街の幸福
盲目の父親の手を引いて、十二、三歳のあわれな少年は、日暮れ方になると、どこからかにぎやかな街の方へやってきました。
父親は、手にバイオリンを持っていました。二人は、とある銀行の前へくると歩みをとめました。そこは、石畳になっていて、昼間は、建物の中へはいったり、出たりする人々《ひとびと》の足音が鳴るのであったが、夜になると、大きな扉は閉まって、しんとして、ちょうど眠った魔物のように、建物は、黒く突っ立っていました。
親子のものには、このうえない、いい場所であったのです。ほかの人に、その場所を取られてはならないと思って、まだ、あたりの暗くならないうちから、やってきて、しょんぼりと、扉のわきに背を寄せて立っていました。
やがて、街には、燈火が、花のように輝いて、頭の上の空は、紫色に匂い、星の光があちら、こちらと、ちりばめた宝石の飾りのようにきらめきはじめると、街の中を、ぞろぞろと男女の群れが、ざわめきたって流れたのでした。
もう、人々《ひとびと》の顔は、そんなに、はっきりとわかりませんでした。このとき、父親は、頭をすこしかしげぎみにして、バイオリンを弾き、少年は、それに合わせて、唄をうたいました。童謡もあれば、また、流行歌のようなものもうたったのであります。
前を通りすぎる人々《ひとびと》は、ただ、こちらを見て、いってしまうのや、また、ちょっと立ち止まって、二人の顔をのぞきこんで歌も聞かずに、去ってしまうのもあり、あるいはしばらくたたずんで、バイオリンの音と、少年の歌うのを聞いているものもありました。
その長い間、みすぼらしいふうをした父親は、同じ姿で、楽器を弾いていました。自分の弾く音色に、ききとれているのか、それとも子供の唄にききとれているのか、うつむきかげんに頭をかしげていました。やがて、いくつかの唄がすむと、少年は自分のかぶっている帽子を脱って、それを持って、立っている人々《ひとびと》の前をまわりました。すると、なかには帽子の中に銭をいれてやるものもあったが、少年が、その前にこぬうちに、さっさといってしまうものもありました。
時がたつと、人の往来も減じてゆきました。そして、まわりに立つ人影も少なくなった。けれど、二人は、明日の生活のためには、まだ、その晩の稼ぎをつづけなければなりません。いつしか、このあわれな父親と子供だけを、そのまま残して、人々《ひとびと》は、みんなどこへか消えてしまいました。おそらく、めいめいの明るい家庭へ、幸福なすみかへ帰ったのでありましょう。
少年は、さびしそうに、あたりを見まわしました。あちらの電車の停留場の方も、一時のように、人の黒い影もなければ、ただ、レールが、光ってみえるだけです。空には、いままでより、もっとたくさん星が見えていました。
「これから、私たちが、楽しく遊んで、人間をうらやましがらせてやるのだ。」と、星たちが、話しているように思われたのです。
父親は、手を休めて、バイオリンを抱えてだまっていました。このとき、少年は、いっそう、悲しかった。そして、ふと思い出したように、向こう側のたばこ屋を見ました。すると、やさしい美しい娘さんが、店にすわっていました。
……空の曇った、いまにも降り出しそうな晩のことであります。二人は、さびしそうに、銀行の前に立っていました。
「お父さん、どうしましょう。」と、少年は、うらめしそうに、さびしい往来の上をながめながらいいました。
「そうだな、今夜は、あきらめて帰るとしよう。どれ、もう一つ、気の毒だが、唄をうたってくれ。」と、父親は、答えて、バイオリンを鳴らしはじめた。
少年は、いつものように、精いっぱいの声を出してうたったのです。やがて、うたい終わると、それを待っていたように、はたから、
「はい、あげますよ。」と、若い女の人が、少年にいいました。少年は、この思いがけない恵みをありがたく思って、破れた帽子を差しだすと、女はその中に銭をいれてくれました。そして、女は、あちらに立ち去りました。
少年は、世の中には、やさしい心の婦人もあるものと思って、そのうしろ姿を見送りますと、女は向こう側のたばこ屋にはいりました。そのときから、その人は、店にすわって、毎夜のごとく、自分たちの方を見ている、美しい娘さんだったということを知ったのであります。
そうしたことは、その夜だけでなかった。それからいくたびも、親子が、困っていたときに、娘さんは、銭を与えてくれました。ちょうど、あちらから、二人のようすを見守っている天使のように、少年には、なつかしく、貴く、思われたのでした。
「お父さん、また、あのお姉さんから、銭をもらいましたよ。」と、少年は、娘の去った後でいうと、父親は、じっとして、うつむきながら、
「よく、お礼をいいな。」と答えました。
二人は、世の中の人が、たとえ、みんな冷たくとも、ただ一人だけは、あたたかな心を抱いていてくれるということを感じたときに、どんなに、それを力強く思ったでありましょう。わけて、少年には、遠く見える、美しい娘の姿が、この人生を明るくしたのに不思議はありません。
ある夜のこと、思いがけなく、新聞社の人がきて、二人の立っているところを写し、記者は、少年に、いろいろのことをたずねて去りました。そして、翌日のその新聞には、大きな見出しで、孝行の少年の記事が、写真とともに載せられていました。
少年には、そのことがなんとなく、面はずかしいことのような気がしました。しかし、このことがあってから、夜になると、人々《ひとびと》は黒く二人を取り巻きました。そして、二人は、銭をもらい、いままでのごとく、困ったことはなかったけれど、少年にとってただ一つ、物足らないものがありました。それは、それ以来、娘さんが二度とやってきてくれなかったことです。
* * * * *
父親の死後、少年は、労働者となって、工場に働きました。運命は、いろいろに、もてあそんだ。彼は、機械に触れて、不具者になりました。そして、二十余年の間に、いろいろのことがあったが、ついに、ふたたび、バイオリンを抱いて自ら歌い、街頭に立たなければならぬ身の上となったときに、昔の場所を選ばずにはいられませんでした。
街の中を通る人々《ひとびと》も、両側の店もだいぶ変わったけれど、やはり、銀行は、そこにあり、そして、向こう側にたばこ屋がありました。彼は、父親と二人して、ここに立った日の幸福を呼び返そうとした。それは、きわめて、はかない幸福であったが……。しかしその人は、いまどこに嫁いで、いいお母さんになったか、明るい燈火の下には、美しい姿を見いだすことはできなかったのでした。
――一九二九・六――
青空文庫より引用