なつかしまれた人
町の運輸会社には、たくさんの人たちが働いていました。その中に、勘太というおじいさんがありました。まことに、人のいいおじいさんであって、だれに対してもしんせつであったのであります。
若いものたちがいい争ったりしたときは、いつもおじいさんが中にはいって仲裁をしました。
「まあ、すこしのことでそんなに怒るものでない。ここに働いているものは、いわば兄弟も同じことだ。たがいに力になり、助け合うのがほんとうだのに、争うということはない。すこしくらい腹がたつことがあっても忘れて、仲よくしなければならない。」といいました。
おじいさんに、やさしくいわれると、だれでもなるほどと思わずにはいられませんでした。そして、自分たちのしたことがまちがっていたと気づくのでありました。
おじいさんは、また仲間が、病気にでもかかると、しんせつにしてやりました。自分の家を離れて、他人の中で病気にかかっては、どんなに心細いことだろう、そう思って、できるだけしんせつにしてやったのであります。
こうした、おじいさんのしんせつは、みんなに感じられたので、いつか自分の親のように思ったものもあれば、またいちばん親しい人のごとく考えたものもあったのでした。
「おじいさんの生まれた国は、どこですか。」といって、聞いたものがあります。けれど、おじいさんは、答えずに、ただ遠い国だとばかりいっていました。
また、おじいさんには子供や、身頼りのものがいるかしらんと、そのことを聞いたものもあります。すると、おじいさんは、さびしく笑いながら、
「やはり、おまえさんくらいな、いいせがれがあるが……。」と、答えたのでした。
そんないいせがれがあるのに、どうして、こんないいおじいさんが旅へ出ているのだろう、なぜ親と子がいっしょに暮らすことができないのか……。おじいさんは、この年になって、自分の故郷を離れていたら、さびしかろうと思ったものもありました。
「おじいさんは、なぜこうして旅へなど出ているんですか。」と、若者の中の、一人は、その理由を知りたいと思って問いました。
おじいさんは、自分の身の上のことについては、なにを聞かれても、ただ笑顔を見せて、あまり語らなかったのであるが、
「自分の手足がきいて、働かれる間は、だれの世話にもなりたくないと思ってな……。子供たちのそばにいて働いたのでは、子供たちが、心配すると思って、それで旅へ出てきたのだ。」と、いったのでありました。
みんなは、はじめておじいさんの心持ちがわかったような気がしました。子供たちに対しても、そうしたやさしい心をもつのであるから、自分たちに対しても、やはりこうしてやさしいのであろうと思いました。
「じゃ、おじいさんは、いつかまた国へ帰んなさるときがあるんですね。」
「それはあるにはあるが、そうすると、こうして仲よくしているみんなに別れなければならぬ。考えると、そのことがつらいのじゃ。」と、おじいさんは、長い間、苦辛をしてきた、日にやけて、しわの寄った顔をしゃくるようにして、小さな目をしばたたいたのです。破れた鳥打帽子の下から見える髪は、もう灰色になっていました。
この言葉をきくと、若いものたちも、ほっと歎息をつきました。
「俺は、自分の父親のように思っているのだが、おじいさんと別れるのはつらいな。」と、いったものがあります。
「ほんとうにそうだ。まあ、おじいさん、いつまでも俺たちといっしょにいてください。」と、いったものもありました。
こうして、勘太じいさんは、この会社に働いている若い人たちから、愛されていました。
おじいさんは、よく働きました。みんなの間にまじって、いっしょになって重い荷も運べば、またかついだりしました。たとえ、年をとっていても、仕事のうえで、若いものに負けることはなかったが、若いものは、なるたけ、この年をとった、しんせつなおじいさんをいつもいたわっていたのであります。
こうして、働く人々《ひとびと》の社会には、美しい人情の流れる、明るいところがありました。そして、またこうしてしんせつなおじいさんが、だれか一人、若いものの中にいなければならなかったのは、ちょうど、人間の社会ばかりでなく、他の獣物の集まりの中でも、経験に富んだ、年寄りがいて、野原から、野原へ、山から、山へ旅するときには、その年とったのが道案内となって、みんなが、あとからついてゆくのと同じでありました。
勘太じいさんは、毎日、みんなといっしょに働いていました。しかし、ついに、みんなから別れていかなければならぬときがきました。しかも、それは不意であったのです。
おじいさんの息子が、田舎で成功をして、はるばるおじいさんを迎えにきたのでありました。
「おじいさん、長い間、苦労をさせまして申しわけがありません。私は、このほど、ようやく仕事のほうが都合よくいくようになりましたから、もうこの後おじいさんに苦労をかけることもないと思って、迎えにまいりました。弟や、妹たちは、はやくおじいさんの顔を見たいと待っていますから、どうかすぐに私といっしょに帰ってください。」といいました。
おじいさんは、息子の成功をしたというのを聞いて、どんなに喜ばしく思ったかしれません。どんなに、久しぶりで、子供や、孫たちにあわれるのをうれしく思ったかしれません。けれど会社にいるみんなから、しんせつにされているのを、別れて帰らなければならぬかと思うと、またかぎりなく悲しかったのであります。
「それは、まあなによりうれしいことだ。」と、口には、いいながら、おじいさんは、自分の着ている半纒や、汚れて土などのついている股引きを見ながら、すぐに帰ろうとはいわずにちゅうちょしていました。
息子はもどかしがって、
「おじいさん、さあ早く帰りましょう。会社の汽車にまにあわせたいものです。なにを考えていなさるのですか。こんなに汚れた半纒や、破れた帽子や、土のついた股引きなどは、もう用がないのですからお脱ぎなさい。そして、私がここに持ってきた、新しい着物にきかえて、早くここを出かけましょう……。」といいました。
おじいさんは、長い間、自分の身につけていた仕事着を未練惜しそうに脱ぎながら、
「せっかくそういって、迎えにきてくれたのだから、どうしても帰らなければなるまい。俺はまだ、もうすこしくらいはここにいて、働いていたいのだけれど……。」と、独り言のようにもらしていました。
おじいさんは、新しい着物にきかえて、自分のいままで身につけていた半纒や、股引きや、破れた帽子をひとまとめにして、そばにあった、貨物自動車の荷の上に乗せておきました。
「さあ、おじいさん、仕度がすんだら、すぐに出かけましょう。」と、息子はいいました。
おじいさんは、そこに居合わせた、仲間に別れを告げました。すると、その人たちは、
「おじいさん、あんまり急じゃないか。名残惜しいな。しかし、めでたいことで、なによりけっこうだ。無事に暮らさっしゃい。」といいました。
「さよなら。」
「達者で暮らさっしゃい。」
仲間は、口々《くちぐち》にいって、おじいさんの出てゆく姿を名残惜しそうに見送っていました。それから、みんなは、また、自分たちの仕事にとりかかって忙しそうに働いていました。
このとき、一台の貨物自動車が、会社の門から出て、町を過ぎ、ある田舎道にさしかかったのであります。車の上には、世帯道具がうずたかく積まれていました。
もう、やがて春になろうとしていたが、まだ寒い風が、野や、林を吹いていました。雲切れのした、でこぼこのある田舎道を貨物自動車は、ちょうど酔っぱらいの人の足どりのように、躍りながら、ガタビシといわせて走っていたのでした。たぶん、ある家の引っ越しででもあるとみえます。車台の上では、机が、いまにも道端へ飛び出しそうになるかと思うと、箱が、いまにも転げて落ちはしないかと見られましたが、それでも、それらは、車にしがみついて乗せられたまま走っていました。ちょうど、そのとき、なにかしらない別のものが、道の上に落ちたのです。自動車は、そんなことには気づかず、そのまま走り過ぎてしまいました。そして、さびしい道には、だれも見ているものはありませんでした。
車の上から、落ちたものは、勘太じいさんの会社を出るときまで身につけていた、半纒と股引きと帽子でありました。おじいさんが、ひとまとめにして、荷の上に乗せておいたのが、そのまま走り出して、ついに振り落とされたのであります。
日暮れ方を告げるからすが、あちらの林の方で鳴いていました。
町の会社では、その後、みんなが思い出しては、勘太じいさんは、どうしたであろうとうわさしましたけれど、おじいさんからは、そののち、なんのたよりもなかったのです。そして、みんなからも、だんだん忘れられていこうとしました。
かれこれ一年ばかりもたってからのことです。会社で働いている一人の若者が、ある日、町から五里ばかり、東の方へ離れている街道を貨物自動車で通ってくると、勘太じいさんが、ここに働いていた時分のようすそっくりで、とぼとぼと街道を歩いているのを見たといいました。
おじいさんを知っている人々《ひとびと》は、この話をきくと目をみはりました。
「それは、人違いだろう……。おじいさんは、息子が迎えにきて、新しい着物にきかえて帰ったのだから、また昔のようすにかえるというはずがない。」と、あるものはいいました。
「いいや、勘太じいさんに相違ない。俺は、よほど、自動車を停めて、声をかけようと思ったが、急いでいたものだから、つい残念なことをしてしまった。」
「おじいさんを見て、自動車を停めないということがあるものか?」
「しかし、おじいさんなら、困れば、またここへやってくるにちがいない。」
「いや、ああしていったん帰ったのだから、きまりわるがっているのかもしれない。人間の運命というものは、いつまたどんな境遇にならないともかぎらないからな。」
「俺、こんど見つけたら、無理にも自動車に乗せてつれてこよう……。」と、若者はいったのでありました。
ある日のこと、おじいさんを見たという若者は、また自動車に乗って、その街道を走っていたのであります。
「いつか、この街道で、おじいさんを見たのだが、見つかってくれればいいがな。今日ばかりは、おじいさんをつかまえてやろう。そこで、場合によったら、自動車に乗せてつれてゆこう……。」と、前方をながめながら思っていました。
あちらに、森があって、その下に人家の見えるところへ近づいたときに、若者は、行く手に勘太じいさんが、あの破れた帽子をかぶり、見覚えのある半纒を着て、股引きをはいて、その時分よりはずっと元気がなく、とぼとぼと歩いている後ろ姿を見たのであります。
「おお、おじいさんがゆく……。」といって、若者は、それに追いつくと自動車を止めました。
「勘太おじいさんじゃないか?」と、若者は、わめきました。
おじいさんはたちどまりました。そして、うしろを振り向きました。
「勘太おじいさんじゃないか……。」
「ああそうだ。」と答えました。
「おじいさんか……。」といって、若者は、顔をのぞくと、いつのまにかひどくおいぼれて、両方の目が腐っていました。
「おまえは、どうして、そんなにおちぶれたい……。」といって、若者はため息をついたのです。
「いろいろ不幸がつづいてな。」
「息子さんは、どうしたい。」
「死んでしまった。」
「それは! おまえも不運なことだのう……。なぜ、また早く、町へ出てこなかったのだ。」
「町へ……。」
「これからゆくか? もう、おまえに、そんな元気がないか?」
「ああ、ゆく。」――若者は、あまりに変わりかたがひどいので、どうしようかと思いましたが、みんなにつれていって、おじいさんを見せてやりたいような気もしました。
このとき、あちらから、若い女と、子供らがこちらへ駈けてきました。
「おらのおじいさんを、どこへつれていかっしゃるつもりだ。」と、女は大きな声でいいました。
若者は、びっくりしました。
「町へ……。」
「町へ、なにしにさ。だれがたのんだい。」
「俺は、勘太じいさんと、町でいっしょに働いたものだ。」
女は、あきれたような顔つきをして、
「勘太じいさんなんて知らない。うちのおじいさんは、もうろくしているで、働けやしない。」
「じゃ、人違いか……。この着物はどうしたのだ。」と、若者はききました。
この貧乏な、もうろくをしたおじいさんは、どこからか、捨ててあったのを拾ってきて、それを着ていたということがわかったのです。若者は、このおいぼれたじいさんが、勘太じいさんでなかったのをしあわせと思いましたが、またべつな痛ましい感じがして、そこを立ち去りました。なにも知らぬ子供らはめずらしそうに、あちらを向いて、自動車の遠ざかりゆく影を無心にながめていたのであります。
――一九二六・一――
青空文庫より引用