秘境の日輪旗
兄のたより
明け方から降りだした雪が、お正午近くになっても、まだ、止まなかった。
灰色の空から、綿をちぎったような雪が、ヒラヒラと舞い落ちては、音もなく積って行く――。今朝、家を出る時には、それほど積っていなかったが、もう、十二、三センチは、たしかにあるらしい。
英夫は、「雪の進軍」の口笛を吹きながら歩いていた。
雪の進軍氷をふんで
どこが河やら道さえ知れず
馬は斃れる捨ててもおけず
…………
近ごろ、ラジオでもよくやる、溌剌とした行進曲が、降る雪の伴奏のように思われて、こうした雪の道を歩くのに、ふさわしかった。
歌って、へんなものだなあ――と、英夫は思った。知らず知らずの間に、この軍歌の口笛を吹いていたのだ。
今日は日曜日で、講道館に少年組の紅白試合があった。
英夫は、水道橋の講道館から、若松町の家まで、歩いてかえることにした。
紅軍が副将の英夫のところで、五人抜いたので、大将を一人残して勝った。英夫の足がはずんでいるのは、そのせいかも知れなかった。凱旋将軍の得意さ、つまり、意気揚々《いきようよう》としてかえる……とでもいうのだろう。帽子や外套の肩に、しっとりと湿った雪が降り積っても、別に苦にはならなかった。かえって、汗ばんだ、上気した頬にあたる冷たい雪が、こころよかった。
若松町の高台にある、陸軍軍医学校から、左に折れて、細い路地を入ったところに、英夫の家がある。――路地の突き当りの、古ぼけた冠木門に「河井謙一」と、表札のかかっている家がそれだ。
英夫の兄弟には、両親がなかった。いや、あったことはあったのだが、英夫の四つの時に、父親が死んだ。その次の年には、母親にも死に別れなければならなかった。それ以来、兄の謙一が両親の代りになって、英夫を育ててくれた。食事や、身のまわりの世話は、遠縁にあたる小母さんがしてくれた。
謙一は、府立の中学校から陸軍士官学校に入学した。士官学校を卒業する時には、恩賜の軍刀を頂いた秀才で、殊に語学は天才的だった。支那語や、マレー語や、スペイン語なども自由に話すことが出来た。
英夫が英語とマレー語を知っているのは、謙一が熱心に教えてくれたからである。それが後で、どんなに役に立ったことだろう!
講道館で柔道を習うようになったのも、謙一の手引きだった。謙一は講道館の柔道四段なのである。
謙一は、少尉に任官すると、南支の戦場に出征した。今は中尉だが、どこにいるか英夫もくわしくは知らない。ただ南方の特務機関に勤務していることだけはたしかだ。
と、いうのは、去年の秋ごろ、広東から一通の手紙が来て、これから広東よりももっと南の、○○方面の特務機関として赴任する。もし、計画が予定どおり進めば、世界を驚かすような「驚天動地の大事業」にとりかかることになっている。その時には、お前にもぜひ手伝ってもらわねばならない。兄さんから電報か何かで知らせがあり次第、出来るだけ早くやって来るように……。ただし、それは、いつのことになるか、前もっていうわけには行かない。兄さんの行動や、それらのことは軍の機密に関係していることだから、くれぐれも人には話さないように……と、兄にしては珍らしく細々《こまごま》と書いてある、長い手紙だった。
英夫には、わかったような、わからないような手紙である。ただいつか兄の側へ行き、「驚天動地の大事業」に手伝えるのが嬉しかった。
それから間もなく、大東亜戦争がはじまった。十二月八日、突如、米英に宣戦の大詔が渙発された。英夫が予想もしなかった大事件である。
「兄さん、ばんざい!」
と、英夫は思わず、ラジオを聞いて叫んだ。
広東からの、あの、わかったような、わからないような手紙の意味が、やっと、のみこめたような気がしたからである。
――そうだ、兄さんはもう、香港か、フィリッピンか、マレーか、あるいは南洋か、どこかで活動をはじめていたのだ。
そのうちにも、皇軍の戦果は、だんだん拡げられて行った。グアム島、ウエーキ島がまたたく間に占領され、十二月二十六日には香港が落ち、一月二日にはマニラが落ちた。
悪竜の眼玉のように、たった一つ残っている敵の根拠地、シンガポールに、今は攻撃が集中されていた。
――ああ、兄さんはどこにいるのだろう?
いつ僕を現地によんで、手伝わしてくれるのだろう!
英夫は、まい日、ラジオを聞きながら、胸をおどらしていた。まい日、兄からのたよりを待ちつづけていた。
いくども、玄関の郵便箱をのぞきに行っては、小母さんに笑われた。
家へ近づくと、英夫の足がひとりでに早くなるのも、そのためだった。
雪の足跡
「おいおい、英夫君、英夫君じゃないか」
軍医学校から、道を曲ろうとして、気がつくと、カーキ色のマントを着た将校が一人、にこにこしながら立っていた。
「あっ! 鳥尾の小父さん、今日は……」
兄の友達の、鳥尾軍医大尉だった。
「ニュース映画でも見に行って来たのかね」
「それどころじゃありませんよ。僕、忙しいんですから」
「あっはっは……忙しいのはお互いさまだが、参考になるから、自分もこれから見に行くところだ……ときに、兄さんから、たよりがあるかい?」
「なんにもないんですよ、まい日待ってるんだけど」
「そうだろうそうだろう、自分の想像だが、大活躍しとるらしいな、羨しいよ、じっさい、そのうち家へ遊びに来んか、じゃあ失敬!」
大尉は軽く手をあげると、雪のかかったマントを、一とゆすりゆすって、さっさと電車通りの方へ行ってしまった。
英夫の家へ行く、路地の曲り角に、低い石の透垣をまわした、洒落れた家がある。――二、三年前まで、英夫の同級生の、祥子たち一家の住んでいた家だった。京橋に南方相手の大きな貿易商、園部洋行を経営していた園部家の本宅で、英夫の家とも親しくしていたが、商いに失敗してから、主人公も亡くなり、今は東北の田舎に住んでいるはずだった。
その前を通ると、いつも祥子が弾いていた、ピアノの練習曲が聞えるような気がするのだったが、門口には、今は見も知らない人の表札がかかっていて、さびしかった。
路地を入ると、ふと、玄関に人の出入りしたらしい、雪の上の靴跡に気付いて、胸をおどらした。――誰かが訪ねて来たのだ、兄さんの消息がわかるかも知れない! それとも郵便なのだろうか?
郵便箱をのぞいて見ると、中は空っぽだった。
「ただ今!」
と玄関をのぞいたが、三和土の上に、とけかかった雪が散らばっているだけで、べつに客のいる気配もなかった。
「おかえんなさい、まあひどい雪!」
お勝手で、水仕事をしていたらしい小母さんは、たすきをかけたまま、濡れた手を拭きながら出て来た。
「誰か訪ねて来たでしょう、小母さん」
「ええ、来ましたよ、たった今お帰りになったばかりですから、そのへんでお遇いになったかも知れませんね」
なあんだ、鳥尾の小父さんか――と、思ったが、先刻そんな話もしなかったところから見ると、鳥尾大尉ではないらしい。
「どんな人、いったい……」
「そうそうそれをお話ししなくっちゃ、途中で遇ってもおわかりにならないはずですね、ほほほ」
小母さんは、茶箪笥の上から、一枚の名刺をとり出して来た。
それにははっきりした活字で、「村山作太郎」と印刷してあるだけで、肩書も住所も入っていなかった。
「村山作太郎……、僕、こんな名前の人知らないなあ、兵隊さん?」
「いいえ、兵隊さんじゃありませんの、どういう人か小母さんも知りませんし、ちょっとへんな人ですよ」
「へんな人って?……」
小母さんの話によると、その人は、ついさっき英夫を訪ねて来た。
帽子も、外套も黒ずくめで、おまけに顔色までひどく黒かった。ヒトラー総統のような、短い口髭をたくわえた、目付の鋭い男だという。
「あれじゃ、暗がりに立っていたら、ちょっとわかりませんね」
小母さんは笑った。
ながいこと河井家にいる小母さんだったが、その男の顔には、全然見覚えがなかった。
「どういう御用件でしょう、英夫さんもお正午ごろまでにはお帰りになりますけど」
といつまでも玄関に突立っている男にいうと、
「実は……」
と、何か話しかけたが、急に思いとまったらしく、
「たいへん重大な用件でありまして、ぜひ、直接お目にかかって、お話ししたいのであります。ではまた午後に……」
そういって、あたふたと、帰って行った。
小母さんの話だと、すこしも要領を得なかった。ただ不思議なことには、用件は英夫のことについてらしいのに、園部家のこともいくらか知っているらしく、どうして東京を引きあげて行ったのか、女の子が一人いるはずだが、やはり田舎へ行っているのか、そんなことを小母さんに、いろいろききただしたという。
「祥子ちゃんのことをききたいのかなあ……」
祥子のことだと、英夫は、東京を引きあげて行った事情も、商売がうまく行かなくなって、かなり不自由な暮しをしなければならなくなっていたらしいことぐらいしか、くわしいことはなにも知らない。そうしたことは、小母さんよりも知らないはずである。田舎へ行ってから、その後、どうして暮らしているのか、なんにも知ってはいないのだ。
「ちぇっ!」
英夫はすっかり当てがはずれて、がっかりしてしまった。
――ああ、マレーの街々も、ボルネオも、セレベスも、次々に皇軍の手に従えられて行く、シンガポールさえも余命いくばくもない頃なのだ。兄さんは一体僕に何を手伝わしてくれるというんだろう。
そのうちにアメリカや、イギリスが参ってしまって、英夫が、兄を助けて、活躍する場所なんか、なくなってしまいそうな気がするのである。思えば、大東亜の南方を、自由に駈けまわって、活躍している兄が、うらやましく、居場所も知らしてくれず、約束も果してくれないのがうらめしかった。
不思議な客
「やあ、河井中尉殿の弟さんでありますか」
英夫が玄関へ出て行くと、小母さんが話した、今朝の不思議なお客が立っていた。ひどく丁寧なものごしである。
もう夕暮れ近くで、青白い夕闇が、雪の上に立ちこめていて、玄関はうす暗かった。
あれじゃ、暗がりに立っていたら、ちょっとわかりませんね――と、小母さんが笑っていたのを思い出して、英夫は玄関の電灯のスイッチをひねった。
すると、小母さんの話したのとそっくりな、黒い外套を着て、黒い帽子を手にした男の姿が、目の前にあらわれた。――ただ、すこし違うのは、何か悪い、陰険な感じをうける顔ではなくて、陽にやけた、頑健そうな頬と、にこにこした人なつっこい笑いだった。
「村山作太郎であります。お初めて……」
英夫がすこし、あっけにとられて立っていると、軍隊式の不動の姿勢で、ぴょこりと腰から上を曲げた。
なるほど、鋭い目付はしているが、それは、軍人特有の真面目で、真剣な目付だった。
部屋へ案内すると、英夫はあらためて、
「僕、英夫です」
と、挨拶した。
「は、存じております……。早速でありますが、実は、重大な用件でお迎えに上ったのであります」
「えっ! 僕にですか」
「は、もちろん、中尉殿……、いや、あなたにであります」
いい違えたので、ちょっと苦笑をうかべた。
「どこへ行くんですか……だしぬけで、ちっともわからないんですけど……」
「いや、ご尤もです。しかし、ここでそれをお話しするわけには参りません。いわば私はただ使いなのでありまして、ある方から命令で、お迎えに上ったようなわけであります」
――おやおや、これはすこしへんな話になって来たぞ!――と、英夫は、心の中で思った。この客がどういう人間か――軍人らしいという想像だけはつくのだが、それにしても身分もはっきりわからないし、ある方の命令をうけて来たという。ある方というのは一体誰なのだろう。重大な用件というのは、どんなことなのか。また、迎えに来たというのだが、僕をどこへ連れて行こうというのだろう。いや、それはそのある方のいるところに違いない。すると、ある方というのは兄さんのことかしら、そうだ、そうかも知れない、いや、そうに違いない……。
「ある方って、兄さんのことですか?」
「いや、河井中尉殿ではありません。中尉殿の今おられるところをご存じないのですか?」
英夫はすこし紅くなった。兄の居所さえも知らないということが、恥かしかった。
「知りません」
すると、すこし気の毒そうに、
「お仕事の性質上、家族の方にもおいでになるところを知らされなかったのですね」
と、慰めるようにいった。
「しかし、このことは、中尉殿の御気持と全然関係のないことではありませんから、その点もし中尉殿のお許しもうけずに私が参ったようにお疑いになられるとこまりますから、はっきり申し上げておきます……実は、私も中尉殿とご一緒に、いや、中尉殿の部下として働いておったこともあるのです」
「えっ、兄さんと一緒だったんですか」
それは思いがけないことだった。では、この人もやっぱり軍人なのだ。
「はあ、いろいろとお世話になっております。このお部屋は中尉殿がお使いになっておられたところなのでしょう。さっきからおなつかしく拝見しておったところです」
打解けた、親しげな口調でいった。
「とにかく、くわしいことは、その方からお話しすることになっております。私は別な意味で、中尉殿のことや、そのほかいろいろなことでお話しをしたいのでありますが、それはこの用件をすましてからにしたいと思います」
「失礼ですが、あなたのご身分がわかりませんので、さっきから腑に落ちなかったのでございますが、お話のご様子で大体わかりました。私も英夫さんのことについては責任がございますので……」
小母さんも、心配していたらしく、出て来た。
「やっ! ついあの名刺を差上げたまま、私もうっかりしておりましたが……」
と、あわてたように、
「私は村山曹長です。河井中尉殿のもとの部下でありまして、大へんお世話になったものです……。それから、中尉殿の弟さん、英夫さんのことにつきましては、先ほども申し上げましたように、中尉殿の御意見と関係のないことではありませんので、ご心配はありません」
まだわからないのは、英夫がこれから会う人が誰なのか、どこへ行ってその人に会うのか、重大な用件というのはどういうことなのか……、それがわからなかった。
重大な用件のことについてはもちろん、英夫がこれから会う人のことだって、たとえ聞いても村山曹長の口ぶりからでは、話してくれそうもなかった。
――ともかく、その人に会わなければならない。
その人に会えば、村山曹長の話してくれない疑問の解決もつくし、兄中尉の消息もきかれそうに思われた。
しきりに辞退する曹長と、簡単な夕飯をすまして家を出た。
「遠いんですか、そこは?」
「いや、近いです」
曹長は、無雑作にこたえた。
祥子の身の上
どうして園部家のことなんかきいたんだろう?――そういう疑問が、ひょっこり英夫の頭にうかび上った。
園部の住んでいた、家の前を通る時だった。
「園部の家と親しくしておられたそうですが……」
曹長もその家に気がついたと見えて、
「……実にかあいそうなことをしました」
と、重い口調でいった。
「どうして園部さんを知ってるんですか?」
「園部の家内が、私の従妹にあたるのでありましてね」
「あっ、そうですか、じゃあご親戚だったんですね」
「そうです。私は支那事変がはじまってから、ずっと出征しておったもんですから、園部の失敗したこともちっとも知らずにいたんです。中尉殿と偶然なお話しからそれを知りまして、しかもご近所だとのことで驚きましたよ」
「じゃあ、僕の家の近所まで来たことがあるわけですね」
「――、ところが、園部の主人と私とはあまり仲がよくありませんでしたので、一ども来たことはないのですよ、マレーでゴム園をやっていたその弟の方とは子供のころから仲よしでしたがね。そんなわけですが、落ちぶれて田舎へ引籠ったとなるとかあいそうですから、こんど戦地からかえって、いろいろ問い合せて見ると、母親――つまり私の従妹も死んでしまって、女の子の引取り手もないという始末です、よくよく貧乏してしまったんですな」
すると、その女の子は祥子だ!――英夫は思った。
「それで、祥ちゃんはどうしたんですか」
「ああ、ご存じでしたね、祥子を……それがわからんのですよ、私がくわしい事情をききたいために田舎へ行って見ると、祥子はもういないのです。行方不明なのです」
曹長は声をのんだ。
そんな貧しい暮しをしていたことも、両親に死に別れて行方不明になっていることも、英夫はすこしも知らなかった。
英夫の記憶にあるのは、快活な明るい笑顔をして、ピアノの練習曲を弾いていた、豊かな生活の中にいる祥子だった。かあいそうに、今はどこにいるのだろう!
「私は、間もなくまた、新しい任地に向わなければならないのですが、もし、無事でかえったら、祥子を探して引取ってやります。いや、きっと探し出します」
曹長は強くいいきった。
しばらく、靴音だけで二人ともだまって歩いた。
それまで気がつかなかったが、曹長はいつの間にか若松町の電車通りを余丁町の方に向って歩いているのだった。
すると、曹長は突然、
「もうじきです。……ところであなたのこれから会われる方は、どなただと思いますか?」
そういわれても、英夫にはまるで見当がつかなかった。さっきからしきりに考えているのだが、兄の友達なのだろうか、それとも別な人なのだろうか。それとも軍人なのか、実業家なのか、役人なのか、そういう大体の目安さえもついていないのだ。ただ漠然と考えられるのは、兄の友達かも知れないということだけだった。
「兄さんの友達でしょう」
ずばりと、いいあてたつもりだった。
曹長は不意に笑い出した。
「は、は、は、先刻からだいぶ考えておいでのようでしたね……お友達というよりは、中尉殿の上官です。……ある将軍です」
一気に、そこまでいってしまうと、英夫の耳に顔を寄せて、
「上川中将閣下ですよ」
とささやいた。
「えっ! 上川中将ですって――」
あまりの意外さに、おどろいた。
上川中将といえば、有名な将軍だった。今は何をしておられるか英夫も知らなかったが、そういえば、兄中尉や若い将校たちが、英夫の家の書斎に集って、話し合ったりする時、たびたび出て来た名前だった。だが将軍が兄の上官であるという以外にどんな関係があるのか、一どもお目にかかったこともなかったし、写真でお顔を知っているくらいなものだった。
「すぐお会いするのでありますから、もうお話ししても宜しいわけですが、実は、将軍のおいいつけであなたをお迎えに上ったのです。先ほどもいいましたが、くわしいことは将軍から直接お話しがあるはずです。私どももくわしいわけは知りません。ただ重大な用件でお呼びしたことだけはたしかです。将軍は私にそのように仰有られました。特に私をその役にえらばれたのも、私が中尉殿のもとの部下であったということかららしいのです。よほど秘密を要することでもなければ閣下はそういうことをされません」
「ある方の命令」と、村山曹長のいった「ある方」はそれでわかったが、将軍がわざわざ英夫を呼ばれたことや、将軍と兄、兄と英夫、それと「重大な用件」との間にどんな関係があるのか、新らしい、いろいろな疑問が英夫の胸に湧きおこって来た――。
意外な命令
将軍の部屋には、客があるらしかった。
村山曹長がこつこつと扉を叩くと、
「入りたまえ!」
と、将軍らしい声が聞えた。
英夫はすこし堅くなって、曹長の後につづいて入った。
大きな机をまん中に、四、五脚の椅子を並べた部屋で、窓のある側を除いた両側の棚に、世界の国々の、あらゆるおもちゃを集めたらしい、珍らしい蒐集品があって、英夫はまず目を見はった。
「いや、ご苦労ご苦労」
と、将軍は、にこにこしながら曹長に向っていった。
ごま塩の頭は、うすくなっていたが、口髭の黒い、眼尻にしわのある将軍の顔は、写真で見るのとそっくりだった。ただ、和服を着ておられるので、これがあの有名な将軍だとは思われないほど親しみやすい好々爺に見えた。
英夫は、軍隊式に、腰をかがめて敬礼した。
「やあ、よく来てくれましたね」
将軍は、相変らず、にこにこしていた。
「どうです。河井に似ているでしょう」
うっかりしていたが、将軍とは、斜めに向い合うように坐っていた客が、笑いながらいった。
英夫の兄よりは、すこし年上らしい、茶色の背広を着た、どこか見覚えのある顔の人だった。
「うむ、似とる似とる、河井中尉にそっくりな顔をしとるな」
将軍は、上機嫌らしく、机の上のたばこ盆から、たばこを一本つまみ出して、火をつけた。
村山曹長は、それをしおに、
「では失礼いたします」
と、立上った。
「ご苦労ご苦労」
将軍は口癖のようにそういって、急に思いついたらしく、
「あの方は大丈夫だろうな、村山君」
「は、明朝、間違いございません」
「君、ひとつ、時間に間に合うように車をとばしてくれんか」
「は、かしこまりました」
曹長は英夫にも目礼して出て行った。
「では、僕もこのへんでご免を蒙りましょう」
客も立上って、きちんとお辞儀した。
「ああご苦労ご苦労」
と、将軍は、別にとめもしなかった。
「僕の顔を忘れたと見えるね、兄貴のところへ一二ど行ったことがあるんだがな、はっはっは」
出しなに、客が英夫の肩を叩いた。
「平林大尉じゃよ、兄さんの悪友だ」
「閣下、悪友はひどいですな、はっはっは」
「はっはっは」
英夫はやっと平林大尉を思い出した。――あの時は軍服だったので、いまの背広姿とは感じが違っているように思われたのだ。
二人っきりになると、将軍はしばらくだまったまま、また一本のたばこに火をつけて、机の上にひろげられた、一枚の地図に目を落し、それから、象のようによく光る眼で、じっと英夫の顔を見つめた。
それは、西南太平洋の、フィリッピン、仏印、泰、マレーから、東印度の島々をあらわした精巧な地図だった。
「ここにボルネオという島があるじゃろう……河井中尉と君に、この島へ行ってもらいたいのだが……」
英夫はびっくりした。こんな思いがけないことを将軍は、なんでもないことのように、そのへんに行ってたばこでも買って来てくれとでもいうように、しずかにいうのだった。
次の瞬間、英夫は嬉しさに、とび上りそうだったが、じっと我慢しなければならなかった。
ああ、ながい間の願いが、将軍の一言で、やっと叶えてもらうことが出来るのだ!
「これは河井中尉の希望じゃよ、君をよこしてくれというのはな」
「ありがとうございます、閣下」
「いやあ、お礼は兄さんにいうんじゃな、わしは、実をいえば、すこし不安に思っとるんだ……」
「そんなことはありません、僕、どんなことでもやります!」
「なに心配せんでもいい、君の兄さんから事情をきいて、わしも決心したのだ。それに、このことは、一人でも多くの人間に知られたくないということがあるのでな、どういう目的で行くのか、ここでどんな方法をえらんだらいいか、そういうことはわしがここで話さんでも河井中尉が知っとるはずじゃ。つまり、兄さんの指図に従えば宜しい。で、大至急兄さんのところまで行ってもらいたいのだが……」
「閣下、兄さんは今どこにいるんですか?」
「シンガポールだ」
「えっ! シンガポールですって」
「そうだ、シンガポールにおって、とうに第二段の作戦をたてとるよ、あすこを頂戴すれば鬼に金棒だ。……で、明日の朝出発してもらいたいのじゃが……、すこし無理かな……こっちにもいろいろな都合があるのでな」
将軍は、気の毒そうにつけ加えた。
「そんなことはありません」
「はっはっは、負け惜しみをいっとるね……そのことにきまれば飛行機の手配はもう出来とるんだ、ただし香港までだ、それから先は便船で行ってもらわなければならんがね、その方の連絡は村山曹長がよく心得とるはずだよ」
ちょうどその時、卓上電話のベルがけたたましく鳴って、将軍は受話器をとり上げた。
「うむうむ……ほう……いや、それはおめでとう……」
「英夫君、シンガポールが陥落したぞ」
ガチャリンと受話器をかけると、将軍がいった。
英夫は思わず万歳を叫んだ。
「明日出発する英夫君へお餞別じゃ、はっはっは」
将軍はそれから、細々《こまごま》した注意と、途中で万一のことがおこったような時に、シンガポールの兄に連絡する無電の暗号を教えてくれた。
大尉の任務
エンジンの調子は上々らしい。プロペラーが蜜蜂のように規則正しいうなりをあげている。
東京空港を離れてから、飛行機は、青空と煙のような、薄いちぎれ雲の間を縫って進んでいた。
ミルクのような雲を被った山々や、白いチョークで線を引いたような海岸の波打際が、映画のフィルムのように過ぎて行く。
特別仕立の大型旅客機で、陸海軍の軍人や、お役人や、新聞社の人も二、三人乗っているとのことだった。皆、支那や南の方に重要な任務をおびて行く人たちばかりである。
その中には、ゆうべ将軍の部屋で会った平林大尉も乗っていた。
英夫はゆうべから、小母さんをせき立てて大急ぎで旅行の支度をした。熱いところへ行くので持ち物もほんのわずかですんだ。それでも小母さんは、薬や、そのほかのこまごましたものに何かと気をくばってくれた。
約束の時間に、村山曹長が、自分で自動車を運転してやって来た。きのうはじめて来た時とは違って、もうすっかり打ちとけて、小母さんとも、園部家や祥子の噂をしていた。
「ほんとうに祥子さんがおかあいそうですよ」
小母さんがいった。
「私も内地におれば必ず探し出すつもりでしたが、それが出来なくなりました……ここ二三日のうちに、また新らしい任地に出発するのです」
曹長は、太いため息をついた。
「じゃ、私もご一緒に心当りを探してさし上げましょう。英夫さんともちいさい時からのお友達で、よそ様のような気がしませんものね」
「何ぶん宜しくお願いいたします」
曹長の目がうるんでいた。
冬の朝らしい、寒々とした薄い霧のかかった雪の街を、曹長の運転した自動車は、羽田の空港に向って走った。
「新らしい任地って、やっぱり南の方ですか?」
英夫がきいた。
「そうです。しかし、あなた方の行かれる方ではありません」
しばらく、考えるようにしてから、曹長はまたつづけた。
「これは、あなた以外の方には絶対お話し出来ないことですが、実はこのごろ、某方面の海上で、時々、日本の輸送船団が敵の潜水艦にねらわれるのです。海軍の警戒が厳重ですから、まだ大した打撃を蒙っていませんが、いつ、どんなことがおこらないともかぎりません――、その根拠地を突きとめて、根こそぎやっつけようというわけですが、いまだにどこにあるのかわからない状態です。……殊によると閣下がゆうべお話しされたろうと思いますが」
「僕、ちっとも知りません」
敵国にそういう陰謀があろうとは、英夫ははじめてきいた。
「そうですか、敵はたしかにそういう秘密の根拠地を持っているらしいです。さもなければグアムや、ウェーキはもちろんのこと、香港も、フィリッピンも、シンガポールも、いや蘭領印度の基地も叩きつぶされているのに、どうして怪潜水艦がたびたび輸送船団をつけねらうことが出来るでしょう! 隼のように眼を光らしているわが海軍や航空部隊に対して、あまり大胆すぎるんですよ、秘密な根拠地がかならずあります。現れるところが大体きまっているんですから……」
「今でもやっぱりねらってるんですか」
「シンガポールの攻撃がはじまるころから、殊に活動が目立って来ました、何とかして、出来るだけ早くやっつけてしまわなければなりません」
「じゃあ、その根拠地を見付けるために行かれるんですね」
「そうです。陸海軍が協力して、苦心しているのです」
「その根拠地は、どこかの島にあるんですか?」
「さあ、その点までまだよくわかりません、今、それらしいところを虱つぶしに探しているところです」
「それじゃあ、そこを探し出して一刻も早く叩きつぶさなくっちゃなりませんね」
「そうですとも、危険な黴菌を体の中に飼っておくようなものですよ、いつ生命をとられるかわかりませんし、黴菌というやつは、放っておくと、だんだん増えて来ますからね」
話を聞くと、残念でたまらなかった。戦えば必ず勝つ日本の無敵陸海軍が、どうしてそんな傍若無人な敵の行動を許しておくのだろう!
英夫には、敗けつづけてやぶれかぶれになった敵のあざ笑っている顔が、目に見えるような気がした。
「残念ですね」
「残念です」
曹長も同じようにいった。
「あなたが、ゆうべ会われた平林大尉殿も、その用件で今日出発されるのです、たぶん香港までご一緒になるでしょう」
自動車は九段から濠端を抜けて、宮城の前に出た。
靖国神社の前を通る時には、心から黙祷を捧げたが、宮城の前では二人とも自動車からおりて遥かに最敬礼した。
シンガポールの陥落が、ゆうべから早くもラジオや、新聞に伝えられて、宮城前の広場には感謝に頬をかがやかした人々が群れていた。
すると、曹長が、二重橋の左手の空を指さして、
「あれをご覧なさい」
と、いった。
新嘉坡要塞ハ二月十五日午後七時五十分陥落セリ
銀鼠の空に、くっきりと紅く染め抜かれたアドバルーンの文字が、勝利の狼烟のように、たかだかとあがっているのだ!
将軍がいわれたように、シンガポールの陥落を餞に旅立つことの出来る幸福を英夫は一生忘れられないだろう。
それこそ平和な東亜を打ち建てる、日本国民の熱血の文字なのだ。
村山曹長のいったように、平林大尉が飛行場に来ていて、
「やあ、英夫君、とうとうやって来たな」
にこにこしながら近づいてきた。相変らず茶色の背広に、茶色の中折帽子を被って、トランクを一つだけ持っていた。
英夫の姿を見付けると、二、三人の人たちが、平林大尉の側へ来て、小声で何かひそひそと話しだした。
「君、それあいかん、絶対にいかんよ!」
疳癪をおこしたような、大尉の大きな声に、びっくりして英夫が見ると、
「新聞社の人たちです。あなたのことを新聞に書こうというのを、大尉殿が止めていられるんでしょう」
村山曹長が囁いた。
新聞に書かれては大へんである。英夫が困った顔をしていると、
「大丈夫です、絶対に書く気遣いはありません」
曹長がいった。
間もなく、飛行機は空港の土を蹴って離陸した。
帽子を振って見送っている村山曹長の体が、小指のように見え、やがて一つの黒い点のように小さくなった。
機体がボートのように揺れだしたのは、気流の変化に遇ったのだろう。
飛行機に乗ったのは、はじめてではなく、二、三度兄と一緒に乗ったことがあったが、出発の前の、さまざまな出来ごとを思い出して見ると、こうして機上の人になって、見知らない土地の冒険の中へとびこんで行くのは、何だか、夢のような気持がして来るのだった。
南へ飛ぶ夢
ブルンブルン、細かく機体をゆすっている爆音が、足もとから体に伝わって来る。――するとこれは夢ではないのだ。
間もなく、今は日章旗の翻る熱帯の島、シンガポールで、なつかしい兄とも会えるだろう。こうしているうちにも、美しく、尊い日本の土地は北へ北へ辷って行くように思われ反対に、英夫の体は巨大な鳥のような飛行機に運ばれて南へ南へと移っていく――これから先、どのような危険にあっても、どのような苦しいことがあっても、決して弱音ははくまい。兄さんの、世界を驚かすような「驚天動地の大事業」というのは、ボルネオに関係したことのようにも思われるが、どっちにしても、最後までやり通さなければならない、と思った。
真向いの席に掛けている平林大尉は、いつの間にか軽い鼾をかいて眠っているようだった。
あんな大きな仕事にとりかかるにしては、何という大胆さだろう。ことによると、大尉は英夫の兄のボルネオの使命を知っているのではなかろうか――英夫は思った。
「君、一つやりませんか」
飛行場で見た、新聞社の人が、おいしそうな洋菓子の入った箱を英夫の目の前に差し出した。
英夫とは背中合せの席にいるのだった。
「ありがとう」
英夫は遠慮なしに、一つつまんだ。
「遠慮しなくたっていいですよ、もう一つやりたまえ」
「おい、僕にはくれんのか」
眠っていると思った大尉が、いつの間にか目を覚していた。
「なあんだ、眠っているのだとばかり思っていましたよ」
新聞社の人が、箱を差し出しながらいうと、
「うまいもののことなら、眠っていたって目を覚すさ……」
さっそく一つ頬ばって、
「ふうん、これは上等だ、こんなものをどこで手に入れたんだい、東京にはこんなうまい菓子がないはずだぞ、香港やマニラのイギリス人、アメリカ人は、うまいものをふんだんに持っておったそうだがね」
「冗談じゃあありませんよ、友人どもが一つ一つ集めて餞別にくれたんですよ……しかし、シンガポールのイギリス人も食料品をしこたまたくわえておったそうですね、やつらは、贅沢をしているからいざとなると参ってしまうんだ」
「おごる平家は久しからずさ」
「おごる米・英久しからず……」
大尉は何かを思い出したらしく、口をつぐんだ。
飛行機は福岡でしばらく機翼を休めると、こんどは台北に向った。
英夫は、さっき考えついたことを聞いてみたかったけれど、そのうちに大尉は、膝の上に地図や複雑な図面を並べて、何か調べものをはじめてしまったので、だまって窓から外をながめていた。
東支那海はかなり荒れているらしく、時々見かける、真黒な煙の尾を引いている汽船が喘ぎ喘ぎようやく進んでいるようにしか思われなかった。その中で、まっ白な波を蹴立てて隙のない身構えで走っている海軍の警備艦艇だけが、頼もしく見え、空の上から帽子を振ってお礼をいいたいような気持だった。
そうした艦艇に護られた、護送船団も見かけられた。
濛々《もうもう》と黒煙をあげた輸送船の中には、これから南方○○方面へ行く決死の皇軍勇士がたくさん乗っているのだ。
船団の真上にさしかかると、英夫の乗った旅客機は、ぐっと高度を下げて、喜びのしるしに、羽搏くように両翼を振った。
輸送船と艦艇の上では陸と海の勇士たちが、しきりに手を振っているのが見えた。
英夫たちも窓に顔を押し付け、ハンカチを振った。
英夫はふと、平林大尉の横顔が、何か深いもの思いにふけっているように、じっと一方を見つめているのに気づいた。そしてすぐ――ああ、やっぱりあのことを考えているのだなと思った。
怪潜水艦
空には濃い雨雲がたちこめていた。
台北を離れると、間もなく、空模様が急に変って来た。
雨をふくんだ低い雲が海上にたれ下って、視界がすっきり閉されてしまった。
北東から来る烈しい風が機体にあたって、紙袋を乱暴に叩いているような無気味な音をたてつづけ、機体はひきつけたようにぶるぶるふるえた。
白いエナメルを塗ったように、窓からは何も見えなかった。
顔を押しつけるようにして、根気よく窓の外をながめていた英夫は、思わず、
「あっ!」
と思った。
くらげのようにもやもやとした雨雲が、縞のように流れて、黒い巨大なかたまりが不意に眼にうつったからだった。
巨大なかたまりは、いくつもいくつも重なりあって、のたうちまわるように荒れ狂っている――何という大きな波だろう!
こんな大きな波を英夫はまだ見たことがない。大きな山をいくつもいくつも寄せ集め、独楽のようにぶっつけあわしたとでもいうような大波が、白いしぶきをあげて走っているのだった。
飛行機は海面とすれすれに飛んでいるらしかった。
「うまく便船が見付かればいいが、この分だとむずかしいぞ」
平林大尉も海面を見下しながらいった。
「でも、僕、香港にぐずぐずしていられません、出来るだけ早くシンガポールへ行きたいんです。兄さんが待ってますから」
「それはそうだよ、僕も便船のことは頼まれているから、何とか世話をしてあげたいが、何しろ、こんなお天気じゃなあ……」
「だってお天気が悪いからって、戦争は休めないでしょう」
「はっはっは、そりゃそうさ、敵の方にだってたまには勇敢なやつがいると見えて、こういう荒天の時をねらって襲撃して来たことがあったよ、もっとも暴風雨をさけるために、港へ退避中の汽船だとか、こちらの少々手薄なところだとか、そういった弱い者いじめばかりだがね」
「アメリカの飛行機の映画だと、みんな飛行機を操縦するのが、とっても巧いように見えるんですけどね、大暴風雨の中だって平気なんですか」
「映画の中ならどんなうそでも出来るが、実戦じゃそうはいかんさ」
不意に、客席の前にある乗務員室の扉があいて、乗務員の一人が緊張した顔で出て来た。
「○○島からの無電ですが、敵の飛行機がさかんにゲリラ戦術をやってるそうです、この機に注意しろといって来ました」
「こんなに荒れている時でもやって来るのかね、君、そんな勇敢なやつが敵にもいるのかなあ」
新聞社の人がいった。とその時だった。
「があん!」
と、下から突き上げられるような物音と一緒に、英夫の体も座席の上にとびあがった。
瞬間! ぐらり――と機体が傾いて、
「潜水艦だ!」
誰かが叫んだような気がした。
だあーん!
ダ、ダ、ダ、ダ、……
砲弾と機関銃の音だった。
それと同時に、機は追風の方向にさっと身をひるがえすと、猛烈な勢いで急上昇をはじめたと見え、体の中心がぐんぐん下へ引ずりおろされて行くような気がした。
「座席にしっかりつかまっていたまえ、英夫君……」
平林大尉が落着いた声でいった。
出発の前に、村山曹長が話していた例の怪潜水艦が、こんな荒天に、こんなところへも現れているのだ!
もしかすると、ここで敵にやられてしまうかも知れない――と、英夫は思った。
「こんなところで死ぬのは残念ですね、おじさん」
「なあに、そんなに簡単にやっつけられてたまるもんか!」
平林大尉がどなった。
香山飯店
赤や、青や、黄色や、緑の毒々しい色をつかって飾りたてた一軒の支那料理屋がある。――塗りのはげた黒い板に、金文字で書かれた看板の字が、やっと「香山飯店」と読めるくらいで、汚らしい、料理屋とは名ばかりの安食堂だった。
こんな小店は、この辺にいくらでもある。
狭い路地の両側に、ごてごてと家のたてこんだ、香港でも場末の、支那人ばかりの住んでいる町だった。――それだけに、はじめてこの町へ来る者には、何の注意も引かないような家だった。
一枚の白い紙か、白い布きれに、滑稽なほど小さな赤い丸をかいた旗が、どの家にも出してあった。
皇軍が香港を占領してから、急にめいめい勝手に作ったもので、それでも日の丸の旗のつもりなのである。
戦争の間、どこか安全な場所に避難していた支那人たちも、皇軍が入城してからは安心しきったように、めいめいの家に帰って来ていた。――日本軍は軍事施設以外は爆撃も砲撃もしなかったので、町も建物も、すこしもいたんでいなかった。
食べもの屋も雑貨屋も古着屋もぽつぽつ店を開きはじめた。
戦争の前までは、夜通し店を開いているこの辺を酔っぱらったイギリスやオーストラリアの兵隊がさんざん乱暴をはたらきまわって、
「ちぇっ……いくらおとくいのイギリスの兵隊さんでも、あんまりひどいや……」
と、支那人に爪弾きされたものだ、が皇軍が入城してからは、酔っぱらいやごろつきも姿をかくしてしまい、殊に夜などはひっそりとしずまりかえっていた。
まして、こんなあらしの夜などは――。
町角に皇軍の市街警備を手伝っているインド人の巡警が、カーキ色のターバンを巻いた頭から濡れ鼠になったまま立っていて、怪しげな通行人を呼び止めている。
「異状はないか?」
兵隊の運転したサイドカーに乗って来た日本軍の将校が英語で声をかけた。
「は、異状はありません」
印度人の巡警がこたえた。
「よし、ご苦労」
オートバイの爆音が、直ぐ雨の中に消えて行った。
それから間もなく、
「誰か!」
と、インド人の巡警が闇をすかしてどなった。
町角を急いで例の「香山飯店」のある路地へ曲ろうとする人影を見かけたからだ。
まっ黒い雨合羽を、頭からすっぽりと被った、二人の人影である。
よく見ると、一つは大きく、一つは小さかった。
呼び止められたのが聞えたのか、聞えないのか、足早に路地の角を曲りかけている。
「こら!」
追いすがってどなると、二人の人影がやっと立止った。
「どこへ行く!」
「へえ」
「どこへ行くんだ」
「………」
「こっちへ来い」
弱々しい色をなげた街路灯が町角に立っていた。
ぶつくさ不平をいいながらも、近付いて来たのを見ると、一人は、人相のあまりよくない図体の大きな支那人で、渋紙のような顔に、あぶらが、気持の悪いほどぎらぎらと浮いていた。
もう一人の小さい方は、だぶだぶの合羽を着ているので、顔はよく見えなかったが、体の恰好で、どうやら子供のようだった。
「お前はなんだ?」
「へえ、あっしですか……」
人を小馬鹿にしたように、にやにやしながら、
「あっしは船乗ですよ」
「船乗……船員だな、どこの船へ乗っているんだ?」
「日本の船でさあ」
どんなもんだい――と、いわんばかりの誇らしげな口調だった。
「ふん、日本の船だと、お前は支那人だろう? 名前は何というんだ」
「趙全栄ってんですがね」
「船の名は?」
「九竜丸……アメリカの船だったが、日本軍に分捕られたんですよ」
「どんな仕事をやってるね?」
「火夫でさあ……怪しい者じゃあねえんだからいいかげんにしとくんなさいよ、インド人の旦那、この雨の中に、いつまで立たしておこうってんだね」
趙は凄い目つきで睨みつけた。――顎のところに生々しい傷痕があった。巡警は気味悪さにすこしひるんだが、
「まあ待て……どこへ行くんだ」
「目と鼻の先、香山飯店へ行くんだ。時化で船が出ねえから飯を食いに行こうってえのに何もいちいちとがめることはねえでしょう」
「その子供は船のボーイかね」
「まあそんなところだ……」
と、いったが、すこしあわてたように、
「あっしの身内の子供ですよ」
と、つけ加えた。
「よし、行っても宜しい」
「ちぇっ! さんざん手間どらせやがって、行っても宜しいもねえもんだよ」
趙は、ペッ! とつばをはいて、憎々しげにつぶやいたが、巡警には聞えないらしかった。
路地を曲って、巡警の姿が見えなくなると、急に猫なで声で、
「ねえちゃん、途中であんな工合に何かきかれたって、何もいいっこなしだよ、せっかくお前さんをかくまって、連れて行ってやっても、途中でばれるとうるさいからね」
「ええ、大丈夫よ」
趙の後にいた少女が、はっきりした日本語でこたえた。
「香山飯店」の例の剥げちょろけた看板が、雨のしぶきで、歯ぎしりするような音をたてている。
趙は、ひととおりあたりに目を配って、路地に人のいないのを見すますと、観音開きになった香山飯店の扉に少女を押し入れ、自分もすばやく中にすべりこんだ。
秘密の地下室
煤けた、かびの臭いとも、埃の臭いともつかないような、妙な臭いのしている部屋の中にお盆灯籠のような、真鍮の吊ランプが一つ、ほの暗い光をなげていた。
酒樽が転がっている。油紙に包んだ肉のようなものがぶら下っている。埃だらけな棚の上にも酒壜が並んでいる――。
ランプの真下にあるテーブルを囲んで、三人の影が、ボソボソと何か低い声で話し合っていた。
二人の男は、たしか支那人らしいが、もう一人は、洋装した混血児のような女だった。
「ばかにおそいじゃねえか」
肥った、頬っぺたのテカテカ赤い男がいった。
「何かへまをやりやがったんだろう」
痩せこけた、頬骨の出た男だ。
「大丈夫よ、心配しなくたって」
混血児らしい女がいった。
三人の様子で見ると、痩せた男が頭株で、肥っているのは、香山飯店のおやじ、混血児らしい女は、外国人相手の酒場にでも勤めているのか、それともダンサーなのかも知れなかった。
――こつこつ、こつこつ……
どこからか信号のようなノックの音が聞えた。
「おい――」
痩せた男が目くばせすると、肥った香山飯店のおやじが、うなずいて立上った。
部屋の隅の柱についたボタンを押すと、その上の天井がぽっかりと開いて、折畳みになった梯子がするすると下へ伸びて来た。
「ばかにおそかったじゃねえか……」
「途中で、バカな手間をとってよ……」
黒い雨合羽を着た男――趙の声だ。
「おいねえちゃん、そろそろおりて来なよ、何も遠慮するこたあねえから」
「誰だい? 趙、めったな人間じゃああるまいな!」
「叱っ!」
趙は、香山飯店のおやじの耳もとで、何かひそひそと囁いた。
長い合羽を着た少女は、ようやく地下室の床の上に立つと、危く、
「あっ!」
と声をたてそうになったが、じっと息をのんで、おそろしい、陰気な部屋の中を見廻した。
荒れ果てた墓場のような地下室――うす暗い明りを背中にした六つの眼が、じっと少女の上に注がれているのだ!
頭株の男が腰に手を廻した。鋭い刃物の柄に手をかけると、痩せこけた顔に、にやりと凄い笑いをうかべた。
「勝手な真似をしやがると承知しねえぞ趙! ……一体誰にことわってこんな子供を連れて来たんだ」
「おっと親分、早まっちゃあいけませんよ。ちゃんとわけがあって連れて来たんだ……」
あわてて押し止めるような恰好をしながら、趙は親分と、しばらく小声で話しこんでいた。
上海……九竜丸……明日出帆……日本軍……例のところで……。
とぎれとぎれに聞えたが、ほんのすこししか支那語を知らない少女には、何の話やらさっぱりわからなかった。
香山飯店のおやじが、いつの間に用意してあったのか、贅沢な料理をテーブルの上に並べはじめた。
うまそうな炒り肉や、揚げた魚のにおいが、酒とたばこのにおいにまじって、漂っていた。
少女は急にひもじさを感じたらしく、思わず、テーブルのそばへ二足三足近づいて行った。
「こいつあいけねえ、ねえちゃんも腹がへってるんだっけな……上海の姐御、すまねえがひとつ頼むぜ、女は女同士ってこともあるからな、へっへっへ」
趙はわざとらしく頭を掻いた。
「ちぇっ、ばかにしているよ、あたしにそんな用をさせるなんて」
「どうせ、お前さんの手下……おっといけねえ、しつけをお願いしなくっちゃあならねえ子供だ、可愛がってやるもんだぜ、へっへっへ」
女はしぶしぶ立上って、大きな皿に御馳走を取りわけると、小さな葡萄酒のコップを添えて少女の前に差し出した。
「好きなだけおあがり、まだいくらでもあるんだから」
意外にも、この女も日本語を自由に話せるらしかった。
「ありがとう」
はっきりした声で少女がお礼をいった。
「あ、り、が、とう、だって……ふん、お前さんが御主人公で、あたしが女中さんのようなもののいい方だね」
「だって、お腹がぺこぺこなんですもの、おばさん、本当にありがたいわ」
「おやおや、わりにはっきりしている子だね、……お前さんマレーへ行くんだって、本当かい?」
「ええ、趙さんにお願いして連れて行って頂くつもりですの」
「子供の癖に貨物船の艙の中にかくれて行こうなんて、もし見付かったら、香港どころか日本へ逆戻りだよ」
「だって、あたし、お金がないんですもの……上海の趙さんのお友達が、それで、御親切につれて来て下さったの」
「ふん、御親切にねえ……ほっほっほ、だけどあたしなら船艙へなんかかくれて行かなくったって、ちゃんと送ってあげるんだがね……どう、お前さん、あたしの世話じゃあお気に召さないかい」
「えっ! 本当ですか、おばさん」
大きな肉を頬ばったばかりの趙が、あわてて手を振りながら、
「おいおい姐御、余計なことをいっちゃあ困るなあ、せっかくひと芝居……おっと、あっしが送ってやることに、親分も承知して下さったのに、ぶちこわしをされちゃあかなわねえよ」
「何もお前さんの仕事の邪魔をしようってわけじゃないけど、この子のはきはきした気性が気に入ったから、ちょっといって見ただけさ、あたしの方でもほしくなってねえ、ほっほっほ」
「とんでもねえ、ここまで連れて来るんだって容易じゃあねえんだ、姐御に連れて行かれちゃあ虻蜂とらずだ」
「お黙り! あたしがやるのは、お前さんのようなケチな仕事じゃないからいうのさ」
「なんだって、あっしの仕事が小せえとでもいうのかね、姐御……」
今にもつかみかかりそうな、趙の剣幕だった。
それにしても、なんという不思議な場所に不思議な人々が集っているのだろう?
言葉の意味はわからないながらも、注意して様子を見ている中に、少女にはある一つの疑いが浮び上って来ていた。
今までは自分のことばかり考えていたので気がつかなかったけれど、この人たちはこっそりと秘密な場所で、しかも日本軍が占領した香港の街のどこかで、何か秘密な相談をしているらしかった。
香山飯店の地下室! そうだ! あの小っぽけな支那料理店の地下室に違いない。
味方だろうか? それとも敵なのだろうか?
味方だとすれば、兵隊さんか、日本人が一人や二人いそうなものだった。この人たちはまるで、アメリカの映画にでも出て来そうな、暗い陰険な人たちばかりだった。
少女はおそろしさにふるえた。
そうだ、敵のスパイ団ではないのだろうか!
趙は酔っぱらっているらしく、酒くさい臭いをはきかけながら、
「いいかね、今夜、夜中に、このおじさんが船へ荷物を運ぶ時、お前さんも乗るんだ。万事はこのおじさんがうまくやるから安心してねえ、あとのことは、あっしのいうとおりにしてもらえばいいのさ……」
旅客機の行方
台北から香港に向った、英夫たちの乗った飛行機の行方不明が内地に伝えられたのは途中で潜水艦に襲われたあの翌日だった。
「怪潜水艦に襲われたという無電があったきりで、台北へも、香港へも何の消息もないそうであります」
部下からの報告で、上川将軍は眉をひそめた。あの飛行機には、ボルネオ探険のために特に渡航を許された英夫のほか、その怪潜水艦の根拠地をつきとめて、一挙に葬り去ろうという特別の任務を帯びた平林大尉や、そのほかまだ、それぞれに重大な任務を帯びた陸海軍の将校が乗っていたはずである。
それを知っていて襲ったのであろうか。それとも偶然通りかかった飛行機を襲うつもりで襲ったのであろうか?
偶然だとすれば、悲しい知らせではあるが、あきらめのつかないことではなかった。
だが、もし、そのことを知っていて襲ったとすれば日本軍にとって重大な問題だった。――そうした秘密が敵に筒抜けになっていることが想像出来るからである。
これは日本の軍隊にとっても、国にとっても、おそろしい危険で、大東亜戦争の作戦がそのことだけで非常に困難なものにされるおそれがあった。
さすがの将軍も、この報告をうけた時には深いため息をついた。
陸海軍からも捜索機が出され、台湾の全島や澎湖島、対岸の福建、広東両省の大陸沿岸東沙島やフィリッピンのルソン島まで、不時着しそうなところは、残らず捜索された。
ほとんど絶望を伝えられようとした時、将軍のところへ左のような無電が飛びこんだ。
キハ タイハセルモ 一ドウブジ ビンセンニヨリ スワトウハツ モクテキチニムカウ タダチニ ブシヨニツカントス
電文は、もちろん暗号だった。これに漢字をあてはめて見ると、
機は、大破せるも、一同無事、便船により、汕頭発、目的地に向う、直ちに部署に着かんとす
平林大尉からの報告だった。将軍はようやくほっとした。
――そのころ、英夫は、遭難機の一行と香港に向って航行中の小さな汽船の中にいた。
機翼と、一方の発動機、それに車輪――それは後でわかったことだったが――をやられた機は、死力を尽して高度を保ちながら、ようやく沿岸に辿り着き、汕頭から、二、三十キロ先の山腹に不時着した。
車輪が役に立たなくなっていて、機体は大破したが、負傷した人でも傷は案外軽かった。
負傷者の手当をしながら、乗り物にも乗らず、汕頭に着いた時には、英夫もへとへとに疲れていて、翌朝は思わず寝坊をして、大尉に笑われたくらいだった。
香港までの便船の手配や何かは、平林大尉が一切やってくれ、船の中で、みんなが無事を祝いあうことが出来たのだった。
「敵もさるものだよ、英夫君」
大尉がいった。
「こんどというこんどは不意を打たれたが、お礼はして見せる」
「一体秘密の根拠地って、どんなんです、もう大体見当がついているんですか?」
「そいつが簡単にわかるくらいなら、何も苦労はしないさ」
と、大尉は伸びた頬鬚をなでまわした。
あれ以来、大尉の鬚はぼうぼうと伸ばしたままだった。
「だが、敵の攻撃地点、攻撃方法、攻撃目標、気象や潮流の関係、攻撃当時のさまざまな状況――こいつは一口にいえないが、世界各国のどんな小っぽけなところでおこった、どんな小っぽけな事件にも関係していることがあるから、そうしたことを一々統計にとったり、組合わして見たりすると、大体の見当がついて来る。こんどはそれを実地に当って見る。そうすれば、人間のやること、人間の考え出したことなら、たいがいわかって来るものさ、こいつは僕の秘訣で、英夫君だから伝授してやるが、他人には口外無用ってところなんだ、はっはっは」
大尉は冗談とも真面目ともつかないように笑いとばした。
「じゃあ、こんどの事件もそれに関係があるわけですね」
「もちろん、大ありさ、思ったより大がかりな仕組になっているのかも知れないね」
大尉は腕組みをしたまま、じっとテーブルの上の地図に目を落した。
香港攻略戦で、百千の皇軍が血を流したビクトリアの峰、オーステン山兵営のあたりには日章旗がはためいていた。
砲台という砲台、兵舎という兵舎が、皇軍の猛攻に砕きつぶされたのに、海岸のビクトリア街から、緑の森につつまれた山腹の家まで、これが生々しい戦場だとは、どうしても思われないような、ととのった街にかえっていた。
真夜中の船客
かわいた風が、唸りをあげて、鋪道の紙屑やボロきれをさらって行き、直角に突き出された横文字の看板が、二十日鼠のようなキーキーした音をたてている――夕方からは、それに、雨もまじって、要塞砲のとどろきにも似た波の音が聞えた。
一日も早く、シンガポールの兄のところへ――英夫の心は急いでいたが、おあつらえむきの飛行機はもちろん、船も、この時化では当分見込みがなかった。
英夫は、平林大尉とおなじ宿の窓から、あらしの街をながめながら、ただいらいらするばかりで、どうすることも出来なかった。
大尉は、あっち、こっちと、いそがしくとびまわっているらしく、朝、家を出たきりで夜になってもなかなか帰って来なかった。
大尉は入って来るなり、いきなり上着をぬいで、寝間着に着かえながら、
「だめだ、たった一隻あるにはあるが、貨物船で途中がつらいからなあ」
「どこへ行くんですか、その船は?」
「シンガポールへ行く船だ」
「えっ! シンガポールですって、じゃあおあつらえ向きですよ」
「こんなことをスパイにでも嗅ぎつけられたら大変だが、急ぎの軍需品を積んで行くのでこういう時化でも出帆するそうだ。紀ノ国屋文左衛門というところだな、はっはっは」
「で、いつ出帆するんです?」
「あすの朝、夜明け前とかいっていた」
「じゃあ、ぜひ僕を乗せて行ってくれるように頼んで下さい、荷物の上だってなんだって平気ですから」
「本当に行くつもりかね!」
大尉はしばらく、呆れたように英夫の顔を見つめた。
「途中でへたばったって知らないぜ」
「大丈夫です。御心配はかけません」
「よし、じゃあ、これから船へ行って、じかに船長にかけあおう」
大尉は一たん着かえた洋服をまた着なおすと、二人であらしの街へとびだした。風がまだ鞭のような音をたてて荒れ狂っていた。
「これだ!」
桟橋に繋留された、目的の貨物船ははげしい風の中に、さかんに黒烟をあげていた。
荷役がまだ終らないらしく、がちゃがちゃと起重機を動かす音や、しゅっしゅっと白い蒸気の噴出する音が聞えた。
舳に白く――九竜丸――としてある船がそれだった。
九竜丸!
怪しげな火夫の趙を頼りに、貧しい様子をした少女が密航を企てようとしている船が、この船だったはずだ。
しかし平林大尉も英夫も、そんなことを知るはずもなく、荷役の監視に来ていた日本軍の歩哨に訳を話すと、船長に会うために、階段をのぼって行った。
船腹に開いた扉からも、支那人の苦力がしきりに荷物を運びこんでいた。
「苦力って力持だな、英夫君」
ふと、下を見おろしながら、大尉が何気なくそういった。
南支那海
英夫は船長のはからいで、天井の低い船員食堂の片隅に、寝床を一つ作ってもらった。
夜が明けきらないので、さっそく吊床にもぐりこんだが、外海へ出ると、怒り狂った大波にもまれるらしく、波の怒号と船腹を打つ瀑のようなしぶきのたびに、白いペンキを塗った天井が、てのひらをかえすように前後左右に傾いて行き、丸い鋲のとび出した鉄の柱や板が、一まい一まい、ねじ切られるような、きしみ音をたてるので、眠れなかった。
それは、遠い雷の音に、キ、キ、キ、キ、キーイ、というような音や、ギ、ギ、ギ、ギ、ギッというような音の入りまじった無気味な音だった。
それに――。
狭い食堂と、食堂からかぎの手に折れ曲った賄場にしみついた、むかむかするような脂ぎった臭い、もののすえたような臭いが、船内を流れているしめっぽい、得体の知れない風にのって強く鼻を刺すのが、たまらなかった。
「途中でへたばったって知らないぜ」
平林大尉が、そういっているように思われた。
「なに糞っ!」
英夫は、心の中で叫んで目をつぶった。すると、気持がいくらか楽になり、夜が明けはなれるまでに、うとうとといくらか眠れたような気がした。
――カンカン、カンカン――と、つづけさまに鳴りひびいた鐘の音で目をさましたのか、それとも、どやどや食堂に入って来た人の気配で目をさましたのか……気がつくと、青いうすあかりが、室内にさしていて、船員たちが、がやがや話しあいながら朝飯を食っていた。
日本人の船員はほんのわずかだった。支那人や、インド人が、何かわめきあいながら急いで食事をすましては出て行った。
ゆうべ乗りこんだ時、船長が、一ととおり船内を案内しながら、五十人ほどの船員に英夫をひきあわしているので、なかには朝の挨拶のかわりににこにこ笑いかけている者もいた。
その中に、気付かれないように用心しながらも、しつっこく、英夫の様子に目をつけている男のいることを、英夫はもちろん、すこしも気がつかなかった。
その男は趙だった。
「わけがありそうじゃあねえか……」
飯を手づかみで口へ放りこむと、趙は、隣の男の脇腹を肘でついた。
甲板は、しぶきと泡をたてながら、躍りこえる波に洗われていた――。
たれこめた、薄墨色の密雲と、どす黒い波のうねりの間を、帆柱や、ボートの支柱や、手摺にあたって、ひゅうひゅう唸りをあげる風のほか、何もない、南支那海のまっ唯中を航海しているのだった。
「甲板は危険です。扉をかたく閉めて来て下さい」
階段の下から英夫は船長のどなっている声を聞いた。
「殊によると、あすか、あさっての夜、颱風圏内を突破しなければなりません。もちろん全力をつくしてたたかいますが、万一の場合を覚悟していて下さい」
英夫のおりるのを、待ちかまえていたように、船長がいった。
「僕はかまいません、大切な使命ですから、船長しっかりやって下さい」
「ありがとう……」
と、いってから、急に声を落して、
「この船は敵船だったのを分捕ったんです。人間も、日本人をのぞけば、そっくりそのままですから、うっかりしたことは喋れません。そのつもりで……」
「船長、船艙の点検は終えましたが、別に異状はありません。貨物の箇数もきっちり合ってます」
船長の腹心らしい、若い日本人の船員が来て板にはさんだ書類を渡した。
「英夫さん、宮崎君は、去年商船学校を出たばかりですが、これでも柔道三段です」
「いやあ、そんなことをいわれると照れますね」
宮崎運転士は快活に笑った。
「宮崎さん、僕も兄さんも講道館で柔道を習いましたよ」
「田舎の学校でしたが、僕も講道館へ行ったことがあります。同門だとなるとなつかしいですね……皆と一緒ですが、僕の部屋へも遊びに来て下さい」
「宮崎君、今のうちに、ちょっと食事をして来るから、後を頼むぜ」
「承知しました、ゆっくりやって下さい」
船長が行ってしまうと、宮崎運転士は、長い間の知合いのように、
「おやじにも話してあるんですがね、この船の中に、一人二人そぶりの怪しいやつがいるんですよ。証拠がないので尻尾をつかめないんですが、どうでしょう、君があすこへ寝るのを幸いに、気をつけて見てくれませんか、食堂ですから、いろいろなやつが出入りするし顔を合わせるのもあすこなんです。あすこで連絡をとっているようなやつは怪しいやつですよ、さっそく今日からひとつ、頼みたいんですがね、実は、僕が特に船艙の点検をやらしてもらってるのもそのためなんです、やつらの隠れ家はあすこか、甲板以外にはないわけですからね」
英夫は宮崎運転士の頼もしげな話と、観察に、すっかり共鳴して引受けることにした。
壁に消えた男
真夜中の何時ごろなのであろうか――。
英夫は賄部屋の方に、ことり……と、鼠のようなかすかな物音を聞いた。
船長がいったように、船は、颱風圏内に入りかけたらしく、わずかばかりの交替を残して、全員非常警戒の部署についている時だった。
宮崎運転士から頼まれてから、昼のうちに眠っておくことにして、夜の間は眠らずにいた。
そーっと、暗闇をすかして見ると、いつの間に忍びこんだのか、黒いインクのシミのような人かげが、賄場の隅に、うずくまっている。
船室は暗かったが、白く塗った鉄板に、かすかな水明りが、外からさしこんでいて室内がおぼろげに見えるのだった。
腕時計をすかして見ると十一時四十五分をさしていた。
ほんのわずかばかりではあったが、ゆうべの無駄な努力につかれて、寝こんだ間に忍びこんだものらしかった。
英夫はそろそろと、しずかに両腕を敷いて、楽に見られる姿勢をとった。
人かげは、前かがみに、しばらく左右にゆれていたかと思うと、突然、すっ! とかき消すように消えうせた。
消えうせた――のだ。
英夫は思わず目をこすった。たしかに、今まで見えていたものが、揮発油のシミのように蒸発してしまったのだ。
そんなはずがあるものか! すばやく裸足のまま床の上にとびおりると、かぎの手に曲った側を伝って、用心深く近づいて行った。
賄場には誰もいなかった。
食料品を入れておく、棚や、大きな冷蔵庫のほかには、体をかくす場所も見あたらない。――棚や冷蔵庫にひそんでいるとしても、たしかに鍵のかかっているところを見ると、窒息してしまうよりほかはないはずだった。
そのほか、ビール樽ほどの大きさの空樽や、がらくた道具しかおいてない一方の側をしらべて見たが、べつに扉らしいものもついていなかった。
若しかすると、夢を見ていたのではないかと思われるくらいだった。
しかし、決して夢ではない。証拠には、吊床――の上に戻ろうとした時、猛り狂う海鳴の音や、例の無気味なきしみ音を、はっきり身近に感ずることが出来た。
翌朝、宮崎運転士に、このことを話すと、
「大方、食べものでも盗みに来たやつだろうと思うが……しかし、船艙の方も一応よく調べて見ましょう」
と、いった。
「じゃあ、あの賄場は、船艙と何か関係があるんですか?」
「把手はついていませんが、あすこから船艙に通ずる扉があるんです。暗いので、君はたぶん鍵穴のあることに気がつかなかったんですね」
そうだとすれば、賄場にいた人間が、食堂を通らずに、船艙に姿をかくすことも出来、食堂の側から見ると、突然姿を消したように見えるはずだった。
「船艙の鍵は、僕が責任を持って預っているんです。それ以外に合鍵を持っているやつがあるとすれば、万一の場合僕の責任になります、とにかく一応船艙を調べて見ましょう」
「船艙には誰か番人がいるんですか?」
「いや、いません、人間どころか、鼠一匹いるはずがないですよ。出帆してから、同僚に立会ってもらって、厳重に点検したんですから」
宮崎運転士は、英夫を船艙に導いて行った。
第一に、表側の入口から中へ入って見た。熱気が中にこもっているらしく、どろりとした、生温い風が頬をなでた。
電灯のスイッチは、扉の内側についていて、スイッチをひねると、鉄骨の柱で組立てられた巨大な劇場のような内部があらわれ、莚で包んだ箱のようなものや、戦車や、大砲や、そのほかの兵器のようなものが、船の動揺で崩れ落ちないように、しっかりと鉄骨にくくりつけられ、うず高く積みこまれていた。
鉄骨は大体三段の床に組立てられ、英夫たちのいる床から、もう一段下へ通ずる階段があり、その上へも互い違いに二段になった階段が、両側についていて、天井のハッチに出られるようになっていた。
「あすこが賄部屋にあたるところですよ」
宮崎運転士が、二段目の上を指さした。
話し声は、天井にこだまして、ひどく大きく聞えた。
一ばん下の床から、懐中電灯で、念入りに調べ上げ、二段目の階段を上りかけた時、入口の扉が開いて、誰か入って来たような気配がした。
「宮崎さん! 船長、上甲板で呼んでるよ」
支那人の水夫の王が、のっそりと立っていた。
「あっち、こっち、水もり出して、みんな転手古舞、大へんあるよ」
「よし、直ぐ行くから、お前先へ行っていろ……」
追い出すようにいってから、宮崎運転士は英夫の方にふりかえって、
「……じきにすむと思うんですが、どうします?」
「その間僕に調べさして下さい」
英夫は思いきっていった。
「じゃあ、こうして下さい。外から錠をおろして行きますから、その間この上の方を調べて見てくれませんか、懐中電灯を渡しておきますから。……用事がすんだら、こんどは一つ賄場の方から入って来て見ましょう。じゃあ、なるべく早く帰って来ます」
宮崎運転士は、重い扉の音をたてて出て行った。
急にあたりが、しんとして、船梁や鉄板のきしむ音、貨物の触れあう音が、際だって聞えた。
素裸の電球の、弱々しい、黄色い光だけをたよりに、英夫は、しずかに、一段一段階段を上って行った。
密航少女
僅かな通り路を残しただけで、荒い莚に包まれた箱が、ほとんど隙間なく、積みこまれている。
宮崎運転士のいったように、賄部屋の後側になるしきりには、開け閉ての出来るようになった扉が一枚はまっていた。把手のない鍵穴のついていることが直ぐわかった。
ためしに、賄部屋をのぞいて見ると、水道の栓のついた流し場が、うすぼんやりと見えるだけで、ほかには何も見えなかった。
じき近くで、かさかさと、藁の触れあう音がしたので、英夫は、はっとして、すばやくあたりを見まわした。
と、英夫の立っている扉の前から、鍵の手に曲った、ほんの二十歩とは距らない箱の隙間から、あわてて引っこんで行ったものがある。――咄嗟の間に、ちらりと見ただけで、何であったかわからなかった。ただ斑に色のついた、かたまりのようなものだった。
非常にすばしっこい、獣か、人間のような気がした。
箱の間に逃げこんだとすれば、獣にしても、人間にしても、そこから出られないはずだった。英夫はかまわず、その前に突進して行った。
二メートルほどもある、真四角な箱と箱の間に、ほんの僅かな隙間があって、何かがその隅っこに、じっとうずくまっているらしかった。
「おい……こっちへ出ろ」
どなったが、こたえはなかった。ふと、さっき、宮崎運転士から懐中電灯を渡されたことを思い出し、すばやくポケットから取り出すと、さっと、その方にさし向けた。
オレンジ色に縁どった空色の上着、青い格子縞の入った臙脂のスカート、素足に靴をはいた少女が、恐怖に青ざめた顔で、眼を大きく見ひらき、ふるえながら息を殺しているのだった。
「あっ! 祥ちゃん――」
英夫は思わず声を出して叫んだ。
少女の顔は、英夫の家の近所に住んでいた園部祥子とそっくりだった。
だが、祥子がこんなところにいるはずはなかった。いつか村山曹長が、祥子の行方がわからないので、探しているとはいっていたが、こんな遠くのしかも貨物船の船艙の中にいようなどとは考えられなかった。殊によると……いや、たしかに人違いに違いないのだが顔があまりよく似ているので、英夫はつい、祥子の名を呼んでしまったのだ。
すると、少女もびっくりしたらしく、
「えっ!」
と、かすかにおどろきの叫びをあげた。
「君の顔が、僕の知っている祥ちゃんにそっくりなんで、おどろいたんだけど……なんだって君はこんなところにかくれているんだね? ああそうか。君の方からは僕の顔が見えないんだな」
「まあ、英夫さん!」
少女は、弾かれたように立上ると、英夫の方に駈けよって来た。
やはり祥子だったのだ! なんという不思議なめぐりあわせだろう!
「よかったわ、英夫さんに会えて……」
祥子は、涙を一ぱいためて、よかったわよかったわと何どもくりかえした。
「どうしてこんなところへ来たんだい、僕、きっと人違いだろうと思ったよ」
「いろいろわけがあるの、だけど、英夫さんこそ、どうしてこんなところへ来られて? やはり、あたしのように箱の中にかくれて来られたの」
「箱の中に……ああわかった、祥ちゃんは密航しようとしていたんだね」
「ええ、だってお金がなかったんですもの、仕方がないわ」
「僕は、シンガポールの兄さんのところへ行く途中なんだ。ほら君も知っている謙一兄さんがシンガポールにいるんだよ」
祥子は、どうして密航などをしようとしたか、あらまし話して聞かせた――。
東北の田舎で、母親に死に別れ、たった一人になった祥子は、マレーにいる叔父をたよって行く決心をした。
ようやく、上海まで辿りつくと、すぐ大東亜戦争がはじまって、上海から先へ行くことが出来なくなった。
そのうちに僅かばかりの旅費もなくなり、どうしてマレーまで行っていいのか、すっかり途方に暮れてしまった。
すると、上海の波止場で、一人の支那人と知りあいになった。――上海から香港までの間を往来しているジャンクの船頭だった。その男にたのんでジャンクに乗せてもらい、香港に渡った。
ジャンクの船頭は、香港で、趙という仲間の者に祥子を紹介してくれた。
趙は祥子に、ほんのちょっとした仕事を手伝ってくれるだけでいいという約束で密航をひきうけた。
香山飯店へ連れて行かれたのは、その手筈をきめるためだったのだ。
あの無気味な地下室のある、香山飯店のおやじは、前から買収してあったらしい苦力をつかって、祥子と一つのトランクを箱の中にしのばせ、首尾よく九竜丸の船艙に運びこんだのである。
怪しいトランク
窮屈な箱の中に何時間ぐらいいただろう……ながいながい時間を過したような気がした。お腹がすくと、パンや腸詰を食べた。そのせいかひどく咽喉が乾いて来た。
いつの間にか眠くなって、うとうととしていた時だった。
――こつこつ、こつこつ……
聞き耳をたてると、合図の音が聞えた。
祥子も小さい金槌で合図をかえした。
おなじような木箱が、たくさんある中から、見わけするために、趙と打合わしてあった合図の音だった。
「これにちげえねえ!」
ひそひそと囁く声が聞えて、箱の蓋が開かれ、祥子は箱の中から出された。
「トランクはあるだろうな、え、ねえちゃん、トランクをこっちへ出しな」
昼は、どこからともなく、かすかなうすあかりがもれて来るので、たぶん夜――真夜中ごろなのだろう、あたりはまっ暗で、趙と、もう一人の支那人らしい男が、懐中電灯を持って立っていた。
「あたし、重くって持てないわ」
「あっ、そうか、そいつはこっちが悪かった」
趙は、ごそごそと箱の中にもぐりこんで、トランクを取り出した。
祥子は、何よりも咽喉が乾いてたまらなかった。水をたのむと、
「ちぇっ、贅沢いってらあ……しようがねえ、王お前行ってくんで来い」
王はしぶしぶ近くの扉に近づき、しばらくコトコト鍵の音をさせてから、すっとどこかへ消えて行った。
「もうすこしの辛抱さ、いいかね、ねえちゃん、うっかり外へ出て見つかろうもんなら、虻蜂とらずだ。お前さんはやっぱり箱の中に入っていなくっちゃあならねえよ」
趙はにやりと笑った。気味の悪い笑いだった。
祥子はなぜか、水を浴びたようにぞっとした。
王のくんで来た水を飲んで、祥子はやっと落着いた気持になった。
この男たちは一体何をしようとしているのだろう? あのトランクの中には何が入っているのだろう?
二人の支那人は、何かひそひそ話しあいながら、トランクを別な箱と箱の間に抱えこんで行った。
「さあ、これでよしと……」
二人の支那人は、しばらくしてから出て来た。
「さあ、ねえちゃん、お前さんはもとのところへけえるんだ。おれたちも、もう引揚げるからな……、そうだ、こんど来る時は何かうめえものを持って来てやらあ、はっはっは」
祥子がもとの箱の中へかえるのを見すますと、二人の男は、箱の蓋を気づかれないように、元どおりにし、やがて足音をしのばせて階段を下って行った。
祥子は急に不安になりだした。
祥子と約束した、ほんのちょっとした仕事――のことなど、趙はすっかり忘れてしまったように何もいわなかったし、何となく二人のそぶりが怪しかった。
きっと何か悪いことをたくらんでいるんだわ――祥子は思った。
怪しいのは二人のそぶりばかりでなく、今まで、直ぐそばにありながら気がつかずにいた、あのトランクの中味だった。
そうだ、あいつらがかえって行ったのを幸いに、トランクの中に何が入っているか、調べて見よう!
祥子は、箱を出ようと、体をおこしかけたが、すぐ思いとまった。――箱の蓋は押しただけでは上らなかった。おきて行っても、まっ暗な中では、トランクを探りあてても無駄だったからだ。
香山飯店へ行く途中、インド人の巡警に誰何された時、趙はこの船をたしか日本の船だといっていた。そのくせ、香山飯店の地下室でも、船の中でも、日本人に一人もあわないのはどういうわけだろう。祥子が密航者なので、わざと秘密にしているのだろうか、それにしても、この船の中でも何か悪いことをたくらんでいるのだとすると、香山飯店の地下室でもそう思ったように、やはり敵のスパイかも知れない。そうだとすれば、祥子は知らず知らずの中に敵の手先につかわれているのかも知れなかった。
祥子はだんだんおそろしくなって来た。
朝になって、いくらか明るくなったら、トランクの中味だけでも調べておこうと思った。
そのうちに、祥子は眠ってしまった。
英夫が階段を上って来た時、祥子はようやく箱の蓋を金槌でこじあけて、下り立ったばかりの時だった。電灯がともされ、足音がしたので、しばらく息を殺して様子をうかがっていた。
はじめ、趙ともう一人の支那人かと思ったが、それとも違うらしいので、英夫が例の扉を調べている間に、そっとのぞいて見ようとして、見つかってしまったのだった。
「それで、ゆうべの事件もすっかりわかった!」
英夫が叫んだ。
「えっ! ゆうべの事件――て、英夫さん、あの支那人たちのこと知ってましたの?」
時計爆弾
ゆうべ英夫が見た、怪しい人影は、この船艙から水をくみに来た、王だったのだ。
それにしても、趙や王の一味はどういう素性の人間なのだろうか? 第一ここへ自由に出入りすることが出来るとすれば、宮崎運転士しか持っていないはずの船艙の鍵をどこで手に入れたのだろう? この船の中で、どういうことをしようとしているのか? 祥子を船の中へ忍びこませたのも、親切気からばかりだとは思われなかった。
「僕は、そのトランクが怪しいと思うね――、中味を調べて見よう」
「ええ、あたしもそう思うわ」
トランクの在所はすぐわかった。が、鍵がかかっているらしくあかなかった。
それは、黒い革の、ありふれた旅行用のトランクで、ちょっと見ると何の不思議もないようなものだったが、ひどく重かった。
英夫は、何か思いあたったらしく、そっと耳をあてて見た。
と、聞える……かすかに、コチコチコチと時計のセコンドを刻む音が聞えるのだ。
「時計爆弾だ!」
「えっ!」
二人は顔を見合わした。
「どうしましょう、何か道具がないとあけられないわ」
「これで趙の一味の素性もわかったわけだ。この船に軍需品を積みこむのを狙って爆破しようとしているのだ」
「じゃ、軍用船だったのね、あたし、ちっとも知らなかったわ……大へんだわ、すぐ船長さんに知らして上げなくっちゃ」
「ところが、外から錠がおりてるんで、僕も出られないんだ」
「まあ!」
「ゆうべ僕が時計を見た時十一時四十五分だったから、十二時に装置したとすればこの十二時か、今夜の十二時に爆発するようになってるのかも知れないね。この十二時だと、あと十五分しかない!」
どうすればいいか、英夫にもわからなかった――。
この船艙の中には、弾薬も積んであるはずである。時計爆弾の爆発でそれに引火すれば船は一瞬の間に粉微塵になってしまうのだ。
今のうちに爆弾の自働装置を壊してしまうか、船の外へ捨ててしまうかしなければならないのだが、船艙の中に閉じこめられてしまった今は、宮崎運転士が引っかえして来るのを、じっと待つよりほかはなかった。
しかも正確に十二時間とか、二十四時間の間に爆発するとはかぎらない。それは英夫の想像だけで、いつ爆発するかわからなかった。
宮崎運転士は賄部屋の扉の方から入って来るといっていたが、今はそこが一ばん危険な場所になっていた。爆発しても直接打撃をうけないような、すこしでも安全な場所を探すことが一ばん賢い方法のように思われた。
英夫は祥子をせきたてて階段を下りた。
ちょうど、最後の段から床へ下り立った時、思いがけなく、入口の扉の開く音が聞えた。
「あっ! 誰か来たわ」
祥子が眸をかがやかして叫んだ。
入口の扉が開きさえすれば、船長に話して応急処置をとってもらうことも出来、危険な爆弾を船の外へ捨ててしまうことも出来るのだ――。
二人は、救われたようにほっとして、扉の方へ駈け寄った。
「やい!」
扉の閉まる重々しい音と、それはほとんど同時だった。
「どこへ行く!」
意外にも、扉をうしろに、仁王立になっているのは、二人の支那人だった。
趙は二人の様子に勘づいたらしく、脂ぎった顔に埋もれた、けわしい眼が祥子から英夫に移ると、
「おやっ、こいつ! なんだか気に入らねえ餓鬼だと思っていたら、とんでもねえことをしやがる、俺たちの秘密を嗅ぎつけたからにゃあ、もう生かしておくこたあ出来ねえ……」
趙は相手に目くばせすると、にやりと笑った。
「手前、トランクを見つけやがったな、尤も中味はお生憎さまだろうがね」
「時計爆弾だろう。あんなものぐらいすぐわかるさ、わからないのは、大悪党のくせに思いきり悪く、いつまでも船の中にぐずぐずしていることだよ」
英夫の頭に咄嗟に閃いたのは、もう爆発に間もないと思われるこの時間に、二人がのこのことやって来るのには何かわけがありそうに思われること――だった。
「お誂えむきのところで、どかんとやろうと思って手数をかけてるのさ、だがお前たちがちょっかいを出しはじめたから、もう容赦はしねえ、一時間と経たぬうちにこの船諸とも木葉微塵にしてやるから、ゆっくり見物してるがいい……おい王、この餓鬼どもをふん縛って急いで仕事にとりかかろうぜ」
趙は、相手に目くばせすると、じりじりと二人の方へ近づいて来た。
――お誂えむきのところ……一時間と経たないうちに……。
英夫は、趙が調子に乗って口をすべらした言葉を聞きのがさなかった。
出帆してから、一昼夜以上も経って、まだ爆破しないのも、それでわかった!
時計爆弾の爆発を、自由に調節して、お誂えむきのところ――自分たちだけ逃げ出せるようなところへ船のさしかかるのを待っていたのだ。
だが、今は、一刻も猶予が出来ないのを見てとって、時間を繰り上げるためにやって来たのに違いない。
そうだとすると、一味のこの船にいる間、爆発しないことだけはたしかだが、頑丈なこの二人の男と、閉じこめられた船艙の中で顔を突きあわした以上、無事ではすみそうもない。
猛獣のような二人の悪漢との間が、一秒一秒縮まって来るのに、英夫の頭は何故か氷のようにすんで、咄嗟の間に、そうしたことが火花のようにひらめいた。
「冥土の土産に聞かしてやるが、さっき、若僧運転士をおびき出してやったのもこっちの計略だ。今ごろは、あいつも袋叩きにされてるはずだから、お前たちをやっつけるぐれえ南京虫を潰すようなもんさ、へっへっへ……」
では、宮崎運転士も、まんまと一味の罠にひっかかってしまったのか!
「王、お前は女の子をふんづかまえろ」
趙は、がむしゃらに英夫との間を縮めると、鷲づかみにするような恰好で一気にとびかかって来た。
柔道の冴え
「あっ!」
という、祥子の悲鳴が聞えた。
英夫は、米俵のような、重い人間の体の、火の出るような体あたりを、ふわりとかわしたつもりだったが、相手が英夫の小楯にとっていた鉄柱にでも突きあたったのであろう、したたかな風に打つかったような気がした。
趙の体が、そのはずみによろよろっとしたところを狙って、胸のあたりをつかむと思いきり鋭い背負を入れた。
講道館で、柔道を習っていた時、師範が英夫に教えてくれた「空中歩行」の体勢で入れた見事な技だった。
英夫を見くびって躍りかかって来た相手だけに、背負投はあざやかにきまって趙の犢のような図体は、もんどりうってはげしく鉄板の上を叩き、
「うむ!」
と唸った。
英夫は、すかさず飛びかかると、胃の急所めがけて、全身の力をこめた拳を入れた。
最初の打撃で腰を痛めた趙は、起き上る力をうしなったらしく、英夫のはげしい突撃に狂った猛獣のようなうめきをあげて、懸命に身をもがいていたが、やがてがっくりとうつ伏せになった。
祥子は、必死になって相手をふり放そうと燕のように身を翻しながら、英夫の救いをもとめたが、だんだん追いつめられ、階段の下で自由をうしないかけていた。
英夫が応援に駈けつけようとした時、
「危い!」
祥子の叫びが聞えた。
よろよろと立ち上った趙が、ぎらりと右手に匕首を抜いて、血ばしった眼で起き上ったのだ!
その隙に、祥子も相手にむんずと右腕をつかまれていた。
「面倒だ、やってしまえ――」
趙が唸った。
それを聞くと、王も、右手と靴で、あらんかぎりの抵抗をつづけている祥子をひっ倒すと左手で胸の匕首を探った。
二人はもう絶体絶命だった。
「もうだめだ!」
英夫は、心の中で叫びながら、王の左手にとびかかって行った。
と、突然!
――だあーん!
耳をつんざくような銃声が聞えて、
「うおっ!」
どたり、と、肉塊の倒れる音がした。
それと一緒に、風のように、階段を飛びおりて来た宮崎運転士が、ものをもいわずに襟すじを掴んで王を引っ張り上げ、砂袋を放るように鉄板の上に叩きつけた。それからやっと、
「よく無事でいてくれましたね」
と、英夫をふりかえって、はじめてにっこり笑った。
「この人は誰です?」
そうだ、祥子が、こんなところにいるとは、宮崎運転士には意外なことに違いない。
英夫は手短かに祥子の説明をした。
「船長が呼んでいるといって僕をおびき出したこいつの様子がへんだから、気をつけていると、いきなり五、六人の悪党どもが僕を袋叩きにしようとするんです。なあに、あべこべに叩き伏せてやりましたがね、しかしこいつはただ事でないと思ったから、こんな大時化で猫の手も借りたいような時だが、とりあえず船長に急を知らせて、それから大急ぎでやって来たんですよ、しかしこいつらが先廻りしているとは思わなかったし、ここでこんな事件がおこっていようとは夢にも思わなかった」
「それどころじゃない、宮崎さん、すぐ片づけてもらわなければならないものがあるんです……まだ一時間やそこらは大丈夫でしょうが」
「英夫さんが時計爆弾を見つけたんですの」
祥子がいった。
「えっ! そりゃあ大へんだ。すぐ処分しましょう……船長も来るはずですから、こいつらは誰かにふん縛ってもらって、後でゆっくり調べればいい」
「趙も生きているんですか?」
「足をねらっただけですよ、すっかり泥をはかせなくっちゃあ安心出来ませんからね」
海との戦い
船の中では、あれ以来、誰ひとり眠れなかった――。颱風のまっ唯中を、難航に難航をつづけながら、貴い皇軍の武器を死守しなければならなかったのだ。
船長はじめ、日本人の船員たちは、暴風という人間の敵以上の自然の強敵とたたかいながら、死んでも使命を果さなければならぬと思っていた。いや、自分たちは戦場で仆れる軍人のように仆れても、船を殺してはならぬと思っていた。
船長は、上甲板で叩き暴れる海を睨んだまま動かなかった。
おそるべき強敵――自然の強敵にも劣らない、おそるべき趙一味の陰謀も、英夫や、祥子や宮崎運転士の活躍で未然に防ぐことが出来た。
今は、この暴風圏を突破することにだけ全力を尽せばいいのだ。――船長は英夫たちに深く感謝しながら、悲壮な決心をかためていた。
時計爆弾の処分は、こんな中で、難作業だったが、細心の注意をはらって、海底に沈められ、爆発の危険からのがれることが出来た。
船艙につながれた趙一味の中でも宮崎運転士を襲った支那人たちは、船で趙に買収されたことがわかって、今は持場に働いていた。
ただ趙と王だけは、英夫と祥子が立会ってした船長や宮崎運転士の訊問にもやけくそな反抗を示すだけで、要領を得ない返事をくりかえしていた。
しかし、祥子の証言で、香港の香山飯店が、皇軍に占領される前からのスパイ団の巣窟であったことや、趙と王はそれに出入りしていた一味であったことだけはわかった。
英夫は、船長に頼んで、平林大尉宛に、船の中での出来事や、香山飯店のスパイ団の活動を無電で知らしてやった。
すると、間もなく大尉から、お礼と一緒に香山飯店の巣窟はたしかに突きとめたが、祥子の記憶で人相を知らしてやった、例の頭株らしいのも、飯店のおやじも、混血児らしい女も、いつの間にか逃げ出していて捕えることが出来なかった。しかしすぐ後を追跡中だから、いずれ必ず捕えてやるつもりだと、返電が来た。
――前途なお危険、警戒を乞う。
大尉の無電には、そうつけ加えてあった。
「趙は、この船が今までどおりの航路を通ると思ったもんだから、やつらに都合のいい機会を狙っていたらしいが、なあに、はじめから普通の航路を通らずに抜け道を通っているんですよ。趙がまごまごして爆破の機会をにがしたのはそのせいもあったんですね、はっはっは」
船長が笑った。
お誂えむきのところ――と、趙がいっていたのを思い出して、英夫は、船長の用意周到なのを頼もしく思った。が、せっかく、その一難が去ると、また、次の一難――颱風圏突破の危険が、船の前途に目をむいて突っ立っていた。
香港を出た日の未明から、これで、まる二昼夜以上もあらしとたたかって来た。
ああした事件で注意をうばわれていたが、風はますますつのり、荒れが一層ひどくなって来るばかりで、例の不気味なきしみ音もはげしく切迫して来た。ちょうど船全体が今にも捻じ折られそうな音に変っていた。
マストの一本も捻じ倒されたらしく、生身の骨をちぎりとるような音と、シンバルを打つような甲板に突きあたる音が、船室にいた英夫たちをおどろかした。
英夫も祥子も食堂の片隅から、わざわざ二人のために空けてくれた、船員室に移っていた。
滝壺のような波に洗われた甲板や、ところどころの船腹の隙間から噴き出す水の修理作業で、不眠不休の活動がつづけられた。
英夫も祥子も何か手伝わしてもらうように申し出たが、船長はどうしても許してくれなかった。
「今夜が峠です……あとは楽です。まあ私たちにまかしておいて下さい。これが私たちの務めですからね」
船長は、監禁同様に、二人とも部屋から出ることを許さなかった。
「大丈夫かしら? もの凄いあらしになって来たけど」
さすがの祥子も心細くなって来たらしく、不安そうに暗い電灯を見上げた。
「絶対大丈夫とはいえないさ、その時はその時で最善をつくせばいい、臨機応変にやるんだよ」
英夫は揺らぐ床から、じっと船窓の外を見すかした。
かすかなエンジンの響きと、激浪の噛みあう音が、体に伝わって来るだけで、何も見えない。――おそらく、墨汁を流したように暗澹とした空と巨鯨のように起き伏した激浪が視界を蔽っているに違いない。
船長の最期
不意に、どしん、というような衝撃――全速力で走っていた急行列車が、一ぺんに停車したような衝撃と、百千の大岩石が、一時に落下するような、もの凄い音が聞えた。
それと、一緒にぐ、ぐ、ぐ……と、千鈞のおもりを一時に吊り上げられたように、舷側が傾いて行った。
と、巨大な牛の断末魔の鳴き声にも似た、汽笛の音が、はげしい風に吹きちぎられながら鳴りひびいた。
つかれきっていたのだろう、吊床の上で、ぐっすり眠っていた英夫と祥子は、ただならない衝撃と汽笛の音で目をさました。
床がひどく傾いていて、圧しつぶされたようにゆがんだ扉の隙から、はげしい風がびゅうびゅうと吹きこんでいた。
――難破だ!
英夫は咄嗟に思った。
「救命帯を着けよう、祥ちゃん、難破したらしい」
「難破ですって! 大へんだわ」
「あわてちゃだめだ、落着いて…」
扉をこじ開ける音がした。
「大へんなことになりましたよ……僕です……宮崎です……」
英夫と、祥子も手伝って、閾にくい入った扉をようやく引きはがした。
全身、波のしぶきで濡れ鼠になり、だらだらと雫をたらした宮崎運転士が帽子も吹きとばされたらしく、乱れた髪をなで上げながら、
「とうとう、この船も最期です、船長が心配していますから直ぐ上甲板へ出ましょう。君たちのためにボートの用意はしてあります、救命帯は着けましたね、僕が案内しますから、お互いに手をしっかりとつなぎあっていて下さい」
二人は、宮崎運転士に引きずられるように、甲板に出た。
空も、海も、陰々とした夜闇の中に、百千の鞭をふるうような風の音と、夜目にも白くしぶきをあげて甲板を襲う大波の轟きが、たちまち三人を、つんぼにしてしまった。
「あっ!」
と、祥子は、頭からしぶきを浴びて叫んだ。
甲板は、すっかり波に洗われ、避難する船員たちが、懸命にボートにしがみついていた。
船長は上甲板から、メガホンを口にあて、声をからして命令を下していた。だが日本人の船員以外にはそれに耳を傾けようともせず、先を争ってボートにとび乗った。乗りはぐれた者は、一と声鋭い叫びをのこして、闇黒の激浪の中にのまれて行った。
「早く……乗って下さい……宮崎君……頼んだぞ」
船長は、日本人の船員ばかりの乗り込んだ、一艘のボートの導索を、しっかりとつかまえながら叫んだ。
宮崎運転士が、用心深く、英夫と祥子をボートに移して、船長に代ろうとすると、
「馬鹿!」
と、どなる船長の声が、はっきり聞えた。
「わしの命を、いくつ犠牲にしても、この責任はつぐなえんのだ、行きたまえ、君はこの人たちの命をボートに預っているんだ!」
宮崎運転士も、意を決したらしく、ボートに乗り移った。
瞬間――ボートは滑降台を降るような、はげしい勢いで、ずるずると波の谷底にすべり落ちて行った。
「あっ、船長! 船長はどうして乗らないんです」
英夫が叫んだ。
「引っ返して下さい、船長さんがまだ、残っているじゃありませんか!」
祥子も、青くなって立上った。
「立っちゃあいかん!」
誰かがどなった。
生あたたかい、波のしぶきが、一時に、どっとボートの中になだれこみ、祥子は圧しつぶされたように、舟底に叩きつけられた。
宮崎運転士が、むんずと祥子の肩をつかんだ。
「しっかり、ボートにつかまっているんです、ちょっとでも手をはなしたら、おしまいですよ!」
一たん、波の谷底におし下げられたボートは、また不意に、ぶるぶると身をふるわしながら浮標のように浮び上って、波の背にたたき上げられた。
オールも、舵もむだだった。いや、母船をはなれた瞬間から、舵はもう、打ち砕かれていたのだ。ひとびとは無言のうちに、ボートに流込んで来る水を必死になってかい出した。
英夫は唇をくいしばったまま、じっと闇のかなたを見まもった。
一本の折れたマストと、操舵室を残した母船の黒い影が、ちらりと波間に浮んでいた。たえだえにはらわたをかきむしるような悲痛な汽笛の音が、聞えるような気がした。
そんなはずはない――あらしの中で牙をむいた海は、一瞬の間に、船も、船長ものみこんで、もう次の犠牲におどりかかっているのだった。
船長は、日章旗を抱いて戦死する勇士のように、従容と海底に没して行った。
「天皇陛下万歳! 皇軍万歳!」
英夫は職責をつくして船と運命をともにした船長が、最後に、そう叫んでいるような気がしてならなかった。
激浪とのたたかいが、直ぐ英夫のまぼろしを吹き消した。
「あっ!」
と、叫んだ祥子の声を直ぐ耳許で聞いたからだった。
夜目にも、もの凄い横波が、廂のように蔽いかぶさったかと思うと、次の瞬間にはボートはひとたまりもなくひっくりかえってしまったのだった。英夫と、祥子は無意識のうちにしっかりと手をにぎりあったまま、激浪の中になげつけられた。――宮崎運転士が、必死の力をふりしぼって差し出した手も、空しく押し返されて、ひとびとは、それっきり、はなればなれに遠ざかって行った。
椰子のある島
顔も手も足も、煎りあげるように熱い南の陽が、照っていて、ゆるやかな、ひだをたたんだ波の上を、生あたたかい微風がかよって行った。
水の色は碧玉のように透明で、紅や青の背をならべた魚の群が、直ぐ足もとをすいすいと泳ぎまわっていた。
これがあのあらしの海とおなじ水でつながっているのかと、不思議に思われるくらいだった。
たった一艘のボートまでひっくりかえされてしまった、あの時のことを思うと、いまでもぞっとする。
崇高な最期をとげた船長も、二人のために必死の努力をはらった宮崎運転士も、いまはおなじ海底に眠っていることだろう。
英夫と祥子は、幸いお互いにはなればなれにもならず顛覆したボートにすがって漂流をつづけていた。
そして、夜もあけ、海面がしだいに穏やかになり、思いがけない珊瑚礁を間近に見た時には、二人とも、いままでの苦しさからすくわれたように、ほっとした。
「おそろしい夢から、急にたのしい夢を見ているような気がするなあ!」
英夫も、空腹と咽喉のかわきを忘れて、ボートの上にとび上った。
「陸へ上ったら、直ぐ何か食べるものと、飲みものを探しましょう、あたし、急におなかがすいて目がくらみそうになったわ」
「そら! あすこに茂っているのは椰子の樹だぜ! 椰子の実をとって飲もう、何かほかの果物もあるかも知れないし……、魚だってこんなにうんといるんだから、いくらでもとれるよ」
船腹の板をはがして作った橈で漕ぐ船あしは、のろのろとしてもどかしかったが、椰子の茂った海岸へたどって行けそうな岩礁はもう目の前だった。
「無人島かしら……人喰人種なんかいやしない?」
「無人島さ、あんな小さな島に人喰人種なんか住めっこないよ」
「もうおりても大丈夫じゃないかしら?」
底をのぞいて見ると灰色の岩礁に手がとどきそうに見えていた。
「いけないっ! まだ背がたたないよ、ほら……」
英夫は、ぽしゃんと水にとびこんで、立って見せた。
海水が澄みきっているので、底がおどろくほど浅く見えるのだった。
「泳いで渡ったって渡れるわ」
祥子も水にとびこんだ。
「ボートを持って行って、つながなくっちゃならないから、我慢して海岸まで漕ごう」
二人はまた、懸命に漕ぎだした。
とうとう、陸の上に足を踏みしめることが出来た! ボートをしっかりと浅瀬につなぎとめると、二人は無性にうれしくなって、足裏のやけつくような砂地の上を数本の椰子の樹の茂った下まで駈けだした。
岩の上で打ち砕いた椰子の実で、かわきを医やすと、疲れた体もようやく元気づいて来た。
「あら、蝉がいるわ!」
祥子が不思議そうに叫んだ。
どこかで蝉が鳴いているのだ。
「一ととおり、島の中をまわって見ましょうか」
「こまったことに椰子のほかに果物もないし、食べるものは魚か貝ぐらいのものらしいね」
「だって仕方がないでしょう、あとで火をつくって、焼いて食べることにして、とにかく、一ととおり島の中を調べて見るといいわ」
広いところで直径一キロもあろうか、ところどころに椰子の樹が数本ずつ生えているだけの珊瑚礁で、一方の切り立った岩の上には、おびただしい海鳥が群がり、けたたましい鳴き声をあげていた。
べつに人の住んでいる気配もなかった。
「ここは一体、どのへんなんでしょう?」
「それがどこだかわからないんだ」
「もし、どこの国の領土でもなかったら、大発見ね」
「そしたら日本の領土にしてしまうさ」
岩角を曲って、二人の上陸した砂浜へ出ようとした時、祥子が、
「あら!」
と、叫んだ。
黒く突き出た岩礁の間に、漂い寄ったものを見つけたからだった。――ブリキの石油缶や空壜や板きれが、岩礁の間に漂っていた。難破船のいたましいかたみの品なのであろう。ことによると、九竜丸の残骸もその中にまじっているのかも知れなかった。
さしあたり、食べものを探さなければならなかったが、何もないので、貝と、岩についた海藻を集めることにした。
何か入っていそうな気がしたので、例の石油缶や、そのほかの使えそうなものも引き上げておいた。
石油缶はひどく錆びて、いびつになっていた。
「石油だと大助かりなんだけどなあ」
「石油ならことこと水のような音がするわ、それに、もっと重いはずよ」
「じゃあ、何が入っているんだろう? 何か役に立つものが入っているかしら……」
「空缶だっていろいろ役に立つわよ、とにかく開けて見ましょう」
「ところが、開けるものがないんだ」
「困ったわね、……岩角にぶっつけたらめちゃめちゃになってしまうし……」
「そうだ、あれだ!」
英夫はボートから釘を抜き出して来た。
釘と、石ころの金槌で、たんねんに蓋のまわりに穴をあけると、ようやく蓋をとることが出来た。
厚い蝋紙に包んだ中をのぞいて見ると、まだ手をつけてない食糧がぎっしり詰っているのだった。
「ビスケットだわ」
祥子はうれしさにおどり上った。
「すごいぞ! すこしずつ食べたらしばらくはあるね」
二人はそれで、やっと空腹をみたすと、次のいろいろな用事にとりかからなければならなかった。
星の降る空
スコールに洗われた椰子の葉が、さわやかな音をたてて揺れている――。
英夫の腕時計も、いつの間にかちぎれてしまったらしく、時間もたしかではなかった。が、太陽の位置と、椰子の樹のかげとで、もう午後になっていることがわかった。
ビスケットで空腹をみたすと、二人は急に眠くなって来た。激浪の中を、ボートにしがみつきながら漂流した、張りつめた気持が、バネの止金を断ったようにゆるんでしまったらしかった。それに、ストーヴのようにやかれた砂浜の熱気と、頭から照りつける太陽の直射光とで全身がけだるく、今にも目がくらみそうだった。
夜になるまでに寝場所を作らなければならない。それにはボートを海岸から引き上げてその中で寝るのが一ばん手っ取り早かった。
浅瀬の上から重いボートをすこしずつ引き上げようとして、無駄な努力をしているうちにはげしいスコールがやって来て、折角の努力も見すてなければならなかった。
二人は急いで、雨のあたらない遠くの岩かげに逃げてよけるとそのままぐっすり眠ってしまった。
「大へんだ! もうじき夜だ!」
英夫がおどろいて目をさました時には、ものかげが、ながながとのびて、日没の近いことをつげていた。
祥子は、まだ眠そうに、しばらくぼんやりと目を見開いていた。
「しかたがないから、今夜はあの椰子の樹の下で露営することにしよう。さっきしらべて見て無人島だということがわかったから、これからどうして命をつないで行くか、どうして救いをもとめるか、そんなこともいろいろ考えなければならないんだ。僕はあすからさっそく小屋を作ったり、ボートを修繕したりしようと思うんだけど、どうだろう、祥ちゃん!」
「大賛成よ、あたしも一生懸命働くわ……まだ陽のあるうちにさっそく小屋を作る材料を集めに行きましょう。ただ道具がないから困ったわね」
「大丈夫、ナイフの代りに貝殻があるし、釘の代りに縄を使ったっていいんだから、きっと材料が集まるよ」
「場所はどこにしましょう」
「やはりあの椰子の樹のあるところがいいな、あの椰子の樹へ登れば、島全体が見られるし、ボートを修繕するのにも便利だから、あすこにきめよう」
「あすこならすてきだわ、じゃすぐ行って見ましょう」
孤島の日没はつるべ落しだった。太陽が、水平線に沈んだかと思うと、もう夜闇が、島と海をおし包んでいた。
まだ眠り足らない二人は、ビスケットと、岩の窪みにたまった雨水で夕食をすますと、すぐ、椰子の樹の下に木や草の葉をしいた寝床を作って寝た。
日中のはげしい暑さにくらべると、夜は涼しくてしのぎよかった。
「あの趙ともう一人の支那人、どうしたんでしょうね」
祥子がふと、思い出したらしくいった。
「たぶん、船と一緒に沈んでしまったんだね、船艙の中に縛られていたはずだから」
二人はまた、おそろしかった船の中の出来事と、船長や、宮崎運転士のことを思い出した。
月はなかったが、何といううつくしい星空だろう! 碧黒い壁一めんに、銀の鋲を打ったような星がちかちかとかずかぎりもなく瞬いていて、手をのばしただけで、つかみ取れそうに近かった。
「綺麗な星ね、あたし生れてからこんな綺麗な星空って見たことがないわ……あっ! 流れ星――」
祥子が、いった時、
「わかった!」
と、英夫が、びっくりするような声で叫んだ。
「びっくりしたわ、何がわかって?」
「ほら、ここはやはり南支那海の中なんだ」
英夫は、一つの大きな星を中心に連った八つの星を指さした――兄の謙一中尉がいつか教えてくれた星座を、英夫はおぼえていた。
「じゃ、どこの国の島なんでしょう?」
「さあ、そいつはわからないんだ、日本の新南群島の近くかも知れないし、それとも、もっと南になるのか、どっちにしても赤道に近いことはたしかだね」
「こんなところ、船が通るでしょうか?」
「そいつもわからないね、辛抱強く待っているうちに日本の軍艦か、敵国の潜水艦かどっちか通るかも知れない、ひょっとしたら何年も何年もここにいなければならないかも知れない」
新らしい不安が、二人の胸にわいて来た。
南支那海はもちろん、世界の七つの海のどんなところへもおそれずに行く日本の漁船は、南洋の海の思いがけないところに、ひょっくりといることがある。と、英夫は聞かされていたが、大東亜戦争では、太平洋も戦場になり、このあたりは、いわば戦場の中心になっている。勇敢な日本の漁船も今は母国のためにたたかっているはずだった。それだけに、こんな無人島へ立寄ることなどはあり得ないのだ。すると、英夫たちの救われる機会もないのだろうか!
せっかく、兄と将軍の好意でかなえてもらった英夫の念願も、叔父さんに会う祥子の喜びもみんな絶望になってしまうのだ!
椰子の葉が、そよ風にさやさやと鳴っている。
英夫も、祥子も、いつの間にかうとうとと寝入ってしまった。
四つの人影
聞きなれない人の話し声で、英夫は目をさました。
満天の星は、やはり降るように、ふるえながら瞬いている。椰子の葉が腕を振るようにゆらめいている。海の香がしずかなあたたかい夜気に運ばれてにおっていた。
しーんとした、その星月夜の中で、人の話している声が聞えるのだ。
英夫は、夢を見ていたのかと思った。――どこにも人の住んでいない島に人の話し声がするはずはなかった。
しかし、たしかに、さっき英夫たちがスコールを避けた岩のあたりから、ぼそぼそと低い人の話し声が聞え、だんだんこちらに近づいて来るらしかった。
いいようもない不気味な戦慄が身内をはしった。
「祥ちゃん――」
英夫は、まだぐっすりと寝息をたてている祥子をゆりおこした。
「なあに……」
祥子は目をこすった。
「ほら……聞えるだろう……人の話し声が」
話し声ばかりではなしに、黒い人かげが、ゆっくりとした足どりで近づいて来るのが夜目にもわかった。
「なんでしょう、野蛮人でしょうか、それとも幽霊かしら?」
「しっ!」
黒い人かげは、一人、二人、三人、四人まで数えられた。なだらかに傾斜した砂浜を、身ぶり手真似をまじえて、何かしきりに話しあいながら、だんだん英夫たちのいる方へやって来る。
もう百メートルとは距っていなかった。
前の一人は、サロンを腰に巻いただけの土着人らしく、その後から来る三人は、白い上衣に半ズボンをはいているらしかった。土着人らしいのをのぞけば、みな背が高かった。
「英語で話しているらしいね」
「えっ! じゃあ、敵国人だわ、やはりイギリスか、アメリカの島だったのね」
「ぐずぐずしていると、見つかってしまうぞ! 見つからないように、そっと海岸の方へ出よう、出来たらどこの国の人間だか、何をしようとしているか調べてやろう」
「わざわざ夜をえらんで来るくらいだから、何かわけがあると思うわ」
草むらから岩かげを伝って、四人がやって来た方向へ、逆に行って見ることにした。
岩かげからそっと首をだして見ると、すぐ目の前を、さくさくと砂を踏みしめながら四人が通りすぎて行った。
さっき遠くから見当をつけたように、一人は上半身に何も着ていない土着人で、ほかの三人は、頑丈な体をした西洋人だった。その中の二人は小銃を手にぶら下げ、もう一人はパイプをくわえて口許からぷかりぷかりと紫の煙をはいていた。
何を話しているのか、よくわからなかった。測量をするような身ぶりをしてみたり、あっちこっちを指して、土着人に何かきいたりしているような様子だった。
一人が不意にこっちを振り向いたので、祥子は思わずひやっとした、危く、
「あっ!」
と、声をたてそうだった。
幸い、こんなところに人がいることに気付いた風もなく、英夫たちの寝ていた椰子の方へ行き過ぎて行った。
「大へんよ、あすこへ行って、あたしたちの寝場所を見つけたら、きっと人がいることを嗅ぎつけて、島の中を探して歩くに違いないわ、そしたら、きっと見つかってしまうわ」
祥子が四人を見送りながら囁いた。そういえば、寝場所ばかりではなく、小屋を作るために集めておいた材料や、命の綱のようなビスケットの缶も、上に椰子の葉をかぶせてはあるが、あの近くにおいてあった。何か人のいたらしい跡を見つけたら、四人できっと血眼になってあたりを探し出すだろう。そうすると、あすこにおいてあるものがみんな見つかってしまい、きびしい大捜索をうけるに違いなかった。
「しまった!」
さすがの英夫も青くなった。
きょう昼の間、あんなに島の中を歩きまわっても人がいなかったのだから、きっとこの四人はどこかこの近くのほかの島からやって来たものに違いない。すると四人が乗って来た船か何かがどこかにつないである筈だ。それを探し出して、四人より先にこの島を抜け出すよりほかに仕様がない。祥子に口早にそのことをいった。
「だって、その船には、誰か仲間がいるでしょう、その人たちに見つかってもどっちみち捕まってしまうわ」
「でも、ぐずぐずしてはいられない。仲間がいるかどうか、ともかく船のあるところを探して見よう」
さっき四人の出て来たのは、昼に二人が雨宿りをした岩のあたりだった。そこは入江になった磯浜で、すこし大きな船なら、おあつらえ向きな桟橋になるようなところなのを二人は知っていた。
「きっとあすこよ」
二人は、それでも用心して、すばやく岩かげを伝いながら、海岸に出た。
そこには、細長い、見なれない型のボートが一艘、鯨のようにくろぐろとした体を横たえていた。
しばらく息を殺して、船の中の様子をうかがってから、人のいないのをたしかめると、英夫はひらりとボートにとび乗った。
ボートの謎
水に浮んだ鯨のような形のボートで、三十センチほどの幅の甲板が両側についていた。
鯨の背中のように円い掩いの、やや前寄りに細い出入口がついていて、小さな窓から中の明りがもれていた。
裸足でとび乗った英夫は、はじめから足の裏の感じで気付いていたが、円い背中のような部分に触れて見ても、全体が鋼鉄で出来ているらしく、それに舳も艫も、おなじように尖っていた。こんな型のボートは今まで見たことがなかった。
扉は鍵を閉めずに出たらしく、把手をまわすとじきに開いた。
やはり中には人の気配がなく、何の物音もしなかった。細長い四、五段の真鍮の梯子から入るようになっていて、片側だけの坐席と、テーブルがおかれてあり、その上の食べ残したサンドウィッチや、果物、酒壜、ガラスのコップ、灰皿などが、オレンジ色の間接照明にほの明るく照らし出されていた。
英夫はそれだけ見とどけると、中に人がいた場合の用心に、待たしておいた祥子を呼びに行った。
「モーターボートなら僕も動かせるんだけど、この船の機関部はどこにあるんだろう」
上陸した四人が気付かない前に、船を出さなければならない。――二人は懸命に船を動かす機関部を探したが、それらしい場所はどこにもついていなかった。
そのうちに、あの連中が島に人のいることに気付いて追いかけて来たら、おしまいである。すくなくとも島を探す前に誰かがきっと、引っ返して来るに違いないのだ!
ボートの内も外も、すっかり探したが、不思議なことに出入口は一つしかないらしく、しかも、機関室がついているとすれば、この部屋から出入りする以外には考えられないのに、テーブルのある部屋のあたりの壁は、ちょうど船の内部を円くくり抜いたようにまっ白に塗られた鉄板で出来ていて、どこも厳重に鋲でとめられていた。機関部らしいところはどこにもついていないのである。
二人は絶望のどん底に落されたように、しばらく坐席に腰かけて、ぼんやり贅沢な御馳走を見つめていた。
「美味しそうね、そのサンドウィッチ食べてもいいか知ら」
祥子がいった。
「御馳走になったってかまわないけど、島のどこかに隠れていた方が、この船にぐずぐずしてるよりましらしいね、サンドウィッチと果物だけそっくり頂戴して行こう、あのビスケットだってどうなってるかわからないからね」
「賛成だわ、こんな立派な船を見すてるのはおしいけど、これ頂いて行きましょう」
英夫は、ガラスのコップを取りのけようとして、ふと、マホガニーの机の上に、白い小さな象牙の三つのボタンのあることに気づいた。
ボタンの上には、三つとも方向の違った金色の矢印がついていた。
「何でしょう、そのボタン?」
祥子も気づいたらしかった。
気をつけて見ると、二つのボタンの矢印は反対の方向についていて、もう一つのは横に向ってついているのだった
ためしに、反対の方向に矢印のついている二つのボタンのうちの、一つを指で押して見た。
すると、次の瞬間、二人には全く思いがけない、おどろくべき出来ごとがおこった――。
ボートが、ひとりでにするすると動き出し、加速度的に速力が加わって行くのだ。
「あっ! 動き出したわ、動き出したわ」
「わかった! このボタンで船を動かすように出来てるんだね……ああこれでやっと助かった」
「海岸からはなれて、沖の方へ出て行くわ、かなり速く走っているのね……」
祥子は出入口から首だけ出して外をのぞきながらいった。
「沖へ出るようになったのは偶然だけど、反対の方向に矢印のついたボタンを押すと、海岸の方へ進むことだけはたしからしいね。だけども、自由に方向を変えるのにはどうするんだろう、横の方に矢印のついたボタンはたった一つしかついてないけど……」
「ずっと遠くへ行ってしまったら、もうこっちのものよ、ゆっくり研究したっていいわ、……だけど、あの人たち、後でずいぶんおどろくでしょうね」
「まごまごしていたら、こっちがどんな目にあわされるかわからないんだもの、あたりまえさ」
と、突然、つづけざまに銃声が聞えた。
「危い!」
英夫は、まだ扉の前に立っている、祥子を内側へ引きもどした。
上陸した四人もとうとう気がついて、引っ返して来たらしかった。
かなりあわてて、右往左往しているらしく、まだ射程距離にいるはずの船にもほとんど当らなかった。たまに当っても、こつんこつんと鈍い雨だれのような音をたてているだけだった。そのうちに、自分たちがよく知っている鋼鉄のボートへ射撃をしてもむだだと思ってあきらめてしまったらしく、銃声がはたとやんだ。
海底要塞
何という不思議なボートであろう。英夫がためしに、横に矢印のついたボタンを押すとボートはするすると海水を潜って行くのだ。
両端の尖った、鯨のような形から、潜航艇であることに気がつかなかった英夫たちも迂闊だったが、こうした精巧な超小型の潜航艇があろうとは、誰しも知らなかったに違いない。不思議なのは、その形や、構造ばかりではなく、動力だった。
モーターや、機関の廻転が、全然聞えずに、ただ、象牙の小さなボタンを押しただけで矢のような速さで、海底を進んで行くのだ。
速力はしだいに増して行くようだった。
「何だか気味が悪いわ、いいかげんに水の上に出ましょうよ」
祥子が心配しだした。
この船で星をたよりに航海すれば、いつかは日本の軍艦か汽船に遇えるに違いない。孤島の中で、あてのない救いの手を待っていることに比べて、明るい希望が二人の胸に湧いて来た。
祥子の注意で、潜航ボタンを押しかえそうとした時、ボートは急にピタリととまって、動かなくなった。
「おかしいなあ、急にとまってしまったけど、故障をおこしたのかな」
「ここは水の上らしいわ、窓の外が、あんなに明るくなってるんですもの」
「だって、いまは夜のはずじゃないか、いくら星月夜でもそんなに明るいはずはないよ……」
扉に近寄って見ると、さっき潜航をはじめた時には、固く閉っていたはずの扉が、今は何の抵抗もなく、やすやすと開いた。
目の前にひらけた様子があまり変っているので、二人ともあっけにとられてしまった。
敵の手をのがれて、これから自由な行動がとれるとばかり思っていたのに、二人が入りこんだのは、敵の秘密の根拠地――おそらく海底に築かれている要塞らしかった。
――ひょっとすると、あの秘密の根拠地というのがここだったんだ!
咄嗟に英夫の頭に閃めいて来たのは、平林大尉が、あらゆる方法で探し出そうとしている敵の秘密の根拠地は、きっとこんなところに違いない! ということだった。
――よし、突進しよう、敵に気づかれないように、この秘密を探り出して、平林大尉に教えて上げよう、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」だ!
英夫は胸がわくわくとおどった。
「大へんなところへとびこんでしまったよ」
「大へんなところって?」
英夫は、祥子にいつか秘密の根拠地の話をしたことがあった。
「例の秘密の根拠地だ、どうもここがそうらしいんだ」
「まあ! ここがそうなの」
「気づかれないように、そっとこの中の様子を探って見よう、思いがけない大発見があるかも知れないから」
幸い、敵の潜航艇へ乗って来たので、怪しむ者もないらしく、それに夜明けに近い真夜中のせいもあろう、あたりはひっそりとしていて、ぱしゃぱしゃとかすかに海水の岸を舐めている音が聞えるだけだった。
そこは巨大な潜航艇の格納庫らしく、まっ白に塗られた、ほとんど真四角な建物の高い天井には、真昼間のように煌々《こうこう》と電灯がかがやき、掘割のように、いく筋も入りこんだ海水の上に、例の鯨のような潜航艇がいく十となく浮んでいた。
どこからか、遠い雷鳴のようなダイナモの音も聞えていた。
潜航艇は大きいのや小さいのやさまざまだったが、みなおなじような型のものだった。中には武装しているらしく、大砲や高射砲を甲板に出して、覆いをかけてあるものもあった。
「畜生! 僕たちの乗った、旅客機を襲撃した潜水艦も、この中にいるんだな!」
英夫は思わず拳をにぎった。
波止場のようになった床には、レールが敷かれていて、潜航艇に積むものを運ぶようになっていた。
もっとおどろくべきことには、この建物の奥が、潜航艇のドックになっているらしく、肋木に支えられた潜航艇や、捲揚機や、空中にさし渡された軌道が、ひっそりと休止したままの姿で見えていた。
英夫と、祥子は、あたりに気をくばりながら、トロッコや、ドラム缶の間を縫うようにして進んだ。
と、こつこつ、こつこつというような、規則ただしい足音が聞えて来た。
二人は、すばやくドラム缶の蔭に身を隠した。
足音はだんだん近づいて来た。やはり正確な間をおいて、こつこつ、こつこつと歩いて来るのだった。――何かものごとを考えながら歩いているか、それとも、軍人のように、きびきびした、訓練をうけた人の足音だった。
英夫は、もし、見つかった場合、相手を仆すか、自分が仆れるか、どっちか一つのみちをえらばなければならないと思った。
こんな秘密の要塞を発見された以上、敵は二人とも生かしておくはずはなかった。
相手は歩哨である以上、完全な武装をしているであろうのに、こちらは、何の武器も持ってはいなかった。――いや、例のビスケットの缶を開けるときに使った、たった一本の釘を後生大事にポケットに入れていたにすぎなかった。
不意におどりかかって、相手の武器を取りあげて、それで相手を仆す方法をとるよりほかに生きる途はなかった。
祥子はふるえながら、息を殺して、危険の通りすぎるのを待っていた。
こつこつ、こつこつと、おなじ歩調で歩哨は歩いて来た。
するとまた、突然、もう一人の歩哨らしい足音が、すぐ近くから聞えて来た。こんどは前の歩哨と反対の方向へ行くらしい。
前の歩哨は、二人がドラム缶の蔭にかくれているのに気がつかないらしく、やはり、しずかに、おちついた足どりで通りすぎて行った。
「誰か!」
「誰か!」
「異状はないか?」
「異状はないか?」
「異状なし」
「異状なし」
「よし」
「よし」
二人の歩哨が、鸚鵡がえしにそんな意味のことを英語でいいあうと、別れて行った。
へんな会話である。すこしも違わない言葉を取り交して、さっきとおなじ歩調ですれ違って行く。
そっと、後からのぞいて見ると――。
「なあんだ、機械人間じゃないか」
英夫は、おかしさにふき出しそうになった。
「危険じゃないかしら?」
「近づくと危いかも知れないけど、直接ぶっつからないようにしていれば大丈夫だよ」
「何だかへんな音がして来たわ、水の底がジーンと鳴ってるようだわ」
耳をすますと、空いている掘割の一つが、ちょうど煮えたぎる鉄瓶のような音をたてているようだった。
すると、どこからともなく、ぽっかりと例の潜航艇の姿があらわれ、するすると引き寄せられるように進んで来たかと思うと、ぴたりと掘割に横付けにされ、中からどやどやと数人のひとびとがあらわれた。
何か英語で声高に話しあっている者もいる。たばこをふかしたり、あくびをしたりする者もいた。
ドラム缶の蔭で息を殺していると、やがて階段を上って行く足音が聞え、しばらくすると元のようにしずかになった。
「わかった! 潜航艇がここへ入って来るのはあの掘割の底に仕掛けがしてあるからなんだ。つまり、大きな磁石に鉄片が吸い寄せられるように磁力で鋼鉄の潜航艇が引きつけられて来るんだ。僕たちの乗った潜航艇についていたボタンはそういう作用をおこさせるスイッチだったんだね」
「たいへんなものね」
「もっといろいろなものがあるかも知れないよ、今のうちに上の方を調べて見よう」
二人は足音をしのばして、さっきの乗組員たちが上って行った時に見当をつけておいた階段を上って行った。
階段は、幅が一メートルほどもあり、格納庫のまん中あたりから、螺旋形に上って行くようになっていた。
二階は発電所と、製作工場になっているらしく、巨大な発電機のぶんぶん唸っている工場の一方には、赤や青の電灯のついたさまざまな工作機械や、いく十本ものベルトが、大工場の内部のような複雑なかげを見せていた。しかし今は休んでいた。
「何を作るところでしょう」
祥子が囁いた。
「ここで使うものをみんな作ってるんじゃないのかな、海の中だから、簡単にほかから運んで来られないからね」
例の機械人間が、ここでも警戒していた。二人は、それに出くわさないように、見つかりそうになると、すばやく物蔭に隠れた。
それでも、万一の用意に、一本の釘だけは手に握りしめていた。
工場から上へ出ると、階段を中心に、いくつもの廊下がわかれていて、要塞員の寝ているらしい部屋や、食堂や、楽器のおいてある、ダンスホールのような部屋、図書室、娯楽室、機械人間や、食糧のしまってある部屋があった。
「いつの間にこんなものを作ったんでしょう、とても大仕掛なものね」
祥子が、囁いた。
「作ってからまだ間がないらしいよ、その証拠に、漆喰がまだ乾ききっていないところもあったもの」
二人はまた、階段をのぼった。
島を出る時から二人ともずっとはだしだったので、足音をたてずにしのび歩くのには都合がよかった。
こんどは、あまりにもの凄いものにぶっつかって、二人とも、きもを冷やした。――そこは機雷や、砲弾や、あらゆる武器が無数におかれている、軍需品倉庫だったのだ。
偶然に鍵を閉め忘れたのか、それとも、まだ、完全に出来上らないので、わざとそうしているのか、こうした危険な部屋にも、鍵をかけている形跡がなく、砲弾が廊下にまで無雑作におかれてあった。
二人の背丈よりも高い機雷のある部屋で、何気なくそれに触れて見ようとした英夫は、
「あっ!」
と、あわてて手を引っこめた。――右手に握りしめていた釘が、もぎ取られるように英夫の手をはなれ、貼りついたようにぺたんと機雷に吸い寄せられてしまったのだ。
部屋のなかを見まわしていた祥子も、おどろいてふりかえった。
「吸着機雷だよ、この表面に強い磁力があって、軍艦なんかには、こっちが吸いついて行って爆発するんだ」
「気持の悪いものね、こんなに大きなものでやられたら主力艦だって危いわ」
英夫はピストルか、鉄砲か、何か身を護るものがほしかったが、あいにくそうしたものは、要塞員たちが、みんな部屋の中に持ちこんであるとみえて、見あたらなかった。
「いったい、何階になってるんでしょう、こんどで五階目だわ」
階段を上りながら祥子がいった。
無電室での会話
五階が一ばん上らしかった。そこには、無電室と、天文台の望遠鏡のように外部に向って据えられた大砲ともつかない、魚雷発射管ともつかないようなものがいくつもあった。
そしておどろくべきことには、庇のように突き出た格納庫の中に、数台の飛行機さえも尾翼の方を見せるようにしておかれてあった。
「飛行機を、どうして海から飛ばすんでしょう……考えられないわ!」
祥子がいった。
「何かカタパルトのようなもので海上へ発射するんじゃないのかな、それとも僕が最初から考えていたように、どこかに海面へ出られる抜け道があるかも知れないね」
「こんな大仕掛な海底要塞からねらわれていたら、いくら無敵の日本軍だって心配だわ、どうかして早く知らして上げられる方法がないものかしら、一刻も早い方がいいと思うわ」
「無電室があるから、シンガポールの兄さんへ無電を打とう……上川将軍が暗号を教えてくれたから、兄さんなら呼び出せるんだ」
「それがいいわ」
だが、無電室には要塞員がいて、絶えずどこかと連絡をとっているらしく、誰もいない隙をねらって打電することなど、思いもよらなかった。
二人はしばらく、無電室の鍵穴から中の様子をうかがっていた。
ツーツーカチカチツーツーカチカチ……無電室の中からは、絶えず電鍵の音が聞えて、レシーバーを耳にあてた二人の男が、外部との連絡をとっていた。
一人は赤ら顔のずんぐりした男だったが、一人は、どこかまだ子供っぽい顔をした、すらりとした痩がたの青年だった。
レシーバーを放りだすと、青年は立上って低い鼻声で歌をうたい、それから二人で何か愉快そうに話しだした。
二人は次のような話をしていたのだが、英夫たちには、ところどころしか聞きとれなかった。
「今晩はいやに交代の時間が長いような気がしますね、中尉殿」
そういったのは赤ら顔の男だった。青年の方が上官だったのだ。
「ニュースがないからだよ、首を長くして待っているニュースがね……それとも貴様酒でも飲みたくなったんだろう、はっはっは」
「いや、断じて酒なんかの問題じゃないですよ、近ごろの味方の連中の不甲斐なさにあいそがつきてしまったんです」
「まあいいさ、日本の大艦隊を水中電気砲や例の爆雷で全滅させる日も近きにありだ……シャンペンの用意でもしておくんだね」
「それだってどうかわかりませんや、かんじんの諜報網がだらしがないですからな、あの支那人なんかどうです、もう一と息というところで、日本の子供にしてやられるなんて、あんなやつ救けてやる必要なんかなかったですよ、九竜丸と一緒に葬ってやればよかったんだ」
「趙のやつかね、はっはっは、あいつはきっと仕返しをしてやるといってるよ、日本の艦隊の行動を探って来たことで、まあ、帳消しにしてやるんだね」
――九竜丸……趙……日本の艦隊……
英夫は、はっとした。――船艙につながれていたはずの趙がどうして助かったのだろうか。日本の艦隊をこの海底要塞から攻撃しようというのだろうか!
「いや、断じて……」
と、口癖らしく、赤ら顔の男がつづけた。
「日本の大艦隊が、確実にこの附近を通過するというニュースをつかむまでは許せませんよ、日本の子供に柔道で投げとばされるようなやつですから」
「柔道……か、そいつは趙がまぬけなんじゃなくって、日本の子供がすばしっこいからじゃないのかね、僕は日本の子供に敬意を表するよ」
「こないだのY五十九号だってそうですよ、せっかくの獲物をにがしておめおめと帰って来るなんて……あの飛行機にはかなり重要な物が乗っているって情報があったんですからね」
香港へ行く途中に旅客機を襲った怪潜水艦はやはりこの要塞の潜水艦だったのだ!
「まあいいさ、いまにあの島にも飛行機の発射坑を作れれば、東京爆撃だって不可能じゃないんだ、それまでに長距離機もつくはずだからね」
「誰か来たわ、隠れましょう!」
無電室へ近づいて来る人の足音が聞えた。
「交代の時間らしい、一たんここを引きあげなくっちゃ危い!」
二人はすばやく、物蔭に体を伏せた。
二人の交代員が、無電室の扉に消えると、
「下へ行ってしばらく隠れていよう」
「だって、隠れられそうなところがあるかしら」
「大丈夫、すてきな場所があるんだ」
中尉たちが、寝室へ下りない前に、二人は急いで、階段を駈け下りた。
英夫たちが三階の廊下に立ったのと、機械人間が、二階から三階の廊下へ上って来たのとほとんど同時だった。
「しまった!」
と、英夫が叫んだとたんに、機械人間が、ぴたりと足をとめて、けたたましい電鈴がジリリリンと鳴りだした。
機械人間に装置した電鈴が、自働的に鳴り出したのだ。
日本艦隊襲撃
海底要塞の司令官室の机の上には、一枚の地図がひろげられてあった。
伝声管や、電話や、展望鏡や、いろいろな電気装置に通ずるボタンやスイッチが、その部屋を、潜水艦の内部のように見せていた。
司令官は、がっしりした背の高い年をとった男で、口髭にも、髪にもきらきら光る白髪がまじっている。
参謀の肩章をつけた、赤ら顔の相当な年輩の幕僚長、参謀将校が三人、白い背広を着た技師長、それに意外にも脚と、頭に繃帯をした支那人の趙が机を囲んでソファに掛けている。
七人の眼はじっと地図の上に注がれていた。
「閣下、やはり、あっしのいった通りでしょう」
趙が、ありったけの追従笑いをしながらいった。
「うむ」
司令官はかるくうなずいた。
「主力艦、巡洋艦、駆逐艦、それに、輸送船団……これだけ料理出来りゃあ、日本海軍は大打撃ですぜ、ハワイと、マレー沖の仇討ちが一ぺんに出来るというもんでさあ」
「うるさい! 貴様はだまっていろ」
幕僚長が、趙のおしゃべりにたまりかねて、どしんと机を打った。
「あっしは……何も余計なことを……ただひどい目にあわされた仇討ちが出来るんで、うれしいんですよ、へっへっへ」
趙は、あわてていいわけした。
「まあいいさ、趙の手柄でないこともなかろう……ところで、どのへんでやることにするかね?」
司令官が重々しい口調でいった。
「それです……こんどは大事をとって、潜水艦の力にばかり頼らずに、水中電気砲や、爆雷や、出来得れば飛行機、戦闘機と爆撃機ですな、それを総動員して一挙に撃砕したい、というのが小官たちの考えです」
幕僚長がいった。
「小官たちも幕僚長殿の御意見に賛成です」
三人の参謀将校の中の一人がいった。
「爆撃機は間に合うまい」
「その点を僕も心配しているんです、あの島の設備が完成していたら絶好の機会ですがねえ」
技師長がいった。
「すると、君はこの計画に自信が持てないというのか」
若い参謀将校が技師長にくってかかった。
「いや、そんな問題じゃない、僕も攻撃の方法については君たちと全くおなじ意見だ、ただ技術者として、工事が予定どおり進まなかったことをすまなく思っているのだ」
「貴様らがへまをやるからだ、そのために日本の警戒が厳重になって、材料の運搬がおくれてしまったじゃないか」
幕僚長が、趙をにらみつけた。
「まあそうがみがみいわねえで下さいよ、あっしの仲間だって、一生懸命なんですぜ、このニュースだってあっしの仲間がつかんで来たんですからね」
幕僚長は顔をしかめたが、こんどはだまっていた。
そこへ、機械人間が、お盆にのせた熱い紅茶をはこんで来て、机の上においた。司令官は紅茶の茶碗をとりあげながら、
「幕僚長にきくが、爆撃機を使わずに、殲滅することが出来ないだろうか、爆撃機の代りに潜水艦を総動員して魚形水雷で不意打ちに一撃をくらわしてから、水中電気砲でとどめを刺す――この戦法はどうだ」
「司令官、それは名案です、それで御決定願いましょう」
司令官が何かいおうとした時、扉をノックする音が聞えた。
「入れ――」
一人の士官が入って来た。
「Y一〇三号ボートはもどりましたが、ジョンソン大尉殿の一行が帰られません、どういたしましょうか」
「なに、ボートだけもどってジョンソン大尉が帰らん、それはおかしい」
司令官は幕僚長と顔を見あわした。
「ボートに故障はないのかね?」
「は、異状ありません」
「誰か乗って来た形跡はないか」
「一応点検しましたが、そんな形跡もありません」
「誰か途中でボートを奪って入りこんでいるとすれば、一大事ですが、おそらくボートの故障じゃないかと思います、ジョンソン大尉の安否をたしかめてみればわかるでしょう」
幕僚長がいった。
「宜しい、ジョンソン大尉を捜索し、なお要塞内を綿密に点検するがよい」
士官が出て行くと、司令官が立上った。
「では、命令するが、幕僚長は直ちに全員に戦闘準備をととのえて待機の命令を出す、趙はさらに諜報網に連絡して、日本艦隊の行動を精密に諜報せよ、技師長は、予定の工事を全力をあげて進行し、第二段の戦闘に備える――命令おわり!」
皆が司令官に向って敬礼した。
海底要塞は、日本の艦隊と、輸送船団に最初の大打撃を与えるべく必死の戦闘準備を開始したのだ。
無電奪取
五階へ通ずる階段を、こつこつと機械人間が上って行った。
無電室の扉の前まで来ると、ぐるりと一とまわりあたりを見まわして、しずかに、こつこつと扉を叩いた。
「入れ!」
中から、鼻にかかった声が聞えた。
若い中尉と、赤ら顔の男に代った、二人の要塞員がレシーバーを耳にあてたまま熱心に受信機から流れ出る紙片を見つめていた。機械人間の方を、ちらっとふりかえっただけだった――。
「……主力艦をふくむ……日本艦隊は……東経××度××分……北緯××度×分の洋上を……南に向って……航行中」
一人がつぶやくと、
「大ニュースだ!」
と、もう一人が叫んだ。
「……貴要塞附近を……通過のはず……」
「よし、司令官殿に報告しよう!」
一人が伝声管に走った。
「司令官殿に報告……おお、司令官殿ですか、ただ今○○からの重大ニュースが入りました……」
のぼせ上ったように、上ずった声で、伝声管にしがみついた男が叫んだ。が、その瞬間に、機械人間が、突然右手をふり上げると、受信機の前にいた男の脳天をがんとどやしつけた。あっというひまもなく受信機に前のめりにどさりとうつ伏した。
「……はあ東経×××度××分……北緯×度……ええと……北緯××……」
あわてて忘れてしまったらしく、相手をふりかえろうとした時、機械人間が突進すると見る間に、この男の脇腹の急所に、鋼鉄の腕で、どしんと当て身が入った。
「む!」
と、一と声、短く呻いたまま、この男もどさりと床にくずれ落ちた。
機械人間の中からとび出したのは、意外にも英夫だった。
三階の廊下で、出あいがしらに機械人間の電鈴が鳴りだした時には、もうだめだ! と観念したが、祥子をせきたてて、最初から隠れるつもりだった、機械人間のおいてある部屋に急いでとびこんだ。
電鈴の音で目をさました要塞員たちが、部屋からおきだして来た時には、英夫たちがとっくに隠れてしまったあとだった。
「ちぇっ! 機械人間め、故障をおこしやがって、とんだ人騒がせだ」
ぶつぶついいながら、要塞員たちがひきとって行った。
英夫は、シンガポールの兄に急をしらせるために、第一に無電室の奪取を決意した。部屋の中におかれてあった、機械人間の中味をそっくり取り出すと、二人とも、その中に入って無電室を襲ったのだった。
二人でそろって行くのは怪まれるおそれがあるので、祥子だけは下に待たしてあった。
英夫の計画は大成功だった。見事に二人の男を仆してしまうと、急いで発信機のレシーバーを耳にあて暗号を打って兄を呼び出した。連絡はすぐにとられた。
――万端の手配をおえ、至急救助船をおくる――
謙一中尉からも時を移さずそういう返電があった。
英夫は、元のようにすっぽりと機械人間の中に入ると、急いで無電室を出た。
情勢は切迫している――中途から聞えなくなった伝声管に、司令官は疑問を持つに違いない。それにジョンソン大尉の捜索に出た一行が、あの島におき去りにされた大尉から一部始終を聞けば、英夫たちがこの要塞に入りこんでいることも自然にわかって来るのだ。
とにかく、海底要塞から、一刻も早く逃げ出すことが、要塞の位置を見定める上からも必要だった。
四階へ降りると、祥子の入った機械人間が待っていた。
「大急ぎでここを逃出そう」
英夫がいった。
「その前に、要塞を爆破してしまったらどうでしょう、あたし司令官室で大へんなことを聞いて来たわ……」
司令官へ紅茶を運んで行ったのは、祥子の入った機械人間だった。
「出来ればそうしたいんだけど、方法がないからね」
「とてもいい方法があるわ」
「えっ!」
「あたし火薬庫を見つけたの、あれを爆破すれば爆雷も砲弾も一ぺんに爆発してしまうわ」
祥子は要塞員の立話しから火薬庫のある場所をつきとめた。爆雷のおいてあった部屋のすぐ隣りにあって、火薬をエレベーターで、二階の製造工場へ運んで行くらしかった。
「じゃ、あの爆雷を爆発させれば、火薬庫も爆発するわけだね」
「だけど火をつけるのがむずかしいわ」
「材料を見つけてあるから大丈夫だ」
機械人間のおいてある部屋に、カンテラに使う石油がおいてあった。火縄はありあわせのロープでたくさんだ。マッチをどこかで手に入れればいいのだ。
二人は、はなればなれに三階へ降りて、石油をしませたロープを用意した。
マッチは食堂に隣った喫煙室で手に入れた。
食堂の前を通ると、料理室から肉の焼けるにおいと、パンの焦げるにおいのまじったうまそうなにおいが漂っていた。そのにおいをかぐと、英夫は急におなかのぺこぺこにすいているのを思い出した。
食堂をのぞいて見ると、花を飾った白いテーブルの上に菓子、果物を山もりにした器がおかれ、黒人のボーイが、フォークとナイフをがちゃがちゃさせながら、食卓の用意をしているところだった。
「機械人間の旦那かね、お早う!」
英夫が入って行くと、黒人がげらげら笑った。
「何の用事だね……司令官閣下、熱い紅茶が大好きで、お代りくれとおっしゃった、へへへへ」
黒人は鼻歌をうたいながらいやしく笑った。
英夫は目の前の菓子と果物をつかみとった。黒人は、機械人間が菓子を食うのを見ると、
「ひえっ!」
と、一と声悲鳴をあげて、そのまま目をまわして床にぶっ倒れた。
二人は、爆雷室に向って急いだ。
爆破成功!
螺旋形の階段の手すりを、滑り台のように滑って、二人は一気に潜水艦の格納庫に降り立った。
首尾よく爆雷にとりつけた火縄に点火をおわったのだ。
だん! と近くでピストルが鳴った。つづいて、だん、だん……とつづけさまに追撃して来た。――Y一〇三号ボートにとび乗って、前進ボタンを押した瞬間だった。
爆雷室のある四階から一階まで、そしてボートにとび乗るまで、ほんの二、三分間の出来事だった。
三階と、二階の製作工場に立ち働いていた者も、途中の階段ですれ違った者も、二人の見なれない、少年と少女に気がついたらしかったが、何のことやらわからずに、ぼんやり見送っていた。階段ですれ違った年輩の要塞員などは、こんなところにいるはずもない要塞員の誰かの家族とでも勘違したらしく、にこにこ笑いながら見送っていたくらいだった。
完全に敵の虚をついたのだ。痛快な戦術だった。
二人がボートにとび乗ろうとしたのを見て、はじめてそれと気づいたらしく、要塞員の一人がいきなりピストルを浴せた。
その時にはボートがするすると海中に姿をかくしはじめていた。
司令官が無電室からの報告と、怪しい少年、少女について報告をうけとったのは、それから二、三分経ってからのことだった。
ジョンソン大尉の捜索の結果は聞くまでもなかった。
時を移さず追跡が命ぜられた。二隻のYボートが英夫たちを追跡した。
英夫は、前進ボタンを押すまでYボートが前進、後進とも磁力でするのだとばかり思っていたが、前進は内部の電気装置で自力でするらしく、ジーンと唸る電動装置がついているのに気がついた。
これはボートが故障をおこしたような場合でも、あの強力な格納庫の磁力で、引き寄せられ、敵にボートの秘密を知られずにすむ、周到な用意がされているのだ。
反対に、自力発電装置がついているお蔭で、英夫たちは要塞の磁力に妨げられないで自由に針路を変えられるわけだった。
「電動装置のお蔭で助かったけど、うっかり海面へ出ると見つかってしまうかも知れないな」
「そうよ、きっと追跡して来るわ」
「もうそろそろ爆発しそうなもんだね、海底要塞が爆発してしまいさえすれば、いくら追跡して来られたって、ちっともこわくないさ、根拠地がなくなれば、Yボートだって、お母さんのいない赤ちゃんのようなもんだからね……そろそろ上昇……」
英夫の言葉がおわらないうちに、
「あっ! あの音――」
祥子が叫ぶと同時に、ボートが爆風をくった板きれのように、すさまじい力で叩きつけられ、ぐるぐると渦巻のように廻転したかと思うと、もんどり打って海面にとび上った。
轟然――海底要塞は大爆発したのだ!
しばらく、二人はくらくらと目まいがして何も見えなかった。
やがて――気がついて見ると、ボートは波のまにまに揺られ、さんさんとあかるい日光が扉の小窓からさしこんでいた。
瑠璃色の南国の青空が色ガラスのように眼に映った。
「何の音でしょう」
祥子が聞き耳をたてた。
轟々と、津浪のような海鳴りが、ボートの船体までもふるわせている。
「海底要塞の爆発で、大きな渦巻がおこったんだね」
そういえば、ボートもはげしい潮流におし流されているように、かなり早い速度で海面を引きずられていた。
「趙もこんどだけは助からなかったでしょうね」
祥子がいった。
「いくら悪運が強くたって、あの爆発じゃあ助からないさ」
いままで気がつかなかったが、ボートには展望鏡がついていた。英夫は、さっそく、ハンドルをまわしてのぞいて見た。
まっさおな空と、紺碧の海――轟々《ごうごう》と未だに振動が伝わって来る大事件がおこっていようとは思われないような海が、はるばると見渡される。
「何か見えて?」
「何も見えない……」
ぐるぐるとハンドルをまわした。すると、
「あっ、見える見える、大型のYボートが一隻二キロほど先に浮んでいるぞ、おや、その先にも一隻いる」
やはり、電動装置に故障をおこしたらしく、おなじところにじっとしていた。
祥子が代ってのぞいた。とたんに、ぱっと白い煙が船腹にあらわれ、だーん、と、鋭いこもった音が海面にこだました。
「あっ! 撃って来たわ」
それと同時に、十メートルほど先きに白い水柱がさっと立上った。つづいて二弾がその近くに水煙をあげ、三弾、四弾が落ちて来た。そのたびに二人は手に汗を握ったが、武装をしていないこっちからは応戦することも出来なかった。
故障をおこした発電装置を修繕して逃げのびる工夫をするよりほかに方法はなかった。英夫は懸命に故障を調べた。
「おや、軍艦が来たわ、ボートが軍艦を攻撃しだした!」
英夫がのぞいて見た。水平線から忽然と姿をあらわした一隻の軍艦が、Yボートに接近している。
やがて一発、つづいて二発、Yボートとはちがった砲声が轟いたかと思うと、二隻のボートは二つの黒煙を海面に残して掻き消したように姿を消してしまった。
「日本の軍艦だ! 水雷艇だ!」
「万歳!」
「万歳!」
二人は思わずとび上って叫んだ。
やがて、軍艦旗を翻した水雷艇が、白波を蹴立てて近づいて来た。
英夫と祥子は扉を開いて、夢中になって手を振っていた。
獅子島へ
「やあ、あなたが英夫君、こちらが祥子さんですね」
艇長が、潮風にやけた赤銅色の頬をほころばした。
二人は水雷艇の艇長室にいた。
「あなたがたのために、日本の軍艦も、船団の陸軍の兵隊さんたちも無事にすみましたよ、ありがとう、僕からもお礼をいいます」
「じゃあ無電が間に合ったんですね」
英夫は思わずせきこんできいた。
「そうです。河井中尉――君の兄さんからの無電で、艦隊はとりあえず針路を変えました。この艇と、駆逐艦が、海上捜索に出たんです。むろん君たちの捜査も目的の一つでしたが、おそらくその海底要塞なるものから脱出することが出来ないだろうと思っていましたよ、まず無事でいて何よりでした、しかし、どうして海底要塞なんかへ入りこめたんです?」
英夫と祥子は、無人島から海底要塞に入りこむまでのあらましを話した。
「なるほど、そんなことからでしたか、このへんに敵の秘密基地のあることを知っていましたが、海底要塞を持っていようとは思いませんでしたよ」
「まだ完全に出来上っていなかったらしいんですが、とても大規模なものです……」
英夫は、祥子と一緒にたしかめた海底要塞の模様を出来るだけくわしく説明した。
「水中電気砲、吸着爆雷、そんなものもあるんですね、いや、考えられないこともないですね、君たちの分捕って来たボートも、あとで研究してみたら大へん参考になりそうだ……ところで、その海底要塞の位置が、どのへんになるか、君たちにわかっていますか、実は飛行機の基地らしい島はわかりましたから、きょう中にも徹底的に叩いてしまうはずになっています」
それは英夫にもはじめてのニュースだった。
「艇長、その基地というのは、あの要塞に通じているんです、要塞の飛行機をそこから飛び出させるんですよ、きっと」
「じゃあ、それで、海底要塞はすっかりこわされてしまうわけですね」
祥子がいった。艇長にはまだのみこめないらしく、
「いや、これから、君たちの力をかりて徹底的に粉砕してしまうつもりですよ」
「もう、そんな必要がありませんよ、艇長」
「というと……」
「僕たちが、爆雷に火をつけて来たんで、要塞は多分こなごなになっているはずです」
「ほほう、それは大手柄だ!」
艇長はひどく満足そうに眸をかがやかせた。
「さっき僕たちはその爆音をきいたんです、あの僕たちのYボートも僕たちを追跡して来たYボートも故障をおこしたのはそのためなんです」
「ああそれで、潮流が変化していたわけもわかった! これは大手柄だ! さっそく艦隊の司令官殿に報告しましょう」
二人は、海底要塞の爆雷に点火してから逃げるまでのことも話した。
黒人ボーイの気絶した話や、階段の途中であった要塞員の話をすると、艇長は、
「はっはっは……」
と、腹をかかえて笑った。
「今夜は一つ君たちのための祝賀会をやろう、司令官殿が会われるとおっしゃるかも知れないが、この艇でも心ばかりのお祝いをしなくちゃあいかん!」
「艇長、あのYボートに僕たちが乗ってることがどうしておわかりになったんです。僕たちのボートは砲撃されなかったようですが」
「それはね、実は君たちの乗っておることは夢にも知らなかったんだ、失敬だが、海底要塞を脱出することはまず不可能だと思ったから、僕もほとんどあきらめて、河井中尉をどういって慰めてやるか、そのことばかり考えておった、だから君たちのボートもこっちを攻撃して来たらやっつけるつもりだった、生意気にあの二隻はこっちを攻撃して来たから一弾ずつお見舞いして、片付けてしまったんだがね」
「じゃあ、僕たちの方も危いところだったんですね」
「いや、抵抗しない相手を攻撃するのは日本の武士道が許さんし、どんな強敵でも刃向うものは徹底的にやっつけるのが、日本の海軍の伝統です」
英夫と祥子は、この艇長の紹介で士官や、水兵さんとも親しくなった。
司令官のはからいで、水雷艇が二人を、シンガポールまで送りとどけてくれることになった。せっかく親しくなったひとびとに別れるのがつらかったので、旗艦に乗って行くようにすすめてくれた司令官に、英夫たちから申し出たのだ。
黒い兄
セレター軍港には、日本の真夏のような陽が照っていた。
青々としているはずのゴムの林が、赤黒くすすけて見えた。戦いのあとで、日本軍の爆弾や砲弾を浴びた石油タンクが何日も燃えつづけ、煤煙を吸ったスコールに打たれて、煤けてしまったのだ。
赤錆びてゆがんだ石油タンクや、打ちこわされた軍事施設が、ところどころに残骸をさらしていた。島のどこかでは、まだ燃えつづけているタンクもあるらしく、黒い煙が、空高く濛々《もうもう》と立上っていた。
「ほら、あれが世界一を誇った浮ドックです」
艇長が指さしたあたりに、すっかり海中に打ち沈められた浮ドックらしいものが見えた。
「あら、海水浴をしているわ」
祥子が目を見はったあたりに、破れた鉄条網をくぐって、すっ裸で海にとびこんでいるおびただしいひとびとの群がいた。
「捕虜の連中です、のんびりしているでしょう、はっはっは」
艇長が笑った。
軍港の桟橋に、三人のひとびとが英夫たちを待ちうけていた。
一人は白い背広を着た平林大尉、一人は軍服に兜帽をかぶった鳥尾軍医、もう一人は白いターバンを頭に巻いた、見知らないインド人だった。英夫の兄は出迎えに来ていないらしかった。
三人は、英夫たちや桟橋まで見送ってくれた艇長に手を振って歓迎してくれた。
インド人は艇長の方につかつかと歩みよると、丁寧にあいさつをのべ、二人で何か熱心に話しだした。
「いよう、えらいことをやったなあ!」
平林大尉がどしんと英夫の肩に両手をのせた。
「やあ、英夫君おめでとう、僕もとうとうこっちへやって来たよ、ついこないだは東京の大雪の中で会ったっけなあ、あっはっはっは」
鳥尾大尉が、見ちがえるほど陽にやけている。
「これが祥子さんかい、あんなどえらいことをやるような娘さんには見えないじゃないか……君たちに先をこされてしまって、すっかりがっかりしてしまったよ、はっはっは」
「兄さんは来なかったんですか?」
「なに、謙一君か、はっはっは」
「ふっふっふ」
二人の大尉は顔を見合わして笑った。
「英夫、こっちだよ、兄さんの顔を忘れてしまったのか」
ふりかえると、インド人がまっ白い歯を見せて笑っていた。
「あっ! 兄さん」
謙一は、すっかりインド人になりきったような扮装をしていた。
「やあ祥子さん、しばらくでしたね、くわしい話はあとにして僕の部屋へ行こうじゃないか、平林も鳥尾も一緒に来んか」
「行こう」
艇長にそこで別れると、
「ビルマの方に行っておったもんだから、平林や鳥尾にもきょうはじめて会ったくらいだよ……ところで祥子さんはマレーの叔父さんの居所を知ってますか?」
謙一が英夫と祥子にいった。
「バトパハにいましたけど、いまはどこにいるんでしょう。探してみるつもりですわ」
「あすこにはいませんよ、あのへんは戦場だったんですから日本人なんか一人だっていられるわけがないんです」
「えっ! じゃあ、訪ねて行ってもむだなんですの」
「いや、いることはいますが、あすこにはいません、だが祥子さんが訪ねて行かなくっても叔父さんがこっちへやって来ますから安心なさい」
「まあ、ほんとうですの!」
祥子の眼に涙が光った。
五人は、謙一が運転した自動車で、市街の宿に向った。
「そら、すぐそこに高い丘が見えるだろう、あれが肉弾戦で敵から奪った武威山、以前のブキテマの高地だよ、『錫の山』という意味だそうだがね」
平林大尉が、ゴム林の生茂った丘を指さした。
「シンガポールって、思ったより広いところですね」
英夫がいうと、
「ここはもうシンガポールじゃない、昭南島だ」
鳥尾大尉が聞きとがめて訂正した。英夫たちの知らない間にあたらしい日本の名がついていたのだ。
今は昭南島に生れかわったシンガポールの街には、日の丸の旗がビルデングの上に、街の店先に、目にしみるほどあざやかにはためいていた。
サロンを腰に着けたマレー人、ターバンを頭に巻いたインド人、支那服を着た支那人、袖の短いシャツにパンツをはいた西洋人の男や女、海老茶か黒の、つばのないソンコ帽をかぶったマレー人の男の子、水色のスカートに白地のうすいカパヤ(ブラウス)を着た女の子が、今は何事もなかったように街を歩いている。皇軍の兵隊さんが敬礼をかわしながら行きちがって行く。
米英人の足もとにふみにじられていた、ながい年月の悪夢からさめ、日本を盟主として東洋人の東洋を築こうとしている、新らしい昭南島の姿が、生々と感じられるようだった。
「これが日本人の国民学校だったんだよ」
校庭に椰子の樹の茂った白い三階建の建物を謙一が指さした。風通しのよさそうなヴェランダのついた小ざっぱりした校舎だった。
「宿へ行ったらさっそく、すばらしいものを御馳走してやろうと思うんだが、何だかわかるかい」
「ライスカレーでしょう、マレーの名物の」
英夫がいった。
「いやあ、そんな安っぽいもんじゃない、イギリスの女王が、それをとり寄せるために、わざわざ軍艦をよこしたというくらいに豪奢なもんだよ、ふっふっふ」
謙一が、ひとりでにやにやしていた。
――インド人そっくりだなあ!
英夫も祥子も今更のように謙一の黒い横顔をつくづく見直した。
ドリアンの夜
海岸の波止場に近いビルデングの一室――、この戦争の前から、日本のある会社が持っていた建物だった。
窓から吹きこんで来る南の風は、昼の暑さにくらべて、初夏の風のようにさわやかだ。
食卓を中にして、メロンのような電灯の光に浮き出しているのは、若々しい日本の青年にかえった謙一と、平林、鳥尾の両大尉、それに英夫と祥子の五人だった。
戦争のさなかに、しかも、生々《なまなま》しい新戦場の一室で、こんな楽しい夜を過せようとは英夫も祥子も、夢にも思っていなかった。
食卓の上には、珍らしい果物――ドリアンと、マンゴースチンがおかれてあった。ドリアンは栗のいがのようにとげのある大きな果物、マンゴースチンは、かたい褐色の殻に包まれた柿の実のような形の果物だった。
謙一はドリアンの一つを、パリッとナイフで割って、
「食べてごらん、この味がわからないと一人前の東亜っ児じゃないぜ」
英夫たちや二人の友人にもすすめた。
「なるほど、しかし何ともいえん臭い、いやな匂いがするな」
鳥尾大尉にいわれて見ると、くるみのように入った中の実から、いいようもない、鼻をつくいやな匂いがした。
祥子が顔をしかめていると、
「この果物はね、ドリアンという少年の生れ代りだという伝説があるんですよ、祥子さん」
と、謙一がいった。
「ドリアンという、美貌の女神に呪われて、醜く生れて来た少女が、どうかして人に可愛がられようと思って、果物に生れ代ったというんです、だから形も匂いもちょっと気持が悪いようだけど、まあだまされたと思って食べてごらんなさい」
英夫も、祥子も鼻をつまみながら、やっと半分ほど食べた。
匂いのわりには、おいしかった。――生れてはじめてバナナを食べた時のように、一ど食べたら忘れることの出来ない味だ。
ビクトリア女王が、わざわざ軍艦で取寄せようとしたというマンゴースチンも乳色の甘い味のする果物だった。
「どうも、この匂いが鼻について閉口だよ」
さすがの平林大尉も、ドリアンは半分ほど食べて投げ出してしまった。
果物の話や、英夫たちの冒険の話、平林大尉のあれからの活躍、謙一のビルマで果して来た仕事の話――など、話は、それからそれへとつきなかった。
英夫と祥子の九竜丸からの知らせで、平林大尉はすぐ香山飯店の一味を捕えに行った。どうして勘づいたのか、祥子の行った例の地下室は空っぽだったが、一味がジャンクで逃げたのをつきとめて手配をしている中に、わが海軍の沿岸警備艇に引っ捕えられた。
だんだん調べてみると、海底要塞に関係した秘密書類や、飛行機の秘密基地と連絡をとるための暗号なども発見された。
「それよりももっとけんのんだったのは、祥子さんが会った上海の女だ、あの女は日本内地に潜入していたスパイと連絡をとって、こちらの情報をかぎ出したり、東京や大阪を爆撃する敵機を誘導する機会をねらっていたんだよ」
「まあ、上海の姐御とかいうひと、そんなおそろしいひとだったんですの!」
祥子は今更のように身ぶるいした。
「それから、君たちが流れついた無人島、あすこも要塞化して海底要塞と連絡をとるつもりだったのだ」
「じゃあ、ジョンソン大尉とかが夜中に島へやって来たのは、実地検分のためだったんですね」
「そうだ、誰知るまいと思って、のこのこ出かけたところを、君たちに出しぬかれてしまったんだよ、いや出しぬかれたのは、そいつばかりでなくてこの僕だってそうだがね、はっはっは」
「僕たちは偶然うまくぶっつかったんですよ」
「謙遜せんでもいいよ、九竜丸事件のお蔭で、僕にも確信が出来たんだから、それで根こそぎやっつけることが出来たのさ……ところで、英夫君、僕もいよいよ背広とお別れだ、明日から軍服を着て、第一線に立てることになったんだ、軍人の本分にかえれるぞ!」
大尉はうれしそうに、拳骨でごつんと食卓をなぐった。
「こいつと僕とが、君の兄さんと入れ代りにビルマの戦線へ行くんだよ」
鳥尾大尉がいった。
「じゃあ、今晩は壮行会ですね」
「壮行会は壮行会だが、君たちのための壮行会をやっとるつもりなんだぜ、そうだろう鳥尾?」
「うむ、お互いにもう会えんかも知れんからな」
「河井、成功を祈るぞ!」
「ありがとう、君たちの武運長久を祈ろう」
謙一は立上って、二人の大尉と乾杯した。
「そうだ、忘れていたが、鳥尾はこんど熱帯病についての学位論文が通って医学博士になったよ」
「鳥尾のおじさん、おめでとう!」
英夫がいうと、
「ひやかしちゃあいかん、戦いはこれからだ!」
三人の軍人は、コップのサイダーをぐっと一と息にのみほして、お互いの武運長久を祈った。
王様の邸で
「どこへ行くんですか、兄さん?」
翌朝になっても、謙一は、ボルネオの話など、一向にしそうにもなく、朝飯がすむと二人をせきたてて自動車に乗せ、自分でハンドルを握った。
英夫の問いには答えようともせず、
「今にわかるさ」
と、にやにやしている。
涼しそうな木蔭をつくった並木や、水の出ていない噴水のある海岸通をぬけて、アラビア風のお寺のような、円い屋根の建物のある街に入った
「ここは、マレー人ばかりの街だよ、アラブロードといっていたところだ」
門構えの、広い庭のある邸の前で、ギ、ギ、……と自動車を止めると、ドアを開いて、
「シンガポールの王様に会わしてやろう、降りたまえ」
「えっ!」
「まあ!」
英夫と、祥子は王様と聞いて、びっくりした。
謙一の姿を見ると、庭先に立っていたマレー人が、にこにこしながら、駈け寄って来た。
「王様はいるかね?」
「はい、お待ちしていましたよ」
「客人は?」
「王様と庭を散歩しておいでです」
「子供さんたちも一緒だね?」
「はい、左様で……」
マレー語の、そんな会話の後で、
「ちょうどいい」
と、英夫たちをふりかえり、
「取次いでくれたまえ」
マレー人にいった。
「取次ぎなんか、いりませんよ、河井さん、お早う!」
小肥りの、血色のいい、年のころ五十近いマレー人がにこにこしながら大またに歩み寄って来た。サロンにシャツを着ただけの姿だった。
「サルタンだよ、昔のシンガポールの王様だ」
英夫と、祥子は、普通の人とちっとも変らない王様に二どびっくりした。
「やあ、お珍らしい、これが弟さん、そちらは園部さんの姪御さんでしょう。ようこそ、さあこちらへいらっしゃい」
祥子と英夫は、どうしたわけか、何もかも知りつくしているような、打ち解けた王様の態度を不審に思っている暇もなく、王様は、ずんずん三人を奥庭に案内して行った。
木立に囲まれたベンチのところまで来ると、陽にやけた、痩せた小柄の日本人と、二人のソンコ帽をかぶった小さい男の子が、熱心にこっちを見ながら立っていた。
「いらっしゃい!」
「ようこそ!」
二人の子供たちが駈け寄って来た。
「この子たちは、日本語がすこし出来るんですよ」
王様がいった。
じっと祥子の顔を見つめたまま立っている日本人に、
「園部さん、祥子さんです、どうです、大きくなったでしょう……、祥子さん、叔父さんの顔を忘れたんですか」
と、謙一がいった。
「あっ! 叔父さん――」
祥子は叔父の側に駈け寄った。叔父さんがマレーから東京へ来た時には、祥子はまだ二年生だった。それでも、叔父さんの顔は、はっきり覚えている。
父親とは兄弟仲がよくなかったが、祥子にはやさしい叔父さんだった。
「おお、祥子」
叔父さんは、祥子の頭をなでながら、ポトリと、涙を落した。
「こっちへ来る前に、叔父さんにちょっと知らしてくれれば、苦労はかけなかったのになあ……」
「園部さん、祥子さんが苦労して来たお蔭で、うちの英夫と、どえらいことをやってのけたんですよ、はっはっは」
「そうでしたなあ、はっはっは、バトパハへ知らしてよこしても、結局わしは方々に隠れていたんで行方知れずということになっていたんでしょうからね、いや、わしもいつの間にか愚痴をいうようになってしまいましたわい、はっはっは」
「ねえ、英夫さん、祥子さん、わたしの家は、二百年も前からこの島の王だったんですよ、わたしで六代目です、ところが、今から百年ほど前に、イギリス人がこの島へやって来て、わずかな金で、わたしの祖先から領地を取り上げてしまった、うまくだまされてしまったんです。いや、日本のように、わたしたちを護って下さる神の国のお役に立つならただでもこの島は差上げますが、やつらと来ては、わたしらはじめ同胞を踏んだり蹴ったりです、だから、わたしは、日本軍の来るのをながい間待っていました。英夫さんの兄さんも、祥子さんの叔父さんも、ようくわたしの気持をわかっていてくれます。この二人の子供もじき東京へ留学にやります、……エスマル、エブラヒム、東京へ行ったら英夫さんや、祥子さんと仲よくしていただくんだね」
「そうですよ、お父様」
二人の子供たちが一緒に叫んだ。
「にっぽん、ばんざあい!」
王様は戦争中、日本軍の爆撃のおそろしかったことを話して聞かせた。
「わたしとこの庭には、一ところ、八百人以上も、マレー人が避難していましたが、爆弾はイギリス兵のいるところにばかり落ちて、こちらへは一発も来ないんです。日本軍の強いこと、偉大なこと、マレー人は泣いて喜びました」
王様は皆を食事に誘った。王様の上手な話に引きこまれている中に、謙一と祥子の叔父さんは、何かしきりに話しこんでいるらしかった。
王様と二人の少年に別れてかえる時には、祥子の叔父さんも一緒の自動車に乗っていた。
同志のひとびと
「英夫、あすいよいよボルネオへ出発だ」
その前の日、祥子の叔父さんと、忙がしそうに方々をとびまわっていた謙一が、洗面所で、だしぬけにそういった時には、英夫は思わず、
「えっ!」
と、兄の横顔を見まもった。
「おどろくことはないさ、お前をここへよんだのは、ボルネオへ行くためじゃないか」
謙一は、悠々《ゆうゆう》とのびた髭をあたっていた。
「ボルネオへ行ってどういうことをするんですか、兄さん、上川将軍は兄さんからくわしい話をきくようにって、おっしゃってましたよ」
「そうか、じゃあ一ととおり話しておこう、飛行機はあす、未明に出発するが、向うへ行ってからの手筈も大体ついているから安心だ」
「飛行機で行くんですか?」
「――ジェルマシンの近くの、ウリンというところまで飛行機に乗っけてもらえる、それから先は船で行く、だが、途中いつ敵に襲撃されるかもわからんから、そのつもりでいるんだな」
「そんなことなら試験ずみですよ、ボルネオへ行くのは兄さんと二人っきりですか?」
「もちろん、失敗すれば兄さんは生きてかえれんのだ、しかし、確信はある、世界をあっとおどろかしてやるんだ」
「僕たち、たった二人の兄弟ですから、兄さんと一緒ならどんなことがあったっておどろきませんよ」
「うむ、そうだ、そのつもりでお前も頑張れ!」
パンとコーヒーの朝飯がすむと、祥子は、叔父さんと王様へお別れの挨拶に出かけて行った。祥子の叔父さんの、ゴム園のある、バトパハも、今は安全な土地になり、叔父さんは近いうちに祥子を連れて、バトパハへ、出発することになっていた。
「こいつは、祥子さんにも関係のあることなんだが、祥子さんには叔父さんが話されるはずだから……」
と、謙一は、話しだした。
「はじめから話さんと、お前にものみこめないかも知れんから、退屈だろうが我慢して聞くんだな」
退屈どころか、英夫は、はじめから、その話を熱望しているのだ!
謙一の話は、小説を読むような、珍らしい、興味のあるものだった――。
日本人が、南の荒海をこえて、活溌に海外へ渡航しだしたのは、大体鎌倉時代の末、今から六百年ほど前からのことだ。それも、不法な元軍が、日本を襲った時、上は亀山天皇をはじめ奉り、諸国の武士はもちろん、九州や壱岐、対馬の漁民まで、日本国中が一致団結して、元軍十万を、博多の海に皆殺しにしてからこの方、日本人は海をおそれなくなった。
もちろん、それよりも前に、南支那海や、太平洋を渡って遠くの国々へ行ったものもあるに違いない。
げんに、今から千六、七十年ほど前に、平城天皇の第三の皇子、高岳親王――仏門に入られてからは、真如法親王とよばれた方が、天竺(インド)に渡って仏教を研究されるために唐(支那)の広州の港から、船で天竺に向われ、途中、このシンガポールの近くで崩ぜられているのだ。親王の崩ぜられた場所は、シンガポール――今は昭南島の北東、ジョホール河の岸辺であったといわれている。マレー半島から、昭南島に渡る突端のあたりである。
それから五六百年ほどして、八幡船があらわれた。
天竜寺船や御朱印船のような貿易船も南の海を渡って、呂宋(フィリッピン)、渤泥(ボルネオ)、安南(仏印)、暹羅(泰)の国々や島々と、日本との間を往き来した。
豊臣秀吉は、朝鮮征伐をおわったら、明(支那)や呂宋(フィリッピン)、天竺(インド)を攻め取って、帝都を支那にうつし、加藤清正を天竺(インド)の太守にするつもりだった。
秀吉は、三百五十年も前に、大東亜の日本を心にえがいていたのだ。
ちょうどそのころ、すぐれた同志を引き連れて、偶然、渤泥(ボルネオ)に渡ったひとびとがある。
そのひとびとは、はじめ、どこへ渡ろうとしていたか、たしかではないが、途中で、いくども暴風に遇い、潮や風におし流され渤泥(ボルネオ)にたどりついたのだった。――
日本の内地と、朝鮮をあわしたほどもある大きな島、野蛮人と、ジャングルと、猛獣だけの渤泥(ボルネオ)へ!
ひとびとはそこで、獰猛な野蛮人と、火の出るようなはげしい戦いをした。猛獣や、毒蛇や、ジャングルの危険をおかして、奥地を探険し、思いがけない大発見をした。
いくらとってもつきない黄金――白銀――宝石――燃える石――燃える水――珍獣――珍果……
一行は狂喜して、出来るだけ多く、それらのものをあつめて、日本へ送ろうとした。危険な猛獣や、野蛮人から護るために、誰にも気づかれないような場所にそっとかくしてから使いの者を日本に送ることにした。――たくさんの人と、船をよこしてもらうためである。
使いの者には、一人の武士が選ばれ、皆で相談してきめた一通の書面を持って行くことにした。書面の文字は、途中で万一、奪われても差支えのないように、わざとわかりにくいものにしてあった。
使いの武士は、ながい年月を費して、ようやく日本へたどりつくことが出来た。が、その人は上陸してから間もなく無残な最期をとげ、書面は行方が知れなくなってしまったのだった。
旦斎の発見
今から三百年ほど前、園部旦斎という学者が、偶然、江戸(東京)で、その書面を手に入れることになった。旦斎は、東北のある藩の儒者――殿様に漢学を教えていた学者だった。
「先生、珍らしいものが手に入りましたが」
ある日、出入りの骨董屋が、旦斎の前に、見なれない細工をしてある、小箱を一つ差出した。
旦斎は、ひさしぶりで、殿様のお供で江戸(東京)へ出て来ていた。江戸へ出て来ると古本や、骨董をあさるのが、旦斎の何よりのたのしみだった。
「キリシタン、バテレンは御免だぞ」
「とんでもない、そんなもんじゃあございません、実は、あっしどもにもわからない品なんで、先生なら、ひょっとして、おわかりだろうと持って上ったわけなんで……」
「ふむ、なるほど、これあ、南蛮ものとも違うようだな……」
旦斎は、いつもの癖で、小箱をとりあげると、すかしてみたり、叩いてみたり、いろいろと調べだした。
表面に、唐草模様を彫り出し、赤や、青や、緑や、黄や、紫の色どりをした長さ三十センチ、幅十五センチほどの細長い小箱で、蓋をとりのけて見ると、赤く塗った箱の中に、レモン色の、羊のなめし革を折りたたんだものが入っていた。
「羊の革を使ってあるから南蛮かと思ったら、この模様が南蛮風でもなし、唐様でもなし天竺風でもないでしょう」
旦斎が、丁寧に、それをひろげるのを見て、骨董屋がいった。
「うむ、なるほど、これは面白い……買取ろう、価はなにほどだ?」
旦斎は、ひどく乗気になって、さっそく、買取ることにした。
羊の革の模様のように見えたのは、「古文」といって、古い時代の漢字だった。旦斎には一目でそれがわかったのだ。
「その園部旦斎という人が、つまり祥子さんの御先祖なんだよ」
謙一がひと息した。
「えっ! じゃあ、祥子さんの家に、その箱があったんですか?」
「うむ、だが、それを話す前に、まだいろいろな話がある……」
謙一はつづけた。
旦斎は、羊の革の文字を、一字一字翻訳してみて、前に話した、渤泥(ボルネオ)に渡ったひとびとのことがわかった。
旦斎は、それで満足せず、自分でじきじきに渤泥を探険するつもりで、その文書が、どうして日本に渡って来たか、どういう経路を通って骨董屋などの手に入ったか、いろいろ研究をつづけた。
旦斎の研究で、次のようなことがわかった――。
まず渤泥(ボルネオ)は、天竺(インド)に近い熱い国であるということである。それは箱に使ってある木が熱帯国だけにしかない鉄木であること、模様や色どりが、南洋風であることからわかった。
それから、一行の中には、相当な学者か偉い坊さんがまじっていたに違いないということだ。何故なら、普通の漁夫や野武士では古文で手紙が書けるはずはなく、どうしても、学者か偉い坊さんでもなければ書けない文面だからである。逆に、日本でも、一流の学者のいる京都か、将軍家のいるところか、大大名の城下か、そんなところを目あてに書かれたものであるということも出来る。――不思議なことには、その書面には、日付も、差出人も宛名も書かれていなかった。
旦斎は、それを、わかりにくい文字を使っているのはなるべく人に知らさないための用心に書いたものであり、差出人の名と宛名のないのはある特別な人が読めば何もかも事情がわかるからだろうと思った。
一行が出発する時に、事情を知っていた者は誰だろう? その人こそ、この書面を読んで満足の微笑を浮べる特別な人なのだ!
旦斎は、その特別な人、と、一行の素性を調べるのに、あらゆる苦心と努力をはらった。けれども、旦斎にわかったのは、日本へ来た使いの武士のことだけで、一行の素性は皆目わからなかった。
日本へ来た使いの武士は、ポルトガルの便船で、ようやく長崎の港についた。ひさしぶりに見る日本、なつかしい祖国の土を踏み、有頂天になっていた。
すると、長崎奉行の役人が来て、いきなり、武士に縄を打ち、引きたてて行った。
「何をする! えい、無礼者!」
武士は、どなった。
「拙者方は、太閤殿下に所用の者だ、人違いいたすな!」
兄の研究
「太閤殿下……ははあ、その方は大阪方だな」
捕手の上役が、ひとりで何かうなずいた。
武士は、ながながしい罪名で、縄をかけられたまま、江戸に送られた。――一つ、海外渡航の禁を犯したること。一つ、ポルトガル船を以て来航したること。一つ、大阪方残党の疑いあること。一つ、キリシタン、バテレン信者の疑いあること。……等々。
武士は、太閤――豊臣秀吉が、伏見の城に薨じ、つづいて秀頼も大阪夏冬の両陣に破れて自害したことを聞くと、さめざめと涙を流して泣き、それ以来、さまざまな拷問や、牢屋の責苦に遇ったが、奉行の取調べにも一言も口を開かなかった。
例の小箱は、長崎ではやくも武士の手から奪いとられ、めぐりめぐって骨董屋の手に渡ったものであろう。――中の文書のうしなわれてなかったのがせめてもの幸いだった。
旦斎は、江戸の牢番や、長崎の奉行所で、以上のことをくわしく調べた。
武士の名は、亘理総右衛門常年といった。それとても本当の名か、かりの名かはわからない。まして、渤泥(ボルネオ)に渡った一行の首領の名などわかろうはずがなかった。しかし、旦斎は、そこで、一つの断定をくだした。
渤泥(ボルネオ)へ渡った一行は、秀吉の生前に、ひそかにその命をうけ、南方諸国の探険に向ったものに相違ない。特別な人――それは秀吉であったのだ!
豊臣家の文書にも、日本の歴史にも、そのことについての記録はないが、もしも旦斎の断定が当っているとすれば、日本歴史の上での大発見である。
「それで、旦斎先生は、実際ボルネオへ行ったんですか?」
英夫がきいた。
「いや……行っていない、というのはだね、旦斎先生は、晩年、家の者からも、世間からもすっかり気ちがいあつかいにされてしまったのだ、へんなものをひねくりまわしたり、暇があればどこへともなく、ふらりと家をとび出して行く、旦斎先生からみれば、すこしでも多く資料をあつめようとしているのだが、他人からみれば気ちがい沙汰としか思われない、お気の毒に、お勤めも不首尾になって、主家を浪人され、ひどく貧乏したらしいね」
「でも、よく、それが残っていましたね」
「うむ、例の小箱と、先生の研究だけは、代々園部家に伝わっていたのだ」
謙一は、トランクの中から、それを取り出して来た。
「これだ」
謙一の話とはちがって、真っ黒に煤けた、色どりなどもはげ落ちた木箱で、羊のなめし革も灰色にかわり、ところどころに虫くいが出来ていた。
そのほかに、もう一冊、これも煤けた、虫くいだらけの和綴の本が箱に入っていた。
「これが先生の残された記録だ、ボルネオ探険の鍵が、この中に書かれてあるのだ」
「えっ! この古本の中に!」
「どうして、この本が兄さんの手に入ったか、それも一と通り話そう……」
謙一がこの古文書を見つけだしたのは、祥子の家が、田舎へ引きあげる時だった。祥子の母――園部夫人が、安い値で、売り払おうとしたのを、その当時少尉に任官したばかりの謙一が譲ってもらったのだ。
「僕、ちっとも知りませんでしたよ」
「そりゃあそうだ、家においてなかったんだから……」
いくら語学の天才でも、古文は読めなかった。で、その方の学者の手許で翻訳してもらった。
すると、前のようなおどろくべき文書であることがわかった。それについてもっと、くわしい事情をきくために、園部夫人に手紙で問いあわしてやると、小箱の中の古文書のほかに旦斎の記録があることがわかった。謙一もそれまでは、知らずにいたのだ。
記録の方は、マレーにいた祥子の叔父さんが持っていた。というのは、園部家の兄弟は二人とも、はやくから南方に目をつけていただけに、この文書の値うちに気がついて、ボルネオ探険を計画したことがあった。
ところが、祥子の父親は、弟を出し抜いて、自分だけ、こっそり、探険に出かけて行った。そして、何の手がかりもなく、空しく失敗におわった。――祥子の父親は、それ以来古文書を信じなくなった。
そんなことから兄弟の仲も悪くなり、お互いに往き来もしなくなったが、マレーの叔父さんだけは、祖先の残した記録をたよりに、いつかはボルネオの探険に出かけるつもりだった。
そこへ謙一が、日本の国のために、ボルネオの秘境の探険の計画をたて、意見を聞きにいって見ると、一も二もなく、大賛成をして、旦斎の記録もそっくり謙一の手に渡し、万事を一任してくれることになったのだ。
謙一は、いそがしい軍務のかたわらにも拘らず、日夜、秘境の研究をつづけていたが、上川将軍の尽力で、いよいよそれを決行することになった――というわけだった。
「大体そういうわけだ、ところで、今の話だけじゃあ、お前も不安に思うだろう……」
「祥子さんのお父さんが、どうして失敗したかということですね……その点がまだわかりません」
「それは、あの島の地形を十分調べてかからなかったためと、まだいろいろあるが、要するに研究が足らなかったのだ」
「じゃあ、兄さんは自信があるんですね」
「もちろんさ、確信がなければ上川閣下にもお話しはせんし、お前もわざわざよびはしない、この地図が兄さんの研究の結論だ」
謙一は一枚の地図を出して来て、英夫に説明した。
「この赤い線で囲んである部分……ここが秘境だ」
そこは、ほとんど、赤道の真下にある山岳地帯で、オランダや、その他の外国人で、まだ探険した者が一人もいない。この部分にかぎって、探険に出かけた者で、無事に帰れた者が一人もいないというのだった。
「やあ、御兄弟で何か重大な御相談ですか?」
祥子と叔父さんだった。
「まあ、この箱、あたし覚えているわ、お仏壇の中にあった箱でしょう、叔父さん?」
祥子は、なつかしそうに小箱を見つめた。
「祥子にも話して聞かせましたがね……」
叔父さんは、白いハンカチで汗を拭きながら、いいにくそうに、
「この子も、ぜひ御一緒に行きたいというのです、わたしの代理に、この子をお願いしたいのですがね」
「そりゃあ、無理ですよ、どんな危険にぶっつかるかわからんのですからね」
謙一が、にべもなくいった。
バリト河
「マングローブって、珍らしい胎生の植物ですってね」
祥子がいった。
船は今、バリト河をさかのぼっていた。バンジェルマシンから二百キロ、マルタプラ河をさかのぼり、紅樹林――マングローブの生い茂るバリト河の上流に入った。
昭南島から、わが陸海の荒鷲が、翼を休めるウリンの飛行場に着いたのは、きのうの正午だった。
祖先と日本のために、兄弟の冒険に加わろうとする祥子の願いは、さすがの謙一もことわりきれずに、おなじ飛行機で、ボルネオに飛んだのだった。
飛行場の将校たちは、謙一中尉のために、さかんな壮行会を催してくれた。その上、何か重大な事件がおこった場合には、無電で知らしてくれれば差支えのないかぎり、飛行機を出動させてもいいという親切な言葉を、隊長がはなむけしてくれた。
というのは、奥地にはまだ、蘭印軍の敗残兵が、かくれている形跡があるからだった。
「気をつけたまえ、君たちの大事業の成功を心から祈っているぞ!」
隊長はわざわざ自動車のそばまで送って来られて手をふりながら叫んだ。
だが、バンジェルマシンについて見ると、街には、到るところ日章旗が掲げられ、英夫たちがある街を通りかかると、
「にっぽん、ばんざあい!」
「にっぽん、ばんざあい!」
と、パンツに半袖のシャツを着た、マレー人の子供たちや大人が笑顔を寄せて来た。
かつては、オランダの軍隊が駐在していたバンジェルマシンがそうだった。
英夫たちの乗っている小蒸汽船も、乗組員はマレー人ばかりだったが、ついこの間まではオランダの汽船会社のものだった。
船は、上るにつれて、赤道に近づいて行く。太陽は、船の甲板を焼き、とろとろと渦巻き流れている河の水を焼いて、はげしく照りかえし、英夫や、祥子や、謙一を、フライパンの上で煎りあげているように思われた。
「お猿さんが、たくさんいるように聞いていたけど、案外いないようだわ」
「鰐もさっき草むらの中で見たっきり、あんまりお目にかからないな」
「今にいやというほどたくさん出くわすから、あまり心配せんでもいいよ、はっはっは」
謙一が笑った。
ゆらり、ゆらりと、紅樹林の葉が、いつの間にか出て来た風にそよぎはじめた。
熱いランプのほや のような青空に、一団の雲が浮び出し、見る見る、暗幕のようにあたりを暗くした。遠く、どこかで、雷の音がしている。
やがて、ぼつりぼつりと大粒の雨あしが河面を掻き立て、紅樹林をもみさわがしたかと思うと、はげしいしわぶきと一緒に大雨がやって来た。
「スコールだ、はやく中へ入らんと、河へ放り出されるぞ!」
謙一が叫んだ。
鉄橋を渡る列車のような轟音を立てて、スコールがやって来た!
それも、しばらくの間で、空はまた、拭ったように晴れ上り、焼くような暑さにかえった。
「おや?」
対岸を見つめていた、英夫が叫んだ。
一台の黒塗りの自動車が、河岸の道を、弾丸のような速力で、上流に走っている。
この辺の両岸は、茫々《ぼうぼう》たる平原で、ところどころに水田や、バナナや椰子の畑、ゴムの林があり、ダイヤ族の住む小さな部落が見えた。
自動車は、その中を縫うように、がむしゃらな速力で走っているのだ。
部落の子供たちが、おどろいて、二十日鼠のように、ちょろちょろと、駈けて来て、見送っているのが、手にとるように見える。
「何でしょう!」
祥子も気がついて、燕のように消えて行く自動車の後姿を見送った。
「日本軍の自動車でしょうかね、兄さん?」
「標識のない自動車だ、どうもすこしおかしいな」
望遠鏡をのぞいていた謙一がいった。
ダイヤ族の酋長
五日目の正午ごろ、小蒸汽船は、ダイヤ族の住んでいる小さな村の桟橋から引きかえして行った。
ここから河幅が急に狭くなり、流れが早くなっていた。
英夫たちの食糧や、旅行道具を運びおわると、マレー人の船員は、心から心配そうに、
「ダイヤ族も今はおとなしくなりましたが、これから山地へ入ると、まだまだ首狩りをしている人喰人種がいるようです。お帰りには、ぜひ私たちがお迎えに来ますから、どうか失望させないで下さい」
「ありがとう、帰りにはまた頼むぞ」
謙一がいった。
桟橋には、焼けつくような陽に背中をさらした、ダイヤ族の子供や大人たちが、集っていて、英夫たちや荷物の方をじろじろと見ながらひそひそ囁きあっていた。
英夫たちが、小蒸汽の上で手を振っているマレー人たちを見送っていると、その中の痩せた背の高い男が一人、つかつかと近づいて来て、
「旦那がたは、日本人でしょう」
と、黒い歯をむき出して愛想よく笑った。
「お前は、この村の酋長か?」
謙一がいうと、
「そうです……私たちは、日本の人たちの来るのを待っていました。私たちは、ながい間オランダの白人にだまされて来ましたが、こんどの戦争で、日本の神の兵隊が、空から白い馬に乗って、私たちを救いに来て下さったのを知って、この通り、みんなが大喜びをしています、ぜひ私の家へおいで下さい」
「いや、僕たちは、すぐここから出発するものだ」
「どこへ行かれてもかまいません、私の家へ一ど来て下されば満足です」
酋長はもう、先に立って歩きだした。
祥子は、酋長があまり愛想がよすぎるので、さっきから気味悪がっていた。
「さっきから、あの子たち、赤いつばばかり吐いてるわ、子供でも人を食べるんじゃないかしら」
英夫にそっと耳打ちした。
「祥子さん、知らないんだね、あれは檳榔子の実を噛んでいるからだよ、ほら、笑うとみんな真っ黒い歯をしているのは、檳榔子の実で染まったんだよ」
「まあ、そう! ちっとも知らなかったわ」
部落には、ところどころに椰子やバナナの樹が生い茂っていて、涼しそうな樹蔭に立膝に並んで、食事をしている一家もあった。
「あら! 御飯はやはりお米ね」
祥子は、大発見でもしたように目を円くした。
大きな、底の浅い鍋の御飯を、椰子の実のお椀にとりわけ、右手を上手に使って、手づかみで食べているのだった。英夫と祥子が、ちょっと立止って見ていると、母親の乳房をすっていた赤ん坊が、不意に顔を上げて、にこにこと笑った。
それを見ると、二人も思わず、にっこりと笑ってしまった。
酋長の家は、たち並んだ部落の家の中でも、一ばん大きな家だった。
竹で編んだ、三メートルほどもある床の上に廊下をへだてた部屋が、いくつも並んでいた。椰子で葺いた屋根の上には、大きな人形のようなものや、槍がずらりと飾られ、その屋根の下から、首や腕に入墨をした男や、腕と膝から下に真鍮の輪をはめ、お腹に金の輪をいくつも巻いた女が、多勢の子供たちを連れてぞろぞろと出て来た。――誰か、先ぶれに来た者があるらしかった。
「ずいぶんたくさんいるわ、みんな酋長の家族でしょうか」
「百人ぐらいいそうだね、あの入墨は、人の首をとった時に入れるものだそうだよ」
「まあ、気味が悪い!」
酋長は、口ばやに、みんなに、英夫たちを紹介した。
その夜、英夫たちは、酋長や、部落の者の手あついもてなしを受けた。
羊や野菜を煮た料理、ドリアンや、マンゴー、パパイヤ、バナナ、サゴの樹からとった飲み物のサゴアエル――。
「ダイヤ族といえば、旦那がたはおそろしがるかも知れないが、私たちは首狩りなどをやりません、もっとも、奥地の方には、いまだにやっているやつもあるようです、あれはたしかに悪習でした」
英夫も祥子も、愛想のよすぎる酋長の態度がはじめて解ったような気がするのだった。
「私にそれを教えてくれたのは、ドイツ人のお医者さんです、その人はここで、何年となく私たちと一緒に暮らして、とうとうここで死んでしまいました」
酋長は、ごくりと涙をのむように、しばらく息をつまらせ、
「その人のお墓がここにあります」
「ドイツも今、日本とおなじように、アメリカや、イギリスやオランダと戦っているんだよ酋長」
謙一がいうと、
「知っています、私はダイヤ族の皆にすすめて、これから日本の大東亜建設のお手伝いをするつもりです」
と、酋長は眸をかがやかした。
「酋長は、こんな山の中にいるのに、いろいろなことを知っているようだが、誰からそんなことを聞くんだね」
謙一が笑いながらきいた。
「マレー人です、そら、あのオランダの小蒸汽船で来るマレー人、マレー人は私たちの兄弟です……ときに……」
と、酋長は、膝を乗りだした。
「旦那がたは、これからどこへ行かれるんです、いやよけいなことを聞くのかも知れませんが……」
「これから、バリト河をどこまでも上って行くのだが、酋長、お前はこの河の上流の、大きな滝のあるところを知っているだろう?」
「知っていますとも、だがそこまで行かれるのですか、それとも、それから先まで行かれるのですか?」
「もちろん、それから先へ行くのが目的だ」
「えっ! では、旦那がたは、ボルネオの伝説を知らないのですか!」
酋長の顔は、見る見る青ざめて、ぶるぶる慄えだした。
「あすこから先へ行って帰って来た者はありません、あすこまで行くと、どんな上手な丸木舟の乗り手でも、得体の知れない渦巻に巻きこまれてしまいます、ジャングルを通って陸を伝って行こうとしても、知らない間に殺されてしまいます。鉄砲を持った大勢の白人が、何十人となく私たちの一族を連れて行ったこともありましたが、どこへ行ったのか、影も形もなくなってしまいました。あすこだけは、そのままにしておくがいいでしょう、私たちの一族は、あすこを神の庭といって誰一人近づかないようにしています」
親切な酋長が、まごころをこめて、止めるのを振り切るように、謙一は途中まで、ダイヤ族の屈強な若者に、丸木舟を漕いでもらうことにして、翌朝早く、部落の桟橋をはなれた。
クラパの身代り
河幅はだんだん狭く、流れはだんだん急になり、鬱蒼と生い茂ったジャングルの木の根や蔦葛が、ともすれば、岸を伝って行く丸木舟の邪魔をしがちであった。
枯れた樹の根や、草むらに、じっと眠ったように横たわっている鰐が、不意に、ばしゃんばしゃんと水煙をあげて、とびかかって来ることがあった。かっと、大きな口をあけてしつっこく舟のまわりを去らない群もいた。
暑い陽ざかり、スコールのほか静けさを破る何ものもないジャングルに、うつくしい声の鳥が鳴き、水鳥に背中の蛭をとらしている鰐が、ものうそうに見送っていることもあった。
そうかと思うと、嵐のように樹々の枝を、けたたましく啼き騒ぐ猿の大群が、丸木舟をめがけて雨霰のように木の実を投げつけることもある。
ばりばりと、ジャングルの枝が裂ける音がしたかと思うと、大きな象の背中が二つ三つ砂山のように動いて行くことがあった。
しゅっしゅっと、不気味な音をたてて、十メートルもあるかと思われる、錦蛇が這い出して行くこともあった。
親切な酋長がえらんでくれたダイヤ族の若者は、巧みに危険を避けて、丸木舟をあやつった。――クラパという名の若者だった。
「クラパは鰐がおそろしくないの?」
いくらかマレー語が話せるようになった、祥子がきくと、
「おそろしくないこともありませんが、私たちは子供の時からなれているんですよ、私たちはあいつを羊の肉で釣るんです、面白いですよ」
「でも、マンデー(水浴)の時、鰐に食われる者もずいぶんあるんじゃない?」
こんどは、英夫がきいた。
「そうです、ですから、子供のうちはおふくろが、おまじないをして護ってくれます」
「どんなおまじないをするの?」
「薬草をたばねて、それで洗ってくれます」
「ダイヤ族のお母さんは、ずいぶんやさしい、いいお母さんね」
すると、クラパは自分がほめられたように嬉しそうな顔をして、
「おふくろが、私たちを一ばん大事にしてくれます。赤ん坊の時から、私たちのお守りを放したことがありません」
「お守りって?」
「かたつむりと、貝の殻と、ロッカイの皮と、チッコルの根です、それに、ウンポオポオズも放したことがありません」
「ウンポオポオズって、どんなもの?」
「あっ!」
クラパは答えの代りに、悲鳴をあげて、櫂を、流れにとり落した。
風を切って飛んで来た槍が、ぐさりと左の腕に突っ立ったのだ!
艫の方に坐っていた謙一は、さっきから、膝にのせた地図に見入っていて、気がつかなかった。
槍は、舟をやり過して、後から謙一を狙ったらしく、咄嗟に身をかわした謙一の前にいたクラパの腕に突き刺ったのだ。
「体を伏せろ!」
謙一はピストルを握りしめて、対岸をにらんだ。
ゴム林と、チガヤの高原だ。ぼうぼうと河岸に覆いかぶさったチガヤは、襲撃者の身をかくすのにおあつらいむきだった。
それに、日没にも間がないらしく、河の面には夕焼を映した、たそがれがしのび寄っていた。
チガヤの間から、頭をもたげたものがある。一つばかりの数ではなかった。
そうするうちにも、舟は、下流に押し流されていた。
つづけさまに二、三発、狙いを定めて、だーん、だーん、と引金をひくと、たしかに手ごたえがあって、草むらの中に、鋭い叫びと、うめくような声がおこった。
相手は別に、追いかけて来る様子も見えず、舟との距離が、しだいに遠ざかって行った。
不安な一夜
不安な一夜であった。
流れついた岸辺の、ジャングルの中に天幕を張ると、枯枝を集めて、まず火を焚いた。――投槍を使った以上、人間には相違なかった。火を焚くことは、敵に居所を知らせてやるようなものである。だが一方では、獲物をあさっている飢えた猛獣を防がねばならなかった。
謙一が、外を見張ることにして、英夫は、クラパの傷の手当を引受け、祥子は食事を支度した。
「ダイヤの一族です、畜生! やつらは世の中の変ったことを何にも知らないでいるのだ」
クラパは歯ぎしりをしてくやしがった。かなりの深傷だが、クラパはじっとしていなかった。むりやりに天幕の中に寝かすと、ようやく観念したものか、眠ったようにじっとしていた。
「酋長のいっていた、ダイヤ族だとすると、いつ襲って来るかわかりませんね」
「なあに、やつらは槍ぐらいなもので武器を持たないから、大した心配もいらないさ」
謙一はこともなげにいって、ごろりと焚火の側に横たわった。
「お前たちは、ぐっすり眠っておくがいい、兄さんが万事引受けたから」
「いや、僕、兄さんの眠る間代っていますよ」
「じゃあ、あたしと英夫さんが先におきていますから、お兄さんが、すこし休まれるといいわ」
「そうして下さい、兄さん」
「ばか、兄さんは一と晩や二た晩眠らなくたって疲れやせんよ、ぐずぐずしていると、みんなが疲れてしまうじゃないか!」
謙一に叱りつけられたので、英夫と祥子は、あすにそなえるため、出来るだけ眠っておくことにした。
天幕に入って、ふとクラパの寝床をのぞいて見ると、中は藻抜けのからだった。
「兄さん、クラパがいませんよ、どこへ行ったんでしょう!」
「まあ……、どこへ行ったんでしょうね、寝床の中がすっかり冷えきってるわ」
「ふむ……すると、かなり前に出て行ったわけだね」
「そうですわ、あたしたちが焚火のそばにいたのはかなり長かったようですもの!」
「そいつは、すこし困ったな」
謙一が天幕をのぞきこんで、じっと考えていた。
「まさか、逃げ出したんじゃあないでしょうね」
「あるいはそうかも知れんよ、あっはっは……」
謙一は突然笑い出した。
「……なかなかしっかりした男だと思っていたら、やっぱりそうだったよ」
「えっ!」
「そのうちに帰ってくるさ、何かおみやげでも探しに行ったんだろう」
「だって左手が、すっかりだめになっていますよ……」
「なあにあれでも、必要があれば首狩ぐらいやりかねない男だよ、……とにかく君たちは寝るんだ、寝るんだ」
謙一は、衰えた焚火に、一たばの枯枝と、チガヤを投げこんだ。
火勢は見る見る強くなり、ぱちぱちと火の粉が上って、あかあかと照らし出されたジャングルの林が、焔と一緒にゆらゆらと揺れるように思われた。
名も知れない野鳥が二、三羽、布きれを引き裂くような鋭い声で、ばたばたと飛び立って行くのが聞えた。
青い暁の色が、天幕の裾にしのび寄っていた。
英夫はびっくりして目をさますと、祥子を揺りおこして急いで外へ出た。
いつの間にか、ぐっすり寝こんでしまったらしく、焚火は、もう火が消えかかって、ぶすぶすとくすぶり、重くはいまわる紫の煙が、しずかに、樹々の葉の間から、暁の空に立ちのぼっていた。
不安な一夜は明けたのだ。
不吉な出来事がおこったあとなのに、ゆうべ何事もおこらなかったのが不思議に思われるくらいだった。
謙一は焚火のそばにいなかった。
「クラパも帰っていないし、兄さんもどっかへ行ったらしいね」
「お兄さんはきっと河よ」
丸木舟のつないである河べりに、二人は急いだ。
謙一は、丸木舟の中で熱心に何かをけずっていた。
「クラパが帰らないようですね!」
英夫が声をかけた。
「心配せんでもいい……それより、どうだ。君たちが眠っている間に、これをけずり上げてしまったよ!」
それは木肌の生々しい一本の櫂だった。
三人の捕虜
ジャングルの河べりに、日中の暑さを思わせるような朝の陽が、さんらんと射して来た。と、ジャングルの一方が、急にさわがしくなり、鋭いののしるような声にまじって、大勢のひとびとのがやがや話しあう声が近づいて来た。
英夫も祥子も、謙一から渡されたピストルを握って、じっと待ちうけた。
「合図をするまで、発砲しちゃあいかんぞ」
かなりながい間のような気がした。
ばさ、と目の前の茂みが口をあけたかと思うと、たくましい裸の男が、槍を片手に、とび出して来た。
一人、二人、三人、五人、十人……
だが、手出しをするような様子もなく、あとから来る者を待ちうけながら、突立っていた。
「あっ! クラパが帰って来ましたよ、クラパ!」
クラパは小走りに駈け寄って来ると、
「わからずやどもを連れて来ましたよ、私が思ったように、これにはわけがあったんです、わけというのは、あすこにいるやつらです!」
突き刺すように、右手で指さしたのを見ると、白い洋服の上から、蔦のような蔓でぐるぐるに縛りあげられた三人の白人が、あらあらしく皆の前に引き出されて立っていた。
「オランダ人です、オランダの軍人です、こいつらが、ダイヤの一族をだまして日本と戦わせようとしていたんです」
それで大体の事情もわかった。
皇軍に海岸地帯を封鎖された敵の敗残兵は、奥地に逃げこんではみたもののゲリラ戦術をやる勇気もなく、何も知らないダイヤ族をそそのかして、日本人を見つけたら、片っ端から殺してしまえといいつけていたのだ。
日本軍はボルネオへ来て、ダイヤ族を皆殺しにするのだともいいふらした。
クラパはそれに気がついたので、腹が立つのと傷の痛むのも忘れて、単身、部落へ飛びこんで行った。酋長の家には案の定、張本人の白人がいた。クラパは酋長を外へ連れ出すと、オランダ人のいってることが、まるででたらめであることを極力説いて聞かせた。
酋長にもそれで、どうやらわけがわかったらしかった。
クラパは、それから、部落の頭だった者や、若い者にも一人二人、説いてまわった。
それで、今までの形勢がすっかり逆転し、部落の者たちはあべこべにひどく腹を立て、オランダ人を縛りあげて、ここまで引っ立てて来たのだという。
「ことによると、いつかの自動車は、こいつらのじゃあなかったんですかね」
英夫がいうと、
「そういえば、この連中は、あの部落まで自動車で来たと見え、立派な自動車がおいてありました、自分たちの命令にしたがえば酋長にそれをやる約束だったんだそうです」
「なるほど、ずいぶんうまくやろうとしたんだな……」
と、謙一は皮肉な口調で、こんどは、三人の捕虜たちに、はっきりしたオランダ語でいった。
「オランダの軍人諸君、君たちがいくら細工をしても嘘は真実に勝てない証拠を、君たち自身で実験しただろう、君たちは出発点から間違っていたのだ。それがわかって出発点にかえるなら、今からだっておそくはない、さしあたり、バンジェルマシンまで帰って行きたまえ」
石のように硬くなって、怯えた目つきでそれをきいていた三人の顔に、さっと喜びの光が射した。
「えっ! では、私たちを、私たちを許して下さるのですか!」
ほとんど、異口同音にそういった。
しかし途中でまたこんなことをしないように、念のため謙一は、天幕の中で組立てた無電で、警備隊の本部へ三人の捕虜の行動を打電しておいた。
神秘の扉
丸木舟の旅はつづけられた――左腕の深傷をなおすために、クラパを病院のあるバンジェルマシンへ送ろうとして、英夫たちはひどく骨を折ってしまった。
クラパは、どんなことがあっても一行からはなれないというのだ。
ようやくなだめすかして送りかえしてやり、ダイヤ族のおそれている滝のそばまで、代りに部落の三人の若者に送ってもらうことにした。
両岸はいつか切り立った谷間になり、うす暗い茂みの間を、岩角や浅瀬に突きあたって泡立った水が、くるくると青黒い渦を巻きながら、流れ過ぎて行った。
「きゃっ!」
というような祥子の悲鳴をきいて、ふりかえると、するすると宙に吊り上げられた祥子の体がのたうちながら谷間にかけ渡された樹の上を、カーテンのように移って行くのだった。
「オラン・ウータン!」
ダイヤ族の漕ぎ手が、一せいに叫んだ。
謙一は、間髪の猶予もいれず、だーん、と、巨大な猿の胸をねらった。つづいて二弾、がおなじ胸を貫いた。
白い歯を、一文字にむき出した怪猿は、ぶるぶると身をふるわしたかと思うと、気をうしなった祥子と一緒に、もんどり打って、激流の中にのまれた。
「しまった! おい、舟を、舟をあすこへ寄せろ!」
謙一は、悲壮な声をふりしぼって叫ぶと、すばやく、シャツと、ズボンをかなぐり捨てた。
一瞬、ぽっかりと、祥子が浮び上ったのは、二十メートルほども先の下流だった。
謙一は、それを目がけて、ざんぶと身をおどらした。
五十メートルほども先の岩角で、祥子はやっと謙一の腕につかみとられた。
ダイヤ族の若者たちは、それに力を得て、巧みに舟を漕ぎ寄せ、祥子たちを救い上げた。
幸い、気をうしなっていたせいで、水はあまり飲んでいなかった。
手ごろな岩のところに舟を漕ぎ寄せて、人工呼吸をすると、すぐ息をふきかえした。
丸木舟の旅はまたつづけられて行った。
そして、ある日――。
はるかかなたに、とうとうと瀑布のおどり下る音を聞いた。――神の庭への滝だった。
その音に耳をすましていたダイヤ族の若者たちは、ぶるぶるとふるえだし、ここから自分たちを帰してくれるように、謙一にせがみはじめた。
謙一は許さなかった。――半分はおどすようにして、ともかく滝の近くまで来た。
およそ五十メートルほどの幅の滝が、直下三十メートルほどの所に深淵をたたえた滝壺に、濛々《もうもう》と、霧のような飛沫をあげて、落下しているのだった。
ダイヤ族の若者は、もう顔色をかえてそこそこに暇をつげて立去った。
「これから、どうするんです、兄さん、この滝と、旦斎先生のあの秘境との間に何か関係があるんですか?」
「僕の考えだと、秘境へ行く道は三つしかないはずだ……一つは空から行く道、一つは地上から行く道、もう一つは地下から行く道だ、ところが前の二つはもう実験ずみになっている、第一の空から行く道は、僕自身飛行機で、いくども探して見たが、それらしいところは見つけられなかった。第二の地上から行く道は、あの酋長も話していたように、百パーセント不成功におわっているのだ、そこで、地下から行く道が最後の道であり、僕の結論もそれと一致している」
「地下道でも作ってあったんですの、その人たちは……」
祥子も、すっかり元気になっていた。
「いや、それはどうだかわからない、おそらくその人たちは自然に出来ていた道を利用したのだろうと思う」
「それが、この近くにあるんですか」
「うむ、大体この見当だ、いろいろなことから考えて、その人たちはこの滝のところまで来ていることはたしかだから、一つ、この近くの洞窟の入口のようなところを探して見よう」
その日は、滝の上下の崖や、近くの岩壁の洞窟を探すのに費された。
それはほとんど絶望に近かった。
そのあくる日――。
「よし、かなり危険な仕事だが、きょうは一つ、滝の裏側を探して見よう、滝の長さが五十メートルほどあるから、この裏側にだって、相当大きな洞窟があっていいわけだ」
足場が危険なので、丸木舟で、岸を伝って行くことにした。
ともすれば、覆りそうになる舟を、ほとんど抱きかかえるようにして、岩角から滝壺の裏側へまわろうとした時だった。
突然、ぴたりと吸盤に吸い寄せられるような力で、船底が吸いつけられたかと思うと、丸木舟は、くるりと一廻転して、軌道に乗った車のようにするすると滝壺の裏側にのまれて行って、いつの間にとびこんだのか真っ暗な洞窟の中を、絃を放れた矢のような勢いで押し流されていた。
明暗の道
洞窟はしだいに幅をひろげて、暗々《あんあん》と、不気味な闇をたたえていた。
そして、ここへとびこんだ瞬間から、しだいに寒さを増して行った。――これは不思議なことだ、バリト河をさかのぼってから、赤道へ、赤道へと近づいていた。げんに、三人が滝壺の、土砂降りのようなしぶきを浴びていた時でも、うすいシャツ一枚で、すこしの寒さも感じなかったではないか!
流れは、一方に向って、ひた流れに流れているらしく、舟はほとんど変らない速度で押し流されて行き、時々、洞窟の曲り角にでもさしかかるのであろうか、狂った磁石のように強くかぶりをふった。
「ずいぶん深い洞窟ね、さっきからもう何時間ぐらいたったでしょう」
上下の歯が寒さにがちがち鳴っているのが祥子にもわかった。
「しかし、さっきからみると、なんだか、すこし暖くなったような気がするんだけどな」
英夫は、じっさいそのような気がしていた。
「すこしうっかりしておったよ、道具をあすこにおいて来たのはいいが、磁石も時計もすっかり忘れて来てしまったんだ」
「だって、ここの中心は、磁石も時計も役に立たないかも知れませんよ」
「それもそうだな、どこへ行くか、行くところまで行ってみるんだな」
謙一が、のんきそうにいった。
洞窟がいくらか狭くなったらしく、話し声がわんわん弾ねかえって聞えた。
英夫も、祥子もいつの間にかつかれて眠っていた。
「おい、英夫! 祥子さん!」
謙一の声で目をさまして見ると、どこからか、ほんのかすかだが、明りがもれているような気がした。
二人とも額にうすく汗ばんでいた。――いつの間にこんなに暑くなったのだろう!
「いい気持で眠っていたらしいな」
「なんだか明りがさして来るようですね、それに、流れがすっかり止まってしまったじゃありませんか」
「洞窟の行きづまりに来たらしいぞ」
「ずいぶん暑いようだわ、いつの間にこんなに暑くなってしまったのかしら」
「もう、かなり前からだ」
丸木舟は、遂に砂利のような浅瀬にどしんと打っつかると、そのまま動かなくなった。
「あっ! あんなところから明りがさしていますよ、兄さん」
「うむ、あすこも洞窟になっているらしいな、とにかく明りのさす方へ出てみよう!」
そこは狭い洞窟で、英夫や祥子が腰をかがめて入れるくらいだった。
「兄さんには、すこし無理ですね、僕が一応中へ入ってしらべて来ますから、待っていて下さい」
英夫は明りを目指して進んで行った。腰をかがめて歩けると思ったのは、ほんのすこしの間だけで、すぐ、あたりが狭くなり、両肘でようやくはって行けるくらいなところで行きづまっていた――。
だが、かすかに外からの光のさして来る小さな穴に目を当てて見ると、
「あっ!」
と、叫んで、急いで引っかえした。
「どうした、出られないのか!」
謙一が心配そうにきいた。
「出られないどころじゃありません、大へんなところです、秘境です、兄さんのいった秘境ですよ、たしかに!」
「よし、舟の中に櫂がのこっているはずだからあれで穴をひろげて出よう!」
×
紺碧の空に、金銀の楼閣や、ガラスのように透明なビルディングが燦然と照り映え、モールを飾ったような緑の樹木や庭園の上には、植物園の花壇のように、とりどりの色の花が咲きみだれていて、どこからともなく、雲雀のような、たのしげな鳥の声が流れて来るのだ。
これは一体、どこだというのだ!
洞窟を出た三人は、思わず顔を見あわしてしばらく呆然と立っていた。
春風のように、花や緑の香を乗せたそよ風が、三人のしめった髪や、着物をこころよく撫でて行く。
「これは、すこし見当をちがえたのかも知れんぞ!」
謙一は、そう呟いたが、眸は、遠い昔のたのしい夢を見たように微笑んでいた。
ぼうぼうと剃らないままにのびた髯、うすぎたないシャツと半ズボンで立っている姿があたりの景色にそぐわない、ひどく滑稽なものに見えたので、英夫も祥子もおなじような自分たちの姿のことも忘れて声を立てて笑った。
この不可思議な街は、たしかに人の歩いている姿が見えるのに、音もなく、ひっそりとしずまりかえっていた。
街からすこしはなれた緑の丘には、金色まばゆい殿堂が建っていて、紅地の旗が、そのまん中の、丸い白銀色をきらめかして、高い旗竿にひらひらとひるがえっているのだった。
それは日の丸の旗とは反対に、紅地に白く日輪を染め抜いた日輪旗であった。
日輪王国
「そうですか、それでは今、日本を大東亜の盟主とする大東亜戦争が始まっているんですね……」
紅地大日輪旗のひるがえる黄金宮の中だった。
「それにしても、よくここまで訪ねて来られましたね」
「いや、あなた方の御先祖たちこそ、よくこんな大事業を完成される基をつくられたと敬服しているんです」
総理大臣はじめ、この国の重だったひとびとの開いてくれた、歓迎会の席上だった。
「この国について、いろいろな疑問がありますが、何百年もの間これだけの立派な文化を築いて、どうして世界に知られずにいたものでしょう?」
「それは、私どもの先祖が、こういう秘境を発見して、固く門戸を閉していたことと、いろいろな鉱物、金、銀、銅、鉄、錫のようなものや石油や、石炭が無尽蔵にあって、それを使う方法を絶えず研究していたからです、あなた方はこの建物や街の様式を御覧になって気付かれたかも知れないが、ヨーロッパのすぐれた白人の学者もかなり来ていますよ」
「ほほお、それはどうしてですか、どうして来られたんです?」
「御承知のように、ここへ来る道は、昔からあなた方の通って来られた地下道と地上の道だけですが、地上の方には、断崖絶壁と、類人猿で防いでありますからほとんど絶対的に入れません、けれども、なかなか研究心の強い学者が何とかしてここを探険しようとしてやって来ました、そういう人は、こちらで招聘して十分才能を発揮させました、ここにはそうしたあらゆる方面の学者やその子孫がいます。それらの人も一どこの国へ来れば、もう昔の国へは帰りたがらないのですね、私どもだっておなじことですよ、はっはっは」
「それで自動車のようなものまであるわけですね、その癖ちっとも音がしないでひっそりしていますが、あれは何か特別な構造を持っているんですか」
「ああ、あんなことはなんでもありません、自動車には騒音防止装置がしてありますし、この国の道路は全部ゴムで出来ているのですよ」
「飛行機だけはないようですが、それはどういうわけです、それに不思議なのは、僕も数回この上を飛んでいるはずですが、どうしても発見することが出来ませんでした」
「飛行機は必要を感じないから作らないまでです。それから、あなたが発見出来なかったとおっしゃるのは、光線幕というものを使って、上空から見えないようにしてあるからです」
「もう一つお伺いしますが、この国には王様がおられないのですか、それとも、私どもにはお会い下さらないのですか」
「いやいや王様などという者はおりません、あの日輪旗は私どもが日本人であることを示しています、日本人である以上、天子様以外にこの世界に王様はないのです」
総理は厳粛な口調でいった。
「この国にはまだまだあらゆる資源が無尽蔵に貯えられています。私どもは日本の天子様のためには何時でも喜んで全部を差上げます。これは先祖からの遺言なのです。こんどこそその絶好の機会なのかも知れませんね!」
青空文庫より引用