片隅の幸福


 
大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
 
 一茶の句である。いつごろの作であるかは、手もとに参考書が一冊もないから解らないけれど、多分放浪時代の句であろうと思う。とにかくそのつもりで筆をすすめてゆく。――
 一茶は不幸な人間であった。幼にして慈母を失い、継母に虐められ、東漂西泊するより外はなかった。彼は幸か不幸か俳人であった。恐らくは俳句を作るより外には能力のない彼であったろう。彼は句を作った。悲しみも歓びも憤りも、すべてを俳句として表現した。彼の句が人間臭ふんぷん たる所以である。煩悩無尽、煩悩そのものが彼の句となったのである。
 しかし、この句には彼独特の反感と皮肉がなくて、のんびり としてそしてしんみり としたものがある。
 大の字に寝て涼しさよ ――はさすがに一茶的である。いつもの一茶が出ているが、つづけて、淋しさよ ――とうたったところに、ひねくれていない正直な、すなおな一茶の涙が滲んでいるではないか。
 彼が我儘気儘に寝転んだのはどこであったろう。居候していた家の別間か、道中の安宿か、それとも途上の樹蔭か、彼はそこでしみじみ人間の幸不幸運不運を考えたのであろう。切っても切れない、断とうとしても断てない執着の絆を思い、孤独地獄の苦悩を痛感したのであろう。
 所詮、人は人の中である。孤立は許されない。怨み罵りつつも人と人とは離れがたいのである。人は人を恋う。愛しても愛さなくても、家を持たずにはいられないのである。みだりに放浪とか孤独とかいうなかれ!
 一茶の作品は極めて無造作に投げ出したようであるが、その底に潜んでいる苦労は恐らく作家でなければ味読することが出来まい(勿論、芭蕉ほど彫心鏤骨ではないが)。
 いうまでもなく、一茶には芭蕉的の深さはない。蕪村的な美しさもない。しかし彼には一茶の鋭さがあり、一茶的な飄逸味がある。
 私は一茶の句を読むと多少憂鬱になるが、同時にまた、いわば片隅の幸福を感じて、駄作一句を加えたくなった。――
 
ひとり住めばあをあをとして草
 
 (「愚を守る」初版本)



青空文庫より引用