頼杏坪先生
*
頼山陽の百年祭が明年に迫つたので、私の県ではその遺蹟顕彰会が組織され、全集の刊行、記念館の設立、旧居保存などそれぞれの準備が進められてゐる。さう云ふとき私は山陽先生を思ふと、妙にその家叔杏坪先生のことに心が惹かされてくる。杏坪先生は山陽終生の理解者であり、殊にその青年逆境の時代には最も温い庇護者であつた。
一体に頼一家の学者詩人は、山陽の盛名によつて、より広く天下に知られてゐる。もとより杏坪先生の如きは、その学殖詩藻すでに当時定評のあつた人で、山陽をまつて初めて顕れたものではないが併しその性格なり閲歴なりから見ると、何れかと云へば杏坪先生は、華やかに世間の表面に立つべき人ではなかつた。先生が市井の出身で、芸藩の儒官、郡宰となり二百五十石の高禄を食むに至つたのは当時としては異常な出世であつたに違ひないが、これは曩に長兄春水が藩に召されたのが機縁となつて居る。従つて恰もその添役の如き観があり、その学名もまた兄春水の学名に蔽掩されてゐて、云はば蔭の人である。それに杏坪先生は殆どその後半生を学者としてよりも、北備辺陬の山地の郡宰として送つてゐる。その以前は江戸にも度々上り、中央の学者との交遊もあつたが、その後は直接には中央と没交渉になつてゐる。しかも宰邑は世間に没却された山地で、それも当時御納戸奉行上席を以て先生自ら進んでこの下級の吏務を引受けられたものといふ。済民の志の深いものありとは云へ、煩雑で見栄のせぬこの役目は、名利を度外した真摯な先生の如きでなくては、誰も好んで当るものがあるまい。謹直恪勤の資質のうちに、幾分の飄逸捕捉すべからざるものを蔵しながら、杏坪先生は、かうした広い世間からは注目されない地味な生涯を送られてゐる。だから山陽の盛名が頼一家を世間により広く紹介しなかつたならば、或は杏坪先生の名の如き、後世に於いては、唯特殊の人々と一地方の人とによつてしか、知られなかつたかも知れない。山陽の盛名とその不羈の生涯。謹直枯淡で縁の下の力持ちの如き一生を終つた杏坪先生。この相反した叔甥二人を対比して考へてみると、山陽の光彩ある生涯に対し、杏坪先生の粛然たる存在は、ある奥行を与へる一添景たるの感がする。
*
古来詩人学者にして実際の政務に当り、真に治績の挙つたものは、余り多くないやうである。しかし杏坪先生はその例外であつて、治績は頗る挙つてゐる。その宰邑は私の郷里奥備後の四郡(当時)であつて、約五万石の狭少な土地であるから、所謂大経綸などの施さるべき土地ではない。今私は先生の政治的気宇を云々しようとはせぬが、しかし先生の熾烈敦厚な済民の志と、その実際施政の才能とには服せざるを得ない。私の郷里では今なほ先生を、詩人学者としてよりも、寧ろ名郡宰として記憶し、尊敬してゐる。郡宰としての先生の治績には、父老会飲、賞罰の厳明の如き徳育風教の振興は勿論、社会法の徹底、均田法の施行、※ 毛減課、製鉄資金の融通、製紙座法の改弊、柿、楮、煙草、麻、牧馬牛の奨励等による産業助長の如きがある。実に文化八年五十六歳の就任より、天保元年七十五歳致仕に至る歿前二年までの、二十ヶ年の長い晩年の殆ど全部を、嵐瘴多き貧郡の治務に尽瘁されたのである。致仕後の詩に「勧農総歴廿回春 馬歯俄然過 七旬 労似 羸牛倦 民用 飽如 老鼠食 官※ 雲南四郡看 山遍 芸北三川度 水頻 知道君恩無 極已 衰来還賜自由身。」一種悲愴な哀音を聞くやうである。実際に先生の宰邑は、民力甚しく疲弊して人心荒放、頗る難治の郡とされてゐた。杏坪先生の苦労も容易なものでなかつたらしい。先生の「春草堂詩鈔」に次の如き長詩がある。
癸酉巡 省所部 恵蘇尤窘惻焉有 作
嗟夫恵蘇郡 非 恵民不 蘇 古人填 此字 蓋亦有 以夫 高寒北隣 雲 田乏 一方腴 三月木未 葉 淤蔭不 及 須(摘新葉敷田泥謂之淤蔭)四月已移 秧 秧短如 東 鬚 小籃便盛去 分挿頗繁敷 灌漑水幾道 皆自 大麓 趨 誰知五六月 水冷如 噬 膚 八月霜早降 未 実禾将 枯 居民常艱 食 吏猶催 税租 若不 為 群訴 逃亡欠 宿逋 予来宰 此郡 経理尚※ ※ 閭里多 老蠹 宿姦逞 私輸 下 車拉 巨猾 余醜宥 公誅 数章出 新令 一朝洗 旧※ 盤錯乏 利器 聊言致 区々 庶幾数年後 恵洽夷 岩齬
任官三年目の文化十年の作である。北寒荒蕪の山地の風土、民情などが躍如と描出されて、如何に民羸の甚しく人心の険悪なるかを語つてゐる。「下 車拉 巨猾 」あたり、謹厚なうちにも流石に先生の鋭鋒を現してゐる。「作 吏要無 為 郡県 毎 聞 民病 涙縦横」かう云ふ詩句も、春草堂詩鈔の北郡の諸詩を読んで行けば、必ず先生の沈痛なる真情のこゑと肯ける。然るにその後、七年を経た文政三年の左の詩に於いては、民情も大分改善されて、杏坪先生の詩に多少の喜色が動いてゐる。
庚辰春省 行備後四郡 詩以記実
行春歴 四郡 村々問 農耕 父老拝 馬下 慇懃説 陰晴 今春頗多 雨 麦穂或無 実 余寒過差遅 秧針尖少屈 麻生茎尚短 婆姑痩立 田 頻年並価賤 尚希過 人肩 官已貸 牛銭 貧民免 借租 復種 北馬種 行見産 良駒 三次※ 郡賦 歳余金三百 恵蘇汰 邨費 年贏 五百石 孝弟旌 懿行 力田訪 良民 賜 物各有 差 勧善激 郷隣 庠序久已廃 師儒乏 其人 誰演 庶人章 丁寧導 人倫 嗟乎吾老矣 如何及 壮者 願得 好代人 告 老返 轎馬
この間杏坪先生の済民の施政の徳により、流民などの帰還するものもあつて、正徳より文政へかけて一度減じた北郡の人口戸数も次第に増加しはじめた。所謂「庶幾数年後 恵洽夷 岩齬 」といふ抱懐が漸次実現しかけた訳である。
*
私が先生について最も興味を感じるのは、先生の為政家としての態度が、極めて実際的であつた如く、その作詩の態度もまた実際的であつた事であつて、必ずしも文人にして政治の能を兼ねた点ではない。この事は茶山翁も「初千祺為 吏以為吟哦廃 務既聞其事漸理以為雅事必堕而其詩如 斯千祺洵不 可 測矣」と心配もしたが、しかし先生の俗務の鞅掌は決してその詩に禍をしなかつたのみならず却つてそれが先生の詩を内容的に深めてゐる。又評曰「吾恐詩之美 美 於政之美 既聞 其政 今誦 其詩 可 謂 ※ 美 矣」と、その通りであるが、要はその美の特質如何であつて、私は先生の詩の美は、その政美の特質と同じく実際的から出発してゐる点にあると思ふ。即ち先生の詩は、深く対象の実相に即して、その機微の生命を掴んでゐるのが多い。私ども今日倭歌のうへで奉ずる写生道は、すでに先生の作詩で実行されてゐるのである。
前掲の省郡二首の長詩について見ても分るごとく、高寒山地の気象、地勢、景物、人事、生業、民情などは一々その真を得て活躍描出されてをり、又その背後には作者の気魄嗟嘆の人に迫るものがある。凡そ先生の詩は、日常雅事俗事となく、その詩材となつて一種の生活詩をなしてゐる。絢爛華美ではないが、枯淡で虚妄なく、真率で実相美があり、一種の懐しみを持つてゐる。私はそれを尊敬する。この先賢が私の郷邑の自然人事について詠んだ幾多の詩は「春草堂詩鈔」にのせられて残つてゐる。私はその一々肯綮に当る先生の手法を熟読玩味して、私の歌の上にも種々の暗示を与へられるを興味ふかく感じる。勿論漢詩について云々するは門外漢の私の分限ではないが、しかし先生の詩を尊敬するあまり、今左に数首を録して、その写生的傾向につき素人なりの感想を簡単に述べよう。
秋晩巡 北邑
先王遺制省 秋収 行到 辺荒 意更愁 村似 癈人痿不 起 民如 墜葉散難 留 寒流病 渉纔横 木 衰草救 飢猶牧 牛 非 有 問窮連日苦 那看紅樹百峰秋
章句のうち、此郷の土俗風物の真体を伝へながら、しかも暗涙を以て民病の状を喝破して余す所がない。作者の心緒と対象の真相とを並立直写したものである。
戯詠 淡婆姑 所管多植此
民間多種是耶非 穀外常偸田土肥 所 見眼前含 露秀 安知身後作 煙飛 余 茎長植吟翁杖 編 葉時懸羽客衣 租税頗憑 婆子力 休 言此物不 充 饑
戯詠と称しながら、先生の民業の理解を思はしめる。又植物としての煙草の特徴を捉へ、その調製にまで言及し、しかも複雑な財政論まで吐露して詩味と気品を堕さない。結末二句は時恰も、今の緊縮内閣の財政難に対する好皮肉言である。百年昔の程朱の学徒詩人果して時勢に迂なりしや。
運甓居雑詠
百年旧府嘆 榛荊 四面山河自作 城 十日雲容多北走 二州水勢尽西行 遠書毎托 海商至 閑話只憑 山衲迎 羇官雖 孤幸無 恙 回 頭已没幾同庚
公篁渡
此地名区慰 老孱 風光秀偉満 衰顔 東西来合巴回水 南北相臨鼎峙山 亜竹檀欒遶 旧郭 遺民絡繹渡 荒関 晩晴試望 公篁渡 人在 灘声嵐気間
ともに山国盆地の郡衙三次の地勢風光気象を実に即いて髣髴と描出してゐる。この地杏坪先生をして古稀の齢を過ぎて居らしめた。
幽庁彷彿占 山棲 白水青巒繞 屋西 籬破頻来隣舎犬 竹深遥聴別村鶏 詩留 残日 催 吟歩 酒送 流年 落 酔題 偶向 前川 捕 尺鯉 喜呼 鱠手 面前批
※ 嫌日々話 桑麻 野性原非 文献家 暑服五銖無 越※ 酒肴一種有 胡瓜 田翁患 鼠引 沙狗 渓叟収 魚養 水鴉 此地応須 置 吾輩 簿書叢裡淡生涯
かくの如きは運甓居に於ける、杏坪先生の平生の一端である。隣舎犬、別村鶏、前川鯉、各々先生の詩情を動かし、桑麻、胡瓜、田翁、沙狗、渓叟、水鴉等の田園の風物、また先生淡生涯の素懐を述ぶるに足らしめてゐる。
行郡道間漫作
依 例今春復省耕 村々熟路緩 期程 山如 迎揖 皆知 面 水不 相離 似 有 情 馬解 叱声 多左避 轎任 扛法 少斜行 已諳扁字兼 屏画 那問今宵館主名
行路の山水の姿態と人馬の動作との一々の特徴は、作者の犀利な観察眼から免れるを得ないが、しかし先生はこれ等を親愛の情を以て温く眺めてゐる。
巌神観 牛馬市
巌神四月開 牛会 ※ 尻如 堵満街隘 貪目如 炬群※ ※ 飲博場裡紛売買 ※ ※ 心腸黒 於牛 那因顧 我窮民憂 願使 牛価不 太貴 貧農深耕戸々秋 拍手声裡各牽掣 子母相別呼且答 牟々東西去尽後 市上畳余牛糞塔
山間小市街の一風俗画、光景さながら指点する如くである。為政者として先生の眼光には下情明然として露見し、詩人としての先生の心情は一種の微笑と哀愁とを交へ帯びてゐる。
要するに漫然とここに掲げた数篇の詩について見るも、先生の詩に多大の写生味あるを示すに足りる。比喩空想はいくら巧妙奇警でも流行のものであるが、写生によるものはたとへ地味でも不易である。山陽曰「昔人称 杜詩※ 州以後最妙 三次蓋丈人之※ 州也」と。而して杏坪先生の郡宰任官後の詩は益々写生的であつた。
先生には又自筆「唐桃集」の倭歌があるが、所謂花鳥風月歌、理窟歌、言語の綾の弄びの類多くその漢詩と風を異にしてゐる。然しこれは時世が千年来の古今調の迷夢から、醒めてゐないのだから致方がない。それでも流石に漢詩で鍛へた写生的手法が、時々倭歌にも現れてゐるものがある。木の間にと聞きつつをれば 天の原雲にも秋の声立ててけり山風は夜来て山にかへりけむ 木の葉屑をば庭に残して
尚先生の倭歌については茲では長くなるから、後日にゆづり略することとする。私は今ただ先生自称の如く「自笑書生余 旧態 半思 民苦 半思 詩」の生涯二十年を、この高寒山地の民治に送つてしかも施政作詩二つながら至美真摯であつた、この先賢を追慕することにより筆を擱く。
(八月三十日)
青空文庫より引用