平民の娘
一
此の日も周三は、畫架に向ツて、何やらボンヤリ考込むでゐた。モデルに使ツてゐる彼の所謂『平民の娘』は、小一時間も前に歸ツて行ツたといふに、周三は尚だ畫架の前を動かずに考へてゐる。何を考へてゐたかといふと、甚だ漠然としたことで、彼自身にも具體的に説明することは出來ない。難然 考へてゐることは眞面目だ、少し大袈裟に謂ツたら、彼の運命の消長に關することである。
『平民の娘』お房は、單にモデルとして彼の眼に映ツてゐるのでは無い。お房は彼の眼よりも心に能く映ツた。
お房が周三のモデルになつて、彼の畫室のモデル臺に立つやうになツてから、もう五週間ばかりになる。面も 製作は遲々《ちゝ》として一向に捗取らぬ。辛面影とひなた が出來た位のところである。兀も周三は近頃恐ろしい藝術的頬悶に 陥ツて、何うかすると、折角築上げて來た藝術上の信仰が根底からぐらつく のであツた、此のぐらつき は、藝術家に取りて、最も恐るべき現象で、都ての悦も満足も自負も自信も、悉く自分を去ツて了ツて、代に恐怖が來る。其所で臆病となる。そして馬鹿にえらい と思ツてゐた自分が、馬鹿にけち なつまらない 者になツて了ツて、何にも爲る氣が無くなツて了ふ………爲る氣が無いのでは無い、自分の力では手も足も出ないやうに思はれるのだ。でも此様な筈では無かツたがと、躍起となツて、行る點まで行ツて見る、我慢で行ツて見る。仍且駄目だ。頭で調子が出て來ない。揚句に草臥れて了ツて、悲観の嘆息だ。此の時位藝術家の意久地の無いことはあるまい、幾らギリ/\齒を噛むだと謂ツて、また幾ら努力したと謂ツて、何のことはない、破けたゴム鞠を地べた に叩付けるやうなもので何の張合もない。たゞ心細くなツて、莎薀してゐるばかりだ。周三には此の恐怖時代が來た。
自體周三が、此の繪を描き始めた時の意氣込と謂ツたら、それはすばらしい 勢で、何でもすツか り在來の藝術を放擲ツて、新しい藝術に入るのだと誇稱して、其の計畫も抱負も期待も大したものであツた。で其の準備からして頗る大仰で、モデルの詮索にも何の位苦心したか知れぬ。そうしてモデル屋の持ツて來るモデルもモデルも片ツ端から刎付けて、或る手蔓を得てやツ とこさ自分で目付け出したモデルといふのが即ちお房であツた。お房は顔立なら體格なら、殆んど理想的のモデルだ。一體日本の婦の足と來たら、周三等の所謂大根で、不恰好に短いけれども、お房の足はすツと長い、從ツて背も高かツたが、と謂ツて不態な大柄ではなかツた。足の形でも腰の肉付でも、または胴なら乳なら胸なら肩なら、總べて何處でもむツちり として、骨格でも筋肉でも姿勢でも好く整ツて發育してゐた。加之肌が眞ツ白で滑々《すべ/″\》してゐる。そして一體にふくよか に柔かに出來てゐる、而も形に緊ツたところがあツたから、誰が見ても艶麗な美しい體であツた。着物を着てゐる姿も好かツたが、裸になると一段と光を増した。それから顔だ。顔は體程周三の心を動かさなかツたが、それでも普通のモデルを見るやうなことは無かツた。第一血色の好いのと理合の濃なのとが、目に付いた。次に綺麗な首筋、形の好い鼻、ふツくり した頬、丸味のある顎、それから生際の好いのと頭髪に艶のあるのと何うかすると口元に笑靨が出來るのに目が付いた。そして一目見ると直に、少しあけツ 放しの點のある代には、こせつかぬ 、おツとり とした、古風な顔立であることを見て取ツた。併し一番に氣に適ツたのは、眉と眼で、眉は單温順にのんび りしてゐるといふだけのことであツたが、眼には一種他を魅する強い力があツた………とは謂へ他の胸を射すやうな烈しい光の閃くのでも何でもない。何方かと謂へば、落着ついた 、始終 柔な 波の漂ツてゐる内氣らしい眼だ。何か見詰めてでもゐると、黒瞳が凝如と据ツてとろけ て了ひそうになツてゐる………然うかと思ふと、伏目に物など見詰めてゐて、ふと頭を擡げた時などに、甚く狼狽えたやうな、鋭敏な作用をすることがある………例へば何か待焦れてゐて、つい齒痒くなツて、ヂリ/″\してならぬと謂ツた風に騒ぎ出す。其様な場合には、瞼のはれぼツたい 故か、層波目が屹度深く刻み込まれて、長い晴毛の 下に濕を持つ。そして裡に燃えてゐる熱が眼に現はれて來るのでは無いかと思はせる。一體皆の長い、パツチリした眼で、表情にも富むでゐた。雖然智識のある者と智識のない者とは眼で區別することが出來る。お房のは確に智識の無い側の眼で、明かに感情の放縱なことを現はしてゐた。眼も然うだが、顏にも姿にも下町の匂があツて、語調にしろ取廻にしろ身ごなし にしろ表情にしろ、氣は利いてゐるが下卑でゐる。姿にしても其通だ、奈何にもキチンと締ツて、福袢の 襟でも帯でも、または着物の裾でもひツたり 體にくツついて ゐるけれども、些とだツて氣品がない。別の言でいふと、奥床しい點が無いのだ。加之顏にも弛むだ點がある、何うしても平民の娘だ。これが周三に取ツて何となく物足りぬやうに思はれて、何だか紅い匂の無い花を見るやうな心地がするのであツた。併し其様なことはモデルに使ふに何んの故障も差支も無い。
周三は、此のモデルを得て、製作熱を倍加した。屹度藝術界を驚かすやうな一大傑作を描いて見せると謂ツて、恰で熱にでも罹ツたやうになツて製作に取懸ツた。そして寢床に入ツても、誰かと話してゐるうちにも、また散歩してゐる時、色を此うして出さうとか、人物の表情は此うとか、斷えず其の製作に就いてのみ考えてゐた。時には出來上ツた繪を幻のやうに眼前に泛べて見て、獨でにツこり することもあツた。何しろ腕一杯のところを見せて、少くとも日本の洋畫界に一生面を開かうといふ野心であツたから、其の用意、其の苦心、實に慘憺たるものであツた。而も其の覗ツたところは、彼自ら神來の響と信じてゐたので、描かぬ前の彼の元氣と内心の誇と愉快と謂ツたら無かツた。彼の頭に描かれた作品は確に立派なものであツたのだ。
ところが去來取懸ツて見ると、些とも豫期した調子が出て來ない。頭の中に描かれた作品と、眼前に描出される作品とは鉛と鋼鉄ほどの相違がある。周三は自分ながら自分の腕の鈍なのに呆返ツた。で取り懸からもう熱が冷める、興が無くなる、心から嫌氣が浸して了ツた。然うなると、幾ら努力したと謂ツて、※ 《あが》いたと謂ツて、何の役にも立ちはしない。で、たゞ狼狽する、要するに意氣鎖沈だ 。自分ながら自分の藝術の貧しいのが他になる、憐に對してまた自分に對して妄 と不平が起る。氣が惓ンずる、悶々《もだ/\》する、何を聞いても見ても味氣ない。謂はゞ精神的監禁を喰ツたやうなもので、日光を仰ぐことさへ出來なくなツて了ふ。此うなツては、幾らえらい 藝術家も、柳に飛付かうとする蛙にも劣る………幾ら飛付かうとして躍起になツたからと謂ツて取付くことが出來ない。それでも思切ツて其の作を放擲ツて了うことが出來ぬから、何時までも根氣好く無駄骨を折ツてゐる、そして結局情なくなるばかりだ。情なくなツても執着が強いから、何うにかしてでツち 上げやうと思ふ。それで周三は、毎日畫架に向ツて歎息ばかりしてゐながら、定期の時間だけ丁と畫室に入ツて、バレツトにテレビン油に繪具を捏返してゐた。お蔭で繪は一日々々に繪になツて來る、繪に成るに從ツて其れが平凡となる、時には殆んど調子さへ出て居らぬ劣惡な作のやうに思はれることもあツた。畫題は『自然の心』と謂ツて、ちらし 髪の素裸の若い婦が、新緑の雑木林に圍はれた泉の傍に立ツて、自分の影の水面に映ツてゐるのを瞶ツてゐるところだ。其の着想が既に舊いロマンチツクの芳を帶びてゐる、何も新しいといふほどの物でもない。加之色なら圖柄なら、ただ暖く見せる側の繪といふことが解るだけで、何處に新機軸を出したといふ點が無い。周三の覗ツた的はすツかり外れた。外が外れたばかりでない、自分の技能が自分の思ツてゐた半分も出來て居らぬことを證據立てられた。此の場合に於ける藝術家は、敗殘困憊の將軍である。失望と煩悶とがごツ ちやになツて耐へず胸頭に押掛ける………其の苦惱、其の怨、誰に訴へやうと思ツても訴へる對手がない。喧嘩は、獨だ。悪腕を 」]すれば、狂人だと謂はれる。爲方がないから、ギリ/\齒噛をしながらも、強い心でおツ耐へてゐる。其れがまた辛い。其の辛いのを耐へて、無理に製作を續ける。軈がて眼が血走ツて來、心が惑亂する。其の惑亂した心が繪に映るから何うしたツて思ふ壺に嵌ツて來ない。加之單に此の藝術上の煩悶ばかりではない。周三には、他にも種々《いろ/\》の煩悶があつて、彼を惱ましている。これがまた彼の心を他へ誘かして、幾分其の製作を妨げてゐる。無論藝術家が製作に熱中してゐる場合に、些としたひつかゝり 氣懸があつても他から想像されぬ位の打撃となる。況して周三のは、些としたひつかゝり や輕い意味のそれでは無い。彼に取ツては熟慮深考せなければならぬ大問題がある。
ひつかゝり の一つは、現に彼の眼前に裸体になつてモデル臺に立つているお房だ。お房は、幾らかの賃銭で肉體の全てを示せてゐるやうな賤しい女だ。周三とても其れをすら職業は神聖と謂ふほどの理想家ではなかつた。賤しい女であるといふことは知り拔いてゐる………だから蔭では平民の娘と謂つてゐる。雖然顏の寄麗なのと 、體格の完全してゐるのと、おつとり した姿と、美しい肌とに心を魅せられて、賤しいといふ考を忘れて了ふ。そしてモデルとして周三の氣に適つたお房は、肉體美の最も完全なものとして周三の心の空乏を充すやうになつた。所詮周三がお房を懌ぶ意味が違つて、一個の物體が一人の婦となり、單純は、併し價値ある製作の資料が、意味の深い心の糧となつて了つた。そして冷靜な藝術的鑑賞は、熱烈な生理的憧憬となつて、人形には魂が入つた。何も不思議はないことだらう。周三だつて人間である。決して超凡の人では無い………としたら、北側のスリガラスの天井から射込む柔かな光線………何方かと謂へばノンドリした薄柔い光で、若い女の裸體を見てゐて、それで何等の衝動が無いといふことはあるまい。成程美術家には若い女を裸體にして熟視するといふ特權があるから、何も其の裸體が珍らしいといふので無い。雖然お房は、周三が是迄使つたモデルのうちで優れて美しい………全て肉體美の整つてゐる女である。それで魔あつて誘かすやうに、其の柔な肉付に、艶のある頭髪に、むつちり した乳に、形の好い手足に心を引き付けられた。そして其の肌の色==と謂つても、ホンノリ血の色が透いて處女の生氣が微動してゐるかと思はれる、また其の微動している生氣を柔にひツくるめて生々《うい/\》しく清な肌の色==花で謂つたら、丁度淡紅色の櫻草の花に髣髴てゐる、其の朋の 色が眼に付いてならぬ。加之女の匂……しつこい 油の匂とごツちや になツたやうな一種動物性の匂が、何かの機に輕く鼻を刺戟する。其にもまた心が動く。何しろ畫室は、約束通りに出來てあるから、四方密閉したやうになつてゐる。暖爐を焚く頃ならば、其の熱で嚇々《くわつ/\》とする、春になれば春の暖氣で蒸すやうにむつ とする。加之空氣も沈靜なら光もしんめり してゐて、自分の鼓動、自分の呼吸さへ微に耳に響く………だから、眼前に据ゑて置く生暖い女の氣もヤンワリ周三の胸に通ふ。そして氣になる位心悸が亢進して、腕のあたりに汗がジメ/\することもあツた。然うなると周三は遉がに内を顧みて心に慚づる、何だか藝術の神聖を穢がすやうにも思はれ、またお房に藝術的良心を腐蝕させられるやうにも感ずる。同時に「自我」といふものが少しづゝ侵略されて行くやうに思はれた。これは最初の間で、少時經つとまた別に他の煩悶が起つた。始め何の爲に悶々するのか解らなかツたが、軈がて其の因がハツキリ頭に映ツて來る。周三は、お房の其の美しい肌が處女の清淨を保ツてゐるか何うかといふこと、設また其の肌が清淨を保ツてゐるにしても、其の心は何者かに汚されてゐはせぬかといふことが氣に懸つて來たのであつた。そして此の氣懸が際限も無く彼を惱す。で何うかすると呆返つたやうに、
『何だつて其様なことを氣にする………清淨であつたツて無いたツて、何でもありやしない。モデルにするに些とも差支はありやしない!』と打消して見る。雖然駄目だ。仍且氣に懸ツてならぬ。そして惱む。幾ら美術家でも、女の心まで裸體にして見る權能がないから爲方が無い。
併し其の氣懸は、少時すると打消されて了ツた。打消されたのではない、忘れたのだ。段々《だん/″\》と馴れて來るに從ツて、お房は周三に種々な話を仕掛けるやうになツた。而ると其の聲がまた、周三の心に淡い靄をかけた。少し甘ツたるいやうな點はあツたけれども、調子に響があツて、好く徹ほる、そして優しい聲であツた「恰で小鳥が囀ツてゐるやうだ。」と思ツて、周三は、お房の饒舌ツてゐるのを聞いてゐると、何時も惚々《ほれ/″\》として了ふ。處へもツて來て、一日々々に嬌態を見せられるやうになツて行くのだから耐らぬ。周三がお房を詮議する眼は一日々々に寛くなツた。そして放心其の事を忘れて了ツた。
而るとまた次の氣懸が起ツて來た。其は假りにお房に手を握る資格のあるものとして、果してお房が手を握らせて呉れるかどうかといふ氣懸だ。無論臆病な氣懸である。雖然彼は永い間此の氣懸に惱まされてゐた。で、何のことは無い、ガラス越に花を見るやうな心地で、毎日お房を眼前に据えて置きながら悶々してゐた。彼は此の齒痒いやうな惱のために何程惱まされたか知れぬ。併し案じるよりも生むが易い。其の後お房は些とした機會に雑作なく手を握らせて呉れた。雖然、其の製作は相変らず捗取らぬ。そして少し逆上せ氣味となツた彼は、今度は「手を握りたお房を何うする?」といふことに就いて考へた。固より一時の出來心や、不圖した氣紛では無かツたのであるから、さて是れが容易に解決される問題で無い。第一妻として迎へ取るには餘りに身分の懸隔がある。家庭は斷じて此の結婚を峻拒する。假に家庭の事情を打破ツて、結婚したとしてからが、お房が美術家の妻として、また子爵家の夫人として品位を保ツて行かれるかどうかといふことが疑問である。いや、恐らく其は不可能のことゝ謂はなければならぬ。と謂つて周三は、人權を蹂躪して、お房を日蔭者にして圍ツて置くだけの勇氣も無かツた。これがまた新しい煩悶となツて、彼を惱ませる。
「一體俺はお房を何うする積なんだ。」
解らない。何うしても解決が付かぬ。
處で周三が家庭に於ける立場である。自體彼は子爵勝見家に生まれたのでは無い。成程父子爵は、彼の父には違ないが、母夫人は違ツた間だ。彼は父子爵の妄の ]腹に出來た子で、所謂庶子である。別な言でいふと零れ種だ。だから母夫人の腹に、腹の違ツた兄か弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は無用の長物であツたのだ。また父子爵にしても彼を引上げて、子爵家の繼嗣とする必要が無かツたのであツた。雖然子爵夫人に子の無いといふ一ツの事件が、偶々《たま/\》周三を子爵家の相續人とすることにした。此の相續人になツた資格の裏には、種馬といふ義務が擔はせられてゐた。それで彼が甘三四と ]なると、もう其の候補者まで作へて、結婚を迫まられた。無論周三は、此の要求を峻拒した。そこで父と衝突だ。父はもう期限が來たからと謂ツて嚴しく義務の實行を督促する、周三は其様な義務を擔はせられた覺は無いと頭を振通す。一方で家の爲といふのを楯にすれば、一方では個人主義を振廻す。軈がては親は子に對つて、不孝なるやくざ者 と罵る、子は親に對つて、無慈悲な驅だと 毒吐く。而も争論は何時も要領を得ずに終つて、何時までも底止なく同じことを繰返されてゐるのであツた。そしてグヅグヅの間に一年二年と經過して今日となツた。今日となツては、父子爵は最早猶豫して居られぬと謂ツて、猛烈な勢で最後の決心を促してゐる。で是等の事情がごツちや になツて、彼の頭にひツかゝり 、絡ツて激しい腦神經衰弱を惹起した。それで唯氣が悶々して、何等の踏切が付かぬ。そして斷えず何か不安に襲はれて、自分でも苦しみ、他からは凋むだ花のやうに見られてゐるのであツた。
二
丁ど此の日の前夜も、周三は、父から結婚問題に就いて嚴重な談判を吃ツたのであツた。
「さ、何うする?もう體に火が付いてゐるんだぞ。」
幾ら考へても、何時も纒の付いた例は無いが、それでも頭の底の方に何か名案が潜むでゐるやうに思はれるので、何うにかして其の考へを引ツ張り出さうとする………雖然出ない。出さうでゐて、出ない。氣がジリ/\する。すると何か傍から小突くやうに、
「ほら、解ツてゐるじやないか。此うさ、それ、此う―――」と神經中樞を刺戟して、少しづつ考を押出して呉れるやうに思はれる。
「しめたぞ!」と大悦で、ぐツ と氣を落着け、眼を瞑り、片手で後頭部を押へて息を凝らして考へて見る………頭の中が何か泡立ツてゐるやうにフス/\鳴ツてゐるのが微に顳※ 《こめかみ》に響く。
「は、はア、頭腦が惡いな。」と今更のやうに氣が付くと、折角出掛かツた考が烟のやうにすう と消えて了ふ。慌てゝ眼を啓けて「や!」と魂氣た顏をして、恰で手に持ツてゐた大事な玉を井戸の底へ滑らし落したやうにポカンとなる。また數分間前の状態に復ツて、一生懸命に名案を搾り出さうとして見る。名案とは、父子爵の頑固な頭から結婚問題を徹回 させて、而も自分は無事に當邸に居付いてゐることだ。
眞個難しい問題である。周三が腦味噌の壓搾するのも無理は無い。幾ら壓搾したと謂ツて、決して彼の期待するやうな名案は出て來はしない。自體彼の頭腦の中には腐ツたガスのやうな氣が充滿になツてゐて、頭が甚だ不透明になツてゐる、彼は能く其れを知ツてゐるから、何うかして其の全ての考を引ツ括むでゐる毒ガスさへ消えて了ツたならば、自ら立派な名案が出て來るやうに思ふ。
空は、ドンヨリ曇ツて、南風が灰の都を吹き廻り、そしてポカ/\する、嫌に其所らのざわつく 日であツた、此様な日には、頭に故障のない者すら氣が重い。況して少しでも腦症のあるものは、妙に氣が倦むで、耳が鳴る、眼が※ 《かす》む、頭腦が惡く岑々《ぎん/″\》して、他の頭腦か自分の頭か解らぬやうに知覺が鈍る。周三も其の通りだ。何か考へてはゐるけれども、其がもや/\ として、何うしてもハツキリと映ツて來ない。そして考へる事も考へる事も、直に傍へ外れて了ツて、斷々《きれぎれ》になり、紛糾かり、揚句に何を考へる筈だツたのか其すらも解らなくなツて了ふ。
凝如としていても爲方が無いので、バレツトも平筆も、臺の上に放ツたらかしたまゝ、ふいと起ツて室の内を歩廻ツて見る。それでも氣は變らない。眼に入るものといへば何時も眼に馴れたものばかりだ………北側のスリガラスの天井、其所から射込む弱い光線、薄い小豆色の壁の色と同じやうな色の絨※ 《じうたん》、今は休息してゐる煖爐、バツクの巾、モデル臺、石膏の胸像、それから佛蘭西の象徴派の名畫が一枚と、伊太利のローマンス派の古畫を摸寫したのが三枚、それが何れも金縁の額になつて南側の壁間に光彩を放つてゐる。何れも大作だ。雖然何を見たからと謂つて、些とも興が乘らぬばかりか、其の名畫が眼に映つると、寧ろ忌々《いま/\》しいといふ氣が亢じて來る。室が寂然してゐるので、時計の時を刻む音が自分の脈膊と巧く拍子を取つてハツキリ胸に通ふ。
ぐるり一と廻して、さて自分の繪の前に立つた。眼を半眼にして、虚心平氣の積で熟視する。
「いや、拙い!何といふ劣惡なもんだえ。何んだツて此様な作を描き上げやうとして※ 《あが》いてゐるんだ………骨折損じやないか。俺は馬鹿だ、確に頭が痺れてゐる。何處に一ツ好い點がありやしない。此様な作に執着があるやうじや、俺も憫な人間だ………」と思ふ。そして、「あゝ。」と萎頽したやうな歎息する。見てゐるうちに、倩々《つく/″\》嫌になつて、一と思に引ツ裂いて了はうかとも思つて見る………氣が燥ついて、拳まで握つた。
而ると頭が輕くグラ/\として、氣に茫ツとする。其所らが急にもや/\ と淡い靄でもかゝつ たやうになツて畫架諸共「自然の力」は、すーツと其の中へ捲き込まれるかと思はれた………代つて眼に映ツたのが裸體になツたお房だ。そこでまた棒立になつたまま少時お房のことを考へる。
「お房か、ありや天眞爛※ 《てんしんらんまん》だ。心は確に處女だ!………體だツて………」とまた頭に閃く。と、激しく頭を振つて、「何だつて此様なことを考へる。」
ふざけた 奴だと自分を叱り付ける。
叱ツても駄目だ。此うなるとお房の方でも剛情で、恰で眼底へ粘付いたやうになつて、何うかすると、莞爾笑つて見せる。いや、ひつこい ことだ。
それでも其の影に映つてゐる間だけ、周三の頭から、黴びて、陰濕したガスが拔けて、そして其の底に灰の氣に籠められながら紅い花の揺いでゐるのを見るやうな心地になつてゐた。胸には何か氣も心も甘つたるくなるやうな匂が通つて來る。而ると鉛のやうに重く欝結した頭が幾分輕く滑になつて、體中がぞく/\ するやうに擽ツたくなる………何か引ツ攫むでもしやくしや にして見たい。壓し付けられ、沈みきツた反動で、恰で鳥の柔毛が風に飛ぶやうに氣が浮々《うき/\》する。喚出したくなる。※ 《もし》も此様な場合に、誰かジヨンマーチでも謠つて呉れる者があつたら、彼は獨で舞踏をおツ始めたかも知れぬ。眞ンの少時ではあつたけれども、周三の頭は全ての壓迫から脱れて、暗澹たる空に薄ツすりと日光が射したやうになつてゐた。眼にも心にも、たゞ紅い花が見えるだけだ。何しろ彼の心は柔いでゐた。
「肉は決して胃の腑の要求ばかりじやない。」周三は不圖此様なことを考へた。其をきツかけ に、彼はまた何時もの思索家となつた。頭は直に曇つて来る。
丁ど颶風でも來るやうな具合に、種々な考が種々の象になつて、ごた/\ と一時にどツ と押寄せて來る………周三は面喰つて嚇となつてしまふ。こりや耐らぬと、くるり體をブン廻して、また室の中を歩き廻つて見る。そして氣を押鎭めやうとするのであるが、何か後から追立てゝ來るやうに思はれて、何うにも落着かぬ。
「こりや何うしたもんだ………何うも頭が變てこりん だぞ。何をびくつい てゐるんだ。まア、落着け!………そして篤と考へて見るんだ。」
そこで體を突ツ張つて、腕を組み足拍子を取つて、出來るだけえら さうに寛々《ゆる/\》と歩いて見る。駄目だ。些ともえら くなれない。何か妄と氣に懸ツて、不安は槍襖を作ツて襲ツて來る。現に自分が呼吸してゐる空氣の中にも毒惡な分子が籠つてゐて、次第に内臓へ侵入するのでは無いかと思ふ。すると室の光線の弱いのも氣に懸つて來る。
寧そ室を逃出さうかと思ツて、「一體俺は、何だつて、此様な薄暗い、息の塞るやうな室に閉ぢ籠つて、此様な眞似をしてゐるんだ。恰で囚人だ!………痩せツこけた藝術に體を縛られて、日の光も見ずにもぐ/\してゐるんだ。充らんな、無意義だ………もう何も彼も放擲つて了はうかしら!穴籠してゐると謂や、蟹だつてもう少し氣の利いた穴籠をしてゐるぜ。天氣でも好くつて見ろ、蟹め、泡を噴きながら、世界を廣くして走り廻つてゐるからな。俺は何うだ、繪具とテレビン油とに氣を腐らして、年中齷齪してゐる………それも立派な作品でも出來ればだが、ま、覺束ない。そりや孑孑は溝の中でうよ/\ してゐるのよ、だが、俺は人間だ。人間?………ふゝゝゝ。」と無意味に笑ひ出して、「人間だから女に取捕まつて、馬鹿にされても見たいんだ。何しろもう些とのんき な人間にならう。」
彼は、畫室を出ることを定めて了つて、入口の扉に手まで掛けたが、さて其の手を引つ込めて躊躇つた。
「待てよ。出るは可いが、出たら敵の中へ飛び込むやうなもんだぞ。これでも此處だけは、俺の城だ、世界だ。そして俺の大權の下にある………だから女を裸に引ん剥いて置く權能もあるんだ。早い話が阿父のやうな壓制君主までも、此處だけは治外法權として、何等の侵略を加へ得ない奴さ。痛快だ。いや、出まい。蟹も穴籠をしてゐた方が安全だからな。」
周三は、畫室を出ると、また父に取捕まつて、首根つこを押へ付けて置いて極め付けられるのが怖いのだ。で、辛氣臭いのをおつ耐 へて、穴籠と定めて了ふ。
「何方にしても、俺の體は縛られてゐるんだ………縛られてゐるばかりじやない。窮窟に押籠められてゐるんだ。何うしたら此の繩が解けるんだ、誰か、俺を此穴から引つ張り出して呉れるものが無いかな。」と思ふと、泣き出したいやうに情なくなる。
何方を向いても壓迫だ。城に籠つてゐたら、他からの侵略は無いが、てもなく兵粮攻と謂つたもので、自分で自分を窘めなければならぬ。自體周三等の籠つてゐる城は、兵粮に欠乏がちだ。兵粮は嫌でも他から仰がなければならぬのであるから、大概の者は頭と腕だけが膨大になつて、胃の腑が萎縮する。從つて顏の色が燻む。周三は幸に、頑冥な空氣を吸つて、温順に壓制君主の干渉に服從してゐたら、兵粮の心配は微塵もない。雖然彼の城は其の根底がぐらつい てゐる。で、もう穴籠に耐へなければ、他からの壓迫にも耐へぬ。
「恰で包圍攻撃を喰つてゐるんだ!」と嗟嘆して、此うしてゐては、遂に自滅を免かれぬと思ふ。
「尤も俺は此の家の寄生蟲だからな。」と自分を貶しつけても見て、「此の家から謂つたら、俺は確に謀叛人だが、俺から謂つたら、此の家の空氣は俺に適しない、何うも適しない!自體此の家の空氣には不思議な力があつて俺を壓追する ………何か解らんけれども恐ろしい力で俺を壓迫する。いや、重たい、首の骨が折れて了ひさうだ。ところで是ればかりじやない、其處ら中に眼に見えぬ針があつて、始終俺をつついて 、燥つかせたり、憤らせたり、悶々させたり、欝がせたりする。成程外には俺を張出さうとする力もあるのよ。だが裡から押出さうとする力も強い、これじや耐らん、惱亂する。無理に耐へたら遂に悶死だ!………でなけア發狂だ。
而ると何といふことは無く其所らが怖ろしくなつて、微な惡寒が身裡に戰いで來る。
「や!」ときよろ /\して、「氣が變になるんじやないか。しつかり しろ、何でも圧し潰せ!此様なことでへたばつ て耐るか。こら。」
自分で自分を喚付けて、妄と地鞴踏む。頭が嚇として眼が眩むやうになつた。
其處で少時體を引緊め、石のやうに固くなつてゐて、軈て胸の鼓動の鎭まるのを待つて、「此様なこつちや爲様が無い。兎に角俺の此の壓迫を脱けるとしやう。俺だつて一個の人間であつて見れば、何時まで自己を没却して、此様に苦しむでゐる、ことあ有りやしない。一つ羽を伸して、此のあやふや な境遇を脱けて見やうじやないか。これでも藝能があるんだ、幾ら社會がせゝこまし くなつてゐると謂つても、俺の生活する領分くらゐ殘してあるだらう、然うよ、そして世間を廣くして、自曲の 空氣を吸ふことにしやう。隷属は、決して光榮ある生存じやないからな。身分や家柄………其様なものは、俺といふ個人に取つて、何等の必要がある。第一體には變へられん!」
良々意氣を揚げ來つて、彼は熟と考へ込む。是れ、久しい間、彼が頭の中に籠つた大問題である。
抑も周三が生母の手を離れて、父子爵の手許へ迎へられたのは、彼が十四の春であつた。それから日蔭に生まれた平民の子が急に日向に出て金箔を付けられたのが嬉しくて、幾らか虚榮心に眼を眩まされた形で、虚々《うか/\》と日を暮してゐた。何時の間にか中學校も卒業して了つた。此の間、彼の頭に殘るやうな出來事と謂へば、誰 生母に亡くなられた位のことであつた。それすら青春の血の燃ゆる彼に取つては、些と輕い悲哀を感じた位のことで、決して左程の打撃では無かつた。ところが甘前後と いふ頃には、誰でも頭に多少の變動がある。周三の頭にも變動があつた。
周三は或時偶然に、「人は何のために生まれたのだらう、そして何のために活き、何うして死んで了ふのだらう。」といふことに就いて考へた。無論何の動機があつたといふのでは無い。ひよつくら 其様なことを考へたのだ。彼は平坦の路を歩いてゐて、不意に小石に躓いたやうに吃驚した。少しきよろつき 氣味で、「成程こりや考へて見なければならん問題だ。俺等はたゞ生まれて來たのじやあるまいからな。然うさ、何か意味がなくつちやならん譯だ。」と考へて見る。雖然解らない。解らないながらも、何うかすると解るやうにも思はれることもある、で根氣よく其の考を繰返して見る。其の間に解らぬは別問題として、考へることに趣味を持つやうになつた。何といふことは無く考へるのが面白い。此の考は、始めふはり と輕く頭に來た。恰で空明透徹な大氣の中へ淡い水蒸氣が流れ出したやうな有様であツた。それが日を經る、月を越すに從つて段々と重く濃かになつて、頭の中を攪亂し引つ括めやうとする。軈がて周三は、此の考に取ツ付いてゐるのが苦しくなつて來た。で何うかして忘れて了はうとする、追ツ拂はうとする。雖然駄目だ、幾ら※ いたからと謂つて、其の考は蛭のやうに頭の底に粘付いて了つた。そして斷えず其の考に小突かれるので あるから、神經は次第にひ弱となツて、頬の肉は※ 《こ》ける、顏の色は蒼白くなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發な青年となツて いたからと謂つて、其の考は蛭のやうに頭の底に粘付いて了つた。そして斷えず其の考に小突かれるので あるから、神經は次第にひ弱となツて、頬の肉は※ 《こ》ける、顏の色は蒼白くなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發な青年となツて」は底本では「は次第にひ弱となツて、頬の肉は※ 《こ》ける、顏の色は蒼白くなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發で何うかして忘れて了はうとする、追ツ拂はうとする。雖然駄目だ、幾ら※ いたからと謂つて、其の考は蛭のやうに頭の底に粘付いて了つた。そして斷えず其の考に小突かれるので あるから、神經な青年となツて」]、體よりも心に疾く年を老らせて了ツた。其所で彼は家庭に於ける思索家となツて、何時も何か思索に耽ツてゐる、そして何時とは無く實際を疎ずるといふ風が出來て來て、都ての規則を無視する、何を爲すのも億劫になる、嫌になる。そして斷えず「何を爲る?」ということに就いて頭を惱ましながら、實際何一つ爲出來すことも無く、他から見ると唯ブラ/\と日を暮してゐた。從ツて飯を食ふ、寢る、起きる、総べて生活が自堕落となツて、朝寢通すやうなこともある、此くして彼は立派な怠者となツて、其の居室までもやりツぱなし に亂雜にして置くやうになツた。相と謂つても周三は、女の匂を嗅ぎ廻して頭髪に香水の匂をさせてゐるやうな浮ついた眞似をするのでもなければ、麦酒ウイスキーの味を覺えて、紅い顏をして街頭をうろつい て歩くやうな不躰裁な眞似をするでも無い。たゞ勢の無い、蒼い顏をブラ下げて、何も爲ずに室に燻ぶり込むでゐるだけであツた。要するに彼は、宇宙の本體を探らうとしたり人生の意義を究めやうとして、種々な思想を生噛にしてゐるうちに、何時かデカタン派の影響を受けて、そして其の空氣が弱い併しながらねばツこい 力で、次第に其の頭に浸潤して行くのであつた。
自體國家とは動く人間に依つて組織されるのであるから、國家は些も此の種の不生産的の人間を要しない。國家の要しないやうな人間は、何所の家庭にだツて餘り歡迎される筈が無い。そこで彼は、勝見の家に對しても、また父子爵に對してもむほん人 となツた。父子爵といふ人は、維新のどさくさ 紛れに、何か仕事をして、實際の力以上に所謂國家に功勞ある一人となつた人である。明治政府になツてからも、久しくお役人の大頭に加へられてゐて、頭は古いが馬鹿でなかツたので、一度は歐羅巴駐剳の公使になツたこともある。それで華族令が發布されると直に華族に列せられて、勲章も大きなのを幾個か持ツてゐるやうになる、馬車にも乘ツて歩けるやうになる、何處へ押出しても立派に「御前」で通れるほどの身分となツて、腰は曲ツても頭は何時も空を向いてゐる人であツた。今では閑職に就いてゐるが、それでも大官は大官だ。精力はある、覇氣はある、酒は飮ける、女には眼が無い、平ツたく謂ツたら頑固な利かぬ氣の爺さんで、別の言で謂つたら身分の高い野蠻人である。其の癖馬鹿に體面と血統を重んじて。そこで妾の腹に出來ても、自分の種は種であるといふところから、周三を連れて來て嗣子としたのであつた。從ツて目的がある。父は、周三を自分の想通りに動く木偶になツて貰ひたかツた。して、官吏または軍人にして、身分の體面を維持し、家の基礎を動かさぬだけの人間に仕上げやうと期してゐたのであツた。
然るに周三は何時も此様なことを考へてゐた。「然うさ、阿父の想は解かツてゐる、俺を家の番人にしやうといふんだ………魂のある道具にして置かうといふんだ。一體家の阿父なんぞは、慈愛だとか、人權を重んずるとかいふ考があツて耐るものじやない、とすりや、俺が此の家の嗣子となツたといふのも、俺自身に子爵家の嫡子となツてのさばる 資格があるのじやなくツて、事件が作ツた資格さ。俺に取ツちや眞箇偶然に得られた資格で、阿父からいふと必要に迫まられて與へた資格なんだ。此様な資格が俺に取ツて何程の價値がある………假りに子爵が平民よりはえらい といふ特權があるとして見てからが、俺が子爵家の相續人となつたのに何の有難味があるんだ。人として何所にえらい 點がある?俺は自己を發揮しなけりやならん、自己の存在を明にしなければならん………此様な家なんか、俺に取ツちや何でもありやしない。阿父は俺を生むで呉れた、併し其れが何も負ふところはありやしない………俺は阿父に對して何等の義務も約束も持ツて生まれて來なかつた。要するに何等の意味も目的も無く生まれて來たのだ。」
周三は奈何なる場合にも「自己」を忘れなかツた。そして何處までも自己の權利を主張して、家または家族に就いて少しも考へなかツた。無論家の興廢などゝいふことは頭で眼中に置いてゐなかた 。勢、父子爵と衝突せざるを得ない。父の彼に對する期待は甚だ不安となつた。雖然父子爵とても人の親であるから、子に對する慈愛が無いでは無い。で思切つて此の一家内のむほん人 を家から放逐するだけの蠻勇も無かツた。雖然家は周三よりも大事である。結局周三を壓伏して自分の考に服從させやうとした。併し周三は、實に厄介極まる伜であツた。奈何なる威壓を加へても頑として動かなかツた。威壓を加へれば加へるほど反抗の度を昂めて來た。そして軈ては、藝術家が最も自己を發揮するに適するからといふ理由で、生涯を繪畫研究に委ねるからと切込まれた。勝見子爵はがツかり した。恐らく子爵の生涯のうちに是程氣落のしないことはあるまい。
そこで父子久しい間反目の形勢となツた。母夫人はまた、父子の間を調停して、冷ツこい家庭を暖めやうとするだけ家庭主義の人では無かツた。何方かと謂へば、父子の反目に就いて些とも頓着しなかツたといふ方が適當だ。好く謂ツたら嚴正な中立態度 で、敢て子爵の味方をするのでも無ければ、また周三に同情を寄せるでも無かツた。さればと謂つて、審判官となツて、一家の爲に何れとも話を纒めるといふことも無く、のんき に高處の見物と出掛けた。勿論母夫人は、華族でもなければ、藝術家でも無い。加之自分の分としては財産も幾分別になツて、生活の安全も保證されてあるから、夫人に取ツては、何方が勝ツても敗けてもカラ平氣だ。そこで要らざるおせツかい をせぬ事として澄まし返ツてゐた。
父は憤ツてゐる、母夫人は冷淡だ。周三は何處にも取ツて付端が無いので、眞個家庭を離れて了ツて、獨其の室に立籠ツて頑張ツた。同時に彼は、子爵といふ冠のある勝見家の門内に住まツて、華族といふ名に依ツて存在し、其の自由を束縛されてゐることを甚だ窮窟にも思ひ、また意久地なく無意味に思ふやうになツた。そして何時とは無く病的に華族嫌となツて了ツた。此の反動として、彼は獨斷で、父の所思に頓着なくドシ/\繪畫の研究に取懸つた。
此の根氣くらべは、遂に父子爵の敗北となツた。一つは多少慈愛に引かれた結果 もあツたが、更に其の奥を探ツたら、周三を遂ツて了ツては血統斷絶の打撃となるから、出來ぬ我慢をして左に右周三の意志を尊重することにした。子爵は諦めたのだ。また周三に對する考も變ツた。
「伜は阿呆だが、好い孫を生ませる爲に家に置く。」
これが子爵の心の奥に潜めた響であツた。要するに周三は、子爵の爲に、また勝見家の爲に種馬の資格となツたのだ。好い馬を生ませる爲に、種馬の持主は誰にしても種馬を大事にする。此の意味で周三は、一家内から相應に手厚い保護を受けることになツた。繪を研究する爲には、邸内に、立派な獨立の畫室も建てゝ貰ツた。そして他から見ると、言分の無い幸な若様になツてゐた。雖然種馬は遂に種馬である。父は飼主の權威として、彼を壓迫しても其の義務を果させやうとした。然るに周三は、何處までも厄介極まる伜となツて此の壓迫に反抗した。
「何うかして、此の壓制の空氣を脱れたい。」
周三は絶えず此の事に就いて考えてゐた。雖然周三とても遉に世の中の波の荒いことを知つてゐた。で熱する頭を押へて、愼重に詮議する積で、今日まで躊躇してゐたのであつた。
併しながら今や絶體絶命の場合となつて、何方とも身の振方を付けなければならぬ破目に押付けられてゐる。で、
「斷行さ。もう何も考へてゐることあ有りやしない。此の上愚圖ついてゐたら、俺は臆病者よ、加之お房のことを考へたつて………」と思はず莞爾して、「然うよ、こりや一番お房に相談して見るんだな。」
其處で燥つ心を押付けて、沈思默想の體となる。と謂ツても彼は、何時まで此の問題にのみ取つ付いて、屈詫の 多い頭腦を苦しめてゐる程の正直者では無かツた。
空想は、彼の病である。で此の場合にも彼は何時か、自分が飛出さうと思ふ社會に就いて考へた。社會の組織、社會の制度、社會の状態、社會の缺陥==何故人間社會には、法律の條文と巡査の長劍が必要なのであらうか。何故世の中には情死や殺人や強盗や姦通や自殺や放火や詐欺や喧嘩や脅迫や謀殺の騒が斷えぬのであらうか、何故また狂人や行倒や乞食や貧乏人が出來るのであらうか。それからまた、我々《われ/\》の住むでゐる、社會には、何故人間を作へる學校と人間を押籠めて置く監獄とが存在してゐるのであろう。また何が故に別莊を有つてゐる人と養育院に入る人と。俥に乘る人と曳く人と教會に行く人と賭場に行く人とが出來るのであらうか――際限も無く此様なことを考へ出して、何んとか解決を得やうと※ 《あが》いて見た。雖然解らなかった 。
其の間に不圖また考が外れた。今度は砂漠に就いて考へた。
「時々キヤラバンが通るばかりで、さぞ淋しいことだろう。だが其處にだツて人生があるんだ。」と思ふ。
「ところで俺は其の沙漠の中に抛出されたやうなものなんだ。時々オーシスに出會するやうなことも無いぢやないか、淋しい旅だ!何方を向いたツて、支へて呉れるやうな者が見當らない。たゞ沙漠の砂の※ 《や》けてゐるやうに、頭が熱ツてゐるばかりだ。そして何時颶風が起ツて、此の體も魂も埋められて了うか知れないんだ。」
考へると、自分が極めて危險な立場にゐるやうに思はれる。
「そりや其の筈よ、俺は何等の目的も無く妾の腹に胚ツた子なんだからな。」
此様な具合に、頭の底に籠つてゐた考が、段々とハツキリ胸に閃いて來る。
「よし、俺は何うしても、自分のことは自分で始末を付けるとしやう。自分の頭にたかツた 蠅は、自分で逐ふさ。躓いたツて、倒れたツて、人は何でも自分の力で、自分の行く道を拓いて行ツた方が、一番安心だ。それがまた生存の意義にも適してゐるといふもんだ。馬じやあるまいし、種を取る爲に保護を受けてゐて耐るものか。」
此の間、何うかすると、ゴト/\、ゴト/\と、輕い、併しながら不愉快な響が耳に入ツて、惡く神經を小突く。氣が付いて見ると、其は風が中窓や風拔の戸に衝突ツて鳴るのであツた。
「此の風では、街頭の砂ツ埃は大變なものだらうな。いや、東京の空氣は混濁してゐる。空氣が濁ツてゐるばかりなら可いが、其の空氣を吸ツて活きてゐる人間は皆濁ツてゐる………何しろ二百萬からの人間が、狭い天地に、パンに有付かうと思ツて※ 々《きよと/\》してゐるんだ。皆血走ツてゐるか、困憊きツた連中ばかりで、忍諸してゐたら腮が干上がらうといふもんだから、各自に油斷も何もありやしない。お互に生存の安全を得やうといふんで、惡狡く、すばしこく 立廻ツて、そりや惨忍なもんだ。少し間の延びた顏をしてゐる者があツたら、突倒す、踏※ 《ふみのめ》す、噛付く、かツ 拂ふ、唸る、喚く、慘憺たる惡戰だ。だから汗と垢とが到處に充滿になツてゐて、東京には塵埃が多い。然ういふ俺も、其毒惡な空氣の中へ飛込んで奮闘しやうといふんだが、武裝は充分かな?」
去事となると、何だか氣怯がする。何處かで、「心細い。」と囁くやうな聲もする。而ると、黄塵濛々《そう/\》々として 、日光さへ黄ばむで見える大都の空に、是が二百萬の人間を活動させる原動力かと思はれる煤煙が毒々しく眞ツ黒に噴出し、すさまじい 勢でぼやけた 大氣の中を縦横に渦巻いてゐるのがハツキリ眼に映ツて來る。同時に風の音と共に、都會の複雑な音と響とがごツちや になツて、微に耳に響く。周三は、何と云ふ譯もなく此の音と響とを聞き分けて見やうと思ツて、熟と耳を澄ましてゐると、其の遠い音と響とを消圧して、近く、邸内の馬車廻の砂利に軋む馬車の轍の音がする。周三は耳を聳てゝ、「ほ、御前、何處へかおなり とお出でなツたな。」
とニヤリとする。「先づしめた もんだ、鰐の口の方でお逃げなすツたといふ奴よ。これで、俺様の天下さ。どれ、穴を出て、久しぶりで喉に痞えぬ飯を喰ふとしやうか。」
馬鹿に氣が伸々《のび/\》として來る。そこで、ぐい と落着拂ツて、平筆を洗ツて、片付けるものを片付けにかかる。片付けながら、彼は、ふと此んなことを考へた。「那の壓制君主さへゐなかツたら、子爵家の主人になツてゐられるのだ。」
氣が付くと、頭の底に籠ツてゐる考は、何時か固い決心となつてゐたのであツた。それから二時間ばかり經ツて、周三は髭を剃り、頭髪を梳き、薄色のサツクコートで、彼としては研上げた男振りとなツて、そゝくさ 嚴しい勝見家の門を出て行ツた。無論お房の家へ出掛けたので。
* * * * *
二週間ばかりすると、周三の生活状態は、からり一變して了ツた。彼は勝見の家の壓制な空氣を脱て、お房の家に同居した。所詮永い間の空想を實現させたので、無論父にも義母にも無斷だ。彼は此の突飛極まる行動に、勝見の一家をまごつかせて 、年來耐へに耐へた小欝憤の幾分を漏らしたのである。一片の宣言書==其は頭から尻尾まで、爆發した感情の表彰で、激越を極め、所謂阿父の横ツ頬へ叩き付けた意味のものであツた。先ず自己を尊重するといふ理由に依ツて、子爵といふ金箔を塗ツて社會に立たうと思はぬといふのを冒頭にして、彼の如き事情の下に生まれた子は、親の命令に服從する義務が無いと喝破し、假に義務があるとしても思想を異にしてゐるのであるから、壓制の俘となツてゐることは出來ない。成程舊い道徳の繩では、親は子供の體を縛ツて家の番人にして置くことが出來るかも知れぬが、藝術の權威を遵奉する自分の思想は其の繩をぶち 斬る。例へば貴方の方には、自分をお叩頭させたり押籠めたり裸にしたり踏※ したり、また場合に依ツたら殺しもすることの出來る力があるかも知れぬが、たゞ一ツ、自分の頭に籠ツてゐる「或物」だけは何うしても剔出することは出來ない。としたら、貴方が、力を似て 自分を壓しやうといふことは、殆ど無用の惡※ 《わるあがき》と云はんければならぬ。尤も眼を剥いて見せたら子供は怖がる、拳を振廻したら猫に逃げる、雖然魂のある大人に向ツては何等の利目が無い。自分は王侯の寵愛に依ツて馬車に乗ツてゐる狆よりも、寧自由に野をのさばツて 歩くむく 犬になりたい。自分は自分の力によツて自分の存立を保證する。自體自分には親が無い。また何等の目的を持ツて生まれなかツた。徒らに出來た子は、何處までも徒らに出來た子になツてゐたからと謂ツて、誰からも不足を聞く譯は無い筈だ。貴方の都合に依ツて、假に與へられた目的、目的に附隨する資格、其は改めて唯今返上する。
種馬として名馬の仲間に加はるのは甚だ光榮を感ずべきことかも知れぬ。併し自分は親の光を取受ツて 、自分を光らせやうとも思はなければ、また華族なる特別の階級に立ツて自己を沒却するのも嫌だ。自分はたゞの人として自己を發揮すれば足りる。と云ふに筆を止めて置いた。そして散歩にでも出るやうに、ぶらりと勝見家の門を出て了ツた。畫室などはそツくり 其の儘にして置いて、何一つ持出さなかツた。殆ど身一つで子爵家の空氣を脱れたといふ有様で、「自然の心」をすら放ツたらかして出て了ツた。此の意味からいふと、彼は子爵家から逃げたばかりで無い、其の生命とする藝術をすら見捨てたと謂はなければならぬ。何しろ周三は、其の際氣がせきゝて ゐて、失敗の製作までも回護ふだけ心に餘裕がなかツた。雖然奈何なる道を行くにしても盲者は杖を持ツことを忘れない。また何様な醉どれ でも財布の始末だけはするものだ。周三も其の通りであツた。幾ら空想に醉はされてゐたと謂ツて、彼は喰はなければ活きて居られぬといふことを知ツてゐた。また自分の藝能では、此の喰ツて行くといふことが甚だ不安であることも知ツてゐた。そこで幾ら自由の空氣を吸う爲に氣が慌て燥ツてゐたとは謂へ、また奈何にお房の匂を慕ツて心が混沌としてゐたからと謂へ、彼は此の生活の不安に對する用意だけは忘れなかツた。彼は勝見の家を出ると定めてから、二三日間といふものは殆ど是が爲に奔走して暮した。そして父の信用に依ツて多少の金も借入れる、また自分の持ツてゐた一切の貴重品を賣拂ツて、節約してゐたら、お房母子諸共一年間位は何うか支へて行かれるだけの用意をした。彼としては非常な大骨折で、僅か二三日の間に、げツソ リ頬の肉が※ 《こ》けたと思はれるばかり體も疲れ心も勞れた。
此の疲勞が出たのか、周三は、お房の許へ引越して來た晩は實に好く眠ツた。
三
不圖眼が覺めた。其處らが寂として薄暗い。體が快く懶く、そして頭が馬鹿に輕くなツてゐて、近頃になく爽快だ………恰で頭の中に籠ツてゐた腐ツたガスがスツカリ拔けて了ツたやうな心地である。氣が付いて見ると、何だか寢心が違ふ、何時も寢馴れた寢臺に寐てゐるのでは無い。
「酒にでも醉ツぱらツて、此様な所に寐かされたのかな。」と思ツて見る。彼は幻心で、尚だ邸に眠ツてゐるものと思ツてゐたのであツた。
足がけツ 倦いので、づいと伸ばして、寐返を打つ、體の下がミシリと鳴ツて、新しい木綿の芬が微に鼻を撲ツた。眼が辛而覺めかかツて來た。
而ると階下の方で、
「お房や、些と先生をお起し申し上げたら可いじやないか。だツて、もうお午だよ。」と甘ツたるいやうな、それでゐて疳高い聲がする。お房の母親の聲だ。
「でも、熟くお眠ツてゐらツしやるんだもの、惡いわ。」と今度は圓い柔な聲がする。基れはお房で。周三は何といふことは無く熟と耳を澄ました。眼はパツチリ覺めて了つた。でも尚だ床の中にもぐもぐしてゐると、
「だツてさ、お前、其様なにお眠ツちや、瞳が溶けてお了ひなさるよ。じようだん じやないわね。」
「溶けたツて、此方の眼じアあるまいし、餘計なおせつかい だわ。」と輕く投出すやうに謂ツた。かと思ふと海酸漿を鳴らす音がする。後はまた寂然する。
「成程俺はもう自由の空氣を吸ツてゐるんだ。今日からは、俺は俺の天下だ、誰にも頭を押へられはせんぞ。自立、自立………一つ大に行らう。」
考へると、氣が伸々とする。何だか新しい潮の滿ちて來るやうな、旺んな、爽快な感想が胸に湧く。頭の上を見ると、雨戸の節穴や乾破れた隙間から日光が射込むで、其の白い光が明かに障子に映ツてゐる。彼は確にお房の家の二階に寐てゐたことが解ツた。
「好い氣味だ、阿父め、遉に吃驚してゐるだらう。いや、果断さね。俺としちや確に大出來だ。ふゝゝゝ。」と笑出して、「阿父め、確に俺に是れだけ行る度胸が無いものと見くびツ てゐたんだからな。那の手紙を見て、何様顏をしてゐるか………おツと、其様なことは何うでも可いとして、これから小時暗中の飛躍と出掛けるんだ。誰にも默ツて、此處に引込むでゐて、何か出來た時分に、ポカリ現はれて呉れる………屹度大向やンや と來る。そこで大手を振ツて阿父の許へ出掛けて、俺の腕を見ろいさ。」
蒲団をば刎ねて、勢好く飛起きた。寢衣を着更へて、雨戸を啓けると、眞晝の日光がパツと射込むで、眼映しくツて眼が啓けぬ。で子供が眼を覺ました時のやうに、眼をひツ 擦ツてゐると、誰かギシ/\音をさせて、狭い楷梯を登つて來る。
「お房かな。」と思ツて、所故振向きもせずにゐる。果してお房だ。
お房は上口のところへ顏を出すと直ぐに、「ま、先生、能くお寐ツてね。」と他を輕く見たやうな、うはつい た調子でいふ。
周三は輕い不快を感じて、些と苦い顏をしたが、「草臥れてゐたからさ。」
「ま、弱蟲ね。先生、そんなにお働きなすツて。」と馴々しい。
「いや、格別働いたといふのじやないが、その、頭を使ツたからさ。」
「頭を使ふと、體まで疲れるもんですかね。」とお房は馬鹿にしたやうな薄笑で。
頭でお話にならぬので、周三は默ツて了ツた。
お房は、其には頓着なく楷梯を上りきると、先づがたびし する雨戸を三枚啓けて、次に手ばしこく蒲團を畳んで押入へ押籠む……夜の温籠は、二十日鼠のやうに動くお房の煽 と、中窓から入ツて來る大氣とに冷されて、其處らが廓然となる。お房は、更に其處らを片付け始めた。周三は此の間、お房の邪魔にならぬようにと氣を遣ツて、彼方此方と位置を移しながら、ポンとして突ツ立ツていた。が、不愉快だ。此處の空氣にも何だか自分を壓迫する要素が籠ツてゐるやうに思ツた。
併しお房は氣が利いてゐる女だ。何時の間にか新しいタオルと石鹸と齒磨と楊子とを取揃へて突き出しながら、
「むゝ。」と膨れ氣味の坊ツちやまといふ見で、不承不精突出された品を受取ツて、楊子をふくみながら中窓の閾に腰を掛ける。此の指圖めいたことをされたのが、また氣に觸ツて、甚だ自分の尊嚴を傷つけられたやうに思ふ。でも直に思ひ復へして、
「教養の無い女だから爲方がないさ、我慢しろ。其も是も承知で惚れたんじやないか。」と怜悧に諦めた。そして、「何だツて俺の感情は、此う鋭敏なんだ、恰で蝟のやうさな。些とでも觸ツたらプリツとする………だから誰とも融和することが出來ないのよ。何故もそツとおツとり しない。」
風は軟に吹いてゐた。五月の空は少し濁ツて、眞ツ白な雲は、時々宛然大きな鳥のやうに悠に飛んで行く。日光は薄らいだり輝いたり、都ての陰影は絶えず變化する。待乳山の若葉は何うかすると眼映しいやうに煌いて、其の鮮麗な淺緑の影が薄ツすりと此の室まで流れ込む。不圖カン/\鰐口の鳴る音が耳に入る。古風な響だ。
「何だね、ありや?………」と周三はお房の方へ振向いた。
「あれ………」とお房は些と首を傾げ、箒を持つ手を止めて、
「鰐口の音ですわ。誰か聖天樣へお参詣してゐるんですよ。」
「お参詣すると何様な功徳があるんだね。」とちやかす やうに謂ふ。
「何様功徳があるか知らないけど、衆がお参詣なさるんですの。」
「衆ツて何様人さ。」
「ま、藝人が多いのね。そりや素人だツて、隨分お参詣なさいますけども。」
「素人衆ツて、何だえ。」
「貴方のやうな方なんですもの。」と澄ましていふ。
「じや、房ちやんもお参詣するのか。」
「え。つい此間までお百度を踏むでゐたんですもの………少しお願があツたもんですから。」と首を縮めて莞爾する。
「お願?………」と周三は眼を※ 《みは》ツて、「お願とア、何様なお願なんだえ。」
「そりや秘密なんですとさ。」と輕く謂ツて、「聞きたきア、聖天様に伺ツてゐらツしやい。」
「何だえ、隱さなくツても可いじやないか。」と少し突ツかかり 氣味になツた。
「隱すツて譯じやないんですけれど………」と些と思はせぶりを行ツて、「ま、止しませう。私にだつて、御信心があるんですとさ。ね、解ツたでせう。」と邪氣の無い笑顔を見せる。
「解らんね、些とも………」と周三は苦りきつて、「謂ツたツて可いだらう。謂はれない?………」
「だツて極が惡いんですもの………」と嘘でない證據といふやうに顏を赧め、「男の方ツてものは、他の事を其様に根堀り葉堀りなさるもんじやないわ。」
「生意氣謂ツてゐら………」と投出すやうに謂ツて、「して、何かえ。其の、お百度の御利益があツたのかえ。」
「は、有ツたから、貴方が私ツ許へ來て下すツたんでせう。」と低い聲で、眞面目に謂ツて、クスリ/\笑い出した。
「何だ。」と周三は傍を向いて苦笑した。彼は確におひやられ たのであツた。雖然何と思ツたのか格別腹も立てなかツた。
二階と謂ツても、眞ンの六畳一と室で、一間の押入は付いてゐるが、床の間もなければ椽も無い。何のことはない箱のやうな室で、たゞ南の方だけが中窓になツてゐる。天井は思切ツて煤けてゐて、而も低い。壁は、古い粘土色の紙を張りつめてあツたが、處々《ところ/\》破れて壁土が露出て、鼠の穴も出來ている。加之柱も眞つ黒なら、畳も古い、「確に舊幕時代の遺物だ。」と思ツて周三は、づらり 室を見廻して、「幕府時代の遺物の裡に、幕府時代の遺民が舊い夢を見ながら、辛うじて外界の壓迫に耐へて活きてゐるんだ。ま、敗殘の人さな。俺の阿母も然うだツたが、當家の母娘だツて然うよ。昔は何うの此うのと蟲の好い熱を吹いてゐるうちに、文明の皮を被てゐる田舎者に征服されて、體も心も腐らして了ふんだ。早い話が、此の家にしても然うじやないか、三軒の棟割長屋を二軒まで田舎者に占領されてゐる。そして都會は日に日に膨脹する………膨脹とはガスが風船を膨らませる意味なんだから、膨らむだけ膨らむだら何時か破裂だ。何しろ米の出來る郷にゐる田舎者が、米の出來ない東京へ來て美味い飯に有付かうとするんだから耐らん………だから東京には塵芥が多い。要するに東京は人間の掃溜よ。俺も掃溜の中にもぐ/\してゐる一人だ。田舎者の眞似じやないが、米の無い土地で米を稼がうとするんだ。自體人間の生存税は滅切高價になツて來た、殊に吾々《われ/\》藝術家は激戰の最中で平和演説を行ツてゐるやうなもんだから、存立が危い!………これからは誰が俺の腑を充して呉れるんだ。豈夫パレツトを看板にしてフリ賣もして歩けないじやないか!」
考へると心細くなる。何處に取ツて付端が無いやうにも思はれる。
「俺も愈々渦の中をまひ/\してゐる塵芥になツてアツたんだ 。」眼をそらして、づツと街頭の方を見る。何も見えない、窓と屋根ばかりだ。中には活々《いき/\》と青草の生えている古い頽れかけた屋根を見える。屋根は恰で波濤のやうに高くなツたり低くなツたりして際限も無く續いてゐた。日光の具合で、處々光ツて、そして黯くなツてゐる。此の屋根の波濤は、大きな東京の蓋だ。
「蓋!大きいが、脆い蓋だ!何うかすると、ぶツ 壊されたり、燒けたりする。併し直に繕はれて、町の形を損せぬ。ただ瓦が新しくなツたり古くなツたりするだけだ。」
古來幾多の人間は、其の下で生まれ、そして死んだ。時が移る、人が變る、或者は破壊した。併し或者は繕ツた。そして永劫の或期間だけ蓋の形を保續して來た、要するに集まツた人の力が歳月と闘ツて來たのだ。雖然戰ツた痕跡は、都て埃の爲に消されて了ツた。
「埃の力は偉大だ!」と周三は、吻ツと歎息して、少時埃に就いて考へた。
大なる都會を埋め盡さうとする埃!………其の埃は今日も東京の空に漲ツて、目路の涯はぼやけ て、ヂリ/″\照り付ける天日に焦がされたやうになツてゐた。其の鈍色を破ツて、處々に煤煙が上騰ツてゐる。眞直に衝騰る勢が、何か壓力に支へられて、横にも靡かず、ムツクラ/\、恰で沸騰でもするやうに、濃黒になツてゐた。此の烟と埃とで、新しい東京は年毎に煤けて行く。そして人も濁る。つい眼前にも湯屋の煤突がノロ/\と黄色い煙を噴出してゐた。其處らは人を蒸すやうな温氣を籠めたガスに、薄ツすりぼか されてゐた。其のガスの中から、斷えずカタ/\、コト/\と、車の音やら機械の音やら何やら何うしてゐても聞き定めることの出來ぬ鈍い響が洩れて來る………都會の音==活動の響だ。時々豆腐屋の鈴の音、汽笛の音、人の聲などがハツキリと聞える。また待乳山で鰐口が鳴ツた。
周三は、吃驚したやうに頭を擡げると、お房は何時の間にか掃除を濟まして脇に來て突立ツてゐた。
「何を考へてゐらツしやるの。」
「何も考へてゐやしない。」と無愛想に謂ツて、墨々《まじ/\》とお房の顏を見ると、
「あら、其様に見詰めちや嫌ですよ。何か、くツつい てゐて」と平手でツルリと顏を撫でる。
「何が、くツつい てゐるもんか。白粉を拔りこくツた 顏に、紅い唇と黒い眼と眉毛とがくツついて ゐるだけよ。」
「じや、おばけ 見たやうね。かあいさうに、これでも鼻がありまさアね。」
「誰も無いとあ謂やしない。確に眞ん中にある。而も好い鼻さ。」とふざける。
「え、何うせ然うなんですよ。憎らしい!………」と眼に險を見せ、些と顎をしやくツて 、づいと顏を突出す。其の拍子に、何か眼に入ツたのか、お房は急に肝々《きよと/\》して、甚く面喰ツた髓となる 。
「何うしたんだ。」と周三も怪訝な顏をする。
「あれ、御覧なさいよ。誰か此方を見てゐますよ。」と囁くやうにいふ。
振向いて見ると、成程誰か、待乳山の観望臺に立ツて熟と此方を見下してゐた。
周三は眼色を變へて、衝と立起ツたかと思ふと、突如ピツシヤリ障子を閉めきツた。
「まあ。」とお房は、其の猛烈な勢に呆れて、瓢輕な顏をする。
「可かんな。那處から此の室を見下されちや、恰で高土間で芝居見物といふ格だ。」と嫌な顏をする。
「可いじやありませんか。見られたツて、何でも無いんですもの。」
「いや、可かんよ。これじや來る奴にも見られるんだからな。俺は當分隱れてゐなけアならん體なんだ。」
「解るもんですか。」
「いや。」と剛情に頭を振ツて、「解らなくツても、見世物ではあるまいし、他から見られるといふのが面白くない。可かんよ、何とか工夫をしなけア………」と考込む。
「じや、障子を閉めきツて置いたら可いでせう。」
「ま、然うでもするんだが………然うすると、體に好くない。それでなくとも………」と室の隅から隅へ眼を配ツて、「空気の流通が惡いんだからな。」
「其様な勝手なことを有仰ツたツて可けないわ。そりや何うせお邸にゐらツしやるやうなことは無いんですからね。」と何でもづけ /\いふのがお房の癖である。
「むゝ。」と默ツて了ツて、「何しろ氣の塞まる室だ。これじや畫室の裡に押込められてゐた方が氣が利いてゐるかも知れん。」と思ふ。
間も無く兩人が階下に下りた。階下はまた非常に薄暗い。二階から下りて來ると、恰で穴の中へでも入ツたやうな心地がする。それでも六畳と三畳と二室あツて、格子を啓けると直ぐに六畳になツてゐた。此處でお房の母は、近所の小娘や若い者を集めてお師匠さんを爲てゐる。と謂ツて、自分でも出来るといふ程出來はしないと謂ツてゐる位だから、大した腕は無い、長唄の地に、歌澤も少し彈けて、先づモグリをしてゐるには差支のない分のことだ。
隅の方には古いながらも前桐の箪笥も一本置いてあツて、其の上に鏡臺だの針箱だのが載せてある。何れも性の知れたものだが、手入が可いので見榮がする。正面には家に較べて立派な神棚があツて、傍の方に小さな佛壇もあツた。神棚には福助が乗ツかゝツてゐて、箪笥の上には大きな招猫と、色が褪めて凋んだやうになつて見える造花の花籠とが乗りかツてゐた。壁には三味線も三棹かゝツてゐる、其の下には桐の本箱も二つと並べてある。何しろ此の家の財産の目星しい物といふ物が殘らずさらけ 出してあるのだが、其れが始末好く取片付けられてゐるから、其處がキチンと締ツて清潔だ。そして此の陰氣なじめ /\した室にも、何處となく、小意氣な瀟洒した江戸的氣風が現はれてゐた。三畳の方は茶の間になツてゐて、此處には長火鉢も据ゑてあれば、小さなねずみいらず と安物の茶棚も並べてある。柱には種々なお札がベタ/\粘付けてあツた。次が臺所で、水瓶でも手桶でも金盥でも何でも好く使込むであツて、板の間にしろ竈にしろ釜にしろお飯櫃にしろ、都て拭つや が出てテラ/\光ツてゐた。雖然外は汚ない。市井の底に住む人等の脂と汗とが浸潤してか、地は、陰濕してどす 黒い………其のどす 黒い地べた に、ぽツつり/\、白く洒れた貝殼が恰で研出されたやうになツてゐる。下水からは下水の水が溢れてゐる、芥箱には芥が充滿になつている。其處らには赤く銹びたブリキの鑵のひしやげ たのやら貧乏徳利の底の拔けたのやら、またはボール箱の破れた切ツ端やら、ガラスの破片やら、是れと目に付くほどの物はないが、要するに廢れて放擲られた都會の生活の糟と殘骸………雨と風とに腐蝕した屑と切ツぱし とが、尚しも淋しい小汚ない影となツて散亂ツてゐる。臺所から十歩ばかりで井戸がある。井戸は舊時代の遺物と謂ツても可い車井戸で、流しの板も半腐になツて、水垢と苔とで此方から見ると薄ツすり青光を放ツてゐた。車も歳月の力と人の力とに磨り減らされて、繩が辛而篏ツてゐる位だ。井戸の傍に大株の無花果がコンモリとしてゐる。馬鹿に好く葉が繁ツてゐるので、其の鮮麗な緑色が、寧ろ暗然として毒々《どく/\》しい。これが、此の廢殘の境にのさばつて 尤も人の目を刺戟する物象だ………何うしたのか、此の樹の梢に赤い絲が一筋絡むで、スーツと大地に落ちかゝツて、フラ/\軟い風に揺いでゐた。
何故か此の有るか無きかの影が、ハツキリと眼に付いた。
「誰が、彼處へ彼様糸をかけたのだらう。」と周三は考へた。途端に日はパツと輝いて、無花果の葉は緑の雫が滴るかと思はれるばかり、鮮麗に煌く。
何しろ幾百年來、腐敗したあらゆる有機體の素を吸込むで、土地はしツけ てゐる。ところへ物を蒸し、そして發酵させるやうな日光が照付けるのであるから、地はむれ て、むツ と息の塞まるやうな温氣と惡臭とを放散する。
「生活の饐える臭だ!」
其の時、周三の頭に、幻の如く映ツたのは、都會生活の慘憺たる状態だ。「何も驚くことはありやしない。此の臭を嗅ぎ馴れて平氣になツて了はなけア、自分で自分の存在を保證 することが出來ないんだ。」
雪隱の傍には、紫陽花の花が痩せひよろけ て淋しく咲いてゐた。花の色はもう褪せかゝツてゐた。
其れから少し離れて、隣家で※ 《もぎ》ツて捨てた鰯の頭が六ツ七ツ、尚だ生々《なま/\》しくギラ/\光つてゐた。其に銀蠅がたかツて 、何うかするとフイと飛んでは、またたかツて ゐた。
「那も造物者が作ツた一個の生物だ………だから立派に存在している………とすりや俺だツて、何卑下することあ有りやしない。然うよ、此うしてゐるのが既う立派に存在の資格があるんだ。何の目的も無く生まれたからツて………何さ、生むで貰ツたからと謂ツて、其れが必ずしも俺の尊嚴に泥を塗るといふ譯ではあるまい。」と周三は、ふと頭の底から苦しい考を引ツ張り出した。
「早い話が、何家の大事な公達だツて、要するに、親の淫行の收穫よ。ふゝゝゝ」と危く快げに笑出さうとして、「ま、安心だ………是だけア確に安心が出來やうといふもんだ。そりや生むのは親だらうが、生まれるのは自然だからな。自體親から必要を感じて生んで貰ツた人間が幾らあるんだ?………と氣が付かずに、やきもき 氣を揉んでゐたのア馬鹿だ。成程此の事じや、其様に阿父を憎むことは出來ないて!………俺だつて親になるかも知れんのだからな。だが人間と云ふ奴は、親になると、何うして其處な勝手な根性になるんだ。何等の目的も無く生むで置きながら、伜がやくざ だと大概仲違だ!其處が人間のえらい 點かも知れんが、俺は寧ろ犬ツころの淡泊な方を取るな。彼奴子供を育てたからつて決して恩を賣りはしない。」
周三は、臺所に立ツて顏を洗ツてゐる間、種々な物を観て、そして種々な事を考へた。彼の頭は自由の空氣に呼吸するやうになツても、依然として忙しく働いて、そして針のやうに鋭い。
周三は、此の朝、久しぶりで下町の水で顏を洗つて、久しぶりで下町の臭を嗅いだ。そして眼に映ツた物は、都て不快な衝動を與へたに抱はらず 、而も心には何んといふことは無く爽快な氣が通ツて、例へば重い石か何んぞに壓ツ伏せられてゐた草の芽が、不圖石を除かれて、伸々《のび/\》と春の光に温められるやうな心地になツてゐた。で、腕の血色を見ても、濁が除れて、若い血が溌溂として躍ツてゐるかと思はれる。
頭の中に籠ツてゐた夜の温籠を、すツかり清水で冷まして了ツた、さて長火鉢の前に坐ると、恰で生まれ變ツたやうな心地だ。
お房の母は愛想宜く、「窮屈な、嫌な箇所でせう。」
と謂ひながら茶を汲むで呉れる。
「何有、僕は些と此様な箇所が性に適つてゐるんでね。」
と負惜みをいふと、
「ま、とんだ御愛嬌ですこと………」と若々《わか/\》しく笑ふ。
それしや の果てか、何しろほツそり した意氣なおふくろ だ。薄い頭髪、然うとは見えぬやうにきよう に櫛卷にして、兩方の顳※ 《こめかみ》に即効紙を張ツてゐた。白粉燒で何方かといふと色は淺黒い方だが、鼻でも口でも尋常にきりツ と締ツてゐる。肉は薄い方だ、と謂ツて尖ツた顏といふでは無い。輪郭を取つたら三角に近い方で、割に額が廣く、加之拔上ツて、小鼻まわりに些と目に付く位に雀斑がある。それでも爭はれぬ證擔は 、眼と眉がお房にそつくり で、若い時分はお房よりも仇ツぽい女であツたらうと思はれる。幾度水に潜ツたかと思はれる銘仙の袷に、新しい毛襦子の襟をかけて 、しやツきり した姿致で長火鉢の傍に座ツてゐるところは、是れが娘をモデルに出す人柄とは思はれぬ。年は四十五六、繊細な手にすら欺う小皺が見えてゐた、
お房は、チヤブ臺を持出したり、まめ /\しく立働いて、お膳の支度をしてゐる。周三は物珍らしげに那れを見たり是れを見たりして、きよろついて ゐると、軈てお膳に向ふ段取となる。見れば、自分の爲に新しい茶碗と角の箸までが用意されてあツた。周三は一種暖い情趣を感じて、何といふ意味も無く悦しかつた。併しおかづ は手輕だ、葡萄豆と紫蘇卷と燒海苔と鹿菜と蜊貝のお汁………品は多いが、一ツとして胃の腑の充たすに足りるやうな物はない。加之味も薄い。雖然周三は、其れにすら何等の不滿を感ぜず、舌と胃の腑の欲望を充すよりも、寧ろ胸に饒かな興趣の湧くのを以つて滿足した。要するに彼は、設し此時だけにもしろ、味が薄いが、簡にして要を得た市民的生活が氣に適ツたのであつた。
「何有、これで可いさ、澤山だ。何うにか辛抱の出来んこともあるまい。人間は、肉は喰はなくつても活きてゐられる動物よ。」
此くて飯が濟むと、三人して、一ツきり雑談に時を移した。
雜談の間に周三は、何かひツかゝり を作へては、お房の素性と經歴とを探つた。そして約想像して見ることが出來るまでに手ぐり出した。
要するにお房は平凡な娘だ。周三が思つてゐたよりも無邪氣で、また思ツたよりも淺い女らしい。たゞ些と輕い熱情のあるのが取得と謂えば取得だが、それとても所謂鼻ツ張が強いといふ意味に過ぎぬ。さればと謂ツて、ナンセンスといふ方では無い。相鷹に 苦勞もあれば、また女性の免れぬ苦勞性の點もある。無垢か何うか、其れは假りに疑問として置くとして、左程濁つた女で無いのは確だ。一體見得坊で、少し片意地な點もあつて、加之に負嫌。經歴といへば、母と一緒に生活の苦勞を爲たゞけのことで。
雖然其の運命は悲慘な幕に蔽われる。父は、お房が十二の年に世間からはくたばツた と謂はれて首を縊ツて死んだ。其の動機は事業の失敗で、奈何に辛辣な手腕も、一度逆運に向ツては、それこそ鉈の力を苧売で 防ぐ有様であつた。で※ 《あが》けば躓き、躓いては※ き、揚句に首も廻らぬ破目に押付けられて、一夜頭拔けて大きな血袋を麻繩にブラ下げて、脆くも冷い體となツて了ツた。そして其の屍體が地の底に納まるか納まらぬに、お房の家は破産の宣告を受けて一家離散となツた。
父といふ人は、強慾で、そして我執の念の強い、飽迄も物質慾の旺んな人物であツたらしい。始のほどは高利の金を貸し付けて暴利を貪り、作事を構へて他を陥れ、出ては訴訟沙汰、入ツては俗事談判の絶ゆる間も無き中に立ツて、頑として、たゞ其の懐中を肥すことのみ汲々《きふ/\》としてゐた。因より正當の腕を探つて儲けるのでは無い、惡い智惠を搾ツてフン奪るのだ………だから他の怨を購ひもする。併し金は溜まつた。お房の母は、また、其れが苦になツて、機さへあれば其の非行を数へ立てて、所天を罵倒した。雖然馬の耳に念佛だ。一體父は、余り物事に頓着せぬ、おつとり した、大まかな質でありながら、金といふ一段になると、體中の神經がピリ/\響を立てて働くかと思はれるばかり、遣口が猛烈となる。從ツて慘忍を極め辛辣を極めて、殆んど何物も眼中に置かず、眞箇シヤイロツク的人物となツて了ふ。されば夫婦の間は、何時か不和になツて、父は虐待する、母は反抗する、一家の粉統は事と共に募るばかりであツた。併しお房は、父が無類の強慾にも似ぬ華美奴であツたお蔭に、平常にも友禪づくめ で育ツてゐた。
然るに父の慾望は一年々々に膨大となツて、其の後不圖事業熱に取ツ付かれた。そして怪しい鑛山やら物にならぬ會社やら、さては株や米にまで手を出したが、何れも失敗で、折角の集め銭をパツ/\と吐き出すやうな結果となつた。才の無いのに加へて、運が後足で砂と來てゐる………何うして其の計畫の當らう筈が無い。名譽よりも地位よりも妻よりも娘よりも、また自分の命よりも大事な財産は、何か事業を起す度毎に幾らかづつ減つた。減る度に大きな歎息だ。それでも事業熱は冷めなかつた。設しや事業熱は冷めても、失敗を取返へさう、損害を償はうといふ妄念が熾で、頭は熱る、血眼になる。それでも逆上氣味になツて、危い橋でも何んでも妄と渡ツて見る………矢張失敗だ。※ けば※ くほど痍を深くして、結局自滅だ。
「いやはや、も、阿父の亡くなツた時のまごつき 方と謂ツたらありませんでしたね。今考てもぞツ としますわ。」と謂ツて、おふくろ は、話の一段を付けた。そして些と娘の方を見て、「ですから私等も、一とつ頃は可成に暮してゐたものなんですが、此う落魄ちや糞ですね。」
周三は垂頭き加減で、默ツて、神妙に聞いてゐたが、突如に、「だが、其の贅澤を行ツてゐた時分と、今と、何方が氣樂だと思ひます。」とぶしつけ に訊ねる。
「然うですね………」とおふくろ は、些とまごついた 躰で、輕く首を振る。そして不思議さうに周三の顏を眠めた。
周三は勢のないやうな薄笑をして、右の肩をむツくら 聳やかし、「自分といふものゝ沒却………ま、其の何だ。一口にいふと、すツかり我を無くしてゐても、大きな家に入ツて、美味い物を喰ツて、しやなら /\と暮らしてゐた方が可いと思ふんですか。」
おふくろ は、何の事だか頓と解らないといふ風で、
「え、そりや………」とあやふや なことを謂ツて、お房の顏を見る。
お房は、所故とケロリとした顏をして、酸漿を鳴らしてゐた。
周三は、燥つき氣味で、「じや、何うです。狆ころ になツて馬車に乗るのと、人間になツて車力を挽くのと何方が可いと思います。」
「ふゝゝゝ。」とおふくろ は、擽ツたいやうに笑出して、「何だか、謎をかけ られてゐるやうですね。」と事もなげにいふ。
「解らない?………然うですかね。」と周三は、解らぬことは無い筈だといふやうにおふくろ の顏を見る。
お房は傍から口を出して、「だけど、阿母さん、そりや阿父さんが生きてお在だツたら、此様に世帶の苦勞をしないでゐられるかも知れないけれども、其の代また何様な苦勞かあるか知れたもんじやないのね。」
「そりや然うだとも!………世の苦勞があるから、偶時にア亡くなツた人のことも思はないじやないけども正直家作でも少しあツたら、此うしてゐた方が幾ら氣樂だか知れやしない。」
「だけど、貧乏も嫌だわ。」とお房は、臆病らしく投出すやうにいふ。
「そりや嫌さ。貧すれば鈍するツていふからね。」
「眞箇ね。」
「でも私ア、池の端にゐる時よか、いツそ此うしてゐた方が、まだ/\のんき な位なもんだよ。」
「そりや阿母さんはもう、御酒でも少しきこしめし てゐらツしやりや、太平樂さ。」
「馬鹿なことをお謂ひでないよ。お前は何かてえと、お酒お酒ツてお謂ひだけれども、私が幾ら飮むもんじやない。二合も飮けア大概エ醉ツて了ふんだかや、月に積ツたツて幾らがものでもありやしないよ。お前………其れも毎晩飮むといふんじやなしさ。」
「フン、女の癖に二合も飮けりや豪儀だゼ。」とお房は冷に謂ツて、些と傍を向き、「だツて、一月儉約して御覧なさいな、チヤンと反物が一反購へますとさ。」
「でもお前、幾ら着物を作えたツて、苦勞は忘れられないよ。阿母さんのやうになツちや、是れツてえ樂しみがあるんじやなし、お酒でも飮まなけア遣切れないやね。」
「阿母さん酒を飮むのですか。」と周三は、呆きれたような顏で横鎗だ。
「え、眞んの少しばかしね。何者、飮まなけア飮まないでも濟むんですけども、氣が欝した時なんか一ツ猪口戴くてえと、馬鹿に好い氣持になツて了ふもんですから、つい戴く氣になツて了ふのですの。貴方は?」
「飮けません。」と妙に堅苦しくいふ。
「飮らないの………」とがツかり したやうに謂ツて、「何方かツてえと、飮らない方が可いんですよ。そりやもう其れが可いんですけれども」………と氣怯がするのか、少しとちり 氣味で、私なんか、飮み習ツて了ツたもんですから、些と癈めるてえ譯には参らないんですよ。酒の味が、もうすツかり 骨身に沁渡ツて了ツたんですね。其がてえと、貴方、尚だ所天がゐた時分に、ほら、氣が莎蘊することばかりなんでせう、所天はもうお金に目が眩むでゐるんですから、私が何と謂ツたツて我を押張ツて、沒義道な事を爲す、世間からは私までが夜叉のやうに謂はれる、私がまた其れが死ぬよりも辛らかツたんですけれども、房がゐてゝ見りや、貴方、豈夫に別れることも出來ないじやありませんか。私はもう何の因果で此様な人と夫婦になツたんだらうと思いながら、種々義理の絡まツてゐることもあツたんですし、嫌でも勤めるだけのことは勤めなければならない。さア、面白くないから膨れもしますさ。ぬ 、家は始終紛糾するツてツた譯なんでせう。爲方がないから、御酒で蟲を耐へてゐたのが、何時か眞んとののむべい になつて了ツたんですけれども、そりや誰だつて好んでのむべい になる者アありやしませんよ。」
「嫌だよ、阿母さんは!………何んとか巧く理屈を何ける んだもの。」とお房は、飜弄すやうにいふ。
「嫌な子だよ、お前は何時でもちやかして お了ひだけれども、眞箇なんだよ。」とおふくろ は躍起となツて、「そりやお前には私の苦勞が解らないんだから………」
「ですから、澤山お飮んなさいましよ。」とまたちやか す。
おふくろ は眼でもつて、些と忌々《いま/\》しさうにして見せたが、それでも慍りもしないで、「お前は眞ンとに思遣が無いんだよ。」と愚痴るやうにいふ。
お房は思切ツていけぞんざい な語調で、「へツ、其様な人に思遣があツて耐るかえ。此の上飮まれたんじや、無けなし身上飮みつぶし だア!」と言尻を引く。
周三は眼を圓くした。そして熟とお房の顏を見詰めた。
「豈天 、お前………」とおふくろ は何處までも氣の好い挨拶だ。
周三は笑止に思ツた。で、幾らかおふくろ に同情した積で、「然うですかナ、酒を飮むと、實際氣が晴れるものでせうか。」と合槌を打つ。
「そりや晴れますよ。ま、飮むでゐる間ア、眞箇何も彼も忘れて了ひますね。」
「然うですかナ。じや僕も飮むかな。」
「些とお飮りになツた方が可うございますよ。」
「ま、耐らない、のむべゑ が兩人になられたんじや、私が遣切れないよ。」とお房は無遠慮にかツ 貶す。
「可いじやないか、房ちやんものむべゑ の仲間入するのさ。三人して朝からへゞ ツてゐることにすりや、好いぜ。」と周三はふざけ る。
「何が好いもんですか。他に狂人だツて謂はれてよ。」
「管はんさ。のんき で可いじやないか。」
「好いね、のんき が可いね。」とおふくろ は、上づツた聲で、無法に悦しがり、「一日でも可いから何うかして其様なことにしたいもんだ………何と謂われても管はない、私はのんき になりたいね。」
「生活に疲れた悲音だ!」と周三は呟く。
「嫌なこツた!のんき になりや世間の笑草だわ。」
とお房は、おふくろ に打付けるやうにいふ。それからまたおふくろ の身上話が始まツて、其の前身は藝者であツたことが解ツた。身上話が濟むと貧乏話と來る。おふくろ は色消しに包むで置くべきボロまで管はずぶちまけ と、お房は遉に顏を赧めて注意を加へた。それで周三は、お房の家が見掛よりも、また自分の想像してゐたよりも苦しがりであることを知ツた。同時にまたおふくろ という人は、些とぐうだらな點はあるが、氣のさくい 、毒のない人といふことも解ツた。
「私が意久地が無いからなんですよ。阿父が亡くなつたからツて、此様に窮らなくツても可い譯なんですがね。」とおふくろ は、話の間に幾度か氣の引けるやうに謂ツた。
周三はまた、「何點か俺の生母に似た點がある。」と思ツた。で何となく懐慕しいやうにも思はれ、また其の淋しい末路が哀になツて、
「俺の生母のやうに早死しても憫然だが、また比の おふくろ のやうになツても氣の毒だ。」とムラムラと同情の念が湧いた。そこで「ま、可いさ、其様に懊々《くよ/\》しても爲方が無い。僕は何うかなりや決して放擲ツちや置かん。」と熱心に氣やすめ ばかりでないところを謂ツて、「何うせ、人生ツてものは淋しいものさ。不幸なことを謂や僕なんか随分………」と謂ひかゝツて、ふと口を噤むでお房は氣の無い顏で外の方を眺めてゐる。
周三は、針でつゝかれ たやうに不快を感じて、フイと氣が變る。顏が苦りきツた。途端にチヤキ/\木鋏の音がする。
「おや、花屋さんが來たやうだね。」とおふくろ も外を覗くやうにする。
お房は衝と立起ツて、あたふ た た 」はママ]格子の方へ行くかと思ふと、と、振返ツて、「お花ばかりで可いの。」
「然うね、何か挿花でも少しお取りな。」
お房は、點首いたまま、土間を下りるか下りぬに、ガラリ格子戸を啓け、顏だけ突出して大きな聲で花屋を呼ぶ。
「ま、何てえ大きな聲をするんだろう。」とおふくろ は、些と眉をひそめ、「柄は大きくツても、尚だカラ赤子なんですから。」と周三の顏を見て薄笑をする。
周三は傍を向いて無言だ。彼の眼に映ツた豊艶な花は少しづつ滲染が出て來るやうに思はれるのであツた。おふくろ は迂散らしい顏で、しげ/″\周三の顏を瞶めてゐた。間も無くお房は銭の音をちやらつか せる。周三は何といふことは無く振向いて見た。而るとお房は、紅を吸上げさせた色の褪めたやうに淡紅い菖蒲の花と白の杜若とを五六本手に持つて、花屋と何か謂ツてゲラ/\笑出す。周三は耐らず嫌な氣持がしたので、ぷいと立起ツて二階へ歸らうとする………と格子の外に据ゑてある花屋の籠に、花といふ花が温い眞晝の日光を浴びて、凋むだやうになツて見えるのが瞥と眼に映ツた。
それを見たまま、周三はさツ /\と二階へ上ツて了ツた。
周三が梯子を上りきる時分に、お房は花を箪笥の上に置いて三疊へ入ツた。
「何うしたの?」と低聲にいふ。
おふくろ は、默ツて輕く首を振ツて見せた。お房は、くの字なり にべツたり 坐ツて、
「お天氣な人ね。」とへいちやん だ。
「でも、何かお氣に觸ツたのかも知れないよ。」
「フン、何も此方が惡いことを爲たんじやあるまいし、勝手に慍ツてゐるが可いわ。」
と投出すやうに謂ツて湯呑を取上げ、冷めた澁茶をグイと飮む。途端に稽古に來る小娘が二三人連立ツて格子を啓けて入ツて來た。
* * * * *
周三は、一ヶ月ばかり虚々《うか/\》と暮して了ツた。格別面白いといふ程の事は無かツたが、また何時まで頭に殘ツてゐる程の不快も感じなかツた。芝居には二度行ツた。寄席にも三晩ばかり行ツた。併し何方にも何等の興味を感ぜず、單に一所に行ツたお房とおふくろ を悦ばせたといふに過ぎなかツた。それから繻珍の夏帶とお召の單衣と綾絹の蝙蝠傘とを強請られて購はせられたが、これは彼の消極的經濟に取ツて、預算以外の大支出で、確に一大打撃であツた。雖然お房の意を充す爲に敢て此の苦痛を忍んだ。然にお房は、彼の財布には底が無いものと思ツて、追續々《/\》々《/\》預算以外の支出を要求して、米屋八百屋の借を拂はせたり、家賃の滯を埋めさせたり、纒ツて幾らといふ烏金の口まで拂はせた。それで周三の財布は一日々々に萎縮した。
「耐らんな、此う取付けられちや!」と周三は、其貧弱極まる經濟の前途に向ツて、少からぬ杞憂を抱いた。彼は必しも金を惜むといふのではないが、自分の腕に依ツて自己の存立を保證されるまで、其金に依ツて自己を支へて行かなければならぬかと思むと、勢きりつめ 主義にもなるのであツた。きりつめ 主義を實行しやうとすると、お房の頬が膨れる。そこで謂ふがままに支出した。實際大苦痛である。雖然其苦痛を償ふだけの滿足もあツたのだから、何うにか此うにかおツ怺へては經てゝ來た。滿足とはガラスを透して見てゐた花を手に取ツて頬ずりしたことであツた。此の滿足に依ツて、燃えてゐた血は幾か鎭靜になツたが、氣は相變らず悶々する。何を悶々するのか自分にも能くは解らなかツたが、始終悶々する。成程邸にゐた時分、頭の中に籠ツてゐたガラスはすツかり脱けて了ツた。併しお房の家には、彼の鋭敏な感情をつツつく 針があツて、斷えず彼を惱ますのであツた。そして自ら生命としてゐた藝術も忘れて了ツて、何時とはなく味の薄い喰物にも馴れて行くのであツた==平民の娘は次第に彼の頭を腐蝕させた。
青空文庫より引用