貧民倶楽部
六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯の夫人貞子の方は、麻布市兵衛町の館を二頭立の馬車にて乗出だせり。
いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭せる花もあらなくに、青葉も過て年齢四十に近かるべし。小紋縮緬の襲着に白襟の衣紋正しく、膝の辺に手を置きて、少しく反身の態なり。
対の扮装の袖を連ねて侍女二人陪乗し、馭者台には煙突帽を戴きたる蓄髯の漢あり、晏子の馭者の揚々たるにて主公の威権想うべし。浅葱裏を端折りたる馬丁二人附随い、往来狭しと鞭を挙げぬ。
かくて狸穴の辺なる狭隘路に行懸れば、馬車の前途に当って往来の中央に、大の字に寝たる屑屋あり。担える籠は覆りて、紙屑、襤褸切、硝子の砕片など所狭く散乱して、脛は地を蹴り、手は空を掴みて、呻吟せり。
奮み行く馬の危く鰭爪に懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗掻きたる腹立紛れに、鞭を揮いて叱咤せり。
「こら、そこを退かんか馬鹿な奴だ。」
夫人は端然として傍目も振らず、侍女二人は顔見合せ、吐息と共に推出す一言、「おお危い。」
屑屋は眼を閉じ、歯を切り、音するばかり手足を悶えて、苦痛に堪えざる風情なりき。
避けて通らん術も無く、引返すべき次第にあらねば、退けよ、退れと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁は焦立ちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと攫めば、虫の呼吸にて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟を揚げぬ。
この時酒屋の檐下より婀娜たる婦人立出でたり。薄色縮緬の頭巾目深に、唐草模様の肩掛を被て、三枚襲の衣服の裾、寛闊に蹴開きながら、衝と屑屋の身近に来り、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄き笑を漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下して、「こう、太の字太の字。」
「おい。」と眼を開けば、
「もう可い、起きな。何という不景気な顔色だよ。」
「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから儲からねえ役廻だ。」
と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼なり。知らず何が故に疾病を装いて、貴婦人の通行を妨げしや。
頬被を取りて塵を払い、「危険々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」
婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」
「あんまり好かあねえ。何しろ対手が四足二疋だ。」
「踏まれたら因果よ。白馬を飲む祟りだわな。」
「可笑くもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた手拭に頬を包み、
「姉様、用は相済かね。」
「あいよ、折角お稼ぎなさい。」
「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」
婦人は後に佇みて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらん瞬もせず書き認め、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きに達る口笛を吹鳴らせば、声に応じて駈け来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」蓋しその名ならむ。
裾に絡めば踞いて頸を撫で、かの紙片を畳みて真鍮の頸輪に結び附け、
「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとく呟くがごとく繰返しつ。
「そら、よし、御苦労だね。」
(じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべく馴らされたれば、猶予う色無く頭を回らし、頷くごとくに尾を掉りて、見返りもせで馳走去りぬ。
三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者の掌に落ちんか。
「おい、車夫様。」
婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、腕車を曳きて近寄りぬ。
「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」
打頷けば轔々として走りぬ。
深窓の美姫、紅閨の艶姐、綾羅錦繍の袂を揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李の花を咲かせて、暗香堂に馥郁たり。
在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は麹町の姫様にて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。
前面の喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵何某の未亡人、綾子といえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人を随えて、都合五人の茶屋女、塗盆片手に「ちょいと貴下。」
「御休息なさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉の腕も露わに襷懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の見世物とは冥加恐しきことぞかし。
金縁の目金を掛けたる五ツ紋の年少紳士、襟を正しゅうして第三区の店頭に立ちて、肱座に眼を着くれば、照子すかさず嬌態をして、
「御購め下さいまし、貴下、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これが可うございますよね。」と牡丹形の肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、
「はッはッお何程で遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、一閑張のお机にはうつりが好うございますよ。一円ならお剰銭をあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。
「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座を引たくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と判然言われて真赤になり、「それははや何とも。」と蝦蟇口を探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅一個渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら剰銭は要らぬと、腹を見せる目的の処、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。
年少紳士胆を抜かれてうっかりと佇めば、
「御休息なさいまし。」と茶店の姫様。
はッと思う眼の前へ深川夫人衝と寄って、
「貴下、お茶一ツ。」と差出すに蒼くなりて、
「出口はどこでございます。」とは可哀やもう眼が見えぬそうな。
入替りて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、令夫人御苦労でございます。」なかなか場数功者かな。
照子は軽く挨拶して、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」
「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれが可し、それからこれも可しと、〆《しめ》て三個頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」
照子は頤にて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて莞爾と笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」と眼を睜りしが、天なるかなと断念て、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数が懸りますまい。」
我慢強き男というべし。
「御注意難有う存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。取出だすは折目無き五円紙幣。「これで。」と差出だせば、「はいはい。」と取って澄したもの、剰銭を出ださん気色も無し。官吏始めて心着き、南無三失策ったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せと謂い難く、「こりゃ体のいい強奪だ。」と泣寝入に引退りぬ。後に二人は顔見合せ、徳孤ならずと笑壺に入る。
店頭に今度は婦人、この会場に入るものは、位ある有髯男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、渠は何者、肩掛を被ぎ、頭巾目深に面を包みて、顔容は見えざれども、目は冷かに人を射て、見る者を慄然とせしむ。
照子の顔をじろりと視め、「おい、姉様。こりゃ何程だい。」
冴えたる月に一片の雲懸れり。照子は顰みぬ。
「ちょいとお婆様。」
婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様呼わり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳が疎いのか、この襯衣を買って進げよう。」
と答えざれども無頓着、鳶色の毛糸にて見事に編成したる襯衣を手に取り、閉糸をぷつりと切りぬ。
これのみにても眼覚しきに、肩掛をぱっと脱棄てたり。慈善会場の客も主も愕然として視むれば、渠はするすると帯を解きて、下〆《したじめ》を押寛げ、臆する色なく諸肌脱ぎて、衆目の視る処、二布を恥じず、十指の指す処、乳房を蔽わず、膚は清き雪を束ね、薄色友禅の長襦袢の飜りたる紅裏は燃ゆるがごとく鮮麗なり。世に馴れては見えたまえど、もとより深窓に生育ちて、乗物ならでは外に出でざる止事無き方々なれば、他人事ながら恥らいて、顔を背け、頭を低れ、正面より見るものなし。
秋水を佩ける将校もあり、勲章を帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の裸美自若として突立ちたるは、傍若無人の形状かな。
「何だ。」「何者だ。」「野蛮極る。」「狂人だ。」と一時に動揺めく声の下より朗に歌うものあり。
色は天下の艶たり、心はすなわち女中の郎。
喝采と手を拍つもの五七人。
婦人は毀誉を耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、膚を蔽い、肩を納め、帯を占め、肩掛を取りて颯と羽織り、悠々として去らんとせり。
「盗人待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱を蒙りて、堪え堪えし腹立声。
「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。
照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と遣込むれば、濶歩に引返し、「だから最初に聞いたじゃないか、価値が解れば払うのさ。」
憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しき懸を謂う。
婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭剰銭を下さい。」
「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は真面目なり。
「先刻五円払いました。」
照子は聞くより怒気心頭を衝きて面を赤め、
「騙局です、失敬な。夫人巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、
「はい、引渡しましょう。秋や定。」と急込むにぞ、側に侍いける侍女二人、ばらばらと立懸くるを、遮って冷笑い、
「こうこう騒ぎなさんな。塵埃が煽つによ。お前様方は美くしい手で恐しい掴取をしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡して去ったじゃないか、そこで私の買物が二円さ、可しかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人の呆るるを、それ見よと畳懸け、
「銅貨じゃ重いわ。二十銭銀貨で呉んな。」と空嘯きつつ小膝を拍ち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」
夫人はギクリ、照子は無言。
天下泰平町内安全、産ある者は仁者となり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ大当。
就中喫茶店は、貴婦人社会にさるものありと衆も識りたる深川綾子、花の盛の春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉の雫滴たるごとき愛嬌を四方に振撒き、多恨多情の八方睨に大方の君子を殺して黄金の汁を吸取ること長鯨が百川を吸うがごとし。助けて働く面々も、すぐり抜きたる連中が腕に縒否襷を懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階総出大出来なり。
されば一皿の菓子、一盞の珈琲に、一円、二円と擲ちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、入交り、立替る、随喜の輩数うるに勝うべからず。
収入満と唸るといえども、常住の寡慾に肖もやらで、慈善の慾は極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身を粉にし、骨を折る、賢媛、閨秀の難有さよ。
さるにても暢気の沙汰かな。我に諂い我に媚ぶる夥多の男女を客として、貴き身を戯に謙り、商業を玩弄びて、気随に一日を遊び暮らす。これをしも社会が渠等に与うるに無形の桂冠をもってする爾き慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。
渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳に酬ゆる寸志のみ、また怪むに足らざるなり。
閑話休題。
とんとん拍子に乗が来て、深川夫人は嫣然顔、人いきりに面熱りて、瞼ほんのり、生際に膏を浮べ、四十有余の肥大紳士に御給仕をしたまいながら、「あら貴下、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄騒動のはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。
在原夫人と照子嬢は散々に罵倒されて、無念の唇を噛みたまえば、この神聖なる慈善会を、汚し犯すは何等の外道と、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて固唾を飲んで聞たまえり。
件の婦人は落着払い、その冷かなる眼色にて、ずらりと四辺を見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は性急だっさ。」
飽くまで侮る一言に、年齢少にて気嵩の照子は、手巾を噛占めて、口惜涙を、ついほろほろ。
夫人はさすが年紀の功、こは癈疾と棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に剰銭を出ださるれば、丁寧に員を検し、繻子の帯にきゅっと挿みぬ。
これを見て照子は声震わし、「あの男は其方の何だえ。親類かい、知己かい。」
いいも終らざるに婦人は答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお前様に解るまい。くわしく謂えば亭主のことさ。」
照子は眼中に涙を湛えて、屹と婦人を凝視ながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人密にその袂を控え、眼注して停めらる。振切って、
「いえ、可うございます。これ、それではあの近視眼は……いえ、謂わして下さいよ。他人の金銭に其方が関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」
と、ぽんと一本参りたまえば、待構えし体にて平然と、「ありゃ私の男妾さ、意気地の無い野郎さね。」一同聞いて唖然たり。
渠がいう処のしらじらしさ、虚言は見透きて明なれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、悄れて首を低れたまいぬ。
この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心に頷きながら、突立ちたる婦人の背を、しなやかに不意打して、
「モシ貴女。」
「エー。」と振返るに引被せて、
「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と風流に屈む柳腰。
屹と視て、「フフ、此奴はちっと骨がある。」
兵法に曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が物馴れたる扱に、妖艶なる妖精は火焔を収め、静々と導かれて、階下なる談話室兼事務所に行けり。
群集は崩れ、雑沓鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく鎮撫に帰しぬ。
野分の後は寂寞閑。
夫人も令嬢も太く得意を減殺されて、気焔大に衰えたり。
それより照子、鬱々として愉まず、愁眉容易に開けざるにぞ、在原夫人は語を尽して、賺しても、慰めても頭痛がするとて額を押え、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて侍女等、
「姫様こういらっしゃいまし。」一まず彼室の休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる招牌隠れたれば、店頭蕭条として秋暮の歎あり。
これではならぬ、と御迎の使者相望めば、御機嫌を見計らいて侍女は慰むる。「あんなあばずれのいった言は、ナニ、蚊が鳴いたのだと思召しまし。御気分が癒りましたら、二階へお出で遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の夫人ばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという顔色。
「それに、姫様。」と侍女は仔細らしく小声になり、
「福助がもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」
と乳の下三寸に銃口を向ければ、
「それじゃ行こうか。」とは罪がなし。
御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。貴女でなければならぬそうです。」
「度々御苦労ね、今直に。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、此方の侍女追縋りて、
「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、新駒屋かね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」
「あいよ。」と嬉しそうに、慌しく立上れば、御使者番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったり坐り、「私はもう。」と失望落胆。半巾をびりりと喰裂きて、「車夫に、支度を。直ぐ帰る。」
これがそれ慈善会中に第一流の貴女なり。
応接所の戸をぴんと閉めて、人払の上立籠れるは深川綾子と怪しき婦人。
綾子は後向にて顔は見えず、片手を卓子に、片手を膝に、端然と澄まして、敵の天窓を瞰下したり。
以前の勢に似もやらで、婦人は少しく悄れし体、袖を重ねて俯向きたり。惟うに博学多才なる深川夫人が慈善会を代表して、渠が暴行を戒めしに、屈服したりしものならんか。弁論今や終局して、綾子は渠が服罪を待たるる様子。
されども婦人は徹頭徹尾口を結びて開かざるなり。綾子はまた、
「尤も不束なものが寄合っていたすのでございますもの、行届かぬがちには相違ございません。少しの過失があるからって、直ぐああいう愛想尽をなさいますのは、そりゃ貴女無情ではございませんか。
この会を一呑みになすった先刻の振舞、私も呆れながら感心しました。で、きっと私共の会に対して不平がおありなさるんでしょう、就いては御意見がございましょう、それを承りたいものですね。」
と真綿で首、
上靴の爪先にて床をとんとんと叩きつつ渠が返事を促せど、聾せるがごとく死灰のごとし。
あたかもこの時「新聞。」と戸を叩きて呼ぶものあり、綾子は椅子をずらしてちょいと振向き、
「後で可いよ。」
外より推返して、「この会のことが出ております。」
「そう、ではこちらへ。」
小使恭しく入来りて卓子の上にそれを載せつ、一礼して退出ずるを、と見れば毎晩新聞なり、綾子は傍に推遣りて、
「サ、どうでございます。」といよいよ迫る。
今まではさも殊勝なりし婦人、電のごとき眼を新聞に注ぐと斉しく身を反し、伸を打ち、冷切ったる茶をがぶり、口に含み、嗽して、絨毯の上に、どっと吐出し、「何だい、しみったれな。貴婦人のお茶一つてい御馳走はこんなものか。」
容子ががらりと打って変り、「鷹の爪でも出すだろうと面倒ながら交際た。人愉快もねえ駄味噌を並べて、あたら寿命を縮めたね、こう、お綾様。」
と、一面識も無き者の我名を呼ぶに綾子は呆れ、婦人の顔を瞻るのみ。委細構わず馴々しく、
「去年、旦那が死歿って、朝夕淋しくお暮しだろう。慈善だの、何だのと、世間体はよしにして、情夫でも御稼ぎなさいな。私やもう帰ります。」と、襟掻合して立上り、「そうそうその新聞のね、三枚目を読んでみな。お前達の薬があるよ。」これを捨台辞にして去らんとするを、綾子は押止め、
「御待ちなさい。」
婦人は冷淡に、「何も用が……」
「いいえ、ございます。」と綾子は熱心。
「何さ、こっちに無いってことさ。そっちに用がおありでも、私やちっとも構いません。」冷々然として言放てば、とめても無益と綾子は強いず、「しかしこのままお別れは残惜い。お住居は? せめてお名だけ。」と余儀無く問えば、打笑いて、
「私の家は日本中サと謂えば豪気だが、どこと定って屋根は持たぬ。差当り四谷近辺の橋の下で犬と寝ている女乞食。」「え!」「丹と申す、お転婆さ。」
婦人慈善会は三日続きの予定なりし、初日よりあやかしがつき二日目の早朝、六六館へ出懸くる途次、綾子は内談の条ありて在原夫人を市兵衛町の館に見舞えり。
客室に通りて待たるれば、侍女に襖を開かせ、貞子の方静々と立出らる。
「これは早朝から。」「イエ、どう致して。」「好いお天気で。」と挨拶終りぬ。
綾子、袱紗包を開きて、昨日の毎晩新聞を取出し、「時に。」と開直りて、「ま、これを。」と仔細ありげ。
「何でございます。」と眼を注ぐ、三枚目に左のごとき雑報あり。
○今朝麻布狸穴にて、疾病、飢餓、交々起り、往来に卒倒して死に垂々とせる屑屋あり。交番も程遠く近隣に人無ければ、誰ありて介抱するもの無く、一杯の水を恵むもあらず、屑屋は人心地も無く呻きおりぬ。折から二頭立の馬車を駆りて、ここを過ぐるものあり。これ慈善会に赴かんとする在原貞子の途次なりき。しかるに万死の貧民に向って道を譲らざる無礼を責め、無慙なる馬丁は渠を溝際に投飛ばして命縷将に絶えなんとする時、馬車は揚々として立去れり。
車中の婦人はこれが始終を見物しながら、貴族たる権威の発表せられしを歓べる色ありきという。
「一体事実でございますか。」と綾子は眉を顰めて問えり。
貞子の方は言葉縮まり、窮して応うる処を知らず。
読来りて眉動き、読去りて蒼くなりぬ。
見る間に太る額の蒼筋、癇癪持の頭痛病にて、中年以来丸髷に結いしこと無き難物なれば、何かはもって堪るべき。呼鈴を烈しく鳴して、「矢島をこれへ。」と御意あれば、畏まりて辷出づる婢と入違に、昨日馬を馭せし矢島由蔵、真中の障子を開きて縁側に跪き、
「もはや御耳に達しましたか、何ともはや恐入りました。」と続様に額を下ぐ。
夫人は御褥を辷らしたまいつつ、「金次に早速暇を出しゃ、其方もきっと謹むが可かろう。」との御立腹。
「はッ、仰一応御道理、御言を返しましては恐多くござりまするが、あれが死にましたは何も金次の知ったことではござりませぬ。」
綾子も夫人もぎょっとして、「ええ、死んだと。」
「はッ、いつも朝御飯を戴いて外へ出ますのが、今日は御玄関が開くとそのまま飛出しました。これが前兆と申すのでございましょうか、誠に争われぬもので、御愁傷様。」
と恐入るは、ちと筋道が違うようなり。
夫人は訝り、「これこれ、其方は血迷うていやるようじゃ、落着いて申すが可い、死んだといやる、何がどうしたのじゃ。」
矢島も怪訝な顔色にて、「御手飼の狆が屠犬児に。」
「おや……」と夫人は血相変え、火箸を片手に握りしまま、衝と立上って矢島を睨附け、「ヌ――」とばかり、激怒して口が利けず。
新聞にてたたかれし口惜さと、綾子に対して言訳なさと、秘蔵の狆の不幸とが一時に衝突して、夫人の剣幕さながらダイナマイトのごとくなれば、矢島は反返って両手を前に突出し、「で……で、下手人はその場を去らず、と……捕えました。死骸は御玄関、きっ……きっと敵を。」と呂律もしどろ。
「貴女ちょいと。」失礼といいもあえず、夫人はずるずると裳を引摺り、玄関へ駈出したまう。「ああだもの。」と歎息して、綾子は後に思案投首。
撲殺して占め損い、遁げんとして馬丁に見露され、書生のために捕えられて、玄関に引摺込まれし、年老いたる屠犬児は、破褞袍を衣て荒縄の帯を〆《し》め、踵の辺は摺切れたる冷飯草履を片足脱ぎて、花崗石の上に平蜘蛛。
可憐お手飼の狆は、一棒を撲ってころりと往生し、四足を縮めて横たわりぬ。
貞子の方は奥より駈出で(見るに眼も眩れ心も消え、)と絃に乗るまでにはあらざるも、式台の戸より隙見して、一方ならぬ御愁傷なり。書生は殊更にかっぷと唾を拳に打占め、
「不屈な奴だ、恣に動物を殺傷するとは容易ならぬ犯罪だ。金どんどうしてくりょうな。」と件の拳固に、はッはッと気勢を吹く。
金次は仰山に自然木の杖を構え、無事に飽倦める腕を鳴して、
「野郎め、飛んだことをしやがった。平民の野良犬も多いのに、何も選好をして華族様の御手飼を殺らずともの事だ、奥様に知れようものなら、金次一生の越度とならあ、忌々しい。汝、どうして腹を癒よう。」と、地板をどしん。
屠犬児は震上り、「あ、皆様手荒きことをなされますな、畜生の死んだのは取返す法もあれ、人間の身体はこれ撲ると疵が附きまする。」
「知れた事だ。汝等のような蛆虫は撲殺したって仔細は無え。金次どうだ。」「撲っちまえ。」と、拳と杖の空に躍るを、「待った。」と間に割込むは、夫人の後を追うて、勝手口より出たる矢島、「今聞いた、何か、活す法もあると謂ったな、なろう事なら活して戻せ。汝も無事じゃ、我等も満足、自他の幸福というものじゃ。さ、どうじゃ。」
と平和に謂出だせば、屠犬児は顔を擡げて、「何の雑作もござりませぬ。初手からそう出さっしゃれば、訳は無いに、余計なことに御騒ぎなされる。やれやれ。」と起上りて、「襟首を放した、放した。」
書生も馬丁も没面目、手持不沙汰に控えたり。屠犬児は腰を捻りて、狆を手許に掴寄せ、
「この骨だ。それ。」と懸声して、やっと一番活を入るれば、不思議や四足をびりびりびり。一同これはと驚く処に、
「も一つかい。」とまたごつん。
たちまち蘇生て悲鳴を揚げ、太く物に恐れし状にて、狆は式台に駈上れば、やれ嬉しやと奥様は戸を引開け抱き上げて、そのまま奥へ、ふいと御入。
しばらくして、侍女立出で、「矢島様お奥で召します。その人を連れまして庭口からお露地へ。」
こはそも華族の御身として、かったいものの屠犬児に、直接御面会は心得ずと、矢島は思えど、主命なれば、来れ、と渠を麾きて、庭口より露地へ廻れば、夫人は縁側に褥を移して、綾子と二人並び坐しつ。引退りて腰元一人、三指にて侍べれり。
「はッ、御意に依って召連れました。」屠犬児はただおずおず。「これへ近う。」と仰せらる。
この屠犬児恐しき家業には似もやらで、至極実体者、地に平伏し、
「唯今は御慮外をいたしまして、恐入ってござります。命を繋ぐためとは申せ、因業な活計でござりまして、前世の罪が思い遣られまする。」と啜上げて、南無阿弥と小声にて唱え、「じゃと申して、土を噛っては腹が承知いたしませぬ処から、余儀なく悪いことを致しまする。ああ、この世からの畜生道、良い死目には逢われますまい。果敢いことでござります。」
潸然として溢す涙に真心見えて哀なり。
「老年が罪を造るのも貧ゆえです。ねえ、貴女。」と綾子眼をしばたたけば、貞子は頷きて、「定や、あれを遣わすが可い。」
侍女は畏りて一包の金子を持出で、
「御情だよ、頂戴しな。」と痩せたる掌に握らすれば、屠犬児は樹に魚を獲たる心地、呆れて窪める眼を睜りぬ。
綾子は少しく乗出だし、「他に渡世の道が無いでもあるまい。ちっとじゃが資本にして、そういう穢らわしい商売は休めたが可い。お前はどこの者だえ。」
溢るるばかりの情の露れ、屠犬児は袖を濡して、「ああ、忝うござります。何たる、神様か、仏様か、お庇で清く死なれまする。はいはい、私風情にここと申す住所もござりませぬ。もう御暇を下されまし。」と揉手をしつつ後退。
御両方無言にて頷きたまえば、再び矢島に導れ、門を出でて三拝せしが、見送る人眼のあらずなれば、ニヤニヤと笑うて、ペロリと舌。
「占めた、占めた。」と呟きつつ立去る裾をひしと啣えて引留めたる一頭の犬あり。
「屠犬児を引張るなあ、どこの犬だい、ずうずうしい。」首を捻りて、「ほい、じゃむこう。姉御はどうした。」
「ここに居るよ。」
と辻便所より女乞食、膚の色の真白きに、海松のごとき袷を纏えば、泥に塗れし残の雪。破草人の笠を被りてよぼよぼと杖に縋り、呼吸づかい苦しげに――見せ懸けたるのみ、実はしからず。
「おい。」と屠犬児を呼近附け、「呉れたろう。」「貰ったよ。姉御の先見露違わずだ。」と先刻の包を取出だして、「あててみさっし。」
「片手がものだ。……ね、それ、違いなし違いなし。」
屠犬児は天窓を掻きて、「むこうがおめでたいだけにちっとは冥利が悪いようだ。はて、体の良い騙取じゃねえか。」
女乞食は微笑みて、「何のお前、罪にならぬ盗人は白日御免の世の中だによ。どう、五円だけ油を掛けよう。」
在原貞子、深川綾子、両夫人の徳に感化して兇悪なる屠犬児心を飜して良民となれり。噫偉なるかな、其仁禽獣に及ぶ……と無暗にお誉めなさるべく候。
毎晩新聞社にて――清ちゃん行。
紙片に記して読返し、「これじゃ一両がものはあるわね。」
在原夫人の屠犬児に金子を恵みたるは、蓋し綾子の勧誘に因れり。
「ああしておいて様子を見ましょう。もし今日のことがまた新聞に出ますようだと、何物か我々社会の挙動を探って世に曝露しようと企るものがあるのです。そうした日には私共もその心得が無ければなりません。で、試してみたのです。どっちみち今日の恵は御為に悪いことはございません。」と座蒲団を撥ねて、「これは早朝から御邪魔申しました。それではなりたけお早く御出下さいまし、一足御先へ。」と座を開けば、
「もうちと宜しいじゃございませんか。」「いえ、まだ用事もございます。さようなら六六館で御待ち申します。」貞子は昨日の今日にて気が進まず、「ふとすると失礼致すかも知れません。悪からず。」綾子は怪み、「何ぞ御差支がございますか。」
貞子夫人は額を押えて、「はい、血の道が起りました。」
蓋し無理ならぬ仰なり。
病気を強いてとも謂い難く、「それは不可ませんね。御大切になさいまし。しかし大抵なら御待ち申しますから……」
言葉を残して綾子は静々、「御帰ッ。」と書生が通ずれば、供待の車夫、踞うて直す駒下駄を、爪先に引懸けつ、ぞろりと褄を上げて車に乗るを、物蔭より婢が覗きて、「いつ見ても水が垂るようだ。」
この腕車勢好く我善坊を通る時、出合頭に横小路より異様なる行列練出でたり。
朽葉色に垢附きて、見るも忌わしき白木綿の婦人の布を、篠竹の頭に結べる旗に、(厄病神)と書きたるを、北風に煽らせ、意気揚々として真先に歩むは、三十五六の大年増、当歳の児を斜に負うて、衣紋背の半に抜け、帯は毒々しき乳の上に捩上りて膏切ったる煤色の肩露出せり。顔色青き白雲天窓の膨脹だみて、頸は肩に滅入込み、手足は芋殻のごとき七八歳の餓鬼を連れたり。次に七十二三の老婆、世に消残る頭の雪の泥塗にならんとするまで、太く腰の曲りたるは、杖の長の一尺なるにて知れかし。這うがごとくに、よぼよぼ。続くは十五六の女、蒼面、乱髪、帯も〆《し》めず、衣服も着けず、素肌に古毛布を引絡いて、破れたる穴の中よりにょッきと天窓を出だせるのみ、歩を移せば脛股すなわち出ず、警吏もしその失体を詰責せんか、我は貧民と答えて可なり。
その他肥えたる豕あり、喪家の犬の痩せたるあり。毛虫、芋虫、蛆、百足、続々として長蛇のごとし。
中陣には音楽家あり。破三味線、盲目の琴、南無妙太鼓、四ツ竹などを、叩立て、掻鳴して、奇異なる雑音遠くに達る。
棍棒を取れる屠犬児、籠を担える屑屋、いずれも究竟の漢、隊の左右に翼たり。
また先刻に便所より顕れしお丹といえる女乞食、今この処に殿せり。
総勢数えて三十余人、草履あるいは跣足にて、砂を蹴立て、埃を浴び、一団の紅塵瞑朦たるに乗じて、疾鬼横行の観あり。
綾子は袖にて顔を蔽いぬ。
車夫は飛ぶがごとくに馳す。
咄嗟にお丹乞食は、一種異様の光を帯びたる眼をもて屹と見送り、「あの邸さ。」と綾子を指して、「秀坊を入れとく内は。」傍の者に囁きぬ。
一列の疫病神は、天を畏れず地を憚らず、ましてや人に恥ずる色無く、おもむろに大道筋を練って通り、芝――町なる六六館の門前に到れる時、殿なせるお丹乞食、「ここだよ――ここだよ。」
声の下、鳴物の音を静めて、常山の蛇まず鎌首を侵入せり。
門衛遽しく遮って、「こらこら、ここは寺院じゃないぞ。今日葬式のあるなあ一町ばかり西の方だ。」
と早口に罵れば、旗を持てる先達の女房、両足を広げてずいと立ち、
「うんにゃよ、葬礼饗応を貰いに来やしねえ。こちとらこう見えてもね、乞食じゃねえのス、ちと買物をしべえから御通しなさいやし。」と妙な言草。門番呆れて、「汝等何が買えるもんか。干葉や豆府の滓を売りやしまいし、面桶提げて残飯屋へ行くが可い、馬鹿め。」
女房聞咎めて、「何だとえ、馬鹿にしなんな。これでも米を食う虫一疋だ。兵隊屋敷の洗流にもしろさ。憚りながら御亭主は鉄道馬車の馬糞を浚いやす、強い掙人さね。門番の癖に生意気な、干葉を売らぬもよく出来た。糸爪野郎。」と一通の婦人には真似てもみられぬ色気無しの悪口雑言。
「ブッ失敬な奴だ。」と眼を瞋らし、「たって入りたくば切符を買え、切符を。一枚五十銭だぞ、汝等に買える理窟は無いわい。」と怒鳴る。
老婆これを聞きて、よぼよぼと進出で、「いえもし二分が一分でも無銭で遣ろうとおっしゃりましても切符は真平でござるよ。聞いて下さいやしこうじゃわいな、お前さん、過日切通の枳殻寺で施米があると云うから、この足で、鮫ヶ橋から湯島下りまで、お前様、小半日懸って行ったと思わっしゃれ、そうすると切符を渡して、なお前様、明日来い、米と引替えるというではござらぬか。何がお前様、翌が日のことを構うていられるようなこちとらではござらぬじゃて。腹が立つまいことか、御察しなされませ。内に寝ていてさえ空腹うてならぬ処へなまなか遠路を歩行いたりゃ、腰は疼む、呼吸は切れる、腹は空る、精は尽きる、な、お前様、ほんにほんに九死一生で戻りやしたよ。老人の謂うことと牛の尻の何とやらは外れぬげな、これからも有ることじゃで、忘れてもああいうことはなされますな。明日一両下さるより今の一厘半が難有い儀にござる。ほんのことさ、お前様、なろうならば米よりは御飯を下さいやし、御飯よりはまた老人にはお粥が好うござる。何のこれ、嘘は申しませぬ。有りようの処は初鰹を戴いてから煮て食うわけには参りませぬじゃ。実にはや因果でござる。はいはい南無阿弥陀仏。」と長談議、何を云うやら他愛無し。
門衛の持余すを見て、微笑を含みたるお丹乞食、杖をもって門の柱を、とん。「同宿、構わずに、しけ込めしけ込め。」
「うむ、合点だ。」
急先鋒の屠犬児、玄関へ乱入する、前面を立塞ぎて喰留むるは護衛の門番、「退れ、推参な!」というをも聞かず、無二無三に推込めば、
「ええ、此奴等。」と拳を揮う。
「ちょっ、面倒だ。」と衝と寄りて、門番の両手を扼るは、昔関口流皆伝の柔術家、今零落して屠犬児、弥陀平というは世を忍ぶ仮の名にて、本名あるべき親仁なり。
捉うる処法に合えば、門番は立竦になりて痛疼さに堪らず、「暴徒が起った。大……大……大変、これ、一大事じゃ、来てくれい。」
と血声を揚ぐるに、何事ならんと二三人靴音高く馳出でつ、この体を見て、それと組附く。
三人懸を悠々とあしらいながら、「ここ構わずに、ソレ入った入った。」
商品陳列場の通路には、はや毛虫ども、うようよぞろぞろ。手分して一区ごとに三人ぐらいずらりと行渡る。
お丹乞食は左右を見廻し「もう可かろう。」というを合図に、
万口一声、「ああ空腹い。」
かくして後、思い思いに敵を見立てて渡合う。例の口汚の女房は、若手の令嬢組の店頭に押立ち、口中得ならぬ臭気を吐きて、
「姉や、何でも可いから早く呉んねえ。見さる通り子持だによって、そのつもりでの、頭数三人前。」と天外より来る分らぬ言分。
令嬢等呆れ果てて顔見合せ、唖然として言葉無し。
「はて、返事が無えの、可し可し。」と籃に籠りたる菓子を掴めば、堪えかねて、
「お前何をする失礼な。」と極附けたまうを鼻ではじき、「ふむ、どうもしやあしねえ、下さるものを頂きますのさ。慈善会とやら何とやらといって、御慈悲の会じゃげな。御辞儀無しに貰おうという腹さ、空腹い腹だね。はははは。」と高笑、「そこでお撮で召食る、む、これは旨え。」と舌鼓、「餓鬼泣えめえよ。」と小児にも与えて散々に喰散らす、怪しからぬことなり。
令嬢方は背後を向き、何かひそひそ囁きしが、店を棄置き、姿を隠せり。
屑屋はまた貴婦人を捕えて罵詈讒謗、「あ、あ良い匂だ咽返るようだ。」と鼻を突出してうそうそと嗅ぎ、「へん、咽も返るが呆れも返らあ、阿蘭陀の金魚じゃねえが、香水の中で泳いでやあがる。や、また塗った塗った、その顔は何だい、まるで白粉で鋳出したようだ。厚きこと土蔵の壁に似たりよ、何の真似だろう、火に熱けぬというお呪詛かも知れねえ。」
と正面よりお顔を凝視めて、我良苦多の棚下。貴婦人は恥じ且つ憤りて、頭を低れて無念がれば、鼻の先へ指を出して、不作法千万。
「なあ、おかみ様、その面の皮一枚引めくる方が、慈善会よりよっぽど良い慈善になるぜ。こちとらの大家様が高い家賃を取上げて適に一杯飲ます、こりゃ何も仁じゃねえ、いわば口塞の賄賂さ、怨を聞くまいための猿轡だ。それよりは家賃を廉くして私等が自力で一杯も飲めるようにしてくれた方がほんのこと難有えや。へこへこ御辞儀をして物を貰うなあちっとも嬉くねえてね。そしてまた無暗に施行々々といいなさるが、ありゃお前、人を乞食扱にするのだ。
目下の者を憐むんじゃなくって軽蔑するのだ。トまず謂ってみたものさ。お前様方が人中で面を曝して、こんな会をしなさるのは、ああ、あの夫人は情深い感心な御方だと人に謂われたいからであろう。
その時は、誰か頂くものがなければなるまい。してみると貰うて進ぜる方がまだお前達の面を好くして、名を売ってやる恩人だ。勘定すれば一銭も差引無し、こちとらは鰹節で、お前様方が旨え汁を吸うといったようなものだ。
そこでそれ、お前達が人に誉められるために私等に税金をお出しなされる。今日はそれを取上げに来やした。志ありだけ寄来さっせえ。」と大声に喚立つれば、ここの夫人も辟易して、休息所へふいと立つ時、
「おっ、臭え、ふわふわ湯具を蹴出すない。」と鼻を掴みて舌を吐きぬ。
ちょいと雛形がこんなもの。三十余人の貧民等、暴言を並べ、気焔を吐き、嵐、凩、一斉に哄と荒れて吹捲くれば、花も、もみじも、ちりぢりばらばら。
興を覚まして客は遁出し、貴婦人方は持余して、皆休息所に一縮。
貧民城を乗取りて、
「さあ、これからだよ。売溜の金子はいくらあろうと鐚一銭でも手出をしめえぜ。金子で買って凌ぐような優長な次第ではないから、餓えてるものは何でも食いな。寒い手合は、そこらにある切でも襯衣でも構わず貰え。」とお丹の下知に、狼は衣を纏い、狐は啖い、狸は飲み、梟謡えば、烏は躍り、百足、蛇、畳を這い、鼬、鼯鼠廊下を走り、縦横交馳、乱暴狼藉、あわれ六六館の楼上は魑魅魍魎に横奪されて、荒唐蕪涼を極めたり。
この時最寄の交番より巡査真黒になりて駈附けつ、暴行を制せんとすれば、お丹先んじて声を懸け、
「おい、皆静まった。」
一同直ちに粛然とせり。
巡査は気を抜かれていささか手持不沙汰、今更疾呼しても張合無ければ、少々声音に加減をして、
「汝等、ここをどこだと思ってる。」
お丹衝と進みて、「はい芝区――町、六六館。」
「そないなことは謂わずとも知っちょるわい。」
「でも御訊き遊ばしたからさ。」
巡査は頬を膨らして、「黙れ。場所柄も弁別えず乱暴をいたしおる。棄置かれぬ奴等だ。華族方の尊威を汚すのみならず、恣にここの売物を啖いよったは盗人だぞ。」
と睨付くれば、火事はどこだという顔色。
「へい、さようかね。」と頓興声。
「さようかねとは何だ。」「でも貰って食べたんですわ。」
「誰が汝等に遣るというもんか。」お丹真顔になりて、「だがね、皆で頂戴いたしますというと黙ってどこかへお隠れなすったから可いのだろうと思いまして……」
巡査はじれ込み、「一体全体ここをどこだと思っちょるんだ。」「くどいねえ、芝区――町、六六館です。」
巡査弱って、「こりゃ、無茶だ。」「何でございますと。」「考えてみい、世が世なら、汝達が拝むと即座に眼が潰れるような御夫人方だ、何だって汚らわしい乞食風情に御言語を下さるものか。」
お丹は感じ入りたる状して、「さようでしたかい、さようとは存じませず、まあ。飛んだことをいたしました。つい一言ならぬとおっしゃれば可いのにさ。ねえ、旦那。しかし出来たことなら詮方がございません。」
「仕方がないって済まされんぞ。それにこの会は何も汝等に施行をするんじゃない、収入額は育児院へ寄附に相成るのだ。」
「だって物事はそう規則通りには参りません、旦那、医者を御覧なさいな。急病人の方へは先に駈附けるじゃございませんか。育児院は、ナニ、養生をしてるので、私等は九死一生、餓死、凍死をしようとする大病人、ちょいとそれ繰廻を附けて下すっても可かろうと思いましてね。」と手前勝手の一理窟。
「そんならなぜそのように神妙に御慈悲を願わない。」
「はい、貧乏人に式作法はございません。」
「汝、言いたい三昧なことをいやあがる。何しろ家宅侵入だ。処分するぞ。」
といってみたものなり。これだけの人数を食客に背負込みては警察大難儀。
お丹片頬に微笑を含み、「じゃあ御拘引下さいますかね。」巡査少し慌てて、「どこへ。」「はてさ、御役所へ。」「何い。」と眼を睜れば、お丹笑い出し、「実はね、宿六滅法不景気で、山の神や、小児連中、顎が干上るもんですから、多時お扶持を頂いて来いって、こんなに申しますので、お言語は渡に舟、願ったり叶ったりでございます。」
「何もたって拘引するとは言わん。」
「いいえ、御遠慮には及びません、どうぞお拘引なすって。」
警官は持余しぬ。さりとて不問にも帰し難ければ、「ともかくも戸外へ出ろ。」と数珠形に引立てて戸外へ出ずれば、今まで荒れに荒れた屠犬児、神妙に畏りて、「へいへい私も御一所に。」
護送されたる一列の貧民は、果報拙くして御扶持を頂くことを得ざりき。渠等は青山の僻地なる権田原にて放鳥となりぬ。「はいさようなら。」と巡査に別れて、お丹は一同とともに直ぐ目の下なる鮫ヶ橋の塒に帰れり。
午後四時頃、麹町永田町なる深川夫人の邸の庭へ、垣より潜入りたる茶褐色の犬あり。
「おや、どこから来たのだろう。」
と呟きつつ縁側に出でたるは、年紀の頃十六七、色白の丸ぽちゃにて可愛らしき女、髪は結立の銀杏返、綿銘仙の綿入を着て唐縮緬の帯御太鼓結、小間使といふ風なり。名を秀という、どこかで聞いたことのあるような。
「奥様御覧遊ばせ、お松どんちょいとお出よ。三太夫様、吉造様。」
と珍しからぬ一匹の犬に、夫人をはじめ、朋輩の女中、御家老より車夫に到るまで、家族のありたけ呼立てしが、返事をするもの一人も無し。
理あるかな、今宵は館に来客ありとて、饗応の支度、拭掃除、あるいは室の装飾に、いずれも忙殺されつつあり。
「ああ、誰も……」と前後を見廻し、屹と頷き、帯の間に秘持てる紙片を取出だしつ、くるくると紙捻にして、また左右に眼を配り、人のあらぬを見定めて。
「じゃむこう。」うわっ。
「おいで、おいで。」と手招きすれば、先より気色を窺いたる、(じゃむこう)衝と来たる。頭を撫で、かの紙片を首環に結附け、指にてぐいと押込むとたんに、後架の戸ぱたりと開く。見返れば綾子夫人、「秀、何をしている。」
秀はおどおど、「はい、何、あの……まあ、ちょいと御覧遊ばせ、飛んだ良い犬でございますねえ。飼われているのかして綺麗ですよ。上手にちんちんを致します、それそれ。あら、御廻も旨いこと、ほほほほ。」とわざとらしく笑い、「おやおや、犬に夢中になってサ、まあどうも飛んだ失礼、ただいま御手水を差上げます。」
あたふた飛んで来て柄杓を取れば、両手を出して濯ぎながら、跪坐る秀をじっと御覧じ、「秀。」屹としたる御召に、少し顔の色を変えて「はい……い。」綾子は声に力を籠めて、「お謂いでないよ。」語は一句、無量の意味を含めたり。
小間使は情を解せず、返事に行詰りて無言なり。
「お謂でないよ。」と繰返して、「今に御客も来るし、今朝のね、彼の件はきっと謂わないだろうね。」と幾多の危懼、憂慮を包める声音、==お謂でないよ==は符牒のようなり。ただ秘密あれば従って符牒あり。彼とこれとは背と腹のごとし。両々相待ちて(彼の件)という物体となる。(なぞと拈る奴さ)
==今朝のね、彼の件==というに到りて、小間使は直ちに呑込み、「何の奥様、誰が饒舌ますもんですか。」「ああ、そうだろうとは思うけれども、きっとかえ。」
秀は誓うがごとく、「はい、きっと。」
「きっとだよ。」御念の入ること夥し。
夫人が態度の厳粛なりしは、犬の手品を見附けたる故にはあらで、「きっと。」をいわんとて、屹とせるなりと、小間使は観察しつ。ほっと一呼吸、汗を入れぬ。心の内で、「まず可かった。」「あら、口笛の音がするよ。」と綾子は耳を欹てたり、戸外にて喨々と二声三声、犬は疾風のごとく駈出だして、「変だ。」と思うまに見えずなりぬ。
「秀。」
小間使はまたギクリ。
「飼主が戸外に居たと見えるよ、犬を内へ入れたのは何だか気懸ではないかい。」「はい、気味が悪うございますねえ。」
「皆にそう申して夜分は気を着けるが可い。」「三太夫様に申しましょう。」
おや、風説をすれば、三太夫、罷出でて、「はッ番町の姫様、御入来にござりまする。」
先登第一は小浜照子、在原夫人その後より、追次取次来る客は皆慈善会にて見たりし顔なり。蓋し今宵の集会は、前日の慰労と兼て将来の方向を談ぜんため。
なおかつ今度は貧民に容易ならざる汚辱を蒙り、大に貴婦人社会の体面を傷けたれば、この際屹と決心する処なかるべからずと、綾子が檄を飛ばせるなりき。
「大分賑じゃの。」
と唐突に襖を開け、貴婦人、令嬢、列席の大一座、燈火の光、衣服の文、光彩燦爛たる中へ、着流に白縮緬のへこおびという無雑作なる扮装にて、目まじろきもせで悠然と通る、白髪天窓の老紳士、これは御前と一同が座を譲るこそ道理なれ。裏の木戸口を隔にて、庭続の隣家の殿、かつて政事をも預りしが行年ここに五十六、我老たりと冠を挂けて幕の裡に潜みたまえど、時々黒頭巾出没して、国五郎という身で人形を使わせらる。下座語の懐へ、どろんと消え、ひょいと出る、早替の達人と、浮世床にて風説の高き、正三位勲何等、大木戸伯爵と申すはこれなり。
綾子が夫、在世のみぎりは伯のために無二の忠臣なりければ、それが死去せし後も未亡人に目を懸けたまい、深川家一切の後見をせり。
ごく気の軽き御前にて、案内も請わで御意のまま木戸口より御入ある。
「あ、いずれもそのままそのまま。」と避けんとする者を手もて制し、好き処に座を占めて、「これが勝手じゃ構わずと大事ない。私が来たからとてそう改まっては不可じゃ。このとおり寝衣のままじゃがの、実はもう寝ようと思いおった処、若い人の声が聞えるもんじゃで、急に浮世が恋しゅうなっての、とうとう娑婆へ出て参った。」と呵々と笑い、葉巻をはたきてまた咬え、「さて、何か、家の御主人から聞けば慈善会へ毛虫が集ったそうじゃな。いや、定めし御困りじゃったろ。怪しからん、また毎晩新聞で悪口を申したってな、悪い奴らじゃ。」
と烟草を差置き、唇を両三度手巾にて押拭い、その手をすぐに返して髯を扱く。
年紀は孫ほどの照子、強請るがごとき口吻にて、
「御前、どうか遊ばして下さいよ。私等は口惜くて口惜くて仕様が無いの、ああいう乱暴な貧民は何人あろうと、一人々々ふん縛るわけには参りませんか。」
「不可ません、そういたすとまた新聞で散々悪体を申すだろうじゃございませんか。」とは在原夫人、御自分経験があればなり。
「新聞が邪魔になるのは私等に限らぬと見える。御夫人方にも目の瘤じゃの。面倒なら停止をさそうか。」「そういたして頂きましょうか、ねえ。貴女。」と在原夫人左右に問えば、「そうね、それが可うございましょう。」とのこらず同感。
「いいえ、悪うございましょう。」と綾子一人異議を唱えて、
「それでは、非を蔽うのです、それにあの新聞も、在原の夫人が屠犬児に御恵みなすったことなどは、大層誉めたではございませんか。今停止をさせたでは卑怯に当りますよ。」
「さようじゃの。」
と伯爵は頷きたまえり。
「仕様がありませんね、どういたしましょう。」「こうしてはどうです。」「それも不可ません。」「やはり仕様がありません。」などと小田原評定果し無し。
伯爵は懊悩がり、「そんなに急らんでもまあ可えわい。心配なさるな、どうにかなる。時に、才子は今夜来ていないかの。」綾子「百田様?」伯は「うう」「は、参っております。」「どこへ行った。」とありける時、
「御前いらっしゃいまし。」と敷居越に一礼する二十四五の好男子、伯爵太く渠を愛して才子々々と召たまう。実の名は時次郎といえり。深川家とは親類交際、しばしば出入して家人のごとし。これこの家の後見が、渠を挙て綾子の世継とせんずる内意あるによる。
今宵も席の周旋に来りいるなり。
「さ、ここへ入れ。」と傍に座を給い、「婦人方の席へ我一人孤城落日という処じゃ。や、何方も沸切らぬ堅い談話はまたの日するとして面白く談話そうではないか。なあ。」と見返れば、「それが可うございましょう。」時次郎は御意次第。
照子は一番に大賛成、「御前また戦の談話を遊ばせな。あの貴下が命からがらで御遁げ遊ばす処が一番愉快い。」
伯爵は苦笑。「うふふふ、我を如燕になさる。そういうことをいわるると恐怖い談話をするぞ、怪談を。」と仰する折しも、庭にて犬の鳴く声頻なり。
「夫人、大層吼えおるな。」
とさすがは後見気を着けたまえば、
「は、先刻怪訝な……犬が入りました。」
「ちょっと、私が……あの見て参じます。」と茶の道に侍うたる小間使の秀、御次へスルリ、辷出でて東の縁の雨戸一枚外して取るや否や、わんと飛付くを、叱――叱りながら、ちょいと妙な手附をして、帰天斎手品の早業「じゃむこう、御苦労だね。」とごく小声。犬は一散に引返して、垣を潜りて出でたる外には、提灯提げて彳む女。
「見せな。」と渠を引寄せて頸環に結べる紙片を取り、灯影に透かして、読めば曰、
小田原評定に過ぎず候
「可し。」と呟きて提灯ふっと消し、「これは可いとして、お秀の身に、もしひょっと……ああ、気に懸る。」
と垣に寄添い、うっかりとする背後に靴音、はっと見返る眼の前へ、紅燈一閃、衝と立つは、護衛のために見巡る巡査。
婦人はちょいと小腰を屈め、「旦那、四谷へはどう参ります。」
じゃむこうに御託の昼間の書信慥に落手いたし候、好材料に候えども、お前様身に取りては極めて危険なものを見られ候。いかなる難儀あらむも計り難く候あいだ、屹度御用心なさるべく候。(彼の件)を見届け候以上は此の家に最早用は無之且つ居ては御身危く候まま、明日にも暇をお取りなさるべく候――
細字をもって認めたる警戒は、此方より「小田原評定云々。」と記しやりたる書信を引換に、「じゃむこう」の首輪を経て小間使秀の手中に落ちたり。廊下人無き処にて秀は読過一遍、「ああ、そうだ。おお、恐怖いことね。早速お暇を頂こう。ちょうど可い久濶で祖母様の顔も見られる。」
紙片は寸断し去って袂に葬り、勝手許に退らんと歩み来る、片隅の闇中より、黒きもの、ぬっと出づ。お秀「きゃっ!」と飛退れば、とんきょう声で「ばあっ。」と驚かす。善からぬ洒落なり。
小間使は腹を立て、「誰だい、ひと、愉快くもない、お巫山戯でないよ。」と叱言を謂う。
「そんなに怒りたまうな。僕だ、僕だ。」と傍に寄るは百田なり。「おや、貴下ですね。」とお秀は俯向き、思えらく、「そんなら怒るのではなかったっけ。」什麼生この心中は、――少しあのナンと知るべし。時次郎は馴れ馴れしく、「堪忍おしよ。驚いたろう可哀そうに。」「は、い。」とただ逆気る。
「あのね、お前にね。」と突然お秀の袂を捕えて、ちょいと小あたりにあたって見れば、小間使はもう真赤、こいつものになると、時次郎は声を密め、「内証で相談がある。まあ、ちょいとちょいと。」曳かるる袖を払わんとはせで、「御串戯を。」と口の内、夢路を辿りて小蔭の暗闇。時次郎はひたと寄添い、
「すこしお依頼がある。肯いてくれないか。」お秀は虫の音「どういたしまして。」
「肯くかい。」「いいえ。」「ン、じゃ嫌か。」「どうですか。」と四辺を見る。「悪く初心ぶるな、もう知ってる癖に。」「あら、存じませんよ。」と手をもじもじ。
生殺与奪の権は我が掌中にあり、時次郎時分は可しと、「何むずかしいことは無いのさ。こうすればそれで可い。」とやにわに帯に手を懸くれば、わなわな震えて、「あれ。」と竦む。「おっと驚くべからず、この男色気無しだ。秀様実はね、大木戸の御前が例の串戯に妖怪談話をお始めなすって、もとこの邸は旗本の居た所で、癇癪持の殿様がお妾を殺したっさ、久しいものだがその妄念が残っていて、今でも廊下へ幽霊が出ると謂って、婦人方を恐怖がらせた奴よ。黙って聞いていれば何事も無かったのに、照子様が、それ御存じの知ったかぶりだ。(御前、そんなことがあるもんですか、科学上から)ナンノッテ滅茶々々に打破したもんだ。すると御前も負けぬ気で、(それでは幽霊の出るという邸の廊下のはずれまで貴嬢一人で行って来ることが出来ますか)(何時でも)というので、ね、秀様、今に番町のがここへ行って来るのさ。あんまり生意気だから一番威してやろうと思って、私があすこに隠れていたがね、男がやると差合だ、ちょうど可いからお前に頼む、ね、幽霊にならないか。愉快いよ。」
と口説くように言含むる、あのナンノが依頼なれば、秀は嬉しき思入れ、「しかし可うございますかね。悪戯をいたしても。」「構うもんか、内の夫人も御隣のも呑込んでお在なさるるから可い、そこで帯をお解きといったんだ。そのままじゃあ落が来ないよ。そうして思切って髪も毀しな。」「まア髪を。」お秀は鬢を圧えて顰みぬ。「今度結う時は島田にするさ、その方がうつりが可い。」「何とでもおっしゃいまし。」「それとも丸髷に結わしてみようか。」「もう、よござんす。」とむっとする。「おやまた怒ったか、笑ってくれ、拝む。拝む、おっと笑った、さてさて御機嫌が取悪いぞ。またもや御意の変らぬうちだ。」と抱竦めて元結ふッつり。
「あれ、不可ませんよう。」「可いてことさ。」せりあううちに後毛はらはら、さっと心も乱髪、身に振かかる禍のありともあわれ白露や、無分別なるものすなわちこれなり。
お秀はただほっとして「あら、嫌否、私はもうどうしょうねえ。」と身を悶ゆる間に帯解けて、衣服も脱がされ、襦袢一つ、してやったりと躍る胸を、時次郎は色にも見せず、「寒いか、埋合はきっとなあ。」「はい。」と震える。背を叩きて、「風邪を感な。」
杉戸遣戸の隙間より凩漏れて冷かに、燈籠の灯影明滅して、拭磨かれたる板敷は、白く、青き、光を放てり。
奥座敷にて多人数が笑語の声の断続して柱に響くも物寂びぬ。
廊下に長く揺曳せる婦人の影は朦朧として描ける幽霊に髣髴たり。
忽爾跫然として廊下の端に、殺気を帯びて、人影露る、近づくを見れば小浜照子。影を隠して秀は潜みぬ。
既にして間近に来れり、あたかもこの時四隣寂寞気結沈声、陰々として、天井黒く壁白し。
照子は屹と眼を注ぎぬ。
異様の姿、するりと出づ。
きゃっ……と一声、あっ……と一声、続いて起る金切声、「来て下さい来て下さい。」
呼ぶ時遅し五六人、今の二人の魂消りしに何事ならんと駈附けつ、真先なるは時次郎、「照子様、どうなさいました、幽霊が出ましたかね。」と笑いながらふとむこうを見て、「や……妙なものが僵れている。何だ。やはり人らしい。しかも女だ。誰だろう。」
肩と鳩尾に手を懸けて後抱に引起す、腕を伝うて生暖きもの、たらたらたら。「ええ」と引込め臭を嗅ぎ、「腥いな。」と呟く時、綾子は引摺りたる小袖の裳、濡れて、冷く、脛に触るるに、「あれ、気味の悪い。」と撮み上げ、裾裏を返して見て、
かれこれ同時に、「血、血、血!……」
「血」「血」「血」と貴婦人方は鸚鵡返し、皆五六尺飛退る。
時次郎は熟と検し、「うむ、心臓に小刀が。……」言懸けて照子を視れば、眦釣って顔色蒼く、唇は戦けり。召したる薄色の羽織の片袖血潵を浴びて紅の雫滴る。
「モシ照子様。」と突く真似をして「お殺んなすったね。」と時次はいう。
照子は心気昂進して、あえてものをも言わざりし。この時ようやく、太き呼吸、「ああ、幽霊。」と投出すようなり。
「幽霊。……」と時次郎は呟き、「なるほど幽霊と見える、怪しからん風体です。夫人、燈火をずっと、はい、宜しい。おや、御邸の。」
綾子も覗きて、「秀だよ。」と只呆。
「どうしてこんな。」とさも訝しげに時次が謂えば、「まあ、あられもない扮装をしてどうしたというのだろう。好く御覧、秀に限ってそういう取乱した風をする婦人じゃないよ。」「何ぞが妖けたのではございませんか。」と誰方か罪の無いことをおっしゃる。
「いえ、妖けたのに相違はありませんが、これはやはり、秀自身が妖けたのです。照子様、もしやおどかしはしませんでしたか。」
「ああ、ひょいと飛出して吃驚させたよ、私夢中で……」と震えていらせらる。
「なる、それで解りました。夫人、小間使が好奇心で、照子様をおどしたので、謂わば自業自得というものです。」「そうね、もういけなかろうか、可哀そうに。しかし失礼な、私の大切な御客様をおどそうなんて、飛んでもない。大方通魔に魅入られて、ふいと気が違ったのかも知れないよ、照子様には済まないけれども、ああ可哀そう。」
と熱き露、清き眼より溢るる処へ、後馳の伯爵悠々と参りたまい、「何じゃ騒しいな。ふ、ふ、あ、あ、それは結構。何さ、しかし心配には及ばぬよ。殺されたものは損、照子殿は豪い功じゃ、妖物を斬ったとあれば立派なものじゃ。けれどもな、少々は金が要るじゃ。」と頤にて死骸を指したまい、「これが親許は。」綾子答えて、「鮫ヶ橋に老婆一人、黒瀬縫とか承わりました。」「うむ、さようか。それに手当をしてやれ。老婆だとあればさぞ愚痴っぽく泣くじゃろの。」「御意にござります。」と時次が申す。
「それがちと面倒じゃ。可、可、これは駿河台の御隠居を煩わすとするじゃ。説法が旨いで、因果を含めるに可いわい。」「仏を御学び遊ばして御道徳抜群にいらせられますれば、至極よろしゅうござりましょう。」「お前これから駿河台へ行っての、次第を申して御老体御苦労じゃが、鮫ヶ橋まで御出向のあるように、なりたけ内証での、そこを旨く、可いか。」「はッ。」「何でも怨む者さえ無ければ物ごとは円く納る。検屍にはあのナンノをな、それから、ナニはナニして、ナンノを、ナンノを。」
ナンノで皆解ると見え、時次郎は委細承知。「畏りました。」
「さ、これで可し。皆様、あちらで。」と手を揮ってのたまうを好き汐時と、いずれもするするはらはらと裳を捌きて御引取。
後に残る三人は眼と眼と眼にて、薄雪とは似ても非なる三人笑。
伯爵は鷹揚に、
「綾。」
「は。」
「首尾よく殺したな。」と怪しき御言葉。
時次郎手を支えて、「恐悦に存じまする。」
一人の父は納豆を売りに朝疾く起きて出行きぬ。後は孤なる女の児、年紀は七歳ばかりなるが、大人の穿切らしたる草履を引摺り、ばたばたと駈けて来て、小石に躓き、前へのめり、しばらくは起きも上らず。「あれ」と婦人の声、木賃宿の戸を開けて、内より出づる一人の美人、顔美麗しく姿優なり。片手に洗髪を握りながら走り寄りて、女の児を抱起して「危いねえ。」と労る時、はじめてわっと泣出だせり。
「おお可哀そうに痛かったかい、まあまあお召が砂だらけだ。どこも擦剥きはしなかったの。え、掌を、どれお見せ、ほんとにねえ。」と何を持ちしか汚穢き手に、温き口を接けて、呼吸を吹懸け撫でてやり、「さあ、もう可いからお泣きでないよ。おお、泣止みましたね、好い児好い児。何を御褒美に上げようかしら、ああ良い品があったっけ、姉様とさあ一所に光来。」と手を曳きて家に入り、黒くなりたる櫃の上に、美しき手毬のありしを、女の児に与うれば、気味悪そうに手に取りて、「こりゃ何。」と怪訝顔。「手毬だよ。知らないの。」「手毬って何。」とさっぱり解らず。
美人は優しき眼にてじっと視れば、いかさまかかる遊戯品は知らぬも道理の扮装なり。不便なものよと思うにぞ、
「これはね、こうするものだよ、見ておいで。」と袂を啣えて一い二ウ三い四ウ、都の手振なよやかに、柳の腰つきしなやかなるを、女の児は傍目も触らず、首傾けて恍惚れいる。
ここはいずこぞ鮫ヶ橋、白日闇の木賃宿にしかき姿あるは怪むべし。
火鉢に懸けたる土瓶の煮ゆる音、ジュー。
二三十つきたる美人はこれに心着きて手を留め、
「おや、忘れていた、もう煮詰ったようだ。」と蓋を取れば、煎薬の香芬々。すぐに下して、「お前ねえ。」と女の児を見返れば、頻りに毬を弄べり。美人は微笑を含みて、「つけますかい。」
「いいえ。」と少し嬌羞む。
「戻ってまた教えて進げよう。お前がお在でちょうど可い。誰も居ないから留守しておくれ。妾はね、この御薬を持って裏のお婆様の処へちょいと行って来る。」「あいあい。」と頷けば、手早く髪を束ねて櫛にて押え、土瓶片手に出行きけり。
入違いに二人の男、どかどかと上込み、いきなり一人が匍匐になれば、一人は顎を膝に載せて脛を抱え、「ねえ、おい素敵に草臥れたな。」
「まったくさ、ドテやゲバを取ろうとって、あくせく掙ぐ気が知れねえ。」
「知れねえと謂えばどうもいまだに知れねえ。」「何が。」「この木賃宿の所有主がよ。」「やっぱり姉御が持ってるのだろう、御庇でこちとらは屋根代いらずだ。」「でも始終ここに居ないじゃねえか。」
「だって時々出張って来らあ。」
「そりゃそうと此家の姫様は何の妖たのだろう。」
「怪いほど美い女だな。しかしなんぼ何でも木賃宿にいらっしゃるものを、姫様とはつかぬ語呂だぜ。」「うんにゃ、あのまた気高い処から言語付の鷹揚な処から容子がまるで姫様よ。おいら気が臆れて口が利悪い。」「その癖優しい嬢だ。」「可愛らしいぜ。いつかも見りゃ一心不乱に毛糸の編物さ。」
「何でも姉御がかくまっておくらしいな。」「うむ、そうさ。だが処もあろうのにここは非道いや、もうおいら達あ、姉御が世話をする婦人だから指一本もさしもせず、またささしもしねえが、煎詰めた破落漢ばかり集る処へどういう気だろう。」「何でもいいやい、お丹姉さんの遊ばすことだ。」「でも気に懸るかしてこの頃は毎晩泊に来て、御両人様抱ッこで寝るぜ。」
「何、抱ッこで寝るッ、若い奴等、気の悪い談話をしてるな。」と表の戸がらりと開け、乱髪の間より鬼の面をぬっと出すは、これ鉄蔵という人間の顔なり。これに怖えてかの女の児は遁出したり。
「へん、新造を抱きたがる癖に、一廉お年寄の気でやあがる。」
鉄蔵はのさのさ入りて大胡坐。「これでも子持の親父様だ。」「そういやあ竹坊はどうした。二三日見えねえぜ。」「彼奴あ、こかしたよ。」と平気で謂う。「そりゃ旨えことをした。」「いかさま棄てる神あればかい。土橋のいうあの御面相で買手があったか。」鉄蔵は澄して煙草の粉をすぱすぱ、「何女郎じゃねえ。」という声、戸外に洩れて、(不審立聴く)一個の婀娜的、三枚襲に肩掛を着て縮緬の頭巾目深なり。
一人は起返りて、「ふむ、それでは茶屋か。」
「いんや。」
一人は膝を立直し、「温泉か。」
「大違い。」
「はてな、田舎へでも。」「やっぱり市中さ、新網の仁三によ。」「ふむ、野師の親方。」「うむ、そうだ。」「彼奴も呆れた茶人だなあ。」鉄蔵は真面目な顔「なに妾じゃねえて。」「はあ、あの女なら見世物に出すかも知れねえ、大方そうだろう。」「似寄の者さ。」と言懸けて少し猶予い「あのの、家の阿魔に犬の皮をの。」二人、「ええ――」と反返る。
鉄蔵は落着払い、「妙なものを拵えさしてそれをば見世物に出そうというのよ。」
「途方もねえ。」「恐そろしい。」
「勿論、女もなに泣面は掻かないで一昨日去った。」と煙管をこつこつ。
背後にすっくと突立つお丹、一部始終を聞きしなり。一声鋭く、「鉄、談話がある。奥へ来や。」
お丹突然、「畜生――」と一喝して長羅宇の煙管を押取り、火鉢の対面に割膝して坐りたる鉄の額を砕けよと一つ撲つ。
不意を啖って眼眩み「痛。」と傷を圧えしが、血を視て、「えッ非道いことを。」
梟眼赫と睜けば、お丹も顔色蒼ずみて真白き面に凄味を帯び、眉間に透る癇癪筋、星眼鋭く屹と睨み、「ム、悔しいか。人間ならくってかかんな、対手になろう。犬、畜生、人非人、四這になれ、尻尾を掉れ。」
詈る剣幕に胆を抜かれ、鉄蔵茫然とする処を飛かかって咽喉を扼し、「ええ、賭博に負けたか、食えねえか、それほど金子が欲くばな、盗賊をしな、人を殺せ、けだものに女を売るとは、野郎本気の沙汰じゃねえ、どれ、性根を着けてやろうよ。」
と急所を取って突廻せば、鉄蔵は虫の呼吸、「姉え、御免ねえ、苦、苦、放してくんねえてば、苦しい、むむ。」と苦み掙くを煙管の乱打、「死ぬる死ぬる。」と呻き叫ぶを殺しかねざる気色なり。
「お前非道いよ、まあお待ち。」とお丹の腕に縋りたるは今戸外より帰りし美人。
「いえ、お放しなさいまし、この大それた人非人。活かしちゃあおかれません。」「そう謂わずにさ、口でいっても解るではないかねえ。ようさ、私に預けておくれってば。」と身を楯にして、鉄を庇い、宥めても制めても頭を掉って肯ぜず、「よう、頼むよ。後生だから。」と心弱き美人は声曇らすに、お丹ようやく手を弛べ、衝と座に直りて煙管を杖、片手に煙草を引寄せたり。
美人は鉄を労りて、「お前、何悪いことをしやったえ。お丹はあの通り気短だから恐怖いよ。私が詫をしてあげる。」
と抱起さんとすれば、鉄蔵慌てて身を起し、「ええ、勿体ねえ。お前様、私の身体は汚れておりやす。」
「まあ眉間から血が出て。」と懐紙にて押拭う、優しさと深切が骨身に浸みこむ、鉄はぶるぶる。「もう、可うございます。いえもう何ともありません。」と後退。
幅狭き布子の上掻を引張り合せて、膝小僧を押包み、煮染めたような手拭にて、汗を拭き拭き畏り、手をつきて美人の顔、じっと見詰むる眼に涙。
「ああ、あ、娘もちょうどお前様の妙齢で、……で……」
と男泣き、此奴生れて最初なるべし。
お丹はこれを見て莞爾とし、「泣いてくれるか、え、鉄しおらしいの、おお、よく泣く、もっと泣きな。」
かく謂いつつ立上りて、するりと帯を解き、三枚襲を颯と脱ぎて、顎で押えて袖畳、一つに纏めてぽいと投出し、
「もう可いからお泣きでない。通貨が無いからそれを曲入て、人身御供を下げておいで、仁三が何か言句をいおう。謂ったら私の名をいいな。」薄着になりし情の厚さ。
鉄は左右無く手に取らず、「飛んでもないこと姉御どうしてこれが借りられよう。罰が中る。」とためらえば、「何だな、お前のようでもない。」美人もまた、「どういう次第だか知らないけれど、折角あんなにお謂いのだから持って行くが可いよ。」
「どうも済まねえ。実はその家主の少禿ががみがみいって癪に障ってしようがねえもんで、つい。」「くどいわね。何でも可いから早くしなよ。」「済まねえ済まねえ実はその。」「くどいてばさ。」
と言放てば、「む、そんなに謂ってくんなさりゃ己も男だ借りやしょう。」と肩を聳かし、眼を据え、「この様だから済せやせん、そのかわりにゃ姉御、俺あ死にます。」這般の決心十を併さば、もって一郷を動すに足るべし。
打撲、挫、整骨、困る人には施行療治いたし候。西の内二枚半に筆太に、書附けたる広告の見ゆる四辻へ、侠な扮装の車夫一人、左へ曲りて鮫ヶ橋谷町の表通、軒並の門札を軒別に覗きて、「黒瀬ぬい、と、ええ、黒瀬と、さっぱり知れねえぞ、こっちは土方職、次は車力、引越荷車仕候か、お次は何だ、鋳掛屋かい、差替りまして蝙蝠傘直、さあさあ解らねえ。ふむまた売卜乾坤堂、天門堂とすれば可い、一番みてもらいたいくらいだ、向は仕立屋、何、仕立物いたしますか、これは耳寄、仕立屋に(ぬい)が居ようも知れねえ。試だ、ちょいと聞いてみよう。」
所外より、「あい、御免ねえ。」
内にて女の声、「何でございますえ。」
「ええ、少々伺いたいもんで、もし、この辺に黒瀬というのは。」「さっぱり存じませんね、裏へ廻って御聞きなさい。」「これは御世話。」
と取って返す辻の角、茶綾子の被布を召したる切髪の気高き老婦人、腕車の傍に彳みたるが、「三吉々々。」と召したまい、「知れたか。」「どうもへい。」と天窓を掻けば、
「不可のう、早くしや早くしや、小児が集って煩悩いからの。」
と見れば貧民の童男、童女、多人数老婦人の身辺にありて、物珍しげに天窓より爪先までじろりじろり。
「餓鬼等何を見るんでえ。」と三吉眼を刮きて疾呼すれば、わいわいと鯨波を揚げて蜘蛛の子の散るがごとし。
「これから裏っ手の方を探します。少々どうぞ。」とまた駈出して、三吉裏手へ回れる時は、宿鴉しきりに鳴きて鐘声交々起る、鮫ヶ橋一落の晩景うたた陰惨の趣あり。
「さて難儀だ、弱り切るぜ。ほんにさ、猫の額ほどな処で二十六間と尋ねたが分らねえ。あたかも芥子粒を選分けるような仕事だ。そうしてまた意地悪く幾たびでもこの総後架に行当たるには恐れる。雪隠で詰腹を切る体だね、誠にはやなんとも謂われねえ臭気だぞ、豪傑に支えたと見えてここらじとじとする。薄汚え。」と爪立てしてひょい、「南無三、踏んだ。」と渋面造って退る顔へ何やらん冷りとする。
「ほい、これは。」
ずぶ濡の破褞袍、蓋し小児の尿汁を洗わずして干したるもの、悪臭鼻を抉って髄に徹る。「やれ情無い、ヘッヘッ。」と虫唾を吐けば、「や、膳の上へ唾を吐くぞ。」と右手なる小屋にて喚く声せり。
三吉慌てて駈出だし、立停って胸を撫で、「ありゃ何だ。やっぱり人間が住んでたのか。ヘンよしてもくりゃ、憚りながら、犬の小屋としか思われねえ。さてまた意地悪く一軒も燈明を点けぬぞ、夜だか昼だか一向無茶だ。」と四廻をきょろきょろ、「ふむ、此家でもう一度尋ねてみべい。」
倒れ懸けたる表の戸、手をもて開くるを要せず、身を斜にして容易く入るに、いまだ燈火を点ぜざれば、ただこれ暗澹物色を弁ぜず。悪臭縷々来りて人を襲えり。
「ちょいと御免なさい、御免なしい。」と三吉的処も無しに声を懸けて、奥より人の出づるを待てば、
「誰方へ。」と唐突に打驚き、「少しものが。……」と謂えば「何だの。」と立ちたる膝の辺に声するに、三吉また驚きて、
「おや、黒闇がものを言うぜ。」と反返りしも道理なり。
鮫ヶ橋界隈の裏長屋は、人を容るる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし。土間無く、天井無く、障子襖無く、壁一重にて隣を分ち、大戸一枚道路を隔てる、戸に接してわづかに三畳乃至五六畳の一室あるのみ。三吉が膝とほぼ直角をなして(はてむずかしい形容だ、)打臥したる天窓ありしが、この時むくと起直りて、
「団扇の骨はいまだに仕上りませぬ。」と皺枯声、「いえさ、ちと御聞き申したいんで。」「何、何、我あ、今年はもう七十五になっての、耳が疎いに依って大きな声で謂わっしゃい。」「こりゃ大難だ。婆様あのの。」「あいあい。」「あののお前、黒瀬ぬいという婆様を知らねえかい。」「あい、知っておりやす。したがお前様は親類の人かね。」「ウンヤ、秀坊というその娘っ子のことでちと用があるんだ。」半ばは聞取得ず。「ま、待たっしゃれ今燈明を点ける。」と膝行歩きて、燧火か、附木か、探す様子。江戸児焦れ込み、「こう早く教えてくんねえ。御前様が待っていなさらあ。」
促げても頓着せず、何とか絶えず独言つつ鉄葉の洋燈に火屋無しの裸火、赤黒き光を放つと同時に開眸一見、三吉慄然として「娑婆じゃねえ。」
今まで我にものを謂いし老婆は活きたる骸骨なりき。ずたずたになれる筵の上に、襤褸切、藁屑、椀、皿、鉢、口無き土瓶、蓋無き鍋、足の無き膳、手の無き十能、一切の道具什物は皆塵塚の産物なるが、点々散乱してその怪異いうべからず。古物千歳を経て霊ありというものあるいはこれか。老婆の他にまた一人あり。味噌漉に襤褸を纏いて枕とし、横様に臥して動かざるは、あたかも死したる人のごとし。
老婆はそれを指して、「この死人がその黒瀬ぬいでござんやす。」
三吉蒼くなりて、「何、死んだと?」「はいさ、お前様、昨日から腹が痢って、正午過に眼を落しました、誰も葬るものがござらぬで、な、お前さん。」と突然三吉の袂を掴みて、
「懸合だ。始末さっせえ。」「滅相なことを謂わあ、飛んでもねえ。こう、これさ離せといえば。」「うんにゃ、離さねえ。どうでも懸合だ。」と武者振着く。
「ええ、死神のような奴、取附かれて堪るものか。」力に任して突飛ばせば、婆々へたばる、三吉遁る、出合頭に一人の美人、(木賃宿のあの人の)宵月の影鮮麗なり。
擦違うて三吉、「や。」と立停まるを、美人は知らずに行過ぎて、件の老婆の家に入れば、何思いけん後をつけて、三吉は戸外に潜みぬ。
「ちょいとお婆様、あの病人はどうしたえ。」と美人が見舞う、その声音に耳を澄して、「いよいよそれじゃ。」と三吉四辻へ引返せば、老婦人は待飽倦み、亭として佇みつつ手にせる蝙蝠傘を打掉るごとに、はっと散りてはまた集る、飯に寄る蠅、群る小児、持余してぞ居られける。
「三吉。どうしたものじゃ余り遅いの。」と御機嫌好からず。三吉頻りに天窓を掻きて「へい、どうもお待遠様、誠に相済みません、しかし、御前様やっとのことで知れました。」「ああ、解ったと申すか。」「へい。ところでその、黒瀬という婆々はもう死歿ました。」「えほんとうに?」「まったくでございます。」「そんなら用は無い、もう帰邸としようの。」「ま、お待ち遊ばせ。」と三吉は得々として、「大変なものを見附けました。もし、御前様、光子様を。」
いう事いまだ終らず、老婦人は顔色動き、「何といやる。」車夫ますます得々として、「えい、奥様を見付けたのでございます。方々探して知れなかったも道理、こんな処に隠れていらっしゃるんだもの、今日の御足は徒にはなりませなんだ。いかが計いましょう。」
老婦人はしばし沈吟して、「可し、すぐに引摺って来い、連れて帰る。」「いえ、森に居る鳥は、籠の中に居るように手軽くは押えられませぬ。少し手間が取れますがお待ち遊ばしますか。」
老婦人は空を仰ぎ、「日和癖じゃ、また曇った。」
「降りませんうちに、じゃあこうなさいまし、そこらで車夫を呼んで参りますから、御前様は一足お先へ、私はお後から奥様を引張って帰ります。」
「よきように計え。」
とあれば、三吉走行きて屈竟の壮佼を雇来り、
「若衆、駿河台だよ、可いか、頼んだぞ、さあお召し。」
老夫人は蹴込へ片足、「脱心まいぞ。」
三吉は腕を叩きて、「確に、請合いました。」「よくせい。」とひらりと召す。梶棒を挙げて一町ばかり馳出だせる前面より、颯と駈来る一頭の犬あり。わんと吼ゆるを除けて通る、腕車と行違い遣過ごして、立停るはお丹なり。
鼠縮緬の頭巾の裡より、冷かなる瞳を放ちて「フウ、駿河台の猫股婆、縄張中へ踏込んだな。」
お丹かく呟くや否や、鼬のごとく道を走り、跡を追い、辻車に飛乗って、呆るる客待の車夫の手に帯の間より財布を投付け、
「何でも可い、その、あの腕車、早く追越せ。」
「なに、目を落したとえ、それはまあ。」と三吉が見て奥様と称えし美人。汚き畳へ駈上れば、
「うむ。」と腰を伸して老婆は起き、「やれ、汚穢うござります。」藁屑を掻寄せて一処に集め、
「せめてこの上へ、貴女、御衣服が台無しでや。」
槌で庭掃く追従ならで、手をもて畳を掃くは真実。美人は新仏の身辺に坐りて、死顔を恐怖覗き、
「可哀相なことをしたねえ。今朝私が薬を飲ましに来た時の容体ではまだこんな急なこともあるまいと思っていたに。お婆様なぜ取返しのならぬことをしてくれたえ。しばらくでも介抱した私やほんとに名残が惜い。」と愁然として襦袢の袖、御目を赤く染たまえば、老婆も貰泣する処へ、三吉会釈も無くずッと入り、
「奥様、御迎いッ。」
「ええ。」と美人は顧みて、「あれ。」と身を震わし、おがみ手をしかと合せて、「こうだから、よ、よ、三吉。」とおろおろ声、蛇に狙わるる蛙のごとし。
「いいえ、不可ません。御前様のおっしゃりつけです。どうしても御連れ申します。」「そうはいわずに見遁がしておくれ、頼むわねえ。」「なりません素直になさらなきゃあ、是非が無え、お気の毒だが手籠にする。」
と手に唾して躍りかかれば、「あれ、後生だから後生だから。」
謂いつつ燈をふっと消す、後は真暗、美人は褄を引合せて身を擦抜けんと透を窺い、三吉は捕えんと大手を広げておよび腰、老婆は抜かして四ン這、いずれも黙。三吉やがて呼吸を計り、ここぞと飛附き空を抱き、はずみ抜けして膝を折り、老婆の背に両手をつけば、べったりと潰れてうむと呻くを、例の死骸と思うにぞ三吉は胆を冷して、
「ひゃあ死人に魔が魅した。」
と飛退く隙に雀の子は、荒鷲の翼を潜りて土間へ飛下り素足のまま、一散に遁出だすを、遁さじと追縋り、裏手の空地の中央にて、暗夜にも著き玉の顔、目的に三吉衝と寄りて曳戻すを振切らんと、美人したたか身を急れば、髷崩れ、装乱れ、帯はするする、裳ははらはら、いとしどけなくなれるに恥じて、はや一歩も移し得ず、肩をすぼめて地にひれふし、活たる心地更に無し。
三吉は左手を伸べて白き頸を掻掴み、「ええ、しぶとい、さあ立て、立たねえとこうするぞ。」と高く翳せる右手の拳を、暗中よりしっかと扼して、抑留めたる健腕あり。
拳は宙に立ちたるまま上へも下へも動かばこそ、三吉ぎょっとして、「や、汝は。」「天狗だ。」と呵々と笑い、「二才めばたばたすると二つに裂くぞ。」
かく謂うは誰ぞ、飲鬼窟の健児、老いたる屠犬児弥陀平なり。
駿河台の老婦人は、あわれ玉の輿に乗らせたまうべき御身分なるに、腕車に一人乗の軽々しさ、これを節倹ゆえと思うは非なり。
仰々しく馬車を走らして往来を妨げんは、老人の娑婆塞と後指指されんも憂たてし、髪切払いて仏に仕うる身の徒歩歩こそ相応けれ、つまりは腕車も不用なれど、家名に対してそうもならねば、止むことを得ず三吉の健脚を労するだに心苦しく思すとなむ。
読者御存じの都合ありて、間に合せの車夫に腕車を曳せ、今や鮫ヶ橋より帰館の途次、四ツ谷見附に出でて、お堀端を走ること十間ばかり、ふと顕れたる中年増、行違いざま、慌しく「あれ若い衆様、心棒が抜けてるよ。」車夫は仰天して立停まりぬ。「ああ危い。」と年増は溜息。
「どうも姉様難有う。」車夫は輪軸を検せんとて梶棒を下すを暗号に、おでん燗酒、茄小豆、大福餅の屋台店に、先刻より埋伏して待懸けたる、車夫、日雇取、立ン坊、七八人、礫のごとくばらりと出で、腕車の周囲を押取巻く。
「や、や、狼藉。」と驚きたまう老婦人の両の御手を左右より扼りて勿体無くも引下ろせば、一人は背後より抱竦め、他は塩ッ辛き手拭を口に捻込み猿轡。老婦人を載せたる車夫は不意の出来事に呆れて立ちしが、手籠に逢わるるを見るに忍びず、「やい此奴等、何をしやがるんでえ。」と客贔屓。
「若い衆! 大目に見ておくれ、この御客は私が買うよ。」
と年増は紙幣を取出して二三枚握らすれば、車夫はにわかに笑顔になり、「ちと、もし、御手伝を致しましょう。」現金な野郎なり。
「それ、これで。」と年増が解きて投与うる扱帯にて老婦人の眼をぐるぐる巻にし、仰向に突転ばして、「姉御、荷造が出来た。」といえば、
「引担げ。」「おっと合点。」
軽やかに肩に懸け、「ほい、水気が無えから素敵に軽い。」「まるで苧殻だ、」「お精霊様の、おむかえおむかえ。」とつッぱしる。
これ皆お丹がなせる業なり。
狼藉者の一隊はさすがに警官を憚りて、大坂を下りんとする交番の此方に猶予いぬ。「それ目潰。」とお丹の指揮に手空の奴等、一足先に駈出だして、派出所の前にずらりと並び、臆面もなく一斉に尾籠の振舞、さはせぬ奴は背後より手を拍きて、「鳴るは滝の水。」と囃し立つる前代未聞の悪戯に、巡査何とて黙すべき。「こらっ――」
見張員と休息員と無頼漢等を引挟んで、片手に一人ずつ引掴めば、洩れたる者も逃げんとはせず。
「へん他人の家へ垂込みやしめえし、何のこれ往来だ。」「田圃にしてみや肥料になるぜ。」
としらふで冷罵れば、巡査は全身の怒気頭上に上りて、「無礼者め。」ともう血眼、二ツ三ツ撲りつける。
「ヤ撲ったな。ああ、痛え。」「おお、痛え。済まねえやい、木や土で造えた木偶じゃねえ。」「血のある人間だ、さあどうする。」とくってかかる混雑紛れ、お丹等老婦人を見咎められず、やすやすと通抜けたり。
「はてな、地獄の戸が開いた。」
車夫三吉を取挫ぎて、美人を労りたる屠犬児は、訝かしげに傾聴せり。
渠が立てる処より間遥に隔りたる建物の戸を開閉する音なるが、一種特別の響あれば、闇夜にも屠犬児は識別せるなり。
「誰だ誰だ。」と呼ばわれば、答は無く、ややありて二人三人の跫音の小刻に近付きつ、「私だよ。」というはお丹の声、「おやどうしなすった。」お丹は闇中を透し見て、「談話の邪魔がいるようだね。」「いえ、こりゃお姫様。」「光子様は分ってる、まだ一人いやしないか。」「ほい梟のようだ。居りますよ。」「誰だい。」「これはね、駿河台のそれ猫股婆の車夫なんで、私が折よく乗合わせなかろうもんなら、光子様を手籠にして連れて行く処でごぜえましたぜ。」「だから私が貴女に外へ御出掛けなさいますなと申すのに、とうとう見付られておしまいなすった。」光子は「堪忍しておくれ。」と侘しげにいう。
「まあ、可うございます。ちょっと、其奴を縛っちまいな。」「ちゃんと可いように拵えてありやす。」「そりゃ早い手廻だね、ではね、お前。」と後に控えし壮佼を見返りて、「どこかへ明日まで封じておきな。」「あいあい親方請取ろうか。」「そら渡すぞ。」と屠犬児が片手で突けば、飛んで来る、三吉を引抱きて、壮佼は闇夜に消えぬ。
「貴女御心配には及びません。ここにお置き申すも今夜っきり、明日は立派に駿河台の若殿様にお逢わせ申す。」「ほんとうかい。」「何、嘘をいいますものか。」「嬉しいねえ。」と光子はいそいそ。
「そのかわり、今夜の中にどんな恐しい事がありましょうとも眼を塞いで我慢なさい、過日お茶の水で身を投げて死のうとなすった、その気でね。」と意味ありげに言含め、「そこでの、黒瀬の婆様を葬ってやろうと思って用意をしたお棺はね、ちと道具に使用処がある、後でここへ持たしてお寄来し。」
屠犬児は怪みて、「それじゃ死体はどうなさいます。」「あれはね、筵に包んで担ぎ出して、番町の小浜という邸へ行って、玄関見附に大きな松の木があるから好さそうな枝を見繕って、ぶら下げて来るように、権と八に一役おつけ。」「はて怪しからねえ。何のためだね。」「ちと思わくのあることさ。光子様は私と一所に、地獄で妙な人に逢わせるよ。」
先刻に兇徒の手籠に逢いしは、黄昏の頃なりき。されば早や夜ならむ、居る処は、天か、地か、はたまた土蔵か、穴蔵か、眼は開きたれども一物を弁ぜず、闇きことあたかも盲せるごとくなるに、老婦人はただ自失せり。
されど心豪にして気韻高き性なれば、はしたなく声を立てず、顛倒して座を乱さず、端然としていたまえり。
まことや既に仏果を得て、勇猛精近の行堅固に、信心不退転の行者なれば、爾き黒暗闇の裡に処しても真如の鏡に心を照せば、胸間霽れたる月のごとく、松の声せず鏡の音無きも結句静処を得たりと観じ、寂寞として水晶の数珠爪繰りて泰然たり。
ややありて戸の外に物凄き婦人の声して、
「駿河台の御隠居様、貴女は御嫁女の光子様を余り非道に遊ばしたゆえ、地獄へ御連れ申しました。ここをどこだと御思い遊ばす。」
言下に老婦人は色を作しぬ。
婦人の声は後に廻り右よりまた左より、同一言を繰返せり。それより寂として天地に声無し。
すべての人、光明に逢えば眼に愉快を感じ、闇中にある時は心に苦痛を見る。もしそれ老婦人をしてかくてあることを久しからしめば、終に必ず狂せむ。不意に音あり、戸は開きぬ。同時に照射入る燈火の影に乱髪、敝衣の醜面漢、棍棒を手にして面前に来れり。
老婦人は見ざるがごとく、秋毫も騒げる色無し。渠はあえて害を加えんとはせで、燈火をそこに差置きたるまま、身を飜して戸外に去りぬ。
と見れば、四方は荒壁なる五坪ばかりの土間の中に筵の上に載せられたるものあり。
つい眼の前には板戸のごとき大肉俎の据られしに、犢大の犬の死体四足を縮めて横われるを、いまだ全く裂尽さで、切開きたる脇腹より五臓六腑溢出で、血は一面に四辺を染めたり。ここかしこに犬の首、猫の面、手とも謂わず足とも謂わず切断して棄てたるが、三々五々相交る。
また四斗樽三箇を備えて、血と臓物を貯えしが、皆ことごとく腐敗して悪臭生温く呼吸を圧し、敷きたる筵は湿気に濡れ、じとじとと濡いたり。
地に転びたる犬の首は、歯露れ舌を吐き、串に刺したる猫の面は、眼を閉がず髯動く。渠等が妄執瞑せず、帰せず、陰々たる燈火に映じて動出ださんばかりなる、ここ屠犬児の働場にして、地獄は目前の庖廚たり。
眼のごとく髪のごとく口のごとく頬のごとく一切その人の姿のごとき猫股婆もぎょっとして、色を失い、身を震わし、固く結べる唇より一語ようやく黙を破れり。
渠は呟きぬ、「浅ましや。」
とたんに外面に女の声して呵々と打笑いぬ。
試に問う、天下の人いかに、外に忠実なる僕のごときは、内に暴戻なる旦那なり。出でては仁慈優愛なるもの、入っては残忍酷薄にて、隣家の娘に深切なるもの、己が細君には軽薄なり。我子の嫁には鬼のごときも、他人の妻には仏のごとく、動物憐護を説く舌は、かえって奴婢を叱責せずや。乞食に米銭を擲つ仁者、悩める親に滋味を供せず。芸者に粋な御客人、至って野暮な御亭主なり。弟子に経綸を教うる人、家庭の教育整い難し。友の棺を送るもの、親類の不幸を弔わず、役所に出でては尻尾を振り、宅へ帰れば頭を振る。なお金銭におけるごとく、+《プラス》-《マイナス》出入の相違は天地懸隔、月鼈雲泥、駿河台の老婦人もまたこの般の人なりき。
外部より刺戟を与えて、内心の悔悟をうながせしお丹は時分を見計いて、老婦人の前に出で相対して座を占めぬ。
「お初に御目に懸ります。」
老婦人はものをも言わず威儀を整え儼然たり。お丹はおもむろに説出だしぬ。「今晩は、貴女の御威勢にも憚りませずとんだ失礼をいたしました。しかし止むことを得ません次第、まあ御聞き下さいまし。実は先々月の中旬でござりました、夜更にお茶の水橋を通りまして、品格の好い、美麗い、お年紀の若い御婦人が身を投げようと遊ばす処を危くお止め申したのが、もし、御隠居様、貴女の御邸の光子様でございます。とかように申せば、なぜあの方が死のうとなすったかは貴女のお胸にございましょう。私も驚きました、御慈悲深い、お情深い、殊に仏学をお修めなすって、道徳抜群という風説の高い貴女のお嫁御があんなに薄命でお在なさろうとは、はい、夢にも思いはしませんでした。」
と屹と老婦人の面を見たる瞳は閃然として星のごとく、渠は太く愁色ありき。恐怖の色も顕れながら、黙して一言も応答をなさず。
お丹はまた語を続けぬ、「しかし死のうとなさったまでには、大抵のお酷めようではございますまい、よっぽど御骨折でございましたろうねえ。」
罵殺一番、老婦人は強いて平気を装いつ、毫も屈する状無し。
お丹は冷かなる微笑を含みて、「私も初のうちは御実家へお戻りのあるように、勧めてはみましたけれど、あなた方の重い御身分では、姑御が邪慳だからって、ついちょいと軽々しく、産の親御に顔は合わされぬとおっしゃるので、ま、ただいままで私が大切におかくまい申しました。」
ちょいと句切って睨めッ競、双方しばらく無言なり。
急に声を励まして、「そんなにお憎みの光子様をなぜまた連戻そうとなさいますね。馬車で公然と御迎えになりますれば、私は喜んであの方をお渡し申します。車夫に手籠にさせようなんて飛んでもないことを遊ばす処では連れて帰ってまた虐めようという御思慮としか思われません。それは貴女虫が好過ぎると申すんです。及ばずながら私が光子様をお庇い申せば、夜叉、羅刹を駆集めて、あなた方と喧嘩をしてなりと毛頭御渡し申しませんが、事を好んでするではなし。ナニ、お望ならば差上げましょう。その代りただでは不可ません、邪慳な姑をさらりと罷めて、慈愛な母親になってやる、と私の前で御誓い下さい。」
渠は依然として黙を修せり。
お丹は詰寄りて、「さもなければ質として、御手の御数珠を私が預りましょう、どっちか一つ御返事なさい。貴女、まあどうでございます。」と咄々人に迫り来る。
ここに到りて老婦人はもはや黙することを得ず、凜たるさりながらやや震を帯びたる声にてはじめて一言、「華族じゃぞ。」
老婦人はこれより前、惨絶残尽なる一場の光景を見たりし刹那、心挫け、気阻みて、おのがかつて光子を虐待せしことの非なるを知りぬ。なお且つ慙愧後悔して孝順なる新婦を愛恋の念起りしなり。されど剛愎我慢なるその性として今かく虜の辱を受け、賤婦の虐迫に屈従して城下の盟いを潔しとせず、断然華族の位置を守りてお丹の要求を却けたるなり。
「御承知下さいませんか、どちらもいけませんか。」
老婦人は屹として「華族じゃぞ。」
「何でございます。」
老婦人は始終一徹、
「華族じゃぞ。」平民にものはいわずとまた黙せり。
お丹少しく怒を帯びて、戸外に向い、「こう一件を連れて入んな。」
ややありて黒く痩せたる小男と、青く肥りたる大男と、両々光子を挟みて、引立々々入来れり。
「そこへ。」とお丹が座を示せば、老婦人の前に光子を押据え、牛頭馬頭左右に屹立せり。
光子は涙浮びたる眼を開きて、わずかに老婦人を瞥見せるのみ、打戦きて手足を竦め、前髪こぼれて地に敷くまで、首を垂れて俯向きぬ。
老婦人は顔をも背けず正面に光子を瞰下しいよいよますます傲然たり。
お丹は小刻に座を進め、「サ、犠牲に捧げます。お打ち遊ばせ、お抓り遊ばせ、この頃ようようなくなりましたこのお身体に生疵をまたいくらでもお付けなさい。どんなにでもお責めなさいな。ちっとも故障は申しません。そのかわりに、お邸へ連れてお帰りになりますからは、若殿様と御両人を快く添わしてあげて、これまでのような非道なことは忘れてもなさらぬように、それとも不縁に遊ばすなら、光子様に自由を与えて、決して干渉をなさらぬように、お憎みのありったけ、今晩いじめ切っておしまいなさい。お動きなすって御成敗がなさり悪くば、縛りましょう、釣上げましょう、さあさあ、どうとも御望み次第。」
と胴を据えたる詰問、老婦人は死灰のごとし。
お丹焦れて、「何もそんなに尋常ぶって、御辞退にも及びますまい。餓い腹なら食べるが可いのさ。」
老婦人は奥歯を噛切め、御気色荒く、「華族じゃぞ。」「華族がどうした。」「華族じゃぞ。」「フム解りました。料理の塩梅が悪いから、華族様のお口には合ぬとおっしゃるのでございましょ。これは実に私が粗相。どう、そんなら汁に加減をしようか。鉄、熊、押えろ、動かすな。」
声に応じて牛頭馬頭は光子を仰様に引倒し、一人が両手、一人が両足、取って押えて動かさず。「ああれ。」光子は虫の声。
老婦人は心の内、「華族じゃぞ。」
お丹はひしと光子の胸に片膝乗懸け、笞を挙げて打たんとしつ、老婦人を睨殺して、「留めはすまいね。」
無言。
力を籠めて、「留めはすまいね。」
老婦人は蒼くなりて、「華族じゃぞ。」
かくまでしたらば我を折らんとかねてより思いしには似で、飽くまで老婦人の剛情なるに、後へ退かれぬ羽目になり、止むことを得ず手を下しつ。お丹がその時の心中いかに。
光子は苦悶して悲鳴を揚げ、右に左に枕を代えて、長き黒髪地を掃きしが、最後の一撃は手元狂いて打処や悪しかりけむ、うむとのけぞりて渠は絶せり。
「ほい。」「これは。」と二人は吃驚。
お丹は脈を伺いて、「ああ失策た。」と叫びしが、気を変えて冷笑い、「おい婆様、お前の口に合うように料理をしたばかりに、とうとうこの嬢を殺したよ。」
といいつつ震えている二人を顧み、「あのう、押入に繋いだ車夫を出してやんな。おい婆様。」
老婦人を後目に懸け、「もう用はこれなし、帰してやる。」
駿河台のお邸にては、夜に入りても御前様の御帰館無きより、心当を問合せ、御親類中へ使者を向くるに、いずくにも見えさせたまわず、皆目御立寄これなきよし。
さては珍事じゃ大変じゃと、邸内一統煤掃という見得で騒出し、家令はまず何はともあれ、警察へ届けて出る。御奥の老女は御神籤を下しに行く。
主思のお婢はお稲荷様へお百度を踏みにと飛出して、裏町へ回り焼芋を二銭買い、袂へ納れて御堂に赴き、お百度をいいまえに歩行きながらそれをむしゃむしゃ、またと得難き忠臣なり。
家扶は探検使として差向けらる、書生二人を引従え、御前様のお出先は、何しろ四谷、最寄近所は草を分けても穿鑿せんと、杖を携え、仕込杖を脇挟み、さも事々しく打立ちてお茶の水を渡ると家扶の武智「敵は本能寺じゃ、続き召され。」と芳原さしてどろんとなる。
府下の処々より旧藩士の面々が御家の大事と早車にて乗附くる。御出入の商人、職人、盆栽のお見出しに預りたる植木屋までが、驚破鎌倉と馳参じ、玄関狭しと詰懸け詰懸け、夜一夜眠らで明くる頃、門内へ引込みたる母衣懸の人力車、彼はと見れば、こりゃどうじゃ。
「御帰館――」と叫ぶにつれ、老婦人衝と出でて、式台に成らせたまえば、一同眼の覚めたる心地して、万歳を哄と唱え、左右にずらりと平伏するを、見向もせで、足疾に仏室の内、隔の障子を閉切りたまいぬ。
「はて、面妖な。只事でない。」と家令を先に敷居越し、恐る恐る襖を開きて、御容顔を見奉れば、徹夜の御目落窪みて、御衣服は泥まぶれ、激しき御怒の気色顕れたり。
「はッ恐れながら。」と冒頭して、さて御機嫌を伺えば、枯れたる声を絞らせたまい、「退りや、退りや。」と取っても附けず。
家令は少しくにじり出で、畳を額に埋みながら、「これは仰とも覚えませぬ。一晩御帰邸相成りませぬで一統の者の心痛いかばかり、まずは御安泰にて恐悦に存じまする。さりながら御顔の色も尋常ならず、一同安心のなりまするよう、仔細御申聞けのほどを、はッはッ。」とさようしからばで言上するのを、老婦人は皆まで聞かず、「退りやと申すに。」「はッ御意に逆いまするか、しからば是非に及びませぬ。」と家令は居直り、「御目通叶わぬ遠慮さっしゃい。」と郷右衛門めかしておおせを伝え、直ちに御前を退散して、御供の車夫に様子をたたけば、三吉がらてきという鬱いだ顔色、ほっとせし気味にて長歎息吐き、「何だってお前様、滅茶苦茶に真闇だあ、どうも人間業じゃねえぜ。己あ恐怖かったのなんのって、お前様対手が天狗だと名告るから堪るめえじゃねえか、いまだに震が留まらねえや。」とがたがた胴震、「ね、この通りだ。全体己あ呼吸があるのかよく見てくんねえ。生きていようか、ねえ、おい。」
と他愛の無きこといい寝入に前後も知らず早や鼾。仔細は更に解らねども怪我も無ければまず安心と、上下一呼吸吐く間もあらせず、眼鋭く、頬瘠せて髯蓬々と口を蔽い、髪は蓬と乱懸りて、手足の水腫に蒼味を帯びたる同一ような貧民一群、いまだ新らしき棺桶を、よいしょと背負込み、門の内に入ると斉しく、一人が巻持てる紙旗を颯と開けば、(塚町光子様御遺骸)と墨黒に書きたるを、真先に押立てて、憚る色なく、玄関に横附にして異口同音、「頼む、頼む。」
「どうれ。」と出て来た取次はこの体を見て呆果て、ただもう「えッ。」と謂いたるのみ、蛙のごとく眼をぱちくり。「何でも可い。」「隠居殿が御承知だ。」「鮫ヶ橋から奥様の死骸を届けに来たのだ。」「ぐずぐずせずに取次げやい。」と口々に呼ばわれば、「何だ何だ騒々しい。」と書生二人飛んで出しが、あまりのことに辟易して、茫然と見物せり。
「ええ華族様は気の長いもんだ。」「素直に待ってちゃあ埒が明かねえ。」「蹈込め。」と土足のまま無体に推込む、座敷の入口、家令と家扶は襷を綾取り、袴の股立掻取りて、大手を広げて立塞り、「汝、昼盗賊狼藉者。」「さあ一足でも入るが最後、手は見せぬぞ。」
と叱附くるを耳にも懸けず、口を揃え、
「やいやい隠居はどこへ隠れた、昨夜の死骸を持って来たぞ。受取れ受取れ。」と呼ぶ声、隅から隅まで鳴渡る。
家令家扶堪えかね、目配して、「山本、熊田、其奴等撲け。」と昔取りたる杵柄にて柔術も少々心得たれば、や、と附入りて、えい、といいさま、一人を担いで見事に投げる。
これに気を得て勇をなし、二人の書生は腕を叩き拳を揮うて躍懸れば、撲たれぬ前に、「あ痛、」「お痛。」と皆ばたばた。
算を乱して仰向にどたりと倒れ、畳を蹴立て、障子を揺り、さア殺せ、苦いわい、切ないわい、死ぬぞ、のたるぞ、と泣喚くに、手の附けようもあらざれば、持余したる折こそあれ、奥にて呼ぶ声、叫ぶ声、廊下をとどろと走る音、襖の開閉騒がしく、屋根を転覆した混雑に、あれはと驚く家令の前へ、腰元一人転けつ、まろびつ、蒼くなりて走り出で、いきせき奥を指さして、
「大、大、大変です。もし、御前様が御自害じゃ。」
「あ!」と家令は腰を抜かす。
疫病神どもこれを聞くより、そら遁げろと、跳起きて、棺は棄置き、雲を霞。
鮫ヶ橋に馳戻りて、一部始終を告げ知らせばお丹、「ふむ。」といったきり。しばらくものも謂わざりしが、やがて歎息して、「ああ、遣過ぎた。あの婆様もさすがだの、わざと私が殺してみせて、活かして光子様を棺に入れて駿河台へやったのは、隠居がいくら強情でも、柔順に宅へ入れるであろうと思った思案は浅かったよ。その身に懸ったことからして、あの婆様が死んでみりゃ、可哀そうに光子様はあれっきり……チョッ惜いことを。」
光子は尼になりきという。
麹町の華族、小浜正道氏の門内に、ひたと犬の鳴きたる夜あり。番人幾たびも見巡りしが、何事も無くて夜は明けぬ。
門長屋の兵六老爺、大手を開けに朝疾く起出でて、眼と鼻を摩りながら、御家の万代を表して、千歳の翠濃かなる老松の下を通りかかれば、朝霜解けた枝より、ぽたり。
兵六震い上りて、「おお、冷え。老人に冷水、堪ったもんじゃねえ。」と呟きつつ、打仰ぎて一目見るより、ひええ! と反って飛退り、下駄を脱ぎて、手に持ちはしたれども、腰の骨の蝶番がっくり弛みてただの一足も歩かれず、くしゃりと土下座して、へたへたになり、衣服をすっぽりと引被りて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
門外に靴音して、朝巡回の巡査、松の木の縊死を認めて、戸を叩き、「開門、開門。」
と音訪う処へ、新聞配達、牛乳配達、往来を掃きに出でたる向の親仁、隣の小僧、これを見付けて寄集り、「なるほどこれじゃ、道理で恐しく犬が吠えた。」
「もし、こりゃやっぱり喰詰めたのでございましょうね。」
「さればさ、年寄だからどの道色気ではねえて。」と、くだらぬ下馬評。
「貴下、この邸はいつでも晩く戸を開けますか。」と巡査は問う。「いいえ、旦那、兵六という門番が名代の疾起なんで、今朝はどうしたというのでしょう。」
「何でも敲くが可い。」とんとん。老爺は念仏三昧。
「どうでもしてくれ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」とんとん、「勝手にしろさ、毀さば毀せだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」がんがんがん、「そりゃ、えらくなって来た。この腰が立つか立たぬか。もうこうなったら根競だ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
外には焦れて二三人一同に、どしんどしんどしん。兵六老爺胆を据えてびくともせず。いよいよ烈しく敲立つるに、玄関をがらりと開けて、執事の日下部、「門番の衆、門番の衆、開門。」と呼立つる。
「これは大変奥と表で挟討だ。そりゃ可いが天窓の上にござるぶらんこがどうもはや、今朝は我が一生の厄難だ。殺さば殺せさ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
呼べど叫べど答ざれば、「老爺め、また疝気でも起しおったな。」走出でて門を開けばはや往来には人の山、津浪のごとく流込むに、「こりゃ何事じゃ。」と執事はきょろきょろ。「貴下はお邸の方かな。松の木に縊死があるで。」と巡査に謂われてまた驚き、婆々の死骸を見て三度吃驚「やれ首を縊った、松の木が。」と慌しく触込んだり。
「凶事がある前兆じゃよ、昨夜は夢見が悪かった。早速護摩でも焚かせねばお邸から縊死を出してどうするものじゃ。」と令夫人は大きに担ぐ。殿様のごときは黒くなりて、「一度あることは二度というぞ。あの松の木今の間に伐倒せ。」と苛立ちたまう。
照子は腰元を召して、「門内に変死があるというね。どんな様子だかお前行って見ておくれ。」次第によらば、枯骨を拾わん思召、慈善家は違ったものなり。
腰元やがて復命すらく、「乞食より汚穢い婆々です、さうして塩茄子のように干乾びておりますよ。おお、胸の悪い、私が今参りました時は死骸の懐中を検べておりました。もし、姫様書附がございましてね、町所が、ああ何とやら、皆が申しましたっけ。何でも鮫ヶ橋の者だそうで、名が……そうそう黒瀬ぬい。」「黒瀬ぬい――私は聞いたような。」としばらく考え、「あのそれじゃ。」と顔真蒼。
「おや、御存じ。」と腰元に顔を見られて少しく狼狽え、「直ぐ出懸けるよ。」とふいと立つ。「どちらへ。」「深川様のお邸まで。」「それではお召替遊ばしまし。」「なに、これで可い。」と紫地の行燈袴、学校行の扮装そのまま。
もはや時刻と例のごとく、車夫は玄関に待懸けたり。照子はわくせく気を急らし、腰元附添い駈出でて、永田町へ……
「御急ぎッ。――」
門内の群集を分けて車上の照子は、老婆の死骸に面を背けつ、それより深川家の式台まで矢を射るごとく乗附けて、かねて別懇のなかといい、殊に心の急きたれば、案内も謂わで夫人の居間。
「夫人、今日は。」と立ちながらまず挨拶。
綾子はぞろりと外出の装、繻珍の丸帯を今〆めて、姿見に向いたるが、帯留の黄金金具をぱちんと懸けつつ振返りて、
「おや、照子様。飛んだ事ですねえ。」と先を取られて謂いそそくれ、「え。」と照子は希有な顔色。
「私も今出懸けましょうと思って、御覧の通りちょいと支度をいたした処です、御一所にまいりましょうか。」
一つも解らぬことを対手は丸呑にして、承知之助、照子は呆れて、「夫人どこへ、そうして何が、あの何でございますの。」
とぼっとしたことをいう。
「駿河台の御隠居様が、今朝急病で御逝去なすったって。」「ええ。」「訃音がありましたよ。あら、貴嬢は御存じではなかったの、まあ御坐り遊ばせ。」
と友禅の座蒲団を直して、桐火桶を推出したまい、
「何ですか大層お急きだことね。まア落着いて。」
と気を着けられて、照子はほっと呼吸、「夫人、この間のね、秀の祖母様というのはたしか。」「黒瀬ぬい。それがどうしましたえ。」と懸念げなり。
「夫人どう致しましょう、その婆様がね、家の松の木で首を釣ったの。」綾子も色を変じて、「ほんとうですか。」「今頃はどんなでしょう、私の来た時でさえ門の内は人で一杯。」と照子は後見らるる風情、そわそわして落着かず。
綾子はじっと俯向きしが、ややありて潜みたる顔を上げ、「照子様、内証ですよ、高い声では申されぬが、駿河台の御隠居様の急病というのは、まあまあ表向で、実は何か、鮫ヶ橋の方のものに間接にお殺されなすったようです。私共が願ってあすこへ行っておもらい申した、それから事が起ったそうで、申訳もありません、今の貴嬢の御談話といいどうも私の考えでは、鮫ヶ橋は容易ならぬ処です。いつかそれ慈善会を打毀した、あの恐しい女乞食も鮫ヶ橋の者ですよ。こう申せば何ですが、四ツ谷の空の一方には、妖い雲が立上って穏ならぬ兆候が見えて、今にも破裂しそうで、気に懸ってなりません。打棄っておいてはお互の身の上でしょう。私の思いますには、彼等の心の和ぐように折角恩を被せて、ねえ貴嬢。」と何やらん囁かれしが、小声にて聞取れず。照子が辞して帰りし後、深川夫人は腕車を命じ、所々方々奔走あり。流石は綾子、半日にて多数の貴婦人を一致せしめし。
その結果。
寺院は随一の華主なる豆府屋の担夫一人、夕巡回にまた例の商売をなさんとて、四ツ谷油揚坂なる宗福寺に来りけるが、数十輛の馬車、腕車、梶棒を連ね輪を駢べて、肥馬嘶き、道を擁し、馭者、馬丁、車夫の輩、手に手に桝を取りて控えたる境内には、一百有余の俵を積み、白米筵に山をなせり。
音楽妙に、読経の声清く、庫裡も本堂も人ならざる処無き意外の光景にひたと呆れぬ。
これ蓋し深川綾子の建案にて、麹町の姫様檀那となり、あまたの貴婦人これを扶け、大法会を修して縊死の老婆を追善し、併せて鮫ヶ橋の貧民の男女を論ぜず、老少を問わず、天窓数一人に白米一斗、無慮一百石を散ぜんとする未曾有の施行なりき。
「へい、真平御免なさい。少々どうぞ。」と豆府屋おずおず、群集を分けて入らんとすれば、比々として排べる車に支えて、台を担うて歩むべからず。膝の辺に手を下げて、「若い衆頼むよ、通してくんねえ。」車夫は傲然として、「べらんめえ、この混雑の中へ入れるもんか、眼を開けてものをいいなよ。顔を洗えさ。邪魔だ邪魔だ。」と推出しぬ。
豆府屋蹌踉して踏こたえ、「がみがみ謂うない、こっちあ商売だ。」と少しく勃然とする。「何い、商売がどうしたと。」大喝一番腕まくりして向い来るに、ぎょっとして飛退り、怨めしげに法会を視めて多時は去りもやらず、彼がその日の収入に大なる影響あればなり。
時に年老いたる屑屋あり。包を背負うたる洗濯婆あり。おなじく境内に入らんとせしが、また車のために抑留さる。
「おやおや大変だ。弱ったことの、洗濯物をうんと仕上げて持って来たのに、こりゃまあどうじゃ。」と老婆は呟く。傍より件の屑買、「私ゃまた一日と十五日が巡回日で今日も遣って来たのじゃが、この様子では入ってから商は出来ぬらしい、やれさても。」と大きに愚痴す。
「え、薄汚い、悪臭い、貧乏神が夫婦連でやって来やあがった。とッとと退いたり、邪魔にならあ。」と馬丁の喚散らせば、
「やれやれ情ない、のう、お前様。」老爺頷き、「御慈悲をば頼んでみるじゃ。」と二人は土下座をして平突張り、「はいはい申兼ましたことなれど、この洗濯賃を的にして、今日はまだ御膳を頂戴きましねえ。」「私も今日が書入日でござりまする。この御寺に、月に二斎を楽みにいたしております。どうぞ一番御上人様へ御取次下されまし。」
皆まで謂わせず、「何だ御取次い、糞でも啖え、華族様御直の馬丁だわ。やい、門番扱いにしやあがる。死損いめ。」妙な処で威張ったもの。
老婆は額を地に擦付け、「はいはい、誠に早や推付がましゅうございまするが、御見懸け申せば、はいはい、どうやら御施米がござる様子、少々ずつ御遣し下されまし。」「へい、御願でござりまする。」と二人は手を合わせて拝みぬ。
馬丁面を和げて、「ふん何か、きさま達は鮫ヶ橋の者か。」こちらは正直「いえ、青山でござりまする。」「私は麻布の今井町でござります。」「ン、それでは不可ねえ。なあおい。」と謂えば一人が頷き、「今日は鮫ヶ橋に施行が出るんだあ、他所のものじゃ埒があかねえ。」
「そうおっしゃらずに。」「もし御慈悲。」「ふん。」と鼻を空にして構い附けず。主命を辱しむること、見よ、かくのごとし、既に仁恵といういずくんぞ越人と秦人とを分たん、されどもこれを則と謂わば、また論ずるに足らざるなり。
二人は取附く島も無く、落胆して、「ああ情ない、我あ素手では帰られましねえ。」「私もさ今日を的にして昨夕から何も食わねえ。」と声を放ちて泣き出せば、
「やい、愚図々々してるとこうだぞ。」足を揚げて老爺を蹴飛ばし、襟を掴みて老婆を突遣る。地に転びてようよう起ち、力無ければ争い得ず、悄然として立去るを、先刻より見たる豆府屋は、同病相憐の情に堪えず、
「こう老爺様まあ待ちねえ、婆様ちょいと。」と呼留めて、売溜の財布より銅貨四銭取出し、二人の手に頒ち与えて、「親方持だから資本へは手が出せぬ。余りちっとだが芋でも買いねえ。」二人は再三辞退して、ようやくこれを受納め、「ああ、お若いに御奇特な。」「やれ嬉しや、難有い。」
と打って変って喜悦の涙、襤褸の袖を分ちけり。
時既に黄昏ぬ。正午頃より今に至るまで、米を計りて待構えたる鮫ヶ橋の貧民等恩に浴せんとて来る者無く、貧童一人の影だに見えず。さなきだに葬礼法会ありしと聞けば、魚の腸に寄する鳶のごとく十里を遠しとせざる輩が、しかも丁寧に告知らせしに、召に応ぜざるはそもいかに、貴婦人方は本意なげなり。
心利きたる馬丁等、素早く坂を駈下りて、谷町通に大音に、「御救米が出るになぜ来ない。」「下され物だ下され物だ。辞退は失礼に当るぞ。」「早く出ろ、直ぐに来い。」と声嗄るるまで触流すを、ござんなれと待居たる、究竟の破落漢、軒下あるいは塀の蔭よりばらばらと飛出して、お使番を引僵し、蹴って踏んで撲わして、「此奴等、人を乞食にしやあがる。へん、よしてもくりや、余計なお世話だ。」
「早く帰って汝等の主人に(あばよ)といえッて、お丹様のお言だい。」
黄昏の頃油揚坂より続々として曳出だす、馬車、腕車数十輛、失望、不平、癇癪などいう不快なる熟字を載せたるは、これ貴婦人の帰途にて、徒になりたる百余俵の施与米を荷車に積みて逆戻り、笑止なりける次第なり。
轔々、轟々、轣轆として次第に駈行き、走去る、殿に腕車一輛、黒鴨仕立華やかに光琳の紋附けたるは、上流唯一の艶色にて、交際社会の明星と呼ばるる、あのそれ深川綾子なり。
夫人は過日の慈善会以来、世に不如意あるを知初めつ、かねてより人類の最下層に鬱積せし、失望不平の一大塊、頃日不思議の導火を得て、世の幸福を受けつつある婦人級と衝突なし、今にも破裂爆発して、玉石一様ならしめんと、企つるをば密かに識り、独り自身胸を痛めて予防の策を講ずる折から、この度の出来事を好機として、暗に鮫ヶ橋の貧民等と和を整えん予算なりしに、天を怨み、地を恨み、宇宙間の万象を一切讐敵として、世にすねたる神仏の継子等、白米一斗の美禄を納れず、御使番を取拉ぎて表に開戦を布告せり。
もしそれ下界の阿修羅王、八万四千の眷属を率て、蒼海を踏み、須弥山を挟み、気焔万丈虚空を焼きて、星辰の光を奪い、白日闇の毒霧に乗じて、戟を掉い、斧を振い、一度虚空に朝せんか、持国広目ありとというとも、これよりして多事ならんと、思去り思来たりて、綾子は車上に憂悶せり。
夫人は瞑目沈吟して、腕車はいずこを走るやらんしばらくは現なり。
「ええッ此奴。」と度外れの大声に耳を驚かして眼を開けば、梶棒をがたりと下して、「夫人提灯を点けますからちょいとどうぞ。」と車夫の吉造、婦人を一人輪の下に轢かんとせし、ようよう車を踏留め、胆を潰せしむかばらたち、燐寸にあたりて二三本折っぺしょり、ますます苛ち、「命知らずの馬鹿者め、何だって往来に坐ってるんだ。我が腕に覚えがあって旨く立停まったればこそ、さもなけりゃ、頭を破るか、脛を折るか、どうせ娑婆の者じゃねえ、そりゃ我だって暮合に無燈火も悪かったけれど、大道中に坐ってる法はねえ。」
と擦っては消し擦っては消し、ようよう点けたる提灯の燈明に照せば、煉瓦の塀と土蔵の壁との間なる細き小路に、窶れたる婦人俯伏になりて脾腹を押え、鞠のごとくに身を縮めて呼吸も絶ゆげに苦めり。肩の辺に負れかかりて、茶褐色の犬一頭、飼主の病苦を憂慮いてそを看護らんと勤むるごとし。
車夫は別に気にも留めず、「へい、お待遠様。」
と夫人に謝して再び梶棒を上げんとせり。
綾子夫人は、待てしばし、過日も狸穴の辺にて在原夫人にかかりし事あり。その時渠は病者を見棄てて大きに面目を失いぬ。殷鑑遠からず、一歩を過たば我はた無情の人にならんと、泥除を叩きて口早に、
「ちょいとお待ち。」
押留めて、「吉造、見受けた処病気のようだよ。容体を診てやるが可い。」「およしなさいまし。この頃は乞食が憐れっぽく見せようために、ああやっちゃあ誑しますよ。」「そういうことをいうものではない。可いから聞いてご覧。」
とたしなめられて不承々々、「こうこう夫人のお声がかりだ。空おろそかには思うめえぜ、どうしたのだな。え、おい、どこか悪いか。」
悩める婦人は顔も得上げず、病苦に声も切れ切れにて、「あ痛、あ痛々々、冷えましたせいか差込みまして……」「ふむ、持病の癪か。よくあるやつだ、家はどこだい。」「はい、家と申しては、……別にどこも。」と呼吸の下にて答えたり。
「そりゃ、ござったわ。いやにしんみりと持懸けたな。夫人油断なさいますな。慈悲を垂れると附上ってなりません。」夫人は頭を振らせたまい、「またそんなことを。可哀相に土の上では冷えて堪ったものではない、行って腕車を雇っておいで、家へ連れて行って介抱しよう。」蓋し思わくのあればなり。
「滅相なことをおっしゃる、飛んでもない、こんな者をお邸へ入れますのは、疫病神を背負込むと同じです。ままよ、癪の虫を揉殺して立処に癒してやる、まんざら嘘でもないようだ。全体癪の介抱は、色男の儲役だが、対手がこの状ではおさまらねえ。手を入れたら虱を揉み潰すくらいが取柄だ。弱ったな。」
と呟きつつ、提灯差附け凝視むれば、身装こそ窶々しけれ、頸筋の真白きに、後毛の匂こぼるる風情、これはと吉造首を捻って、「しっかりせい。」襟よりずっと手を差入れ、「それ、こたえたか。」ぐっと圧す。
婦人は苦と身悶えして、仰向に踏反返り、苦痛の中にも人の深切を喜びて、莞爾と笑める顔に、吉造魂飛び、身体溶解け、団栗眼を糸より細めて、「夫人、こりゃ是非お助け遊ばせ、きっといい人の落魄たんです。」
綾子は頷き、「早く腕車を見て来ておくれ。」「いえ、今が大事な処、ここで手を放すと反ってしまいます。」「だって、お前、いつまで道端でそんなことを。これ。」「へい、もう少々。どうも放し悪い。」「早くおしよ。」ときめつけられて詮方なく一散に駈け出し、口の裡で、「御自分が独身だと思って、ちとお焼芋の方だ。どうもならねえ。」
室数多けれども至って人寡少なる深川の館は、その夜より賑わしくなれり。綾子が厚き情にて、ただにかの婦人のみならず、なお彼に附随せる犬をも加せて養いぬ。
新らしき食客は、暖かき褥に臥し、良薬を賜わりて、疾病直ちに癒えたり。渠は旧旗本の嬢なりき、幼にして両親を失い、嫁して良人を失い、人に計られて財を失い、餬口のために家を失い、軒下に眠ること実に旬余、辛酸を喫して癪に閉じられてすでに絶せんとせるとき、綾子のために救われしなり、と渠は語りぬ。
翌日早朝、犬はいずくにか出行きて、半日見えず、午後に到りて帰り来りぬ。
「夫人、好事門を出でずと申しましたけれども、ああ、善きことは致したいもの、これ御覧じまし。」と三太夫が書斎に齎したる毎晩新聞。
綾子手に採り披き見れば、深川夫人乞食を救う、と標題に圏点を附してその美徳を称讃し、気味悪きまで賞立てたり。
綾子は莞爾、「こんなに謂われてはかえって迷惑、あの女はどうしているね。」「何か頻りに働いておりまする。」「幸、人手もなし、眼を懸けて使うが可いよ。」「はッ、はッ。」
綾子は急に思出して、独言のように、「あ、御隣家へ御見舞に上らねばなるまい。」三太夫は呑込顔、「ありゃ、御沙汰止に遊ばされい。大木戸の御前の御病気には、何かその、婦人が一切禁物だと申すことで、小間使が二人、先日宿許へ下げられました。御台様も一間なる処に御籠の様子。御枕許御用人の衆が羽織袴で詰めおるげにござりまする。たとえ御見舞にお越し下されましても、なかなか通すことではござりませぬ。宜しく拙者めにおおせ附けられまし。」と真顔でいう。
綾子は顔を赧めて、「そんなら私は見合せよう、何ぞを見計らっての、其方がお伺いに参るように。」
とあれば、「はッ、――はッ。」とお受申して、次の間へ辷出でぬ。
深川夫人の廃物利用はすこぶる好果を奏したり。女乞食の掘出しもの、恩に感じて老実々々しく、陰陽なく立働き、水も汲めば、米も磨ぎ、御膳も炊けば、お針の手も利き、仲働から勝手の事、拭掃除まで一人で背負って、いささかも骨を惜まず。上下をすべて切って廻せば、水仕のお松は部屋に引込み、無事に倦飽みて、欠伸を噛むと雑巾を刺すとが一日仕事、春昼寂たりという状なり。
渠がこの家に来りし以来、吉造垢附きたる褌を〆《し》めず、三太夫どのもむさくるしき髭を生さず、綾子の頸も撫ずるように剃りて参らせ、「あれ、御髪が乱れております。お気味が悪くも撫附けましょう。」とは、さてもさても気の着いた、しかも無類の容色好し、ただ眼中に凄味を帯びて、いうべからざる陰険の気あり。「ああッ凄い。」と吉造無暗に嬉しがり、三太夫は人相早学を眼鏡で覗き、「なる程、ただものでない相じゃ。」
日数経れども旧を忘れず、身を謙りてよく事うるまたなき心を綾子は見て取り、一夜お傍近く召したまいて、「妙なことを訊くようだが。……」と言淀みし声を密め「お前、子を持ったことがあるのかい。」
婦人は冷かなる眼をぱっちり、綾子は射られて慄然とせり。微笑を含みて、「はい、お薬も存じております。」
「嫌なことをいう人だ。」綾子はその無礼を怒りて顔を背けつ、机に凭りぬ。
一家声なし、雨蕭々。
翌朝になると三太夫、婦人を呼附け、言葉も容子も改りて、「暇を遣る。」と藪から棒。
婦人は愕きたる状にて、「何ぞ不調法でもいたしましたか、誠に行届きません不束者、お気に入りませぬ事がございましたら、そうおっしゃって、どうぞ御勘弁下さいまし。」「何かは存ぜぬが夫人の御意じゃ、柔順にお受け申して退散せい。」と御家老真四角なり。
婦人は悄然、「もう一度夫人に御執成遊ばして、お許されまするよう、恐入りますが、貴老から。」「罷成らぬ。別に何を毀損したというではなし、ただ御家風に合ぬじゃで、御詫の仕様も無いさ。」「でもございましょうが、そこをどうぞ。」「うんや。」
と頑として肯ぜず。
婦人は気色を変えて、「老爺様。」
「なにいッ。」と引込んだ眼を刮出す。
「私あ行く処が無えんだよ。宿無しだッてことはお綾様承知の上だ。こう、お店の嫁じゃアあるまいし、家風に合わぬもよく出来た。お国猿め、江戸へ来たらちとものいいに気を着けねえ。」と満腔の毒を一瀉して浴せかくる。
「何と申す!」三太夫は驚きながらも居丈高。
「行く処が無えというんだよ。」「や、此奴太々しい、乞食非人の分際で、今の言草は何だ。夫人の御恩を忘れおったか、外道め。」と声を震わし、畳を叩きていきまけば、ニタニタと北叟笑、「フフン、御恩ゴオンと、ニコライの鐘みたいにいけすかない音をお出しでない。御恩だけのことはこっちでもしてある。お前さん、言訳ばかりの小さな眼でも盲目でないから見ていたろう。私あね、御飯を食べるだけはきちんと働いておいたつもり。昔はちょいとした恩義に感じて田舎の御家来が、生命までも棄てたものさ。ありゃ、主人が狡猾で、旨く正直なものを操ったのさ、考えてみたがいい。たかがぽんぽち米少々で命と取換えてたまるものか。私はもとより忠義でないが恩知らずとはいいなさんな。するだけのことをすれば可いのさ。何と老爺様一言も無かろうね。」とまくし立てて、怯むところへ単刀直入、「しばらく足を洗ったために、乞食夥間を省かれた。面桶持って稼がれねえ。今この家を出るが最後、人間の干物になります。皆これも夫人の御庇だから、何も彼もそっちが懸合だ、飼殺にしておくんなさい。」と足を出したる高ゆすり。
三太夫は胸へ込上げ、老人のあせるほど、気ばかり苛ちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、芥に酔うたる鮒のごとし。
「老爺を対手じゃ先行がしない。可し、直接に懸合おう。」とふいと立って奥へずかずか。「ま、ま、待ちおれ汝。」と摺下りたる袴の裾踏しだき、どさくさと追来る間に、婦人は綾子の書斎へ推込み、火桶の前に突立てば、振返る夫人の顔と、眼を見合せて佶となりぬ。「姉様、談話がある、座蒲団を敷いておくれ。」
「汝はな汝はな。」と武者振附く三太夫を突飛ばして、座蒲団を引張出し、棒ずわりの膝をくずして、
「狆や猫でも蒲団に坐るよ。柔かい足を畳にじかでは痛いやだね。御免なさいよ。」と帯の間より煙草入を抜出して、「ちょいと憚りですが、そこいらに、煙管は無いかね。」
「やい、不貞腐。」と車夫の吉造、不意に飛込んで、婦人の髻鷲掴みにしてぐいと引けば、顔をしかめて、「あ痛、つつつつつ」と拳に手を懸け、「無体な、何をするんだねえ。」
「何も彼もあるものか、様子は残らずあっちで聞いた。夫人の御居室へ踏込みやがって、勿体ない。人も無げなことをしやあがる。愛想の尽きた阿魔ッ女だ。汝を贔屓に目が眩んで、今までは知らなかったが、海に千年、川に千年、劫を経た古狸、攫出してお汁の実にする、さあ失せろ。」と力一杯。
「ああ豪い、お前様は男だから力があるよ。負けました負けました。おほほほほほ、強い人だね。」と平気で笑えば、吉造少しく拍子抜、「一体汝あ何者だい、尋常の鼠じゃなさそうだ。」「あい、私あ、鮫ヶ橋で丹という、金箔附の乞食だよ。」
言いもあえず膝立直して、「じゃむこうじゃむこう。」と口笛鏘鏘。
綾子夫人は蒼くなりぬ。
(じゃむこう)は召しに応じて、大なる顔を、縁側に擡げて座敷を窺い、飜然と飛上りて駈来り、お丹の膝に摺寄れば、髻を絡巻ける車夫の手を、お丹右手にて支えながら、左手を働かして、(じゃむこう)の首環を探り、紙片を引出して、悠々と皺を伸しつ、「そんなにしなさんな、頭痛がすらあね。今出て行くよ、まあ、お待ち、引かれ者の小唄とやらを、ここでちょいと吟じよう。」
深川綾子の先達て、女乞食を救いたるは、廃物を買いて虚名を売り、給金無しの下婢を得て奇利を占めんず政略なりし、今また経費を節減せんとて、行く処なく帰る家なき女乞食を追出だせり。
「なんとどうでございます。声が悪くって節は附かぬが、新聞種には面白いよ。大方こんな事だろうと、昨夜の中に拵えておいた。」
綾子、「それは何です。」
お丹、「毎晩新聞の材料で、探訪員の原稿です。」
綾子は太き呼吸を吐き、「ああ是非がない。吉造、その手を放しておやり、三太夫、その婦人は私を殺すよ、しかし大切なお客様だ。」
お丹は勝手次第に綾子の箪笥より曠着を取出し、上下すっかり脱替えて、帯は窮屈と下〆《したじめ》ばかり、裳を曳摺り、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき押立膝、烟草と茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢の縁に肱つき、小楊枝にて皓歯をせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、鰻丼だえ、相も変らずだの、五ツ六ツ誂えて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松の方の召上る物はぐい極となったが、私は何にしよう。鰻の匂も鼻に附いて食いたくなし、鯛は脂肪濃し、天麩羅はしつッこいし、口取も甘たるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好な種が無かろう。鮪の刺身は噯に出るによ。こうだに因ってと、あるよあるよ。白魚をからりッと煎り上げて、鷹の爪でお茶漬が、あっさりとして異う食わせる。可いかい。この辺に無かったら、吉造を河岸へ見にやんな。ついでにお茶請の御註文が、――栄太楼の金鍔か、羊羹も真平だ。芝の太々餅芳ばしくって歯につかず、ちょいといいけれど、路が遠いから気の毒だ。岡野のもなかにて御不承なさるか。そうそう藤村の鹿の子が可い。風月堂のかすてらも悪しからず、引包めて二両ばかり買うが可い。それから家の漬物はさっぱり気が無いの、土用越の沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとは圧が強い。早速当座漬を拵えて醤油も亀甲万に改良することさ。」と朝から晩まで食好、食草臥れれば、緞子の夜具に大の字形の高枕、ふて寝の天井の圧に打たれて、潰れて死なぬが不思議なり。
綾子はこれを見て見ぬふり、黙許して咎めざれば、召使のものは為術なく、お丹の命令に唯々諾々。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと仔細ありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、太くもの思に沈ませたまい、軽快濶達なりし昨日に似ず、憂鬱沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。
誰も天窓のおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、我儘日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。
一日珍しく、在原夫人、深川の館に訪れぬ。
外出好の綾子夫人が一室にのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け勿。」といわるるばかり庭の面さえ歩行わせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、気鬱の疾病や引出したまわむ、何か心遣の術は無きかと頭を悩ます三太夫、飛んで出で、歓迎え、綾子の居間に案内せり。
夫人も大きに喜びたまい、睦じやかなる談話の花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に広袖を引懸け、不作法に入来りて、御両方の身近に寄り、突然匍匐になりて頬杖つき、貞子の顔を上眼にじろじろ。
「綾様、こりゃどこのお婆様。」
綾子は堪らず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、衝と座を立ちて駈出だし、一室の戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。
貞子の方はいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出で来らず、膳を進らせんと入行きたる下婢のお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。
その後室内沈静にして、些々たる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立てて噪がしき響の起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣く音も聞ゆ。
「ああ、申訳のない事だ、御主人は女性なり、我が一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるを諫めなんだが不念至極、何よりもまずこの月の入用をまだ御手許から頂かぬに、かの悪魔めが食道楽、通帳で取込んで借が山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけには行かぬ。十重二十重に囲まれては、老功な武者でも籠城がしにくいぞ。ええ情ない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、先殿への申訳、まッこの通り。」
と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を選出し、座を構え、諸肌脱ぎ、皺腹に唾をなすり、白刃を逆手に大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は冥土の道連、差違えるぞ、さよう心得ろ。」
と繰返して呼ばわれど、留めんとするものなし。「なに止められて堪るものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と切尖をちょいと中てて震上り、「武士が、武士が、」と歯切して、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、死だあ。」と疵を押え、血眼になりて、皺枯声を振絞り、「もう一抉で死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で呼吸。
障子の外には人気勢して、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様が祟る日だ。やれ六根清浄、切腹をする日でない。」と御見合。
もとより親仁が一生の智慧を出したる茶番にて、お丹の心を挫がんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる目算のあてはずれ、発奮で活歴を遣って退け、手痍少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の膏薬を飯粒にて糊附けしが、歩行たびに腹筋よれて、跛曳き曳き、「あ痛、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)
綾子が一室に籠りてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、面出す男、「姉御、姉御。」と二人連。
来れる二個の眷属は三界無宿の非人にて、魔道に籍ある屠犬児、鳩槃荼、毗舎闍を引従え、五尺に足らざる婦人ながら、殺気勃々天を衝きて、右の悪鬼に襖を開けさせ、左の夜叉に燭を持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の苦患を嘗めつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落の態引替えて悪魔の風采凜々たり。
綾子は照射入れる燈火に射られて、呀と叫びて跳上りぬ。
屠犬児は衝と寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。
綾子は頤を襟に埋めぬ。磨かぬ玉に垢着きて、清き襟脚曇を帯び、憂悶せる心の風雨に、艶なる姿の花萎みて、鬢の毛頬に乱懸り、俤太く窶れたり。
「綾子様、今私が改めて貴方に御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」
綾子は震えぬ。
お丹は屹と居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と貴女とが一つ閨に居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、⦅お言いでないよ⦆を繰返して小間使を警しめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あの女は幽霊の真似をして人を威して慰むような剽軽者ではございません。必ず誰かが教唆して殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子様、大木戸伯と貴女の他には、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやを謂われぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あの娘が活きている中は、二人の寝覚が悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ不品行をなさるんです。年紀は若し、容色は佳し、なるほど操は守られますまい、可し情夫が千人あろうと、姦夫をなさろうと、それは貴女の御勝手だが、人殺をしても仁者と謂われ、盗人をしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体法網を潜るものは、お天道様が罰する筈だけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩唯今、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を教唆して死地に陥したは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って冤罪はお被せ申しません。どれ、そんなら、雲を掴んで、裁判しようか。」
綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。
「それ手を貸しな。」と号令一発。
かねてより命じけむ、夜叉羅刹は猶予わず、両個一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より禁扼、三重襲ねたる御襟を二個して押開き、他目に触らば消えぬべき、雪なす胸の乳の下まで、あらけなく掻あくれば、綾子は顔を赧めつつ、悪汗津々腋下に湧きて、あれよあれよと悶えたまう。両の乳房を右顧左眄て、お丹はなぶり且つ嘲り、「ふむ、大分大きくなった乳嘴にぼっと色が着いて、肩で呼吸して、……見た処が四月の末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」
両個はただちに手を引きぬ。
綾子は呼吸ある人形なりき。
「綾子様、このごろの習慣で、寡婦の妊娠のは大変な不名誉です。それに貴女のその腹は誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、この件を通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」
綾子は聞くより慌しく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」
お丹は綾子を瞻りて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる貴女、今醜聞を新聞に出されては、とても日本にお出なさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これを進げますから、外国へお遁げなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中は破れるばかり風説をしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い手廻。
綾子は肯かず、「いいえ、人が私を罵る声は苔の下まで定かに聞える。私の身体をお前に遣るから、生爪を剥いで火で焚くとも、逆に釣って干殺すとも、ずたずたに斬って肉を啖うとも、血を絞って啜るとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」と清しき御眼に暗涙あり。
お丹は冷然として、「不可ません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な価値があるので、今度の新聞材料は人の生命が要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら露西亜へでもお出なさいな。」
綾子は呟くごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へ行く気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。身体は死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」
と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心を和ぐべく鉄腸を溶解すべし。
されど悪魔は冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの? 咽喉を突くの? 笛を掻斬る時後へ反ると、もう、手が利かなくなって死損います。背後から私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私の掌から飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。
綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあの件を新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ顔色にて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に愉快い。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その理由を書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた好い材料のある時は、嬉しそうに尾を掉って勢よく駈けるんですもの。」その心の冷かなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。
綾子は再び独言ち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも不可ないのか。」と最後の運命に問い試む。
お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、甘い御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあの件を見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して咽候を切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、人殺をして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それ其がごく宜しくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、活さず殺さず、万劫苦しめるのが一番良い。」
綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」
綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、俄然跳起きて、「ああ、懊悩い。」
身悶えして帯を解棄て、毛を掻挘り髷を毀せば、鼈甲の櫛、黄金笄、畳に散りて乱るる態、蹴出す白脛裳に絡み、横に僵れて、「ええ、悔しい!」柳眉を逆立て、星眼血走り、我と我手に喰附けば、右の無名指に二個嵌めたる宝石入の指環を噛みて、あっと口を蓋えるとたん、指より洩れて鮮血たらたら、舌を切りぬ。歯を折きぬ。されども苦痛を感ずる体なく、玉の腕を投出して、空を抱きて胸に緊め附け、ニタリと笑いて、「時様、おお、可愛いねえ。」
果は衣服を脱棄てて、媚めかしき乳も唇より流るる血汐に塗みらしつつ、
「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お位牌の前だって、貴方もねえ、死んだ夫は近視でした。」
魔属もさすがに面を背けぬ。
お丹は視めて平然たり。
綾子はまた膝を折りて端坐しつ、潸然と泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつ苦み掙き、
「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。堪らない、あれッ、あれッ。」と跳り上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子を掴みて投げたるごとく、仰様に打倒れぬ。それより裸美人寂として、大理石の像に肖たり。
ただその心臓は音するばかり、波立つごとく顫動せるに、溢敷きたる黒髪揺ぎて、千条の蛇蠢めきぬ。
お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った婦人と見える。可し。」と呟きて、「さあ、帰ろう。」
門を出づる時、屠犬児が、「姉御あんまりだ。」「酷いじゃねえか。」とその気色を物色えば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」
明治二十八(一八九五)年七月
青空文庫より引用