長谷川時雨が卅歳若かつたら


 女人藝術げいじゆつは、美人びじんぞろひである。(わたしが、獨身どくしんであつたなら!)なかでも、時雨しぐれさんは、美人びじんである(多分たぶん女性ぢよせい美人びじんであるといはれることをよろこぶにちがひない、とわたししんじてゐるのだが――)それからまた、生粹きつすゐ江戸えどは、ただの江戸えどであるよりも生粹きつすゐとつけたはうよろこぶらしい)それから、その――(をつとといつていゝか、つばめ?――すこし、禿はげすぎてゐるが)あいする於莵吉おときちは十一も齡下とししたで、女性ぢよせいちうる幸福かうふく一人ひとりでもつてゐるひとである。
 そのうへ趣味しゆみひろく――たとへば最近さいきん、その三上みかみ對手あひてとして、いいとしをしながら(失言しつげん?)將棋しやうぎ稽古けいこしかけたりしてゐる。そして、ひとかど、かんがんで、眞面目まじめかほをして、一寸ちよつとつて頂戴ちやうだいつて頂戴ちやうだいつたら、と喧嘩けんくわしてゐる。また、その趣味しゆみしぶれいげると、三上みかみがその著名ちよめいなる東京市内出沒行脚とうきやうしないしゆつぼつあんぎやをやつて、二十日はつかかへつてないと時雨しぐれさんは、薄暗うすぐら部屋へやなか端座たんざして、たゞ一人ひとり双手もろて香爐かうろさゝげて、かういてゐる。なんのためだとおもふと、しづめる妙法めうはふで――露骨ろこつに、これを説明せつめいすると、やきもちしづめ――そのしぶさ、ゆかしさ、到底たうてい女人藝術げいじゆつ同人どうじんなどの、かんがへつくところのものではない。
もつとも、これは昔話むかしばなしである)
 それからまた、料理屋れうりや經營けいえいしたり、子供こども芝居しばゐしたり、大衆物たいしうものもかくし、現代物げんだいものもいゝし、戲曲ぎきよく將棋しやうぎ香合かうがふ女人藝術によじんげいじゆつ左傾さけい、等々《とう/\》、三上みかみ神出鬼沒しんしゆつきぼつが、辟易へきえきするくらゐに――世間語せけんごからいへば、わかく、哲學的てつがくてき解釋かいしやくすれば、進歩的頭腦しんぽてきづなうであり、藝者げいしやにいはせると、女文士をんなぶんしつて道樂氣だうらくきおほいものね、であり、醫學的いがくてき考察かうさつすれば、をつと年齡ねんれいわかさによる生理的現象せいりてきげんしようであり、またこれを、社會的しやくわいてき觀察くわんさつすれば、よめにもらひのない女文士をんなぶんし救濟家きうさいか(この一失言しつげん取消とりけし。こんなこともあらうかと、はじめに、みな美人びじんだと、御世辭おせじをいつておいたのだが)。
 とにかく、メンスのあがつた女性ぢよせいで(どうもこれも失言しつげんらしいが)いてます/\さかん(これもまた失言しつげんらしいが)なのは、關西くわんさいでは林歌子はやしうたこ關東くわんとうでは長谷川時雨はせがはしぐれだけである。田村俊子たむらとしこ岡田八千代をかだやちよ與謝野晶子よさのあきこ、等々《とう/\》、みなふるはないうちに、たゞ一人ひとり時雨女史しぐれぢよしが、三宅みやけやす宇野千代うのちよ平林ひらばやしたいなどのわかひと以上いじやうに、お河童かつぱをんななか餓鬼大將がきだいしやうとして、女性行進曲ぢよせいかうしんきよく吹奏すゐそうしてゐることは、早呆はやぼけする日本につぽんをんなとしては、めづらしいひとである。
 おなをんな取卷とりまかれてゐても、三上みかみは(説明中止せつめいちうし)――時雨しぐれさんは、社會的しやくわいてきに、文學的ぶんがくてきに、とにかく最早もはや、三四人よにん女文子をんなぶんし送出おくりだしてゐる、この賢明けんめいにしてうつくしいひとが、もう卅さいわかかつたなら?――日本につほん文壇ぶんだんは、動搖どうえうし、わたしは――わたしは、かぞへると、九歳こゝのつだつ!



青空文庫より引用