俳人蕪村
緒言
芭蕉新に俳句界を開きしよりここに二百年、その間出づる所の俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林を主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出づるが如く、檀林等流派を異にする者もなほ芭蕉を排斥せず、かへつて芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加ふるを見る。是においてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、復一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰く、否。
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべき者たること論を俟たず。この点において何人か能くこれに凌駕せん。芭蕉の俳句は変化多き処において、雄渾なる処において、高雅なる処において、俳句界中第一流の人たるを得。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加へて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにも堪へぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体つける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称へこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉といふ名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾珠を成し句々吟誦するに堪へながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫と共に埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕する処ありて、かへつて名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人の尽く無学無識なるとに因れり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲むべきに似たりといへども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びし所なるべきか。その放縦不覊世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこれを容れざるなり。
蕪村の名は一般に知られざりしに非ず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村に非ず、画家としての蕪村なり。蕪村没後に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝はらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言へり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思はるれど、その没後今日に至るまでは画名かへつて俳名を圧したること疑ふべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪氏いふ、蕪村集を得来りし者には賞を与へんと。これ固と一場の戯言なりとはいへども、この戯言はこれを欲するの念切なるより出でし者にして、その裏面には強ちに戯言ならざる者ありき。果してこの戯言は同氏をして『蕪村句集』を得せしめ、余らまたこれを借り覧て大に発明する所ありたり。死馬の骨を五百金に買ひたる喩も思ひ出されてをかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)の事なり。しかしてこの談一たび世に伝はるや、俳人としての蕪村は多少の名誉を以て迎へられ、余らまた蕪村派と目せらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。
かくして百年以後に始めて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるを以てその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故に尊ぶべきかを知らず、いはんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者殆んどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶ所以を解するに苦むなり。余はここにおいて卑見を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵する所の果して何処にあるかを弁ぜんと欲す。
積極的美
美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健、艶麗、活溌、奇警なる者をいひ、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいふ。概して言へば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代を以て言へば国の東西を問はず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(但し壮大雄渾なる者に至りてはかへつて上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従つて後世芭蕉派と称する者また多くこれに倣ふ。その寂といひ、雅といひ、幽玄といひ、細みといひ、以て美の極となす者、尽く消極的ならざるはなし。(但し壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)故に俳句を学ぶ者消極的美を惟一の美としてこれを尚び、艶麗なる者、活溌なる者、奇警なる者を見れば則ち以て邪道となし卑俗となす。あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術を以て尽く野卑なりとして貶するが如し。艶麗、活溌、奇警なる者の野卑に陥りやすきは固より然り。しかれども野卑に陥りやすきを以て野卑ならざる者をも棄つるはその弁別の明なきが故なり。しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味を生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐を催さしむるに至るを見るに、彼の艶麗ならんとして卑俗に陥りたる者に比して毫も優る所あらざるなり。
積極的美と消極的美とを比較して優劣を判ぜんことは到底出来得べきにあらず。されども両者共に美の要素なることは論を俟たず。その分量よりして言はば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美を以て美の全体と思惟せるはむしろ見聞の狭きより生ずる誤謬ならんのみ。日本の文学は源平以後地に墜ちて復振はず、殆んど消滅し尽せる際に当つて芭蕉が俳句において美を発揮し、消極的の半面を開きたるは彼が非凡の才識あるを証するに足る。しかもその非凡の才識も積極的美の半面はこれを開くに及ばずして逝きぬ。けだし天は俳諧の名誉を芭蕉の専有に帰せしめずして更に他の偉人を待ちしにやあらん。去来、丈草もその人にあらざりき。其角、嵐雪もその人にあらざりき。『五色墨』の徒固よりこれを知らず。『新虚栗』の時何者をか攫まんとして得る所あらず。芭蕉死後百年に垂んとして始めて蕪村は現れたり。彼は天命を負ふて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、聞達を求めず、積極的美において自得したりといへども、ただその徒とこれを楽むに止まれり。
一年四季の中春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。その佳句もまた春夏の二季に多し。これ既に人に異なるを見る。今試みに蕪村の句を以て芭蕉の句と対照して以て蕪村が如何に積極的なるかを見ん。
四季の内夏期は最も積極なり。故に夏季の題目には積極的なる者多し。牡丹は花の最も艶麗なる者なり。芭蕉集中牡丹を詠ずる者一、二句に過ぎず。その句また
尾張より東武に下る時
牡丹蘂深くわけ出る蜂の名残かな 芭蕉
桃隣新宅自画自賛
寒からぬ露や牡丹の花の蜜 同
等の如き、前者はただ季の景物として牡丹を用ゐ、後者は牡丹を詠じて極めて拙き者なり。蕪村の牡丹を詠ずるは強ち力を用ゐるにあらず、しかも手に随つて佳句を成す。句数も二十首の多きに及ぶ。その内数首を挙ぐれば
牡丹散つて打重りぬ二三片
牡丹剪つて気の衰へし夕かな
地車のとゞろとひゞく牡丹かな
日光の土にも彫れる牡丹かな
不動画く琢磨が庭の牡丹かな
方百里雨雲よせぬ牡丹かな
金屏のかくやくとして牡丹かな
蟻垤
蟻王宮朱門を開く牡丹かな
波翻舌本吐紅蓮
閻王の口や牡丹を吐かんとす
その句また将に牡丹と艶麗を争はんとす。
若葉もまた積極的の題目なり。芭蕉のこれを詠ずる者一、二句にして
招提寺
若葉して御目の雫ぬぐはゞや 芭蕉
日光
あらたふと青葉若葉の日の光 同
の如き、皆季の景物として応用したるに過ぎず。蕪村には直に若葉を詠じたる者十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり。例
山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな
蚊帳を出て奈良を立ち行く若葉かな
不尽一つ埋み残して若葉かな
窓の灯の梢に上る若葉かな
絶頂の城たのもしき若葉かな
蛇を截つて渡る谷間の若葉かな
をちこちに滝の音聞く若葉かな
雲の峰の句を比較せんに
ひら/\とあぐる扇や雲の峰 芭蕉
雲の峰いくつ崩れて月の山 同
游力亭
湖や暑さを惜む雲の峰 同
月山の句やや力強けれど、なほ蕪村のに比すべくもあらず。蕪村の句多からずといへども
揚州の津も見えそめて雲の峰
雲の峰四沢の水の涸れてより
旅意
廿日路の背中に立つや雲の峰
の如き皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨は芭蕉にも
五月雨の雲吹き落せ大井川 芭蕉
五月雨をあつめて早し最上川 同
の如き雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。
五月雨の大井越えたるかしこさよ
五月雨や大河を前に家二軒
五月雨の堀たのもしき砦かな
夕立の句は芭蕉になし。蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの勢あり。
夕立や門脇殿の人だまり
夕立や草葉をつかむむら雀
双林寺独吟千句
夕立や筆も乾かず一千言
時鳥の句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは
時鳥声横ふや水の上 芭蕉
の一句あるのみ。蕪村の句の中には
時鳥柩をつかむ雲間より
時鳥平安城をすぢかひに
鞘ばしる友切丸や時鳥
など極端にものしたるもあり。
桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣を詠み出でたるは
四方より花吹き入れて鳰の海 芭蕉
木のもとに汁も鱠も桜かな 同
しばらくは花の上なる月夜かな 同
奈良七重七堂伽藍八重桜 同
の如きに過ぎず。蕪村に至りては
阿古久曾のさしぬき振ふ落花かな
花に舞はで帰るさ憎し白拍子
花の幕兼好を覗く女あり
の如き妖艶を極めたる者あり、その外春月、春水、暮春などいへる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例へば
伽羅くさき人の仮寐や朧月
女倶して内裏拝まん朧月
薬盗む女やはある朧月
河内路や東風吹き送る巫が袖
片町にさらさ染るや春の風
春水や四条五条の橋の下
梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上
玉人の座右に開く椿かな
梨の花月に書読む女あり
閉帳の錦垂れたり春の夕
折釘に烏帽子掛けたり春の宿
ある人に句を乞はれて
返歌なき青女房よ春の暮
琴心挑美人
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
いづれの題目といへども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を繙く者誰かこれを知らざらん。一々ここに贅せず。
客観的美
積極的美と消極的美と相対するが如く、客観的美と主観的美ともまた相対して美の要素を為す。これを文学史の上に照すに、上世には主観的美を発揮したる文学多く、後世に下るに従ひ一時代は一時代より客観的美に入ること深きを見る。古人が客観に動かされたる自己の感情を直叙するは、自己を慰むるために、将た当時の文学に幼稚なる世人をして知らしむるために必要なりしならん。これ主観的美の行はれたる所以なり。かつその客観を写す処極めて麁鹵にして精細ならず。例へば絵画の輪郭ばかりを描きて全部は観る者の想像に任すが如し。全体を現さんとして一部を描くは作者の主観に出づ。一部を描いて全体を想像せしむるは観る者の主観に訴ふるなり。後世の文学も客観に動かされたる自己の感情を写す処において毫も上世に異ならずといへども、結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること、あたかも実際の客観が人を動かすが如くならしむ。これ後世の文学が面目を新にしたる所以なり。要するに主観的美は客観を描き尽さずして観る者の想像に任すにあり。
客観的、主観的両者いづれが美なるかは到底判じ得べきに非ず。積極的、消極的両美の並立すべきが如く、これもまた並立して各自の長所を現すを要す。主観を叙して可なるものあり、叙して不可なるものあり。客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なる者はこれを現し不可なるものはこれを現さず。しかして後に両者おのおの見るべし。
芭蕉の俳句は古来の和歌に比して客観的美を現すこと多し。しかもなほ蕪村の客観的なるには及ばず。極度の客観的美は絵画と同じ。蕪村の句は直ちに以て絵画となし得べき者少からず。芭蕉集中全く客観的なる者を挙ぐれば四、五十句に過ぎざるべく、中につきて絵画となし得べき者を択みなば
鶯や柳のうしろ藪の前 芭蕉
梅が香にのつと日の出る山路かな 同
古寺の桃に米踏む男かな 同
時鳥大竹藪を漏る月夜 同
さゞれ蟹足はひ上る清水かな 同
荒海や佐渡に横ふ天の川 同
猪も共に吹かるゝ野分かな 同
鞍壺に小坊主乗るや大根引 同
塩鯛の歯茎も寒し魚の店 同
等二十句を出でざらん。『宇陀の法師』に芭蕉の説なりとて掲げたるを見るに
春風や麦の中行く水の音 木導
師説云、景気の句世間容易にする、以の外の事也。大事の物也。連歌に景曲と云、いにしへの宗匠深くつつしみ一代一両句には過ず。景気の句初心まねよき故深くいましめり。俳諧は連歌ほどはいはず。総別景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成がたき故つよくいましめ置たる也。木導が春風、景曲第一の句也。後代手本たるべしとて褒美に「かげろふいさむ花の糸口」と云脇して送られたり。平句同前也。歌に景曲は見様体に属すと定家卿もの給ふ也。寂蓮の急雨、定頼卿の宇治の網代木、これ見る様体の歌也。
とあり。景気といひ景曲といひ見様体といふ、皆我いふ所の客観的なり。以て芭蕉が客観的叙述を難しとしたる事見るべし。木導の句悪句にはあらねどこの一句を第一とする芭蕉の見識は極めて低く極めて幼し。芭蕉の門弟は芭蕉よりも客観的の句を作る者多しといへども、皆客観を写すこと不完全なれば直ちにこれを画とせんにはなほ足らざる者あり。
蕪村の句の絵画的なる者は枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば
木瓜の陰に顔たぐひすむ雉かな
釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな
やぶ入や鉄漿もらひ来る傘の下
小原女の五人揃ふて袷かな
照射してさゝやく近江八幡かな
葉うら/\火串に白き花見ゆる
卓上の鮓に眼寒し観魚亭
夕風や水青鷺の脛を打つ
四五人に月落ちかゝる踊かな
日は斜関屋の槍に蜻蛉かな
柳散り清水涸れ石ところ/″\
かひがねや穂蓼の上を塩車
鍋提げて淀の小橋を雪の人
てら/\と石に日の照る枯野かな
むさゝびの小鳥喰み居る枯野かな
水鳥や舟に菜を洗ふ女あり
の如し。一事一物を画き添へざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりも更に客観的なり。
人事的美
天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なる者につきて美を求むるは易く、複雑なる者は難し。沈黙せる者を写すは易く、活動せる者は難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的に善く天然を写し得たるは易きより入りたる者なるべし。俳句の初より天然美を発揮したるも偶然にあらず。しかれども複雑なる者も活動せる者も少しくこれを研究せんか、これを描くこと強ち難きにあらず。ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写し出だししものを、同じ区劃の内に変化極りなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたる者少き所以なり。芭蕉、去来はむしろ天然に重きを置き、其角、嵐雪は人事を写さんとして端なく佶屈※ 牙に陥り、あるいは人をしてこれを解するに苦ましむるに至る。此の如く人は皆これを難しとする所に向つて、独り蕪村は何の苦もなく進み思ふままに濶歩横行せり。今人はこれを見てかへつてその容易なるを認めしならん。しかも蕪村以後においてすらこれを学びし者を見ず。
芭蕉の句は人事を詠みたる者多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり
鞍壺に小坊主のるや大根引
の如く自己以外にありて半ば人事美を加へたるすら極めて少し。
蕪村の句は
行く春や選者を恨む歌の主
命婦より牡丹餅たばす彼岸かな
短夜や同心衆の川手水
少年の矢数問ひよる念者ぶり
水の粉やあるじかしこき後家の君
虫干や甥の僧訪ふ東大寺
祇園会や僧の訪ひよる梶がもと
味噌汁をくはぬ娘の夏書かな
鮓つけてやがて去にたる魚屋かな
褌に団扇さしたる亭主かな
青梅に眉あつめたる美人かな
旅芝居穂麦がもとの鏡立て
身に入むや亡妻の櫛を閨に踏む
門前の老婆子薪貪る野分かな
栗そなふ恵心の作の弥陀仏
書記典主故園に遊ぶ冬至かな
沙弥律師ころり/\と衾かな
さゝめごと頭巾にかづく羽折かな
孝行な子供等に蒲団一つづゝ
の如き数へ尽さず、これらの什必ずしも力を用ゐし者に非ずといへども、皆善く蕪村の特色を現して一句だに他人の作とまがふべくもあらず。天稟とは言ひながら老熟の致す所ならん。
天然美に空間的の者多きは殊に俳句において然り。けだし俳句は短くして時間を容るる能はざるなり。故に人事を詠ぜんとする場合にも、なほ人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質の然らしむるに因る。たまたま時間を写す者ありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。
御手討の夫婦なりしを更衣
打ちはたす梵論つれだちて夏野かな
前者は過去のある人事を叙し、後者は未来のある人事を叙す。一句の主眼が一は過去の人事にあり、一は未来の人事にあるは二句同一なり、その主眼なる人事が人事中の複雑なる者なる事も二句同一なり。此の如き者は古往今来他にその例を見ず。
理想的美
俳句の美あるいは分つて実験的、理想的の二種となすべし。実験的と理想的との区別は俳句の性質において既に然るものあり。この種の理想は人間の到底経験すべからざること、あるいは実際有り得べからざることを詠みたるものこれなり。また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にある者あり。この種の理想は今人にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざる或る社会の情状を描き出す者これなり。ここに理想的といふは実験的に対していふものにして両者を包含す。
文学の実験に依らざるべからざるはなほ絵画の写生に依らざるべからざるが如し。しかれども絵画の写生にのみ依るべからざるが如く、文学もまた実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか、絵画は終に微妙の趣味を現す能はざらん、実験にのみ依らんか、尋常一様の経歴ある作者の文学は到底陳套を脱する能はざるべし。文学は伝記にあらず、記実にあらず、文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながらその理想は天地八荒の中に逍遥して無碍自在に美趣を求む。羽なくして空に翔るべし、鰭なくして海に潜むべし。音なくして音を聴くべく、色なくして色を観るべし。此の如くして得来る者、必ず斬新奇警人を驚かすに足る者あり。俳句界において斯人を求むるに蕪村一人あり。翻つて芭蕉は如何と見ればその俳句平易高雅、奇を衒せず、新を求めず、尽く自己が境涯の実歴ならざるはなし。二人は実に両極端を行きて毫も相似たる者あらず、これまた蕪村の特色として見ざるべけんや。
芭蕉も初めは
菖蒲生り軒の鰯の髑髏
の如き理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せる総ての事物より句を探り出だすに非ず、記実の中にてもただ自己を離れたる純客観の事物は全くこれを抛擲し、ただ自己を本としてこれに関聯する事物の実際を詠ずるに止まれり。今日より見ればその見識の卑きこと実に笑ふに堪へたり。けだし芭蕉は感情的に全く理想美を解せざりしには非ずして、理窟に考へて理想は美に非ずと断定せしや必せり。一世に知られずして始終逆境に立ちながら、堅固なる意思に制せられて謹厳に身を修めたる彼が境遇は、苟にも嘘をつかじとて文学にも理想を排したるなるべく、将た彼が愛読したりといふ『杜詩』に記実的の作多きを見ては、俳句もかくすべきものなりと自ら感化せられたるにもあらん。芭蕉の門人多しといへども、芭蕉の如く記実的なるは一人もなく、また芭蕉は記実的ならずとてそを悪く言ひたる例も聞かず。芭蕉は連句において宇宙を網羅し古今を翻弄せんとしたるにも似ず、俳句には極めて卑怯なりしなり。
蕪村の理想を尚ぶはその句を見て知るべしといへども、彼がかつて召波に教へたりという彼の自記は善く蕪村を写し出だせるを見る。曰く
(略)其角を尋ね嵐雪を訪ひ素堂を倡ひ鬼貫に伴ふ、日々この四老に会してわづかに市城名利の域を離れ林園に遊び山水にうたげし酒を酌て談笑し句を得ることは専不用意を貴ぶ、かくの如くすること日々或日また四老に会す、幽賞雅懐はじめの如し、眼を閉て苦吟し句を得て眼を開く、忽ち四老の所在を失す、しらずいづれの所に仙化して去るや、恍として一人自彳む時に花香風に和し月光水に浮ぶ、これ子が俳諧の郷なり(略)
蕪村は如何にして理想美を探り出だすべきかを召波に示したるなり。筆にも口にも説き尽すべからざる理想の妙趣は、輪扁の木を断るが如く終に他に教ふべからずといへども、一棒の下に頓悟せしむるの工夫なきにしもあらず。蕪村はこの理想的の事をなほ理想的に説明せり。かつその説明的なると文学的なるとを問はず、かくの如き理想を述べたる文字に至りては上下二千載我に見ざる所なり。奇文なるかな。
蕪村の句の理想と思しき者を挙ぐれば
河童の恋する宿や夏の月
湖へ富士を戻すや五月雨
名月や兎のわたる諏訪の湖
指南車を胡地に引き去る霞かな
滝口に燈を呼ぶ声や春の雨
白梅や墨芳ばしき鴻臚館
宗鑑に葛水たまふ大臣かな
実方の長櫃通る夏野かな
朝比奈が曾我を訪ふ日や初鰹
雪信が蠅打ち払ふ硯かな
孑孑の水や長沙の裏長屋
追剥を弟子に剃りけり秋の旅
鬼貫や新酒の中の貧に処す
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
新右衛門蛇足をさそふ冬至かな
寒月や衆徒の群議の過ぎて後
高野
隠れ住んで花に真田が謡かな
歴史を借りて古人を十七字中に現し得たる者、以て彼が技倆を見るに足らん。
複雑的美
思想簡単なる時代には美術文学に対する嗜好も簡単を尚ぶは自然の趨勢なり。我邦千余年間の和歌の如何に簡単なるかを見ば、人の思想の長く発達せざりし有様も見え透く心地す。この間に立ちて形式の簡単なる俳句はかへつて和歌よりも複雑なる意匠を現さんとして漢語を借り来り佶屈なる直訳的句法をさへ用ゐたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句は終に俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は足引の山鳥の尾のといふ歌の簡単なるに比すべくもあらざれど、なほ俳句中の最簡単なる者に属す。芭蕉はこれを以て自ら得たりとし、終身複雑なる句を作らず。門人は必ずしも芭蕉の簡単を学ばざりしも、複雑の極点に達するにはなほ遠かりき。
芭蕉は「発句は頭よりすらすらと云下し来るを上品とす」と言ひ、門人洒堂に教へて「発句は汝が如く物二、三取集る物にあらず、こがねを打のべたる如くあるべし」と言へり。洒堂の句の物二、三取集るといふは
鳩吹くや渋※ 原の蕎麦畑
刈株や水田の上の秋の雲
の類なるべく、洒堂また常に好んでこの句法を用ゐたりとおぼし。しかれども洒堂のこれらの句は元禄の俳句中に一種の異彩を放つのみならず、その品格よりいふも鳩吹、刈株の句の如きは決して芭蕉の下にあらず。芭蕉がこの特異の処を賞揚せずして、かへつてこれを排斥せんとしたるを見れば、彼はその複雑的美を解せざりし者に似たり。
芭蕉は一定の真理を言はずして時に随ひ人により思ひ思ひの教訓をなすを常とす。その洒堂を誨へたるもこれらの佳作を斥けたるにはあらで、むしろその濫用を誡めたるにやあらん。許六が「発句は取合せものなり」といふに対して芭蕉が「これほど仕よき事あるを人は知らずや」といへるを見ても、強ち取合を排斥するには非るべし。されどここに言へる取合とは二種の取合をいふ者にして、洒堂の如く三種の取合をいふに非るは、芭蕉の句、許六の句を見て明なり。芭蕉また凡兆に対して「俳諧もさすがに和歌の一体なり、一句にしをりあるやうに作すべし」といへるもこの間の消息を解すべき者あり。凡兆の句複雑といふほどにはあらねど、また洒堂らと一般、句々材料充実して、彼の虚字を以て斡旋する芭蕉流とはいたく異なり。芭蕉これに対して今少し和歌の臭味を加へよといふ、けだし芭蕉は俳句は簡単ならざるべからずと断定して自ら美の区域を狭く劃りたる者なり。芭蕉既に此の如し。芭蕉以後言ふに足らざるなり。
蕪村は立てり。和歌のやさしみ言ひ古し聞き古して紛々《ふんぷん》たる臭気はその腐敗の極に達せり。和歌に代りて起りたる俳句幾分の和歌臭味を加へて元禄時代に勃興したるも、支麦以後漸く腐敗してまた拯ふに道なからんとす。是において蕪村は複雑的美を捉へ来りて俳句に新生命を与へたり。彼は和歌の簡単を斥けて唐詩の複雑を借り来れり。国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁なる、豪壮なる漢語もて我不足を補ひたり。先に其角一派が苦辛して失敗に終りし事業は蕪村によつて容易に成就せられたり。衆人の攻撃も慮る所にあらず、美は簡単なりといふ古来の標準も棄てて顧ず、卓然として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。
芭蕉の句は尽く簡単なり。強ひてその複雑なる者を求めんか
鶯や柳のうしろ藪の前
つゝじ活けて其陰に干鱈さく女
隠れ家や月と菊とに田三反
等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じて然り。中につきて数句を挙ぐれば
草霞み水に声なき日暮かな
燕啼いて夜蛇を打つ小家かな
梨の花月に書読む女あり
雨後の月誰そや夜ぶりの脛白き
鮓をおす我れ酒かもす隣あり
五月雨や水に銭踏む渡し舟
草いきれ人死をると札の立つ
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者
鹿ながら山影門に入日かな
鴫遠く鍬すゝぐ水のうねりかな
柳散り清水涸れ石ところ/″\
水かれ/″\蓼かあらぬか蕎麦か否か
我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
一句五字または七字の中なほ「草霞み」「雨後の月」「夜蛇を打つ」「水に銭踏む」と曲折せしめたる妙は到底「頭よりすらすらと言ひ下し来る」者の解し得ざる所、しかも洒堂、凡兆らもまた夢寐にだも見ざりし所なり。客観的の句は複雑なりやすし。主観的の句の複雑なる
うき我に砧打て今は又やみね
の如きに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失言ふ所を知らざるべし。
精細的美
外に広き者これを複雑といひ、内に詳なる者これを精細といふ。精細の妙は印象を明瞭ならしむるにあり。芭蕉の叙事形容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んで為したる所なりといへども、一は精細的美を知らざりしに因る。芭蕉集中精細なる者を求むるに
粽結片手にはさむ額髪
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
の如き比較的に爾か思はるるあるのみ。蕪村集中にその例を求むれば
鶯の鳴くや小き口あけて
あぢきなや椿落ち埋む庭たづみ
痩臑の毛に微風あり衣がへ
月に対す君に投網の水煙
夏川をこす嬉しさよ手に草履
鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門
夕風や水青鷺の脛を打つ
点滴に打たれてこもる蝸牛
蚊の声す忍冬の花散るたびに
青梅に眉あつめたる美人かな
牡丹散て打ち重りぬ二三片
唐草に牡丹めでたき蒲団かな
引きかふて耳をあはれむ頭巾かな
緑子の頭巾眉深きいとほしみ
真結びの足袋はしたなき給仕かな
歯あらはに筆の氷を噛む夜かな
茶の花や石をめぐりて道を取る
等いと多かり。
庭たづみに椿の落ちたるは誰も考へつくべし。埋むとは言ひ得ぬなり。もし埋むに力入れたらんには俗句と成りをはらん。落ち埋むと字余りにして埋むを軽く用ゐたるは蕪村の力量なり。善き句にはあらねど、埋むとまで形容して俗ならしめざる処、精細的美を解したるに因る。精細なる句の俗了しやすきは蕪村の夙に感ぜし所にやあらん、後世の俳家徒に精細ならんとしてますます俗に堕つる者、けだし精細的美を解せざるがためなり。妙人の妙はその平凡なる処、拙き処において見るべし。『唐詩選』を見て唐詩を評し展覧会を見て画家を評するは殆し。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者に非るなり。
「手に草履」ということももし拙く言ひのばしなば殺風景となりなん。短くも言ひ得べきを「嬉しさよ」と長く言ひて、長くも言ひ得べきを「手に草履」と短く言ひし者、良工苦心の処ならんか。
「鮎くれて」の句、此の如き意匠は古来なき所、縦しありたりとも「よらで過ぎ行く」とは言い得ざりしなり。常人をして言はしめば鮎くれしを主にして言ふべし。そは平凡なり。よらで過ぎ行く処、景を写し情を写し時を写し多少の雅趣を添ふ。
顔しかめたりとも額に皺よせたりともかく印象を明瞭ならしめじ、事は同じけれど「眉あつめたる」の一語、美人髣髴として前にあり。
蒲団引きあふて夜伽の寒さを凌ぎたる句などこそ古人も言へれ、蒲団その物を一句に形容したる、蕪村より始まる。
「頭巾眉深き」ただ七字、あやせば笑ふ声聞ゆ。
足袋の真結び、これをも俳句の材料にせんとは誰か思はん。我この句を見ること熟せり、しかもいかにしてこの事を捉へ得たるかは今に怪まざるを得ず。
「歯あらはに」歯にしみ入るつめたさ想ひやるべし。
用語
蕪村の俳句における意匠の美は既にこれを言へり。意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力また多くここにあり。しかれども用語、句法の美これに伴はざらんには、可惜意匠の美を活動せしめざるのみならず、かへつてその意匠に一種厭ふべき俗気を帯びたるが如く感ぜしむることあり。蕪村の用語と句法とはその意匠を現すに最も適せる者にして、しかも自己の創体に属する者多し。その用語の概略を言はんに
(一)漢語 は蕪村の喜んで用ゐたる者にして、あるいは漢語多きを以て蕪村の唯一の特色と誤認せらるるに至る。この一事がいかに人の注意を惹きしかを知るべし。蕪村が漢語を用ゐたるは種々の便利ありしに因るべけれど、第一に漢語が国語より簡短なりしに因らずんばあらず、複雑なる意匠を十七、八字の中に含めんには簡短なる漢語の必要あり。また簡短なる語を用うれば叙事形容を精細に為し得べき利あり。
指南車 を胡地 に引き去る かすみかな
閣 に坐して 遠き蛙を聞く夜かな
祇や鑑や 髭に落花 を捻りけり
鮓桶をこれへと樹下 に床几かな
三井寺や日は午 に逼る 若楓
柚の花や善き酒蔵す 塀の内
耳目肺腸 こゝに玉巻く芭蕉庵
採蓴 をうたふ彦根の ※ 夫 かな
鬼貫や新酒の中の貧に処す
月天心 貧しき町を通りけり
秋風や酒肆 に詩うたふ 漁者樵者
雁鳴くや舟に魚焼く琵琶 湖上
の如きこの例なり。されども漢語の必要ありとのみにて濫りに漢語を用ゐ、ために一句の調和を欠かば佳句とは言はれじ。「胡地」の語の如き余り耳遠く普通に用ゐるべきには非るを、「指南車」の語上にあり、「引去る」という漢文直訳風の語下にあるために一句の調和を得たるなり。「落花」の語は「祇や鑑や」に対して響き善く、「芭蕉庵」といふ語なくんば「耳目肺腸」とは置く能はず。「採蓴」は漢語に非れば言ふべからず、さりとてこの語ばかりにては国語と調和せず。故にことさらに「※ 夫」とは受けたり。
第二は国語にて言ひ得ざるにはあらねど、漢語を用ゐる方善くその意匠を現すべき場合なり。漢語を用ゐて勢を強くしたる句
五月雨や大河 を前に家二軒
夕立や筆も乾かず一千言
時鳥平安城 をすぢかひに
絶頂 の城たのもしき若葉かな
方百里 雨雲よせぬ牡丹かな
「おほかは」と言へば水勢ぬるく「たいが」と言へば水勢急に感ぜられ、「いただき」と言へば山嶮しからず、「ぜつちやう」と言へば山嶮しく感ぜらる。
漢語を用ゐていかめしくしたる句
蚊遣してまゐらす僧の坐右 かな
売卜先生 木の下闇の訪はれ顔
「坐右」の語は僧に対する多少の尊敬を表し、「売卜先生」と言へば「卜屋算」と言ひしよりも鹿爪らしく聞えて善く「訪はれ顔」に響けり。
寂 として客の絶間の牡丹かな
蕭条 として石に日の入る枯野かな
の如きは「しんとして」「淋しさは」など置きたると大差なけれど、なほ漢語の方適切なるべし。
第三は支那の成語を用うる者にして、こは成語を用ゐたるがために興ある者、また成語をそのままならでは用ゐるべからざる者あり。支那の人名地名を用ゐ、支那の古事風景等を詠ずる場合は勿論、我国の事をいふ引合に出されたるも少からず。その句
行き/\てこゝに行き行く 夏野かな
朝霧や杭打つ音丁々 たり
帛を裂く 琵琶の流れや秋の声
釣り上げし鱸の巨口 玉や吐く
三径 の十歩に尽きて蓼の花
冬籠り燈下に書す と書かれたり
侘禅師から鮭に白頭の吟 を彫る
秋風 の呉人 は知らじふぐと汁
右三種類の外に
春水や四条五条の橋の下
の句は「春の水」ともあるべきを「橋の下」と同調になりて耳ざはりなれば「春水」とは置たるならん。但し四条五条という漢音の語なくば「春水」とは言はざりけん。
蚊帳釣りて翠微 つくらん家の内
特に「翠微」といふは翠の字を蚊帳の色にかけたるしやれなり。
薫風 やともしたてかねつ厳島
「風薫る」とは俳句の普通に用ゐる所なれど爾か言ひては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風といふ位の意に用ゐる者なれば「薫風」とつづけて一種の風の名と為すに如かず。けだし蕪村の烱眼は早くこれに注意したる者なるべし。
(二)古語 もまた蕪村の好んで用ゐたる者なり。漢語は延宝、天和の間其角一派が濫用して終にその調和を得ず、其角すらこれより後、復用ゐざりしもの、蕪村に至りて始て成功を得たり。古語は元禄時代にありて芭蕉一派が常語との調和を試み十分に成功したる者、今は蕪村に因て更に一歩を進められぬ。
およぐ時よるべなきさま の蛙かな
命婦より牡丹餅たばす 彼岸かな
更衣母なん 藤原氏なりけり
真しらげ のよね一升や鮓のめし
おろしおく笈になゐふる 夏野かな
夕顔や黄に咲いたるもあるべかり
夜を寒み 小冠者臥したり北枕
高燈籠消えなん とするあまたゝび
渡り鳥雲のはたて の錦かな
大高に君しろしめせ 今年米
蕪村の用ゐたる古語には藤原時代のもあらん、北条足利時代のもあらん、あるいは漢書の訳読に用ゐられたる即ち漢語化せられたる古語も多からん。いづれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従て拈出したるは蕪村の力なり。ただ漢語を用ゐ、いたづらに佶屈の句を作り、以て蕪村の真髄を得たりと為す者、いまだ他の半面を解せざるべし。
(三)俗語 の最俗なる者を用ゐ初たるもまた蕪村なり。元禄時代に雅語、俗語相半せし俳句も、享保以後無学無識の徒に翫弄せらるるに至て雅語漸く消滅し俗語ますます用ゐられ、意匠の野卑と相待て純然たる俗俳句となりをはれり。されどその俗語も必ずしも好んで俗語を用ゐしにあらで、雅語を解せざるがため知らず知らず卑近に流れたる者、故に彼らが用ゐる俗語は俗語中のなるべく古に近きを択みたりとおぼしく、俗中の俗なる日常の話語に至りては固より用ゐざりしのみならず、彼らなほこれを俗として排斥したり。檀林派の作者といへどもその意匠句法の滑稽突梯なるにかかはらず、またこの俗語中の俗語を用ゐたるものを見ず。蕉門も檀林も其嵐派も支麦派も用ゐるに難じたる極端の俗語を取て平気に俳句中に挿入したる蕪村の技倆は実に測るべからざる者あり。しかもその俗語の俗ならずしてかへつて活動する、腐草蛍と化し淤泥蓮を生ずるの趣あるを見ては誰かその奇術に驚かざらん。
出る杭を打たうとしたりや 柳かな
酒を煮る家の女房ちよとほれた
絵団扇のそれも 清十郎にお夏かな
蚊帳の内に蛍放してアヽ楽や
杜若べたり と鳶のたれ てける
薬喰隣の亭主箸持参
化さうな 傘かす寺の時雨かな
後世一茶の俗語を用ゐたる、あるいはこれらの句より胚胎し来れるには非るか。薬喰の句は蕪村集中の最俗なる者、一読に堪へずといへども、一茶は殊にこの辺より悟入したるかの感なきに非ず。けだし一茶の作時に名句なきにはあらざるも、全体を通じて言へば句法において蕪村の「酒を煮る」「絵団扇」の如きしまりなく、意匠において「杜若」「時雨」の如き趣味を欠きたり。蕪村は漢語をも古語をも極端に用ゐたり。佶屈なりやすき漢語も佶屈ならしめざりき。冗漫なりやすき古語も冗漫ならしめざりき。野卑なりやすき俗語も野卑ならしめざりき。俗語を用ゐたる一茶の外は漢語にも古語にも彼は匹敵者を有せざりき。用語の一点においても蕪村は俳句界独歩の人なり。
句法
句法は言語の接続をいふ。俳句の句法は貞享、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。むしろ元禄に変化したるだけの変化さへ失ひ、「何や」「何かな」一点張の極めて単調なる者となりをはりて、ただ時に檀林一派及び鬼貫らの奇を弄するあるのみ。この際に当りて蕪村は句法の上に種々工夫を試みあるいは漢詩的に、あるいは古文的に、古人のいまだかつて作らざりし者を数多造り出せり。
春雨やいざよふ月の海半
春風や堤長うして家遠し
雉打て帰る家路の日は高し
玉川に高野の花や流れ去る
祇や鑑や髭に落花をひねりけり
桜狩美人の腹や減却す
出べくとして出ずなりぬ梅の宿
菜の花や月は東に日は西に
裏門の寺に逢著す蓬かな
山彦の南はいづち春の暮
月に対す君に投網の水煙
掛香や唖の娘の人となり
鮓を圧す石上に詩を題すべく
夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ
浅川の西し東す若葉かな
麓なる我蕎麦存す野分かな
蘭夕狐のくれし奇楠を※ 《たか》ん
漁家寒し酒に頭の雪を焼く
頭巾二つ一つは人に参らせん
我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)
の如きは漢文より来りし句法なり。蕪村最多くこの種の句法を為す。
しのゝめや鵜をのがれたる魚浅し
鮓桶を洗へば浅き遊魚かな
古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し
「魚浅し」、「音暗し」などいへる警語を用ゐたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。
陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ
橋なくて日暮れんとする春の水
罌粟の花まがきすべくもあらぬかな
の如きは古文より来る者、
春の水背戸に田つくらんとぞ思ふ
白蓮を剪らんとぞ思ふ僧のさま
この「とぞ思ふ」といふは和歌より取り来りし者なり。その外
衣がへ野路の人はつかに白し
蚊の声す忍冬の花散るたびに
水かれ/″\蓼かあらぬか蕎麦か否か
の如きあり。
元禄以来形容語は極めて必要なる者の外俳句には用ゐられざりき。いたづらに場所塞ぎを為すのみにて、ありてもなくても意義に大差なしとの意なりしならん。しかれども形容語は句を活動せしめ印象を明瞭ならしむるにはこれを用ゐて効多し。蕪村は巧にこれを用ゐ、殊に中七音の中に簡単なる形容詞を用うることに長じたり。
水の粉やあるじかしこき 後家の君
尼寺や善き 蚊帳垂るゝ宵月夜
柚の花や能 酒蔵す塀の内
手燭して善き 蒲団出す夜寒かな
緑子の頭巾眉深き いとほしみ
真結びの足袋はしたなき 給仕かな
宿かへて火燵嬉しき 在処
後の形容詞を用ゐる者、多くは句勢にたるみを生じてかへつて一句の病と為る。蕪村の簡勁と適切とに及ばざる遠し。
蕪村の句は堅くしまりて揺かぬがその特色なり。故に無形の語少く有形の語多し。簡勁の語多く冗漫の語少し。しかるに彼に一つの癖ありて或る形容詞に限り長きを厭はず、しばしばこれを句尾に置く。
つゝじ咲て石うつしたる嬉しさよ
更衣八瀬の里人ゆかしさよ
顔白き子のうれしさよ枕蚊帳
五月雨の大井越えたるかしこさよ
夏川を越す嬉しさよ手に草履
小鳥来る音嬉しさよ板庇
鋸の音貧しさよ夜半の冬
の如きこれなり。普通に嬉しと思ふ時嬉しといはば俳句は無味になりをはらん、まして嬉しさよと長く言はんは猶更の事なり。嬉しさよといはねば感情を現す能はざる時にのみ用ゐたる蕪村の句は、固よりこの語を無造作に置きたるにあらず。更に驚くべきは蕪村が一句の結尾に「に」という手爾葉を用ゐたる事なり。例へば
帰る雁田毎の月の曇る夜に
菜の花や月は東に日は西に
春の夜や宵曙の其中に
畑打や鳥さへ鳴かぬ山陰に
時鳥平安城をすぢかひに
蚊の声す忍冬の花散るたびに
広庭の牡丹や天の一方に
庵の月あるじを問へば芋掘りに
狐火や髑髏に雨のたまる夜に
常人をしてこの句法に倣はしめば必ずや失敗に終はらん、手爾葉の結尾を以て一句を操る者、蕪村の蕪村たる所以なり。
蕪村は下五文字に何ぶり、何がち、何顔、何心の如き語を据うることを好めり。
三椀の雑煮かふるや長者ぶり
少年の矢数問ひよる念者ぶり
鶯のあちこちとするや小家がち
小豆売る小家の梅の莟がち
耕すや五石の粟のあるじ顔
燕や水田の風に吹かれ顔
川狩や楼上の人の見知り顔
売卜先生木の下闇の訪はれ顔
行く春やおもたき琵琶の抱き心
夕顔の花噛む猫やよそ心
寂寞と昼間を鮓の馴れ加減
またこの類の語の中七字に用ゐられたるもあり。後世の俗俳家何心、何ぶりなどと詠ずる者多くは卑俗厭ふべし。
なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな
牡丹ある寺行き過ぎし恨かな
葛を得て清水に遠き恨かな
「恨かな」といふも漢詩より来りし者ならん。
句調
蕪村以前の俳句は五七五の句切にて意味も切れたるが多し。たまたま変例と見るべき者もなほ
行春や鳥啼き魚の目は涙 芭蕉
松風の落葉か水の音涼し 同
松杉をほめてや風の薫る音 同
の如き者にして多くは「や」「か」等の切字を含み、しからざるも七音の句必ず四三または三四と切れたるを見る。蕪村の句には
夕風や水青鷺の脛を打つ
鮓を圧す我れ酒醸す隣あり
宮城野の萩更科の蕎麦にいづれ
の如く二五と切れたるあり、
若葉して水白く麦黄ばみたり
柳散り清水涸れ石ところ/″\
春雨や人住みて煙壁を漏る
の如く五二または五三と切れたるもあり。これ恐らくは蕪村の創めたる者、暁台、闌更によりて盛に用ゐられたるにやあらん。
句調は五七五調の外に時に長句を為し、時に異調を為す、六七五調は五七五調に次ぎて多く用ゐられたり。
花を踏みし草履も見えて朝寐かな
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
卯月八日死んで生るゝ子は仏
閑古鳥かいさゝか白き鳥飛びぬ
虫のためにそこなはれ落つ※ の花
恋さま/″\願の糸も白きより
月天心貧しき町を通りけり
羽蟻飛ぶや富士の裾野の小家より
七七五調、八七五調、九七五調の句
独鈷鎌首水かけ論の蛙かな
売卜先生木の下闇の訪はれ顔
花散り月落ちて文こゝにあら有難や
立ち去る事一里眉毛に秋の峰寒し
門前の老婆子薪貪る野分かな
夜桃林を出でゝ暁嵯峨の桜人
五八五調、五九五調、五十五調の句
およぐ時よるべなきさまの蛙かな
おもかげもかはらけ/\年の市
秋雨や水底の草を踏み渉る
茯苓は伏かくれ松露はあらはれぬ
侘禅師乾鮭に白頭の吟を彫
五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を
夕立や筆も乾かず一千言
ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶
心太さかしまに銀河三千尺
炭団法師火桶の穴より覗ひけり
の如く置きたるは古来例に乏しからず。終六言を三三調に用ゐたるは蕪村の創意にやあらん。その例
嵯峨へ帰る人はいづこの花に 暮れし
一行の雁や端山に月を 印す
朝顔や手拭の端の藍を かこつ
水かれ/″\蓼かあらぬか蕎麦か 否か
柳散り清水涸れ石ところ /″\
我をいとふ隣家寒夜に鍋を ならす
霜百里舟中に我月を 領す
その外調子のいたく異なりたる者あり。
梅遠近南すべく北すべく
閑古鳥寺見ゆ麦林寺とやいふ
山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり
更衣母なん藤原氏なりけり
最も奇なるは
をちこちをちこちと打つ砧かな
の句の字は十六にして調子は五七五調に吟じ得べきが如き。
文法
漢語、俗語、雅語の事は前にも言へり。その他動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用ゐざる語あり。
鮓を圧す石上に詩を題すべく
緑子の頭巾眉深きいとほしみ
大矢数弓師親子も参りたる
時鳥歌よむ遊女聞ゆなる
麻刈れと夕日此頃斜なる
「たり」「なり」と言はずして「たる」「なる」と言ふが如き、「べし」と言はずして「べく」と言ふが如き、「いとほし」と言はずして「いとほしみ」と言ふが如き、蕪村の故意に用ゐたる者とおぼし。前人の句またこの語を用ゐたる者なきにあらねど、そは終止言として用ゐたるが多きやうに見ゆ。蕪村のはことさらに終止言ならぬ語を用ゐて余意を永くしたるなるべし。
をさな子の寺なつかしむ 銀杏かな
「なつかしむ」という動詞を用ゐたる例ありや否や知らず。あるいは思ふ、「なつかし」といふ形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。果して然りとすれば蕪村は傍若無人の振舞を為したる者といふべし。しかれども百年後の今日に至りこの語を襲用するもの続々として出でんか、蕪村の造語は終に字彙中の一隅を占むるの時あらんも測りがたし。英雄の事業時にかくの如き者あり。
蕪村は古文法など知らざりけん、縦し知りたりともそれに拘らざりけん、文法に違ひたる句
更衣母なん藤原氏なりけり
の如きあり。
我宿にいかに引くべき清水かな
の如く「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。
大文字や近江の空もたゞならね
の「ね」の如き例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用ゐたるか、あるいは前に挙げたる「たる」「なる」の如く特に言ひ残したる語なるか。縦令後者なりとも文法学者をして言はしめば文法に違ひたりとせん、果して文法に違へりや、将た韻文の文法も散文の如くならざるべからざるか、そは大に研究を要すべき問題なり。余は文法論につきてなほ幾多の疑を存する者なれども、これらの俳句を尽く文法に違へりとて排斥する説には反対する者なり。まして普通の場合に「ならめ」等の結語を用ゐる例は『万葉』にもあるをや。
二本の梅に遅速を愛すかな
麓なる我蕎麦存す野分かな
の「愛すかな」「存す野分」の連続の如き
夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ
の「京尽し飛ぶ」の連続の如き
蘭夕狐のくれし奇楠を※ 《たか》ん
の「蘭夕」の連続の如き、漢文より来りし者は従来の国語になき句法を用ゐたり。これらは固より故意にこの新句法を造りし者、しかして明治の俳句界に一生面を開きし者また多くこの辺より出づ。
材料
蕪村は狐狸怪を為すことを信じたるか、縦令信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿『新花摘』は怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたる者少からず。
公達に狐ばけたり宵の春
飯盗む狐追ふ声や麦の秋
狐火やいづこ河内の麦畠
麦秋や狐ののかぬ小百姓
秋の暮仏に化る狸かな
戸を叩く狸と秋を惜みけり
石を打狐守る夜の砧かな
蘭夕狐のくれし奇楠を※ ん
小狐の何にむせけん小萩原
小狐の隠れ顔なる野菊かな
狐火の燃えつくばかり枯尾花
草枯れて狐の飛脚通りけり
水仙に狐遊ぶや宵月夜
怪異を詠みたる者、
化さうな傘かす寺の時雨かな
西の京にばけもの栖て久しくあれ果たる家ありけり今は其さたなくて
春雨や人住みて煙壁を洩る
狐狸にはあらで幾何か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたる者
獺の住む水も田に引く早苗かな
獺を打し翁も誘ふ田植かな
河童の恋する宿や夏の月
蝮の鼾も合歓の葉陰かな
麦秋や鼬啼くなる長がもと
黄昏や萩に鼬の高台寺
むさゝびの小鳥喰み居る枯野かな
この外犬鼠などの句多し。そは怪異といふにはあらねど此の如き動物を好んで材料に用ゐたるもその特色の一なり。
州名国名など広き地名を多く用ゐたり。些細なる事なれど蕪村以前にはこの例少かりしにや。
河内路や東風吹き送る巫女が袖
雉鳴くや草の武蔵の八平氏
三河なる八橋も近き田植かな
楊州の津も見えそめて雲の峰
夏山や通ひなれたる若狭人
狐火やいづこ河内の麦畠
しのゝめや露を近江の麻畠
初汐や朝日の中に伊豆相模
大文字や近江の空もたゞならね
稲妻の一網打つや伊勢の海
紀路にも下りず夜を行く雁一つ
虫鳴くや河内通ひの小提灯
糞、尿、屁など多く用ゐたるは其角なり。其角の句はやや奇を求めてことさらにものせしが如く思はる。蕪村はこれを巧に用ゐ、これら不浄の物をして殺風景ならしめざるのみならず、幾多の荒寒凄涼なる趣味を含ましむるを得たり。
大とこの糞ひりおはす枯野かな
いばりせし蒲団干したり須磨の里
糞一つ鼠のこぼす衾かな
杜若べたりと鳶のたれてける
蕪村はこれら糞尿の如き材料を取ると同時にまた上流社会のやさしく美しき様をも巧に詠み出でたり。
春の夜に尊き御所を守身かな
春惜む座主の連歌に召されけり
命婦より牡丹餅たばす彼岸かな
滝口に灯を呼ぶ声や春の雨
よき人を宿す小家や朧月
小冠者出て花見る人を咎めけり
短夜や暇賜はる白拍子
葛水や入江の御所に詣づれば
稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥
時鳥琥珀の玉を鳴らし行く
狩衣の袖の裏這ふ蛍かな
袖笠に毛虫をしのぶ古御達
名月や秋月どのゝ艤
蕪村の句新奇ならざる者なければ新奇を以て論ずれば『蕪村句集』全部を見るの完全なるに如かず。かつ初より諸種の例に引きたる句多く新奇なるを以て特にここに拳ぐるの要なしといへども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用ゐし句を少し記し置くべし。
野袴の法師が旅や春の風
陽炎や簣に土をめづる人
奈良道や当帰畠の花一木
畑打や法三章の札のもと
巫女町によき衣すます卯月かな
更衣印籠買ひに所化二人
床涼み笠着連歌の戻りかな
秋立つや白湯香しき施薬院
秋立つや何に驚く陰陽師
甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋
いでさらば投壺参らせん菊の花
易水に根深流るゝ寒さかな
飛騨山の質屋鎖しぬ夜半の冬
乾鮭や帯刀殿の台所
これらの材料は蕪村以前の句に少きのみならず、蕪村以後もまた用ゐる能はざりき。
縁語及び譬喩
蕪村が縁語その他文字上の遊戯を主としたる俳句をつくりしは怪むべきやうなれど、その句の巧妙にして斧鑿の痕を留めず、かつ和歌もしくは檀林、支麦の如き没趣味の作を為さざる処、また以てその技倆を窺ふに足る。縁語を用ゐたる句
春雨や身にふる頭巾着たりけり
出代や春さめ/″\と古葛籠
近道へ出てうれし野のつゝじかな
愚痴無智のあま酒つくる松が岡
蝸牛や其角文字のにじり書
橘のかはたれ時や古館
橘のかごとがましき袷かな
一八やしやが父に似てしやがの花
夏山や神の名はいさしらにぎて
藻の花やかたわれからの月もすむ
忘るなよ程は雲助時鳥
角文字のいざ月もよし牛祭
葛の葉のうらみ顔なる細雨かな
頭巾着て声こもりくの初瀬法師
晋子三十三回忌辰
擂盆のみそみめぐりや寺の霜
または
題白川
黒谷の隣は白し蕎麦の花
の如き固有名詞をもぢりたるもあり。または
短夜や八声の鳥は八ツに啼く
茯苓は伏しかくれ松露は露れぬ
思古人移竹
去来去り移竹移りぬ幾秋ぞ
の如く文字を重ねかけたるもあり。
俳句に譬喩を用ゐる者、俗人の好む所にしてその句多く理窟に堕ち趣味を没す。蕪村の句時に譬喩を用ゐる者ありといへども、譬喩奇抜にして多少の雅致を具ふ。また支麦輩の夢寐にも知らざる所なり。
独鈷鎌首水かけ論の蛙かな
苗代の色紙に遊ぶ蛙かな
心太さかしまに銀河三千尺
夕顔のそれは髑髏か鉢叩
蝸牛の住はてし宿やうつせ貝
金扇に卯花画
白がねの卯花もさくや井出の里
鴛鴦や国師の沓も錦革
あたまから蒲団かぶれば海鼠かな
水仙や鵙の草茎花咲きぬ
ある隠士のもとにて
古庭に茶筌花咲く椿かな
雁宕久しく音づれせざりければ
有と見えて扇の裏絵覚束な
波翻舌本吐紅蓮
閻王の口や牡丹を吐かんとす
蟻垤
蟻王宮朱門を開く牡丹かな
浪花の旧国主して諸国の俳士を集めて円山に会筵しける時
萍を吹き集めてや花筵
傚素堂
乾鮭や琴に斧うつ響あり
時代
蕪村は享保元年に生れて天明三年に歿す。六十八の長寿を保ちしかばその間種々の経歴もありしなるべけれど、大体の上より観れば文学美術の衰へんとする時代に生れてその盛ならんとする時代に歿せしなり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊多くは死し、支考、乙由らが残喘を保ちてますます俗に堕つるあるのみ。明和以後枯楊※ を生じて漸く春風に吹かれたる俳句は天明に至りてその盛を極む。俳句界二百年間元禄と天明とを最盛の時期とす。元禄の盛運は芭蕉を中心として成りし者、蕪村の天明におけるは芭蕉の元禄におけるが如くならざりしといへども、天明の隆盛を来せし者その力最も多きにをる。天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰へ、文政以後復痕迹を留めず。
和歌は『万葉』以来、『新古今』以来、一時代を経るごとに一段の堕落を為したる者、真淵出で僅にこれを挽回したり。真淵歿せしは蕪村五十四歳の時、ほぼその時を同じうしたれば、和歌にして取るべくは蕪村はこれを取るに躊躇せざりしならん。されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調に泥みて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。
当時の和文なる者は多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古といふことはあるいは蕪村をして古語を用ゐ古代の有様を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。しかして蕪村はこの材料を古物語等より取りしと覚ゆ。
蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学殊に漢詩なりき。かつ漢学は蕪村が少年の時にむしろ隆盛を極め、徂徠一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し、以て腐敗せる俳句に新生命を与へたるを見る。蕪村は徂徠等修辞派の主張する、文は漢以上、詩は唐以上と言へるが如き僻説には同意する者にあらざるべけれど、唐以上の詩を以て粋の粋と為したること疑あらじ。蕪村が書ける『春泥集』の序の中に曰く
(略)彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや、答曰、詩を語るべし、子もとより詩を能す、他に求むべからず、波疑敢問、それ詩と俳諧といささかその致を異にす、さるを俳諧を捨て詩を語れと云迂遠なるにあらずや、答曰(略)画の俗を去だにも筆を投じて書を読しむ、況詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや(略)
(略)詩に李杜を貴ぶに論なし、猶元白を捨ざるがごとくせよ(略)
これを読まば蕪村が漢詩の趣味を俳句に遷しし事も、李杜を貴び元白を賤みし事も明瞭ならん。漢書は蕪村の愛読せし所、その詩を解すること深く、芭蕉が極めておぼろに杜甫の詩想を認めしとは異なりしなるべし。
絵画の上よりいふも蕪村は衰運の極に生れて盛ならんとして歿せしなり。蕪村は自ら画を造りしこと多く、南宗の画家として大雅と並称せらる。天明以後絵画俄かに勃興して美術史に一紀元を与へたる事につきて、蕪村もまた多少の原因を為さざりしには非るも、その影響は極めて微弱にして、彼が俳句界における関係と同日に論ずべきに非ず。
天明は狂歌盛んに行はれ、黄表紙漸く勢を得たる時なり。されど俳句とは直接に関係する所なし。ただこの時代が文学美術全般の勃興を成したるは文運の隆盛を促すべき大勢に駆られたる者にして、その大勢なる者はかへつて各種の文学美術が相互に影響したる結果も多かりけん。
蕪村の交りし俳人は太祇、蓼太、暁台らにしてその中暁台は蕪村に擬したりとおぼしく、蓼太は時々ひそかに蕪村調を学びし事もあるべしといへども、太祇に至りては蕪村を導きしか、蕪村に導かれしか、今これを判ずるを得ず。とにかくに蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずるなり。しかれども彼が師巴人に受くる所多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし。
履歴性行等
蕪村は摂津浪花に近き毛馬塘の片ほとりに幼時を送りしことその「春風馬堤曲」に見ゆ。彼は某に与ふる書中にこの曲の事を記して
馬堤は毛馬塘なり、則余が故園なり
といへり。やや長じて東都に遊び、巴人の門に入りて俳諧を学ぶ。夜半亭は師の名を継げるなり。宝暦の頃なりけん、京に帰りて俳諧漸く神に入る。蕪村もと名利を厭ひ聞達を求めず、しかれども俳人として彼が名誉は次第に四方雅客の間に伝称せらるるに至りたり。天明三年十二月廿四日夜歿し、亡骸は洛東金福寺に葬る。享年六十八。
蕪村は総常両毛奥羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。西帰の後丹後にをること三年、因て谷口氏を改めて与謝とす。彼は讃州に遊びしこともありけん、句集に見えたり。また厳島の句あるを見るにこの地の風情写し得て最も妙なり、空想の及ぶべきにあらず。蕪村あるいはここにも遊べるか。蕪村は読書を好み和漢の書何くれとなくあさりしも字句の間には眼もとめず、ただ大体の趣味を翫味して満足したりしが如し。俳句に古語古事を用ゐること、蕪村集の如く多きは他にその例を見ず。
彼が字句に拘らざりしは古文法を守らず、仮名遣に注意せざりし事にもしるけれど、なほその他に爾か思はるる所多し。一例を挙ぐれば彼が自筆の『新花摘』に
射干して※ 《ささや》く近江やわたかな
とあり。射干は「ひあふぎ」「からすあふぎ」などいへる花草にして、ここは「照射して」の誤なるべし。蕪村が照射と射干との区別を知らざるはずはなけれど、かかる事に無頓著の性とて気のつかざりしものならん。近江も大身と書くべきにや。秀吉が奥州を「大しゆ」と書きしことさへ思ひ出されてなつかし、蕪村の磊落にして法度に拘泥せざりし事この類なり。彼は俳人が家集を出版することをさへ厭へり。彼の心性高潔にして些の俗気なき事以て見るべし。しかれども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざりし、余り名誉心を抑へ過ぎたる蕪村を惜まずんばあらず。蕪村をして名を文学に揚げ誉を百代に残さんとの些の野心あらしめば、彼の事業は此に止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に満足せざりしならん。「春風馬堤曲」に溢れたる詩思の富贍にして情緒の纏綿せるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢を以て絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を絵画に伸ばさしめば日本画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩をして名を擅にせしめざりしものを、彼はそれをも得為さざりき。余は日本の美術文学のために惜む。
「春風馬堤曲」とは俳句やら漢詩やら何やら交ぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便となる者なり。俳句以外に蕪村の文学として見るべき者もこれのみ。蕪村の熱情を現したる者もこれのみ。「春風馬堤曲」とは支那の曲名を真似たる者にて、そのかく名けし所以は蕪村の書簡に詳なり。書簡に曰く
一春風馬堤曲 馬堤は毛馬塘なり則ち余が故園なり
余幼童之時春色清和の日には必友どちとこの堤上にのぼりて遊び候、水には上下の船あり、堤には往来の客あり、その中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧に倣ひ、髪かたちも妓家の風情をまなび、○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむ者有り、されども流石故園情に不堪、偶親里に帰省するあだ者成べし、浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下候、実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候
代女述意と称する「春風馬堤曲」十八首に曰く
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し
堤下摘芳草荊与棘塞路荊棘何無情裂裙且傷股
渓流石点々《けいりゅういしてんてん》踏石撮香芹多謝水上石教儂不沾裙
一軒の茶店の柳老にけり
茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且儂が春衣を美む
店中有二客能解江南語酒銭擲三緡迎我譲榻去
古駅三両家猫児妻を呼妻来らず
呼雛籬外※ 《ひなをよぶりがいのとり》籬外草満地雛飛欲越籬籬高堕三四
春草路三叉中に捷径あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年此路よりす
憐しる蒲公茎短して乳を※ 《あませり》
むかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱別に春あり
春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋辺財主の家
春情まなび得たり浪花風流
郷を辞し弟に負て身三春
本をわすれ末を取接木の梅
故郷春深し行々《ゆきゆき》て又行々
楊柳長堤道漸くくれたり
矯首はじめて見る故園の家黄昏戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春
君不見古人太祇が句
藪入の寝るやひとりの親の側
なほこの外に「澱河歌」三首あり。これらは紀行的韻文とも見るべく、諸体混淆せる叙情詩とも見るべし。惜いかな、蕪村はこれを一篇の長歌となして新体詩の源を開く能はざりき。俳人として第一流に位する蕪村の事業も、これを広く文学界の産物として見れば誠に規模の小なるに驚かずんばあらず。
蕪村は『鬼貫句選』の跋にて其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫を五子と称し、『春泥集』の序にて其角、嵐雪、素堂、鬼貫を四老と称す。中にも蕪村は其角を推したらんと覚ゆ、「其角は俳中の李青蓮と呼れたるもの也」といひ「読むたびにあかず覚ゆ、これ角がまされる所也」ともいへり。しかもその欠点を挙げて「その集も閲するに大かた解しがたき句のみにてよきと思ふ句はまれまれなり」といひ「百千の句のうちにてめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」と評せり。自己が唯一の俳人と崇めたる其角の句を評して佳什二十首に上らずといふ、見るべし蕪村の眼中に古人なきを。その五子と称し四老と称す、固より比較的の讃辞にして、芭蕉の俳句といへどもその一笑を博するに過ぎざりしならん。蕪村の眼高きこと此の如く、手腕またこれに副ふ。しかして後に俳壇の革命は成れり。
ある人咸陽宮の釘かくしなりとて持てるを蕪村は誹りて「なかなかに咸陽宮の釘隠しといはずばめでたきものなるを無念の事におぼゆ」といへり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村かつて大高源吾より伝はる高麗の茶碗といふをもらひたるを、それも咸陽宮の釘隠しの類なりとて人にやりし事あり。またある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木の板をもらひて、辛うじて白石の駅に持出でしが、長途の労れ堪ふべくもあらずと、旅舎に置きて帰りたりとぞ。これらの話を取りあつめて考ふれば、蕪村の人物は自から描き出されて目の前に見る心地す。
蕪村とは天王寺蕪の村といふ事ならん、和臭を帯びたる号なれども、字面はさすがに雅致ありて漢語として見られぬにはあらず。俳諧には蕪村または夜半亭の雅名を用うれど、画には寅、春星、長庚、三菓、宰鳥、碧雲洞、紫狐庵等種々の名異名ありきとぞ。彼の謝蕪村、謝寅、謝長庚、謝春星など言へる、門弟にも高几董、阮道立などある、この一事にても彼らが徂徠派の影響を受けしこと明なり。二字の苗字を一字に縮めたるは言ふまでもなく、その字面より見るも修辞派の臭味を帯びたり。
蕪村の絵画は余かつて見ず、故にこれを品評すること難しといへども、その意匠につきては多少これを聞くを得たり。(筆力等の技術はその書及び俳画を見て想像するに足る)蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしが如し。南宗を学びしはその雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の粗鬆なる筆法、狭隘なる規模が能く自己の美想を現すを得ざりしがためならん。彼は俳句に得たると同じ趣味を絵画に現したり、固より古人の粉本を摸し意匠を剽窃することを為さざりき。あるいは田舎の風光、山村の景色等自己の実見せし者(かつ古人の画題に入らざりし者)を捉へ来りて、支那的空想に耽りたる絵画界に一生面を開かんと企てたり。あるいは時間を写さんとし、あるいは一種の色彩を施さんとして苦心したり。(色彩に関する例を挙ぐれば春の木の芽の色を樹によつて染分けたるが如き、夜間燈火の映じたる樹を写したるが如き)絵画における彼の眼光は極めて高く、到底応挙、呉春等の及ぶ所に非ず。しかれども蕪村は成功する能はずして歿し、かへつて豎子をして名を成さしめたり。
蕪村の画を称する者多く俳画をいふ。俳画は蕪村の書きはじめし者にして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字の如き者のみ、終に画に非ず、画を知らざる者これを以て画となす、取らざるなり。蕪村の字支那の書風より出でてやや和習あり。縦横自在にして法度にかかはらず、しかも俗気なきこと俳画に同じ。
蕪村の文章流暢にして姿致あり。水の低きに就くが如く停滞する所なし。恨むらくは彼は一篇の文章だも純粋の美文として見るべき者を作らざりき。
蕪村の俳句は今に残りし者一千四百余首あり、千首の俳句を残したる俳人は四、五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。しかれども一生に十七字千句は文学者として珍とするに足らず。放翁は古体今体を混じて千以上の詩篇を作りしに非ずや。ただ驚くべきは蕪村の作が千句尽く佳句なることなり。想ふに蕪村は誤字違法などは顧ざりしも、俳句を練る上においては小心翼々として一字苟もせざりしが如し、古来文学者の為す所を見るに、多くは玉石混淆せり、為す所多ければ巧拙両ながらいよいよ多きを見る。『杜工部集』の如きこれなり。蕪村の規模は杜甫の如く大ならざりしも、とにかく千首の俳句尽く巧なるに至りては他に例を見ざる所なり。蕪村の天材は咳唾尽く珠を成したるか、蕪村は一種の潔癖ありて苟も心に満たざる句はこれを口にせざりしか、そもそも悪句は埋没して佳句のみ残りたるか。余は三者皆原因の一部を分有したりと思ふ。俳句における蕪村の技倆は俳句界を横絶せり、終に芭蕉、其角の及ぶ所に非ず。連句もまた蕪村は蕪村流を応用して面目を新にせり。しかれども蕪村は芭蕉が連句に力を用ゐしだけ熱心には力を爰に伸さざりき。
蕪村の俳諧を学びし者月居、月渓、召波、几圭、維駒等皆師の調を学びしかども、独りその堂に上りし者を几董とす。几董は師号を継ぎ三世夜半亭を称ふ。惜むべし、彼れ蕪村歿後数年ならずしてまた歿し、蕪村派の俳諧茲に全く絶ゆ。
明治廿九年草稿
明治卅二年訂正
(明治三十年四月十三日―十一月二十九日)
青空文庫より引用