窓の下を通った男
一
毎日のように、村の方から、町へ出ていく乞食がありました。女房もなければ、また子供もない、まったくひとりぽっちの、人間のように思われたのであります。
その男は、もういいかげんに年をとっていましたから、働こうとしても働けず、どうにもすることができなかった、果てのことと思われました。
町へいけば、そこにはたくさんの人間が住んでいるから、中には、自分の身の上に同情を寄せてくれる人もあろうと思って、男は、こうして、毎日のように、田舎道を歩いてやってきたのです。
しかし、だれも、その男が思っているように、歩いているのをとどまって、男の身の上話を聞いて、同情を寄せてくれるような人はありませんでした。なぜなら、みんなは自分たちのこと考えているので、頭の中がいっぱいだからでした。まれには、その男のようすを見て、気の毒に思って財布からお金を出して、ほんの志ばかりでもやっていく人がないことはなかったけれど、それすら、日によっては、まったくないこともありました。男は、空腹を抱えながら、町の中をさまよわなければなりませんでした。
美しい品物を、いっぱい並べた店の前や、おいしそうな匂いのする料理店の前を通ったときに、男は、どんなに世の中を味けなく感じたでしょう。彼はしかたなく、疲れた足を引きずって、田舎道を歩いて、さびしい、自分の小屋のある、村の方へ帰っていくのでした。
ここにその途中のところで、道ばたに一軒の家がありました。そう大きな家ではなかったが、さっぱりとして、多分役人かなにかの住んでいる家のように思われました。この道をいく人々《ひとびと》は、ちょうど、その窓の下を通るようになっていたのであります。
ある日のこと、男は、その窓の下に立って、上を仰ぎながら、あわれみを乞うたのでありました。どうせ、家の内からは返答がないだろうと思いました。なぜなら、町では、あのように、顔を見合わせて、手を合わせて頼んでも、知らぬふうをしていき、また振り向こうともしないものを、窓の下から、しかも外の往来の上で頼んでも、なんの役にも立つものでないと考えられたからです。
「どうぞ、哀れなものですが、おねがいいたします。」と、男は、重ねていった。
ひっそりとして、人のいるけはいもしなかったのが、このとき、ふいに窓の障子が開きました。顔を出したのは、眼鏡をかけた色の白い、髪のちぢれた女の人でした。その人は、たいへんやさしそうな人に見えました。
男は、頭を下げて、
「どうか、なにかおめぐみください。」と願いました。
その女の人は、男が思ったように、ほんとうにやさしい、いい人でありました。じっと、男の顔を見ていましたが、
「そういうように、おなりなさるまでには、いろいろなことがおありでしたでしょうね。」といいました。
男は、はじめて、他人からそういうように、やさしい言葉で問いかけられたのでした。
「よくお聞きくださいましてありがとうぞんじます。妻には死に別れ、頼りとする子供も、また病気でなくなり、私は、中風の気味で、半身がよくきかなくなりましたので、働くにも働かれず、たとえ番人にさえも雇ってくれる人がありませんので、おはずかしいながら、こんな姿になってしまったのです。」と、涙ながらに答えました。女の人も、やはり、目をうるませていました。
「私の父が、ちょうどあなたの年ごろなんですよ。都合のために、遠くはなれてくらしていますが、あつさ・さむさにつけて、父のことを思い出します。だれでも、若いうちに働いてきたものは、年をとってからは、楽にくらしていけるのがほんとうだと思います。それが、この世の中では、思うようにならないんですのね。」と、女の人はいいました。
男は、だまって、うなだれて女の人のいうことを聞いていました。
女の人は、いくらか銭を哀れな男に与えました。男は、しわだらけな、色つやのよくない手をのばしてそれを受け取って、いただきました。その銭は、たとえすこしではありましたけれど、深いなさけがこもっていましたので、男には、たいへんにありがたかったのです。
男は、いくたびもお礼を述べて、そこを立ち去りました。そのうしろ姿を女の人は、気の毒そうに見送っていました。
その後、男は、町へいくたびに、この家の窓の下を通ったのでした。けれど、たびたびあわれみを乞うては悪い気がしました。よくよく困ったときででもなければ、願うまいと決心したのであります。
しかし、その長い間には、雨の降る日もあれば、また風の吹く日もありました。そして、一日町の中を歩いても、すこしも、もらわないような日もあったのであります。
彼はしかたなく、この家の窓の下に立って、
「どうぞお願いいたします。」と、上を仰いで、いわなければならなかった。
すると、障子が開いて、眼鏡をかけた、色の白い、髪のちぢれた女の人が、顔を出しました。そして、いやな顔もせずに、
「さあ、あげますよ。」といって、銭を男の手に渡したのでした。
乞食の男は、それをいただいて、
「ありがとうぞんじます。」と、いくたびも礼をいって立ち去りました。
風の吹く、さびしい村の方へ男は帰っていきました。たとえ、わずかばかりのお金であっても、空腹をしのぐことができたのであります。
この広い世の中に、だれ一人、自分のために思ってくれるもののないのに、こうして心から同情してもらうということは、頼りない男に、どれほど、明るい気持ちを与えたかしれません。男は、毎日、この家の窓の下を通るときに、この家の人々《ひとびと》の身の上に幸福あれかしと祈らないことはなかったのです。
二
こうして、長い月日が過ぎました。ある日、男はいつものように村から、道を歩いてきますと、いつになく、その家の窓の雨戸が堅くしまっていました。どうしたことだろうと思いました。それから、子細に周囲をしらべてみますと、その家は、空き家になっていました。
あのやさしい、しんせつな、女の家の人たちは、どこへか越していったと思われました。
「どこへお越しになったのだろう……。」と、男は思った。
それから、近所の人々《ひとびと》に、それとなしに聞いてみると、なんでも遠方へ越していかれたようです。相手が、きたならしい乞食であるので、だれもくわしく、しんせつにものをいって教えてくれるものがなかったのです。男は、ついに知ることができませんでした。
哀れな男は、またまったく世の中から、見捨てられた、さびしい人間となってしまいました。いつまで、同じところに、さまよっていてもしかたがなかったから、村から村へ、町から町へあてもなく、さすらいの旅をすることとなりました。その間に、また、長い月日は、しぜんにたっていきました。いろいろの土地を歩きましたが、乞食の男は、ふたたび、あのしんせつな女の人にめぐりあうことはなかったのです。
男は、どうかして、もう一度めぐりあいたいものだと思いました。しんせつにしてもらった恩を忘れなかったのであります。
ある年のこと、男は、街道を歩いていました。北の方の国であって、夏のはじめというのに、国境の山々《やまやま》には、まだ、ところどころ、白い雪が消えずに残っていたのでした。けれど、野原にはいろいろの花が咲いて、澄んだ空の下で、日の光にかがやき、また、どこともなく吹く風に、さびしそうに揺らいでいました。
男は、そんな景色を見ながら歩いているうちに、死んだ女房のことや、子供のことなどを思ったのでした。また、自分が子供の時分、友だちと竹馬に乗って、駆けっこをしたり、往来の上で輪をまわして、遊んだことなどを記憶から呼び起こしたのであります。しかし、それは、遠い昔のことであり、また、自分のうまれた国は、たいへんにここからは離れていたのでありました。
ちょうど、このとき、あちらの方に汽車の笛の音がしたのでした。やがて平原を、こちらに向かって走ってくる汽車の小さな影を認めたのでした。男は、しばらくなにもかも忘れて、子供のようになって、その汽車を見まもっていました。
静かな、うららかな天気の日であったのです。よく子供の時分に、迷信ともつかず、ただ、魔法を使うのだといって、口のうちで、おなじことを三べんくりかえしていうと、きっと思ったとおりになると信じたことがありましたが、男は、ふと子供の時分に、やったことを思い出して、
「とまれ、とまれ、とまれ!」と、汽車の走ってくるのをながめながら、ぜんぜん子供の気持ちになって、汽車に向かっていったのでした。
普通に考えてみても、そんなことをいったとて、汽車がとまる道理がありません。けれどこの年とった男は、いまにもとまりはしないかと空想に描きながら、汽車を見つめていました。
汽車は、だんだん近づいてきました。そして、見ていると、その速力がしだいにゆるくなってきて、彼が、あまりのふしぎに、胸をとどろかしながら見ていると、すぐ前にきたときに、まったく汽車はとまってしまったのでした。
男は、どうしたらいいだろうかとあわてて、すぐにも逃げ出そうかとしました。汽車に乗っている人々《ひとびと》は、みんな窓から顔を出して、何事が起こったのだろうかと線路の上をながめていました。
運転手や、車掌や、汽車に乗っている係の人々《ひとびと》は、汽車から降りて、機関車の下あたりをのぞいていました。
機械の力で動いている汽車が、機械に故障を生じた時分に止まるのは、なんのふしぎもないことでした。ただ、男が、そんなことを口の中でいったときに、偶然、機械に故障を生じたのがふしぎだったのであります。
男は、頭を上げて、汽車の窓からのぞいている人々《ひとびと》の顔をながめていました。
「この人たちは、どこまでいくのだろう……。」と、そんなことを思ったのでした。
そのうちに、男は、はっとして、びっくりしました。金縁の眼鏡をかけて、色の白い、髪のちぢれた女の人が、やはり、汽車の窓から顔を出して、のぞいていたからです。その人は、数年前に、あの家の窓の下を通った時分に、しんせつに恵んでくれたその人そっくりでありました。
けれど、ただちがっていることは、いま、前に見る人は若く、あのときの人は、もっと年をとっていたことです。
「あの女の人の子供さんにしては、大きいし、この人は、あの人の妹さんであろう……。」と、男は思いました。
いつか、その女の人は、自分を見て、遠くはなれている父親のことを思うといったが、これは、またなんという奇妙なことであろうと、男は考えたのでした。そして、前に汽車の窓から、顔を出している若い女の人を、あの女の人の妹さんであると心に決めてしまいました。
若い女の人は、若いりっぱな服装をした紳士といっしょに乗っていたのでした。
男は、心から、その人たちの未来の幸福を祈ったのであります。
このとき、汽車の故障は直って、汽笛を鳴らすと、ふたたびうごき出しました。
男は、その汽車のゆくえをさびしそうに見送っていましたが、やがてとぼとぼと平野を一人であてなく歩いていったのであります。
――一九二六・五――
青空文庫より引用