万年青
福子は笑い上戸で通っていた。睫毛のふかいパッチリと見開いた丸っこい眼が、みるみる三日月になってクツクツと笑いだす。そばにいるものまで、つい、つりこまれて笑い出す始末だった。
「まあ、福子さんたら、何がそんなに可笑しいの?」
つりこまれて一緒に笑い出した友だちが、しまいにはおなかを痛くして、わけもなしに肚を立てて、こう恨みがましく福子を責めることさえあった。
笑うまいと力んで口を固く結んでいても、しぜん、ほぐれて、笑い出してしまう。生れつき、笑いの神様がちゃんと胸の中に鎮座していらっしゃるのだと、福子自身は諦めている。神様の居催促にあっては叶わない、笑わないわけにもいかないと、こっそり自分に言い訳を云ったりした。
「福子が笑うのは、一種の運動なんだね。」
良人だけは、こんな云い方をした。そして、いかにも若い男らしい興味深そうな眼つきで、福子の顔をまじまじと眺めるのだった。
「いやよ。研究資料みたい。」
福子は笑いながら、ぷいと顔をそむける。
「はあ、やっぱり、運動だね。顔面筋肉の活動。内臓の躍動。」
良人は独りで感心して、「腹が減るのも無理がないね。とても節米にはなるまい。」
と、こんどは福子を見て同情したり、歎いたりした。
「賑やかなほうがいいって、あんなにわたしをお望みになったのに。」
福子も負けてはいなかった。
良人はにやにやして、
「百年目だね。」
と、手軽に応酬した。「お名前どおりの福の神といっしょにいると思えば、男冥利につきるよ。」
貶されているのか、賞められているのか、福子はどっちつかずの気持で、こんな良人を前にして、途方にくれた。
福子は、友だちの間でも、親類の間でも、「福子さん、福子さん」で親しまれていた。座がはずまないようなとき、
「福子さんがいらっしったらね。」
と、かならず、その名が話題になるのだった。福子がいるだけで、もう、座の空気がやわらぐ。気づまりな雰囲気が、福子が入ってきただけで、なごやかに明るくはずんでくるのだった。
「高木の家では、いい嫁さんを当てたものだ。気だてはよし、働きものだし、隠居さんも自慢の可愛い嫁さんだからね。」
親類の者たちは、こう云って評判しあった。
「可愛い嫁さん!」
みんなが口にするこの言葉は、まったく、福子その人を云いあてていた。本家の隠居が自慢をするのも無理がない。
この隠居は、本家の先代の連合いで、福子の良人には祖母にあたる人だった。七十六になっていたが、少し耳が遠いだけで、まだ元気で家の中のことを何かとおさえていた。先代が築きあげた産を守って、時代に添って生かしているのも、この隠居の力だった。当主の、福子の良人には父にあたるその人は、温厚一途が取り柄で、仕事の上のことでは、まだまだ隠居の差し図の下にいた。
「隠居さんが采配を振っている間はいいが、今にいなくなったら博士も困ることだろう。」
親類の間では、当主はこんな冷やかし言葉で呼ばれていた。読書好きな人で、暇さえあれば居間にこもって書物を読んだり書き物をしたりしている。利殖の道には疎い人だと、誰でもが言っていた。
本家は、大家族で、隠居を頭に、当主夫婦、跡継ぎの孫夫婦に子供たち、それに嫁入り前の孫娘たちに召使を入れると二十人からの賑やかさだった。このほかに、別に家を持っている孫達がいたが、福子の良人もその一人で、結婚してまだ一年もたっていなかった。
本家の柱になっている隠居は、みんなから大事にされて、「おばあさま、おばあさま」と、なかなかの人気である。別暮しをしている孫嫁たちも入れかわり立ちかわり訪ねては、隠居に優しく、真心から尽そうとする。
「おばあさま。きょうは、お好きな餅菓子を見つけてまいりましたのよ。」
こう言って隠居を喜ばせる嫁がいるかと思うと、隠居を茶室へ招じ入れてお茶を点てて喜ばせる嫁もいる。
「すまんことだね。隠居さんは日本中での仕合せ者ですよ。」
心からうれしそうに、隠居は満足気だった。自分のことを、こうして「隠居さん」と言い慣わしていたが、気丈そうに見える年寄りも、何かそんなことでユーモラスな愛すべき人に見えるのだった。
「おばあさまが喜んで下さることだったら、何んでもいたしますわ。あさってあたり、お懐石でもしようかと、わたし、こっそり計画してますのよ。」
二ばん目の孫嫁はお茶に熱心だった。時折り、年寄りを主客にして懐石料理を楽しませては、自分だけという取り入り方で、ほかの嫁たちに負けまいとつとめるのだった。
誰でもが隠居の寵を得ようと力めていた。料理の上手な者は料理で、お針の上手な者はお針で、それから別に取り柄のない者は隠居の足腰をもんでやったり使いを足したり、厠にまでついて行っていろいろと優しく心遣いをみせた。
「隠居さんは、ほんとうに仕合せだねえ。」
人に会いさえすれば、隠居はこうわが身の幸福を語らずにはいられなかった。
「お羨やましいことですよ。前世から持ってきなすった福運なんですからね。」
聞き手は、隠居のいかにも仕合せそうなにこやかな面差しを見て自分もやはり仕合せな気がするのだった。
福子は、そのような隠居を見ていると、何がなし哀しくなってくるのだった。みんなの心遣いを喜んで受けている隠居が、何か、その心遣いを無理強いされているように見えてならない。隠居が喜べば喜ぶほど、哀しい気がした。
「福子さん。あなたって、笑っているばかりが能なのね。少しは、おばあさまのことをしてあげたらどうなの。」
姑からこんな優しい注意をうけたりした。
福子は、びっくりして、丸い眼を見張って姑を見あげた。
「どんなことをしておあげしたらいいでしょう、お母さま。」
「そりゃ、あなた。お姉さまがたのなさることを見ていらっしったら、わかるでしょう。おばあさまの御機嫌をとらないで、あなたも暢気な人ね。」
姑は親身な顔でこう言った。そのように暢気な福子を、いじらしく思っているふうだった。
「福子さんて、ほんとうにお嬢さんねえ。」
と、ほかの嫁たちは噂しあった。世間のことなどまだ分らないほどの子供なのだ、笑っているばかりが取り柄なのだろうと、軽くしか考えなかった。隠居を中にしての競争相手に、福子は入っていなかった。
「無邪気な可愛い方!」
と、みんなは福子を見ると、やはり、心がやわらぐのだった。
福子には、そうした嫂たちの気持が飲みこめなかった。隠居に取り入って何をしようとするのだろう。そんなことでお互いに気持を摺りあっている嫂たちの姿が、何か哀しかった。
「ねえ、おばあさまって、何んだかお可哀相な気がするの。」
福子は、つい、良人へこう言った。
「どうしてさ。」
良人は不意打ちにあって、ちょっとまごついた。
「おばあさまを見ていると、そんな気がするのよ。」
と、福子はしみじみ言った。
良人は浮かない顔で、福子を見ていた。
「分るよ。」
しばらくして、ただ、こう言っただけだった。
良人には自分の気持が分ってもらえるのだと、福子は心にしみて、仕合せを感じた。せめて、良人と二人は、おばあさまを純粋な眼で見守っていてあげたいと、福子は祈るような気持だった。
或る日、福子が本家へ行くと、めずらしく嫂たちが寄り合って、茶の間で何か相談事をしているところだった。
「あら、福子さんがいらっしった。」
みんな喜んで迎えてくれた。
「本気なお顔をして、なんの御相談?」
福子も、そこへ割りこんだ。嫂たちの何やら真剣な表情が可笑しくってならなかった。
「近いうちね、おばあさまの慰安会をしましょうって、今御相談していたところなのよ。」
上の嫂が教えた。
「各自、持ち寄りの御馳走ではいかが? 時節柄、お重詰めにして、めいめい腕をふるいあったら、おばあさまもお喜びなさってよ。」
二ばん目の嫂は、自信ありげな口調だった。
「福子さんのお料理は、なあに?」
と、いつのまにか仲間入りしていた小姑が訊ねた。
「わたし? わたしは、おでんよ。」
福子がすましてこう言ったので、みんな、どっと笑った。
「わたくしね、普茶料理にしますわ。みなさん、どうぞ、かち合わないようにね。」
三ばん目の嫂が攻勢に出た。
二ばん目の嫂は、ちょっと白けた顔で、
「あら、普茶なの? おばあさま、あまりお好きじゃないと思うけど……」
と、逸らしたふうに言った。
「そう。お世話さま。おばあさまね、いつだったか、とてもお気に召しましてね。」
三ばん目の嫂は、にこやかな顔で応酬した。
「おばあさまも、この頃は、お好みが変りましてね。純粋のお懐石でないとお口にあいませんのよ。」
こう言っておいて、二ばん目の嫂は急に話題を変えた。
はぐらかされた三ばん目の嫂は、唇をキュッと釣って、聞えない振りで紅茶の匙をまわしていた。
福子は、さっきから可笑しくてならなかった。嫂たちの真剣な顔や、皮肉な応酬や、気持の探りあいなどを見ていると、しぜん、笑いがこみあげてくる。
「福子さんたら、困った人ね。」
上の嫂も、つりこまれて笑っていた。
客の帰った気配がしたので、福子は奥へ行ってみた。
隠居は、たった一人でお茶を飲みながら何か思案をしていた。
「おばあさま。わたしもお茶いただきたいの。」
福子を見ると、隠居はどういうつもりか眼鏡をはずして、にこにこと迎えた。
「さあさあ、おあがり。」
そして、自分で淹れて勧めた。
陽光がいつか縁からひいていた。福子は立って行って、硝子戸をしめた。
「あちらは、大分、賑やかなようだね。」
隠居は福子を相手にしていると、何んとなしほぐれて自然な気持だった。
福子もまた、このおばあさまの前に坐ると、何もかも忘れて、生れたままの相で大きな懐ろに抱かれている感じだった。
隠居が福子に見るのは、無垢な純真さだった。隠居には、その心が何よりだったのである。
福子が隠居に求めるのは、祖母の愛情だけだった。
このほかに、何んの要求もないということで、二人は親密に結ばれているようだった。
「あした、お天気だったらな、お前さんの家へ行くつもりだからね。」
隠居は、そのことをよほど前から楽しみにしていたらしく、乗り出して言うのだった。
「ほんとうですの、おばあさま。わたしね、おでんこさえてお待ちしてますわ。」
「お前さんのおでんは、いっとう旨いよ。わたしゃ、あれがあれば何んにもいらない。」
「ついでに、かん酒もね。」
「かん酒?」
と、隠居は、怪訝そうにした。
「おでん、かん酒って云うでしょう。」
「そうかい、そうかい。」
隠居と福子は、声をたてて笑いあった。
翌日、隠居は朝の中に出かけてきた。
ちょうど日曜日で、良人も早くから待ちかまえていた。
「春さん、春さん、その包みをこっちへ持っておいでなさい。」
隠居は、附き添ってきた小婢から包みを受け取ると、ゆっくりかかって一つ一つ取り出した。地方からの珍らしい到来物で、自分の分を今まで取っておいて、二人を喜ばせようと持ってきたのだった。
「おばあさんは相変らずだな。」
良人は、包みをあける側から手を出して摘まんだ。
隠居が自分の食べる分をしまっておいて、こうしてこっそりと呉れたがるのは、子供の時からの慣わしだったと、良人は、やはり懐かしかった。
昼食は、福子の心をこめた手料理だった。
「こりゃ、うまい、うまい。」
隠居は、あちこちへ箸をのばしては喜んだ。自分の口には、福子の味つけが一とう合うと云って、眼を細めて喜ぶのだった。
「隠居さんには、これに限るよ、ゴテゴテ並べられたって、そうそう食べられたもんじゃあない。こういう野菜料理が一とうなんだよ。」
くりかえし、こう云うのだった。
良人は、会社の同僚が永年かかっている漢方医の話をきかせた。元来、病弱なその同僚も、近頃は肥えてしんから健康になったと自分事のように自慢してきかせた。
「なんでも、日本人の体質には、動物性の滋養よりも植物性の滋養のほうが適するんだそうですよ。どうも僕たちも知らず知らずのうちに脂肪の強い物ばかり摂りすぎていたんですね。」
「野菜に限るよお前。」
隠居は、満足そうにこう云って頷いた。隠居には、その漢方医の話が殊のほか気に入ったらしかった。
食事がすんで、福子は年寄りに引き添うて庭に出た。小さな庭だったけれど、福子の丹誠で草花の緑りの芽も、もう出ていた。
「ほう、この万年青はよく手入れがとどいている。」
隠居は、そこにしゃがんで、万年青の鉢をゆっくりと眺めにかかった。
福子も並んでしゃがんだ。
「この間ね、植えかえましたのよ。水はけが悪いと思ったら根が少し腐っていましたの。知らないでいたら、大変なことでしたわ。」
「麻布じゃあ、みんな枯らしてしまってね。こういう鉢物は、面倒みてやらないとね。ほったらかしじゃあ万年青が可哀想だよ。」
隠居は、こう忿懣の一端を述べた。麻布の二ばん目の孫嫁のことだった。
この万年青は、隠居が永年丹誠したもので「入舟」という名前までついていた。その親株から子分けしてもらって、孫たちが一鉢ずつ縁起に貰ったものだった。
隠居に手入れの仕方を教わった通り、福子は丹念にその万年青の面倒をみてきた。はじめ、白い星の出かかった葉も、茶汁を筆につけて毎朝洗ってやっているうちに、すっかりとれて、青黒い葉も、この頃は艶光りしてきた。
「万年青の扱いかたで、その人柄がわかるってね。先代が口癖のようにおっしゃったよ。」
隠居は、こう優しい眼遣いで福子を見た。
福子はにこにこして、うれしそうに、ちょっと頸をすくめた。
「隠居さんに、万が一のことがあったら、お前さんは何が欲しいね。」
唐突だったので、福子は何んのことかと眼を大きくして見た。
隠居は笑って、
「まあさ、仮りの話だよ。これでも隠居さんは、まだまだ長生きするつもりだからね。」
と、福子を安心させておいて、そして附け加えた。
「この間ね、家の者や嫁さんたちが集まったところで、隠居さんが聞いてやった。隠居さんが死んだら、みんなは、何が欲しいね、気持を開けて話してごらん、ってね。みんな、言い出したよ。本家の嫁さんはまあ、あの屋敷と伊東の別荘だそうな。孫娘の辰子はね、一生暮せるだけのお金だそうな。麻布じゃあ、吉祥寺の土地が欲しいって言い出すし、三ばん目のは会社の株が欲しいんだそうな。なかなか賑やかなことだった。ところで、お前さんはその場にいなかったんでね。お前さんは何が欲しいね?」
隠居は、福子の涙の張った眼を見て、びっくりした。言葉もなく、しばらく福子を見ていた。隠居も潤み眼になっていた。
「いいよ、いいよ。」
隠居には、これしか言葉がないようだった。
「おばあさん、お湯が煮立ってますよ。」
縁側から良人が声をかけた。「久し振りに、おばあさんの淹れたお茶を飲もうじゃないか。」
促されて、隠居は立ちあがった。福子はその背を抱えるようにして、しずかに縁のほうへ歩きだした。
青空文庫より引用