滝田哲太郎君


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 滝田 くんはじめてったのは夏目 先生のおたくだったであろう。が、生憎あいにくその時のことは何も記憶きおくのこっていない。
 滝田 くんはじめてぼくの家へ来たのはぼくの大学を出た年のあき、――ぼくはじめて「中央公論ちゅうおうこうろん」へ「手巾はんけち」という小説しょうせつを書いた時である。滝田 くんぼくにその小説しょうせつのことを「ちょっと皮肉ひにくなものですな」といった。
 それから滝田 くんは二三ヵ月おきにぼくの家へ来るようになった。
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 或年のはるぼくは原稿の出来ぬことにすくなからず屈託くったくしていた。滝田 くんはその時ぼくのために谷崎潤一郎 くんの原稿をしめし、(それは実際じっさい苦心くしんの痕の歴々《れきれき》と見える原稿だった。)大いにぼく激励げきれいした。ぼくはこのために勇気ゆうきてどうにかこうにか書き上げる事が出来た。
 ぼくの方からはあまり滝田 くんたずねていない。いつも年末ねんまつもよおされるという滝田 くん招宴しょうえんにも一席末せきまつれっしただけである。それはたしか震災しんさいの前年、――大正十一年の年末ねんまつだったであろう。ぼくはその田山花袋 、高島米峰 、大町桂月 の諸氏しょしはじめてお目にかかることが出来た。
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 ぼくは又滝田 くん病中びょうちゅうにも一しか見舞みまうことが出来なかった。滝田 くんむかし夏目 先生が「金太郎」とあだ 名した滝田 くんとは別人べつじんかとおもうほど憔悴しょうすいしていた。が、ぼくぼくと一しょに行った室生犀生 くん画帖がじょうなどをしめし、相変あいかわらず元気げんきはなしをした。
 滝田 くん最後さいごったのは今年の初夏しょか丁度ちょうどドラマ・リイグの見物日けんぶつび新橋しんばし演舞場えんぶじょうへ行った時である。小康しょうこうた滝田 くんは三人のおじょうさんたちと見物けんぶつに来ていた。ぼくはそのかおながめた時、おもわず「ずいぶんやせましたね」といった。この言葉ことばはもちろん滝田 くん不快ふかいあたえたのにちがいなかった。滝田 くんぼくと一しょにいた佐佐木茂索 くんかえりみながら、「芥川 さんよりも痩せていますか?」といった。
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 滝田 くんせっしたのは、十月二十七日の夕刻ゆうこくである。ぼくは室生犀生 くんと一しょに滝田 くんの家へ悔みに行った。滝田 くんにわめんした座敷ざしきに北をまくらよこたわっていた。死顔しにかおは前にった時より昔の滝田 くんに近いものだった。ぼくはそのことをおくさんにはなした。「これは水気が来ておりますから、……綿わたふくませたせいもあるのでございましょう。」――おくさんはぼくにこういった。
 滝田 くんについてはこのほかかたりたいこともないわけではない。しかし匆卒そうそつあいだにもかたることの出来るのはこれだけである。



青空文庫より引用