初硯
一 家尊来青山人世に在せし頃よりいかなる故にや我家にては嘗て松のかざりせし事なし。雑煑餅乾鯷数ノ子なんぞ正月の仕度とてただ召使ふものゝ為にしつらへ置くのみにて家内の我等はただ形ばかり箸取るなりけり。大正改元の歳雪中に尽きて新春の第二日父失せ給ひければそれよりして我家にはいよよ新玉の春らしき春といふもの来らずなりぬ。
一 われ今世の交全く絶果てし身なり。門扉常に掩うて開く事甚稀なり。春めかぬ寂しき正月も久しきならはしとなれば更に怪しき心地もせず。年改りぬと知れば独り静に若水汲み来りてまづ先考遺愛の古硯を洗ひ香を焚き燭を点じてその詩を祭り、後おもむろに雑司ヶ谷の墓に詣づるのみ、無為無能の身の正月更に無為なるこそ哀れなれ。
一 墓に詣る折には必ず蝋梅両三枝を携へ行きて捧ぐ。蝋梅は蘇東坡好む処の花なりとか。先考深く東坡の詩を愛し後園に蝋梅両株を植ゑ、年年十二月十九日坡公の生日となれば、槐南石埭裳川先生を始め檀欒会の諸詩星を請じ赤き蝋燭つけて祝ひたまひき。今槐南先生既になし石埭先生また玉池の仙館を去つて遠く故山にかくれ給ひぬ。あゝ当年来青閣上の賓客恙なきもの幾人ぞや。
一 年々歳々人同じからざるに庭前の蝋梅冬至の節来れば幽香依然として馥郁たり。蕉枯れ楓葉枝を辞して庭上俄にあかるく、菊花山茶花共に憔悴して冬の庭は庭後庵が句に
石蕗八手ほかに花なし冬の庭
と吟じられたる寂しきおもむき示す頃ともなれば、蝋梅はそが枯痩の枝振り飽くまで支那めきたる枝頭に、蝋の如く黄き色したる花をつくるなり。われこの花に対する毎に不肖の身を省み不孝の罪を悔ゆる事浅からず。あゝ我が庭前の蝋梅、その花に精霊の宿る事あらば、希くば深くわが罪を咎むるなかれ。
一 丙辰の年は春秋かけて四時雨多かりければ果実甘からず秋草菊花共にその色妍ならざりき。殊に秋熱の甚しき近年にためしなく疫癘流行し彼岸過ぎて後なほ寐られぬ程の蒸暑き幾夜もありけり。されど何事も過ぎぬれば夢かな。冬至の頃より風なく暖き日のみ打ちつゞく程に恐しき疫病の噂も忽忘れ果て丙辰の年はいつにも増して穏に行きぬる如き心地せられぬ。
一 除夜百八の鐘声響き出づるを待ち、われ断腸亭の小さき床の間に過る年庭後庵が恵み給ひける
禾原忌や夜深く帰る雪の坂 庭後
の一軸。また先考の書斎来青閣の壁上にはその絶筆
園梅初放雪猶残 園梅 初めて放くも 雪 猶ほ残れり
樹下開尊欲酔難 樹下 尊を開いて 酔ひんと欲すれども難し
吹徹江頭風幾日 江頭を吹き徹る 風 幾日ぞ
可憐花与酒人寒 憐れむべし 花 酒人と与に寒きことを
の一幅を懸け香を焚きて後、銅瓶に蝋梅さゝんとて雨戸押開き雪洞つけて庭に出づれば、上弦の月低く屋角にあり。門外には往来の人の足音絶間なく破れし垣のかなたには隣家の燈火明く輝きて人の声すれど、わが庭のみ寂然として、樹木皆霧につゝまれ行年の夜も知らぬ顔に打息ひたり。雪洞片手に飛石づたひ松下の蝋梅に近けば甘くして口にも入れたき程なる花香脈々として面を撲つ。鋏の響丁々として夜半独閑庭に花を截るの思ひ、詩興自から胸に満ち来りて寧ろ堪へがたきに似たり。
一 思ひ出づ。我家に召使ふものあまたありける年の今宵には、仏手柑茘枝竜眼棗子なぞ支那産の果物あまた買ひとゞのへ支那の絵蝋燭も取り寄せて心ゆくばかり祭の仕度したりしを。今は何事も不自由勝なる独棲み。誰やらの句に寂しさや独り飯くふ秋の暮。寂寞何ぞただにこの事のみに止まらんや。
一 明人王次回が疑雨集にわが心を打ちたる詩数首あり。録して聊か憂を慰む。
歳暮客懐 歳暮の客懐
無父無妻百病身 父無く妻無し 百病の身
孤舟風雪阻銅墪 孤舟 風雪 銅墪を阻つ
残冬欲尽帰猶嬾 残冬 尽きんと欲して 帰ること猶ほ嬾し
料是無人望倚門 料るに是れ 人の望んで門に倚る無ければなり
強歓 強ひて歓ぶ
悲来填臆強為歓 悲しみ来たれば臆に填めて 強ひて歓びを為す
不覚花前有涙弾 覚えず 花の前に涙の弾くる有ることを
閲世已知寒暖変 世を閲して已に寒暖の変を知り
逢人真覚笑啼難 人に逢ひて真に笑啼の難を覚る
詩堪当哭狂何惜 詩は哭に当つるに堪へたり 狂 何ぞ惜しまん
酒果排愁病也𢬵 酒は果たして愁ひを排《はら》ふ 病ひも也《ま》た𢬵てん
無限傷心倚棠樹 無限の傷心 棠樹に倚り
東南枝下独盤桓 東南の枝の下 独り盤桓す
無聊 無聊
風情退減久無詩 風情 退減して 久しく詩無し
研匣書箋罥網絲 硯匣《けんこう》 書箋《しょせん》 網絲《もうし》罥かる
魘語夢魂聞婢喚 魘語 夢魂に 婢の喚ぶを聞き
悪愁懐抱恐児知 悪愁 懐抱して 児の知らんことを恐る
酒於痛飲非真適 酒は痛飲に於いて真に適へるに非ず
情向新歓未肯痴 情は新歓に向いて未だ肯へて痴ならず
惆悵旧遊擕手処 惆悵す 旧遊 手を擕へし処
木犀天気独来時 木犀の天気に独り来たる時
一 われ元より深く詩を知るものならず。ただ漫に読みて楽しむのみ。わが文壇西洋の芸術を喜ぶもの支那の詩と云へば清寂枯淡を衒ふにあらざれば強ひて豪壮磊落の気慨を示さんとするものゝみにして一も人間胸中の秘密弱点を語るものなしとなす。これ或は然らん。然れども一度王次回が疑雨集を繙かば全集四巻悉くこれ情痴、悔恨、追憶、憔悴、憂傷の文字ならざるはなし。その形式の端麗にして辞句の幽婉なる而してまたその感情の病的なる、往々ボオドレヱルの詩に対するの思あり。支那の詩集中われこの疑雨集の如くその内容の肉体的なるものあるを知らずボオドレヱルが悪之華集中に横溢せる倦怠衰弱の美感は直に移して疑雨集の特徴とするを得べし。
愁遣 愁遣
本為無聊借酒澆 本と無聊は酒を借りて澆ぐことを為せしに
酒辺情味更無聊 酒辺の情味 更に無聊
不知悵望縁何事 知らず 悵望 何事に縁る
但覚歓情日漸消 但だ覚ゆ 歓情の日びに漸く消ゆるを
不寝 寝ず
悪抱千端集夜深 悪抱 千端 夜の深きに集まる
同眠人已睡沈沈 同に眠る人 已に睡り沈沈たり
夢中驚問腮辺冷 夢中より驚き問ふ 腮の辺の冷ややかなるを
郤是愁人涙湿衾 郤つて是れ 愁人 涙 衾を湿せり
この類の詩篇挙げて数ふべからず。そが妻の病をいたはりその死に接し幾度か往時を追回し悲嘆やる方なき思を述べたるものに至つては惨憺の情凄艶の辞鬼気屡人に迫るものあり。
述婦病懐 録二首 婦の病ひの懐ひを述ぶ 二首を録す
消渇還愁骨亦消 消渇 還つて愁ふ 骨も亦た消えんかと
玩冰銜玉総無憀 冰を玩び玉を銜《ふく》むも総《すべ》て憀り無し
春来溌尽如泉涙 春来 泉の如き涙を溌ぎ尽くすも
病肺除非引涙澆 病肺 除非 涙の澆ぐを引くのみ
前路無涯愛有涯 前路 涯て無く 愛に涯て有り
一心趨向妙蓮華 一心 趨向す 妙蓮華
眼前眷属休悲恋 眼前の眷属 悲恋するを休めよ
九品同生也一家 九品同生 也た一家
悲遣十三章 録二首 悲遣十三章 二首を録す
悼亡非為愛縁牽 悼亡は愛縁に牽かるるが為に非ず
儼敬如賓近十年 儼敬 賓の如く 十年に近し
疏濶較多歓洽少 疏濶 較や多く 歓洽 少なし
倍添今日涙綿綿 倍す添ふ 今日 涙 綿綿たるを
酔時感慨醒来悶 酔時の感慨 醒め来たつての悶へ
貧用奔波病郤眠 貧用 奔波のごとく 病に郤つて眠る
白日無聊更無暇 白日 無聊 更に暇無し
黄昏独到繐帷前 黄昏 独り繐帷の前に到る
悼亡の情何ぞこれより切なるものあらんや。感慨流露いさゝか偽る処あるを見ず。
一 今年丁巳の元旦風なく暖かなりしかど夜来の寒雨暁より雪となりぬ。二日蝋梅数朶を携へ雪を踏んで雑司ヶ谷の墓地に至る。途上音羽護国寺門前の景色絵の如し。雪午下に及んで止みしかど、それより寒威遽に加り硯の水初めて凍る。空斎孤衾寒いよよ堪へがたきものあり。たまま窓を開いて庭上を窺へば皎月枯木を照して影残雪の上に婆娑たり。宿痾酒を用ゆべくもあらず。独り纔に茶を煑て疑雨集中の寒詞を誦じて曰く、
娟娟霜月上梅枝 娟娟たる霜月 梅枝に上る
正是明醪熱酒時 正に是れ明醪 酒を熱する時
為有辟寒香玉在 辟寒の香玉の在る有るが為め
不能茗艼過三巵 茗艼して三巵を過ぐる能はず
(丁巳新春稿)
青空文庫より引用