わか紫
みつぎもの 裏関所 丁か半か 室咲 日金颪 神妙候
御曹子 黒影白気 梅柳
みつぎもの
一
伊豆のヒガネ山は日金と書いて、三島峠、弦巻山、十国峠と峰を重ね、翠の雲は深からねど、冬は満山の枯尾花、虚空に立ったる猪見るよう、蓑毛を乱して聳えたり。
読本ならば氷鉄といおう、その頂から伊豆の海へ、小砂利交りに牙を飛ばして、肌を裂く北風を、日金颪と恐をなして、熱海の名物に数えらるる。
冬季にはこの名物、三日措き五日措きに、殺然として襲い来るが、二日続くことはほとんどない。翌日は例のごとく、嘘のように暖く、公園の梅はほんのりと薫って、魚見岬には麗かな人集合。熱海の土地は気候が長閑で、寒の中も、水がぬるみ、池には金魚がひらひらと、弥生の吉野、小春日の初瀬を写す俤がある。
さてこの物語の起った年は、師走から春の七草かけて、一たびも日金が颪さず、十四五年にも覚えぬという温暖さ、年の内に七分咲で、名所の梅は花盛り、紅梅もちらほら交って、何屋、何楼、娘ある温泉宿の蔵には、雛が吉野紙の被を透かして、あの、ぱっちりした目で、密と覗いても見そうな陽気。
時ならぬ温気のためか、それか、あらぬか、その頃熱海一町、三人寄れば、風説をする、不思議な出来事というのがあった。仔細はない、崖の総六が背戸の、日当の良い畑地に、二月の瓜よりもなお珍とすべき、茄子の実が生りました。
総六は、崖の、と呼ぶ、熱海の街を突切って、磧のような石原から浪打際へ出ようとする、傍の蠣殻屋根、崖の上の一軒家の、年老いた漁師であるが、真鶴崎へ鰹の寄るのも、老眼で見えなくなったと、もう鈎の棹は持って出ず、昼は人仕事の網の繕、合間には客を乗せて、錦の浦遊覧の船を漕ぐのが活計。
仇しあだ浪いとまなみ、がらがらと石を捲いて、空ざまに駈け上る、崖の小家の正面に、胡坐を総六とも名づけつびょう、造りつけた親仁のように、どっかりと臀を据え、山から射す日に日向ぼっこ、海に向うて朝から晩、暮れると、浪枕、やあ、ころりとせ。
沖から遠眼鏡で望んだら、瞬する間も静まらず、海洋の蒼き口に、白泡の歯を鳴らして、刻々島根を喰削らんず、怖しき浪の頭を圧えて、巌窟の中に鎮座まします、世に頼母しき一体の羅漢の姿に見えるであろう。
総六親仁は、最初、この茄子の種を齎らして、背戸へこぼして行ったのは、烏に肖て翼違い、雉子のようでやや小さく、山鳥かと思うと嘴の白い、名を知らぬ、一羽の鳥であったという。
かつその鳥は、小春日の朝、空が曇って、大島が判然と墨で描いたように見えた時、江浦、吉浜の空を伸して、遠く小田原の城の森から、雲の上を飛んで来て、ふうわり、足許へ来て留った、そこから苗が出来たというのであるが、鳥はこの親仁が、名を知らぬものだったかも計られぬ。
小田原よりか、函嶺からか、それとも三島、日金の方か、たとい家は崖の上でも、十里は見通し得る筈がない。惟うに、親仁の産神は彼処であるから、かく珍らしい、伊豆紫の若茄子に、烏帽子を着せ、狩衣召させて、一粒種のお鶴という、娘の婿にでもする気であろう。
暮に取立ての初穂を、まず新しい苞入にして、切火を打って、ここから七里ある、小田原なる城の鎮守、親仁が産神に、謹上。
二
師走の末の早朝、藍の雲、浅葱の浪、緑の巌に霜白き、伊豆の山路の岨づたい、その苞入の初茄子を、やがて霞の靉靆きそうな乳の辺にしっかと守護して、小田原まで使をしたのは、お鶴といって、十六の、明くれば七になる娘。
お鶴は総六の小屋に生れて、そこでこの年まで育ったので、あたかも浪の打附って様々に砕くるのが、旭に輝き、夕陽に燃え、月にあらわれ、時雨にかくるる、牡丹の花に、雌雄の獅子の狂う状を自然に彫刻んで飾ったような、巌を自然の石垣は、二階屋に住むものの馴れた階子段に異ならず。
鞠がはずんで潮に取られ、羽根が外れて海に落つれば、切立のその崖を、するすると何の苦もなく、蟹を捕え、貝を拾い、斜に飛び、横に伝い、飜然と反る身の軽さ。小児同士が喧嘩して及ばぬ敵の迫る時も、腕白な悪戯を薪雑木で追わるる時も、石垣が逃げ場所で、ぴたりとひそんで縋るとそのまま、衣服の裳のそよそよと、潮に近き唐撫子、手に取る術はなかったそうな。
泳ぎはもとより、木も攀ずれば、峰も谷も駈け歩行く。
中にも大島を遥かに望んで、真鶴の浜に対向う、熱海の海の岸一帯、火山が砕けた巌を飛び飛び、魚見岬に行く間、小石にも白波や、貝殻にも潮の花。さらさらと、さらさらと、ちらちらと乱れる上を、真珠に似たる爪尖で、お鶴は七八ツの時分から、行ったり来たり我が庭同様。
しかも人となるに従うて、天の成せる麗質あり。
手も足も庇わずに、島の入日に焼かれながら、日金颪を浴びながら、緑の黒髪、煙れる生際、色白く肥えふとりて、小造りなるが愛らしく、その罪のなさ仇気なさも、蝴蝶の遊ぶに異ならねど、浪打際に岩飛ぶ風情を、土地の者は渾名して、千鳥々々というのであった。
娘ならば、竜宮のもうし児であると称えても、茄子の種子を云々《うんぬん》より、恐らく聞くものは疑うまい。その色の白いばかりも、この辺に類はないから、人々は総六が自讃する、怪しき鳥の挙動にはさもなくて、湯河原の雲を攀じ、吉浜の朝霽や、真鶴の霜毛に駕して、名だたる函嶺の裏関越え、小田原の神に使した、美しき使者をこそ、皆口々に讃め称えつれ。
さて、お鶴がその日の扮装には、頬に浪打つ黒髪を、頸に結んで肩にかけ、手織縞の筒袖は曠着も持たねば、不断のなり、襦袢の襟と帯だけは、桔梗の花、女郎花、黄菊白菊の派手模様。これは湯宿の込合う折は、いつでも手伝いに行く習。給仕に出た座敷の客の心づけたものであろう、その上に、白金巾の西洋前垂。
この前垂は、去ぬる頃、旅籠屋の主人たち、三四人が共同で、熱海神社の鳥居前へ、ビイヤホオルを営んだ時、近所から狩催した、容眉好き女の中に交って、卓子の周囲を立働いた名残であるのを、白きはものの潔く、清らかに見ゆればとて、親仁が指図で礼服なり。
芳紀正に二八ながら、男女も雌雄の浪、権兵衛も七蔵も、頼朝も為朝も、立烏帽子というものも、そこらの巌の名と覚えて、崖に生えぬきの色気なし、形にも態にも構わばこそ。
裏関所
三
父爺の総六が吩咐けのまま、手織縞の筒袖に、その雪のような西洋前垂、背へ十字に綾取って、小さく結んだ菊模様の友染唐縮緬の帯お太鼓に、腰へ捌いた緑の下げ髪、裳短こうふッくりと、白きは脚絆の色ならず、素足に草履穿占めた、爪尖の薄紅。石高路を物ともせず、独り早朝の霜を踏む。
山懐のところどころ、一帯に産出する蜜柑の林に射入る旭に、金色の露暖かなれど、岩の衝と突出でた海の上に臨んでは、路の下を掻い潜って、崖の尾花を越す浪に、有明月の影の砕くる、冬の朝まだ七時というのに、早や吉浜を過ぎ、真鶴を越して、江の浦さして行く途中。
灰色の網の中空から斜めに颯と張ったよう、中だるみに四方濶と、峰の開けた処がある。中に一条、つるくさ交りの茅萱高く、生命を搦むと芭蕉の句の桟橋というものめきて、奈落へ落るかと谷底へ、すぐに前面の峠の松へ、蔦蔓で釣ったように攀ずる故道の、細々と通じているのが、函嶺の裏関所の旧跡である。
娘はここへ来るまでに、ただその一台を見た、熱海通いの人車鉄道、また人力車など通うにも、上の新道を行くのであって、この旧道を突切れば、萩の株に狼の屎こそ見ゆれ、ものの一里半ばかり近いという、十年の昔といわず、七八年以前までは駕籠で辿った路であろう。
もとより恐るる処にあらず。
娘はかねて聞いて来た、近道をするつもりの、峰の松を目的に、此方の道の分れ口、一むら薄立枯れて、荒野の草の埋れ井に、朦朧として彳むごとき、双の影ありと見えたるにも、猶予わず衝と寄った。
「ほうい、兎かと思った。吃驚すら。」
「何だ、人間か。」
濁声斉しく、じろりお鶴に眼を注いだ、霧はなけれど、ぼやけた奴等。そのむら尾花の蔭に二台、空腕車を曳きつけて、踞んで、畜生道の狛犬見るよう、仕切った形、睨み合って身構えた、両人とも背のずんぐり高い、およそ恰好五十ばかりで骨組の逞ましい、巌丈づくりの、彼これ車夫。
お鶴も思いがけなかったか、ぴたりと草履を霜に留めて、透かして差覗くようにした。尾花は自然の傍示杭、アノ山越えて来イやんせ、この谷辿って行かしゃんせ、と二筋道へ枯残る。車夫は新道の葉かげから、故道の穂ずれに立った、お鶴の姿をきょろきょろと、ためつ、すがめつ。
「よう、合の子だな」
「目が黒い、髪も黒いぞ。」
「フム。」
「神巫のような娘ッ児だ。」
一人、膝頭と向う脛、露出した間に堆い、蜜柑の皮やら実まじりに、股倉へ押込みながら、苦い顔色。
「あの児、あの児、姉え。」
と呼びかけられ、ぱッちりとした目を※ 《みは》って、豊な頬を傾けたが、くっきりとした眉のあたり、心懸りのない風情。
他の一人がこれをうかがい、
「へへ、べらぼうめ、慌てやがって、蜜柑を咎めに来たのじゃねえや。」
さては盗んだものそうな。
「なあ、姉え、此方にも一ツ遣ろうか、はは、正直に黙っていら。」
「あの児、こっちへ来や、ちょっと来ねえ、好い相談があるが、どうだ。」
四
「何だ何だ、蜜柑を遣る。かう死んだ小児でも思い出したか、詰らねえ後生気を起しやがるな、打棄っておけというに、やい。」
「うんにゃ、後生気どころじゃねえ、ここ一番という娑婆ッ気だ、伝九。」
とすくすくと鬚の生えた、山猫のような口を突出し、対手の耳に囁くと、伝九と呼ばれた一人は、歪めて聞いていた面に、もっての外な、ニヤリと笑む。
「な。」
「そうか、うう、そうか、面白かんべい、へへへへへへ、おい、姉え。」
「待ちねえ待ちねえ、待ちねえよ。」
薄の霜に入残る、有明月の消え行く状、覗いている顔が彼方へ、茅萱の骨に隠れんとした、お鶴は続けさまに呼び留められ、あえて危む様子もなく、
「あい、私。」
「お前だお前だ、お前に限ることだ、なあ、雲平おじい。」
「まあ、姉え、ちょっと来ねえよ。」
雲平なるもの、板昆布のような袖口から、真黒な手を出して、図太く浚え込む形で手招く。
「何さ。」
と声も気も軽う、衝と身を反して歩を向けた。胸に当てたる白布には折目正しき角はあれど、さばいた髪のすらすらと、霜枯すすきの葉よりも柔順。
「よう、妙な扮装だぜ。」と雲おじい、更めてつくづく視める。
「だから神巫見たようだというのよ。」
「己らまた、柱暦の絵に描いた、倭武尊様かと思った奴さ。」
悠々として、掻いはだけた、膝の皿に牛蒡の肱で、憎躰な頬杖なり。
雲おじい、蒼痣かと、刺青の透いて見える、毛だらけの脇腹を、蜜柑の汁の黄みついた五本の指で無意味に掻き、
「時に姉え、お前、どこだ。」
「熱海なの。」
「は、御花主場だ、あんまり見かけねえ。」
「車夫さんは小田原?」
と、めりはりが判然して、人見知りはせず、愛々しい。
伝九頷き、
「図星々々。」
「その図星だ、一番きゅうと極めてえもんだ。」
「まず、じらす内が楽みよ。」と蜜柑の皮を掴んでは、ほたほたと地板へ打附ける。
お鶴は何の気もつかず、
「私は海岸なの、おじさんたちは、お客様を送っちゃ町の旅籠の方へばかり行くんでしょう、だから知らないんだわ。」
雲おじい頷いて、
「成程、可わえ、それじゃ水心ありの方だの、こう、姉え、そしてお前どこへ行く。」
「小田原。」
「何が小田原、」
「相談は極ってら。」
目を見合わせて北叟笑みした、伝九、更めて、面を捻向け、
「ええ、姉え、ちくとんべい、お前にの。」
「己達が頼みてえ事があるんだ。」
「素直に肯かねえじゃ不可えぞ。」
お鶴は涼い目を下ぶせに、真中にすらりと立って、牛頭馬頭のような御前立を、心置なく瞰下しながら、仇気なく打傾いて、
「頼みッて?」
「おう、姉え、お前の胸にあるものだ。」
「ここへ打ちまけて見せてくんろ。」
といって伝九郎上目づかい、
「こう姉え、知ってるか、ちょうどお関所にかかるこの道の岐れる処は、ここン処だ。つい今年の三月、熱海へ奉公に出ておった、お前ぐれえな新造がの、親里の吉浜へ、雛の節句に帰るッて、晩方通りかかっての、絞殺された処だぜ、なあ、おじい。」
「そうよ、恐ねえ処よの、何でもいうことを肯かねえじゃあ。」
丁か半か
五
「へいへいへい、何旦那ちょいとその、洒落に遣りましたばかりなんで、へい、大した天下を望むような謀叛を起したではござりやせん。」
雲おじいは眩ゆそうな顔をして、皿の兀げた天窓を掻く。
「全くもちまして、娘ッ児をどうのこうの、私等ア御覧なさりやすとおり、いい年紀でござりやす。」
伝九郎は揉手でびたびたお辞儀する。
二人の車夫を屹と見ながら、お鶴を庇うて立ったのは、洋装した一個中脊の旅客であった。
濃い藍の鳥打帽、厚い毛皮の外套を、襟を立てて、顔の半ばから膝の下。鼠のずぼんの裾が見え、樺色の靴を穿き、同一色の皮手袋、洋杖を軽くつき、両個の狼を前にしつつ、自若たるその風采、あたかも曲馬師の猛獣に対するごとく綽々《しゃくしゃく》として余裕あり。
時に真鶴の山中は、当世風の扮装した一のこの旅客を得て、はじめて湯治場へ行く道の、熱海街道となったのである。はじめ、その山、その岩、その霜、蜜柑畑も枯薄も、娘の姿も車夫の状も、浮世に遠き趣ならずや。
「洒落にしろ宜くないな、黙っちゃ通られん洒落じゃないか、乱暴な事をする、可哀相に。」
といいかけて、半ば隠れて顔は見えぬが、在原業平の目かずらかた俤で、あとなる娘を顧みた。
薄日は射したがまだ融けぬ、道芝に腰を落して、お鶴はくの字形に手を小石。親まさりの爪尖尋常に白脛を搦んだまま衝と横に投出した、肩肱の処々《ところどころ》、黒土に汚れたるに、車夫等が乱暴のあとが見えて、鈴かと見える目は清しく、胸のあたりに張はあるが、落胆り疲れた様子である。けれども、さして心を傷めた趣のあるにもあらず、茅花々々土筆、摘草に草臥れて、日南に憩っているものと、大なる違はない。
自分が手籠めになろうとしたのを、折よく来かかって扶けてくれた、旅客に顔を見られたが、直ぐにとこうの口も利かず、鬼に捉られた使の白鳩、さすがに翼を悩めたらしゅう、肩のあたり、胸のあたり、黒髪も打揺らぐは、朝風のさそうにあらず、はずんで呼吸をつくのであった。
「此奴等、ほんとうに悪い洒落だ。」
また呟くがごとくいう。
伝九郎苦り切った面を上げ、
「でもその全く、へい、洒落に違いはござりやせんので、なあ、おじい。」
「此奴が申し上げる通りでござりやす。」
しり込みするのを右瞻左瞻、
「むむ、まあしかしお前方、素直にそうやって、折れてくれて、お互に幸だ。
朝とはいっても全然、こうやって、前後に人通りのない山路だ、風体の悪い……おい、悪く聞くな。」
「へへへへへ、どういたしやして。」
と雲おじい、膝に手を置いて突出した、臀へ頸を捻じ向けて、己が風体をじろりじろり。
「大の男が二人懸りで、この娘さんを押伏せようとしているのを見ちゃ、旅空の烏だって、黙って見ては通られないから、私も夢中で飛込んだが。
しかしだ、朝ッぱら口あけ仕事の邪魔をする、畳んでしまえ、とか何とかいって、むきになってかかられてみたが可い。
別にまた武者修行でも来れば可し、さもなけりゃ私だって、お前たちにゃ一人にも敵やしない。一堪りもなく谷底へ投られるんだ、なあ、おい、そんなもんじゃないか。」
今度は伝九郎が、
「どういたしやして、へへへへへ。」
六
「処を、清く、恐入ってくれたというもんだから、双方無事で、私も大に技倆を上げたが、いってみりゃ、こりゃ、お前方のお庇だよ。」
上衣の肩の動くまで快げに打笑い、
「就てはお前達が、洒落だという、その洒落が、ちとどうにか、ものになる相談をしようと思うが、一体何の洒落かね、こう見た処、どうもまんざら、この娘さんを手籠めにしようとしたようでもないな。」
いわれて雲平、
「旦那、綺麗な姉さんにゃ姉さんでござりやすが、から孫みたようなものを捉えて、色気で、どうこうというわけじゃなかったんで。へい、実は、少々御法度の、へい、手慰みを遣らかしておりましたんで。」
伝九郎もようよう窮屈そうな腰を伸した。
「ほんの出来心なんでござりやすよ、この節は、人車鉄道が敷けましたに就いて、こちとら、からッきし仕事といってござりやせん。
ところが昨日珍らしく、箱根から熱海へ廻ろうという二人、江戸の客人がござりやして、このおじいと棒組で、こうやって二台曳いて参りやした。
小田原を昨日八ツ時分に出ましたんで、熱海へ着いて、対孝館へ送り込みましたが、昨夜、もう十二時頃。
五両と三両纏った、穀の代を頂いたんで、ここで泊込みの、湯上りで五合極めた日にゃ、懐中も腕車も空にして、土地へ帰らなけりゃならねえぞ。どうせ戻り腕車はねえんだで、悪くすると、お客をのせて山越を、えッちら、おッちら、こちとらが分際で、一晩湯治のような寸法になりそうだ。一番このまんまで引返せと、へい、おじいも気が合って、そこで、もし。
一膳めし屋で腹を拵えて、夜通し、旦那、がらがら石ころの上を二台、曳摺って、夜一夜山越しに遣って来やしてね。明け方ちょうどここン処まで参りやすと、それ、旦那。」
と谷の方を瞰下した、雲おじいも斉しく其方を。
旅客はかえって、娘をちょいと見たのである。
「お関所でござりやしょう、里心というんじゃねえんだが、妙てこに昔懐しくなりやしてね。」
「へい、私等、こう見えて、へへ、何も見得なことはござりやせんが、これで昔の雲助でござりやす。息杖で背後へ反っくり返るのと、楫棒を握って前のめりに屈むんじゃ、から、見た処から役割が違いやさ。
ああ、ああ、ここいら、一面に、己達の巣だったい。東海道は五十三次、この雲助が居ねえじゃ、絵にも双六にもなるんじゃねえ。いざ、道中となった日にゃ、お大名でも、飛脚でも、品川から忘れねえのは、富士の山と、お関所と、大井川と雲助かい。
女づれの遊山旅に、桔梗一本折ればといって、駕籠を舁いだおじさんに渡りをつけねえじゃならなかったに、名物の外郎は、偶にゃ覚えた人があろか、清見寺の欄干から、韮山の虹を見たって、雲助を思い出す後生願は一人もねえ。
ものの三十年と経たねえ内に、変れば変る世の中だ。どうだ伝九、この、お関所あとを見るにつけ、ぼけた金時じゃあるめえし、箱根山を背後に背負って、伊豆の海へ巌端から、ひょぐるばかりが能じゃあるめえ。ちょうど尾花の背景もある、牛頭馬頭で眼張りながら、昔の式を遣ってみべいと、」
「おじいが言うのは私の図星。そこで旦那、共喰の手慰み、鉄拐博奕を切ッつけやした。なんこから狐になって、はたいた方が愚に返って、とうとうね、蜜柑の種を勘定しながら、地体お星様は丁か半か、とあけ方の天井へ、一服吹かしております処へ、ひょッくり、その姉さんが来たんでね。」
七
おじい傍から引取って、
「ええ、旦那、つい串戯に、一番驚かしてくれようと、おう、姉や、とそれ、雲助声を出しやしたが、棲折笠に竹の杖、小袖の上へ浴衣を着て、緋の褌にもつれながら、花道を出るのと違って、方なし、おどかしが利きやせん。
権現様の出開帳に、お寺の門によたれている、躄ほどにも思わねえか、平気で、私かいッて傍へ来るだ。」
「雲助の御威光、こうまでに衰えたか、とあんまり強腹だから、ちと凄味に、厭だと吐かしや、と押被せて、それから、もし、あの胸にかけていやす、その新しい苞の中をね、開けて見せろッて申しやした。」
守護のように、ちゃんと斜めにかけているのを、旅客はまたこの時顧たのである。
と同時に、お鶴も俯向いて熟と視めた。
「旦那、これがその申上げた洒落というんで、実は、おじいの思いつきでござりやしてね。」
「へい、」
「苞からポンと出た処勝負、ものは何でも構わねえ、身ぐるみ賭けると、おじいが丁で、私が半。」
「姉や、こう開けてくんねえ、というと旦那、てんづけ頭をふるんでさ。べらぼうめ、どこだと思う、場所が場所だに己達だ。
汝、その、胸を開けて、出来立ての乳首を見せろ、という難題だって、往生しねえじゃならねえわ。苞に入れたは何だか知らねえ、血で書いた起請だって、さらけ出さずに済むものか、と立身上りで、じりじり寄って行きますとね。」
「旦那、魅込まれたようにあとびっしゃりをしながら、厭だ、神さまへお初にお目にかけるもんだから、途中で開けることはならないッて申しやす。
親にも見せねえ膚だって了簡をするもんか、一体そン中ア何だッて聞きやすとね。
茄子よ、と吐かすだろうじゃござりやせんか。
人をつけ、いかに陽気が陽気だって師走空に茄子があろうか、小馬鹿にしやがる。」
「むっとしやした。そこで旦那が、御覧じやした通りの体裁、や、抜けつ潜りつ、こや の軽いのにゃ飽倦ッちゃって、二人とも大汗になって、トド打掴え、掛けたのを外しにかかると、俯向けに倒れながら、まだ抵抗う気だ。二人が手とその娘の手先と、胸で指相撲のような騒ぎの処へ、旦那が割込んで来なすったんでね。」
「なあ、おじい。」
「そうよ。」
といって頷いたが、
「大したゆきさつじゃございやせんがね、根がそれ、昔の懐しさに、雲助の式をやッつけた処でござりやすで、いきなり、曲者とか、何とかいって、旦那がギックリとおいでなさりゃ。
もうかれこれ三十年以来というもの、もがりも、ねだりも、勾引も、引落も何にもしねえ。戸籍検べのおまわり様にゃ、這出してお辞儀をして、名前の傍に生年月、日までを書いてある親仁だけれど、この山路に対したって、黙っちゃ引込まれねえんだ。」
「函根の大地獄が火を噴いて、蘆の湖が並木にでもなるようなことがあったら、もう一度、焚火で秋刀魚の乾物を焚いて、往来へ張った網に、一升徳利をぶら下げようと思わねえこともねえんでね。」
「たかが、今時のお前さん。」
「医者だか、学者だか知らねえけれど、畳むに仔細はねえんだが。
(野暮はよせ、金子にせい。)」
「(金子だ、金子だ。)ッてのッけから、器用に拵いておくんなすったで、こりゃ、もし。」
からりと笑って、
「私等の氏神様だ。」
「へへへへ、南無大明神でいらっしゃる。そこで、ひょこひょこ、それかように、」
トひょいと頭を下げた、小田原無宿の太々《ふてぶて》しさ、昔の状こそしのばるれ。あら、面白の街道や。
室咲
八
「危いこと! 姉さん、もうちっとで、賭博の賽ころになろうとした。」
旅客は娘に引添うて、横から胸を抱くように、美い手袋で、白い前掛を払いながら、親身の妹に語るごとく、
「ほんとうに、危いじゃないか。あんな無法な奴等だから、それこそ、谷底へでも投り出されてみたが可い、丁も半もあったものか。姉さんのこの星のような綺麗な目が、飛出してしまうだろう。
身体が大事だ、どんな家だって、財だって、自分にかえられるものはない、分ったか。」
「はい。」
といったが小さな声、男の腕に肩をもたせて伏目に胸に差俯向く、お鶴はこの時立っていた。
日の光は、あからさまに根の見ゆる、草の中へ淡くさして、枯れてしげれるむら薄は、燈火の影ぞと見ゆる、薄くれないに包まれたが、二人が立って背にした、山の腹は、暖かく照らされて、そこに実った黄金の枝は、露に蜜柑の薫を籠めて、馥郁として滴る気勢。
朝晴の蒼き大空は、軽いが頭に近いよう、彼方にごろごろと音がして、黒きかたまりの緩やかに畝り畝り、遠ざかり行く、車、雲助、その行くあたりちらちらと、白い雲の動いて見ゆるは、狭間に漏るる青海原、沖に静な鴎の波。
「さ、もう可い、もう可い。」
旅客は腕車を見送りながら、お鶴の塵を払ったあとを、背一つ撫でて離れ、
「怪我はせんか、どこも痛みはしないかな。」
「はい。」
とやや判然答えて、お鶴はむッくりした清らかな肱を、頬に押当てる姿して、倒れた時の土を見た。
その時まで、雲助どもの乱暴を、打腹立って拗ねたる状、この救い人に対してさえ、我ままに甘えて曲るか、捗々《はかばか》しく口も利かずにいたのであった。
肱を曲げたまま、瞳をくるりと、花やかに旅客を見向き、
「どこも何ともないのよ。」
「その手は。」
外套の襟の上に、凜々《りり》しい眉を顰めていった。
「いいえ、痛みはしませんの。私、だって、私、突倒されたんですもの、口惜いわ。」
急に唇を屹と結び、笑くぼを刻みながら涙を堪えて、キリリと鳴す皓歯の音。
旅客は洋杖を持った手を拡げて、案外、と瞻ったが、露に濡れたら清めてやろう、と心で支度をする体に、片手を衣兜に、手巾を。
やがて、曇は晴れたのである。
涙の名残は瞳の艶、莞爾と打微笑み、
「二人とも強いんですもの、乱暴ッちゃありゃしない。」
「いや、お前の方が乱暴だ。道理こそ、人殺とも、盗人とも、助けてくれとも泣かないで、争っていたっけが、お前、それじゃ、取組み合う気で懸ったのか。」
「はあ、喧嘩したんです。私、喰いついてやったり、引掻いたり、一生懸命だったんです。でも負けたわ。」
と勇ましくいいかけたが、フトそのお転婆を極りの悪そう、お鶴が面はゆげに見えたのは、案内記には記さぬ不思議。
わざとたしなめる口ぶりで、
「当前だな、途方もない。」
「でも、そうしないと、無理に、あの、その苞を。」
その苞は、ここにこの娘の胸に、天女が掛けた羯鼓に似ていた。
「捕られて、中を見られるんですもの、あんな奴に見せるのは厭。」
「だから、だから今そういって聞かしたではないか。
どんな大事のものだって、身体と取っかえこにしてなるものかな。
このさきもある事だよ。」
九
「はい。」
とばかり不承不承、返事も恩人なればこそ、承けひく気色はちっともない。
旅客は再び、差寄って、
「よ、ほんとうに気を着けなよ。
今の車夫もそういったが、お前何か、それを持って小田原まで行くんだというではないか。
気にかけないものだというと、瞽女が背負った三味線箱、たといお前が藁づつみの短刀を、引抱えて歩行いた処で、誰も目をつけはしないもんだが。
そうやって、人に見せまい、必ず手をつけさすまい、と秘しているだけ、途中何となく気が寄って、まあ、魔がさすとでもいうものか、思いがけない邪魔が入る。
またこの前、どんな事で、誰が見ようとしないとも限らない、――その時だ。
今のように、身体で庇って、とんだ怪我でもしちゃ不可ん、気をつけるんだよ、きつと 、可か、分ったかね。」
熱心に教えながら、お鶴の姿を左から、右へぐるりと一廻。
その歩行く方へ瞳を動かし、ぱちり音するかと二ツ三ツ瞬いて聞いていた。
「じゃ、あの、見せろッていいましたら、出しても可くって? 貴下。」
「可かろうとも。」
「神様に見せない前に。」
と口早に附け加えた。
「神様に。」
「ええ。」
その顔を上げた時、はらりと顔にこぼれかかる、髪の 毛を、指に反らして払い、
「孔雀みたいな、あの、翡翠みたいな、綺麗な鳥が来て、種をこぼして行きました。
小田原の神様が、おとっさんに、拵えろッていったんですって。
ですから、あの、これは神様のものなんでしょう。」
見詰めつついう気構に、逆わず打頷き、
「そうか、神様のものか。むむ、そして、苞の中は茄子だといったが、まったくかい。」
「は、お初穂を上げに行くんです。あの、これが小さな、紫色の苗になりましてから、白髪のおとっさんが、あのね。
死んだおっかさんが着ていました、桃色の切だの、浅葱の切だの、いろいろ継合わしたちゃんちゃんこを着ちゃ、背戸へ出て、十国峠へ日が昇るの、大島へ月が入るの、幾度見たか知れないの、丹精して出来たんですもの。
おかしくッてねえ。だって鳥の羽みたいな五色のを被て、おとっさんは、種を持って来た神使鳥のようじゃなくッて。
それから今度、おつかいに持って行く、私だって……何なのよ。
過日ッからお精進をしたんです。今朝は、髪を洗って、あけ方お湯を貰ったんです。
すっかり身体を清めて来ました。」
さらぬだにこの風采を、まして、世に、かくまで清き媛やある。
旅客は恍惚、引入れらるる状であった。
「それを、それを、あの、だって、大事にして見るんなら、まだ何ですけれども、賭博の目に、よもうッていうんですもの。
私、殺されても見せないんだわ。」
しばらくして面正しゅう。
「もっともだ、至極その筈だ、成程。
昨日通りがかりに、小田原の鎮守の社へ、参詣をして来たが、御城の石垣の白いのが、鶴の巣籠のように見える。森として、神寂びた森の中の、小さな鳥居に階子をかけて、がさり、かさこそと春の支度だろう。輪飾を掛けていたっけ。
神主のその顔が、大な猿のように見えて、水干烏帽子を着ていたのが、何となく神々《こうごう》しかった。
誠は神に通ずとやらいうから、大方神様の方でも、姉さん、お前の行くのを待っておいでなさるんだろう。けれどもだ。」
日はまたかげって尾花白く、薄雲空に靉靆く見ゆる。
十
「小田原の神に、霊がおあんなさればなおの事、捧げられる供物、お初穂が、その品物のために、若い娘の身に、過失のあることをお望みはなさりはせん。
な。」
と再び肩に手を。
「こんな可愛い姉さんにするまでに、第一お前のお父さんの、丹精を思って御覧……幾歳だ。」
「六。」と低声である。
「六? 十六か、それまでにゃ、それこそ、その十国峠に日の出るの、大島に月の沈むのを、幾たび見たか知れやしない。
佳い児だ、いうことを肯いて、身体を大事にしなけりゃ不可よ。まったくだ、はるばる使に来てくれる姉さんを、小田原のお宮でも、どんなに御心配だか知れやしない。」
背掻い撫でて、もの優しく、
「分ったか。」
「はい。」
旅客は勇んで口軽に、
「佳い娘、佳い娘。」
「じゃ貴下。」
「むむ。」
「もしか、あの、今度のような事がありましたら、出して見せても可くってね。」
「可いともさ。」
「なに、それでは貴下のおっしゃることは、神様の心とおんなじなの。」
「同一だとも!」
お鶴は何かいそいそして、
「だから私が酷いことされようとした時に、助けに来て下すったんだよ。神様ねえ、神様ですねえ、貴下は。」
と、つかつかと擦り寄ると、思わずたじろいで退ったが、
「ああ、神様だ。」
いった声に力がこもって、ついた杖の尖が幽にふるえた。娘のための方便ながら、勿体なくや思いけむ。と見ると瞼に色を染めて、慌しげにいい直した。
「お前にだけは神様です。」
「ではね、途中でまた誰かに捉まるとね、今度は私、素直に見せてやりましょう。
それでもね、あの、お宮様へ行かない前に、他所の人に見せるのは口惜しいんですから、私、貴下にお目にかけるわ。」
とて、直ぐに手を、胸なる苞の両端へ。
「お待ち、待て待て。」
急におさえたが、黙って、しばらくして、目の色が定まった。
「見せてくれるか、じゃ、見よう。熱海の公園は咲いたろう、小田原でも莟を見た、この陽気。年内からもう春だ、夢に見てさえ可いというもの、どれ。」
手巾を引出して、根笹は浅く霜をのせたが、胸に抱いたら暖かそうに、またふッくりと日の当る、路傍の石一個、滑らかな面を払うて、そのまま、はらりと、此方へとて。
浅葱の紐は白い頸から、ふさふさとある髪を潜って、苞は両手に外された。既にその白魚の指のかかった時、雪なす衣の胸を通して、曇りなき娘の乳のあたりに、早や描かれて見えるよう。
「可愛らしくッて、綺麗ですよ。」
薄紫の花一輪、紅の珊瑚に、深みどりの、海の色添う小さな枝、実は二ツついたりけり。
旅客も杖をたてかけて、さしむかいに背を屈め、石を掻抱くようにして、手をついて実を視めたが、眦を返して近々と我を迎うる皓歯を見た。あわれ、茄子、二ツ、その前歯に、鉄漿を含ませたらばとばかり、たとえん方なく※ 長けて、初々しく且つ媚しい、唇を一目見るより、衝と外套の襟を落した。美丈夫と艶なる少女は、ふと飛立つように身を起した。
娘の髪にも旅客の肩にも、石の上なる貢にも、ひらりと射したは鳥の影。
仰いで空を、赫として何にも見えず、お鶴耳許、まぶちのあたり、日は紅に燃ゆるよう。
十一
轟々《ごうごう》と音がして、背後の山の傾斜面を、途端に此方に来るものあり。
罪を鳴らす鼓か、と男は慌しく其方を見た。あらず、人車鉄道の、車輪隠れて、窓さえ陰、ただ、橙色に列った勾配のない屋根ばかり、ずるずると曳いて通る。
それが蜜柑の木の間。しかも会社が何週年かの祝日にやあたりけむ、かかる山路に、ひらめく旗、二人の方にそよそよと靡いて、天麗かに祝える趣。
と見る見る頂から下り道、真鶴あたりの樹立の梢、目の下の森をさして、列車は颯と逆落し、風に綾ある紅、白、蒼、いろいろの小旗の滝津瀬、ひらひらと流るる状して、青海さして見えなくなる。
娘はそれを見送るように、真うしろに旧来た方、男に背を向けてぞ立ちたる。
さて旅客は、手ずから包を旧のようにして、静に提げてお鶴の傍へ。
黙って背後から、密とその頸にはめてやると、苞は揺れつつ、旧の通りにかかったが、娘は身動きもしなかった。四辺には誰も居ない。
と視むれば、その浅葱の紐が、丈なる髪を、肩のあたりで仕切ったので、乱れた手絡とは風情異り、何となく里の女が手拭を掛けたよう、品を損ねて見えたので、男は可惜しく思ったろう。
手袋の一ツをはずして、手を、娘の、鬢の下に差入れた。おのずから得ならぬ薫、襟脚の玉暖かく、衝と血の湧いた二の腕に、はらはらと冷くかかった、黒髪の末艶やかに飜り、遮るものはなくなった。これにも娘は熟として、柔順に身をまかせていたのである。
「じゃあ、気をつけて行くんだよ。」
「貴下は熱海へいらっしゃるの。」
「ああ、そうさ。」
「今の人車だと訳はありはしませんのねえ。歩行いて行っては大変ですわ。」
「お前こそ、女の足で随分じゃないか。」
「いいえ、車なんか危なっかしくッて不可ません。ずんずん駈け出して行って来るの、何とも思いはしませんよ。」
「私も実は人車はあやまる。屋根は低いのに揺れると来て、この前頭痛で懲々《こりこり》したから、今度は歩行くつもりで、今朝小田原からたって来たが、陽気は暖かだし、海端の景色は可し、結句暢気で可い心持だ。しかし私は片道だが、お前は向うで泊るのかい。」
「あの、おつかいをして、直ぐに今日帰るんです。」
「ざっと行きかえり十四五里、しかもこの山路を、何だか私は、自分の使いにでも遣るようで、気の毒でならんのだ。」
娘は嬉しそうに……何にもいわず。
「しかし、神ごとだというんだから、今の雲助とは訳が違って、金銭ずくでは仕方がない、じゃ、これで別れるよ。」
「…………」
男は再び、深く外套の襟を立てた。
「御苦労だな。」
と支いたる洋杖、踵を返した霜路の素足、静に入れ交って、北と南へ。
「おお。」
心着いて旅客はまた、うなだれて行く娘を呼んだ。
「ちょいとお待ち、大切なことを忘れた。折角、その珍らしい、めで度いものを見せてくれたに、途中だ、礼の仕ようがない。心ゆかしにこれを上げよう、これでもここらに散ばった落葉朽葉よりいくらか増、志は松の葉だ。
さあ、手帳がある、それから鉛筆、これはね、お前の胸にかけたものと、同一紫の色なんだから。」
渡すを、受ける、熟と手を、そのまま前垂の胸に入れて、つッと行く白い姿、兎が飛ぶかと故道へ。此方は仰ぐ熱海の空、颯と吹く風に飜って、紺の外套の裾が煽った。
ケケコッコ――谺に響く鶏の声、浦の苫屋か、峠の茶屋か。
日金颪
十二
「へい、夫人、真平御免下さりまし、へい、唯今は。」
毛は黒いが額は禿げ、面長な、目は円く、頬の肉は窪んだけれども、口許に愛嬌ある、熱海の湯宿伊豆屋の帳場に喜兵衛といって、帳面とともに古い番頭。
と按摩が御用を聴く形、片手を廊下へ、密と障子。
中は八畳に寝床を二ツ、くくり枕の傍には、盆の上に薬の瓶、左の隅に衣桁があって、ここに博多の男帯、黒縮緬の女羽織、金茶色の肩掛など、中にも江戸褄の二枚小袖、藤色に裳を曳いて、襲ねたままの脇開を、夜目にも燃ゆる襦袢の袖、裙にもちらめく紅梅に、ちらりと白足袋が脱いであり。
そのうしろなる襖の絵の、富士の遠望に影を留めて、藻脱の主は雪の膚。空蝉の身をかえてける、寝着の衣紋緩やかに、水色縮緬の扱帯、座蒲団に褄浅う、火鉢は手許に引寄せたが、寝際に炭も注がなければ、尉になって寒そうな、銀の湯沸の五徳を外れて、斜に口を傾けたるも旅の宿の侘しさなり。紫紺の紐は胸にあれども、結ばず、絣の書生羽織を被ったように引かけた。厚衾二組に、座敷の大抵狭められて、廊下の障子に押つけた、一閑張の机の上、抜いた指環、黄金時計、懐中ものの袱紗も見え、体温器、洋杯の類、メエトルグラス、グラムを刻んだ秤など、散々《ちりぢり》になった中に、しなやかに肱をついて新聞を読む後姿。
やや傾けたる丸髷の飾の中差の、鼈甲の色たらたらと、打向う、洋燈の光透通って、顔の月も映ろうばかり。この美人は、秋山氏、蔦子という、同姓保の令夫人。芳紀の数とやや斉しい、二十五番の上客である。しがみ着いて凭りかかった、机の下で、前褄を合せながら、膝を浮して此方を見向き、
「番頭さん?」
「へい。」
お辞儀、つい目の前に居られたので、向うへ頭を下げるゆとりがなく、頤を引込めて手を支いた。
「さあ、お入んなさい。今日はまたどうしたのか、大変に寒いのね。」
と火鉢の上に、白やかな手を翳した。
「どうもこの、日金颪が参りますと、熱海は難でござりまする。まあ、夜分になりましてから可塩梅に風もちと凪ぎましてござりますが、朝ッからの吹通しで、そこいらへ針がこぼれましたように、ちくちくいたしますでござります、へい。
つきましてでござりますが、ええ、夫人、唯今はどうも、とんだお騒がしゅう、さぞまあ吃驚、お驚き遊ばしましてござりましょう。いや、とんだ事で。」とちと渋面。
令夫人、手を揉みながら婀娜に肩を震わして、
「まあ、閉めて此方へお入りなさい。」
「それでは御免を蒙りまして、や、こりゃ、お火が足しのうなりました。」
ぽんぽんぽんと手を拍つ。早や初夜過ぎの寂として、四辺へ響いたが返事がない。
「もう可ござんす、床を取ってしまったから。何ね、炭を継ごう継ごうと思いながら、つい懐手をすると不精になるんです。急に寒いもんだから恐しくいじけてしまって。」と火箸を取って品よく微笑む。
「さぞお身体に障りましょう。時に。」
中腰で四辺を※ 《みまわ》し、
「旦那様はお風呂でござりますか、お塩梅はいかがでいらっしゃいます。」
「どうもね、こう寒いと直に障ってなりません。つい今しがた蒸湯へおいでなさいました。大方今夜は一晩でしょう、咳が酷くって、寝られないで困りますよ。」
と、しめやかにいうのであった。
「ですが一番宜しいそうで、旦那様のような御病体は、是非その、蒸湯に限ると申します。しかし地の下の穴蔵のような処でござりますで、なおの事、吃驚遊ばしたでござりましょう。何しろ、大地震でござりますから、いや、はや。」
十三
「ほんとうに、騒ぎだったのね。」
夫人は落着いたもののいいよう。
喜兵衛番頭、せき心で口早に、
「だッたの、なんのとおっしゃって、熱海中引くりかえるような大事、今にも十国峠が、崩れて来るか、湯の海になるかという、豪い事でござりました。貴女様、夫人は。」
「私はどうもしやしなかったよ。」
「何か早や夢のよう、この世のことか、前世のことか、それとも小児の時のことでござりましょうか。先刻の今が、まるで五十年昔あった、火事か大洪水、それとも乱国、戦国時分かと思われますような、厭な、変な、凄いような、そうかと申すと、おかしいような、不思議なような、さればといって、また現在目の前にちらついておりますような、妙な心持でござりまして、いや、もう、この大地震は忘れましても、道具の、出たり引込んだり一件は、向後いくつになりましても、決して忘れますことではござりません、と申しあげます内も、ぞッといたしまして、どうもこの、」
床の間のあたりが陰気に暗い。
喜番、据腰に手を突き出し、真顔に天井を仰ぎながら、
「魔のせいでござりましょう、とな、皆が、内々申合っております次第で、へい。
そこで夫人。
かねてお聞及びの、あの、崖の総六と申します親仁が許の不思議な一条。」
これは聞えていたと見え、
「ああ、あの、お茄子の事ですか。」
「その儀、その儀にござりますが、へい、何か見馴れません綺麗な鳥が、種をこぼして行ったと申して、熱海中の吉瑞、神業じゃと、皆が、大抵めでたがりました事でござりますが、さてこうなってみますると、それが早や魔の業で、種を啣えて来ましたのは、定めし怪鳥、鵺じゃろうかに手前どもが存じまする。
一体当地にこの春大地震があると、口を合わせましたようにいい出しましたのも、根はその総六が許の茄子から起りました事。
何しろ、暮の内から御覧の通り、師走の二十日前後に、公園の梅が七分咲きで、日中綿入を襲ねますと、ちと汗が出ますくらいでござりました。
それも当熱海の事でござりますから、さまで不思議とも存じません。畢竟は冬向暖いのを取柄に、湯治にいらっしゃりますわけで、土地の自慢とも存じたでござります。
その内に崖の総六が背戸の畑に、茄子が生えたと申すので、はじめは誰もほんとうにはいたしませなんだが、立派に紫の花が咲いて、霜除に丹精した、御堂のような藁束の中に、早や小指ほどなが一体。
茄子殿を一体も、異なものでござりますけれど、親仁が神事じゃと申すので、位がつきまして、その、一体お生りなされた、などと見て来たものが申しますで、余り陽気違いじゃが。
一富士二鷹三茄子と申す儀もあり、むかし聖人の代には冬向き出来たものであろう、めでたい、と申す内に、御初穂を取りまして、お鶴ってその親仁の娘が。
はあ、はあ、旦那様も夫人も御存じ。あの鳩のような美い目をした、さよう。手前などへも、手の入ります時は、ちょいちょいお給仕の手伝いに参りますが、腕白でな。
その癖、熱海一という別嬪でござりますが、から野鳥でござりまして、よく御存じでいらっしゃらないで、悪く御串戯をなさるお客様は、目潰しの羽ばたきをされてお怒りなさります。またよく御承知の方は恐ろしく御贔屓で、あの娘の渾名が通りました、千鳥の一曲、所望じゃなどとおっしゃりまする。
それが、使ではるばる小田原の総鎮守、城の森のお宮まで、暮に持って行ったでござります。十四五里日帰りにいたしまして、へい、何、そのくらいの事は、あの娘にゃわけなしで、手前どもが朝飯を頂きます時分、もう真鶴を越して、お関所にかかりましたという話。
これは帰ってから手前どもへ参った時、ききましたのでござりますが。ええ、首尾よくお宮へ献納いたして、一、この度、何々して奇特の段神妙候、藤原の何某、びたりと判の据わった大奉書を戴いて、崖へ戻りますと、それから、皆様へお目にかけますというので、娘がいつも世話になります、湯宿々々の主人の許へ、一ツずつ九軒ばかり、ずらりと配りましたのでござります。」
ここで番頭苦笑一番。
「どこの主人も慾張っておりますから、大層縁起がって、つるりと鵜呑。地震の卵と知れてからは、何とも申されぬ心持。」
十四
「中には諺にも申します、一口茄子に食てやるは可惜もの、勿体ないと、神棚へ上げて燈明の燈心を殖しまして、ほほう、茄子ほどな丁子が立った、と大層縁起がっていたのもありまするそうでござりますが、さあ、それが大地震の前兆だとなると、不気味千万。
取棄てようにも、下そうにも、揺れ出しそうで手がつけられませず。そうかといって、そのままにしておけば、それなりに転げ落ちて、そこから大地が破れるだろうと、愚にもつきませんが気が寄って取越苦労、昇天する蛇玉でも祭籠めたように、寝る間も気扱いをしましたそうで。
手前主人などは、その鵜呑みの方でござりましたから、腹の中をくるくる廻って、時々咽喉へつかえると、癪持同然。そのたんびに目を白ッ黒いたして悩みましてござりまする。」
「いかなこッても、ほほほほ。」
「へい、いえ、それでも貴女様、何しろこの騒ぎをいたそうという前兆でござりまするから、風説をほんとうにしましたぐらいは、何でもござりません。
そうかと思う、兆を見せて下すった、天道様の思召じゃ、まんざら、熱海を海になすって、八兵衛鯛、理右衛門鰈、鉄蔵鰒、正助章魚なんぞに、こちとらを遊ばそうというわけでもあるまい。
してみれば、この茄子は、災難よけのお守護だ、と細かに刻んで、家中持っておりました処もござります。
それがと申すと、はじめは瑞祥だと申しましたのを、娘が奉納して帰りました時分から、誰いうとなく、この春は大地震がある、大地震があるといい出しまして、手前なんざ、一日に五六たび、違った人の口から聞きましたのがはじまりでございまして。
ええ、最初、やはりあの竹でござりました。番頭さん、この頃に大地震がありますッてね、と帳場へ来て申しますから、何を馬鹿な、と気にも留めませんで、それから二階の六番へ。
ちょうどこの上のお座敷でござります、そこへ機嫌ききに参りますると、六十五になる御法体の隠居様。番頭どのや、厭な風説があるの、今湯殿で聞いて来ました。三人が五人、皆大地震があるといっておられたが、とこうでござりましょう。
へい、いいえ、一向に存じません、さようなことが、と申したものの、ちと変な気になって、下へ下りますと、暖簾から、内のおかみさんが半分からだを出していなすって、喜兵衛や、湯の熱さにかわりはないかい、大地震があるというから、と屈託そう、ちと血の道気な処、青ざめておいでなさる。
そこへ勝手口から、魚を仕入れて来た金公と申します板前が、大変な風説です、地震の前で海があおっと見えまして、この不漁なこと御覧じやし、蠣、鮑、鳥貝、栄螺、貝ばかりだ、と大呼吸をついております。
私は肥満っているから遁げられぬ、と鍋釜の前で貧乏ゆすり。
処へ、毎朝海岸まで、お太陽さまを拝みに行きます、旦那が、出入りの賀の市という按摩と、連立って帰りました。
門口で分れる時、お互だ、しかし、かえってお前のような不具が無事に助かるもんだ、とこういって台所へ。
喜兵衛出て見ろ、何と妙な日の色だぜ。
さあ、こうなると、がッがあッと、昼夜に三度ずつ、峠の上まで湯気が渦まいて上ります、総湯の沸きます音が物凄うなりましたわ。
気のせいか、熱湯を引いてあります土間を踏むと、足の裏が焦げますようなり、魚見岬へ水柱が立ったといえば、誰が乗るともなく、船がずんずん漕ぎ出して行く、影法師が見えるといいます。
土地の人気にかかわるからと、なりたけはお客様に、かくしておくにゃおきましたものの、七草が過ぎます時分から、もう、ちらほら、そのために、たってお帰りになりますのが、手前どもばかりじゃござりません、あちらに二組、……こっちに三組。」
十五
「またそうまでにはなさらぬお方も、いざ、という時の御用心に、手廻りのものなんざ、御寝なります時、枕許へお引きつけ遊ばしてお置きになります始末。
そうでもござりましょうか、――先刻の騒動の最中、この家ならびで二軒さきの玉喜屋の表二階で、仁王立になって、ばらばら、ばらばら、大道へ品物を投げ出していた方がござりますそうな。
へい。」といったまま、きょとん。
「だって、地震だって、恐しい騒ぎだけれど、ちっとも揺れもどうもしないんだもの。」
喜番、呼吸をつめて、ややあって、
「成程。」
といい、
「でござりますな、そこでござりますな、いかにも揺れはいたしません。また根もない地震に、大地が揺れたり、三階建がぐらついたりしては堪ったものじゃござりません。
けれども夫人、貴女様は、ちゃんとここへ、魂が落着いておいでなさりますからで。
どうして手前なぞは、そりゃ地震、と聞いたが最後。
先刻、あの騒の時は、帳場に坐っておりましたが、驚破というと、ただかっといたして、もうそれが、地の底だか、天上だか分りません。
天窓がぐらぐらとすると、目がくらんでしまいまして、揺れるか、揺れんか、考えておりますようなゆとりはないのでござります。
主人は真先に、戸外へ、鉄砲玉のように飛出しました。おかみさんも、刎起きて、突立ったにゃ突立ちましたが、腰がふらついて歩行けませんので、大黒柱につかまって、おしッこをするように震えています。手前は、その、……四這いに這いました。
座敷々々のお客人も一時に湧きましてな、一人として静となすっていらっしゃったお方はないので、手前どもにゃ僥倖と、怪我をなすった方もござりませんが。
それでも竹、へい、あの粋がった年増の女中でござります。あれは貴女、二階の七番からお膳を下げまして、ちょうど表階子の下口へかかりました処で、ソレ地震でござりましょう。ドンと腰を抜きました拍子に、トントントントンと、一段ずつ俵が転がったように落ちたでござります。どういう拍子か、背中を強く擦剥きまして、灸のあとから走るように血が流れたんで、二ツに裂けたという騒動、もっともひきつけてしまいました、へい、何、別条はござりません。
落胆して、お腹が空いたと申して、勝手でお茶漬を掻込んでおるでござりますが、な。
機会と申すは希代なもので、竹がその腰をつきます時に、投りましたお膳でございますが、窓からぽんと物干の上へ飛び出しまして、何と、小皿も箸も、お茶碗なんざ蓋をいたしましたままで、お月様へ供えまする体、や、どうも。」
「まあ。」
「あとで大笑いいたしたことでござります。まず手前どもでは珍事がその位で済みましてございますが、お向うの伊東屋なぞでは、貴女、御夫婦抱き合って、二階から戸外へお飛びなすって、大怪我をなさいました方がござります。
何しろ、一時は人の波が沸きましたように、上下へ覆しまして、どどどど廊下を駈けます音、がたびし戸障子の外れる響、中には泣くやら、喚くやら、ひどいのはその顛倒で、洋燈を引くらかえして、小火になりかけた家もござりますなり。
一体何屋の二階から騒ぎ出したとも、どこの内証から、喚きはじめたとも分りません。
一騒ぎ鎮まりましてから、門口では隣ずから、内では部屋々々の御見舞。仲間うち、土地のもの、お客様方に伺いましても、そら、地震だと、轟となったのが、ちょうど九時半、ちとすぎ、かれこれ十時とも申しまして、この山の取着きから海岸まで、五百に近い家が、不思議に同一時刻。
まあまあ、かねて大地震がある、大地震があると申しておりましたので、どこか一軒、神棚から御神酒徳利でも落ちましたのを、慌てて地震と申したのが、家から家へ、ものの五分間ともたちませぬ内に、熱海中、鳴り渡りました儀かとも存じまするが。」
十六
「そういたしますると、東の詰で、山に近い対孝館あたりが、右の徳利一件で、地震の源かとも思われまする。
殊にそれ、湯の噴出します巌穴が直き横手にござりますんで、ガタリといえば、ワッと申す、同一気の迷なら、真先がけの道理なのでござりますが、様子を承りますと、何、あすこじゃまた、北隣の大島楼が、さきへ騒いだとか申します。
それじゃ起因は海の方、なるほど始終、浪が小石を打ッつけます、特別その音でも聞違えて、それで慌てたかとも存じられますが、またそれにいたしますと、北のはずれの菱屋では、南隣がさきへ鳴り立ったと申しますな。東も、西も、その通。何でも申合わせたように、影も形もない大地震が、ぐるぐる渦を巻いて、熱海を揉みましたので、通り魔のせいでもござりましょうか。
何でもこの騒ぎがなくッちゃ治りません、因縁事とも相見えまして、町をはなれました、寺も、宮も。鎮守の神主殿は、あの境内の大樟へかじりついたと申しますなり、妙蓮寺の和尚様は、裏の竹藪へ遁込みましたと申します。
あの方たちさえ、その驚き工合、御覧じまし、我等風情が、生命の瀬戸際と狼狙えましたも、無理ではなかろうかように考えまする、へい。」
「そうですね、あんまり物音が烈いから、私はまた火事ででもあるのか知らんと思ったよ。」
「ええええ、火事と申せば洪水のようでもござりまして。中にも稀有な事でござりましたのは、貴女、万歳楽万歳楽と、屋根にも物干にも物凄う聞えます内、戸外通りはどうした訳か。
ずらりと、道具衣服の類。
革鞄もござりますれば、貴女、煙草盆、枕、こりゃ慌てて抱えて出たものがあると見えます。葛籠、風呂敷包、申上げます迄もござりません。それから夜具、かねて心得た人があると見えまして、天窓へ被って、地震の時はと、瓦の用心でござりましょう。扱帯がずるずると曳摺っていたり、羽織がふうわり廂へかかっておりますな、下駄、蝙蝠傘、提灯、正しく手前方の前なんぞは、何がどう間違ったものでござりますか、大な洗濯盥が転がっておりましたわ。
何の事はござりません。右の品々が、山から突抜けに海岸まで、大通りへ、ちりちりばらばら。裏道小町はさもなかったそうでござりますが、通一筋道は、まるで、諸道具、衣類、調度が押流されました体裁、足の踏所もござりませなんだ。
こりゃ現に、手前、軒下へ出て見ましたが、降ったか、湧いたか、流れて来たか、何のことはござりません、皆翼が生えて飛んで来て、空から雁が下りたと申す形体。
唯今は凄いほど、星がきらついて参りましたが、先刻、その時分は、どんよりして、まるで四月なかばの朧月夜見たような空合、各自に血が上っておりましたせいか、今日の寒さに、皆汗を掻いたでござります。
あとが哄と笑いになって、陽気に片附けば、まだしもでござりますに、喚いたものより、転んだもの、転んだものより、落ちたもの、落ちたものよりゃ、また飛だもの、手まわり持参で駈出したわ、夜具をかぶって遁げ出したわ、怪我をしたわ、と罪の重いものほど、あんまりその智慧の無さ、斬られた夢を見て目をまわしたような外聞でござりますから、誰一人、己が騒いだというものはござりません、その二階から飛んだといった、御夫婦のような大怪我は格別。
大概の打傷、擦傷、筋を違えなどは、内分にして、膏薬も焼酎も夜があけてから隠密という了簡。
ありようは手前なども、少々手負。が、遁傷でござりまして、女中どもの前もいかが、へい、知らん顔で居りまするようなわけ。
でござりまするから、往来ちりぢりの衣類諸道具、いつの間にやら、半時も経ちませぬ内に、綺麗に掃いたように無くなりました。誰が取り入れたということもござりませんで。
余りさっぱり。
最初その車に積んだら、大八にざっと四五十台とも覚えましたのが、地震が鎮まりますと忽然で、盆踊りのあとじゃござりませんから、鼻紙一枚落ちちゃいず、お祭のあとでござりませんから、竹の皮一片見えなくなってしまったでござりますわ。」
神妙候
十七
「これ等はごく御用心の宜い方で。なるほど、揺れません地震でござりましたもの、いくらでも荷は出せますが、しかしその荷物を投り出していた方が、白い浴衣を着た、見上げるような大入道だったと、申して、例のどんよりした薄明じゃござりますし、ちょうどその時分、どこからともなく衣類や鞄などが降った最中、それを見たものが、魔ものじゃと申します。
また同一時刻に、降って来る荷物の中、落ちて来る衣類の中を、掻い潜り掻い潜り、溜った上を飛び越え飛び越え、浪に乗って行くように、ずッと山の手から、海ッぷちまでを、みだれ髪で、丈の小造な、十五六とも見える、女が一人、蝶鳥なんどのように、路を千鳥がけに、しばらく刎ね廻っておりましたが、ただもう四辺は陰に籠って、烈い物音がきこえますほど、かえって寂として、駈出したものも軒下に突伏したり、往来に転んだきりだったり。
通ったはその小娘ばかりで、やがて床屋から小火が出て、わッという紛れにそれなりけり。
どこへ消えましたやら、見えなくなったと申しますが、いずれな……魔がな。
何でも熱海を掻攪して、一時お遊びになりましたものと見えます。
とその茄子でござりますで。」
「ああ、それが、」
番頭は一呼吸つき、
「それが、根元と申しますのは、地体この地震の風説は、師走以来の陽気から起ったのでござりましょう。それとても年内に梅が咲きますくらいは何とも気にはなりませんが、ただ、茄子が生ったのは、前代未聞じゃ、と申して、それからの事で。
特に、小田原へ使いに参った娘から聞きますと、それをまた、宮で受け取った神官と申すのが、容易なりません風体。
森々《しんしん》と樹の茂った、お城の森の奥深く、貴女様、高く上りますのでござりますが、またこの石段がこわれごわれで、角の欠けた工合、苔の蒸しました塩梅、まるで、松の鱗が、蛇の幹を攀じますようで、上に御堂、これも大破。
お鶴が石壇にかかりますと、もう遥か奥に、鏡が一面、きらきらと蒼い月のように光ります前に、白丁を着た姿が見えたといいます。
境内は常磐樹のしとりで水を打ったかと思うばかり、塵一っ葉もなしに、神寂びまして、土の香がプンとする、階段の許まで参りますと、向うでは、待っていたという形。
希代ではござりませんか。
神職は留守じゃが、身が預る、と申したのが、ぼやっと、法螺の貝を吹きますような、籠った音声。鼻から頤まで、馬づらにだぶだぶした、口の長い、顔の大きな、脊は四尺にも足りぬ小さな神官でござりましたそうな。ええ、夫人。」と陰気になる。
夫人は寂しい顔して、袖を掻合わせて、しばらくして、
「まあ、厭ねえ。」
「でその、廊下から屈んで乗り出し、下から跪いて出しました娘の貢物を受け取つて 、高く頂き、よたりと背後むきになりますると、腰を振ってひょこひょこと、棟から操の糸で釣るされたような足取りで、煤けた板戸の罅破れた形の口へ消えますと、やがて、お三方を据えて、またよたよたと持って出ましたのが、前申上げました、大奉書で。
件の(神妙候)は、濃い墨で、立派に書いてござりますそうなが、(藤原何某、)と名書の下へ、押しました判というのが、これが大変。」
十八
「書き判を、こうの、こうの、こうこう、こう! でもござりませんければ、朱肉を真四角、べたりでもござりません。薄墨でな、ひょろりと掌を一ツ圧しました、これが人間でござりません。
およそ嬰児の今開けました掌ぐらい、その痩せましたこと、からびた木の葉で、塗りつけました形、まるで鳥で。
そうかと思いますとまた、墨の染んだあとが、さもさも獣の毛で、猿そっくり。
見たものの話でござりますが、これを一目の時、震え上って、すぐに地震、と転倒いたしましたそうで、ここで誰も大地震の前触を、虚言とは思いませんようになりました。
処を日増の暖気で、その心持の悪い事と申したら、今日にも、明日にも、今にもと、帯を解いて寝るものはなかったのでござりまする。
すると、今朝ッからのこの寒気。峠の霜は針の山、熱海はたちまち八寒地獄、日金がおろして来ましたので、烈しい陽気の変りよう、今日が危い、とまた誰いうとなく、湯殿の話、辻の風説、会うものごとに申し伝えて、時計の針が一つ一つ生命を削りますようで、皆、下衣の襟を開けるほど、胸が苦しゅうござりましたわ。
その癖朝の内から蒼い玻璃見たような晴天で、昨日も一昨日も、総六が崖の上から、十国峠の上に三日続けて見ましたという、つくね芋の形をした重い雲が影もないので、せめてもの心やりにしました処、暮六ツ前から、どんよりいたしましたのが、日が暮れると、あの朧、風が小留んだと思いますと、また少し寒さが戻りまして、変に暖くなる、と気のせいでござりましょうか。厭にあかりが薄暗くなったでござります。滅入って息が詰りそうで、ぼんやり、手前などは、畳を見詰めておりました。
その畳の目が貴女様。
むくむくと持上って、※ 《ぱっ》と消えて、下の根太板が、凸凹になったと思うと、きゃッという声がして、がらがら轟、ぐわッと、早や、耳が潰れて、四ン這いの例の一件。
いや、何とも早や異変なことで。」
調子づいて語り果てた、番頭ふと心着いて、
「へへへへへ。」
何ともつかず笑ったが、大分夜が更けたという顔色。
「しかし、何事もなくッて可い塩梅だったのね。」
夫人は、さして退屈らしくも見えなかった。
「へいへい、お庇さまで、まずこれで、今夜から枕を高う寐られまする。へい、ざっと事済。
こうまた気が揃ったように大地震々々と申しましては、何事かございませんでは、無事に果てますものではないでござります。
ははははは。」
機会もなしにまた笑い、
「まあ、まあ、御安心を遊ばして御寝なりまし、と申しました処で、夫人は何も手前どものように、ちっともお驚きなりませんのでござりますから、別に。」
といって、照れ坊主、禿げた処をまっすぐに指で圧え、
「ええ、ついその一月ばかりの屈託が抜けました嬉しさで、貴女様はお馴染の余り、とんだ長話をいたしました。
慌てもの、臆病もの、大寄合のお伽話。夜分御徒然の折から、お笑い草にもあいなりますれば、手前とんだその大手柄でござりまする。」
「いえ、まさかとは思っても、こないだ中のような風説を聞くと、好い心持はしませんよ、私も気になっていたんです。」
火箸に手を載せ、艶麗に打微笑み、
「おめでとう。」
「へいッ。」
と手をつき、
「おめでとう存じまする。」
御曹子
十九
「ですが地震はただ可い加減な、当推量じゃあったでしょうが、何なの、崖の総六の娘さんとかが、小田原へ貢物を持って行って、怪い神主に、受取を貰って来た、判に獣のような手のあとが押してあったというのはほんとう?」
喜番この時立ち構えで、腰を廊下へ退きながら、
「ええも、それは貴女様、ほんとうの事でござりますとも。」
「真暗な森の中の破れたお堂に、神主は留守だといって、その鼻と口と一所にだぶだぶと突出した大顔の、小さな人……何だか気味が悪いことね。」
と座敷の三ツの隅を見たら、もっとも座にした片隅だけは、洋燈を置いて明るかった。
「全く変でござりますよ。」
「内じゃお客様が多いから、離れた処で、二室借りておくけれど、こんな時はお隣が空室だと寂いのね。ほほほほほ、」
但し自からその怪みを消して笑ったので。軽からぬ肺病のため、しばらく休養をしているけれども、正に蒸風呂に籠れり、とあった、秋山氏は、名高き……県の警部長である。
良人の職掌に対しても、であるけれども、病ゆえには心弱く、夫人は毎夜、更けて静な湯殿の廊下を、人知れずお百度というもの踏む。
折から身に染む物語。
「大方何ね、その娘に、魔がさしたとでもいうんだろうね。」
「御意、御意にござりまして、へい、娘とは申しません、一体崖の親仁の許に魔が魅しましたのでござりましょう、その相伴をいたしました熱海中がかくの騒動。彼家も無事なれば宜しゅうござりますが、妙齢の娘、ちと器量が好過ぎますので、心配なものでござります。
などと申しますと、手前岡焼でもいたしますようで、ははははは。」
老功に笑って退け、仰向いて障子を窃と。
「まず、おしずまりなされまし、お座敷へも、とんだお邪魔がさしました。」
しかり、魔か、鬼か、崖の総六が小屋に、魅入ったのは事実であった。
翌日になって一切明白。当時関八州を横行して、変幻出没、渚の網に陽炎の影も留めず、名のみ御曹子万綱と、音に聞えた大盗あり。
鐘も響かぬ山家にさえ、寝覚に跫音轟いたが、哄と伊豆の国を襲ったので、熱海における大地震は、すなわち渠等が予言の計略。
文武官、農、工、商、思い思いに姿を変じた、御曹子が配下の賊徒、八面に手分をなし、湯宿々々に埋伏して、妖鬼家ごとを圧したが、日金颪に気候の激変、時こそ来たれと万弩一発、驚破! 鎌倉の声とともに、十方から呼吸を合はせ 、七転八倒の騒に紛れて、妻子珍宝掴次第。
就中、風呂敷にも袂にも懐にも盗みあまって、手当次第に家々から、夥間が大道へ投散らした、霰のごとき衣類調度は、ひた流しにずるずると、山から海へ掃き出して、ここにあらかじめ纜った船に、堆く積み上げた。
宝の山を暗まぎれ、首領の隠家に泳がそうと、※ 《しぶき》のかかる巌陰に艪づかを掴んで、白髪を乱して控えたのは、崖の小屋の総六で、これが明方名告って出た。
ただ、万綱はじめ、手下の誰彼幾十人、一人として影を見せず、あとは通魔の鳴を鎮めて、日金颪の凪ぎたるよう。
さればこそ土地のものは、総六に魔が魅したといった。正直の通った親仁は、やがて、ただ通りがかりの旅の客に、船を一艘頼まれたとばかり、情を解せざる故をもて、程なく囚を免された。
と前後して、崖の小屋に一個の人物。
二十
年紀の頃三十四五の客が出来た。その人、眉秀で、鼻隆く、白皙俊秀にして盲いたり。長唄を歌って美音、尺八を吹き、琴を弾じ、古今の物語をよくして、弁舌爽かに、世話講談の座敷が勤まる。就中琵琶に堪能で、娘に手をひかれながら、宿屋々々に請ぜられて、安かに、親娘を過ごすようになった。
ここで諸人横手を拍って、曰く、はるばる小田原の鎮守に貢した、神妙候奇特につき、総六の産神が下したもうた婿であると。この何者かは誰にも分らぬ。
単これを知るものは、秋山警部長の夫人蔦子であった。
番頭が辷り出て、廊下に跫音の消えたあと、夫人はかねて、しかなさんと期したるごとく、すらりと立った衣の音、障子に手をかけ、まず、紙を隔てて、桟に※ 《ろう》たけた眉を載せた。
やがて、細目に密とあけると、左は喜兵衛の伝った方、右は空室で燈影もない。そこから角に折れ曲って、向うへ渡る長廊下。両方壁の突当は、梯子壇の上口、新しい欄干が見えて、仄に明がついている。此方に水に光を帯びた冷い影の映るのは一面の姿見で、向い合って、流しがある。手桶を、ぼた――ぼた――雫の音。寂として、谷の筧の趣あり。雲山岫に湧くごとく、白気件の欄干を籠めて、薄くむらむらと靉靆くのは、そこから下りる地の底なる蒸風呂の、煉瓦を漏れ出る湯気である。
※ 《みまわ》して、音なく閉め、一足運びざまに身を反した、燈火を背にすると、影になって暗さがました、塗枕の置かれたる、その身の閨のふちを伝うて、膨らかな夜具の裳、羽織の袖が畳に落ちると、片膝を軽くついた。
手を上に載せて、斜めに差覗くようにして、
「お出な。」
むッくり下から掻い上げ、押出すようにするりと半身、夜具の紅裏牡丹花の、咲乱れたる花片に、裙を包んだ美女あり。
いかなる状にや結いにけむ、手絡の切も、結んだるあとの縺もありながら、黒髪はらりと肩に乱れて、狂える獅子の鬣した、俯伏なのが起返る。顔には桃の露を帯び、眉に柳の雫をかけて、しっとりと汗ばんだが、その時ずッと座を開けて、再び燈を蔽うて住った、夫人を見つつ恍惚と、目を円らかに瞻った、胸にぶらりと手帳の括に、鉛筆の色の紫を、太白の糸で結んで、時計のように掛けたのは、総六の娘お鶴。
「よく、お前、呼吸を殺していられてね、苦しいだろう、湯か、お水でも上げようかい。」
膝さし寄せてひそめきいう。
「いいえ、私、沢山、水を飲みました。」
振仰向いて手をついたり。
「お水を?」
「あの、お床の中で、」
「床の中で?」
「はい、私、海の中で、水潜りをしますように、一生懸命に、呼吸をしないでいたんです。
でもしばらくですもの。
もう堪え切れなくッて、沢山水を飲みました。私、泳げますようになってから、潜っていて、水を飲みましたのは、これでたった二度なんです。ですから、あの、水を飲みましたからこんなですよ。」
とわなわなふるえが留まらず、髪も揺いであはれで あった。
「可哀相ねえ、よく辛抱をおしだった。
でもね、そうしないと、今時分、思いがけない処にお前が居るんだもの、直に気がつかれて、怪まれないじゃ済みません。
それにね、何、お鶴さん。」
夫人は一際声を密め、
「ここの内の番頭がね、ああ見えて、内証で警察の御用なんか聞くんだから。」
二十一
「それが談話に来たんだもの、私はもうてっきり。お前さんたちのした事が分って、この宿でも紛失ものが知れたから、旦那に相談にでも来た事と思って、何か聞いている内も、はらはらして気が気じゃなかったの。
もう方々でも鎮まって、かれこれ盗られたものの気の附く時分なんだけれど、騒ぎがあんまり酷かったから、まだ皆心が落着かないでいるんだよ。
もう今に知れます。そうすると、直にまた番頭が遣って来ます、何だか、私は、お前が何だか。」
とみこうみたる目の優しさ。
「可哀相でならないから、委しく、いろんな話を聞いてみたいけれど、そんな、悠長な間はないんだもの。そうでもない、旦那が蒸湯から、帰っていらっしゃらないとも限りませんから、また逢える事もありましょう。さあ、今の中。
おお、そうして何かい、その手帳と、鉛筆なの。その人が呉れたというのは、」
「ええ。」
両手を支いたまま、がッくりと頷くと、糸を引いて、ばたりと畳へ、衾にかくれて取乱した、衣紋をこぼれてはらりと開く。
これ見てといわぬばかり、
「奥様。」
と悄れていう。
何心なく取ろうとして、思わず背後へ手を退いた。
「まあ、気味の悪いこと。」
お鶴は屹と顔を上げて、清い瞳に怨を籠め、
「ちっとも、あの汚いことはありません、私、いつもこの胸の処に持っております。」と判然いうのと顔を合わせた。
あわれ、何しに御身の膚に汚るべき。夫人はただかつてそれが、兇賊の持物であったことを知って、ために不気味に思ったのである。
しばらく熟と見守ったが、
「ああ、悪かった、雲はかかっても晴れれば月、私のいったのはそうではない。考えれば、旦那の御病気、肺病はうつるもの、うつるといってそれを厭って、一度お持ちなすったものを、人がもし嫌ったら、私の心はどんなだろう。
たとえ騙賊でも、盗賊でも、お前に取っては大事な御主人。
私が悪うござんした。」
としみじみいって、燈を躱うた身体を傍へずらしながら、その一ペエジを差覗いて、
「おや。」
「…………」
「紫の鉛筆で、私の座敷の目星いものを取っておいで、と書いたわねえ。」
「あの、その人は、この家の二階に泊っていたんです。」
「そうだってね。」
「そしてどこよりか、念にかけていたんですって。でも貴女が、ちっともお騒ぎなさいませんから、此室で仕事が出来なくッて、それで、あの尋常の方なら可いけれど、恐いお役人様なんで、手が出せなかったようで口惜いからッて、これを私に書きましたの。」
「そのために来たのかい。まあ、」
と今更見詰めながら、
「何と思って、ええ、厭だっていわれなかったかい。」
「…………あの、あの方がいったんですから。家来は大勢居ましたけれど、誰も手出しが出来ないんですって。」
「そうねえ。」
あの方だから、というものを、夫人は諭すべき言もなく、
「大勢居て?」
「はい、十四五人。」
「何、そうして魚見岬の下だって。」
「あの、大な巌だの、小な巌だの、すくすくして、浪の打ちます処に、黒くなって、皆、あの、目を光らかして、五百羅漢みたように、腰かけているんです。」
黒影、白気
二十二
「じゃ、お前が、あの方という人はえ?」
「あの方は、一番高い尖がった巌の上に、真暗な中に、黒い外套にくるまって、足を投げ出して、皆の取って来たものを指環だの、黄金時計だの、お金子だの、一人々々、数をいいますのを、黙って聞いておりました。」
かえって夫人がさしうつむいた、顔を見るだに哀さに、傍へそらす目の遣場、件の手帳を読むともなく、はらはらと四五枚かえして、
「星があっても暗かったろう。」
「遠くの沖で時々浪が光ります、あのこの鉛筆のような紫色に。
その他は、闇だったんです。」
「でも、よく手帳へ書けたのね。」
「蒼い色に燃えますマッチを摺るんです。そうすると、明くなって、巌に附着いた、皆の形が、顔も衣服も蒼黒くなって、あの、大な鮪が、巌に附着いておりますようで、打着ります浪の※ 《しぶき》が白くかかって見えました。
前刻、奥様がお座敷にいらっしゃらない処へ入って、私、よっぽど盗ったんです。そうして洋燈を吹消して出ようとして見ますと、あの向うの蒸風呂の壇を上っておいでなすって、どこへも遁げられませんから、洋燈を消して、壁に附着いて屈んだんです。
でも、ずんずんいらっしゃって、座敷へ入りそうになりましたから、私、蒼い灯をつけて威したでしょう。
え、え。
でも、恐がらないで、おや、お前かいッておっしゃいました。
あの時摺ったマッチですわ。
私、ここに持っております。」
と、帯の間に手を入れる。
「可いよ。可いよ、見なくっても大事ないよ。」
余りの事に、さるにても、なお瞻らるるお鶴の顔。
「でも何、先刻私を威したのは、あれはお前が考えたの。」
「いいえ、ここへ来ましょうと、巌を下ります時に、暗がりから、誰だか教えてくれたんです。」
「何といって、さあ。」
夫人は忍び音を震わした。
「対手は婦人だ、それに、お百度を踏もうという信心者だから、遣損なったら、威すと可い。遁げるだけは仔細はないッて、」
「あれ、そんなことまで知っているのかねえ。」
「はい、そしてあの、十二時を過ぎてから、お百度をなさいますから、その隙にッて、いいましたんです。でも、来て、あの姿見の向うの流しの硝子戸から覗きますと、映りましたのは私ばッかりで、奥様はお座敷にも廊下にも見えなさいませんから、この間と思って、飛込んだんでございますわ。」
「であの、そこへ集っただけで皆?」
「いいえ、仕事をするとすぐに。」
ちりちりばらばら。
「三島へ遁げるのもありますし、峠を越して函嶺へ行ったのもございますし、湯河原を出て吉浜、もうその時分は、お関所辺で、ゆっくり紙幣を勘定しているものもあろうし、峠の棄石へ腰をかけて、盗んだ時計で、時間を見ているのもあるだろうッて、浪の音の合間々々に、皆が話していたんです。」
「大概どのくらいな仕事だとか、その人はいっちゃいなかったの。」
「内端に積りまして一万円ばかりですって。」
「大変なこッたねえ、それから、何、お鶴さん、その人の名は何というの。いいえ、大丈夫、私の命がなくなっても、とお百度を拝んでいる、観音様の御名にかけて、きっと人にはいわないから。」
「万綱っていうんです。」
「ああ、そうでしょう。それからその手下の衆の名は知らないかい。」
「はい、地震が済むと、私と二人で、そこら歩行きながら、巌の上へ参りました、しばらく経ちますと、一人来たり、三人来たり、ぴちゃぴちゃ、潮のふるえる音がしました。
あの方が、皆揃ったかッていいました。」
「そうすると……」
二十三
「来るだけは不残来ました。誰々だって、そういいましたら、伊豆の伊八、四丁艪の甚太夫、鯰の勘七、縄抜の正太郎、飛乗の音吉、秋刀魚の竹蔵、むささびの三次、――あのこの人の声だったんです、私に奥様のことを教えましたのは、」
夫人はお鶴の記憶の可いのと、耳の敏い、利発さと、そのかくのごとき運命とに、ただ何となく慄然とした。
「それから、あの、」
小指を折って、
「吹雪の熊太、韋駄天弥助、書生の源、あの、太い声で、六尺坊の悪右衛門っていったんです。」
蔦屋の二階に仁王だちで、通へ礫なげに贓物をこかしていた。大道に腰を抜いたものの、魔神が荒るると見たというは、この入道の事なりけり。
「お待ち。」
と夫人が声をかける。裏階子を上る音、ただトントンと聞えて止む。
耳を澄まして、
「どうも、気がせいてならないけれど、このままでは案じられるねえ。
ああ、何なの、そうしてお前の帰るのを、そこで待っているのかい。」
「あらためて私の許を、皆にひきあわせて、おかみさんにするんですって。」
「おかみさんに、お、お前それが嬉いの。」
「はい。」と猶予らわず答えたのである。
夫人はやや言急に、
「じゃあ、お前、盗賊が好なの、悪いこととは思わないの。」
「いいえ、盗賊することも、する人もいけませんけれど、だって、あの方なんですもの。そしてもう、もう私、おかみさんになりました。」
と、身の置所なさそうに、この時ばかりはおろおろして、
「もう他に、他にお嫁入する処はないんですって。」
「誰が、誰がそういいます。」
「おじいさん。」
「おじいさん、お前には御両親、おとっさんもおっかさんもないのだってね、おじいさんは何なの、その人が盗賊だってことを知らないのかい。」
「はじめは存じませんでした。はじめての晩、内へ泊りに見えました時は、どこのかお邸の、若様だとそう思っていたんですって。」
「まあ、泊りに行ったのかねえ、ここに、書いてあるのがそうだね。」
先刻から目に留ったは、それ、ひらがなの走りがき、鉛筆で美しく=晩に=と一行。行を分けて=お前=と書き、=の許へ=とまた項を別に=泊りに行くよ=と記してある。
「どこで、こんなことをいわれたの。」
「この二階なの。あの、山路でこれを貰いましてから、私大事にして首へかけて、お、お乳の下へかくしていたの。
三日の日に、この内が忙いから、お給仕の手伝に来たんです。
そして二階の八番へ行きました時、その方に逢ったんですわ。
いろいろおもしろい話をして聞かせてねえ。
それから、私、その時も白い前垂をかけていました。おかしい、およし、今に所帯を持ってから、そしてから掛けて台所へ出るが可い、取っておしまい。
そのかわり、お前にあげようと思って、宿で頼んで、間に合わせに拵えておいたからッて、畳紙に入っていたの。私はその方の奥様が着るのかと思ったんです。綺麗な衣服を出して、扱帯もありました。
私、おじいさんに見せてから、といいましたけれど、いいえ、着て御覧、ここでッて、それから帯も自分で〆《し》めてやろう、結びようが下手だって、結んでくれたんです。
袖が長くて、その人の手に巻きつきますから、袂を肩へかけて廻ったんです。でも、あの、恥かしいから、こうして、襟を啣えておりました。
でもあの、襦袢の中から、このねえ、貰った手帳が見えましたもんですから、返せッていいました。」
二十四
「頭をふったの。だって厭なんですもの。あの時貰ったんですからこれは厭。衣物はいらないわッて、私ねえ。それでも返せッていうから、泣きそうになったんです。
惜むんじゃないんですって。
つい、気がつかずにいたけれど、この紫色の鉛筆は、粉が目に入ると、目が潰れて、見えなくなってしまうんですって。
おもちゃに持たしておくと険呑だから、実は、今夜にも宿で聞いて、私ン許まで取戻しに行こうと思っていた処だったッて、そういいます。
きっと削りませんからッて、私強情を張りましたら、それでは、きっと誰にも見せるなよ。そして二人一所に居る時でなくっては、鉛筆を使ってはならない、きっとだぞッていいましてね。
ちょうど二人ばかりだから、とそれじゃ今つかってみよう、お前は、と私に、今夜はこの伊豆屋へ寝るのかとお聞きでしたわ。
泊るつもりだったんです。
そうすると、手帳へこんやおまえのとこへとまりにゆくよ 、と、あの、これを書きましたから、私引手繰って、脱いだ筒袖と前垂とを抱えるか抱えないに、家へ駈け出して帰ったんです。
帳場で、どうした鶴坊ッて、番頭さんがいいましたけれど、そんな事は構わない。
おじいさんに、帰ってそういったら、いそがしがって掃除をして、神様棚へお燈明を上げました。
すぐに出かけたの。
私はお米ばかりのお飯を磨いだり、炊いたりしたの。おじいさんは、甘鯛と、鮪と買って、お酒を提げて戻ったんです。
でも来ないんでしょう。
おじいさんは肱枕をして寝てみたり、いつにない夜延をしたり。
私は崖の上へ立って見ていました。夜中にねえ、いい月の明い道を、大きな外套の裾が風に吹かれながら来たわ。
私もびゅうびゅう海の方へ、袂だの、裾だの吹かれて、高い処に立っていたもんですから、寒かったろうッて、いきなり外套の下へ抱いてくれたの。寒くはなかったんですが、私、嬉しくッて震えたの。
その晩なの、奥様、おかみさんになったんですって。
おじいさんは、その時は何んにも知らなかったんですけれど、あとで今度の相談をしたとき、泣きましたっけ。私も泣いたわ。
しっかりしろ、生命と亭主は二ツなしだ。俺が若い時の、罪障が報ったっぺ、可いわ、娘の支度と婿殿へ引出ものをかねて、一番、宝船を漕いでまかしょ、お正月だ、祝えッて、大酒をのんだんです。
ですから、あの、すっかり船へ積み込んで、人の知らない処につけていますわ。
私が帰って披露を済むと、それからどこかへ漕いで行くんだって待っているんです。」
夫人は黙って聞くうちに、幾たびか目をしばたたいた。
「お鶴さん。」
と声が曇ると、
「…………。」黙ってこれも打悄れる。
「世間に人もないように、皆が、岬の巌になんぞ集って、もしか捕ったらどうします。」
と優しくいったが、何となく人をおさうる威が籠った。
これにはお鶴が事もなげ、
「いいえ、大丈夫、寅の刻までは海獺を極めて、ここに寝ていたって警察なんぞ、と六尺坊主がいったんです。」
「その方は、」
「え。」
「お前のその方は何てったの。」
おのずと居坐が更まって、夫人の声は凜々《りり》しかった。
「真鶴へ鮪の寄るのが、番小屋から見えるまでは心配なしだと申しました。」
夫人、
「そう。」
と頷くはしに、懐に手を差入れ。衝と一通の書の、字の裏が透いて見えて、いまだ封じないままなるを取って、手に据え、
「お前のおじいさんも何といいました。どういうことか知らないけれど、一粒種の可愛いお前に、盗賊の婿を娶ったのは、少い時の、罪のむくいだというんじゃないか。
悪い事をすればきっとそれだけの罪をうけねばならんのです。
御覧!
この手紙はね、私の旦那が今しがた、蒸風呂の中で、お書きなんだよ。
此家の番頭に持たせて、熱海の警察へ直ぐに届けろッて、いいつかって来たんだがね。
地震は盗賊の巧だから、早く出口々々へ非常線というものを張って下さい、魚見岬の下あたりには一団り居るだろう、手強い奴、と思うから、十分の手当をして、とちゃんとお認めなすったの。」
わなわなとお鶴は震えた。
「揺れもどうもしないけれど、あんまり騒ぎが酷かったから、あんな、穴蔵のような中にいらっしゃるんだから、ちょいと見舞に行った時、あの、お前が忍んだ時。」
夫人はこの時一段低い、廊下の向うの、新しい欄干から階子段を伝うて下りた。
下り切った風呂の口と、上とに電燈はついているが、段は中程にまた一個、燈を要するだけ長い。
ここを下りるは、肺病患者より他にはなく、病人は、また大抵、風呂に長時間籠るので、夜は殊にほとんど通うものがない、といっても可いので。
木は新しいが、陰々と、奈落に一足ずつ踏込むような、段階子を辿る辿る、一段ごとに底の方は、深く、細く、次第に狭んで、足も心も引入れられそう。
されば、髪飾、絹の彩、色ある姿はその折から、風呂の口に吸い込まれて、裳は湯気に呑まるるのである。
下り立つと浮世が遠い。
燈は朦朧と夫人の影を薄く倒した。
二足ばかり横へ曲ると、正面に、蒼く瘠せたる躯を納めて、病も重き片扉。
夫も籠れる心細さ。力なく引手に手をかけ、裳を高く掻い取って、ドンと圧すと、我ながら、蹴出の褄も、ああ、晴がましや、ただ一面に鼠の霧、湯花の臭気面を打って、目をも眉をも打蔽う土蜘蛛の巣に異ならず。
(蔦か。)
(旦那様、)と答えたが、湯殿は約十畳余、さまで広くもない中に、夫の姿を認めたのは、ややしばらくの後であった。
今更ながらいかなる状ぞ。
煉瓦で畳んで四方壁、ただその扉ばかりを板に、ぐるりと廻して二三段、高く低く、飛々に穿った穴、幾多の屍を中に埋めて崩れ残った城の壁の、弾丸のあとかと物凄い。その一ツ一ツから、濃厚なる湯の煙、綿を束ねて湧き出でて、末広がりに天井へ、白布を開いて騰る、湧いてはのぼり、湧いてはのぼって、十重に二十重にかさなりつつ、生温い雫となって、人の膚をこれぞ蒸風呂。
患者が顔を差寄すれば、綿なす湯気は口に漲り、頬を蔽い、肩を包み、背に拡り、腰に纏うて、やがて濛々《もうもう》としてただ白気となる。
足、手、幽な肉の一塊、霧を束ねて描ける状よ。さればかく扉を開ける音信があっても、誰なるかを見る元気はない。たといここに、天津乙女の、麗しき翼を休めたとて、縋る力も絶えたのが、三人といわず、五人といわず、濃く薄く湯気の動くに連れて、低くむらむらと影が行交う。
一時、吸い草臥れて、長々と寝たるもあれば、そのあとへ、這い寄って、灰色の滑らかな背を凹に伸ばしながら両手で穴に縋るもあり、ぐッたりと腰を曲げて臍へ頭をつけるもあり、痩せた膝に、両手を組んでいるのもあり、なえつかれたようになって、俯伏した女も見えた。中に一人、壁の根に跪き、もの打念ずる状して、高く掌を合わせたものの、白き頸の湯煙ほぐれて、黒髪の色と分れた時、夫人の目はやや馴れて、その良人の口に、一点煙草の火の燃えつつあるを認め得た。はじめはそれを、燈の光と見分くることさえ出来ぬのであった。
秋山氏は、真中に据えた大なる大理石の円卓子に肱をつき、椅子にかかって憩いながら、かりそめに細巻をくゆらしていたので、もっとも裸体で、纏えるは一片の布あるのみ。痩せたる上に色さえ朧、見る影もない状ながら、なお床を這い板に僵るる患者の中に、独り身を起していた姿、連添う身に、いかばかりの慰藉なりけむ。
吐いきをしつつ、立寄って、
(お塩梅はいかがです。)
(こうしていりゃちっとは可い。)
と打棄ったようにいって、
(何か用か。)
(はい、余りけたたましゅうございましたから、お見舞に上りました。この間から風説のございました地震なんでございます、とうとうほんものにして騒ぎまして、ただ今ようよう鎮まりましたのでございます。あの、御存じでございませんので。)
(いいや、ここじゃちっとも知らん。また地震だといって、驚きもせん。たとい地の底に沈んだ処で、まあ、こんなものだろうと思えば、仔細なしじゃ。)
周囲に蠢く患者の光景。
(とても娑婆じゃないからな、どうだ、まるで白い鰻の、のたくッている体裁じゃないか、そういう自分は何か。)
ほとんど失望の声を放って、自から嘲けるがごとくいった、警部長疾篤矣。
夫人はハッと首を垂れた。
時に、
(何か、別に誰も、賊難にあったという話は聞かんか。)
夫人は、思いがけないことだったが、
(いいえ。)とありのままを答えたのである。
(まだ分るまい、蔦、巻紙と硯箱を。)
これへ、と湯殿で命じたので。
(お硯箱、お手紙でも。)
(うむ、もう座敷へ行くのは大儀じゃ、意気地はない。)
傲然としてしかも寂しく高らかに、
(はは、はは、はははは、)
(……………………)
(疾くせい。)
引返して扉をあけると、重い湯気は、娑婆へ返すように、どッと夫人を押出した。身の健かなる夫人は、かえって、かッと上気して眩暈を感じて、扉を閉めながら蹌踉いたが、ばらばら脱ぎ散らした上草履乱れた中に、良人のを見て、取って揃えて直しながら、袖にも襟にも、纏いついて消えもやらぬ霧のまま、急いで旧の欄干口。夫人がこのときの風采は、罪あるものを救うべく、疾めるものを癒すべく、雲に駕して往き還る神々しい姿であった。廊下を出ると、風が冷い。
誂えられたを調えて、再び良人の前に行った時、警部長は、天窓を掴むようにして、堅く卓子に突伏していた。
耳は掌で蔽うたが、気勢に、たちまち、蒼ざめた、顔を上げて、
(ここへ出せ。)
(は、)
と袖から卓子へ。
まだ持ったままだった巻莨を、ハタと床に擲つと、蒸気が宙で吸い消した。
椅子を引き寄せ、筆を取って、さらさらと認めたのが、ここに夫人の、お鶴にさとした文言であった。
書き果てると、著しく警部長の眉の顰むが見え、
(ああ、厭じゃ、が、黙っちゃおられん。何も見まい、聞くまいと思うに、この壁を透して、賊どもが、魚見の巌にかたまりおるのが、月夜の遠距離のように歴然と見える。)
といった、眼の光爛々として、
(蔦、こう神経が過敏になっちゃ、疾は重いな。)
夫人は再び二階の廊下、思わず映る姿見に、消えも入らんず思う時、座敷の燈が滅したのであった。
梅柳
二十五
「お鶴さん、分りましたか、旦那のこのお手紙が私の手にある内だったから可いけれど、もう一足で、番頭に渡るとね、今頃は、皆が捕まっているかも知れません、もしか、その人が牢へ行ったらどうするの。
お前はきっとそうしたら一所に行くとおいいだろうが、おかみじゃ、牢の中で、同棲に置いては下さいません。第一お前、今ここで、私がお前を帰さなかったら、どうしてその人に逢えますね。」
思い切って声強く、差寄る膝に手をかけた。お鶴は思わず取縋って、忍び音にわっと泣いた。
背に夫人も頬をあて、堪えず、はらはらと落涙して、
「おお、可哀相に、そんなかい。お前だって、私だって、良人を思うに二つはない。誰が、誰が、お前を帰さないでおくものか、警察へやるものか。
お前、夜中に崖に立って、その人を待った時、寒かろうって、あの、外套の下へ入れて抱いてくれたの。」
とそのまましっかと抱きしめた。
膝なる俤、背なる髪、柳と梅としめやかに、濡れつつ、しばし密とせり。
「さ。」
手を取って、顔を上げさせ、右手の指環を凝視ながら、するりと抜いて、胸に垂れたるお鶴の指へ。
「私が祈ってあげるんだよ。
それからね、この手紙を、このままお前にあげるからね、大事にして、持って行って、その人に見せるんですよ。
ああ、構いません。私の落度になっても可いの、そのかわりね、心がおありだったら、どうぞ旦那の病気が直るように、お鶴さん、お前も念じて下さいな。」
お鶴は頭おもたげに、首垂れながら合点々々。
夫人も斉く頷いたが、
「まあ、盗賊の大将に、警部長の病気本復、私も愚痴になったわね。」
莞爾したが、目を拭い、
「どれ、ちゃんとして、手帳、鉛筆も。こうしていては目につきます。」
と、立たせて、胸に秘めさせた、手紙も持ち添え、しっかりと内懐へ入れさせて、我が前髪の触るるあたり、帯の皺をのしてやりつつ、
「そしてその人にいうんですよ、これこれのものがいいました。賊でも心があるだろう、お宝は盗んでも、こんな可愛い娘を盗んではなりませんと、可いかい。
さ、もうおいで、夜が更けた。」
と送り出すように座敷を出たが、前後に隈はあれど、蔽うものなき廊下の燈。
はらりとかけたり羽織の片袖。瘠せた夫人は膨らかに、児の宿ったる姿して、一所になって渡ったが、姿見の前になると、影が分れて飜然と出た。
お鶴は胸が躍ったろう、別れの=さらば=いうのも忘れて、そのまま手水流の傍の窓。
硝子戸を引きあけると、下は坂の、二階ではないが、斜めに土塀。
一度、顔を出して覗いて見て、ふり向いて夫人を見た、双の瞳の、露に宿れる星の色。
燦然として星はあれど、涙に曇って暗かったか、ひらりと蒼い火、マッチを擦って、足場をしばし計ると見えし。
「は、」と声かけて、するりと抜けた、土塀の上を足溜。姿は黒き窓となンぬ。
夫人はしばらく、姿見を背にして、熟とそっちを瞻ったが、欄干の方に目をやって、襦袢の袖で眉をかくした。
そのおくれげを掻いた時、壁の中の俤は、どんなに、美しかったろう、柔和く気高かったろう。大慈! 大悲! 我心、我力、良人の病を癒すべく、頼母しいような気がしたので、急に何となく嬉しそうに、いそいそ座敷へ帰ろうとして、思わず、よろよろと背後に退った。
一段高い廊下の端、隣座敷の空室の前に、唐銅で鋳て※ 《さび》の見ゆる、魔神の像のごとく突立った、鎧かと見ゆる厚外套、杖をついて、靴のまま。
大跨に下りて、帽を脱し、はたと夫人の爪尖に跪いて、片手を額に加えたが、無言のまま身を起して、同一窓に歩行み寄った。深夜に鼠の気勢もさせず、帽とともに小脇にかかえた杖よりも身を細く、小さな口から、するりと抜けると、硝子窓は向うから、音もなく、するりとおのずからしまるのが、姿見にありありと映って、夢の覚際かと見えたのである。
さて、蒸風呂の中で認めた、警部長の准逮捕状には、偉大なる反響があった。一旦夫人の情に因って、八方へ遁れた、万綱の配下の兇賊、かねて目指された数をあまさず、府、県、町、村、いうに及ばず、津々浦々にいたるまで、最寄々々に名告って出た。
御曹子はしからず。ただ崖の客の盲いたるは、紫鉛筆の粉のためといい伝えて、いずれも意外の毒に舌を巻くばかり。自らその罪を責めて、甘んじて享くべき縲紲を、お鶴のために心弱り、獄の暗よりむしろつらい、身を暗黒に葬ったのを、秘に知るは夫人のみ。
程過ぎてつれづれに、琵琶を、と秋山の命で、座敷に招いた事がある。
盲目は、あかい手絡をかけた、若い女房に手を曳かれて来たが、敷居の外で、二人ならんで恭しく平伏した。
夫人は一目、ああ、その赤い手絡は見られまい、色の白いのが、さぞ、紫の涙を、とあわれさに顔を背けたが、良人のあるに襟を正した。
けれども、その時の眼の光は、かつて、蒸風呂の中におけるがごとき、爛々たるものではなかった。警部長は軽快したから。
明治三十八(一九〇五)年一月
青空文庫より引用