麻雀インチキ物語
インチキとは、不正手段である。だから君子のなすべきものではない。
近来、日本のゲーム界に君臨している麻雀にも、いろいろとインチキが可能である。日本麻雀聯盟でも、無論、インチキを排斥している。インチキをやっているところを見付かった連中で、麻雀段位を褫奪され、揚句の果、聯盟から除名されたような結果(というと、妙な言いまわしかただが、僕はいまだかつて、「何某、右の者インチキ現行を取押えたるに付、会則第何条により除名す」という掲示を見たことがないからである)になった人も、けっして尠くはないのである。
インチキは排すべく、厳重に取締るべきである。ことに、一緒に卓を囲んで闘った面子の一人が、自分の二千符をほとんどみんな攫ってゆき、その面子一人が断然一人勝ちでプラス四千点にもなったというが、麻雀大会閉会後、「あいつは、インチキの名人なんだ」と誰かに聞かされたときは、全く口惜しくって泪が出る。その男の首を捩じ切って、会場の正面へ曝したいくらいに思う。インチキ発見のときは厳罰に処すべきである。
だが諸君、ここに一つの問題があると思うのは、誰かのインチキに、まんまと引懸ったのが自分ではなく、他人の友人か誰かであったとしよう。そのときにも、自分が引懸ったと同じ程度に相手の不正を攻撃するかというのに、どうも左様ではなくむしろインチキにかかった其の友人の間抜けさ加減を嗤いたくなり、インチキを用いた悪人に、一寸した尊敬にも似た感情を生ずるのである、そりゃ無論、一時的の話ではあるけれど……。そうしてみると、麻雀のインチキも、一寸ユーモアがあるような気もする。
僕は麻雀のインチキについて、大分研究した。それはインチキを自ら用いて、大会一等賞の洋銀カップをせしめようという目的では勿論ない。度々インチキにひっかかったことを後から知って口惜しさにたえず、もうこれからは引懸るものかと、研究してみたのである。現在ではまずインチキに引懸けられていない心算だが、なにしろこれは自覚症とは反対のものなのだから絶対に引懸けられていないと強く言い放つことはできない。
さてこれから、インチキ曝露だか、インチキ伝授だかを始めるわけだが、僕の相手になるインチキストは、わりあいにタチのよい人間、つまり生れながらの悪人ではないせいかその用いるところも、初等インチキに属するものばかりのようである。高等インチキの方は僕に探偵力がないせいでもあろう、その方の講義は、他に適当なる麻雀闘士があろうと思う。
初等インチキというのを見廻すと、中村徳三郎氏の「麻雀防弊」に於て示されたような外国で行われる深刻極まりなきインチキに比較して、いかにもアッサリした、コソ泥的とも言え、また日本的(?)とも言えるものばかりである。実例について申し述べてみよう。
まず最も多いインチキは、何といっても、故意にまちがった牌を持ちながら和ってしまうことである。その和りは、極めて得点がすくないのを通例とし、多くは二十二、又は二十四である。こいつをやるのは西風戦、北風戦といったように、四人の面子がお互に、「ここで大きいものを作って他家よりリードしよう」と意気込んでいるときである。他家が三飜ものを三副露して或る種の牌が包となっているために場が緊張しているとか、又は自分でも一生懸命大きい役をガメクッているとか、兎に角三百符乃至満貫近いものが出来ようとしている場合に、一人の面子が「ハイッ和り、二十二」と和っちまう。この場合、他の連中は緊張の途中、思いもうけぬ方角からザブリと水を浴せかけられたようなもので、呆然してしまう。そして二十二で和った人の牌を検べもせず、二本棒を呉れちまう。「大きく和られないでヤレヤレ」と喜んでいる人もあるという始末。いずくんぞ知らん、和りを宣言した人は牌が間違っているのだ。
これが発見されると和錯だから罰金として一千符とられるのだが、誰も見る人がないのだから、愉快である。中には牌を順序よく理牌して置かないで、ごまかす人もある。又、和りと言って、直ぐ場の捨牌の中へ交ぜてしまって証拠堙滅をはかる人もある。又中には刻子とか槓子とかはそのままに自分の前に置き、他の順子や麻雀頭は(その中に錯ったものがある場合のはなし)早速一寸皆にみせたまま、直ちにつまんで捨て牌の中へ交ぜてしまうという手もある。だから、このインチキを防ぐためには、どんなに小さくてもその人の牌につき一応調査をすることを怠ってはいけない。理牌のしていない人の牌は一見判別がつき難いから、そのときは、他人の牌に手をかけてもよいから、本当の和りだかどうだかを、確めるべきであると思う。
次にしばしば用いられるインチキは、順子の牌をごまかすことである。これには色々な場合があるが、一番簡単なものでは「吃」と懸け声をして置いて、不用の牌を一枚すてる。そして上家の捨て牌をとって来て自分の牌二枚と共に曝すわけだが、このとき上家の捨て牌をとらずして、既に河に前から捨てられてある牌をとって順子をつくる。たとえば二四索を持っているとき上家が四索を捨てる。これでは吃としてとりようが無いが河には先に三索が捨てられてある。すると、その三索を持って来て、二三四索の順子として曝す。上家をはじめ他の人達がよく注意して居れば勿論こんな馬鹿馬鹿しい胡魔化しにはかからないが、すこし戦が酣になって来ると、よくこれが行われる。
又、も一つの方法は自分が六七八万の順子を曝して居るとすると、手の中の牌にも万子があってどうしても八万が一枚入用なのだが、その八万は中々やってこない。この場合、別に離れて五万が手牌中にあったとすると、コッソリ曝してある八万を手牌へさらい込み、その代りに五万を加えて六七八を五六七の順子に変えてすまして居る。そのために早く聴牌ができて和ってしまう。大きな役のときや清一色はこれを用いると大成功を納める。これを行うときは、他家が積んである牌を自摸するときから同人が一枚捨てる迄の、時間で言えば一秒ほどの間を覘ってやると、皆が自摸する人の方へ注意を奪われているので難なくごまかせる。
今一つ、度々やられるのは、白中発の三元牌とか荘風、門風、連風の牌とかの二枚、若くは四枚位を自分の持牌中に加えることである。こいつは、たちまちその人に何飜かをつけることとなって、結果は非常に大きい。大会でこっぴどくやられるのは、大抵この種のインチキである。この方法にはいろいろとある。
最も普通の方法は、戦をはじめるに際し、自分の前に二重に積んだ牌を十七憧列べるわけだが、その際、重要なる牌二個を手の中とか袖の中とか、又は膝の下へ隠してしまって自分だけは一憧すくなく、つまり十六憧ならべる。そして、戦い酣なるとき、隠して置いたものを、人に気づかれないように、とり出しては、手牌の不用なものと取り換える。これは清一色めいたものにも利用が出来るし、それにまた普通十三枚の配り牌に対し、自分だけは十五枚も持っているのだから、手をかえ、聴牌に導くのは、極めて容易である。今から一年ほど前に常勝軍としてその名声高かりし某高段者の如きは、常にこの手を用いて常勝をつづけたもので、彼氏がそのインチキを発見せられたときは、非常な運のわるいときであり、大変焦り気味となって、前後を弁えず連続的にこいつを用いているのを、発見せられたものだと言うことだ。
他の方法としては、自分の前に並べる十七憧の何れかの一方の端の二枚か、又は両端の四枚をかねて、目をつけて置いた飜牌などにして置き、これを持牌とうまく掏りかえる。それには自分の前の十七憧を、皆がとりやすいように斜めにしてすこし前へ出してやるとみせかけ、例えば右手の中に、不用の持牌二個を隠し持ち、前へ押すときにそれを十七憧の右端へ加え、前へ押して手を引くとき、左手の中に左端の二枚を隠し取って手牌の中に入れてしまう。これは手際のよいもので、よほど注意をしていないとごまかされる。
もう一つは自分が荘家になったときに、骰子の目をごまかして、自分の前の十七憧の比較的左端にある二枚又は四枚にかくしてある飜牌をとることである。つまり、はじめ一寸骰子を振り、人がよく見ないうちに「五だ。もう一度」と言ってすばやく骰子をとりあげて振り「十三!」とか言って兼て隠して置いた牌のところを取り込むのである。勿論本当の骰子の目は五でもなく、二度の合計が十三でもない。それを勝手にそうだと読みとってしまうので、皆が呆然しているときにはうまくかかってしまう。
其他にも方法があるが、あまり行われないものだから省略する。これ等のインチキから脱れるためには、第一に自分以外の三人が、果して十七憧ずつ並べているかどうかをひと目で知る練習と注意とが肝要で、第二には、相手の手の運動状態と、手牌の様子とをよく睨んでいることである。
それから小さいインチキでは、サイドの計算のときに、飜牌の暗刻があるとて大分とられるが、そのとき、本当は暗刻ではなく、二枚しかその飜牌はなく、裏がえしの牌は、他のデモ牌であったりする。暗刻のあやしいのは、ひっくりかえしてみてやるに限る。
嶺上牌を一寸みたり、上家がすてない先の場牌を摸して、自分がとらないときには、例えばその七筒が誰のところへ入ったなどを覚える。又、牌を積むときに、あらかじめ飜牌の場所を覚えて置き、それが近くなると、たとえ無理な吃や碰をしてまでも、その飜牌を手に入れるのも一つのインチキというべきであろう。東の東三枚がこの辺に入っている。白板三枚はこの辺にあるなどと、覚えられるように積むのも、これまたインチキである。上手な人は掌の中に一枚不用な牌をひそませて置き、河の方へ手を出すときに、それを捨て、河の中に捨てられてある牌とか、まだ積まれてある牌とかを盗んでくるという器用な真似をする人もあるそうだが、それには中々練習が入るらしい。
一つの卓に、敵二人、味方二人が居るときに、味方二人の間に行われるサインもインチキというべきであろう。頭を掻くと、白板があるという信号だったり、鼻の頭をこすると連風牌があるということだったりする簡単な信号から、もっと秩序だったものでは、持牌十三枚の間、適当なところをすこしすかしてみたり、又一枚ぐらい列から前へ出したり、後へ下げたりして、入用な牌を相手に求める方法もある。
籌馬をごまかすのもインチキであろう。人の銭函へ手を入れたり自分のうちから予め五百符をもって行ったりすることから、勘定のときに誰かがすくなく言ったようだったら自分の分は勘定しないで、それだけ多く記入するなどというのもある。
詳しく書けばきりがないが、自分の牌を見ている時間は十の中、一か二でよい。他の八か九は、必ず、他の三人の挙動に対し用いられていねばならない。
青空文庫より引用