村の成功者


 山の中の山中村 

 乗合自動車は又々坂へ差しかゝった。○○町の中学校から村へ帰る卓造君たくぞうくんは隅っこに大きな体躯からだを縮めて居睡りをしていた。連日の学期試験が今朝終った。これから長い暑中休暇が始まる。
「この切通きりどおしが出来て大助かりですよ」
 と一時喋り止んだ老人が扇子をパチ/\させながら又やり出した。
「以前はこゝを胸突むなつきと申しましたな」
 と中老が受けた。
うですよ。ひどいところでした。それをガラクタ馬車で通ったんですから随分無法な話です」
「私の乗っていた前の馬車がこの先で谷へ※ 《のめ》り落ちましたよ」
「危いことでしたな」
「怪我人が出来て大騒ぎをしていました。それもその一人がお医者さんでしょう。さあ、お医者さんを呼んで来いと言っても、その人が村のお医者さんでしたから、何うも仕様がありません」
「それは/\」
「到頭一人手後ておくれで死んだとか申しましたよ」
「全く命がけでしたな、昔のガタ馬車は」
「馬って奴は気紛きまぐれですからね」
「然うですとも。それに坂へ差しかゝると可哀そうでなりません」
「人力も気の毒ですよ」
「あなたはこの辺の馬車に等級のあった頃を覚えていますか?」
「はあ?」
「等級ですよ。一等二等、いや、上等中等下等と三つありましたよ」
「はゝあ。存じませんな」
「○○町へ鉄道が出来てから間もないことですから、もう彼れ是れ四十年の昔になりますよ」
「それじゃ私が子供の時です」
「同じ馬車に上等中等下等がありました。私は当時必ず下等でした。『おい、若い衆、下等で行こう』と馭者ぎょしゃが定めてしまうから仕方がありません」
「一体何ういう風に分けてあるんですか?」
「山路へ差しかゝると、血気盛んな男の客は下りて車を押します。馬の手伝いです。それですからこれが下等です」
「成程」
「それから車体を軽くする為めに唯下りる丈けの客があります。これが中等です」
「上等は?」
「上等は女子供か年寄に限ります。これは一切下りません」
「はゝあ、巧い考えですな」
「それでいて馬車賃は皆同じです、動物をいたわり弱いものをたすけるという精神が現れています、この頃から見てもナカ/\進んだ考えじゃありませんか?」
「成程、感心しました」
「昔ならこの学生さんあたりは下等です。とても安閑と寝ちゃいられません」
 と老人は実例を示す為めに卓造君を見返った。しかし卓造君はもう覚めていたから、ニッコと笑った。
「おや/\、起きていた。失礼々々」
「下りて押しましょうか?」
 と卓造君は如才じょさいなく冗談を言った。
「ハッハヽヽヽ」
「私は中等ですな」
 と中年男が言った。
うです。未だ/\先があります。私は上等です。しかし人中ひとなか大切だいじにされるようになっちゃお仕舞いです。何ならもう一遍下等へ後戻りをしたいものですな」
 と老人は帽子を脱いで禿頭をあおいだ。面白い爺さんだ。皆クス/\笑った。
「私は薄々覚えがありますよ」
 ともう一人、学校の先生らしい白詰襟の中年男が膝を進めた。
「はゝあ」
「初めて汽車が通った時、私は尋常、さあ、何年でしたかな、兎に角、尋常生でしたよ。今日は陸蒸汽おかじょうきが通るから成るべく見に行くようにといって、学校が休みになりました」
「然う/\、陸蒸汽、陸蒸汽」
 と先の中年者が思い出した。
角町かどまちからその陸蒸汽のはつ物を見物に行く時、例のガラクタ馬車に乗りましたよ。上等中等とは気がつきませんでしたが、坂道へかゝる度に皆下りて押しました」
「それは陸蒸汽の時じゃありますまい。汽車が通り始めてから馬車が出来たように私は覚えていますがな」
 と老人は首を傾げた。
「いや、その前からでしょう」
「いや、○○町へ鉄道がかゝったから角町との交通が頻繁ひんぱんになってガラクタ馬車が出来たのです」
うでしたかな」
「その前までは……いや、これは私の勘違いでした。汽車は予定より一年おくれましたよ。それで矢張りガタ馬車の方が先です。失礼しました」
「何うも然うだと思っています」
 と詰襟は安心した。
 卓造君はこの三里の坂道を自動車で上ったり下りたりして角町に着く。それから又二里歩くと生れ故郷の山中村だ。もう一遍逆に言えば、山中村は角町へ二里、角町から○○町へ三里、まこと辺鄙へんぴなところだ。汽車に乗るまでに都合五里の山路を登ったり降りたりしなければならない。山中村は名詮自性みょうせんじしょう、山また山の中にある。
 暑中休暇は親子兄弟を結びつける。卓造君が帰って数日すると、師範学校へ行っている弟の正次郎君が帰って来ることになった。晩の九時に着くというハガキだったから、卓造君は角町まで出迎えたが、待ちぼうけを食った。十時になっても弟の姿が乗合自動車の中から出て来ないので、諦めて引き返した。夏の夜道は苦にならない。矢張り師範へ行っている息子を迎えに行った人が道連れだった。
「何だい? 一人かい?」
 と卓造君の父親は失望した。
乗後のりおくれたのらしいです」
小寺こでらは?」
「小寺君も見えません。小寺君のお父さんも迎えに来ていましたが、諦めて一緒に帰って来ました」
「小寺と一緒なら間違いあるまい。御苦労々々」
「明日の朝でしょう」
 と卓造君はそのまゝ寝てしまった。一寸迎えに行っても往復四里歩くのだから草臥くたびれる。
 正次郎君は翌朝暗い中に着いて家中うちじゅうを叩き起した。
「まあ! 何うしたの? 今頃」
 と母親は驚いた。
「乗後れて終列車へ乗ったら十一時に着いたんです。もう自動車がありません。ひどい目に会いました」
「それじゃ夜通し歩いて来たの?」
「えゝ」
こわかったでしょう?」
「いゝえ、月がありました。それに小寺さんと一緒です。『箱根の山』を歌いながら来ました」
 と正次郎君は一かどの手柄を立てた積りだろうが、声をらしていた。
「草臥れたろう」
 と父親がいたわった。
「何あに」
「寝ないで五里歩いちゃ溜まらない。何か喰べて早速休みなさい」
「平気ですよ」
「少し変な足つきだぞ」
 と卓造君が冷かした。
「マメを踏み出したんです」
 と正次郎君はびっこを引いていた。
「虚勢を張らないで早く寝ろよ」
「実は大分痛いんです。家へ入ったら急にいけなくなりました」
「それ見ろ」
 と卓造君は自分の床を直してやった。
 正次郎君は昼過までグッスリ眠った。元気恢復かいふくすると、もう寝てはいられない。一学期分話が積っている。弟や妹も珍らしがってそばを離れない。
「何うですか? 足は」
 と母親が訊いた。
「又れたようです」
「まあいや。口は丈夫だから話そう」
 と卓造君は一日弟の相手を勤めた。
 正次郎君と一緒に帰った小寺君も二三日の間マメで歩けなかった。そのことから卓造君の父親は、
「角町の奴等が馬鹿だったものだから、皆がこんなに難渋なんじゅうするのさ」
 と言った。
「何故ですか?」
「鉄道を○○町へやってしまったからさ」
「しかし角町は余り要害堅固ようがいけんごですから、鉄道の方で敬遠したんでしょう? 仕方がありません」
 と卓造君は自分の感じているところを述べた。
「何あに、角町の奴等に時勢を見る明がなかったからさ。政府の計画は本線が角町を通ることになっていた。それを逸早いちはやぎつけたのは感心だが、後が悪い。角町を筆頭に六ヵ村が反対運動を起して、折角の鉄道を○○町へ寄進についてしまったんだからね」
ういう話を聞いていますが、本当でしょうか?」
 と正次郎君が訊いた。
「本当とも」
「余り馬鹿々々しいです」
 と卓造君は笑っていた。
「この頃の人間の頭じゃとても信じられないが、当時は皆一生懸命でやったのらしい。角町に唯一人賛成者があったが、そこの家へ石を投げ込むという騒ぎさ」
「誰です? その賛成者は」
「尾崎さんさ。呆れ返って東京へ行ってしまった。それぐらい目先の見える人だから、あんなに成功したんだよ」
えらい人は矢っ張り違いますね」
此方こっちは反対成功祝賀会を開いてお祭り騒ぎをしたんだからお話にならない。現に田川の伯父さんはその時酔っぱらって、角町かどまちからの帰りに百けんかわへ落ちて死にかけたと言っている」
「今度訊いて見ましょう」
「田川は有志家だったから、その頃からソロ/\身上しんしょうをへらしたのらしいよ。大伯父さんがこの村の代表だったそうだ。東京まで請願せいがんに出掛けたんだから真剣さ」
「一体何ういう理由で反対したんでしょう?」
 と正次郎君は合点が行かない。
「それは分っている。鉄道が来ると交通が便利になるからさ」
「分りませんな」
「交通が便利になれば、第一にこの辺の米を皆持って行かれてしまう。第二に他所たしょの人間が入り込む。つまり飢饉と泥棒を招くようなものだと思って、無暗に怖がったんだね」
「成程」
「○○町だってそれと知ったら反対したろうが、角町に出し抜かれて、突如いきなり押しつけられたものだから、否も応もない。しかし徳をした」
「実際ですな」
「大きな拾い物さ。角町とは較べものにならなかった貧乏町が鉄道のお蔭であの通り発展したんだからね。中学校女学校は無論のこと商業学校まである上に今度また農学校を取ってしまった。角町は近頃女学校が出来たばかりだ」
「それは交通が便利だから何うしてもかないません」
 と卓造君は○○町へ行っている丈けに公明正大だった。
「その便利な交通を恐れたものだから、角町は損をしたのさ」
「それじゃ角町が鉄道に反対しなかったら、僕は家から中学校へ通っていたでしょうね?」
「無論さ」
「惜しいことをしましたよ。角町の損は結局この辺一帯の損です」
「つまり田川の大伯父さんが中学校を○○町へ追いこくったようなものさ」
春秋しゅんじゅう筆法ひっぽうを用いれば、明治何年ですか? 田川の大伯父、角町に交通不便をもたらし、中学校を○○町へ追う。ハッハヽヽ」
「して見ると田川の伯父さんがお前の寄宿料を出すのは当り前だよ」
「ハッハヽヽヽ」
「先代からの約束ごとさ」
 と父親は妙なところへ結論を持って行った。
「ところで僕は今日あたり伯父さんのところへ御機嫌伺いに行かなければなりません」
 と正次郎君が思い出した。
「俺がつれて行ってやる」
 と卓造君が引受けた。
むつむさんは相変らず銀行ですか?」
「近頃やめたそうだよ」
「何故ですか?」
「角町へ行って僅かばかりの月給を取っても割に合わないと言っていた。安いから不平なんだろう」
「百間川の水力電気は何うです?」
「あれも駄目らしい」
「早くあれがうかならないと兄さんは困りましょう」
「何あに」
「伯父さんは大きなことを考えていますな。しかし成功するかも知れませんよ。僕はこの間の晩百間川を渡る時拝んで来ました」
 と正次郎君は殊勝しゅしょうらしいことを言った。
 卓造君はこの田川の伯父の援助を受けて○○町の中学校へ入っている。もう五年生だ。斯ういう事情の下に勉強するものは油断がない。一年生以来首席で通して来た。もっとも他に修業の便宜がなかったでもない。し父親の一存に委せたら、弟の正次郎君のように師範学校へ行って矢張り優等生になっていたろう。父親は小学校長だから、最初から師範を主張した。初等教育に対する職務上の熱心もあったろうが、子供の多いにかんがみて家計上の都合もあった。しかしその頃の卓造君はそんなことに頓着なく、
宗像君むなかたくんも安藤君も中学ですから、僕も中学へやって下さい」
 と願い出た。
「宗像さんや安藤さんは金持だから東京の学校へでも行ける。家は違うよ。師範へ入りなさい」
「でも僕は先生になりたくないんです」
「それじゃ仕方がない。百姓をするさ」
「百姓もいやです」
「それじゃ角町へ奉公に行くか?」
「商人は嫌いです」
「それじゃ何になりたいんだい?」
「豪い人になりたいんです」
「師範へ入っても豪い人になれるよ。わしが法を教えてやる」
 と父親はだますかしたが、卓造君は納得しなかった。到頭、
「何うか中学へやって下さい。僕、○○町まで毎日歩いて行きます」
 と実際問題を持ち出した。
「五里あるよ」
「朝五時に出掛ければ八時に着きます」
「山路だよ」
「僕、足は丈夫です」
「天気の日ばかりはないよ。一日十里歩いて勉強が出来るものか」
 と父親は考え込んだ。角町○○町間を乗合自動車が通う。しかしそれに乗せて家から通学させれば寄宿舎へ入れるのと同じぐらいな勘定になる。要するに費用の問題だった。訓導の俸給がもう二三割上らない限り、永久に解決がつかない。
「あなた」
 と或日母親が口を出した。
「何だい?」
「毎日同じことばかり言っていても仕方ありませんから、私、田川へ行って相談してみます」
「駄目だよ、昔の田川なら兎に角」
「でも、兄さんは卓造が好きですから、何うにか都合をつけて下さるかも知れませんよ」
「教育者たるものが自分の子の教育が出来なくて助力を仰ぐなんて不見識な話だ」
 と校長先生、骨が硬い。
「それじゃあなたは卓造が可愛くありませんか?」
「俺は俺なりに教育する」
「でも師範は厭だと言って毎日泣いているじゃありませんか?」
「今に分るよ」
「分りませんよ」
「それじゃお前は何うする積りだい?」
「あなたの御見識は下げませんから、御安心下さいませ」
「しかし無心をするんだろう?」
「いゝえ、唯これ/\ですってお話をします。すると兄さんは『まあ、お待ちよ』と仰有いますよ」
「そんな計略を使うのは無心より悪い」
「構いませんわ。あなたには他人でも私には親身の兄ですもの」
「厚かましい奴だ」
「あなたは卓造って名を誰につけて戴いたか覚えていらっしゃいますか?」
「田川の兄さんさ」
「田川の兄さんを名づけ親に頼んだのは、私、斯ういうことがあるかも知れないと思ったからですよ」
「豪い遠謀があったんだね」
「私、屹度何うかして貰いますわ」
 と母親は成算があった。
 田川というのは母親の里である。同村で山一つ下のあざだ。その辺を流れている川も田川と呼ぶ。地名を苗字に名乗っているくらいだから、代々金持だったが、先代が県会議員に当選すること二回、それで身上が大方行きついてしまった。当代になっても村政に関係したり公共事業に奔走したりして、ふやすよりもへらす方へばかり廻っている。格式は高いが、実力が伴わない。而も出すものは金持並だから苦しい。何処の村にもこの種の旧家が必ずある。評判丈けは好い。しかし結局潰れてしまう。
 一部始終を聴き取った田川の主人公は、
「それじゃ何うしても中学へ行きたいと言うのかい? ふうむ、成程、ふうむ」
 と再三頷いた。
「毎日泣いています」
 と卓造君の母親は俯向いていた。
「中学へやっちゃ何うだね? 師範へやるのも同じことじゃないか?」
「いゝえ、違いますわ」
「何故?」
「師範ならお小遣丈けで済みますけれど、中学の方は悉皆すっかり此方こっち持ちです」
「しかしお前のところは校長さんじゃないか? 村で一番の月給取だよ」
「その校長さんの月給では月謝丈けなら兎に角、寄宿の賄料まかないりょうまでとなるととても出し切れません」
「矢っ張り楽じゃないかね?」
「あの子一人じゃありませんからね。それで二人がかりで言い聞かせるんですが、思い込んでいますから、ナカ/\承知しません」
「それは子供だもの、無理もない」
「持て余した揚句、気休めの為めに、私、『それじゃ田川の伯父さんのところへ相談に行って来ますから』と言って出て参りました。明日にも卓造を寄越しますから、何うか兄さんが能うく言い聞かせて下さいませ」
「何て? 何て?」
「中学を思い切るように」
「お雪、まあ、お待ちよ」
 と田川さんはもう反応を示した。
「蛙の子は蛙ですから、矢っ張り師範へやって先生に仕立てます。昔は昔、今は今、宗像さんや安藤さんの真似は出来ないんですから、その辺を兄さんから能うく……」
「まあ、お待ちよ」
「子供って本当に聞き分けのないもので、私……」
 と卓造君の母親は襦袢じゅばんの袖を目に当てた。
「お待ちよ、お待ちと言ったら、まあ、お待ち」
 と田川さんは声を励まして、
「お前こそ分らないよ。自分の言うことばかり言っていて俺に口をきかせない」
「…………」
「一体月いくらかゝるんだね?」
「さあ」
「言って御覧」
「月謝と賄料で二十円」
「それから?」
「それ丈けでございます」
「お安い御用だ。俺が出そうよ」
「私、兄さんのところへ御無心に上ったんじゃありませんわ」
「それは分っているが、俺も黙って見ちゃいられない。お前の子は田川の家の子も同じことだ。田川の家の子が思い通りの教育を受けられないようなら、俺は先祖代々に対して顔が立たない」
「…………」
「それに卓造は俺が名づけ親になっている。何うにかするよ、それぐらいのことは」
「兄さん、お家の方は本当に大丈夫ですか?」
「つまらない心配をしなさんな。卓造が中学を卒業するまでには百間川へ水力電気が来る。うなれば大学へやってやるよ」
「そんな遠い先のことは又のお話にして、中学の方はうございますね?」
いとも」
「有難うございました」
 と卓造君の母親は完全に目的を達した。
 爾来卓造君は田川の伯父から月二十円宛の補助を受けて勉強している。伯父も義理ばかりで背負い込んだ仕事でない。今の世の中は何か一つ纒まった専門がなければ渡れないということを身代が細るにつれてツク/″\感じている。自分も若い頃東京へ遊学に出掛けて中途半端で帰って来た。長男も同様、物にならないでしまった。親類を見渡しても、皆似たり寄ったりの無気力な連中ばかりで単に徒食としょくしている。それで田川の血を引いたものから何うかして一人家名を揚げるものを出したいのだった。この故に卓造君が休暇で帰って来て顔を見せると、伯父は必ず、
「何うだな?」
 と訊く。
「相変らずです」
 と卓造君が答えた丈けでは承知しない。スミスの大代数という古色蒼然たる原書から問題を出す。昔習った変則英語で卓造君の発音を正す。それから、
英語イングリシュ数学マスメテクが一番大切だいじだよ」
「はあ」
「宗像や安藤に負けちゃ困るよ」
「大丈夫です」
「一生懸命でやりなさい。百間川へ水力電気が来れば大学までやってやる」
 と激励してくれる。
 大伯父が鉄道に反対して中学校を○○町へ追いこくったとはいうものゝ、四年五年とお世話になり続けると、気の毒でならない。卓造君は夏休みに帰宅して以来、閑なものだから種々《いろいろ》のことを考える。既にこの春高等学校を受けないでしまったのが残念で溜まらない。規則正しい修業は諦めているものゝ、兎角思い出す。しかしそんな繰言よりも来年卒業してからの問題だ。これがひどく胸を圧する。中学丈けでお仕舞いにすれば、宙ぶらりんで、なまじ受けた教育が場合によるとわざわいになる。何とかして専門学校ぐらい卒業したい。自分の強情で中学校へ入った卓造君は今や当然行き当るべき運命に直面した。
「卓造」
 と或日父親が呼んだ。
「何ですか?」
「こゝへおいで
「はあ」
「お前は来年卒業したら何うする? もうソロ/\考えても宜い時分だよ」
「考えています」
「然うだろうと思った。可哀そうに、顔色が悪い」
「…………」
「伯父さんの水力電気を当てにしていても駄目だよ」
「それは分っています。もうこの上はお気の毒でお世話になれません」
「それじゃ学問は諦めるか?」
「…………」
「角町へ行って銀行へでも入っちゃ何うだね?」
「銀行へ入るくらいなら、初めから商業学校へ入っています」
「会社は?」
「会社も同じことです」
「すると矢っ張り学問をやりたいんだね?」
「はあ」
「困ったものだな。そのくらいならわしの言うことを聞いて師範へ入れば宜かったのに。成績次第で高等師範へ入れる」
「僕は先生は嫌いです」
「卓造、ハキ/\物を言うのは宜いが、俺を前へ置いて、先生が嫌いだとはっと穏当を欠きはしまいかな?」
「済みませんでした」
「お前は相変らず夢を見ているんじゃなかろうかね」
「…………」
「豪い人になりたいと言うんだろう?」
「具体的に然うは考えません」
「それじゃ何う考える?」
「僕の一生は一度しかない一生です」
「それだから?」
「遺憾なく、出来る限り」
「何うする?」
「やって見たいと思います」
 と刻み/\力を込めた。学若し成らざれば死すとも帰らずなぞと安っぽいことを言いたがらない男だ。

 百間松の狐 

「兄さん」
 と弟の正次郎君が縁側に寝転んだまゝ話しかけた。
「何だい?」
 と卓造君も大の字なりに寝そべった足を壁に立てかけている。如何にも退屈そうだ。
「僕は何うしたんでしょう? 家へ帰って来ると些っとも勉強が出来ません」
「俺もうだよ。あゝあ」
「この夏は学年中の下調べをしようと思って帰って来たんです」
「馬鹿に心掛けが好いんだね」
「けれども結局理想でした。環境が違う所為せいか、実行出来ません」
 と師範の二年生、努めてむずかしい言葉を使う。
「俺も去年までは教科書を持って帰ったが、今年から悉皆すっかり諦めた」
「何故ですか?」
「結局毎夏、重いものを運搬する丈けのことだからさ」
 と中学五年生の卓造君は数年の長がある。
「ハッハヽヽヽ。僕も然うなりそうですよ。教科書を皆持って来たんですが、未だ一頁も読みません」
「夏休みは矢っ張り思い切って遊ぶ方が宜いよ」
「しかし長いですからな」
「普段怠けているものが休みに勉強しようったって駄目さ」
「それは然うですな。元来少し矛盾むじゅんですね」
「大きな矛盾だよ」
「しかし同級生が皆勉強の計画を立てるものですから、僕もついその気になるんです」
発心ほっしんするのは宜いさ」
「これでも感心に精神丈けはあるんですね」
「誰でも然うさ。正月だとか暑中休暇だとかという区切が来ると、急に本心に立ち帰って無暗と理想的な計画を立てる。そこが好いところだろう」
「実行しなくてもですか?」
 と正次郎君は腹這いになった。
「然うさ。初めから無理な計画を立てゝいるんだもの」
「考えて見ると然うですね。普段だって試験でもなければ教科書なんか読みません」
「精神丈けあれば宜いのさ。斯う暑くて何が出来るものか。その為めの夏休みだもの」
「僕も諦めます」
「うんと遊んで学校へ帰ってから大いにやるさ」
「然うします」
「あゝあ」
 と卓造君は欠伸あくび諸共大きな伸びをした。
「兄さん」
 と間もなく正次郎君が続けた。
「何だい?」
「今日角町へ行きませんか?」
「行っても宜いね」
「活動を見ましょう」
「おや/\? 勉強から活動へ話が変ったのかい?」
「僕はこの間から見たいと思っているんです。好いのが来ていますよ」
「何あんだ。それじゃ先刻からのはその前置だったんだね?」
「まあ然うです。独りじゃ帰りが大変ですから」
ずるい奴だ」
 と卓造君は笑い出した。
「いけませんか?」
「行こう」
「それじゃ昼から出掛けましょう」
「よし」
「僕は序に友達の家へ寄らせて貰います」
「俺も勝田君か坂本君のところへ寄ろう。晩に蓬莱館ほうらいかんで落ち合えば宜いだろう?」
「僕は早く入って席を取って置きます」
「俺も成るべく早目に行く」
「屹度ですよ」
「大丈夫だ」
「この頃は百間松へ狐が出るそうだから、独りじゃ帰れません」
「馬鹿なことを言うなよ」
「いゝえ、本当です。水窪みずくぼの若い衆が二人、この間活動を見に行った帰りに化かされて、プーカ/\ドン/\をやりながら松原を踊って歩いていたそうです」
「ハッハヽヽヽ。コン/\さんも西洋式になったんだね」
「それ丈けこの辺の文化が進んだんでしょう」
 と正次郎君は妙なことを標準にしている。
 二人は昼食後家を出た。角町まで二里、それも坂道が多い。丁度中途どころに百間川が流れている。川幅百間というのだけれど、精々五十間ぐらいのものだろう。随ってそこにかゝっている百間橋も五十間しかない。その手前に百間の松原というのがある。しかしこれは百間どころか、十町から続いている。
「こゝかい?」
 と卓造君が思い出した。
「こゝですよ。この松原を端から端まで夜っぴてプーカ/\ドン/\をやって歩いていたそうです」
「活動写真の帰りを狐に化かされるなんかはこの辺特有の時代錯誤さくごだろうね」
「兄さん、そんなことを言って馬鹿にすると、ひどい目に会わされますよ。こゝの狐は通る人に見極めをつけて置いて、後から好きなもので化かすんだそうですから」
「しかし活動や野球はまさか知るまい」
「いや、人を化かすくらいの狐です。活動や野球ぐらい見ているに相違ありません。兄さんは野球で化かされます。僕は活動にきまっています」
 と正次郎君は真面目になって化かされることを主張した。
 こんな他愛もない話に打ち興じながら百間川へ差しかゝると、橋の袂のお茶屋に洋服姿の男が数名休んでいた。このあたり、洋服は役人か先生丈けだから注目をく。
「何処の連中だろう?」
 と思って、卓造君と正次郎君はジロ/\見ながら通った。折から、
「おい/\」
 と呼んだものがあった。振り返ると、田川の伯父さんが奥の方に坐っていた。
「やあ」
 と二人は歩をとどめた。
一寸ちょっと寄って行きなさい」
 と伯父さんは立って来て、サイダーを命じてくれた。
「伯父さんも町へお出掛けですか?」
 と卓造君が訊いた。
「今日はこの連中の案内さ」
「何処の人達ですか?」
「水力電気の技師連中だよ。東京から大滝を見に態※ 《わざわざ》やって来たのさ」
「それは/\」
わしが呼んだんだよ」
「はゝあ」
「昨日から検分を始めて今しがた漸く済んだところさ。ナカ/\念の入ったものだよ」
「そうして何んな具合ですか?」
「喜んでおくれ。大分有望らしい」
 と伯父さんはニコ/\していた。
「それは結構ですな」
「何れゆっくり話す。その中に二人でおいで
「はあ」
「お母さんに言って置いておくれ。好い芽を吹きそうだって」
「はあ」
「角町は何だな? 友達の家か?」
「はあ。急ぎますから、それじゃこれで」
 と卓造君は簡単に切り上げた。
「兄さん」
 と間もなく正次郎君は橋の真中に立ち止まった。
「何だい?」
「水力電気が到頭成功しそうですね」
「さあ」
「僕はこの間の晩こゝから大滝の方を向いて拝んだんです。早速効験こうけんがありました」
だ分らないよ。伯父さんは無暗と気が早いんだから」
「しかし東京から態※ 見に来るようならめたものです」
「いや、伯父さんが呼んだんだよ。それで態※ 来たんだよ」
 と卓造君は態※ 《わざわざ》の解釈を異にしていたものゝ、再び水力電気にのぞみしょくし始めた。百間橋から半里ばかり上流に大滝というところがある。川の水全体が数間の傾斜面を落下する。ナカ/\の壮観だ。単に滝としても立派に物の数に入るのだが、周囲あたり辺鄙へんぴだから一向顧みられない。この両岸一帯の森が田川家の所有地になっている。一度こゝを県庁の技師が調査に来た。以来卓造君の伯父さんは病みついて、水力電気のことばかり言っている。
「伯父さんが自分でやるんでしょう。待っているよりその方が早いです」
 と正次郎君が言った。
「身上を潰すのもその方が早いよ」
「しかし見込のないことはしますまい」
「いや、あの伯父さんは度胸が好いからね」
「僕は有望だと思っています。日外いつぞや学校から発電所を見学に行きましたが、丁度あんな風な滝のところでしたよ。あれよりも小さかったです」
「成功すれば何よりだけれどもなあ」
「兄さんは大学へ行けます」
「俺はもう決心している。自分でやるよ」
 と卓造君は答えたが、急に明るい心持になっていた。
 角町かどまちに着くと、二人は夫れ/″\友達を訊ねる為めに別れた。卓造君は同級の勝田君の家へ寄って話し込んだ。
「時に何うしたね? 例の方は」
 と勝田君が訊いた。
「僕はもうきまっているよ。君は?」
「兎に角、出掛けるさ。到頭親父を説きつけた」
「それは宜かった。僕も正式に承知して貰った」
 と卓造君、この休暇中に得たところは卒業後東京遊学の許可だった。但し二人とも学資を出して貰える境遇でない。そこで大いに話が合う。
「君、尾崎さんが帰って来ているぜ」
「尾崎さんて?」
「この町から出た成功者さ」
 と勝田君は目を輝かした。角町の誇りはこの尾崎さんと陸軍中将の吉川さんだ。
「素晴らしいものだぜ。吉川閣下の時と同じように桝屋を借り切って泊っている。三十何年ぶりで先祖代々の法事に帰って来たんだ」
「もう老人だろうね?」
「僕のところの祖父さんと同年だよ。七十二か三だろう」
「見たかい? 君は」
「うむ。昨日お寺へ行く時見た」
「何んな人だい?」
「吉川閣下ほど立派じゃない。しかし息子達は貴公子然としている」
「皆来たのかい?」
「一家挙って来たんだろう。娘だか孫だか、綺麗な断髪がいたぜ。二十何人という大人数だ」
「故郷へ錦を飾ったんだね」
「小学校へ千円寄附したぜ」
「あの辺の千円は此方こっちの一円にもつくまい」
「まあうだろうね」
「兎に角、こゝは大頭おおあたまを二人出しているからえらいよ」
 と卓造君は羨しがった。
「君の方にだってあるじゃないか?」
「初めて博士が出たと思えば獣医学と来ている」
「成金がいるじゃないか?」
「あれはもう駄目だそうだよ」
「三井の支店長が出ている」
「あれは隣り村だ」
「兎に角、先輩に少しでも豪いのがいると心丈夫だね。僕のところの親父も漸く分ったようだよ」
「何が?」
祖父じいさんが尾崎さんのことを話して僕の為めに弁じてくれたのさ。祖父さんも尾崎さんも吉川閣下も皆同年の寅兵とらへいだったそうだ」
「トラヘイ?」
「その頃寅の年のものから徴兵が始まったから、寅兵といったんだそうだ。しかし今と違って長男は当然免除される。ところが三人とも揃って次男坊だろう。尾崎さんと僕のところの祖父さんはずるい。俗に徴兵養子という奴に行って巧く免れた。吉川閣下はその頃から度胸が据っていたと見えて策をろうさない。取られて東京へ行ったのが出世の糸口さ。しこゝにいたら矢っ張り畳屋をやっている」
「それは然うだろう」
「尾崎さんだってその後食いつめて東京へ出たから、あれ丈けになったんだぜ」
「動機は鉄道に賛成して、分らず屋連中に家へ石を投げ込まれたからだっていうじゃないか?」
「いや、あれは後から拵えた立志伝だよ」
「然うかね」
「豪くなるとはたからはくをつけてくれる。実は二進にっち三進さっちも行かなかったんだそうだ。こゝで食えたら無論こゝにいたのさ。精々町会議員ぐらいのところだったろう。初めから豪いんじゃなかったらしい」
「人間は成功すると豪くなるんだね、豪いから成功するんじゃなくて」
うとも。機運に打っつかれば馬鹿でない限り何とかなる。或程度まで偶然だよ。吉川閣下にしても、将軍になってから再び郷党にまみえると言って出て行ったことになっているが、祖父さんの話によると全く嘘だ。『東京見物をしておっ走って来る』と実は逃げて来る覚悟だったそうだ」
「兎に角、出ることだね。こゝにいたんじゃ先が見えている」
「機運は中央さ。何かにっつかるよ」
 と勝田君は近所の成功者を目に見ている丈けに鼻息が荒い。
「しかし失敗して来たらざまはないぜ」
「それを親父が言うんだよ。金を持って修業に行ったものさえ中途半端で帰って来るんだからってね」
「親として有理もっともな心配だよ」
「殊にこの町は薄志弱行の本場だから迷惑する」
「僕の方も敢えて人後に落ちない。東京の大学へ六年行っていて到頭卒業しないで帰って来たのがある」
「こゝにも多いんだよ。しかしお互は決心が違う」
「いや、決心が違っても、尾崎さんや吉川さんの頃とは時世が違うんだから心細い」
「しかし機運は幾らでも転がっている」
「いや、中学卒業丈けじゃその機運が掴めないんだ」
「学校へ入るさ」
「ところが苦学は絶対に不可能らしい。単に新聞配達をする為めに東京へ行くのなら考えものだぜ」
「意気地のないことを言い出したね」
「僕は時々悲観するよ」
「何うにかなるさ」
「それがね」
「何あに、精神一到何事か成らざらんやだ。Where is the way ……」
「違っているよ」
「Where is the will ……」
「違っているよ。金言が違っていたんじゃ仕方がないぜ」
「おや/\、矢っ張り心細いな」
「実際心細いよ」
 と卓造君は尚お少時しばし前途を語り合った後、
「僕はこれから坂本君のところへ寄る。君も何うだい?」
 と誘った。
「行こう」
「それから活動を見ようってんだ」
かろう」
「僕があんまり考え込んでいるものだから、弟が誘い出してくれたんだよ」
「来ているのかい? 正ちゃんも」
「何処かへ寄っている」
「待ち給え、着物を着て来るから」
 と勝田君は裸体はだかで話していたのだった。
 二人は本町通ほんまちどおりへ出て桝屋旅館の前へ差しかゝった。この家は角町第一で、大演習の折、宮様のお宿を勤めたことがある。
「君、尾崎さんの威光は大したものだね。自動車が五台来ている」
 と卓造君が感心した。自動車は町中に十台しかない。その半数が貸切になって並ぶのは総選挙の時に限る。
「何処かへ出掛けるところだ。待っていて見よう」
「うむ」
「僕は昨日お寺の門のところで一時間以上待った」
 と勝田君は気が長い。成功に憧れる青年には偉人が神さまに見える。親しく拝む為めには百里の道も遠しとしない。二人は宿屋の前に棒立ちになって覗き始めた。
「あんたちゃ先刻さっきから何か用かね?」
 と宿の若いものが出て来て咎めた。
「いゝや」
「それなら彼方側あっちっかわへ寄っていておくれ。邪魔だあに」
「人が来れば退くよ。見たって宜いだろう?」
 と勝田君は不服を唱えた。
「東京の尾崎さんは見世物じゃない」
 と若いものまで尾崎さんを笠に着ている。
 そこへ自動車が一台乗りつけた。
「おい、君」
 と卓造君は目を円くした。
「何だい?」
「僕の伯父が入って行ったよ」
「ふうむ。尾崎さんを知っているのかい?」
 と訊いた勝田君は領分を荒されたような心持がした。親しく知っているのは自分の祖父さん丈けにして置きたい。
「何うだかね? 兎に角、今のは伯父と一緒に大滝を見に行った連中だよ。僕は百間橋のところで会った」
「然ういえば尾崎さんは序に別荘地を探すんだそうだよ。大滝も見るって祖父さんが言っていた」
「これは面白い」
 と卓造君は思い当って膝を叩いた。
「何が?」
「何でもないよ。ハッハヽヽヽ」
「君、大滝は実際この辺の名所だから、尾崎さんあたりに見て貰えば東京へ響くぜ」
「僕もそれを考えたんだよ」
「今日か知ら?」
「何が?」
「大滝見物さ。この通り自動車が並んでいるんだから、出掛けるに相違ない」
夕涼ゆうすずになってからって寸法だろう」
「然うだよ、屹度」
「有望々々」
「行って見ようか?」
「さあ」
「今から行って待っていれば丁度好い。二人で案内してやろう」
「しかし来ないと馬鹿を見るぜ」
「一つ訊いて見よう」
「駄目だよ、又叱られる」
「僕はこゝの番頭を知っている」
 と言って、勝田君は旅館へ入って行った。もう一方、卓造君は自動車の方へ歩み寄って、
「何処へお出掛けですか?」
 と尋ねた。
「大滝です」
 とあった。そこへ出て来た勝田君も、
「大滝々々!」
 と言った。
 二人は一里半の道を大滝まで駈けつけた。自動車と競走の積りだからヘト/\になった。
「あゝ、喉が乾いた」
 と先ず川の水をガブ/\飲んだ。
「相変らず好い景色だね。といっても僕は中学校へ入ってから来たことがない」
 と卓造君は滝よりも両岸の森に見惚れた。
「こゝは君の方の領分だぜ。土地のものがそんなに冷淡じゃ困るよ」
 と勝田君が笑った。
「今まではそんな余裕がなかったんだよ」
「これからはある積りかい?」
「将来第二の尾崎さんになってこゝへ来る機運きうんがある」
「急に元気が出たね」
「天下は廻り持ちさ。悲観するなよ」
「これは驚いた」
「滝よ、滝よ! 我を強くせよ!」
「何を言っているんだい?」
「ハッハヽヽヽ」
 と卓造君はいつになくはしゃいだ。それは兎に角、
「もうソロ/\来そうなものだね」
 と一時間余り待ったが、尾崎さんの一行は姿を見せなかった。
「君、これはいけない」
「予定が変ったんだ」
「もう少し待とう」
「ひどいブトだ。足がれてしまう」
 と言っているところへ、鮎釣が一人通りかゝって、
「あんたちゃ何だね? この日の暮れ合いにこんなところへ打っ坐って」
 とあやしんだ。
「君、橋のところに自動車が五台ばかり待っていなかったかい?」
 と勝田君が訊いた。
「あんたちゃもう何うかしているよ」
「あゝ、然うだった」
 と卓造君は突如いきなり立ち上った。狐のことを思い出したのである。四辺あたりはもう暮色蒼然ぼしょくそうぜん

 故郷へ錦を飾る人 

 百間松の狐は通る人に見極めをつけて置いて、後からその好むものを利用して化かす。朝弟の正次郎君が然う言った時、卓造君は一笑に附したが、今考えて見ると、それが立派な教訓になっている。何うかして東京へ勉強に出たい。これが卓造君目下の全屈託ぜんくったくである。苦学をすると言っているものゝ、内心伯父さんの水力電気を当てにしている。勝田君に誘われて角町から一里半の道を遙々歩いたのは、成功者の風貌ふうぼうに接したいというよりも大滝が物になりそうか何うかを確めたかったのである。四辺が暗くなるまで河畔かわばたのブトに食われながら坐っていて、ついに鮎釣りの男に注意された時、自分の薄志弱行を頓に感じさせられた。
「馬鹿を見た」
 と勝田君がこぼした。
「もう日が暮れる」
 と卓造君は目が覚めたようだった。
「急ごう」
「早く往還へ出よう。危く化かされるところだった」
「狐にかい?」
「然うさ」
「君は案外迷信家だね」
「こんなところで真暗になって見給え。方角が分らないぜ」
「それは然うだ」
「化かされるってのは屈託があって自分で迷うのさ。何かに気を取られている時に自己暗示が起るのだろうと思う」
「例によって理窟を言い出したよ。僕は腹がへった」
「僕もペコ/\だ」
「道で心太ところてんでも食おう」
 と勝田君は懐中相応ふところそうおうの応急策を持ち出した。
「僕は何ならもう家へ帰りたいんだけれども」
「しかし正ちゃんが蓬莱館で首を長くして待っているぜ」
「然うだなあ」
 と卓造君は再び角町まで引き返さなければならない。
 河畔の草原道を百間橋に辿り着いたら、とっぷり日が暮れた。これから本道ほんどうだ。
「君」
「何だい?」
「明日の朝早く橋で落ち合おうじゃないか?」
 と勝田君が改めて発起ほっきした。
「又行くのかい?」
「然うさ」
「僕はもう諦めた」
「何故?」
「来るか何うか分らないんだもの」
「屹度来る。今日は何か差支が起って明日に延したんだ」
うか知ら?」
「番頭が嘘をつくわけはない。運転手も然う言ったじゃないか?」
「しかしもう見に行く必要がなくなったんだろう?」
「何うして?」
「何うしてって」
「大滝見物は日程に入っているんだよ。祖父さんが僕に話したもの」
「いつ?」
「昨夜だよ。祖父さん丈けだそうだぜ、君僕で話すのは。そこは昔馴染だからね」
「それじゃ矢っ張り確かだな」
 と卓造君は水力電気が又有望になった。
「明日は大丈夫だよ。朝から晩迄待っていれば屹度成功する」
「馬鹿に熱心だね」
「僕は尾崎さんも見たいが、実はもう一つ見たいものがあるんだ」
「何だい?」
「断髪のモダン・ガールさ」
「何あんだ」
とてもこの辺や○○町で見られる代物しろものじゃない。三人いるぜ。明日大滝へ行って待っていれば親しく咫尺しせきすることが出来る」
 と勝田君は本音を吹いた。
「そんなお附き合いは御免だよ」
「何とか言っている」
「本当さ」
「君は見ないからだよ。しかし断髪美人は副産物さ。主な目的は成功者の謦咳けいがいに接してインスピレーションを受けることにあるんだから差支あるまい」
「さあ」
「何うせ遊んでいるんだから散歩の積りで出て来給え」
「尾崎さんが来るに定っていれば来ても宜い」
「それじゃ約束しよう。僕は九時に橋で待っている」
おそかないかい?」
「大丈夫だ。金持はそんなに早く起きない」
「よし」
 と卓造君は何うしても大滝へ引きつけられる。
「坂本君も引っ張って来る」
「宜かろう」
「弁当を持って来給え」
「大変な騒ぎだ。併し君のは尾崎さんだかモダン・ガールだか分らないぜ」
「一挙両得さ。修養にもなれば娯楽にもなる。家でノラクラしているよりも必ず益するところがあるよ」
 と勝田君は何処までも熱心だった。
 二人は角町に着いて、活動写真館へ入った。正次郎君は待っていた。しかし卓造君には映画よりも、もっと興味を惹く問題があった。朝から見聞した事柄を綜合して考えると、何うしても百間川へ機運が向いている。水力電気は伯父さん年来の口癖で親戚間の笑い話になっているけれど、何うやらそれが実現されそうに思われる。同時に前途が明るくなったような心持がする。気がかりなのは尾崎さんの大滝検分だ。態※ 《わざわざ》彼処まで見に行くようなら、もう疑問の余地はない。しかし再び待ち呆けを食わされるようなら、万事休す。
「溺るゝ者は藁にもすがる」
 という英語の字幕が目に入った時、卓造君は一寸悲観した。
「藁かも知れない」
 と思って又考え直したが、その日見聞した条件には割引のつけようがなかった。
 兄弟は十時近くに連れ立って村へ向った。
「正次郎、お前の祈ってくれたことが叶うかも知れないよ」
 と卓造君は胸中の希望を長く秘めていられなかった。伯父さんが尾崎さんを訪れたことから尾崎さんが大滝を見に行くことなぞを途々詳しく話した。
「有望ですな。僕は又橋の上から拝みます」
 と正次郎君も大喜びだった。
 卓造君は七里歩いた勘定になる。疲れていたから能く眠った。翌朝、勝田君との約束を果す為めに百間川へ向う途中、田川へ寄った。
「卓さん、伯父さんは角町へ泊り込んでいて帰りませんよ」
 と伯母さんは未だ起きたばかりだった。
「大滝が有望なんでしょう?」
 と卓造君は早速問題に触れた。それが訊きたくて寄り道をしたのだった。
「さあ」
「何んな具合ですか?」
「一昨日出て行ったきり音沙汰がありませんが、何うせ駄目ですよ」
「しかし東京から見に来ているんでしょう?」
「もうこれで三度目ですよ。そのたんびに小千円もかゝるんですから、水力電気はもうフル/\ですわ」
「今度は好いかも知れませんよ」
「これで諦めさえつければね」
「伯母さんにかゝっちゃかなわないなあ」
「話半分ってことがありますが、伯父さんのは十分の一に行けば宜いのよ」
「おや/\」
 と卓造君は落胆がっかりした。伯母さんは伯父さんを誇大妄想狂こだいもうそうきょうと見ている。
「卓ちゃん、早いね」
 とそこへ従兄いとこの睦さんが起きて来た。
「お早う」
「僕はこれから置鉤を上げに行くんだが、何うだね? 一緒に来ないか?」
「さあ」
「鯰の二三本は駄賃にやるよ」
「然うですな」
 と卓造君は困った。
「何処かへ出かけるところかい?」
「えゝ」
「角町かい?」
「いゝえ、百間川です」
「鮎かい?」
「いゝえ、友達が待っているんです」
「水浴びか。それなら宜いけれど水力電気ならよし給えよ。ハッハヽヽヽ」
 と睦さんは笑った。伯父さんは息子にも見放されている。
「何処ですか? 置鉤は」
「裏の川さ」
「お供しましょう。未だ時間があります」
 と卓造君は連れ立った。もう急いで百間川へ行く気もない。
「卓ちゃん、親父の病気が又起っているんだよ」
「何処かお悪いんですか?」
持病じびょうさ。百間川だよ。一昨日から帰って来ない」
「僕、昨日橋のところで会いました」
「ふうむ」
「東京の人達と一緒でした。大滝を検分して貰ったんでしょう?」
「然うさ。今度で三度目だよ。技師ってものは吹っかけるね。又七八百円取られるんだろう」
「金を出して見て貰うんですか?」
「東京から唯来るものかね。旅費と日当と鑑定料かんていりょうを取られる」
「はゝあ」
「その上宿屋は此方持こっちもちさ。今度のは助手共に四人だろう? 桝屋へ泊っている。一寸待ち給え」
 と睦さんは小川の岸へ寄って、鉤を一本上げたが、何もかゝっていなかった。
 この置鉤というのは極めて原始的の漁法である。余り上手下手がない。道具は二尺ばかりの細い竹竿に麻糸と鰻鉤で、丈夫一式に拵えてある。夕刻蚯蚓みみずの太い奴をつけて岸から川の中へ垂らして置くと、夜分鰻や鯰がガブリと食って引っかゝる。竿が岸に差してあるから、暴れても逃げられない。その中にひょろ長い体に糸がからんで動けなくなる。それを朝行ってめて来る。尤もこれは理論で、実際は蚯蚓を寄進につくことの方が多い。
「鑑定が及第すれば何うなるんですか?」
 と卓造君は置鉤に頓着なく尋ねた。
「何にもならない。今までだって始終及第している」
「それじゃ一遍見て貰えば沢山じゃありませんか?」
「そこが病気さ。二年に一度宛技師を呼んで、こゝは有望ですよと言って貰わなければ虫が治まらない」
「技師は鑑定丈けで工事をやらないんですか?」
「金主がつかなければ駄目さ。水力電気は生やさしい資本じゃ行かないからね」
「睦さん」
「何だい?」
「今度は金主がついているんじゃないでしょうか?」
「何故?」
「尾崎さんも桝屋に泊っています」
「あれは別だよ。法事に来たんだもの。待ち給え」
 と睦君は又河畔へ屈んだが、
「おや/\。竿まで持って行ったぞ」
 と呟いた。
「惜しいことをしましたね。余っ程大きいのがかゝったんでしょう」
「こゝから好いところだから、二十本置いてあるんだよ。おや/\」
「何うしたんですか?」
「これは鰻じゃない。人間だよ」
「はゝあ」
「この辺から両側へベタ一面に二十本置いたんだけれど一本も見えない。皆持って行ってしまやがった。悪い奴がいるなあ、この村には」
「ハッハヽヽヽ」
 と卓造君は笑い出した。
「今朝は寝坊をしたからね。置鉤は早起きでなけりゃ駄目だ」
「何あに、取るくらいの奴は夜の中に廻りますよ」
「これは昨日の夕方僕が置いているところを見ての仕事だ」
うかも知れません」
「あゝ、損をした。馬鹿々々しい。もう帰ろう」
 と睦さんは諦めが好い。何うせ銀行をやめて遊んでいる人だ。
 卓造君はそのまゝ睦さんに別れて田圃路を辿り始めた。伯母さんと睦さんの話し振りに悉皆すっかりしょげてしまった。伯父さんの大風呂敷は穴の明いていることまで承知しているが、これほど当てにならないものだとは思わなかった。家の人さえ相手にしていない。考えて見ればお父さんからも注意があった。金箔つきの妄想を自分都合で有意義に解したのが浅ましい。
「溺るゝ者は藁にも縋る」
 という昨夜の字幕が妙にクッキリと頭に浮んだ。
 村を出放れたところで近所の小寺君に追いついた。これは師範生だけれど、小学校は同級生だ。
「角町かい?」
「うむ。君は?」
「僕は百間川だ。一緒に行こう」
 と二人は道連れになった。
「あゝ、児玉君、お芽出度う」
 と小寺君は気がついたように微笑む。
「何だい?」
「君の伯父さんさ」
「何だい? 一体」
「君は未だ新聞を見ないのかい」
「見ない。今朝は早く出て田川へ寄って来たものだから」
「寄ったなら聞いて来たろう?」
「いや、一向」
「田川さんと尾崎さんのことが出ていたんだよ」
「ふうむ。何て? 何て?」
 と卓造君はき込んだ。
「いつか正次郎君から聞いた百間川の水力電気さ。あれを尾崎さんと君の伯父さんがやるそうだ」
「本当かい?」
「可なり長く書いてあったよ。尾崎さんの談話も載っていた。角町へ四十何年か御無沙汰をしたお詫にお土産として永久的繁栄策を残して行くんだってさ」
「それは好いことを聞かせてくれたね。それから?」
「一遍読んだきりで能く覚えていないが、兎に角大仕掛らしい。大滝に発電所が出来て、角町に会社のビルデングが建つ。東京へ電力を送るんだそうだ。それから田川さんの経歴が詳しく紹介してあった」
「有難い! 実は僕はそれが心配で百間川へ行くところさ」
「しかしもう検分済みとしてあったぜ」
「技師は昨日見たが、今日尾崎さんが見に来るのらしい」
「成程」
「何んな人だか見たいんだ。僕は」
「僕も見たいなあ。尾崎さんといえば県下どころか日本全国有数の成功者だからね」
「これから行って橋のところで待っていれば宜いんだよ」
「何時頃来る?」
「それが分らないから、この通り弁当を持って来た」
「熱心だなあ。尤も君はその筈だ」
 と小寺君は卓造君の事情を知っている。
 百間松へ差しかゝったら、勝田君と坂本君が遠方から手を振って合図をしていた。
「何か拡げている」
 と小寺君が言った。
「新聞だ」
 卓造君は小寺君を置きっ放しにして駈け出した。
「おい/\、児玉、言わないこっちゃないぜ」
 と勝田君は何も言わなかったくせに先見の明を誇った。
「見せてくれ」
 と卓造君は新聞に掴みかゝった。それは角町唯一の権威「角城日報」だった。
「何うだい? こん畜生!」
 と坂本君が背中をどやしつけた。
「まあ、待て」
「ハア/\言って読んでいやがる」
 と勝田君が笑った。この二人も事情を能く知っている親友だ。そこへ小寺君が追いついた。
「あゝ、これは僕の村の小寺君だ」
 と卓造君は気がついて紹介した。
 四人は橋を行きつ戻りつして一時間余り待った。
「僕はもう失敬しましょう。途中で出会うかも知れませんから」
 と小寺君が先ずしびれを切らした。
「もう少時しばらくです。好いものが見られますよ」
「は?」
「ハッハヽヽヽ」
 と勝田君は笑った丈けで、モダン・ガールと明言しなかったものだから、小寺君は未練を残さずに行ってしまった。
「来た! 北!」
「何れ?」
「方角を言ったんだよ」
「今度こそ来たよ」
れ?」
「と思ったら馬力だった」
 なぞと退屈凌ぎの冗談が長いこと続いた後、自動車が見え始めた。
「五台」
「六台だ」
「七台だよ」
 と近づくに従って数が読める。三人は駈け戻って橋の袂に立ち並んだ。
「橋が落ちやしなかろうか?」
 と卓造君が案じた。まことに百間橋を七台の自動車が舳艫じくろ相銜あいふくんで渡るなぞは開闢かいびゃく以来の出来事だった。
 しかし心配は要らなかった。
「これだ。これだよ」
 と勝田君が囁いた。尾崎さんと夫人が先ず下りたのである。まるで年が違う。
「奥さんが若いね」
もとの奥さんはうに死んだんだよ。これが惣領だ。似ているだろう? 貴公子、貴公子。これが次男さ」
 と勝田君は詳しい。
「何れが何れだか分らないよ」
「そら/\。そら」
 と勝田君は一生懸命だ。断髪の美人が出て来た。
 卓造君はモダン・ガールよりも田川の伯父さんだった。昨日の連中の間にその姿を見かけると直ぐに前に進み寄った。
「卓造か」
 と伯父さんは驚いたようだったが、そこは以心伝心、刹那せつなの間に双方の意思が通じた。
「やあ」
 と勝田君と坂本君は新聞記者を捉まえた。二年前に○○中学校を卒業した同じ町の先輩だから、極く懇意の間柄だ。ストライキがあったらいつでも書いてやると常々約束している。
「今日はお供さ」
 と記者は先頭の自動車を指さした。成程、「角城日報社」という赤旗が翻っていた。
「大変な騒ぎだね。何人いるだろう?」
 と勝田君はモダン・ガールをぬすみ見た。
「無慮百名さ」
「そんなにいないよ」
「五十名か?」
「三十名そこ/\だよ」
「それを百名と書くのが腕前さ」
「今日の記事は君が書くんだね?」
「うむ。昨日のも僕が書いた。昨今僕は尾崎さん係りだ」
 と記者先生、大得意だった。この男が書いたのかと思ったら、卓造君は少々心細くなった。
 一行は草原路を大滝へ向った。三人の青年は新聞社の先輩と話しながら殿後しんがりを勤めた。田川の伯父さんは尾崎さんを案内しながら、
「時に尾崎さん、あなたを敬慕する郷党の青年に何なりとお言葉をかけてやって戴けませんでしょうか?」
 と持ちかけた。
「演説ですか? 私は極く訥弁とつべんですが」
「いや、ほんの御一言で結構です」
「何処ですか? 会場は」
 と尾崎さんはやる気だった。
「いや、御講話ではありません」
 と田川の伯父さんは困り切った。
「それでは何ですか?」
「中学生が三人、橋のところからついて参りました。皆あなたの御声望に憧れて一二里の道を遠しとせず、朝から彼処で待っていたものと見えます。一人は私の甥です」
「はゝあ」
「私も覚えのあることですが、若い時えらい人物から言葉をかけられますと、それが一生身に沁みて何かの時の役に立ちます」
「成程」
「何か一つ心得を仰有って戴きたいものですが、如何いかがでございましょうか?」
「お安い御用ですよ。会いましょう」
 と尾崎さんは至って平民的だ。尤も元来食いつめて東京へ逃げたほどの身分である。
「恐れ入りました」
「何処にいますか?」
「いや、滝へ着いてからに願いましょう。景色の好いところで承わらせて戴けば、印象が一段深まります」
 と田川の伯父さん、ナカ/\巧い。
 河岸伝かわぎしづたいにさかのぼること半里、林間の道を通り抜けると、大滝が眼前に現れた。
「まあ! 何て綺麗なところでしょう!」
 と婦人連中は歎声を洩らした。
「壮観々々!」
 と息子さん達は絶叫した。尾崎さんは景色よりも実務だった。技師が左右から何彼と説明する。
「何うですか? 昔御覧になったまゝでしょう?」
 と田川の伯父さんが言った時、卓造君の一行は尾崎さんの後ろへ忍び寄っていた。
「もっと大きいと思っていましたよ」
「それはあなたが大きくなり過ぎたからですよ」
「ハッハヽヽヽ」
 と尾崎さんは上機嫌だった。
「卓造」
 と田川の伯父さんが呼んだ。
「はあ」
「あなた方も」
「はあ」
 と勝田君も坂本君も不動の姿勢を取った。
「尾崎さん、先刻申上げた青年です」
「これは/\」
 と尾崎さんは向き直った。
「これが甥です」
「初めてお目にかゝります」
 と卓造君は緊張した。
「次は?」
 と田川の伯父さんに促されて、
「角町の勝田です」
 と勝田君は自ら紹介した。
「はゝあ、勝田君というと、勝田新二郎さんの御親戚ですか?」
 と尾崎さんが訊いた。
「はあ、孫です」
「それは/\」
「私は坂本です」
 と坂本君がお辞儀をした。
「はゝあ、坂本姓は角町に多いですが、町長さんのお身寄じゃありませんか?」
「三男です」
「これは不思議だ。皆縁のある人達ですな。精を出して勉強して下さいよ」
「はあ」
「何れ東京へお出掛けでしょう」
「はあ」
「その時には私のところを当てにしておいでなさい。及ばずながらお力になります」
「はあ」
「田川さん」
 と尾崎さんは田川の伯父さんを見返って、
「角町は人材から教育してかゝらなければ駄目ですよ」
御道理ごもっともです」
 と田川の伯父さんは頷いた。
「あなたもその積りで奨励して下さい。私も及ばずながらお力になります」
「はあ、宜しく願います。まことに有難うございました」
「皆さんも精一杯やって下さい」
「はあ」
 と三人は一斉にお辞儀をして退いた。

 若ものゝ心 

 尾崎さんの一行が大滝を後にして百間橋へ向った時、三人の青年は又殿後しんがりを勤めた。
「犬雉猿だね」
 と勝田君が囁いた。
黍団子きびだんごが出る」
 と卓造君が受けた。
「一番そばまで行ったのは僕だぜ」
 と坂本君が主張した。
「僕だよ」
「僕さ。僕のところへは尾崎さんの唾が飛んで来た。真正ほんとう謦咳けいがいに接したのは僕さ」
「僕のところへも飛んで来た。歯が悉皆すっかり見えたぜ。入歯だけれど、あれは金じゃない。プラチナだろう」
 と卓造君と勝田君は感銘が深い。
「僕は香水のにおいまで嗅いでいる」
 と坂本君が笑った。
「何あんだ。その方か?」
 と勝田君も相好を崩した。
「実際綺麗だね、東京のモダン・ガールは」
「僕が誘った丈けのことはあったろう?」
「うむ。僕は直ぐそばまで行って、滝を見る振りをして顔を見ていたのさ」
「図々しい奴だ」
「動く度に香水の香がプーンさ。ヘッヘヽヽヽ」
 と坂本君は大喜びだった。
「僕は口をきいたよ」
 と卓造君が言った。
「嘘をつけ」
真正ほんとうだよ。一番小さい人が『この水は何処から来るの?』って、貴公子に訊いたのさ。すると貴公子が『君、この水は何処から来る?』って僕に訊いた。『僕の村から涌いて来ます』って、僕が答えたのさ」
「それじゃ間接だ」
 と勝田君は安心した。
「僕の村からなんて言えば田舎漢いなかものと思われるよ」
 と町生れの坂本君は常に都人士とじんしをもって自任している。
 不図行列が止まった。川瀬の中の鮎釣が尾崎さんの目をいたのだった。
「何うだい? 釣れるかい?」
 と卓造君の伯父さんが大きな声で呼びかけていた。
「駄目でがん」
 と鮎釣は答えて、
「これは/\、田川の旦那でがんすか?」
 とお辞儀をした。
「行って見よう」
 と三青年はそれを機会に再び尾崎さんの身辺に近づいた。
「私も若い時やったものです。親父に叱られましてね」
 と尾崎さんは四五十年前のことを話していた。
「一尾釣れるまで見ていましょうよ」
 と一人のモダン・ガールが言った。
「いや、釣魚つりをするものは馬鹿、見ているものは尚お馬鹿だよ」
 と尾崎さんは警句を吐いて、もう歩き出した。
 三人は又々殿後しんがりに戻った。
「香水の香がプン/\」
 と坂本君はモダン・ガールを嗅ぎに行ったのだった。
「成程、プーンと来たよ」
 と勝田君もぬかりなかった。
「おれは成功するぞ」
「発憤したね、偉人の力は豪いものだよ。僕も何だか前途が明るくなって来た」
「いや、僕は尾崎さんよりもモダン・ガールに感激したんだよ」
「おや/\」
「成功しなければとてもあんなのは貰えない」
「動機が好くないね」
「僕は偉人よりも美人だ」
 と坂本君は徹底している。
 少時しばし話が途絶えた後、
「おい、君」
 と勝田君が卓造君を顧みた。
「何だい?」
「尾崎さんは私のところを当てにしてお出なさいって言ったね」
「うん」
「何ういう意味だろうなあ」
「さあ」
「及ばずながらお力になりますって言ったぜ」
「保証人になってくれるって意味さ」
 と坂本君は裕かな身分丈けに先輩の好意を軽く受けていた。勝田君はもっと物質的に解釈したかった。
「僕はそればかりじゃないと思うね」
 と卓造君も考えていた。
「何う思う?」
「兎に角有望だよ」
「君は何方にしてももう大丈夫だ。水力電気が成功するんだもの」
「僕は夢のような気がする」
「僕のは夢になるかも知れない」
「何が? モダン・ガールかい?」
 と坂本君は香水の香ばかり気にしている。
 百間橋に着くと、尾崎さんの一行はお茶屋で暫時休憩の後、自動車で角町へ引き返した。三人の青年は橋の袂に待ち受けて見送った。卓造君の伯父さんと技師連中は一台の自動車と共に残った。
「伯父さん、お家へお言伝はありませんか?」
 と卓造君が気を利かした。
「いや、これからこのお客さん達を家へ案内するんだよ」
 と伯父さんは技師連中と一緒に自動車へ乗り込んだ。三人の青年は序にこれを見送って、
「さあ、何うしようか?」
 と相談を始めた。成功者とモダン・ガールに咫尺しせきして目的を果したが、このまゝ別れたくない。
「町へ来いよ。僕のところで話そう」
 と坂本君は卓造君を誘った。
「さあ。こゝまで来たんだから僕のところへ来ないか?」
 と卓造君は村の方へ後ろ髪を引かれた。伯父さんは帰った。技師連中がついて行った。水力電気が気になって仕方ない。
「帰りが大変だよ」
「僕も今日は都合がある。しかしいちの山まで行きたいんだが」
 と勝田君は坂本君の同意を求めた。市の山は百間松の直ぐ彼方むこうだ。
「市の山に何の用があるんだい?」
「お祖父さんの薬を頼まれているんだ。この休暇になって幾度来たか知れない」
「何の薬?」
「小便薬さ。僕のお祖父さんは腎臓だ。小便が出なくて困る」
「お祖父さんが腎臓って論理はないよ」
「腎臓があるんだよ」
「腎臓は誰だってある」
「厭に揚げ足を取るんだね。腎臓に故障があるんだよ」
「それなら分る」
 と坂本君はり込めた積りで得意だった。
「分ったら附き合い給え。二里余りの道を遠しとせずしてお祖父さんの薬を買いに行く孝行息子だ」
 と卓造君は少しでも自分の方へ引っ張りたがった。
「父母に孝というぜ。お祖父さんでも孝行息子かい?」
「参った/\」
「恐れ入ったかい? それじゃ市の山まで勝田君を二人で送ってやろう」
 と坂本君は恩に着せた。
 百間松を辿りながら、
「何うだい? 小便薬の秘伝は未だ分らないかい?」
 と卓造君が勝田君に訊いた。
「少し手がかりがついた。田螺たにしだよ、あれは」
「田螺? 田にいる?」
「うん。この間は『今種切れだから少し待っておくれ』と言って、爺さんが裏の田へ行って取って来た。僕は潰すところを見ていたが、確かに田螺だった」
「田螺を何うするんだろう?」
「白い粉の中へ入れて煉るんだよ。それからは家伝だと言って寄せつけないから分らないけれど、それが真黒な膏薬になるんだから不思議だよ」
一介ひとかい幾らだい?」
「十銭さ、一日分」
「安いなあ。尤も田螺なら元は唯だ」
「小便薬ってのは膏薬かね。僕は飲み薬だと思っていた」
 と坂本君も名丈けは聞いて知っている。
「紙に伸して足の裏へ張るんだよ」
「利くかい?」
「利くとも、小便がドン/\出る。腎臓は小便さえ出れば宜いんだ」
「医者の薬よりも利くそうだよ。角町からも○○町からも買いに来る」
 と卓造君は隣村のよしみで大いに推賞した。
「しかし持って帰り方が悪いと些っとも利かない。皆知らないものだから失策しくじる。あれは棒の先につけて担いで行かなければいけない」
「何故?」
「利く薬だからね。直接じかに持ったり懐中へ入れたりして帰ると途中でその人が皆小便をしてしまう」
「ハッハヽヽヽ。此奴は面白い」
 と坂本君が笑った。
真正ほんとうだぜ」
「ハッハヽヽヽ」
「それだから僕はいつもこのステッキの先に吊して帰る」
「実に巧い宣伝だよ」
「何あに、百姓の爺さんが片手間にやっているんで、お願い申さなければ売ってくれない。人助けさ。先祖が百間川の河童と懇意になって秘伝を授かったんだそうだ」
 と勝田君は益※ 馬鹿なことを言い出す。
「官許かい?」
「何?」
「印紙を貼って売るのかい?」
「いや、素人薬だ」
「それじゃ秘伝を盗んでも構わないんだろう?」
「無論さ」
「それじゃ今日やろうじゃないか? 三人揃って行けば何うにかなる」
 と坂本君が発起ほっきした。
「実は僕もこゝまで買いに来るのが辛くて、この間から心掛けているんだ」
 と勝田君はもとよりその意思があった。
「田螺だけはもう分ったんだから、後一息だよ」
 と卓造君も賛成だった。
「都合の好いことにはいつでも行ってから拵える」
「それは田螺なら腐るからさ」
 と坂本君が簡潔に説明した。
「然うかも知れない。猫が嘗めるところを見ると、あの薬は確かに田螺だ」
「田螺に未だ疑問があるのかい?」
「ない。問題は白い粉さ。それからあれが真黒になるのが不思議だね」
「それは田螺が苦し紛れに化学作用を起すんだろう」
「こじつけたね」
烏賊いかなんか墨を吐くぜ」
「成程」
「その白い粉さえ盗めば宜いんだよ」
「盗まなくても鑑定がつけば宜いんだ」
 と勝田君は穏便の手段を希望した。
「いや、分析ぶんせきしなければ分らないよ。安心し給え。僕が巧く盗む」
「おい/\。無茶なことをしてくれると僕が困るよ。僕は始終通るんだからね」
「何あに、正義の為だ。恐れることはない」
 と坂本君は勇み立った。
 松原を出外れると、三人は往還から少し入り込んだ百姓家を訪れた。
「爺さん、又来たよ」
 と勝田君は常得意だ。
「好いお天気だな」
「薬を五日分拵えておくれ」
「昨日拵えたのがあるよ」
 と爺さんは直ぐに五つ出してくれた。これには当てがはずれた。しかし坂本君は透かさず、
「僕も頼まれて来たんだが、未だあるかね?」
 とやった。
「ある」
「それじゃ六つ貰おう」
「四つ五つ六つ」
 と勘定して、爺さんは又出して来た。
「僕も欲しいんだけれど」
 と卓造君が応援に出た。
「幾つ?」
「幾つあるね?」
「三つしかない」
「五つ欲しいんだが、拵えて貰えまいか?」
「よし。序に拵えべえ。あんたちゃそこで待っていておくれ」
 と爺さんは早速製造に取りかゝった。
 三人は縁側に腰を掛けた。坂本君が煙草をのみながら籠絡ろうらくに努める。
「爺さん、こゝの薬は角町で評判だよ」
「角町どころか」
「○○町からも買いに来るだろう?」
「○○町どころか」
「十里四方の評判だよ」
「十里四方どころか」
「これは驚いた」
「東京から買いに来たよ。あの通り角町の郵便局へお上のお達書たっしがきがついている」
 と爺さんは首をひねって頭の上の額面を仰いだ。
「こゝからは見えないよ」
「上って御覧。お上のお達書だに」
「どれ」
 と坂本君は上って行って拝見した。それは金一円の郵便小為替を額にしたものだった。勝田君も卓造君も上り込んで、
「成程。お上のお達書だ」
 と感心した。三人はそのまゝ爺さんの作業を見物する積りだったが、
「お達書を見たら皆下りた下りた」
 と息子が警戒したので、又縁側へ戻った。何うも機会がない。しかし資本もとを入れているから一生懸命だ。
「君、煤々《スートスート》」
「何?」
「煤だよ」
「何が?」
ブラックにするのはスートだよ。今息子がアヴンから取って来た」
「成程」
「そら、混入ミックスした」
「成程。又行った。煤々。これで一つ秘伝シークレット窃盗スチールした」
 と学校で習った英語が斯ういう時の役に立つ。間もなく膏薬が出来上った。
 したたか買い込んで往来へ出た時、
「馬鹿を見た」
 と卓造君が落胆がっかりした。
「何あに、細工は流々だ」
 と坂本君は得意がった。
「何か得るところがあったかい?」
 と勝田君が訊いた。
「見給え」
 と坂本君は袂の中から白い粉を掴み出した。
「やあ、やったのかい?」
「ハッハヽヽヽ」
「些っとも気がつかなかった」
 と卓造君も感心する。
「お達書を拝見して坐った時さ。恐れ入ったろう?」
素敏すばやいなあ。まるで商売人だ」
「馬鹿あ言うな」
「何だろう?」
 と勝田君は指先で吟味して、
「これは蕎麦粉そばこらしいな」
 と鑑定した。
「僕も蕎麦粉と睨んでいる。田螺と蕎麦と一緒に食うとあたるって言うじゃないか?」
「成程」
「これは貴重な材料だ。家へ帰って分析して見る」
「蕎麦粉とくらべて見る方が早いよ」
「うんと掴んだが、力を入れたものだから指の間から逃げてしまった。しかし成功したよ」
 と坂本君は大得意だった。
「有難い/\。これでもう買いに来る世話がなくなった」
 と勝田君は到頭目的を達した。家伝薬も斯ういう乱暴な連中に会ってはかなわない。
「何うだい? こゝまで来た序に僕の方まで来ないか?」
 と卓造君は再び誘った。
「いや、もう帰る」
「山中村にはモダン・ガールがいないからね」
 と勝田君が註を入れた。
「これから帰って桝屋の前に張り込んでいるんだろう?」
「まあその見当さ。勝田が然う発起している」
「僕じゃない。坂本だ」
「いや、君だよ」
ずるい奴だ。自分が言い出して置いて」
 と二人が争う。
「それじゃ僕は失敬する。この薬は勝田君に寄贈しよう」
 と卓造君は小便薬を勝田君のステッキに縛りつけた。
「や、忘れていた」
「然うだ」
 と突如いきなり坂本君が卓造君に組みついた。
「何をする?」
「水力電気のお祝いだ」
 と勝田君もかゝって、卓造君を胴上げにした。若いもの同志は話が荒い。
 卓造君は村へ急いだ。田川へ寄ったら、お客さんの接待で忙しい最中だった。
「卓ちゃん」
 と睦さんがニコ/\しながら出て来た。
「お芽出度う」
 と卓造君も相好そうごうを崩した。
「親父め到頭駄法螺だぼらを吹き当てたよ」
「好い塩梅でした」
「百間川ばかりじゃないんだよ」
「はゝあ」
「僕は驚いてしまった。村から湧く水を金にしようってんだよ」
「何うするんです」
「未だ内証だが、村へ工場が出来るのらしい」
「何の工場です?」
「モスリンとキャラコだそうだ。こんな水の好いところは日本中にすくないってさ。あれはさらすんだからね。四人来た中の二人はその方の技師だよ」
「それじゃもう検分したんですね?」
「水窪丈けはもう済んだ。昼から小谷へ行く。君は今道で自動車に会ったろう?」
「えゝ、会いました」
「あれは尾崎さんに知らせを出したんだよ」
「尾崎さんが来るんですか?」
「夕涼になってからだろう。しかし世間体は別荘地物色ということにしてある。工場が出来るなんて言うと宗像むなかたや安藤が騒ぎ出すからね。君もその積りでいてくれ給え」
「大丈夫です」
「この田川でも水窪でも小谷でも河端は大抵家の地面だ。豪いことになるよ、これは」
「田川の家運が向いて来たんですな」
「村中でんぐり返るぜ。ハッハヽヽヽ」
 と睦さんが大笑いをした時、
「睦や、睦や」
 と伯母さんが呼びに来て、
「あら、卓さん、丁度好い。お父さんにね、羽織袴でね、直ぐに来て下さいって。昼からお客さんが見えますからってね」
 と頼んだ。
「伯母さん、お芽出度うございました」
 と卓造君はお祝いを述べた。
「未だ何うなるか分りませんよ。あの伯父さんのことですもの」
 と口先でこそけなしたが、伯母さんの顔はその朝と違って明るかった。

 のらくら息子 

 卓造君の生れた山中村は水の名所である。あざからして泉、小谷、水窪なぞと水にちなんだところが多い。村中から水が湧く。それが田川で落ち合って可なり大きな川になる。田川さんの田川は姓でもあり、川の名でもあり、又字の名でもある。田川が隣村の百間川へ流れ込んで大滝になる。鮎も河童もこゝから上へは登れないという伝説になっている。凄じい勢だ。もうそのまゝで電気が出ているように水が青光る。
 田川の伯父さんの頭には常にこの大滝があった。水力電気! 先代が左前ひだりまえにして残した家産の益※ 傾くにつれて、そればかり考える。尤も他に挽回の道はない。小作は我儘になるばかりだ。何彼と言って毎年のように年貢を値切る。約定やくじょう通りに入れることは滅多にない。ひどく足りない年が続くと、田川さんは田地を手放す。それも村の人に知られたくないから遠方のを片付ける。田舎の金持は辛い。自分の所有物を処分するにも遠慮がある。その都度これでは困るとき立てられた心持になって、東京から水力電気の専門家を招聘しょうへいする。
「これは有望なところです」
 と技師連中は折紙をつけてくれるが、単にそれ丈けの話だ。世間は相手にしない。
「又田川の旦那の道楽が始まったよ」
 と言っている。去年の秋、田川さんは末の娘を縁づけると共に又々遠方の田地を手放す時期が来た。事があると何うしても食い込む。
 丁度その頃、東京の尾崎さんが大滝の夢を見た。若い時鮎を釣りに行った記憶が残っていたのだった。彼処あすこから上は鮎も河童も登れないという伝説まで思い出した。
「郷里には好い景色のところがあるよ」
 と息子さん達に話した。それから妙に大滝が頭の中に残っていて企業の方とからみついた。成功者は夢寐むびにも金儲けを忘れない。彼処を一つと思いつくと同時に、水源の山中村が胸に浮んだ。長男が紡績の方面に手を染めている。相談の結果、技師を呼んで、
「一遍見て来て貰おう。有望なら展墓てんぼに行く」
 ということになった。
「待ち給えよ。彼処へ行って仕事をするには田川を抱き込まなければ駄目だ。田川の田川といって村一番だ。先代とは懇意だったから無論好意を持ってくれる」
 と尾崎さんは四十年前のことを忘れなかった。
 下検分の技師が訪れた時、田川さんは夢かと思った。ソロ/\金を出して見て貰わなければ虫の納まらないところへ自弁で来てくれたのだから、下へも置かない。今まで溜めた鑑定書を悉皆すっかり見せて、
「早速御案内致しましょう」
 と勇み立った。
「いや、私は水力の方じゃございません」
「はゝあ」
「村の水を拝見に上りました」
「水を? はゝあ」
「実は尾崎さんの御惣領が紡績の方をやっていられますので……」
 と技師は用件を説明した。
 この下検分の結果は申分なかった。田川の伯父さんはその後二回上京して尾崎さんと打ち合せを済ませた。
「矢っ張り百間川のことですか?」
 と伯母さんが訊いた時、
「然うだ」
 と誤解のまゝにした。
「矢っ張り駄目でございましたろう?」
「駄目だった」
「あの川がないと家では幾ら助かるか知れませんわね」
 と伯母さんは毎度のことだから厭味いやみを言った。
「今に見ろ」
 と田川さんも今度は本音だったが、例によって信じて貰えないのを没計もっけの幸いとした。人情としては成功を語りたかった。しかし尾崎さんから口止めをされている。それに自分の都合もあった。
「田川はイヨ/\いけないらしい」
 という評判が間もなく伝わった。これは遠方の田地を一時に悉皆すっかり手放してしまったからである。
「お父さん、厭な噂を聞きました。田川はこの頃鞘で食っているって皆言っていますよ」
 と次いで睦さんが世間の取沙汰を紹介した。
「何ういう意味だい?」
「高いところを売って安いところを買うからです」
商人あきんどは皆然うだよ」
「けれども米と違って田地の話です。川端田地ばかり買うからですよ」
「背に腹は更えられない」
 と田川さんは笑っていた。川端田地は水をかぶるから三割方安い。田川さんは村外の田地を売った金でそれを買い込み始めた。
 斯うして待っていたのだから、今回尾崎さんが惣領初め技師連中を引具ひきぐして山中村へ本検分に来たのは予定の行動だった。卓造君のお父さんはその接待役として召し出された。卓造君も夕刻まで手伝った。
「尾崎さんはナカ/\この村の地理に明るうございますな」
 と田川の伯父さんは彼方此方あっちこっち引き廻しながら感心した。
「実は若い時に一月ばかり来ていたことがあります」
「はゝあ?」
「四五十年前の懺悔話ざんげばなしになります」
 と尾崎さんはニコ/\した。
「これは聞きものですな」
「泉に辻といって、家へ来ていた奉公人の家がありました」
「泉の辻? さあ」
「今は角町へ出ているそうです。そこへ一時かくれていました」
「はゝあ」
「当時角町の若い者の間に博奕ばくち流行はやりましてな、連中が皆上げられました。私一人好い塩梅に遁れましたが、世間体があります。その頃の山中は狐狸ばかりでお上の目が届きませんでしたからな」
「恐れ入ります」
「その辻の家へ来て、余炎ほとぼりの冷めるまで、毎日魚を釣って歩いていました」
「成程」
「それで水の涌くところは詳しいのです」
「して見るとその頃の御記憶が今回の御事業にあずかって力ありますな?」
「全くうですよ」
「何が仕合せになるか知れません。お蔭さまで山中村が世に出ます」
 と田川の伯父さんは一生懸命だった。
 卓造君のお父さんは小学校長だから、何かこの成功者から学童への教訓資料を得ようと心掛けていたが、聞いたのはこの博奕の話丈けだった。しかしそれによっても尾崎さんの豪いことが分った。五十年前の失策しくじりから紡績工場を思いつくなぞは到底凡人のわざでない。それで夕刻役目を果して帰った時は、
「尾崎さんに会って来たよ。卓造が弁当持ちで見に行くのも無理はない」
 と悉皆敬服していた。
「何んな具合でございましたの?」
 と卓造君のお母さんは尾崎さんよりも田川家の利益関係だった。
「卓造の話した通り村へ紡績工場が出来るのらしい」
「まあ/\」
「学校を鉄筋コンクリートにしてくれるそうだ」
「コンクリ?」
「分らなければ宜しい」
「あなた、学校よりも家の方でございますよ、斯うなると」
「何うなると?」
「工場が出来るんでしょう?」
「然うさ。村税は全部会社で持つようになるそうだ」
「兄さんは相変らずお話が大きいのね。それから?」
「それっきりさ」
「でも百間川が物になるんでしょう?」
 と卓造君のお母さんは年来期待を置いている。
「然うだろう」
 と校長先生は慾がない。
「あなたは子供の使のようね」
「何故?」
「水力電気が来れば私は分けて貰うんですよ。姉さん達は昔の田川の格式で片付いたんですが、私丈けは違いますからね」
「馬鹿!」
「何が馬鹿でございます?」
「お前は何かというと田川の世話になりたがる」
さとですもの。当り前じゃありませんか?」
「少しはおれの顔を立てろ。卓造が月々学資を出して貰う丈けでも、おれは好い加減肩身が狭いんだ」
「兄さんは何うせ詰まらないことに使ってしまいますよ。あの人は公益が病気ですからね。兄さんが使わなければ睦さんが使ってしまいます」
「誰が使っても人の金だ」
「私、兄さんと約束があるんです。これからお祝いながら行って参ります」
「もう日が暮れるよ」
「正次郎をつれて行きます」
「おれが行く。卓造が行く。その後からお前が正次郎をつれて押しかけて行く。嫂さんは何と思うだろう?」
「…………」
「兄さんは明日尾崎さんと一緒に東京へ立つんで忙しいんだ」
「卓造は未だいますのね」
「うむ、手伝っている。おれは尾崎さんを見送ると直ぐに逃げて来た。金儲けの自慢話は聞きたくない」
「変人ね」
 と卓造君のお母さんは機嫌が悪かった。
 翌日正午、○○町の駅は尾崎さんの一行の見送人で賑った。角町の有志は総出だった。自分の方の成功者だから鼻が高い。それが永久的繁栄策をお土産に残して行くのだから景気が好い。
「○○町の奴等、今に見ろ」
 という肚がある。その昔鉄道を寄進について以来、角町は振わない。学校といわず工場といわず、すべて土地の潤いになるものは皆○○町に取られている。
 田川の伯父さんも一行に加わって東京へ立つ。卓造君は睦さんと一緒に駅へ詰めかけていた。
「卓ちゃん、有象無象うぞうむぞうが集まったね。ウヨ/\している」
 と睦さんは一同を見渡した。
「聞えますよ」
 と卓造君は声を潜めた。
「先刻僕に挨拶した年寄があったろう?」
「えゝ」
「あの禿頭は角町銀行の頭取だよ」
「然うですか」
「この間僕がよす時には此方から挨拶をしても碌々口をきいてくれなかったが、手の裏を返したようだ。現金なものさ」
「矢っ張り百間川が利いているんですね」
「無論さ。面白いなあ。この連中は皆百間川の方しか知らないんだ」
「村の方が知れちゃ大変ですよ」
「今に角町中がでんぐり返る」
「昨日は村中でしたね?」
「段々大きくなるのさ。ハッハヽヽヽ」
 と睦さんは得意だった。
「しかし僕は心配でいけません」
「何故?」
「新聞記者をしている友人が先刻僕を捉えたんです」
「訊いたかい?」
「えゝ」
「何て? 何て?」
「昨日は昼から尾崎さんに出し抜かれたが、一体何の用があって君の村なんかへ行ったんだいって」
「危い/\」
「別荘地を物色に来たのさと誤魔化したら、それは嘘だよって、チャンと知っているんです」
「モスリン工場のことをかい?」
「いゝえ、そこまでは感づきませんが、何かあったと思っています」
「流石は新聞記者だ」
「それで僕は用心して余りニコ/\しないようにしています」
 と卓造君は言う口の下から相好を崩した。
 間もなく発車時刻になった。卓造君と睦さんは伯父さんの車窓近くで見送った。尾崎さんが特に会釈してくれたのも嬉しいことの一つだった。一同は万歳を唱えた。汽車が出てしまうと改札口で押し合いが始まった。
「卓ちゃん」
 と睦さんは外へ出てから漸く一緒になった。
「まるでお祭りですね」
「大変な人だ」
「直ぐ帰りますか?」
「君は?」
「さあ」
「卓ちゃん、僕は知っているよ」
「何ですか?」
「君はお母さんに頼まれたろう?」
「何をですか?」
「僕を直ぐに引っ張って帰るようにって。僕は聞いていたぜ」
「然うですか」
 と卓造君は困った。
「親父が立ってしまえばすぐに度胸が好くなるからって、ねえ」
「そんなこと知りません」
「兎に角その辺でお昼を喰べよう。今日は御馳走をするよ」
「僕は宜いです」
「何あに、遠慮は要らない。昨日から手伝って貰った慰労だ。来給え」
 と睦さんは卓造君を引っ張って歩き出した。
「僕は饂飩か蕎麦で沢山です」
「そんなものはいけない。今日はお祝いだ」
「何処へ行くんですか?」
「まあ/\、僕に委せ給え」
「それじゃお昼を喰べたら直ぐに帰りますか?」
「見給え。頼まれている」
「そんな次第わけじゃありませんけれど」
 と卓造君は退っ引ならない。
 田川の惣領睦さんは中学時代からのらくらもので、東京へ修業に行ったが、中途で帰って来た。角町の銀行は一年でやめた。○○町や角町の待合へ勘定を溜める外に一向能がない。田川さんは思うところあって、未だ嫁を貰ってやらない。お母さんに言わせれば、
「早く貰ってやらないから遊ぶのです」
 とあって、田川さんが悪い。
「何あに、嫁は虫押えじゃない。あゝグラ/\しているものが貰ったところで何うなる?」
 と田川さんは睦さんのもっと落ちつくのを待っている。
 斯ういう睦さんだ。先頃銀行の方が不首尾になってから逼塞ひっそくしていたが、父親の成功が略※ 《ほぼ》確定すると共に料簡は再び軌道を脱していた。煙たい親父を見送った足で中学五年生の卓造君を案内して行った先は○○町一流の料理屋だった。
「僕、困ります」
 と卓造君は後退あとじさりをした。
「構わないよ、僕がついている」
「料理屋へ入ると退校になります」
「今日は違う」
「いゝえ」
「僕は君の従兄いとこだよ。父兄がついている。心配は要らない。さあ」
 と睦さんは理窟を言ってグイ/\引っ張る。見っともなくて仕方がない。
「それじゃ御飯を戴いて直ぐ帰りましょう」
 と卓造君もついに度胸を据えた。
 二人は二階へ通って、庭を見晴らした部屋に納まった。睦さんは顔が売れている。女中達が、
「田川の旦那」
 と呼んだ。卓造君はこれだから無銭飲食が出来るのだと思った。
「卓ちゃん、風呂に入り給え」
 と睦さんが言った。
「宜いです。こゝから出るところを見つかると退校です」
「こゝの風呂だよ。大丈夫だ」
「然うですか。それでも宜いです」
 と卓造君は袴を穿いてかしこまっていた。
「卓ちゃん、料理屋で飯を食ったって些っとも罪悪なことはないよ」
「…………」
「結婚式の披露は皆こゝでやるんだからね」
「分っています」
「人間は窮屈にばかりしているのが豪いんじゃない。見給え、尾崎さんは若い時博奕を打ったと言ったろう?」
「えゝ」
「さあ、風呂に入ろう」
 と睦さんは弁解と説得を兼ねた。
 お膳が出た時、女中と入り代った女が卓造君に盃を差した。
「要りません」
「おビールに致しましょうか?」
「飲むと退校です」
 と卓造君は受けつけない。
「何でも退校だね」
 と睦さんは笑って、自分独りビールを飲みながら、
「しかし食う方は構わない。大いにやってくれ給え」
 と薦めた。
「戴きます」
 と卓造君は腹がへっていた。
 睦さんは大分飲んでから、
「時に卓ちゃん、君は来年東京へ行く。それについて僕は成功の秘訣を話したいと思うが、聴いてくれるかね?」
 と真面目に切り出した。
「はあ」
「失敗して帰って来た僕が忠告らしいことを言うのは変なものだが、前車の覆轍ふくてつということもある。参考になるぜ」
「承わります」
「僕はあゝしろ斯うしろと教える資格は無論ない。しかしあゝするな斯うするなと戒める資格は充分ある。好くないという好くないことは大抵して来たからね」
「そんなこともないでしょう」
「まあ/\、ゆっくり話そう」
「早い方が宜いですよ」
「それじゃ早速取りかゝるかな。しかし気がすね。芸者を側に置いてお説法は」
「はゝあ。この人が芸者ですか?」
 と卓造君は見返った。
「あらまあ、御挨拶ね」
 と芸者は扇子で顔をかくした。
「傑作々々」
 と睦さんは手を叩いて喜んだ。
「私、もうお暇させて戴きますわ」
「それが宜かろう。存在を認められていないんだから」
「憎らしい!」
 と芸者は突如いきなり卓造君の膝をつねった。色気抜きだから念力がこもっている。
「痛い!」
 と卓造君は覚えず声を立てた。睦さんが笑い転げる。
「あなた、美ちゃんと菊ちゃんを呼んで上げて頂戴よ」
「いや、お前のようなのが安全第一で宜い」
「私、そんなにお婆さんに見えて?」
 と芸者は今更懐中鏡を取り出して睨み入る。
「睦さん、もう帰りましょう」
 と卓造君はモジ/\した。
「まあ/\、待ち給え。お説法を聴いてくれる約束だったじゃないか?」
「家へ帰って伺います」
「僕は飲みながらでないと真面目なことが言えない性分だ。卓ちゃん」
「何です?」
「始めるよ」
 と睦さんは芸事でもやるように居住いを直した。
「お喉を湿して」
 と芸者がぐ。
「卓ちゃん、東京へ行って一番大切なのは天を恐れないことだ。天を恐れちゃいけないよ、卓ちゃん」
「僕は天を恐れ人をうやまうと習ったように覚えています」
「その天とは天が違う。天空さ。大空さ。大空が落ちて来ると思って怖がっちゃいけないよ、卓ちゃん」
杞人きじんうれいですか?」
「それとも違う。天空の圧迫さ。見給え。山中村は無論のこと、○○町や角町から東京へ修業に行ったものは大抵中途半端で帰って来る。失敗率が多いぜ。これはこの辺の人が特に天空の圧迫に弱いからだと僕は確信している」
「はゝあ」
 と卓造君は何うせ酔っ払い相手だ。諦めている。
「この地方はこの通り何方を向いても山がある。ところが東京へ行くと山が些っとも見えない。実に心細いぜ。初めの中はとても変な気持がするよ、卓ちゃん」
「はゝあ」
「空に目印がないから、足元が始終フワ/\しているようで、落ちついて勉強が出来ない。何うしたってカッフェへ入り込むよ。あすこには目印がある」
「モダン・ガールの女給さん?」
 と芸者が口を出した。
「然うさ。山の代りだ」
「山の代りなら遊女おやまの方が手っ取り早いわ」
「それもあるんだ」
「芸者は何の代り?」
「睦さん、もう帰りましょう」
 と卓造君は片膝を立てた。
「まあ/\、待ち給え。君は目印をカッフェの女給につけちゃいけない。山が見えなくて心細いと思ったら、直ぐに学問につけるんだね」
「分っています」
「僕も然うすれば立派に卒業しているんだが、遺伝だから仕方がない。田川家は代々東京へ行って失敗している。僕で三代目だ。卓ちゃん、君はお祖父さんが邏卒らそつになった話を聞いているかい?」
「いゝえ」
「維新後東京へ行って邏卒を志願したそうだ。今の巡査だが、当時はそれが唯一の登竜門で、邏卒から大臣まで出世をした人が大勢ある。お祖父さんも辛抱していたら知事ぐらいにはなったろうが、何うも山が見えないものだから腰が据らない。それに鹿児島人が威張ったそうだ」
「はゝあ」
「お祖父さんが小言を言うと、人民は『この邏卒は田舎漢だよ』って馬鹿にする。鹿児島出身の邏卒が鹿児島弁でやると、『この邏卒さんは真物ほんものだ』と言って怖がる。同じ田舎漢でも鹿児島人丈け幅が利く。お祖父さんは憤慨して帰って来てしまった。目印があれば我慢するんだけれど、何分山がないから心細くて頑張れない」
「…………」
「その次が親父さ。これは大学まで漕ぎつけたのだから僕よりえらいよ。三四年行っていたらしい。しかしもう一息というところでお祖父さんが死んで半年ばかり帰っていたものだから悉皆すっかり後戻りをしてしまった。又行ったけれど、もう落ちつかない。その頃はカッフェがなかった代りに矢場ってものがあった。矢場女さ。親父は今でこそ鹿爪らしい顔をしているけれど、ナカ/\たちが悪かったんだよ」
「…………」
「それから僕さ」
「もう分っています」
「いや、僕の一代記は長いんだぜ」
「家へ帰ってからゆっくり伺いましょう。僕はこんなところにいると心配で仕方ありません」
「よし/\。要するに君は山の圧迫に負けちゃいけない」
「空の圧迫でしょう」
「然う/\。もう酔っ払った」
「帰りましょう」
「帰る」
「さあ」
「おい、ソロ/\御飯にしておくれ」
 と睦さんは未だ手間がかゝる。

 捕らぬ狸の皮 

 卓造君の家ではお父さんとお母さんの間に意見の相違があった。初めお父さんが何かの拍子に、
「村に工場なんか出来るのは元来面白いことじゃない」
 と本音を吹いた。
「何ういう次第わけでございましょうか?」
 とお母さんは直ぐに聞き咎めた。
「村の風儀が悪くなる。教育上面白くない」
 と児玉さんは小学校長としての立場から道理もっともだった。
「それじゃあなたは田川が金持にならなくても宜いんですか?」
 と細君は今し里が昔通り村一番になるか何うかの瀬戸際、一生懸命のところだから、これも無理がなかった。
 児玉さんはそのまゝ口をつぐんだ。この際世道人心を説いても耳に入るまいと思ったのである。細君は既に気に入らないことが一つあった。それは一昨日児玉さんが尾崎さんの接待から戻った時の態度だった。田川へ運が向いて来ているのに、嬉しそうな顔もしない。
「金儲けの自慢話は聞きたくない」
 と吐き出すように言った。それがある上にこれだったから、もう黙っていられない。
「あなた、卓造の出世にはえられませんよ」
 と開き直って弁じ始めた。しかし暖簾に腕押しだったので、
「あなた」
 と返辞を促さなければならなかった。
「何だい?」
「私、先刻から申上げていますのに、あなたは本気になって聞いて下さいませんのね」
「もう好い加減にしなさい」
 と児玉さんは見返った。
「それならあなたは卓造の出世が嬉しくないんですか?」
「未だ出世をするか何うか分っていないよ」
「東京へ修業に行けば出世をするにきまっていますよ」
「いや。定っていない。睦さんを御覧」
「睦さんと家の卓造は違いますよ」
「…………」
「兎に角、出世の道が開けました。卓造は東京へ修業に出して戴けますよ」
「さあ」
「あなたは親として喜んで下さるのが当り前じゃありませんか?」
「おれは然う/\田川へ厄介をかけたくない」
「そんな遠慮は要りませんよ。困る時はお互ですわ」
「此方は困る時ばかりだ」
「姉さんが何か変なことでも仰有いましたか?」
「いゝや」
「兄さんも姉さんも機嫌好く出して下さるんだから宜いじゃありませんか? 何万円も儲かるんですもの」
「何万円儲かっても田川の金だ」
「田川のものは家のものですわ」
「それが違うよ」
「違いません」
「お前は馬鹿だから仕方がない」
「馬鹿とは何です?」
「まあ/\、静かにしなさい」
「それじゃ兄さんの方から出して下さると仰有れば宜いんでしょう?」
「おれは頼まない代りに反対もしない」
「あなたのお顔は私が立てますよ」
「…………」
「儲かるんですもの。卓造の学資ぐらい何でもありませんわ」
「金儲けの話はもうよしてくれ」
「変人ね」
 と細君は唇を噛んだ。
 卓造君はこの問答を小耳に※ んで翌日角町へ出掛けた。何うも落ちつかない。大抵なるようになるだろうと思うのだが、勝田君の鑑定を求めたかった。
「時に児玉、貴様は実に怪しからんぞ」
 と勝田君は二言三言話した後、思い出したように言った。
「何だい? 一体」
「尾崎さんを見送りに行った日のことだ」
「あの時は従兄と一緒だったし、あの通り押し合いだったものだから、ついはぐれてしまって失敬した」
「いや。それは構わないが、僕と坂本は後から君をけたんだ」
「ふうん」
「待合へ入ったな」
「待合だか料理屋だか知らないが、従兄に引っ張り込まれたんだ」
「芸者が来たろう?」
「うむ」
「巧くやりやがった。成功者は違う」
「ところが思い通りには行かないんだ」
「何うして?」
「親父が片意地だからね」
 と卓造君は目下の形勢を打ち明けた。
「しかし大丈夫だよ」
「然うだろうか?」
「君の出世に反対する筈はない」
「いや、親父の意見によると、出世と修業は別問題さ。僕の村は前例が皆悪いからね」
「それは角町だって同じことだよ。しかし修業が出世の糸口ぐらいの話は分っているだろう?」
「何も彼も分っていて、妙にこだわるんだから困る」
「結局君は何うするんだい?」
「石にかじりついてもさ」
「矢っ張り苦学をやるのかい?」
「いや。伯父さんに出して貰う」
「何あんだ」
「ハッハヽヽヽ」
「見上げた料簡だよ」
「この間からのことで決心が悉皆すっかり弛んでしまった」
「人間ってものは当てがつくと弱くなるものだよ」
「実際然うだよ。僕は昨今水力電気様々だ」
「この間までの元気ったらなかったぜ」
「矢っ張り意志が弱いんだね。こんなことじゃ駄目だと思うけれど仕方がない」
「お互のは元来つけ焼刃だからさ。実は僕も昨今悉皆剥げてしまった」
「え?」
「急に弱くなったよ」
「当てがついたね?」
「うむ。お祖父さんのお蔭さ。卒業したら兎に角寄越せということだ」
「尾崎さんがかい?」
「然うさ」
「それは巧い。君こそ成功者だ」
「いや、学校じゃない。使って貰うんだ。僕は学問は初めから諦めている。金さえ儲かれば宜いんだ」
「同じことだよ」
「尾崎様々さ」
 と勝田君は喜んでいた。
「君のはもう確定かい?」
「自分丈けはその積りさ」
「すると僕はもう相棒がなくなってしまうんだね」
「何の相棒が?」
「東京へ行って新聞配達をするとしてもさ」
「やる気があるかい?」
「ないけれども」
「君は坂本と一緒に行ける」
「然うなれば結構だがなあ」
「なるとも。大丈夫だ。ソロ/\入学試験の支度にかゝる方が宜いぜ」
「然うしようかとも思うんだけれど、何うも気が落ちつかない」
「伯父さんは金の使い場に困るぜ。大滝の権利金丈けでも二十万円だってじゃないか?」
「それは新聞の評判さ」
「話半分に聞いても十万円だ」
「伯父さんの料簡は能く分っているんだけれども」
「君のファザーはそんなに一こくかい?」
「うむ。何方どっちも負けず劣らずだよ。罷り間違った日には綺麗さっぱりなものだろうと思う」
 と卓造君はお父さんの態度が不安で溜まらない。
 もう一人落ちつかないのは田川のむつむさんだった。っともっとしていないで、出てばかり歩く。
「何うも仕事が手につきません」
「仕事なんかないじゃないの」
 とお母さんが笑った。
「それじゃ足が地につきません」
「兎に角、遠くへ出掛けちゃ困りますよ」
「村丈けです」
 と睦さん、信用がない。角町や○○町は銀行不首尾以来お法度はっとになっている。お父さんを見送りに行った帰りも、卓造君が一緒だったので漸く日のある中にお神輿を上げたくらいだから、常に警戒を要する。
 田川は昔古来だ。この二三代で身上を拵えた宗像や安藤とは格式が違う。村内のものは睦さんを見かけると、
「若旦那様」
 と呼びかけて腰が低い。今は何うでも先祖代々が恩を受けている。睦さんはその一人々々に向って、
「おい。面白いことがあるよ」
 と吹聴した。
「この度はお芽出度うございました」
 と皆水力電気の成功を評判に聞いていた。
「いや、そればかりじゃない」
「へゝえ」
「今に村中がでんぐり返る。ハッハヽヽヽ」
 と睦さんはこれを言いたくて出て歩いた。親類のものがお祝いに訪れても、
「面白くなって来ましたよ。今に村中がでんぐり返ります」
 とやる。
「睦や、お父さんの仕事こそこれまで度々でんぐり返っていますからね。イヨ/\となって手に握って見るまでは決して安心出来ませんよ」
 とお母さんは大切だいじを取っていた。
「何あに、もう九分九厘大丈夫です。今日は文子を喜ばして来ます」
 と睦さんは妹が嫁に行っている隣村まで出掛けた。
 しかし一番繁く足の向くのは卓造君のところだった。こゝでは打ち明けた話が出来る。謎めいたことを言う必要がない。
「バンタンマトマツタ。アンシンアレ。アスヒルツク」
 という電報が着いた時、お母さんは、
「やれ/\」
 と初めて安堵の胸を撫ぜ下して、
「卓ちゃんのところでも皆案じているだろうから、一寸知らせて来ておくれ」
 と命じた。睦さんは山一つ上の卓造君の家へ駈けつけた。
「叔父さん、イヨ/\でんぐり返りますよ」
「何うかしましたか?」
「電報が参りました。この通りです」
「はゝあ」
 と卓造君のお父さんは一読して、
「明日お帰りですな。結構でした」
 と言ったきり、大した感動を示さなかった。睦さんとは考え方が違う。金を儲けようと思って金を儲けるのは右を向こうと思って右を向くのと同じこと、当り前だと理解している。
「叔父さん、一つ景気づけに皆で揃って出迎えようじゃありませんか?」
「然うですな」
「親父は着く時間を知らせて寄越したことなんか一遍もないんです。いつもコッソリ行ってコッソリ帰って来たものですが、今度は余っ程得意と見えますよ」
「好い塩梅ですな」
「田川が昔古来の田川に戻るんですから、家の子郎党を引き具して国境まで出迎える値打がありますぜ」
「まあ/\、この際余り騒がない方が宜いでしょう」
「気取られますかな」
「家では卓造と正次郎をやりましょう」
「それじゃ然う願いましょうか。用心するに越したことはありません」
 と睦さんは何でも善意に取ってくれるから宜い。
「昼とありましたね?」
「十二時半のでしょう」
「卓造も正次郎もその積りでいなさい」
「はあ」
 と二人は合点首をした。○○町へ行く機会は素より望むところだ。
「睦さん、宜うございましたわね」
 と卓造君のお母さんが手を拭き/\台所から現れた。
「叔母さんに安心させようと思って、すっ飛んで来たんですよ」
 と睦さんは電報を突きつける。
「有難うございました」
 と卓造君のお母さんは読下して押し戴く。
「親父は矢っ張り豪いです」
「オホヽヽ。現金ね。今までは来る度にお父さんの悪口だったじゃありませんか?」
「ハッハヽヽヽ」
「罰が当りますよ」
「今度は実際恐れ入りました。お母さんだっていつもの駄法螺だぼらだと思っていたんです」
「お父さんが折角巧くやっても、跡取のあなたがしっかりしなければ駄目よ」
「斯うなればもう大丈夫です」
「昔の田川に戻れると思うと、私達から子供まで肩身の広くなるような気がしますわ。ねえ、あなた」
「それは然うさ」
 と卓造君のお父さんもよんどころない。
「お母さん、昔の田川には小判が沢山あったんですってね」
 と正次郎君が思い出した。
「ありましたろうよ」
「泥棒が入っても持ち切れなかったんですって」
「それはお前の曽祖父ひいじいさんの代のことでしょう」
「僕は小学校時代に先生から聞きました。大きな箱に一杯入っていたものだから、何れぐらい取られたか分らなかったんですって。お上の役人が調べに来た時、曽祖父さんが物差を当てがって見てこれぐらいもへりましたろうかなと言ったものだから、流石に田川さんだって感心したそうです」
「あれは維新の頃でしたろう。その箱が今でも土蔵にありますよ。正ちゃん、今度見せて上げよう」
 と睦さんは真剣だった。
「小判はないんですか?」
「お祖父さんが皆使ってしまった。ハッハヽヽヽ」
「その時分の田川は百間川まで余所よその土を踏まずに行ったそうですから大したものよ。お祖父さんの代に大分いけなくなったんですが、それでもお葬式が上光寺まで余所の土を踏まずに行ったんですから、未だ/\かなりあったんですね。兄さんの代よ、公益々々で動きが取れなくなったのは」
 とお母さんは田川盛衰記を読み始めた。
「それが昔通りに戻るんだから宜いじゃありませんか?」
「矢っ張り兄さんは豪いわ。到頭吹き当てたんですから」
「可哀そうに、予定の行動ですよ」
何方どっちでも苦情はありませんわ。儲けてさえ下されば」
「叔父さん」
 と睦さんは児玉さんが退屈しているのに気がついた。
「何ですか?」
「考えて見ると、親父はこの春頃から大体目算をつけていたようですよ」
「はゝあ」
「私が銀行をやめる時、『宜いわ。遊んでいろ。今に村で仕事をおっ始めて、お前が勤まるようにしてやる』と言いました」
「はゝあ」
「僕も平社員は困りますけれど、何か役がつけば勤まります」
 と睦さんは気が早い。新設会社の椅子も多少色彩のあるのを心掛けている。
「事務員は東京から入り込むでしょうな?」
 と校長先生、これが第一お気に召さない。
「大部分は然うでしょう。しかし土地のものでも持株が口を利きます」
「村の少女が皆女工ですか?」
 と次にこれが甚だ面白くない。
「土地発展の為めですから、何れ叔父さんあたりから勧誘を願うようなことになりましょうよ」
「女工のですか?」
「はあ」
「豪いことですな」
「叔父さんも学校をやめて会社へお入りになっちゃ如何ですか? 叔父さんの年配なら課長が勤まりましょう」
「一つ兄さんに頼んで見るかね。ハッハ」
「何分お子さんが多いですからな。子供の教育の為めに教育界は早く足を洗うことですよ。恩給が利用出来ます、恩給が」
 と睦さんが調子に乗った時、卓造君は、
「やッ!」
 と叫んで、睦さんの踵を叩いた。
「何ですか?」
「蚊がいました」
「あゝゝゝ」
 とお父さんは欠伸あくびをした。
「睦さん、一体幾らぐらい儲かりますの?」
 と卓造君のお母さんは手っ取り早く単刀直入に訊いた。
「さあ」
「私、割前を戴くのよ。オホヽヽヽ」
「大滝の権利が二十万円」
「結構ね。村の方は?」
「正確なことは分りませんが、兎に角、水田が住宅地になるんですから大きいです」
「幾らのものが幾らになりますの?」
「角町辺の相場から押しますと、一段六七百円が五倍になると見て三千円でしょう」
「何段売れますの?」
「叔母さんは駄目ですな。桁が違います」
「何町歩売れて?」
「工場丈けでも十町歩は要りましょう」
「十町歩というと幾ら?」
「一町歩三万円として三十万円です」
「まあ! 大滝と両方で五十万円ね」
「地価が五倍になります。それが大抵家で持っているところですから、何うしても村中でんぐり返りますよ」
 と睦さんが住宅地まで引っくるめて七十万円に計上した時、卓造君のお父さんは、
「それでは睦さん、私はこれから学校に用事がありますから一寸行って来ます」
 と言って立ち上った。
「何うぞ」
「行っていらっしゃいませ」
 と卓造君のお母さんは送り出した後、
「あゝいう変人ですからね」
 と笑った。
「何うしたんでしょう?」
「お金のお話が大嫌いよ」
「おや/\」
「工場の出来るのも反対よ」
「一体何ういう次第わけですか?」
「村の風儀が悪くなるばかりですって」
「それじゃ学校をやめて会社へお入りなさいなんて、飛んでもないことを言ってしまいましたな」
「僕は困りましたよ」
 と卓造君が笑い出した。
「それで僕の足をなぐったのかい?」
「えゝ」
「危いところだったね。ハッハヽヽヽ」
「しかし村の教育と村の発展は両立すると僕は思っています」
「無論さ。学校は学校、工場は工場、今に畑の中へ鉄筋コンクリートの市役所が出来る」
「大変ですな」
「学校で思い出したが、卓ちゃん」
 と睦さんは胡坐をかいて、
「僕は昨夜親父の手文庫を開けて見て吃驚したよ」
 とこれから話し込む積りだった。
「大判小判がザク/\ザク/\ですか?」
「いや、学校の建築図だ」
「はゝあ」
「大きなものを目論もくろんでいるんだよ」
「そのことはこの間もお父さんに仰有っていました」
「まだあるんだよ」
「何です?」
「青年会らしい。此奴も大きなものだ」
「仕様がないのね」
 と卓造君のお母さんは歯痒がった。
「未だ取らない中から使う算段をしています。持って生れた病ですよ」
「今からそんなことじゃ皆なくなしてしまいますわ」
「しかし今度は使いでがあります」
「あなたと二人ですから気が揉めますわ」
「何あに、七十万あります」
「現金で取れて?」
「いや。皆株にします。その代り一割配当として年七万入ります」
一身代ひとしんだいね」
「撒いて歩かない限りとても使い切れるものじゃありません」
「少しお話が甘過ぎるようだわ」
「そんなら半分と見て三十五万の三万五千。如何ですか?」
「矢っ張り大したものね」
「斯ういうことは成るべく内輪に考えている方が安心です」
 と睦さんは言う口の下から、
「三十五万でも二割配当なら矢っ張り七万です。七十万なら十四万ですから、大きなものですよ」



青空文庫より引用