麒麟
鳳兮。鳳兮。何徳之衰。
往者不可諫。来者猶可追。已而。已而。今之従政者殆而。
西暦紀元前四百九十三年。左丘明、孟軻、司馬遷等の記録によれば、魯の定公が十三年目の郊の祭を行われた春の始め、孔子は数人の弟子達を車の左右に従えて、其の故郷の魯の国から伝道の途に上った。
泗水の河の畔には、芳草が青々と芽ぐみ、防山、尼丘、五峯の頂の雪は溶けても、沙漠の砂を掴んで来る匈奴のような北風は、いまだに烈しい冬の名残を吹き送った。元気の好い子路は紫の貂の裘を飜して、一行の先頭に進んだ。考深い眼つきをした顔淵、篤実らしい風采の曾参が、麻の履を穿いて其の後に続いた。正直者の御者の樊遅は、駟馬の銜を執りながら、時々車上の夫子が老顔を窃み視て、傷ましい放浪の師の身の上に涙を流した。
或る日、いよ/\一行が、魯の国境までやって来ると、誰も彼も名残惜しそうに、故郷の方を振り顧ったが、通って来た路は亀山の蔭にかくれて見えなかった。すると孔子は琴を執って、
われ魯を望まんと欲すれば、
亀山之を蔽いたり。
手に斧柯なし、
亀山を奈何にせばや。
こう云って、さびた、皺嗄れた声でうたった。
それからまた北へ北へと三日ばかり旅を続けると、ひろ/″\とした野に、安らかな、屈托のない歌の声が聞えた。それは鹿の裘に索の帯をしめた老人が、畦路に遺穂を拾いながら、唄って居るのであった。
「由や、お前にはあの歌がどう聞える。」
と、孔子は子路を顧みて訊ねた。
「あの老人の歌からは、先生の歌のような哀れな響が聞えません。大空を飛ぶ小鳥のような、恣な声で唄うて居ります。」
「さもあろう。彼こそ古の老子の門弟じゃ。林類と云うて、もはや百歳になるであろうが、あの通り春が来れば畦に出て、何年となく歌を唄うては穂を拾うて居る。誰か彼処へ行って話をして見るがよい。」
こう云われて、弟子の一人の子貢は、畑の畔へ走って行って老人を迎え、尋ねて云うには、
「先生は、そうして歌を唄うては、遺穂を拾っていらっしゃるが、何も悔いる所はありませぬか。」
しかし、老人は振り向きもせず、餘念もなく遺穂を拾いながら、一歩一歩に歌を唄って止まなかった。子貢が猶も其の跡を追うて声をかけると、漸く老人は唄うことをやめて、子貢の姿をつく/″\と眺めた後、
「わしに何の悔があろう。」
と云った。
「先生は幼い時に行を勤めず、長じて時を競わず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居るのに、何を楽しみに穂を拾っては、歌を唄うておいでなさる。」
すると老人は、から/\と笑って、
「わしの楽しみとするものは、世間の人が皆持って居て、却って憂として居る。幼い時に行を勤めず、長じて時を競わず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居る。それだから此のように楽しんで居る。」
「人は皆長寿を望み、死を悲しんで居るのに、先生はどうして、死を楽しむ事が出来ますか。」
と、子貢は重ねて訊いた。
「死と生とは、一度往って一度反るのじゃ。此処で死ぬのは、彼処で生れるのじゃ。わしは、生を求めて齷齪するのは惑じゃと云う事を知って居る。今死ぬるも昔生れたのと変りはないと思うて居る。」
老人は斯く答えて、また歌を唄い出した。子貢には言葉の意味が解らなかったが、戻って来て其れを師に告げると、
「なか/\話せる老人であるが、然し其れはまだ道を得て、到り盡さぬ者と見える。」
と、孔子が云った。
それからまた幾日も/\、長い旅を続けて、箕水の流を渉った。夫子が戴く緇布の冠は埃にまびれ、狐の裘は雨風に色褪せた。
「魯の国から孔丘と云う聖人が来た。彼の人は暴虐な私達の君や妃に、幸な教と賢い政とを授けてくれるであろう。」
衛の国の都に入ると、巷の人々はこう云って一行の車を指した。其の人々の顔は饑と疲に羸せ衰え、家々の壁は嗟きと愁しみの色を湛えて居た。其の国の麗しい花は、宮殿の妃の眼を喜ばす為めに移し植えられ、肥えたる豕は、妃の舌を培う為めに召し上げられ、のどかな春の日が、灰色のさびれた街を徒に照らした。そうして、都の中央の丘の上には、五彩の虹を繍い出した宮殿が、血に飽いた猛獣の如くに、屍骸のような街を瞰下して居た。其の宮殿の奥で打ち鳴らす鐘の響は、猛獣の嘯くように国の四方へ轟いた。
「由や、お前にはあの鐘の音がどう聞える。」
と、孔子はまた子路に訊ねた。
「あの鐘の音は、天に訴えるような果敢ない先生の調とも違い、天にうち任せたような自由な林類の歌とも違って、天に背いた歓楽を讃える、恐ろしい意味を歌うて居ります。」
「さもあろう。あれは昔衛の襄公が、国中の財と汗とを絞り取って造らせた、林鐘と云うものじゃ。その鐘が鳴る時は、御苑の林から林へ反響して、あのような物凄い音を出す。また暴政に苛まれた人々の呪と涙とが封じられて居て、あのような恐ろしい音を出す。」
と、孔子が教えた。
衛の君の霊公は、国原を見晴るかす霊台の欄に近く、雲母の硬屏、瑪瑙の榻を運ばせて、青雲の衣を纒い、白霓の裳裾を垂れた夫人の南子と、香の高い秬鬯を酌み交わしながら、深い霞の底に眠る野山の春を眺めて居た。
「天にも地にも、うらゝかな光が泉のように流れて居るのに、何故私の国の民家では美しい花の色も見えず、快い鳥の声も聞えないのであろう。」
こう云って、公は不審の眉を顰めた。
「それは此の国の人民が、わが公の仁徳と、わが夫人の美容とを讃えるあまり、美しい花とあれば、悉く献上して宮殿の園生の牆に移し植え、国中の小鳥までが、一羽も残らず花の香を慕うて、園生のめぐりに集る為めでございます。」
と、君側に控えた宦者の雍渠が答えた。すると其の時、さびれた街の静かさを破って、霊台の下を過ぎる孔子の車の玉鑾が珊珊と鳴った。
「あの車に乗って通る者は誰であろう。あの男の額は尭に似て居る。あの男の目は舜に似て居る。あの男の項は皐陶に似て居る。肩は子産に類し、腰から下が禹に及ばぬこと三寸ばかりである。」
と、これも側に伺候して居た将軍の王孫賈が、驚きの眼を見張った。
「しかし、まあ彼の男は、何と云う悲しい顔をして居るのだろう。将軍、卿は物識だから、彼の男が何処から来たか、妾に教えてくれたがよい。」
こう云って、南子夫人は将軍を顧み、走り行く車の影を指した。
「私は若き頃、諸国を遍歴しましたが、周の史官を務めて居た老※ 《ろうたん》と云う男の他には、まだ彼れ程立派な相貌の男を見たことがありませぬ。あれこそ、故国の政に志を得ないで、伝道の途に上った魯の聖人の孔子であろう。其の男の生れた時、魯の国には麒麟が現れ、天には和楽の音が聞えて、神女が天降ったと云う。其の男は牛の如き唇と、虎の如き掌と、亀の如き背とを持ち、身の丈が九尺六寸あって、文王の容体を備えて居ると云う。彼こそ其の男に違ありませぬ。」
こう王孫賈が説明した。
「其の孔子と云う聖人は、人に如何なる術を教える者である。」
と、霊公は手に持った盃を乾して、将軍に問うた。
「聖人と云う者は、世の中の凡べての智識の鍵を握って居ります。然し、あの人は、専ら家を斉え、国を富まし、天下を平げる政の道を、諸国の君に授けると申します。」
将軍が再びこう説明した。
「わたしは世の中の美色を求めて南子を得た。また四方の財宝を萃めて此の宮殿を造った。此の上は天下に覇を唱えて、此の夫人と宮殿とにふさわしい権威を持ちたく思うて居る。どうかして其の聖人を此処へ呼び入れて、天下を平げる術を授かりたいものじゃ。」
と、公は卓を隔てゝ対して居る夫人の唇を覗った。何となれば、平生公の心を云い表わすものは、彼自身の言葉でなくって、南子夫人の唇から洩れる言葉であったから。
「妾は世の中の不思議と云う者に遇って見たい。あの悲しい顔をした男が真の聖人なら、妾にいろ/\の不思議を見せてくれるであろう。」
こう云って、夫人は夢みる如き瞳を上げて、遥に隔たり行く車の跡を眺めた。
孔子の一行が北宮の前にさしかゝったとき、賢い相を持った一人の官人が、多勢の供を従え、屈産の駟馬に鞭撻ち、車の右の席を空けて、恭しく一行を迎えた。
「私は霊公の命をうけて、先生をお迎えに出た仲叔圉と申す者でございます。先生が此の度伝道の途に上られた事は、四方の国々までも聞えて居ります。長い旅路に先生の翡翠の蓋は風に綻び、車の軛からは濁った音が響きます。願わくは此の新しき車に召し替えられ、宮殿に駕を枉げて、民を安んじ、国を治める先王の道を我等の公に授け給え。先生の疲労を癒やす為めには、西圃の南に水晶のような温泉が沸々と沸騰って居ります。先生の咽喉を湿おす為めには、御苑の園生に、芳ばしい柚、橙、橘が、甘い汁を含んで実って居ります。先生の舌を慰める為めには、苑囿の檻の中に、肥え太った豕、熊、豹、牛、羊が蓐のような腹を抱えて眠って居ります。願わくは、二月も、三月も、一年も、十年も、此の国に車を駐めて、愚な私達の曇りたる心を啓き、盲いたる眼を開き給え。」
と、仲叔圉は車を下りて、慇懃に挨拶をした。
「私の望む所は、荘厳な宮殿を持つ王者の富よりは、三王の道を慕う君公の誠であります。萬乗の位も桀紂の奢の為めには尚足らず、百里の国も尭舜の政を布くに狭くはありませぬ。霊公がまことに天下の禍を除き、庶民の幸を図る御志ならば、此の国の土に私の骨を埋めても悔いませぬ。」
斯く孔子が答えた。
やがて一行は導かれて、宮殿の奥深く進んだ。一行の黒塗の沓は、塵も止めぬ砥石の床に戞々《かつ/\》と鳴った。
※ 々《さん/\》たる女手、
以て裳を縫う可し。
と、声をそろえて歌いながら、多数の女官が、梭の音たかく錦を織って居る織室の前も通った。綿のように咲きこぼれた桃の林の蔭からは、苑囿の牛の懶げに呻る声も聞えた。
霊公は賢人仲叔圉のはからいを聴いて、夫人を始め一切の女を遠ざけ、歓楽の酒の沁みた唇を濯ぎ、衣冠正しく孔子を一室に招じて、国を富まし、兵を強くし、天下に王となる道を質した。
しかし、聖人は人の国を傷け、人の命を損う戦の事に就いては、一言も答えなかった。また民の血を絞り、民の財を奪う富の事に就いても教えなかった。そうして、軍事よりも、産業よりも、第一に道徳の貴い事を厳に語った。力を以て諸国を屈服する覇者の道と、仁を以て天下を懐ける王者の道との区別を知らせた。
「公がまことに王者の徳を慕うならば、何よりも先ず私の慾に打ち克ち給え。」
これが聖人の誡であった。
其の日から霊公の心を左右するものは、夫人の言葉でなくって聖人の言葉であった。朝には廟堂に参して正しい政の道を孔子に尋ね、夕には霊台に臨んで天文四時の運行を、孔子に学び、夫人の閨を訪れる夜とてはなかった。錦を織る織室の梭の音は、六藝を学ぶ官人の弓弦の音、蹄の響、篳篥の声に変った。一日、公は朝早く独り霊台に上って、国中を眺めると、野山には美しい小鳥が囀り、民家には麗しい花が開き、百姓は畑に出て公の徳を讃え歌いながら、耕作にいそしんで居るのを見た。公の眼からは、熱い感激の涙が流れた。
「あなたは、何を其のように泣いていらっしゃる。」
其の時、ふと、こう云う声が聞えて、魂をそゝるような甘い香が、公の鼻を嬲った。其れは南子夫人が口中に含む鶏舌香と、常に衣に振り懸けて居る西域の香料、薔薇水の匂であった。久しく忘れて居た美婦人の体から放つ香気の魔力は、無残にも玉のような公の心に、鋭い爪を打ち込もうとした。
「何卒お前の其の不思議な眼で、私の瞳を睨めてくれるな。其の柔い腕で、私の体を縛ってくれるな。私は聖人から罪悪に打ち克つ道を教わったが、まだ美しきものゝ力を防ぐ術を知らないから。」
と、霊公は夫人の手を拂い除けて、顔を背けた。
「あゝ、あの孔丘と云う男は、何時の間にかあなたを妾の手から奪って了った。妾が昔からあなたを愛して居なかったのに不思議はない。しかし、あなたが妾を愛さぬと云う法はありませぬ。」
こう云った南子の唇は、激しい怒に燃えて居た。夫人には此の国に嫁ぐ前から、宋の公子の宋朝と云う密夫があった。夫人の怒は、夫の愛情の衰えた事よりも、夫の心を支配する力を失った事にあった。
「私はお前を愛さぬと云うではない。今日から私は、夫が妻を愛するようにお前を愛しよう。今迄私は、奴隷が主に事えるように、人間が神を崇めるように、お前を愛して居た。私の国を捧げ、私の富を捧げ、私の民を捧げ、私の命を捧げて、お前の歓を購う事が、私の今迄の仕事であった。けれども聖人の言葉によって、其れよりも貴い仕事のある事を知った。今迄はお前の肉体の美しさが、私に取って最上の力であった。しかし、聖人の心の響は、お前の肉体よりも更に強い力を私に与えた。」
この勇ましい決心を語るうちに、公は知らず識らず額を上げ肩を聳やかして、怒れる夫人の顔に面した。
「あなたは決して妾の言葉に逆うような、強い方ではありませぬ。あなたはほんとうに哀な人だ。世の中に自分の力を持って居ない人程、哀な人はありますまい。妾はあなたを直ちに孔子の掌から取り戻すことが出来ます。あなたの舌は、たった今立派な言を云った癖に、あなたの瞳は、もう恍惚と妾の顔に注がれて居るではありませんか。妾は総べての男の魂を奪う術を得て居ます。妾はやがて彼の孔丘と云う聖人をも、妾の捕虜にして見せましょう。」
と、夫人は誇りかに微笑みながら、公を流眄に見て、衣摺れの音荒く霊台を去った。
其の日まで平静を保って居た公の心には、既に二つの力が相鬩いで居た。
「此の衛の国に来る四方の君子は、何を措いても必ず妾に拝謁を願わぬ者はない。聖人は礼を 重んずる者と聞いて居るのに、何故姿を見せないのであろう。」
斯く、宦者の雍渠が夫人の旨を伝えた時に、謙譲な聖人は、其れに逆うことが出来なかった。
孔子は一行の弟子と共に、南子の宮殿に伺候して北面稽首した。南に面する錦繍の帷の奥には、僅に夫人の繍履がほの見えた。夫人が項を下げて一行の礼に答うる時、頸飾の歩揺と腕環の瓔珞の珠の、相搏つ響が聞えた。
「この衛の国を訪れて、妾の顔を見た人は、誰も彼も『夫人の※ 《ひたい》は妲妃に似て居る。夫人の目は褒※ 《ほうじ》に似て居る。』と云って驚かぬ者はない。先生が真の 聖人であるならば、三王五帝の古から、妾より美しい女が地上に居たかどうかを、妾に教えては呉れまいか。」
こう云って、夫人は帷を排して晴れやかに笑いながら、一行を膝近く招いた。鳳凰の冠を戴き、黄金の釵、玳瑁の笄を挿して、鱗衣霓裳を纒った南子の笑顔は、日輪の輝く如くであった。
「私は高い徳を持った人の事を聞いて居ります。しかし、美しい顔を持った人の事を知りませぬ。」
と孔子が云った。そうして南子が再び尋ねるには、
「妾は世の中の不思議なもの、珍らしいものを集めて居る。妾の廩には大屈の金もある。垂棘の玉もある。妾の庭には僂句の亀も居る。崑崙の鶴も居る。けれども妾はまだ、聖人の生れる時に現れた麒麟と云うものを見た事がない。また聖人の胸にあると云う、七つの竅を見た事がない。先生がまことの聖人であるならば、妾に其れを見せてはくれまいか。」
すると、孔子は面を改めて、厳格な調子で、
「私は珍らしいもの、不思議なものを知りませぬ。私の学んだ事は、匹夫匹婦も知って居り、又知って居らねばならぬ事ばかりでございます。」
と答えた。夫人は更に言葉を柔げて、
「妾の顔を見、妾の声を聞いた男は、顰めたる眉をも開き、曇りたる顔をも晴れやかにするのが常であるのに、先生は何故いつまでも其のように、悲しい顔をして居られるのであろう。妾には悲しい顔は凡べて醜く見える。妾は宋の国の宋朝と云う若者を知って居るが、其の男は先生のような気高い額を持たぬ代りに、春の空のようなうらゝかな瞳を持って居る。また妾の近侍に、雍渠と云う宦者が居るが、其の男は先生のように厳な声を持たぬ代りに、春の鳥のような軽い舌を持って居る。先生がまことの聖人であるならば、豊かな心にふさわしい、麗かな顔を持たねばなるまい。妾は今先生の顔の憂の雲を拂い、悩ましい影を拭うて上げる。」
と、左右の近侍を顧みて、一つの函を取り寄せた。
「妾はいろ/\の香を持って居る。此の香気を悩める胸に吸う時は、人はひたすら美しい幻の国に憧れるであろう。」
かく云う言葉の下に、金冠を戴き、蓮花の帯をしめた七人の女官は、七つの香炉を捧げて、聖人の周囲を取り繞いた。
夫人は香函を開いて、さま/″\の香を一つ一つ香炉に投げた。七すじの重い煙は、金繍の帷を這うて静に上った。或は黄に、或は紫に、或は白き檀香の煙には、南の海の底の、幾百年に亙る奇しき夢がこもって居た。十二種の鬱金香は、春の霞に育まれた芳草の精の、凝ったものであった。大石口の沢中に棲む龍の涎を、練り固めた龍涎香の香、交州に生るゝ密香樹の根より造った沈香の気は、人の心を、遠く甘い想像の国に誘う力があった。しかし、聖人の顔の曇は深くなるばかりであった。
夫人はにこやかに笑って、
「おゝ、先生の顔は漸く美しゅう輝いて来た。妾はいろ/\の酒と杯とを持って居る。香の煙が、先生の苦い魂に甘い汁を吸わせたように、酒のしたゝりは、先生の厳しい体に、くつろいだ安楽を与えるであろう。」
斯く云う言葉の下に、銀冠を戴き、蒲桃の帯を結んだ七人の女官は、様々の酒と杯とを恭々しく卓上に運んだ。
夫人は、一つ一つ珍奇な杯に酒を酌んで、一行にすゝめた。其の味わいの妙なる働きは、人々に正しきものの値を卑しみ、美しき者の値を愛づる心を与えた。碧光を放って透き徹る碧瑶の杯に盛られた酒は、人間の嘗て味わぬ天の歓楽を伝えた甘露の如くであった。紙のように薄い青玉色の自暖の杯に、冷えたる酒を注ぐ時は、少頃にして沸々《ふつ/\》と熱し、悲しき人の腸をも焼いた。南海の鰕の頭を以て作った鰕魚頭の杯は、怒れる如く紅き数尺の鬚を伸ばして、浪の飛沫の玉のように金銀を鏤めて居た。しかし、聖人の眉の顰みは濃くなるばかりであった。
夫人はいよ/\にこやかに笑って、
「先生の顔は、更に美しゅう輝いて来た。妾はいろ/\の鳥と獣との肉を持って居る。香の煙に魂の悩みを濯ぎ、酒の力に体の括りを弛めた人は、豊かな食物を舌に培わねばならぬ。」
かく云う言葉の下に、珠冠を戴き、菜※ 《さいこう》の帯を結んだ七人の女官は、さま/″\の鳥と獣との肉を、皿に盛って卓上に運んだ。
夫人はまた其の皿の一つ一つを一行にすゝめた。その中には玄豹の胎もあった。丹穴の雛もあった。昆山龍の脯、封獣の※ 《あしにく》もあった。其の甘い肉の一片を口に啣む時は、人の心に凡べての善と悪とを考える暇はなかった。しかし、聖人の顔の曇は晴れなかった。
夫人は三度にこやかに笑って、
「あゝ、先生の姿は益立派に、先生の顔は愈美しい。あの幽妙な香を嗅ぎ、あの辛辣な酒を味わい、あの濃厚な肉を啖うた人は、凡界の者の夢みぬ、強く、激しく、美しき荒唐な世界に生きて、此の世の憂と悶とを逃れることが出来る。妾は今先生の眼の前に、其の世界を見せて上げよう。」
かく云う終るや、近侍の宦者を顧みて、室の正面を一杯に劃った帳の蔭を指し示した。深い皺を畳んでどさりと垂れた錦の帷は、中央から二つに割れて左右へ開かれた。
帳の彼方は庭に面する階であった。階の下、芳草の青々と萌ゆる地の上に、暖な春の日に照らされて或は天を仰ぎ、或は地につくばい、躍りかゝるような、闘うような、さま/″\な形をした姿のものが、数知れず転び合い、重なり合って蠢いて居た。そうして或る時は太く、或る時は細く、哀な物凄い叫びと囀が聞えた。ある者は咲き誇れる牡丹の如く朱に染み、ある者は傷ける鳩の如く戦いて居た。其れは半は此の国の厳しい法律を犯した為め、半は此の夫人の眼の刺戟となるが為めに、酷刑を施さるゝ罪人の群であった。一人として衣を纒える者もなく、完き膚の者もなかった。其の中には夫人の悪徳を口にしたばかりに、炮烙に顔を毀たれ、頸に長枷を篏めて、耳を貫かれた男達もあった。霊公の心を惹いたばかりに夫人の嫉妬を買って、鼻を※ 《そ》がれ、両足を※ 《た》たれ、鉄の鎖に繋がれた美女もあった。其の光景を恍惚と眺め入る南子の顔は、詩人の如く美しく、哲人の如く厳粛であった。
「妾は時々霊公と共に車を駆って、此の都の街々を過ぎる。そうして、若し霊公が情ある眼つきで、流眄を与えた往来の女があれば、皆召し捕えてあのような運命を授ける。妾は今日も公と先生とを伴って都の市中を通って見たい。あの罪人達を見たならば、先生も妾の心に逆う事はなさるまい。」
こう云った夫人の言葉には、人を壓し付けるような威力が潜んで居た。優しい眼つきをして、酷い言葉を述べるのが、此の夫人の常であった。
西暦紀元前四百九十三年の春の某の日、黄河と淇水との間に挟まれる商墟の地、衛の国都の街を駟馬に練らせる二輛の車があった。両人の女孺、翳を捧げて左右に立ち、多数の文官女官を周囲に従えた第一の車には、衛の霊公、宦者雍渠と共に、妲妃褒※ 《ほうじ》の心を心とする南子夫人が乗って居た。数人の弟子に前後を擁せられて、第二の車に乗る者は、尭舜の心を心とする陬の田舎の聖人孔子であった。
「あゝ、彼の聖人の徳も、あの夫人の暴虐には及ばぬと見える。今日からまた、あの夫人の言葉が此の衛の国の法律となるであろう。」
「あの聖人は、何と云う悲しい姿をして居るのだろう。あの夫人は何と云う驕った風をして居るのだろう。しかし、今日程夫人の顔の美しく見えた事はない。」
巷に佇む庶民の群は、口々にこう云って、行列の過ぎ行くのを仰ぎ見た。
其の夕、夫人は殊更美しく化粧して、夜更くるまで自分の閨の錦繍の蓐に、身を横えて待って居ると、やがて忍びやかな履の音がして、戸をほと/\と叩く者があった。
「あゝ、とうとうあなたは戻って来た。あなたは再び、そうして長えに、妾の抱擁から逃れてはなりませぬ。」
と、夫人は両手を擴げて、長き袂の裏に霊公をかゝえた。其の酒気に燃えたるしなやかな腕は、結んで解けざる縛めの如くに、霊公の体を抱いた。
「私はお前を憎んで居る。お前は恐ろしい女だ。お前は私を亡ぼす悪魔だ。しかし私はどうしても、お前から離れる事が出来ない。」
と、霊公の声はふるえて居た。夫人の眼は悪の誇に輝いて居た。
翌くる日の朝、孔子の一行は、曹の国をさして再び伝道の途に上った。
「吾未見好徳如好色者也。」
これが衛の国を去る時の、聖人の最後の言葉であった。此の言葉は、彼の貴い論語と云う書物に載せられて、今日迄伝わって居る。
青空文庫より引用