車屋の小供


 明治も初めの方で、背後うしろ武者絵むしゃえなどのついた人力車が東京市中を往来しているころのことであった。その車をいている車夫の一人で、女房に死なれて、手足纏てあしまといになる男の子を隣家へ頼んで置いて、稼ぎに出かけて往く者があった。
 小供は三歳位であった。隣家の者はおもがとおり一片いっぺんの世話であったから、夜になると、父親の車夫が帰らなくとも、
「もう、爺親ちゃんも帰って来るから、我家うちへ往って待っていな」などと云って、小供をれて往って、カンテラにけて帰った。
 小供は独り待っていると、淋しくなって来るので、しくしく泣きだした。その悲しそうに泣く泣声がかすかに両隣へも聞えた。この泣声を聞いては、小供をあずかっていた隣家の人も可哀そうになって来るので、伴れて来てやろうと思っていると、小供の泣声がぱったりんで、その小供が何か話す声が聞えて来る。そして、そのうちには笑声わらいごえまじった。それでは父親が帰ったであろうかと思ったが、帰って来れば空車あきぐるまをがたがたといて来るのが例になっているし、それに小供を頼んであった礼ぐらいを云うはずであるから、父親でないことは判っている。おかしいぞと思っていると、小供の声はんでひっそりとなる。と、しばらくすると父親が、空車の音をさして帰って来て、一口礼を云いながら家の中へ入ってしまう。
 小供はたしかに独言ひとりごとを云っていると云うことが、隣家の人に判って来た。それにしても不思議であるから、小供を預ってやる隣家の者が、ある日、小供に聞いてみた。
「お前さんは、夜家へ帰って、爺親ちゃんのいない時に、何か云ってるが、あれは何を云ってるのだね」
「おっかあと話をするよ」と、小供は平気で云った。
 隣家の者は頭から水を浴びたように感じながら、
「ほんとにおっ母が来るの」
「来るよ、乃公おれが泣いてると、おっ母が来て、乳を飲ましてくれたり、抱いてくれたりするよ」
 隣家の者はその小供をその家へれて往って聞いた。
「おっ母はどこから来るのだ」
「あすこから来るよ」と、小供は何時いつも空車を引込んで置く狭い土間どま敷居しきいの下に指をさした。



青空文庫より引用