吉田松陰
新島先生の記念として
この冊子を献ぐ
著者
Trust thyself : every heart
vibrates to that iron string.
――Emerson.
緒言
題して『吉田松陰』というも、その実は、松陰を中心として、その前後の大勢、暗潜黙移の現象を観察したるに過ぎず。もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可なからん。
昨年の春初「本郷会堂」において、「吉田松陰」を講談す。のち敷衍して『国民之友』に掲出する十回。さらに集めて一冊となさんと欲す、遷延果さず。このごろ江湖の督責急なるを以て、咄嗟の間、遂にこれを成す。原文に比すれば、その加えたるもの十の六、七、その刪りたるもの、十の一、二。
事実の骨子はおおむね『幽室文稿』『吉田松陰伝』より得来る。その他参照に資したるもの枚挙に遑あらず。
松陰の妹婿にして、その同年の友たる楫取男爵、その親友高原淳次郎、松陰の後嗣吉田庫三の諸君は、本書を成すにおいて、あるいは助言を与えられ、あるいは材料を与えられたり。特に記して謝意を表す。
松陰肖像は、門人浦無窮が、松陰東都檻送せらるるに際して描きたるものを、さらに謄写したり。松陰神社、及び墳墓は、久保田米僊君自からその境に臨んで実写したるもの。
平象山の詩は、勝伯の所蔵に拠り、東遊稿は、高原淳次郎君の所蔵に拠る。稿中吉田大次郎とあるは、松陰初めの名なり。後「寅次郎」と改む。この稿は彼が米艦に塔じて去らんとするに際し、これを高原君に贐りて紀念となしたるものなりという。松陰が横井小楠翁に送りたるは、横井時雄氏の所蔵に拠る。この書簡は彼が露艦を趁うて長崎に来り、遠遊の志を果さんと欲して得ず、その帰途周防より横井翁に寄せたるもの。村田清風の詩は、嘉永四年余が叔父徳富一義、小楠翁に陪して天下を周遊するに際し、親しく村田翁に授りたるもの、今や蔵して余の家に在り。
以上みなその真蹟を石印に写したるもの、希くは髣髴として、その真を失わざらん。
勝海舟翁、佐久間象山と旧交あり、象山は松陰の師、而して余また海舟翁の門下に教を受く、故に翁の題言を請うて、これを篇首に掲ぐ、また因縁なくんばあらず。
明治二十六
第五帝国議会開会の日
東京民友社楼上において
著者
吉田松陰年譜
天保元年庚寅 八月四日、萩城下松下村に生る。マヂニー隠謀のために捕えられ、追放せらる。
天保八年丁酉 米穀騰貴。二月、大塩平八郎乱を大坂に起す。四月、家慶征夷大将軍に拝す〔慎徳公〕。
天保十一年庚子 君侯毛利慶親の前において、兵書を進講す。
天保十二年辛丑 前将軍家斉薨ず〔文恭公〕。水野越前守幕政の改革に着手す。
天保十三年壬寅 佐久間象山海防八策を上る。清国道光二十二年、英兵上海を取り、南京に入る。南京条約成る。七月、文政打払令を修正して、寛政の旧に復す。
天保十四年癸卯 夏、村田清風毛利侯を輔けて、羽賀台の大調練を催す。水戸烈公驕慢に募れりとの咎を被り、幽蟄せしめらる。
弘化元年甲辰 和蘭使節和蘭王の忠告書を齎らし来る。
弘化二年乙巳 松陰兵を山田亦介に学ぶ。
弘化四年丁未 孝明天皇即位。
嘉永三年庚戌 八月、九州に遊ぶ。
嘉永四年辛亥 始めて江戸に遊ぶ。相房を巡遊す。横井小楠天下を歴遊す。十二月、亡邸東北行をなす。
嘉永五年壬子 籍を削り、禄を褫わる。
嘉永六年癸丑 十年四方に遊学の公許を受く。六月朔日、江戸に着す。六月三日、米国水師提督彼理浦賀に来る。七月、家定将軍となる〔温恭公〕。七月、露艦長崎に来る。九月、江戸を発し長崎に赴き、十二月、江戸に還る。
安政元年甲寅 三月二十七日、下田において米艦に搭ぜんと欲して果さず。三月、神奈川条約成る。四月十五日、檻輿江戸に達す。九月十八日、罪案定りて藩に囚わる。十月二十四日、長門野山の獄に下る。
安政二年乙卯 五月、村田清風死す。十月二日、江戸大地震。藤田東湖死す。十二月十五日、獄を出て家に錮せらる。
安政三年丙辰 七月、家学を教授す〔松下村塾成る〕。七月、米国総領事ハリス来る。
安政四年丁巳 五月、条約規定書調印。六月、閣老阿部正弘死す。十月、ハリス江戸に入る。
安政五年戊午 正月、大いに攘夷論を唱う。閣老掘田正篤京都に遊説す。三月、大詔煥発。四月、井伊大老となる。六月、勅許を俟たずして、米国条約の調印をなす。八月、家茂将軍となる〔昭徳公〕。一橋党悉く罪せらる。八月、密勅水戸に下る。九月、間部詮勝京都に入る。梁川星巌死す。梅田、頼その他の志士縛に就くもの前後相接す。十一月、松下義塾血盟。十一月二十九日、家に厳囚せらる。十二月五日、投獄の命あり。
安政六年己未 五月、江戸に檻送せらる。七月、江戸伝馬町の獄に下る。十月二十日、永訣書を作る。二十六日、『留魂録』成る。二十七日、刑に就く。
第一 誰ぞ 吉田松陰とは
玉川に遊ぶ者は、路世田が谷村を経ん。東京城の西、青山街道を行く里余、平岡逶※ として起伏し、碧蕪疎林その間を点綴し、鶏犬の声相聞う。街道より迂折する数百歩、忽ち茅葺の小祠堂あり、ああこれ吉田松陰の幽魂を祭る処。
祠後の小杉槍尖の如く、森然として天を刺す。これを径すれば、幾多の小碑、行儀能く屏列するを見る。その左右に在るは、同志、同難諸人の墳墓にして、彼はあたかも幽界の大統領たるかの如く、その中央に安眠す。数株の蒼松は、桜樹に接して、その墓門を護し、一個の花崗石の鳥居は、「王政一新之歳、大江孝允」の字を刻して、長えに無韻の悼歌を伝う。
三十五年前、日本国を荒れに暴らしたる電火的革命家も、今はここに鎮坐して、静かなる神となり。春雨秋風人の訪うなく、謖々《しょくしょく》たる松声は、日本男児の記念たる桜花の雪に和して吟じ、喞々《しょくしょく》たる虫語は武蔵野の原より出でて原に入る明月の清光を帯んで咽ぶ。
未死の幽魂、尋ねんと欲するも、今何の処にかある。請う、吾人をして彼を九原の下より起し、少しく彼に就いて語らしめよ。
* * * * *
吉田松陰は、関原の役において、西軍の殿将として、大坂を守り、徳川氏に向って弓を挽ける、毛利家の世臣なり。彼は杉氏の子、出でて叔父吉田氏を続ぎ、禄五十七石を食む。彼は固より微禄の士。天保元年八月長門国萩城の東郊に生れ、安政六年十月国事犯罪人として、江戸において首を斬らる。その間僅かに三十年、而して彼が社会に馳駆したるは嘉永四年侯駕に扈して江戸に赴きたるより以来、最後の七、八年に過ぎず。彼の社会的生涯かくの如く短命なり。彼果して伝うべきものあるか。
曰く、然り。
彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり。然りといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産したる母の如し。自から死せりといえども、その赤児は成育せり、長大となれり。彼れ豈に伝うべからざらんや。
第二 家庭の児
長門は山陽の西陬に僻在す、而して萩城連山の陰を蔽い、渤海の衝に当る。その地海に背き山に面す、卑湿隠暗。城の東郊は則ち吾が松下村なり。松下の村たる、南は大川を帯ぶ、川の源、渓間数十里、人能く窮むるなし、蓋し平氏遺民の隠匿する処。その東北二山の大なる者は唐人山と為す、朝鮮俘虜の鈞陶する処。小なる者は長添山と為す、松倉伊賀の廃址なり。山川の間人戸一千、士農あり、工商ありと。これ彼が自から語れる故郷の光景なり。彼は実に天保元年八月四日を以て、萩城の東郊松下村護国山の南麓に生る。
彼の父杉百合之助は敬神家にして忠摯篤実なる循吏なりき。彼の母児玉氏は、賢にして婦道あり、姑に事うる至孝、子を教ゆる則あり、仁恕勤倹、稼穡の労に任じ自から馬を牧するに至る。嘗て彼女の写真を見るに、豊頤、細目、健全、温厚の風、靄然として掩うべからざるものあり。母の兄弟に竹院和尚あり、鎌倉瑞泉寺の方丈にして、円覚寺の第一坐を占む、学殖徳行衆に抽んず。父の兄弟に吉田大助あり、即ち松陰の養父なり。彼れ剛正にして夙に大志あり。経史を精研し、一家言を為さんと欲す。瘍を病み、自から起たざるを知り、異薬を卻け、特に従容として死す。歳二十九。また玉木文之進あり、硬直、廉幹にして民政に達す。松陰幼時の師は、則ち彼なり。彼は明治九年前原一誠の乱、嫌疑を被り、官囚となるを屑とせず、自から六十余歳の皺腹を屠りて死せり。
彼の一家、友交輯睦、忠誠にして勤克。その父もしくは叔父の如き、公衙より帰れば、直ちに袴を脱して、田圃に耕耨す。松陰の幼き、書を挾んで※ 上に読み、義解せざるあれば、直ちに圃間の父もしくは叔父に就いて質せりという。
彼の尊王敵愾の志気は、特に頼襄の国民的詠詩、及び『日本外史』より鼓吹し来れるもの多しとす。彼の幼きや土塊を以て宮闕の状を為り、曰く、これ織田信長が禁裡の荒廃を修繕したるに擬するなりと。彼の刑に就かんがために江都に檻送せらるるや、彼自から懐を賦して曰く、「平素庭に趨くも訓誨に違う、この行独り識る厳君を慰むるを。耳に存す文政十年の詔、口に熟す秋州一首の文。少小より尊攘の志早く決す、蒼皇たる輿馬、情何んぞ紛せんや。温清剰し得て兄弟に留む、直ちに東天に向って怪雲を掃わん」。
また以て家庭教育の一斑を知るべし。
彼の家は松下村の山中にあり、故にその幼時嬉戯するは、その兄妹あるのみ。彼は実に家庭の温かにして、剛健なる大気中に成育せり。彼が死に到るまで、その父母に対しては固より、その兄妹に対して、掬すべき友愛の深情を湛えたるは、単りその天稟のみにあらず。
彼の十二、三歳の頃、嘗て萩城下、林某の宅に寓し、藩学明倫館に通学す。彼の寓室は階上に在り、家偶ま火を失す。彼泰然としてその机を階下に投じ、復た自個の所有に係る書籍、調具を顧りみず、藩主恩賜の『孫子』さえも焼燼に帰せしめ、一意以て寓家の什器を救わんとせり。彼が殉公の心に厚き、自からその素養の存する所を見るべし。
彼は実に杉氏家庭の児なり。その義勇、公に殉ずる公共心、その尊王敵愾の志気、その至誠にして自から欺かざる精神、みな荒村老屋の中に磅※ 《ほうほく》したる家庭の感化中より得来りたるを疑うべからず。
〔註〕松陰の父百合之助常道、恬斎と号す、家貧にして勤倹の家風の中に成長せり。六歳の時、父(即ち松陰の祖父七兵衛常徳)十年ばかり江戸在勤を命ぜられ、母親の手ひとつに育てられ、自然幼少より家事の手伝などして、ますます勤倹の風を養成せり。
その父常徳また勤倹の武士にて、かつ読書を好み、江戸在番中しばしば国許の子供のために書を下せり。曾て『五経図解』を下せし時常道は喜びに堪えず、爾後生涯この書を坐右に置き当時の喜を回顧せり。
二十一歳、父死して相続す。
家貧にして専ら農業をつとめたり、然もその読書を嗜むの深き、米舂く時はスガリ木に棚を架し、これに書を載せて米を舂き舂きこれを読み、畑に出でても畦の草の上に置きて、隙さえあれば即ち読めり。
そのかく好んで読む所は玉田氏著『神国由来』、「文政十年二月十六日詔」、会沢の『新論』の写本、茶山・山陽の勤王詠史等の諸詩文、分けて山陽「楠公墓下の詩」などにて、日々二子と米舂、畑うちの片手に自からこれを誦し、またその二子(松陰兄弟なり)に誦せしめたり。かくすること毎日少しも変わらず、例刻に到り米舂場の辺り田畑の畔に琅々《ろうろう》の声聞うれば、弟玉木文之進(松陰の叔父なり)常に笑って曰く、「ヤアまた兄さんのが始まった」と。
常道の勤勉なるは評判ものなり。久坂義助その家にある数月、主人を評して曰く「古今かかる勉強家なし」と。常に無用の談話を避け、松陰兄弟に向いても「話す暇があるなら本を読め」と常々戒めたり。のち仕官して家計やや豊かなるに到っても、終に魚肉を食わず、食前必らず謝礼せざれば食わず。而して貧を救い人を済える蹟すこぶる多し。
玉木文之進、常徳の二男、常道の弟、松陰の叔父。
勤倹兄に過ぎる位の男にて、経学に通じ能書なり、兵学を研究し西洋砲術を研究せり。しかし大の和流砲術熱心にて、和流は十分西洋流に敵するに足るといえり。平生水戸学派の諸書を愛読し、就中『靖献遺言』を尊奉し、毛利侯よりも「尊攘の大義を確守し……」の廉を以て賞賜を受けたり。
のち郡奉行となり、昔橘良基が五国守となりし時、その処身の秘訣を述べて「百術は一清に如かず」といえるをとりて、職に在る間「不如一清」の四字を刻したる印を用い、清廉を以て自からも期し、人にも許されたり。藩主より賞賜あれば部内の堤防に用い、貧民の肥料培養等の用に供し、種々仁政の蹟あり。前原一誠の乱、その門人にして前原に与せし者多し、自からまた官嫌を被る。玉木慚憤禁ずる能わず、屠腹して死せり。
玉木とその姪松陰の関係の深厚なるは、左の一詩を見るも知るべし。
明治辛未の三歳、吾が姪義卿身を致せしを距ること、已に十三年なり。その間風雲しばしば変わり、毎に中懐に愴然たること無き能わず。十月某日は乃ちその忌辰なり。祭りてこれに告げていう。
玉木正※
為すべからざるにおいてすら猶おかつ為す、丈夫の本領自からかくの如し。名を正し分を明らかにし心曾ち信あり、夏を尊び夷を攘うの義豈に疑がわんや。世事紛紜として慨嘆を長うす、人情浮薄にして日に推移す。知るやいなや十有三年の後、頑鈍依然として独り癡を守るを。
第三 徳川制度
彼はまた時勢の児なり、日本国に※ 醸醗酵したる大気は、遂に彼が如き人物を生じて、彼が如き事業を行わしめたり。
吾人は時勢の概括的観察を為さざるべからず。而してこれに先ちて、さらにその淵原来歴を詳かにせざるべからざるの必要を感ず。
* * * * *
人に百歳の寿なく、社会に千載の生命なし。さすがに社会的経綸の神算鬼工を施したる徳川幕府も、定命の外に出づべからず。二百年の太平は徳川幕府の賜物なり。而して徳川幕府もまたその太平のために斃るべき数を担えり。生産的進歩は、争乱の時代と并存せず、天下太平は、武備機関の制度と両立せず、今や武備機関の整頓は、その生存と両立せざる平和を齎らし来れり。而して平和は何物を齎らす。平和は富の使者なり、富は進歩せり、非常に進歩せり。而してその富はみな封建武士以外の富なりき。平和は「富の生産」を齎らすのみならず、また「富の快楽」を齎らせり。「富の快楽」を齎らすのみならず、また「富の崇拝」を齎らせり。封建武士を中心として組織したる社会、焉んぞここに到りてその中心点の傾斜せざるを得んや。
封建武士は、余所の花を傍目に眺めて暮らすの外、別に妙手段もなし。彼らの世禄は依然たり、社会の生活は、駸々乎として進歩せり。今は詮方なし、ただ借金の一あるのみ。借金の向う所天下に敵なし。堂々たる十万石以上の城持、国大名が頭を垂れて大坂商人の憐みを請うもまた気の毒ならずや。下の上に倣うさらに甚しきものあり、封建士族の窮迫は勢い止むを得ざると知るべし。看よ、徳川氏瓦解に際し、旗下の士にして、御蔵元に負債したる総高、殆んど一千万円に上りしというにあらずや。富の進歩は、武士の窮迫を意味し、窮迫は借金を意味し、借金は武士の社会における勢力の失墜を意味す。まして平和の時代における武士は、山上における船頭のみ、失火なき時の消火夫のみ、寒中の氷塊のみ、炎暑の綿衣のみ。独りその無用たるを証するのみならず、また一種不能力なる符号を帯び、何となく社会嘲笑の資料たるに過ぎざるものなくんばあらず。彼らが「腰の先鞘は、伊達には差さぬ」と高吟しつつ、大道を横行するも、社会の直覚的本能は、既に冷眼もて無用の長物たることを看破したるや知るべきのみ。いわんや二百年の太平は、彼らをして髯の生えたる御姫様たらしめたるにおいてをや。一言すれば彼らは武士の習練を去りて、武士の外貌を存したり。武士たるの実力を棄てて、武士の虚名を擁したり。封建制度は、平和を来し、平和は封建制度の凋落を来す。
かつ平和の社会における唯一の衛生法は、総ての者に向って自由競争を与うるにあり。而して封建社会は世襲の社会にして、自由競争と両立せず。試みに思え、封建の創始においては、十万石の大名は、自から十万石の実力あり、千石の侍は、自から千石の実力あり。実力と地位とは、概してその平衡を得たるに相違なく、約言すれば比例的平民主義の行われたるは、争うべからざるの事実といわざるを得ず。然れども豪傑の後必らずしも豪傑ならず、勇将の子必らずしも勇将ならず、剛健忠武、敵に背を見せざる参河武士の末、必らずしも参河武士ならず。時と倶に人は変じ、人と倶にその位地と実力とは相い逆行し、遂に全く顛倒するに到る。
今や武備機関に拠りて立ちたる封建制度が、その最も不利益なる平和の時代において、平和社会唯一の衛生法たる自由競争を禁じて、なお二百余年の生命を保ちたるは何ぞ。「株」の売買及び「寸志」その一。養子の制その二。賄賂その三。
富の勢力は槍先功名までも侵かせり。功名の記念たる、封建武士の世禄も、その末世においては、一種の様式となり、売買せらるるに到れり、今日における鉄道株券同様に。特に「寸志」とて献金さえすれば、その金高に相当するの家禄、格式を附与するの制すら出で来り、その状乃ち海防費献金を募りて位階を売るが如きものありき。ある物は皆無に優る。自由競争の余地なく、四門を閉じて籠城し、永年作り附けの封建社会においては、新分子を注入し、新要素を与うるもの、この売禄買株の管樋を通じて来るも、また已むべからざるにあらずや。
世襲制においては、養子は実に欠くべからざるものなり、苟くも相続者なくんば、家名断絶、遺族離散の恐れなくんばあらず。故にかかる場合においては、養子制は便宜の制のみならず、必然の制といわざるべからず。而してこの養子こそ動もすれば枯死せんとする封建社会に、新活力を与うる重なる要素たらざるはなし。試みに思え、封建社会において、およそ明主と称し賢君と唱えらるるもの、概してみな養子ならざるはなきを。徳川中興の主、八代将軍吉宗、徳川最後の将軍慶喜、水戸烈公、徳川時代第一の賢相松平定信、林家中興の林衡、上杉鷹山公、細川銀台公の如き、近くは井伊直弼の如き、みな養子たらざるはなし。彼らにして他の家を継がずんば、終身部屋住に止り、碌々として世の下草となり、その姓名を歴史に留むべくもあらず。乃ち知る、養子の制は、位地と実力と顛倒しつつある封建社会に向って、幾分かその平衡を恢復せしむるの、もしくは不平均を甚しからざらしむるの効用ありしを。
賄賂に到りては、その物自身既に罪悪なれば、吾人は敢てこれを嘉尚せんと欲せず。然れども四角四面、慣例格式の走りたる社会を活動せしむる槓杆を求めば、吾人は猶予なく指を賄賂に屈せずんばあらず。嘗て藤田東湖が幕府の能吏矢部駿河守との対話を記したるを見るに、曰く、
矢部余に謂て曰く、「足下は川路三左衛門に親しきよし、川路または岡本忠次郎などいえるものは元来勘定所より出身せり。勘定所は人々才力を以て出身する場合ゆえ、川路、岡本何れもその跡立派なり、某は元来三百俵の御番士よりカクまでに立身したるは才力にあらず、みな賄賂を以て致したることにて、大方の嘲りもあらんと思うなり」と語れる風情サスガに取飾なく、かつは英雄の気象ありけるゆえ、彪答えけるは、「イカにも老兄と川路らとは出処同じからざるゆえ、出身の相違もあるべく、賄賂を以て出身するは元より誉むべきことにあらざれども、ココに一つの説あり、全く自家の腴を欲し富貴逸楽を希わんとて賄賂を行うもあり、また恬憺無為にせば終身聞ゆる無きのみならず、上のために心力を尽すこともなし得ず、サラバ少く道を枉ても当路へ出、国家のために力を尽し名をも後世にあげまほしきにて、自ら進んで求むる人もあるべし、この二人は跡同じうして志異なりというべし」と申しければ、矢部も欣然として喜びけり。このこと川路がいわゆる小韓信・小寇莱といえるに的中せり。胯下の恥を忍んで天下に大功を立てんと思う心洞察すべし。
惟うにこれただ一例のみ。高材逸足の士、出頭の地を求めんと欲す、万一知己に遭う、あるいは可なり。もし遭う能わずんば、彼らは利器を抱いて、拘文死法の中に宛転たらざるべからず。賄賂こそこの時において彼らに自由を与うべけれ。蓋し自由競争禁断の社会においては、賄賂は実に自由競争の名代となる場合ありと知らずや。
この三者は積極的において、封建社会に新奇なる元気、活動、刺激を与え、消極的において、封建社会の敵たる世襲以外の智勇弁力を、封建社会に吸集して、その反抗の精神を減殺したるものなれば、封建社会の主権者は、この三者に向って、深く謝する所なかるべからず。天下太平の時において、徳川幕府を擁護したるは、参河武士の典型たる大久保彦左衛門の子孫にあらずして、むしろ賄賂もしくは養子、株の売買なりとは、すこぶる驚怪の極なれども、事実は決してこれを否定する能わざるなり。
然りといえども以上の三者は、自然の経済より発生したる封建社会の自療法に過ぎず。この自療法あるが故に封建社会の万歳を期すべきにあらず。実力あるものは千にして、養子となるものは一、出身を希うものは万にして、賄賂もしくは「株」あるいは「寸志」によりてその志を達するものは十。乃ち富の勢力が一方において封建社会を呑みつつあるに、他方においては、封建社会はその活力を失うて、既に枯死せんとす。独り活力を失うのみならず、社会の精粋は漸く封建社会の外に集り、智勇弁力は、既に封建社会の敵となり、封建社会は、その中心点を失うて、漸く傾覆せんとす。これ実に宝暦、明和の際における社会の情態なりとす。
社会の状態かくの如し、外交問題激起せざるも、到底革命は免るべからざるなり。而してさらに甚しきものあり。精神的革命の冥黙の中に成就せられつつあることこれなり。
忠義を以て社会の生命としたるは、徳川治政より始まる。その以前においては、人と人との関係は、力の関係にあらざれば、情の関係、情の関係にあらざれば、利の関係なり。さればこそ北条の尾、足利の首においては、「天皇御謀反」の新熟語も出で来りたるなれ。徳川氏に到りては、人と人とを信念の大本なる理を以て繋ぎ、忠義なる空文に大義名分てふ力ある哲理的の解釈を応用したり。従来孝を重んじて忠を軽んじたる儒教も、徳川氏の天下を取るや、その社会の情態に順応し、専ら忠を重んじ、君臣の分日星の如く明らかに、臣の君に事うるや、その情誼、もしくは利害のためのみならず。実に臣として君に事うべき神聖なる義務ありとなせり。彼の動もすれば沙上に偶語し、剣を按じてその君主に迫らんとしたる勇夫健卒も、何時の間にやら君臣の大義に支配せられ、従順なる良臣となり了れり。徳川氏の天下を治めたる文教の力与りて大ならずとせず。寧んぞ知らんや、この文教なるものは封建制度を寸断する危険なる分子をその中に含まんとは。英雄遺算あり、土蛛蜘の巨人たる家康も、かかる意外の事までは、思い及ばざりしぞ遺憾なれ。
火把を握れば、火遂にその手に及ぶ、然り、思いの外殺急に及び来れり。伯夷伝を読んで感激したる徳川光圀の如きは、劈頭の予言者にあらずや。彼れ英邁の資を以て、親藩の威望を擁し、その直截的哲理を鼓吹す、天下焉んぞ風靡せざらんや。尊王の大義は、元和偃武未だ五十年ならざるに、徳川幕府創業者の孫なる彼の口より宣伝せられぬ。
世に恐るべきは偏理的哲学者と、執迷的妄信者なり。彼らはその周囲に何の頓着する所なく、その見る所直ちにこれを語り、その語る所直ちにこれを行わんとす。彼ら自身即ち社会不調和の要素にして、彼らは如何なる時世においても、社会の治安と相容れざる厄介物なり。切言すれば彼らは革命の卵子なり。経世家は然らず、時勢を観、人情を察し、如何なる場合においても、調子外れの事を為さず。その運動予算の外に出でず。その予算成敗の外に出でず。されば彼らは恐るべき大力量あるも、殆んど恐るべき運用をなさず。故に恐るべきはビスマークにあらずして、ルーソーにあり。ハンプデンにあらずしてミルトンにあり。松平楽翁にあらずして、山崎闇斎にあり。島津斉彬にあらずして、吉田松陰にあり。彼らはその力量に比較して、動もすれば大なる出来事の張本人たり。何となればその結果に頓着せずして、その前提より奮進すればなり。いわゆる晴天に霹靂を下し、平地に波瀾を生ずるもの、実に彼らの仕業といわざるを得ず。徳川時代豈にその人なからんや。
文教を楯として天下を治めんとしたる徳川政府は、早くも文教を箭として、己に向い弓を挽くものを見出しぬ。山崎闇斎を見ずや、浅見絅斎を見ずや、竹内式部を見ずや、山県大弐を見ずや、高山彦九郎を見ずや。その他もし、浮浪、兵学家、儒者の徒についてこれを尋ねば、革命の卵は、あたかも海浜の砂礫の如くあらん。彼ら豈に物徂徠、源白石、中井竹山の如く、実際の曲折に応じて、論理を作為せんや。彼らは忠義の前提よりして遮二無二、論理的必然の結論たる尊王賤覇に到着せずんば、休せざるなり。尊王賤覇なお可なり、彼らのある者は遂に幕府を倒して、王政に復古せんと欲し、手に唾して動乱の風雲を飛ばさんと試みたるものすらありき。
偏理的哲学も、冷酷なる論理のみならば、まだしものことなれども、その一たび宗教的熱気と触るるに到りては、実に甚だ恐るべきものなからず。この時においてはあたかも酒石酸水に重曹達を投ずるが如く、忽然として沸騰し来るなり。而して徳川時代における偏理的儒教は、早くも神道と抱合し、尊王賤覇、大義名分、倒幕復古、祭政一致の理想を聯亙するに到れり。水戸の如きも光圀の当時より早くもその臭味を帯び、後世水戸派の予言者藤田東湖に到りては、「古を稽えて今に徴し本朝神聖の大道を闡明す」と叫破せり。これ豈に儒教と神道との化合したる鉄案にあらずや。もしそれ山崎闇斎が吉川流の神道を儒教に応用し、自から垂加と号したるが如き、また以てその系統の如何を察すべし。
あるいは公然儒教思想が神道化せざるまでも、その日本化したるは、相違もなき事なり。日本化の極は一種尊内卑外の感情を喚起し、後来攘夷的運動の伏線となり、大義名分は、何となく幕府に対する敵愾心の標幟の如く、今は既に冷硬なる理窟にあらず、触れば将に手を爛焼せんとする宗教的赤熱を帯び来れり。試みに思え、浅見絅斎が四尺の大刀を横え、その刀身に「赤心報国」の四字を鐫り、「予は足関東を踏まず、時ありて機を得ば、義兵を挙げて王室を佐くべし」と慷慨し、「菊水の旗、天誅これ揚がり、桜井の書世綱以て光る」と悲歌したる当時の心事を。意気堂々、幕府を呑む。彼は既に一個の儒教的哲学者の範囲よりして、革命的予言者の域に飛び進みたるものにあらずや。彼の著書『靖献遺言』の如何に徳川政府顛覆に与りて、力ありしは、その彼よりも偉大なる革命家竹内式部が罪案には、「『靖献遺言』等堂上方へ講談致し候」と特筆せられ、経世家的儒者中井竹山が山崎派を排斥して、竹内式部の事例に及び「『靖献遺言』を主張し、臂を攘げて横議し、目前の大害を引出し候」と※ 撃したるを見れば、以てその如何に大なる感化を当時に与えたるかを知るに足らん。もしそれこの書が復古的革命の気運を鼓舞したるのみならず、復古的革命家自身に向って刺激を与えたるに到りては、殆んど仏国革命のルーソーが『民約論』におけるが如きものあらん。乃ち今日において彼の西野文太郎を出し、来島恒喜を出したるものまた焉んぞ彼が熱血の余瀝ならざるを知らんや。
尊王の哲理は既に「辱なさに涙こぼるる」宗教心と一致せり。而して宗教心は人間最大の運動力たる利益心と伴随し来る。革命の精神は、さらに万斛の油を注がれたり。
如何なる場合にても「自己」は、人類運動力の中心点たり。ある者は最初に「自己」を以て運動の発足点となし、ある者は最後に「自己」を以て到着点となす。それ封建世襲の社会において、いわゆる天民の秀傑なる智勇弁力あるもの、何の地に向ってその驥足を伸べんとする。「株」を買わんか、養子に行かんか、賄賂によりて身を立てんか。これもまた限りあり。限りあるの地に向って限りなきの欲望を充たさんと欲す、そもそもまた難からずや。彼らは必らずしも名を成し功を遂ぐるの一念よりして、王政復古の急先鋒とならんとせざるべし。然れども人の無意識的に、自家の便益なる方針に向って動くは、なお鹿が渓水に向って動くが如し。人は自家の利益に向って進み、自家の禍害に背いて走る。人間運動の原則決してこれに外ならずとせば、如何なる純忠誠徳の士も決してこの原則に漏るる能わざるなり。いわんや草莽の中に蟄伏し、超世の奇才を懐き、雄気勃々として禁ずる能わざるものにおいてをや。いわゆる智略人に絶つ、独り身なきを患う。その一死を賭して、雲蒸竜変成功を万一に僥倖したる、また宜べならずや。竹内式部、山県大弐、高山彦九郎の徒則ちこれなり。
彼らの多くのものは、その新天地を文学界に求めたり。而して文学者として当世の叔孫通となりしものまた尠からず。然れどもその多くの部分は、書を読むは憂患の初めてふ真理を、我が身に実験し、家に一日の糧なくして、心に千古の憂を懐く。その『万葉』の古文辞より、王代の政刑律例に及び、『古事記』より王代歴世の史に到り、その他歌詞雑文の学より、延いていわゆる一種の神典に及ぶまで、彼らが探討講索の結果は、復古的革命を激成するの媒介たらざるはなかりき。それ海内の文章は布衣に落ち、布衣の文章は復古的、革命的思想を鼓吹す。彼らのある者は自からその然るを覚えずして然りしものあらん。荷田在満、加茂真淵、本居宣長、小沢蘆庵の徒、その標本たるなからんや。
それ正大なる道理と、神聖にして火の如き宗教的信念と、快活なる利益心と自から相い一致す。もし一人にしてかくの如くんば、一人を挙げて動くなり。一社会にしてかくの如くんば、一社会を挙げて動くなり。天下にしてかくの如くんば、天下を挙げて動くなり。革命の風雲未だ天下を動かすに足らずといえども、その智勇弁力ある封建社会の厄介物たる――小数人士の脳裡には、百万の人家簇擁して、炊烟東海の天を蔽う、堂々たる大江戸も、浅茅生る武蔵野の原に過ぎず。三百の諸侯を膝行せしめ、敢て仰ぎ見る能わざらしむる徳川征夷大将軍も、一の骸骨に過ぎず。要言すれば彼らの眼中には、幕府なし。幕府は少くとも彼らの心意的印象の裡に滅びたり。反言すれば、革命は精神的に彼らの中に成就せられたり。
かくの如く一方においては封建社会を解体せんとし、他方においては革命的気運、暗潮の如くに湧き来る。これを例えば当時の封建社会は、既にその弾力を失したる護謨枕の如し、而して空気の量は倍々《ますます》その中に膨脹し来る。勢いかくの如し、外より撞き破らざるも、早晩中よりして破裂せざるべからざるの運命に迫れり。これ実に宝暦、明和の際における天下の大勢なりとす。
則ち宝暦九年竹内式部が、山崎流の学旨を挾んで、堂上公卿に遊説し、上は後桃園天皇を動かし奉り、下は市井の豪富に結び、その隠謀暴露して、追放せられたるが如き、もしくは明和四年、王政復古、政権統一、総て革命的の気焔を煽ぎたる『柳子新論』の著者山県大弐が大不敬罪の名義によりて、死罪申附けられ、その徒藤井右門は獄門に懸けられ、竹内正庵(式部)が遠島申し附けられたるが如き、またこれ「梅一輪一輪ずつの暖かさ」にして、尊王倒幕の理想の漸く実際に活動せんとするを徴するものにあらずや。彼らはルーテルたらざるも、その先駆たるジオン・ホスたらずんばあらず。精神的革命は、一変して活劇的革命たらんとす。大勢の黙運する、それ恐るべきかな。
老いても獅子は、百獣の王たり。徳川幕府は、列祖の余威に拠り、社会の惰力は、その旧に仍りて運動を改めず。いわんや封建社会の如きは、その害多きに係わらず、また多くの利あるにおいてをや。封建社会の重なる害は、その世襲制と、割拠的とにあり。その重なる利は、その地方自治制と、国家的社会制にあり。請う、少しくその利を説かしめよ。国の本は民にありとは、封建社会において、一般に通用する格言なりき。封建政治は尚武を経とし、重農を緯としたり。封建君主の典型たる上杉鷹山公嘗てその相続者に※ 《つ》げて曰く、
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべき物にはこれなく候。
一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれなく候。
一、国家人民のために立てたる君にて、君のために立てたる国家人民にはこれなく候。
右三条御遺念有るまじく候事。
これ儒教的政論の粋を抽んでたるもの、尋常一様の封建政治の理想、必らずしもかくの如く精明なる大主義徹底したるにあらずといえども、その民情を尋酌し、民を養うを以て、政治の大本としたるは、蓋し争うべからざるものあり。封土の分割は、自然に地方自治の傾向を生じ、世襲の制は、果木を伐りて薪となし、牝鵞を殺して肉を食むの現金政治を去りて、憮恤恵養、民富みて君主富むの政治となる。かつ封土の小にして政治機関の行き届くと、その世襲的制度よりして百年の大計に着眼するとは、勢い一方においては節倹、勤勉の風を奨励し、他方においては拓山、墾海、物産を蕃殖せしめ、有無を相通ぜしめ、水道、溝渠、貯蓄等の民政を振作し、延いて鰥寡孤独を愛恤する等の自から現時の国家社会制を実践したるもの一にして足らず。固より暴君汚吏民を悩まし人を漁したるものも尠からざりしといえども、概して論ずれば徳川時代の封建政治は、我が国民に取りては、開闢以来無上の善政たることは、吾人が敢て断言する処。武士の末流、浮浪、その他少数の智勇弁力の徒が、日に徳川の天下を顛覆せんとその釁を覗う時に際して、国民の多数は、酔生夢死、封建政治に謳歌したるもまた宜べならずや。
人あるいは徳川幕府の顛倒を以て煩取苛求、万民疾苦に堪えざるが故に、始めて尊王論を籍りて、その反抗の端を発きたるものとなし、あたかも維新革命を以て仏国革命と同一視し、強いて影像的暴政を描くものありといえども、これその眼孔未だ社会の表裏に徹せざるものというべし。
然りといえども天明年間における田沼意次の執政に際しては、幕綱紐を解き、官紀紊れ、濁政民を悩ます。加うるに浅間岳の大噴火、諸国大風雨、大飢饉を以てし、庶民生を聊んぜず。将にこれ大飢饉さえも、尊王倒幕の別働隊たらんとす。「イザ叡山に紙旗押し立てん、千人の義兵あらば、竪子を倒すは眼前に在り」と高山彦九を踴躍せしめたりしは、実にこの時にありとす。徳川幕府は既にピサ倒塔の如くに傾欹せり。危機実に一髪。
もし松平定信この時に出でて、皇室を尊び、政弊を革新し、天下の重望を繋げる学者を、幕府の中心に集め、節倹励行、士風の堕落を済い、遠慮善謀、農商の生産を厚うし、万民をしてその処を得、天下をして寛政大改革に謳歌せしめざりしならば、徳川幕府の命数は、既に眉端に迫り来りしなり。
第四 鎖国的政策
寛永の鎖国令こそ千秋の遺憾なれ。もしこの事だになくは、我が国民は南洋群島より、支那、印度洋に※ 《およ》び、太平洋の両岸に、その版図を開きしものそれ幾何ぞ。
「去年は倭奴上海を劫かし、今年は繹騒姑蘇に臨む。横に双刀を飛ばし、乱りに箭を使う、城辺の野草、人血塗る」。これ明の詩人が和寇を詠じたるものにあらずや。如何に南北朝の戦乱が、我邦の武備機関を膨脹せしめ、而してその余勇は、漏らすに由なく、延いて支那辺海を擾したるよ。いわゆる和冦の異称たる胡蝶陣の名は、堂々たる大明の朝廷をして困頓せしめ、沿海の人民をして、胆肝を寒からしめたり。もし明朝顛覆の源因について求めば、和冦固よりその一なるを疑うべからず。然り、彼らが八幡の旗は、翩々《へんぺん》として貿易風に翻り、その軽舟は、黒潮の暖流に乗じて、台湾、呂宋より、安南に及び、さらにスマタラ海峡を突過して、印度洋に迫らんとす。
海賊なりとて、漫に嗤うなかれ。およそ波濤の健児たるもの、何者か海賊たらざりしものある。およそ万里の大海を開拓するもの、通商植民の先駆たるもの、何者か海賊たらざりしものある。看よ、今日における海上の大王たる英人も、またこれ海賊の子孫にあらずや。
往くものあれば、来るものあり。日本小なりといえども、沿海岸線一万五千三百里。貿易風の吹く処、黒潮暖流の寄する処、物産に富む処、黄金の多き処、気候中和にして人物侠直なる処、その葡萄牙、西班牙、和蘭、英吉利の外舶が、期せずして来りたる、固より怪しむに足らず。
千四百九十七年、葡萄牙の船将ワスコ・デ・ガマが喜望峰を廻りて印度に進みしより、葡萄牙は東洋貿易の魁となり、麻剌加を略し、支那南岸に立脚の地を求めんとし、遂に天文十年(千五百四十一年)七月風波は葡萄牙船を漂わして、豊後神宮浦に着せしめたり。爾来寛永十六年(千六百三十九年)鎖国令を布くまで、およそ九十年間、あるいは宗教の迫害、貿易の制限なきにあらざりしといえども、概して自由貿易、内地雑居の実を現わし、一方においては攻大鼓、矢叫の声、日以て夜に継ぐに際し、他方においては天に恩寵、地に平和の宗教は、日本の社会に大革命を与えたる火器と共に同時に到来し、欧洲における新教革命の反動として勃興したる「ジェスイト」派の高僧、熱信篤行の君子ザウィエールの手によりて、洗礼を受けたるもの、上は国持、城持の大名より、下は庶民に到るまで幾何なるを知らず。南蛮寺の壮観は、京都に聳え、交市場の繁昌は、堺浦をして天下の富の中心点たらしめんとす。
泰西の築城術に傚うて、天主閣を建るものあり。その工芸、医薬を応用するものあり。甚しきは自から基督教的名号を名乗り、その印章には羅馬字を用ゆるものあり。女子すら泰西の文字を学びこれに通ずる細川忠興夫人明智氏の如きあり。その物質上精神上如何に偉大なる影響を及ぼしたるかは、夢想だも及ばざらん。
彼来る、我もまた往かざるを得ず。修交、通商、航海は、期せずして各大名の手によりて、重なる商估の手によりて行われ、天文二十年には、我が邦人にして、葡萄牙国に到り客死したるものあり。天正年間においては、西海の諸侯大友、大村、有馬の徒、使を羅馬に遣わし、三年にして達し、八年にして帰るを得たり。蒲生氏郷の如きも、羅馬に使聘を通じたる前後四回に及べり。もしそれ日本人の呂宋に住するもの三千人に過ぎたりという、また以て如何に我が同胞が海外に膨脹しつつあるかを知るに足らん。
慶長年間に到りては、徳川家康、帰化英人アダムスをして百二十噸の大船を造らしめ、太平洋を横断して、墨西哥と交通せしめ、伊達政宗は、図南の鵬翼を揮わんと欲して、その臣支倉六左衛門をして、墨西哥に径して、羅馬に使せしむ。その他山田長政が威を暹羅に振いたる、天竺徳兵衛が印度に渡りたる、浜田弥兵衛が台湾にある和蘭人を挫きたる、みな元和、寛永の間にありとす。
この時において御朱印船なる貿易特許を得たるもの、西南洋に輻輳するのみならず、到る所日本の植民なきはあらざりしは、今日においても、なお髣髴として、歴史の上に痕跡を存するものなくんばあらず。
かくまでに膨脹したるものを、何故に鎖国令の下に圧窄したるぞ。当時の大勢止むべからざるものあればなり。蓋し当時の宗教なるものは、不幸にして純乎たる宗教にあらず。宗教を仮りて政略を行うものあり、政略を仮りて宗教を行うものあり。目的さえ正しければ、方便は問う所にあらずとの「ジェスイト」派の慣用手段は、不謹慎に不謹慎を増し、遂にはその目的すら教化の外に逸出し、漸く識者の厭う所となる。加うるに彼の葡萄牙、西班牙人らは、その西南諸島に加うる権詐、詭奪の手段を以て我に向わんと欲し、而して内国の人心は洶々《きょうきょう》として、動乱の禍機、動もすれば宗教を籍りて、脚下に破裂せんとす。特に封建制馭の道未だ全からず、各大名の野心あるもの、あるいは宗教を利用し、もしくは利用せられ、あるいは外邦と結托し、あるいは結托せられ、不測の変生ずるも未だ知るべからず。それ未だ知るべからず、而して早くも寛永十四年島原耶蘇教の乱において、その予測を試験せられたり。それ元和偃武以来、幾んど四半世紀、忽然として清平の天地に砲火を上げ、竪子を推して、孤城を嬰守し、赫々《かくかく》たる徳川覇府の余威を籍り、九州の大名これを合囲し、百戦老功の士これを攻め、年を改めて始めて抜くを得たり。而してこれがために教徒を殺すもの前後三十万人。それ羹に懲るものは膾を吹く。この時において鎖国令を布く、また実に止むを得ざるなり。嘗て阿媽港、呂宋を征せんと欲し、「図南の鵬翼何れの時にか奮わん、久しく待つ扶揺万里の風」と歌いたる独眼政宗も、今は「四十年前少壮の時、功名聊か復た私に期する有り。老来識らず干戈の事、ただ把る春風桃李の巵」と独語せしむるに到りぬ。平和は人をして眠らしめ、鎖国は雄心をして死せしむ。
鎖国令行われてより以来、我邦と通商するものは、僅かに支那、和蘭にして、その地方もまた長崎の猫額大の天地に限れり。彼れより来るものは、悉くこれを打払い、我より行かんとするものは、悉くこれを禁じ、その禁を侵すものは、これを遠島し、これを殺戮し、甚だしきは磔刑に処し、而してさらに五百石以上の軍船、三本檣の商船を作るを禁ず。これ鳥を籠中に封ずるのみならず、またその羽翼を殺ぐものなり。沿海一万五千三百里、今は空しく超うべからざるの天険となりぬ。さすがに波濤の健児たりし日本国民も、今は全く陸上動物となりぬ。
鎖国と共に、鎖藩の政略は、日本全州に行われ、函嶺の関所を通行するの難きは、仏人がアルサス、ローレンズを通行するの難きよりも難く、年々歳々東西南北の諸大名が、その行列供連を倶して、春鴻の去るが如く、春燕の来るが如く、参勤交代の制によりて、江戸とその領地との間を去来したるの外は、日本国内の往来交通すら殆んど自由ならざりしなり。この時において国民の膨脹性、全く枯死せざらんとするも、それ豈に得べけんや。
封建武士の思想には、鶏犬相聞う隣藩すら、相関らず。何ぞいわんや海外万里の世界をや。栄螺はその殻を以て天地となし、蓑虫はその外包を以て世界とす。封建武士の心胆は、その腰間に横う双刀の外に出でず。この時にして徳川幕府の万歳ならざらしめんと欲するも、固より能わざる所なり。
国民的観念は、相対的の観念なり。外国と触着し来りて、始めてこの観念は発揮するものなり。今や海濤を踏んで隣家の如く互いに往来したる、西南群島もしくは葡萄牙、西班牙、英吉利等は、星界よりも遠く、日に相交渉するは、その咫尺相接する隣藩のみ。されば封建武士の眼中に、日本なきは決して怪しむに足らず。彼らの国民的観念は、その一藩に関する観念のみ、彼らのいわゆる国家とは、一藩を意味するのみ。その面積を以てすれば、眇爾たる日本国も、彼らの脳中には、余りに偉大にして、遂に理想する能わざりき。如何に豆の如く小に、粟粒の如く多くの国家が、この日本に并存したるよ。もし当時封建武士脳中の国家を以て、これを対照すれば、世界における最微の国家たる、モントニーグロの如きも、決してその小に誇るべからざるなり。封建鉄網細工の成功は、日本国民をして精神的の侏儒たらしめたりき。
然りといえども識者の眼識は境遇の外に超逸す。熊沢蕃山の如き、その一人なる莫からんや。彼は跛の駝鳥なれども、なお万里の平沙を奔らんとする雄気あり。天下の民みな覇政の沢に沈酔し、一旅を以て天下を争わんとしたる幾多の猛将梟漢の子孫が、柳営の一顰一笑に殺活せられつつある際に、彼の烱眼は、早くも隣国の形勢に注げり。彼は愛親覚羅氏が絶漠より起り四百余州を席捲するの大機を洞観し、国防的経綸を画せり。彼は思えり、北狄、支那を呑む、延いて我邦に及ぶ、殷鑑蒙古にありと。彼は思えり、その来らざるを恃むなく、我が待つあるを恃むべしと。彼は思えり、食を足し、兵を足す、これ国防の主眼なりと。彼の経綸は、彼の不覊なる傲骨と共に、寂寥たる蕭寺の中に葬られたり。滔々《とうとう》たる天下は、温かなる泰平の新夢に沈睡して、呼べども覚むべしと見えざりき。
眼を転じて海外を眺れば、鄭芝竜(正保二年)は、我邦に向って、明の援兵を請いつつあるに際し、英国においては鉄漢クロンウエル虎視竜蟠し、大いに海軍を拡張し、海王の覇権をば、和蘭の手より※ 《もど》してこれを奪い、余勢の及ぶ所、西班牙の領地たる西印度のジャメイカを取り、元禄の末宝永の始めにおいては、東洋に向って漸く立脚の地を占め、一千七百〇八年(宝永五年)においては、東印度商会の設立を見るに及び、駸々乎として支那辺海に迫るの勢を養えり。而して露国は北偏の後進国たるに係らず、あたかも無人の境を行くが如く、東北亜細亜大陸に向って、その手を延ばし、その我邦において鎖国令を布きたる寛永十六年(千六百三十九年)は、あたかも彼がシベリヤの極東オコツク海岸に達したるの時にして、爾来満州を侵し、黒竜江の両岸を擾し、機に臨み変に応じ、経略止むなく、我邦における犬公方の名ある疎胆雄略の綱吉が将軍職に就きたる明年(天和二年、一千六百八十二年)に※ 《およ》んでは、彼得大帝位に即き、遠馭長駕、経略の猛志さらに百尺竿頭一歩を進め、寛保元年(千七百四十一年)においては、露国の海艦ベーリング、亜細亜・亜米利加の頸首たる海峡を捗り、白令海の名これより起れり。これ彼得大帝の宿志を成せし一端にして、爾来露国は一方においては亜米利加の西北なるアラスカを占領し、他方においては亜細亜の東北を掩有し、既にその利爪は我千島に及べり。
海外の形勢漸く迫らんとするに係らず、我邦においては、海波以外天地なく、各国の事情は漠として相い関せず。宝永六年羅馬伝教師シロテの来りて執わるるに際し、我が俊敏にして精識なる新井白石が、これと問答して異聞を記したるものを見るに、その問答の調子、何となく一致せず。彼は世界を以て家とするの大規模ある空気を呼吸し、我は日本の外日本あるを知らざる鎖国的の小籌に齷齪たる情趣、隠約の間に出没し、ために隔靴掻痒の感なき能わざらしむ。この人にしてかくの如し、その他は数うるまでもなけん。もしそれ八代将軍吉宗が、和漢の学術を奨励し、洋書の禁を緩うし、医薬、暦数、工芸、牧馬等に到るまで、海外の長を採らんとしたるが如きは、鎖国令後の一警策にして、その恩恵の及ぶ所、嘉永、安政に到りて、始めて明らかなるものありき。然れどもその鎖国の禁は、牢乎として抜くべからず、兼て通商の公許を得たる支那、和蘭さえ、その通商に供する支那船を十艘に限り、和蘭船を一艘に限るに到れり。これ銅地金の濫出を防ぐの政策にして、実に寛政二年(千七百九十年)なりとす。
かくの如く長崎の港門は、むしろ外舶に対して狭窄となりたるに係らず、我が辺海の波濤は、頻年何となく咆哮して、我が四境の内に轟けり。かくあるも道理なれ、甲比丹クックは、太平洋を航して、幾多の群島を発見せり。仏蘭西は安南に向い、その交渉の端を啓けり。露人は既に南下の勢に乗じて、樺太の半を占略せり。時勢かくの如く迫る、その黒船の影夢の如く、幻の如く、我が沿海に出没するも、また宜べならずや。而して黒船の影と共に、我が国民の脳裡に、国防的観念の湧き来るも、また宜べならずや。
籌海の大策は、林子平によりて叫破せられたり。彼は曰く、「西北諸蛮概して地を奪い疆域を拓くを以て勢とす。威力日に強く、また航海の術に長ず。然るに我が日本国たる、周囲みな海にして、およそ江戸日本橋よりして欧羅巴洲に到る、その間一水路のみ。彼れ来らんと欲せば、何時にても来るべし。備えなくんばあるべからず」と。先見の明は、奇禍を以て酬いられたり。彼は蟄居申し附けられたり、彼の『三国通覧』『海国兵談』はその板木さえも取り上げられたり。これ実に寛政四年にして、あたかも賢相松平定信の名によりて、その宣告は下されたり。
林子平と同時に、本多利明なるものあり、『西域物語』を著して曰く(寛政十年)、
日本を天下第一の最良国と成すべき法を論ずれば「カムサスカ」の土地に本都を遷し、西唐太島に大城郭を建立し、山丹、満州と交易して有無を通じ、その交易に金銀を用いず品物同士の遣取なれば、多寡は入用に任すべし。然らば下民は救を蒙り上の大利とならん。その大益俗諺の如く、両の手に美き物を得たるものというべし。ただ今までは山丹人毎年一次ずつ小船にて二、三艘ずつ唐太島の南縁に副う所に在る島の西端「ソウヤ」という所へ渡来して土人と交易をするなり。その品物の内十徳(俗に蝦夷錦という、満州の官服なり)、青玉(俗に虫の巣という、満州の産)その外あり。日本より遣す物は鍋および鉄類、海山獣の皮類なり。日本にてはこの土地を詳かにせず、西北の地端は山丹に続きたりともいい、大河ありて切れあるともいう。「カムサスカ」とこの土地とに大都会出来すれば、その勢に乗じ「カムサスカ」より南洋の諸島も開け、「アメリカ」所属の島々までも自ら属し従い、勢い具足の日本島となるべきなり。
日本の国号を「カムサスカ」の土地に移し、今の日本を古日本と改号し、「カムサスカ」に仮館をすえ、貴賤の内より大器英才ありて徳と能と兼備の人を撰挙し、郡県に任じ開業に丹精をなさしむるにおいては、年を経て追々繁栄を添え、終に世界第一の大良国となるべき事。
ただ今の時勢人情にては、遠国へ渡海して数多の国々を検査し、内善悪を撰び開業に掛ることは、日本国の人情においていまだ萌さず。その智を誘い出す発端なければ、いつまでもその期あるべからず。東南西の三方、皆これ新日本「カムサスカ」に属し従うべき国々島々のみなれば、今においてこの企ありて西洋人の大業を興せし手段により和蘭陀開祖の心取に因りて国業を興すにおいては、永く不動の大国とならんこと相違あるまじ。然るときは英雄も豪傑も国中より躍出で国家の御用に立つべし。くれぐれもこの企てこそあらまほしき限りなれ。
これ実に破天荒の卓識といわざるを得ず。然れども彼の卓識も、桃太郎鬼が島征伐の昔噺の如く、何人も真面目にこれを聞くものなきぞ遺憾なる。
然れども「取留もなき風説、もしくは推察を以て、異国より日本を襲う事これあるべき趣、奇怪の異説等取交え著述す」の議を以て林子平を罪したる松平定信も、国防にはすこぶる苦慮焦心したりと見え、嘗て黒船の図に題して曰く、
この船のよるてふ事を夢の間も
忘れぬは世のたからなりけり
と。而して彼は自から江戸の咽吭たる豆相、房総沿岸を巡検したり。而して遂に彼の発議により、寛永打払令を修正して、外舶の来るものにはその来意を質し、漂流船には、薪水食料を供して立ち退かしむるの融通法を設けたり。これ実に寛永以来の一大変局といわざるを得ず。而してこの変局を促したるもの、また辺海の形勢日に急なるにこれ帰せずんばあらず。
我邦識者の国防的観念に、一大刺激を与えたるもの、実に露国の北辺を侵擾したるに拠る。蓋し露国の警を報じたるは、明和八年(千七百七十一年)露国西比利亜の流竄者、波蘭人アウスより創る。然れども太平の酔客は、霜天の晨鐘に目を醒すを欲せず。延いて寛政五年露船松前に来り、我が漂民を護送して通商を請う。幕府これを斥く。而して従来虚説なりとして顧りみざりし露国南下の実情も、この漂民の談話によりて詳かにするを得。今は蝦夷をも幕府の直轄に帰し、頻りに防禦に余念なきも、さりとて名策あるにあらず。ただ一時応変の彌縫策に過ぎず。みすみすかくの如き江山挙げて人に附するぞ口惜しけれ。越えて寛政十年露船蝦夷に到り、文化元年露国使節レザノット長崎に来り、互市を請う、許さず。遂に文化三年(千八百六年)より四年に亙り、露人来りて樺太及び蝦夷を椋めぬ。
而して我邦においても、近藤守重は(寛政十年)、択捉島に渡り、大日本国領の標柱を建て、間宮林蔵は(文化五年)、樺太を探験し、独身満州に入り、黒竜江畔の形勢を按じて帰り、平山行蔵は自から征北軍の先鋒となり、死を北海に致さんと欲し、幕府に上書して曰く、「一日の苟安は、数百年の大患なり、今ま徒に姑息以て処せば、その我を軽侮するもの、豈に独り露人のみならん。四方の外夷、我に意あるもの、踵を接して起らん」と。蓋し彼は蝦夷総督川尻筑後守と相謀り、カムサッカを襲い、直ちに露人立脚の地を奪わんと欲したるなり。壮志蹉※ 行われずといえども、護国的精神、敵愾的気象は、沸々として時勢の児の血管中に煮え騰れり。
かくの如く一方においては、露国の警急なると共に、他方においては英船文化五年(千八百〇八年)長崎に入り、港内を剽掠し、ために長崎奉行松平康英をして、自殺してその機宜を失するの責を幕府に謝せしめたりき。されば幕府は奥羽諸藩を催して、函館を護らしめ、西国諸大名に令して長崎を警せしめ、文化七年においては、松平定信は、松平容衆と共に房総海岸の防禦を命ぜられ、ために東京湾の砲台を築かしめ、人心も何となく洶々《きょうきょう》たらんばかりの有様とはなりぬ。蒔くものは、穫らざるべからず。今や徳川幕府も、二百年来の悪因果たる鎖国の苦がき経験を嘗めねばならぬ時とはなれり。
国外の警報は、直ちに対外の思想を誘起し、対外の思想は、直ちに国民的精神を発揮し、国民的精神は、直ちに国民的統一を鼓吹す。国民的統一と、封建割拠とは、決して両立するを容さず。それ外国てふ思想は、日本国てふ観念を生ず。日本国てふ観念の生ずる日は、これ各藩てふ観念の滅ぶる日なり。各藩てふ観念の滅ぶ日は、これ封建社会顛覆の日なり。果して然らば歴史の眼中には、既に明治四年の廃藩置県を、寛政、文化の時代に予想したるや知るべきのみ。文化よりして文政、文政よりして天保、天保よりして嘉永、安政、これ実に円石を万峰の上より転ずるなり。
第五 天保時代
異なるかなこの子、七書をして六経と光を争わしめんとすと。これ松陰が十一歳の頃、長門侯毛利慶親の前に、『武教全書』を進講したるに際し、侯が嘆賞せし語にあらずや。彼は出でて吉田氏を続ぐ、吉田氏は、世々《よよ》山鹿流の兵家にして、韜※ 《とうけん》は則ち彼の家学なり。蛇は一寸にして人を呑むの気象あり。如何に当今の時勢は、この英発秀鋭なる小童の眼孔に影じたるよ。吾人をして少しく語らしめよ。
内潰外逼の危機は、日一日より近づけり。天保十一年は如何なる歳ぞ。かつその前後の年代を顧りみ見よ。
一時人目を聳動したる寛政の改革も、今は全く荒廃せり。幕府は財政に窮乏し、随って窮乏すれば、随って金銀吹換に托して、悪性の貨幣を鋳造し、これを鋳造するに随い、物価騰貴し、小民を疚しめたり。天保五年の正月においては、米百俵に附き百四十五両余の相庭となり、餓※ 《がひょう》路に満つの状ありき。「黄金太だ重く天下軽し」、小民怨嗟の声は、貴人の綺筵に達せず。武門の繁昌も、今やその極度に達し、将軍家斉は、源頼朝すら、足利尊氏すら、もしくは乃祖徳川家康すら、その例なかりし太政大臣の極爵を、生れながら軍職と共に併せ帯び、豪奢度なく、而して下の上に倣う、さらに甚しきものあり。三百諸侯みな幕府の豪奢を模範とし、各藩留守居の如きは、一椀十両の料理を喫するに到るものあり。この時において倹約の触書を出し、強いて一般人民をして質素の生活をなさしめんと欲するも、それ豈に得べけんや。当時しばしば田畑に甘蔗を植るを制止するの令あり、また以て砂糖の需用の、大いに増加したるを知るべし。平和の味は、砂糖の味なり。砂糖の需用は、生活の度と正比例す。また以て封建社会が富のために併呑せられつつあるを察するに足らん。
この時において彼の智勇弁力の徒、焉くに在るかな。軽慓、狠険、篤信の小吏大塩平八が、天保八年の饑饉に乗じ、名を湯武の放伐に籍り、その一味を率い、火を放ちて大坂城を乗り取らんとしたるが如きは、実にその消息の一端を漏らしたるものなりといわざるべからず。当時の詩人が「清平に事あり、これ天警」と歌いたる、固より宜べなり。もしそれその機会あらしめば、弓を挽いて徳川幕府に向わんとするもの、豈にただ一の大塩のみならんや。太平の沢を被るものは、固より太平に沈酔す。然れども彼れ凌雲衝天の猛志を抱き、空しく格式門閥のために、その自由の余地を束縛せられ、社会の鈍調に懶殺せられんとするもの、焉んぞ太平に謳歌するを得んや。苟くも動乱の機さえ来らば、彼らは何時にてもこれを攫むを辞せざるなり。
かつ眼を外に転ぜしめよ。
文化初年来、北地頻りに警報あらざるなし。その八年においては、南部の戍兵露人八人を擒にして、これを松前に送り、その九年においては、露船高田屋嘉兵衛を擒にして去る。同十年に到り、彼を送還し、かつ先年来樺太、択捉を擾せしは、露国政府の意にあらざるを告げ、かつ八人の俘虜を還さんことを請う。依ってこれを許し、さらに文化十一年に到りて、択捉以南を我地となし、中間にウルップ島を置き、シモシリ以北を露領となし、事暫らく平ぐを得たり。然れども北地の警これがために、聊か緩なるも、辺海の黒船は、天魔の如く、我が四境を覗えり。今その一、二を挙げんに、文化十四年英船浦賀湾に入る。文政元年英船再び浦賀湾に入る。同七年五月英人常陸大津浜に上陸するもの十二人。七月同じく薩州宝島に上陸し、野牛を奪い去る。辺海漸く多事、幕府将に奔命に疲れんとす。ここにおいて天文方高橋作左衛門は説をなして曰く、黒船の沿海に出没するは、概して捕鯨船にして、その寄港し上陸するものは、我が寛政令の好意を恃めばなり。速かに寛永打払令の旧に復せば、また何ぞ黒船の憂あらんやと。外事に※ 々《かいかい》として、一日の苟安を偸取せんとする幕府は、ここにおいて異国船を二念なく打払うの令を布けり。時に文政八年二月なりとす。
然りといえどもこの打払令の外船における効用は、あたかも潮に向って退去令を下したるの効用と殊ならず。退去令を下したればとて、進潮は乍ち退去するものにあらず。打払令、外国の来迫に対して何かあらん。天保二年には、異船(露人?)東蝦夷を侵せり、同八年には、英船浦賀湾に入れり。而して英船モリソン号江戸に入らんとする警報は、和蘭の風説書によりて、漸く烱眼卓識なる士人の間に流布し、これがために渡辺登の『慎機論』、高野長英の『夢物語』出で来り。漢蘭学党の争いは、延いて奇禍を二人に及ぼし、天保十年において、彼らは各その刑に処せられたりき。蓋し八代将軍吉宗蘭書の禁緩んで以来、我邦蘭書を講ずるもの漸く増加し、安永、天明よりして、寛政、文化に及び、杉田、前野、大槻の徒、相接して出で、蛮社の名漸く高く、彼らの崇論高議漸く天下の注意を惹けり。渡辺、高野の徒は則ちその余流を酌みたるなり。
かくの如く一方においては、志士の口を箝して、強いて無事を装わんとするに際し、他方においては、海外の形勢いよいよ切迫となり、一衣帯水を隔てたる清国は、今や英国と事を生じ、天保十年(千八百三十九年)には林則徐阿片二万函を焼き、その明年に及んで英清の戦争となり、同天保十三年(千八百四十二年)においては、英兵上海を抜き南京に逼り、遂に清国よりして償金二千百万弗を出し、これに加うるに香港の地を割き、さらに五港を開き、以て南京条約を締結せり。正にこれ百万の妖鯨濤を蹴りて飛ぶ。英国が戦勝の威に乗じて、我邦に来り逼るは、特に識者を待ってこれを知らざるなり。
さらに太平洋の向岸を眺れば、北米合衆国の内政漸く緒に就き、その文化は中部よりして西南に波及し、弘化二年においては、米船浦賀に至り、同三年米国軍艦浦賀に入りて互市を請う。その同年(千八百四十六年)米国は南墨西哥を攻め、その明年西部カリホルニヤにおいて、金鉱を発見す。西漸の勢日一日よりも急なり。この時においてその余力の延いて我に及ぶ、何ぞ必らずしも和蘭王の忠告を竢たんや。いわんや六千年来の新発明たる海上飛行器械――蒸汽船は、今や既に彼らの利器となりたるにおいてをや。かくて和蘭王は、昔年の交誼よりして、弘化元年使節を遣わし、世界の大勢を詳かにし、鎖国の長計にあらざるを説き、和親通交の止むべからざるを告げたりき。而して我は何を以てこれに答えたる。曰く、祖宗の法、変ずべからず。和親通交は、祖宗の禁ずる所なり。故に決して許す能わざるなり。
松陰は則ちかかる社会の大気中に生長したりき、彼は実に動乱の児といわざるを得ず。
第六 水野越前守の改革
内潰外逼の趨勢は、遂に徳川幕府において、天保の改革を喚起せしめたり。天保の改革は則ち水野忠邦の改革なり。彼は何人ぞ、彼は何事を做せしぞ。
彼は責任を知る晁錯なり、無学なる(比較的に)王安石なり。彼は文化十二年寺社奉行となり、爾来大坂城代となり、京都所司代となり、西丸老中となり、遂に天保五年本丸老中となる。彼が政治的経歴およそ二十年、而してこの二十年は、家斉将軍下半期の治世にして、文恬武煕、幕政の荒廃既に絶頂に達したるの日なり。されば彼は内外の政務に精通したると同時に、幕府の衰因の深かつ遠にして、到底大切断の作用を藉らざれば、これを救済するの道なきを熟知したり。彼はあくまで逞ましき野心を有せり、彼の二十年来大いに為す所なきは、為さんと欲するの機会を待ちたるなり。
今やその時は来れり、天保十二年前将軍家斉は死せり。将軍家慶は、漸くその政を親からするを得たり。彼が家慶における関係は、あたかもチルゴーが路易十六世におけるが如き関係なりし。「真個に人民を愛するものは、朕とチルゴーあるのみ」との言葉は、殆んど家慶と忠邦との間にも、繰り返されたり。彼が君の信任を得ること、かくの如く専らなりき。故に彼は短刀単入、その積弊の中心に向って打撃を加えたり。
破産せず、増税せず、借金せずとは、これチルゴーが路易十六世朝の財政に処せる綱領にあらずや。彼が政綱もまた然り、彼は倹約を以て、唯一の政綱となし、これを実行するにおいては、殆んど幕府の全力を賭するをも、自個の生命を擲つも敢て顧慮せざりき。幕府の治世二百六十年、何の時か倹約令を聞かざらんや。ただ天保の倹約令に至りては、太平の社会を震動せしめ、半世紀後の今日において、白頭の父老これを語りて唇角の微顫あるを覚えしめたるは何ぞ。彼が令する所、彼これを行えばなり、彼これを行うのみならず、彼はこれを行わしむるなり。彼は自から信ずるの篤きのみならず、その執着力の強靭果鋭なるにおいては、王安石もまた三舎を避くる程なりき。
一令は一令より繁く下れり、天下の民は、雷鳴を聞くのみならず、閃々《せんせん》たる電光を見たり。閃電を見るのみならず、落雷に撃たれたり。彼は前将軍の死後五月を経ざるに、その寵臣林肥後守、水野美濃守、美濃部筑前守、中野碩翁等を宮廷より一掃し去れり。中にも彼が仕途は水野美濃守の因※ 《いんいん》によりしに係らず、彼は大義親を滅すの理に拠り、彼をすら斥けたりき。寵臣去りて群小の肝胆寒し。これよりして彼の改革は筍皮を剥ぐが如く、層一層緊切になり来れり。彼の手は将軍内廷の小刀庖丁より、幕閣日用の紙にまで、妖僧の品行より俳優の贅沢にまで、婦女子の髪飾より、食膳の野菜にまで、小童の凧の彩色より、雲助の花繍まで、およそ社会生活の事、上は将軍より下は乞食に到る、一として彼の干渉を被らざるものあらざりき。
彼は倹約令を布くのみならず、倹約の敵たる淫蕩奢侈の風俗を矯正せんと欲せり。彼は男娼を禁ぜり、彼は隠売淫を禁ぜり、彼は各売淫所を撤して、これを市外の一所に遷せり。彼は市中に散在する劇場を移して、これをその片隅に集めたり。彼は鄙猥なる戯作本を禁じて、その著作者を罪せり。彼はドラコの酷腕を以て、ライコルガスの理想を実行せんと欲せり。彼は何故にかくの如きことをなせしや。彼は自から曰く、「宿※ 《しゅくあ》の胸腹に凝滞仕り、一円快愈の兆これ無きの姿に付き、一旦烏頭、大黄の激剤相施し申さず候えば、迚も功験得難く候」と。当時の社会は、果してかくの如く宿※ 《しゅくあ》に取り附かれたるか、曰く、然り。
諸侯は何事をなせしか。
今の諸侯に財足れるものなし。昇平百年にして奢侈習となり、費用古に十倍せり。窮せざることを欲すとも得べからず。終には大坂の商賈鴻の池、加島屋、辰巳屋などいえるものどもに借財して一時の乏しきを救うといえども、またその利息返償に一層の苦を増し、終に窮迫、せんかた尽きて、家中の禄をかりあげ、紙金の通用鋳銭などにて欠を補うに至る。その策尤も拙く、銭多ければ賤しく、紙金を造れば他邦に通ぜず、正金出でて再び帰らず。いよいよ乏しくますます窮す。今に至りて謀ごといかんともすべからず。ただ讃岐の高松侯僅かに富みたまうとのことにて、近時金七万両を幕府に献じ、大いに賞せらるなどいえりしが、これもまた乏しきを告げたりと聞く。世に民の窮して家屋敷をひさぎて去るを売すえという。近頃大名の売すえも出でたりといえり。高七万石ほどの諸侯なるが、公辺は養子と称し、壮年にて隠居し家督を伝え、家財、封禄、家士に至るまで三千金にかえて、己は外邸に潜み居るあり。父子の礼もなかるべし。たとえ売る君ありとも売らする臣はあるまじきに、上下これを以て安んずることいかなることにやあらん。君君たらず臣臣たらずというべし。(『江戸見分二録』)
武士は何事をなせしか。
百有余歳以前の武士、大名、高家といわるるも、みな干戈を枕とし甲冑を寝巻にし、寒夜も山野に起臥し暑日も道路に奔走し、酒肴に飽くこともなく朝夕雑飯に糠汁にてくらし、一生身体を労苦し、はては畳の上の死希なり。不幸とやいわん、不便とや申すべき。されども五倫の道筋も相応に心掛けて、君臣父子の理りも違えざるはありがたきことならずや。今は主君と先祖の恩恵にて飽食暖衣し、妻子に驕り家人を責つかい、栄耀にくらし、槍刀はさびも拭わず、具足は土用干に一度見るばかり。刀脇差も有用の物ともおもわずや、かざりの美、異風の拵のみを物数寄無益の費に金銀を捨て、衣服も今様を好み妻子にも華美風流を飾らせ、遊山、翫水、芝居見に公禄を費し、百姓をせめはたり取揚げ、借金方へは不沙汰をし、次第次第にすり切れ、はては妻子も育くまれず家人も養われざる輩多し。家禄はありながらかくなり行は、穀潰しとも知行盗ともいうべし。(『太平絵詞』)
商人は何事をなせしか。
ある商人の書画を好みて玩ぶものありしが、その購入する所を聞くに、金岡が観音の像一幀代価千両なり。徽宗の桃に鳩の絵僅かに長さ五、六寸に広さ六、七寸なる小幅が同じく千両なり。その外馬遠の対幅が五百両、牧渓が一幀五百両なり。その他もこれに準ず。また茶器を買入るるものあり(銘は知らず)、茶盒千五百両、南蛮縄簾の水指三百両、祥瑞の香盒二百両なり。また古銭を愛するものありしが、半両一枚を六百両に買入る。その外一枚五十両、百両、二百両、三百両などいうは数品ありしとなり。これらはみな大名旗本より町人に売り払いしものなりという。
またある富商は常に野菜の走りを賞味することを好むものなるが、親しく出入する人その価附を見しに、隠元豆の初めて市場に出でしというが一把二十本にて代金二分、同じく茄子の鴫焼が代金七両とあるに舌を巻きて驚き、昔の一食に万銭を費せしというもこれには過ぎじといいしなり。その他なお商家の豪奢を尽したる例甚だ多く、就中外妾を蓄うること商人に最も多くして、手代の輩に至るまで窃に養わざるものなしという。かく分外の奢侈は札差または御用達商人の輩に多しといえり。
社会の情勢かくの如し。彼が改革の峻急酷烈なりしも、また宜べならずや。彼は封建社会の解体の、滔々《とうとう》として止むべからざるを見たり、彼は社会の中心点の欹傾するを見たり、彼は徳川幕府の命数の危きを見たり。而してさらに外患の眉端に迫るを見たり。この内自から潰解せんとする社会を率い、如何にして、猛然として来り迫る外患に応ずるを得んや。知るべし、彼の改革の十中の七、八は、外交の刺激、否なむしろ外患の予測より来りしものなるを。彼が改革の失敗したるは、彼が余り烱眼家たりし罪に坐するのみ。
百五十年前熊沢の国防論は、今や端なくも彼の手によりて実行せられたり。惰風を鞭ち、汚俗を矯め、士気ここに揚り、国用ここに富み、潰敗せんとする社会を整理統一し、以て将に来らんとする外艱に備うるは、彼が改革の第一主眼なりき。されば彼は高島秋帆を江戸に召して、砲術を演ぜしめ、これを旗本及び諸侯の士に伝習するを公許し、天保十三年七月においては、さらに文政打払令を取り消し、異国船来着の砌りは、来意を質し、薪水食料を給すべきを令し、親藩の随一なる水戸烈公と結び、着々改革の歩を進めたり。即ち烈公が梵鐘を毀ちて大砲を鋳りたるも、甲冑にて追鳥狩を企てたるも、みなこの同時なりとす。
改革は一瀉千里の勢を以て進めり。総ての障碍を打破りて進めり。抵抗者は罰せられ、異論者は斥けられ、不熱心者は遠ざけらる。彼の同僚は、彼の威勢に圧せられて唯々《いい》たり、彼の下僚は、彼の意を迎合して倉皇たり、天下の民心は、彼が手剛き仕打に聳動せられて愕然たり。彼は騎虎の勢に乗じて、印幡沼の開鑿に着手せり。これ万一敵艦江戸湾を扼する時に際し、常総、両野の米を、江戸に廻送するの用に供せんがためなり。彼はさらに江戸、大坂十里四方を上知せしめて、以て幕府の直轄に帰し、以て万一の変に備えんと欲せり。彼はこれに加うるに各地に散在する諸侯及び旗本の飛地を一処に纏め、以て武備機関の統制を整調せんと欲せり。而してこれらの上知は悉く彼らの高免地を以て、幕府の薄免地に交換すべしと命ぜり。諸侯及び旗下を損じて幕府を利す、理において当らざるが如し。然れども彼は国家の変に応ずるには、財用を裕にせざるべからざるを看取したり。その両都十里四方を幕府に直轄すべしといい、諸侯及び旗下の飛地を取り纏むべしというが如き、国民的統一の精神は、彼が傍若無人の経綸によりて予測せられたり。
宮廷の隠謀は、閣僚の隠謀と相結べり。彼はチュルゴーの去るが如くに去れり。チュルゴーの在職およそ二十箇月、彼の改革の発端より当時に至る――天保十二年五月より同十四年閏九月――二年四箇月なりとす。チュルゴーの去るや、その友曰く、「卿の改革は余りに火急なりし」と。チュルゴー曰く、「汝はその火急を咎む、然れども余が血筋は五十以前概して癆を病んで死するを知らずや」と。もし忠邦をして答えしめば、将にいうべし、「内外の積弊駸々乎として禦ぐべからず、一日の猶予は則ち一日の大患なりと知らずや」と。
彼は何故に失敗したるか、その資望もしくは施設の人意に慊たらざるものもあるべし。試みに寛政度の改革家松平越中守を以て、彼に比すれば、一は親藩の位地より出で、他は譜代の小諸侯より出づ。一は田沼濁政の後を承け、天下の民みな一新の政を望むの時に際し、他は文恭公太平の余沢に沈酔したるに際す。一は天下の衆望によりて抽んでられ、他は寵臣の※ 縁によりて薦む。一はその同僚に羽翼の忠友多く、他はその同僚に敵心を挾み、然らざるも冷淡なるもの概してこれ。一はその下僚の温良にして民に近き能吏多く、他は精刻苛佻、動もすれば訐以て直となし、察以て明となす酷吏多し。一はその倹約政策消極的にして、着実謹厳に天下の人心を服せんと欲し、他は動もすれば積極的に進み、放胆鋭利、むしろ人心を聳動せしめざらんことをこれ恐るるものの如く、即ち一は村落に貯蓄金を設け、市町に町会所を建て、積金をなさしめ、小民を安堵せしむるが如き、漸進の保険策を採り、他は菱樽十担問屋の専売権を剥ぎ、富豪の驩心を損ずるを顧みず、極めて急進突飛の手腕を揮い、一は常識円満、群小を包容する韓魏公に類し、他は理のある所、勢を顧りみず、勢の存する所、情を顧りみざる王安石に近し。
もしそれ寛政の弊風、天保に及んでいよいよ増長し、而してこの増長したる弊風をば根本より咄嗟の間に抜き去らんとしたるは、自から力を量らざるとはいえ、むしろ水野において多しとするに足るものなくんばあらず。いわんや天保の改革は、寛政の改革を再演したるに過ぎざるも、その大本において、大いに同じからざるものあるをや。寛政の改革は、内弊に余儀なくせられて出で来れり。天保の改革は、外患を予測して出で来れり。近きものは人みなこれを知る、遠きものは人みなこれを知らず。既然は衆みなこれを察す、未来は衆みなこれを察せず。吾人は天保の改革の甚だ難きを知る。松平定信出で来るもあるいは難きを知る。看よ、彼が寛政の改革すら、宮廷の隠謀は彼をして中途に去らしめたるにあらずや。吾人は水野の失敗を咎めずして、むしろ彼の苦衷を了するの禁ずる能はざるを覚う。
然らば則ち彼が失敗したる所以のもの知るべきのみ。彼の改革に同情を表するものは、彼と呼吸相通ぜざる社会中心の外にあり。彼の左右前後、みな彼の敵ならざるはなし。積弊の存するは、彼らが便益の存する所。彼らに向って改革の味方たらんことを望むは、屠児に向って悉く献身的の天人たらんことを望むなり。蓋し如何なる場合にても、改革は内より成就する能わず、もし万一内より成就する所あらば、必らず外の勢援あるに拠る、外より圧迫するに拠る。彼が将来の外患を予測して、沈酔の社会を鞭撻せんとす、その怨府となるまた宜べならずや。
いわんや封建社会の活火は、自家の築きし竈において、漸く消燼して、今や僅かに半温半冷の死灰を止めんとす。この時において薪を加えずして火を吹かんとす、これ火を吹くにあらず、死灰を雨らすなり。疲馬に鉄鞭を加えて、以て快奔せしめんと欲す、これ快奔せしむるにあらず、これ疲馬を殺すなり。
〔註〕左に掲ぐるは、天保十二年十二月二十六日、江戸町奉行遠山左衛門尉役宅へ、商人を呼出し、諭達したる文なり。
諸商人共へ
その方ども呼出したるは、叱るでなし吟味致すでなし。兼て存じ居るであろうが、士農工商の事だ。士は身命を捨てて奉公を致す故にそれぞれ禄を貰い、農は粗服を用い粗食を喰い汗を流し耕作を※ 《かせ》ぎ、工はその職を骨折り、商人は御静謐の御代どもに正路の働きにて、辱くも御国恩を忘れざるよう致すべきの処、中には寐ていながら多分の利欲を貪る事を相考え候者もこれ有るよう相聞え、以ての外の事なり。士農工はそれぞれの勤め方これ有り。乱世には士は命を的にして働き、農は汗を流し耕作を※ 《かせ》ぎ歩役を勤め、工はそれぞれ加役に用いられ、商人は武具の外に調うる物なく、その時に至りて渡世なく如何よう致し候心得か。商物は調うる者もこれ有れども、払いを致す者もなく御政道もなく、押領致しても制止も届兼ね難渋致し申すべし。それゆえ商人はわけて泰平の御国恩を有難く相心得、追々触出し候趣を相守り、正路にして質素倹約を致すべく候処、だんだん御国恩を忘れ奢侈に移り衣食の分限を弁えず、三百目、五百目の品を相用い、あるいは結構なる新織新形など無益の手間を掛け候者を拵え、輪なき紋八ツ藤その外高家の装束の紋柄を手拭にまで染出し、湯に入り前尻をぬぐい、七、八十文にて事足るものまでも心を込め、小道具など色々の細工物に金銀を費し高価の品を作り、革なども武具の縅しにも致すべきものを木履の鼻緒に致し、以ての外の事、沓は新しくとも冠りにはならずと申すなり。紙入、莨入などに細工を込め、そのほかの品にも右に准じ、金襴モールの類に至るまで異風を好み、その分限を弁えず、ゼイタク屋などと家号を唱え候者これ有るよう相聞え、次に食物商人の者へ申し聞け置く。高四文、八文の鮓もいつの頃にか弐拾文、三十文に相成り、中には殊の外高価の食物を好み身の分限を弁えず、スッポン壱枚壱分位を喰いても飽かず、また弐分のを喰いても飽かずだんだん増長を致し、スッポンが鮪か鰯のように沢山にあらば賞味もせまい。そのようなる事をいたしおりてもつまりは時節が悪いなどと申し腰掛へ多分罷出で、上へ御苦労相掛け候者これ有り。時節悪しきにてはなし、分限を忘るる故諸色高直に相成るなり。これより上の御制度を相守り正路に家業を致すを御国恩を思うと申す者なり。神仏を念じても国恩を知らざれば役にはたたぬ。町人は粗食にて能きものなり。士は絹布を用いるが順道なり。随分と粗物を用い、しかし綴れを着よとは申さず。富家の主人は主人だけの内端を用い、召仕は召仕だけの内端を心得、寛政度触出し置き候通り相心得、風俗を昔に返せと申す事だ。娘子供など髪飾り衣類などに花美異風の拵えこれ無きよう相心得、若きものにはその親支配人どもより急度申渡せ。奢侈の風俗を質素に直せと申すのだ。次に祝いなどに花美の事を致し互に音物に気を張り、壱歩の物を遣ればまた弐歩の物を遣わす、追々の奢侈に募ると申すのだ。高価のものの売買も当丑年限り停止触出し置きたれば、残りたる物は年内最早三日に相成り、形を替えるか、崩すとも仕舞切にいたすとも、来る寅年元朝よりは急度停止申渡す。もしこののち大名方婚礼などこれ有り、高金のあつらい物これ有れども、伺の上調達致すべし。大名も百万石もあり壱万石もあり差別を心得、これより万事正路質素に相心得、譬え木綿たりとも花美高価のものを取扱い致すまじく、相背く者これ有るにおいては不便ながら政事には替え難く、急度申渡す。この旨心得よ、下がれ。
〔註〕天保、弘化度、社会生活の一斑は、左に掲ぐる、当時の記録によりてその一斑を察すべし。
農夫一人婦一人劇しき時に日雇一人にて田一町を耕す。種一斛蒔きて穀四十斛ばかりを穫べし。摺りて米二十斛も有るべし。御年貢諸掛り五斛ばかりを納めて、残り十五斛ばかりも有るべし。その内五斛は田の主へ納め、全く十斛ばかりが作得なり。また畑五段ばかりを耕し大根二万五千根を得べし(一段五千根の積り)。売りて百三十五貫文ばかりになる(一根五文二分の積り)。この内糞の価五十貫江戸へ船賃二両二分運賃四十貫を引き、全く二十八貫七百五十文が得分なり。ただしこの五段の内三段へ麦を作り六斛ばかりも得べし。御年貢三貫文も上納して、二十五貫七百五十文(金四両ばかりとす)と米十斛麦六斛を一夫一婦一年の辛苦料と知るべし。この内夫婦の食麦三斛六斗米一斛余を引き、また日雇の扶持麦一斛八斗米五斗を引き、正月餅などの米三斗余と種穀一斛を引き、また子女あればその食料一人に九斗ばかりと積り、また親属故旧の会食二斗を引けば、米七斛二斗を残す。金七両余に充つべし。畑の得分と合せ十一、二両に過ぎず。塩、茶、油紙の費二両ばかり、農具の価家具の料二両ばかり、薪炭等壱両余、夫婦衣服子女の料ともまた一両二分余、春を迎え歳を送り魂祭り年忌仏事の入用二両余、日雇賃一両二分余、親属故旧の音信贈遺一両ばかり、すべて十一両余を引き、残る所二、三分に足らず。故に風寒暑湿に侵され一、二月も怠惰する時は、収穫に損ありて医薬の価に充つるに足らず、何を以て他に費す余力を得べけんやという。これにて農夫の辛苦を知るべし。
大工は一日工料四匁二分飯米料一匁二分をうく。ただし一年三百五十四日の内、正月節句風雨の阻などにて六十日も休むとして、二百九十四日に銀一貫五百八十七匁六分なり。夫婦に小児一人の飯米三斛五斗四升、この代銀三百五十四匁、店賃百弐拾匁、塩、醤油、味噌、油、薪炭代銀七百目(一日銀一匁九分余)、道具家具の代百二十匁、衣服の価百二十目、親属故旧の音信祭礼仏事等に百匁程、都合一貫五百十四匁ばかりを費して、僅かに七十三匁六分を余せり。もし子二人あるかまた外に厄介あれば、終歳の工料を尽して以て供給に足らず、何の有余を得て酒色に耽楽する事を得んと。これ工匠の労と産とを勘え知るべき大略なり。
菜籠を担って晨朝に銭六、七百を携え、蔓菁、大根、蓮根、芋を買い、我力の限り肩の痛むも屑ともせず、脚に信せて巷を声ふり立て、かぶらめせ、大根はいかに、蓮も候、芋やいも、と呼ばわりて、日の足もはや西に傾く頃家に還るを見れば、菜籠に一摘ばかり残れるは明朝の晨炊の儲なるべし。
家には妻いぎたなく昼寐の夢まだ覚めやらず、懐にも背にも幼稚き子ら二人ばかりも横竪に並臥したり。夫は我家に入りて菜籠かたよせ竈に薪さしくべ、財布の紐とき翌日の本賃をかぞえ除け、また店賃をば竹筒へ納めなどする頃、妻眼を覚し精米の代とはいう。そとはいいて二百文を擲出し与うれば、味噌もなし醤もなしという。また五十文を与う。妻麻笥(近頃まで貧家の婦人は必ず所持せしものにて今用いる味噌こし笊を紙にて張りしもの。目今は舶来の仕付糸安き故、麻にてこれをうむもの少なしという)を抱えて立出づるは精米を買いに行くなるべし。子供這起きて爺々《ちゃん》菓子の代給えという。十二三文を与うれば、これも外の方へ走り出づ。然してなお残る銭百文または二百文もあらん。酒の代にや為しけん、積みて風雨の日の心充にや貯うるならん。これその日稼の軽き商人の産なり。ただこれはなお本資を持ちし身上なり。これ程の本資もたぬ者は人に借る。暁烏の声きくより棲烏の声きくまでを期とす。利息は百文に二文とかいう。一両に二百文の利息しかも一日の期なり。一月に六貫の割と知らる。ただし借人は七百文の銭にて一日に一貫二、三百文にも売上げるゆえ、七百文の銭に二十一文の利息を除いて、その外五百七十五文の稼あり。依って借も貸も利ありて損なし。
大都の商人※ に長少打交り四、五人もあるべし。内に妻子眷属下女等までまた四、五人、合わせて八、九人の家にては精米一年に十四石四斗ばかり、この価十五両、味噌一両二分ばかり、醤二両一分ばかり、油三両ばかり、薪四両二分ばかり、炭三両二分ばかり、大根漬一両三分ばかり、菜蔬の料家具の料十四、五両、衣服の料また十七、八両、普請の料六、七両、給金八、九両、地代二十二、三両、都合百両余を費すべし。百両の利を得るには千両の本資なくては叶わず。ただし七百の本資にて七百を得るは易く千両の本資にて百両を得るは難しという。これを武家の禄に比するに、百両は三百石に準ず。三百石の家にては侍二人、具足持一人、鑓持一人、挾箱持一人、馬取二人、草履取一人、小荷駄二人の軍役を寛永十年二月十六日の御定めなり。今の世の価にては侍二人の給金八両、中間八人の給金二十両、馬一疋秣代九両を与え、また十人扶持五十俵を与うれば、残り百三十九俵あり。その内十人の者に塩噌菜代十三両を与え、さて後が我勤と武具、家具、普請の入用六、七両を引き、妻子下女らと共に四、五人の費用三十両ばかりとして、総ては五十両余を用うべし。百三十九俵を売りて四十六両と少しなり。この法にては年分三両余の不足となる。寛永十年より弘化二年まで二百十三年の間、三両余の不足積りて六百三十六両の借金となり、三百石に六百両の借金あれば利息年分三十両を私うては百両の金僅かに七十両に減ず。依って十人の下僕を育うことあたわず。これを省きて漸くその日その日を過すのみに至る。これ武家の禄法を察知する一端というべし。
第七 長防二州
天下の大勢は、かくの如く外逼内潰に瀕しつつあるに際し、松陰の本藩たる長防二州は、如何の情態なるか。
山陽山陰に虎踞竜蟠し、一百二十万石の大封を擁し、覇威を中国に振いたる毛利氏も、天の暦数徳川氏に帰し、今は関原の役、西軍に与したるの罪により、長防三十六万九千石に削減せられ、空しく恨を呑んで屏息せり。然りといえども乃祖元就、寡兵を提げ、陶賊を厳島に鏖にしたる、当年の覇気豈に悉く消沈し去らんや。天下一朝動乱の機あれば、先ず徳川幕府に向って楯を突くものは、長にあらざれば必らず薩。これ徳川氏彼自身が、恒に戒心したる所にあらずや。
彼れ毛利氏は、従順なる幕府の家奴にあらず。彼は外様中の外様大名なり。その乃祖元就が、正親町天皇の即位大礼の資を献じてより以来、恩賜の菊桐は、彼が伝家の記号となり、大膳太夫は、彼が伝来の通称となれり。彼は幕府を経由せずして、皇家と直接の関係を有したり。彼は京都に藩邸を置くの特許を得たり。彼は三条橋上を、白毛※ 々たる長槍を荷い、儀衛堂々、横行濶歩して練り行くの特権を有したり。約言すれば理においては、水戸皇家と最も関係を有し、情においては、毛利皇家と最も関係を有す。松陰が毛利氏の世臣たることは、彼の生涯において、浅からぬ感化あるを疑うべからず。
長防の士気は如何。太平腐敗の空気は、何れの所にもこれなきはなし。試みに元禄時代に開版したる『人国記』を見るに、長門の人情風俗を記して曰く、
当国の風俗は万事に差掛たる事なく、人の音声も下音に上調子なることなし。人に応ずるにも一思案して答える風なり。互に人だのみにして遠慮過ぎたり。何を勤むといえども進む事疾けれどもそのまま怠惰の気発す。これにより武士の風俗善といい難しとぞ。
惟うに彼の君辱められ臣死するの一時に際し、靦然として幕府に恭順を唱え、志士を馘りて幕軍の轅門に致したる、俗論党の故郷として、充分の価値ありというべし。知らず、殉難殉国の烈士、松陰の如きもの、如何にしてこの地に生じたる。
怪しむなかれ、この中また一個の先進者ありしを。その人を誰となす、村田清風なり。
村田清風の長州における、なお嶋津斉彬の薩摩におけるが如し。これは藩主にして、彼は世臣の相違はあれども、薩長二藩の関原以来蓄積したる活力を擢揮し、大勢の趨向を指点し、時艱を済うの人物を鼓動したるは、実に二人先導の功に帰せざるを得ず。
彼れ十七歳の時江戸に来るや、富士を詠じていわく、
来て見れば聞くより低し富士の山
釈迦も孔子もかくやあるらん
舜何人ぞ我何人ぞとの気象、この短句に鬱勃たるを見るべし。その花見の歌にいわく、
西北に風よけをして幔を張れ
我が日本の桜見る人
その眼識の国防上に及びたるを知るに足らん。またいわく、
敷島の大和心を人とわば
蒙古のつかい斬りし時宗
攘夷家の口吻を免れずといえども、その直截痛快なる、懦夫をして起たしむるにあらずや。述懐の詩にいわく、
高千穂の峰に神戟有り、即ちこれ億兆の日本魂、
武内・時宗この器を持ち、築成す六十六州の藩。
起承は則ち尊王なり。転結は則ち攘夷なり、尊王攘夷の大精神は、実にこの人の活ける名号なり。
毛利氏、松平定信と親姻たり。彼の江戸に祇役するや、松平定信に謁見し、その長門の内政を更革するや私淑する所ありしという。
当時毛利敬親は、長防二州の藩主として、毛利重就の宝暦、安永至治の余光を承け、府庫充実、士気漸く振うの時に会し、村田清風は、天保十四年の夏、藩主を勧めて羽賀台に大調練をなさしむ。衆およそ三万五千、馬匹千三百、旌旗天を蔽い、鼓声地に震う。一藩の政、その利害の及ぶ所小、故に較れば改革行われ易し。一天下の政、その利害の及ぶ所大、故に較れば行われ難し。水野が幕府に失敗したる所は、則ち村田が長州に成功したる所なり。
然りといえども彼が改革は、多少の怨敵を彼の身辺に湧かしめたり。彼の門楹は斫られたり、彼の石矼は毀たれたり、彼の前庭には、二人の刺客の足を印したり。彼自から歌うて曰く、
国歩艱難にして策未だ成らず、身を忘れ聊か野芹の誠を献ず。才疎く万事人望に違い、徳薄く多年世情に負く。皎月の門前に誰か石を折り、芳梅の籬外に渠ぞ楹を斬る。松を撫でてただ託す千秋の後、清風に問う有らば、我が名を答えん。
斯老襟懐想い見るべし。彼豈に粗胆笨腹の慷慨家ならんや。
嘗て西郷南洲の人に与うる書篇を読む、左の一節あり。
熊本藩横井平四郎、壮年の砌諸国遊歴いたし、国々人物を尋ね廻り、人材と彼らが目し候人に、その後名を挙げざる者はこれ無く、加州の長沼某と申す者ただ一人、その名顕われざるよしに御座候。それ故皆人横井の識鑑の高きを称し候よしに御座候。その経歴の節、長州の村田四郎左衛門と申す人に面会致し候節、「何らの訳にて天下を経歴いたし候か、その趣意如何」と四郎左衛門問い掛け候よし。然る処、横井相答え候には、「いずれ天下の政一途に出で候ようこれ無く候ては、ただ一国一国の政事にては相済まぬと心付き、彼に長じ候処もこれ有り、ここに得たる処もこれ有るべく候に付き、是非得失を考え合わせ、一途の政体相立て居き候処、念願にこれ有り、遊歴いたし国政の善悪を親察いたし候」旨申し述べ候処、「然らばその国に入りその政の善悪是非は何を以て識り候や」と相尋ね候処、「先ずその国に到り、士の容体質朴なるは必ず士風盛なる処、また町家の繁栄なる所はその国の富みたる処、農政行届き民心を得候処は必ず仁政の行われ候処、この三条を目的にいたし、その事の挙げ候所はその国に人材これ有るべきに付き、その人に問うて細目を正し本体を明め候処、多くは相違もこれ無き」趣申し聞け候処、「今一事見る処これ有り候か、心付かざるや」と四郎左衛門申し述べ候処、幾度も考え合わせ候えども考え当らず候に付き、「如何ようの所か頓と考え当らず候に付き、願わくば教えくれ候」よう申し述べ候処、「市中に玩物多く売物これ有り候処は、決まりて奢美の国にこれ有り候」旨申し述べ候処、横井閉口いたし候由、この遊歴中に頭を下げ候人は村田一人にてこれ有りたる由に伝え承りおり候。横井の一条御書載これ有り候故、由来を委敷相記し申し候。
これ南洲が維新の創始に際し、その門下生が諸国週遊せんとするを諭したるの言、また以て村田が人品の超群にして、その眼界の秀聳なるを概見すべし。
聞く、横井小楠の歴遊実に嘉永四年にあり、村田当時中風を病み、城外に退居す。小楠これを訪う、村田壁間武内宿禰応仁天皇を懐くの図を掲げ、かつ泣きかつ語りて曰く、「君武内の苦衷を見ずや。外は三韓の役あり、内は熊襲の変あり、而して禍は蕭牆の裡より起りて、忍熊王の反となる。彼この時において、寡婦孤児を輔け、以て内外の大難を靖んず、千載の下、誰れか彼の精誠を諒するものぞ」と。彼の抱負また大ならずや。而してその地位と年齢とは、二者をして密接せしむる能わざりしにせよ、少くとも松陰は則ち斯老の呼吸に接して生長したるものなることを忘るべからざるなり。
松陰の友人にして維新の遺老たる楫取男爵、嘗て吾人に語りて曰く、「余輩の村田翁の門下に教を請うや、翁従容として宣わく、卿らの如き、石仏を麻縄にて縛りたる如き、究屈なる学問をなして、何の効かある。余の如きは、場合もあらば孔子の頭上に鉄拳を与えんと欲するの覚悟あるを知らずや」と。彼れ年少気鋭、不尽の火恒に脳中に燃え上れる松陰にして、この語を聞く、焉んぞその心躍らざるを得んや。
彼十六歳の時、山田亦介について長沼流の兵法を学ぶや、亦介曰く、「今や英夷封豕長蛇、東洋を侵略し、印度先ずその毒を蒙り、清国続いでその辱を受け、余※ 《よえん》未だ息まず、琉球に及び長崎に迫らんとす。天下人々心を痛め、首を疾ましめ、防禦を事とす。殊に知らず夷の東侵する、彼れ必ず傑物あらん。傑物ある所、その邦必ず強し。邦強く敵無くんば、将に長策を揮うて四方を鞭撻せんとす、則ち人をして己に備うるに遑あらざらしむ、何ぞ区々防禦のみを言わんや。蓋し我神州、万国の上游に屹立し、古より威を海外に耀かす者、上は則ち神功皇后、下は則ち時宗、秀吉数人のみ。吾子年富み才雄、激昂して以て勲名を万国に騁すること能わざらんや」と。彼慨然として答えて曰く、「時宗、秀吉は寔に及び易からず、然れども義律、伯麦、馬里遜は陋夷の小才のみ、何ぞ与に較するに足らんや」と。而してこの山田亦介は、村田清風の甥にして、実にその衣鉢を伝えたる者なり。
然りといえどもさらに社会的に観察せんか、彼は時勢の児に外ならず。彼が精神上の父は、敵愾尊王の気象にして、その母は国歩艱難なり。則ちこの二者の合体よりして、殉国殉難の人物たる吉田松陰は出で来れり。
* * * * *
彼が家庭を視、彼が時勢を察し、彼が境遇を察すれば、彼が如何なる人物にして、如何なる事を為すべきか、固より吾人が解説を俟ってこれを知らざるなり。
第八 旅行
旅行は、実に彼の活ける学問たりき。彼れ嘉永三年鎮西の山川を跋渉し、四年藩主の駕に扈して江戸に到り、相房形勢の地を按じ、さらに東北に向って遠征を試みんと欲し、肥後の人宮部鼎蔵と、十二月十五日赤穂義士復讐の日を期して途に就かんとす。既に藩許を得るも未だ旅券を得ず、彼毫も遅疑せず、曰く、「一諾山よりも重し、俸禄捨つべし、士籍擲つべし、国に報ゆるの業、何ぞ必らずしも区々常規の中に齷齪するのみならんや」。ここにおいて「頭を挙げて宇宙を観れば、大道は到る処に随う」の句を高吟し、短褐孤剣、武総の野を経て、水戸に赴き、白川に出で、会津に入り、越後に往き、佐渡に航し、転じて羽州を貫き、さらに寒沢に抵り、遙かに函館海峡を隔てて松前を望み、転じて仙台より米沢に到り、再び会津を蹈み、日光を経て江戸に帰れり。蓋しこの亡邸の一挙たる、彼が身世齟齬の第一着にして、彼れ自らその猛気を用いたる劈頭に加えたり。彼れ何故にかくの如き事を為せしか。
彼が嘉永三年における鎮西の旅行は、彼が生涯において浅からぬ関渉を与えたりき。彼は平戸に如き、平戸藩の重臣葉山左内に介し、山鹿素水を見、肥後に入り宮部鼎蔵の家を主として、その徒及び横井小楠の社中と交れり。彼嘗て曰く、
僕嘗て平戸に遊ぶ、その士林を観るに、家ごとに必らず一小舸を置く。少しく余力あれば、洋に出でて魚を捕うるを以て楽と為す。僕知る所葉山左内なる者、食禄五百石、班中老に列す、その齢また已に六十余、官暇あれば出でて大洋に漁す、常に曰く、「海島の士かくの如くならずんば、事に臨んで用を済さず」と。西南諸国、古より最も水戦に長ずと称す。而して今平戸頗る古風を存す、蓋し由りて然るところあるなりと。
惟うに彼が海事思想を鼓舞したるもの、実に平戸における観察、与りて多きにおらずんばあらず。
もしそれ肥後における感化に到りては、さらに深かつ大なるものあり。天明の頃、肥後の医師に富田太鳳なるものあり、慷慨にして奇節あり、高山彦九と交驩し、夙に尊王賤覇の議を唱う。爾来林藤次なるものあり、博学篤行、我邦の古典に通じ、敬神家の矜式となり、また勤王の木鐸となる。宮部、永鳥、轟の徒、みな彼が風を聴いて起るもの。而して当時横井小楠また藩学の因循論と相容れず、卓立して実学説を唱え、宮部の徒従ってその議論を上下し、未だ悉く一致せざるも、また後年彼が開国論を叫破し、ために互いに分裂反目するの甚しきに至らず。松陰の来遊、あたかもこの時にあり。彼が肥後に来り、天涯知己多きの感をなしたる、豈に偶然ならんや。彼が交遊の一半は、その真個の同志者の一半は、死に到るまで、肥後人なりとす。彼の死後においても、長州の尊王党と肥後の尊王党とは、恒に相携提し、元治京師の役よりして、奇兵隊の時に及び、肥人の長軍に投じたるもの一にして足らず。乃ちその淵原はここに存するものと知るべし。
彼がその帯刀の様よりその髻の結い風にまで、肥後流の質樸にして剛健なるを愛し、自からこれを模したる如きは、暫らく余事として、彼が江戸の死獄よりして、書を同志に送り、皇室中心主義を主張し、学校を以てその中心点となさんとしたるが如きは、横井小楠『学校問答』中の意見を祖述したるもの、決して掩うべからざるなり。
その東北行において、最も大なる印象を加えたるは水戸なるべし。彼の尊王論は水戸派の尊王論にあらず。その淵原各々同じからずして、毫も水戸派の議論に負う鮮なきが如しといえども、その実未だ必らずしも然りというべからず。然も王覇の弁、華夷の説、神州の神州たる所以、二百年来水戸人士のこれを講ずる精かつ詳。後水戸学の宿儒会沢、豊田の諸氏に接し、その談論を聞き、喟然として嘆じて曰く、「身皇国に生れ、皇国の皇国たる所以を知らず、何を以て天地の間に立たん」と。嘗て彼の「東北日記」の原稿を見るに、その表紙の裏面に、細字を以て『六国史』云々と乱抹せるものあり。これ彼が水戸に来りて、自家の邦典に明かならざるを愧じ、発憤以てこれを誌せるなり。帰来急に『六国史』を取ってこれを読み、古の聖君英主海外蛮夷を懾服したるの雄略を観て、慨然として曰く、「吾今にして皇国の皇国たる所以を知れり」と。もしそれ彼の蜻※ 州の頭尾を蹈破して、天下を狭しとするの雄心を生じたるが如きは、活ける学問の学問たる所以と知らずや。
かくの如く旅行は、彼の活ける学問たりき。然れども彼は亡邸のために、籍を削られ、禄を奪われ、家に屏居せしめられたり。彼が行路はここに蹉跌したりき。
これを要するに彼はその眼中、既に地方的固着心あらざりき。彼は長州藩士として天下に立たず、日本人士として天下に立てり。彼は実に天下の士を以て自ら任ぜしなり。その亡邸の挙たる、禄を世にし、籍を世にする封建時代においては、実に非常の事といわざるを得ず。然るにこれを捨てて、毫も意に関せざるが如きは何ぞや。果してこれを捨つる程の非常なる道理ありしか。否。彼はただ友人と発程の日を約束し、その期に違わんことを恐れて、かくの如き無遠慮の事を為したるなり。発程の期日を延期したりとて、何程の事か有る。この極めて軽小なる事を以て、この極めて重大なるものと易う、顧うに彼の眼中において果して自ら安んずる所あるか。
かつ彼の一生を卜するに、彼恒に身を以て艱難を避けざるのみならず、自ら艱難を招くもの、その例、即ちこの亡邸の一挙において観るべし。少しくその期日を忍べば、何ぞ故らに亡邸するに至らん、何ぞ故らに浪人と為るに及ばん、何ぞ故らにこの亡邸のために帰国を命ぜらるるに及ばん。然れども彼はこれを辞せざりしなり。大凡物はその好む所に聚る、彼の艱難の如きも、また焉んぞ彼が自ら好んでこれを致したるに非ざる莫きを知らんや。
蹉跌彼において何かあらん、彼は蜻※ 州の 州の」は底本では「蜻艇州の」]頭尾を踏み破りて、満目の江山にその磊塊の気を養えり。彼は故郷に屏居せしめられたるに係わらず、知を藩主に辱うし、再び十年間遊学の許可を得、嘉永六年正月萩を発し、芸州より四国に渡り、大坂に達し、畿内を経、伊賀より伊勢に入り、随処の名士に接し、随処の歴史的古跡、随処の勝区を訪尋し、中山道を経、六月一日を以て江戸に達せり。あたかもこれ米国水師提督ペルリ、軍艦四隻を帥い、浦賀湾に突至し、国書を献げ、交親通商の期を迫るに際す。彼が平生蓄積したる※ ※ 《こうそう》邁往の気、一時に沸発し、正に非常の事を為し、以て非常の功を立てんとす。ここにおいてか万里超海の鵬挙は彼を促して、終に自ら禁ずる能わざりき。
何故に彼は外国に渡航せんと欲したるぞ。吾人これを詳かにせず、然れどもその佐久間象山の慫慂に出でたる事に至っては、復た断じて疑うべからず。象山夙に航海術の、我が四面環海の邦に必要なるを看破し、その議を幕府に献じ、而して顧られず。松陰に語りて曰く、「男子宜く海外に遊び、宇内の形勢に通じ、以て緩急の用に資せざるべからず」と。乃ち知る、彼が万里の外土を踏まんとする一片の火鎌、象山の燧石と相鑽つ、焉んぞ雄心勃如たらざるを得ん。かくて端なくペルリは、明年の再来を期して艦を回らせり。而して七月に至りては、露国の使節、軍艦四隻を帥いて長崎に来りて互市を乞う。米艦僅かに去れば露艦来り、天下の人心、漸く乱を思わんとす。彼は九月江戸を発し、驀地九州に入り、豊肥を経、長崎に赴き、露艦に乗じ、海外に航せんとす。即ち異日における象山が買禍の本案たる、「この子に霊骨有り」の送詩は、この時に為りしなり。而して露艦幾もなく去り、復た為すべき無し、ここにおいてか十二月復た江戸に来れり。
惟うに彼が外国に航せんと欲したるは、種々の企謀ありしに相違なしといえども、その重なる点は、則ち彼を知り己れを知るの意にして、以て一種の間諜たらんと欲したりしなり。いわゆる象山が「微臣別に謀を伐つの策有り、安んぞ風船を得て聖東に下らん」といいしは、また以てその意の存する所を知るべし。然れどもさらに一層を突進して論ずれば、その非常の事たりしがためのみ。彼は非常を愛して、凡俗の行をなすを厭う。もし衆人みな独木橋を渡らば、彼奚んぞ喜んで渡らん。ただ人の為すを敢えてせざること、彼敢えて為さんと欲するのみ。
彼は志を達せずして江戸に帰りぬ。然れどもその志は、死灰に帰する能わず。あたかも好し、安政元年正月十八日、前言の期を違えず、ペルリは軍艦四隻、汽船三隻を帥いて、江戸羽根田に闖入し、また退いて神奈川に投錨す。識者の予測したる、愚者の夢視せざる、三百年来未だ曾てこれなき大刺激は来れり。大挑発は試みられたり。怯者懼れ、勇者奮い、愚者驚き、智者憂い、人心動乱、停止する所を知らず。この時において彼豈に徒爾にして已まんや。蹈海の雄志は奔馬の鞭影に驚きたるが如し。彼豈に徒爾にして已まんや。
彼はこの志を齎し、暗にその兄に別を告げて曰く、今より風塵を鎌倉に避け、ただ読書を事とせんと。而してその兄に向って誓文を与えて曰く、
今甲寅の歳より壬戌の歳まで天下国家の事をいわず、蘇秦、張儀の術をなさず、退いては蠧魚と為り、進んでは天下を跋渉し、形勢を熟覧し、以て他年報国の基を為さんのみ。富岳崩るといえども、刀水涸るといえども、誓ってこの言に負かざるなり。
而して翌日その交友を会し、その志を告げ、大書して曰く、
丈夫見る所有り、意を決してこれを為す、富岳崩るといえども、刀水竭くといえども、また誰かこれを移易せんや。
かくの如く富岳、刀水は、一方においては鎌倉蟄居の保証人たり、他方においては、米艦に搭じて外国に行くの保証人たり。山水霊あらば、当にその濫証を笑うべしといえども、彼の真意は、前者に在らずして固より後者に在るなり。ここにおいて彼は、その友金子重輔と与に神奈川に抵り、横浜に赴き、外艦に近づくの策を講ず。時に象山また横浜にあり、互に相謀り、謀いよいよ出でていよいよ差い、あるいは神奈川に返り、あるいは横浜に赴き、あるいは外艦を趁うて羽根田に抵るも、陸上より艦を眺め、陸上より艦を追うのみにして、遂に望を達するの機会を得ざりしなり。而して今やペルリの軍艦は、去りて下田に泊す。故に彼もまた去りて下田に往く。而して下田においても、またその策なかりしなり。則ち五たび策を画して五たび違い、今は如何ともすべからず。百計究する所、遂に自ら漁舟を窃んで、直ちに外艦に投ぜんとせり。時これ三月二十七日、外人の上陸するを見て、予ねて草したる漢文の書翰を投じ、柿崎弁天祠に入りて潮の来るを俟ち、その沙洲に繋ぎたる漁舟に乗り出でんとす。あたかもこれ天地も眠る丑時にして、独り天上の星、地上の海波これを知るのみ。生憎や櫓柱損じて如何ともする能わず、急に犢鼻褌を解き、櫂を左右の舷に結び、二人極力これを揺かす、忽ちにして褌絶つ。急に帯を解き、これを結び、蒼皇以て舟を行る。その具素より備わらず、術また熱せず、舟動もすれば木葉の如く波上に廻旋して前まず、波濤漠々として前途茫たり、最早力竭き、腕脱し、如何ともする能わざる場合に迫りしも、遂に一徹の精神は船を送りて、漸くミシシッピー号に達せしめたり。来る者は誰ぞ。艦上の人は怪んで船灯を下しこれを照らす。彼その光を借りて漢字を書して曰く、「吾ら、米利堅に往かんと欲す、君、幸いにこれを大将に請え」と。梯子を攀じて上り、船員の来るを見てこれに与う。彼れ語意半ば通じ半ば解せず、手語してボウパタン号に往くを示す、これ旗艦にして、ペルリここにあり。ここにおいて彼ら復た小舟に乗る。行くこと一丁、遂に旗艦の内側に近づかんとして得ず、波に動かされてその外側に達す。小舟船梯の底に入り、浪と共に上下し、激して声を成す、船員驚き怒り、棍を携え、梯子に立ち、二人の船を衝き却けんとす。松陰梯に躍ってその梯に在り、金子を顧みて纜を攬らしむ。外人なお船を衝て止まず、金子もために却けられんことを恐れ、舟を捨て躍って梯に在り。而して彼らを送りし船は、已に去りて浩蕩の濤に擒にせられ水烟渺漫の裡に在り、腰刀、行李またその中に在りて行く所を知らず。彼らはかくの如く辛苦して達せり、殆んど生命を賭して達せり、而して已に艦に上れり、然れどもその志を達する能わざるなり。彼らは懇請せり、哀愬せり、その有る限りの力を竭して相談せり、然れども頑として動かざるなり。船員曰く、君らの志は善し、然れども二国交親せんと欲するの今日において、私に君らを載せ去る、二国の国交を如何せんと。万里鵬挙の志またここにおいて蹉※ 《さた》たり。
昔はハンプデン、クロンウエル相率いて、チャールス王の圧制を逃れ、米国に奔らんとし、既に船に乗じてテームス河に在り。事に隔てられてその志を達せず。而して英国革命の演劇は、実にこの二人の役者に由りて演ぜられたり。松陰の事むしろこの類なる莫からんや。
〔註〕左に掲ぐるは、余が今春熱海漫遊の後、『国民新聞』に寄せたる「熱海だより」中の一なり。その語る所未だ全く松陰手録の「廿七夜記」と符合せざるものあれども、当時の情況概見すべし。
兼て松陰吉田氏の事に付いては取り調べたき事もこれ有り、旁た都合もあらば下田港まで探検に出懸けたきつもりにて、その旨熱海小学校訓導内田氏に相話し候処、同氏申さるるよう、ただ今当学校裁縫科の教師たる岡崎総吉と申す仁こそ下田において松陰を宿泊せしめたる旅亭の主人の子なれば、多少承知致しおらんと。遂に同氏の紹介にて岡崎氏に面会致し候。その仁は五十前後とも覚えられ、職人膚を帯びたる温厚の人物に見受け申し候。今小生の問うに応じて彼人の答えたる一斑を左に申上げ候。
自分が家は下田港の近傍岡方村と申し、父なるもの旅人宿を営み岡方屋と申し候。その頃は純粋の旅亭と申すは自分宅の外僅かに他に一軒あるのみにて、外船到来後は衆客輻輳致し候。
安政元年の春暮なんとする頃、二人の武士入り来り候。彼らは天城山を越えて来りたる様子にて、随分疲労したるかと見受け候。両人共に二十三、四とも見ゆる若者にて、下田見物のため罷り越したと申し候。而して彼らは二階の奥座敷を占め申し候。
下田見物のため罷り越せしと申せども、ただ着後直ちに自分の父を呼び寄せ下田の模様逐一聞きたるのみにて、その後は別にかけ廻りて見物する模様もなく、ただ寐たり転んだり立ったり坐りたりして日を送るのみにてこれ有り候。最もある日外より帰りがけに瘠形の小男自分の父に余り景色が面白きままに城山に登りたりと申し候を傍耳に記臆致し候。
右の瘠形の小男と申すは、満面薄き痘痕ばらばらと点じ、目は細く光りて眦りはきりきりと上に釣り、鼻梁隆起して何となく凸様の顔面をなし候。両頬は下殺し顎にチリチリしたる薄き蒼髯乱れ生じ、髪は大束の野郎に結び申し候。序ながらその来泊したる当時の風俗を申せば、木綿藍縞の袷衣に小倉の帯を締め無地木綿のぶっ割き羽織を着し、鼠小紋の半股引に脚半をあて前後に小き小包物を負いおり候(看よ看よ、一個の吉田松陰彼の話頭より活躍し来らんとす)。
この人はとんと衣服などには構い申さずと覚え、家にある時は勿論外に出るさえ羽織も着けず、ただ小倉の帯をぐるぐる廻したるのみにて御坐候。一切沈黙したる風にて、家内の者共にも何とも話し懸けず、ただ食後にはトントン廊下を運動し、時々は余りの足音にて家の者共は内々小言を申し候。昼の間は動もすれば二階の簷を飛び超えて家根に上り、それより幾時間となく海を眺め外船の阿那の点にあるを見守りたることもこれ有り候。
食事も普通にて別に物好みもこれ無く、ただ器械的に箸より口へ移すまでにてこれ有り。いわんや酒を飲みたることなきは勿論、婦人に戯言を吐きたることなきは勿論、遊廓などに足蹈みしたる様は一向に見受け申さず候。
夜は書きものやら書見やらなし、十一時半頃就寝し、それより二人窃々相話し、何やら分り申さず候えども、その声は二時過ぎまで聞え申し候。而して朝も五時頃には起き出で、自分が掃除に行く時にも既に例の小包なども室隅に片附けこれ有り、別段自分に挨拶することもなく、ただ箒を握りて立ち寄れば彼人は邪魔にならぬよう傍に身を側め申し候位にて、さらに異状も認め申さず候。
彼らの滞留も確実覚え申さず候えども、十日前後なりしかと存じ候。而して後の五、六日は雨天打ち続き申し候。珍らしく晴れたれば彼らは外出し五時半頃帰宿致し候。その翌日も朝より外出して正午頃に帰り、午後三時頃より再び外出致し候。
はて不思議、滅多に外出したことなき御客様が今まで帰らぬとは、イヤイヤ若者の常なれば何処にか引っかかりたらんなど噂取りどりに致し候。待てども待てども帰り来らず、今は断念して戸を閉じ一家就眠致し候。
未明に柿崎村名主小沢某より自分父を呼びに来り候。如何なる事と心驚きながら父は倉皇出で行きたるに、南無三内の客人が御国法を犯し外国船に乗り込まんとして成らず自首したりとの事にて、一方には柿崎村民が褌を以て櫓綱となし大小(刀)行李などその中にある漁舟の漂着したるを認め、名主に訴え出でたるより、かれこれ自分の客人なりと分明し、かくてこそ呼び出しに相成りたる理由に御座候。
イヤ驚いたの、驚かぬのと、かれこれ申す次第にはこれ無く候。客人は重き罪人として網輿に送られ江戸に赴き候。自分家は御叱りの上七日間門を鎖し営業停止申し附けられ候。
客人らが如何にして何時の間に包物を持ち出したるやとんと気付き申さず候。後より取り調べ候えども何物もなし。ただ預け置きたる二組の半股引と脚半こそ遺物にして、現に自分母はこれを投げつけ、如何にも貧乏神が舞い込みたり、宿代を払わぬのみかかかる迷惑をかけて、而してこれがその償いになるものかと罵り申し候。最も当時の旅籠代は三食一泊にて八百文の由なれば、両人十日として一円六十銭ばかりに相成り候。右は岡崎総吉と申す人の物語りに御坐候。小生申すよう、御宅には宿帳あらば多分この客人の名前も記しあるべし、一見致したしと。彼人御安きことなり、早速下田なる母の元に申し遣わすべし、最早旅人宿も廃業し父も早く死したれは、果して存在しおるや否や受合い申さずと語られ候。最早当時の名主も死し自分父も死したれば、下田にて彼人の事を知るもの一人もなかるべしとの言葉にて、小生も下田港へ行くことはその儘見合わせ申し候。しかしながら、この人より承り及び、大いに当時の情象を合点したるかと存じ申し候。
松陰の一代記を案ずるに、安政元年三月金子重助と共に蹈海の志を実行せんと欲し、神奈川横浜の際を彷徨し、遂に米艦を趁うて下田に赴かんとし、十四日程ヶ谷を発し根府川の関所をば熱海入浴の客と瞞してこれを過ぎ、十八日下田に達し、千辛万苦の末二十七日の夜二時頃漁舟を盗みこれに乗じて米国の旗艦に赴かんとし、遂にこれに達したれども、米将その志を嘉みしその事を許さず、壮志磋跌、而してこの蹉跌、さらに彼を駆りて革命の先達とならしめ候委細は、他日出版の松陰論にて開陳致すべく候。先は右まで草々頓首。
明治二十六年三月二十七日 蘇峰生
第九 象山と松陰
嘗て海舟勝翁に聞く、翁の壮なるや、佐久間象山の家において、一個の書生を見る。鬢髪蓬の如く、※ 骨衣に勝えざるが如く、而して小倉織の短袴を着く。曰く、これ吉田寅次郎なりと。もし壮年以後に、松陰に及ぼせし個人的勢力の大なるものを求めば、象山にあらずしてまた誰かある。松陰を知らんと欲せば、勢いこの人を知らざるべからず。
人は自から知るより明かなるはなし。彼が人物は一部の『省※ 録』、これを語りて余りあり。蓋しこの書は彼が松陰蹈海の罪に牽連せられて、安政元年四月より繋がれて獄にある七箇月の間、筆研を禁ぜられたるがために、黙録臆記になるものにして、あたかも松陰の『幽室文稿』とその趣きを同じうす。ただ『幽室文稿』は、安政五年戊午の正月より、六年己未の五月、殉難者の血を小塚原に濺がんがために江戸に檻送せらるるまで、一年半の記録なれば、その記事の詳略精粗は同日の論にあらず。然れども『幽室文稿』の活ける松陰の自伝たるが如く、『省※ 録』は、活ける象山の精神的影像なり。彼にして血を以て書かれたる懺悔録ならば、これは鋼筆を以て鐫られたる記念碑なり。一方の無事に苦しむ所、その不穏なる精神の沸騰する所、小児らしき所、その恐ろしき程真摯なる所、その天地をも動かさんとする熱心の所、その天真爛※ にして瑕瑜相い掩わざる所、悉く挙げて『幽室文稿』にありとせば、他方の天下みな是とするもこれを信ぜず、天下みな非とするもこれを疑わざる自信力、自から造化の寵児を以て任じ、天民の先覚を以て居る大抱負、その荘容森貌にして、巍々《ぎぎ》堂々たる風※ 《ふうぼう》、その古今に通じ天人を極めたる博学精識、その空想を賤しめ実学を務め、あくまで経験的の智識を重んずる、悉く挙げて『省※ 録』にありとせざるべからず。二書の相異なるは、なお二人の同じからざるが如し。
人あるいは佐久間、横井を併称す。彼らが一世水平の上を射れる大眼界は、則ち一なりといえども、その人物は各※ 特殊の性格あり。横井は実学を唱う、物に格りて知を致すは、彼が学問の功夫なりといえども、彼の彼たる所以は、「神智霊覚湧きて泉の如き」直覚的大活眼にあるなり。佐久間は易理に通じ、「聖学を講明し、心に大道を識る」を説く。然れども彼の本領は、かえって大建築師が、図按を立つる如く、悉く実数の上より推歩打算し、一糸一毫決して違わざるに在り。人心作用の微妙を察し、談笑して天下の紛難を解くは、横井あるいはこれを能せん。事物先後の経綸を定め、解剖学者が刀痕の触るる所、人体自から解剖せらるるが如きに至りては、これ佐久間の勝場といわざるべからず。横井一生の功夫、総合大観にあり、佐久間の学問は、かえって解剖分析より得来る。横井は天理人情の大妙理を看取し、開国論を唱え、佐久間は国防軍備の大経綸よりして、無謀攘夷の非を論ず。横井の胸襟は光風の如く、佐久間の頭脳は精鉄の如し。横井が理想は「大義を四海に布くのみ」。佐久間の理想は「五州を巻きて皇国に帰し、皇国を五州の宗たらしむる」にあり。横井の理想的人物は、華盛東にあり、佐久間の理想的人物は彼得にあり、奈破翁にあり。横井は曰く、「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす」。佐久間は曰く、「東洋道徳、西洋芸術、精粗遺さず、表裏兼該す」と。彼らはこの点において自から一致す。然れども横井の眼は専ら人に注ぎ、佐久間の眼は専ら物に注ぐ。その空言を賤しんで事実を重んずるは則ちその趣を同じうせずんばあらず。
もしそれ彼らと時を同じうしたる、革命風雲児の魁たる藤田東湖に至りては、また大いに殊なるものなくんばあらず。王覇の別、華夷の弁に至りては、藤田は一種の水戸的執迷を脱する能わざりき。彼は無謀の攘夷家にあらず、彼はその作用余り多きに苦しみたりき。然れども三歳児の偏僻は、三十歳の壮年の偏僻なり。宇内の大勢に至りては、横井は世界的眼孔を以てこれを悟り、佐久間は日本的眼孔を以てこれを察し、藤田に至りては、水戸的眼孔を以て、僅かにこれを覗いたるのみ。
水戸学は一種の回教なり。彼らは左手に聖経を携え、右手に剣を提げ、以て勧化せんと欲す。彼らが天下の人士を勧化する、あたかも酒を人に強いるが如し、酔えば怯者も勇夫となる。然れども彼らは自から裁する所以を知らざるを如何ん。蓋し理を主とせずして気を主とするもの、実にかくの如くそれ恐るべきものあるなり。藤田固より無謀の攘夷家にあらず、彼は攘夷の決心を以て、二百五十年来腐敗したる人心を鞭撻し、一旦国家を逆境に擠し、以てその復活を計らんと欲したり。かくの如くにして和す、和吾において栄あり、かくの如くにして戦う、戦吾において損なし。彼は実にかかる大権謀を以て、自から「宝刀染め難し洋夷の血」を疾呼せり。彼は実に自から酔えるを粧うて、世を酔わしめんと欲したり。世固より酔うものあり、然れども佐久間、横井の眼識、豈にこれを看破せざらんや。彼の松陰の如きは、その血管中に敵愾心の横溢したるに係らず、なお鎖国の小規模に陥らざりしもの、固より象山啓発の力、与りて大ならずんばあらず。
藤田は佐久間に比すれば芸術粗なり、横井に比すれば眼界小なり、然れども国家経綸の大綱を提げ、社会動乱の趨勢を握るの辣快雄敏なるにおいては、自から独歩の地なくんばあらず。彼は身を以て徳川の親藩に繋ぐに拘らず、内において政権を統一し、外に向って国家を代表せんと欲せば、天子親政に出でざるべからざるを知れり。彼は政教の以て人心を凝結するに必要なるを知れり。憾むらくは彼は攘夷を信ぜざるも、なお攘夷を以て方便なりと信じ、遂にこれを以て天下を誤らんとせり。その方便なりと信ずるは、その学術の正しからず、心事の正大ならざるのみならず、またその水戸学の偏僻を脱する能わざるに由るなり。後日において、攘夷を以て天下を警醒する方便なりとなすものと、攘夷を以て目的なりとなすものと、また攘夷を以て政権推移の手段となすものと、一種の大同団結をなしたるが如きも、勢の制すべからざるものなりしとはいえ、また水戸派鼓動の力多きにおらずんばあらず。而して藤田は実に水戸派の保羅なり。
佐久間の佐久間たるは、己が信ずる所を公言せずんば、敢て休せざる光明なる勇気と、己が信ずる所にあらざれば、これを公言する能わざるの正大なる精神とに在り。彼嘗て歌うて曰く、「試みにいざや呼ばわん山彦の応えだにせば声は惜しまじ」。これ豈に勧化の好手段は、反響の来るまで、絶叫するにありてふ、オコンネルの言と、その意を同じうし、その趣さらに深きにあらずや。この点においては吉田は、真個に佐久間の弟子たるに愧じざるなり。佐久間は、真個に吉田の師たるに愧じざるなり。
彼らの相見るや、実に嘉永四年江戸においてす。松陰惟らく、象山畢竟洋学を鬻いで、自から給する売儒ならんと。乃ち平服のままにて、その門に入る。象山儼然として曰く、「貴公は学問する積りか、言葉を習う積りか。もし学問する積りならば、弟子の礼をとりて来れ」と。松陰輙ち帰りて衣服を改め、上下を着し、その門に入れり。のち人に語りて曰く、「象山という奴は、並の奴ではないぞ」と。当時松陰二十二の青年にして、象山は既に四十の宿儒、その盛名天下を掩う。山においては富岳の高きを見、水においては遠州洋の深きを見、人においては佐久間を見る。その始めや漢蘭学芸の事を問い、遂に天下の勢に及ぶ。彼らの性質は固より相い同じからず、その年齢も相距る二十年。弟子は卒直に過ぎるほど卒直なり、先生は荘重に失するほど荘重なり。一方は木綿服に小倉織の短袴を着すれば、他方は綸子の被布を纏い、儼然として虎皮に坐す。一方は翰を揮う飛ぶが如く、字体の大小、筆墨紙の精粗を択む所なきも、他方は端書すら奉書紙にあらざれば書せず。一方は謙虚益を求め、他方は昂然天下の師を以て自から居る。一方は赤裸々の心事を、赤裸々に発表すれども、他方は苟くも人に許さず、甚だ一笑一顰を吝み、礼儀三千威儀の中に、高く標置す。一方は質樸なるを以て英雄の本色となし、他方は質樸ならざるを以て英雄の本色となす。一方は恒に直径を取りて、打破的運動をなし、今日の事をして、今日の事をなさしめよといい、他方は廟算定まらざれば、一歩も動くを欲せず、その眼界は遠く百年に及ぶ。その相反する実にかくの如し。而してその相反するは、則ち相得る所以なるか。松陰曰く、「象山高く突兀たり、雲翳仰ぐべきこと難し。何れの日にか天風起り、快望せん※ 猊の蟠まるを」と。彼らの関係ここにおいて分明ならずや。
彼が亡邸後さらに十年の遊学を請うて、再び江戸に出づるや、時勢は一層の切迫を来し、師弟は一層の親密を来せり。請う彼をして自から語らしめよ。
癸丑六月に夷舶の来りしとき、余、江戸に遊寓す。警を聞き馳せて浦賀に至り、親しく陸梁の状を察し、憤激に堪えず。謂らく、大いに懲創を加うるに非ずんば、則ち以て国威を震燿するに足らざるなりと。江戸に帰るに及んで、同志と反復論弁す。これより先、余、過ありて籍を削らる。而して官別に恩旨あり。深く自ら感奮して謂らく、恩に報ずるの日至れりと。すこぶる分を越ゆるの言を作し、先ず『将及私言』九篇を著し、窃かにこれを上り、尋で「急務条議」を上り、また夷人向に不法のこと多かりしを悪みて、「接夷私議」を作る。この時、幕府、夷書を下して言路を開く。余、同志と議し、苟くも二、三の名侯心を協え力を戮せ、正義を発し俗説を排するもの有らば、則ち天下の論定まらんと。しばしばこれを政府に言す。政府、時勢を探察し、謂らく、天下の大、一藩の能く救う所に非ずと。吾が党の論を以て狂疎事に通ぜずと為す。余、平象山に師事し、深くその持論に服し、事ごとに、決を取る。象山また善視し、常に励まして曰く、「士は過なきを貴しとせず、過を改むるを貴しと為す。善く過を改むるは固より貴しと為すも、善く過を償うを尤も貴しと為す。国家多事の際、能く為し難きの事を為し、能く立て難きの功を立つるは、過を償うの大なるものなり」と。象山に購艦の説あるに及んで、余、意に期すらく、官にあるいはこの挙あらば、自ら請うて役に従い、万国の形勢情実を察観せん、また過を償い恩に報ずるの一端なりと。而して象山の説遂に行なわれず。九月十八日、江戸を去り、西のかた長崎に至りしも、事意の如くなるを得ず。十二月の季に及び、復た江戸に帰る。明年、夷舶の下田に在るや、余、藩の人渋木生と窃かに夷船を駕して海外に航せんことを謀り、事覚われて捕えらる。初め渋木生、役して江邸に在り、余の西遊に必らず故あらんと意い、脱走して邸を出で余を蹤わんと欲す。余の江戸に帰るに及んで、来りて余の寓居に投ず。生人となり孱々《せんせん》たる小丈夫のみ。然れどもその眼彩爛々として不屈の色あり。余、固よりこれを異とし、悉く志す所を以てこれに告ぐ。生大いに喜び、これより事を謀るや、勇鋭力前、率ね常に予を起す。余の西に遊ぶや、象山またその意を察し、詩を作りてこれに送る。余、捕に就き、官その行装を収む。装中にその詩あり、因って併せて象山をも捕えて獄に下し、予と生とまた江戸に送られて獄に下る。三人並びに吏に対して鞠せらる。九月十八日、官、三人の罪を裁して曰く、「意は国のためにすと曰うといえども、実に重禁を犯す、罪恕すべからず」と。因ってみな国に遣りて禁錮せしむ。ああ、予去年来為すところ、上は国に忠ならず、下は身に名なし、辱しめられて囚奴と為り、人みなこれを笑う。士として下才を以てこの世に生まる、悲しいかな。
これによりて見れば、彼が蹈海の挙の、象山の慫慂に出でたるは、火なお明なりとするに足らず。
当時象山は果して如何の経綸ありしか。松陰はさらに語りて曰く、
吾が師平象山は経術深粋なり、尤も心を時務に留む。十年前、藩侯執政たりしとき、外寇の議論を上り、船匠・※ 工・舟師・技士を海外に傭い、艦を造り※ 《ほう》を鋳、水戦を操し※ 陣を習わんことを論ず。謂らく、然らずんば以て外夷を拒絶し国威を震耀するに足らずと。その後、遍ねく洋書を講究し、専ら※ 学を修め、事に遇えば輒ち論説する所あり、あるいはこれを声詩に発す。話聖東のこと起り、蘭夷の報ずるところを聞けば則ち曰く、「未だ※ 台海潯を環らすを見ざれば、南風四月甚だ心に関る」。※ 台を品海に築けば則ち曰く、「疇昔の戯談呆※ に憑る、当今の急務元戎にあり」と。象山また復書を持ちて夷国に到らんと欲す、則ち曰く、「微臣別に謀を伐つの策あり、安んぞ風船を得て聖東に下らん」と。蘭夷に命じて軍艦を致さしむと聞きては大いに喜びて謂えらく、ただこれを蘭夷に託するはいまだ善を尽さず、宜しく俊才巧思の士数十名を撰び、蘭舶に付して海外に出だし、それらをして便宜事に従い以て艦を購わしむべし、則ち往返の間、海勢を識り、操船に熟し、かつ万国の情形を知るを得ん、その益たるや大なり、と。因って窃かに建白する所あり。然れども官能くこれを断行すること無し。予が航海の志、実にここに決す。
合衆国の船、金川に来るに及んで、松代・小倉の二藩、応接警衛の命を受け、象山軍議官を以て軍に従う。喜びて曰く、「また以て少しく国威を示すべし」と。已にして幕府の吏と陣を設くるの処を議し、論累りに合わず。蓋し幕府の二藩の兵を用うるは、夷輩が非を為すを禁訶するに非ず、実に夷輩のために非常を警衛するのみ。象山常に春秋の義を引き、城下の盟を以て国の大恥と為す。下田の議を聞き、いよいよ益々《ますます》憂憤す。予が事に坐して獄に下り、獄中になお上書して宇内の沿革を論じ、航海の事務を陣べんと欲す。腹稿已に成り、これを目付の巡獄者に訴うれども、獄吏は拘るに故事を以てし、筆墨を与えず、ここを以て果たさず。象山始めて獄に下り、詩を作りて曰く、「城下盟を為すの恥を思わず、かえって忠貞を把えて忌疑を抱く。白映疆を議す長崎の港、聖東地を仮る下田の※ 《はま》。異時敵を軽んず已に計に非ず、今日の折衝知るこれ誰なるかを。幽憤胸に満ちて泄す所なく、獄中血を瀝いでこの詩を録す」と。
また以て如何に松陰が象山に推服したる、及びその何故に推服したるを知るべし。彼は実に象山よりして天下の士たる抱負を伝授したるなり。
もしそれ松陰の罪案に到りては、両者の関係を臚列し、当時の事情を曲尽して、さらに分明なるものあり。吾人はその冗長なるの故を以て、これを掲ぐるを禁ずる能わず。
松平大膳大夫の家来杉百合之助次男にて厄介致し置き候浪人 吉田寅次郎
その方儀、近年異国船所々へ渡来致し候処、元主人勤中の養家は兵学師範の家筋に付き、別して長州海防の儀を苦心致し、佐久間修理方へ入門、西洋砲術をも修業致し、その後浪人の身分に相成り候えば、兼て御為筋の儀を存じ量り、かつは旧主の恩義もこれ有り、かたがた非常の功を立つべしと心掛け候処、去夏以来異国の軍艦近海へ渡来致し候趣承り及び、深く心痛の余り西洋へ渡り国々の風教軍備等悉く研究致すべしと修理とも議論に及び候処、当今の形勢彼を知る事急務にして、間諜細作を用い候外良策これ無く候えども、重き御国禁に付き官許はこれ有るまじく、自然漂流の体に致し成し事情探索の上、立帰り候わば専ら御国のためにも相成るべき旨申す間、兼ての内存と符合致し頻りに西洋周遊の念差起り、去秋長崎表へ渡来の魯西亜船へ身を托すかまたは漁船を雇い渡海すべしと九州筋遊歴の積りにて修理方へ暇乞いに罷り越し候処、その胸間を察し送別の詩作を贈る。その詩に曰く、
この子に霊骨あり、久しく※ 躄の群を厭ふ。衣を振う万里の道、心事いまだ人に語らず。すなわちいまだ人に語らずといえども、忖度するにあるいは因あらん。行を送りて郭門を出づれば、孤鶴は秋旻に横たわる。環海は何ぞ茫々たる、五州は自から隣をなす。周流して形勢を究めよ、一見は百聞に超ゆ。智者は機に投ずるを貴ぶ、帰来はすべからく辰に及ぶべし。非常の功を立てずんば、身後に誰か能く賓せん。
志を通し候に付き、いよいよ憤発致し長崎表へ立越し候えども、一旦退帆後にて便を得ず空しく帰府致し候。後浦賀表へ亜墨利加船渡来、神奈川沖に碇泊罷あり、退帆致すべしと承るに及んで宿志を遂ぐべしと存じ、窃かに渋木松太郎事重之助儀も同志に候とて、連立ちて横浜村へ罷越し候処、修理主人真田信濃守応接所警衛仰付けられ、修理儀も人数に加わり出張致しおり候に付き、通弁のため漢文にて認め置き候書翰草稿に添刪を乞い、その書翰に曰く、
日本国江戸府の書生、爪中万二、市木公太、書を貴大臣、各将官の執事に呈す。生ら、賦稟薄弱、躯幹矮小、固より士籍に列するを恥ず。未だ刀槍刺撃の技を精しくする能わず、未だ兵馬闘争の法を練る能わず、汎々《はんぱん》悠々《ゆうゆう》として歳月を玩※ 《がんかい》す。支那の書を読むに及んで、やや欧羅巴、米利堅の風教を聞知し、乃ち五大州を周遊せんと欲す。然り而して吾国は海禁甚だ厳しく、外国の人の内地に入ると、内地人の外国に到ると、みな貸さざるの典あり。ここを以て周遊の念、勃々然として心胸の間を往来し、而も呻吟※ ※ 《ししょ》すること、蓋しまた年あり。幸いにして今貴国の大軍艦、檣を連ねて来り、我が港口に泊し、日たる已に久し。生ら熟観稔察して、深く貴大臣、各将官、仁厚愛物の意を悉し、平生の念また復た触発す。今則ち断然策を決し、将に深密に請托して、坐を貴艦中に仮り、海外に潜出して以て五大州を周遊せんとす、復た国禁をも顧みざるなり。願わくは執事辱くも鄙衷を察して、この事成るを得しめられよ。生らの能く為す所は百般の使役もただ命これ聴かん。それ跛躄者の行走者を見、行走者の騎乗者を見る、その意の※ 羨如何ぞや。いわんや生ら終身奔走すとも、東西三十度南北二十五度の外に出づる能わざるをや。これを以てかの長風に駕し巨濤を凌ぎて、千万里を電走し五大州に隣交するを視ては、豈にただに跛躄の行走と、行走の騎乗との譬うべきがごとくならんや。執事幸いに明察を垂れ、請う所を許諾せられなば、何の恵かこれに尚えん。但し、吾が国海禁未だ除かれず、この事もしあるいは伝播せば、則ち生らただに追捕せらるるのみならず、刎斬立ちどころに到るは疑いなきなり。事あるいはここに至らば、則ち貴大臣、各将官仁厚愛物の意を傷うもまた大なり。執事願わくは請う所を許し、また当に生らがために委曲包隠して開帆の時に至り、以て刎斬の惨を免るるを得しむべし。もし他年自ら帰るに至らば、則ち国人もまた必ずしも往事を追窮せざらん。生ら言は粗暴といえども、意は則ち実に精確なり。執事願わくはその情を察し其の意を憐み、疑うことを為すなかれ、拒むことを為すなかれ。万二、公大同じく拝呈す。
日本嘉永七年甲寅三月十一日
別啓
本書内に開列懇請する所は、生らこれを思うこと累日、多方に策を求む。横浜にありては、曾て商漁の船隻を※ 《やと》い暗夜に乗じて貴船に近づかんと欲す。而れども地方の巡邏甚だ密にして、官船を除くの外、一切近づき前むを許さず、これがために踟※ 《ちちゅう》す。貴船当にこの地に来るべしと聞き、期に先んじて来り待ち、一小舟を掠めて以て貴舟に近づかんと欲すれども未だ能わず。因って願わくは貴船の各大員合議して、請う所を許允せられなば、則ち明夜初更を以て号※ 《ごうほう》を約と為し、脚船一隻を発して横浜応接館以東二十許町、海岸絶危し、人家無き処に至りて、生らを邀えられよ。生ら固より応に約に先んじて該地に到り、生ら点火を待ちて信と為す。切に約信違うことなく、生らの望む所に副われんことを祈る。
三月十一日
重之助ともに周旋致し候えども異船へ近寄るべき手段これ無く、その内下田港へ相廻り候に付き、同所へ罷越し、異人上陸を見受け書翰並に別啓の策を投じ置き、
この時の別啓「請う所を許允し」以下を左の如く改作す。
則ち明夜人定後脚船一隻を発し、柿崎村海浜の人家無き処に至りて、生らを邀えられよ。生ら固より応に約に先んじて該地に至り相待つべし。切に約信違うことなく、生らの望む所に副われんことを祈る。
夜中窃かに伝馬船を以て重之助一同異船へ乗込み、外国同伴相頼み候えども、承引致さず送戻され候儀ども、一途に御国の御為と存じ仕り成し候旨申し立て候えども、右体重き御国禁を犯し、この段不届に付き、父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居申し付ける。
嘉永七年甲寅九月十八日
彼らの江戸獄中にあるや、ただ法廷において相見ゆるを得るのみ。然れどもその唱和の詩を読めば、人をして懐に禁ぜざらしむるものあり。象山曰く、「語を寄す、吾が門同志の士、栄辱に因りて初心に負く勿れ」と、松陰答えて曰く、「已に死生を把りて余事に附す、寧んぞ栄辱に因りて初心に負かんや」と。その精誠に至りては、天もまた泣くべし。「かくとしも知らでや去年のこの頃は君を空ら行く田鶴にたとえし」と。これ象山が去年の事を思い、獄中にありて、松陰に与えたるもの。彼らは今や秋昊に横う孤鶴にあらず、鉄網に悲鳴する痴※ 《ちけい》となれり。
彼らの伝馬町の獄を出でて、各々一東一西に別るるや、彼自からその状を語りて曰く、「奉別の時、官吏坐に満ち、言発すべからず。一拝して去る。今や乃ち地を隔つる三百里、毎に鶴唳雁語を聞き、俯仰徘徊自から措く能わず」と。
彼は野山の獄中にありて、恒に象山に惓々《けんけん》たりき。彼は象山に対して師弟の誼あるのみならず、知己の感すこぶる深かりき。曰く「平翁は真に吾が師、我に期すに非常を以てす」と、彼が吾が師というは、ただ象山あるのみ。而してそのしばしば詠懐において、これを漏らすのみならず、安政四年ハリス江戸に入るの月においては、書を江戸にある桂小五郎に送り、「夫れ象山先生は、天下の士なり、当に天下の用を為すべし。今にして用いずんば、天下それこれを何とや謂わん」といい、以て彼が蟄居を解放せんとの斡旋を促したりき。彼は安政六年四月二十五日、書を象山に与えて、「幕府諸侯、何れの処か恃むべき、神洲の恢復、何れの処より手を下さん、丈夫の死所、何れの処か最も当らん」の三条を問い、かつ曰く、「僕、今生きて益なく、死するに所なし、進退これ谷まる。幸わくはこれが道を進めよ」と。而して彼はその教を聞くに及ばずして死所を得たり。何となればその五月二十五日は、則ち彼が安政の大獄に羅織せられて東上したるの日なればなり。
象山は実に時勢を知るの俊傑たるに相違なし、彼が死後その遺筐に「政策目安書」なるものあり、その条に曰く、
一、遠くは本邦古先帝王に法らせられ、近くは魯西亜のペートルに則られたき事
一、外国へ学生遣わさるべき事
一、出交易の事
一、交易法修業の事
一、邪宗并に仏法の事
人倫を廃せる仏法といえども、御法を設けられ御用御座候えば、その分に従って世用をも成し申すべく候。去りながら世用をなし候ところは真の出家道にこれ有るまじく候。また邪宗と世に唱え候えども、真に邪の実を存し候ものこれ無く、それにては西人の口を塞ぎ難く候。いずれにもこの筋道に外れ邪義に候故、御国禁の第一に御定め申されたき事
一、名実の事 林、江川の如き、これなり
一、天下の御武備は天下の御武備にして、徳川家一家の御武備に御座なく候事
一、西洋より諸学の師を召出だされ、就中詳証術盛んに行われ候よう御座ありたき事
一、西洋厚生利用の諸工作広く天下に開き申したき事
仮令ば木像製活字版等の如し
一、西洋書、漢籍同様売買自在に御座ありたき事
交易の品に御定め売捌所、御許し御座ありたく候
一、蝦夷開き方の事
一、兵制の事
一、馬制の事
一、僧徒の事
一、倹約の事
一、乞食非人の事
一、片輪者の事
一、囚徒の事
年々獄中并に溜中死亡夥しき事
一、穢多の事
一、服色制度の事
以上
断簡零墨といえども、また以て彼が文武の全才たるを知るべし。
彼は色黒き眼巨なる藤田東湖の如く、天下の万波を捲き起し、これに鞭ちて快奔する、破壊的大手腕を有せず。彼は徹頭徹尾建設的経綸家なり。彼の友勝海舟彼を評して曰く、「先生博学多識、文武を兼ぬ、末技小芸といえども、通暁せざるなし。為人英邁不群、一見その偉人たるを知る」と。然れども人情の表裏を察し、大勢の機微を射り、立談の際に、天下の時艱を済うの大作用に至りては、未だ彼に許さざるものあるが如し。彼自から曰く、「格物の天地造化におけるはかえって易く、人情世故におけるはかえって難し。吾人は須らくその易き所に狃れて、その難き所に倦むべからず」と。顧うに彼自からその短所を知りたるか。彼は四角なるフランクリンなり、彼は主我的にして、較れば究屈なる諸葛孔明なり。然れどもその敢て第二流を以て、自から甘ぜざる大抱負に至りては、また欽ずべきものなくんばあらず。彼曰く、「予年二十以後、乃ち匹夫も一国に繋ること有るを知る。三十以後、乃ち天下に繋ること有るを知る。四十以後、乃ち五世界に繋ること有るを知る」。もしそれ人は自から立たんと欲する所に立つを得ば、彼は実に百尺楼上に立つものなり。
運命は実に奇なるものなり、彼が九年の廃錮より起ち、幕府の徴命に応じ、和親開港、公武合体の政策を献じ、公武の間に奔走するや、吉田松陰によりて点火せられたる長防の尊攘党は、地を捲いて京師に推し寄せ、今は革命の大打撃を始めんとしつつありき。彼京都にあり、開港の上書を袖にして、山階親王に至る、途にて横殺せらる、実に元治元年七月十一日。即ち松陰の徒、久坂、寺島、入江の輩が、兵を提げて京都に入らんとするに先つ、九日前なりき。而して彼を横殺したるもの、また長防尊攘の流れを汲むものなるを思えば、恐るべきは実に騎虎の勢といわざるべからず。
松陰の刑せらるるや、その絶命の詞、伝えて象山に到る。象山潸然として泣いて曰く、「義卿は事業に急なり、今やかくの如し」と。彼自から曰く、「我れ本と一丈夫、豈にその元を喪うを忘れんや」と、彼は自から死を決して徴命に応じたり。彼らの趨向殊なりといえども、各々その身を以て信ずる所に殉ず、また以て大丈夫たるにおいて愧じる所なかるべし。
第十 攘夷
「去年は雲外の鶴、今日は籠中の※ 」。蹈海の蹉跌は、乍ち徳川政府の訊う所となり、江戸伝馬町の獄に繋がれ、延いて佐久間象山に及び、遂に「重き御国禁を犯し候段不届に付き、父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居申し付ける」の宣告を得、檻輿長門に下り、野山の獄に投ぜられたり。これ実に安政元年九月十月の交とす。
吾人はこれよりこの前後における、彼が畢生の本領たる攘夷尊王説の発達変化について、観察するを要す。
彼は攘夷家(むしろ敵愾家)にして鎖国家に非ず、彼は尊王家にして討幕家に非ず。而してその遂に鎖国に類するの策を主張し、討幕の率先者となりたるは、惟うに時勢の刺激然らしむるためと知らずや。
彼は嘉永六年癸丑、米国軍艦が、江戸近海に繋泊するに際しては、固より主戦論者にてありき。彼れ曰く、「理宜して天下の大義を伸べて、逆夷の罪を征討すべし」と。その理由を問えば、曰く、「その情固より狡黠にして、その状またすこぶる猖獗なり」と。これ果して征討するに適当なる理由たるや否や。狡黠猖獗の熟字は、要するにただ抽象的の文字にして、その「何故に」、「如何にして」、「如何なる」ということを説明せざる限りは、殆んどただ一種の悖論たる勿らんや。而して如何にして戦わんとするや。
彼は韜※ 《とうけん》を以て家学と為せり、彼れ『武教全書』を講じ、彼れ山鹿流の兵法を学び、彼れ象山に就いてほぼ西洋流の砲術タクチックを聴く、然らば彼れ果して充分なる防戦の策無かるべからず。而してその策する所を観れば、曰く、「今の戦法は、これを先んずるに海戦を以てし、これを終るに陸戦を以てすべし」と。その海戦の法は、如何、曰く、「相模、上総、安房等の海浜にて漁船中の最も堅牢快速なるもの五十艘ばかりに屈竟の舸子を併せ雇い、士卒に各々小銃一個を授けて、毎船十名ばかりを載せ、就中大砲を善くする者を択び、砲一門に打手五名を副え、船に乗り込ませ各船各々長鳶口、長熊手、打鈎、竹梯子等を備え置くべし〔漁船にはその容量重きに失せざるか〕」と、これ即ち準備なり。
さてその戦略は如何。「かくの如き船を備え置き要港に隠伏し、夜陰に乗じ先ず二十艘ばかり乗出し、夷船の繋泊する所の三、四町内まで乗附け〔如何にして乗附け得べき〕、大砲を連発すべし。夷船は大的なれば、大砲の百発百中固より疑いなし〔大いに然り〕。あるいは夷舶の堅牢破り難きを説く者あれども、夷の船制を審かにするに深く懼るるに足らず〔何故に〕。船内火起り夷輩騒動するを見ば、小銃にてこれを狙撃すべし。また脚船を押寄せ支うるならば、急に飛附き、長鳶口、長熊手、打鈎を以て引寄せ乗遷り船中の夷輩を鏖殺し脚船を奪うべし〔何ぞ壇の浦の戦に似たる〕。また軍艦中騒擾の様子を看ば、急に乗附き梯子を架して飛乗り、腰刀にて手詰めに夷輩を鏖殺し軍艦を奪うべし〔何ぞ蒙古襲来の役に類する〕。軍艦水上一間半二間ばかり位なれば、三間梯子にて取登ること何の難き事かあらん〔先生下田の経験に依れば果して如何〕」。
また焼討の奇策あり、その方左に叙ぶべし。「百石積以上の船に焚草を積み油の古樽をこれに交え火薬を以て火口とし、長縄を以て五、六艘を聯ね、船々相離るること十間ばかりにして風上より夷船へ乗掛け火を放ち、火起るを俟ち、乗行く人数は脚船にて乗還るべし〔またこれ赤壁火攻の術か、殊に敵の脚船を奪いこれにて乗りて還るなどは最も妙策とす〕」。
海戦の術かくの如し、然らば陸戦は如何。「もしこれらの襲撃に懲りずして陸地に押掛け上陸せんか、その上陸の混乱に乗じ軍艦を奪い取り、もしくは脚船を乗取るべし。要港に備えある三十艘の船は機を察して出戦すべし」。もしそれ陸戦の法に至っては、いわゆる「山林を右背にし、田沢を前左にし、高きを負い、低きに臨み、本陣を据え、相待つべし〔これ孫子流の兵法か〕」。その討つべきは、「軍艦より脚船を卸して陸に近づく所」一なり、「脚船より上陸し、備えを立つる所」二なり、「備えを進め、砲台を築き、足留を拵ゆる所」三なり。この三箇条は、あるいは砲銃を用い、あるいは刀槍を用ゆ、各々その便に従うべし。ここにおいてか彼れ曰く、「勝を制するの易々《いい》たる固より毛を燎くが如し」と。
吾人は今日においてこの策論を読み、その妄誕不稽に驚くといえども、これがために松陰の松陰たる価値において、一分一毛を減ずる所無きを見るなり。彼がこの論を草するは、これ嘉永六年癸丑の八月なり、即ち二十四歳なる少壮者の議論なり。その個人的年齢を以て推し、その歴史的時日を以て推し、その時勢的境遇を以て推せば、かくの如き論の、かくの如き人の口より、かくの如き世に出で来るは、復た異しむに足らず。看よ、今日においてすら、なお長白山頭の雲を踏み破り、馬を呉山の第一峯に立て、東洋に新帝国を作為するなどの迷夢を抱く者あるに非ずや。
然りといえども、彼は横井小楠の如く直覚的の活眼を有せず、佐久間象山の如く推歩打算的経綸を有せず、また藤田東湖の如く時勢の潮汐を察して、一世の人心を籠絡する大権数を有せずといえども、また決して無謀の攘夷家に非ず。ただ攘夷を口実としてその野心を逞うせんとする浮浪に非ず。彼が攘夷は敵愾心の凝結したるものにして、その立意誠実にして、また一種の経綸ありしや、また決して疑を容れず。
彼は神奈川条約調印の後においては、最早主戦論を擲てり。その安政二年三月月性に与えたる書中の一節に、「魯墨講和一定す、決然として我よりこれを破り信を夷狄に失うべからず、但し章程を厳にし、信義を厚うし、その間を以て国力を養い、取り易き朝鮮、満洲、支那を切随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満にて償うべし」と。また同年四月、来原良蔵に与うる書中にもいえり、「癸丑、甲寅は一大機会なりしに、乃ち坐してこれを失う。然れども事已に往けり。今の計を為さんには、和親して以て二虜を制し、間に乗じて国を富まし兵を強くし、蝦夷を墾き満洲を奪い、朝鮮を来たし南地を並せ、然るのち米を拉ぎ欧を折かば、則ち事克たざるは無し。向の機を失いしは未だ深く惜しむに足らざるなり」と。ここにおいてか知る、彼は既に主戦論者に非ずして和親論者となりしを。ただその敵愾の本領に至っては、少しも変ずることなく、いわゆる侵略主義を以て、国権を外に耀かし、弱を撃ちて強に及ぶの策を執りしや、火を睹るよりも明らけし。
然らば則ち彼は、遂に和親論者にて終りしか。否々《いないな》、彼は熱心なる非和親論者となれり。事実は今その所以を説明すべし。ペルリーが日本に来り、安政元年三月、神奈川条約なるものを締結するや、いわゆる和親条約にして、両国の人民、誠意不朽の親睦を取結び、両国人民交親を旨とすというに過ぎず。その目僅かに十二箇条にして、下田、箱館の両港を開き、米国船に、薪水、飲料、石炭等欠乏の品を売り渡すというに過ぎず。而してその真個に開国の大運動を生じたるは、米国総領事、タオンセント・ハリスが締結したる下田条約にして、而してその条約こそ、他の十六箇国条約の標準となり、かつ今日まで維持し来れる現行条約の原本にして、実にその締結の始末は、松陰をして熱心なる非和親論者とならしめたりき。蓋しこの下田条約は、我邦外交史中における一大関鍵にして、維新開国の主脳、断じてここに在りというも、また誣いざるなり。
かえって説く、米国総領事タオンセント・ハリスは、神奈川条約の明文に従い、米国大統領の国書を齎らし、和親貿易条約のためその全権使節として日本に来れり。これ実に安政三年七月、吉田松陰があたかもその禁錮中において特許を得、松下村塾を興したる同年同月にてありしなり。蓋しハリスは、前に述ぶるが如く、大なる獲物を得んと欲して来りし者にして、直ちにその意を徳川政府に通じ、ここにおいて同年十月徳川政府は貿易取調掛を命じ、下田奉行をして談判の手始を開かしめたり。時あたかも英清戦争に際して、清国敗北の風評頻りに聞えければ、ハリスはこれを奇貨とし、歩々《ほほ》相薄まり、遂に安政四年二月に至っては、当時の閣老堀田備中守をして、外国人接待応接の式方を改めこれを優遇せしめ、終に安政四年五月下田奉行は、ハリスに逼られて、規程章八箇条に調印し、いわゆる安政五年調印、現行条約の濫觴を造れり。この規程章は、同年六月閣老より天下に報告し、これがためにいよいよ世論を激起したるに際し、ハリスはさらにその和親通商条約の全権委員たる資格よりして、直ちに徳川将軍に謁し、大統領の国書を奉呈し、幕閣に向ってその談判を開くの要求を為し、而して幕閣はハリスに逼られ、同年七月を以て謁見応接の礼式を定めしめ、八月を以て米使謁見の議を天下に達し、遂に同年十月を以てハリスは下田より江戸に到り、将軍に謁見して国書を奉呈し、さらに堀田閣老の邸に抵り、大凡六時間の会話を以て、開国貿易の日本の独立において、国是において、利益において、已むべからざるを陳述し、遂にこれがために独り勢に迫らるるのみならず、理においても、情においても開国の已むべからざるの新思想を以て、堀田備中守を始めとし、井上、川路、岩瀬、堀、その他の幕吏中の秀才に洗礼を施せり。
かくて井上、岩瀬らは、日本の全権となり、ハリスが呈出したる草案に拠り、討論熟議、漸く同年十二月二十五日に至りて、これを規定せり。而して同年十二月を以て、三百諸侯に開港の已むべからざるを伝え、その意見を問い、また林大学頭、津田半三郎を以て京都に上申し、その勅許を得んことを求めたり。而して京都は兼てより鎖国論の本拠にして、唯り勅許を得ざるのみならず、断々然として不承諾の意を示せり。これがために堀田閣老自ら京都に到り、遊説を為したるに拘らず、遂に捗々《はかばか》しき事も無く、堀田の江戸より京都に往復したる時日は、五年正月より四月に亙りたれども、遂にその要領を得る能わず。ただ天下に雷の如く響きしものは、勅答として出でたる「神洲の大患、国家の安危、容易ならざる事」といい、「今般仮条約の趣にては、御国体立ち難くと思召さる」というに過ぎず。要するに京都の議論は、その説明において冷熱の相違あり、その実行において、晦顕の差ありといえども、鎖国攘夷の精神に至っては、始終一轍に出でざるものなきは、当時の情勢断じて疑うべからず。何となれば京都を動かすものは、彼の智勇弁力の徒なればなり。
然るに一方においては、かくの如く国論沸騰、廟議紛擾その統一を失うたるに際して、他方においては、宿約たる安政五年三月五日調印の期日を失し、遂に遷延五月二日に至り、いよいよ七月二日を以て、調印する旨改めて閣老連署の書面を以て、ハリスへ申込を為せり。而してこの時において、幕府には、継嗣論一大難題となり、これがために井伊直弼、安政五年四月二十五日に大老職に就き、その余勢の及ぶ所、遂に勅許を経ずして、六月仮条約に調印し、ここにおいていわゆる違勅の大抗議を天下に喚起せり。而してこれと同時に、その反対者たる尾張、水戸、越前に蟄居を申付け、一橋慶喜の登城を差留め、いわゆる攘夷党、水戸派、もしくは一橋を儲君とするの派、その他自家の反対党と目指すものはその諸侯と幕臣たるとを問わず、尽くこれを黜罰したり。則ち堀田閣老彼自身さえも免職者の一人たりしなり。而してこれと同時に、その股肱間部詮勝を京師に遣わし、以て朝廷の意見を飜えし、以て公卿中の非和親論者を威嚇し、而して京都にある横議の処士、重なる攘夷論者、及び水戸派、一橋立儲君派らを拘留せしめ、以て安政大獄の端を啓けり。
以上は時勢変遷の概略にして、また以て松陰がこの時勢に遭遇して、再び熱心なる非和親論を主張するに至りたるの已むべからざるを知るに足らん。
彼は神奈川条約を已むを得ずして是認せり、然れども下田条約に至っては、決して是認せざりしなり。その所以何ぞや。彼れ自らこれを解いて曰く、「京坂、江戸は天下のいわゆる三都会なり。彼は已に商館を起こし、已に重員を置けば、豈にそれ拱黙して為すこと無からんや。吾を以てこれを度るに、我が国に乞丐甚だ衆ければ、彼れ必ず貧院を起こし、棄児甚だ衆ければ、彼れ必ず幼院を設け、疲※ 《ひりゅう》残疾、貧賤にして治療する能わざるもの甚だ衆ければ、彼れ必ず施薬の医院を造らん。これ下手の一着にして、已に愚民の心を結ぶに足る」。これ衆民を籠絡するを慮りたるなり。また曰く、「これに次いで字を識り文を作るの徒を募り、博物材技の流を雇わん。ここにおいて利を知りて義を知らず、書を知りて道を知らざるの人、翕然として附同し、蟻集して蠅集せん」と、これまたその杞憂の一理由なり。また将軍継嗣論の未だ定まらざるに就いては彼れ曰く、「夷官の来たり居るや、後必ずこの議に預らん。これ石敬塘の事遠からざるなり」。彼れまた米使が諸侯を籠絡するの術を説いて曰く、「諸侯の苦しむ所のものは、参勤交代のみ。夷官は必ず曰わん、日本は海国なり、陸道もて奔走すること、数百千里なれば、幣を費すこと甚だ巨し、火輪船を用いるの愈れりと為すに如かざるなりと。諸侯辞するに船なきを以てせば、彼れ必ず曰わん、船は米利堅の富む所なり、多寡はその需むる所に任ぜん、その価直の若きは、五年もしくは十年を待ちて、漸次に償清せよと。因りて一郡もしくは一島を以て質と為し、五年、十年の間を以て、貧幼薬医の諸院を設立し、以てその地方の人民を勾誘し、而して諸侯もまたその船を得るの利を楽しまば、決してその人民を誘うを怪しまざるなり」と。
彼がいわゆる和親の憂とする所かくの如し。而してこれを却くるの術如何。彼れ自らこれを却くるの術を説いて曰く、「大統領は吾が国のために謀ること深く、貴使臣は吾が国のために慮ること厚し。吾れ固よりその辱を拝す。ただ吾が国は三千年来、未だ曾て人のために屈を受けず、宇内に称して、独立不覊の国と為す。今貴国の命を受くれば、乃ちその臣属と為り、今貴国の教を奉ずれば、乃ちその弟子と為ること、勢い已むを得ざるなり。三千年独立不覊の国、一旦降りて人の臣属弟子と為る、豈に大統領、貴使臣の、人のために謀慮するの意ならんや。果して吾がために謀慮せば、願わくば幸いに引き去れ」と、これその拒絶の本辞なり。また曰く、「近日の事、名は親切なれども、実は人を陥※ 《かんせい》に擠るるなり。もし貴国引き去らずんば、名を正し罪を責め宇内に暴白せん」と。また「もし米国の使臣、世界各国みな交通するに、独り日本のみ拒みて従わず、勢い兵に訴えざるべからずという時には、先ず亜細亜諸国悉く貴国のいう所に従うて、而して我なお従わざれば曲、我にあり。然れども諸国未だ同意せずして、我独り同意せざるを尤む、これ曲、汝にあり」、これその拒絶の副辞なり。而していよいよこれを聴かざるときにおいては、「退かざればこれを※ 《とりこ》にし、これを誅し、而してこれと戦うのみ」といえり。これいわゆる彼が主戦論なり。
然れども彼は決して鎖国家に非ず、彼れ自ら曰く、「戦を主とするは鎖国の説なり、和を主とするは航海通市の策なり。国家の大計を以てこれを言わんに、雄略を振いて四夷を馭せんと欲せば、航海通市に非ざれば、何を以て為さんや。もし乃ち関を封じ国を鎖し、坐して以て敵を待たば、勢屈し力縮み、亡びずんば何をか待たん」と。この言に拠りて観れば、彼はあくまで鎖国論者に非ざるなり。而してなお鎖国に類するの方針を執るに到りたる所以のものは何ぞ。当時の開国論者の多くは真の開国論者に非ず、ただ敵愾の気を失し、外人の恫喝に辟易し、文弱、偸安、苟且の流にして、而して彼の鎖国論者中にこそ、かえって敵愾、有為、活溌の徒あり。この儘にして開国する時においては、国家の元気索然として、遂に復た奮わず、この膝一たび屈して遂に復た伸びず、故に一時逆流に立ち、天下の人心を鼓舞作興し、然る後徐に開国の国是を取らんと欲したるのみ。彼の意見は、期せずして水戸派の意見と一致したりき。
されば彼は曰く、「およそ皇国の士民たるもの、公武に拘らず、貧賤を問わず、推薦抜擢して軍師、舶司と為し、大艦を打造り、船軍を習練し、東北にしては蝦夷、唐太、西南にしては流叫、対馬、憧々《しょうしょう》と往来し、虚日あることなく、通漕捕鯨し、以て操舟を習い海勢を暁り、然る後往きて朝鮮、満州及び清国を問い、然る後広東、咬※ ※ 《カルパ》、喜望峯、豪斯多辣理には、みな館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、かつ互市の利を征す。この事三年を過ぎずしてほぼ弁ぜん。然る後、往きて加里蒲爾尼亜を問い、以て前年の使に酬い、以て和親の約を締ぶ。果して能くかくの如くんば、国威は奮興し、材俊は振起し、決して国体を失うに至らざるなり」と。
また言えることあり。「鎖国の説は、一時は無事に候えども、宴安姑息の徒の悦ぶ所にして、始終遠大の御大計に御座なく候。一国に居附き候と天下に跋渉仕るとは、人の智愚労逸、近く日本内にても懸絶致し候事、いわんや四海においてをや。何卒大艦打造り、公卿より列侯以下万国航海仕り智見を開き、富国兵強の大策相立て候よう仕りたき事に御座候。また交戦の上を以て申し候えば、鎖国は一人の取籠りものの如くに御座候。前後に気を配り左右へ眼を使い昼夜とも安寝出来ざる故、終に気力弛み生捕に合い候事毎々に御座候。一時の戦略は如何ようとも出来申すべく候えども、永世へ掛け始終海岸防禦にのみ財力を竭し、国貧しく民窮するに至り大敵来攻ども致し候わば、一人の取籠者と同日の談にこれ有るべく候。外国の事情を知らずして徒に海岸を守り貧窮に困しみ候は誠に失策にこれ有るべく、英吉利、仏蘭西などの小国にてさえ万里の遠海へ渡り人を制し候は、皆々航海の益に御座候。この所早く御着眼これ無く候ては覚束なく存じ奉り候」。
彼が開国の識見、未だ一膜を隔てたるに係らず、その鎖国の陋習を洞察する、ここにおいてまた尽せりというべし。航海遠略は、実に彼の活ける経綸たりしなり。
彼また曰く、「吾曾て象山師に聞くことあり、云く、出交易は可なり居交易は不可なり、余曰く、国力強盛にて外夷を駕馭するに余らば、居交易もまた可なり、いわんや出交易をや。外夷の威勢に畏懾して已むを得ざるに出でば、出交易もまた不可なり、いわんや居交易をや。ただ出交易は識見を広め学芸を進むるの便あるのみ。象山師これを頷く」と。
以上の言う所に拠りて観察すれば、彼が決して鎖国論者に非ず、また無謀の攘夷論者に非ざるは、吾人敢て彼が識見を讃嘆する者に非ずといえども、また識認せざるべからざるものあり。ただその宇宙の大勢を達観し、経国の大計を画するに到りては、彼に向って望むべからず、また責むべからざるなり。
第十一 尊王
尊王的観念の我邦人心に浸染するや、久し。封建政治三百年の歳月と、制度と、学問と、風習とは、全くこの思想を発育し、助長する動線たりしなり。いわんや水戸派の如き、義公以来尊王を以て一個の宗教と做したるにおいてをや。彼の藤田東湖が嘉永の末、安政の初めにおいて、徳川親藩の重臣なるにも係らず、かえって胸間の大秘密を吐きて、天子の親政を主張し、天子国事に関すべからずと定めたる家康の憲法を破壊し、天子自ら天下に君臨し、将軍を使用する、手の指におけるが如くならずんば、以て大義を明かにし、人心を統一し、国力を振作する能わずといいしが如きは、すこぶる奇突の論たるが如しといえども、少しくその淵源と当時の情勢とに向って商量を費さば、その偶然にあらざるを知るにおいて余りあらん。
則ちこの尊王思想は、兼て醗酵したる液体が一度び外気に接して沸騰するが如く、嘉永、安政以来外交の刺激によりて、始めて天下の人心を奔競顛倒せしむる活力ある警句となりしなり。而して松陰の如きも、またこの思想を吸い、この思想に養われ、この思想の雄将となれり。
尊王と攘夷とは、当時においては殆んど異名同体、須臾も相離れざるの趣きありき。然れどもある者は、尊王よりして攘夷に来り、ある者は攘夷よりして尊王に来る。而して歴史的順序よりすれば、外より促し来る敵愾攘夷の念先ず点火し、内に蓄積したる尊王の念これに応じたるなり。則ち松陰の如きは、またこれ攘夷よりして尊王に来りたる者なり。彼は現実的攘夷家にして、空想的尊王家にあらず。これ彼が水戸派と少しくその色合を殊にしたる所以なり。素より彼は尊王家なり、その尊王の精神に至っては始終を一貫せり、而して終に至って倍々《ますます》発揚せり。然れどもこれあるがために、彼は尊国体の念よりして尊王の念に波及したることを忘るべからざるなり。それただかくの如し、故に彼は初めより討幕家たらざりき。殆んど終に至るまで討幕家たらざりき。而してただ攘夷の幕府に依りて行わるべからざるを観、国体の幕府に馮りて保つべからざるを観、ここにおいて枉げて討幕のまた已むべからざるを識認したり。然れどもその時においてすら、彼は討幕を以て最後の目的と為したるに非ざるなり。ただ国体を全うし、人心を提醒し、元気を伸暢し、国威を発揚するにおいて、已むべからざるが故に、ここに出でたりしなり。
吾人は事実に就いてこの言の当否を質すの責任を有す。
安政二年三月彼が月性に与えたる書中に曰く、「天子に請うて幕府を撃つの事に至っては、殆んど不可なり」と、これ月性に向ってその討幕を論駁したるなり。その理由如何、曰く、「兄弟牆に鬩ぐも外その侮を防ぐ、大敵外にあり、豈に国内相攻るの時ならんや」。これ明かに彼が一個の国民的論者たることを自白するものに非ずや。いわゆる彼が攘夷とは、この国民的統一、国体的保存、国権的拡張を意味するもの。また曰く、「大禁物は日本内にて相征し相伐すること誠に恐れ多し」と。また曰く、「幕府へ御忠節は即ち天朝への御忠節、二つこれ無く候」と、これみな月性に向って、その詭激の論を駁したるなり。また安政三年三月時事に感じ、作りたる詩中にも「朝廷を推尊し幕府を重んぜば、大義赫々として天下に見われん。然る後神州復た一新し、東夷北狄、赤県を仰がん」の句あり。これらを以て論ずれば、彼は殆んど公武合体論者に非ざる無きを得んや。彼は殆んどその反対党――少くも彼が門人の反対党――長井雅楽が主唱したる公武合体論の先鞭を着けたるものなるなからんや。またその浮屠黙霖に復したる書中にも「幕府一日感悟すれば、則ち朝を終えずして、天下平らがん」の言あり。これ明かに幕府を以て、実力的政府と識認したるものに非ずや。そのハリス来り、天下攘夷的血管沸騰したる後においてすら、彼はなお未だ幕府に絶望せざりしなり。その安政五年五月の「愚論」中にも左の言あり、
墨夷の撻伐を仰せ出だされ候わば、精忠義憤の人々は撻伐の愉快に正気を伸し、材臣智士はまた雄略を喜び、天下の人心一朝に天朝に帰向仕るべく候。左候わば幕府諸藩一人も服さざるはこれ有るまじくと存じ奉り候。幕府諸藩心服仕らずては曠代の大業は恐れながら覚束なく存じ奉り候。殊に幕府二百年来諸藩の統領仕り候事に付き、この心を服し候わば天下は一致仕るべく、徳川氏の兇徳、人みな厭き果て候よう天朝へ申上げ候者もこれ有るべく候えども、これは阿諛と嫉妬とに出で候事に付き、深く御評議遊ばされずては大事を誤るに至るべく、水戸、越前その外を察観仕り候処、徳川の一門にも随分忠義の国これ有り、加薩仙肥など頼母しく相見え候えども、丸にこれらへ御委任成され候わば、やはり義仲ならざれば董卓に御坐候。この処深く御勘考遊ばされ、幕府諸藩を心服さする御処置急務と存じ奉り候。かく申上げ候わば、幕府へ媚付き候見識と一概に罵詈する人これ有るべく候えども、愚論果して朝廷のために申上げ候か、幕府へ佞し候か、行末の所、御明鑑仰ぎ奉り候。
これ則ち京都の尊王攘夷的公卿に向って、その意見を示したるものなり。また以て彼が意見の在る所を見るべし。幕府とその利害を異にする向う見ずの尊攘的公卿に向ってすら、彼が言う所かくの如し、その実に討幕論者たらざるは、固より以て明白なりとす。
然れども彼が幕閣のいよいよハリスの言を聴きて、和親通商の条約を結ばんとするを見るや、その言往々激烈。而して彼はその幕府が天子の勅命を奉ぜず、また勅命を待たずして仮条約に調印するを聞くや、いよいよ積日の怒腸、一時に潰裂し、朝廷に向って後醍醐帝の北条氏を謀り給いたる遺策を献ぜり。曰く、「勅を下して幕府を責むべし」、曰く、「公卿を遣わして諸侯を遊説せしむべし」、曰く、「東叡山法親王を脱して仙台、米沢藩に託すべし」、曰く、「皇太子、親王、法親王は宜しく正議大諸侯に託すべし」、曰く、「天子意を決し叡山に臨幸あり、諸国の義士、祠官、僧侶を募るべし」と。これ殆んど眼中幕府なきなり。否、既に幕府を敵視したるなり。その幕府を目するに「賊兵」と呼び、その「征夷は天下の賊なり」と叫び、その長州侯に向って「今日早く志を皇室に帰して、屹然皇室の依頼となること、智者に在りて何の擬議かこれあらん」といい、かつまた長州侯に勧めて「兵庫海防を辞すべし」といい、「幕府悉く勅旨に違うのみならず、また朝廷を威嚇せんとす」と罵り、堀田備中守を目して「堀賊」といい、その大原三位に長州に下らんことを勧め、「御父子様間御下向遊ばされ候わば、及ばずながら弊藩の力にても御身柄を幕府へ渡し候ようの事は断然仕らず候、左候て弊藩御逗留中に弊藩有志の者ども九州辺へ差廻し、勤王の義申し談じ仕るべく候。最早かく成り行き候上は、官軍賊兵の姿忽ち両端に相分れ候義に付き、有志の士は悉く弊藩まで駈付け申すべく候」と説き、また「徳川既に衰運に趨き候折柄の義に候えば、大坂陣と同日の論には御座無く候」というたるが如きは、明々白々既に討幕に決したるを見るべし。その安政五年九月、井伊直弼が大獄を興せる後において、大原卿を通じて京都に献言し、「幕府より何程逆※ を奪い悖逆の処置ありとも、御頓着なく後鳥羽、後醍醐両天皇を目的として、御覚悟定められば、正成、義貞、高徳、武重の如き者累々継出でんは必然なり」といいしが如きは、いよいよ以て全然討幕に決したるを見るなり。
これに由りて観れば、彼が幕府に対する傾向は、瞬間において、実に大変化を来せり。その安政五年五月における愚論中「徳川氏の兇徳、人みな厭き果て候よう天朝へ申上げ候者もこれ有るべく候えども、これは阿諛と嫉妬とに出で候事に付き、深く御評議遊ばされずては、大事を誤るに至るべく」といい、同じく七月においては「征夷は天下の賊なり、今措きて討たずんば、天下万世、それ吾れを何とか謂わん」といいしが如き、未だ五十日を経ざるに、非常なる激進を成したるを見るべし。然れどもその六月において、幕府が米国との仮条約に調印したる事実を知らば、この事実の如何に松陰が幕府に対する思想に向って変化の楔子となりたるかは、固より多弁を俟たざるなり。
蓋し以上の事実に拠りて観れば、彼は初めより討幕家に非ざりしを知るべし、また廃幕家に非ざりしを知るべし。また幕府をして徒らに虚器を擁せしむるの考に非ざりしを知るべし。彼は尊王家に相違なしといえども、その主脳は日本の国家に在り。国家的観念、敵愾的観念、外国の侮辱に対する猜疑心、その自国同胞の卑屈に反撥する慷慨心等は、実に彼が満身の熱血を沸騰点まで上衝せしめ、この熱血の凝る所遡りて尊王の観念となり、而してこの観念と両立する能わざるに到りて、遂に討幕とまで進みしなり。則ち攘夷は一国の大事なり、天皇は一国の最上位に在しますなり、その一国の最上位に在す天皇の詔において、一国の最重事たる攘夷を命じ、下田条約を拒絶すべしと命じ、幕府これを奉ぜず。ここにおいてか勢い幕府を諫争し、彼れ聴かざるにおいては、勢い討せざるべからざるに至る。而して彼れ聴かざるのみならず、かえってその兇威を逞うし、外交事迫るの後既に朝廷に分配したる権力すら、再び幕府に回収せんと欲するを見る。彼この時において焉んぞ遅疑せんや。彼がこの時において、その同志を募り、安政大獄の下手者、間部詮勝を刺し、以て尊王討幕軍の先駆たらんと欲せしも、また宜ならずや。
窃に惟うに、嘉永、安政より元治、慶応に※ 《およ》んで三個の思想あり。一は原動的思想にして、他は反動的思想なり、而してその中間に在るは折衷的思想なり。即ち一方においては、尊王の思想、天子に政を親らせしめ、一国の全権を帰せんとするの思想にして、水戸派実にこれが魁首たり。この思想中には後日の将軍たる、徳川政府最後の将軍慶喜公すら含蓄したるものにして、烈公、藤田の徒は申すにも及ばず、その散じて、天下の尊攘家を喚起し、その流れて薩摩に入りたるもの、即ち西郷隆盛の如き、烈公、藤田らの夢想外にも、論理的結果を極端まで押し詰め、徹頭徹尾倒幕論と為りたるもの尠からず。即ち彼らは尊王親幕に始まり、尊王倒幕に終りしなり。而してこれに反対して何処何処までも幕府の政権を維持し、敢て仮借する所なからんと欲したるは、則ち彼の井伊直弼の如き、これが魁首にして、後日において小栗上野介の如きもまたその一なりと謂わざるを得ず。彼らは幕政に非ざれば、天下を救う能わずと思いしにも非ざるべし。然れども徳川氏に対する情よりして、また従来の行懸りよりして、その根脚をここに定めたりしなるべし。特に小栗上野介の如きは、既にその徳川氏の支うべからざるを識りたるに拘らず、なお拮据経営、あるいは陸軍を整頓し、あるいは製鉄所、造船所を設け、あるいはまた国債を募り、これを以て一挙諸強藩を平げ、以て徳川氏の威権を維持せんとしたるが如きは、人各々その仕うる所に向って職分を忘れざるものにして、また哀むに足るものあり。
もしそれ中間においてはいわゆる公武合体説なるものあり、井伊の如く時勢を測らず、天下の勢已に変ずるの後において、強いてこれを矯めんとするが如き、舟を刻んで剣を探るの策を用いず、また天皇親政の名の下に、浪士専制の実を行うが如き事を欲せず、公武合体以て内、人心を固め、外、外国に衝らんと欲したる者無きに非ず。彼の島津斉彬の如きはその首領にして、幕士中における勝安芳の如き、もしくは長州における長井雅楽の如き、もしくは横井小楠、佐久間象山の如きも、その実際的経綸は、ほぼこれと同一なりしやを想見せずんばあらず。彼の大久保利通の如きも、当初はこれに相違なかりしといえども、長州再征の時に到り、幕政のいよいよ以て援くべからざるを看破したるがために、遂に倒幕に変じたるが如きを見るなり。彼の島津三郎、松平春岳の如きは、固よりこの中に指を屈せらるべき者なり。その薩摩が討幕の密勅を奉ずるに至りたるが如きは、これ西郷、大久保の意にして、三郎の意に非ざるやまた疑うを須いず。
概して言えば、当時においては先ずこの三個の意見並立し、而して彼の嘉永、安政以後二十余年間の歴史は、この三個の意見の交互消長の記録というも不可なきが如し。もしあるいは因循姑息、迂僻固陋、放誕謬戻の意見を以て、あるいは幕府のためにし、あるいは朝廷のためにし、もしくは風潮を視、夕に変じ、朝に換わるが如き雷同附和者流に至っては、挙げて数うるに足らず。然れどもかくの如き者は、全局の方向を決するにおいて、何の力も無き者なれば、数えざるもまた差支なきなり。
これら三個の意見のみ単純に存在するときにおいては、当時の時勢を甄別するにおいて迷惑少なしといえども、この意見に対して、また攘夷、開国、鎖港の意見相加わり、次に避け難き奇縁よりして、佐幕は開港と一致し、尊王は攘夷と一致し、鎖国と一致するに至り、紛々として乱麻の如し。これ思想の調和よりここに至りしに非ず、歴史的の行懸りよりここに至りしなり。然れば彼の佐幕論者の開港を為す、必らずしも開港の利を認めたるに非ず、勢いここに出ざるべからざるがために然るのみ。例せば井伊直弼が朝命を待たずして下田条約に調印したるが如き、実に開港の歴史において特筆大書すべき事柄たるに拘らず、彼は果して開港の利を看破し、開国の真理なるを識認して、ここに到りしか、恐らくは然らざるべし。彼が剛毅なる、彼が政治上の責任を重んずる、彼が政治上の胆略に富む、吾人これを識認す、ただ経世的大眼光に至っては、未だこれを識認するの事実を発見する能わず。彼は開国的思想においては、果して堀田備中守ほどに進みおりしか、左なくとも阿部伊勢守ほどに進みおりしか、吾人は容易にこれを断言する能わず。然れども彼の位置を看よ、彼は鎖国すべからざる勢に逼られたり。もし鎖国せんか、彼は外においては外国の逼る所となり、内においては攘夷家の要する所となり、みすみす幕府を挙げて、死地に陥らしめざるべからざるに至らん。ここにおいてか遂に開国の政策を取らざるべからざるに至れり。もしそれ岩瀬、小栗の徒の如きは、親しく外人に接しその心よりして開国家たりしに相違無かりしといえども、その他に至っては、いわゆる幕府が開港の難局を引受けたるに際して、幕府を助くるの策は、ただ一に開国に在り、和親に在りと、識認したるがために、然るなりといわざるを得ず。
彼の尊王家のいわゆる鎖国意見もまた然り。藤田氏が真個の主戦論者ならず、水戸烈公がまた真個の主戦論者ならざるは、既に世人が知る所、その嘉永六年烈公が阿部伊勢守に書を与え、「戦うの力ありて始めて和すべし、故に和は当路者胸中に秘して、復たこれを口にする勿れ、全国に向って敵愾の人心を鼓舞作興して、始めて能く和の実を挙ぐべし」といいしに拠りて知らるべし。その晩年春岳公に向って「余は攘夷にて立て通せり、君の如きはなお春秋に富む、宜しく顧慮する所なかるべからず」といいしが如き、いよいよ以て真実の鎖国家に非ざるを知るべし。然れどもその末流に至っては、真に鎖国を以て已むべからざる大計と認めたる者もありしなるべし。何となれば、いわゆる「七里の江山犬羊に附す」と叫びしが如き、尊王の精神と国体の精神と、即ち神孫の神聖、神国の神聖と相聯貫したる以上は、外夷腥※ 《せいせん》の気をして神国を汚さしむる勿れとは、これ思想の伴念において、必然の結果なればなり。
然れどもまた中には、攘夷の真に行わるべからざるを知り、幕府を倒すの一念よりして、その行わるべからざることを幕府に責め、これを以てその倒幕の目的を達せんとしたる者、尠からざりしなるべし。概して論ずれば松陰は、攘夷のために、倒幕を唱えたれども、その後継者は、倒幕のために、攘夷を唱えたるなり。目的と手段とは、実に顛倒したりしなり。文久、元治の頃に至っては、この種の攘夷家最も繁殖したるに相違なし。即ち攘夷の思想は、かくの如き関係よりして遂に尊王の思想と、勢いの上において、聯絡するに至れり。然れば彼の公武合体論者の如きは、遂に鎖国ともつかず、開国ともつかず、和親ともつかず、主戦ともつかず、ただ国論に依り、多数によりて決すべしというが如き、極めて曖昧なる位置に立ちしなり(中には横井小楠の如き、大胆なる開国説を主張し、また長井雅楽の如き経綸的開国論の公告者ありしにせよ)。これ何となれば彼らは公武合体を目的とする者にして、開国を口にするときにおいては、尊王的の攘夷家を沮絶反動せしめ、攘夷を宣言するときにおいては、佐幕的開国家を疎隔せしむるを慮りてのみ。然れども彼らの真意の開国に傾きたるが如きは、また冥々《めいめい》の裡にこれを察するを得べし。何んとなれば彼らの中には時務的経綸において、他の二派に対し、一頭地を抽んでたるもの多ければなり。
故に当時の事情より察すれば、真個のいわゆる鎖国家主戦家は、固に僅少にして、その僅少の人数すら歳月と共に、知識と共に、実際の閲歴と共に、いよいよ僅少となり、遂にその攘夷鎖国論者が幕府を倒したる暁においては、復た攘夷鎖国の事を口にせざるに到れり。これ彼らが鎖国に心無かりしを知るべし。
吾人をして再び繰り返さしめよ。彼は幕府を倒さんがために攘夷論を唱えたるに非ず。攘夷の実を行う能わざるがために、その一天万乗の君主が攘夷を勅し、幕府これを沮みしがために、遂に幕府を倒すの已むを得ざるに到りしのみ。而してその攘夷なるものは、無謀の攘夷に非ず、いわゆる敵愾的精神を発揮して、遠馭長駕を事とし、溢れて疎枝大葉の侵略論となるも、決して自屈籠城の鎖国的臼※ に陥らざりしなり。その下田条約を拒絶すべしといい、米魯修交を断るべしといいしが如きも、ただこれ敵愾的精神を発揮するの方便にして、その言う所、鎖国家の口吻に類するが如き事あるも、彼が本心に非ざるや明かなり。もしそれ尊王の大義に至っては、兼て封建の秩序、学問、風習の素養を享けたるもの、乍ち国家統一、国体保維、国威顕彰の大機に遭遇し、これより聯誘激発し来るものにして、彼の眼中には、尊国、尊王二致無かりしなり。而してこの尊国尊王の大義行う能わざるがために、討幕の先登者となりしなり。
第十二 幕政の変局
家貧うして良妻を懐い、時艱にして良相を懐う。徳川末世の晁錯たる水野越前守は、廃蟄後、未だ十箇月ならざるに、再び起って加判列の上席に坐しぬ。これ何故ぞ、外交の迫圧、余儀なくも幕閣をして、ここに至らしめたるのみ。曰く、和蘭国王は、軍艦を艤して、開国和親の忠告書を齎らしたる特命使節を派遣すべし、曰く、英仏交も琉球に迫り、交易を促がす。誰れかこの際において、身を抽んで、その措置に任ずるものぞ。敵も味方も、目指すものは、ただ水野あるのみ。
手負うたる猪は、さらに幾倍の速力を以て、突進直前す。彼は既に内政に失敗せり。彼が手腕はただ外交の上に剰されたり。彼は内政改革において、水戸烈公を援いて、その味方としたる如く、外交においても、彼と結托して、以て為す所あらんと欲せり。嘗て驕慢に募れりとの咎めを受けたる烈公は、再び顔を世に出だせり。羽翼既に成る、以て高飛すべし。彼の眼は将に来らんとするの大暴風を射れり。むしろ他より逼られて開国するよりも、我より進んで慶長、元和の規模に復り、内は既に潰敗したる士気を鼓舞し、外は進取の長計を取らんと欲せり。水戸烈公も七分までは、彼の賛成者たりき。彼は果してその経済を実行し得たるか、曰く、否、大いに否。
彼はその経済を以て、同僚に諮れり、同僚みな否とせり。彼は重ねて老中、若年寄、寺社奉行、勘定奉行、長崎奉行、大目付、御目付等の大評定を開けり。衆議みなこれを否とせり。彼はさらに御前評議をなせり、而して将軍またこれを否とせり。彼を用いんがために、再び彼を起したるの幕閣は、彼の意見を用うる能わず。彼が去るべきの時は早くも来れり。
彼は御前評議の席において、決然として曰く、「既にかく鎖国と決する上は、和の一字は、永劫未来、御用部屋に封禁して、再び口外する勿れ。満坐の方も果してその覚悟あるや。余が如きは不肖ながら、一旦外患の迫るにおいては、一死以て君に酬い、武門の面目を辱めざるべし。この心日光廟も、弓矢八幡も照覧あれ」と。将軍矍然たり、衆みな黙然たり。ただ彼が同僚阿部伊勢守は、涙眼以て答えて曰く、「委細承知仕りぬ」と。彼は弘化元年六月二十一日に出で、同二年二月二十二日を以て去る。この人一たび去りて、幕閣また済時の宰相なし。
外交の急迫は、櫛の歯を挽くが如し、和蘭の使節も来れり、忠告書をも受取れり。黒船の影は日一日より重くなれり、然れども幕閣は、閑々然として泰平を粧えり。嘉永五年に到りては、和蘭事務官は、明年において米国軍艦が、和親条約締結の目的を以て、その使節を乗せ来る警報を伝えたり。然れども首相阿部伊勢守を始めとして、幕閣は半信半疑にこれを放擲し、さらに何の準備もなさざりき。而して果然嘉永六年六月三日米国軍艦は、舳艫相銜み、忽然として天外より江戸湾の咽吭なる浦賀に落ち来れり。六無斎子平が、半世紀前に予言したる夢想は、今や実現せり。同六日米艦本牧に入る、幕閣みな震う、会議夜に徹して、さらに定まれる廟算なし。廟算上に定らざれは、驚慌下においてさらに甚し。当時の事情を記するもの曰く、
この時浦賀その外海岸諸家の陣屋より昼夜を分たず注進の汗馬、海陸飛脚の往来櫛歯を挽くよりも忙がわしく、江戸の大都繁華の巷も俄に修羅の衢に変じ、万の武器、調度を持運び、市中古着商う家には陣羽織、小袴、裁付、簑笠等をかけならべ、鍛冶を業とする者は家毎に甲冑、刀槍を鍛え、武器商う店には古き武器を累ねてその価平時に倍せり。海辺に家宅ある士民、老幼婦女の立退かんとて家財雑具を持運ぶ様、さしもにひろき府下の街衢も、奔走狼狽して錐を立つべき処もなし。訛言随って沸騰し、人心恟々として定まらず。
如何に大狼狽したるよ。元和偃武以来、蔵めて鞘にありし宝刀も、今はその心胆と共に錆びて、用に立つべきもあらず。和といい、戦という、共にこれ俳優的所作に過ぎず。独り封建社会の継児たる智勇弁力の徒が指点して待ちたる動乱の機は来れり。※ 《ろう》上に太息せる陳勝、爼辺に大語せる陳平、窮巷に黙測する范増、※ 上の書を玩味する子房、彼らが時は既に来れり。舞台変ずれば役者もまた変ぜざるべからず、今や変ずべきの時は来りしなり。松陰の如きまたその一人のみ。臥すもの起ち、起つもの奔る、天下動乱の機は既に熟したるなり。
統一せられたる政権は無意識的に分配せられたり。看よ、天下の大権を隻手に集めたる幕府は、今や余儀なくも、これを朝廷と諸侯とに分配せり。外交の事迫るや、その出来事を朝廷に奏聞せり、奏聞するは則ち勅裁を仰ぐの漸なり。和戦の議を諸侯に諮れり、諸侯に諮るは、諸侯に左右せらるるの階梯なり。而して朝廷の議も、諸侯の論も、みな彼の智勇弁力の徒が、その間に周旋煽揚したるに外ならず。ここにおいてか政権は沈黙の中に受授せられたり、社会は冥暗の中に革命せられたり。人は伏見、鳥羽の砲火によりて、革命の業行われたりという。焉んぞ知らん、その十五年前において、幕府は既に精神的自殺をなし遂げたるを。「外よりは手もつけられぬ要害を、内よりやぶる栗のいがかな」。幕府は倒れり、さらに誰を咎むべき。
徳川幕府の創業者の遺訓に曰く、「越方行末を思い新法を立て、家を新しくする勿れ、無調法なりとも、予が立置きたる家法を失い給うべからずと申すべし」と。然れども彼が夢想せざりし新要素は、政治の大難題となりて現われ出でたり。内に対しては幕府の制度は、随分便利なきにあらざれども、外に対してはこれほど面倒なるものはあらず。何となれば天皇必らずしも国家を統治せず、将軍必らずしも軍務の総督官のみならず。名においては諸侯みな天皇の臣なれども、実においては将軍の臣なり。かくの如く名実相違、自家衝突の中において、自から円融活滑の制をなしたるものなれども、外に対する点においては、かかる雑駁にして錯綜したる非論理的政制の甚だ不都合なるは、余儀なき次第といわざるを得ず。例えば誰が主人やら、家族やら、訳けの分らぬ所に面白味あれども、客に接する場合においては、主人相い識らざる家は、客も迷惑なるべく、此方も迷惑なるべし。苟くも事勢を揣摩するものは、天子親政の禁ずべからざる、藤田東湖を俟ちて、而して後これを知らざるなり。然らば則ち吾人は決して当時の幕閣の自からその利器を人に渡したるを怪しむべからざるなり。
吾人は阿部伊勢守を以て、庸相というべからず。彼は夏日恐るべき水野の後を承け、冬日親むべき政略を取れり。如何に彼が大奥の援引によりてその位を固うしたるにせよ、如何に彼が苟安を偸取したるの譏りは免るべからざるにせよ、如何に因循姑息の風を馴致し、また馴致せられ、弊船に坐して深淵に下るに一任したるにせよ、彼は少くとも大臣たるの器を具えたるを許さざるを得ず。彼は一身を以て朝廷、幕府、諸侯を連串するの鉄鎖となり、以て政権を三者に分配しつつも、なお幕府を以て中心点となし、上は朝廷に接し、下諸侯に連り、以て調和一致の働きをなさんと欲せり。彼はこれがために外藩諸侯の魁たる薩摩と結托せり。幕府の親藩にして朝廷に最も縁故ある水戸を馴撫せり。彼が世を終るまでは、諸侯に違言なく、水戸烈公の如きも、動もすれば牴牾扞挌したるに係らず、なお幕府の純臣たるを失わざりしなり。彼にして死せずんば、あるいは公武合体の変則制を霎時の間建立したるも未だ知るべからず。惜しむべし彼は安政四年六月を以て死せり。彼一たび死す、水戸老公はあたかも放たれたる虎の如し、その幕閣より遠ざかるに比例して朝廷と密着し、一孔生じて千瘡出で、遂に容易ならざる禍機を惹起せり。
幕閣は責任を分たんがために朝廷に奏上せり、諸侯に諮詢せり、而して未だ責任を分つに及ばずして、早くも政権を分てり。今は朝廷と諸侯とは、中間の幕府を通さずして直接の交渉を開けり。彼らは幕府が与うるに意なき政権のみを握りて、その与うるを目的としたる責任を辞せり。彼らは幕府に対しては総ての権理者にして一の義務者にあらず。幕府はただ彼らが無理なる注文に応じ、無理と知りつつ応ずる振りし、彼らが無責任なる行為の保険者となり、賠償者となり、遂にその奔命に疲れて自から斃れたり。豈にまた憐むべからずや。而してその彼らとは朝廷にあらず、諸侯にあらず、実に彼の知勇弁力の徒たるを忘るべからず。
阿部に継げる堀田正篤の如きは、その外交的智識よりすれば、当時において一省の長官たるにおいて余りあり。然れども双肩以て内憂外患を担う乱世の宰相たる器にあらず。もしそれ徳川最後の力ある宰相を求めば、吾人は猶予なく指を井伊直弼に屈せざるを得ず、彼はその力量と責任を知るとよりすれば、直ちに水野忠邦以後の一人なり。
彼の出で来る、継嗣論その楔子たる疑うまでもなし。当時位を極め、驕りを極め、徳川の隆運を極めたる家斉の孫家定、将軍の位に在り。彼多病にして懦質、固より将軍の器にあらず、故に前将軍家慶予じめその不肖を知り、水戸烈公の子慶喜をして一橋家を継がしめ、以て他日将軍たるの地を為さんとせり。水戸派に属する尊攘党は、彼が水戸烈公の愛子なるを以て、彼に思を属したり。幕府の当途者及び要衝に立つ能吏は、彼が一方においては尊攘党の望を負い、他方においては英才賢明なるの為人を聞き、彼に思を属したり。彼さえ将軍とならば、上は朝廷の思召にも叶い、下は諸侯の望をも帰し、内は幕府の中心点を固うし、外は天下の威信をも繋がんと思えり。約言すれば彼を以て公武合体、朝廷、幕府、諸侯、三位一体の権化となせり。諸侯を問わず、公卿を問わず、浮浪を問わず、幕臣を問わず、彼らが期せずして儲君擁立運動に従事したるも、また宜べならずや。
将軍家定は、賢明年長なる儲弐出で来る時には、己れは押込隠居とならざるべからざるを知れり。彼はその父前将軍の一橋慶喜を愛したるに反比例して、彼を好まざりき。いわんや幕政動機の潜伏処たる大奥の浸潤あるにおいてをや。ともかくも井伊直弼は、宮廷隠謀の中より幕閣の御用部屋に出で来れり。彼は一死を以て将に倒れんとしたる幕政を挽回せんと欲したり。然れども彼を援引したるものは、実に儲君論その主眼にして、彼は実に一橋党のために擁せられて、ここに至りたるを忘るべからず。
井伊直弼は、儲君論よりして、水戸派と反対したるか、水戸派と反対したるが故に、儲君論に反対したるか。その主客の何の辺にあるか、今日においてこれを揣摩する能わざれども、彼は確かに将軍家定の知遇に感激し、一死を以てこれに酬いんと欲したり。彼は確かに一橋卿を擁立するは、幕府の政権を孤弱ならしむる所以なるを看取したり。彼は確かに方今の大計は、阿部伊勢守以来、上朝廷に下諸侯に分配したる政権を、幕府に蒐集し、東照公以来独裁制を擁護するにあるを※ 見せり。彼の満腹の経綸は、ただ幕政復古にあり、彼が満腔の熱血は、ただ幕府政権の一毫毛をも、他より手を触れしめざらんことにありき。彼が眼中国家ありしや、吾人これを知らず、彼が眼中徳川氏あり、これがためにその身を忘るるに至りては、吾人確かに保証せんと欲するなり。
死を知る易からず、彼既に身を献ぐ、彼は天下において一の恐るべきものを見ざるなり。彼は天下を相手として、赤手を揮うて大挑戦を試みたり。如何に彼が挙動の惨酷、猛烈なりしかは、左に掲ぐる冷かなる日暦これを証して余りあるにあらずや。
○安政五年四月二十三日、井伊直弼大老に任ず。
○同六月二十日、勅許を俟たず亜米利加仮条約に調印す。
○同六月二十二日、堀田備中守、松平伊賀守を退け、太田道醇、間部詮勝、松平和泉守を老中となす。
○同六月二十三日、一橋公登営、井伊と論判あり。
○同六月二十四日、水戸烈公、一橋卿、尾張卿、松平慶永登営、井伊と論判す。
○同六月二十五日、紀州宰相世子となる。
○同七月五日、尾卿隠居慎み、水戸烈公駒込に慎み、水戸慶篤卿、一橋慶喜卿の登営を停め、松平慶永に隠居慎みを命ず。
○同八月八日、将軍の喪を発す(実は七月五、六日の間にあり)。
○同八月八日、密勅水戸に下る(大獄の近因)。
○同八月十七日、鵜飼幸吉勅書を奉じて水戸邸に入る(勅書は井伊の集権統治政策とは、氷炭相容れざるもの)。
○同八月二十八日、間部、太田の両閣老水戸邸に至り勅書を示すことを停む。
○同九月三日、間部詮勝発途上京。
○同九月七日、梅田源次郎を捕う。
○同九月十七日、間部京都に入る。
○同九月十八日、水戸の京都留守鵜飼父子を捕う。
○同九月十九日、九条公復た出でて事を視、近衛公内覧を辞す(九条公は去る四日関東内応の非難を被り、公卿の衆議に迫られて辞職したるもの)。
○同九月二十二日、鷹司家、一条家の家臣其他数十人を捕う。鷹司公父子退く。
○同九月二十七日、日下部伊三治を江戸に捕う。
○同十月四日、藤森恭助就縛。
○同十一月二十三日、伊達遠江守を隠居せしむ。
○同十二月二十一日、三条実万民家に退居す。
○同十二月晦日、間部始めて参内す。
○安政六年二月六日、間部、九条公と謀り、水戸に下せし勅書を収還するの書を造る。
○同二月十八日、粟田宮を要して謹慎せしむ。
○同二月二十日、間部東帰す。
○同二月二十六日、山内豊信隠居(井伊諷して)。
○同三月十日、京囚下着、各大名に預けらる。
近衛殿老女村岡、御蔵小舎人山科出雲、三条殿家来丹羽豊前、一条殿家来若松杢、久我殿家来春日讃岐、三条殿家来森寺困幡、一条殿家来入江雅楽、大覚寺門跡内六物空万、三条殿家来富田織部。
○同四月十七日、水戸家老安島帯刀、九鬼長門守に預けらる。
○同五月三日、鷹司、近衛、三条三大臣の落飾。
○同五月二十四日、吉田松陰江戸に檻送を命ぜらる。
○同六月十五日、英国と交易の条約を定む。
○同六月二十四日、京都奉行大久保伊勢守西丸留守居に転ず(長野主膳のために陥れられたるなり)。
○同七月二十三日、露と条約を結ぶ。
○同八月二十八日、一橋慶喜隠居慎み、水戸烈公水戸表へ永蟄居、水戸慶篤卿差扣え、岩瀬、永井職禄を奪い謹慎、川路隠居慎み、太田備後守慎み。(この日死因処断多し)。
○同九月十日、駿府町奉行鵜殿民部少輔隠居差扣え、黒川嘉兵衛、平山謙二郎、平岡円四郎免官差扣え(一橋擁立の罪の嫌疑なり)。
○同十月七日、橋本左内、頼三樹三郎刑斬せらる。
○同十月十一日、亜国公使登営、松平容堂に慎みを命ず。
○同十月二十七日、吉田松陰刑斬せらる。
○同十二月一日、村垣、小栗、木村、勝、米国に本条約交換として派遣せらる。
○同十二月十六日、勅書返納の騒動水戸に起る。
○万延元年、安藤対馬守老中となる。
○二月、勅書返納の騒動水戸に熾んなり、烈公制する能わず。
○同三月三日、井伊直弼登営途中桜田門外において、水戸浪士のために襲殺せらる。
彼が職に在る、未だ二年に満たず、然れどもその険胆辣腕は、実に天下を震動せしめたり。彼は専ら威福を逞うせり、然れども威福を逞うせんがために然するにあらず、政権の分裂を杜ぎ、主権の統一を幕府に占めずんば、天下の事決して為すべからざるを信じたるがためのみ。而して彼は大勢の既に去りたるを知らざるなり。
彼は責任を知るの政治家なりき。然れども彼は一方においては事物の真相を察する烱眼あるに係らず、いわゆる天下の大勢を既に来れるに攫み、未だ至らざるに察し、将に成らんとするに備うるの経世的大眼孔と経世的大手腕とを欠けり。彼が水戸を押えて京都を圧したるが如き、あたかもこれ吭を縊して背を拊つの政策にして、眼快ならざるにあらず、手利ならざるにあらず。然れども彼は自から大勢調子の外に立てり。彼は経世的眼孔においては、水野に及ばず。その天下の大機を、平正穏当の間に補綴し、人をしてその然るを覚えずして然らしむる経世的器度においては、阿部に及ばず。阿部は骨弱く志薄しといえども、なお大政治家たる雅量あり。水野は気迫り意固しといえども、なお大政治家たる遠識と硬腕あり。井伊直弼に至りては、大宰相の特質たる一「忍」字と一「信」字を把持したるに相違なしといえども、憾むらくは彼が不学無術、短見狭量にして、遂に空しく惨禍に罹りしを。
三人の性行各々同じからざるは、彼らが水戸烈公に処したる措置を以て、その一斑を卜すべし。水野は烈公を籠絡して、自家薬籠中のものとなさんとせり。彼が天保の内政改革は、実に烈公の協賛を経てこれを行えり。彼が弘化の外政改革も、また烈公の協賛を経てこれを行わんとせり。彼果して烈公の傑物たるを認識して、かく倚頼したるか、そもそもその虚名の天下に高きを利用して、以て天下の望を納めんと欲したるか。
阿部に至りては、烈公の実に政治的大要素なるを看取したり、而して実に幕政の前途に横わる厄介物なるを看取したり。故に彼は慰撫馴養、あたかも驕児を遇する如く、その厄介をなさしめざらんと欲せり。彼が世を終るまで、烈公は不平ながらも、遂に幕閣に対して大なる遺言なく、また軌道外の彗星的運動をなさざりしなり。
直弼に至りては、彼を全く敵として遇せり。彼の力は能くその敵を挫きたるに相違なきも、彼を激せしめ、彼の同類を激せしめ、その末流を激せしめ、遂に天下の禍機を潰決せしめ、また収拾する能わざらしめたりき。
時勢同じからざるが故に、敢て一概に論ずる能わずとはいえ、とにかく彼らの人物如何を察するに足らん。吾人は井伊の胆略を嘉みすと同時に、その規模の小なりしを憐まざるを得ず。
幕政の総体について論ずれば、井伊は風の神にして阿部は太陽なり。井伊の猛※ 《もうひょう》疾風は、むしろ人をして外套を固緊せしめたり。吾人は井伊が責任を知る男児たるを許す、その経世の偉略ある政治家たるを許す能わず。
人あるいは井伊を目して開国家という、然り、彼は開国をなせり、然れども開国家にあらざりき。彼が勅許を経ずして米国仮条約に調印したるが如きは、開国に向って大歩急転したる偉業にして、彼が開国家としての功徳頌すべきもの浅からずといえども、これ彼が自動的に然せしにあらず、従来の行懸りに迫られ、岩瀬肥後守、松平伊賀守の苦請に応じ、満腔徳川氏の威信を重んずるよりして、止むを得ずここに至りしなり。その功は讃ずべし、その開国家たるの眼識は、漫に彼に許す能わず。
約言すれば水野は外交的大規模よりして、内政を緊張せり。井伊は内事的経過よりして、外交を拡張せり。彼が在職の日たる、外交上の一大過渡の一大時機たりしに係わらず、彼は事実においては、外交の上について多くの関渉を有せざりき。彼は自からその局に当らざりしのみならず、彼が思慮は、政権統一の一面に集注して、また外交問題に及ぶに遑あらざりしなり。彼は余儀なき場合に迫られて、余儀なくも断じたり。然れども外交の上について、彼が箇人的経綸の徴すべきものに至りては、吾人不幸にしてこれを見ず。吾人が経世的眼識において、むしろ水野に与して彼に与せざるは、職としてここに存す。
然りといえども一世の輿論と戦い、天下の趨勢に抗し、愚人と争い、智者と闘い、社会を挙げて、その敵たるも顧慮する所なく、猛然として驀進したるもの、豈にそれ威を弄し権を玩ぶためのみならんや。彼の述懐に曰く、「春浅み野中の清水氷り為て底の心を汲む人ぞなき」。吾人は今日においても、彼が苦衷を了せずんばあらず。而して当時その苦衷を了せられずして、遂に非命に死す。詩人歌うて曰く「落花紛々、雪紛々、雪を踏み花を蹴って伏兵起る。白昼に斬取す大臣の頭、噫※ 《ああ》時事知るべきのみ。落花紛々、雪紛々、あるいは恐る、天下の多事ここに兆すを」。然り、天下の多事はこれより兆せり、彼は明らかに彼の首を以て、その政策の失廃を天下に広告したり。
〔註〕左に掲ぐるは、和蘭王の忠告書、及び幕閣より与えたる、返書なり。
鍵箱の上書和解
この封印する箱には和蘭国王より 日本国君(征夷大将軍を指し奉るなり)に呈する書簡の鍵を納む。この書簡の事を司るべき命を受る貴臣のみ開封し給うべし。
暦数千八百四十四年二月十五日(天保十四年癸卯十二月二十七日に当る)
瓦剌汾法瓦(和蘭国都)に記す
和蘭国王密議庁主事
名花押(文字読むべからず)
長崎所訳名氏アー・ゲー・アーフアンラブハン
鍵箱の封印和解
王の密談所
書簡外箱上書和解
日本国君殿下 和蘭国王
書簡和解
神徳に依頼する和蘭王兼阿郎月(払朗察国の地名)納騒(独逸国都の地名)のプリンス 爵名 、魯吉瑟謨勃児孤(和蘭国の地名)のコロートヘルトフ 爵名 微爾列謨第二世、謹んで江戸の政庁にまします徳威最高、威武隆盛なる大日本国君殿下に書を奉じて微忠を表す。冀くは 殿下観覧を賜いて、安寧無為の福を稟け給わん事を祈る。
一、今を距ること二百四十余年前に、世に誉れ高くまします 烈祖家康公より信牌を賜わり(慶長五年庚子和蘭船始めて来り、同十四年己酉七月五日神祖より御朱印を賜う。己酉より今茲甲辰に至り二百三十六年なり)、我国の人貴国に航して交易することを許せしよりこのかた、その待遇浅からず、甲必丹年を期して殿下に謁見するを許さる(右は甲必丹江府の拝礼毎年なりしに寛政二年庚戌より五年目に定り、ここに年を期してというは蓋し延年を指していえるなり)。聖恩の隆盛なる、実に感激に勝えず。我もまた信義を以てこの変替無き恩義に答え奉り、貴国の封内をして静謐に、庶民をして安全ならしめんと欲す。然りといえども今に至るまで書を奉るべき緊要の事無く、かつ交際の事及び尋常の風説は抜答非亜(瓜哇島の府名なり。元和五年己未和蘭の人全島を奪い、闍瓦剌城を改め抜答非亜という)の総督より告奉るを以て、両国の書を通ずることあらざりし(両国の書を通ずることなしというは誤なり。○慶長十四年己酉七月二十五日、同十九年壬子十月神祖より和蘭国王へ御復書あり。蓋し和蘭歴代治平の日少きを以て、文献徴すべきことなきに由るのみ)。
今ここに観望し難き一大事起れり。素より両国の交易に拘るに非ず、貴国の政事に関係する事なるを以て、未然の患を憂えて始めて殿下に書を奉る。伏して望む、この忠告に因りてその未然の患を免れ給わん事を。
一、近来英吉利国王より支那国帝に対し兵を出して烈しく戦争をせし本末は、我国の船毎年長崎に到って呈する風説にて既に知り給うべし。威武盛んなる支那帝国も、久々戦いて利あらず、欧羅巴洲の兵学に長ずるに辟易して、終に英吉利国に和親を為せり。これよりして支那国古来の政法甚だ錯乱し、海口五処を開いて欧羅巴人の地となさしむ(五所の地方は即ち広州、福州、寧波、厦門、上海という)。その禍乱の原を尋ぬるに、今を距る事三十年前、欧羅巴の大乱治平せしとき(寛政の比に当りて、払朗察国にポナパルテなる者あり、国乱を払い鎮めて自立して王たり。ここにおいて兵を出して諸国を併呑せんとし、欧羅巴洲大いに乱る。文化十二年諸国相謀りてポナパルテを擒にして流竄し、連年の兵乱を治平せり。今ここに甲辰に至りて正に三十年なり)、諸民みな永く治化に浴せん事を願う。その時に当って、古賢の教を奉ずる帝王は、諸民のために多く商売の道を開きて民蕃殖せり。然りしより器械を造るの術及び分離の術(万物を離合してその質を究理する事なり)に因って種々の奇巧を発明し、人力を費やさずして貨物を製する事を得しかば、諸邦に商売蔓延して、反りて国用乏しきに至りぬ。就中武威世に輝きし英吉利は、国力豊饒にして民みな巧智ありといえども、国用の乏しき時々甚だし。故に商売の正路に拠らずして速かに利潤を得んと欲し、あるいは外国と争端を起し、時勢止むべからざるを以て本国より力を尽しその争論を助くるに至る。これらの事に依りてその商賈、支那国の官吏と広東にて争論の端を開き、終には兵乱を起せしなり。支那国にては戦争利なく国人数千戦死し、かつ数府を侵掠敗壊せらるるのみならず、数百万金を出して火政の費を購うに至れり。
一、貴国もまたかくの如き災害に罹り給わんとす。およそ災害は倉卒に発するものなり。今より日本海に異国船の漂い浮む事古よりも多くなりゆきて、これがためにその船兵のものと貴国の民と忽ち争端を開き、終には兵乱を起すに到らん。これを熟察して深く心を痛ましむ。 殿下高明の見ましませば、必ずその災害を避る事を知り給うべし。我もまた安寧の策あらんを望む。
一、殿下の聡明にまします事は、暦数千八百四十二年(天保十三年壬寅に当る)貴国の八月十三日、長崎奉行の前にて甲必丹に読聞せし令書に因ってなり(令書に曰く、異船日本の沖合へ渡り来る時、打払方の儀厳かに取計らうに付き、阿蘭船も長崎の外へ乗り寄る事有るまじきことにてもこれ無く、船の形似寄り候えば、兼てその旨を相心得、不慮の過これ無きよう心掛け通船致すべき旨、文政八年中渡し置き候処、当時何に寄らず御仁恵を致されたしとの有難き思召に付き、外国の者にても難風にあい、漂流等にて食物薪水を乞うまでに渡来候を、その事情に拘わらず一円に弓、鉄砲を打放し候は、外国へ対し信義を失い候御所置に付き、自今以後は異国人渡来候とも、食物薪水等を乞い候類は打払わず、乞う旨に任せ帰帆致さすべく取計うの間、因っては阿蘭人も心安く通船致すべく候。外国の者たりとも、かほどにまで信義厚く思召す有がたき儀よくよく相弁うべし)。その書中に異国人を厚遇すべき事を詳かに載するといえども、恐らくはなお未だ尽さざる処あらんか。その主とする処の意は難風に逢いあるいは食物薪水に乏しくして、貴国の海浜に漂着する船の所置のみにして、もし信義を表し、あるいは他の謂れありて貴国の海浜を訪う船あらん時の所置は見えず。これらの船を冒昧に排擯し給わば、必ず争端を開かん。争端は兵乱を起し、兵乱は国の荒廃を招く。二百余年来我国の人貴国留居の恩恵を謝し奉らんがために、貴国をしてこの災害を免れしめんと欲す。古賢の言に曰く、災害なからしめんと欲せば、険危に臨むこと勿れ、安静を求めんと欲せば、紛冗を致すこと勿れ。
一、謹みて古今の時勢を通考するに、天下の民は速かに相親む者にして、その勢は人力の能く防ぐ所に非ず。蒸気船(蒸気船は水車と蒸気筒とを設け、石炭を焚きて蒸気筒中の水を沸騰して、その蒸気に因って水車を旋転せしめ、風雨に拘らず自由に進退せしむる船なり。文化四丁卯の歳創製する所という)を創成せしより以来、各国相距る事遠きもなお近きに異ならず。かくの如く互に好を通ずる時に当って、独り国を鎖して万国と相親まざるは、人の好みする処に非ず。 貴国歴代の法に異国の人と交りを結ぶ事を厳禁し給うは、欧羅巴洲にて遍く知る所なり。老子曰く、賢者位に在るは特に能く治平を保護す(この意に当るべき語老子に見えず。後の考を待つ)。故に古法を堅く遵守して反って乱を醸さんとせば、その禁を弛るは賢者の常経のみ。これ 殿下に丁寧に忠告する処なり。今貴国の幸福なる地をして兵乱のため荒廃せざらしめんと欲せば、異国の人を厳禁する法を弛め給うべし。これ素より誠意に出づる所にして、我国の利を謀るには非ず。それ、平和を行うは懇ろに好を通ずるに在り。懇ろに好を通ずるは交易に在り。冀わくは叡智を以て熟計し給わん事を。
一、この忠告を採用し給わんと欲せば 殿下親筆を以て返翰を賜わるべく、然らばまた腹心の臣を奉らん。この書には概略を挙ぐるのみ。故に詳かなる事はその使臣に問い給うべし。
一、我は遠く隔てて貴国の幸福治安を謀るため甚だ心を痛ましむ。これに加うるに、在位二十八年にして四年以前譲位せし我父微爾列謨第一世王も、遠行して悲哀に沈めり(ウイルレム第一世は安永元年壬辰に生れ、文化十二年乙亥に王位に封ぜられ、天保十一年庚子今王に位を譲り、同十四年癸卯に卒す。癸酉より庚子に至りて在位二十八年、寿七十二歳)。殿下またこれらの事を聞給わば、我と憂愁を同じうし給わん事明らかなり。
一、この書を奉るに軍艦を以てするは、殿下の返翰を護し帰らんためのみ。また我が肖像を呈し奉るは、至誠なる信義を現わさんがためなり。その余別幅に録する品々は、我が封内に盛んに行わるる学術の依りて致す処なり。不腆といえども、我国の人年来恩遇を受けしを聊か謝し奉らんがために献貢す。向来不易の恩恵を希うのみ。
一、世に誉れ高くまします父君の治世久しく多福を膺受し給いしを眷顧せる神徳によりて、殿下もまた多福を受け、大日本に永世疆り無き天幸を得て、静謐敦睦ならん事を祈る。
即位より四年、暦数千八百四十四年二月十五日
瓦剌汾法瓦(和蘭国都)の宮中において書す
デ・ミニストル・ハン・コロニイン 外国の事を司どる大臣の官名
微爾列謨瑪※ 《ウイルレムマード》
以上は天文方渋川六蔵の訳する所にして、その註疏もまた彼の挿入する所なり。
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和蘭摂政大臣に返復するの書翰
去歳七月、貴国の使介船、国王の書翰を齎し、我が肥前長崎港に到る。崎尹伊沢美作守、受けてこれを江戸府に達す。我が主、親しくこれを読む。貴国王、二百年来の通商の故を以て、遙かに我が国の利病を察するありて、忠告せらるるの一事、その言極めて懇款たり。かつ別に珍品若干種を恵まる。我が主、良に用て感荷す。理宜しく布報すべし。然れども今、然る能わざるものあり。我が祖宗創業の際、海外諸邦の通信貿易、固より一定なることなし。後に通信の国、通商の国を議定するに及び、通信は朝鮮、琉球に限り、通商は貴国と支那とに限る。これより外は則ち一切新たに交通を為すことを許さず。貴国は我において従来通商ありて通信なし。信と商とはまた各別なり。今、これに布報を為さんと欲せば、則ち祖宗に違背す。故に臣らをしてこの意を公らに達し、これを貴国王に稟せしむ。事、不恭に似たり。然れども祖法の厳なることかくの如し。已むを得ざる所以、請う、これを諒せよ。礼物を恵せらるるに至っては、また辞すべき所在り。然り而して厚意の寓する所、遐方より送致す。※ 《も》し并せて返納せば、益々《ますます》不恭に渉らん。因って今、領受し、薄く土宜数種を晋め、以て報謝を表す。具さに別幅に録す。却くるなくんば幸甚なり。
そもそも祖法一たび定まれば、嗣孫は遵わざるべからず。後来の往復は幸いに停められよ。あるいはその然らずして、再三に至るといえども、受くる能わず。幸いにして訝を為すなかれ。公らの書翰に至っても、またこれに準じて報を為さざるなり。ただ、貴国の通商は則ち旧約に遵いて替るなし。またこれ慎しんで祖法を守るのみ。幸いにこれを国王に稟せよ。則ちしかいうといえども、国王の忠告誠意に至っては、則ち我もまた深く感銘し、敢て疎外せざるなり。因って今、臣らをして具さに陳べしむ。言は意を尽くさず、千万諒察せよ。不備。
阿蘭陀政府諸公閣下
弘化二年乙巳六月朔日 阿部伊勢守正弘印
牧野備前守忠雅印
青山下野守忠良印
戸田山城守忠温印
如何に忠告書の親切にして、返書の冷淡無意義なるを見よ。彼理江戸湾に闖入するに際し、蒼皇措置を失したる、また宜べならずや。外交の紛雑、幕閣豈に責なしとせんや。
第十三 松下村塾
彼は天成の鼓吹者なり、感激者なり。踏海の策敗れて下田の獄に繋がるるや、獄卒に説くに、自国を尊び、外国を卑み、綱常を重んじ、彝倫を叙ずべきを以てし、狼の目より涙を流さしめたり。その下田より檻輿江戸に赴き、途三島を経るや、警護の穢多に向い、大義を説き、人獣相距る遠からざる彼らをして憤励の気、色に見われしめたり。その江戸の獄に在るやいうまでもなく、送られて長門野山の獄に投ぜらるるや、その感化は、同囚者に及び、獄卒に及び、遂にその司獄者までも、彼が門人となるに至らしめたり。彼が在る所、四囲みな彼が如き人を生ず、これ何に由りて然るか、薔薇の在る所、土もまた香しというに非ずや。
而して彼が最もその鼓吹者たり、感激者たるの特質を顕わしたるは、松下村塾においてこれを見る。
松下村塾は、徳川政府顛覆の卵を孵化したる保育場の一なり。維新革命の天火を燃したる聖壇の一なり。笑う勿れ、その火、燐よりも微に、その卵、豆よりも小なりしと。赤馬関の砲台は粉にすべし、奇兵隊の名は滅すべし。然れども松下村塾に到りては、独り当時における偉大の結果のみならず、流風遺韵、今に※ 《およ》んでなお人をして欽仰嘆美の情、禁ずる能わざらしむるものあり。これ何に由りて然るか。彼が門下の一人なる伊藤博文はいわずや、「如今廟廊棟梁の器、多くはこれ松門に教えを受けし人」と。一半の真理は、この句中に存す。
彼は安政二年十二月、野山の獄より出でて家に蟄居せしめられたり。而してその安政三年七月に至っては、蟄居中さらに家学を授くるの許を得たり。その名義とする所は、山鹿流軍学なりといえども、その実は然らず。彼は兵法家にあらず、彼は革命家なり、その教る所革命の精神なり、その講ずる所革命の業なり。
松下村塾の名は、その内叔玉木、外叔久保らが相接して用いたる村学にして、松陰これを襲用したりといえども、吾人がいわゆる松下村塾に到りては、松陰を推して、その開山とせざるべからざるものあり。蓋し松陰が、自ら松下村塾に直接の関係を有したるは、僅かに安政三年の七月より、安政五年の十二月までにして、即ちその歳月は、二年半に過ぎず。而してこの二年半の歳月が、未来における日本の歴史に、千波万濤の起激点となりたるは、何ぞや。彼れ何を以てかくの如き大感化を及ぼしたるか。曰く、その人に在り。曰く、その時勢に在り。曰く、その教育の目的に在り。曰く、その教育の方法に在り。
彼は、精を窮め、微に入り、面に※ れ、背に※ き白鹿洞の先生に非ず。彼は、宇宙を呑み、幽明を窮むる橄欖林の夫子に非ず。彼は学未だ深からず、歳末だ高からず、齢未だ熟せず、経験未だ多からず、要するにこれ白面の中書生(老書生といわず)のみ。而して彼が力よりも多くの感化を及ぼし、彼が人物と匹敵する、ある点においては、むしろ彼より優れる弟子を出したるは何ぞ。「感は知己に在り」の一句これを説明して余りあるべし。
彼は造化児の手に成りたる精神的爆裂弾なり。一たび物に触着すれば、轟然として火星を飛ばす。この時においては物もまた砕け、彼もまた砕く。彼の全体は燃質にして組織せられたり、火気に接すれば乍ち※ となる、その※ となるや鉄も鎔すなり、金も鎔すなり、石も鎔すなり、瓦も鎔すなり。彼の人に接するや全心を挙げて接す、彼の人を愛するや全力を挙げて愛す。彼は往々インスピレーションのために、精神的高潮に上る。而してこれを以て他に接し、他を導いてこの高潮に達せしむ。知るべし、彼が教育の道多子なし、ただ己が其骨頭、大本領を※ 《の》べて、以てこれを他に及ぼすのみなるを。彼れ「松下村塾の記」を作りて曰く、
そもそも人の最も重んずる所のものは、君臣の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり。今、天下は如何なる時ぞや。君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて華夷の弁を并せて、またこれを失う。然り而うして天下の人、まさに安然として計を得たりと為す。神州の地に生れ、皇朝の恩を蒙り、内は君臣の義を失い、外は華夷の弁を遺れば、学の学たる所以、人の人たる所以、それ安くに在りや。
則ち知る、華夷の弁は攘夷にして、君臣の義、尊王なるを。而してさらに、彼が金誡たる「士規七則」に就いて見よ。
一、およそ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。蓋し人には五倫あり、而うして君臣、父子を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は、忠孝を本と為す。
一、およそ皇国に生れては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万世一統にして、邦国の士夫は禄位を世襲し、人君は民を養い以て祖業を続ぎ、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、ただ吾が国のみ然りと為す。
一、士の道は義より大なるは莫し。義は勇に因りて行なわれ、勇は義に因りて長ず。
一、士の行いは、質実にして欺かざるを以て要と為し、巧詐にして過を文るを以て恥と為す。光明正大、みなこれより出づ。
一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫のみ。書を読み友を尚とぶは君子の事なり。
一、徳を成し材を達するに、師恩、友益は多きに居る。故に君子は交遊を慎しむ。
一、死して後已むの四字は、言簡にして義広し。堅忍果決にして、確乎として抜くべからざるものは、これを舎きて術なきなり。
これ則ち質実、義勇、斃れて已むの真骨頭を以て、尊王攘夷の大本領を発揮したるものといわざるべからず。彼これを以て自ら感激す、彼これを以て自ら鼓舞す、その一呼虎嘯き、一吸竜躍るものまた故なしとせんや。
怪しむ勿れ、彼が教育の主観的なるを。その順序なく、次第なく、人に依りてその教を異にする無く、才に応じてその器を成す無く、その接する所は、才も不才も、壮も幼も、智者も愚者も、尽く己が欲する所を以てこれを人に施せしもののみ。思い切りていえば、己を以て人を強いしのみ、而して他をしてその強いらるるを覚えしめざるは、彼が血性と献身的精神とによるのみ。
怪しむ勿れ、彼が師を以て自から居らざるを。彼の眼中師弟なし、ただ朋友あり、これ一は彼が年歯なお壮なるがため、一は学校といわんよりも同志者の結合というが如きためなるべしといえども、また彼が天性然るべきものあり。滔々《とうとう》たる天下その師弟の間、厳として天地の如く、その弟子は鞠躬として危座し、先生は茵に座し、見台に向い、昂然として講ず。その講ずる所の迂濶にして乾燥なるは固より、二者の間において、情緒の感応し、同情の迸発する甚だ難し。これを彼の松陰が、上に立たずして傍に在り、子弟に非ずしてむしろ朋友、朋友に非ずしてむしろ兄弟の情を以て相接したるに比す、その教育の死活、論ぜずして可なり。
試みに看よ、『幽室文稿』の巻頭に、「岡田耕作に示す」の一文あり、曰く、
正月二日、岡田耕作至る。余、ために孟子を授け、公孫丑下篇を読み訖んぬ。村塾の第一義は、閭里の礼俗を一洗し、戈に枕し槊を横たうるの風を為すに在り。ここを以て講習は除夕を徹し、未だ嘗て放学せざるなり。何如ぞ、年一たび改まれば、士気頓に弛める。三元の日、来りて礼を修むる者はあれども、未だ来りて業を請う者を見ず。今墨使は府に入り、義士は獄に下り、天下の事迫れり。何ぞ除新あらんや。然り而して松下の士、なおみなかくの如くんば、何を以て天下に唱えん。耕作の至れるは、適ま群童の魁を為す。群童に魁たるは、乃ち天下に魁たるの始めなり。耕作、年甫て十齢、厚く自ら激励すれば、その前途実に測るべけんや。
これ豈に十歳の童子に向って告ぐるの言ならんや、而して彼の眼中には、幾んど童子なし。彼は十歳の少年をも、殆んど己と同地位に取扱えり。その「群童に魁たるは則ち天下に魁たる始めなり」という一句、直ちに他の頭蓋を打ち勃々然、その手の舞い足の踏む所を知らざらしむ。彼また嘗て品川弥二郎に与うる書あり。
弥二の才、得易すからず、年、穉なりといえども、学、幼なりといえども、吾の相待つは、則ち長老に異ならざるなり。何如ぞ契濶乃ち爾るや。時勢は切迫せり、豈に内に自ら惧るるもの有るか、そもそも已に自ら立ち、吾の論において与せざること有るか。逸遊敖戯して学業を荒廃するは、則ち弥二の才、決して然らざるなり。説有らば則ち已む、説無くんば則ち来たれ。三日を過ぎて来たらざれば、弥二は吾が友に非ざるなり。去る者は追わず、吾が志、決せり。
これ則ち十五、六歳の少年に告げたるなり、その真率にして磊灑なる、直ちに肺肝を覩るが如し。その他高杉に与うるの書、久坂に与うるの書の如き、互に切磋、砥※ 《しれい》、感激、知己の意を寓するもの、一にして足らず。顧うにその弟子が、彼が骨冷なる後に至るまで、なお沸を垂れて松陰先生を説くもの、豈にその故なしと為んや。
既に義勇節慨の真骨頭たり、攘夷尊王の活題目たるを知らば、松下村塾のいわゆる教育なるものもまた知るべし。教育とは何ぞ。東坡の「留侯論」中の語を仮り来れば「その意書に在らず」の一句にて足るべし。彼らが学問は、書物の上の学問に非ずして、実際の上の学問なり。その活事実を捉え来りて直ちに学問の材料と為したるが如き、時勢の然らしむる所とはいえ、その活ける精神を人に鼓吹したるもの、豈に少しとせんや。これを詳言すれば、堯舜三代というが如き縁遠き事に非ず、いわば「米国より和親を申込めり、これは如何に為すべきか」、「攘夷の大詔煥発せり、これを奉戴して運動するには、如何なる事を為すべきか」というが如き事にして、その学校たるや、もしくは革命運動の本部たるや、学問たるや、運動の評議たるや、殆んど区別する所なく、学問即ち事業、事業即ち学問にして、坐して言うべく、起ちて行うべく、行うて敗るるもさらに意とする所なしというに止る。然れば彼らが学問は、他日の用意に非ず、今日学ぶ所は、即ち今日の事にして、今日これを行うを得べし、また行わざるべからざるの責任を有するものにして、これを譬えば、なお剣道の先生が、道場を戦陣の真中に開くが如く、その勝負は、いわゆる真剣の勝負にして、勝つ者は活き、負る者は死ぬるのみ、その及第その落第、その試験の法、総てただ活劇の上に存す。
彼らは如何にしてこの活学問を講じたるか。吾人は彼が塾生に示す文を読む、
村塾、礼法を寛略にし、規則を擺落するは、以て禽獣夷狄を学ぶに非ざるなり、以て老荘竹林を慕うに非ざるなり。ただ今の世の礼法は末造にして、流れて虚偽刻薄と為るを以て、誠朴忠実、以てこれを矯揉せんと欲するのみ。新塾の初めて設けらるるや、諸生みなこの道に率い、以て相い交わり、疾病艱難には相い扶持し、力役事故には相い労役すること、手足の如く然り、骨肉の如く然り。増塾の役、多く工匠を煩わさずして、乃ち能く成すこと有るは、職としてこれにこれ由る。
二百年来、礼儀三千、威儀三百の中に圧束せられたる人心を提醒して、この快活自由の天地に入らしむ。惟うにその青年輩をして、気達し、意昂り、砂漠の枯草が甘露に湿うて、欣々然として暢茂するの観を呈したるまた知るべし。また高杉晋作に与えたる書中に曰く、
病肺の事最早昔話に御坐候。必ず御案じ下されまじく候えども、甚だ壮なり。隔日『左伝』『八家』会読。勿論塾中常居、七ツ過ぎ会読終る。それより畠または米舂き、在塾生とこれを同じうす。米舂き大いにその妙を得、大抵両三人、同じく上り、会読しながらこれを舂き、『史記』など二十四葉読む間に米精げ畢る、また一快なり。(翁に話候えば評していわく、オカシイ事ばかりする男といった)。
米を舂きながら会読するの先生あれば、糠を篩いながら講義を聞く生徒もあるべし。彼が他日再び野山の獄中に投ぜられたるの時において、福原又四郎に書を与え、尊王攘夷の事を論じ、諸友の因循なるを尤め、曰く、「彼らあるいはまた背き去るといえども、蓋し村塾爐を囲み、徹宵の談を忘れざるべし」と。
ああ寒爐火尽きて灰冷なるの処、霜雁月に叫んで人静なるの時、三、五の青年相い団欒し、灰に画きて天下の経綸を講じ、東方の白ぐるを知らざるが如き、四十年後の今日において、なお人をして永懐堪うべからざらしむ。いわんや時勢迫り、人物起ち、天下動かんとするの当時においてをや。
彼は教育家としては、多くの欠点あるべし。彼が主観的にして、客観的ならざる、彼が一角的にして多角的ならざる、彼が情感に長じて、冷理に短なる、胸中今日多くして明日少なき、これみな欠点の重なるものなるべし。彼は教育家としては実に性急の教育家なり。何となれば、彼は卵を孵化し、これを養い、これを育て、以て鶏と成さんとする者に非ず。卵は卵の儘にてその功を為すべし、雛は雛の儘にてその功を為すべし、時機に依れば、彼れ自ら卵を煮、雛を燔るも、以てさらに意と為さざればなり。然れどもこれを以て、彼を残忍なりという莫れ。彼が自ら処するまたかくの如きのみ、彼は弾丸の如し、ただ直進するのみ。彼は火薬の如し、自から焚いて而して物を焚く。彼は毎に身を以て物に先んず。
彼嘗てその門人の死生大悟を問うに、答えて曰く、
死生の悟りが開けぬというは余り至愚故、詳かにいわん。十七、八の死が惜しければ三十の死も惜しし、八、九十、百になりてもこれで足りたということなし。草虫、水虫の如く半年の命のものもあり、これ以て短とせず。松柏の如く数百年の命のものあり、これ以て長とせず。天地の悠久に比せば松柏も一時蠅なり。ただ伯夷などの如き人は、周より漢、唐、宋、明を経、清に至って未だ滅せず。もし当時大公望の恩に感じて西山に餓死せずば、百まで死せずも短命というべし。何年限り生きたれば気が済むことか、前の目途でもあることか、浦島、武内も今は死人なり。人間僅か五十年、人生七十古来稀。何か腹のいえるような事を遣りて死なねば成仏は出来ぬぞ。吾今よりは当世流の尊攘家へは一言も応答せぬが、古人に対して少しも恥かしき事はない。足下輩もし胆あらば、古人へは恥かし。今人はうるさし、この世に居て何を楽しむか。さても凡夫の浅猿さ、併し恥を知らずと、「孔子いわく、志士仁人は身を殺して仁を為す有り」とか、「孟子いわく、生を舎てて義を取る者なり」とかいいて、見台を叩いて大声する儒者もある。そのうるさいを知らずに一生を送るものもある。足下輩もその仲間なり。
何んぞそれ厳冷酷烈なる。これあたかも三百の痛棒を以て、他の頭脳を乱打するものにあらずや。彼は如何なる場合においても、主観的なり。怒るも、泣くも、笑うも、澄すも、ただ己が全心を捧げて以て人に接するのみ。
彼はまた野山の獄中より書を門人に与えて曰く、
平時喋々たるは事に臨んで必ず唖、平時炎々たるは事に臨んで必ず滅す。孟子の浩然の気、助長の害を論ずるを見るべし。八十送行の日、諸友剣を抜く者有り、また聞く、暢夫江戸に在りて犬を斬るの事あり。これらの事にて諸友の気魄衰萎の由を知るべし。僕いま死生念頭全く絶ちぬ。断頭場に登り候わば、血色敢て諸氏の下にあらず。然れども平時は大抵用事の外一言せず、一言するときは必ず温然和気婦人好女の如し。これが気魄の源なり。慎言謹行、卑言低声になくては大気魄は出るものに非ず。張良鉄椎の時の面目を想見るべし。僕去月二十五日より一臠の肉一滴の酒を給べず。これでさい気魄を増す事大なり。僕已に諸友と絶ち、諸友また僕と絶つ。然れども平生の友義のため、区々一言を発す。これ僕が鑿空の語に非ず。実践の真また聖賢伝心の教なれば軽視する勿れ。
血気は尤もこれ事を害い、暴怒またこれ事を害う。血気暴怒を粉飾する、その害さらに甚し。
中谷、久坂、高杉等へ伝え示したく候
これ豈に煽動家の夢想する所ならんや。彼は自から欺かざるのみならず、また人をも欺かざるなり。彼は自家の胸中を吐くの外、他を勧化するの術を知らざるなり。而して前書においては、彼が死生大悟の功夫を知るべく、後書においては、彼が存養、潜注の用意を察すべし。吾人は彼が自から処する所以を視、人に処する所以を見れば、他の自から水を飲み、人に酒を強い、他を酔倒せしめて、自から快なりとする教唆的慷慨家の甚だ賤むべきを知るなり。彼の人物は水戸派の志士に比して、高きこと一等なるやまた分明なり。
彼が一生は、教唆者に非ず、率先者なり。夢想者に非ず、実行者なり。彼は未だ嘗て背後より人を煽動せず、彼は毎に前に立ってこれを麾けり。彼はいわゆる己が欲する所を以て、これを人に施せしのみ。もしくはこれを人に強いしのみ。
彼は乱雑にして、少しく圧制なるペスタロジなり。彼はある時は人を強ゆることあり、強いて聞かざれば、大いに怒ることあり。然れども彼は実物教育の大主義を践行せり。ただペスタロジに異なるは、一は天地万有を以て実物教育の資となし、他は活世界の時事を以て実物教育の資と為したるのみ。その嬰児の如き赤心を以て、その子弟を愛し、自から彼らの仲間となり、彼らの中に住し、彼らの心の中に住するに到りては、二者豈に軒輊あらんや。
彼は野心あり、修煉少く、霊想未だ真醇ならず、思慮浅薄なる保羅なり。彼の功名に急に事業に逼切なる、而してその「不朽」の二字に手を打懸けたるに係らず、未だ全くこれを攫む能わざるが如き、而してその己れと異なりたるものを寛容するの雅量に乏しき、真理を両端より察するの聡明なき、人の師となるにおいて、大なる短所を有するに係らず、その伝道心に到りては、この山を彼処に移す程の勢力ありしなり。彼は思うて言わざるなく、言うて服せざるなく、服して共に行わざるなき勧化者なり。彼の眼中には恒に一種の活題目あり、これを以て自から処し、これを以て人に勧む。その勧むるや、中心止まんと欲して止む能わざるなり。彼の狭隘なる度量も、この時においては、俄然膨脹するを見る。彼が眼中敵もなく、味方もなく、ただ彼が済度すべき衆生あるのみ。彼をしてもし伝道師たらしめば、あるいはロヨラの後塵を拝せしならん、あるいはザウイエルの下風に立ちしならん。もしその修煉の功を積まば、あるいは雁行し、あるいは連※ 《れんひょう》先を争うも未だ知るべからず。
彼は社会の寵孫にあらず、彼が子弟もまた然り。彼らはあたかも雪を踏んでアルプス嶺を攀る旅客の如し。その隆凍、苦寒を凌がんためには、互に負載し、抱擁し、自他の体温によりて、その呼吸を保たざるべからず。艱難は同情を生じ、同情は恩愛を生ず、先生前に斃れて弟子後に振う。彼は知己の感を以て、その子弟を陶冶せり、激励せり、彼は活ける模範となりて、子弟に先ちて難に殉ぜり。否な、子弟のために難に殉ぜり。この時において懦夫といえども、なお起つべし、いわんや平生の素養あるものにおいてをや。いわんや恩愛の情、知己の感あるものにおいてをや。彼はその子弟に向って我が如く做せといえり。而して做せり。彼ら豈に徒然として止まんや。
その時を以てすれば、二年半に満たず。その所を以てすれば萩城の東郊にある、台所六畳、坐敷八畳の矮屋に過ぎず。而して洪大尉が伏魔殿を発きて、一百八の妖星を走らしめたる如く、ただこの中より無数の活劇、及び活劇をなせし大立者を出したる所以のもの、豈にその由る所なくして然らんや。世あるいは一人を以て興り、世あるいは一人を以て亡ぶ、個人の社会に及ぶ勢力もまた軽視すべからざるものあり。
第十四 打撃的運動
彼の頭脳は、時勢と共に廻転を始めたり、而して時勢に先って奔れり。彼は最初よりの顛覆党にあらざりき、然れども一たび顛覆党となるや、その急先鋒となれり。彼が攘夷尊王の大義も、その実行的経綸に到りては、局面を打破するの一事に集注し来れり。破壊的作用、これもまた時に取りては、革新の絶好手段なるを知らずや。
舞台には役者を要し、土豚には力士を要す。土豚に役者の不恰当なるは、なお力士の舞台に不恰当なるが如し。カヴル経国済世の建設的偉図も、あるいはマジニー一片の革命的檄文に如かざるものあり。東湖の手腕用ゆる所なく、佐久間の経綸施す所なく、小楠の活眼行う所なく、智勇交も困むの極所に際し、かえって暴虎馮河、死して悔なき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ぞ、踏海の失敗者、野山の囚奴、松下村塾の餓鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。
安政五年十月、彼轟武兵衛に書を与えて曰く、
僕の屑見、誠に謂えらく、観望持重は、今の正義の人、比々《ひひ》としてみな然り、これ最大の下策と為す。何ぞ軽快拙速、局面を打破し、然る後徐に地を占め石を布くの、勝れりと為すに如んや。
「局面打破」これ彼が当世における主一の経綸のみ。彼はさらにその後善策の如何に頓着せざりしなり、否な、彼は胸中後善策を容るるの余裕あらざりしなり。彼は思いしなるべし、雪消えて草木自から生長すと。
彼は檻中の虎なり、その夢は荒山、莽野の中に馳騁すといえども、身は自由ならず。乃ち自由ならずといえども、なおその志を行わんとせり、彼は蟄居中なるに係らず、なお長防革命的運動の指揮官たりしなり。彼はしばしば京師に献言せり、彼は萩藩府に勧告せり、彼は孝明天皇に向って後醍醐たらんことを希い、藩主に向って義貞、正成たらんことを望めり。彼は慓悍の公卿大原重徳を慫慂して、長州に下向せしめんとせり。その意大原を以て藩主を要し、藩論を一定し、以て勤王軍の首唱たらしむるにありし。その書中の一節に曰く、
万々《ばんばん》失策に出で候て、私共同志の者ばかり募り候も、三十人、五十人は得べくに付き、これを率いて天下を横行し、奸賊の頭二ツ三ツも獲候上にて、戦死仕り候も、勤王の先鞭にて、天下の首唱には相成り申すべく、私義本望これに過ぎず候。
彼がこの言は、空言にあらず、彼がこの書を草したるは安政五年九月二十八日にして、その間部詮勝要撃のため、同志を糾合し、京に入らんとし、その父、叔父、兄に向って訣別の書を作りしは、同十一月六日なり。
そもそも彼は何が故に自から間部詮勝の刺客とまでにはなりしか、彼が訣別書は、これを説明して余りあるべし。
頑児矩方、泣血再拝して、家厳君、玉叔父、家大兄の膝下に白す。矩方稟性虚弱にして、嬰孩より以来、連りに篤疾に罹る。而れども不幸にして遂に病に死せざりき。制行狂暴にして、弱冠より而還、しばしば重典を犯す。而れども不幸にして遂に法に死せざりき。二十九年間を回顧すれば、当に死すべきもの極めて多し。今に迄りて死せず、復た父兄今日の累を致す、不幸の罪、何を以てかこれに尚えん。然れども今日の事は、皇家の存亡に関わり、吾が公の栄辱に係わる、万々《ばんばん》休すべからず。古人のいわゆる忠孝両全ならずとは、この類これなり。
天下の勢、滔々《とうとう》として日に降り、以て今に至る。その由、蓋し一日に非ざるなり。且く近きを以てこれを言わん。墨使、幕府に入り、仮条約を上る。天子これを聞き、勅を下してこれを停む。幕府遵わず、仮を定めて真と為す。列侯の議、士民の論、一も幕府に容れられず。天子また勅を下し、三家、大老を召す。大老は至らず、三家は則ち幕責を蒙る。幕府反って間部侯をして上京せしむるも、病を称して朝せず。偽言反覆す。謂らく、水戸と堀田と西城の議合す、故を以て阿附朋比し、遂に違勅の挙を為す、水戸、堀田を斬らずんば、夷事理むべからざるなりと。当今、幕府は幼冲にして、弁識する所なし。大老これを上に主どり、間部これを下に輔くるに非ざるよりは、天下の事、安んぞここに至らんや。然れば則ち二人の者の罪、上は天子の明勅に違い、下は幕府の大義を害ない、内は列侯士民の望に背き、外は虎狼渓壑の欲を飽かしむ。極天窮地、俯仰容るるなし。然り而して天下の士夫は安然黙然として、一※ 一艦の往きてその罪を問うなし。神州の正気、既に已に邪気の消蝕する所と為るか。頑児の一念、ここに至りて、食咽を下らず、寝蓐に安んぜず、ただ一死の蚤からざるを悲しむのみ。
頃ろ忽ち江戸の報を得るに、尾、水、越、薩、将に襲いて彦根の大老を誅せんとすと。頑児これを聞き、跳躍すること三百、曰く、「神州の正気、遂に消蝕せざるなり、政府の議、固より当に四家を合従し、邪気を鎮圧すべきなり」と。然れども児なお憾あり。事、四家に出づ。吾人に因りて功を成すは、公等碌々の数を免れざるなり。ここを以て児、私かに自ら量らず、同志を糾合し、神速に上京し、間部の首を獲て、これを竿頭に貫き、上は以て吾が公勤王の衷を表わし、かつ江家名門の声を振い、下は以て天下士民の公憤を発し、旗を挙げ闕に趨るの首魁と為らんとす。かくの如くにして死せば、死もなお生の如きなり。然れども事は固より私に為すべからず、而もまた敢て公に請わず。超の貫高のいわゆる、「事成らば王に帰し、成らざれば独り身坐せんのみ」。これ児らの志なり。ここを以て児ら、将に某日を以て同志と偕に、益田行相の門に詣り、故を告げて発せんとす。敢て許允を求めず、政府待つに逋亡を以てするも可なり。事捷たば則ち師旅当に継ぎて進むべく、不幸にして捷たざれば、他人あるいは死するも、児は則ち身を投じて捕に就き、志士憤懣の発する所は、決して公家の知る所に非ざるを明らかにせん。頑児虚弱にして狂暴、本より人の数の中に在らざるも、天下反って虚名を謬聴し、認めて豪傑と為す者有り。向に愚論数道を以て、これを梁川緯に致せしに、緯、窃に上青雲の上を涜す。蓋し乙夜の覧を経るという。一介の草莽、区々たる姓名にして、聖天子の垂知を蒙るは、何の栄かこれに加えん。児の死する、何ぞ晩きや。近日、正三位源公、七生滅賊の四大字を以て賜わり、かつその世子の詩数章を伝え、高徳を望み、博浪の鉄椎を望む、その意甚だ切なり。児豈に死せざるべけんや。
不孝の子は、ただ慈父これを愍み、不弟の弟は、ただ友兄これを恕す。定省怡々《いい》、復た膝下の歓を※ 《つく》す能わず。願わくば、愛を割き友を抑え、児を以て死すること已に久しと為し、尋常の親肢、身体髪膚、併せて以て賜わらんことを。頑児の願いは、何を以てかこれに加えんや。泣血漣々として、思う所を竭す能わざるなり。頑児矩方、泣血拝白。
則ち知る、その近因は水戸、尾張、越前、薩摩の諸藩士、江戸において、井伊直弼を襲殺せんとするの風説を聞き、むしろこの機に乗じて、井伊と同謀同罪なる間部詮勝を京都に要撃し、以て局面打破の先着を占めんと欲したるのみ。これ即ち松下村塾血誓書の出で来りたる所以なり。彼が心事は、またこの挙において齟齬せり。当時長州において藩政の枢機を掌る、周布政之助、長井雅楽の徒、松陰が才を愛せざるにあらず、また彼が心事を諒せざるにあらずといえども、彼が打撃的運動を以て、一藩の大事を破るものとなし、陽に陰にこれを沮めり。彼が公然なる脱走をなして間部の首を竿頭に貫き、天下に義を唱えんがため、京都に赴かんとするや、周布彼に告げて曰く、「勤王の事、藩政府既に成算あり、書生の妄動を費す勿れ、妄動止まずんば獄に投ぜんのみ」と。而して周布の力は彼が行をして十二月晦日まで延期せしめたり。而してこの延期中には如何なる変化をば彼が身に及ぼせしか。
過激の罪は十一月二十九日、彼をして再び家に厳囚せしめたり。而して同十二月五日、藩政府はさらにその父杉百合之助に向って、その投獄の命を伝えしめたり、曰く、「お聞込みの趣きこれ有り、最前の通り、借牢の儀願い出で候よう内移仰せ付けられ候」と。聞込みの筋とは何ぞ。血気の先生は、怒髪天を衝けり、血気の門人は激昂して、藩政の当途者に迫り、その罪名を質さんとせり。またこれ一種の保安条例のみ。当時参政周布政之助の家に押し懸け、その病を以て辞し、事を以て辞し、不在を以て辞するに関せず、憤然として坐に上り、火鉢を呼び、燈檠を呼び、雪中松柏を高吟し、男児死すのみを激誦し、その家人を驚かし、その四隣を惧れしめたる、子爵品川弥次郎の徒をして、回想せしめば、固に今昔の感に堪えざるものあらん。
彼らが罪名を質して、その要領を得ざりしは、また宜ならずや、何となれば原来罪名の指定すべきものなきを以てなり。もし強いて罪名を付せんとせば、過激罪というの外なけん。而して過激罪とは、果して当時の人心を慊き足らしむべき罪名なるか。長州の地盤は、尊王攘夷を以て固められたり。松陰の打撃的運動、過激は則ち過激に相違なし、然れどもこれ裏面の沙汰のみ。尊王攘夷の大趣意において豈に間然する所あらんや。その表面よりすれば言正しく名順い、その裏面よりすれば、禍未測に陥らんとす。周布一派の老練家が委曲周旋、またその微衷を諒すべきものあり。
概論すれば彼が再度の投獄は、周布、長井等との衝突といわんより、むしろ彌縫的改革主義と、打破的革命主義との衝突より来りし結果といわざるべからず。而してこの葛藤は各その極端に奔り、一方においては久坂、高杉の攘夷倒幕となり、他方においては長井の開港論、公武合体の周旋となり、而して周布、来原の徒は、その心事時務と違い、慚恚以て屠腹して死するに到り、延いて戊辰に及ぶまで、長州において一低一昂したるに係らず、遂に打破的革命派の全勝を以て局を結べり。而してその局勢を養うてここに到らしめたるもの、固より松陰首唱の力に帰せざる能わず。
彼は獄に投ぜられたり、彼は再び松下村塾の獅子たる能わざるなり。彼の束縛せられたる自由は、今一層束縛せられたり。水蹙れば魚いよいよ躍る、彼は革命の精神に鼓動せられて、自から裁する所以を知らず。その獄中において安政六の新年を迎うるや、口占して曰く、
花や鳥いまをさかりの春の野に
遊ばで猶もいつかまつべき
然れども成すべき手段なし、則ちなしといえども、彼が成さんと欲する心は、耿々《こうこう》として須臾も熄まず。彼が新年の賀状を兄に送るや、乍ちその本色を顕わして曰く、「一度血を見申さざる内は、所詮忠義の人も著れ申さぬかと存じ奉り候」と。当時天下の識者、各藩の謀臣等が焦心する所、一に血を見るなからんことに在り、而して彼独り血を見んと欲す。而してこれを以て自から擬し、これを以て人に擬す。人その擬する所とならざるや、彼は全幅の憤怒を挙て、これに加えずんば休まず。試みに彼が当時の文稿を閲せよ、その交友中、何人か彼の怒鋒、罵刃に触れざるものあるか。独り周布、長井の徒のみならず、松下村塾の徒といえどもまた然り、間部要撃血誓の同志者もまた然り、彼が投獄の際において、その罪名を当局者に質さんがため奔走し、暴徒の名によりて拘禁せられたるものもまた然り。これその故何ぞ。彼が日一日にその血を見んとするに急なるを知るべし。彼が投獄中の経綸は多端なりといえども、その要、藩主の参府を止むると、要駕策とに過ぎず。
梅田源次郎の徒大高、平島なる者萩に来り、藩政府に向い議する所あらんと欲して得ず。彼ら※ 言して曰く、「止むなくんば同志三十余人を糾合し、毛利家参府の駕を伏見に要し、三条、大原の諸公卿と周旋し、京師に入りて事を謀らん」と。松陰これを聞き、藩政府に向って能くこれを遇し、共に事を謀らんことを勧む、顧みられず。而して共に伏見に走り要駕の挙に与せしむ、諸友みな聞かず。独り入江杉蔵憤然として起つ。松陰踴躍して曰く、「防長絶えて真尊攘の人なし、吾といえども復た尊攘を言うを得ず、然らば則ち防長の真尊攘者、ただ汝一人のみ、切に自から軽んずる勿れ」。また曰く、「伏見の事万一蹶かば嘯聚賊となれ、頼政の事汝固より自から任ぜざるべからず」。ここにおいては彼は破壊的本領を示して曰く、
今の世界は老屋頽厦の如し。これ人々の見る所なり。吾れ謂えらく、大風一たび興って、それをして転覆せしめ、然る後朽楹を代え敗椽を棄て、新材を雑えてこれを再造せば、乃ち美観と為らんと。諸友はその老かつ頽なるものに就き、一楹一椽を抜きてこれに代え、以て数月の風雨を支えんと欲す。これ吾を視て異端怪物と為して、これを疎外する所以なり。汝に非ずして安んぞ吾が心を知らんや。
これ実に彼が福音なり、而して入江はその母の養うなきを見て、棄て去るに忍びず、その弟野村和作をして代り走らしめ、而して野村もまた藩政府の追蹤する所となり、獄に投ぜられたり。いわゆる松陰が、「国に酬ゆる精忠十八歳、家を毀つ貧士二十金」の一聯はこの事を指すなり。ここにおいて要駕策また齟齬せり。
百事齟齬す、正にこれ死して益なく、生もまた懶きの苦境に迫る。ここにおいて五月六日庸書檄を作り、筆耕以て無聊を消ぜんとす、これもまた獅子毬なるかな。然れども命運の鬼は、彼をしてここに安んずるを許さず、井伊、間部の共謀に出でたる大獄は、瓜蔓葛※ 《かまんかつるい》以て松陰に及び、安政六年五月十四日その兄の口より、檻車江戸に護送せらるることを聞かざるべからざるに到れり。彼は自からその所以を知らず、然れども一の大なる力に駆られて、歩一歩血を見るに近づき進めり。
第十五 革命家としての松陰
松陰は死に向って奔れり、然れども吾人の観察は、容易に彼を死の手に渡す能わず。
局面打破は、彼が畢生の経綸なりき、果して然らば彼はこの経綸に孤負せざる手腕と性行とを具有したるか。手腕はイザ知らず、性行に到りては、優にこれを有す。然り、彼は実に革命の健児なり。
革命の大悲劇を演ずるには、三種の役者を要す、序幕に来るは予言者なり、本幕に来るは革命家なり、最後の打出しに来るは、建設的革命家なり。而してこの種別よりすれば、吉田松陰は、実に第二種に属す。
革命の予言者とは誰ぞ、宗教革命におけるイラスモス、英国革命におけるミルトン、仏国革命におけるモンテスキュー、ウォルテールの如きこれなり。彼らは手の人にあらず、眼の人なり、実行の人にあらず、理想の人なり。
心怒りて目閃めき、情悲んで涙落つ、思うは則ち動くなり。もしこの原則をして、社会の狂濤たる革命に適用するを得ば、心理的の革命、中に勃興して、事実的革命、外に発作するなり。而して二者の関係、電僅かに閃めけば、雷乍ち轟くが如く、霎時に并い発するあり。あるいは肥料を植物に施したるが如く、その効験容易に察すべからざるものあり。惟うに革命の予言者なるものは、則ちこの心理的革命の打撃者にして、彼らが事実的革命における関係は、取りも直さず、理想と事実との関係を以て説明するを得べし。あるいは彼らが骨冷かに肉朽ち、世人の一半は彼等が名を忘却したる時において、始めて彼らの播きたる種子の収穫を見ることあり。あるいは革命の激流一瀉千里、彼らかえってその後に瞠若し、空しく前世界の遺物たることあり。かくの如く彼ら革命に先ち、あるいは革命と同時に、またあるいはその中幕以後においては、革命の長物たることありて、時と所との長短遠近あるに係らず、その予言者たるの実を変ぜざるなり。何となれば彼らが天職は、荒※ 《こうけい》の暁に先ちて暁を報ずる如く、哀蝉の秋に先ちて秋を報ずるが如く、進撃を促すの喇叭の如く、急行を催す鉄笛の如く、時に先ちて時を報ずるにあればなり。
もしそれ第二種のいわゆる革命家に到りては、大いに趣きを殊にするものあり、彼らは眼の人たるのみならず、手の人たるのみならず、眼に見る所、直ちに手にも行うの人なり。時の緩急を料らず、事の難易を問わず、理想を直ちに実行せんとするは、急進家なり、而して革命家なるものは、それ急進家中の最急進家にあらずして何ぞや。
彼らは余りに眼の人たるべからず、何となれば識見透徹する時においては、革命家の資格一半を消失すればなり。彼らは余りに手の人たるべからず、何となれば巨手鋭腕、結構建設の異能を有する時においては、また革命家の資格一半を消失すればなり。識見は人をして事の成敗、物の利害、事物自然の運行を悟らしむ。既にこれを悟らしむ、必らず避くるあり、もしくは待つあらしむ、而して避くると待つとは、革命家の大敵なりと知らずや。栗の実りて自から殻を脱するの時あるを知らば、また何ぞ手を刺されて自から殻を劈くを要せんや。豆の熟して自から莢を外るるを知らば、また何ぞ手を労して自から莢を破るを要せんや。而して彼の革命家なるものは、生栗の殻を劈くものにあらずや、生豆の莢を破るものにあらずや。
いわゆる第三種の建設的革命家が結構建設の手腕を要するは、革命の七、八合目以後に在るなり。クロンウエルの如き、ナポレオンの如き、アレキザントル・ハミルトンの如き、これみな撥乱反正の人にして、唱難鼓義の人にあらず。彼らは乱雑の外に秩序を見、波瀾の外に順潮を見、理想の外に実際を見、黒雲の外に太陽を見るなり。彼らは行わるる事の外は行うを欲せず、而して彼らの行う所、みな実際に行わるる事なり。彼らは決して塗墻に馬を乗り懸くるが如き事を做さず、而してかくの如き事は、革命家の最も為さざるべからざる所なり。故に余り多くの識見と余り多くの手腕とは、共に革命家に不用なる、否なむしろ有害なる資格なりとす。
この観察にして果して大過なしとせば、松陰の如きは、豈に誂向きの革命家にあらずや。彼は眼の人として横井、佐久間に譲り、手の人として大久保、木戸に譲る。而して彼が維新革命史上、一頭地を抽んずる所以のものは、要するに見る所直ちに行わんと欲するがためにあらずや。彼は冒険好奇の人なり、その自から品題するや曰く、「吾が性は迂疎堅僻にして、世事において通暁する所なし。独り身を以て物に先んじ、以て艱を犯し険を冒すを知るのみ」と。また曰く、「人の為す能わざる所を為し、人の言う能わざる所を言うは、余を舎きてその人無きなり。これを舎きて余が事無きなり」と。その亡邸、蹈海、要撃、その他一として彼が生活、この言を自証せざるはなし。彼は甚だ性急なり、幾分か独断的なり、彼は冷淡ならず、彼は手を袖にして春風落花を詠ずるが如き、優長なる能わず。青山に対して時事を談ずるが如く、幽閑なる能わず。感情中に溢れ、動物的元気外に漲る。彼はある場合においては、他人の喧嘩を買うを辞せず、如何なる場合においても、自家の意を枉げ志を屈するが如きことなし。彼は世路の曲線的なるに関せず、自から直線的に急歩大蹈せり。彼は顛倒を辞せざるのみならず、かえって顛倒を一の快楽に加えたり。彼は自から愛惜せず、彼は匹夫の為すべき刺客を以て自から任ぜしことあり。彼の横井、佐久間、もしくは大久保、木戸の徒をしてこの際に処せしむ、彼ら如何に迫切なる死地に陥るも、豈に自から甘じて刺客列伝の材料とならんや。彼れ平生日本の国士を以て任ぜり、而してその為す所かくの如く、為さんと欲する所かくの如し。彼実に自から愛惜する所以を解せざるなり。彼は信念堅固、道心不抜なり。彼自から信ずる頗る厚く、自から為す所、言う所、一として自から是認せざるはなく、則ち自から反して縮んば千万人といえども、吾往かんの気象なり。彼は真理の存在を信ぜり、精神の不朽を信ぜり、天を信ぜり。その「身は家国に許し、死生は吾久しく斉しうす」といい、その「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」といい、「我、今国のために死す、死すとも君親に背かず、悠々たり天地の事、感賞は明神に在り」というが如き、みな直覚的宗教心を顕彰するものにあらざるはなし。彼は誠実なり、恐るべきほど誠実なり、「至誠にして動かざるは、古より未だこれ有らず」といい、「天下は大物なり、一朝の奮激の能く動かす所に非ず、それただ積誠これを動かし、然る後動くこと有るのみ」というが如き、その真気の惻々《そくそく》として人を動かすを知るべし。
彼既にかくの如し、これ豈に天産的の革命家にあらずして何ぞや。軽浮にして慓悍なるもの、慧猾にして狡獪なるもの、銭を愛するもの、死を恐るるもの、愧を知らざるもの、即ちハレール、セイーの徒の如きは、以て革命家の器械となるを得べし。然れどもその主動力たるものは、一種宗教的殉道者の大精神あるを要す。然り、彼の薄胆狂妄なるロベスピールすらなお一片の殉道心を有したりしなり。
然りといえども彼はこれら資格の外に、なお特別の本色を有す、曰く、不穏の精神これなり。パスカルいえるあり、「もし人安んじて一室に静坐するを得ば、世上禍害の大部は出で来らざるべし」と。而して松陰は自から安んじて一室に坐する能わざるなり。彼は治世の能臣たる能わず。彼の性質として固より維新後に生存し得る能わず、仮りに一の不思議力は、彼を明治年間に伴い来ることありとするも、彼は維新の元勲として、巨冠を戴き、長裾を曳き、以て廟廊の上に周旋する人にあらず。もし大胆に評せば、彼はその性質において化学的激変を来さざる以上は、自から殺すにあらざるよりは、人より殺さるるの人たるなり。
彼は静坐せねばならぬ獄中においてすら、無事なる能わず、獄中の人を教化し、獄則を改良し、あるいは獄卒、監守、典獄の類まで、これを同化して自家の門弟たらしむるなり。その獄中より兄に与うる書中にも、「獄中は多閑の地に候所、読書に取かかり候えば、かえって多忙に苦しみ申し候」と。而してその無聊に堪えざるや、書を獄外に飛して同志を鼓舞し、あるいは金を父兄に募りて、獄中の仲間を饗応し、あるいは書を鈔し、あるいは文を草し、あるいは詩歌を詠じ、そのいよいよ無聊に堪えざるや傭書檄を発し、筆耕を以て多閑を消ぜんとするに至る。いわゆる「死已に名無く生また懶し、英雄恨み有り蒼天に訴う」の如き、また以て彼が懊悩の情を察するに足らん。看よ、生また懶しの三字、如何に多量の不穏なる精神を含むか。吾人は嘗て上野動物園鉄檻中の虎を見る毎に、幾分か生また懶しの消息を諒するを得るなり。
彼自から記して曰く、「前日、某氏の別筵に、一老生、佯りて酔態を作し、抗然として坐客を品題して曰く、某は十万石の侯なり、某は十五万石の侯なりと。各々低昂ありて、頭より尾に到る。最後に一寅次の名を拈出して曰く、これ三千石を過ぐべからず、過ぐれは則ち叛かんと。ああ一老生及びその主とその賓と、みな余が平生のいわゆる知己なり。老生は酔語し、主賓は酔聴す、何ぞ道理有らん」と。これ彼が満腔の不平を※ 《の》べたるなり。然れども吾人を以てこれを見れば、一老生の言、実に彼が急所を刺すものあるを覚う。嘉永三年彼が二十一歳の時、九州漫遊の途に上るや、熊本に行き横井小楠の塾を過ぐ。門人彼が年少にして風采揚がらざるを見て、彼を軽易す。彼の去るや小楠門人に告げて曰く、「もし彼をして一万石の城主たらしめば、天下を顛覆せんものは、必らず他人ならず」と。吾人は実にその言の確的なるを疑う能わず、彼は如何なる場合においても、為すあるの人なり、彼は如何なる場合においても、為さざる能わざるの人なり。彼の眼中成敗利鈍なし、利害得失なし、ただ為すあるは、為さざるに優るの一念あるのみ。彼は無事を以て死よりも苦痛となせり、彼の為すや止むを得ずして為すにあらず、自から喜んで為すなり。彼曰く「人間僅か五十年、人生七十古来稀、何か腹のいえるような事を遣りて死なねば、成仏は出来ぬぞ」と。これ実に彼が最後の白状なり。
維新革命史中において、建設的革命家たる標式は、独り島津斉彬においてこれを見る。勝海舟彼を評して曰く、「天資温和、容貌整秀、以て親しむべく、その威望凜乎犯すべからず。度量遠大、執一の見なく、殆んど一世を籠罩するの概あり」と。彼が水戸に処し、徳川氏に処し、朝廷に処し、浮浪に処し、幕吏に処し、鎖港開国に処し、公武合体に処するを見るに、百難を排して一世を平かにし、千紛を除いて大計を定むるの雅量ありしが如し。然れども天年を仮さず、空しく一方においては調和塩梅の勝海舟、他方においては善断の南洲、剛厳の大久保らをして、僅かにその後を善くせしむるに到る。而して彼の松陰が一方において横井たり佐久間たる能わざると同時に、他方において大久保たり勝たる能わざるは、則ち松陰の松陰たる所以にあらずや。
第十六 最後
井伊直弼は、密勅の水戸に降りしを奇貨とし、これを中心として、その打撃を始めたり、史家称して安政の大獄という。然ればその犠牲者は、概ね水戸と朝廷との間を周旋したる、在京都の諸藩士、諸浪人にして、松陰の如きは、固よりこれに対して何らの関係ある筈なかりしなり。彼は当時において、その胸中には、千万丈の波瀾を湧かしめたりといえども、これらの運動に関しては、あたかも太陽系圜外の小遊星に外ならざりしなり。而して何物の酷漢ぞ、その禍の手を以てこの小遊星までには及ぼしたる。
さても彼は、安政六年五月二十五日において、いよいよ公の筋より江戸檻致の命を聞くに至れり。彼はこれを聴いて、毫も愕く所なし。彼の江戸の法庭に――刑場に赴くや、新郎の新婦の筵に赴くほどにゆかざるも、猛夫の戦場に出るが如く、勇みたりしなり。彼その反対党なる長井に書を贈り、如何なる場合に遭逢するも、決して禍を彼らに嫁し、藩政府に波及せしむるが如き事なきを告げ、かつ謂いて曰く、「小生も兼て人を不忠とか不義とか、大言に罵り置きたれば、拠無きも、今度は一身を以て、国難に代らねばならぬ事、疾に落着仕り居るなり」と。何ぞその言の歴々落々として青天白日を覩るが如き。
もしそれ彼がいわゆる訣別のために、門人浦無窮に描かしめたる肖像の自賛文に至っては、彼が一生の抱負と特性とを視るに足るべきもの、吾人はその文の既に人口に膾炙したるに拘らず、これを掲載するを禁ずる能わず。
三分廬を出づ、諸葛已んぬるかな、一身洛に入る、賈彪安に在りや。心は貫高を師とし、而して素より名を立つる無く、志は魯連を仰ぎ、遂に難を釈くの才に乏し。読書功なく樸学三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。人、狂頑と譏り、郷党、衆く容れず。身は家国に許し、死生は吾れ久しく斉しうす。至誠にして動かざるは古より未だこれ有らず。古人は及び難きも聖賢をば敢て追陪せん。
彼は実に死を決して行けり。彼は固より死の来る偶然に非ざるを知れり。吟じて曰く、
鳴かずあらば誰かは知らん郭公
さみだれ暗く降り続く夜は
ここにおいて、彼は五月二十六日、梅雨を冒し、檻車萩城を発し、一路の江山を随意に眺め、あるいは淡路島に対しては、
別れつつまたも淡路の島ぞとは
知らでや人の余所に過ぐらん
と独唱し、一の谷を過ぎては、
一の谷討死とげし壮士を
起して旅のみちづれにせん
と戯れ、淀を過ぎては、
こと問わん淀の川瀬の水ぐるま
幾まわりして浮世へぬらん
と懐抱を洩らし、途上あるいは史を詠じ、あるいは文天祥正気の歌に和し、七月九日直ちに江戸町奉行所に送られたり。
彼は直ちに評定所に喚び出されたり。幕吏彼に対して曰く、「汝は梅田源次郎と密謀を企てたるに非ざるか」。曰く、「否」。「汝は御所内に落文なしたること無きか」。曰く、「断じて無し、余は大丈夫なり、故に断じてかかる影暗きことなし。然れども余は実になお言うべきものあり。余は書を大原三位に致し、彼を我藩に召し下し、以て藩主を論諫せんと欲したり。余は同志を募りて間部を要撃せんと欲したり」。奉行曰く、「大胆甚し、覚悟しろ、吟味中揚屋入りを申付ける」と。ここにおいて彼は嘗て蹈海失敗の余勇を養いたりし、江戸伝馬町の獄に再び投ぜられたり。
彼は自己の罪に非ざる罪のために檻致せられたるなり。何となれば、凡て幕府が彼に対して鞠治したるものは、みなこれ大楽源太郎が為したる所にして、松陰の関したる所に非ざればなり。而して彼はかえって叢を衝いて蛇を出し、その自首したるがために、遂に彼をして死刑に致さざるべからざるまでの罪を羅織せらるるに至りしなり。彼は曰く、「もし奉行余が言を聴き、今日の急務を弁知し、一、二の措置をなさば、吾れ死して光あり、一、二の措置をなす能わざるも、また赤心を諒し一死を許せば、吾生きて名あり、また酷烈の処置に出で、妄りに親戚朋友に連及せば、吾言うに忍びずといえども、昇平の惰気を鼓舞するに足る、皆妙」と。
彼が獄中の生涯は、彼が獄中より諸友に与えたる書中に詳かなり。彼は死と同居しても、なおその飛揚跳梁の精神を全く棄てざりしなり。彼はその友人に向って、種々の事を言い送れり、あるいは唐筆を入れくれよといい、あるいは『孫子』一巻を送りくれといい、あるいは金子の入用を申遣り、またあるいはその郷里の友人に向ってその消息を通ぜざるを責め、その来信を促したり。彼れ曰く、「艱難辞せずといえども、安楽もまた自ら好に御坐候」と、これ実に彼が獄中の生涯を言い顕したるものなり。何となれば彼は獄中に多くの知己を得、従って多くの便宜を得たればなり。彼は獄中にて聴きたる大獄に関する諸有志の身の上につき、その人物につき、その出来事につき、これをその獄外の友人に告げたり。彼はその身は獄中に安坐するも、その心は一日も平静なる能わざりしなり。彼も自らその身の如何に落着するかを知らず、ただ曰く、「三奉行大憤激して吟味することにも相成り候わば、小子深望の事に候えば、その節株連も蔓延も構わず、腹一杯天下の正気を振うべし。事未だここに至らざれば、安然として獄に坐し夫の天命を楽しむのみ」と。彼は実にその身の如何に落着するかを知らず、ただその友人に向って、「天下の事追々面白く成るなり。挫ける勿れ、折ける勿れ、神州は必ず滅びざるなり」と言い贈れり。
彼は獄中において朋友に富めり。その同獄の長は、沼崎某という者なり、彼もまた初めより松陰の名を知り居れり。またその別獄には、堀江克之助、鮎沢伊太夫らの水戸藩士あり、京都鷹司家諸太夫なる小林民部太夫あり。彼らは獄中にて常に書翰を取遣り、あるいは往を談じ、あるいは来を語り、殊に死の眼前に迫るをも打忘れて、将来の経綸に余念なきものの如し。
彼は獄中において多少の新見聞を広めたり、何となれば天下の新聞は実に獄中に集れるなり。故にまた新見識を加えたり。その九月十二日高杉に与うる書中に曰く、「三人とも我を学んで、軽忽をやるな、吾は自ら知己の主、上に在り、然らざるを得ず。三人(久坂実甫、久保清太、入江杉蔵)暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申置き候」。彼が言う所、何ぞそれ雍容悠長なる。彼は実にこの三人の一人たる入江杉蔵に向って脱走を勧め、佳賊となるべしとまで勧めたりしに非ずや、彼は嘗て久坂に序を贈りて、鄭延平の挙を慕うの意を寓したるに非ずや。彼れ而して今に至って、十年苦学の要を説く、そもそも何ぞや。独り新見聞のためのみならず、惟うに獄中の静想は、彼をしてかくの如く清心遠識ならしめたるか。
彼は十月七日その父兄に書を贈り、「孰れ日月未だ地に墜ちず候えば、膝下に侍し天下の奇談申上げ候日これ有るべし」といえり。而してその八日高杉に書を与えて、「橋本と頼は幕に憚りて斬ったも尤もなれども、飯泉喜内を斬ったは無益の殺生、それはとまれ喜内を斬るほどでは、回も斬られずとも遠島は免れずと覚悟致し候」と言い贈れり。而して彼は未だ充分自ら死の運命に支配せられたるを知らざりしなり。
然れども十月十六日に至り、鞠問全く畢り、奉行は彼を流罪に当るものとなし、案を具えてこれを老中に致す。大老井伊直弼、「流」字を鈎して「死」字と作す。彼もまたこれを漏れ聞き、遂に十月二十日永訣の書を作り、これをその父兄に与えたり。
平生の学問浅薄にして、至誠天地を感格する事出来申さず、非常のここに立至り申し候。嘸々《さぞさぞ》御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。
親思う心にまさる親心
きょうの音ずれ何ときくらん
さりながら去年十月六日差上げ置き候書、得と御覧遊ばされ候わば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。なおまた当五月出立の節、心事一々申上げ置き候に付き、今更何も思い残す事御座無く候。この度漢文にて相認め候諸友に語る書も、御転覧遊ばさるべく候。幕府正議は丸に御取用いこれ無く、夷秋は縦横自在に御府内を跋扈致し候えども、神国未だ地に墜ち申さず、上に聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候えば、天下の事も余り御力落しこれ無きよう願い奉り候。随分御大切に遊ばされ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上。
死は人をして静かならしむ、死は人をして道念を警発せしむ。死は人の仮面を剥ぎてその本色を露呈せしむ。死は人をして舞台より移してその楽屋に入らしむ。かくばかり不穏なる精神も、実に如何なる厳粛、敬虔、幽静、崇高なる道念を発せしめたるか。吾人はその父兄に与うる書についてこれを知るを得るなり。もしそれ死に抵りて流涕し、落胆し、顔色土の如くなるが如きは、固より死に支配せられたる者にして、言うに足らず。彼のあるいは世を慨き、時を詈り、危言激語して死に就く者の如き、壮は則ち壮なりといえども、なおこれ一点狂激の行あるを免れず。むしろ若かんや、自ら平生の学問浅薄なるを言い、以てその限りなき懊悔を包むに限り無き慰安を以てす。その従容自若たる、正にこれ哲人の心地、観てここに到れば、吾人は松陰が多くの弱点と欠所とを有するに係らず、ただ愛すべく、敬すべく、慕うべく、仰ぐべく、真個の殉国殉道の達人たるに愧じざるを想見せずんばあらず。鳥の将に死せんとする、その鳴くや哀し、人の将に死せんとする、その言や善し。彼はいよいよ死の旦夕に迫りたるを知り、十月二十五日より『留魂録』一巻を作り、二十六日黄昏に至って稿を畢う。その中に言えること有り、
七月九日に至りては略一死を期す、その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれまた必生を期す、またすこぶる慶幸の心あり。十六日の口書、三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知り、因ってさらに生を幸うの心なし、これまた平生学問の得か然るなり。
彼は実に生を愛まざりしに非ず、欲せざりしに非ず、彼は惰夫が事に迫りて自ら縊るるが如き者に非ず、狂漢が物に激して自ら腹を劈くが如きに非ず、彼は固より生を愛し死を避けんと欲したるに相違なし。ただ彼は時に死よりも重きものあるを観、これを成さんがために死をも辞せざりしなり。然れば彼は要撃の事をも、中頃に至って要諫とはいい更えたり。然れども井伊大老已に彼を死地に処かんとす、それ将た何の益有らん。彼はここにおいて死せざるべからざるを知り、死を待てり、死に安んぜり。彼は十月二十六日の黄昏、『留魂録』を書了り歌を題して曰く、
呼び出しの声まつ外に今の世に
待つべき事のなかりけるかな
と。読んでここに到る、吾人は実に彼が平生得る所のもの、すこぶる浅からざりしを覚う。ケートが死せんとするや、自らプレトーの霊魂不滅の文を誦せり。コンドルセーが山岳党のために獄に幽せらるるや、獄中に安坐して、死を旦夕に待つに際し、なお人類円満の進歩を想望して、人生進歩の一書を著せり。彼豈にこれに愧じんや、実に彼の心は死だもなお動かすべからざるものありしなり。
かくの如く彼は、十月二十七日において、遂に評定所において死刑の宣告を受けたり。その宣告たるや、実に幕法のすこぶる峻酷なるを見るに足るものあり。曰く、
杉百合之助へ引き渡し蟄居申付け置き候浪人 吉田寅次郎
其方儀、外夷の情態等相察すべしと、去る寅年異国船へ乗込む科に依り、父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居申付け請る身分にして、海防筋の儀なお頻りに申し唱え、外国通商数港御開き相成り候わば、柔弱の御取計にて御国のためにも相成らず、誠実友愛の義を唱え和親交易を相願う夷情に基き、御国において御不都合の次第これ有る儀を申し諭し御断り、追て御打払方然るべしなど、または当時の形勢にては人心一致天子を守護致し、卑賤の者にても人を越え御撰挙これ無くては迚も御国威は振い申すまじなど、御政事向に拘り候国家の重事を著述致し、右作、「狂夫之言」あるいは「時勢論」と題号し、主家または右京家等へ差出し、殊に墨夷仮条約御渡し相成り御老中方御上京これ有る趣き承り、右は外夷御処置振の儀と相察し、蟄居の身分に在るとも下総守殿通行の途中へ罷出で御処置を相伺い見込の趣き申立て、もし御取用いこれ無く自然行われざる次第に至らば、その節は一死殉国の心得を以て、必死の覚悟を極め御同人御駕籠へ近寄り、自己の建議押立て申すべしなど、一旦存立て候段、国家の御為を存じ成し仕り候旨申立つるなれども、公議を憚らず不敬の至り、殊に大体蟄居中の身分梅田源二郎へ面会致す段不届に付き、死罪申付ける。
安政六未十月二十七日
と。ここにおいて安政六年十月二十七日午前十時、※ 手の手は、この数奇にして冒険なる革命の大精神をば、五尺の躯より脱して長天万里に飛揚せしめたり。彼豈にこれを知らざらんや。彼れ曾て歌いて曰く、
かくすればかくなるものと知りながら
やむに止まれぬ大和魂
と。彼れ実にこれを知れり。然れども知りて悔いざるは、これ実に彼が維新革命の健児たる所以なり。
〔註〕以下掲ぐる所は、江戸獄中より同志への書簡、及びその絶筆たる『留魂録』なり。如何に彼が死に処して、その平生の潜光を発揮したるかを見よ。
慷慨死に赴くは易く、従容死に就くは難し。彼その難きに処して、安詳静粛、意長く神遠く、殆んど無極の精神に冥化するものあるが如し。〔書中の註脚に〔 〕あるは、著者の挿入に係る。〕
江戸獄中より高杉暢夫に与うる書
唐筆一本有難く拝受、則ち相用いて別紙認め上げ申し候。
小生去冬十二月二十五日投獄〔長州野山の獄〕以来、大分学問進み候よう覚え候。当五月までの文稿二冊これ有り〔幽室文稿〕、弥二郎に密蔵させ置き候。小生死して遺憾なき所全くこの二冊に在り、他日御一見下さるべく候。
○貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬以来、死の一字大いに発明あり。李氏焚書の功多し。その説甚だ永く候えども約していわば、死は好む所に非ず、また悪む所に非ず、道尽き心安んぜば、便ちこれ死所、世に身生きて心死せる者有り、身亡びて魂存する者有り、心死せば生くるも益無きなり、魂存すれば亡ぶるも損無きなり、「いわゆる死生は吾久しく斉しうするものか」。また一種の大才略ある人辱を忍びて事を為す、妙( 明徐楷が楊継成を助けざるが如し )。また一種私欲なきもの生を偸むを妨げず( 文天祥※ 山に死せず生を燕獄に偸む四年これあり )、死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込あらはいつでも生くべし〔人生の目的は不朽に在り、人業に志すのは不朽ならんがためのみ〕。僕が所見にては生死は度外に措きてただ言うべきを言うのみ
○貴問に曰く、僕今日如何して可ならん。この事在国の日にも御申越し成され候故、一通り貴答相認め候えども、この行ある故、その書は杉蔵へ密蔵させ置き候。大意遠大の論なり。まず遊学御済まし成され候わば、妻を蓄え官に就く等のこと、ひたすら父母の御心に任され、もし君側にでも御出でなれば深く精忠を尽し君心を得べし。然る後正論正義を主張すべし。この時必ず禍敗を取るなり。禍敗の後、人を謝し学を修め一箇恬退の人となり玉わば、十年の後必ず大忠を立つる日あらん。極々《ごくごく》不幸にても一不朽の人となるべし。清太、玄瑞、杉蔵なども吾を学んで軽忽を遣るな。吾は自ら知己の主、上に在り、然らざるを得ず。三人暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申し置き候。三人へ示し候書、御帰国の日御覧下さるべく候〔静思は遠識を生ず〕。
○読書は勉強さえすれば書中自ら妙味有り、必ずしも言わざるなり。『下学邇言』御読み成され候由また妙。王陽明の『伝習録』その外真味あり、陸象山いう、「六経はみな我が注脚」と、この見極めて妙。読書論は申したき事あれども言うも無益なり。
○今日諸侯の処しよう、これも愚考の所、在邸の節密かに建白致し候えども、囚奴の言、政府何ぞ信用あらん。しかし知己のために一言して併せて高論を乞う。僕江戸に来り墨夷の事体見聞、大いに驚き、また窃かに喜ぶ。また深く惜しむことあり。墨夷本牧を以ていまだ足らずとし、江戸に来居、市中自在に横行するは、応接条約等の表にては当然の事には候えども、現在に目撃すれば随分驚き申し候。しかし英夷阿片交易のことに付き、瘍医を広東へ渡し療治を施させ、これに継ぐに引痘を以てする等の苦心( 『海国図志』中奥東日報に見ゆ )、その思慮深遠というべし。墨夷は人心を懐柔するの手段大いに英夷に劣る。ここを以て窃かに喜び申し候。然るに機は得難く失い易し。墨夷の為す所市中の人心を失うとも、また数十年無事ならば人心も自ら帖服すべし。この機会を失うこと豈に惜しからざらんや。幕府初めは墨夷を借りて諸夷を制し諸侯を抑えんと欲す。而して今は何となく悔悟の色あり。悔悟すれども膺懲の奇策なければ淪胥与に喪ぶるの外致し方なし。将また京師の一条も幕府最初の思い過ちにて、追々糺明あればさまで不軌を謀りたる訳にこれ無く候えば、今また少しく悔ゆ。ここを以て今諸侯において誠に大切の時なり。今正義を以て幕府を責むるは宜しからず候えども〔これ平生の口吻にあらず〕、上策は彦根、間部等の所は誠実に忠告するに如かず。中策は隠然自国を富強にしていつにても幕府の倚頼となる如く心懸くべし〔獄中の意見何んぞ実着なる〕。今幕府への嫌忌と見えて杉蔵らが獄さえ免ぜず、遊学生も容易には出さず、坐ながら事機を失う、残念なり。せめては中策にても出だせかし。
○京師の一条に付き、投獄の人少なからず。この獄みな失策なり。
清水寺の僧信海、勅を奉じて敵国を調伏し万民を安穏にせんことを祷る。事、幕忌に触れ、捕えられて獄に下り、病を以て没す。実に今茲四月某日なり、遺歌一首有り。曰く、
西の海東のそらとかわれどもこころはおなじ君の世のため
その兄僧某、また同志の人なり。これより先、薩摩の海に投じて死す。また遺歌あり〔僧某は月照なり〕。
大君のためには何にか惜しからん薩摩のせとに身は沈むとも
くもりなきこころの月の薩摩潟おきの波間にいまぞしずめり
余獄に入り、同囚のその事を説くを聞き、感慕に堪えず、短古を作る。
弟は東獄に繋がれて死し、兄は西海に向って投ず。死その地を殊にすといえども、同じくこれ皇恩に酬ゆ。ああ、吾が身未だ死せず、感慕涕泗流る。昔聞く暁月坊、国に死す承久の秋、今見る公が兄弟、真箇、古人の儔。
この詩郷友へ御贈り下さるべく候。もし珍説あらば承りたし。
何卒御一答承りたく、態と金六を遣わし候。御答出来かね候わば、爾後は使い差出さず候に付き、左様抑聞け下さるべく候。
両度の書とも相達し候事と存じ奉り候処、絶えて御答これ無きは如何や。何か故障にても起き候ことかと案労仕り候。何卒御一答待ち奉り候。
小生投獄の信、国へ達し候後同志より未だなんとも音信これ無く、最早六十日過ぎ候えば、一信これ有る筈なり。ついては例の四円金( 十円の内なり )今に参り申さずや。沼崎氏の出帆も三十日内外なり。何卒それまでに届けかしに御坐候。
水戸の臣鮎沢伊太夫、鷹司の臣小林民部権太輔両人遠島の命にて揚屋預け、小林は同居仕り候。色々妙話あり。
去月念七日水戸の大変物議如何。かえって奇事これより生ずべしと驚裡胆を生じ候。
今月五日小生評定所御呼出しこれ有り、御吟味の模様にては軽典に処せらるることと察せられ候。先ず御悦び下さるべく候。
六日に十四年在牢の僧宥長出牢し愛宕下円福寺へ預けに相成り候。獄中の様子御承知成されたくばこの僧を訪い玉え。善く譚ずる人なり。
九月十二日
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江戸獄中より入江杉蔵に与うるの書〔これ刑につく一週前の書、死に垂んとして、なお天下の経綸に汲々たるの情を見るべし〕
兼て御相談申し置き候尊攘堂の事、僕はいよいよ念を絶ち候〔既に死を決するが故に〕。この上は足下兄弟の内一人は是非僕が志を成就致しくれられ候事と頼母しく存じ候。春以来の在囚、飽くまで読書も出来、思慮も精熟、人物一変なるべくと殊に床敷く、日夜西顧父母を拝する外、先ず第一には足下兄弟の事を思出し候。尊攘堂の事は中々大業にて、速成を求めてはかえって大成出来申さず、また亡命などにて出国し候ては往先の不都合もこれ有る事故、足下出牢の上は先ず慈母の心を慰め、兄弟間遊学の事も政府辺の指揮を受けての事が宜敷く、これは小田村その他の諸友も随分尽力致すべく候。さて僕も江戸に来たりて天下の形勢一覧致し、余程知見の進み候処これ有り。神州未だ地に墜ちず人物も随分これ有る事承知、委細に御話申したく候えども、心に任せず候間、ただただ何事も心強く抛たざるよう御心懸け専一に存じ候。尊攘堂の事に付いても一策を得たり。御聞き及びも候わん、堀江克之助と申す水戸の豪士あり、羽倉の三至録に久保善助とあるはこの人なり。丁巳墨使登営の節、信田、蓮田と共に墨使を討たんことを謀る。両田は獄死、堀江は今に東口揚屋に在り( この人の事は追々高杉へも申し遣わし候、御聞き及びと存じ候 )。この人殊の外神道を尊び 天朝を尊ぶ人なり。毎々《つねづね》申され候事に、神道を明白に人々の腹へ入る如く書を著し、 天朝より開板して天下へ御頒示成されたしと頻に祈念仕り居られ候。僕が心得には教書のみ天下に頒ちても天下の人心一定と申すようには参り難きに付き、京師に大学校を興し上は天子親王公卿より武家士民まで入寮寄宿等も出来候よう致し、恐れながら 天朝の御学風を天下の人々に知らせ、天下の奇材異能を天朝の学校へ貢じ候よう致し候えば、天下の人心一定仕るに相違なし〔いわゆる皇室中心主義〕。しかし急に京師へ大学校を興すと申しては、只今の時勢、とてもとても出来ぬ事と誰しも存ずべく候えども、ここにまた策あるべし。小林民部より承り候。今学習院は学職方は公家なり、儒官は菅清家と地下の学者と混じて相務められ、定日ありて講釈これ有り。この日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、勿論堂上方御出坐なり。然れば学習院の基に依り今一層興隆致し候えば、何様にも出来申すべし。さて学問の筋目を糺し候事が誠に肝要にて、朱子学じゃの陽明学じゃのと一偏の事にては何の役にも立ち申さず、尊皇攘夷の四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても、その長ずる所を取るようにすべし。本居学と水戸学とはすこぶる不同あれども、尊攘の二字はいずれも同じ。平田はまた本居とも違い癖なる所も多けれども『出定笑語』『玉襷』等は好書なり。関東の学者、道春以来、新井、室、徂徠、春台らみな幕府に佞しつれども、その内に一、二箇所の取るべき所はあり。伊藤仁斎などは尊王の功もなけれども、人に益ある学問にて害なし。林子平も尊王の功なし攘夷の功あり。兼て御話し申し候高山、蒲生、対馬の雨森伯陽、魚屋の八兵衛の類は、実に大切の人なり、各神牌を設くべし。右諸家の書を聚め長を抜取り、人物格別功あるは学習院中へ神牌を設くる等の評議は中々大議に付き、天下の人物を聚めねば出来ず、人物聚らずとも諸国へ京師より人を遣わし豪傑の議論を聞聚め、京師にて大成すべし。この議論中に天下の正論大いに起るべし。また水戸『日本史』の後もこれ無く、天朝『六国史』の後も闕く。 天皇の御諡号も光孝天皇までなり。その後の帝紀御撰述、諡号御定め等、勅諚にて学習院に抑付けられたき事なり。尤もこれは書籍と人物と大いに学習院に集りたる上の事なり。
学習院興隆の事
一、天下有志の者出席を免し給うべき事( 居寮寄宿を免す )
一、天下有用の書籍献上を免し給うべき事( 古書近世書に限らず )
但し神代の神々、式内の神々も時宜を酌んで院中に祭るべし。それ以下菅公、和気公、楠公、新田公、織田公、豊臣公、近来の諸君子に至るまでその功徳次第神牌を立つるなり。
向に御相談申し候尊攘堂の本山ともなるべし。人物集り書籍集りたる上にて、神道を尊び神国を尊び 天皇を尊び、正論ばかり抜き取り一書として天下に頒つべし。
□慶ごろの人清原某「神代巻跋」、松苗「十八史略序」、この二編小子深く心服仕る論なり。
一、院中へ史局を設け『六国史』以下の闕を補う事。
右等の趣向を眼目として御工夫を御こらし然るべく候。他日御出国出来候わば、先ず大原公父子へ御謀り、公卿方の御論御伺い、また関東下向、掘江とも御相談成され、天下同意の人々申合せ、そろそろ京師にて御取建て然るべし。尤も湖城、鯖江等〔井伊、間部〕威権を振う間は少し御見合わせ成されるべく候。近年の内両権仆るべし。京師も九条公御辞職あらん〔先生平生の口吻にあらず〕。その後よき関白ありて関東と御一和の事も調い候わば、その節妙なり。その内夷事も日々禍深く相見え候に付き、好機会の出る事もあらん。何分京と関東との形勢を熟覧して、どうもむつかしくば最前の論の如く吉田にてなすなり。妙なれば学習院へ出るなり。この所は足下の眼中にあれば、悉くは申し難く候。堀江何卒出牢させたきものなり。僕より勝野保三郎へ申し遣わし置き候。山口三※ など好策なきかと申し遣わし置き候。堀江出牢と御聞きに成られ候わば、早速諸事御通信然るべし。僕天下の士を多く見候えども、無学にして篤志なることかくの如き人は多く見申さず、実に奇人なり。学ぶべし、頼るべし。別封の一通御覧、この人の心中察し給え。
僕出国以来五箇月に相成り候えども、小田村、久坂ら一書もなし。足下は在獄なればせん方なし。僕においては苦しからざる事には候えども、諸友の踈濶は志の薄き故かと大いに懸念致し候。この事兄出牢せば一論あるべし。作間、弥二、徳民などのこと甚だ懸念なり。この三人は決して変ぜぬに相違はなくと存じ候。岡部これまた棄つべからず。この四人、兄幸いにこれを愛せよ。福原は長進と察し候。如何にや。佐世も心にかかり候。来原、中村余り周布風を学び大人振り、後進を導くこと能わざるが患なり。中谷は自ら妙、山口にて一世界をなせかし。これを要するに諸人才器齷齪、天下の大事を論ずるに足らず、吾が長人をして萎※ 《いび》せしめん。残念々々。足下久坂をのみ頼むなり。高杉大いに長進とは察し候えども、この地にては十分の議論せず帰国、大いに残り多き事どもなり
未十月廿日 松陰
子遠兄
足下
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『留魂録』〔人の将に死せんとする、その言や善し。〕
身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士
一、余去年已来心蹟百変、挙げて数え難し。就中趙の貫高を希い、楚の屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。故に子遠が送別の句に「燕趙の多士一貫高、荊楚の深憂只屈平」というもこの事なり。然るに五月十四日関東の行を聞きしよりは、また一の誠の字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る、余これを用いず、一白綿布を求めて、「孟子の至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫付け、携えて江戸に来り、これを評定所に留め置きしも、吾が志を表するなり。去年来の事、恐れ多くも天朝、幕府の間、誠意相孚せざる所あり。天苟も吾が区々の悃誠を諒し給わば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊虻山を負うの喩、終に事をなすこと能わず今日に至る。また吾が徳の非薄なるによればなり。今将誰をか尤めかつ怨んや〔これ哲人の心地〕。
一、七月九日初めて評定所呼出しあり、三奉行出坐し、尋鞠の件両条あり。一に曰く、「梅田源二郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をかせしや」。二に曰く、「御所内に落文あり、その手蹟汝に似たりと源二郎その外申立つる者あり、覚ありや」。この二条のみ。それ梅田は素より奸猾なれば、余与に志を語ることを欲せざる所なり。何の密議をかなさんや。余ここにおいて六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請い、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて、終に下獄とはなれり。
一、吾性激烈、怒罵に短し、務めて時勢に従い人情に適するを主とす〔それ然り、豈にそれ然らんや〕。ここを以て吏に対して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後当今的当の処置に及ぶ。その説常に講究する所にして、具に対策に載するが如し。ここを以て幕吏といえども甚だ怒罵すること能わず。直ちに曰く、「汝陳白する所悉く的当とも思われず、かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり」。余また深く抗せず、「ここを以て罪を獲るは万々辞せざる所なり」といいて已みぬ。幕府の三尺、布衣国を憂うることを許さず。その是非、吾曾て弁争せざるなり。聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、当今政治の欠乏を歴詆して、かくの如くにては往先三、五年の無事も保し難しというて、鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く、「ここを以て死罪を得るといえども悔ざるなり」と。これ吾の及ばざる所なり。子遠の死を以て吾を責むるも、またこの意なるべし。唐の段秀実、郭曦においては彼の如く誠悃、朱※ 《しゅせい》においては彼の如くの激怒、然らば則ち英雄自ら時措の宜しきあり。要するに内に省みて疚からざるにあり、そもそもまた人を知り機を見ることを尊ぶ。吾の得失、当に蓋棺の後を待って議すべきのみ〔隠然自負、蓋し松陰直情径行といえども、また臨機応変的長州気質を免がる能わざるなり〕。
一、この回の口書甚だ草々なり。七月九日一通申立てたる後、九月五日、十月五日両度の呼出しも、差したる鞠問もなくして、十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、直ちに書判せよとの事なり。余が苦心せし墨使応接、航海雄略等の論、一も書載せず。ただ数箇所、開港の事を程よく申演べて、国力充実の後打攘然るべしなど、吾心にも非ざる迂腐の論を書付けて口書とす。吾言いて益なきを知る故に敢て言わず、不満の甚だしきなり。甲寅の歳、航海一条の口書に比する時は、雲泥の違というべし〔死に際して、なお口実の可否を論ず、これ死を愛まずして、名を愛む所〕。
一、七月九日一通り大原公の事、鯖江要駕の事等を申立てたり。初め意らく、これらの事幕にも已に諜知すべければ、明白に申立てたる方かえって宜しきなりと。已にして逐一口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。因って意らく、幕にて知らぬ所を強いて申立て、多人数に株連蔓延せば善類を傷う事少なからず、毛を吹いて創を求むるに斉しと。ここにおいて鯖江侯要撃の事も要諫とはいい替えたり。また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名等、成るべく丈は隠して具白せず。これ吾後人のためにする区々の婆心なり。而して幕裁、果して吾一人を罰して一人も他に連及なきは、実に大慶というべし。同志の諸友深く考思せよ。
一、要諫一条に付き、事遂げざるときは鯖江侯と刺違えて死し、警衛の者要蔽する時は打払うべきとの事、実に吾がいわざる所なり。然るに三奉行強いて書載して誣服せしめんと欲す。誣服は吾肯て受けんや。ここを以て十六日書判の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに争弁す。吾肯て一死を惜しまんや、両奉行の権詐に伏せざるなり。これより先九月五日、十月五日両度の吟味に吟味役まで具に申立てたるに、死を決して要諫す、必ずしも刺違え、切払い等の策あるに非ず。吟味役具にこれを諾して、而もかつ口書に書載するは権詐にあらずや、然れども事ここに至れば、刺違え、切払いの両事を受けざればかえって激烈を欠き、同志の諸友もまた惜しむなるべし、吾といえどもまた惜しまざるに非ず、然れども反復これを思えば、成仁の一死、区々一言の得失に非ず。今日義卿奸権のために死す、天地神明照鑑上にあり、何の惜しむことかあらん〔松陰十五、六の少年を提げて、堂々たる諸侯の儀衛を衝かんとす。人みなその大胆に驚く。彼曰く、「昇平日久しく、苟くも決死の徒二、三あらんか、彼の横剣荷槍の儀衛は、禽奔獣散せん」。松陰死するの明年、水戸十七士桜田の変あり。ここにおいて門人みな彼が先見の明に服すという〕。
一、吾この回初め素より生を謀らず、また死を必せず。ただ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至っては、ほぼ一死を期す。故にその詩にいう、「継成ただ当に市戮に甘んずべし、倉公寧んぞ復た生還を望まんや」と。その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれ、また必生を期す。またすこぶる慶幸の心あり。この心吾この身を惜しむために発するに非ず、そもそも故あり。去臘大晦、朝議已に幕府に貸す、今春三月五日、吾公の駕已に萩府を発す、吾策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むること極めて急なり。六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り天下の形勢を考察し、神国の事なおなすべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり。吾もし死せずんば、その勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知り、因ってさらに生を幸うの心なし。これまた平生学問の得か然るなり。
一、今日死を決するの安心は、四時の循環において得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し夏苗し秋刈り冬蔵す。秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨みて、歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾行年三十、一事成ることなくして、死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。然ども義卿の身を以て言えば、これまた秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば 人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死するものは十歳中自ら四時あり、二十は自ら二十の四時あり、三十は自ら三十の四時あり、五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは、※ 蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは、霊椿をして※ 蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備わる、また秀また実、その秕たりとその粟たると吾が知る所にあらず。同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥じざるなり。同志それこれを考思せよ。
一、東口揚屋におる水戸の郷士堀江克之助、余未だ一面なしといえども、真に知己なり、真に益友なり。余に謂いて曰く、「昔し矢部駿州は桑名侯へ御預けの日より絶食して敵讐を詛いて死し、果して敵讐を退けたり、今足下も自ら一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払われよ、一心を残し置きて給われよ」と丁寧に告戒せり。吾誠にこの言に感服す。また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。余に告げて曰く、「今足下の御沙汰も未だ測られず、小子は海外に赴けば天下の事総て天命に付せんのみ、ただ天下の益となるべき事は同志に托し後輩に残したき事なり」と。この言大いに吾志を得たり。吾の祈念を籠る所は、同志の士甲斐甲斐しく吾志を継紹して尊攘の大功を建てよかしなり。吾死すとも、堀鮎二子の如きは海外に立つとも獄中に立つとも、吾が同志たらん者願わくは交を結べかし。また本所亀沢町に山口三※ という医者あり、義を好む人と見えて、堀鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋せり。尤も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、二子より申し遣わしたれば、小林のためにまた大いに周旋せり。この人想うに不凡ならん。かつ三子への通路はこの三※ 老に托すべし。
一、堀江常に神道を崇め天皇を尊び、大道を天下に明白にし異端邪説を排せんと欲す。謂らく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如かずと。余謂らく、教書を開板するに一策なかるべからず、京師において大学校を興し、上天朝の御学風を天下に示し、また天下の奇材異能を京師に貢じ、然る後天下古今の正論確議を輯集して書となし、天朝教習の余を天下に分つときは、天下の人心自ら一定すべしと。因って平生子遠と密議する所の尊攘堂の議と合わせ堀江に謀り、これを子遠に任ずることに決す。子遠もし能く同志と議り内外志を協え、この事をして少しく端緒あらしめば、吾の志とする所もまた荒せずというべし。去年勅諚綸旨等の事一趺すと いえども、尊皇攘夷苟くも已むべきに非ざれば、また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。京師学校の論また奇ならずや。
一、小林民部いう、京師の学習院は定日ありて、百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる、講日には公卿方出坐にて、講師菅家、清家及び地下の儒者相混ずるなり。然らばこの基に因ってさらに斟酌を加えば、いくらも妙策あるべし。また懐徳堂には霊元上皇宸筆の勅額あり。この基に因りさらに一堂を興すもまた妙なりと小林いえり。小林は鷹司家の諸太夫にて、この度遠島の罪科に処せらる。京師諸人中罪責極めて重し。その人多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。西奥揚屋にて余と同居す、後東口に移る。京師にて吉田の鈴鹿石州、同筑州別して知己の由、また山口三※ も小林のために大いに周旋したれば、鈴鹿か山口かの手を以て海外までも吾同志の士通信をなすべし。京師の事については後来必ず力を得る所あらん。
一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫め、宗藩水家と親睦の事について苦心せし人なり。東奥揚屋にあり、その子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科如何、未だ知るべからず。同志の諸友切に紀念せよ。予初めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法、隻語を交ゆることを得ず、翁独語するものの如くして曰く、「むしろ玉と為りて砕くるとも、瓦と為りて全うする勿れ」と。吾甚だその意に感ず。同志それこれを察せよ。
一、右数条余徒に書するにあらず。天下の事を成すは、天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。而して右数人は余この回新たに得る所の人なるを以て、これを同志に告示するなり。また勝野保三郎早や已に出牢す。ついてその詳を問知すべし。勝野の父豊作、今潜伏すといえども有志の士と聞けり。他日事平ぐを待って物色すべし。今日の事、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同志を問訊する如くすべし。一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す。
一、越前の橋本左内二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五、六日のみ。勝保同居せり。後勝保西奥に来り、余と同居す。余勝保の談を聞いて、益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中『資治通鑑』を読み、註を作り漢紀を終る。また獄中教学工作等の事を論ぜし由、勝保余にこれを語る。獄の論大いに吾意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。ああ〔恐らくは松陰以上の人ならん〕。
一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。故に余これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。同志それ吾に代ってこの言を践まば幸甚なり。
一、同志諸友の内、小田村、中谷、久保、久坂、子遠兄弟らの事、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らへ告知し置きぬ。村塾の事、須佐、阿月らの事も告げ置けり。飯田、尾寺、高杉及び利輔の事も諸人に告げ置きしなり。これみな吾が苟くもこれをなすに非ず。
かきつけ終りて後
心なることの種々《くさぐさ》かき置きぬ思い残せしことなかりけり〔安心〕
呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな〔静寂〕
討たれたるわれをあわれと見ん人はきみを崇めて夷払えよ〔尊王攘夷〕
愚かなる吾をも友とめず人はわがとも友とめでよ人びと〔汝ら相い愛せよ〕
七たびも生かえりつつ夷をぞ攘わんこころ吾れ忘れめや〔七たび生れて賊を滅ぼす〕
十月二十六日黄昏書す 二十一回猛士
第十七 松陰とマヂニー
松陰の最後に伴うて、その始終を回看すれば、あたかもマヂニーその人を想見せずんばあらず。何となれば彼らは、その時代において相近く、境遇において相均しく、性行において相類し、人物において相似、運動において相同じく、概言すれば、松陰は畢竟、小マヂニーというも不可なければなり。吾人は敢て小マヂニーという。何となれば、彼は到底その人物の点において、その事業の点において、またその理想の点において、品性の点において、マヂニーに髣髴して、さらにマヂニーの百尺竿頭及ぶべからざるものあればなり。
マヂニーは何人ぞや。彼は実に伊太利新帝国建立の一人なり。彼は実に千八百〇五年、ゼノアに生る。即ち文化二年、露西亜使節の長崎に来りし翌年、露西亜が蝦夷を掠めし前年にして、その死せしは、千八百七十二年、即ち明治五年、京浜間の鉄道始めて落成したる当年にして、廃藩置県、即ち我邦統一の業を成就したる翌年なりとす。これを以て松陰が、天保元年、即ち千八百三十年に生れ、安政六年、即ち千八百五十九年に死するに比す、彼は実に松陰に比して、二十五年前に生れ、十三年の後に死したる者なり。彼の生涯を以て松陰に比す、独りその長きを加うのみならず、その危険逼仄なる、またさらに甚しきものあり。
彼は松陰の如く初めより老成にして、遂に純乎たる童子の生涯なる味を識ること無し。彼の学校に在るや、恒に黒衣を纏えり、曰く、「これ我邦のために喪服を着るなり」と(蓋し当時伊国の、如何に憐れなる形勢に陥りしやは、彼の圧制の権化、旧主義の本尊メテルニヒが、伊国は地理学的の名目にして、国家的称号にあらずと※ 言したるを以て知るべし)。その天資、慷慨にして愛国の至情に富む、何ぞその相肖たるの酷しき。而してその文章を擲ち去りて、殉国靖難の業につきたるが如き、二者ともにその轍を同じうせり。松陰が生れたる天保元年は、実に千八百三十年ブルボン朝の最後を遂げたる巴里における七月の革命出で来りたる歳にして、マヂニーはこの歳を以て獄に投ぜられ、終に伊太利より放逐せられたり。彼は初め、「焼炭」の革命社に投ぜり、而してその社の倶に天下の大事を謀るに足らざるを以て、同三十二年、仏国マルセーユにおいて、「少年伊太利」を組織せり。彼が「少年伊太利」を組織する、何ぞそれ松陰が松下村塾におけると相似たる。彼れ曾て※ 言して曰く、「革命は人民のために、人民の手に依りて成就せざるべからず。吾人の全旨、約してこの一語に在り」と。彼は曰く、「少年伊太利は、進歩と職分の大法を信じ、而して伊太利が遂に一国民となることを信ずる所の伊太利人の協会なり、彼らは実に自由平等の独立主権的国民として、伊太利を再建するの大目的に向って、その思想と運動とを使用するの健児を以て、この協会を組織する者なり」と。また曰く、「勝利における唯一の道は、殉難に依るに在り、殉難を耐久するに在り」と。苟くもこの語を聞く者は、また以て松陰の維新前における猛志を彷彿するを得べし。松陰が新日本の一統におけるが如く、マヂニーは実に新伊太利一統に向って、熱心せり。ただこれを松陰に比すれば、マヂニーの見る所、甚だ明、甚だ大、甚だ弘。
マヂニーも己を棄てて国と主義とに尽さんと欲せり、松陰も己を棄てて国と主義とに尽さんと欲せり。松陰の主とする所は、尊王主義に在り。マヂニーの主とする所は、平民主義に在り。彼は独立、自由、平等、友愛、進歩を以て、記号と為せり。彼は実に最善最賢者の誘導の下に、衆民に由りて、衆民の進歩を以て、平民主義の第一義と為せり。彼は徹頭徹尾平民主義の信者なりし、預言者なりし。その預言者なるは、なお松陰が尊王的の打撃者たるが如し。而してその両ながら国家的概念を以て充満するに至りては、則ちその揆を一にせずんばあらず。
もしそれその生涯の困厄なるに至りては、彼れ此れより甚しきものあり。マヂニーが死刑を宣告せられたる、実に三回とす。その捕に就き、獄に投ぜられ、他方に流寓し、あるいは探偵者のために覗われ、あるいは本国政府のために追跡せられ、あるいはその到る処の客土より、放逐せられたるが如き、流離顛沛の状に至っては、松陰をしてこれに代らしめば、あるいは忍ぶ能わざりしものもあらん。実に彼はその千八百三十二年、即ち天保三年、仏国より追放せられ、かえってマルセーユに潜匿してより、爾来二十年間は、殆んど暗澹たる小室に蟄居し、自から一の孤囚と為り、以て社会の地層の下に埋伏し、この中よりして千辛万苦、その気脈を四方に通じ、あるいは欧洲において、同志を糾合して、「少年欧羅巴」党を組織し、あるいは本国において、蜂起者を募り、以て恢復の途を拓らき、その画策の神秘、大胆、危険、雄放なる、人をして殆んど戦栗せしむるもの無きにあらず。然れども彼れ寂然としてその心を動かさず、以てこれを為せり。吾人は敢て此処において彼れの行事を叙べんと欲するに非ず、ただこれを以て松陰の履歴に比すれば、彼も此も、獄中の生涯と、陰謀の生涯とを以て、重なる生涯と為したることを、一言するを以て已まんのみ。
もしそれその功名栄利に淡如とし、その志を行うて超然独往するの点に至っては、実に及ぶべからざるものあり。千八百四十八年、ロンバルトの暴徒蜂起するや、マヂニー率先してこれに投ぜんとす。サルジニア王彼を拝してその首相と為し、かつ彼が意に任せて憲法を制定せんことを許し、以て彼の驩心を得んと欲す。然れども彼れこれに応ぜざるなり。彼がサルジニア王の伊太利を一統するや、伊太利人民これに帰服するを視て、彼は心ならずもこれを識認せり。彼自ら曰く、「余は伊太利国民の多数の意志に忸怩として叩頭す、然れども伊太利帝国は、到底余をその臣下の一に数うる能わざるべし」と。彼は実に心からの民主論者なりし。その彼が伊太利国会に四たび選ばれ、遂に特赦の命に由りて死刑の宣告を取り消さるるや、彼はその特赦を拒んで曰く「余未だかくの如き物を受るの理由なし」と。彼が強項不屈なる、実にかくの如きものなり。
もしそれ彼が調和的の事を好まざる、彼が欲する所直ちにこれを遂げんとする、彼が徒らに遷延機会を俟つが如きこと無き、彼が冒険大胆にして不敵なる、これみな一に松陰の人物を夕陽に照して、さらにその丈余の影子を加えたるものというべし。而して彼が九顛十起、堅忍不抜、いよいよ窮していよいよ画策し、いよいよ蹶きていよいよ奮うに至っては、恐らくは十の松陰あるも、また及ぶ所無けん。
もしあるいは正義を愛し、その正義を愛するの余り、これを行うにおいてはその手段の如何を顧みず、如何なる陰謀秘策をも頓着なく、いわゆる聖賢の心を以て蘇張の術を行うの一点に至っては、さらにその相類する所あるを見る。人あるいは松陰を以て、ただ一の正直者という、これ未だ松陰を識らず。彼は目的においては誠実なり、然れども手段においては、甚だ術策に富み、而してその術策中、不謹慎なるもの一にして足らず。いわゆる「ゼシュウイト」派の目的は手段を是認するの語、松陰においては、その信仰の一たるを疑うべからず。看よや彼が伏見要駕策の如き、その大胆無頓着なる、いわゆる鬻拳の兵諫も及ぶ所なきに非ずや。而して彼これを以て人を勧めて顧慮する所なきのみならず、彼が自ら間部を刺さんとする、何ぞそれその挙動の荊軻、曹昧一流に類するや。而して彼これを作すを恥じざるのみならず、かえってこれを名誉とす。吾人は実にこの点において、彼らが太甚だ相類するを認め、而して後の志士たる者、これについて自ら警むる所あらんことを冀わざるを得ず。
もしあるいは彼らが破壊家にして、その経世的手腕に富まざるが如き、彼のマヂニーが、曾て一時羅馬において摂政官と為りし時において、これを見るを得べし。彼が公文書の遒麗富贍にして、而も指画明晰なる、而してその措置の尋常に非ざる、決して誣ゆべからざるものありといえども、これを以て真個の経世家カブールの手腕に比すれば、実にその十が一を望む能わず。彼らはこの点においても、相類したるなり。
その文学の趣味を有するや、二者また同じ。松陰は文学者にあらず、然れどもその文章質実明快、勁健にして熱情活躍、その謂わんと欲する所を謂う、あたかも拇指を以て眼睛を突くが如し。彼の文を読んで解すべからざる事なく、解する所として感ぜざる所なし、必ずしもその説の異同を問うに遑あらざるなり。もしその満腔のインスピレーションの火山の如く燃え来るや、坐する者みな立ち、立つ者みな舞う。これを彼のマヂニーが一句一言、その偉大なる品性の印象、道念の清遠皎潔なる高調、人情の円満なる進歩を主宰する上帝の摂理を仰望する活信を以て横溢するに比す、固より同日の論にあらずといえども、然も松陰、人情の奥線に触れ、道念の絶頂に攀じたるものなくんばあらず。蓋し松陰をして天下に紹介したるもの、その革命的気※ を煽揚せしめたるもの、即ち松陰をして松陰たらしめたるもの、彼が雄文勁筆の力与かりて多きにおらずんばあらず。もしあるいはその文学の上における、マヂニーの淵博深奥なる哲学的識力、宇内の大勢を揣摩し、欧洲の活局を洞観するの烱眼に到りては、その同時の諸家、彼に及ぶもの鮮なし、いわんや松陰においてをや。
彼らがその真率にして赤児の如き点、また対照の価値なしとせず。松陰自から諸友の己を疎隔するを嗔るや、曰く、「最早吾といえども尊攘を説くべからず」と。而してまた自から詫びて曰く、「挙世一士無し、吾に放にせしむ第一流」と。マヂニー曰く、「余は活動を喚起する喇叭のみ、汝もし余が勢力を減殺せんと欲せは、奚ぞ自から活動せざる」と。その異地同調の真趣は、言外に看取するを要す。
もしそれ理想高遠にして、その志世界に在り、その意万民に在り、その一呼吸は直ちに天地の大霊に通ずるが如きに至っては、松陰僅かにマヂニーの門牆を望むを得べし。マヂニー曰く、「吾人が為さんとする所は、単に政治的に非ず、徳義的事業なり。消極的に非ず、宗教的なり」と。彼が「上帝と人民」の二字を「少年伊太利」の標語となし、一統と独立を旗幟の一方に、自由、平等、人情を他方に記したるを見、また、総ての人類に向って自由、平等、人情の普及せんことを信じ、この希望と将来とに向ってその心身を尽悴する、これ吾党の本望なりというを見れば、彼は実に、この志を以て一国に行うに非ず、世界に行わんとしたる者なり。彼の横井小楠が、「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す、何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」といい、「帝は万物の霊を生じ、これをして天功を亮けしむ、所以に志趣は大にして、神は六合の中に飛ぶ」といいしに比す、さらにその調子を一にせずんばあらず。想うてここに到れば、マヂニーは実に、松陰の意気と精神とに小楠の理想と霊心とを加えたりというも、不可なきなり。吾人はただ松陰が何となくマヂニーに比して足らざる所あるを覚う。いわゆる我の卑きに非ず爾の高きなり、筑波山の低く見ゆるは、畢竟富士山の高きなり。然りといえどももし概括して、我邦革命史上においてマヂニーに比する者を求めば、革命の人物中実に松陰を推さざるべからず。松陰の我が維新革命史中における位置も、豈にまた重要ならずと為んや。
その性質の磊落なる、光明なる、大胆なる、その百難を排きて屈せざる、その信ずる所を執りて移らざる、その道念の鬱積したる、その信念の堅確なる、その宗教的神秘の心情を有する、要するにみな松陰において、多少マヂニーの典型を見ざるは莫し。もしそれ松陰をして、その遭遇する事業を繁多ならしめ、その活動する天地を偉大ならしめ、多くの事と、多くの人と、多くの思想と、多くの歳月との中に、彼を練磨せしめば、彼が進境、あるいはここに止まらざりしなるべし。故にその人物の長短について、肯て一概に論ずべからざるものあるなり。
然りといえども東洋孤島の裡に在り、三十歳の生涯にして、彼が如き業を成し、彼が如き痕跡を留め、彼が如き感化を及ぼしたる者、豈に復た多からずと為んや。
第十八 家庭における松陰
彼が家庭の児たるを知るものは、また如何に彼が家庭における生活を知らん。彼が世界における生活は、猛風悪浪の生活なりき、彼が家庭における生活は、春風百花を扇ぐの生活なりき。
彼が短命なる生活の三分の一は、成童以後生活の過半は、旅行と囚獄とにおいて経過したり。然れども日葵が恒に太陽に向う如く、磁針が恒に北を指す如く、川流の恒に海に入る如く、彼の心は恒に家庭に向って奔れり。
家庭における彼を見れば、あたかも天人を見るが如きの想いあり。彼はその全心を捧げて父母を愛せり、兄妹を愛せり、叔姪を愛せり。彼は思い切りて藩籍を脱せり、然れどもその亡邸の初夜において、彼の夢に入りしは、彼の父母兄妹なり。彼は万里踏海の策を企てたり、然れども彼はこの際において、兄に面別するに忍びず、兄が寓する長州邸の門前を徘徊して涙を揮い、空しく去れり。彼は「磧裡の征人三十万、一時首を回らして月中に看る」の詩を罵りて曰く、「これ豈に丈夫の本色ならんや」と。然れども彼は故郷を懐えり、故郷の父母は、恒に彼の心に伴えり。彼は死を決して間部を刺さんがために、同志を率い、京都に馳せ上らんとす。而してその父、母、叔、兄に告ぐる書において、人を泣かしむるを禁ずる能わざりしなり。
彼の家庭における生活は聖き生活なり。温かなる生活なり。彼の家庭は真個に日本における家庭の標本なり、模範なり。彼自から曰く、「謹んで吾が父母伯叔を観るに、忠厚勤倹を以て本と為す」と。吾人が曩きに描き来りし彼の父母伯叔の風を見るものは、必らず彼の自から語る所の誣いざるを知らん。
彼と彼の兄との関係は、その人物の点において、必らずしも子由と子瞻との関係にあらざりき。彼の兄は尋常一様の士人のみ、必らずしも超卓抜群の器能才力あるにあらず。然れどもその友愛の深情に到りては、二蘇の関係も啻ならざりき。「朝日さす軒端の雪も消えにけり、吾が故郷の梅やさくらん」、これ獄中立春に際して、兄に寄するの歌、吟じ来れば無限の情思この中より湧くにあらずや。これと同時に、彼が獄中より兄に与うる賀正の書あり。
新年の御吉慶目出度く存じ奉り候。
尊大人様、大孺人様を初め御満堂よろしく御超歳大賀奉り候。獄中も一夜明け候えば春めき申し候。別紙二、書初、蕪詞、御笑正希い奉り候。先は新禧拝賀のためかくの如くに御坐候。恐惶謹言。
安政二年正月朔旦賀
寅次郎
家大兄案下
なおなお幾重も目出度く存じ奉り候。相替らず拝正の儀、東西御奔走と察し奉り候。さて今朝雑煮を食い、遣りきれぬ事、山亭にての如し。これ戯謔の初め、初笑々々。詩有り曰く、眠り足り何ぞ新正を迎うるを用いん、雑煮腹に満ち腹雷鳴る、知るべし新年吉兆の処、かつ聞く善歳万歳の声。
家庭における彼が、如何に小児らしきよ。彼は獄中において雑煮を喫しつつ、その少年の日、兄と護国山麓の旧家において、雑煮を健啖したる当時を想い出し、ためにかかる天真爛※ 、佳謔善笑の文字を寄せたるなからんや。
健全なる家庭は、男女の道において最も健全なり。彼は独身者なり、彼は国家を以て最愛の妻となせり。然れども彼は夙に婦人の家における大切なる地位を知れり、また社会における大切なる位地を知れり。彼の蹈海失敗後、野山の獄に拘せらるるや、その同囚富永有隣を慫慂して、曹大家『女誡』を訳せしむ。彼曰く「節母烈婦あり、然りて後孝子忠臣あり、楠、菊池、結城、瓜生諸氏において、これを見る」と。独り彼が眼識の尋常有志家に比して、及ぶべからざるのみならず、その人品の崇高純潔にして、堅実健全なる、酒を飲み気を使う暴徒にして、有志家の名を僭する徒輩に比し、天淵啻ならざるを見るべし。
試みに左に掲ぐる書簡を見よ、これ彼が安政元年十二月野山の獄中よりして妹に寄せたるものなり〔細註は記者の挿入に係る〕。
十一月二十七日と日づけ御座候御手紙ならびに九年母、みかん、かつおぶしともに昨晩相とどき、かこい内はともしくらく候えども、大がい相わかり候〔獄中の情景観るが如し〕まま、そもじの心の中をさっしやり、なみだが出てやみかね、夜着をかぶりてふせり候えども、いよいよ涙にむせび、ついにそれなりに寝入り候えども、まなく目がさめ、よもすがら寝入り申さず、色々なる事思い出し申し候〔松陰その人懐うべし〕。そもじや父母様やあに様の御かげにて、きものもあたたかに袷物もゆたかに、あまつさえ筆紙書物まで何一ツふそくこれなく、寒さにもまけ申さず候間、御安心成さるべし。そもじ御家おばさまも御なくなりなされ候事なれば、そもじ万たん心懸け候わでは相すまぬ事、ことにおじさまも年まし御よわい高く成らせらるる事ゆえ、別して御孝養を尽したべかし。また万子も日々ふとり申すべく候えば、心を用いてそだて候え。赤穴のばあさまは御まめに候や。御老人の御事万事気をつけて上げ候え。かかる御老人は家の重宝と申すものにて、金にも玉にもかえらるるものにこれ無く候。そもじ事はいとけなき折より心得よろしきものとおもい、一しお親しく思いしが、このほど御文拝しいらざる事まで申遣わし候なり。
別にくだらぬ事、三、四まいしたためつかわし候間、おととさまか梅兄様に読みよきように写しもらい候え。少しは心得の種にもなり申すべく候。さて御たよりの中にも手習よみものなどは心がけ候え。正月には一日はやぶ入り出来申すべきや。あに様の御休日をえらび参り候て、心得になる噺ども聞き候え。拙もその日分り候わば、昔噺しなりとも認め遣わし申すべし〔情思懇篤〕。また正月にはいずくもつまらぬ遊び事をすることに候間、それより何か心得になるほんなりとも読んでもらい候え。貝原先生の『大和俗訓』『家道訓』などは丸き耳にもよくきこゆるものに候。また浄瑠りほんなども心得ありて聞き候えば、随分役にたつものに候。さてまた別に認めたる文に付き、うたをよみ候。ここにしるし侍りぬ。
頼母しや誠の心通うらん文見ぬさきに君を思いて
右したためたるはそもじを思い候より筆をとりぬるが、その夜そもじの文の到来せしは定めて誠の心文より先に参りたるかなと、たのもしくぞんじ候ままかくよみたり〔友情濃至〕。
三日
別紙〔以下一篇の女訓として読むべし〕
およそ人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大てい父母のおしえによる事なり。就中男子は多くは母のおしえを受くること、またその大がいなり。さりながら男子女子ともに十歳以下は母の教を受くること一しお多く、あるいは父はおごそかに母はしたし。父は常に外に出で母は常に内にあればなり〔母の家庭教育に大切なる事〕。然らば子の賢愚善悪に関わる所なれば、母の教えゆるがせにすべからず。併しその教というも、十歳以下小児の事なれば言語にてさとすべきにあらず、ただ正しきを以てかんずるの外あるべからず〔家庭教育の主眼〕。昔聖人の作法には胎教と申す事あり。子胎内に舎れば、母は言語立居より給べものなどに至るまで万事心を用い、正しからぬ事なきようにすれば、生れる子形体正しく器量人に勝るとなり。物しらぬ人の心にて胎内に舎れる、みききもせず物も言わぬものゆえ、母が行正しくしたりとてなどか通ずべきと思うべけれども、こは道理を知らぬ故合点ゆかぬなり。およそ人は天地の正しき気を得て形を拵え、天地の正しき理を得て拵えたるものなれば、正しきは習わず教えずして自然持得る道具なり。ゆえに、母の行正しければ自然かんずる事さらに疑うべきにあらず。これを正しきを感ずると申すなり。まして生れ出で目も見え耳も聞え口も物いうに至りては、たとえ小児なればとて、何とて正しきに感ぜざるべきや。さてまた正しきは人の持前とは申せども、人は至ってさときものゆえ、正しからぬ事に感ずるもまた速かなり。能々《よくよく》心得べきことならずや。因ってここに人の母たるものの行うべき大切なることを記す。この他ちいさき事は記さずとも人々弁う所なれば略し置きぬ。
いろはたとえにも氏よりそだちと申す事あり。子をそだつることは大切なる事なり。
一、夫を敬い舅姑に事うるは大切なる事にて、婦たる者の行これに過ぎたる事なし。然れどもこれは誰しも心得ぬるものなれば申さずともすむべし。さて肝要は元祖以下代々の先祖を敬うべし〔祖先を敬するは、家風を保つ所以、家もまた国の如く歴史あり、祖先を敬するは、その家声を墜さざる所以〕。先祖をゆるがせにすればその家必ず衰うるものなり。およそ人の家の先祖と申すものは、あるいは馬に乗り槍を提げ数度の戦場に身命を擲ち主恩のために働きたるか、あるいは、数十年役義を精励し尋常ならぬ績を立てたるか、あるいは武芸人に勝れたるか、文学世にきこえたるか、いずれにもせよ一方ならぬことありてこそ、百石なり五十石なり知行を賜り子孫に伝うるなり。それ以下の先祖と申すものもそれぞれ御奉公その筋を遂げたればこそ、元祖同様に知行を賜りぬる事なり。この処を能々《よくよく》考え、この一粒も先祖の御蔭と申すことを寝ても覚めても忘るる事なく、その正月き命日には先祖の事を思い出し、身を潔くし体を清めこれを祭り奉りなどすべし。また一事を行うにも先祖へ告奉りて後行うようにすべし。左すれば自然邪事なく、する事なす事みな道理に叶いてその家自ら繁昌するものなり。もしこの心得なく己が心にまかせて吾儘一ぱいを働きなば、如何でその家衰微せざらんや。聖人の教は死に去りて世に居玉はぬ親先祖に事うる、現在の親祖父に事う如くすべしとあり、今親祖父現在し玉えば何事も思召を伺ってこそ行うべきに、世に居玉わぬとて先祖の御心も察し奉らず吾儘ばかり働くは、これを先祖を死せりと申し、勿体なき事どもなり。
婦人は己が生れたる家を出て人の家にゆきたる身なり。然れば己が生れたる家は先祖の大切なる事は生れ落つるときより弁え知るべけれど、ややもすれば行きたる家は先祖の大切なるに思い付かぬ事もあらん。能々《よくよく》心得べし。人の家に行きたる家が己が家なり。故にその家の先祖は己が先祖なり。ゆるがせにする事なかれ。また先祖の行状功績等をも委しく心得置き、子供らへ昔噺の如く噺し聞かすべし。大いに益あることなり〔家庭教育における手近き修身科〕。
一、神明を崇め尊ぶべし。大日本国と申す国は神国と申し奉りて、神々様の開き玉える御国なり。然ればこの尊き御国に生れたるものは、貴となく賤となく神々様をおろそかにしてはすまぬ事なり。併し世俗にも神信心ということをする人もあれど、大てい心得違うなり。神前に詣りて柏手を打ち立て、身出世を祈りたり長命富貴を祈りたりするはみな大間違いなり。神と申すものは正直なることを好み、また清浄なることを好み玉う。それ故神を拝むには先ず己が心を正直にして、また己が体を清浄にして、外に何心もなくただ謹み拝むべし。これを誠の神信心と申すなり。その信心が積り行けば、二六時中己が心が正直にて体が清浄になる、これを徳と申すなり。菅丞相の御歌に
心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん
また俗語に神は正直の頭に舎るといい、信あれば徳ありという。能々《よくよく》考えて見るべし。さてまた仏と申ものは信仰するに及ばぬ事なり。されど強ち人にさかろうてそしるも入らぬ事なり。
一、親族を睦じくする事大切なり。これも大てい人の心得たる事なり。従兄弟と申すもの兄弟へさしつづいて親しむべき事なり。然るに世の中従兄弟となれば甚だ疎きもの多し。能々《よくよく》考て見るべし。吾が従兄弟と申すは父母には姪なり、祖父母より見れば同じく孫なり。左すれば父母祖父母の心になりて見れば、従兄弟は決してうとくはならぬなり。併しながら従兄弟のうときと申すは、元来父母祖父母の教の行届かぬなり、子を教ゆる者心得べきなり。およそ人の力と思うものは兄弟に過ぐるはなし。もし不幸にして兄弟なきものは従兄弟にしくはなし。従兄弟の年齢も互に似寄り、もの学びしては師匠より教を受けし書をさらえ、事を相談しては父母の命をそむかぬ如く計うは、みな他人にて届く事にあらず。ここを能々《よくよく》考うべき事なり。
ここに一の物語あり。吐谷渾と申す夷に阿豺と申す人、子二十人あり。病気大切なりければ弟の慕利延を召して申すには、汝一本の矢をとりて折れ、慕利延これを折りければ、また申すには汝十九本の矢をとりて折れ、慕利延折ること能わず。阿豺申すには、汝ら能心得よ、一本なれば折りやすし、数本集むれは折りがたし、皆々一致して国を固めよかしと。国にても家にても道理は同じ事なり。とかく婦人の言よりして親族不和となること多し、忘るべからず。
右に記しぬるは先祖を尊むと、神明を崇むると、親族を陸じくすると、以上三事なり。これが子供を育つるには大切なる事なり。父母たるものこの行あれば、子供は誰教えるとなく自ら正しき事を見習いて、かしこくもよくもなるものなり。さてまた子供の成長して人の申すことも耳に入れ候ように成るからは、右らの事を本とし古今の種々なる物語りを致しきかすべし。子供の時聞きたる事は年を取っても忘れぬものなれば、埒もなき事を申し聞けるよりは少なりとも善き事を聞かするにしくはなし〔人の親たるもの能く記臆せよ〕。杉の家法に世の及びがたき美事あり、第一には先祖を尊び玉い、第二には神明を崇め玉い、第三には親族を睦じくし玉い、第四には文学を好み玉い、第五には仏法に惑い玉わず、第六には田畠の事を親らし玉うの類なり〔松陰家庭の活ける写真〕。これらの事吾なみ兄弟の仰ぎ法るべき処なり。皆々能心懸くべし。これ則ち孝行と申すものなり。
これ実に彼が二十五歳の時にものしたるもの、その深き言外の真情はいうも愚か、その用意の懇切周到なる、如何に国家を懐うの彼は、かくまで家庭の事に濃かなる思いを凝したるぞ。
また安政六年四月十三日、同じく野山の獄中よりその妹に与えたる書簡あり。
この間は御文下され、観音様の御せん米三日のうち精進にていただき候ようとの御事、御深切の御こころざし感じ入り申し候。精進潔斎などは随分心の堅まり候ものにてよろしき事とぞんじ候に付き、拙者も二月二十五日より三月晦日まで少々志の候えば酒肴ども一向給べ申さず、その間一度霊神様御祭のもの頂戴致し候ばかりにて御座候。まして三日の精進は左までむつかしき事にもこれ無く、御深切の事に候えば相果したく存じ候えども、当所にては当り前の精進の外にまた精進と申し候えば、連中または番人ども何故かと怪しみ尋ね候に付き、それをそれと相こたえる事面どうに存じ候。八日は幸い御精日なれば、その日一同にいただき申し候〔赤子の心を見るが如し、松陰の天真爛漫たる処、ここに在り〕。そもそも観音様信仰せよとの仰せは、定めて禍をよけるためにあるべく、これには大きに論ある事に候えば、委細申し進ずべく候。拙者未だ観音経は読み申さず候えども、法華経第二十五の巻普門品と申す篇に、悉く観音力と申す事尊大に陳べてこれ有り候。大意は、観音を念じ候えば縄目にかかり候えども忽ちぶつぶつと縄が切れ、人屋へ捕われ候えば忽ち錠鍵がはずれ、首の坐へ直り候えば忽ち刀がちんぢんに折れるもの、と申してこれあり。これは拙者江戸の人屋にてこの経は幾度もくり返し読んで見候えども、始終この趣にて、それ故凡人はこれよりありがたい事はないと信仰するも無理はなく候。去りながら仏のおしえは奇妙な仕置にて、大乗小乗と二つ分ちて、小乗は下こんの人の教え、大乗は上根の人への教えと定めこれ有り候。小乗にて申し候えば、観音は右の経文の通りのものと心得、ひたもの信仰さするに御坐候。これは人に信を起さするためなり。信をおこさするとは、一心にありがたい事じゃとのみ思込み余念他慮なき事にて、一心不乱と申すもこの事なり。人は一心不乱になりさえすれば、何事に臨み候てもちっとも頓着はなく、縄目も人屋も首の坐も平気になれ候から、世の中に如何に難題苦患の候ても、それに退転して不忠不孝無礼無道等仕る気遣いはない。されど初めから凡夫に一心不乱じゃの不退転じゃのと申聞せてもさっぱり耳に入らぬもの故に、仮りに観音様を拵えて人の信を起させる教に御坐候。これを方便とも申し候。ここにおいて法華経の都上のたとえこれ有り。至極面白く候えども長ければ略し申し候。さてまた大乗と申し候時は、出世法と申す事が肝要にて御坐候。出世と申し候ても立身出世など申す事には御坐なく候。その初めは釈迦が天竺王の若殿に候処、若き時から感心のつよき人にて、老人を見れば吾身も往先は老人に成るかと悲しみ、死人を見ては吾身も往先は死のうかと悲しみ、虫けらの死んだの草木の枯れたのまでに悲しみを起し、是非に生老病死がこの世の習なれば、この世を出でねばすまぬと志を立て、年二十五の時位を棄てて山へ入り、右の生老病死を免れる修行をしに参られ候。
これにも色々ありがたき話あれども、事長ければ略す。
左候て、三十出山とて僅か五年の間に生老病死を免れる事を悟り、生れもせねば老いもせず病も死もせぬ事を悟りて出で来りて、それから世の人を教化せられた。これが出世の法じゃ。故に出生せねば済世が出来ぬと申すもこの事なり。済世というは則ちこの世の人を済度する事に御坐候。さてその死なぬと申すは、近く申さば釈迦の孔子のと申す御方には、今日まで生きて御坐る故、人が尊とみもすればありがたがりもおそれもする、果して死なぬではないか〔一種霊魂不滅の観念〕。
孔子の教もやはりこの通りに候えども、事長ければ略す。
死なぬ人なれば縄目も人屋も首の坐も前に申す観音経の通りではござらぬか。楠正成公じゃの大石良雄じゃのと申す人には刃ものに身を失われ候えども、今以て生きてござるのは刀のちんぢんに折れた証拠でござる。さてまた禍福は縄の如しという事を御さとりがよろしく候。禍は福の種、福は禍の種に候。人間万事塞翁が馬に御坐候。
このわけは物知りに問うて知るべし。
拙者なんど人屋にて死に候えば禍のようなものに候えども、また一方には学問も出来、己のため人のため後の世へも残り、かつ死なぬ人々の仲間入りも出来候えば、福この上もない事にて〔真個の楽天主義〕、人屋を出で候えば、また如何なる禍のこようやら知れ申さず候。勿論その禍の中にまた福も交り候えども、所せん一生の間難儀さえすれば先の福がある事なり。何の効けんもない事に観音へ頼りて福を求める様の事は本々《もともと》無益に存じ候。尤も右の通りに申し候えば、身勝手な申分、不孝な申分とも御存じがあろう。ここにまた論がある。易の道は満盈と申す事を大いにきろうなり。某に七人兄弟中に、拙者は罪人、芳は夭死、敏は唖に否様の悪い様なものなれど、また跡四人はかなりに世を過せられ、特に兄様、そもじ、小田村は両人ずつも子供があれば不足は申されぬ。世の中の六、七人も兄弟のある家を見くらべよ。これほどにも参らぬ家は多いもの、近くはそもじの家にても高須様にても、兄弟内には否様の悪い人も随分あるもの、然れば父母兄弟の代りに、拙者、芳、敏の三人が禍をかぼうたと御思い候えば、父母様の御心もすめる訳で御坐らぬか。かつ杉は随分多福の家なれば、拙者の身上よりはかえって杉が気遣いなものじゃないか。拙者身上は前に申した通りつめが牢死、牢死しても死なぬ仲間なれば後の世の福はずいぶんあるが、杉は今では御父子も御役にて何も不足のない中なれば、子供らがいつもこのようなものと思うて、昔山宅にて父様母様の昼夜御苦労なされた事を話して聞かせても真とは思わぬほどなれば、この先五十年七十年の事を得と手を組んで案じて見やれ。気遣いなものではないか〔忠孝の言、忠孝の人〕。去年も端午の客の多いのに人は目出度目出度と嬉貌すれど、拙者は先の先が気遣いでたまらんから、始終稽古場へかがんで、人の知らぬ所にては独り落涙したほどの事でありた〔家庭における松陰の本色〕。もしや万一小太郎でも父祖に似ぬような事が有ったら、杉の家も危い危い。父母様の御苦労を知っておるもの兄弟にてもそもじまでじゃ。小田村でさえ山宅の事はよくは覚えまい。まして久坂なんどはなお以ての事。されば拙者の気遣いに観音様を念ずるよりは、兄弟おいめいの間へ楽が苦の種、福は禍の本と申す事を得と申してきかせる方が肝要じゃ。そしてまた一つ拙者不孝ながら孝に当る事がある。兄弟内に一人でも否様の悪い人があると跡の兄弟自然と心が和みて孝行でもするようになる。兄弟もむつまじくなるものじゃ。それでこれからは拙者は兄弟の代りにこの世の禍を受合うから、兄弟中は拙者の代りに父母へ孝行してくれるがよい。左様あれば縮る所兄弟中もみなよくなりて果は父母様の御仕合、また子供が見習い候えば子孫のためこれほど目出度い事はないではないか〔聖賢の心地、家庭における松陰かくの如し〕。能々《よくよく》御勘弁にて小田村、久坂なんどへもこの文を見せ、仏法信仰はよい事じゃが、仏法にまよわぬように心学本なりと折々御見候えかし。心学本に
長閑さよ願いなき身の神詣
神願うよりは身で行うがよろしく候。
十三日
これ彼が三十歳の波風荒き生涯を終り、死に就かんとして、江戸に赴く一月前の書簡なりとす。寔に以上の二書簡は、一部の女子教訓にして、家庭の金誡なり。その言は取捨せざるべからざるものなきにあらずといえども、その精神は何人も服膺せざるべからざる所なり。
彼れ年少気鋭、頭熱し意昂る、時事の日に非なるを見て、身を挺して国難を済わんとするの念、益々《ますます》縦横す。惟うにその方寸の胸間、万丈の焔炎、天を衝く大火山の如くあるべし。知らず、何の余裕あれば、かくまで懇到慇懃、その諸妹を教誡するの文字を作りたるぞ。惟うにこの二個の書簡は、分明に家庭における松陰を描き出して遺憾なかるべし。
彼が檻車江戸の死獄に送られんとするや、その諸妹に与えて曰く、「心あれや人の母たる人達よかからん事は武士の常」と。これ勇士はその元を喪うを忘れざる大決心を、彼らに鼓吹したるものにあらずや。而して彼はさらに左の如き書簡を諸妹に与えたり。
拙者義、この度江戸表へ引かれ候由、如何なる事か、趣は分り申さず候えども、何れ五年十年帰国相成るべき事とも存ぜず候えば、先ずは再帰仕らずと覚悟を詰めし事に付き、何かと申置くべき処あるべきように候えども、先日委細申し遣わし置き候故、別に申すに及ばず候。拙者この度仮令一命差捨て候とも、国家の御為に相成る事に候えば本望と申すものに候。両親様へ大不孝の段は先日申し候よう、其許達仰せ合わされ拙者代りに御尽し下さるべく候。しかし両親様へ孝と申し候とも、其許たち各自分の家これ有る事に候えば、家を捨て実家へ心力を尽され候ようの事はかえって道にあらず候。各その家その家を斉え夫を敬い子を教え候て、親様の肝をやかぬようにするが第一なり。婦人は夫を敬う事父母同様にするが道なり。夫を軽く思う事当時の悪風なり。また奢りが甚だ悪い事、家が貧になるのみならず子供のそだちまで悪しく成るなり。心学本間合間合に読んで見るべし。高須の兄上様に読んで貰うべし。高須兄は従兄弟中の長者なれば大切にせねば成らぬ御方なり。
五月十四日夜 寅二
児玉お芳様
小田村お寿様
久坂お文様
参る
なおなお時もあらばまたまた申し遣わすべく候。
彼が訓誡到れり、尽せり。而して彼はなお慊らずして、左の書をその叔父玉木に与え、以て家族婦人の教養を托せり。
『詩経』に「豈に膏沐無からん、誰を適として容を為らん」とか申す二句、曾て何心なく読みおり候所、後に曹大家『女誡』専心の篇を見候えば、上下の文ありて、中に「出でては冶容無く、入りては飾を廃すること無し……これ則ち心を専らにして色を正すと謂う」とあり。また上下の文ありて「入りては則ち髪を乱し形を壊り、出でては則ち窈窕して態を作す……これ心を専らにし色を正すこと能わずと謂う」とこれ有り候。依って相考え候は、詩の語も徒らに夫の居らざるを嘆くの事に非ず、膏沐は偏に夫に事うる礼にて、他人へ見せものに致すにはこれ無き筈にて、詩語乃ち礼意かと存じ奉り候。当今少婦輩内にては乱髪壊形し、外にては窈窕として態を作すを当り前の事と考え候よう相見え候。これは古礼に叶わざる事と存じ奉り候。この説先年は心付き候えども、未だ前人の確証も得ず、また先輩へも質し申さぬ故、人にも告げ申さず候間、丈人様尤もと思召し候わば、家族中婦女どもへこの趣御講談願い奉り候。閨門は正家の本に候えば、犯姪の迂論に及ばずして人々講究の事とは存じ奉り候えども、訣語申上げ候なり。
五月十九日 犯姪寅二
玉木丈人様
『女誠』七篇、『後漢書』より抄録。「読余雑抄」四の冊の終りに置けり。
これ豈に三十歳前後の壮年の殉国者、然も死に向って奔るものの懐い及ぶ所ならんや。彼の婦人に関する用意の周匝懇篤なる、今日のいわゆる女子教育家をして、忸怩たらしむるものなくんばあらず。彼の家庭における位地もまた分明ならずや。
彼が江戸獄中にて、いよいよ死刑の詮議一決したるを洩れ聞くや、彼は実にその父母に向って、左の歌を贈れり。
親を思う心にまさる親心
きょうの音ずれ何と聞くらん
と。彼は死に抵るまで、その父母を遺るる能わざりしなり。否、死するに際して、第一彼れの念頭に上りし者は、その父母にてありしなり。自ら父母を懐うのみならず、父母の己れを懐うこと、さらに己が父母を懐うよりも幾層殷なるに想着し、「今日の音ずれ何と聞くらん」という。「親を思う心にまさる親心」の一句、実に世間幾千万、人の子たる者が、親に対する至情の、最後の琴線に触れ来りたるものにして、彼の方孝友が、方孝孺と与に死に就くに際し、「阿兄何ぞ必ずしも涙潸々たらん、義を取り仁を成すはこの間に在り、華表柱頭千載の後、夢魂旧に拠りて家山に到らん」の一詩を将てこれに比すれば、さらにその深情、濃感、蘊籍、渾厚、一読人をして涕を零さしむるに至るを覚う。かくの如き人にしてかくの如き事を作す、不思議なるが如しといえども、かくの如き人たるが故に、能くかくの如きことを為し得るなり。いわゆる忠臣を孝子の門に求むるの語、吾人実にその真なるを疑う能わず。
家庭の光明は、光明の中において最も美妙なるものなり。吾人は今この光明中よりして松陰を見る、あたかも水晶盤裡において、氷雪を見るが如し。
第十九 人物
彼は如何なる人物なるか、普通の意味において、大なる人物という能わず。何となれば大なる活眼なく、大なる雄腕なく、また大なる常識を有せざるが故に。
然れどももし大なる人物というを許さば、許すべきはただ一あり。曰く、彼は真誠の人なり、仮作の人にあらざるなり。彼が真誠の人たるは、なおルーテルが真誠の人たるが如し。
ルーテルの幼きや、胡弓を人の門口に弾じて以て自ら給す、弾じ終りて家人の物を与えんとするや、彼れ乍ち赤面して遁れ去れり。彼何んぞかくの如く小心なる。彼がウオムスの大会において訊問せられんとするや、人その行を危ぶむ。彼昂然として曰く、「否々我往かん、悪魔の数縦令い屋上の瓦より三倍多きも何ぞ妨げん」。あるいは曰く、「惹爾日公あり、汝の強敵なり」と。彼泰然として曰く、「否々我往かん、縦令い惹爾日公雨の如く九日九夜降り続きたりとて何かあらん」と。彼アウクスボルクに在りて、衆敵に窘追せらるるや、慨然として曰く、「もし余をして五百箇の首ありて、むしろ尽くこれを失うとも、余が信ずる所の一箇条を改むるを欲せず」と。
彼は何故に前に小心にして、後にかくの如く大胆なるか。怪む勿れ、真成の剛勇は、翼々たる小心より来るを知らずや。松陰固よりルーテルに比すべきものにあらず、然れども彼が彼たる所以は、至誠にして自から欺かざる故と知らずや。
彼れただ小心翼々たり、その世に処する、あたかも独木橋を渡るが如し。彼は左にも右にも行くべき道を見ず、故に思い切りて独木橋を鉛直線に進前す。彼が行くべき道は唯一の道なり、故に彼は全力を出してこれを踏過す。彼はこれがために死すら辞せず、何となれば彼が信ずる所は、死よりも重ければなり。故に大胆の事を為すは、小心の人なり、傍若無人の事を為すは、至誠にして自から欺かざる人なり。彼の非道横着にして、人を虐げ世を逆して、自から慚死する能わざる者の如きは、これ良心の麻痺病に罹りたるなり、彼らが大胆は強盗殺人者の大胆なり、未だ剛勇を以て許すべからざるなり。
ただ一の真誠なり、赤心なり。父母に対すれば孝となり、兄妹に対すれば友愛となり、朋友に対すれば信義となり、君に対すれば忠となり、国に対すれば愛国となり、道に対すれば殉道となる。その本は一にして、その末は万なり。万種の動作、ただ一心に会まる。彼が彼たる所以、ただこの一誠以て全心を把持するが故にあらずや。
彼は殉難者てふ筋書により、吉田松陰てふ題目を演ずる俳優にあらず。彼自から活ける松陰なり、彼は多くの欠点を有するに係らず、仮作的の人物にあらず、真誠の人物なり。
彼は真摯の人なり、彼は意の人に非ず、気の人なり。理の人に非ず、情の人なり。識の人に非ず、感の人なり。彼は塩辛らく、意地悪ろく、腹黒き人に非ず。彼は多くの陰謀を作したるに拘らず、正義の目的を達せんがために作したるの陰謀にして、殆んど胸中、人に対して言うべからざるのものなかりしなり。彼は村田清風の手書に係る、司馬温公の「吾れ人に過ぎるもの無し、但だ平生の為す所、未だ嘗て人に対して言うべからざるもの有らざるのみ」の語を守袋に入れ、常住坐臥、その膚を離さざりしという。また以て彼が功夫の存する所を察るべし。
彼は日本国民の通有性を有す。彼は余りに可燃質なり、彼は余りに殺急に、余りに刃近し、切言すれば彼は浅躁と軽慓と雑馭との譏を免るる能わず。然れども彼は敬虔なる献身的精神を以て、その身を国家とその道とする所とに捧ぐ。彼は到底一の「殉」字を会得したるもの、而して彼は到底一の殉字に慚じざるもの、略言すれば彼は天成の好男児なり、日本男児の好標本なり。
* * * * *
余嘗て維新革命前の故老を訪い、以て彼が風※ 《ふうぼう》を聴くを得たり。いう、彼れ短躯※ 骨、枯皮瘠肉、衣に勝えざるが如く、嘗て宮部鼎蔵と相伴い、東北行を為すや、しばしば茶店の老婆のために、誤って賈客視せらる。宮部戯れて曰く、「君何ぞそれ商骨に饒む、一にここに到る」と。彼れ※ 然刀柄を擬して曰く、「何ぞ我を侮辱するや」と。彼れ白痘満顔、広額尖頤、双眉上に釣り、両頬下に殺ぐ、鼻梁隆起、口角緊束、細目深瞳、ただ眼晴烱々、火把の如きを見るのみ。彼れ人に対して真率、漫に辺幅を飾らず、然れども広人稠坐の裡、自ら一種の正気、人を圧するものありしという。
彼れ居常他の嗜好なし、酒を飲まず、烟を吹かず、その烟を吹かざるは、彼が断管吟の詩に徴して知るべし。書画、文房、骨董、武器、一として彼の愛を経るものなし。衣服、玩好、遊戯、一も彼の嗜を惹くものなし。机上一硯、一筆、蕭然たる書生のみ。最も読書を好み手に巻を釈てず、その抄録したるもの四十余巻ありという。嘗て森田節斎の「項羽本紀」の講義に参ず。これよりして「項羽本紀」を手ずから謄写するものおよそ四回、随って批し随って読む。その愛読するもの孫子、水戸流の諸書、菅茶山詩、山陽詩文等は固より、その他経史百家の書より、近代の諸著作に致るまで、寓目せざるなし。その博覧強識にして、言論堂々、翰を揮い飛ぶが如きもの、その著作編述、無慮五、六十種に出づるもの、その好む所によりて、その長技を見るべし。声色の如きは、殆んど思うに遑あらざりしなり。ただ菓物と餅とは、平生すこぶる嗜む所、故に今に到りて、祭時必らずこれを供すという。
彼は哲学において、「ストイック」派にはあらざれども、その行状は確かに「ストイック」なりき。剛健簡質以て彼が生活を尽すべし。彼は実に封建制度破壊の張本人たりしに係らず、その身は武士風の遺影を留めたり。
彼の友人なる維新革命前の故老曰く、「人誰れか過失なからん。ただ彼は余をしてその欠点を忘れしむ」と。彼は多くの欠点を有したり。然れども彼は人をしてその欠点を忘れしむるほどの、真誠なる人物なりき。彼の赤心はかくまで深く人に徹せしなり。
第二十 事業と教訓
「真個関西志士の魁、英風我が邦を鼓舞し来れり」。これ彼が高弟高杉晋作の彼を賛するの辞、言い尽して余蘊なし。的にこれ彼が事業の断案といわざるべからず。彼は維新革命の大勢より生れ、その大勢に鉄鞭を加えたり。彼は鼓舞者なり、彼は先動者にあらず。彼は先動者なり、成功者にあらず。
彼は維新革命の健児なり、然れどももし維新革命の功、専ら彼に在りといわば、これ彼を誣いたるなり。彼は死後といえども、他人の功を窃んで、彼に与うるが如き拙鄙なる追従者を容るる能わず。
然れども彼の事業は短けれども、彼の教訓は長し。為す所は多からざるも、教うる所は大なり。維新革命の健児としての彼の事業は、あるいは歴史の片影に埋もるべし。然れども革新者の模範として、日本男児の典型として、長く国民の心を燃すべし。彼の生涯は血ある国民的詩歌なり。彼は空言を以て教えず、活動を以て教えたり。この教訓にして不朽ならば、彼もまた不朽なり。即ち松陰死すもなお死せざるなり。
彼が殉難者としての血を濺ぎしより三十余年、維新の大業半ば荒廃し、さらに第二の維新を要するの時節は迫りぬ。第二の吉田松陰を要する時節は来りぬ。彼の孤墳は、今既に動きつつあるを見ずや。
青空文庫より引用