いたずら小僧日記
乃公は昨日で満十一になった。誕生日のお祝に何を上げようかとお母さんが言うから、乃公は日記帳が欲しいと答えた。するとお母さんは早速上等のを一冊買って呉れた。姉さん達は三人共日記をつけているから、乃公だってつけなくちゃ幅が利かない。
物は最初が大切だそうだ。初めて逢った時可厭だと思った人は何時までも可厭だとは、お花姉さんの始終言う事だ。それで乃公も此最初を巧くやる積りで、色々と考えて見たが、どうも面白い事が書けない。すべて物には始めがある。正月は明けましてで始まり、演説は満堂の紳士淑女諸君で始まり、手紙は拝啓陳者で始まる。しかし日記は何で始まるものか、始からして分らないのだから、全然見当がつかない。弱っちまう。
お花姉さんのには什麽事が書いてあるか知ら、一つお手本を拝見してやろうと好い所に気がついて、乃公は窃と姉さんの室へ上って行った。平常机の引出に入れとくのは承知しているが、鍵がかってあるので、合う奴を探すのに大骨を折った。
実際鍵をかけて置く筈だ。乃公の悪口が大分書いてある。第一太郎太郎と呼捨てに書いとくのが気に食わない。「太郎のオシャベリが皆喋って了った」等は頗る厳しい。どっちがお喋りだ。兎に角処分は追って後の事として、帰って来ない中にと、乃公は一生懸命で丁寧に一頁写し取った。
日が暮れると間もなく、富田さんがやって来た。富田さんは毎晩のように遊びに来る。肥り返って岩畳骨格の男だ。顔は頗る不器用で御丁寧に鰥と来ているが、お金は大層あるそうだ。お島のいう所に依ると大分お花姉さんに参っているそうだが、トランプで参ったかピンポンで参ったか、其辺までは詳しく訊いて見なかった。
乃公が例の日記帳を抱えて、得意然と客間へ入って行くと、富田さんは例の赤ら顔をテカテカさせて、
「やあ、太郎さん、どうだね」
と言って、キャンデーを呉れた。乃公は此人は那麽に嫌いでもない。君の持っているのは其は何かねと訊くから、是は日記帳です、未だ買いたての貰いたての写したてのホヤホヤですと答えた。すると尚お拝見致したそうにしているから、お目にかけてやった。
「ふーむ、是や豪気だ。金縁だね」
と富田さんは仔細らしく乃公の日記帳を見ている。姉さんのお気に入ろうと思って、乃公にまで恁麽に御愛嬌を振撒くのだろうが、豪気だの豪勢だのという下町言葉を使っては、気位ばかり妙に高いお花姉さんに好かれる筈がない。それでも富田さんが、
「花子さん、これから私が太郎さんの日記を朗読致しますから、歌子さんも御謹聴なさい」
といって椅子を離れた時には、お花姉さんもお歌姉さんも、何卒といったように頷いた。乃公も面白かろうと思って、別段故障を申立てなかったが、今考えて見ると彼の時故障を申立てると宜かった。トウトウ大変な事になって了った。富田さんは委細頓着なく、エヘンと気取った咳払をして、早速読みにかかった。
「富田さんなんか最早来なければ宜い。日曜の晩にも来て真正に煩さかった。私如何しても彼の人は嫌い。お金があるってお母さんは仰有るけれど財産ばかりが人間の全体じゃない。誰が好き好んで若い身空を那麽ところへ嫁くものですか。お母さんだって若い時の記憶もありましょうに、真正に少しは私の身になって考えて呉れても宜さそうなものだ。那麽鬼のような手をして不恰好なってありゃしない。家作が何軒あるの地所を何程持っているのって外、何一つ碌な口も利けない芸無しの癖に。年甲斐もなくまあ彼の赤いネクタイは何でしょう。本当に生好かない気障な人だ。第一趣味が低いわ。低い所じゃない全然零だわ。此間も帰りがけに私を捉えて失礼な接吻をしようとしたり……那麽奴に接吻される位なら、私は伊勢鰕に接吻して貰う方がいい。同じ人間で斯うも違うものか知ら。ああ清水さん! 清水さんは憤っていなさるのか知ら。此間も妙に何か嫌味をお言いだったが、どうして世の中は恁うしたものだろう。男らしい男が貧乏で、富田さんなんかが金持なんだから、真正に人を馬鹿にしている。若し清水さんが富田さんで、富田さんが清水さんだったら……おや然うじゃない。清水さんが富田さんで、富田さんが清水さん――じゃ矢っ張り都合が悪い。ああ何だか分らなくなっちまった」
お花さんは日記帳を取返そうとして頻りに焦燥ったが、富田さんは矮小だけれどお花さんよりは丈が高い。それに其度に渡すまいと丈伸をして手を高く揚げるから仕方がない。トウトウ読んで了った。そして果せる哉、本統に伊勢鰕のように真赤な顔になった。乃公は困ったと思うと、富田さんが突然乃公の手を捉えたのには喫驚した。
「太郎さん、是は君の悪戯だろうね」
「いいえ、僕じゃないんですよ。お花姉さんの日記を僕が写したんですよ」
と乃公は嘘を吐いちゃ悪いと思って、事実ありのままを答えた。これで富田さんがワシントンのお父さん位物の道理の分った人だと、早速乃公を抱き上げて、私は大馬鹿三太郎と書かれても一つの嘘を言わぬ我が親愛なる太郎さんを持つ事を好むとか何とかと直訳的の事を言って、大に喜ぶのだろうに、不幸にして先方が其人でなく、当方もワシントンでないのであって見ると、今更何とも苦情の言いようがない。乃公も嘘を吐けばよかった。富田さんは見る間に顔色を変えて、何か言いたそうに口をモグモグさせたが、グーイと喉を鳴らしただけで一言もなく、さっさと出て行って了った。戸が毀れやしないかと思われる位大きな音がした。乃公は何だか気の毒でならなかった。
富田さんが門あたり迄行った頃、「太郎さん本当にお前は!」とお花姉さんは突然乃公の首筋に獅噛付いた。乃公は実際先刻から既に恐縮していた矢先だから、心臓が脳天へ登ったような心持がした。そして斯う事が面倒になっては又什麽目に遇わされるかも知れないと思って、手早く振切って、一目散に自分の室に逃込んだ。
今日は家の者は皆御機嫌が悪い。乃公の顔を見ると白い眼をする。お島の談話によると、乃公のお蔭で大略出来かけていた下話が全然毀れて了ったのだそうだ。言葉を換えて言えば、乃公の為めにお花姉さんは富田さんの許へお嫁に行けなくなったのだそうだ。果して然らば真に願ったり叶ったりじゃないか。姉さんは頓首再拝して乃公にお礼を言って然る可き筈だ。然るに是は又何たる矛盾な仕打だろう。無暗矢鱈とツンツンして、今にも食い付きそうに乃公を睨める。真正に恩を知らぬ行為というものだ。乃公は最早決して清水さんの許へなんか使に行ってやらないからいいや。
恁麽時に家にいたって些とも面白くない。然うかといって長男であって見れば、家を逃出して電車の車掌になる訳にも行かないから、乃公は釣竿を担いで川へ出掛けたけれども、今考えて見ると実際釣魚になんか行かない方が宜かった。乃公は何時でも後で後悔する。尤も牧師さんも人間は後悔するようでなくてはいけぬというから、是で善いのかも知れぬ。其は兎に角乃公は川へ落ちて尚少しで死ぬ所だった。これというのも自一至十姉さん達が悪い。乃公は家に凝っとしていたかったのだけれど、姉さん達が苛めっ子見たいに白い眼ばかりして、出て行けがしにするものだから、乃公は可厭だったが押して出掛けたのだ。何人が物数奇に落ちたくて川へ落ちるもんか。落ちたのは如何にも乃公の過失だ。しかし其過失の原因は全く姉さん達にある。
余り天気が好いので魚は些っとも餌につかない。乃公は退屈だったから、ワッフルを喰べ、ビスケットを食い、林檎まで平げて、最早好い加減にして切上げようとしていると、浮が頻りに動く。竿が絞れる程グイグイ引く。占めたと思って竿を揚げる拍子に、余り前へ乗出したもので、不覚川の中へ踣込んで了った。決して落ちたくて落ちたんじゃない。
気がついた時には、乃公は藁火の傍に大勢に取巻かれていた。大方乃公が死んだと思って火葬にする積りだったのだろう。気の早い奴等だ。若し骨になってから正気に返ったら奈何する積りなんだろう。真正に危い所だった。油断も隙もなりゃしない。
水車の叔父さんに背負さって、家に着いたのは最早トボトボ頃であった。お母さんは乃公を抱占めて涙を流した。宛然十年も別れていたようである。姉さん達も太郎太郎って恰も太郎の歳の市が始ったような騒動を入れる。殊にお花姉さんは身に覚えがあるから親切なもので、上等のビスケットを乃公の枕元へ持って来てくれた。皆の御機嫌は既に全然変っている。して見ると時には川に落ちるのも、大阪の伯父さんの言葉を借りていえば、川に陥るのも、満更損じゃないと思う。それは兎に角、無暗と乃公に毛布を巻付けて、写真を撮るのじゃあるまいし、凝っとしてお居で、凝っとしてお居でというのには尠からず弱った。熱苦しくて仕様がない。水で冷えたのだから折返して温めさえすれば直ると思っているのだろう。ドクトル森川にも似合わぬ単純な思想である。
乃公は余り苦しいから、窃と室を脱出して、客間へ入ったけれども、見つかると又叱られるから、窓掛の後に匿れていたが、其中に大層身体が疲るくなり、次いで睡くなった。
何だか話声がすると思って目が覚めた時には、最早燈火が点いていた。乃公の直ぐ前の長椅子に何人か二人腰を下している。腰を下しているばかりじゃない、何うやら凭れ合っているようだ。一人はお春姉さんに相違ない。香水の香で分る。お春姉さんのは何時もバイオレットだ。お春姉さんの御相手なら、今一人は彼のハイカラ筍に極っている。森川さんは先刻乃公に薬を盛ってくれて、未だ愚図愚図していたと見える。二階でピアノを弾いてるのは彼はお歌姉さんだろう。いやお歌姉さんにしては少々巧過ぎる。今夜は富田さんが来ないから、お花姉さんもお二階なのだろうなどと思っていると、
「ねえ、春子さん、たった半年の事だから、あなたも機嫌好く待って下さい、ね。秋になれば下条さんの病院で若手が一人要る。最早概略約束が出来ていますから、然うなれば患者も今よりは豊と殖えます。もう僅か半年、六箇月です。ね、待って下さい。春子さん」
確かにドクトルの声だけれど、一体何を待つのだろう。
「そりゃ貴下さえ其積りで確乎していて下さるなら、私は何年でもお待ち申しますわ」
とお春姉さんが答えた。そして二人は何かクスクス笑い出した。何が那麽に可笑しいのだ。此方の方が余っ程可笑しいけれど、尚お息を殺して聴いていると、
「けれどもね、春子さん、是は極く秘密にして置きましょうねえ。秘密は最良の政略です」
「無論私も其積りよ」
とお春さんが答えたか答えないに、何人か表から戸をコツコツと叩いた。すると姉さんは電気にでも打たれたように飛立ち、森川さんも人真似子真似で、ボールのように飛上って、二人はテーブルを距てて端然と向合に坐って、「お入りなさい」どうも種々な芸当をする奴等だ。
殆んど其と同時に戸が開いて、大勢ドヤドヤ入って来た。お母さんが先立になって、これは失礼、太郎は此処へは参りませんでしたかと訊く。森川さんは「はい、一向」と答えた。はい一向もないものだ。乃公は先刻から僅半間とは離れぬ処にいるんだぞ。今日は乃公が死にかけたので、只今見舞人が罷越したのであるが、肝腎要目の御当人の姿が見えないので、お母さんが探しに来たのである。はい一向もないものだ。で、此上御心配をかけては済まないと思ったから、乃公は窓掛けの中から躍出て、突然其処に四つん這になって、ウーウと一つ唸ってくれた。
「ああ太郎、お前はまあ奈何おしなのだねえ」
とお母さんは然も呆れ返った如く、ねえを引張って、天手古を舞いかける。
「まあ太郎さん、お前は先刻から此の中にいたのかい」
とお春姉さんはお自慢の大眼玉を睜る。
「ええ、いましたよ、十六世紀頃から此処にいました。ねえ、姉さん、秘密は最良の政略ですねえ。半歳は六ヵ月で厶いますねえ。ヘッヘヘヘヘ」
と乃公は一歩進んで赤ん眼をして呉れた。
お春さんは顔を赤くして乃公を捉えた。そして、
「さあ彼方へ行らっしゃい。お母さんに御心配をかけて」
と万事お母さんに託けて、乃公を捲く料簡と見えた。
「行きますよ行きますよ。其様に酷い事をしなくたって行きますよ。けれども姉さん、姉さんと森川さんは……」
女というものは理性がないから困って了う。姉さんは矢庭に乃公の口へ手を当がって、引摺り出して戸を閉めて了った。
乃公は再び毛布巻きにされて身動きも叶わぬ。今度はお島が番人をしているから到底逃げる訳に行かない。可けませんよとお島が泣きそうになるのにも構わず、乃公は乗出して此日記をつけた。いくら乗出しても今度は川へ落ちっこない。其間にお島は死にかけた魚のように欠伸ばかりしている。それが追々乃公に伝染して、乃公も大分睡くなった。
二週間というもの日記どころでなかった。川に落ちて水を飲んだ上に、汗の出花を冷えたのが悪かったそうだ。森川さんは、日に二遍も見に来て呉れる。親切な人だ。此間赤ん眼なんかしなければよかった。しかしお春は太い女だ。今朝お花姉さんに、これからは支度が忙しいから太郎が当分寝ていて呉れればいいなんて言っていた。何の支度か知らないが、一体何処を押せば那麽音が出るのだろう。呆れたもんだ。乃公は丈夫の時には一日に三度も郵便を出しに行ってやった。尤も途中で手紙を失くした事が三四遍あるけれど、其だって乃公は土鼠のように黙っていたから分りっこない。其を木の端か何ぞのように、一月も寝ていればいいなんて何事だろう。
今朝は大変心持が好くて起きたい位だった。お島が朝御飯を運んで来た時、乃公は窃と床を脱出して、戸の後に匿れていた。お母さんの黒い肩掛を頭から被って、戸が開くか開かないに、乃公はお島の足に囓り付いた。お島め乃公をポチか何かと思って、お膳を投出して、御丁寧に悲鳴を揚げた。馬鹿な奴だ。家中の人が井戸浚でも始ったように寄って集って来た。茶碗も何も粉微塵になって了った。考えのないって程のあったものだ。斯うした麁相かしい女じゃないと思った。それでもお島は何とも言われやしない。乃公ばかり叱られた。もう乃公は決心した。快くなり次第家を遁出して電車の車掌になる。恁麽間尺に合わない事はない。
今日からは起きても宜い事になった。しかし歩いちゃいけないんだ。乃公は毛布巻にされて腕椅子の上に坐っていたが、おびんずる様のようで始末に了えない。退屈で仕方がない。臥ているよりか大儀なものだ。喉が乾いたから湯を一杯持って来いとお島を追払って、乃公は歌さんの室へ行った。引出の中に写真が沢山あった。
富子さんが来ているので皆は客間にいる。お島は乃公を探しに来たが、乃公が戸棚の中に匿れたのを知らないから、「おや、此処にもいなさらぬ」と嘘を言って行って了った。後は乃公の天下である。
写真は沢山あった。乃公の事を悪戯だの腕白だのというが、姉さん達こそお転婆だ。写真の裏に種々の楽書がしてある。中には乃公の読めないのもあるが、「自惚かがみ」というのは鬚をピンと跳ねさせて鼻眼鏡を掛けている。「これでも申込んだのよ」というのがある。拙い顔をしている。「驢馬の肖像」は耳丈け人並で全く驢馬がフロックコートを着たようだ。「何という口だろう」君は口が馬鹿に大い。「珍世界」というのは荒刻の仁王のように怖い顔だ。其他種々あったが、一々書いていた日には夜が明けて了う。兎に角乃公は大きくなっても、決して女の子に写真をやるまい。獣呼わりにされたり鉛筆を塗られたりして堪るものか。
今日は久しぶりで階下へ下りて、皆と一緒に食事をした。
「太郎さん、お前は何を那麽にポケットに入れて置くの? 大変膨らんでるじゃないか。宛然通の懐中のようだよ」
とお歌さんが言った、通というのは、毎日のように此界隈を歩く狂人の乞食で、茶碗の断片でも下駄の棄てたのでも、何でも彼でも手当り次第に拾って懐へ入れる。其れが病気なのだそうだ。そして「通は馬鹿だよ」と妙な調で謡って歩く。桶屋の酒飲親爺は彼の乞食は乞食でも愛嬌があると言って褒めていた。其は兎に角乃公は動悸としたが、
「ええ、色んな大切の物が入ってるんです」
歌さんは笑いながら、
「私は又太郎さんが逃げる支度をしているのだと思った。御本や着物をポケットに入れて」
乃公は黙って笑っていた。皆も笑っている。危い所だった。
昼頃隙を見て乃公は家を脱出した。そして例の写真の本尊達を一々訪問して歩いた。一番最初に行ったのは「自惚かがみ」君の家であった。先生店に鯱構えていた。乃公は大人になっても那麽鬚は生したくないと思った。いくらカイザル鬚がコレラ病のように流行ったって、彼では些っとカイザリ過ぎる。其も太いのなら兎も角だが、細いのが五六本ピンと蜻蛉返りをしているのは決して見とも好いものでない。
「や、太郎さんか、よく来たね。もう全然快いかね。うむ、其は好かった」
と掻猿真似は一人で喋っている。乃公は一寸の間話をした。
「姉さん達は如何ですか。此頃は店の方が忙しいもんで、大変御無沙汰しちまった。歌子さんは矢張りピアノですか」
と此方で返辞もしないのに能く喋る奴だ。歌さんがピアノで堪るものか。歌さんは乃公の姉さんだ等と思っていると、先生新しい襟飾を出して来て乃公に呉れた。乃公は引きかえにポケットから写真を引張り出して渡した。姉さん達の悪戯で、鬚は鉛筆で二倍も引伸されている。
「其写真はあなたに似ていますね」
というと、見る間に天気模様が変って、
「太郎さん、是は君の悪戯だろう。何人が恁麽事をした?」
と今にも噛付きそうな顔をした。
「多分神さまが為たんでしょうよ」
と乃公は梟のように馬鹿面をして答えた。そして今にも雷が落ちそうだったから、一目散におっ走って来た。
次に行ったのは雑貨店である。此処にも若旦那がいる。頭の毛の赤い、頬に赤痣のある人だ。彼でもクラブ白粉の広告に出る積りで運動をしているって、富子さんが言っていた。
「御機嫌好う」
「やあ、太郎さん、御機嫌好う。能く来たね。君は干葡萄が好きだったね、さあお食り」
と乃公に干葡萄を一掴み呉れて、親の仇にでも会ったように喜んでいる。美しい姉さんが三人もあると、何処へ行っても評判が好い。乃公は帳場に坐って葡萄を喰べた。そして最早好い頃だと思って、写真を出して、藪睨みのようにして一心に眺めながら、
「何うも此写真はあなたに似ていますよ」
と顔を見比べてやった。
「どうれ」
と赤旦那は森川さん所の書生のような返辞をして手を出した。「手を出す心は乞食の心」と乃公が言うと、奴さん本気にして手を引込めたから、乃公は又「引込む心は河童の心」と大きな声を出した。店の者は皆笑っていた。
「冗談は止して早く見せ給え」
と止せばいいのに痣旦那は頻りに見たがるから、余り焦らして虫でも出ると悪いと思って、乃公は写真を渡してやった。是も姉さん達の悪戯で、痣が沢山拵えてある。頭の毛は赤いインキで塗ってある。裏面には「是でも申込んだのよ」と書いてある。赤旦那が青旦那に変色した頃は、乃公は干葡萄をもう一掴み貰って、外へ出て躍っていた。
片岡さんは弁護士である。事務所は新町にある。此人は度々家へ来るから乃公は能く知っている。恐ろしく声の太い人だ。事務所に入った時には何だか、胸がドキドキした。大方気怯れがしたのであろう。しかし道順だから是非寄らねばならぬ。
「今日は、今日は什麽見世物が厶いますか」
「何じゃ。やあ、太郎さんか」
とバリストルは新聞を置いて、乃公を見下した。荒刻の仁王を微笑ませるのも偏えにお春姉さんの威光である。
「あの、お春姉さんが斯う仰有いましたよ。彼の何ですって、今日片岡さんの事務所へ行くと、恁麽怪物が見られますって」
乃公は「珍世界」の写真を三脚机の上に置いたが、もう少しで搏される所だった。珍世界だけあって事が荒い。片岡さんは訴えるとか何とか言って憤っていた。
未だ方々へ行ったのだけれど、其を一々書くと夜半までかかる。又鮒のように叭が出始めたから、是でお仕舞にしよう。夕飯までに写真を皆配って帰って来た。御飯の時に姉さん達は次の週に舞踏会をしたいって、三人がかりでお母さんを強請っていた。しかし招待状を出しても男は一人も来ないだろう。来なくたって構わない。乃公が一人で御馳走を喰べてやる。
お母さんの御許可が出て、土曜日に舞踏会をするので、姉さん達は蜜蜂のように忙しい。乃公も大層音なしい。疲れる位お手伝をしてやっても、邪魔になって仕様がないそうだから、乃公は椅子に坐って見物していると、頻りに呼鈴が鳴った。無暗に鳴らす。一体誰が来たのだろうと思って飛んで行くと、田舎の伯母さんが来たのだ。伯母さんは年に二度ずつ来て、一週間位泊って帰る。花さんは顔を皺めて、
「仕様のない伯母さんねえ、何時でも困る時に来るのだもの」
「又一週間は御逗留でしょう。すれば屹度舞踏会にも出なさるわ。彼の昔の着物を着て」
「困るわねえ」
と三人がかりで困っている。
伯母さんは金持だけれど、昔し者だそうだ。彼の顔は唯今動物と共にノアの箱船から出たばかりで厶いという顔だそうだ。日曜学校で教わった時に、動物は皆二疋ずつ出て来たと聞いたが、伯母さんは老嬢だから一人で出て来たに相違ない。何しろ姉さん達が頻りに困っているものだから、乃公も困った人が来たと思って、大に困っていた。
お茶が済んで伯母さんは一人で二階にいた。乃公は御機嫌うかがいに行って、少時談話の末、用談に取かかった。
「伯母さん、伯母さんは姉さん達が可愛う厶いますか、憎う厶いますか」
「何を言うのだねえ、お前は。姉さん達やお前が可愛いばかりに遠々しい処を恁うして来たのじゃないか」
「真正ですか?」
「お前は余っ程可笑な事を訊く子だね」
「其じゃ真正に可愛いなら、伯母さんは是から直ぐに帰って下さい。姉さん達は舞踏会があるので、伯母さんがいちゃ困るんですって、お友達に外聞が悪いのですって」
と尚お乃公は得心の行くように詳しく話してやった。
乃公は伯母さんが那麽に憤るだろうとは思わなかった。伯母さんは火のようになって、直様鞄を抱えて、階下へ下りた。そして車屋を呼んで来て下さいと言った。お父さんもお母さんも吃驚して、頻りにお止め申した。姉さん達も泣声になって止めた。しかし伯母さんは返事もしない。一国だから言出したら決して後へは退かぬ。お歌さんは手を払い除けられた。
「もうお前の家の敷居は什麽事があっても跨ぎません。恩知らずの家へは、もうもうもう二度と再び来ませんから」
と伯母さんは蝙蝠傘で土を叩きながら、牛のような事をいって、鞄を抱えたなりで、さっさと行って了った。
「どうしたのだろう」
とお父さんが言った。
「どうしたのでしょうか」
とお母さんがお父さんの顔を見た。
「真正にどうなすったんでしょうねえ」
と姉さん達も口を出した。そして皆な少時顔を見合せていた。「真正にどうなすったんでしょうね」もないものだ。乃公はなかなか骨を折った。
待ちに待った舞踏会の晩が来た。お島は乃公に他所行の洋服を着せて、横撫ぜをしないようにと言ったから、一つ擲ってやった。新しい襟飾を付けて、新しい手袋を穿めて、新しいハンケチを持って、何も彼も新しずくめだ。姉さん達は会の心得を三十分も説教して、若しお行儀が悪いなら直ぐに床に入れて了うといって脅かした。広間へ行った時には、靴がギュウギュウ鳴って弥喧しい位だった。燈火が沢山ついている。其処此処に綺麗な花が飾ってある。ピアノを弾く人も来ていた。乃公はアイスクリーム、菓子、蜜柑、ジェリー、サイダ、サンドイッチ等の事を考えたら涎が出た。是は決して乃公が食辛抱だからじゃない。何人だって風邪をひけば咳が出る。悲しい事を考えれば涙が出る。甘い物の事を想えば涎が出る。当然の話だ。賤しいなんて言えば酷い目に会わしてやる。姉さん達は白い着物を着て、平常より何倍美しいか知れない。頭に花を揷している。乃公の耳を引張ったりしそうには見えない。
其中にお客様が見え始めた。知合の婦人連は大概集った。時計が九時を打った。しかし男の客は一向姿を見せない。森川さんが一人来たばかりだ。乃公は胸に覚えがあるから、少々足が慄えて来た。
ピアノ手は幾度もピアノを弾いた。婦人連は仕方なしに、婦人同志で組んで躍った。が、女ばかりじゃつまらないと見えて直きに罷めた。時計が九時半を報じた。乃公は益〻慄えて来た。しかし黙っていると怪しまれるから、
「きっと電車が停電したのでしょうよ。それから彼処で道普請をしていますから車が通らないのでしょうよ」
お客様はコソコソ話を始めた。姉さん達は額を鳩めて弱っていると、突然に呼鈴が鳴った。愈〻来たか、やれやれと皆が急に元気づくと、何の事だ馬鹿馬鹿しい。お島が澄まして名刺を持って入って来た。大方お断りの挨拶だろうと思っていると、さあ大変、猫がとうとう袋から飛出した。先日の写真が戻って来たのだ。
引続いて呼鈴が十二三度も鳴った。お島は其都度お得意になって写真を持って来る。最後に男の人が二人来た。此人々の写真の裏には「まあ好い口付だこと」「洋服屋の看板」と書いてあった。しかし先生方は楽書を極くお目出度文字通りに解釈して、のこのこやって来たのだ。
男三人は女五人を相手に、代る代るランサースを躍った。雪子さんは始終クスクス笑っていた。お歌さんは泣きそうな顔をした。やがて一同食卓に着いたが、何だか奥歯に物が挾っているような風であった。乃公は余り気の毒だったから、五杯目のアイスクリームは喉へ通らなかった。
お客様が帰ってから、お春さんは最早世間へ顔出しが出来ぬ、恁麽悪戯をした者が知れたら唯は置かないと言った。すると森川さんが乃公の顔をジロジロ眺めて、
「太郎さんが知っているだろう」
と言った。乃公が知っているものか。
「いいえ、僕知っているもんですか。ポチですよ。ポチが悪いのです。僕が此間ポチに写真を喰べさせたら、ポチが啣えて表へ持って行ったんです。きっと何処へ落して来たんです。真正に困る奴だ」
「それじゃお前が写真を出したんだね」
とお春姉さんが恐ろしい権幕をした。再び言う、猫は袋から飛出した。乃公は命がけで床の中へ潜り込んだ。
乃公は今度遠くの学校へやられるのだ。三月の休暇までは帰って来られないんだ。けれども家にいて姉さん達に苛められるよりか余程得だと思う。学校には乃公位の子供も大勢いるそうだ。広告には「土地高燥にして空気新鮮遠く都会の雑沓を離れ、児童の勉学並に健康に適す。汽車並に電車の便あり」と温泉場の案内見たような事が書いてあった。尚お幼年生の為めには特別の設備ありとしてあるから、満更の学校でもなかろうとお父さんが言った。
家を出る時は悪いものだ。お母さんや姉さん達が玄関まで送ってくれた。
「能く先生の仰有る事を聴いて、風邪をひかないようにね」
とお母さんに外れた鈕をはめて貰った時には、乃公は喉へ団子が閊えたような心持がして、黙ってお辞儀をした。車が余程行ってから振返って見たら、皆は未だ立っていた。お島はハンカチを振っていた。
お父さんは学校まで送って来て、校長さんに種々と頼んだ。腕白者で困るなんて言った。しかし校長さんは子供は活溌に限る、少し腕白な位が好いのですと言っていた。なかなか話せる奴だ。
今夜は始めて寄宿舎で寝るのだ。持って来た菓子を皆で喰べた。皆乃公よりも大きい。菓子を喰べるのが早いのには驚いちまった。
家では今頃は姉さん達が彼の室で談話をしているのだろう。お母さんは最早お休みかしら。お島は世話が焼けないって喜んでいるだろう。屹度手紙を下さいと言ったが、明日にしよう。
乃公は丈が低いものだから、食事の時には椅子の上にウェブスターを置いて、其上に腰を掛ける。乃公は奥さんの直ぐ隣席に坐る。今朝奥さんが一寸立った時に、乃公は手早く椅子を退けてやった。すると奥さんは椅子があると思って腰を下して、匙を持ったまま尻餅を搗いた。幸い人間だったから宜かったが、若し瀬戸物だったら壊れて了ったろう。
乃公は地理を習い始めた。先生が地球が円いというけれど、乃公には何うも然う思えない。教場に地球がある。是は全く円い。しかし彼は全か空虚か分らないから、近日に穴を明けて見よう。乃公は空虚として置く。
尚お算術を教わる。是は奥さんが先生だ。可笑な事が書いてある本だ。太郎が五つ凧を持っている、二郎は十持っている、三郎は十五持っている。三人のを合せると三十になるのは異存ないけれど、十五は嘘に極っている。凧屋じゃあるまいし、十の十五のって持っている子があるものか。
校長と奥さんの外に先生がもう一人いる。お花姉さんよりも少し年が寄っていて、名を大内さんという。乃公は此先生が好きだけれども、善ちゃんは彼は老嬢だと言った。老嬢だって構わない。乃公は自分が家に居た頃の話をして聞かせたら、大層同情してくれた。そして寂しい時には何時でも遊びに入らっしゃいと言った。其中に遊びに行こう。
家郷病は悲しいものだ。昨夜は種々の事を思出して半時間ばかり寝つかれなかった。お島の事を考えたら、不図お島の従兄だという彼の藪睨みの顔が目の前に浮んだ。藪睨みなんて、調法なものだ。あれなら右の目で本を見て、左の目で外見が出来るから、校長に捉りっこない。乃公も藪睨みに生れて来ればよかった。
どうも皆は乱暴で仕方がない。乃公を蒲団蒸しにしたり、雪団子にしたり、酷い事をする。お島が見ていたら屹度泣くだろう。彼の絹ハンカチは取られて了った。ミットは屋根へ上って了った。尤も是は乃公が猫の頭へ無理に篏めたら、猫が屋根へ行って置いて来たのだ。
けれども是からは善ちゃんが此方組になってくれる。苛めた者があったら直ぐに言付けろと言うから大に心丈夫だ。善ちゃんは一番大きくて一番強い。寄宿舎のモニトルだ。綽名でも何でも此子が付ける。小使の金さんは彼は生存競争に落伍した落胆の顔だそうだ。校長は少くとも日清戦争時代の人間で、今日の時勢には気の毒ながら少々後れているのだそうだ。それじゃ矢張りノアの方船から出たのかと聞いたら、善ちゃんにはノアの方船が分らなかった。大内さんは失恋で、少しヒステリーの気味だそうだ。奥さん――は新時代の婦人で、熱心な女権論者だそうだ。女権論者って何だと訊いたら、何でも大変六ヶ敷い事で子供には話しても分らないと言った。そして其主張には半面の真理があるそうだ。半面の真理ってのは什麽ものかと訊いたら、然う一々訊くものじゃないと言った。兎に角奥さんは拉典もなかなか達者で校長さんよりも豪いそうだ。
今日は応接間の絨毯を台なしにして、校長に叱られた。乃公は猫の頚にインキ瓶を結い付けたばかりで、三日間の禁足になって了った。今に彼の猫を打殺して了うからいい。
金曜日は悪い日だとお島が能く言ったが、全く然うである。金曜日というと屹度お目玉を頂戴するような事が起る。今日は大変な事が起った。
二時間目は歴史だった。鈴が鳴って皆が教場に入っても、木乃伊は出て来ない。木乃伊は校長の綽名である。埃及の木乃伊に顔が似ているというので先日から木乃伊木乃伊と呼んでいる。乃公は如何したのだろうと思って、見に行こうとすると、皆は止せ止せ忘れているんだ、とガヤガヤ談話をしている。馬鹿な奴だ。一体お前さん達は何しに学校へ来ている。貴重の時間を空費して嬉しいのか。
乃公は窃と校長の室へ行って見た。来ない筈だ。木乃伊はストーブの側で椅子に凭れて、心持好さそうに居睡をしている。恁うなると校長も他愛ないものだ。乃公が近傍へ行っても知らずにいる。其中に首がコックリと下った。其拍子に頭の毛が一寸ばかり辷った。乃公は喫驚して逃げて来た。
「おい、大変だぜ。校長さんの頭の毛が辷ったぜ」
「なあに彼は仮髪を被ってるんだ。何をしている?」
「大丈夫だ。能く寝ている」
と乃公は量見があるから直ぐに又引返した。然うか那麽物を被っているのか、道理で年の割に頭の毛が濃いと思っていた。
最早目が覚めていやしないかと思って、内々心配して行ったら、校長先生は相変らず白河夜船でいた。乃公が直ぐ足元まで行っても平然として鼾をかいている。仮髪に手をかけても泰然として眠っている。仮髪を取外しても自若として舟を漕いでいる。此の按排では一つ位打擲っても平気の平左衛門だろう。校長の頭顱は丸薬鑵だ。日外従兄が亜弗利加から土産に持って来た鴕鳥の卵に能く似ていた。
乃公は仮髪を被って大威張で教場へ行った。皆は拍手喝采をした。丸で東郷大将が帰って来たような騒ぎだった。
「大変だぞ」
「怒られるぞ」
「退校だぞ」
「酷い事をした」
と皆は更に感嘆して、
「見せろ見せろ、什麽ものだ」
乃公は仮髪を脱いだ。皆は交代番こに被って嬉しがっている。中には一寸被って、エヘンと咳払をした奴もあった。仮髪が乃公の手に戻ると、皆は乃公を講壇に立たせて、「どうだ、君一つ講義をやれ。校長代理だ」其処で乃公は仮髪を被って、両手を後ろへ出した。これは上着の尻尾の真似である。そして咳一咳して、
「若き紳士諸君、今日は諸君の注意を生物界に喚びたいと思います。生物の種類形態は真に千差万別種々様々で厶いまして、象は蚤よりも大きく、蚤は象よりも小い。此処が即ち造化の妙でありまして、万一蚤が象より大きかったらば、如何の現象が起るでありましょうか。夜分那麽巨大の動物が吾人の脊中を這廻ったらば……」
此時善ちゃんは最早罷めろ、仮髪を返して来いと言った。で、乃公も講壇から下りようとすると、
「来た来た」
と皆が騒ぎ始めた。乃公は直ぐにストーブの中へ仮髪を焼べて了った。そして蓋をするかしないに、戸が明いて校長が顔を出した。頭が丸薬鑵だからお見外れ申すような顔であった。
乃公は直ぐに校長室へ連れて行かれた。色々と調べられたが、乃公は膿んだとも潰れたとも言わなかった。其中に校長は嚏を始めた。
「一体何の為めに学校へ、ハクシン、学校へ来ている、ヘキスン、御覧なさい、私はお前さんの為に風邪を引いて了った。ハアクション」
今日は学校はお休みだ。校長は寝ている。頭から風邪を引込んだのだそうだ。其でなくても一校の校長たるものが、鴕鳥の卵を被って教鞭を執る訳に行くまい。
昨夜町へ電報を打ったから、仮髪は今日中に新しいのが来るそうだ。乃公は屹度退校になるだろう。もう覚悟をしている。真正に乃公は運が悪い。
家から手紙が来た。何んにも知らないと見えて、大層乃公を褒めている。此間の手紙は学校の作文を其侭清書して出したんだ。乃公に彼様な巧い事が書けるものか。「先生御夫婦は両親の如く慈しみ被下候」なんて乃公が言うものか。けれども家では乃公の頭脳から出たものと信じているらしい。尚お能く先生方の言う事を聞き、勉強を専一にし、寒いから風邪をひかぬようにしろ。そして試験休暇には帰省を待っているとしてあった。試験休暇まで待っていなくとも、乃公はもう直きに退校になるんだろう。
乃公は実際学校が可厭になった。斯ういう処に長居をすると碌な事を覚えない。善ちゃんは紙を丸めて人の頭に打付けて知らん顔をしている法を教えてくれた。仙ちゃんは試験の時勉強しないで及第する術を伝授してくれた。ボールを拾いに行く風をして隣屋敷の金柑を盗む事も覚え、算術の可厭な時頭痛がする事も習った。乃公は其様な事をしたくないが、皆がするから仕方がない。何でも人並にしてとお母さんがくれぐれも言い含めて寄越した。
昨日は書取の時間に奥さんの顔を書いていたら、石盤を取上げられた。取上げられたばかりでなく立たされた。立たして置いて奥さんは新聞紙で帽子を拵えて乃公の頭に被せた。いくら見せしめの為めだって余り人を馬鹿にしている。「これでも仮髪よりか優だ」と言ったら、奥さんは火のようになって怒った。彼の仮髪事件から乃公を目の仇敵のように思っているらしい。乃公が焼棄てたればこそ、校長は彼んな新しい奴を買ったのじゃないか。その恩も忘れて唯訳も分らずにがみがみ言っている。馬鹿な女だ。
今日は大内さんの室へ遊びに行った。大内さんは親切な方だ。「さあ、此方へお入りなさい。遠慮しないでね、家にいる積りで何でもしてお遊びなさい」と云ったから、乃公は突然鯱鉾立をしてやった。
何でも大内さんは余り幸福でないらしい。乃公が入って行った時涙を出していた。多分泣いていたのだろう。それとも栄太楼の玉垂でも喰べていたのか知れない。喰べるといえば奥さんは能く間食をする人だ。彼様に喰べ通しに喰べるから、彼様に太ってるのだろう。
大内さんは種々の事を聞く人だ。殊に姉さん達の事を尋ねるから、乃公は種々な悪口を言ってやった。
「それじゃ大きい姉さんは直に御婚礼なさるんですね」
「ええ左様ですよ。春子姉さんだって森川さんがもう少し病人が出来るとお嫁に行くんです。けれど、先生、先生は何故御婚礼なさらないんです。皆なが老嬢だって言ってますよ」
大内さんは、「オホホ」と笑った。「そしてまあ面白い事を仰有る太郎さんね」と誤魔化してしまった。乃公は甘納豆を一掴み貰って帰って来た。
今日は学校に文学会があった。文学会のお蔭で乃公はいよいよ退校に定ってしまった。明日は一番汽車で家に帰れる。
村の人が大勢傍聴に来た。校長はフロックを着て司会者になる。奥さんは自慢のバイオリンを弾く。大内さんは生徒のお世話を焼く。生徒は代り代りに文章を読んだり、演説をしたり、詩を暗誦したりする。乃公は演説をした。
三日ばかり前に奥さんが演説の下書をしてくれた。題は学校というのである。
「学校! 一生の中で一番楽しいのは学校生活でありましょう。子供を学校にやる事の出来る両親は神に感謝致さねばなりません。往来で遊んでいる貧乏人の子は如何に学生を羨むでしょうか、私共生徒たる者は若い時に勉強しなければなりません。折角親が与えてくれた特権を能く用いないなら何にもなりません。我が国の偉大な事は教育に由るのであります。その中でも大学の支度をする寄宿舎学校が国の基になるのであります」
たった此丈けである。けれども乃公は乃公の思う通り書直して置いた。演壇に上ってお辞儀をした時には何だか変だったが、向うの方に立っていた大内さんが直ぐ始めろというような目くばせをしたから、乃公は大きな声を出して、次の通りに喋った。
「学校! 恐しい所は学校です。何も知らないで子供を学校にやる両親は可哀想です。お気の毒です。往来で遊んでいる貧乏人の子の方が好いんです。朝から晩まで遊べますから仕合せです。殊に寄宿は感服致しません。お豆腐ばかり喰べさせます。それよりも尚おいけない事があります。即ち私は、一日隔きに罰則になります。それで何も悪い事はしないのです。私が大人になって先生になるなら、奥さんのような意地悪は致しません。学校は実にいかん処だと思います」
皆は手を叩いた。校長さんも奥さんも感心に笑っていた。乃公は何だか嬉しかった。会が済んだ後で、奥さんが一寸というから乃公は尾いて行った。演説の御褒美を上げるから此室にお入りなさいと言って、にやにや笑っている。にやにやではあるが、兎に角笑っているのだから大した事はあるまいと思って乃公は入って行った。乃公は此処で晩飯の時まで算術をやるのだそうだ。問題を十ばかり当てがって、奥さんは鍵をかって出て行ってしまった。
乃公は問題を一つ半ばかりやったら可厭になった。三時と四時の間で時計の針の重なる処を知りたけりゃ、時計を廻転して見れば分るじゃないか、何も乃公に聞くには当らない話だ。光線が太陽から地球迄届く時間を知っていれば豪いようだが、今飛んだ跳ね炭の火の行方が分らずに、火事にはなりはしまいかと心配するようでは馬鹿気ている。乃公だって時計の針ぐらいは分るのだけれども、寒くて手が亀屈で石筆が持てないから仕方がない。
ストーブを見たら、灰の中に猫の眼のような火が二つ光っていた。乃公は早速机の上にあった本を破ってくべて見た。なかなか燃え立たない。燻って目が痛い。乃公は腹が立ったからどしどしとくべた。くべればくべる程咳が出て仕様がない。
其の中に此はしまったと気が付いた。昨日乃公は何もする事がなかったから、此ストーブの煙筒に土を填めて置いた。これでは燻ぶる筈だと思って消そうとしたが容易に消えない。乃公は噎せ返って、余り苦しかったから、大きな声を出した。
すると皆が馳け付けたが、奥さんが錠を下しっぱなしにして買物に行ってしまったから、開る訳がない。乃公は尚お大きな声を出して、「火事だ火事だあ、助けてくれい」と呶鳴った。窓が開くなら疾くに飛び下りるのだが、生憎凍りついていて動きもしない。乃公は本当に死ぬかと思ったから、益〻大声を立てた。すると、
「太郎さん、太郎さん、窓の硝子を壊して出なさい。構いませんから早く壊して」
と大内さんの呼ぶ声が聞えた。乃公は椅子を振り廻して、硝子を一枚残らず滅茶苦茶に砕いてから外へ飛出した。右の掌に二箇所硝子の片が立っていた。
間もなく校長と奥さんが帰って来た。大内さんから話を聞いて早速乃公を呼出した。
「太郎さん」
と校長は怖い顔をした。校長は呼付けて叱る時には、何時も先ず「太郎さん」と一応名前を呼んで置いて、眼鏡を外してハンケチを出して、硝子玉を拭きながら徐々と小言を繰り出す。
「お父さんの許へ書付をやるから左様思いなさい。彼は一週間人を入れなければ直らない。一枚壊せば充分出られるじゃありませんか。承知していて乱暴する。それから何故ストーブを叩き壊した」
乃公は黙っていた。叱られる時は何時も黙っている。すると奥さんが口を出した。
「あなた、書付と一緒に一層最早断ってしまう方が宜いじゃありませんか。此んなでは、月謝を五人前貰っても合いませんよ。此上何を仕出来すか知れたものじゃない。明日金さんに送らしてやればいいでしょう。ねえ、あなた、左様なさい。とても駄目ですから」
校長は随分威張っているが、「ねえあなた」には頭が上らない。「ねえあなた」の言う事なら大抵の事はする。汽車道へ行って寝ていろといわれれば寝ているかも知れない。それで大内さんがお詫をしてくれたけれど、とうとう乃公を断ってしまった。乃公は明日の一番で小使の金さんに送って行って貰うのだ。家へ帰ったら大に音なしくしよう。全く乃公が善くないようだ。
奉公にやられると困るから大に音なしくしよう。お島に聞いたら、あれは嚇しだと言ったが、お父さんは大分怒ってるようだ。乃公見たいな者は凝っとして坐っていれば宜い。一寸身体を動かして何かするとそれが直ぐ悪戯になる。厄介な生来だ。
乃公のいない後で、教会の牧師が更った。今度の牧師は若い。二十七だという。眼鏡を掛けて、顔色の青白い、ひょろりとした男で、甘い菓子と若い女の子が好きらしい。今日は夕飯に招ばれて来た。花子姉さんと談話をしながら乃公の頭を撫でた。失敬な事をする。赤ん坊じゃあるまいし。多分花さんを思っているのだろうけれど、花さんは清水さんの外此世に男はないと信じている。今日も乃公は清水さんの許へ手紙を持って行ってやった。此の使い賃が十銭。それから清水さんの返事を持って来てやった。此方は二十銭だった代りに、何人にも手紙の事は話してはいけぬと断わられた。花さんは庭で乃公を待っていた。生憎歌さんが傍にいる。乃公が衣嚢の手紙を握ったなり近くへ寄って行ったら、花さんは、
「おや、太郎さん、お前何処へ行って来たの」
と花さんが言った。何処へ行ったのもないものだ。
「ああ寒くなって来た。家へ入りましょうかね」
と又花さんが言った。玄関の処で花さんは歌さんを先に上らせて置いて、乃公の衣嚢から手紙を取った。その手早いのには乃公も喫驚したくらいだ。そして「あら、歌さんの肩に松葉がついててよ」と言いながら、二人で二階へ上って行った。難有いとも言いはしない。
昨夜は退屈だったから、一つお島を驚かしてやる積りで、お花姉さんの外套を取りに行った。乃公は居るかと思って、そっと入ったが居なかった。早速頭から引被って、丁度手の当った処に衣嚢があったから突込んで見たら手紙があった。清水さんの手紙だ。斯う書いてある。
「それでは今晩九時と決めましょう。庭の木戸でお待ち被下い。九時ですよ。間違のないようにね。馬車は此方から用意して行きます」
乃公は実際驚いた。お花姉さんは清水さんと逃げる積りだ。九時といえば最早間がない。乃公は突然馳け下りて外へ出た。事によるともう逃げてしまったかも知れない。
乃公が隣家の天水桶の後に踞んでいると、馬車が一台そろそろやって来た。此れだなと思うと、今度は姉さんが裏の方から出て来た。外套も着ていなければ、鞄も持っていない。家にいる時の風体をしている。乃公が姉さんの方に気を取られている中に、清水さんは馬車から下りていた。二人は少しも口を利かぬ。花さんが先に乗って、清水さんは後から入ったようだった。そして最早大丈夫だろうと思って乃公が立った時、馬車は動き出した。
乃公は直ぐに家へ引返した。丁度お島が探していた所で、乃公は直ぐに床の中へ追込められた。そしてお花姉さんは最早余程行ったろう、彼の馬は良いようだったなどと考えながら寝た。
ところが今朝起きて朝飯を喰べに下りて行くと、お花姉さんが澄まして常例の席に坐っていたのには喫驚した。すると逃げたのは夢かしらと思って、衣嚢を探って見たら、昨夜取った手紙が手に触った。
此頃は音なしくなったので少しも叱られない、けれども毎日退屈で困る。お父さんも可愛がってくれる。昨日は松旭斎天一という奇術師の手品を見物に連れて行って貰った。
今夜は竹子さんと女学生が二人遊びに来た。歌さんの学校友達だそうだ。乃公は皆に手品の真似をして見せようと思って、台所から玉子を十ばかり持って来た。竹子さんと一緒に来た男が一人ある。洋行帰りのハイカラで、牛乳配達のように綺麗に頭髪を分けている。頭も気に入ったが此男の帽子も気に入った。山高の低い奴で、此頃流行の形だ。手品師も丁度此んな帽子を使ったと覚えている。それで乃公は其帽子を外して其中に卵を入れた。そして客間の隅の方へ小い机を持ち出して、其上に色々と道具を列べた。此れでフロックコートを着ていれば立派な奇術師である。
「皆様――諸君、此れから面白い手品を御覧に入れます。入場料は一人十銭です」
皆は笑った。ハイカラは立って乃公の方へ歩いて来た。乃公は帽子が露見したのかと思って心配したら、左様ではなかった。にこにこ笑いながら蟇口を出して、乃公に五十銭銀貨を一個くれた。そして、
「坊ちゃん、今日は初日だから割引がありましょう、それで六人前ですよ」
と笑いながら席に戻った。お歌さんも矢張笑っている。乃公はお歌さんが止めやしないかと思って最初から心配していた。お歌さんが止めたら、彼んな事になりはしなかったろう。
「諸君、最初に御覧に入れますのは、ハンケチの手品で厶います。どなたでも宜敷う厶いますから、ハンケチを一つ拝借願います」
と乃公は天一の弟子の通りに真似をした。するとハイカラは絹のハンケチを貸してくれた。
「もう一つお願いが厶います。今度は燐寸で厶います。どなたかお持合せは厶いませんか」
ハイカラは蝋燐寸を貸してくれた。
「さて、只今此ハンケチに火をつけて焼いてしまいます。その焼いた灰を此引出に入れて、私が三度手を叩きますと、以前の通りになります。首尾能く行ったら何卒御喝采を願います」
すると竹子さんが手を叩いた。ハイカラは黙っていた。乃公は委細構わずハンケチを燃し始めたが、余り香水が沢山附いている故か、燃えが悪い。けれども兎に角半焼ぐらいになったから、乃公は机の引出へ投り込んだ。
「私が三つ手拍子を打つと、ハンケチが以前の通りになります」
乃公は直に手拍子を打とうと思ったが、未だ煙が出ているから見合せた。けれども黙っているのも変だから、
「首尾能く参りましたらば、御喝采を願います」
と言って、又見たが、矢張り旧の通りだ。此は事によると首尾能く行かないと思ったけれど、黙っているのは可笑しいから又、
「若し首尾能く参りましたらば、お手拍子を願います」
と言って見た。幾度言って見ても駄目だ。ハンケチは平気でいる。すると皆がクスクス笑い出した。そして竹子さんが手を叩いたら皆も真似をした。ハイカラも仕方がなしに手を叩いた。乃公は真正にきまりが悪るかった。
「今のはハンケチの燃えが悪るかったから、巧く参りません、その代りに今度は玉子の芸当を御覧に入れます」
乃公は帽子から卵を出そうと思って手を入れて見たら喫驚した。湯呑や茶碗を一緒に入れて、ジャランジャランいわせて来たものだから、皆な壊れていた。此れでは手品も出来ないと思って困っていると、歌さんが乃公の方へ歩いて来た。
「太郎さん、お前、それは何人の帽子です」
「彼の……」
とハイカラの方を見たら、ハイカラは最早傍に来ていた。乃公は仕方がないから、玉子も茶碗も机の上に打明けて、帽子をハイカラに差出した。それを受取る時に、ハイカラの顔は三尺ばかり長くなった。今にも食い付きそうな権幕だったから乃公は一目散に逃げて来た。
歌さんは随分困ったろう。それよりも彼のハイカラは尚お困ったろう。何んぼ夜だって、フロックコートを着ていて帽子を被らなくちゃ電車にも乗れまい。
今日は昨夜の事で叱られやしないかと思って心配で仕様がなかった。けれどもお父さんもお母さんも何とも言わなかった。乃公の代りに歌さんが大変怒られたそうだ。最早乃公は叱らないんだろう。叱らないで置いて突然に奉公にやる積りかも知れない。歌さんは乃公の顔を見ると白い眼をしてばかりいる。もう郵便を出しにもチョコレートを買いに行ってもやらないからいいや。
今夜は舌が痛くて堪らない。晩飯にはお湯ばかり飲んでいた。お昼過に外で又手品をして遊んだ時、六公と乃公と喧嘩になった。乃公が刀を呑んで見せると言ったら、六公の野郎め其んな事が出来るもんかと馬鹿にした。乃公は腹が立ったから、
「出来るとも、出来なくてどうするんだ。さあ刀を持って来て見ろ、屹度呑んで見せるから」
「よし、それじゃ持って来るぞ」
「持って来い、直ぐ持って来い」
「よし」
すると忠公も先方組で、六公に加勢をして、
「それじゃ此小刀を呑め。刀が呑める位なら小刀は呑めるだろう」
と余計な事を言やがった。乃公は此んな奴等に負けちゃ口惜しいから、
「いいとも、呑んで見せる」
と言って、忠公の小刀を奪取った。此処までは良かったが、忠公のは生憎水兵小刀である、小いのなら訳はないが、水兵小刀は大きいから困った。口へ入れたなり動きが取れない。乃公が終に小刀を投り出して、つうつうと血の唾を吐いたら、二人は「ざまあ見やがれ」と言って逃げ出した。そして遠くの方へ行ってから、「おいらの所為じゃなあいぞ、三年烏の所為だあ」なんて言やがった。卑怯な奴等だ。
今日は午前花さんがお父さんとお母さんに叱られ、午後は乃公が花さんに叱られた。世の中は上から下へと順繰りに叱りこしているようなものだ。乃公は何人も叱る者がないから、ポチの頭をうんと撲ってやった。お母さんが乃公の服の綻を繕ったら清水さんの手紙が出た。これがお花さんが呼付けられた原因で、姉さんの手紙を盗んだというのが乃公の花さんに怒られた理由である。乃公がポチを撲ったのには何の意味もない。唯ポチが其処にいたから悪い。
お花姉さんは近い中に清水さんと御婚礼をするのだそうだ。そうなれば乃公は一緒に行ってもいいんだって。そして乃公に良い室を当てがって、何でも買ってくれるという約束をした。新婚旅行にも連れて行くそうだ。それだから乃公は音なしくしよう。一日に三度でも四度でも手紙を持って行ってやろう。そして姉さんが頭髪を染める事なんかは清水さんに黙っていてやろう。
森川さんとお春さんも、最早直に結婚するんだそうだ。どうも結婚が流行る。そしてお歌さんだって今年中には片付くんだから、お父さんもなかなか大抵じゃないって、お島が言った。
凧を拵えようと思うけれど、骨がなくて弱っている所へ桶屋の老爺が来た。竹を少し呉れと言ったら、いくらでも上げると言った。けれども桶屋の竹は皮ばかりで身が無いから、戴いても凧の骨には使えない。すると明日上等のを持って来てやろうと言ったが、此老爺は酒呑みで、ちゃらっぽこを言ってばかりいるから当にはならない。
「老爺さん、此間直した風呂桶が最早洩り始めたよ。お前酔っぱらっていて好い加減な事をして行ったのだろう」
とお島が詰った。
「なあに水ぐらい洩ったって構やしない。人さえ洩らなけりゃ大事あるまい」
と老爺は泰然たる返答をして、風呂場を見に行った。乃公は錐で揉んだ穴を見つけられると困るから、直ぐ二階へ上って本を読み始めた。
今朝は早く起きて凧を拵えた。どうしても竹が手に入らなかったから、お父さんの絹張の蝙蝠傘を壊して鯨骨を二本頂戴した。絹も唯棄てては勿体ないと思って、尻尾に使った。
朝飯が済んでから乃公は凧を持って出掛けた。乃公の凧は皆のよりか大きいけれど糸目の工合が悪いと見えて、面くらって仕様がない。此の子は凧を揚げるのか引摺るのかと何処かの生意気な奴が言った。一番始めには郵便屋の頭の上に落ち、其次には馬の鼻の頭に落ちた。郵便屋は怒ったばかりだったから宜かったが、馬は解らずやだもんだから、驚いて暴れ出した。可哀そうに乗ってた人は振り落されて気絶した。事によると彼の侭死ぬかも知れないが大抵生き返るだろう。若し生き返ったら、此れからは凧を揚げている処を馬に乗って通らないように気を付けるが宜い。
もう往来で凧を揚げるなと断られたから、乃公達は教会の後手の空地へ行った。暫時は工合が善かったが、終には乃公の凧が木に絡ってしまった。いくら引張って見ても取れ様としない。乃公は木登りは上手だけれど、登るとお母さんに叱られるから、忠公に頼んだ。忠公は始めは怖がってたが、「貴様は男だろう」と言ったら仕方なしに登って取ってくれた。乃公は凧を取ってくれと頼んだけれど、落ちて足を挫けとは願わなかった。真正に厄介な奴だ。余計な事をする。取って来たら十銭やる約束だったけれど、最早やらないから宜い。
森川さんが家へ寄って、隣の忠公は余程悪い、悪くすると跋足になるかも知れないと言った。乃公は気の毒だから見舞に行こうとしたが、忠公のお母さんは乃公の顔を見るのも可厭なんだそうだ。そして忠公の足が直り次第何処かもっと危くない処へ越してしまうと言って怒っているそうだ。
お母さんは夕方まで隣家へ行っていたが、夜は早くお休みになった。頭痛がして気分が悪くなったのだそうだ。隣家の忠公が、足を怪我したのに、家のお母さんが頭痛を病むとは奇妙な事だ。
今日は一日外へ出てはならぬと言われたから、音なしく本を読んでいた。するとお父さんが突然上って来て、乃公の首筋を捉えて、蔵へ連れて行って表から鍵をかけてしまった。音なしく勉強しているものを、非道い事をする。
お島がお昼を持って来た時に聞いて見たら、乃公は忠公の快くなるまで蔵の中にいるのだそうだ。忠公は何時快くなるだろう。屹度何時までも乃公を此処に入れて置こうと思って、何時までも癒らないでいるだろう。彼様な悪い友達を持つと本当に困ってしまう。
今日は素敵に凧が好く揚った。風が強いから有りったけたまを出したので、うっかりすると引摺られそうだ。揚らなくても骨が折れるけれど、斯う好く揚られると持っているのに却って骨が折れる。
お昼には帰らなかったから、腹がへって堪らない。そうかと言って此んなに張りのある奴を下すのも残念だ。斯ういう時には忠公がいると宜いんだけれど仕方がない。木か何かに縛りつけて置いて家へ帰ろうと思って周囲を見廻した。
五六歳の可愛らしい女の子が乃公の凧を一心に見ている。何処の子だろう。教会の老爺さんの子か知ら。今考えて見ると此の子は悪い処にいあわせたもんだ。乃公は此子を賺して凧糸を其胸へ巻きつけた。そして僕の帰って来るまで此木に捉ってるんだよと言って、家へ帰って来た。
お島にビスケットを貰って教会の裏へ引返すと、女の子は見えない。けれども天を見れば凧は旧の通りに揚っている。此は可笑しいと思って糸の所在をたよりに教会の表側へ廻って見ると、乃公は喫驚してしまった。糸が塔に絡まって女の子は屋根に下っている。若し糸が切れようものなら確かに敷石の上に落ちる。若し糸が解れようものなら彼の子はきっと天へ昇ってしまう。乃公は大声立てて人を呼んだ。
教会の婆さんが飛出して来て、腰を抜かした。後で聞いたら、此婆さんは子供が宙にぶら下っているのを見て、いよいよ天国が来たのだと思ったんだそうだ。その中に五六人馳け着けて来て、子供は何事もなく助かったが、乃公の凧は未だ上っているだろう。彼の塔の頂上まではとても取りに行かれないから、断念めなければならない。事によると今頃は塔を引摺りながら天まで上って行ったかも知れない。兎に角彼の凧は惜しい事をしてしまった。
今日は日曜日で、お歌さんと一緒に教会へ行った。牧師さんの説教でも聞いたら音なしい善い子になれるだろうと思って、お母さんに左様話したら、お母さんは大層喜んだ。けれどもお母さんは今日はお客があるからというので、お歌さんに連れて行って貰うことになったのだ。
牧師は馬鹿に長い説教をした。乃公は眠くなってしまった。大人でも居睡りした者があった位だ。もう止せば宜いにと思っても人の心の中が分るような男じゃないから平気でやっている。
「終りに臨みまして……」と言ったから最早大丈夫だと思ったけれど、喜び損をさせやがった。どうしても止さない。「どうぞ皆さん……」なんて言って「第一に」と又最初から芸当のやり直しをしている。最早喧嘩だ。勝手にするがいいと思って、落した讃美歌を取る積りで踞むと、衣嚢に入ってた玩具のピストルが落ちた。落ちたばかりなら宜いけれどパチッと破裂したから、困ってしまった。皆が乃公の方を見て怖い顔をした。お歌さんは真赤になって、凝っとしていらっしゃいと言った。乃公は自分の衣嚢の中へ消え込みたい位体裁が悪るかった。
ピストルを拾いたいけれど、お歌さんが番をしているから手を出すことが出来ない。そうかと言って膝の上へ両手を置いてるのも角力取のようで可笑しいから、乃公はズボンの衣嚢に突込んだ。何かある。ああ此は昨夜お客さんに戴いた自動奏楽機だなと気がついた時には、最早「一つとや」を歌い出した。乃公は如何することも出来ない。いくら握っても「お飾り立てたり松かざりい松かざりい」をやっている。お歌さんは乃公を引張って外へ連れ出した。けれども外へ出た時には最早鳴き止んでいた。意地の悪い玩具だ。
「太郎さん、真正にお前には仕様がないねえ」
と姉さんは泣きそうな顔をした。乃公だって真正に仕様がなかった。何故乃公は斯う運が悪いのだろう。折角稀に教会へ出れば二度と顔出しの出来ないような事が起る。そして皆が彼の子は善くない善くないと言う。何処まで損な生来だか知れやしない。此の按排じゃ、竟には雷にでも打たれて死ぬのだろう。自分で骨を折って音なしくしても、運が悪いのだから仕方がない。
大阪の伯父さんが此頃家に泊っている。此伯父さんは最早いい年寄だ。そして可笑しな人だ。頭の毛なんか少しもない。校長さんのよりも未だひどい。けれども笑ったりしちゃいけないよ伯父さんは金持で独身者だから、若し気に入れば乃公に財産を譲るかも知れないんだそうだ。かも知れないは心細いが、全く当のないよりか得だと思う。乃公は此から音なしくする積りでいた所だから丁度いい。
伯父さんは聾耳である。つんぼもつんぼも金つんぼだ。唯話をしたって通じない。お前は馬鹿だよと言っても笑っている。喇叭のようなものを耳に当てがって、大きな声を出さなければ聞えない。先生が耳の事を話した時、耳の中には鼓膜という太鼓があって、それを叩くと声でも音でも聞えるのだと言った。して見ると伯父さんには此太鼓が無いんだろう。太鼓が無いから喇叭で間に合わせるんだろう。
一つ伯父さんの御機嫌を伺う積りで行って見た。伯父さんは眼鏡越しに乃公の顔を見て、
「どうだい、ボンボン」
と言った。ボンボンなんて可笑しいや。坊とか太郎とか呼ぶがいい。時計じゃあるまいし。乃公は喇叭を借りて、伯父さんの耳へ斯う吹き込んだ。「伯父さんは吝嗇ですか」乃公の声が余り大きかったので、伯父さんは喫驚した。
「そんな大きな声を出しなはらいでも聞えまっせ」
「伯父さんは吝嗇漢ですか」
「何んだ?」
「歌さんがね、斯ういいましたよ、彼の何ですって、伯父さんは大変吝嗇だって、そして煮ても焼いても食えないんですって、真正ですか」
「何だ。そんな事を言ってまっか。ひどい奴やな。そんなら、土産を持って来たけれどやるまい。真にひどい奴やな」
「伯父さん、僕買いたいものがあるんですが、お金を少しくれませんか」
伯父さんは返事もしないで、唯鼻をクシンクシンいわせていた。そして穴の明く程乃公の顔を見詰めていた。乃公を何か顕微鏡の中にいる虫だとでも思っているらしい。
此れは怒らしたと思ったから、今度は慰める積りで斯う話しかけた。
「けれどもねえ、伯父さん。あなたが吝嗇の方が善いんですってお母さんが申しましたよ。けちならけち程余計にお金を残すから、その方が畢竟善いんですって」
けれども伯父さんは尚お怒った。いくら慰めても賺しても聞き分けがないから困った。丁度猫の脊中を逆に撫でるようなもので、撫でれば撫でる程むずかるから、乃公は好い加減にして出て来た。
一遊び遊んで帰ると、お母さんとお歌さんは乃公を捉えて種々の事を聞いた。無論乃公は当らず障らずの返事をして置いた。
「決して伯父さんに逆っちゃいけませんよ。もともと変人なのに老耄して愚に帰ってるから直ぐ気に掛けなさる。もうお前は行かない方がいいよ。今休んでいられるから、お前は外へ行ってお遊び、起きると又うるさいから」
とお母さんが言った。それで乃公はお母さんの言うことを聞いて外へ出た。暫時は土方の道普請を見物していたが、急に伯父さんの顔が見たくなった。彼様いう顔の人が寝たら如何いう顔になるだろうと思ったら、土方の喧嘩なんかつまらなくなった。
乃公は早速引返した。叱られると困るから庭へ廻って、窓から覗いて見た。窓の上に金縁の眼鏡が置いてあった。伯父さんのだ。乃公は何心なく取って掛けて見たが、ボオッとしている。掛けたり外したりしている処へポチが走って来た。犬に眼鏡をかけさせたら如何な顔になるだろうと思って掛けてやった。少しも似合わない。するとポチは隣の猫を見て追駆けて行った。乃公も尾いて行ったが、ポチは垣根を潜って隣家の庭へ入ってしまった。乃公は困るから頻りに口笛を吹いた。直ぐに帰っては来たが、眼鏡は最早掛けていない。多分落して来たんだろう。取りに行きたくても、此間忠公を泣かせてから、隣の小父さんはピストルに玉を込めて待っているそうだから行かれやしない。犬なんて厄介なものだ。何でも物が唯で買えると思っている。勿体ないという事を知らない、とうとう金縁の眼鏡は失してしまった。
此んな事とは知らずに伯父さんは能く寝ている。極めて平和的に寝ている。勿論戦争的に寝る奴もあるまい。口を開いている。喉は汽車が徐々と走る時のような音を立てている。頭は赤バナナのハンケチで丁寧に包んである。水引は掛けてなかった。
彼処まで乃公の釣竿が届くかしらと思ったのが、そもそも非常な誘惑であった。そして其の釣竿が届いたのが飛んだ災難の原因になった。乃公は伯父さんを魚屋の店に吊してある鮟鱇と見立て、冗談半分に釣る積りで、口の辺に鉤を下した。遠くでやる仕事だから、どうせ巧くは行かない。鉤は鼻へ触ったり、頬へ止ったりしたが、其内に間違って口に入った。その時伯父さんは止せばよいのに嚏をして口を堅く閉じてしまった。乃公は極く軽く引張って見たが、伯父さんは尻尾を踏まれた犬のような声を出した。人が来ると困るから、大急ぎで力一杯に引いたら、伯父さんは椅子から転がり落ちた。何でも家中に響くような叫声がした。乃公は釣竿を投り出して物置に隠れた。
乃公は三日蔵の中へ入れられて今日漸く堪忍して貰った。伯父さんは未だ寝ている。全く乃公が悪るかった。真正に気の毒でならない。
お島に頼んで隣家の庭へ眼鏡拾いに行って貰った。枠はあったが、玉は見当らなかったそうだ。仕方がないから乃公はお春さんの近眼鏡を壊して、伯父さんのへ玉を嵌めて置いた。此れから真正に音なしくしよう。
伯父さんは日増に快くなって、今日から起きた。お父さんと談話をしている。伯父さんは大変乃公を怒っているというから会う訳には行かない。乃公は戸口で談話だけ聞いていた。
「曇っているのでしょう。どれ、拭いて上げましょうか」
此はお父さんの声だ。
「いいや、今拭うたばかりよ。彼の坊主の為めに目まで痛めてしもうた。今迄此眼鏡がキチンと目に合っていたんだけれども」
「見えませんかな」
「一寸も見えんようになってしもうた」
乃公は可笑しくなったが、我慢して聞いていた。二人は暫く無言でいた。
「身体を悪くしてしもうて、目まで見えないようにしてしもうて、一寸来たばかりに、わしの方でも仰山な損だ。お前の方でも何万円やらの損だ」
といって伯父さんは笑った。お父さんは黙っていた。
「ああいう根性じゃ碌なもんにならんぜ。金を持たせると却ってならん。お前も気をつけんといけんなあ」
乃公は真正に残念である。全く大きい魚を釣り落したのだ。
忠公の家の厩で見世物ごっこをして遊んだ。一人前五銭ずつ入場料を取って六十五銭儲けた。男の子が十人、女の子が三人入った。背負子は只だ。此金は義勇艦隊に寄附する積りである。忠公が猿になって、六公が熊になって、乃公は怪物になった。その外種々余興があった。
乃公は先ず散髪屋へ行って、クリクリ坊主にして貰い、忠公に顔と手を赤インキで塗って貰った。そして伯父さんの入歯を頬張った。鏡を見た時には乃公じゃないと思ったくらい怖い顔だった。金歯が光っている。悪い事には水を飲みに行って、入歯を井戸の中へ落してしまった。代りが出来て来るまでに伯父さんは餓え死んでしまうかも知れない。
六公は驢馬を持っている。此驢馬を象の子に仕立てて、乃公が其上で芸当をした。忠公のお母さんの肩掛を着せたら、少しは象らしくなったが、牙がなくては何うも拙い。それで何かの益に立つだろうと思って持って来た伯父さんの喇叭を啣えさせた。けれども驢馬なんてものは考えがないから、終にはラッパを噛砕いてしまった。
こんな事情で伯父さんは今日からホテルへ引越して行った。彼んな小僧は最早甥とも何とも思わないといったそうだ。乃公だって疾うから彼んな守銭奴を伯父さんだなんて思ってやしない。けれどもお島が内証で話した所によると、乃公は悪戯をした為めに大変な損をしたそうだ。伯父さんは乃公に譲る積りの財産を悉皆養老院へ寄附する事に決めてしまった。年寄は年寄の贔屓をするに決っている。大概こんな事になるだろうと覚悟していた。
財産なんか無くても宜い。乃公は些とも困らない。お父さんは金持だ。皆が左様いっている。乃公は毎日好きな事をして遊んでいれば、それで何も不足はいわない。唯もう少し皆が叱らないと宜いんだが、此は何とも仕方がない。隣の忠公なんかも随分叱られる。
けれども断って置くが、乃公は決して悪い量見で伯父さんに悪戯をしたんじゃない。彼の禿頭へ干した芋茎を蝋付けにしたのも別段火傷をさせる積りでやった仕事じゃない。チャンチャン坊主に見えるか何うかと思ったばかりだ。靴が片足無くなったって、彼れは南京鼠を飼う時の用心に蔵って置いたばかりだ。
歌さんもお島も伯父さんは世話が焼けて、気骨が折れて困る、一寸談話をすると声を枯らしてしまうって、弱っていたんだ。乃公は伯父さんと談話をするのが好きだった。電話をかけるように喇叭へ大きな声を吹き込んで尋ねる事は何でも話してやった。年寄の癖に無暗に人のいう事を聞きたがるから悪い。お歌は乃公の事を何というかと尋ねられれば、どうしたって、困る厄介老爺やで、談話をすると声が悪るくなるから成るたけ寄付かないようにしていますと答える外はない。それからお父さんは伯父さんから手紙が来た時又面倒な八釜しやが御出になるんだなといった事、けれどもお母さんは彼の聾耳は滞在中の雑用を払うから、伯母さんよりか始末が善いといった事、彼んな顔をしているけれども、若い時には手に負えぬ道楽者だった事、地獄まで金を背負って行く積りらしい事、何から何まで掘って聞くから、正直に答えなければならなかった。嘘は泥棒の始まりだから真正に困ってしまう。
お父さんはお昼に神保さんをお招き申した。何でも何とか町の地所を此人に買わせるんだって、お母さんと談話していた。今日は料理人が馬鹿に意地が悪い。此男は平常は正直だが、極く悪い癖で、何か御馳走のある時というと、定って根性が悪くなる。乃公なんか傍へも寄せ付けない。
何も欲しかないが、先方で彼様用心すると、此方でも何か摘んでやり度くなる。お前は豪いよといわれると、何だか豪いような心持になる。何か取りそうだなというような目付をされると、一つ取ってやろうかなという気になる。今日の事等も畢竟料理人が悪いんだ。
苺を一摘み分捕って、乃公は食卓の下に匿れた。テーブル掛が下まで垂れているから見つかる気遣いはない。安心して苺を平げていると、お父さんとお母さんが神保さん夫婦を案内して来て、直ぐに席に着いた。神保さんが感謝を捧げて、四人はソップを飲み始めた。乃公は弱ってしまった。一層皆が戸を明けた時逃げればよかったに、斯うなっては動きが取れない。
四人は種々談話をしながら小刀とホークをかちかちいわせている。行儀の悪い奴だ。あまり音をさせるものでないと、お母さんは始終いっている。乃公は時々神保さんの靴を引掻いてやる。其度毎に神保さんがぴくりぴくりと身体を動かすから面白い。
「もう電車の出来るのは目に見えていますから、御自分でお住いにならなくても、買って置いて御損はない所です」
買って置いて御損のない所を売って置けば、確かに御損がある。お父さんは神保さんを巧く欺す積りらしい。乃公も賛成である。
「地所は豪く気に入りましたが、どうも近所が騒々しくてな。水道はありますか」
水道は何うか知らないが、乃公は靴を抓ってやった。
「水道はつい隣家まで来ています。それに電車の便が大きゅう厶いますよ」
お父さんは電車の一点張だ。乃公は又抓ってやった。
「お家では犬をお飼いですか」
「犬ですか、はい、一疋居りますよ。犬がお好きですか」
「いや、犬が豪い嫌いでしてね、それも此頃までは左様でもなかったのですが、或所で見て貰いましたらば、あなたには犬難の相があると申されましてね、それから犬が全然嫌いになりました。恐水病は恐ろしい病気ですからな」
乃公は最早少しで笑う所だった。
「お家の犬は座敷へは上りませんかね」
今度は神保さんの奥さんだ。
「はい、極く行儀のいい犬でしてね、決して家へは上りません」
地所の談話をしているのだか、犬の事を研究しているのだか、さっぱり分らない。乃公はもう十勘定する中に坪十八円で買わないなら、神保さんの脛を抓る決心をした。
「地所は気に入りました……」
地所の気に入ったのは最早分っている。此畜生いよいよ買わないな。乃公はうんと抓ってやった。
神保さんは椅子から転げ落ちた。医師を呼べ、医師を呼べと怒鳴る。家の悪戯小僧の仕事ですとお父さんは言訳しても、早くしないと恐水病になる、恐水病になると剛情を張る。真正に年寄は聞分けがない。とうとう二人は御飯を喰べかけたまま、怒って帰ってしまった。
一体お歌さんは乃公を何と思ってるのだろう。乃公の耳は引張る為めに付いてはしない。自分の顔がお白粉をつける為めに出来てると誤解しているもんだから、何かというと乃公の耳を引張るのだろう。
蔦子さんがお喋舌だって構わないじゃないか。乃公が何も嘘を言った訳じゃあるまいし。それなら御縁談の事は決して蔦子さんに話すなと予め断って置けば、乃公だって手加減がある。突然来て、太郎さんは余りだなんて、若し耳が取れたら如何する。鳥や魚のようになってしまっちゃ見っともないじゃないか。
此頃歌さんの許へ遊びに来出した男がある。名を井上さんという。昨夜も来た。乃公が客間へ入って行ったら二人で話をしていた。乃公は此人の顔が能く見たいから、傍へ寄って覘いてやった。すると歌さんは彼方へお行きというような目付をした。目付はしたが、口には出さないと承知しているから、乃公は見て見ない風をしていた。目付位で動くような乃公じゃない。
「どうだね、大将」
と井上さんがいった。
「僕は大将じゃない。子供ですよ」
といってくれた。すると井上さんは大笑いをした。笑った顔がぐらぐら動いた時に、きらきらと何か光った。此が不思議だから乃公は此人の顔を能く見たいのである。
「あっ、今光った物は何んですか。歌さんのように金歯を入れているんですか」
「面白い坊ちゃんですね」
と乃公の質問には答えない。そして今度は笑わなかったから、何も光らなかった。
「あなたの顔こそ面白い。何んですね、何うしたんです、あなたの片方の眼は些とも動かないじゃありませんか。硝子ですか」
すると歌さんが怒った。
「何ですね、太郎さん。失礼な。彼方へ行ってらっしゃい。言う事を聞かないとお母さんに申上げますよ」
乃公は拠なく出て来たが、どうも不思議で仕方がないから、少時してから又引返した。そして又凝っと見ていたら、歌さんが、
「太郎さん、彼方へ行ってね、お島にお菓子とレモンを持って来るようにいって下さい。直ぐに持って来るようにいってね」
と極く優しくいった。今度は賺して追払う積りなんだろう。そんな事をしたって、乃公は直ぐに帰って来る。彼の目の動かない訳が分るまでは今夜は寝ない積りだ。
お島に用を言付けて乃公は直ぐに戻って来た。見れば見る程奇妙でならない。右の眼は瞬きするが、左の方は決して動かない。魚の眼見たように何時も明いている。乃公も真似をして、片方の目だけで瞬きして見たが、どうも巧く行かない。歌さんも困ったのだろう、何か御用を拵えて一寸出て又直ぐ帰って来て、
「太郎さん。お母さんが呼んでいらっしゃるから彼方へお出でなさい」
といった。それで乃公は残念だったが、お母さんの許へ行ったら、お母さんは、
「太郎さん、お客さまの顔を凝っと見てるのは失礼ですよ」
「けれどもお母さん、彼の方の目は如何したんでしょうね。何故片方ばかり動くんでしょうか」
「もう九時ですよ。寝る時間です」
乃公は寝る時間なんか、尋ねていやしない。大人というものは随分勝手なものだ。
小い子供ぐらい厄介なものはあるまい。乃公の家へ此間親類からお客さんが来た。菊ちゃんという女の子と其お母さんとである。此菊ちゃんのお蔭で乃公は遠眼鏡と空気銃を損してしまった。
菊ちゃんは未だ七つか八つで、泣き虫だ。一寸頭の毛を引張っても直ぐに泣く。殺してしまうといって小刀を見せても泣く。泣いてばかりいる。斯ういう厄介者のお守をさせて、首尾能く勤まれば遠眼鏡を買ってくれるなんていっても出来ない相談だ。泣く子と地頭にゃ勝たれないというじゃないか。
菊ちゃんは人形を持っていた。大きな人形で、腹の辺を圧えると泣く。持主の真似をして泣くのだろう。どういう仕掛で泣くのかと思って、乃公は腹を裂いて見た。人形は其れなり泣かなくなったが、菊ちゃんが泣いて仕様がない。縛ってしまうよと賺しても泣く。河の中へ投り込んでしまうぞと驚かしても泣く。とうとうお母さんが聞きつけて来て、菊ちゃんに謝った。そして乃公の貯金で新しい人形を買ってやる事にした。乃公は七面鳥を打つ積りで、彼の金で空気銃を買う気でいたんだ。
菊ちゃんは飯事をしようといい出した。けれども乃公は最早愛想が尽きたから、可厭だといって断った。断っても聞分けがないから仕方がない。乃公が旦那様になって、菊ちゃんが奥さんになった。此子は子供のくせに生意気である。「旦那様お召替をなさいませんか」なんて、乃公の古い服を持って来たり、「今晩は何時にお帰りですか」なんて、何処へ行くともいわないのに聞く。余り煩いから、乃公は最早飯事を止めて、外へ遊びに行こうといい出した。すると感心に承知したから、乃公は菊ちゃんと門の所で遊んだ。
其の中に忠公がやって来て、
「女と遊んで嬉しがっていやがら」
と冷評した。乃公は決して嬉しがっているもんか、弱り切っているんだ。その証拠には此子を何んな目に遭わせても可いと言った。忠公も仲間になって、暫時遊んでいたが、終には彼奴が悪い事を発起した。
菊ちゃんに洗礼を授けてやろう、君が牧師になれと言うのだ。乃公も賛成だが、又泣くと困るから一応意向を探って見ると、洗礼を志望している。それで忠公と二人で河へ連れて行った。
乃公はハンケチに水を湿して、父と子と聖霊の名に依って、三度頭から水を掛けてやった。すると忠公は何処まで悪い奴だか知れない。頭だけじゃ救われない、浸礼教会なんかじゃ水の中へ潜らせると言い出した。其も左様だと思う。折角洗礼を授けてやっても救われなくちゃ何にもならない。菊ちゃんは泣き出したけれども、忠公と二人がかりで、帯で縛って、三度河の中へ浸けてやった。
彼んな良い着物を着ているから悪いんだ。それに言う事を聞かないで暴れたものだから余計に水を飲んだようだ。風邪なんかひいてくれと頼みもしないのに、真正に困る子だ。乃公は其晩お父さんに鞭で散々に打たれた。
菊ちゃんのお蔭で空気銃は買えなくなる。遠眼鏡は破約になる。背中は未だぴりぴりする。真正に非道い目にあった。それで忠公は少しも叱られやしない。何処までも運の好い野郎だ。最早彼奴とは遊ばないようにしよう。若し彼奴の家へ女の子がお客に来たら、今度は乃公が打ち殺してやるから宜い。
此二三週間ばかりは日記もつけなかった。乃公だって忙しい時には随分益に立つ。お花さんと清水さんとの御婚礼はいよいよ明日になった。今日なんか方々へお使いに行くので目が廻るようだった。清水さんの処へばかりも三度行ったので、足が棒のようになった。それで明日は早く起きなけりゃならないから堪らない。今から直ぐ寝るんだから宜いけれど、実際草臥れてしまった。出来る事なら足だけを取外して休みたい。
今朝は早く起きた。家の人は皆忙しいものだから、乃公の起きたのも知らん顔している。あれでお使いでもあれば直ぐに「おや太郎さん」なんて言うんだろう。現金な奴等だ。お島さえ「此処にパンとバターを置きますから、御独りで朝御飯を済ませて下さい、忙しくて仕様がありません」と言って、何処かへ行ってしまった。姉さんが御婚礼するのに弟がパンとバター丈で朝飯を食うなんて法はあるまい。乃公は長テーブルの据えてある室へ行って、色々御馳走を喰べてやった。シェリイの瓶を転覆してテーブル掛けを台なしにしたが、幸い何人も見ていなかった。
結婚式は十一時に教会でやるんだ。家中が悉皆片付いて仕舞って、乃公は何処にいて宜いのだか分らない。するとお島が又出て来て、服を着替えさせてくれた。乃公は胸の釦穴に花を揷して、新しいハンケチを衣嚢に突込み、右の手に白い手袋を持って、漆のように光った靴を踏み鳴らしながら、別間に入って行った。
清水さんが最早来ていた。安楽椅子に腰を下して泰然としている。けれども彼れは泰然の出来損いだ。形は落着いても心が天井を匍い廻っているから、いくら澄ましても、ちょち、ちょち旦那様といったような態になってしまう。乃公が傍へ行ってお島に教わった通りに挨拶したら、平常になく丁寧に答礼をした。いよいよ此奴が乃公の兄さんになるんだな。
支度が出来てお花さんが下りて来た時には綺麗だと思った。目の覚めるような白繻子の服を着て、白い面帕の中に薔薇色の頬が透き通るように見えた。お春さんも美しかった。今日はお花さんのお扶けをする役なんだ。
清水さんは帽子を被っていながら帽子を探したり、お花さんの裾を踏んで謝ったり、右の手に左の手袋が篏まらなかったりした。随分そそっかしい人だ。乃公はそれが余り可笑しかったので、つい自分の帽子を忘れて来てしまった。
牧師は矢張り例の長氏であった。乃公は清水さんの後に坐って、背中にハンケチを留針で附けてやったが、清水さんは一向知らないでいる。相変らずちょち、ちょち旦那さまを定め込んでいる。式が始まっても矢張りハンケチを背負っている。乃公は誰かさんの背中は重たかろうと思って気の毒でならなかったが、その中に森川さんが気がついて取ってやった。お父さんは乃公の顔を睨めた。
家へ帰ってから一同は食堂に入った。乃公は頻りにお菓子を喰べていたが、皆は葡萄酒ばかり飲んでいる。先刻シェリイを零した処は如何なったかと思って見たらナプキンが置いてあった。
「太郎さん、姉さんの健康を祝しなさい」
と何処の人だか乃公に葡萄酒を注した。乃公はコップを高く捧げて、
「お花姉さんの幸福を祈ります。そして若し子供が出来たなら、其子が私のように耳を打たれたり頭の毛を引張られたりしないように祈ります」
と言って飲んでやった。喉が熱くて咳が出た。それから乃公は大分飲んだ。何でも五六杯は飲んだと覚えている。
お母さんが起してくれた時、乃公はテーブルの下に寝ていた。周囲は森閑としていた。最早お客は皆帰ったんだろう。
「お母さん、大変激い地震があったでしょう」
と言ったら、お母さんは、
「いいえ」
と答えた。何んでも身体が無暗に揺れて、テーブルも壁もぐるぐる廻ったようだった。
「姉さんは如何しました。私を待ってましょう」
「姉さん達は最早先刻立ちました。最早余程行ったでしょうよ」
乃公は酒を飲んだお蔭で馬鹿を見てしまった。
此間から学校へ通っている。乃公は作文と習字が上手になりたい。先生は乃公を敏捷といって褒めた。勉強すれば大臣になれるかも知れないと言ったが、当にはならない。けどもなかなか勉強する時間なんかありゃしない。教場に出ても余程気を付けていないと飛んだ目に遇う。第一何処から紙の噛んだ奴が飛んで来るか知れぬ。何時電信が掛かって来るか分らぬ。どういう間違で先生が机の中の南京豆や林檎を見付けないとも限らぬ。此んな事に心を配るから書物を見る時間が少くて困る。けれども寄宿舎に較べれば何んなに良いか知れない。
乃公が学校へ行っている間は家は天国のようだとお歌さんが言った。生意気な奴だ。それじゃ天の使はいるかと槍込めたら、此処に一人いると自分の胸を指さした。人を馬鹿にしている。弟の耳を引張ったりする天の使があって堪るものか。婦女というものは何故斯んなに己惚が強いんだろう。
お歌さんの方の会で慈善市を開いたから、手伝いに行ってやった。初めの日は大変成功して、乃公は皆に褒められた。乃公は胸に赤リボンの蝶を附けて得意がっていた。これは販売係の記章である。五銭の葉巻を二十銭に売った。お歌さんが勘定して見たら、此方だけで六十本売れていた。
二日目も可なり景気が好かった。日が暮れてから会員一同倶楽部の二階でお茶を飲んだ。無論乃公も出席した。乃公は会員じゃないけれど、福引券を三枚貰っている。それでお茶なんか如何でも宜いから早く福引を始めれば宜いと思っていた。
余り退屈だったから、乃公は隣席にいた奥様に斯う話しかけた。
「面白い物を見せて上げましょうか」
「何です。坊ちゃん」
と聞くから斯う説明してやった。
「何でも黒い物です。喫驚なさらなければ見せて上げます」
「何ですか是非拝見致しましょう」
と今度は右隣にいた令嬢が口を出した。乃公は最早可かろうと思って、衣嚢の中から先刻捕えて置いた小鼠を出してテーブルの上に置いた。乃公が手を放すか放さぬ中に鼠は奥様に飛付いた。奥様がキャッといって払い落したら、今度はテーブルの上を向うの端まで走って行った。
高が小鼠一疋じゃないか。泣いたり、哮えたり、気を失ったり、テーブルを転覆したり、御丁寧にランプまで砕して騒ぎを入れるには当らない事だ。お春さんは衣服を少し破き、お歌さんは手を火傷した。きっと此れから当分は乃公と口を利かないだろう。他の人達も乃公を恨むだろう。けれども乃公は返す返すも言って置く――高が小鼠一疋じゃないか。
乃公を叱る時にお父さんは何時でも斯う言う。
「乃公は子供を叱りたくないが、仕方なしに叱るのだ。叱られるお前よりか叱る乃公の方が何程苦しいか知れない。ちっと気をつけて叱らせないようにしろ」
先生も昨日斯う言った。
「私はお前さんを罰したくはない。けれどもお前さんが可愛い。どうかしてお前さんを善い人間にしてやりたいと思うから、仕方なしに罰するのです。愛の鞭です」
此筆法で行くと畢竟怒りたくはないけれども怒るというのだ。乃公だって左様だ。ちっとも叱られたか無いが、仕方なしに叱られる。少しは気をつけて叱らないようにするが宜い。叱るのは向の事で、叱られるのは此方の分だ。られる方で気を付けても、りつける方で止めなくちゃ何処まで行ったって果しがない。矢と的とは何方が先に出来たと思う。弓の方で矢を棄てもしないで、唯気をつけろ、射られるなと注文するのは理窟に合っていない。
乃公が今にお父さんとなったら、決して子供を叱るまい。無意仕出来したのなら何様な事でも決して罰しまい。一日に三度ずつお菓子を呉れよう。そして姉さんなんかとは口も利かせまい。
昨日は四月一日だった。四月馬鹿の日とは此日である。此日は嘘をついて人を欺しても構わない日である。正月からクリスマスよりも此日が待遠しかった。去年は余り世間の事が分らなかったので、四月一日には大分大勢に担がれた。その代り昨日は種々の事をしてやった。
乃公は考えがあるから未だ夜の明けない中に起きた。先ず一番始めに馳付けた処は火の見梯子だった。大人というものは智慧が足りない。世界は大人ばかりの世界だと誤解しているから、此梯子なんかも馬鹿に大きく拵えてある。乃公は登るのになかなか骨を折った。
東の空が心持ばかり明るい。静かなもんだ。自分の鼻息だけが、無暗に高く聞える。人間は未だ皆寝ているんだろう。家も木も往来もボンヤリと見える。此奴等も寝ているんだろう。瓦斯燈さえ淋しそうに黄色く光っている。何人も乃公が此な高い処にいるとは思うまい。お神楽の素盞鳴命が着そうなインバネスというものを着て威張って歩く野郎も、阿呆鳥の羽を首輪にして得意がっている頓痴奇も、乃公が此れから火事の真似をしようとは夢にも知るまい。乃公は何んだか嬉しくなった。
静かだから半鐘が能く響く。一つ打って其響が消えた頃又一つ打つ。十ばかりやって見たが、下界が平気で寝ている。まさか皆死んでるのじゃあるまい。それにしても余り静かだ。
一つ鐘では安心しているから、今度はすり鐘にした。無暗矢鱈と叩いた。すると何となく方々が騒がしくなったような気がしたから、乃公は一先ず下りた。
「何処ですか」
「見えますか」
蟻のように集って来た人は皆同じような事を言っている。朝起きたら必ず「お早う」と挨拶するものだ。それが出来なければ人間じゃないってお母さんが言った。して見ると此連中は皆人間ではないだろう。
乃公は捉ると困るから帰って来た。道で鶴子さんに遇った。乃公と少し談話をしたが、何を言ってるのか、通じなかった。火事で慌てて入歯を忘れて飛出したんだろう。それから山田さんにも遇った。山田さんは頭に新聞紙を巻いていた。
「火事は何処ですか」
と聞くから、
「直ぐ此の向うです」
と答えた。山田さんは難有ともいわないで馳けて行った。乃公も少し寒くなったから大急ぎでおっ走って来た。
朝御飯の時にお歌さんが大きな饅頭をくれた。朝っぱらから菓子をくれるなんてお歌さんにしては珍らしい。何処かに葬式でもあったのだろうと思って、一口喰ったら驚いた。綿で拵えたんだ。此は甘く担がれたと気が付いたら、お歌さんは「四月馬鹿、かかった掛った」と笑った。お春さんも笑った。お島は初めから笑っていた。畜生め。
乃公は学校へ行く積りで家を出たが、余り忌々しいから、郵便局へ行って電報を打ってやった。
「ハルコビヨウキ、キテクレ」
森川さんは車で馳けつけるだろう。尤もお春さんが丈夫でも一日置きには大抵来る。
それから乃公は花屋へ行った。此の花屋は極先達越して来たてのホヤホヤだから無論乃公の顔を知らない。乃公は此間井上さんが遊びに来たまえといって呉れた名刺を出して、上等の花を五円ばかり束にして、お春さんの許へ持って行けと誂えた。家へ行く道をチャンと教えたから間違いっこない。
学校の方へブラブラ歩いて行ったら、岡本さんの清野さんに遇った。多分女学校へ行くのだろう。未だ少し時間があるから、一つ担いでやる積りで尾いて行ったが、どうして欺していいか一寸見当がつかない。けれども一旦思立った事を中途で止めると豪くなれないそうだから、乃公は尚お尾いて行った。すると其中に清野さんがレースのハンケチを落した。乃公は早速拾い取って呼びかけた。
「清野さん、ハンケチが落ちましたよ」
「今日は四月の一日ですよ」
と返事をしただけで、清野さんは振り返りもしない。
「真正ですよ。清野さん。御覧なさい」
今度は返事もしないでズンズン行く。
「清野さん、清野さん」
「学校が晩くなりますよ」
と清野さんはとうとう馳けて行ってしまった。乃公は仕方がないからハンケチを貰って置いた。
最早学校は晩かろう、遅刻して小言を言われるのも面目ないから、今日は休む事に定めて、乃公は田圃の方へ遊びに行った。田圃の方が学校よりも余程景色が好い。乃公は草の上に坐って弁当を開けた。今日は玉子焼かと思ったらパンだった。道理で少し軽いと思った。それではバターか、ジャムか、と思って破って見たら、鋸屑が入っていた。乃公はお島を撲り付けてやる積りで直ぐに家へ帰った。
皆に見つかると悪いから乃公は自分の室へ駆け上がった。三時までは戸棚の中にでも匿れようかと考えていたら、お島が入って来た。乃公は突然搦り付いた。婦人と喧嘩する時には髪を引張るに限る。乃公はとうとうお島を転ばして、あやまらせた。そして内所でビスケットを持って来させ、尚お三時まで乃公の帰ったのを黙っている約束をさせた。若し乃公が鋸屑なんか食べて病気になったら如何する積りなんだろう。悪戯にも程がある。
お春さんもお歌さんも乃公と口を利かない。今日はお歌さんは自分で郵便を出しに行った。それ見ろ直ぐに其様に不便じゃないか。
もうお前のような者は弟と思わないって言やがった。乃公だってお歌さんなんか姉さんと思ってやるものか。
森川さんとお父さんと此んな事を話していた。
「彼れは一種の病気ですよ。何か悪戯をして見たい病気なんです」
「いくら医者でも左様いう病気は些と手に余りますな」
いくら医者でもが聞いて呆れる。ハイカラ筍のくせに。
「催眠術では如何かなりませんかね。随分種々な癖が直るそうですが」
「左様、かかれば幾分か利きましょうが、かかりませんな。未だ注意を集注する力がありませんから」
生意気な事を言う。
「まあ足でも切って外へ出さないようにするのが一番近道でしょうよ。ハッハハハハ」
お春さんも傍にいて笑ったようだった。
お父さんとお母さんがお花さんの許へお客に行く。乃公とお春さんとお歌さんとお島とそれから奉公人が留守番をするのである。留守中は殊に音なしくするようにお母さんが頼んだから、乃公はキチンと学校に通い、稽古が済んだら釣竿のように真直に家へ帰り、姉さん達に世話を焼かせないという約束をした。若し此から一週間別段悪戯をしないなら、お父さんは乃公に四十円の小馬を買ってくれる筈だ。自転車を十台貰うよりも彼の小馬一疋が欲しい。四十円じゃ唯見たいなもんだって、彼の馬喰が言ってから、乃公は毎晩彼の馬の夢を見る。昼間でも時には人の顔が長く見える位だ。
一週間ぐらいは少し辛抱すれば音なしく出来る、訳はないとお島が言った。けれどもお島は女で、男の子だった経験がないから、訳がないか訳があるか分る訳がない。当になるものか。しかし兎に角音なしくしよう。首尾能く行けば彼の馬が手に入るのだから嬉しいや。そしたら馬に乗って学校へ通おう。左様なれば決して休まない。お花さんの許へも馬に乗って遊びに行こう。明日からは日記も毎日丁寧に付けよう。
お父さんとお母さんは今朝立った。乃公は今日一日可なり音なしくした。
お母さんの鏡を壊したが、此は真の過失である。乃公と忠公と室の中でボールをして遊んだ。ボールが能く反まないから、お春さんのゴム靴を削ってくっ付けた。すると馬鹿馬鹿しく反んで、つい鏡に打付かったんだ。それが又跳ね返って香水の瓶を転覆したんだ。
床の間の天井に鼠が巣を造っている。お母さんは此れを大層気にしていた。乃公は留守の中に退治して置いてやろうと思って、天井へ登った。天井は湯殿の垂木を匍って行けば訳なく入られる。いつか大工さんが来た時見て置いた。
鼠の巣は取ったが、乃公は踏み外して床の間へ落ちた。別段怪我はなかったけれど、お父さんの盆栽を折ってしまった。此は縁日へ行って買って来てやるから構わない。少し腰を痛めたから、其後は何にもしなかった。第一日は充ず成功だろう。
朝は馬喰の所へ寄って、彼の馬を大切にするように頼んだ。一寸乗って御覧なさいと言うから乃公は鞄を投り出して、彼方此方と乗り廻した。道で先生に会ったのには弱った。それから馬喰の子と牛ごっこをして遊んだ。彼の子が牛になって、乃公が牛方になった。若し馬喰が知らないでいたら、彼の子は可哀そうに首が締って死んだかも知れない。けれども乃公の罪じゃない。先方が無暗に引張るから悪い。乃公は唯縄の端を堅く握っていたばかりだ。
もうあなたは学校へ行ったら宜かろうと言うから乃公は学校へ行った。たった三時間後れたばかりだ。
三時に家へ帰ったが、家で遊んで又何か壊すと悪いから、乃公は釣魚に出掛けた。いつかぶくぶくしそこなった水車の傍へ針を下したが、鰷が二尾漁れたばかりだ。退屈だから乃公は持って来たパンやビスケットやワッフルを喰べていた。そして最早帰ろうと思っていると、浮標が急に沈んだ。どうせ又河草か何かに引掛ったのだろうと思ったが、竿まで動いているから、引張って見ると、釣れた、釣れた、鰻が釣れた。話にすれば鰐ぐらいな鰻だ。乃公は大威張りで帰って来た。
道で何処かの老爺さんが、
「坊ちゃん、漁があったかな」
と聞いたから、乃公は鰻を見せてやった。
「やっ、これは大きなもんだ。大手柄だ」
と感心している。乃公は内心得意だったけれど、
「なあに些っとも駄目ですよ」
と止せば宜いのに一寸謙遜して見た。謙遜したものだから最早談話が済んだと思って、老爺は行ってしまった。もっと賞めさせるのだったに惜しい事をした。
夕御飯の後お歌さんは客間に入った。女学校の先生が遊びに来たんだ。此先生は男の癖にチョクチョクお歌さんの許へ訪ねて来る。殊に義眼の井上さんが来なくなってからは、足繁く遊びに来るようになった。
台所でジャムを占領して、二階へ上ろうとすると、客間の中で汽車の破裂したような音がした。お歌さんがゴム鞠のように玄関へ跳ね出した。先生はピアノの傍に倒れている。お島も料理人も馳け付けた。
何時の間にか森川さんが出て来て先生を種々と介抱した。一体何が起ったのか乃公にはとんと分らない。お歌さんは未だ蝋のように白い顔をして慄えながら乃公を睨んでいる。又乃公の所為にする積りだな。何か悪い事があると直ぐに乃公の方へ持って来る。どうも好くない癖だ。
お歌さんがピアノを弾こうとしたら、ピアノの上に大きな蛇がいたんだそうだ。臆病者は独りで喫驚したので足らないで傍に立っていた先生に突当ったんだそうだ。
「何故こんな悪戯をします。太郎さん」
と森川さんが叱った。最早家の人になった積りである。
「僕は何もしやしません」
「何もしない? それじゃピアノの上に蛇を置いたのは誰です」
乃公は可笑しかった。盲腸炎が分るくせに蛇と鰻の見分が付かないなんて随分鈍馬な野郎である。
「彼は鰻です」
「鰻? 鰻ですか。フフフフフ、いや、鰻でも悪い。ピアノは鰻を置く処じゃない。彼んなに嚇して若し病気になったら如何します」
何んだ、もう些と病人があればいいと始終言っているくせに。
お春さんも森川の加勢をして、乃公の事を性も懲もない悪戯小僧だと言った。お島まで、お母さんが留守だもんだから、向う組になりやがった。そして何でも蚊でも乃公が悪いのにしてしまった。
左様で厶いますよ。どうせ僕が悪いんですよ。姉さんが鰻を蛇と間違えても、先生を気絶させても、皆僕が悪いんですよ。乃公は最早真正に家にいるのが可厭になった。
馬は大概駄目になるだろう。念の為めにお島に聞いて見たら、無論駄目だそうだ。昨日折っぴしょった盆栽だけでも四五十円の損だと言った。よし、乃公は最早音なしくなんかしまい。馬なんか世話が焼けて困るだろう。無い方がいい。その代り明日からうんと悪戯をしてやる。
昨日は一日釣魚に行っていた。夕方家へ帰ると、歌さんが又怖い顔をした。
「何処へ行って遊んでたの?」
「学校から帰ってからお友達の許へ行ったの」
「嘘を仰有い。小使さんが何故来ないかって聞きに来ましたよ」
乃公は仕方がないから黙っていた。
「真正に仕様ない子だね」
真正に仕様ない子だねと言われれば其れでいいんだ。大人というものは此十八番を言いたがって、種々と罪を数え立てるもんだ。すべて小言は「真正に仕様ない子だね」に到着する道筋と見たら大きな間違はなかろう。
晩は賑なものだった。お歌さんが淋しがって大勢お友達を招んだんだ。乃公は言い聞かされていたから始終音なしくしていたが、一寸足を出したらお島が躓いて、盆と茶碗を投り出した。彼んな軽率しい女を置くと、何んなに損だか知れやしない。
夜の二時頃に大変な騒動が起った。盗賊が入ったといって、お歌さんが喚いた。乃公もお春さんも続いて下へ降りた。お島は隣の家へ馳付けた。
「ピストルを持っているから、うっかり上ると危いですよ」
と料理人が言った。
「なあに大丈夫です。最早巡査が来ますから」
と隣家の書生が木刀を握って武者慄いをした。お歌さんは乃公の手を捉えている。捉えているのか捉っているのか分らない。
「何処の室です。あなたの室ですか」
「いいえ、お歌さんのお室よ」
「私の寝台の下にいましたわ」
すると忠公が巡査をつれて来た。巡査は書生と料理人を連れて二階へ上った。
此れから先は書くも馬鹿馬鹿しい。巡査はお父さんの長靴を提げ、書生はお父さんの古外套を持って下りて来た。忠公が余り笑ったものだから、皆が又乃公の悪戯に決めてしまった。
「此子を連れて行って被下、毎日斯ういう悪戯をして仕様が厶いません」
なんて、お歌さんが巡査に頼んだ。お春さんと料理人は頻りに巡査に謝った。乃公は真正に気の毒でならなかった。ところへ、
「水野君大分待ったぜ、如何したんだ」
と、もう一人巡査が入って来た時には乃公は真正に悪い事をしたと思った。忠公は笑ってばかりいやがって、いかん奴だ。
それで姉さん達は今日お父さんに電報を打った。到底一週間なんてお留守番はしきれない。此上何をするか知れないから、直ぐ帰るようにと言ってやったんだ。とうとう馬は駄目になってしまった。何を約束したって、未だ貰った経験がない。何故乃公はこんなに運が悪いのだろう。
十日ばかり前の事であった。忠公が南京鼠を呉れる約束をして置いてなかなか持って来ないから催促してやった。すると忠公は未だ子が生れないからやれない。その代りに他の物なら何でも上げると言訳した。乃公は南京鼠なら欲しいが、他の物は貰いたくない。
「それじゃ乃公のいう事を何でもするか。何でもすれば勘弁してやる」
「何でもする。するけれど何時か見たいに汽車の線路へ油を塗くのは可厭だな」
「なあに其んな事じゃない。訳もない事だ」
乃公の家から十町ばかり行くと、天岳寺というお寺がある。此寺内に義士の墓がある。その墓の入口には『ぎしはか』という大きな看板が出ている。赤地に白で書いたもんだ。乃公は以前から此の『ぎしはか』のはの字に濁点を打ちたいと思っていた。それで早速此仕事を忠公に命い付けた。
「白墨でもいいかい」
「白墨じゃ直ぐ消えてしまう。ペンキでなくちゃ」
「ペンキなんか無いじゃないか」
「ペンキは学校にある。此間から塀を塗り替えているから少し持って来ればいい」
「筆がない」
此野郎仕事が厭なもんで、何んでも無い無いと言う。
「筆は乃公が持っている。お父さんの大きいのがある」
彼の門には番人がある。それに毎日参詣人が多い。忠公は屹度捕るだろうと思っていたら、夕方になって成功して帰って来た。乃公は此れには少し驚いた。
今日の新聞に此んな事が出ていた。
「一週間ばかり前に天岳寺の境内を通抜けたら、義士の墓の門札が、何人の悪戯か『ぎしばか』としてあった。其時は笑って過ぎたが、今日通ったら、門札は依然『ぎしばか』でいる。都の名寺を預っている当局者は此れでは余り無責任ではなかろうか。(世話焼生)」
無責任て一体何の事だろう。彼はペンキだからなかなか取れやしない。新聞というものは当局者という字と無責任という字を無暗と一緒に使いたがるものだ。丁度牛肉に葱、柳に蹴鞠、ヤソにお太福、森川さんにお春さんというように、当局者と無責任を離しても離れないものと心得てるのだろう。無責任な奴だ。
此頃はお父さんが大変心配している。毎日夕方になると小い新聞の来るのを待ち焦れて、其を見ては又下ったと言う。何でも金棒が下ったのだそうだ。金棒って何かと聞いたら、お島は株の事だといった。そんなら株って何だと聞いたら、お島にも分らなかった。お島は知ったか振りをする女だけれど実際は何にも知らないんだ。此間も太陽は地球よりも大きいなんて乃公と議論をした。お歌さんまで先方の加勢をしたから乃公は腹を立てて、竟には喧嘩になってしまった。するとお春さんが太郎さんが泣くといけないから、地球が大きいにして置きなさいと言った。若しお春さんが彼様言わなかろうものなら、人間は死んでしまわなければならない。太陽よりも小い地球に此んなに大勢生きていられるものか。
それは兎に角、お父さんは此頃は忙しいから、乃公の事なんか構っていられない。それで乃公は真に安心している。書軸に悪戯書しても、雑誌の絵を切抜いても、知らん顔をしている。尚お金棒でも株でもどしどし下ればいいと思う。
それにお春さんは着物の支度が忙しいので滅多に出て来ない。唯お歌さんだけが厄介者だ。何を壊してもお母さんに言付ければ直ると思っている。馬鹿で仕方がない。
森川さんの家へお春さんの御用で行った。幾度往っても森川さんは乃公に何も触らせない。危い薬があるから手をつけてはいけないと言う。けれども聴診器だけは貸して貰って書生を診察してやった。彼の書生の胸はごうごういっている。妙な奴だ。その中に急病人が出来たというので、森川さんは書生を連れて出て行った。僕が帰るまで此椅子に坐って凝っとしているんだよと言ったから、乃公は其通りにしていた。終には首が取れやしないかと思う程欠伸が出た。
やっと帰って来たなと思ったら、左様じゃなかった。何処かの女中がお薬を戴きに上ったんだ。乃公は何の薬が宜いか知らないが、赤い奴が減法に綺麗だったから、その赤いのを注いでやった。
すばらしい皮の箱があったから、大方宝石だろうと思って開けて見たら、大きな医刀だった。光芒電閃春尚お寒く光っている。さぞ能く切れるだろう。何か切って見よう。桜の木を切ったって嘘さえ吐かなければ宜いんだ。
ところへ又何人かやって来た。能く人の来る家だ。今度は十歳ばかりの女の子が手に刺を通して抜いて貰いに来たんだ。今に先生が帰るからお待ちなさいと言ったけれど、痛がってばかりいるから、乃公も見るに見兼ねて療治にかかった。
一寸医刀の端が尖ると身体を動かす。動かないようにと言っても、子供だから聞分けがない。動くと切りますよって驚かしたら、泣き出して尚お動いた。早く家へ帰ってお母さんに繃帯して貰いなさいと言っている所へ先生が帰って来た。乃公は困っていた所だったから早速森川さんに引渡した。
森川さんは怖い顔をした。その他に何人か来たかと聞くからお薬取りが来たと答えた。どんな人だったと言うから此んな人だったと言った。瓶は何処にあると言ったって、持って帰ったから有りゃしない。それじゃ何の薬をやったかと言うから彼の赤い奴だと答えた。「それは大変だ。間宮、お前早く行って来てくれ」書生は火事でも始った様に飛んで行った。
お花さんが遊びに来た。家へ二晩泊って帰るんだそうだ。若し乃公が音なしければ、一緒に連れて行って呉れる約束だ。お春は可厭な奴だ。お花さんが、
「太郎さんは最早音なしくなったろうね。それとも相変らずかね」
と言ったら、お春は、
「ええ、音なしくなりましたとも、音なしくて音なしくて困る位ですよ」
と妙に節を付けて言やがった。
一体皆が乃公の事を悪い悪いという理由が分らない。何人だって過失をする。私共は神様じゃないから過失の無い訳には行きませんて牧師さえ言っている。例えばお父さんの杖を折ったのは過失である。その過失を直す為めに蝙蝠傘の柄を切ったばかりである。けれども巧く継げなかった。
学校の帰りがけに森川さんの方へ廻った。午後は大概不在だろうと思って行ったら、果して留守だった。どうせ書生はいるだろうと思っていたが、此奴もいない。下女は頻りと洗濯をしていた。乃公は早速薬室へ通った。
絛虫は何れ位長いものかと思って、瓶の中から出して見た。三上山の百足じゃないが、全く長いものだ。室を一周回取巻いても未だ余ってる。絨毯が台なしになった。
骸骨を下そうとしたが、なかなか出ないで困っている所へ何処かの小僧がやって来た。歯が痛いって泣き顔をしている。直ぐ直してやるから少し手伝えと言って、二人がかりで骸骨を診察室の真中へ持ち出した。そして歯は何時から痛いかと聞いたら、昨日からだと言う。乃公はコロロホルムを取って来て、此瓶を嗅いで見ろと言った。奴さん一生懸命に嗅いでいる。少しハンケチへ附けて行けと言っても返事をしない。もう虫歯が直ったのだろう。安心して椅子の上で寝ている。余りコロロホルムの臭がして可厭な心持だから、乃公は帰って来た。
夜になってから森川さんが怒って来た。病家廻りをして帰って見ると小僧と下女が倒れていたそうだ。下女の方は骸骨を見て気を失ったのだそうだ。左様だろう、棚にある可き筈の骸骨が室の真中で椅子に坐っていれば何人だって吃驚すらあ。
営業上の妨害になるから最早決して乃公を寄越してくれるなと断って行った。お春さんが止めても怒っているから承知しない。ぷりぷりして帰って行った。森川さんは短気な人だ。
乃公は無論皆に叱られた。お花さんは到底も乃公を連れて行ってくれまい。
森川さんはお春さんとの婚約を取消した。姉さんは最早御婚礼の支度を大概済ましているから、今更此んな事になっては大変に損である。此れから新に結婚の相手を捜し出すまでには或は着物も帽子も流行に後れてしまうかも知れない。乃公は黙っちゃいられない。殊に乃公が此事件の原因になっていて見ると、斯う雲煙過眼としてはいられない。
事の起因は唯猫一疋である。猫一疋の事で結婚しない前から離縁するなんて法はあるまい。何人が何と言っても森川さんが悪いに極っている。
忠公と二人で森川さんの電気の機械を弄った。乃公は何んとも無かったが、忠公は電流とかに触れて気絶した。すると森川さんは医師の家で人が左様度々気絶しては商売に係ると言って怒った。丁度乃公が森川さんの職業の邪魔をするという態度だ。乃公は些とも悪くない。悪いのはエジソンだ。何人も頼みもしないのに此んな危い機械なんか発明したもんだから、忠公は三日も床の中で苦しがった。それを恰も乃公の罪科のように言うのは聊かお門違いである。
森川さんの薬室には鼠が出て困る。現に書生の間宮が何か鼠退治の法はないかと言って、乃公の御高見を仰いだくらいである。目に見られぬバクテリヤを征伐する癖に、彼んな大きい鼠の仕末が出来ないとは余程矛盾な野郎だ。
乃公は忠公の家の三毛を借りて森川さんの許へ行った。此猫は雌で鼻黒だから鼠を捕るのが上手だ。此の間なんか近所の鶏さえ取った。最早薬室へは入らない約束だから、乃公は猫を抱えて窓の所に立っていた。内には何人もいないが鼠もいない。それで乃公は三十分ばかりも待っていた。すると鼠が一疋見えたから、窓を明けて猫を入れてやった。
鼠が棚へ上ったものだから、猫も棚へ飛上って薬瓶を転覆した。薬室は散々になったけれども、薬室よりも散々な目に遇ったのは猫である。硫酸を浴びたものだから、苦しがって鳴きながら室中跳ね廻った。此物音に驚いて、森川さんは薬室の戸を明けた。猫は森川さんの顔に飛付いた。
翌朝森川さんはお父さんに会いに来た。顔は硫酸で火傷したので、三つ四つ膏薬を貼ってある。鼻は二倍程大きく脹れ上っている。お春さんは笑い出した。無論乃公も笑った。けれども姉さんは転げるくらい笑った。森川さんは些とも笑わない。顔が突張って笑えないんだろう。何かお父さんと談話をしてぷりぷりして帰って行った。
家の者は皆乃公を叱った。お春さんは其日から金魚のように何も喰べないで生きている。お歌さんは寄ると触ると乃公の耳を撲る。梅が枝の手洗鉢じゃあるまいし、乃公を叩いたって森川さんが帰って来るものか。けれども此は一の悲む可き過失に外ならない。唯鼠を取ってやろう、お医者さんの家にペストの子が威張って居ては不見識だと思って、全くの親切心からした事で、決してお春姉さんを一生老嬢にしよう等という量見から出たのではない。若し此が悪いというなら、世の中に一として善い事はあるまいと思う。
今日はお春さんが又泣いた。お歌さんのお友達が二人も遊びに来て、止せばいいのに、森川さんが富子さんの家へ昨日も一昨日も遊びに行ったと喋った。女というものは雛のように人の顔を見るとお喋舌をしないじゃいられないと見える。
晩飯を喰べながらお春さんの事を考えたら気の毒になって、六杯しか喉へ通らなかった。一つ森川さんの家へ談判に出掛けようと思ったが、間宮の野郎が玄関払いを喰わせるに定っていると気が付いた。けれども兎に角お島に断って、乃公は家を出た。
乃公は量見があるから大急ぎで歩いた。そして十分間の後には富子さんの家の呼鈴を破れるくらい鳴らしていた。
下女が出て来て乃公の顔を見て笑った。失敬な奴だ。けれども今日は此んな女に係っていられないから、富子さんに用があると言った。
「おや、太郎さんですか」
と富子さんが驚いた。其様に驚くには当るまい。北極探検から帰って来たのじゃあるまいし。
「森川さんはいませんか」
「左様ね……今晩は未だお見えになりませんよ」
と曖昧な返事をする。
「いなけりゃいなくても宜いんですが、僕は森川さんを裁判所へ訴える積りですから、左様言って置いて被下。猫が薬瓶を転覆したくらいで、御婚礼をしないなんて法があるもんか。それは姉さんの笑ったのは無論姉さんが悪い。悪いけれども彼の子はヒステリーですよ。ヒステリーは何でも笑います。若し姉さんが死んだら如何しますか。彼様何も喰べずにいれば屹度死にます。僕は森川さんに決闘を申込む。小刀も持って来た。それから僕に黙っていてくれろって頼んだ事も皆新聞へ出してやります。お春さんだって……」
突然背後から乃公を捉えて、乃公の口を塞いだ者がある。おやッと思う間もなく乃公は抱き上げられた。
「太郎さん、謝る。喧嘩は最早止めにしよう」
森川さんの声だ。森川さんは乃公を抱いた侭、富子さんに挨拶して外へ出た。
「太郎さん、もう仲善になろうね。僕が此れから行くから姉さんの許へ連れて行ってくれ給え」
道々森川さんは種々の事を乃公に聞いた。お春さんは真正に何も喰べないかの、顔色は悪いかの、お父さんは怒っているかの、お母さんは何と言ったのと其外尚お一ダースくらい質問をするので、乃公は煩くてならなかった。
家へ帰ってから、乃公は森川さんを客間に通した。子供のように音なしく乃公の言う事を聞く。
「此椅子に坐って、右の手をテーブルの上に乗せていて被下。直ぐに姉さんを呼んで来ますから」
森川さんは写真を写す気になって乃公の言った通りにしている。平常斯うだと好い男である。乃公は早速お春さんの室へ馳け上った。
「姉さん、姉さん、一寸下まで来て下さいな」
お春さんは返事もしない。俯向いている。
「姉さん、いい物があるんですよ。姉さんのお好きな物が」
「いいから斯うして置いて頂戴、姉さんは何んにも見るのも聞くのも可厭なんですから」
「けれども姉さんが一番好きなものだったら如何します。行かなけりゃ損ですよ」
「チョコレートなんか欲しかありません」
「そんなものじゃありません。生きてる……」
戸を叩く音がした。森川さんは待ち耐えられなくって、上って来たんだ。これから後の事は余り気の毒だから書くまい。第一森川さんの見識に関する。兎も角森川さんは取消の再取消をして、彼の鼻が癒り次第お春さんと華燭の典を挙げ、琴瑟合奏とかいう音楽会を開くのだそうだ。
お歌さんの許へは先生が相変らず遊びに来る。あれは文法の教師で、もう四年もお歌さんの学校にいるのだそうだ。毎日此れはパスト、プアアヘクトで厶る。此れはプレゼント、プアアヘクトで厶るなんて言ってたら、随分倦きるだろう。それで退屈だからお歌さんの許へ遊びに来るのだろうと察してはいたが、乃公は何うも此人を好かない。
普通の人なら彼の鰻で気絶してからは来なくなるのが当然だ。井上さんなんか乃公が眼を突いて見てからは死んだか生きたかさえ分らなくなってしまった。然るに此教師は全く性も懲もない奴である。杖を匿しても平気で来る。今日は新調の麦藁帽子を匿してやった。お父さんまで出て来て乃公を責めたけれど乃公は亀の子のように黙っていた。今頃は忠公が彼の帽子の中へ生れたての南京鼠を入れているだろう。親と離れるようになれば乃公が二疋貰う約束だ。
風邪をひいて十日ばかり寝た。唯の風邪でないから此様なに長くかかったのだ。忠公が悪い。忠公と釣魚に行ったら忠公は游ごうじゃないかと言い出した。乃公は游泳を知らない。だから「五月から游ぐ奴は馬鹿だ。病気になるぞ」と言って誤魔化した。けれども忠公は肯かない。「五月だって六月だって游ぎたくなれば何時でも游ぐ、戦争の時には寒の中でも游がなくっちゃならない」と言った。乃公は忠公の理窟の方が善いと思って、仕方がないから浅い処で游いだ。忠公は何とも無かったが、乃公は風邪をひいてしまった。一体なら発起人の忠公が大病になる筈だのに、拠なくて游いだ乃公の方が此んな目に遇うなんて真正に馬鹿げている。世の中には斯ういう理窟の間違った事が随分多い。
今日はいよいよお春さんと森川さんの結婚式だ。お花さんの時には種々お手伝をしてやったが、今度は病気になったので仕方がない。せめて式と御馳走とだけには出てやろう。少し喉が変だけれど、我慢すれば大概の物は喰べられる、等と思いながら寝ていると、森川さんとお春さんの話し声が聞える。
「もう全然快んですよ。いいけれども、何か薬を当てがってもう一日寝かして置きましょう。又何をするか知れませんから其方が安全です。彼様いう子は床の中へ入れて置きさえすれば間違ないです」
「そうね、あなたから巧く言って置いて被下、そうすれば私も安心ですから。けれど些と可哀想ね」
「なあに些とも可哀想な事はない。お菓子でもやっとけば宜いです」
乃公は驚いてしまった。何という恩を知らない奴等だろう。彼れ程乃公の世話になっていながら。人は見かけによらないもんだ。此れからは人を見たら泥棒と思う方が、床の中に入っているよりか間違なかろう。お春まで一緒になって、乃公を寝かして置く積りでいる。薬なんか持って来ても飲むもんか。乃公の方にも量見がある。乃公は無理に結婚式へ行ってやるから宜い。
真正に寝かして置く積りと見えて、着物を出してくれないから、乃公は寝衣の上に敷布を被った。下には大勢人が詰めかけているから此様な風体をして行けば直ぐに捉まる。それで仕方なしに窓から出て、樋を伝って下りて、教会へ馳けて行った。門番の老爺が庭掃除をしていたが、隙を覗って乃公は会堂に飛込んだ。未だ何人も来ていない。最早占めたもんだと思った。
説教壇の後に椅子が沢山列べてある。花も大分置いてある。乃公は椅子の下へ潜り込んだ。随分窮屈だったが、乃公は息を殺して辛抱した。待って待って足が痺れ出してから、人が来始めた。大勢のようだが、敷布を被っているから顔は見られない。唯がやがやと声丈け聞える。その中にオルガンが鳴って、牧師が出て来て、いよいよ結婚式が始まった。乃公は足が利かなくなった。
讃美歌が済み、祈祷が済み、牧師が彼れを読み出した時には嬉しかった。彼れは何というものか知らないが、彼れの為めに乃公は三時間余も椅子の下に踞んでいたんだ。
「来会の諸君、我等が此処に集まれるは神の聖前に於て、此男子女子をして神聖なる結婚の式を挙げしめんが為なり。抑〻婚姻の事たる太古人未だ罪を犯さざりし時より神の制定し給えるものにて、主エスはガリラヤのカナに催されし婚筵に列り、最初の奇蹟を以て之を祝し給い、パウロは之をキリストと其教会の一体なるに比え、又汝曹婚姻の事を凡て貴べと教えたり。今此二人神聖なる誓約を立て、婚姻の式を挙げんとす。諸君のうち此結婚に付き若し道に合わざる所ありと知る者あらば、此処に於て直ちに明言すべし……」
身体中を耳にしていた乃公は、此時に椅子を跳ね退けて踊り出た。そして斯う言った。
「道に合いません。僕は明言する。此の結婚には反対です」
満堂の諸君は大騒ぎをした。女の中には泣き声を立てたものさえあった。多分乃公を白熊か何かと思ったんだろう。お春さんは森川さんの手を握って青くなっている。大方森川さんが逃げるだろうと心配したらしい。お父さんもお母さんもお花さんも、又伯母さんも唯乃公の顔を睨んで黙っている。牧師は乃公と森川さんを見較べて呆れている。
「弟が病気でもないのに薬をくれる。そして結婚式に出すまいとする。そんな事をするお医者は僕の兄さんになれません。僕は此結婚はいけないと思います。どうか中止にして被下。僕は明言します」
皆は笑った。家の人だけは相変らず石のように黙っている。お父さんが立ちかけた時森川さんが一足進んで斯う言った。小い声で言った。
「太郎さん、下りてください。謝る。謝るから此方へ来て被下。君にはとても敵わない。謝る。もう決してしないから、さあ、太郎さん、此方へ来て被下」
「そんならいい。牧師さん、結婚式をやって被下。僕は寝衣ですから此処で待ってましょう」
と言って乃公は又椅子の下へ這込んだ。残余の儀式は壮麗なものだったが時々彼方此方で来会者がくすくす笑った。馬鹿な奴だ。教会は笑う処じゃない。乃公は悪い悪いと言われるけれど、未だ教会で笑ったり、ひそひそ談話をした事はない。
式が終ってから乃公は皆と一緒に家へ帰った。お父さんもお母さんも別に何とも言わなかった。今日丈けは乃公の方に理窟があるからだろう。清水さんとお花さんは乃公を間に坐らせて、何でも乃公に喰べさせてくれた。
「太郎さんは相変らずだ事ねえ」
とお花さんがげらげら笑った。お春さんもにやにや笑った。自分達が相変ったもんだから、人まで相変るもんだと思っている。
伯母さんは先頃怒ったけれども、御機嫌が直ったと見えてお春さんの結婚式に来た。年寄なんて子供見たような者だそうだ。来たばかりじゃない。お春さんに上等の指輪をくれた。伯母さんの名もお春さんで、お春さんの名もお春さんだ。姉さんは伯母さんの名を貰って春とつけたのだ。それで姉さんは御婚礼のお祝に春という字の刻んである指輪を戴いたんだ。世の中は何が幸福になるか知れない。乃公も春之助と名をつけて貰うとよかった。八幡太郎も安藤太郎も乃公に何もくれやしない。太郎なんて全く割の悪い名前だ。
伯母さんは種々の事を尋く人だ。年を取って愚に返っているのだろう。大阪の伯父さんは何故腹を立てたと尋くのには弱った。何でも能くは知らないが驢馬が喇叭を井戸へ落したり、ポチが眼鏡を喰べたりしたんだと誤魔化してやった。
「姉さんは何うだえ、指輪が気に入ったようかい」
「あの、斯う言ってましたよ。どうせ伯母さんが拵えたんだから流行には後れているって。けれども石と地金は良質ですってね、ですから拵え直して貰うんですって」
「左様かい、そんな事を言うのかい。此節の娘は生意気で困る」
伯母さんは別に怒りもしなかった。大阪の伯父さんよりも余程御し易い。
「伯母さんは最早十年も岩張るんですか」
「何だえ、太郎さん」
「姉さん達が言ってましたよ。彼の分では未だ当分片付かないって、十年くらいは岩張ってるだろうって。真正に左様ですか。沢庵でも何でもぼりぼり噛むんですか、年寄の癖に?」
丁度お母さんが入って来たから乃公は出て来た。
牧師が来た。彼の牧師は可笑な奴だなあ。此年になって彼の教会で結婚した者は清水さんと森川さんばかりじゃない。未だ二三人あったと覚えているが、随分妙智麒麟な奴じゃないか、他人ばかり結婚させて、自分は些っとも結婚しない。何ういう訳だと訊いて見たら、牧師は独身に限る、独身でなければ牧師の天職は完全に果せないと答えた。馬鹿に六ヶ敷い事をいう。けれども乃公は成程左様ですねと賛成して置いた。成程左様だろう。若し彼の牧師が結婚する段になると儀式を司る人が無くなる。天一でなけりゃ一人で新郎になったり牧師になったり出来っこない。これで彼奴は独身でいるんだな。
時々日曜学校へでも御出でなさいと言うから、此次の日曜に行く約束をした。今度はピストルなんか持って行くまい。其中に乃公が衣嚢からドロップを出して喰べたら、君はドロップが好きかと尋ねた。乃公はドロップが大好きで、此はお歌さんのお手紙を持って行った駄賃で買ったんだと答えた。すると何処へ手紙を持って行ったのかと訊くから、家へ遊びに来る文法の先生の許へ持って行ったと答えた。
「左様ですか、幾度も持って行きましたか」
と今度は度数まで訊く。能く訊きたがる奴だ。一体牧師は教える役じゃないか。
「ええ毎日のように持って行きますよ」
と乃公は嘘を吐いてやった。
「それじゃ其先生という方は毎晩遊びに参りますか」
と牧師は未だ訊いている。
「ええ毎晩来ますとも。彼の人が来るものだから、姉さんは此頃教会へ出ないんですよ」
と今度は少し真実の事を言ってやった。そしたら牧師はドロップでも買い給えと言って乃公に五十銭銀貨をくれた。なかなか感心な野郎である。そして此れから家へ帰って説教の支度をしなければならぬ。日曜には姉さんと一緒に教会へ来たまえと云って、青い顔をして帰って行った。
忠公と六公と清が遊びに来た。雨が降って外へ出られないから、乃公達はお父さんの書斎で五目列べや挾み将棋をして音なしく遊んだ。終に清が財産差押ごっこをしようといい出した。財産差押ごっことは何んなごっこかと尋いたら、大変面白いと言う。それじゃやろうと言ったら、紙はあるかと聞く。
「半紙でもいいか」
「半紙で上等だ」
乃公はお父さんの机の引出を引張り出して探したが無い。すると清は郵便切手を見つけて、
「此方がいい、半紙じゃ切らなけりゃならないから面倒だ」
と言った。どうするかと思って見ていると、清はお父さんの机といわず本箱といわず額や表具にまで一枚ずつ切手を貼ってしまった。
「此んなに切手を貼ると郵便屋が持って行きやしまいか」
「大丈夫だよ。郵便箱へ入れさえしなければ大丈夫だ」
それも左様だと思った。本箱なんか大きくて郵便箱に入りっこないから安心だ。けれどもお父さんが帰って怒りはしまいかと思ったら心配になって来た。
「乃公は可厭だぜ。お父さんが帰って来て怒ると困る」
「怒るもんか、唯喫驚するばかりだよ。僕ん家のお父さんなんか随分喫驚したぜ。そして最早仕方がないって言った」
「矢張り君が貼って置いたのかい」
「僕じゃない。何処かの人が来て貼ったんだよ。それから僕の家は貧乏になってしまった」
何んだか信用出来ない話だけれど、乃公はお父さんを驚かす積りで心待ちに待っていた。けれどもお父さんは驚かないで、直接と怒ってしまった。そして「少しも碌な真似はしない」と言って、乃公は折鞄でどやしつけられた。清は嘘吐きだ。彼んな奴は今に泥棒になるだろう。
明日から曲馬がかかる。今日は広告を見てばかりいた。曲馬と動物園を一緒にしたようなもので、種々珍しい獣が来るんだ。乃公も余程学問が出来るようになったと見えて曲馬の広告が半分ぐらい読める。知らない字は友達に聞いたから、今日一日で大分新しい字を覚えた。学校でも読本なんか止めて曲馬の広告を読ませればいい。児童に博物学を教うるの一助ともなるから、教師並に父兄は児童に一日の休暇を与えるように希望するとあった。真正に善い事を希望している。
算術の時間に先生が、答は出来ましたかと言って乃公の石盤を取って見た。そして君には罰点を十点やると言った。乃公の石盤には何時の間にか大きな象が書いてあったんだ。算術をやる積りで、曲馬の事を考えて居たのと見える。
忠公と曲馬を見に行った。余り早過ぎたので、動物の方を見物に廻った。パンに唐辛を入れて猿に喰わせたら、嚏をして可笑しかった。もう少しやろうとしていると、番人が来て大変怒ったから、乃公達は象の方へ行った。
象という奴は妙なものだ。顔の割合に目が馬鹿に細い。猿が人間の親類なら、象は鯨の兄弟分だろう。乃公は大きなパンを一個くれた。此にも唐辛が仕込んである。甘そうに喰べているから、もう一つやろうと思って、傍へ寄ると、象は恩を知らないから困る。突然乃公を鼻で捲いて投り出した。幸い羊が並んでいる上に落ちたので怪我はなかったが、羊は尻餅を搗いたきりになってしまった。
「怪我をしても知らないぞ」
と番人が睨めつけた、曲馬の親方も出て来て、
「危い危い、怪我はなかったか、運の好い小僧さんだ。ヨナのようだ」
と言った。ヨナは鯨に呑まれたんだ。象に投げられたんじゃない。此親方は聖書の智識に暗いと見える。可哀そうなものだ。
麒麟という奴は何だって彼んな長い首を着けているんだろう。彼奴に洋服を着せたら、随分ハイカラになるだろうなんて思っている中に、忠公が鸚鵡に手を突付かれた。
「何故そんな危い事をするんだ、怪我をしても知らないよ」と叱ってやった。忠公が怪我をすれば直ぐ乃公の所為になってしまう。
曲馬は上手なもんだ。彼の馬は何故彼様能く言う事を聞くのだろう。余程稽古しなくちゃ彼の女のように輪の内を脱けられまい。丁度乃公ぐらいの年恰好の子が親爺の頭の上で鯱鋒立をしたっけ。彼れくらいの事なら乃公にも出来るだろう。家のお父さんも曲馬師になれば宜いんだのになあ。けれども其んな野心がないから仕様がない。
今日も乃公は曲馬を見に行って、いよいよ決心した。乃公は曲馬師になろう。家にいて叱られるよりか、ああいう曲芸をして褒められる方がいい。それで乃公は斯ういう計画を立てて、此から逃る積りである。今夜の二時に曲馬の人達は出発する。どれでも宜いから彼の車にそっと乗り込めばいいんだ。そして余程行ってから、親方に頼んで弟子にして貰おう。一週間も習えば屹度上手になれる。すると乃公が真赤な着物を着て彼の馬の上で縄飛だの逆立だのする。見物人が手を叩くだろう。今鳴ったのが十一時だな。十二、十三じゃない、十二、一、二、と未だ三時間ある。早く行って待ってる方が間違ない。乃公が居なくなったら、お母さんは喫驚するだろうけれども此も立身出世の為めとあって見れば拠ない。
曲馬の人達は出発の支度をしていた。車が沢山並べてある。未だ荷物は何も積んでない。乃公は隙を見て、荷車の上の大きな箱の中へ入って、頭から風呂敷を被っていた。もう此れで弟子になれる積りで安心していた。
乃公は多分間もなく眠ったのと見える。目が覚めた時には車が動いていた。余り車がガタピシするので目が覚めたんだろう。外を見れば星が光っている。ああもう此れでお母さんにも姉さんにもお別れかと思ったら少し悲しくなった。身体は動くし、車の音はするし、馬方が無暗に馬を叱るもんだから、なかなか寝られやしない。少しうとうとすると直ぐに目が覚めてしまう。その中に明るくなって来た。
一体此は何の箱だろうと思って見廻すと、乃公は喫驚してしまった。三尺ばかり向うに獅子がいた。而も乃公の顔をシゲシゲと見守っている。やはり曲馬で見た時のように寝転んで、前足の上に腮を乗せている。夜は最早明けた。
乃公は何うしようかと思った。乃公が少し身体を動かすと、獅子は唸る。此方で凝っとしていれば、先方でも黙って乃公の顔を見ている。時々瞬きをする。今に屹度食付くだろう。
乃公は獅子にお辞儀をした。すると獅子は又唸った。仕方がないから又凝っとしている。凝っとしていれば矢張り黙って乃公の顔を眺めている。何時掛って来るかも知れない。真正に気味が悪い。
乃公は目を瞑って、主の祈りをした。獅子は矢張り旧の姿勢である。乃公は主の祈りを五六度した。おやッと思って目を開いて見ると、獅子は乃公の額を甞めていた。
気がついた時には、乃公は草原へ寝ていた。大勢が乃公を取巻いている。乃公の顔へ水を吹いていたんだ。
「あッ、喰われなかった」
「もう少しで喰われる所だったよ」
と馬方が言った。
「どうしてまあ彼ん中へ入ったんだ」
と親方が感心した。それから乃公は弟子になりたくて、箱の中に匿れていた事を話した。皆は大笑いをして、早くお母さんの許へ帰れと言った。
「危い事だった。彼の獅子は病気だから、昨夜彼の箱に入れ更えたのだ。病気でなけりゃ、お前さんは喰われてしまったろう。危い。ヨナのような小僧さんだ」
ヨナは獅子の箱へ入りやしない。獅子の穴へ入ったのはダニエルだ。親方は何でもヨナにしてしまう。そして弟子にしてくれそうもない。それに乃公は最早家へ帰りたくなっていた所だったから、一人の子分に送って来て貰った。
乃公は夕方家へ着いた。長道をしたので、足に豆が出来ていた。家の者は皆喜んで乃公を迎えてくれた。丁度放蕩息子が旅から帰ったようだった。
やっぱり家にいる方がいい。お島に聞いたらお母さんは一日泣いていたそうだ。伯母さんの許へ電報を打つやら、四方八方に人を出して大騒ぎをしたそうだ。乃公は最早決して逃げたりしまい。お父さんは乃公を送って来た人にお金をやってお礼をした。もう決して曲馬師にはなるまい。
もう直きに暑中休暇になる。忠公は夏中は避暑に行くんだそうだ。休暇になって毎日乃公と遊ぶと終には何んな怪我をするかも知れないから成る丈け早く海岸へ行くんだと言った。彼奴のお母さんは真正に分らずやだ。そんなに悪まれ口を利くと人に可愛がられないよ。
家の太郎ばかり悪いんじゃないって、お母さんは言っている。忠公だって随分悪たれる。それだけれど、お母さんは人が好いから、言いたい事も黙っているんだそうだ。けれど乃公は忠公と一番気が合うんだ。喧嘩する事もあるが、直ぐに仲が善くなってしまう。子供の方が仲が善くて、お母さん同志が睨み合うなんて随分可笑しな話だ。忠公は乃公に蛇の卵をくれた。五つ取って来て、乃公に二つ寄越した。忠公は蝮になると保証したが、乃公は青大将だろうと思っている。蝮なら占めたもんだ。何になるか分らないから、客間のストーブの中へ匿してある。毎日二三度ずつ見に行くのだが、今日は遊びに屈託していて、一遍も行って見ない。事によると孵ってるかも知れない。今日は大分暑かった。
文法の先生は困る奴だ。先刻から蛇の卵の傍に陣取って、お歌さんと談話をしている。幾度見に行っても動かない。裏の池では蛙が頻りに鳴いているが、いくら蛙が鳴いても帰りそうにない。
「竹刀を取られる所が面白いでしょう。『そら、そこで竹刀を取られたんだあね』という所が面白いでしょう」
「そこで小手も取られたんだあねですか」
と二人は然も可笑しそうに笑っている。些とも面白いもんか。仕様のない奴だ。
乃公は最早構わないと思って、つかつかと客間に入って行った。そして黙って立っていてやった。斯うでもしたら、ストーブの処を退くだろうと思ったのだが、平気で談話を続けている。何故斯う公徳心がないんだろう。真正に可厭になってしまう。
すると玄関の呼鈴が鳴った。何人かと思って行こうとすると、姉さんは太郎さん一寸と乃公を呼止めて、斯う内命を下した。
「富子さんだったら留守だと言って被下よ。早く行って御覧」
玄関には富子さんがお友達を二人連れて来ていた。姉さんはと尋くから、
「姉さんはお留守ですから駄目ですよ。富子さんなら如何してもお留守なんです。断りますよ。先生とお談話があって大変忙しいんだから仕様がありません」
と断ってやった。富子さんは「それなら宜敷」とも言わないで友達の手を引張って帰って行ってしまった。
お歌さんは狂気のようになって乃公の耳を引張った。富子さんは評判のお喋舌だから、明日学校へ行って何と言うか知れないそうだ。先生はお歌さんの御機嫌が変ったものだから、間もなくお暇をした。又帽子がなくなって困っていたっけ。乃公の南京鼠は巣が広くなって喜んでいる。
彼の教師は余程運の悪い奴だ。乃公の家へ来て非道い目に遇い続けだ。気絶をさせられたり、杖を折られたり、帽子を忠公に持って行かれたり、どうも散々な事ばかりだ。それでも性も懲もなくやって来る。真正に無神経な男だ。それだから又帽子を取られたんだあね。それだから蝙蝠傘を破かれても知らないでいるんだあね。
此間から百合子さんと百合子さんのお母さんが乃公の家に泊っている。乃公が悪戯をしやしまいかと思ってお母さんもお歌さんも気をつけているが、乃公は百合子さんと仲善だから決して悪い事はしない、百合子さんは乃公よりか二つ年が上だ。歌さんも綺麗だが、百合子さんは未だ子供だから可愛らしい。
乃公はお島に斯う言った。
「どうしたんだろうね、お島、百合子さんが僕の室へ入って来ると僕は胸がどきどきするくらい嬉しいんだよ。けれども出て行った後は何だか淋しいんだよ」
お島はくすくす笑い出した。
「何が可笑しいんだ」
と聞いても尚お笑う。笑うと撲るぞと言っても未だ笑う。馬鹿な奴だ。そして笑いながら斯う言った。
「それは坊ちゃんが百合子さんを恋しているからですよ」
「左様か知らん」
「左様で厶いますとも。恋しているもんで、百合子さんが来ると胸がどきどきするんですわ」
と又笑やがった。乃公は事によると左様かも知れないと思った。するとお島は何処までも悪い奴だ。
「坊ちゃん、あなた花を買って来て百合子さんに上げて御覧なさい。百合子さんがそれを受取て顔を赤くすれば先方でもあなたを恋しているんです」
「若し赤くしなかったら何うだろう」
「それなら坊ちゃんが失恋よ」
乃公は大概失恋になるだろうと思った。けれどもお島が余り勧めるもんだから物は試しだと思って花をやる気になった。そしてお島は黙っている約束をした。若し喋ろうもんなら、此間彼の藪睨みにお金をやった事を曝らしてやる。
乃公は早速奮発して五十銭の花を買って来て、百合子さんにやった。「難有よ」といったきりで百合子さんは平気な顔をしている。それ見ろ。乃公はトウトウ失恋になってしまった。最早此んな薄情な奴とは遊ばないからいいや。お島のお蔭で五十銭棒に振ってしまった。
今日は煙突に火薬を填めて破裂させた。その為めに座敷の道具が大分壊れた。お父さんもお母さんも乃公を叱るけれど、実際乃公が悪いか如何か、少し道理の分る人に判断をして貰いたい。
六公の家へ遊びに行ったら、六公は素敵に立派な絵葉書帳を見せた。何処で買ったと尋いたら、去年のクリスマスに貰ったんだそうだ。それもサンタ・クロウスに貰ったというから珍らしいや。
去年のクリスマスに乃公はお父さんからもお母さんからも種々贈物を戴いた。けれどもサンタ・クロウスは乃公に何もくれなかった。サンタ老爺は乃公の家へ寄るのを忘れたのだろうか。六公の家へ来て乃公の家へ寄らない筈はない。彼奴の家と乃公の家は物の三町と離れていない。そればかりでなく忠公は確かにサンタ・クロウスを見たと言った。尤も彼奴は音なしくないから何も貰わなかった。サンタ・クロウスは乃公の家へも来たに相違ない。来たんだけれど、煙突が狭くて入れなかったのに定っている。彼れでは全く子供でも入れやしない。
それでクリスマスには未だ半年も間があるけれど、今から支度をして置く方がいいと思って、乃公は煙突を壊したのだ。若し此が悪いと言うなら、クリスマスの支度をするのは皆悪かろう。斯ういう理窟も知らないで、唯頭から叱ればいいと思っている。それよりか早く左官屋を呼んで来て、一間四方ぐらいの煙突を拵えればいいんだ。手を火傷したり叱られたり真正に馬鹿馬鹿しい。
朝から頭痛がして喉が苦しくて困った。それで学校は休む事にした。多分ジフテリヤだろうとお母さんはお薬をくれた。少し様子を見て若し悪いようなら森川さんを呼ぶ積りだった。けれども九時頃には全然直ってしまったから乃公は遊びに出掛けた。
忠公を誘ったら、お母さんが出て来て、怖い顔をしながら、忠坊は頭痛がして喉が苦しくって寝ていると言った。まるで乃公の所為のようだ。それにしても忠公は仕様のない奴だ。もう九時過ぎている。約束を守らないと信用がなくなるぞ。
それで仕方がないから乃公はお春さんの家へ行った。遊びにお出で位の事を言っても罰は当るまいに、お春さんも森川さんもよくよくな人だ。恐らくは天地が崩れても其んな事は言わない積りなのだろう。
けれども思ったよりお春さんは好遇してくれた。お菓子でも何でもドシドシ出してくれる。けれども何うしたのか、姉さんは森川さんと余り口を利かない。変だと思って、後で間宮君に尋いて見ると、今朝先生と奥さんが衝突したんだそうだ。
「着物の事で奥さんが怒ったのです」
「左様だろう、きっと左様だ」
「きっと左様だって、太郎さん能く知ってますね」
「彼の子は着物が気に入らないと直ぐ怒るんです。家にいた時から左様です」
と乃公は大人らしく呑み込んだ返事をしてやった。此書生は勉強家だけあって、頗る精密な研究的態度を持って、森川さんとお春さんを監視しているようだ。
大きな体躯をして子供らしい奴等だ。それでお春さんは彼様に乃公を好遇したんだな。可愛がられるのもいいが、面当てに可愛がられるんじゃ一向ありがたくも何ともない。
乃公は此夏もう少しで死にそうな目に遇った。目に遇ったと言うと、人がしたように聞えるが、矢張り自分で仕出来した事で、今度丈けは何人にもかずける事が出来ない。若し乃公が彼の時彼の侭死んでしまったら、お母さんは何んなに歎いたろう。それを思い出すと今でも涙が溢れる。
夏中はお父さんとお母さんに連れられて旅行をした。お母さんは大きい姉さん二人を片付けるのと、お歌さんの縁談とで、くさくさしている上に、乃公が獅子と逃げたり、風船へ乗って行方知れずになったりして、余計な苦労を掛けたものだから、少し健康を傷めた。それでお父さんが夏中旅行をしたら宜かろう、乃公が連れて行くと申出た。至極結構な思付だと言って乃公が賛成したけれど、賛成の為損をした。お歌さんと乃公が留守居をするのだそうだ。人を馬鹿にしている。
けれども世の中はよく言う通り何が幸福になるものだか分らない。お歌さんは乃公と一緒じゃ到底お留守番は引受けられませんと御免蒙った。此は道理である。姉さんは一度で懲り懲りしている。けれども斯うお出になるとは思掛けなかった。それでだんだん談話が甘くなって来たと喜びながら、乃公は庭で鯱鋒立をしていた。すると其処へポチが馳けて来て乃公の頭を甞めた。友達だと思っていやがる。
「ポチ、ポチ、音なしくしろよ。お前も一緒にナイヤガラへ連れて行ってやるぞ」
ポチは嬉しそうに尻尾を振った。犬の癖に人間の言葉が分るなんて生意気だから一つ頭を撲ってくれた。
出発の日は七月の何日だったか忘れてしまったが、何んでも夜の明けない中であった。森川さんとお春さんが停車場まで見送りに出ていた。家からはお歌さんとお島が来た。皆なお父さんとお母さんには御機嫌善く行って来いと挨拶して、乃公には音なしく行って来いと言った。乃公なんか御機嫌が悪くても善いと思って居るんだろう。それだから彼んな危い目に遇ったのだ。
「太郎さん、左様停車場毎に下りちゃ困るじゃないかね。危くて些とも目が離せません」
「いえ、ポチが何うなったかと思って見に行ったんですよ。早く夜が明けなくちゃ暗くて見えやしない」
「ポチを何うしたと言うの」
「ポチを連れて来たんですよ」
「連れて? 何処に入れてあるんです?」
「一番後の車へ結えてあるんですよ」
お母さんは顔色をかえて、
「あなた、大変ですよ、汽車を止めて被下」
とお父さんに頼んだ。
「何だ。何うしたんだ」
「早く鈴を鳴らして被下、早くしないと死んで仕舞いますよ」
乃公は非常報知機の紐をうんと引張った。汽車は今迄全速力で走っていたが恐ろしい音を立てて急に止った。乗客は皆青くなった。何か椿事が起ったと思ったのだろう。
お母さんは車掌に頼んで一番後の車を見て貰った。けれども汽車を止めるには及ばなかったのだ。ポチは最早いやしない。乃公が車の心棒に結び付けた細縄の端には犬の耳が片方付いていたばかりだ。ポチには真に気の毒である。一緒に見物をさせてやりたいばかりに飛んだ事をしてしまった。
「あんな音なしい犬はなかったのに」
とお母さんが泣きそうになった。
「お前のような馬鹿はない」
とお父さんが乃公を叱った。車掌は乃公を食いそうな顔をしやがった。
乃公が車の中を彼方此方遊んで歩くものだから、お母さんは一日心配していた。それで日が暮れると直ぐに、乃公は寝台へ押し込められてしまった。けれどもなかなか眠られやしない。
乃公の隣の寝台にいる奴が鼾をかいて八釜しくて仕方がない。お前一人の寝台車じゃないんだから音なしくしなくっちゃいけないよ。静かにしないと酷いよ。何と言っても平気でゴオゴオいっている。公徳心のない奴だ。
乃公は余り腹が立ったから、そっと起き出して、其奴の足を留針で突いてやった。突いた時丈けは音なしくするが、少し経つと又直ぐに始める。それで乃公は五六度臥たり起きたりした。すると終には痛い痛いと大きな声を出した。鼾丈けでも随分迷惑しているのに、泣くなんて真正に聞分けのない奴だ。けれども其からは懲りたと見えてゴオゴオいわなくなった。
其中に乃公は喉が渇いた。水を持って来いといえば係りの男が持って来るだろうけれど、人を呼んだりしては他所の安眠の妨害になると思って、乃公はそっと起きて水を飲みに行った。
鼠のように静かに帰って来て、床に這込むと、キャアッという叫声と共に乃公は寝台から突き落された。「あれえ、何人か来てくださいッ」係の人が馳け付けて突然乃公の胸倉を捉えた。そして前後に無暗と小突き廻す。乃公を埃の着いた外套と間違えたんだろう。乃公の寝台には何処かの奥さんが泣いている。此騒動で車中の人は皆目を覚ました。お父さんとお母さんは頻りに此奥さんにお詫をした。奥さんは乃公を子供じゃないと思ったのだそうだ。乃公も彼の奥さんの寝台じゃないと思ったんだ。
お母さんは旅行に来ないとよかった等とお父さんに言っていた。けれども其翌日乃公達はナイヤガラに着いてしまったから仕方がない。彼んな目に遇う位なら乃公も真正に旅行になんか行かないとよかった。
滝は大きなものである。数哩離れても其響が遠くで雷の鳴るように聞える。瀑布の処には始終虹が吹いているから頗る奇観である。虹の外にも此近辺には見るものが多い。瀑布には四面ある。即ち外側、内側、内側は水の背後を潜って見物出来る。それから尚おカナダ側とアメリカ側がある。地理書には此瀑布の光景が出ているけれども、其雄大壮厳の趣は到底ペンやインキで伝え難い。若し天一のような奇術師が此瀑布を大きな硝子箱に入れて世界中を見世物興行して歩くなら、さぞ受ける事だろう。子供が地理や地文を覚えるのに何程の助けになるか知れやしない。けれども馬車屋の法外なのには何人も驚く。お父さんは瀑布よりも馬車賃の高いのに一驚を喫したと言った。尤も見世物には馬車なんか連れて行かなくてもいい。瀑布だけを其侭罐詰か何かにして持って行けば仔細なかろう。
乃公の着いた日には仏蘭西の軽業師が此瀑布の上で綱渡りをする所だった。お母さんは彼は狂人だと言ったが、一向キ印らしくもない。見た所音なしそうな人である。乃公とお父さんは其芸当を見物に行く。けれどもお母さんは労れてはいるし、そんな危い物は見るのも嫌いだから、乃公をお父さんに預け、片時も目を離してくれるなと頼んで、御自分だけ宿屋に引取った。
仏蘭西人は此瀑布の上を綱で渡るという。両手に英米の国旗を持っている。落ちれば大変だ。全く生命がけの仕事である。けれども彼の男は落ちやしまい。落ちた所で其侭死にはしまい。きっと鯉になるだろう。鯉になって今度はナイヤガラの瀑布に登るだろう、等と思っていた。
見物人はヤンヤと喝采している。フランス人は彼れ此れと支度に手間取った末、斯う申し出た。何人か私に背負さって行くものはないか。大丈夫だ。首尾よく行けば其人の名誉は全世界に轟く。万一間違があれば五百円罰金として進呈する。行く人はないか――さて此は考えものだと乃公は思った。
彼の軽業師と一緒に対岸まで行けば全く名声を四海に轟かす事が出来る。首尾能く行けば太郎石鹸、太郎ムスク、太郎カラ――等が出来て、乃公は随分持て囃されるだろう。万一間違があったにしても五百円進呈すると言うんだから、大した損はない。幸いお父さんは思掛けない友達に会ったので、乃公の方はお留守にして、頻りに談話をしている。乃公は連れて行ってくれと軽業師に頼んだ。
すると軽業師は大層乃公を賞めて、旗を持たせてくれた。「目を瞑ってるんですよ。しっかりとね。何もかも私に委せて安心してればいい。家で蒲団の上に寝ている気でいればいい。下に滝があるなんて思っちゃいけない。宜うがすかね」
悪い時には悪いもので、巡査がやって来て乃公を捉えた。
「滅法界もない。両親は何処にいます」
多分お父さんを小児虐待の罪に問う積りらしかった。するとお父さんは飛んで来て、仏蘭西人を怒鳴りつけた。若し巡査が止めなかったら、或は打撲ったかも知れない。乃公は真正に損をしてしまった。
ナイヤガラにいる間は最早一秒時も乃公の傍を離れられない、此では苦労を求めに旅行をしたようなものだとお母さんが愚痴を零した。お母さんは膠のように乃公に粘着いている。少しも目を離さない。乃公は真正に弱ってしまった。
翌日は歌さんへのお土産を買ったりして、乃公達は山羊の島を見に行った。名は山羊の島でも、山羊なんか一疋もいやしない。けれども此辺の流の急なのには実に一驚を喫した。見ていても目が眩むようだ。早く早くと水と水とが押合う為めか、水面に一種の燐光が漂って物凄い。急に寒くなった。お母さんは乃公を確乎と捉えている。何程無鉄砲でも、此んな処へ飛び込むものか。飛び込みはしないが、水の速力を計る為めに、ハンカチを投込んで見た。
ところへ何処かの奥さんが来て、お母さんと談話を始めた。やはり見物に来たんだ。御大層な風をしている。狆を抱いている。此狆の胸掛は百合子さんのリボンと同じ品質だと思いながら、乃公は狆の目を突付いてやった。
「笑いませんか」
と奥さんが振返った。チンは嚏をするかも知れないが、笑って堪るものか。
「坊ちゃん、狆がお好きですかね。少し抱いてやって被下。私は手が疲れました」
と奥さんが乃公に狆を抱かせてくれたから、乃公は直ぐに水の中へ投り込んでやった。
奥さんは狂気のようになって泣いた。子のようにしていた者を殺されたと言って、今にも狆の後を追って飛込もうとする。無分別な人だ。お父さんが抱き止めるようにして、お母さんがお詫をして漸く賺した。泣き顔して帰って行ったが、彼れは屹度ヒステリーになったろう。水は一秒に一哩は確かに走る。狆のお蔭で此事実を発見した。すべて科学は犠牲によって進歩発達するものだと先生が言っているじゃないか。
宿屋へ帰ってお昼を喰べた。彼の宿屋では何故彼んな魚を出したんだろう。乃公が死にそうな目に遇ったのは畢竟宿屋の罪科だ。それをお父さんが、此は珍らしい魚だ、此辺でなければ漁れない名物だと言ったのも可なり悪い。乃公は御飯を喰べながら魚を釣りに行く決心をしてしまった。
食事が済んでからお母さんは昼寝をなさる。その間音なしく此処で書物を見ているようにと言付けられたから、乃公は従順に書物を読み始めた。空は青い。日は能く照っている。家にいるのは勿体ない。乃公は大きな声で読んでもお母さんはすやすや眠ってたから、最早宜かろうと思って、窓から廊下へ出、廊下から外へ飛下りた。途中で釣の道具を買調えて、乃公は可成水の静かな処に陣取って、釣魚を始めた。二三箇所試したが、流が早いから何も釣れない。それで乃公はだんだん上の方へ行った。水車のある処で鈎を下していると、小い端艇が岸にあるのに気が付いた。誰も見ていないから、乃公は此端艇を借りて、対岸へ行こうとした。
が少し漕出すと、乃公は釣竿を流してしまった。これは困ったと思う間に流の力が強いものだから乃公は艪を取られてしまった。同時に船はどんどん流され始めた。それが追々早くなって、先刻の狆の赤リボンを思出した時には、白状するが、乃公は泣き出した。今度は科学どころの沙汰でない。そしてお母さんの傍で音なしく書物を見ていれば宜かったと思ったけれど、もう晩い。
端艇は廻りながら流れる。岸では人が大勢で大声を揚げて騒いでいる。けれども乃公は急流の真中にいるのだから、如何したくてもしてくれようがない。其中に乃公は眉間が痛くなって、目を瞑った。此からは屹度親のいう事を聞くから助けてくれるようにと祈祷をした。そしてもう直ぐに瀑布だろうと思って舟の中に突俯して泣いた。
大きな音がして、乃公の身体が前にのめった時、乃公は最早死んだ積りでいた。けれども岸で人の呼ぶ声がするので、起きて見た。舟は止っている。岩の上に乗上げて壊れている。
「しっかりつかまっていろよオ」
「岩につかまっていろよオ」
岸には人が一杯だ。けれども何うする事も出来ない。唯しっかりしろ、しっかりしろと言う。
日は最早間もなく暮れるだろう。
学校で習った読本に斯ういう物語が出ている。或る河へ赤ん坊が滑り落ちて流れて行く。母は狂気のようになって、助力を呼びながら、岸伝いに追馳けて行く。岸には大勢の人が測量をしていたのだけれど、唯あれあれと言うだけで、誰一人助けに行く者がない。行かないんじゃない。行けないんだ。其河は非常に急流だから、生命を棄ててかからなけりゃ、とても飛込めないんだ。赤ん坊は見す見す見殺になる所だった。ところが生命を棄てる気で飛込んだ青年がある。彼は若い測量師である。生命を投げ出してやる仕事に失敗はない。彼は美事に赤ん坊を助けた。此若き測量師とは後日アメリカの大統領になったジョージ・ワシントンである。同僚の測量師は川へ飛込まなかった罰で、ワシントンが大統領になった頃には多分土方か何かになっていたろう。
彼の時飛込みもしないで岸に騒いでいた奴は土方になればいいんだ。若し彼の時生命を棄る気で泳いで来れば其奴は屹度大統領になれたろう。惜しい事にはワシントン程度胸の据った奴は一人もいなかった。
それは兎に角其時は乃公は悲しかった。お母さんが見える。お父さんもいる。お母さんは頻りにハンケチを振っている。乃公は泣いた。お母さん堪忍して下さい、皆僕が悪いんです、堪忍して下さい、と乃公は泣いた。泣いたって到底助からない事は承知していた。唯堪忍して貰って死のうと思ったんだ。お母さんは矢張りハンケチを振っている。お父さんは見えなくなった。
「たすけに行くぞう」
「しっかりつかまってろう。待っていろう」
何で何うしたのか、皆は対岸まで凧糸を射た。すると対岸の人が其を手繰る。凧糸に太い綱を結んで、又手繰る。とうとう乃公の頭の上から両岸へ掛けて、綱の一本橋が出来た。
「じっとしていろう、直ぐに行くぞう」
乃公は訳もなく助けられた。フランスの軽業師が綱を渡って来て、乃公を紐背負にした。
「安心して何もかも私に委せるんですよ。目を瞑って、凝っとしてね」
と言った。乃公は岸に着くまでは何があったか、少しも知らなかった。唯目がめり込みはしないかと案じられる位確乎目を瞑っていた。それで皆が「万歳万歳」と喝采した時には、今考えて見ると最早岸に着いていたんだ。
何とも言えない騒ぎであった。乃公はお母さんの手につかまって、わいわい泣いた。お父さんは二十年前に分れた弟に逢ったように、軽業師の手を取って嬉しがっている。見物人は芝居でも見るように感嘆している。乃公達は一と先ず宿屋に帰った。
お父さんは軽業師に五百円の小切手をやった。そしてお母さんと二人がかりで、種々と乃公に言い聞かせた。彼の危い処から遁れたのに、其晩早々叱るなんて余り恩を知らない仕打だと思う。乃公だって彼んな事になる積りでしたのじゃない。唯魚を釣って来てお父さんを喜ばせる積りで出掛けたんだ。宿屋で彼んな魚を出したのと、お父さんが其を褒めたのと、彼んな処へボートを置いた奴が悪いんだから、乃公は叱られたって何とも思いはしない。唯新しい小刀を落してしまったのが残念だった。
翌日乃公達はナイヤガラを去った。もうもう此んな処へは決して来ないとお母さんが言った。乃公達は田舎の親戚へ廻って、其処で夏中暮した。其間に様々な事があったけれど、最早日記帳の紙がなくなったから、それは新しいのを貰ってから書く事にしよう。お歌さんは相変らず乃公の耳を引張る。けれども間もなく銀行の人と結婚するから構わない。お島も相変らず軽率しい。過失をすると何時でも乃公にかずける。此んな事は気にはかけないが、大臣にならない中に学校を退校されそうだ。此ればかりが心配でならない。
青空文庫より引用