して村にいた堪れなくて、リヨン市では洗濯屋をしてたはずである。食うや食わずの貧しさから、この女は十四の年から踊り子に出た。子供の時から手癖が悪くて、踊り子の時代朋輩の物を盗んで、二回もリヨン市の警察に挙げられている。
十六の年には、賭博師の情夫を持って、男に唆されてマルセーユに出奔して、曖昧屋の前借りを踏み倒して訴えられている。そして男に棄てられた十八の年に、その頃リヨン大学の学生だったステーンセン伯爵に見初められて、ズルズルに伯爵家に入り込んだという、堂々たる経歴の持主になっているのであったが、その前借り踏み倒しの伯爵夫人と、氏名詐称のオールセン外務次官令嬢の探偵とは、どのくらいの間も狐と狸の化かし合い問答を続けていたことであろうか?
「いかがです、お一つ、召し上りになりません?」
と車中の徒然に、夫人は旅行鞄から出したインゲ百貨店製の上等なチョコレートを自分の口に含む。
次官の令嬢も煙草ケースを出して「どうぞ」と火を磨って差し出した。
「アブドラ十六番ですのね、いい煙草ですわ……でもこの煙草はわたしには少し強過ぎるかしら……」
やがて汽車は疾駆を終えて、喘ぎながらクーゾルの駅へ入って来た。
「奥様、ちょっと御免遊ばして……」
と令嬢が車を降りて、新鮮な空気を呼吸すべく、長いホームを往きつ戻りつ散歩している時に、旅客を装って三等車に乗っていた応援の探偵の一人が、これも往きつ戻りつホームを散歩しているのと擦れ違う。
擦れ違った拍子に、この探偵が毒蛇からでも頼まれたのであろう、唇を動かさずに腹話術みたいな声で、独語を言った。
「明朝六時半、ハンメルスフェーヘンに着く。一室準備せられたし、ネッセンゲルト・ホテルへ、ステーンセン伯爵夫人」独語だから、別段、返事をする必要はない。そのまま知らん顔して、探偵も通り過ぎれば、アイネス嬢もまた、振り向きもせず車室へ戻って、再びオールセン令嬢になり澄ましてしまう。ハンメルスフェーヘンとブレーメンとでは、およそ西と南へ、大変な違いであった。
ブレーメンへ行くと見せかけて通し切符を買っておいて、実際はハンメルスフェーヘンへ行くとならば、汽車は西独の国境駅フレンスブルグで乗り換えなければならぬ。してみれば嬢の仕事は、そのフレンスブルグの駅まで余すところ四時間ばかりの間に片付けなければならぬ。雑誌に眼を注ぎながらも、網棚の上のボール函包みが、ようやく焦慮の種になってきた。
その焦慮を読み取ろうとするかのように、何気ない体を装いつつ夫人のほほ笑んだ瞳が時々ちらっと嬢の面を掠めてくる。ハハアと女探偵には、頷くものがあった。ブレーメンへ行くともハンメルスフェーヘンへ行くとも、まだこの女の行く先はわからぬが、自分が探偵であるかどうかを探るために、偽電をまずハンメルスフェーヘンへ打ってみて、人の顔色を読もうとしているのだな。そしてさっきから時々、車室の外へ出て行くのは、留守中の自分の挙動を見ようとしているのだな。それならば焦燥を鵜の毛で突いたほどにも見せるということは、自分自らを探偵であると告白するようなものであった。そのアイネス嬢の心を知ってか知らずにか、夫人は相変らず優雅な挙措を作りながら、時々にこやかに話しかけてくる。ボロを出してはならぬから、なるべく言葉短に次官令嬢は受け答えていたが、およそその間に彼女の知り得たことは、この女が容易ならぬ才智の女だということであった。手癖は悪いかも知れぬが、小娘の時代から男狂いはしていたかも知れぬが、さすがに伯爵に眼をつけられるだけあって、頭はどこかすばらしく、鋭角的に発達しているな! と、驚かずにはいられなかったのであった。
列車はいよいよ、丁抹領最終端の、ヴェステルバーゲンの駅へ入って来た。この駅から西独逸の国境駅フレンスブルグまで、約四十分。列車が駅を出外れると、丁抹と西独逸側との税関吏が荷物検査のために乗り込んで来るはずになっている。そしてこの駅がトンヅール方面への区間列車の分岐点になっているのと、近くにフォーゲルホルンスの景勝地を控えているため、子供連れの物見遊山の客や乗る人降りる人、密輸入業者たちも、ここで一息入れるであろうし、遥かに北フリジア諸島の山々を、北海の煙波の彼方に望み見て、長いホームはかなりの雑踏を極めている。
その混雑を眺めながら、例によって往きつ戻りつ散歩していたら、向うからさっきとは違う別な探偵がやって来る。擦れ違いざまに小さく丸めた紙切れを、ポケットの中へ投げ込んで行った。後で便所へ入って開いてみたら、
「明朝八時、オーベルン着、部屋の用意頼むファルク・ホテルへ、ステーンセン伯爵夫人」
もはや伯爵夫人が、何を考えているかは明白であった。どこへ行こうとしているかはまだわからないが、それもおそらくここ二、三十分内に、税関の検査の終るまでには、ハッキリするであろう。ともかく、ブレーメンへ行くのでもなければ、ハンメルスフェーヘンやオーベルンへ行くのでもないことだけは、明瞭である。その行きもしない土地のホテルへ電報を打っているということは、もう夫人が鋭い感覚で、自分を探偵だと感づいている証拠であった。それらの電報がことごとく嬢の耳へ筒抜けになるとの計算の下に、偽電を至る所へ打って嬢を惑乱させようと企んでいるのであった。
ようし、それならばと、嬢の考えも決まった。決心が決まれば、もう何も焦るところはない。おそらく税関吏と組んで一芝居打つであろうから、その税関吏の様子を見守っていた上で、一網打尽に逮捕してしまおうと肚を決めたのであった。
ヴェステルバーゲンの税関吏
車が勾配にさしかかった頃おいに、二人ばかりの税関吏が、扉をノックしてきた。
「国境税関です、お荷物を、検査させていただきます」
西独側の税関吏は、全部丁抹側に委せていると見えて、ただ入口に突っ立っているだけであったが、丁抹側の三十二、三の痩せた税関吏と、その上役らしい肥った四十くらいの税関吏とが、荷物を引っ繰り返しオックリ返して仔細に調べる。
もちろんアイネス嬢に調べられて困るような物なぞの、あろうはずがない。ほんの着換えと下着一、二枚、まさかの時の用意に、男装用の洋袴くらいのものであった。大体が、旅客の体裁を装うために持って来ている旅行鞄に過ぎなかったのに、それさえ、一枚一枚手に取って振るってみているが、予想に違わず夫人の荷物ときたら、ろくろく眼も通さずにポンポン通関済みのスタンプを押している。嬢の眼は、その肥った税関吏の一挙一動に注がれている。殊に注目していたのは、例の網棚のボール函包みであった。
税関吏の手がかかって、スルスルと紐が解かれる。ちらと眺めたそのボール函の中からは、いつぞやのエッベの注進どおり、長方形の金鍍金をした安物らしい歌い時計が現れた。
「奥様、これは何ですか?」
と肥った税関吏が居丈高に、立ちハダカル。
「時計ですの。……歌い時計なんですの!」
「時計にしては、大分重いようですな」
「その中に……その中に少し実は、わたくしの装身具類を、詰めてきたものですから」
「いけませんな、そういうことをしては! 税関の眼を晦ますためだと、誤解されても仕方がありませんぞ! 中を開けて、お見せなさい」
夫人に向って突っ立っている、その肥った税関吏の背の陰になって、嬢の方からは見えなかったが、夫人が時計の裏蓋を開けて見せている様子であった。途端に税関吏の太い濁った声が、一際高く耳を打ってきた。
「いけません、いけません、これは奥様、禁制品じゃありませんか。このまま、お通しするわけにはゆきません。いったん、税関で、調べた上でのことになります」
「そうすると……没収になるのでしょうか?」
「没収になるか、還付になるか、調べた上でなければ、御返事はできかねます。ともかくあなたも、このままお通しするわけにはゆきませんから、一応税関まで御同行下さい。次の駅で、下車する用意をしておいて下さい。これはともかく、税関でお預りします」
再び時計はボール函に納められて、無造作に紐をかけてそれを持って、税関吏は立ち去ってしまった。
「まあ、バカバカしいったら、ありゃしませんわ! こんなバカゲタこと……自分の指環を詰めてきたのに、持ってかれてしまって! おまけに税関に出頭しろなんて! なんて、バカバカしいんでしょう」
聞えよがしに苦笑しいしい、税関吏に穿じり返された荷物の始末をしている。嬢はじっとそれを眺めていた。やっと後片付けも終ると、
「まだ二十分もあるわ……」
と腕時計を見ながら席に腰を降ろした。
「どうぞ」
とケースを開いて彼女にも勧めると、一本を取って、ライターを磨る。いよいよ来たな! と苦笑した。パチンとケースを開くと、そのままさっきは差し出したのを、今度は夫人の抜いた煙草はケースの真ん中から、その片隅にさあお上りなさい! と言わんばかりに三、四本並んでいる。
「せっかくですけれど、奥様、もうわたくし、奥様のお煙草は、いただかないことにしましたの。御遠慮申し上げますわ」
「おや! 妙なことを仰有る、どうなすって?」
と夫人の艶やかな瞳が瞬く。
「でもわたくし」と彼女の面を、冷笑が走った。いよいよ狐と狸が、正体を暴露し合う時がきた。「まだ行きがけの駄賃に、麻酔は頂戴したくはございませんの」
「麻酔? 行きがけの駄賃に、麻酔? 何のことなんですの? 何だかあなたの仰有ること、サッパリ飲み込めませんけれど」
と怪訝そうにほほ笑みながら、ほほ笑んだ手がソロリソロリと、外套のポケットの中へはいってゆく。
「次の駅で、……フレンスブルグでお降りになる前に、麻酔を下さろうなんて、随分奥様もお人が悪いじゃございませんの?」
「…………」
口許に笑いを忘れたまま、夫人の眼を炎が走った。
「それならば……それならば……」
と次の瞬間さっと手が、躍り出す。
「こ、これではいかがですの」
予期したように、女持ち小型拳銃の銃口が!
が、彼女の方が、もっと素早かった。
「いきますのよ、奥様、プスッと! 少しでもオカシナ真似をなさると」
夫人の胴に突きつけた銃口が、コチコチと相手の身体を刳る。
「もっと手を挙げて! ほら、もっと上へ挙げて! もう少し……ほら、もう少し上へ!」
隙を見て、ガーンと砕けんばかり、拳銃で相手の銃持つ手を殴りつけた。
「呀っ!」
と辟易ぐ拍子に、ズドンと一発! 夫人の銃弾が背後の扉に逸て、濛々と白煙が立ち込める。床に転がった拳銃を、素早く靴で払い退ける。
「夫人、そこへ掛けなさい! 手を動かすんじゃないというのに! わたしの銃は、ダテではないよ。お掛けというに、わからないか!」
ギリギリと歯を噛み鳴らしながら、食いつかんばかりの形相で、無念そうに夫人が座席に腰を下ろす。
「まだ、手を動かすか! 手を挙げなさいというに、撃たれたいか!」
已むなく一発、威嚇に発射した。再び白煙が濛々と立ち込めて、弾は窓硝子を貫いて、大空へ飛び去った。鼻を劈く硝煙の香に、顔色変えてやっと夫人が手の動きを止めた。心臓に照準をつけたまま、次第次第に身を退らせてくる。
地響き立てて驀進中の列車とはいえ、今の二発の轟音と、この硝煙の香は、旅客の平安を破るに充分であったろう。開けろ、開けろと扉が破れんばかりに叩かれている。夫人に銃口を向けたまま後ろ手に、扉の掛金を外す。毒蛇を先頭に探偵が二人、筒先揃えて殺到してきた。なんだ、なんだ! と後から引っ切りなしに、旅客が押し寄せてくる。
「ようし、姐御、あっしが引き受けた」
「お嬢さん、退きなさい! 後は引き受ける」
「危ない、危ない! 危ないから、入ってはいけぬ、入ってはいけぬ、レオンティーヌ! まだ、手を動かすか!」
と、初めて夫人の仏蘭西名を呼んだ。
「かまわない、かまわないから、ラルフ! 早くその女のふところをお探し! 持っている、持っている、短剣を呑んでいる」
途端に列車が、烈しい彎曲を切ったのであろう、立ってもいられぬくらい動揺する。危ない! と身を屈めた瞬間、夫人の投げた短剣が空を切って眼前に閃いた。
「キャー!」
と凄まじい悲鳴が起って、背後で誰か、倒れた気配である。仕方がない、もう一発威嚇に、硝子窓越しにブッ放す。
「ウヌ、畜生! まだ抵抗しやがるか!」
と毒蛇と探偵の一人が飛び込んで、女を抑えつける。倒れたのは、犇めいている旅客の一人であった。
「血を止めろ、早く血を! いかんいかん、誰か医者はいないかア、医者は? 列車を止めろう!」
「車掌、車掌! 車掌はいないかア?」
「女探偵だ、女探偵だ!」
「密輸入を挙げたんだ、密輸入を!」
後から後から雪崩を打って、旅客が詰めかけてくる。次長が声を嗄らして、必死にデッキの外へ追いやっている。探偵の一人が張り番に立って、やっと騒ぎが静まってきた。作りつけの蝋人形のように、凄まじい眼を剥いている夫人の内ポケットを探って、毒蛇の取り出したものは、万年筆型に仕込んだ五吋ばかりの、研ぎ澄ました短剣がもう一口……後は時計、指環等の装身具類で、大したものもない。
※ 《ろう》たけた貴婦人と見せかけながら、拳銃に短剣二口、莫連女の正体を完全に暴露した。
「三十八番の札をつけた税関吏がいます。女の一味です。盗品を女から渡されています。肥った四十くらいの男! 後部の車室で今検査しています。早く早く、汽車の止らぬうちに!」
途端に夫人のレオンティーヌが奇怪な叫びを挙げて、身悶えした。
「やい女! まだ、じたばたしやがるか!」
と毒蛇が飛びかかって、その口を抑える。
「次長殿、職務中の税関吏を、しょっ引いてもかまいませんか!」
「かまいません」
と探偵たちの脇甲斐なさに、嬢が絶叫した。
「職務中にこの女と、結託していたんです。身許もわかっています。早く早く! 盗品を隠してしまってからでは、間に合わない。早く早く、抑えて来て下さい……」
「ようし、捕まえて来い!」
と次長が大喝する。探偵二人が飛んで行った。
焦燥の何分かが過ぎて……探偵二人に前後を護られながら、やっと肥った税関吏が、例のボール函包みを持ってやって来た。
「あなた方は、何の権利があって、こういう無茶な真似をする、理由もなく……理由もなく、通関検査中の税関吏を、逮捕できるのか? 国家警察局の次長ともあろうものが、物のわからぬにも程がある。こうしている間にも、密輸出がどんどん行われている、この始末を一体、誰がつけるのだ? 理不尽な理不尽な! ようし私は税関長に上申して、行政裁判庁に提訴する。いかに国家警察局とても、最大の侮辱だ!」
「そんなに、昂奮なさることはないでしょう。お断りしておきますが、我々はあなたを、逮捕したのではありません」
と次長が宥める。
「緊急已むを得ぬ事情で、この婦人の取調べのため、あなたのお持ち去りになった、そのボール函の内容を見せていただきたくて、おいでを願ったのです」
「だからそれならば、私はボール函包みの内容が禁制品だから、一応税関で預ると、言ったではないか! この婦人にも次駅で降りて、税関へ同行すると、申し渡してあるではないか。それをあなた方はまるで私が好き勝手で、この婦人と諜し合わせてでもいるかのような、口吻ではないか」
「ラルフ! かまわないから、そのボール函を調べてごらん!」
と堪りかねて嬢は毒蛇に言いつけた。言いつけておいて、税関吏の前に突っ立った。
「この婦人、この婦人と、あなたはいかにも見知らぬ人のように、仰有いますけれど、この婦人夫婦の手であなたが、税関へお勤めになった場合には、まんざらあなたがこの御婦人と、赤の他人だとはわたくし共思いませんのよ。それだからここへ来ていただいたんですわ。……ラルフ、何をしてるの? 早く、お調べといったら!」
「何? 私がこの婦人と、まんざら見知らぬ仲ではないと……?」
「そうではございませんの? まだ白ばくれておいでになりますのね、モーゲンス・ノルビーさん!」
「…………」
颯っと税関吏の顔色が変った。
「あなたは昨年の三月まで、何をしておいでになりましたの? フィリップ殿下の……スヴェン・フイリップ殿下の、家扶をしておいでになりましたでしょう? 殿下の御改革で、宮家をお離れになって、ここにおいでになる御婦人の旦那様のペーデル・ステーンセン伯爵の手で、ヴェステルバーゲン税関へお勤めになれば、わたし共まんざらあなたが、この御婦人と赤の他人の関係とは、考えませんのよ」
「…………」
その間に毒蛇の手で、歌い時計はボール函から抜き出された。
「ほうら、姐御、こいつが曲物だと、あっしの睨んだとおりでさあ! ね、裏は必ず、真鍮の共蓋になってるはずだ……と、……ほうらね、このとおり蓋がある。その蓋を開けるてえと、中には綿が一杯詰まってるはずだ……と。ほうらこれも間違いなく、そのとおりだ」
毒蛇のいうとおり蓋を捩じあけてその綿を取り除くと、中には器械があるかと思いのほか、時計の中味は全部取り外されて、なお幾つかの綿に包んで、燦爛眼を射らんばかりのダイヤ、碧玉、紅宝石、中には一カラット、二カラット、三カラット、四、五カラットの大粒もある。……そして白金の鎖の解体されて、バラバラになったもの……。
「おう、頸飾りだ!」
「ビョルゲ夫人のものらしいぞう!」
「組み立ててみなくてはわからぬが、そうらしいぞ」
「ようし、それならば、海蛇もビョルゲ夫人の腕環も、まだみんな、伯爵邸にあるな?」
もちろん旅行鞄二個も開いてみたが、案の定これには宝石のホの字も見えぬ。
「暴れるな!」
と次長の大喝が轟いた。
「ようし犯跡は明瞭だ。エーム君、婦人に手錠をかけたまえ! ついでにあなたにも、手錠をかけさせてもらおう」
その時に深夜の暗の中に灯が輝いて、幾つかのポイントを換え換え、列車はようやく西独フレンスブルグ駅の構内へ入ってきた。マゴマゴすれば肝心の伯爵も、どこへ逃亡するかわからぬ。スグ夫人と税関吏を引き立てて伯爵邸を急襲すべく一同はここで列車を降りることにした。
もちろん嬢には、自分の直観を人々の前に誇りたい気持なぞがあるわけではない。いわんや探偵としての腕なぞを! が、伯爵一家と結託して、税関の一時押収という探偵の眼を晦ますに絶好な抜け裏を通って、盗品の国外搬出を助けようとした税関吏モーゲンス・ノルビーに対する通謀の証拠力が、これだけではまことに薄弱である。ついでにそれを明白に証拠立てておかなければならぬ。
「次長様、駅の構内を出ますと、その辺に自動車が一台、用意してあるはずです。どうぞそこまで、この人たちを曳いて行って下さいまし」
嬢の推察どおり、そこの小暗い木の陰に、ルノーの新車が一台、人待ち顔に止っている。手錠を嵌められた肥ったノルビーと、伯爵夫人と、それを囲んだ探偵たち、次長や毒蛇の円陣作った前で、運転台で欠伸を噛み殺していた実直そうな運転手と、嬢との問答が始まってくる。
「運転手さん、あなたはヴェステルバーゲン税関の車に、間違いありません?」
「そ、そうですよ、お嬢さん!」
「あなたは、何にも知らないのだから、少しも心配することはないの。ただ、わたしのお聞きすることにありのまま、正直に答えてさえ下されば、いいのよ! 少し事情があって、ここにおいでの方は、国家警察局の次長さん……そして探偵さんたち。では、その前にちょっと名前を、言ってもらいましょう」
名前はカイ・ハンセン、住所はどこそこ……探偵が手帳に書き留める。
「では、ハンセンさん、ありのままに言って頂戴ね。あなたは誰に頼まれて、今夜ここに待ってたの?」
「モーゲンス・ノルビーさんて方でさあ。……そこに立ってられるじゃありませんか」
と運転手に指さされて、手錠のノルビー氏は慌てて顔を背ける。
「ノルビーさんは、どこへ行って欲しいと、言われたの?」
「この先の、ケンペルスホーフの飛行場までと言ってられたっけが……」
「そのほかには、何とも言われなかった?」
「八時十五分とかの汽車で、キョーベンハムから来る人があって、その人を飛行場までお連れしなくちゃならんから、間に合うように車を、廻しとけってことでした」
「そう、よくわかりましたわ。でも、乗る飛行機や何かのことは、何にも言われませんでした?」
「さあ、別段何にも……あ、そうそう、八時四十分に、リオデジャネイロ経由で、モンテヴィデオ行きの旅客機が出るから、それに間に合わせなくちゃならんて、言ってられましたっけ」
「有難う、ハンセンさん、それでもういいの。ここから飛行場まで、どれくらいあります?」
「さあ、十哩くらいでしょうかね……もうちょっと、あるかしら?」
「ハンセンさん、あなたはもう、帰っていいの、お客様は都合で、来られなくなったから、あなたはもうお帰りなさい。あ、ちょいとちょいと、これに署名してもらいたいんですって」
今の問答を、探偵の一人が書き留めておいた。それに相違ござなく候と署名をさせて、さて運転手は小首を傾げ傾げ、怪訝そうな顔をして立ち去ったが、これで夫人がどこへ脱出しようと図っていたかは、明瞭になった。
「どうですの、ノルビーさんと伯爵の奥様! これでもやっぱり税関の、正当な一時押収ですの?」
税関吏は青褪め切って完全に恐れ入ってしまったが、淑やかなはずの伯爵夫人が錺屋と洗濯屋の娘の本性を現して、手錠を嵌められた口だけは達者に、ソノ猛ること猛ること!
「雌狐め! よくもウマウマ一杯、食わせやがったな、畜生、人が初めから貴様を、探偵と知らなかったと思ってやがるのか! 土百姓の生まれ損ないの、薄ノロ犬め!」
といった調子であった。笑って取り合わなかったが、いよいよもって油紙に火のついたように、髪を逆立てて太腿も露にじだんだ踏んで眼を吊し上げた。
「ああ口惜しい、この女を、どうしてくれようか! 手前ら上院議員のステーンセン伯爵を、見損なったか? 伯爵は、王族だぞ! 王族も王族、国王陛下やフィリップ殿下の、弟君だぞ! 総理大臣も内務大臣も、警察長官もクソも、あるもんかい! その時になって手前ら、お見それしましたと土下座するなってんだい! 交尾のついた警察の雌犬め!」
こうも人相が変るものか! と竦然とせんばかり、髪ふり乱して夜叉のような形相であった。
ペーデル・ステーンセン伯爵
猛り疲れた伯爵夫人、その後へ税関吏のノルビー、これらののっ退きならぬ生き証人を見せて、伯爵に穏やかな国外退去を勧めるべく、一行が伯爵邸を急襲したのは、それから何時間くらい過ぎた頃であろうか。グリプトテークの美術館脇の、白堊の壮麗な伯爵邸の二階の窓や、広々とした前庭、ルネサンス風の柱廊の向うに見える後庭にも、正午前の麗らかな陽が一杯に戯れている頃だと覚えている。自動車を降りて玄関へさしかかった時、二階正面の窓から硝子越しに、誰か黒い影がじっと見下ろしているような気がした。
「国家警察局のものです」
「しばらくお待ち下さい」
と引っ込んだ召使は、じきに出て来た。
「御前様は、スグお見えになります、皆様はどうぞこちらで、お待ち下さい」
と通されたとっ付きの広間に、伯爵は間もなく靴音高く出て来た。なるほどさっき入る時、じっと見下ろしていたのは、伯爵であった。気配でもうすべてを察していたのであろう。
身嗜みよくキチンと頭髪を梳って、鼻下にチョビ髭を蓄えた、小肥りの身体は予て写真で調べておいたとおりの伯爵に違いはない。
もし予備知識なくして、この人に逢ったらその眼光といい、面長な顔、背丈、身のこなし、鼻下の髭さえ除けばあるいはフィリップ殿下と早合点するものがないとも限らない。それほどまでにも、写真で見る殿下に、生き写しであった。
が、顔は似ていても、この人には気品というものがない。強いて威儀を繕ってはいるが、瞳が絶えず動いて、何か油断ならぬものを感じさせる。おまけに小肥りでありながら身のこなし全体が豹のようなスバシコサ柔軟さを思わせるのは、なるほどな! と感じさせるものがある。
もうこの時分には、打ち合わせに従って伯爵邸の出口出口、町の四つ辻はことごとく国家警察局員が固めていたのであろう。応援と見えて七、八人の私服が、拳銃片手に一同の背後へ入って来た。
「伯爵! 御覧のごとくです」
と次長が進み出た。
「何にも申し上げなくとも、もう、おわかりでしょう。御身分を思いますから、手荒なことはいたしません。どうぞ、穏やかに我々の指図にお従い下さい」
「何のことやら、君のいうことはサッパリわからぬ。物々しい様子は、わしに縛に就けというのか?」
と伯爵が低声に呟く。
「伯爵、あなたを捕縛はいたしません。国外追放の勅諚が、出ております。我々の処置に従って、穏やかに御退去下さればそれでよろしいのです」
「……」
黙念として、伯爵は唇を噛みながら、突っ立っている。
「勅諚の内容を、お伝えします。乗船地ニーボルグ港、乗船指定は伝達後三時間以内、行先随意……」
税関吏は首うな垂れているが、
「あなた! あなた! 早く何とか仰有ったらいいでしょう! 早く何とかこの者共に仰有ったら! 言語道断な……言語道断な!」
と伯爵夫人が手錠の手を挙げて、また猛り出した。
「こんな目に……こんな目に遭ったじゃありませんか! 早くあなたが、王族だということを、この人間共に仰有って下さったら、いいじゃありませんか! 汚らわしい、こんな木っ端役人にかかって、こんな浅ましい目に遭って」
「黙れ、五月蠅い! 自分が間抜けだから、そういう目に遭ったのだ! ツベコベ騒ぐな! なんだ、この期になって見苦しい」
と伯爵は大喝した。
「いかにもわしは、王族だ! 誰が何と言おうと、王族たることに違いはない! 先王オスカル三世の王子だ! しかし、こんな下っ端役人に、そんな説明はしても無駄だ」
と伯爵は目を閉じて呻いた。
「そんなことを仰有って……今更あなたは、わたしだけに、罪をお被せになるつもりですか? あなたも同罪じゃありませんか! さ、早く、こいつらに言って、わたしの手錠を取らせて下さい! 汚らわしい、汚らわしい、こんなものを嵌めて!」
「黙れ、バカ女! 自分がドジを踏んで、ノメノメとこんな人間共を、案内しくさって! 今更貴様の騒ぎ立てるところが、どこにある!」
瞋恚と憎悪に燃えて、自分の夫人に対してまるで仇敵のごとき伯爵の眼であった。
「よろしい、人生は賭博のごとしだ、……この骰子はわしの負けとしよう! 今度は諸君に、見事負けたのだ! ハハハハハ」
と気が狂ったように、突然笑い出した。
「よろしい、受けようではないか。追放するとならば、追放を受けようではないか。わしもステーンセン伯爵だ。今更になって、その女のような見苦しい騒ぎはせぬ」
「では、伯爵、お身体を改めさせていただきます」
二人ばかりの探偵が寄り添って、もうどうすることもできぬ。突っ立ったまま腕を水平に洋袴ポケット上衣、伯爵は身体を探らせている。別に兇器を帯びている気配もない。
「見下げ果てた、意気地なし! 大きなことばかり言って、なんだい、その態は! 男の面汚し! 片棒担いでくれ、栄耀栄華は思いのままだ、俺は国王陛下の弟だ、と年中大口叩いてたのは、どこの誰だい! 女蕩しのカタリ犬め! よくもよくも、人を騙しやがって!」
「ほざくな!」
と、また大喝が飛んだ。
「貴様らに、男の気持はわからんのだ! なんだ、自分が間抜けでドジを踏んで、人の計画まで滅茶苦茶にしおったくせに」
と再び伯爵の眼が燃えた。
「よろしい、盗品も全部揃っている。そのバカ女のために、逃亡の計画も何も、滅茶苦茶にされた世界一の大バカ男が、ここにいる。しかしその大バカは、この期に及んで悪びれた真似はせんのだ。一切合財諸君の展観に、供しよう。が、その前に」
と再び伯爵は、憎々しげに夫人へ眼を向けた。冷酷とも残忍とも、言わん方ない蛇のように冷たい眼であった。
「まずその女を、曳いたらよろしかろう。眼障りだ! その騒々しい女を、曳く所へ曳きたまえ、ゴンザレツ、そこの扉をあけえ!」
ウヌ、畜生畜生! と歯軋りして猛りたっている夫人と、税関吏とが二、三人の探偵によって、外へ曳き出される。その辺にマゴマゴしていた南米からでも来たらしい黒白混血のゴンザレツによって、引きあけられた扉の向うには、ここよりもっと広い部屋があって、中央の大卓を五、六脚の安楽椅子が囲んでいる。なるほど、もし一同の到着がもう一足遅れたら、そのいうとおり伯爵は逃亡し終わせたかも知れぬ。大卓の上には大きな旅行鞄が二つ、側には膝掛けまでも添えられてある。
「諸君、見たまえ!」
伯爵が鍵をあけて、手早く着換えや下着類を取り除いた下には、綿に包んで燦然たるダイヤ、青玉、紅宝石、蛋白石、黄玉、土耳古石、柘榴石、緑玉……宝石の山! 金も白金も眼眩めかしく一杯に詰まっている。
「慌てずに、まア、掛けたまえ! 諸君の手数を省いて、どこから出たかを説明しよう。それに少し言いたいこともある。ゴンザレツ! 三鞭を、持って来い。皆さん方へも、一杯差し上げたらどうだ!」
「伯爵、家宅捜索をしますから、お話はなるべく簡単に願いたい」
と堪りかねて、次長が口を挟んだ。
「我々は遊びに来ているのではないのだから一切頂戴しない」
「まア、そう堅苦しいことを言わんで、もう少しゆったり、構えたらどうだ。諸君の向い合ってるのが、コソ泥棒でないとしたら、もう少し諸君も相手の気持を、尊重したらどうだ。諸君の方で逮捕なぞと、野暮を言わぬからわしも諸君の手数を省こうと言うとるのだ。もそっと前へ、出たまえ! 全部解きほぐしてある。その一番前のが、一九四六年ヘンメル家から、頂戴して来たものだ。その上のが」
もちろん誰も、この芝居気たっぷりの気障な伯爵の言葉になぞ、乗ったわけではない。がヘンメル家と聞いた途端、拳銃片手に思わず旅行鞄の中を覗き込んだ。ゴンザレツが三鞭を酌いで廻る。
「さ、諸君、洋杯を挙げたまえ! 基督最後の晩餐ということはあるが、これが伯爵ステーンセン追放のお別れだハハハハハハ」
取ってつけたような笑いだけが虚に響いて、もちろん誰も酌がれた洋杯に手を出すものもない。伯爵ひとりで主人席に突っ立って、洋杯を挙げているばかりであった。が、その瞬間、
「やったな!」
と嬢の眼に映ったものがある。早いこと、早いこと! 陽炎か電光のごとく、内ポケットから紙包みを出したかと思うと、もう伯爵はグウッと酒で呷りつけている。
「その隣りに銀色をしてるのが、海蛇の台だ。ダイヤは、その右端に入っている。おいそこの男装の麗人! 君が今度の、立役者らしいな、もそっと、前へ出たまえ! もっと顔を出して、ようく見たまえ! 君の狙っている蛇身の頸飾りが、そこに光ってるぞ! そう……そこなら見えるだろう」
眼を付けられては仕方がない。嬢が一足乗り出したところは、ちょうど青銅像の下、そこには見上げんばかりに大きな女体の裸身像が飾ってある。
「ブランシェ家の頸飾りもある。ステーンセン伯爵苦心の蒐集は、諸君の好意で滅茶滅茶になったわけだ。好意は忘れんぞう、殊に婦人! 君の好意はな!」
と伯爵の眼がキラリと嬢の上に光った、と見た途端、さっきからソロリソロリと身体を退らしていた右手が、柱の呼鈴に触れた。嬢の飛び退いたのと同時であった。たちまちグヮラグヮラグヮラグヮラ、ズド、ドウーン! と、地響き立てて、背後の青銅像が倒れた。砂煙が濛々と舞い上る。もう一秒気の付くのが遅れたら、身体が粉微塵になって、脳漿が飛散したであろう。
「ウヌ、何をするか! コイツ」
「命冥加の雌猫め!」
とその瞬間がらりと、伯爵の人相が変った。
「おのれ、淫売め! よくもよくも、人の仕事の邪魔をしおったな! 貴様がイングリード・アイネスだと、知らぬ俺だと思ってたのか! よくもよくも妻を、陥れおったな! この怨みは忘れんぞう!」
が、両方から拳銃を突きつけられて、両手を挙げている伯爵の言葉が、大分乱れてきた。
「貴様ら政府の犬共が、眼を付けてるのは違っているぞ! 俺の背後には保守党首領の、アムンダゼンがいるぞう! 丁抹王室があるぞう! 貴様らふざけた真似をすると、許さんぞう! 無礼……ものめが……」
「おかしいな! 呂律が、廻らなくなってきたぞ」
「毒を飲みましたのよ、ついさっき」
「毒を飲んだと? おい、それじゃ早く、医者を呼べ! 医者を!」
「抛っておけ! その方が安泰だ、医者を呼ぶには当らんぞう」
「貴様たち、よく聞け! 大悪漢は、フィリップだ……スヴェン……フィリップだ……」
と、いよいよ毒が廻ってきたのであろう、挙げている両手がブルブルと震えて、烈しい苦悶が顔に現れてきた。もはや大分、意識が昏濁してきた。
「大悪漢は……フィリップだ。王弟もクソもあるものか! 本来ならば……ほ、本来ならば……オ……俺が王弟だ! 歴としたオスカル三世の子でありながら……父の不心得のばっかりに、貴様らの手にかかって死ぬとは……忘れんぞう、この怨みだけは永劫忘れんぞう……」
もはや、拳銃を向けている必要もない。一人が拳銃を降ろした途端、伯爵は両手で喉を掻き※ 《むし》り出した。ネクタイがちぎれて、ワイシャツの釦が飛んで、しかももはや、その手も力なく空を振っている。
「く……苦しい……水を飲ませろ……み、水をくれ……」
二足三足蹌踉けた途端、女なぞの見るものではないと思ったのであろう、誰か嬢の前に立ち塞がったものがある。
「だ……だ……大悪漢は、ヘンデルだ……国王だ……み、みんなで、オレを、日陰ものにして……」
それを最後に瞠と仰け反った。前の人が退いて、嬢の眼に入ったものは! そこに仰向けに投げ出している青白い手……青白い額……今の恐ろしい形相を泛べたまま、伯爵の息は絶えているのであった。卓上の膝掛けを拡げて誰か屍体の上にかけているのが見える。
「アトロピンを飲んだのかな? バカに早いようだが、……コカインかな?」
「残酷いようだが、この方が伯爵にとっても幸福だろう」
と、その瞬間誰か、「お、付け髭だ!」と大きな声を挙げたものがある。「髭が落ちてるぞう、髭が!」
稀代の変装の名人は、死の間際までも変装していたのであった。
先王陛下の枕辺
医者は呼ばなかったが、屍体をそのままにしておくわけにはゆかぬ。監察院へ電話をかけて、運搬夫が来て屍体自動車へ収容している時分から、綿密な家宅捜査が始まってきた。召使の主だったもの二人ばかりを手伝わせて、階上階下地下と、草の根分けるような捜索を続けること二時間ばかり、今更ながら舌を巻いたのは、この伯爵の用意周到な絡繰であった。
二階の寝室の壁がどんでん返しになって、その真っ闇な階段を潜り抜けると、地下室へ出る。石炭倉横から二階へ上る道があり、階下居間の暖炉中の厚い鉄板を外すと、そこもまた抜け穴になって、広いグラウンドの下を石の隧道で、思いもかけぬ遥か裏門までの出道があり、その裏門横の傾斜を登り詰めると何のためか本館内庭の花園の隅へ、抜け穴が石で固めてある。いつの間に、そして誰に作らせたのか? と、呆れるばかり邸中が縦横無尽の迷路になっていた。
が、逃亡のつもりで盗品全部はすべて旅行鞄の中に納めてあったのだろう、さすがに出てきたのは貴金属類を除いた証拠品ばかり。おそらく、変装に用いたのであろう、揉み上げの長い頬髭、フィリップ殿下と同じ龍騎兵大尉の萌黄色の軍服、飾帯、長靴、剣、婦人用のコルセット、ただしそれは伯爵夫人用のコルセットとは寸法が違っている。
これも同じく、夫人用とは思われぬ六十歳くらいの老婆の衣装、夥しい婦人靴!
ありとあらゆる雑多な変装用具に交じって、到頭出てきた。ドラーゲ公爵邸で、ヨアンネス少年に化けた時に用いたと思われる中学生用の短衣、長洋袴、同じく靴……伯爵夫人は二十四歳であったが、若い十九、二十歳くらいと思われる真新しい衣装が現れた時には、一同思わず歓声を挙げた。ヘンメル家、ウェッセル家等々、今日なお迷宮に入っている幾つかの難事件が思い出されてきたからであった。そして最後に、奪った頸飾り腕環類解体の仕事場として使ったものであろう、召使たちすら近寄ることができなかったという、地下の秘密室の厳重な錠を破壊することができた。
案の定一見鍛冶屋のごとく、時計師の仕事場のごとく、無数の錺職の道具、鞴、小型の電気炉等々、夫人の居間鏡台の陰に作られた、ドラーゲ公爵家同様、壁の中の隠し金庫――伯爵の書斎の書棚裏に拵えられた隠し金庫を探しても、宝石貴金属類は、もはや、まったく皆無であった。ただ、それらの手も付けられぬ乱雑さの中で、階下の一号大金庫を毒蛇のラルフがこじあけた時には、一同またもや寄り集まって、飽くなき伯爵の姦悪さに驚嘆の叫びを挙げた。
「あっしの睨んだ眼に、間違えはねえや! 絶対に狂いはねえはずだ」
と自信満々で毒蛇がコジあけるに、苦心したのも道理! この大金庫の内側の壁全体は刳り抜きの空洞となって、その中から今ザラザラと零れ落ちてきたものは、夥しい白い粉の山……言わずと知れた麻薬塩酸ヘロインであった。伯爵が常習者だったのか、夫人が中毒者だったのか、それはわからぬが、この大金庫にはウルグァイ、モンテヴィデオ行きの荷札が五、六枚もついていた。
ケンペルスホーフの飛行場から、夫人の乗るはずだった飛行機がモンテヴィデオ行きのルフト・ハンザだったことと思い合わせて伯爵の逃亡予定地も、モンテヴィデオだということが断定された。いずれにしても、一オンス二千クローネもするヘロインが、この大量では宝石類の値打ちもさることながら、この麻薬の価格もまた何千万、何億クローネという莫大なものであったろう。
「こういう人間が出るのだから、探偵もウカウカしてはいられないね。両方でまるで、駆けっ競をしてるようなもんだ」
唖然として次長も、嬢を顧みながら佇んでいたが、その時、
「こんなものがありますぜ……書いてあるぞ、書いてあるぞ、……お嬢さん、ちょっと御覧なさい、……こんなものがある!」
と、どこから持って来たのか、探偵が差し出したのは、伯爵宛の来信であった。ビッシリと肉筆で書かれてある。その余白を――余白というよりも紙の裏面を、おそらく伯爵が備忘の代りに使ったのであろう、三月二十五日真珠三十二個、四月十八日ダイヤ十八個、紅宝石十二個、六月二十八日ダイヤ二十三個、白金二十二オンスなぞと、解体した個数が鉛筆で誌されている。どこかに売り渡し先でもないか? と、表を返し裏を返して見たが、そんなことは書いてない。
「すばらしい紙じゃありませんか! 凄い浮き彫りだ……お、これは、王室の紋章じゃありませんかね?」
なるほどドラペリーを両側につけた楯の中には獅子、王冠、白鳥、不死鳥等、現グリュックスブルグ王家の紋章が、浮き彫りになっている。なっているのも道理! ビッシリと二枚の紙を埋めた長い手紙の最後には、スヴェン・フィリップとフィリップ殿下の御署名がある。一体何が書いてあるのか? と、何気なく眼を走らせているうちに、彼女は何ともいえず、胸の迫ってくるのを覚えた。一言一句が胸に鳴り響いてくる。前半は失われているが、おそらく四、五枚続きの、これが後半であったろう。
……そなたが予の言を聞き容れず、なお大悪を断念していないことを予が知ったのは、昨年の十月十二日グルネ・ビョルゲ氏の、結婚十周年記念夜会に招かれて、臨席した時のことである。予は突然ビョルゲ氏夫人から、予の最前の処置と覚しき何事かの礼を述べられたことがある。もちろん予には、何の覚えもない。が、その時予はまたもやそなたが、ビョルゲ邸に現れて、予に扮して何事かを夫人に働きかけたことに、気付いたのであった。
何気なくその場は繕っておいたが、当時予がいかなる苦しみを味わったかは、到底そなたには察し得られぬであろう。肉身の弟が予の召使と通謀して予の供に紛れ込み、ビョルゲ邸に入り込んで大悪を企図していることを知るものは、予ただ一人である。世間はもちろん兄君陛下も妹インゲボルグも、予にそういう弟のあることさえ知らぬ。いわんや予が、もしビョルゲ夫人に不審の色を見せたならば、予の潔白は直ちに瞭らかになったであろう。が、それは現在の兄の予が、弟のそなたに繩打って引き渡すようなものではないか。予にそういうことが、どうしてできよう!
席にあることが、さながら針の蓆に坐するがごとく、その夜逃ぐるがごとき気持でビョルゲ家より帰って来たことを、今なお予は忘るることができぬ。世界広しといえども、どこの国に針の蓆の主席に就いている王弟があろう。しかも、今日予が知るところでは、そなたはドラーゲ公爵家に対しては、より一層奸悪なる計画を廻らし、予の扮装をもって予と称して白昼公然と同邸を訪問し、予がそなたの妻女と認むる能わず、再三離婚せよと忠告しつつある婦人を、予の侍女なりと称して帯同の上、ビョルゲ邸に優る今日の大悪を重ねているではないか! もはや予に、そなたに対して述ぶべき言葉はない。
また千言万言予の苦しみを述べたからとて、到底そなたの耳には入らぬであろう。ただ女々しい兄の繰り言と、嘲り笑うくらいが関の山であろう。予もまたそんな泣き言は、繰り返したくない。
ペーデルよ、今日は父上陛下の御命日である。七年前の本日、父上陛下はお亡くなり遊ばされた。この機会にもう一度、そなたに父上陛下御崩御の時を、思い出してもらう必要がある。すでに御命、今日明日とも知らず、当時皇太子殿下でいらせられた兄君陛下も御帰還遊ばされ、侍医らも控えの間に退いた時、特に人払いして予とそなたとを、枕許へお呼びになった。覚えているであろう、そなたを左手に予を右手に、そして力ない御手で、予の手をお握りになって、懇々そなたの行末をお頼みになった。
よも、忘れていないであろう。御父上は、病み衰えた眼に、涙を浮かべていられたではないか。
「わしは老い朽ちた身体……死んでゆくのは厭わぬが、ただペーデルのことだけが、心残りでならぬ。早く死んだこれの母親を考えると、どうかしてこれだけは、明るい道を歩ませたいと思うたが、わしの一生はついにそれをしてやることができなかった。亡くなった侍従長、ルドヴィ・ステーンセンに頼んで、ペーテルをルドヴィの実子にしてもらったのも、今考えればわしの怯懦な性質のいたすところ、わしは自分の過ちのペーデルを日陰者にして、ただ世間へ洩れるのを、恐れていたようなものであった。しみじみこの点を、ペーデルに申し訳なく思う。ペーデルを、不愍に思う。
ヘンデルは、やがて国政を執る身、あれにこんな暗い話は聞かせたくない。あれは何にも知らぬ。知らぬままに国政を委ねておきたい。インゲボルグは女の身、やがて好配を求めて結婚しなければならぬ。あれも何にも知らぬ、知らせたくない。知っているのはフィリップ、そなただけじゃ。父にできなかったことを、そなたに頼むはまことに無理な願いだが、どうかそなただけの胸に秘めて、将来とてもペーデルの身をくれぐれも頼む。
ペーデルにそなたがしてくれることは、死んだわしにしてくれることじゃと思うて、父が草葉の陰で、そなたに手を合わせていると思って、万事ペーデルのために、よしなに計らってもらいたい」
そなたも泣いていたが、予も涙を流した。その翌る日御父上は崩御遊ばされたではないか! ペーデルよ、そなたのかかる大罪を知られたならば、御父上の魂は、どんなにか悲嘆に暮れておいでになるであろう。本日御父上陛下の御命日を迎えて、予は終日御心を考えて、沈思した。そして、父上陛下の御名誉のため、何にも御存知なき兄君陛下の御名誉のため、今一度そなたに最後の改悔の機会を与えようと決心するに至った。
そなたに望むはただ一つ……改心のみ、悔悟のみ! 罪を悔いて正しき道に立ち返らんことのみである。そなたを罪に誘いそなたの良心を麻痺せしめ、そなたをかくのごとき大罪に陥れたる仏蘭西婦人を、直ちに離婚せよ。奢侈と遊惰を去って、邸宅財物一切を、売り払え。隠匿せる被害品を、差し出せ。
以上の処置を取ってそなたが、今後の改心を誓うならば、今日までのそなたの罪の一切は、予が負って予がそなたに代って、社会に謝罪するであろう。これが予がそなたに与え得る、最後の最大のただ一つの機会である。幸か不幸か予の上に、今全部の嫌疑の眼も向けられている。
ペーデルよ、予はそなたに通謀するもののあるを知って、悪事の根源を絶たんがため、そなたに累を及ぼさざるよう、ひそかに彼らの大半を解雇した。残存の家職に命じて、その時以来節約に節約を加えしめ、時に王族としての体面を傷つくることを知りつつも、極度の節約を重ねて経費を切り詰めさせてきた。予が社会よりは吝嗇漢と罵られ、婚約者アンネマリーとの結婚さえも延期せざるを得ざる現在の状態は、そなたのよく知るところであろう。これらの金は、予がそなたの罪を償わんがため、貯えてきたものである。
それらの準備が今、予の手許にある。今ならば、被害品を差し出し足らざるところは、そなたの売った邸宅財物の金に、予のこの金を加え、王弟の地位を抛って一切の罪を予が謝罪したならば、そなたの罪も償い得られるであろう。機会は二度と来らず、ペーデルよ、ただちに改悔せよ! 悔悟せよ! そなたの軛は予が負うであろう。
暮夜ひそかに思うことは、そなたの邸へ赴いて、親しくそなたの手を執って、改悔を促したいと切々冀う。しかし今日の予は、御病身の兄君陛下の御名代を承る身、一切のことすべて、予の自由には任せぬ。また濫りに予の動くことは、巷間徒らに噂と新聞紙上を賑せて、そなたのためにあらぬ揣摩臆測を増させるのみであろう。よってすべてを、この書信に託する。この書信を、予と語るものと思われよ。
そなたの改悔は、ひとり予の喜びくらいではない。そなたを案じ煩いたもう、そなたを最も愛される父上陛下の御魂は、天に歓喜してお喜びになるであろう。それがそなたの御父上に捧げ得る、最大の孝養である。
一九四四年六月二十四日
常にそなたを案ずるそなたの兄弟
スヴェン・フィリップ
ペーデル・ステーンセン伯爵
手紙を読み終えた時、呻きとも嘆声とも歓声ともつかぬ、不思議などよめきが地下から湧き起ってきた。
「た、大変な悪党ですぜ、この伯爵という奴は! 人殺しまでやっている! 今地下室の床から、死骸が上りましたぜ」
と、駆け抜けてゆく探偵の一人が、大声を出した。
「老人の屍体でしょう……?」
「そうです、そうです、もう七十幾つとも思われる……」
よく御存知です! といわんばかりに、探偵が眼を瞠る。
「前額を割られて、床下に埋めてあったんですよ」
床下というのは、例の仕事場になっている、地下の密室であろう。そんなことは聞かなくても、もうわかっている。殺されているのは、四、五日前にこの邸へ入ったきり、姿を見せぬとエッベから知らせのあった、あの元傅育官の老人であろう。殿下の手紙を読んだ今、一切は明白である、連絡者でも何でもない、昔の縁故を辿って殿下と伯爵の両方へ出入りして、この傅育官こそが殿下の動静を筒抜けに伯爵に通謀していたのであろう。
いつか倶楽部で逢った時、亜爾然丁の娘のところへ行くといっていたのは真っ赤な偽りで、伯爵と一緒にモンテヴィデオへでも逃亡するつもりであったろう。そして分け前か何かのことで、伯爵との間に争いを生じて、ついに伯爵のために殺されたのであろう。そんなことよりもこの手紙の方が、よっぽど重大である。手紙を眺めながら相変らず嬢は、凝然として突っ立っていた。
全丁抹憧れの人
言々血を吐く手紙というのはこれを指すのであろう。栄華の高楼なお涙ありというのもこういうのを指すのであろう。フィリップ殿下の血と涙が一字一句ににじんで、その優しいお心が惻々として彼女の眼を霞ませてくる。
しかもその優しい殿下の、血を分けた兄弟でありながら、この殿下の苦しみを平然と見過ごして、その兄弟の血と涙の上で、盗品の勘定をしている男! なんという人非人! 犬畜生の人でなし! 人間の血も心も失い切った蛇のような男!
そしてその瞬間嬢には今日までどうしても飲み込めなかったあの不思議な謎が、今釈然として氷解してくるのを覚えた。それはドラーゲ邸で未亡人から頸飾りを奪い去った後、二階で少年の服をフィリップ殿下の軍装に取り換えて降りて来たところを小間使のロヴィーサに見られていることであった。何のためにわざわざ殿下の服装をしたのであろう? と、それは長い間の解けぬ不思議さであったが、今やっとそれにも終止符を打つ時がきた。これほど優しい心の殿下を持ちながら、この伯爵に至っては人間の屑、冷血爬虫類のごとき存在であった。一切の疑いを殿下に塗りつけんがため、わざわざ人目に付くようそうした手数まで演じたものであろう。下賤な下劣な、三文の値打ちもない男! 人間の皮を被った犬畜生にも劣る男! 先王の血を引きながら自分のみが王族たり得なかったことが、この男にとっては寝ても醒めても忘れ得ぬ無念さ、残念さ、嫉視妬ましさ! すべての悪の根源をなす修羅の妄執であったろう。
「ええ、こんな人間は、死んでしまうのが当り前だわ、天罰だわ、天罰覿面だわ、自業自得だわ!」
じだんだ踏まんばかりの気持で突っ立っていたが、後から後からと熱いものが込み上げてくる。我慢にも、もうじっとしてはいられない。
「さ、これをしまっといて……しまっといて」
と殿下の手紙を投げ棄てると同時に、駆け出した。
「姐御、どこへ行く? 今お前さんが行っちまっちゃ、いけねえや!」
と毒蛇が追い駆けてくる。
「わたしの車は、どこにあるの、どこに?」
「車なら、そこに私のがある。お使いなさい、お使いなさい」と次長が言ってくれる。
「ちょっと貸して……ちょっと貸して……」
胸が痞えて、この人とも口が利けぬ。飛び乗るとスグにアクセルを踏んで、セーゲルフォス丘に向って走らせた。もちろん、フルステンボルグ城の壮麗なメルビイ宮を棄てて、今では丘近くの普通民家に住んでいられるフィリップ殿下に、お眼にかかるつもりであった。
伯爵邸の豪勢さには較ぶべくもないが、さすがに王弟のお住居だけあって、質素でこそあれ普通民家としては相当の広さを持っているように思われる。砂利を敷き詰めた門内の坂もかなり長く、二階建ての、暖炉の赤煉瓦煙突が三本も四本も屋根の上に突き出ている。
「もし、どちらへ行かれますか? ここは、フィリップ殿下のお住居ですが」
猩々緋の絨毯を敷き詰めたホールへ躍り込むと同時に、背後から呼び留められた。
「フィリップ殿下に……フィリップ殿下に……わたくし、殿下にお眼にかかりたいのです、大急ぎで。お耳に入れたいことがありまして……」
「お気の毒ですが、殿下は今日はどなたにもお逢いになりません。少しお差し支えがありまして」
「特別の用事があって、大至急、お眼にかかりたいのです。ステーンセン伯爵のことでと仰有って下さいませ」
「どちら様で、いらっしゃいますか?」
「わたくし私立探偵の」
とポケットを掻い探った。
「イングリード・アイネス……殿下に伺ってみて下さい……伺って……」
「何と仰せられますか、伺ってみましょう。しばらくお待ち下さい」
名刺を盆に載せて、家職が正面階段を上ってゆく。後ろ姿を眺めているうちに、また矢も盾もなく、堪らなくなってきた。なぜこんなに胸が騒ぐのか理由はわからぬが、殿下の手紙を眼にしている時から胸が迫って、まるで殿下が自殺でも図っていらっしゃるかのように、こうして待っていることさえが、殿下の死に間に合わなくなるような、不吉な予感がしてくるのであった。
堪らなくなって、到頭、階段を駆け上った。二階は広い廊下が右と左に分れて、その右側の二つ目の部屋から、今取り次いだ家職が出て来た。無作法に駆け上って来た彼女を見ると、眉をひそめたが何にもいわずに、その取っ付きの扉をあけた。
「お逢いになります。ここでしばらくお待ち下さい」
家職の数も、あまり多くはないのであろう。家の中は森閑として、彼女の通された部屋は応接間と見える。あちこちに深々とした黒革張りの安楽椅子や、長椅子類、大きなシャンデリア、厚いどっしりとしたカーテン等さすがに見事な王室の調度が部屋を埋めて暖炉には火がチロチロと燃えている。
そして隣りが殿下の書斎であろう。書き物をしていられると見えて、サラサラとペンの音が流れてくる。今にも入っていらっしゃるかと突っ立っていたが、こうやっている間にも、なんとしても胸の騒ぎが収まらぬ。高貴な方に対する不躾は百も承知の上で、
「お許し下さいませ、殿下!」
と到頭、隔ての重い両開きの扉をあけて、躍り込んだ。
「一刻を急ぎますのでどうぞ不躾を、お許し下さいませ」
彼女が飛び込んだのと、中央正面の大卓でペンを走らせていられた殿下が立ち上られたのが同時であった。萌黄色の軍服……高い深緑の天鵞絨の襟、肩章に飾帯をお着けになって、丁抹龍騎兵大尉の通常軍服を召された面長なお顔! 深海の底を思わせる澄んだ碧い瞳……白皙の額にやや垂れ加減の、濃い亜麻色の髪!
さすがは王者の血統の、品位あたりを払って立っていられる。ステーンセン伯爵とよく似た顔立ちながら、気品の高さは較べものにもならぬ。無作法に彼女が飛び込んだのに驚かれもせず、別段御不快の様子もない。ただ彼女の眼をみつめながら、じっと立っていられるだけであった。
二本の唐草の巻いた天鵞絨の袖の片手を今まで書いていられた紙の上に掩うていられる。
「わたくしは、フォーゲル街に住んでおりますイングリード・アイネスと申す私立探偵でございます。ドラーゲ公爵家の御依頼で、紛失いたしました頸飾りの捜査のため、ステーンセン伯爵様御夫妻の探査をいたしました。真犯人たることを御自白の上、伯爵様は唯今、自殺遊ばされました」
「…………」
殿下の身体が烈しく揺れたように見受けられる。が、姿も変えずそのまま立っていられる。
「そして伯爵夫人は、一昨日出奔の御途中でフレンスブルグ駅で国家警察局員の逮捕を、お受けになり、首都へ還送になりました。仏蘭西人でいらっしゃいますので、身柄はやがて仏蘭西政府へ、引き渡されるようなお話に、承っております」
「…………」
殿下が、かすかに頷かれた。
「被害品も、全部、出てまいりました。すべて極秘に取り計らうよう、首相様からお言い付けが出ております。これだけのことを、お耳へお入れしたくて、お取り次ぎを待たずに参上いたしました……どうぞ失礼を、お許し下さいませ」
心中の深い苦悶が透き徹らんがばかり蒼褪めた顔にありありと刻まれて、しかし殿下は身揺ぎもせず、ただ一度二度深く頷かれた。そして、初めて恰好のいい頭を傾げて、じっと暖炉の火をみつめていられたが、書きかけの紙を火の中へ投じられた。
「殿下! 不躾もう一度、お許し下さいませ」
とその書きつけを、彼女は大急ぎで拾い上げた。火はまだ、紙についていない。
「こういうことと、お案じしましたから、お取り次ぎを待たずに、駆け上りました。もう、こういうものの必要は、ございません」
と彼女はその紙を、殿下の方へ向けて開いた。高貴な方の私信に眼を走らせることはさすがに憚られたが、もうそんなことにかかわっていられない。途端にパッと眼を打ったものは、第一行目第二行目……。
……この期に及んで、言うべきことなし。
ペーデルよ、不名誉は死をもって償え! 王室の名誉のため、父君の御負託に背き、死をもって謝罪する兄を見做え。即刻自決して罪を償わるべし……。
「こういうことをお案じしましたばっかりにわたくしは飛んでまいりました。もうこういうお手紙は、一切、御不用になりました。改めてお燃やし下さいませ」
と暖炉の中へ抛り込んだ。たちまち火がついてメラメラと燃え上る。
「恐れ入りますが殿下、拳銃をどうぞ、おしまい下さいませ。先王陛下の御名誉のため、国王陛下の御名誉のためにも、極秘で処理するように、とシュレーゲル首相様も仰有っていられます。一切もう、終りを告げました」
黙って殿下は、ポケットから拳銃を出して抽斗へしまわれた。そして、やっと腰を降ろされた。
「イングリード嬢とか、申されたな。御好意をうれしく感謝している」
「長い間、さぞ、御辛労でいらっしゃいましたでしょう、お察し申し上げます」
「わたしの辛労なぞは、取るに足らぬこと。あなたこそ、いろいろお骨折りだったろう。おかけなさい、では詳しく、顛末をお聞きしたい」
そして召使を呼ばれるのであろうか、机上の電鈴を押された。初めて吻として、嬢は深い深い溜息を吐いた。一昨日伯爵夫人を追跡したことから、已むを得ず警察局員に手錠をかけてもらったこと。そして、今朝首府に着いて、伯爵邸へ向ったことや、ついに伯爵の自殺に至った顛末などをお話したが、さすがに伯爵が、行きがけの駄賃に自分を殺そうと企んだことだけは、言い憚った。
蒼褪めてはいられながらも、一言一言に頷いていられる殿下の、気高く凛とした若々しい顔を眺めていると、これでは丁抹乙女たちが胸躍らせるのも無理はないな! と、しみじみ感ぜずにはいられなかった。まあ、有難いわ! これで殿下の御潔白も証明できたし、やがて公爵家から貰えるお金で、お父様の借金も全部お返しできるし、さぞお父様も喜んでいらっしゃるだろうと思ったが、そう思う横からそのお父様さえ生きていて下さったらわたしも、こんな荒くれたイヤな商売なんぞ、しなくても……。
「イヤな商売なんぞしなくても……何ですか?」
と聞いてみたら、しばらく躊躇っていたが、
「もっと女らしく紅白粉でもつけて、殿下の舞踊のお相手でも務められたら、さぞ、仕合せだろうと、そんな気がしましたわ」
税関の一味は、全部挙がりましたか? そして仏蘭西政府は、夫人をどうしました? と聞いてみたいことはいろいろあったが、聞くのを忘れて私も、じっと嬢の顔を眺めていた。
花園でもあるのか、開け放たれた窓から、フリージャの匂いがする。
青空文庫より引用