猫と庄造と二人のおんな
福子さんどうぞゆるして下さいこの手紙雪ちゃんの名借りましたけどほんとうは雪ちゃんではありません、そう云うたら無論貴女は私が誰だかお分りになったでしょうね、いえいえ貴女はこの手紙の封切って開けたしゅん間「さてはあの女か」ともうちゃんと気がおつきになるでしょう、そしてきっと腹立てて、まあ失礼な、………友達の名前無断で使って、私に手紙よこすとは何と云う厚かましい人と、お思いになるでしょう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒の裏へ自分の本名書いたらきっとあの人が見つけて、中途で横取りしてしまうことよう分ってるのですもの、是非ともあなたに読んで頂こう思うたらこうするより外ないのですもの、けれど安心して下さいませ、私決して貴女に恨み云うたり泣き言聞かしたりするつもりではないのです。そりゃ、本気で云うたらこの手紙の十倍も二十倍もの長い手紙書いたかて足りない位に思いますけど、今更そんなこと云うても何にもなりはしませんものねえ。オホホホホホホ、私も苦労しましたお蔭で大変強くなりましたのよ、そういつもいつも泣いてばかりいませんのよ、泣きたいことや口惜しいことたんとたんとありますけど、もうもう考えないことにして、できるだけ朗かに暮らす決心しましたの。ほんとうに、人間の運命云うものいつ誰がどうなるか神様より外知る者はありませんのに、他人の幸福を羨んだり憎んだりするなんて馬鹿げてますわねえ。
私がなんぼ無教育な女でも直接貴女に手紙上げたら失礼なことぐらい心得てますのよ、それかてこの事は塚本さんからたびたび云うて貰いましたけど、あの人どうしても聞き入れてくれませんので、今は貴女にお願いするより手段ないようになりましたの。でもこう云うたら何やたいそうむずかしいお願いするように聞えますけど、決して決してそんな面倒なことではありません。私あなたの家庭から唯一つだけ頂きたいものがあるのです。と云うたからとて、勿論貴女のあの人を返せと云うのではありません。実はもっともっと下らないもの、つまらないもの、………リリーちゃんがほしいのです。塚本さんの話では、あの人はリリーなんぞくれてやってもよいのだけれど、福子さんが離すのいやや云うてなさると云うのです、ねえ福子さん、それ本当でしょうか? たった一つの私の望み、貴女が邪魔してらっしゃるのでしょうか。福子さんどうぞ考えて下さい私は自分の命よりも大切な人を、………いいえ、そればかりか、あの人と作っていた楽しい家庭のすべてのものを、残らず貴女にお譲りしたのです。茶碗のかけ一つも持ち出した物はなく、輿入の時に持って行った自分の荷物さえ満足に返しては貰いません。でも、悲しい思い出の種になるようなものない方がよいかも知れませんけれど、せめてリリーちゃん譲って下すってもよくはありません? 私は外に何も無理なこと申しません、蹈まれ蹴られ叩かれてもじっと辛抱して来たのです。その大きな犠牲に対して、たった一匹の猫を頂きたいと云うたら厚かましいお願いでしょうか。貴女に取ってはほんにどうでもよいような小さい獣ですけれど、私にしたらどんなに孤独慰められるか、………私、弱虫と思われたくありませんが、リリーちゃんでもいててくれなんだら淋しくて仕様がありませんの、………猫より外に私を相手にしてくれる人間世の中に一人もいないのですもの。貴女は私をこんなにも打ち負かしておいて、この上苦しめようとなさるのでしょうか。今の私の淋しさや心細さに一点の同情も寄せて下さらないほど、無慈悲なお方なのでしょうか。
いえいえ貴女はそんなお方ではありません、私よく分っているのですが、リリーちゃんを離さないのは、あなたでなくて、あの人ですわ、きっときっとそうですわ。あの人はリリーちゃんが大好きなのです。あの人いつも「お前となら別れられても、この猫とやったらよう別れん」と云うてたのです。そして御飯の時でも夜寝る時でも、リリーちゃんの方がずっと私より可愛がられていたのです。けど、そんなら何で正直に「自分が離しともないのだ」と云わんと、あなたのせいにするのでしょう? さあその訳をよう考えて御覧なさりませ、………
あの人は嫌な私を追い出して、好きな貴女と一緒になりました。私と暮してた間こそリリーちゃんが必要でしたけど、今になったらもうそんなもん邪魔になる筈ではありませんか。それともあの人、今でもリリーちゃんがいなかったら不足を感じるのでしょうか。そしたら貴女も私と同じに、猫以下と見られてるのでしょうか。まあ御免なさい、つい心にもないこと云うてしもうて。………よもやそんな阿呆らしいことあろうとは思いませんけれど、でもあの人、自分の好きなこと隠して貴女のせいにする云うのは、やっぱりいくらか気が咎めている証拠では、………オホホホホホホ、もうそんなこと、どっちにしたかて私には関係ないのでしたわねえ、けどほんとうに御用心なさいませ、たかが猫ぐらいと気を許していらしったら、その猫にさえ見かえられてしまうのですわ。私決して悪いことは申しません、私のためより貴女のため思うて上げるのです、あのリリーちゃんあの人の側から早う離してしまいなさい、あの人それを承知しないならいよいよ怪しいではありませんか。………
福子はこの手紙の一字一句を胸に置いて、庄造とリリーのすることにそれとなく眼をつけているのだが、小鰺の二杯酢を肴にしてチビリチビリ傾けている庄造は、一と口飲んでは猪口を置くと、
「リリー」
と云って、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リリーは後脚で立ち上って小判型のチャブ台の縁に前脚をかけ、皿の上の肴をじっと睨まえている恰好は、バアのお客がカウンターに倚りかかっているようでもあり、ノートルダムの怪獣のようでもあるのだが、いよいよ餌が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧そうな眼を、まるで人間がびっくりした時のようにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はそう易々《やすやす》とは投げてやらない。
「そうれ!」
と、鼻の先まで持って行ってから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚に滲みている酢をスッパスッパ吸い取ってやり、堅そうな骨は噛み砕いてやってから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろいろにして見せびらかす。それにつられてリリーは前脚をチャブ台から離し、幽霊の手のように胸の両側へ上げて、よちよち歩き出しながら追いかける。すると獲物をリリーの頭の真上へ持って行って静止させるので、今度はそれに狙いを定めて、一生懸命に跳び着こうとし、跳び着く拍子に素早く前脚で目的物を掴もうとするが、アワヤと云う所で失敗しては又跳び上る。こうしてようよう一匹の鰺をせしめる迄に五分や十分はかかるのである。
この同じことを庄造は何度も繰り返しているのだった。一匹やっては一杯飲んで、
「リリー」
と呼びながら次の一匹を摘まみ上げる。皿の上には約二寸程の長さの小鰺が十二三匹は載っていた筈だが、恐らく自分が満足に食べたのは三匹か四匹に過ぎまい、あとはスッパスッパ二杯酢の汁をしゃぶるだけで、身はみんなくれてやってしまう。
「あ、あ、あ痛! 痛いやないか、こら!」
やがて庄造は頓興な声を出した。リリーがいきなり肩の上へ跳び上って、爪を立てたからなのである。
「こら! 降り! 降りんかいな!」
残暑もそろそろ衰えかけた九月の半ば過ぎだったけれど、太った人にはお定まりの、暑がりやで汗ッ掻きの庄造は、この間の出水で泥だらけになった裏の縁鼻へチャブ台を持ち出して、半袖のシャツの上に毛糸の腹巻をし、麻の半股引を穿いた姿のまま胡坐をかいているのだが、その円々と膨らんだ、丘のような肩の肉の上へ跳び着いたリリーは、つるつる滑り落ちそうになるのを防ぐために、勢い爪を立てる。と、たった一枚のちぢみのシャツを透して、爪が肉に喰い込むので、
「あ痛! 痛!」
と、悲鳴を挙げながら、
「ええい、降りんかいな!」
と、肩を揺す振ったり一方へ傾けたりするけれども、そうすると猶落ちまいとして爪を立てるので、しまいにはシャツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、
「無茶しよる。」
とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リリーはそれをすっかり呑み込んでいるらしく、頬ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使いながら、彼が魚を啣んだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端へ持って行く。そして庄造が口をもぐもぐさせながら、舌で魚を押し出してやると、ヒョイとそいつへ咬み着くのだが、一度に喰いちぎって来ることもあれば、ちぎったついでに主人の口の周りを嬉しそうに舐め廻すこともあり、主人と猫とが両端を咬えて引っ張り合っていることもある。その間庄造は「うッ」とか、「ペッ、ペッ」とか、「ま、待ちいな!」とか合の手を入れて、顔をしかめたり唾液を吐いたりするけれども、実はリリーと同じ程度に嬉しそうに見える。
「おい、どうしたんや?―――」
だが、やっとのことで一と休みした彼は、何気なく女房の方へ杯をさし出すと、途端に心配そうな上眼使いをした。どうした訳か今しがたまで機嫌の好かった女房が、酌をしようともしないで、両手を懐に入れてしまって、真正面からぐっと此方を視詰めている。
「そのお酒、もうないのんか?」
出した杯を引っ込めて、オッカナビックリ眼の中を覗き込んだが、相手はたじろぐ様子もなく、
「ちょっと話があるねん。」
と、そう云ったきり、口惜しそうに黙りこくった。
「なんや? え、どんな話?―――」
「あんた、その猫品子さんに譲ったげなさい。」
「何でやねん?」
藪から棒に、そんな乱暴な話があるものかと、つづけざまに眼をパチクリさせたが、女房の方も負けず劣らず険悪な表情をしているので、いよいよ分らなくなってしまった。
「何で又急に、………」
「何ででも譲ったげなさい、明日塚本さん呼んで、早よ渡してしまいなさい。」
「いったい、それ、どう云うこッちゃねん?」
「あんた、否やのん?」
「ま、まあ待ち! 訳も云わんとそう云うたかて無理やないか。何ぞお前、気に触ったことあるのんか。」
リリーに対する焼餅?―――と、一応思いついてみたが、それも腑に落ちないと云うのは、もともと自分も猫が好きだった筈なのである。まだ庄造が前の女房の品子と暮していた時分、品子がときどき猫のことで焼餅を焼く話を聞くと、福子は彼女の非常識を笑って、嘲弄の種にしたものだった。そのくらいだから、勿論庄造の猫好きを承知の上で来たのであるし、それから此方、庄造ほど極端ではないにしても、自分も彼と一緒になってリリーを可愛がっていたのである。現にこうして、三度々々の食事には、夫婦さし向いのチャブ台の間へ必ずリリーが割り込むのを、今迄兎や角云ったことは一度もなかった。それどころか、いつでも今日のような風に、夕飯の時にはリリーとゆっくり戯れながら晩酌を楽しむのであるが、亭主と猫とが演出するサーカスの曲芸にも似た珍風景を、福子とても面白そうに眺めているばかりか、時には自分も餌を投げてやったり跳び着かせたりするくらいで、リリーの介在することが、新婚の二人を一層仲好く結び着け、食卓の空気を明朗化する効能はあっても、邪魔になってはいない筈だった。とすると一体、何が原因なのであろう。つい昨日まで、いや、ついさっき、晩酌を五六杯重ねるまでは何のこともなかったのに、いつの間にか形勢が変ったのは、何かほんの些細なことが癪に触ったのでもあろうか。それとも「品子に譲ってやれ」と云うのを見ると、急に彼女が可哀そうにでもなったのか知らん。
そう云えば、品子が此処を出て行く時に、交換条件の一つとしてリリーを連れて行きたいと云う申し出でがあり、その後も塚本を仲に立てて、二三度その希望を伝えて来たことは事実である。だが庄造はそんな云い草は取り上げない方がよいと思って、そのつど断っているのであった。塚本の口上では、連れ添う女房を追い出して余所の女を引きずり込むような不実な男に、何の未練もないと云いたいところだけれども、やっぱり今も庄造のことが忘れられない、恨んでやろう、憎んでやろうと努めながら、どうしてもそんな気になれない、ついては思い出の種になるような記念の品が欲しいのだが、それにはリリーちゃんを此方へ寄越して貰えまいか、一緒に暮していた時分には、あんまり可愛がられているのが忌ま忌ましくて、蔭でいじめたりしたけれども、今になっては、あの家の中にあった物が皆なつかしく、分けてもリリーちゃんが一番なつかしい、せめて自分は、リリーちゃんを庄造の子供だと思って精一杯可愛がってやりたい、そうしたら辛い悲しい気持がいくらか慰められるであろう。―――
「なあ、石井君、猫一匹ぐらい何だんね、そない云われたら可哀そうやおまへんか。」
と、そう云うのだったが、
「あの女の云うこと、真に受けたらアキまへんで。」
と、いつも庄造はそう答えるに極まっていた。あの女は兎角懸引が強くって、底に底があるのだから、何を云うやら眉唾物である。第一剛情で、負けず嫌いの癖に、別れた男に未練があるの、リリーが可愛くなったのと、しおらしいことを云うのが怪しい。彼奴が何でリリーを可愛がるものか。きっと自分が連れて行って、思うさまいじめて、腹癒せをする気なのだろう。そうでなかったら、庄造の好きな物を一つでも取り上げて、意地悪をしようと云うのだろう。―――いや、そんな子供じみた復讐心より、もっともっと深い企みがあるのかも知れぬが、頭の単純な庄造には相手の腹が見透せないだけに、変に薄気味が悪くもあれば、反感も募るのだった。それでなくてもあの女は、随分勝手な条件を沢山持ち出しているではないか。しかしもともと此方に無理があるのだし、一日も早く出て貰いたいと思ったればこそ、大概なことは聞いてやったのに、その上リリーまで連れて行かれてたまるものか。それで庄造は、いくら塚本が執拗く云って来ても、彼一流の婉曲な口実でやんわり逃げているのであったが、福子もそれに賛成なのは無論のことで、庄造以上に態度がハッキリしていたのである。
「訳を云いな! 何のこッちゃ、僕さっぱり見当が付かん。」
そう云うと庄造は、銚子を自分で引き寄せて、手酌で飲んだ。それから股をぴた ッと叩いて、
「蚊遣線香あれへんのんか。」
と、ウロウロその辺を見廻しながら、半分ひとりごとのように云った。あたりが薄暗くなったので、つい鼻の先の板塀の裾から、蚊がワンワン云って縁側の方へ群がって来る。少し食い過ぎたと云う恰好でチャブ台の下にうずくまっていたリリーは、自分のことが問題になり出した頃こそこそと庭へ下りて、塀の下をくぐって、何処かへ行ってしまったのが、まるで遠慮でもしたようで可笑しかったが、鱈ふく御馳走になった後では、いつでも一遍すうっと姿を消すのであった。
福子は黙って台所へ立って行って、渦巻の線香を捜して来ると、それに火をつけてチャブ台の下へ入れてやった。そして、
「あんた、あの鰺、みんな猫に食べさせなはったやろ? 自分が食べたのん二つか三つよりあれしまへんやろ?」
と、今度は調子を和げて云い出した。
「そんなこと僕、覚えてエへん。」
「わてちゃんと数えててん。そのお皿の上に最初十三匹あってんけど、リリーが十匹食べてしもて、あんたが食べたのん三匹やないか。」
「それが悪かったのんかいな。」
「何で悪い云うこと、分ってなはんのんか。なあ、よう考えて御覧。わて猫みたいなもん相手にして焼餅焼くのんと違いまっせ。けど、鰺の二杯酢わては嫌いや云うのんに、僕好きやよってに拵えてほしい云いなはったやろ。そない云うといて、自分ちょっとも食べんとおいといてからに、猫にばっかり遣ってしもて、………」
彼女の云うのは、こうなのである。―――
阪神電車の沿線にある町々、西宮、蘆屋、魚崎、住吉あたりでは、地元の浜で獲れる鰺や鰯を、「鰺の取れ取れ」「鰯の取れ取れ」と呼びながら大概毎日売りに来る。「取れ取れ」とは「取りたて」と云う義で、値段は一杯十銭から十五銭ぐらい、それで三四人の家族のお数になるところから、よく売れると見えて一日に何人も来ることがある。が、鰺も鰯も夏の間は長さ一寸ぐらいのもので、秋口になるほど追い追い寸が伸びるのであるが、小さいうちは塩焼にもフライにも都合が悪いので、素焼きにして二杯酢に漬け、※ 莪を刻んだのをかけて、骨ごと食べるより仕方がない。ところが福子は、その二杯酢が嫌いだと云ってこの間から反対していた。彼女はもっと温かい脂ッこいものが好きなので、こんな冷めたいモソモソしたものを食べさせられては悲しくなると、彼女らしい贅沢を云うと、庄造は又、お前はお前で好きなものを拵えたらよい。僕は小鰺が食べたいから自分で料理すると云って、「取れ取れ」が通ると勝手に呼び込んで買うのである。福子は庄造と従兄弟同士で、嫁に来た事情が事情だから、姑には気がねが要らなかったし、来た明くる日から我が儘一杯に振舞っていたけれど、まさか亭主が庖丁を持つのを見ている訳に行かないから、結局自分がその二杯酢を拵えて、いやいやながら一緒にたべることになってしまう。おまけにそれが、もう此処のところ五六日も続いているのであるが、二三日前にふと気が付いたことと云うのは、女房の不平を犯してまでも食膳に上せる程のものを、庄造は自分で食べることか、リリーにばかり与えている。それでだんだん考えて見たら、成る程あの鰺は姿が小さくて、骨が柔かで、身をむしってやる面倒がなくて、値段のわりに数がある、それに冷めたい料理であるから、毎晩あんな風にして猫に食わせるには最も適している訳で、つまり庄造が好きだと云うのは、猫が好きだと云うことなのである。此処の家では、亭主が女房の好き嫌いを無視して、猫を中心に晩のお数をきめていたのだ。そして亭主のためと思って辛抱していた女房は、その実猫のために料理を拵え、猫のお附き合いをさせられていたのだ。
「そんなことあれへん、僕、いつかて自分が食べよう思うて頼むねんけど、リリーの奴があないに執拗う欲しがるさかいに、ついウカッとして、後から後から投げてまうねんが。」
「※ 《うそ》云いなさい、あんた始めからリリーに食べさそう思うて、好きでもないもん好きや云うてるねんやろ。あんた、わてより猫が大事やねんなあ。」
「ま、ようそんなこと。………」
仰山に、吐き出すようにそう云ったけれど、今の一言ですっかり萎れた形だった。
「そんなら、わての方が大事やのん?」
「きまってるやないか! 阿呆らしなって来るわ、ほんまに!」
「口でばっかりそない云わんと、証拠見せてエな。そやないと、あんたみたいなもん信用せエへん。」
「もう明日から鰺買うのん止めにしょう。な、そしたら文句ないねんやろ。」
「それより何より、リリー遣ってしまいなはれ。あの猫いんようになったら一番ええねん。」
まさか本気で云うのではないだろうけれど、タカを括り過ぎて依怙地になられては厄介なので、是非なく庄造は膝頭を揃え、キチンと畏まってすわり直すと、前屈みに、その膝の上へ両手をつきながら、
「そうかてお前、虐められること分っててあんな所へやれるかいな。そんな無慈悲なこと云うもんやないで。」
と、哀れッぽく持ちかけて、嘆願するような声を出した。
「なあ、頼むさかいに、そない云わんと、………」
「ほれ御覧、やっぱり猫の方が大事なんやないかいな。リリーどないぞしてくれへなんだら、わて去なして貰いまっさ。」
「無茶云いな!」
「わて、畜生と一緒にされるのん嫌ですよってにな。」
あんまりムキになったせいか、急に涙が込み上げて来たのが、自分にも不意討ちだったらしく、福子は慌てて亭主の方へ背中を向けた。
雪子の名を使った品子のあの手紙が届いた朝、最初に彼女が感じたのは、こんないたずらをして私達の間へ水を挿そうとするなんて、何と云う嫌な人だろう、誰がその手に乗ってやるもんか、と云うことだった。品子の腹は、こう云う風に書いてやったら、結局福子はリリーのいることが心配になって、此方へ寄越すかも知れない、そうなったら、それ見たことか、人を笑ったお前さんも猫に焼餅を焼くじゃないか、やっぱりお前さんだってそう御亭主に大事にされてもいないのだねえと、手を叩いて嘲ってやろう、そこまで巧く行かないとしても、この手紙をキッカケに家庭に風波が起るとしたら、それだけでも面白いと、そう思っているに違いないので、その鼻を明かしてやるのには、いよいよ夫婦が仲好く暮すようにして、こんな手紙などてんで問題にならなかったと云う所を見せてやり、二人が同じようにリリーを可愛がって、とても手放す気がないことをもっとハッキリ知らしてやる、―――もうそれに越したことはないのであった。
だが、生憎なことにこの手紙の来た時期が悪かった。と云うのは、ちょうどこの二三日小鰺の二杯酢の一件が福子の胸につかえていて、一遍亭主を取っちめてやろうと考えていた矢先だったのである。一体、彼女は庄造が思っているほど猫好きではないのだが、庄造の気持を迎えるためと、品子への面当てと、両方の必要から自然猫好きになってしまい、自分もそう思えば人にも思わせていたのであって、それは彼女がまだこの家へ乗り込まない時分、蔭で姑のおりんなどとグルになって専ら品子の追い出し策にかかっている間のことだった。そんな次第で、此処へ来てからもリリーを可愛がってやって、精々《せいぜい》猫好きで通していたのだが、だんだん彼女はその一匹の小さい獣の存在を、呪わしく思うようになった。何でもこの猫は西洋種だと云うことだったが、以前、此処へお客で遊びに来て膝の上などへ乗せてやると、手触りの工合が柔かで、毛なみと云い、顔だちと云い、姿と云い、ちょっとこの辺には見当らない綺麗な雌猫であったから、その時はほんとうに愛らしいと思い、こんなものを邪魔にするとは品子さんと云う人も変っている、やっぱり亭主に嫌われると、猫にまで僻みを持つのか知らんと、面当てでなくそう感じたものだったけれど、今度自分が後釜へ直ってみると、自分は品子と同じ扱いを受ける訳でもなく、大切にされていることは分っていながら、どうも品子を笑えない気持になって来るのが不思議であった。それと云うのは、庄造の猫好きが普通の猫好きの類ではなくて、度を越えているせいなのである。実際、可愛がるのもいいけれども、一匹の魚を(而も女房の見ている前で!)口移しにして、引張り合ったりするなどは、あまり遠慮がなさすぎる。それから晩の御飯の時に割り込んで来られることも、正直のところは愉快でなかった。夜は姑が気を利かして、自分だけ先に食事を済まして二階へ上ってくれるのだから、福子にしてみればゆっくり水入らずを楽しみたいのに、そこへ猫奴が這入って来て亭主を横取りしてしまう。好いあんばいに今夜は姿が見えないなと思うと、チャブ台の脚を開く音、皿小鉢のカチャンと云う音を聞いたら直ぐ何処かから帰って来る。たまに帰らないことがあると、怪しからないのは庄造で、「リリー」「リリー」と大きな声で呼ぶ。帰って来る迄は何度でも、二階へ上ったり、裏口へ廻ったり、往来へ出たりして呼び立てる。今に帰るだろうから一杯飲んでいらっしゃいと、彼女がお銚子を取り上げても、モジモジしていて落ち着いてくれない。そう云う場合、彼の頭はリリーのことで一杯になっていて、女房がどう思うかなどと、ちょっとも考えてみないらしい。それにもう一つ愉快でないのは、寝る時にも割り込んで来ることである。庄造は今迄猫を三匹飼ったが、蚊帳をくぐることを知っているのはリリーだけだ、全くリリーは悧巧だと云う。成る程、見ていると、ぴったり頭を畳へ擦り付けて、するすると裾をくぐり抜けて這入る。そして大概は庄造の布団の側で眠るけれども、寒くなれば布団の上へ乗るようになり、しまいには枕の方から、蚊帳をくぐるのと同じ要領で夜具の隙間へもぐり込んで来ると云う。そんな風だから、この猫にだけは夫婦の秘密を見られてしまっているのである。
それでも彼女は、今更猫好きの看板を外して嫌いになり出すキッカケがないのと、「相手はたか が猫だから」と云う己惚れに引き擦られて、腹の虫を押さえて来たのであった。あの人はリリーを玩具にしているだけなので、ほんとうは私が好きなのである、あの人に取って天にも地にも懸け換えのないのは私なのだから、変な工合に気を廻したら、自分で自分を安っぽくする道理である。もっと心を大きく持って、何の罪もない動物を憎むことなんか止めにしようと、そう云う風に気を向けかえて、亭主の趣味に歩調を合わせていたのだが、もともと怺え性のない彼女にそんな我慢が長つづきする筈がなく、少しずつ不愉快さが増して来て顔に出かかっていたところへ、降って湧いたのが今度の二杯酢の一件だった。亭主が猫を喜ばすために、女房の嫌いなものを食膳に上せる、而も自分が好きなふりをして、女房の手前を繕ってまでも!―――これは明かに、猫と女房とを天秤にかけると猫の方が重い、と云うことになる。彼女は見ないようにしていた事実をまざまざと鼻先へ突き付けられて、最早や己惚れの存する余地がなくなってしまった。
ありていに云うと、そこへ品子の手紙が舞い込んで来たことは、彼女の焼餅を一層煽ったようでもあるが、一面には又、それを爆発の一歩手前で抑制すると云う働きをした。品子さえおとなしくしていたら、リリーの介在をもう一日も黙視出来なくなった彼女は、早速亭主に談判して品子の方へ引き渡させる積りでいたのに、あんないたずらをされてみると、素直に註文を聴いてやるのが忌ま忌ましい。つまり亭主への反感と、品子への反感と、孰方の感情で動いたらよいか板挟みになってしまったのである。手紙の来たことを亭主に打ち明けて相談すれば、事実はそうでないにも拘わらず品子にケシカケられたような形になるのが心外であるから、それは内証にして置いて、孰方が余計憎らしいかと考えると、品子の遣り方も腹が立つけれども、亭主の仕打ちも堪忍がならない。殊にこの方は毎日眼の前で見ているのだから、どうにもムシャクシャする訳だし、それに、本当のことを云うと、「用心しないと貴女も猫に見換えられる」と書いてあったのが、案外ぐん と胸にこたえた。まさかそんな馬鹿げたことがとは思うけれども、リリーを家庭から追い払ってしまいさえすれば、イヤな心配をしないでも済む。ただそうすると品子に溜飲を下げさせることになるのが、いかにも残念でたまらないので、その方の意地が昂じて来ると、猫のことぐらい辛抱しても誰があの女の計略なんぞにと、云う風になる。―――で、今日の夕方チャブ台の前にすわる迄は、彼女はそう云うグルグル廻りの状態に置かれて懊れていたのだが、皿の上の鰺が減って行くのを数えながらいつものいちゃつき を眺めていると、ついかあ ッとして亭主の方へ鬱憤を破裂させてしまったのである。
しかし最初は嫌がらせにそう云った迄で、本気でリリーを追い出す積りはなかったらしいのであるが、へんに問題をコジレさせて退っ引きならないようにしたのは、庄造の態度が大いに原因しているのである。庄造としては、福子が腹を立てたのは至極尤もなのであるから、イザコザなしに、あっさり彼女の希望を入れて納得してしまえば一番よかった。そうして意地を通してさえやったら、却って後は機嫌が直って、それには及ばぬと云うことになったかも知れないのに、道理のないところへ道理をつけて、逃げを打った。これは庄造の悪い癖なので、イヤならイヤときっぱり云ってしまうならいいのだが、なるたけ相手を怒らせないように、追い詰められるまでは瓢箪鯰に受け流していて、土壇場へ来るとヒョイと寝返る。もう少しで承知しそうな口ぶりを見せて、その実決して「うん」と云わない。気が弱そうで、案外ネチネチした狡い人だと云う印象を与える。福子は亭主が、外のことなら彼女の我が儘を通すくせに、この問題に関する限り、「たか が猫なんぞ」と何でもなさそうに云いながら、中々同意しないのを見ると、リリーに対する愛着が想像以上に深いものとしか思えないので、いよいよ捨てて置けない気がした。
「ちょっと、あんた!………」
その晩彼女は、蚊帳の中に這入ってから又始めた。
「ちょっと、此方向きなさい。」
「ああ、僕眠たい、もう寝さして。………」
「あかん、さっきの話きめてしまわなんだら、寝させへん。」
「今夜に限ったことあるかいな、明日にして。」
表は四枚の硝子戸にカーテンを引いてあるだけなので、軒燈のあかりがぼんやり店の奥へ洩れて来て、もやもやと物が見える中で、庄造は掛け布団をすっかり剥いで仰向きに臥ていたが、そう云うと女房の方へ背中を向けた。
「あんた、そっち向いたらあかん!」
「頼むさかいに寝さしてエな、ゆうべ僕、蚊帳ん中に蚊ア這入っててちょっとも寝られへなんでん。」
「そしたら、わての云う通りしなはるか。早う寝たいなら、それきめなさい。」
「殺生やなあ、何をきめるねん。」
「そんな、寝惚けたふりしたかて、胡麻化されまっかいな。リリー遣んなはるのんか孰方だす? 今はっきり云うて頂戴。」
「明日、―――明日まで考えさして貰お。」
そう云っているうちに、早くも心地よさそうな寝息を立てたが、
「ちょっと!」
と云うと、福子はムックリ起き上って亭主の側にすわり直すと、いやと云う程臀の肉を抓った。
「痛い! 何をするねん!」
「あんた、いつかてリリーに引っ掻かれて、生傷絶やしたことないのんに、わてが抓ったら痛いのんか。」
「痛! ええい、止めんかいな!」
「これぐらい何だんね、猫に掻かすぐらいやったら、わてかて体じゅう引っ掻いたるわ!」
「痛、痛、痛、………」
庄造は、自分も急に起き直って防禦の姿勢を取りながら、続けざまに叫んだ。二階の年寄に聞かせたくないので、大きな声は立てなかったが、抓るかと思うと今度は引っ掻く。顔、肩、胸、腕、腿、所嫌わず攻めて来るので、慌てて避ける度毎にバタン! と云う地響きが家じゅうへ伝わる。
「どないや?」
「もう堪忍、………堪忍!」
「眼エ覚めなはったか?」
「覚めいでかいな! ああ痛、ヒリヒリするわ。………」
「そしたら、今のこと返事しなさい、孰方だす?」
「ああ痛、………」
それには答えないで、顔をしかめながら方々をさすっていると、
「又だっか、胡麻化したらこれだっせ!」
と、二三本の指でモロに頬っぺたをがり ッと行かれたのが、飛び上るほど痛かったらしく、思わず、
「いたア―――」
と泣き声を出したが、途端にリリーまでがびっくりして、蚊帳の外へ逃げ出して行った。
「僕、何でこんな目に遭わんならん。」
「ふん、リリーのためや思うたら、本望だっしゃろが。」
「そんな阿呆らしいこと、まだ云うてるのんか。」
「あんたがはっきりせんうちは、何ぼでも云いまっせ。―――さあ、わてを去なすかリリー遣んなはるか、孰方だす?」
「誰がお前を去なす云うた?」
「そんならリリー遣んなはるのんか?」
「そない孰方かにきめんならんこと………」
「あかん、きめて欲しいねん。」
そう云うと福子は、胸倉を取って小突き始めた。
「さあ孰方や、返事しなさい、早う! 早う!」
「何とまあ手荒な、………」
「今夜はどないなことしたかて堪忍せエしまへんで。さあ、早う! 早う!」
「ええ、もう、ショウがない、リリー遣ってしもたるわ。」
「ほんまだっかいな。」
「ほんまや。」
庄造は眼をつぶって、観念の臍を固めたと云う顔つきをした。
「―――その代り、あと一週間待ってくれへんか。なあ、こないに云うたら又怒られるか知れへんけど、なんぼ畜生にしたかて、此処の家に十年もいてたもん、今日云うて今日追い出す訳に行くかいな。そやさかいに、心残りのないようにせめてもう一週間置いてやって、たんと好きなもん食べさして、出来るだけのことしてやりたいねん。なあ、どないや? お前かてその間ぐらい機嫌直して可愛がってやりいな。猫は執念深いよってにな。」
いかにも懸引のない真情らしく、そうしんみりと訴えられてみると、それには反対が出来なかった。
「そしたら一週間だっせ。」
「分ってる。」
「手エ出しなさい。」
「何や?」
と云っている隙に、素早く指切りをさせられてしまった。
「お母さん」
それから二三日過ぎた夕方、福子が銭湯へ出かけた留守に、店番をしていた庄造は奥の間へ声をかけながら這入って来ると、自分だけの小さなお膳で食事している母親の側へ、モジモジしながら中腰にかがんだ。
「お母さん、ちょっと頼みがありまんねん。―――」
毎朝別に炊いている土鍋の御飯の、お粥のように柔かいのがすっかり冷えてしまったのを茶碗に盛って、塩昆布を載せて食べている母親は、お膳の上へ背を円々と蔽いかぶさるようにしていた。
「あのなあ、福子が急にリリー嫌いや云い出してなあ、品子んとこへ遣ってしまえ云いまんね。………」
「このあいだ、えらい騒ぎしてたやないか。」
「お母さん知ってなはったんか。」
「夜中にあんな音さすよって、わてびっくりして、地震か思うたわ。あれ、そのことでかいな?」
「そうだんが。これ見て御覧、―――」
と、庄造は両腕を突き出して、シャツの袖をまくり上げた。
「これ、そこらじゅう蚯蚓脹や痣だらけだ。顔にかてこれ、まだ痕残ってるやろ。」
「何でそんなことしられたんや?」
「焼餅だんが。―――阿呆らしい、猫可愛がり過ぎる云うて焼餅やくもん、何処の国にあるか知らん、気違い沙汰や。」
「品子かてよう何のかんの云うてたやないか。お前みたいに可愛がったら、誰にしたかて焼餅ぐらい起すわいな。」
「ふうん、―――」
幼い時から母親に甘える癖がついているのが、この歳になってもまだ抜け切れない庄造は、だだ ッ児のように鼻の孔を膨らがして、さも面白くなさそうに云った。
「―――お母さん福子のこと云うたら、味方ばっかりするねんなあ。」
「けどお前、猫であろうと人間であろうと、外のもん可愛がってて、来たばかりの嫁のこと思うてやらなんだら、気イ悪うするのん当り前やで。」
「そら可笑しい。僕、いつかて福子のこと思うてまんが。一番大事にしてまんが。」
「そうに違いないのんやったら、ちょっとぐらいの無理聴いてやりいな。わてあの娘からもその話聞かされてるねんが。」
「それ、いつのことだんね?」
「昨日そない云うてなあ、―――リリーいてたらよう辛抱せんさかい、五六日うちに品子の方へ渡すことに、もうちゃんと約束したある云うねんけど、ほんまかいな。」
「それや。―――したことはしたけど、そんな約束実行せんかて済むように、何とかそこんとこ、あんじょう云うて貰えんやろか。僕お母さんにそれ頼もう思うててん。」
「そうかて、約束通りしてくれなんだら、去なして貰う云うてるねんで。」
「威嚇しや、そんなこと。」
「威嚇しかも知れんけど、そないまでに云うもん聴いてやったらどないや? 又うるさいで、約束違えたら。―――」
庄造は酸っぱいような顔をして、口を尖らせて俯向いてしまった。母から云わせて福子を宥める目算でいたのが、すっかり外れてしまったのである。
「あの娘あんな気象やよってに、ほんまに逃げて行くかも知れん。それもええけど、嫁を放っといて猫可愛がるようなとこへ内の娘遣っとけん! 云われたらどないする? お前よりわてが困るわいな。」
「そしたら、お母さんもリリー追い出してしまえ云やはりまんのんか。」
「そやさかいにな、兎に角ここのとこはあの娘の気持済むように、一遍すう ッと品子の方へ遣ってしまいイな。そないしといて、ええ折を見て、機嫌直った時分に取り戻すこと出来んもんかいな。―――」
そんな、渡してしまったものを先方が返す筈もなし、受け取る筋でもないことは分っていながら、庄造が母親に甘えるように、母親も見え透いた気休めを云って、子供を賺すような風に庄造をあやなす癖があった。そして彼女は、いつでも結局この忰を自分の思い通りに動かしているのだった。
もう若い者はセルを着出した頃だのに、袷の上に薄綿の這入ったジンベエを着て、メリヤスの足袋を穿いている彼女は、小柄で、痩せていて、生活力の衰えきった老婆のように見えるけれども、頭の働きは案外確かで、云うことやすることにソツがないので、「息子よりも婆さんの方がしっかりしている」と、近所ではそう云う評判だった。品子が追い出されたのも、実は彼女が糸を操ったからなので、庄造にはまだ未練があったのだと云う人もある。それやこれやで、この附近では母親を憎む者が多く、一般の同情は品子の方に集まっていたが、彼女に云わせると、いくら姑の気に入らない嫁でも、忰が好きなものならば、出る筈もないし出せる訳もない、やっぱりあれは庄造に飽かれたからだと云う。なるほどそれもそうだけれども、彼女と福子の父親が手を貸さなければ、庄造一人であの女房をいびり出す勇気はなかったと云うのが、間違いのない事実であった。
いったい母親と品子とは、どう云うものか初めから反りが合わなかった。勝気な品子は、落ちどを拾われないように気を附けて、随分姑には勤めていたけれども、そう云う風に抜け目なく立ち廻って行かれることが、又母親の癪に触った。うちの嫁は何処と云って悪いところはないようなものの、何だか親身に世話をして貰う気になれない、それと云うのが、心から年寄を労わってやろうと云う優しい情愛がないからなのだと、母親はよくそう云ったが、つまり嫁も姑も、孰方もしっかり者だったのが不和の原因になったのである。それでも一年半ばかりの間は、表面だけは無事に治まっていたのだったが、その時分から母親のおりんは嫁が面白くないと云って、始終今津の兄の所、庄造には伯父に当る中島の家へ泊まりに行って、二日も三日も帰って来ないようになった。あまり逗留が長いので、品子が様子を見に行くと、お前は帰って庄造を迎いに寄越せと云う。庄造が行くと、伯父や福子までが一緒になって引き止めて、晩になっても帰してくれない。それには何か魂胆があるらしいことは、庄造もうすうす気が付いていながら、甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘われるままに、何処へでもふらふらと喰っ着いて行って、呑気に遊んでいるうちに、とうとう彼女と妙な仲になってしまった。
この伯父と云うのは菓子の製造販売をしていて、今津の町に小さな工場を持っていたばかりでなく、国道沿線に五六軒の家作を建てたりして裕福に暮らしていたのだったが、福子のことでは大分今迄に手を焼いていた。母親が早く亡くなったせいもあるのだろうが、女学校を二年の途中で止めさせられたか、勝手に止めてしまったかしてから、さっぱり尻が落ち着かない。家出をしたことも二度ぐらいあって、神戸の新聞に素ッ葉抜かれたりしたものだから、縁付けようと思っても中々貰い手がなかったし、自分も窮屈な家庭などへは行きたくない。そんなこんなで、何とか早く身を固めさせなければと、父親が焦っている事情に眼を付けたのがおりんであった。福子は自分の娘のようなもので、気心はよく分っているから、アラがあることは差支えない、品行の悪いのは困るけれども、もうそろそろ分別が出てもいい歳だから、亭主を持ったらまさか浮気をすることもあるまい、それにそんなことは大した問題でないと云うのは、この娘にはあの国道の家作が二軒附いていて、そこから上る家賃が六十三円になる。おりんの計算だと、父親がそれを福子の名義に直したのが二年も前のことであるから、その積立が元金だけでも一千五百十二円ある、それだけのものは持参金として持って来る上に、月々今の六十三円が這入るとすると、それらを銀行へ預けておいたら、十年もすれば一と財産出来るので、これが何よりの附けめであった。
尤も彼女は老い先の短かい体であるから慾張ったところで仕方がないが、甲斐性のない庄造がこの先どうして凌いで行くつもりか、それを考えると安心して死んで行けないのであった。何しろ蘆屋の旧国道は、阪急の方が開けたり新国道が出来たりしてから、年々さびれつつあるので、こんなところでいつ迄荒物屋渡世をしていても思わしい訳はないのだけれど、動くにはこの店を売り退かなければならないし、さて売り退いても何処で何を始めようと云う成算がない。庄造はそんなことについてひどく呑気に生れついた男で、貧乏を苦にしない代りには、一向商売に身を入れない。十三四の頃、夜学へ通いながら西宮の銀行の給仕に使われ、青木のゴルフ練習場のキャディーにも雇われ、年頃になってからはコックの見習を勤めたりしたけれど、何処も長つづきがしないで怠けているうちに父親が亡くなって、それから此方荒物屋の亭主で納まってしまった。ぜんたい店の商売などは母親に任して置いて、兎に角男一匹が何かしら職を求めたらよいのに、国道筋でカフェエを始めたいからと伯父に出資を申し込んで、意見されたことがあった外には、猫を可愛がることと、球を撞くことと、盆栽をいじくることと、安カフェエの女をからかいに行くことぐらいより、何の仕事も思い付かない。そうして今から足かけ四年前、二十六の歳に畳屋の塚本を仲人に立てて、山蘆屋の或る邸に奉公していた品子を嫁に貰ったのだが、その時分から商売の方がいよいよ上ったりになって、毎月の遣り繰りに骨が折れて来た。親の代から蘆屋に住んでいるお蔭で、長年の顔があるところから、暫くは無理が利いたけれども、坪十五銭の地代が二年近くも滞って、百二三十円にもなっているのは、どうにも返済の見込みが立たない。で、もう庄造をアテにしないことにきめた品子は、仕立物などを頼まれたりして暮らしの補いをつけていたばかりか、折角お給金を溜めて一通り拵えて来た荷物にさえ手をつけて、僅かの間に減らしてしまった。そんな訳だから、今更その嫁を追い出そうと云うのは無慈悲な話で、近所の同情が彼女の方へ集まったのも当然であるが、おりんにしてみれば、背に腹は換えられなかったし、子種のないと云うことが難癖をつけるのに都合が好かった。それに福子の父親迄が、そうすれば娘の身が固まるし、甥の一家を救ってもやれるし、双方のためだと考えたのが、おりんの工作に油を注ぐ結果となった。
それ故福子が庄造と出来てしまったのには、父親やおりんの取り持ちがあったに違いないのであるが、一体そんなことがなくとも、庄造は割りに誰にでも好かれるたちであった。別に美男子なのではないが、幾つになっても子供っぽいところがあって、気だてが優しいせいかも知れない。キャディーの時代にはゴルフ場へ来る紳士や夫人たちに可愛がられて、盆暮の附け届を誰よりも余計貰ったし、カフェエなどでも案外持てるので、僅かなお金で長く遊んで来ることを覚えてしまい、そんなところからのらくら の癖がついたのだった。が、何にしてもおりんから云えば、自分がいろいろ細工をしてやっと我が家へ迎え入れる迄に漕ぎ付けた、持参金附きの嫁御寮であるから、尻の軽い彼女に逃げられないように、忰と二人で精々機嫌を取らなければならない訳で、猫のことなどは勿論始めから問題でなかった。いや、実を云うと、おりんも内々猫には閉口していたのであった。元来リリーと云う猫は、神戸の洋食屋に住み込んでいた庄造が帰って来る時に連れて来たのだが、これがいるために家の中が汚れること夥しい。庄造に云わせると、この猫は決して粗※ 《そそう》をしない、用をする時は必ずフンシへ這入ると云う。いかにもその点は感心だけれど、戸外にいてもわざわざフンシへ這入るために戻って来ると云う調子なので、フンシが非常に臭くなって、その悪臭が家中に充満するのである。おまけに臀の端へ砂を着けたまま歩き廻るので、畳がいつもザラザラになる。雨の日などは臭が一層強く籠ってむッとするところへ持って来て、おもてのぬかるみを歩いたままで上って来るから、猫の脚あとが此処彼処に点々とする。庄造は又、この猫は戸でも襖でも障子でも、引き戸でさえあれば人間と同じに開ける、こんな賢いのは珍しいと云う。だが畜生の浅ましさには、開けるばかりで締めることを知らないから、寒い時分には通ったあとを一々締めて廻らなければならない。それもいいけれども、そのために障子は穴だらけ、襖や板戸は爪の痕だらけになる。それから困るのは、生物、煮物、焼物の類をうっかりその辺へ置くことが出来ない、ぼんやりしていると直ぐ食べられてしまうので、お膳立てをするほんの僅かな間でも、水屋か蠅帳へ一応入れて置かなければならない。いやいや、もっとひどいことは、この猫は臀の始末はよいが、口の始末が悪くて、ときどき嘔吐するのである。それと云うのは、庄造が例の曲芸に熱中して幾らでも餌を投げてやるので、つい食い過ぎるせいなのであるが、晩飯の後でチャブ台を除けると、その辺に一杯毛が落ちていて、食いかけの魚の頭だの尻尾だのがたくさん散らばっているのである。
品子が嫁に来る迄は、台所の世話や拭き掃除は一切おりんの役だったから、リリーのためには随分泣かされている訳なのだが、今日まで我慢していたのは一つの出来事があったからだった。と云うのは、たしか五六年前に、無理に庄造を説き付けて、一度この猫を尼ヶ崎の八百屋へ遣ったことがあったが、やがて一と月もした時分に、或る日ヒョッコリ蘆屋の家へ独りで帰って来たのである。犬なら不思議はないけれども、猫が前の主人を慕って五六里の道を戻って来るとは、あまりイジラシイ話なので、それ以来庄造の可愛がりようは旧に倍したのみならず、おりんも流石に不憫を感じたのか、或は多少薄気味悪く思ったのか、もうそれからは何も云わないようになった。そして品子が来てからは、福子と同じ理由から、―――と云うのは嫁をいじめるために、却ってリリーの存在が便利を与えることがあるので、やさしい言葉の一つぐらいは時々かけてやっていたのである。だから庄造は、その母親までが突然福子の味方をし出した様子を見ては、心外でたまらないのであった。
「けど、リリーやったら遣ったかて又戻って来まっせ。なんせ尼ヶ崎からでも戻って来る猫やさかいにな。」
「ほんになあ、今度はまるきり知らん人やあれへんよって、そこは何とも分らんけど、戻って来たら又置いてやったらええがな。ま、兎も角も遣ってみてみいな。―――」
「ああ、どうしよう、困ったなあ。」
庄造は頻りに溜息をついて、まだ何かしら粘ってみようとしていたが、その時おもてに足音がして、福子が風呂から帰って来た。
「塚本君、分ってまんなあ? これ、なるべくそっ と持って行かんと、乱暴に振ったらあきまへんで。猫かて乗物に酔うさかいになあ。」
「そない何遍も云わんかて、分ってまんが。」
「それから、これや、」
と、新聞紙にくるんだ、小さな平べったい包みを出して、
「実はなあ、いよいよこれがお別れやさかいに、出がけに何ぞおいしいもん食べさしてやりたい思いまんねんけど、乗物に乗る前に物食べさしたら、えらい苦しみまんねん。それでなあ、この猫鶏の肉が好きやよってに、僕、自分でこれ買うて来て、水煮きにしときましたさかい、彼方へ着いたら直き食べさしてやるように云うとくなはれしまへんか。」
「よろしおます。あんじょう持って行きますよって安心しなはれ。―――そんなら、もう用事おまへんか。」
「ま、ちょっと待っとくなはれ。」
そう云うと庄造は、バスケットの蓋を開けて、もう一度しっかり抱き上げて、
「リリー」
と云いながら頬擦りをした。
「お前な、彼方へ行ったらよう云うこと聴くんやで。彼方のあの人、もう先みたいにいじめたりせんと、大事にして可愛がってくれるさかいに、ちょっとも恐いことないで。ええか、分ったなあ。―――」
抱かれることが嫌いなリリーは、あまり強く締められたので脚をバタバタやらしたが、バスケットの中へ戻されると、二三度周囲を突ッついてみただけで、とても出られないとあきらめたらしく、急に静まり返ってしまったのが、ひとしお哀れをそそるのであった。
庄造は、国道のバスの停留所まで送って行きたかったのであるが、今日から当分の間、風呂へ行く以外は一歩も外出してはならぬと、女房から堅く止められているので、バスケットを提げた塚本が出て行ったあと、気抜けがしたようにぽつねんと店にすわっていた。福子が外出を禁じた訳は、リリーの様子を気遣う余りついふらふらと品子の家の近所ぐらいまで行くかも知れないからであったが、事実庄造自身にも、そう云う懸念がないことはなかった。そしてこの迂濶な夫婦は、猫を渡してしまってから、始めて品子のほんとうの腹が分りかけて来たのである。
成る程、リリーを囮に己を呼び寄せようと云う気だったのか。あの家の近所をうろうろしたら、掴まえて口説き落そうとでも云うのか。―――庄造はそこへ気がついてみると、いよいよ品子の陰険さ加減が憎くなったが、そんな道具に使われるリリーの身の上に、一層可哀さが増して来た。唯一の望みは、尼ヶ崎から逃げて帰って来たように、阪急の六甲にある品子の家から逃げて来はせぬかと云うことであった。実は水害の後の仕事で忙しい塚本が、夜受け取りに来ると云ったのを、朝にして貰ったのも、明るい時に連れて行かれたら道を覚えているであろう、そうしたら逃げて来るのも容易であろうと、そんな心積りがあったからだが、それにつけても思い出されるのは、この前、尼ヶ崎から戻って来たあの朝のことだった。何でもあれは秋の半ば時分であったが、或る日、ようよう夜が明けたばかりの頃、眠っていた庄造は「ニャア」「ニャア」と云う耳馴れた啼き声に眼を覚ました。その時分は独身者の庄造が二階に寝、母親が階下に寝ていたが、朝が早いのでまだ雨戸が締まっているのに、つい近いところで「ニャア」「ニャア」と猫が啼いているのを、夢うつつのうちに聞いていると、どうもリリーの声のように思えて仕方がない。一と月も前に尼ヶ崎へ遣ってしまったものが、まさか今頃こんな所にいる筈はないが、聞けば聞くほどよく似ている。バリバリと裏のトタン屋根を蹈む音がして、直ぐ窓の外に来ているので、兎に角正体を突き止めようと急いで跳ね起きて、窓の雨戸を開けてみると、つい鼻の先の屋根の上を往ったり来たりしているのが、たいそう窶れてはいるけれどもリリーに違いないのであった。庄造はわが眼を疑う如く、
「リリー」
と呼んだ。するとリリーは
「ニャア」
と答えて、あの大きな眼を、さも嬉しげに一杯に開いて見上げながら、彼が立っている肘掛窓の真下まで寄って来たが、手を伸ばして抱き上げようとすると、体を躱してすう ッと二三尺向うへ逃げた。しかし決して遠くへは行かないで、
「リリー」
と呼ばれると、
「ニャア」
と云いながら寄って来る。そこを掴まえようとすると、又するすると手の中を脱けて行ってしまう。庄造は猫のこう云う性質がたまらなく好きなのであった。わざわざ戻って来るくらいだから、余程恋いしかったのであろうに、そのなつかしい家に着いて、久しぶりで主人の顔を見たのでありながら、抱こうとすれば逃げてしまう。それは愛情に甘えるしぐさ のようでもあるし、暫く会わなかったのがキマリが悪くて、羞渋んでいるようでもある。リリーはそう云う風にして、呼ばれる度に「ニャア」と答えつつ屋根の上をうろうろした。庄造は、彼女が痩せていることは最初から気が付いていたけれど、なおよく見ると、一と月前よりは毛の色つやが悪くなっているばかりでなく、頸の周りだの尾の周りだのが泥だらけになっていて、ところどころに薄の穂などが喰っ着いていた。貰われて行った八百屋の家も猫好きだと云う話であったから、虐待されていた筈はないので、これは明かに、一匹の猫が尼ヶ崎から此処までひとりで辿って来る道中の難儀を語るものだった。こんな時刻に此処へ着いたのは、昨夜じゅう歩きつづけたのに違いないけれども、多分一と晩ぐらいではあるまい、もう幾晩も幾晩も、恐らくは数日前に八百屋の家を逃げ出して、方々で道に迷いながら、ようよう此処まで来たのであろう。彼女が人家つづきの街道を一直線に来たのでないことは、あのすすきの穂を見ても分る。それにしても、猫は寒がりなものであるのに、朝夕の風はどんなに身に沁みたことであろう。おまけに今は村しぐれの多い季節でもあるから、定めし雨に打たれて叢へもぐり込んだり、犬に追われて田圃の中へ隠れたりして、食うや食わずの道中をつづけて来たのだ。そう思うと、早く抱き上げて撫でてやりたくて、何度も窓から手を出したが、そのうちにリリーの方も、羞渋みながらだんだん体を擦り着けて来て、主人の為すが儘に任せた。
その時のリリーは、一週間ほど前から尼ヶ崎の方で姿を見なくなっていたことが、後に問い合わせて知れたのであったが、今も庄造は、あの朝の啼きごえと顔つきとを忘れることが出来ないのである。そればかりでなく、この猫についてはまだこの外にも数々の逸話があって、あの時はあんな顔をした、あんな声を出したと云う記憶が、いろいろの場合に残っているのである。たとえば庄造は、初めてこの猫を神戸から連れて来た日のことをはっきりと思い出すのであるが、それは最後に奉公をしていた神港軒から暇を貰って蘆屋へ帰った時であるから、彼がちょうど二十歳の年、つまり父親が亡くなった年の、四十九日の頃だった。その前彼は、三毛猫を一度、それが死んでからは「クロ」と呼んでいた真っ黒な雄猫を、コック場で飼っていたのであるが、そこへ出入の肉屋から、欧洲種の可愛らしいのがいるからと云って、生後三ヶ月ばかりになる雌の仔猫を貰ったのが、リリーだったのである。それで暇を貰う時にもクロはコック場へ置いて来てしまったが、仔猫の方は手放すのが惜しくて、行李と一緒に或る商店のリヤカーの隅へ積んで貰って、蘆屋の家へ運んだのであった。
肉屋の主人の話だと、英吉利人はこう云う毛並みの猫のことを鼈甲猫と云うそうであるが、茶色の全身に鮮明な黒の斑点が行き亙っていて、つやつやと光っているところは、成る程研いた鼈甲の表面に似ている。何にしても庄造は、今日までこんな毛並みの立派な、愛らしい猫を飼ったことがなかった。ぜんたい欧洲種の猫は、肩の線が日本猫のように怒っていないので、撫で肩の美人を見るような、すっきりとした、イキな感じがするのである。顔も日本種の猫だと一般に寸が長くって、眼の下あたりに凹みがあったり、頬の骨が飛び出ていたりするけれども、リリーの顔は丈が短かく詰まっていて、ちょうど蛤を倒まにした形の、カッキリとした輪郭の中に、すぐれて大きな美しい金眼と、神経質にヒクヒク蠢めく鼻が附いていた。だが庄造がこの仔猫に惹き附けられたのは、そう云う毛なみや顔だちや体つきのためではなかった。もしも外形だけで云うなら、庄造だってもっと美しい波斯猫だの暹羅猫だのを知っているが、でもこのリリーは性質が実に愛らしかった。蘆屋へ連れて来た当座は、まだほんとうに小さくて、掌の上へ乗る程であったが、そのお転婆でやんちゃ なことは、とんと七つか八つの少女、―――いたずら盛りの、小学校一二年生ぐらいの女の児と云う感じだった。そして彼女は今よりもずっと身軽で、食事の時に食物を摘まんで頭の上へ翳してやると、三四尺の高さまで跳び上ったので、すわっていては直ぐ跳び着かれてしまうから、しばしば食事の最中に立ち上らねばならなかった。彼はその時分からあの曲芸を仕込んだのであるが、箸の先に摘まんだ物を、三尺、四尺、五尺、と云う風に、跳び着く毎にだんだん高くして行くと、しまいには着物の膝へ跳び着いて、胸から肩へすばしッこく這い上って、鼠が梁を渡るように、箸の先まで腕を渡って行ったりした。或る時などは店のカーテンに跳び着いて、天井の方までクルクルと這い上って、端から端へ渡って行って、又カーテンに掴まって降りて来る、―――そんな動作を水車のように繰り返した。それに、そう云う幼い時から非常に表情が鮮やかで、眼や、口元や、小鼻の運動や、息づかいなどで心持の変化をあらわすことは、人間と少しも違わなかった。就中そのぱっちりした大きな眼球は、いつも生き生きとよく動いて、甘える時、いたずらをする時、物に狙いを付ける時、どんな時でも愛くるしさを失わなかったが、一番可笑しいのは怒る時で、小さい体をしている癖に、やはり猫なみに背を円くして毛を逆立て、尻尾をピンと跳ね上げながら、脚を蹈ん張ってぐっ と睨まえる恰好と云ったら、子供が大人の真似をしているようで、誰でもほほ笑んでしまうのであった。
庄造は又、リリーが始めてお産をした時の、あの訴えるようなやさしい眼差を、忘れることが出来ないのであった。それは蘆屋へ連れて来てから半年ほど過ぎた時分であったが、或る日の朝、産気づいた彼女はしきりにニャアニャア云いながら彼の後を追って歩くので、サイダの空き函へ古い座布団を敷いたのを押入の奥の方に据えて、そこへ抱いて行ってやると、暫くの間は函に這入っているけれども、直きに襖を開けて出て来て、又啼きながら追いかける。その啼きごえは今まで彼が聞いたことのない声だった。「ニャア」とは云っているのだが、その「ニャア」の中に、今までの「ニャア」が含んでいなかった異様な意味が籠っていた。まあ云ってみれば、「ああどうしたらいいでしょう、何だか急に体の工合が変なのです、不思議な事が起りそうな予感がします、こんな気持はまだ覚えがありません、ねえ、どうしたと云うのでしょう、心配なことはないのでしょうか?」―――と、そう云うように聞えるのであった。でも庄造が、
「心配せんかてええねんで。もう直きお前、お母さんになるねんが。………」
と、そう云って頭を撫でてやると、前脚を膝へ乗せて来て、縋り着くような様子をして、
「ニャア」
と云いながら、彼の言葉を一生懸命理解しようとするかのように、眼の球をキョロキョロさせた。それからもう一度押入の所へ抱いて行って、函の中へ入れてやって、
「ええか、此処にじっとしてるねんで。出て来たらあかんで。ええなあ? 分ってるなあ?」
と、しんみり云って聴かせてから、襖を締めて立とうとすると、「待って下さい、何卒そこにいて下さい」
とでも云うように、又
「ニャア」
と云って悲しげに啼いた。だから庄造もついその声に絆されて、細目に開けて覗いてみると、行李だの風呂敷包みだのいろいろな荷物が積んである押入の、一番奥の突きあたりにある函の中から首を出して、
「ニャア」
と云っては此方を見ている。畜生ながらまあ何と云う情愛のある眼つきであろうと、その時庄造はそう思った。全く、不思議のようだけれども、押入の奥の薄暗い中でギラギラ光っているその眼は、最早やあのいたずらな仔猫の眼ではなくなって、たった今の瞬間に、何とも云えない媚びと、色気と、哀愁とを湛えた、一人前の雌の眼になっていたのであった。彼は人間の女のお産を見たことはないが、もしその女が年の若い美しい人であったら、きっとこの通りの、恨めしいような切ないような眼つきをして、夫を呼ぶに違いないと思った。彼は幾度も襖を締めて立ち去りかけては、又戻って来て覗いてみたが、その度毎にリリーも函から首を出して、子供が「居ない居ないばあ」をするように此方を見た。
そうしてそれが、もう十年も前のことなのである。而も品子が嫁に来たのがようよう四年前であるから、それまで六年の間と云うもの、庄造は蘆屋の家の二階で、母親の外にはただこの猫を相手にしつつ暮らしたのである。それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、不愛想であるとか、利己主義であるとか云うのを聞くと、いつも心に思うのは、自分のように長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分るものか、と云うことだった。なぜかと云って、猫と云うものは皆幾分か羞渋みやのところがあるので、第三者が見ている前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所々々しく振舞うのである。リリーも母親が見ている時は、呼んでも知らんふりをしたり、逃げて行ったりしたけれども、さし向いになると、呼びもしないのに自分の方から膝へ乗って来て、お世辞を使った。彼女はよく、額を庄造の顔にあてて、頭ぐるみぐいぐい と押して来た。そうしながら、あのザラザラした舌の先で、頬だの、頤だの、鼻の頭だの、口の周りだのを、所嫌わず舐め廻した。夜は必ず庄造の傍に寝て、朝になると起してくれたが、それも顔じゅうを舐めて起すのであった。寒い時分には、掛け布団の襟をくぐって、枕の方からもぐり込んで来るのであったが、寝勝手のよい隙間を見付け出す迄は、懐の中へ這入ってみたり、股ぐらの方へ行ってみたり、背中の方へ廻ってみたりして、ようよう或る場所に落ち着いても、工合が悪いと又直ぐ姿勢や位置を変えた。結局彼女は、庄造の腕へ頭を乗せ、胸のあたりへ顔を着けて、向い合って寝るのが一番都合がよいらしかったが、もし庄造が少しでも身動きをすると、勝手が違って来ると見えて、そのつど体をもぐもぐさせたり、又別の隙間を捜したりした。だから庄造は、彼女に這入って来られると、一方の腕を枕に貸してやったまま、なるべく体を動かさないように行儀よく寝ていなければならなかった。そんな場合に、彼はもう一方の手で、猫の一番喜ぶ場所、あの頸の部分を撫でてやると、直ぐにリリーはゴロゴロ云い出した。そして彼の指に噛み着いたり、爪で引っ掻いたり、涎を垂らしたりしたが、それは彼女が興奮した時のしぐさなのであった。
そう云えば一度庄造が布団の中で放屁を鳴らすと、その布団の上の裾の方に寝ていたリリーが、びっくりして眼を覚まして、何か奇態な啼き声を出す怪しい奴が隠れているとでも思ったのであろう、さも不審そうな眼をしながら、大急ぎで布団の中を捜し始めたことがあった。又或る時は、嫌がる彼女を無理に抱き上げようとしたら、手から脱け出て、体を伝わって降りて行く拍子に、非常に臭い瓦斯を洩らしたのが、まともに庄造の顔にかかった。たしかその時は食事の後で、今御馳走を食べたばかりの、ハチ切れそうにふくらんだリリーのお腹を、偶然庄造が両手でギュッと押さえたのである。そして運悪くも、ちょうど彼女の肛門が彼の顔の真下にあったので、膓から出る息が一直線に吹き上げたのだが、その臭かったことと云ったら、いかな猫好きもその時ばかりは、
「うわッ」
と云って彼女を床へ放り出した。鼬の最後ッ屁と云うのも恐らくこんな臭さであろうが、全くそれは執拗な臭いで、一旦鼻の先へこびり着いたら、拭いても洗っても、シャボンでゴシゴシ擦っても、その日一日じゅう抜けないのであった。
庄造はよく、リリーのことで品子といさかいをした時分に、「僕リリーとは屁まで嗅ぎ合うた仲や」などと、嫌味めかして云ったものだが、十年の間も一緒に暮らしていたとすれば、たとい一匹の猫であっても、因縁の深いものがあるので、考えようでは、福子や品子より一層親しいとも云えなくはない。事実品子と連れ添うていたのは、足かけ四年と云うけれども正味は二年半ほどであるし、福子も今のところでは、来てからやっと一と月にしかならないのである。そうしてみれば長の年月を共にしていたリリーの方が、いろいろな場合の回想と密接につながっている訳で、つまりリリーと云うものは、庄造の過去の一部なのである。だから庄造は、今更手放すのが辛いのは当り前の人情ではないか、それを物好きだの、猫気違いだのと、何か大変非常識のように云われる理由がないと思うのであった。そして福子の迫害と、母親の説教ぐらいで、脆くも腰が挫けてしまって、あの大切な友達をむざむざ他人の手へ渡した自分の弱気と腑甲斐なさとが、恨めしくなって来るのであった。何で自分はもっと正直に、男らしく、道理を説いてみなかったのだろう。何で女房にも母親にも、もっともっと剛情を張り通さなかったのであろう。そうしたところで最後には矢張負かされて、同じ結果を見たかも知れぬが、でもそれだけの反抗もせずにしまったのでは、リリーに対して如何にも義理が済まないのであった。
もしもリリーが、あの尼ヶ崎へ遣った時代にあれきり戻って来なかったとしたら?―――あの時だったら、彼も一旦同意を与えて他家へ譲ったのであるから、きれいにあきらめもしたであろう。だがあの朝、トタン屋根の上で啼いていたのをやっと掴まえて、頬ずりをしながら抱き締めた瞬間に、ああ、不憫なことをした、己は残酷な主人だった、もうどんなことがあっても誰にもやるものか、死ぬまで此処に置いてやるのだと、心に誓ったばかりでなく、リリーとも堅い約束をした気持だった。それを今度、又あんな風にして追い出してしまったかと思うと、非常に薄情な、むごいことをしたと云う感じが胸に迫って来るのであった。その上可哀そうなのは、この二三年めっきり歳を取り出して、体のこなしや、眼の表情や、毛の色つやなどに、老衰のさまがありありと見えていたのである。全く、それもその筈で、庄造が彼女をリヤカーへ乗せて此処へ連れて来た時は、彼自身がまだ二十歳の青年だったのに、もう来年は三十に手が届くのである。まして猫の寿命から云えば、十年と云う歳月は、多分人間の五六十年に当るであろう。それを思えば、もう一と頃の元気がないのも道理であるとは云うものの、カーテンの頂辺へ登って行って綱渡りのような軽業をした仔猫の動作が、つい昨日のことのように眼に残っている庄造は、腰のあたりがゲッソリと痩せて、俯向き加減に首をチョコチョコ振りながら歩く今日この頃のリリーを見ると、諸行無常の理を手近に示された心地がして、云うに云われず悲しくなって来るのであった。
彼女がいかに衰えたかと云うことを証明する事実はいくらもあるが、たとえば跳び上り方が下手になったのもその一つの例なのである。仔猫の時分には、実際庄造の身の丈ぐらい迄は鮮やかに跳んで、過たずに餌を捉えた。又必ずしも食事の時に限らないで、いつ、どんな物を見せびらかしても、直ぐ跳び上った。ところが歳を取る毎に跳び上る度数が少くなり、高さが低くなって行って、もう近頃では、空腹な時に何か食物を見せられると、それが自分の好物であるか否かをたしかめた上で、始めて跳び上るのであるが、それでも頭上一尺ぐらいの低さにしなければ駄目なのである。もしもそれより高くすると、もう跳ぶことをあきらめて、庄造の体を登って行くか、それだけの気力もない時は、ただ食べたそうに鼻をヒクヒクさせながら、あの特有な哀れっぽい眼で彼の顔を見上げるのである。「もし、どうか私を可哀そうだと思って下さい。実はお腹がたまらないほど減っているので、あの餌に跳び着きたいのですが、何を云うにもこの歳になって、とても昔のような真似は出来なくなりました。もし、お願いです、そんな罪なことをしないで、早くあれを投げて下さい。」―――と、主人の弱気な性質をすっかり呑み込んでいるかのように、眼に物を云わせて訴えるのだが、品子が悲しそうな眼つきをしてもそんなに胸を打たれないのに、どう云うものかリリーの眼つきには不思議な傷ましさを覚えるのであった。
仔猫の時にはあんなに快活に、愛くるしかった彼女の眼が、いつからそう云う悲しげな色を浮かべるようになったかと云うと、それがやっぱりあの初産の時からなのである。あの、押入の奥のサイダの函から首を出して術なさそうに見ていた時、―――あの時から彼女の眼差に哀愁の影が宿り始めて、そののち老衰が加わるほどだんだん濃くなって来たのである。それで庄造は、ときどきリリーの眼を視詰めながら、悧巧だと云っても小さい獣に過ぎないものが、どうしてこんな意味ありげな眼をしているのか、何かほんとうに悲しいことを考えているのだろうかと、思う折があった。前に飼っていた三毛だのクロだのは、もっと馬鹿だったせいかも知れぬが、こんな悲しい眼をしたことは一度もない。そうかと云って、リリーは格別陰鬱な性質だと云うのでもない。幼い頃は至ってお転婆だったのだし、親猫になってからだって、相当に喧嘩も強かったし、活溌に暴れる方であった。ただ庄造に甘えかかったり、退屈そうな顔をして日向ぼっこなどをしている時に、その眼が深い憂いに充ちて、涙さえ浮かめているかのように、潤いを帯びて来ることがあった。尤もそれも、その時分にはなまめかしさの感じの方が強かったのだが、年を取るに従って、ぱっちりしていた瞳も曇り、眼のふちには眼脂が溜って、見るもトゲトゲしい、露わな哀傷を示すようになったのである。で、これは事に依ると、彼女の本来の眼つきではなくて、その生い立ちや環境の空気が感化を与えたのかも知れない、人間だって苦労をすると顔や性質が変るのだから、猫でもそのくらいなことがないとは云えぬ、―――と、そう考えると、尚更庄造はリリーに済まない気がするのである。それと云うのは、今迄十年の間と云うもの、成る程随分可愛がってはやったけれども、いつでもたった二人ぎりの、淋しい心細い生活ばかり味わせて来たのであった。何しろ彼女が連れて来られたのは、母親と庄造と、親一人子一人の時代だったから、とても神港軒のコック場のように賑やかではなかった。そこへ持って来て母親が彼女をうるさがるので、忰と猫とは二階でしんみり暮らさなければならなかった。そう云う風にして六年の歳月を送った後に、品子が嫁に来たのであるが、それは結局、この新しい侵入者から邪魔者扱いされることになって、一層リリーを肩身の狭い者にしてしまった。
いや、もっともっと済まないことをしたと思うのは、せめて仔猫を置いてやって、養育させればよかったのに、仔が生れると成るべく早く貰い手を捜して分けてしまい、一匹も家へ残さない方針を取ったのであった。そのくせ彼女は実によく生んだ。外の猫が二度お産をする間に、三度お産をした。相手は何処の猫か分らなかったが、生れた仔猫たちは混血児で、鼈甲猫の俤を幾分か備えているものだから、割合に希望者が多かったけれども、時にはそうっと海岸へ持って行ったり、蘆屋川の堤防の松の木蔭などへ捨てて来たりした。これは母親への気がねのためであることは云う迄もないが、庄造自身も、リリーが早く老衰するのは、一つは多産のせいかも知れぬ、だから姙娠を止めることが出来ないなら、乳を飲ませることだけでも控えさせた方がよいと、そう云う頭で取り計らいもしたのであった。実際彼女は、お産の度毎に眼に見えて老けて行った。庄造は、彼女がカンガルーのように腹を膨らして、切なげな眼つきをしているのを見ると、
「阿呆やなあ、そないに何遍も腹ぼて になったら、お婆さんになるばかりやないか。」
と、いつも不憫そうな口調で云った。雄なら去勢して上げるが、雌では手術しにくいと云われて、
「そんなら、エッキス光線かけとくなはれしまへんか。」
と、そう云って獣医に笑われたこともあった。だが庄造にしてみれば、それやこれやも彼女のためを思ってのことで、無慈悲な扱いをした積りではなかったのだが、何と云っても、身の周りから血族を奪ってしまったことは、彼女をへんにうら淋しい、影の薄いものにしたことは否まれなかった。
そう云う風に数えて行くと、彼は随分リリーに「苦労」をかけたと云う気がするのである。彼の方が彼女のお蔭で慰められているわりに、リリーの方は一向楽をしていないように思えるのである。殊に最近の一二年、夫婦の不和と生計の困難とで始終家の中がゴタゴタしていた間、リリーもそれに捲き込まれて、どうしたらよいか身の置きどころがないように狼狽えていたことがあった。母親が今津の福子の家から迎いを寄越して、庄造に呼び出しをかけたりすると、品子より先にリリーが彼の裾へ縋って、あの悲しい眼で引き止めたりした。それでも振り切って出て行くと、犬のように後を追いかけて、一丁も二丁も附いて来た。だから庄造も、品子のことよりは彼女のことが心配になって、なるべく早く帰るようにしたのであったが、二日も三日も泊まって来た時などは、気のせいかも知れぬが、その眼の色に又一段と暗い影が添わっていた。
もうこの猫も余命幾何もないのではないか、―――と、この頃になって彼はしばしばそんな予感を覚えるにつけ、そう云う夢を見たことも一度や二度ではないのであった。その夢の中の庄造は、親兄弟に死に別れでもしたような悲嘆に沈み、涙で顔を濡らしているのだが、もしほんとうにリリーの死に遭うことがあったら、彼の嘆き方は夢の中のそれにも劣らないような気がするのである。で、そんな工合にそれからそれへと考え始めると、彼女をおめおめ譲ってしまったことが、又もう一度口惜しく、情なく、腹立たしくなって来るのであった。そして彼女のあの眼つきが、何処かの隅から恨めしそうに此方を見ているように思えて仕方がなかった。今更悔んでも追っ付かないことだけれども、あんなに老衰していたものを、なぜむごたらしく追い遣ってしまったのだろう。なぜこの家で死なしてやらなかったのだろう。………
「あんた、何で品子さんあの猫欲しがってたのんか、その訳分ってなはるか。―――」
その日の夕方、例になくひっそりとしたチャブ台に向って、しょんぼり杯のふちを舐めている亭主を見ながら、福子が照れ臭そうな調子で云うと、
「さあ、何でやろ。」
と、庄造はちょっと空惚けた。
「リリー自分のとこへ置いといたら、きっとあんたが会いに来るやろ云うところやねん。なあ、そうだっしゃろが。」
「まさか、そんな阿呆らしいこと、………」
「きっとそうに違いないねん。わて今日やっと気イ付いたわ。あんたその手に乗らんようにしとくなはれや。」
「分ってる、誰が乗るかいな。」
「きっとやなあ?」
「ふふ」
と庄造は鼻の先で笑って、
「念押すまでもないこッちゃないか。」
と、又杯のふちを舐めた。
今日は忙しおますさかいに、もう上らんと帰りますわと、玄関先にバスケットを置いて、塚本が出て行ってしまってから、品子はそれを提げたまま狭い急な段梯子を上って、自分の部屋に当てられた二階の四畳半に這入って行った。そして、出入口の襖だのガラス障子だのをすっかり締め切ってしまってから、バスケットを部屋のまん中に据えて、蓋を開けた。
奇妙な事に、リリーは窮屈な籠の中から直ぐには外へ出ようとせずに、不思議そうに首だけ伸ばして暫く室内を見廻していた。それから漸く、ゆるゆるとした足どりで出て来て、こう云う場合に多くの猫がするように、鼻をヒクつかせながら部屋じゅうの匂を嗅ぎ始めた。品子は二三度、
「リリー」
と呼んでみたけれども、彼女の方へはチラリとそっけない流眄を与えたきりで、先ず出入口と押入の閾際へ行って匂を嗅いで見、次ぎには窓の所へ行ってガラス障子を一枚ずつ嗅いで見、針箱、座布団、物差、縫いかけの衣類など、その辺にあるものを一々丹念に嗅いで廻った。品子はさっき、鶏肉の新聞包を預かったことを思い出して、その包のまま通り路へ置いてみたけれども、それには興味を感じないらしく、ちょっと嗅いただけで、振り向きもしない。そして、バサリ、バサリ、………と、畳の上に無気味な足音をさせながら、一と通り室内捜索をしてしまうと、もう一遍出入口の襖の前へ戻って来て、前脚をかけて開けようとするので、
「リリーや、お前きょうからわての猫になったんやで。もう何処へも行ったらあかんねんで。」
と、そう云ってそこに立ち塞がると、又仕方なくバサリ、バサリと歩き廻って、今度は北側の窓際へ行き、恰好な所に置いてあった小裂箱の上に上って、背伸びをしながらガラス障子の外を眺めた。
九月も昨日でおしまいになって、もうほんとうの秋らしく晴れた朝であったが、少し寒いくらいの風が立って、裏の空地に聳えている五六本のポプラーの葉が白くチラチラ顫えている向うに、摩耶山と六甲の頂が見える。人家がもっと建て込んでいる蘆屋の二階の景色とは、大分様子が違うのだけれども、リリーはいったいどんな気持で見ているのだろうか。品子は図らずも、よくこの猫と二人きりで置き去りにされたことがあったのを思い出した。庄造も、母親も、今津へ出かけたきり帰らないので、一人ぼっちでお茶漬を掻っ込んでいると、その音を聞いてリリーが寄って来る。ああ、そうだった、御飯をやるのを忘れていたが、お腹が減っているのだろうと、さすがに可哀そうになって、残飯の上に出し雑魚を載せてやると、贅沢な食事に馴れているせいか嬉しそうな顔もしないで、ほんの申訳ぐらいしか食べないものだから、つい腹が立って、折角の愛情も消し飛んでしまう。夜は夫の寝床を敷いて、帰るかどうか分らない人を待ち侘びていると、その寝床の上へ遠慮会釈もなく乗って来て、のうのうと脚を伸ばす憎らしさに、寝かけたところを叩き起して追い立ててやる。そんな工合に、随分この猫には当り散らしたものだけれども、再びこうして一緒に暮すようになったのは、やっぱり因縁と云うのであろう。品子は自分が蘆屋の家を追い出されて来て、始めてこの二階に落ち着いた時にも、あの北側の窓から山の方を眺めながら、夫恋いしさの思いに駈られたことがあるので、今のリリーがああして外を見ている心持もぼんやり分るような気がして、ふと眼頭が熱くなって来るのであった。
「リリーや、さ、此方へ来て、これ食べなさい。―――」
やがて彼女は、押入の襖を開けて、かねて用意をしておいたものを取り出しながら云うのであった。彼女は昨日塚本の端書を受け取ったので、いよいよ此処へ連れて来られる珍客を※ 待するために、今朝はいつもより早起きをして、牧場から牛乳を買って来るやら、皿やお椀を揃えておくやら、―――この珍客にはフンシが必要だと気が付いて、昨夜慌てて炮烙を買いに行ったのはいいが、砂がないのには困ってしまって、五六丁先の普請場から、コンクリートに使う砂を闇にまぎれて盗んで来るやらして、そんなものまで押入の中にこっそり忍ばせて置いたのである。で、その牛乳と、花鰹節をふりかけた御飯のお皿と、剥げちょろけの、縁のかけたお椀を取り出すと、罎の牛乳をお椀へ移して、部屋のまん中へ新聞紙をひろげた。それからお土産の包を開いて、水煮きにしてある鶏の肉を、筍の皮ぐるみそれらの御馳走と一緒に並べた。そして「リリーや、リリーや」とつづけさまに呼びながら、皿と罎とをカチャカチャ打ちつけてみたりしたけれども、リリーはてんで聞えないふりをして、まだ窓ガラスにしがみ着いているのであった。
「リリーや」
と、彼女は躍起になって呼んだ。
「お前、何でそない表ばかり見てんのん? お腹すいてエへんのんか?」
さっきの塚本の話では、乗物に酔うといけないと云う庄造の心づかいから、今朝は朝飯を与えていないのだそうであるから、余程空腹を訴えなければならない筈で、本来ならば皿小鉢の鳴る音を聞いたら忽ち飛んで来るところだのに、今はその音も耳に這入らず、ひもじいことも感じないくらい、此処を逃れたい一念に駆られているのであろうか。彼女は嘗てこの猫が尼ヶ崎から戻って来た一件を聞かされているので、当分の間は眼が放されないことであろうと、覚悟していたものの、でも食べものを食べてくれて、フンシへ小便を垂れるようになってくれたら大丈夫だと、それを頼みにしていたのだが、来る※ 々《そうそう》からこんな調子では、直ぐにも逃げられてしまいそうに思えた。そして動物を手なずけるには、自分のように性急にしてはいけないのだと知りながら、何とかして食べるところを見届けたさに、無理に窓際から引き離して、部屋のまん中へ抱いて来て、食べものの上へ順々に鼻を押しつけてやると、リリーは脚をバタバタやらして、爪を立てたり引っ掻いたりするので、仕方がなしに放してしまうと、又窓際へ戻って行って、小裂箱の上へ登る。
「リリーや、これ、これを見て御覧。ここにお前のいっち 好きなもんあるのんに、これが分らんかいな。」
と、此方も依怙地に追いかけて行って、鶏の肉だの牛乳だのを執拗く持ち廻りながら、鼻の先へ擦り着けるようにしてやっても、今日ばかりはその好物の匂にも釣られなかった。
これが全く見も知らぬ人に預けられたと云うのではなし、兎も角も足かけ四年の間同じ屋根の下に住み、同じ竈の御飯をたべて、時にはたった二人ぎりで三日も四日も留守番をさせられた仲であるのに、あんまり無愛想過ぎるではないか。それとも私にいじめられたことを今も根に持っているのだとすれば、畜生の癖に生意気なと、つい腹も立って来るのであったが、ここでこの猫に逃げられてしまったら、折角の計劃が水の泡になった上、蘆屋の方でそれ見たことかと手を叩いて笑うであろう、もうこの上は根較べをして、気が折れて来るのを待つより外に仕方がない、なあに、ああして食い物とフンシとを眼の前に当てがっておきさえすれば、いくら剛情を張ったって、しまいにはお腹が減って来るから食わずにいられないであろうし、小便だって垂れるであろう、そんなことより今日は私は忙しいのだ、是非晩までにと請け合った仕事があったのに、朝から何一つ手を付けていないのだったと、ようよう彼女は思い返して、針箱の傍にすわった。そして男物の銘仙の綿入を、それからせッせと縫いにかかったが、ものの一時間もそうしているうちに、直ぐ又心配になって来るので、ときどき様子に気を付けていると、やがてリリーは部屋の隅ッこの方へ行って、壁にぴったり寄り添うてうずくまったまま、身動き一つしないようになってしまった。それは全く、畜生ながらも逃れる道のないことを悟って、観念の眼を閉じたとでも云うのであろうか。人間だったら、大きな悲しみに鎖された余り、あらゆる希望を抛って、死を覚悟したと云うところでもあろうか。品子は薄気味悪くなって、生きているかどうかを確かめるために、そうっと傍へ寄って行って、抱き起して見、呼吸を調べて見、突き動かして見ると、何をされても抵抗もしない代りに、まるで鮑の身のように体じゅうを引き締めて、固くなっている様が指先に感じられる。まあ、ほんとうに、何と云う剛情な猫であろう。こんな工合で、いつになったら懐く時があるであろう。だが事に依ると、わざとああ云う風をして、此方の油断を見すましているのではないか。今はああして、あきらめたようにしているけれども、重い板戸をさえ開ける猫であるから、うっかり部屋を留守にしたら、その間にいなくなってしまうのではないか。そう思うと彼女は、他人のことよりも自分自身が、御飯を食べに行くことも厠へ立つことも出来ないのであった。
お午になって、妹の初子が
「姉さん、御飯」
と、段梯子の下から声をかけると、
「はい」
と品子は立ち上りながら、暫く部屋の中をうろうろした。そして結局、メリンスの腰紐を三本つないで、リリーの肩から腋の下へ、十文字に襷をかけて、強く緊め過ぎないように、そうかと云ってスッポリ抜けられないように、何度も念を入れて締め直して、背中でしっかり結び玉を作った。それからその紐のもう一方の端を持って、又ひとしきりうろうろしていたが、とうとう天井から下っている電燈のコードに括り着けると、やっと安心して階下へ降りた。が、食事の間も気にかかるので、そこそこにして上って来てみると、縛られたまま矢張隅ッこの方へ行って、前よりもなお体をちぢめているではないか。彼女はいっそ、自分がいない方がいいのかも知れない、暫くひとりにしておいたら、その間に食べるものは食べ、垂れるものは垂れるかも知れないと、そうも期待していたのであったが、勿論そんな形跡もない。彼女は「チョッ」と舌打ちをして、今も部屋のまん中に空しく置かれてある御馳走のお皿と、砂が少しも濡れていない綺麗なフンシとを恨めしそうに睨みながら、針箱の傍にすわる。かと思うと、ああ、そうだった、あんまり長く縛っておいては可哀そうだと、又立ち上って、解きに行って、ついでに撫でてみたり、抱いてみたり、駄目と知りながらも食べものをすすめてみたり、フンシの位置を換えてみたり、それを幾度か繰り返すうちに日が暮れて来て、夕方の六時頃になると、階下から初子が晩の御飯を知らせるので、又紐を持って立ち上る。そんな風にして、その日は一日猫のことにかまけて、請け合った仕事も出来ないままに秋の夜長が更けてしまった。
十一時が鳴ると、品子は部屋を片づけてから、もう一度リリーを縛って、座布団を二枚も敷いた上へ臥かして、御飯と便器とを身近な所へ並べてやった。それから自分の寝床を伸べ、あかりを消して眠りに就いたが、せめて朝になるまでには、牛乳でも鶏でも何でもいいから、孰れか一つぐらい食べていてくれないだろうか、明日の朝眼を開いた時あのお皿が空になっていてくれたら、そうしてフンシが濡れていてくれたら、どんなに嬉しいであろうなどと思うと、眼が冴えて来て寝られないままに、リリーの寝息が聞えるか知らんと闇の中で耳を澄ますと、しーんと水を打ったようで、微かな音もしていない。あまり静か過ぎるのが気になって、枕から首を擡げると、窓の方は薄ぼんやりと明るいけれども、リリーがいる筈の隅ッこの方は生憎真っ暗で何も見えない。ふと思いついて、頭の上を手さぐりして、天井から斜ッかいに引っ張られている紐を掴んで、手繰り寄せると、大丈夫手答えがある。でも念のために電燈を付けて見ると、成る程いることはいるけれども、あの、拗ねたようにちぢこまって、円くなっている姿勢が、昼間と少しも変っていないし、食べ物もフンシもそっくりそのまま並んでいるので、又がっかりして明りを消す。そのうちに漸くとろとろとしかけて、暫くしてから眼を覚ますと、もういつの間にか夜が明けていて、見ればフンシの砂の上に大きな塊が落してあり、牛乳のお皿と御飯のお皿がすっかり平げられているので、しめたと思うとそれが夢だったりするのである。
だが、一匹の猫を手なずけるのは、こんなに骨の折れることなのだろうか。それともリリーと云う猫が特別に剛情なのだろうか。尤もこれがまだ頑是ない仔猫であったら、訳なく懐くのであろうけれども、こう云う老猫になって来ると、人間と同じで、習慣や環境の違った場所へ連れて来られると云うことが、非常な打撃なのかも知れない。そして遂には、それが原因で死ぬようなことになるのかも知れない。品子はもともと、腹に一つの目算があって好きでもない猫を引き取ったので、こんなに手数が懸るものとは知らなかったが、云わば以前は敵同士であった獣のお蔭で、夜もおちおち寝られないほど苦労をさせられる因縁を思い合わせると、不思議にも腹が立たないで、猫も可哀そうなら自分も可哀そうだと云う気持が湧いて来るのであった。考えてみれば、自分だって蘆屋の家を出て来た当座は、此処の二階にひとりでしょんぼりしていることがこの上もなく悲しくって、妹夫婦が見ていない時は、毎日毎晩泣いてばかりいたではないか。自分だって、二日三日は何をする元気もなく、ろくろく物も食べなかったではないか。そうしてみれば、リリーにしたって蘆屋が恋いしいのは当り前だ。庄造さんにあんなに可愛がられていたのだものを、そのくらいな情がなければ恩知らずだ。ましてこんなに年を取って、住み馴れた家を追われ、嫌いな人の所へなんか連れて来られて、どんなに遣る瀬ないであろう。もしほんとうにリリーを手なずけようと云うなら、その心持を察してやり、何よりも安心と信頼を持たせるように仕向けなければならない。悲しい感情で胸が一杯になっている時に、無理に御馳走をすすめたら、誰だって腹が立つではないか。だのに自分は、「食べるのが嫌なら小便をしろ」と、フンシ迄も突き付けた。あまりと云えば手前勝手な、心なしの遣り方だった。いや、そのくらいはまだいいとして、縛ったのが一番よくなかった。相手に信頼されたかったら、先ず此方から信頼してかからなければならないのに、あれではますます恐怖心を起させる。いくら猫でも、縛られていては食慾も出ないであろうし、小便も詰まってしまうであろう。
明くる日になると、品子は縛ることを止めにして、逃げられたら逃げられたで仕方がないと、度胸をきめた。そしてときどき、五分か十分ぐらいの間、試しに独り放っておいて、部屋を留守にしてみると、まだ剛情にちぢこまってはいるけれども、いい塩梅に逃げ出しそうな風も見えない。それで俄かに気を許したことが悪かったのだが、お午の御飯に、今日はゆっくり食べようと思って、三十分ほど階下へ降りている時だった、二階で何か、ガサッと云う音がしたようなので、急いで上って来てみると、襖が五寸ほど開いている。多分リリーは、そこから廊下へ出て、南側の、六畳の間を通り抜けて、折悪く開け放しになっていたそこの窓から屋根へ飛び出したのであろう、もうその辺には影も形も見えなかった。
「リリーや、………」
彼女はさすがに大きな声で喚こうとして、ついその声が出ずにしまった。あんなに辛苦したかいもなく、やっぱり逃げられたかと思うと、もう追いかける気力もなく、何だかホッとして、荷が下りたような工合であった。どうせ自分は動物を馴らすのが下手なのだから、晩かれ早かれ逃げられるにきまっているものなら、早く片がついた方がいいかも知れない。これで却ってサバサバして、今日からは仕事も捗るであろうし、夜ものんびり寝られるであろう。それでも彼女は、裏の空地へ出て行って、雑草の中を彼方此方掻き分けながら、
「リリーや、リリーや」
と、暫く呼んでみたけれども、今頃こんな所に愚図々々している筈がないことは、分りきっていたのであった。
リリーが逃げて行ってから、当日の晩も、その明くる晩も、又その明くる晩も、品子は安心して寝られるどころか、さっぱり眠れないようになってしまった。いったい彼女は癇性のせいか、二十六と云う歳のわりには眼ざとい方で、下女奉公をしていた時代から、どうかすると寝られない癖があったものだが、今度もこの二階に引き移ってから、多分寝所の変ったのが原因であろう、殆ど正味三四時間しか寝ない晩が長い間つづいていて、ようよう十日ばかり前から少し寝られるようになりかけた所だったのである。それがあの晩から、又眠れなくなったのはどうしてか知らん? 彼女は詰めて仕事をすると、直きに肩が凝って来たり興奮したりするのであるが、この間からリリーのためにおくれていたのを取り返そうとして、余り縫い物に熱中し過ぎたせいか知らん? それに元来が冷え性なので、まだ十月の初めだと云うのにそろそろ足が冷えて来て、布団へ這入っても容易に温もらないのである。彼女は夫に疎んぜられたそのそもそものキッカケを、ふと想い出して来るのであるが、それも今から考えれば、全く自分の冷え性から起ったことなのであった。ひどく寝つきのいい庄造は、布団へ這入って五分もすれば眠ってしまうのに、そこへ突然氷のような足に触られて、起されてしまうのがたまらないから、お前はそっちで寝てくれろと云う。そんなことからつい別々に寝るようになったが、寒い時分には湯たんぽのことでよく喧嘩をした。なぜかと云って、庄造は彼女と反対に、人一倍上気せ性なのである。分けても足が熱いと云って、冬でも少し布団の裾へ爪先を出すくらいにしないと、寝られない男なのである。だから湯たんぽで暖めてある布団へ這入ることを嫌って、五分と辛抱していなかった。勿論それが不和を醸した根本の理由ではないけれども、しかしそう云う体質の相違がよい口実に使われて、だんだん独り寝の習慣を付けられてしまったのであった。
彼女は右の首筋から肩の方へしこり が出来て恐しく張っているようなので、ときどきそこを揉んでみたり、寝返りを打って枕の当るところを換えてみたりした。毎年夏から秋へかけて、陽気の変り目に右の下頤の虫歯が痛んで困るのであるが、昨夜あたりから少しズキズキし出したようである。そう云えば、この六甲と云う所は、これから冬になって来ると、毎年六甲颪が吹いて、蘆屋などよりずっと寒さが厳しいのであると聞いていたけれども、もうこの頃でも夜は相当に冷え込むので、同じ阪神の間でありながら、何だか遠い山国へでも来たような気がする。彼女は体を海老のようにちぢこめて、無感覚になりかけた両方の足を擦り合わした。蘆屋時代には、もう十月の末になると、夫と喧嘩しながらも湯たんぽを入れて寝たのであったが、こんな工合だと、ことしはそれまで待てないかも知れない。………
寝付かれないものとあきらめてしまって、電燈を付けて、妹から借りた先月号の「主婦之友」を、横向きに臥ながら読み出したのが、ちょうど夜中の一時であったが、それから間もなく、遠くの方からざあッと云う音が近寄って来て、直きにざあッと通り過ぎて行くのが聞えた。おや、時雨かな、と思っていると、又ざあッとやって来て、屋根の上を通る時分には、パラパラと疎らな音を落して、忍び足に消えて行く。暫くすると、又ざあッとやって来る。それにつけても、リリーは今頃何処にいるか、蘆屋へ帰っているならいいが、もしそうでもなく、路に迷っているなら、こんな晩にはさぞ雨に濡れているであろう。実を云うと、まだ塚本には逃げられたことを知らせてやらないのであるが、あれから此方、ずっとそのことが頭に引っかかっているのであった。彼女としては早く知らしてやった方が行き届いていることは分っていたのだが、「憚りながら、とうに戻って来ておりますから御安心下すって結構です、いろいろお手数をかけましたが、もう御入用はありますまいな」と、皮肉交りに云われそうなのが業腹で、つい延び延びにしていたのである。しかし戻っているとしたら、此方の通知を待つ迄もなく、向うからも挨拶がありそうなものだのに、何とも云って来ないのをみると、何処かにまごついているのであろうか。尼ヶ崎の時は、姿が見えなくなってから一週間目に戻ったと云うのだが、今度はそんなに遠い所ではないのだし、つい三日前に通って来たばかりの路なのだから、よもや迷うことはないであろう。ただ近頃は耄碌していて、あの時分よりはカンも悪く、動作も鈍くなっているから、三日かかるところが四日かかるようなことはあるかも知れない。そうだとしても、おそくも明日か明後日のうちには無事に戻って行くであろう。するとあの二人がどんな喜びようをするか。そしてどんなに溜飲を下げるか。きっと塚本さんまでが一緒になって、「それ見ろ、あれは亭主に捨てられるばかりか、猫にまで捨てられるような女だ」と云うであろう。いやいや、階下の妹夫婦もお腹の中ではそう思うであろうし、世間の人がみんな笑い物にするであろう。
その時、しぐれがまた屋根の上をパラパラと通って行った後から、窓のガラス障子に、何かがばたんと打つかるような音がした。風が出たな、ああ、イヤなことだ、と、そう思っているうちに、風にしては少し重みのあるようなものが、つづいて二度ばかり、ばたん、ばたんと、ガラスを叩いたようであったが、かすかに、
「ニャア」
と云う声が、何処かに聞えた。まさか今時分、そんなことが、………と、ぎく ッとしながら、気のせいかも知れぬと耳を澄ますと、矢張、
「ニャア」
と啼いているのである。そしてそのあとから、あのばたんと云う音が聞えて来るのである。彼女は慌てて跳ね起きて、窓のカーテンを開けてみた。と、今度はハッキリ、
「ニャア」
と云うのがガラス戸の向うで聞えて、ばたん、………と云う音と同時に、黒い物の影がさっと掠めた。そうか、やっぱりそうだったのか、―――彼女はさすがに、その声には覚えがあった。この間ここの二階にいた時は、とうとう一度も啼かなかったが、それは確かに、蘆屋時代に聞き馴れた声に違いなかった。
急いで挿し込みのネジを抜いて、窓から半身を乗り出しながら、室内から射す電燈のあかりをたよりに暗い屋根の上を透かしたけれども、一瞬間、何も見えなかった。想像するに、その窓の外に手すりの附いた張り出しがあるので、リリーは多分そこへ上って、啼きながら窓を叩いていたのに違いなく、あのばたんと云う音とたった今見えた黒い影とは正しくそれだったと思えるのであるが、内側からガラス戸を開けた途端に、何処かへ逃げて行ったのであろうか。
「リリーや、………」
と、階下の夫婦を起さないように気がねしながら、彼女は闇に声を投げた。瓦が濡れて光っているので、さっきのあれが時雨だったことは疑う余地がないけれども、それがまるで※ 《うそ》だったように、空には星がきらきらしている。眼の前を蔽う摩耶山の、幅広な、真っ黒な肩にも、ケーブルカアのあかりは消えてしまっているが、頂上のホテルに灯の燈っているのが見える。彼女は張り出しへ片膝をかけて、屋根の上へノメリ出しながら、もう一度、
「リリーや」
と、呼んだ。すると、
「ニャア」
と云う返辞をして、瓦の上を此方へ歩いて来るらしく、燐色に光る二つの眼の玉がだんだん近寄って来るのである。
「リリーや」
「ニャア」
「リリーや」
「ニャア」
何度も何度も、彼女が頻繁に呼び続けると、その度毎にリリーは返辞をするのであったが、こんなことは、ついぞ今迄にないことだった。自分を可愛がってくれる人と、内心嫌っている人とをよく知っていて、庄造が呼べば答えるけれども、品子が呼ぶと知らん顔をしていたものだのに、今夜は幾度でも億劫がらずに答えるばかりでなく、次第に媚びを含んだような、何とも云えない優しい声を出すのである。そして、あの青く光る瞳を挙げて、体に波を打たせながら手すりの下まで寄って来ては、又すうっと向うへ行くのである。大方猫にしてみれば、自分が無愛想にしていた人に、今日から可愛がって貰おうと思って、いくらか今迄の無礼を詫びる心持も籠めて、あんな声を出しているのであろう。すっかり態度を改めて、庇護を仰ぐ気になったことを、何とかして分って貰おうと、一生懸命なのであろう。品子は初めてこの獣からそんな優しい返辞をされたのが、子供のように嬉しくって、何度でも呼んでみるのであったが、抱こうとしてもなかなか掴まえられないので、暫くの間、わざと窓際を離れてみると、やがてリリーは身を躍らして、ヒラリと部屋へ飛び込んで来た。それから、全く思いがけないことには、寝床の上にすわっている品子の方へ一直線に歩いて来て、その膝に前脚をかけた。
これはまあ一体どうしたことか、―――彼女が呆れているうちに、リリーはあの、哀愁に充ちた眼差でじっと彼女を見上げながら、もう胸のあたりへ靠れかかって来て、綿フランネルの寝間着の襟へ、額をぐいぐい と押し付けるので、此方からも頬ずりをしてやると、頤だの、耳だの、口の周りだの、鼻の頭だのを、やたらに舐め廻すのであった。そう云えば、猫は二人きりになると接吻をしたり、顔をすり寄せたり、全く人間と同じような仕方で愛情を示すものだと聞いていたのは、これだったのか、いつも人の見ていない所で夫がこっそりリリーを相手に楽しんでいたのは、これをされていたのだったか。―――彼女は猫に特有な日向臭い毛皮の匂を嗅がされ、ザラザラと皮膚に引っかかるような、痛痒い舌ざわりを顔じゅうに感じた。そして、突然、たまらなく可愛くなって来て、
「リリーや」
と云いながら、夢中でぎゅッと抱きすくめると、何か、毛皮のところどころに、冷めたく光るものがあるので、さては今の雨に濡れたんだなと、初めて合点が行ったのであった。
それにしても、蘆屋の方へ帰らないで、此方へ帰ったのはなぜであろう。恐らく最初は蘆屋をめざして逃げ出したのが、途中で路が分らなくなって、戻って来たのではないであろうか。僅か三里か四里のところを、三日もかかってうろうろしながら、とうとう目的地へ行き着けないで引っ返して来るとは、リリーにしては余り意気地がないようだけれども、事に依るとこの可哀そうな獣は、もうそれほどに老衰しているのであろう。気だけは昔に変らないつもりで、逃げてみたことはみたものの、視力だの、記憶力だの、嗅覚だのと云うものが、もはや昔の半分もの働きもしてくれないので、どっちの路を、どっちの方角から、どう云う風に連れて来られたのか見当が付かず、彼方へ行っては踏み迷い、此方へ行っては踏み迷いして、又もとの場所へ戻って来る。昔だったら、一旦こうと思い込んだらどんなに路のない所でもガムシャラに突進したものが、今では自信がなくなって、様子の知れない所へ分け入ると怖気がついて、ひとりでに足がすくんでしまう。きっとリリーは、そんな風にして案外遠くの方までは行くことが出来ず、この界隈をまごまごしていたのであろう。そうだとすれば、昨日の晩も、一昨日の晩も、夜な夜なこの二階の窓の近くへ忍び寄って、入れて貰おうかどうしようかと躊躇いながら、中の様子を窺がっていたのかも知れない。そして今夜も、あの屋根の上の暗い所にうずくまって長い間考えていたのであろうが、室内にあかりが燈ったのと、俄かに雨が降って来たのとで、急にああ云う啼き声を出して障子を叩く気になったのであろう。でもほんとうに、よく帰って来てくれたものだ。よっぽど辛い目に遭ったればこそであろうけれども、矢張私をアカの他人とは思っていない証拠なのだ。それに私も、今夜に限ってこんな時刻に電燈をつけて、雑誌を読んでいたと云うのは、虫が知らしたせいなのだ。いや、考えれば、この三日間ちょっとも眠れなかったのも、実はリリーの帰って来るのが何となく待たれたからだったのだ。そう思うと彼女は、涙が出て来て仕方がないので、
「なあ、リリーや、もう何処へも行けへんなあ。」
と、そう云いながら、もう一遍ぎゅ っと抱きしめると、珍しいことにリリーはじっと大人しくして、いつまでも抱かれているのであったが、その、物も云わずに唯悲しそうな眼つきをしている年老いた猫の胸の中が、今の彼女には不思議なくらいはっきり見透せるのであった。
「お前、きっとお腹減ってるやろけど、今夜はもう遅いよってにな。―――台所捜したら何なとあるやろ思うけど、ま、仕方ない、此処わての家と違うよってに、明日の朝まで待ちなされや。」
彼女は一と言一と言に頬ずりをしてから、漸うリリーを下に置いて、忘れていた窓の戸締まりをし、座布団で寝床を拵えてやり、あの時以来まだ押入に突っ込んであったフンシを出してやりなどすると、リリーはその間も始終後を追って歩いて、足もとに絡み着くようにした。そして少しでも立ち止まると、直ぐその傍へ走り寄って、首を一方へ傾けながら、何度も耳の附け根のあたりを擦り着けに来るので、
「ええ、もうええがな、分ってるがな。さ、此処へ来て寝なさい寝なさい。」
と、座布団の上へ抱いて来てやって、大急ぎであかりを消して、やっと彼女は自分の寝床へ這入ったのであったが、それから一分とたたないうちに、忽ちすう ッと枕の近くにあの日向臭い匂がして来て、掛け布団をもくもく持ち上げながら、天鵞絨のような柔かい毛の物体が這入って来た。と、ぐいぐい頭からもぐり込んで、脚の方へ降りて行って、裾のあたりを暫くの間うろうろしてから、又上の方へ上って来て、寝間着のふところへ首を入れたなり動かないようになってしまったが、やがてさも気持の好さそうな、非常に大きな音を立てて咽喉をゴロゴロ鳴らし始めた。
そう云えば以前、庄造の寝床の中でこんな工合にゴロゴロ云うのを、いつも隣で聞かされながら云い知れぬ嫉妬を覚えたものだが、今夜は特別にそのゴロゴロが大きな声に聞えるのは、よっぽど上機嫌なのであろうか、それとも自分の寝床の中だと、こう云う風にひびくのであろうか。彼女はリリーの冷めたく濡れた鼻のあたまと、へんにぷよぷよした蹠の肉とを胸の上に感じると、全く初めての出来事なので、奇妙のような、嬉しいような心地がして、真っ暗な中で手さぐりしながら頸のあたりを撫でてやった。するとリリーは一層大きくゴロゴロ云い出して、ときどき、突然人差指の先へ、きゅッと噛み着いて歯型を附けるのであったが、まだそんなことをされた経験のない彼女にも、それが異常な興奮と喜びの余りのしぐさ であることが分るのであった。
その明くる日から、リリーはすっかり品子と仲好しになってしまって、心から信頼している様子が見え、もう牛乳でも、花鰹節の御飯でも、何でもおいしそうに食べた。そしてフンシの砂の中へ日に幾度か排泄物を落すので、いつもその匂が四畳半の部屋の中へむう ッと籠るようになったが、彼女はそれを嗅いでいると、いろいろな記憶が思いがけなくよみがえって、蘆屋時代のなつかしい日が戻って来たように感ずるのであった。なぜかと云って、蘆屋の家では明けても暮れてもこの匂がしていたではないか。あの家の中の襖にも、柱にも、壁にも、天井にも、皆この匂が滲みついていて、彼女は夫や姑と一緒に四年の間これを嗅ぎながら、口惜しいことや悲しいことの数々に堪えて来たのではないか。だが、あの時分には、この鼻持ちのならない匂を呪ってばかりいたくせに、今はその同じ匂が何と甘い回想をそそることよ。あの時分にはこの匂故にひとしお憎らしかった猫が、今はその反対に、この匂故に如何にいとおしいことよ。彼女はそののち毎晩のようにリリーを抱いて眠りながら、この柔順で可愛らしい獣を、どうして昔はあんなにも嫌ったのかと思うと、あの頃の自分と云うものが、ひどく意地の悪い、鬼のような女にさえ見えて来るのであった。
さてこの場合、品子がこの猫の身柄について福子に嫌味な手紙を出したり、塚本を通してあんなに執拗く頼んだりした動機と云うものを、一寸説明しておかなければならないのであるが、正直のところ、そこにはいたずら や意地悪の興味が手伝っていたことも確かであり、又庄造が猫に釣られて訪ねて来るかも知れないと云う万一の望みもあったであろうが、そんな眼の前のことよりも、実はもっと遠い遠い先のこと、―――ま、早くて半年、おそくて一年か二年もすれば、多分福子と庄造の仲が無事に行く筈はないのだからと、その時を見越しているのであった。それと云うのが、もともと塚本の仲人口に乗せられて嫁に行ったのが不覚だったので、今更あんな怠け者の、意気地なしの、働きのない男なんぞに、捨てられた方が仕合わせだったかも知れないのだが、でも彼女としてどう考えても忌ま忌ましく、あきらめきれない気がするのは、当人同士が飽きも飽かれもした訳ではないのに、ハタの人間が小細工をして追い出したのだと、そう云う一念があるからだった。尤もそんなことを云うと、いや、そう思うのはお前さんの己惚れだ、それは成る程、姑との折合も悪かったに違いないけれども、夫婦仲だってちっとも良いことはなかったではないか、お前さんは御亭主をのろま だと云って低能児扱いにするし、御亭主はお前さんを我が強いと云って鬱陶しがるし、いつも喧嘩ばかりしていたのを見ると、よくよく性が合わないのだ、もし御亭主がほんとにお前さんを好いているなら、いくらハタから押し付けたって、外に女を拵える訳がありますまいと、そう露骨には云わない迄も、塚本などのお腹の中は大概そうにきまっているのだが、それは庄造と云う人の性質を知らないからのことなので、彼女に云わせれば、いったいあの人はハタから強く押し付けられたら、否も応もないのである。呑気と云うのか、ぐうたらと云うのか、その人よりもこの人がいいと云われると、すぐふらふらとその気になってしまうのだけれども、自分から女を拵えて古い女房を追い出したりする程、一途に思い詰める性分ではないのである。だから品子は熱烈に惚れられた覚えはないが、嫌われたと云う気もしないので、周りの者が智慧をつけたりそそのかしたりしなかったら、よもや不縁にはならなかったろう、自分がこんな憂き目を見るのは、全くおりんだの、福子だの、福子の親父だのと云うものがお膳立てをしたからなのだと、そう思われて、少し誇張した云い方をすれば、生木を割かれたような感じが胸の奥の方にくすぶっているので、未練がましいようだけれども、どうもこのままでは堪忍出来ないのであった。
しかし、それなら、うすうすおりんなどのしていることを感付かないでもなかった時分に、何とか手段の施しようがあっただろうに、―――いよいよ蘆屋を追い出される間際にだって、もっと頑張ってみたらよかったろうに、―――じたいそう云う策略にかけては姑のおりんと好い取組だと云われた彼女が、案外あっさり旗を巻いて、おとなしく追ん出てしまったのはなぜであろうか、日頃の負けず嫌いにも似合わないと云うことになるが、そこにはやっぱり彼女らしい思わくがないでもなかった。ありていに云うと、今度の事は彼女の方に最初幾分の油断があったからこうなったので、それと云うのも、あの多情者の、不良少女上りの福子を、何ぼ何でも忰の嫁にしようと迄はおりんも考えていないであろうし、又尻の軽い福子が、まさか辛抱する気もあるまいと、たかをくくっていたからなのだが、そこに多少の目算違いがあったとしても、どうせ長続きのする二人でないと云う見透しに、今も変りはないのであった。尤も福子は年も若いし、男好きのする顔だちだし、鼻にかける程の学問はないが女学校へも一二年行っていたのだし、それに何より持参金が附いているのだから、庄造としては据え膳の箸を取らぬ筈はなく、先ず当分は有卦に入った気でいるだろうけれども、福子の方がやがて庄造では喰い足らなくなって、浮気をせずにはいないであろう。何しろあの女は男一人を守れないたち で、もうその方では札附きになっているのだから、どうせ今度も始まることは分りきっているのだが、それが眼に余るようになれば、いくら人の好い庄造だって黙っていられないであろうし、おりんにしても匙を投げるにきまっている。ぜんたい庄造は兎に角として、シッカリ者と云われるおりんにそのくらいなことが見えない筈はないのだけれども、今度は慾が手伝ったので、つい無理な細工をしたのかも知れない。だから品子は、ここでなまじな悪あがきをするよりは、一と先ず敵に勝たしておいて、徐ろに後図を策しても晩くはないと云う腹なので、中々あきらめてはいないのだったが、でもそんなことは、無論塚本に対しても噫にも出しはしなかった。うわべは同情が寄るように、なるべく哀れっぽいところを見せて、心の中では、どうしてももう一遍だけ彼処の家へ戻ってやる、今に見ていろと思いもし、又その思いがいつかは遂げられるだろうと云う望みに生きてもいるのだった。
それに、品子は、庄造のことをたよりない人とは思うけれども、どう云うものか憎むことが出来なかった。あんな工合に、何の分別もなくふらふらしていて、周りの人達が右と云えば右を向き、左と云えば左を向くと云う風だから、今度にしてもあの連中のいいようにされているのであろうが、それを考えると、子供を一人歩きさせているような、心許ない、可哀そうな感じがするのである。そしてもともと、そう云う点にへんな可愛気のある人なので、一人前の男と思えば腹が立つこともあったけれども、幾らか自分より下に見下して扱うと、妙にあたりの柔かい、優しい肌合があるものだから、だんだんそれに絆されて抜きさしがならないようになり、持って来た物までみんな注ぎ込んで、裸にされて放り出されてしまったのだが、彼女としてはそんなにまでして尽してやったと云うところに、尚更未練が残るのである。全く、この一二年間のあの家の暮らしは、半分以上は彼女の痩せ腕で支えていたようなものではないか。好いあんばいにお針が達者だったから、近所の仕事を貰って来ては夜の眼も寝ずに縫い物をして、どうやら凌ぎをつけていたので、彼女の働きがなかったら、母親なぞがいくら威張ってもどうにもなりはしなかったではないか。おりんは土地での嫌われ者、庄造はあの通りでさっぱり信用がなかったから、諸払いの滞りなどもやかましく催促されたものだが、彼女への同情があったればこそ節季が越せて行ったのではないか。それだのにあの恩知らずの親子が、慾に眼がくれてああ云う者を引ずり込んで、牛を馬に乗り換えた気でいるけれども、まあ見ているがいい、あの女にあの家の切り盛りが出来るかどうか、持参金附きは結構だけれど、なまじそんなものがあったら、一層嫁の気随気儘が募るであろうし、庄造もそれをアテにして怠けるであろうし、結局親子三人の思わくが皆それぞれに外れて来るところから、争いの種が尽きないであろう。その時分になって、前の女房の有難みが始めてほんとうに分るのだ。品子はこんなふしだらではなかった、こう云う時にああもしてくれた、こうもしてくれたと、庄造ばかりでなく、母親までがきっと自分の失策を認めて、後悔するのだ。あの女は又あの女で、さんざんあの家を掻き廻した揚句の果てに、飛び出してしまうのが落ちなのだ。そうなることは今から明々白々で、太鼓判を捺してやりたいくらいであるのに、それが分らないとは憐れな人達もあればあるものよと、内心せせら笑いながら時機を待つ積りでいるのだが、しかし用心深い彼女は、待つにつけてはリリーを預かっておくと云う一策を考えついたのであった。
彼女はいつも、上の学校を一二年でも覗いたことがあると云う福子に対して、教育の点では退け目を感じていたのであるが、でもほんとうの智慧くらべなら、福子にだっておりんにだって負けるものかと云う自負心があるので、リリーを預かると云う手段を思いついた時は、我ながらの妙案にひとりで感心してしまった。なぜかといって、リリーさえ此方へ引き取って置いたら、恐らく庄造は雨につけ、風につけ、リリーのことを思い出す度に彼女のことを思い出し、リリーを不憫と思う心が、知らず識らず彼女を憐れむ心にもなろうからである。そして、そうすれば、いつ迄たっても精神的に縁が切れない理窟であるし、そこへ持って来て福子との仲がシックリ行かないようになると、いよいよリリーが恋いしいと共に前の女房が恋いしくなろう。彼女が未だに再縁もせず、猫を相手に侘びしく暮らしていると聞いては、一般の同情が集まるのは無論のこと、庄造だって悪い気持はする筈がなく、ますます福子に嫌気がさすようになるであろうから、手を下さずして彼等の仲を割くことに成功し、復縁の時期を早めることが出来る。―――ま、そうお誂え向きに行ってくれたら仕合せであるが、彼女自身はそうなる見込みを立てていた。ただ問題はリリーを素直に引き渡すかどうかと云うことであったが、それとても、福子の嫉妬心を煽り立てたら大丈夫うまく行くつもりでいた。だからあの手紙の文句なんぞも、そう云う深謀遠慮を以て書かれていたので、単純ないたずらや嫌がらせではなかったのであるが、お気の毒ながら頭の悪い連中には、どうして私が好きでもない猫を欲しがるのか、とてもその真意が掴めッこあるまい、そしていろいろ滑稽極まる邪推をしたり、子供じみた騒ぎ方をするであろうと云うところに、抑えきれない優越感を覚えたのであった。
兎に角、そんな訳であるから、その折角のリリーに逃げられた時の落胆と、思いがけなくそれが戻って来た時の喜びとがどんなに大きかったとしても、畢竟それは得意の「深謀遠慮」に基づく打算的な感情であって、ほんとうの愛着ではない筈なのだが、あの時以来、一緒に二階で暮らすようになってみると、全く予想もしなかった結果が現われて来たのである。彼女は夜な夜な、その一匹の日向臭い獣を抱えて同じ寝床の中に臥ながら、どうして猫と云うものはこんなにも可愛らしいのであろう、それだのに又、昔はどうしてこの可愛さが理解出来なかったのであろうと、今では悔恨と自責の念に駆られるのであった。大方蘆屋時代には、最初に変な反感を抱いてしまったので、この猫の美点が眼に這入らなかったのであろうが、それと云うのも、焼餅があったからなのである。焼餅のために、本来可愛らしいしぐさが唯もう憎らしく見えたのである。たとえば彼女は、寒い時分に夫の寝床へもぐり込んで行くこの猫を憎み、同時に夫を恨んだものだが、今になってみれば何の憎むことも恨むこともありはしない。現に彼女も、もうこの頃では独り寝の寒さがしみじみこたえているではないか。まして猫と云う獣は人間よりも体温が高いので、ひとしお寒がりなのである。猫に暑い日は土用の三日間だけしかないと云われるのである。そうだとすれば、今は秋の半ばであるから、老年のリリーが暖かい寝床へ慕い寄るのは当然ではないか。いや、それよりも、彼女自身が、こうして猫と寝ていると、この暖かいことはどうだ! 例年ならば、今夜あたりは湯たんぽなしでは寝られないであろうのに、今年はまだそんなものも使わないで、寒い思いもせずにいるのは、リリーが這入って来てくれるお蔭ではないか。彼女自身が、夜毎々々にリリーを放せなくなっているではないか。その外昔は、この猫の我が儘を憎み、相手に依って態度を変えるのを憎み、蔭日向のあるのを憎んだけれども、それもこれも、みんな此方の愛情が足らなかったからなのだ。猫には猫の智慧があって、ちゃんと人間の心持が分る。その証拠には、此方が今迄のようでなく、ほんとうの愛情を持つようになったら、直ぐ戻って来てこの通り馴れ馴れしくするではないか。彼女が自分の気持の変化を意識するより、リリーの方がより早く嗅ぎつけたくらいではないか。
品子は今迄、猫は愚か人間に対しても、こんなにこまやかな情愛を感じたこともなく、示したこともないような気がした。それは一つには、おりんを始めいろいろな人から情の強い女だと云われていたものだから、いつか自分でもそう思わされていたせいであったが、この間からリリーのために捧げ尽した辛労と心づかいとを考える時、自分の何処にこんな暖かい、優しい情緒が潜んでいたのかと、今更驚かれるのであった。そう云えば昔、庄造がこの猫の世話を決して他人の手に委ねず、毎日食事の心配をし、二三日置きにフンシの砂を海岸まで取り換えに行き、暇があると蚤を取ってやったりブラシをかけてやったりし、鼻が乾いていはしないか、便が軟か過ぎはしないか、毛が脱けはしないかと始終気をつけて、少しでも異状があれば薬を与えると云う風に、まめまめしく尽してやるのを見て、あの怠け者によくあんな面倒が見られることよと、ますます反感を募らしたものだが、あの庄造のしたことを今は自分がしているではないか。而も彼女は、自分の家に住んでいるのではないのである。自分の食べるだけのものは、自分で儲けて妹夫婦へ払い込むと云う条件だから、まるきりの居候ではないが、何かと気が置ける中にいて、この猫を飼っているのである。これが自分の家であったら、台所を漁って残り物を捜すけれども、他人の家ではそうも出来ないところから、自分が食べるものを食べずに置くか、市場へ行って何かしら見つけて来てやらねばならない。そうでなくても、つましい上にもつましくしている場合であるのに、たとい僅かの買い物にもせよ、リリーのために出銭が殖えると云うことは、随分痛事なのである。それにもう一つ厄介なのは、フンシであった。蘆屋の家は浜まで五六丁の距離だったから、砂を得るには便利であったが、この阪急の沿線からは、海は非常に遠いのである。尤も最初の二三回は、普請場の砂があったお蔭で助かったけれども、生憎近頃は何処にも砂なんかありはしない。そうかと云って、砂を換えずに放っておくと、とても臭気が激しくなって、しまいに階下へまで匂って来るので、妹夫婦が嫌な顔をする。よんどころなく、夜が更けてから彼女はそうッとスコップを持って出かけて行って、その辺の畑の土を掻いて来たり、小学校の運動場から滑り台の砂を盗んで来たり、そんな晩には又よく犬に吠えられたり、怪しい男に尾けられたり、―――全く、リリーのためでなかったら、誰に頼まれてこんな嫌な仕事をしよう、だが又リリーのためならばこう云う苦労を厭わないとは、何としたことであろうと思うと、返す返すも、蘆屋の時分に、なぜこの半分もの愛情を以て、この獣をいつくしんでやらなかったか、自分にそう云う心がけがあったら、よもや夫との仲が不縁になりはしなかったであろうし、このような憂き目は見なかったであろうものをと、今更それが悔まれてならない。考えてみれば、誰が悪かったのでもない、みんな自分が至らなかったのだ。この罪のない、やさしい一匹の獣をさえ愛することが出来ないような女だからこそ、夫に嫌われたのではないか。自分にそう云う欠点があったからこそ、ハタの人間が附け込んだのではないか。………
十一月になると、朝夕の寒さがめっきり加わって、夜はときどき六甲の方から吹きおろす風が、戸の隙間から冷え冷えと沁み込むようになって来たので、品子とリリーとは前よりも一層喰っ着いて、ひしと抱き合って、ふるえながら寝た。そしてとうとう怺えきれずに、湯たんぽを使い始めたのであったが、その時のリリーの喜び方と云ったらなかった。品子は夜な夜な、湯たんぽの温もりと猫の活気とでぽかぽかしている寝床の中で、あのゴロゴロ云う音を聞きながら、自分のふところの中にいる獣の耳へ口を寄せて、
「お前の方がわてよりよっぽど人情があってんなあ。」
と云ってみたり、
「わてのお蔭で、お前にまでこんな淋しい思いさして、堪忍なあ。」
と云ってみたり、
「けどもう直きやで。もうちょっと辛抱しててくれたら、わてと一緒に蘆屋の家へ帰れるようになるねんで。そしたら今度と云う今度は、三人仲よう暮らそうなあ。」
と云ってみたりして、ひとりでに涙が湧いて来ると、夜更けの、真っ暗な部屋の中で、リリーより外には誰に見られる訳でもないのに、慌てて掛け布団をすっぽり被ってしまうのであった。
福子が午後の四時過ぎに、今津の実家へ行って来ると云って出かけてしまうと、それまで奥の縁側で蘭の鉢をいじくっていた庄造は、待ち構えていたように立ち上って、
「お母さん」
と、勝手口へ声をかけたが、洗濯をしている母親には、水の音が邪魔になって聞えないらしいので、
「お母さん」
と、もう一度声を張り上げて云った。
「店を頼むで。―――ちょっと其処まで行って来るよってになあ。」
と、ジャブジャブ云う音がふいと止まって、
「何やて?」
と、母親のしっかりした声が障子越しに聞えた。
「僕、ちょっと其処まで行って来るよってに―――」
「何処へ?」
「つい其処や。」
「何しに?」
「そないに執拗う聞かんかて―――」
そう云って、一瞬間むっ とした顔つきで、鼻の孔をふくらましたが、直ぐ又思い返したらしく、あの持ち前の甘えるような口調になって、
「あのなあ、ちょっと三十分ほど、球撞きに行かしてくれへんか。」
「そうかてお前、球は撞かんちゅう約束したのんやないか。」
「一遍だけ行かしてエな。何せもう半月も撞いてエへんよってに。頼みまっさ、ほんまに。」
「ええか、悪いか、わてには分らん。福子のいる時に、答えて行っとくなはれ。」
「何でエな。」
その妙に力張ったような声を聞くと、裏口の方で盥の上につくばっている母親にも、忰が怒った時にするだだッ児じみた表情が、はっきり想像出来るのであった。
「何で一々、女房に答えんなりまへんねん。ええも悪いも福子に聞いてみなんだら、お母さんには云われしまへんのんか。」
「そうやないけど、気をつけてて下さいて頼まれてるねんが。」
「そしたらお母さん、福子の廻し者だっかいな。」
「阿呆らしいもない。」
そう云ったきり取り合わないで、又水の音を盛んにジャブジャブと立て始めた。
「いったいお母さん僕のお母さんか、福子のお母さんか、孰方だす? なあ、孰方だすいな。」
「もう止めんかいな、そんな大きな声出して、近所へ聞えたら見っともないがな。」
「そしたら、洗濯後にして、一寸ここへ来とくなはれ。」
「もう分ってる、もう何も云わへんさかいに、何処なと好きなとこへ行きなはれ。」
「ま、そない云わんと、一寸来なはれ。」
何と思ったか庄造は、いきなり勝手口へ行って、流し元にしゃがんでいる母親の、シャボンの泡だらけな手頸を掴むと、無理に奥の間へ引き立てて来た。
「なあ、お母さん、ええ折やよってに、一寸これ見て貰いまっさ。」
「何や、急からしゅう、………」
「これ、見て御覧、――― 」
夫婦の居間になっている奥の六畳の押入を開けると、下の段の隅ッこの、柳行李と用箪笥の隙間の暗い穴ぼこ になった所に、紅くもくもくかたまっているものが見える。
「あすこにあるのん、何や思いなはる。」
「あれかいな。………」
「あれみんな福子の汚れ物だっせ。あんな工合に後から後から突っ込んどいて、ちょっとも洗濯せエへんので、穢いもんが彼処に一杯溜ってて、箪笥の抽出かて開けられへんねんが。」
「おかしいなあ、あの娘のもんは先繰り洗濯屋へ出してるのんに、………」
「そうかて、まさかお腰だけは出されへんやろが。」
「ふうむ、あれはお腰かいな。」
「そうだんが。なんぼなんでも女の癖にあんまりだらしないさかいに、僕もう呆れてまんねんけど、お母さんかて様子見てたら分ってるのんに、何で叱言云うてくれしまへん? 僕にばっかりやかましいこと云うといて、福子にやったら、こないな道楽されてても見ん振りしてなはんのんか。」
「こんな所にこんなもんが突っ込んであること、わてが何で知るかいな。………」
「お母さん」
不意に庄造はびっくりしたような声を挙げた。母が押入の段の下へもぐり込んで行って、その汚れ物をごそごそ引き出し始めたからである。
「それ、どないするねん?」
「この中綺麗にしてやろ思うて、………」
「止めなはれ、穢い!………止めなはれ!」
「ええがな、わてに任しといたら、………」
「何じゃいな、姑が嫁のそんなもん触うたりして! 僕お母さんにそんなことしてくれ云えしまへんで。福子にさしなはれ云うてんで。」
おりんは聞えない振りをして、その薄暗い奥の方から、円くつくねてある紅い英ネルの束を凡そ五つ六つ取り出すと、それを両手に抱えながら勝手口へ運んで行って、洗濯バケツの中へ入れた。
「それ、洗うてやんなはんのんか?」
「そんなこと気にせんと、男は黙ってるもんや。」
「自分のお腰の洗濯ぐらい、何で福子にさされまへん、なあお母さん。」
「うるさいなあ、わてはこれをバケツに入れて、水張っとくだけや。こないしといたら、自分で気イ付いて洗濯するやろが。」
「阿呆らしい、気イ付くような女だっかいな。」
母はあんなことを云っているけれど、きっと自分が洗ってやる気に違いないので、尚更庄造は腹の虫が納まらなかった。そして着物も着換えずに、厚司姿のまま土間の板草履を突っかけると、ぷいと自転車へ飛び乗って、出かけてしまった。
さっき球撞きに行きたいと云ったのは、ほんとうにそのつもりだったのであるが、今の一件で急に胸がムシャクシャして来て、球なんかどうでもよくなったので、何と云うアテもなしに、ベルをやけに鳴らしながら蘆屋川沿いの遊歩道を真っすぐ新国道へ上ると、つい業平橋を渡って、ハンドルを神戸の方へ向けた。まだ五時少し前頃であったが、一直線につづいている国道の向うに、早くも晩秋の太陽が沈みかけていて、太い帯になった横流れの西日が、殆ど路面と平行に射している中を、人だの車だのがみんな半面に紅い色を浴びて、恐ろしく長い影を曳きながら通る。ちょうど真正面にその光線の方へ向って走っている庄造は、鋼鉄のようにぴかぴか光る舗装道路の眩しさを避けて、俯向き加減に、首を真横にしながら、森の公設市場前を過ぎ、小路の停留所へさしかかったが、ふと、電車線路の向う側の、とある病院の塀外に、畳屋の塚本が台を据えてせっせ と畳を刺しているのが眼に留まると、急に元気づいたように乗り着けて行って、
「忙しおまっか。」
と、声をかけた。
「やあ」
と塚本は、手は休めずに眼で頷いたが、日が暮れぬ間に仕事を片附けてしまおうと、畳へきゅ ッと針を刺し込んでは抜き取りながら、
「今時分、何処へ行きはりまんね?」
「別に何処へも行かしまへん。ちょっとこの辺まで来てみましてん。」
「僕に用事でもおましたんか。」
「いいえ、違いま。―――」
そう云ってしまってはっ としたが、仕方がなしに眼と鼻の間へクシャクシャとした皺を刻んで、曖昧な作り笑いをした。
「今此処通りかかったのんで、声かけてみましたんや。」
「そうだっか。」
そして塚本は、自分の眼の前に自転車を停めて突っ立っている人間になんか、構っていられないと云わんばかりに、直ぐ下を向いて作業を続けたが、庄造の身になってみれば、いくら忙しいにしたところで、「近頃どうしているか」とか、「リリーのことはあきらめたか」とか、そのくらいな挨拶はしてくれてもよさそうなものだのに、心外な気がしてならなかった。それと云うのが、福子の前ではリリー恋いしさを一生懸命に押し隠して、リリーの「リ」の字も口に出さないでいるものだから、それだけ千万無量の思いが胸に鬱積している訳で、今図らずも塚本に出遭ってみると、やれやれこの男に少しは切ない心の中を聞いて貰おう、そうしたら幾らか気が晴れるだろうと、すっかり当て込んでいたのであったが、塚本としてもせめて慰めの言葉ぐらい、でなければ無沙汰の詫びぐらい、云わなければならない筈なのである。なぜかと云って、抑もリリーを品子の方へ渡す時に、その後どう云う待遇を受けつつあるか、ときどき塚本が庄造の代りに見舞いに行って、様子を見届けて、報告をすると云う堅い約束があったのである。勿論それは二人の間だけの申し合わせで、おりんや福子には絶対秘密になっていたのだが、しかしそう云う条件があったからこそ大事な猫を渡してやったのに、あれきり一度もその約束を実行してくれたことがなく、うまうま人をペテンにかけて、知らん顔をしているのであった。
だが、塚本は、空惚けている訳ではなくて、日頃の商売の忙しさに取り紛れてしまったのであろうか。ここで遇ったのを幸いに、一と言ぐらい恨みを云ってやりたいけれども、こんなに夢中で働いている者に、今更呑気らしく猫のことなんぞ云い出せもしないし、云い出したところで、あべこべに怒鳴り付けられはしないであろうか。庄造は、夕日がだんだん鈍くなって行く中で、塚本の手にある畳針ばかりがいつ迄もきらきら光っているのを、見惚れるともなく見惚れながらぼんやり彳んでいるのであったが、ちょうどこのあたりは国道筋でも人家が疎らになっていて、南側の方には食用蛙を飼う池があり、北側の方には、衝突事故で死んだ人々の供養のために、まだ真新しい、大きな石の国道地蔵が立っているばかり。この病院のうしろの方は田圃つづきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさっきまでは澄み切った空気の底にくっきりと襞を重ねていたのが、もう黄昏の蒼い薄靄に包まれかけているのである。
「そんなら、僕、失敬しまっさ。―――」
「ちとやって来なはれ。」
「そのうちゆっくり寄せて貰いま。」
片足をペダルへかけて、二三歩とッとッと行きかけたけれども、やっぱりあきらめきれないらしく、
「あのなあ、―――」
と云いながら、又戻って来た。
「塚本君、えらいお邪魔しまっけど、実はちょっと聞きたいことがおまんねん。」
「何だす?」
「僕これから、六甲まで行ってみたろか思いまんねんけど、………」
やっと一畳縫い終えたところで、立ち上りかけていた塚本は、
「何しにいな?」
と呆れた顔をして、かかえた畳をもう一遍トンと台へ戻した。
「そうかて、あれきりどないしてるやら、さっぱり様子分れしまへんさかいにな。………」
「君、そんなこと、真面目で云うてなはんのんか。置きなはれ、男らしいもない!」
「違いまんが、塚本君!………そうやあれへんが。」
「そやさかいに僕あの時にも念押したら、あの女に何の未練もない、顔見るだけでもケッタクソが悪い云いなはったやおまへんか。」
「ま、塚本君、待っとくなはれ! 品子のことやあれへんが。猫のことだんが。」
「何と、猫?―――」
塚本の眼元と口元に、突然ニッコリとほほ笑みが浮かんだ。
「ああ、猫のことだっか。」
「そうだんが。―――君あの時に、品子があれを可愛がるかどうか、ときどき様子見に行ってくれる云いなはったのん、覚えたはりまっしゃろ?」
「そんなこと云いましたかいな、何せ今年は、水害から此方えらい忙しおましたさかいに、―――」
「そら分ってま。そやよってに、君に行って貰おう思うてエしまへん。」
せいぜい皮肉にそう云った積りだったのであるが、相手は一向感じてくれないで、
「君、まだあの猫のこと忘れられしまへんのんか。」
「何で忘れまっかいな。あれから此方、品子の奴がいじめてエへんやろか、あんじょう懐いてるやろか思うたら、もうその事が心配でなあ、毎晩夢に見るぐらいだすねんけど、福子の前やったら、そんなことちょっとも云われしまへんよってに、尚のことここが辛うて辛うて、………」
と、庄造は胸を叩いてみせながらべそ を掻いた。
「………ほんまのとこ、もう今迄にも一遍見に行こ思うてましてんけど、何せこのところ一と月ほど、ひとりやったらめったに出して貰われしまへん。それに僕、品子に会わんならんのん叶いまへんよってに、彼奴に見られんようにして、リリーにだけそうッと会うて来るようなこと、出来しまへんやろか?」
「そら、むずかしいおまんなあ。―――」
好い加減に堪忍してくれと云う催促のつもりで、塚本はおろした畳へ手をかけながら、
「どないしたかて見られまんなあ。それに第一、猫に会いに来た思わんと、品子さんに未練あるのんや思われたら、厄介なことになりまんがな。」
「僕かてそない思われたら叶いまへんねん。」
「もうあきらめてしまいなはれ。人にやってしもうたもん、どない思うたかてショウがないやおまへんか、なあ石井君。―――」
「あのなあ、」
と、それには答えないで、別なことを聞いた。
「あの、品子はいつも二階だっか、階下だっか?」
「二階らしおまっけど、階下へかて降りて来まっしゃろ。」
「家空けることおまへんやろか?」
「分りまへんなあ。―――裁縫したはりますさかいに、大概家らしおまっけど。」
「風呂へ行く時間、何時頃だっしゃろ?」
「分りまへんなあ。」
「そうだっか。そしたら、えらいお邪魔しましたわ。」
「石井君」
塚本は、畳を抱えて立ち上った間に、早くも一二間離れかけた自転車の後姿に云った。
「君、ほんまに行きはりまんのか。」
「どうするかまだ分れしまへん。兎に角近所まで行ってみまっさ。」
「行きなはるのんは勝手だすけど、後でゴタゴタ起ったかて、係り合うのんイヤだっせ。」
「君もこんなこと、福子やお袋に云わんと置いとくなはれ。頼みまっさ。」
そして庄造は、首を右左へ揺さ振り揺さ振り、電車線路を向う側へ渡った。
これから出かけて行ったところで、あの一家の者達に顔を合わせないようにして、こっそりリリーに遇うなんと云う巧い寸法に行くであろうか。いいあんばいに裏が空地になっているから、ポプラーの蔭か雑草の中にでも身を潜めて、リリーが外へ出て来るのを気長に待っているより外に手はないのだが、生憎なことに、こう暗くなってしまっては、出て来てくれても中々発見が困難であろう。それにもうそろそろ初子の亭主が勤務先から帰って来るであろうし、晩飯の支度で勝手口の方が忙しくなるであろうから、そういつ迄も空巣狙いみたいにうろうろしている訳にも行かない。とすると、もっと時間の早い時に出直す方がいいのだけれども、しかしリリーに会える会えないは二の次として、久し振に女房の眼を偸んで、彼方此方を乗り廻せると云うことだけでも、愉快でたまらないのであった。実際、今日を外してしまうと、こう云う時はもう半月待たないと来ないのである。福子はおりおり親父の所へお小遣いをセビリに行くのだが、それが大体一と月に二度、お朔日前後と十五日前後とにきまっていて、行けば必ず夕飯を呼ばれ、早くて八九時頃に帰るのが例であるから、今日も今から三四時間は自由が楽しまれるのであって、もし自分さえ飢えと寒さに堪える覚悟なら、あの裏の空地に、少くとも二時間は立っている余裕があるのである。だからリリーが晩飯の後でぶらつきに出かける習慣を、今も改めないでいるものとすれば、ひょっとしたら彼処で会えるかも知れない。そう云えばリリーは、食後に草の生えている所へ行って、青い葉を食べる癖があるので、尚更あの空地は有望な訳だ。―――そんなことを考えながら、甲南学校前あたり迄やって来ると、国粋堂と云うラジオ屋の前で自転車を停めて、外から店を覗いてみて、主人がいるのを確かめてから、
「今日は」
と、表のガラス戸を半分ばかり開けた。
「えらい済んまへんけど、二十銭貸しとくなはれしまへんか。」
「二十銭でよろしおまんのか。」
知らない顔ではないけれども、いきなり飛び込んで来て心やすそうに云われる程の仲やあれへん、と、そう云いたげに見えた主人は、二十銭では断りもならないので、手提金庫から十銭玉を二つ取り出して、黙って掌へ載せてやると、直ぐ向う側の甲南市場へ駈け込んで、アンパンの袋と筍の皮包を懐ろに入れて戻って来て、
「ちょっと台所使わしとくなはれ。」
人が好いようでへんにずうずうしいところのある彼は、そう云うことには馴れたものなので、「何しなはんね」と云われても「訳がありまんねん」とばかり、ニヤニヤしながら勝手口へ廻って行って、筍の皮包の鶏の肉をアルミニュームの鍋へ移すと、瓦斯の火を借りて水煮 きにした。そして「済んまへんなあ」を二十遍ばかりも繰り返しながら、
「いろいろ無心云いまっけど、今一つ聴いとくなはれしまへんか。」
と、自転車に附けるラムプの借用を申し込んだが、「これ持って行きなはれ」と主人が奥から出して来てくれたのは、「魚崎町三好屋」と云う文字のある、何処かの仕出屋の古提灯であった。
「ほう、えらい骨董物だんなあ。」
「それやったら大事おまへん。ついでの時に返しとくなはれ。」
庄造は、まだおもてが薄明るいので、その提灯を腰に挿して出かけたが、阪急の六甲の停留所前、「六甲登山口」と記した大きな標柱の立っている所まで来て、自転車を角の休み茶屋に預けて、そこから二三丁上にある目的の家の方へ、少し急なだらだら路を登って行った。そして家の北側の、裏口の方へ廻って、空地の中へ這入り込むと、二三尺の高さに草がぼうぼうと生えている一とかたまりの叢のかげにしゃがんで、息を殺した。
ここでさっきのアンパンを咬りながら、二時間の間辛抱してみよう、そのうちにリリーが出て来てくれたら、お土産の鶏の肉を与えて、久しぶりに肩へ飛び着かせたり、口の端を舐めさせたり、楽しいいちゃつき 合いをしようと、そう云う積りなのであった。
いったい今日は面白くないことがあったのでアテもなく外へ飛び出したら、足が自然に西の方へ向いたばかりでなく、塚本なんぞに出遭ったものだから、とうとう途中で決心をして、此処まで延してしまったのだが、こうなることと分っていたら外套を着て来ればよかったのに、厚司の下に毛糸のシャツを着込んだだけでは、流石に寒さが身に沁みる。庄造は肩をぞく ッとさせて、星がいちめんに輝き始めた夜空を仰いだ。板草履を穿いた足に冷めたい草の葉が触れるので、ふと気が付いて、帽子だの肩だのを撫でてみると、夥しい露が降りている。成る程、これでは冷える訳だ、こうして二時間もうずくまっていたら、風邪を引いてしまうかも知れない。だが庄造は、台所の方から魚を焼く匂が匂って来るので、リリーがあれを嗅ぎ付けて何処かから帰って来そうな気がして、異様な緊張を覚えるのであった。彼は小さな声を出して、「リリーや、リリーや」と呼んでみた。何か、あの家の人達には分らないで、猫にだけ分る合図の方法はないものかとも思ったりした。彼がつくばっている叢の前の方に、葛の葉が一杯に繁っていて、その葉の中でときどきピカリと光るものがあるのは、多分夜露の玉か何かが遠くの方の電燈に反射しているせいなのだけれども、そうと知りつつ、その度毎に猫の眼か知らんとはっ と胸を躍らせた。………あ、リリーかな、やれ嬉しや! そう思った途端に動悸が搏ち出して、鳩尾の辺がヒヤリとして、次の瞬間に直ぐ又がっかりさせられる。こう云うと可笑しな話だけれども、まだ庄造はこんなヤキモキした心持を人間に対してさえ感じたことはないのであった。せいぜいカフェエの女を相手に遊んだぐらいが関の山で、恋愛らしい経験と云えば、前の女房の眼を掠めて福子と逢引していた時代の、楽しいような、懊れったいような、変にわくわくした、落ち着かない気分、―――まああれぐらいなものなのだが、それでもあれは両方の親が内々で手引をしてくれ、品子の手前を巧く胡麻化してくれたので、無理な首尾をする必要もなく、夜露に打たれてアンパンを咬るような苦労をしないでもよかったのだから、それだけ真剣味に乏しく、逢いたさ見たさもこんなに一途ではなかったのであった。
庄造は、母親からも女房からも自分が子供扱いにされ、一本立ちの出来ない低能児のように見做されるのが、非常に不服なのであるが、さればと云ってその不服を聴いてくれる友達もなく、悶々《もんもん》の情を胸の中に納めていると、何となく独りぽっちな、頼りない感じが湧いて来るので、そのために尚リリーを愛していたのである。実際、品子にも、福子にも、母親にも分って貰えない淋しい気持を、あの哀愁に充ちたリリーの眼だけがほんとうに見抜いて、慰めてくれるように思い、又あの猫が心の奥に持っていながら、人間に向って云い現わす術を知らない畜生の悲しみと云うようなものを、自分だけは読み取ることが出来る気がしていたのであったが、それがお互いに別れ別れにされてしまって四十余日になるのである。そして一時は、もうそのことを考えないように、なるべく早くあきらめるように努めたことも事実だけれども、母や女房への不平が溜って、その鬱憤の遣り場がなくなって来るに従い、いつか再び強い憧れが頭を擡げて、抑えきれなくなったのであった。全く、庄造の身になってみると、ああ云う厳しい足止めをされて、出るにも入るにも干渉を受けたのでは、却って恋いしさを焚き付けられるようなもので、忘れようにも忘れる暇がなかったのであるが、それにもう一つ気になったのは、あれきり塚本から何の報告もないことであった。あんなに約束しておきながら、どうして何とも云って来てくれないのか。仕事が忙しいのなら已むを得ないが、ひょっとするとそうでなく、彼に心配させまいとして、何か隠しているのではないか。たとえば品子にいじめられて、食うや食わずでいるためにひどく衰弱してしまったとか、逃げて出たきり行衛不明になったとか、病死したとか、云うようなことがあるのではないか。あれから此方、庄造はよくそんな夢を見て、夜中にはっ と眼を覚ますと、何処かで「ニャア」と啼いているように思えるので、便所へ行くような風をしながら、そうっと起きて雨戸を開けてみたことも、一度や二度ではないのであるが、あまりたびたびそう云う幻に欺かれると、今聞いた声や夢に見た姿は、リリーの幽霊なのではないか、逃げて来る路で野たれ死にをして、魂だけが戻ったのではないのかと、そんな気がして、ぞう っと身ぶるいが出たこともある。だが又、いくら品子が意地の悪い女でも、塚本が無責任でも、まさかリリーに変ったことが起ったら黙っている筈もあるまいから、便りのないのは無事に暮らしている証拠なのだと、不吉な想像が浮かぶたびに打ち消し打ち消しして来たのであるが、それでも感心に女房の云いつけを忠実に守って、一度も六甲の方角へ足を向けたことがなかったと云うのは、監視が厳しかったばかりでなく、品子の網に引っかかるのが不愉快だからであった。彼にはリリーを引き取った品子の真意と云うものが、今でもハッキリしないのだけれども、事に依ったら、塚本が報告を怠っているのも品子のさしがね ではないのか、彼奴はそう云う風にしてわざと己に気を揉ませて、おびき寄せようと云う腹ではないのかと、そんな邪推もされるので、リリーの安否を確かめたいと願う一方、見す見す彼奴の罠に篏まってたまるものかと云う反感が、それと同じくらい強かったのであった。彼は何とかしてリリーには会いたいが、品子に掴まることはイヤでたまらなかった。「とうとうやって来ましたね」と、彼奴がへんに利口ぶって、得意の鼻をうごめかすかと思うと、もうその顔つきを浮かべただけでムシズが走った。元来庄造には彼一流の狡さがあって、いかにも気の弱い、他人の云うなり次第になる人間のように見られているのを、巧みに利用するのであるが、品子を追い出したのが矢張その手で、表面はおりんや福子に操られた形であるけれども、その実誰よりも彼が一番彼女を嫌っていたかも知れない。そして庄造は、今考えても、いいことをした、いい気味だったと思うばかりで、不憫と云う感じは少しも起らないのであった。
現に品子は、電燈のともっている二階のガラス窓の中にいるのに違いないのだが、雑草のかげにつくばいながらじっとその灯を見上げていると、又してもあの、人を小馬鹿にしたような、賢女振った顔が眼先にちらついて、胸糞が悪くなって来る。折角ここまで来たのであるから、せめて「ニャア」と云うなつかしい声を余所ながらでも聞いて帰りたい、無事に飼われていることが分りさえしたら、それだけでも安心であるし、ここへ来た念が届くのであるから、いっそのことそうっと裏口を覗いてみたら、………アワよく行ったら、初子をこっそり呼び出して、おみやげの鶏の肉を渡して、近状を聞かして貰ったら、………と、そう思うのであるが、あの窓の灯を見て、あの顔を心に描くと、足がすくんでしまうのである。うっかりそんな真似をしたら、初子がどう云う感違いをして、二階の姉を呼びに行かないものでもないし、少くとも後でしゃべることは確かであるから、「そろそろ計略が図に中って来た」などと、己惚れるだけでも癪に触る。とすると、矢張この空地に根気よくうずくまっていて、リリーがここを通りかかる偶然の機会を捉えるより外はないのであるが、しかし今迄待って駄目なら、とても今夜は覚つかない。庄造はもう、袋の中のアンパンをみんな食べてしまった。そしてさっきから一時間半ぐらいは経ったような気がするので、だんだん家の方の首尾が心配になって来た。母親だけなら面倒はないが、福子が先に帰って来ていたら、今夜一と晩じゅう寝かして貰えないで、痣だらけにされる。それもいいけれども、又明日から監視が厳重になる。だが、一時間半も待つあいだに微かな啼きごえも洩れて来ないのは、何だか変だ、ひょっとしたら、この間からたびたび見た夢が正夢で、もうこの家にいないのではないか。さっき魚を焼く匂がした時が一家の夕飯だったとすると、リリーもあの時何かしら与えられるであろうし、そうすればきっと草を食べに出て来るのだが、来ないのを見るとどうも怪しい。………
庄造は、とうとう怺えきれなくなって、雑草の中から身を起すと、裏木戸の際まで忍んで行って、隙間へ顔をあててみた。と、階下はすっかり雨戸が締まっていて、子供を寝かしつけているらしい初子の声がとぎれとぎれに聞えて来る外には、何の物音もしない。二階のガラス障子にでも、ほんの一瞬間でいいからさっ と影が写ってくれたらどんなに嬉しいか知れないのに、ガラスの向うに白いカーテンが静かに垂れているばかりで、その上の方が薄暗く、下の方が明るくなっているのは、品子が電燈を低く下して、夜作をしているのであろう。ふと庄造は、あかりの下で一心に針を運びつつある彼女の傍に、リリーがおとなしく背中を円めて、「の」の字なりに臥ころびながら、安らかな眠を貪っている平和な光景を眼前に浮かべた。秋の夜長の、またたきもせぬ電燈の光が、リリーと彼女とただ二人だけを一つ圏の中に包んでいる外は、天井の方までぼうっと暗くなっている室内。………夜が次第に更けて行く中で、猫はかすかに鼾を掻き、人は黙々と縫い物をしている。侘びしいながらもしんみりとした場面。………あのガラス窓の中に、そう云う世界が繰りひろげられているとしたら、―――何か奇蹟的なことが起って、リリーと彼女とがすっかり仲好しになっていたとしたら、―――もしほんとうにそんな光景を見せられたら、焼餅を焼かずにいられるだろうか。正直のところ、リリーが昔を忘れてしまって現状に満足していられても、矢張腹が立つであろうし、そうかと云って、虐待されていたり死んでいたりしたのでは尚悲しいし、孰方にしても気が晴れることはないのだから、いっそ何も聞かない方がいいかも知れない。庄造は、途端に階下の柱時計が「ぼん、………」と、半を打つのを聞いた。七時半だ、―――と思うと、彼は誰かに突き飛ばされたように腰を浮かしたが、二た足三足行ってから引っ返して来て、まだ大事そうに懐に入れていた筍の皮包を取り出すと、それを木戸口や、五味箱の上や、彼方此方へ持って行ってウロウロした。何処か、リリーだけが気が付いてくれるような所へ置いて行きたいが、叢の中では犬に嗅ぎ付けられそうだし、この辺へ置いたら家の者が見つけるであろうし、巧い方法はないか知らん。いや、もうそんなことに構ってはいられぬ。遅くも今から三十分以内に帰らなかったら、又一と騒ぎ起るかも知れぬ。「あんた、今頃まで何しててん!」―――と、そう云う声が俄かに耳のハタで聞えて、福子のイキリ立った剣幕がありありと見える。彼は慌てて葛の葉の繁っている間へ、筍の皮を開いて置いて、両端へ小石を載せて、又その上から適当に葉を被せた。そして空地を横ッ飛びに、自転車を預けた茶屋のところまで夢中で走った。
その晩、庄造よりも二時間程おくれて帰って来た福子は、弟を連れて拳闘を見に行った話などをして、ひどく機嫌が好かった。そして明くる日、少し早めに夕飯を済ますと、
「神戸へ行かして貰いまっせ。」
と、夫婦で新開地の聚楽館へ出かけた。
おりんの経験だと、福子はいつも今津の家へ行って来た当座、つまり懐にお小遣のある五六日か一週間のあいだと云うものは、きまって機嫌がいいのである。このあいだに彼女は盛んに無駄使いをして、活動や歌劇見物などにも、二度ぐらいは庄造を誘って行く。従って夫婦仲も睦じく、至極円満に治まっているのだが、一週間目あたりからそろそろ懐が淋しくなって、一日家でごろごろしながら、間食いをしたり雑誌を読んだりするようになり出すと、ときどき亭主に口叱言を云う。尤も庄造も、女房の景気のいい時だけ忠実振りを発揮して、だんだん出るものが出なくなると、現金に態度を変え、浮かぬ顔をして生返事をする癖があるのだが、結局双方から飛ばっちりを食う母親が、一番割が悪いことになる。だからおりんは、福子が今津へ駈け付ける度に、やれやれこれで当分は安心だと思って、内々ほっとするのであった。
で、今度もちょうどそう云う平和な一週間が始まっていたが、神戸へ行ってから三四日たった或る日の夕方、亭主と二人晩飯のチャブ台に向っていた福子は、
「こないだの活動、ちょっとも面白いことあれへなんだなあ。」
と、自分も行ける口なので、ほんのり眼のふちへ酔いを出しながら、
「―――なあ、あんたどない思うた?」
と、そう云って銚子を取り上げると、庄造がそれを引ったくるようにして此方からさした。
「一つ行こ。」
「もう、あかん。………酔うたわ、わて。」
「まあ、行こ、もう一つ。………」
「家で飲んだかて、おいしいことあれへん。それより明日何処ぞへ行けへん?」
「ええなあ、行きたいなあ。」
「まだお小遣ちょっとも使うてエへんねんで。………こないだの晩、家で御飯たべて出て、活動見ただけやったやろ、そやさかいに、まだたあん と持ってるねん。」
「何処にしょう、そしたら?………」
「宝塚、今月は何やってるやろ?」
「歌劇かいな。―――」
後に旧温泉と云う楽しみはあるにしてからが、何だかもう一つ気が乗らない顔つきをした。
「―――そないにたんとお小遣あるのんやったら、もっと面白いことないやろか。」
「何ぞ考えてエな。」
「紅葉見に行けへん?」
「箕面かいな。」
「箕面はあかんねん、こないだの水ですっくりやられてしもてん。それより僕、久し振りで有馬へ行ってみたいねんけど、どうや、賛成せエへんか。」
「ほんに、………あれ、いつやったやろ?」
「もうちょうど一年ぐらい………いや、そうやないわ、あの時河鹿が啼いてたわ。」
「そうや、もう一年半になるで。」
それは二人が人目を忍ぶ仲になり出して間もない時分、或る日滝道の終点で落ち合い、神有電車で有馬へ行って、御所の坊の二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあったが、涼しい渓川の音を聞きながら、ビールを飲んでは寝たり起きたりして過した、楽しかった夏の日のことを、二人ともはっきり思い出した。
「そしたら、又御所の坊の二階にしょうか。」
「夏より今の方がええで。紅葉見て、温泉に這入って、ゆっくり晩の御飯食べて、―――」
「そうしょう、そうしょう、もうそれにきめたわ。」
その明くる日は早お昼の予定であったが、福子は朝の九時頃からぽつぽつ身支度に取りかかりながら、
「あんた、汚い頭やなあ。」
と、鏡の中から庄造に云った。
「そうかも知れん、もう半月ほど床屋へ行けへんさかいにな。」
「そしたら大急ぎで行って来なはれ、今から三十分以内に。―――」
「そらえらいこッちゃ。」
「そんな頭してたら、わてよう一緒に歩かんわ。―――早うしなはれ!」
庄造は、女房が渡してくれた一円札を、左の手に持ってヒラヒラさせながら、自分の店から半丁程東にある床屋の前まで駈けて行ったが、いいあんばいに客が一人も来ていないので、
「早いとこ頼みまっさ。」
と、奥から出て来た親方に云った。
「何処ぞ行きはりまんのんか。」
「有馬へ紅葉見に行きまんね。」
「そら宜しおまんなあ、奥さんも一緒だっか?」
「そうだんね。―――早お昼たべて出かけるさかい、三十分で頭刈って来なはれ云われてまんね。」
が、それから三十分過ぎた時分、
「お楽しみだんなあ、ゆっくり行って来なはれ。」
と、背中から親方が浴びせる言葉を聞き流して、家の前まで戻って来て、何心なく店へ一と足踏み込むと、そのまま土間に立ちすくんでしまった。
「なあ、お母さん、何で今日までそれ隠してはりましてん。………」
と、突然そう云うただならぬ声が奥から聞えて来たからである。
「………何でそんなことがあったら、わてに云うとくなはれしまへん。………そしたらお母さん、わての味方してるみたいに見せかけといて、いつもそんなことさせてはったんと違いまっか。………」
福子が大分お冠を曲げているらしいことは甲高い物の云い方で分る。母親の方は明かに遣り込められている様子で、たまに一と言二た言ぐらい口返答をするけれども、胡麻化すようにコソコソと云うので、よく聞えない。福子の怒鳴る声ばかりが筒抜けに響いて来るのである。
「………何? 行ったとは限らん?………阿呆らしい! 人の家の台所借って、鶏の肉煮いたりして、リリーの所やなかったら、何所へ持って行きまんね。………それにしたかて、あの提灯持って帰って、あんな所に直してあったこと、お母さん知ったはりましたんやろ?………」
彼女が母親を掴まえて、あんなキンキンした声を張り上げることはめったにないのだが、しかしたった今、彼が床屋へ行っていた僅かな間に、どうやら先日の国粋堂が、あの時の立て換えと古提灯とを取り返しに来たのだと見える。ありていに云うと、あの晩庄造はあの提灯を自転車の先にぶら下げて帰って、福子に見咎められないように、物置小屋の棚の上に押し上げて置いたのであるが、お袋には見当がついていた筈だから、出して渡してやったのかも知れない。だが国粋堂は、いつでもいいようにと云っていながら、何で取り返しに来たのだろう。まさかあんな古提灯が惜しいこともあるまいに、この辺についででもあったのだろうか、それとも二十銭を借りっ放しにされたのが、腹が立ったのだろうか。それに又、親父が来たのか、小僧が来たのか知らないが、鶏の話までして行かないでもいいではないか。
「………わてはなあ、相手がリリーだけやったら、何もうるさいこと云えしまへんで。リリーに会いに行く云うても、リリーだけやあれへんさかいに、云いまんねんで。いったいお母さん、あの人とグルになって、わてを欺すようなことして、済むと思うたはりまんのんか。」
そう云われると、流石のおりんもグウの音も出ないで、小さくなっているのであるが、忰の代りに怒られているのは可哀そうのようでもあり、一寸いい気味のようでもある。何にしても庄造は、自分がいたら中々福子の怒り方がこのくらいでは済むまいと思うと、危く虎口を逃れた気がして、スワといえば戸外へ飛び出せるように、身構えをしながら立っていると、
「………いいえ、分ってま! あの人六甲へ遣ったりして、今度はわてを追い出す相談してなはるねん。」
と、云うのにつづいてどたん と云う物音がして、
「待ちいな!」
「放しとくなはれ!」
「そうかて、何処へ行くねんな。」
「お父さん所へ行って来ます、わての云うことが無理か、お母さんの云うことが無理か、―――」
「ま、今庄造が戻るさかいに―――」
どたん 、どたん 、と、二人が盛んに争いながら店の方へ出て来そうなので、慌てて庄造は往来へ逃げ延びて、五六丁の距離を夢中で走った。それきり後がどうなったことやら分らなかったが、気が付いてみると、いつか自分は新国道のバスの停留所の前に来て、さっき床屋で受け取った釣銭の銀貨を、まだしっかりと手の中に握っていた。
ちょうどその日の午後一時頃、品子が朝のうちに仕上げた縫物を、近所まで届けて来ると云って、不断着の上に毛糸のショールを引っかけて、小走りに裏口から出て行ったあと、初子がひとり台所で働いていると、そこの障子をごそ ッと一尺ばかり開けて、せいせい息を切らしながら庄造が中を覗き込んだので、
「あらッ」
と、飛び上りそうにすると、ピョコンと一つお時儀をしながら笑ってみせて、
「初ちゃん、………」
と云ってから、後ろの方に気を配りつつ急にひそひそ声になって、
「………あの、今此処から品子出て行きましたやろ?」
と、セカセカした早口で云った。
「………僕今そこで会うてんけど、品子は気イ付けしまへなんだ。僕あのポプラーの蔭に隠れてましたよってにな。」
「何ぞ姉さんに用だっか?」
「滅相な! リリーに会いに来ましてんが。―――」
そして、そこから庄造の言葉は、さも思い余った、哀れっぽい切ない声に変った。
「なあ、初ちゃん、あの猫何処にいてます?………済んまへんけど、ほんのちょっとでええさかい、会わしとくなはれ!」
「何処ぞ、その辺にいてしまへんか。」
「そない思うて、僕この近所うろうろして、もう二時間も彼処に立ってましてんけど、ちょっとも出て来よれしまへんねん。」
「そしたら、二階にいてるかしらん?」
「品子もう直ぐ戻りまっしゃろか? 今頃何処へ行きましたんや?」
「ほんそこまで仕立物届けに。―――二三丁の所だすよって、直ぐ帰りまっせ。」
「ああ、どうしよう、ああ困った。」
そう云って仰山に体をゆすぶって、地団駄を踏みながら、
「なあ、初ちゃん、頼みます、この通りや。―――」
と、手を擦り合わせて拝む真似をした。
「―――後生一生のお願いだす、今の間に連れて来とくなはれ。」
「会うて、どないしやはりまんね。」
「どうもこうもせえしまへん。無事な顔一と眼見せてもろたら、気が済みまんねん。」
「連れて帰りはれしまへんやろなあ?」
「そんなことしまっかいな。今日見せてもろたら、もうこれっきり来えしまへん。」
初子は呆れた顔をして、穴の明くほど庄造を視詰めていたが、何と思ったか黙って二階へ上って行って、直ぐ段梯子の中段まで戻って来ると、
「いてまっせ。―――」
と、台所の方へ首だけ突ん出した。
「いてまっか?」
「わて、よう抱きまへんよって、見に来とくなはれ。」
「行っても大事おまへんやろか。」
「直ぐ降りとくなはれや。」
「宜しおま。―――そしたら、上らして貰いまっさ。」
「早いことしなはれ!」
庄造は、狭い、急な段梯子を上る間も胸がドキドキした。ようよう日頃の思いが叶って、会うことが出来るのは嬉しいけれども、どんな風に変っているだろうか。野たれ死にもせず、行くえ不明にもならないで、無事にこの家にいてくれたのは有難いが、虐待されて、痩せ衰えていなければいいが、………まさか一と月半の間に忘れる筈はないだろうけれど、なつかしそうに傍へ寄って来てくれるか知らん? それとも例の、羞渋んで逃げて行くか知らん?………蘆屋の時代に、二三日家を空けたあとで帰って来ると、もう何処へも行かせまいとして、縋り着いたり舐め廻したりしたものであったが、もしもあんな風にされたら、それを振り切るのに又もう一度辛い思いをしなければならない。………
「此処だっせ。―――」
晴れ晴れとした午後の外光を遮って、窓のカーテンが締まっているのは、大方用心深い品子が出て行く時にそうしたのであろうか。―――そのために室内がもやもやと翳って、薄暗くなっている中に、信楽焼のナマコの火鉢が置いてあって、なつかしいリリーはその傍に、座布団を重ねて敷いて、前脚を腹の下へ折り込んで、背を円くしながらうつらうつら眼をつぶっていた。案じた程に痩せてもいないし、毛なみもつやつやとしているのは、相当に優遇されているからであろう。思ったよりも大事にされている証拠には、彼女のために専用の座布団が二枚も設けてあるばかりではない、たった今、お昼の御馳走に生卵を貰ったと見えて、きれいに食べ尽した御飯のお皿と、卵の殻とが、新聞紙に載せて部屋の片隅に寄せてあり、又その横には、蘆屋時代と同じようなフンシさえ置いてあるのである。と、突然庄造は、久しい間忘れていたあの特有の匂を嗅いだ。嘗て我が家の柱にも壁にも床にも天井にも沁み込んでいたあの匂が、今はこの部屋に籠っているのであった。彼は悲しみがこみ上げて来て、
「リリー、………」
と覚えず濁声を挙げた。するとリリーはようようそれが聞えたのか、どんよりとした慵げな瞳を開けて、庄造の方へひどく無愛想な一瞥を投げたが、ただそれだけで、何の感動も示さなかった。彼女は再び、前脚を一層深く折り曲げ、背筋の皮と耳朶とをブルン! と寒そうに痙攣させて、睡くてたまらぬと云うように眼を閉じてしまった。
今日はお天気がいい代りに、空気が冷え冷えと身に沁むような日であるから、リリーにしたら火鉢の傍を離れるのがイヤなのであろう。それに胃の腑がふくらんでいるので、尚更大儀なのでもあろう。この動物の無精な性質を呑み込んでいる庄造は、こう云うそっけない態度には馴れているので、格別訝しみはしなかったが、でも気のせいか、その夥しく眼やに の溜った眼のふちだの、妙にしょんぼりとうずくまっている姿勢だのを見ると、僅かばかり会わなかった間に、又いちじるしく老いぼれて、影が薄くなったように思えた。分けても彼の心を打ったのは、今の瞳の表情であった。在来とてもこんな場合に睡そうな眼をしたとは云え、今日のはまるで行路病者のそれのような、精も根も涸れ果てた、疲労しきった色を浮かべているではないか。
「もう覚えてエしまへんで。―――畜生だんなあ。」
「阿呆らしい、人が見てたらあないに空惚けまんねんが。」
「そうだっしゃろか。………」
「そうだんが。………そやさかいに、………済んまへんけど、ほんちょっとの間、初ちゃん此処に待っててくれて、この襖締めさしとくなはれしまへんか。………」
「そないして、何しやはりまんね。」
「何もせえしまへん。………ただ、あの、ちょっと、………膝の上に抱いてやりまんねん。………」
「そうかて、姉さん帰って来まっせ。」
「そしたら、初ちゃん、そっちの部屋から門見張ってて、見えたら直ぐに知らしとくなはれ。頼みまっさ。………」
襖に手をかけてそう云っているうちに、もう庄造はずるずると部屋へ這入って、初子を外へ締め出してしまった。そして、
「リリー」
と云いながら、その前へ行って、さし向いにすわった。
リリーは最初、折角昼寝しているのにうるさい! と云うような横着そうな眼をしばだたいたが、彼が眼やに を拭いてやったり、膝の上に乗せてやったり、頸すじを撫でてやったりすると、格別嫌な顔もしないで、される通りになっていて、暫くするうちに咽喉をゴロゴロ鳴らし始めた。
「リリーや、どうした? 体の工合悪いことないか? 毎日々々、可愛がってもろてるか?―――」
庄造は、今にリリーが昔のいちゃつき を思い出して、頭を押し着けに来てくれるか、顔を舐め廻しに来てくれるかと、一生懸命いろいろの言葉を浴びせかけたが、リリーは何を云われても、相変らず眼をつぶったままゴロゴロ云っているだけであった。それでも彼は背中の皮を根気よく撫でてやりながら、少し心を落ち着けてこの部屋の中を眺めてみると、あの几帳面で癇性な品子の遣り方が、ほんの些細な端々《はしばし》にもよく現われているように感じた。たとえば彼女は、僅か二三分の間留守にするにも、ちゃんとこうしてカーテンを締めて行くのである。のみならずこの四畳半の室内に、鏡台だの、箪笥だの、裁縫の道具だの、猫の食器だの、便器だの、さまざまなものを並べて置きながら、それらが一糸乱れずに、それぞれ整然と片寄せられて、鏝の突き刺してある火鉢の中を覗いてみても、炭火を深くいけ込んだ上に、灰が綺麗に筋目を立ててならしてあり、三徳の上に載せてある瀬戸引の薬鑵までが、研ぎ立てたようにピカピカ光っているのである。が、それはまあ不思議はないとしても、奇妙なのはあの皿に残っている卵の殻だった。彼女は自分で食い扶持を稼いでいるので、決して楽ではないであろうに、貧しい中でもリリーに滋養分を与えると見える。いや、そう云えば、彼女が自分で敷いている座布団に比べて、リリーの座布団の綿の厚いことはどうだ。いったい彼女は何と思って、あんなに憎んでいた猫を大事にする気になったのであろう。
考えてみると庄造は、云わば自分の心がらから前の女房を追い出してしまい、この猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、今朝は自分が我が家の閾を跨ぐことが出来ないで、ついふらふらと此処へやって来たのであるが、このゴロゴロ云う音を聞きながら、咽せるようなフンシの匂を嗅いでいると、何となく胸が一杯になって、品子も、リリーも、可哀そうには違いないけれども、誰にもまして可哀そうなのは自分ではないか、自分こそほんとうの宿なしではないかと、そう思われて来るのであった。
と、その時ばたばたと足音がして、
「姉さんもうついそこの角まで来てまっせ。」
と、初子が慌しく襖を開けた。
「えッ、そら大変や!」
「裏から出たらあきまへん!………表へ、………表へ廻んなはれ!………穿き物わてが持って行たげる! 早よ、早よ!」
彼は転げるように段梯子を駈け下りて、表玄関へ飛んで行って、初子が土間へ投げてくれた板草履を突っかけた。そして往来へ忍び出た途端に、チラと品子の後影が、一と足違いで裏口の方へ曲って行ったのが眼に留まると、恐い物にでも追われるように反対の方角へ一散に走った。
青空文庫より引用