まじなひの一方面


まじなひ 殊に、民間療法と言はれてゐるものゝ中には、一種讐討ち療法とでも、ナヅくべきものがある様である。蝮に咬まれた時は、即座に、其蝮を引き裂いて、なすりつけて置きさへすればよいとか、蜂をむしつて、螫された処に擦り込んで置かなくてはならぬ、など言ふのが、其である。
幼い心を持つてゐた昔の人にとつては、人を悩し苦める毒を、身内に蓄へてゐる毒虫などが、どうして、自身其毒にあたらぬだらうと言ふことは、可なりむづかしい疑問であつたに違ひない。其にはきつと、其毒を消すに足るだけの要素を同時に、一つからだに具へてゐるに違ひない、と解釈するより外に、為方はなかつた事と思ふ。
ばちぇら 氏の下女であつたあいぬ が、主人が畑から南瓜の双子をとつて来て、食べようとしてゐるのを止めて、「さういふ畸形のなり物 を食べるには必、片方食べてはならぬと言ひます。両方とも喰べてしまはねば、祟りを受けます。前半の祟りは、後半が祓ふことになつて居るのですから」と言うた(あいぬ人及其説話)話は、やはり、蝮や蜂の場合と、同じ考へを語つてゐるのであつた。「毒喰はゞ皿まで」など言ふ、粗大な諺の源も、或はこんな処に、存外なひつ懸りを持つてゐるのかも知れぬ。一方、われとわが身内ミウチの毒の鬱積に苦しんで、毒蛇などが、人の救ひを受けたと言ふ形の話も、ちよい/\見える。かういふまじなひ の出来た、一面の理由を語るものである。
今日まじなひ と言ふ語に、おしなべて括んで居る事がらも、実は、其分類に不適当なものを雑へてゐる。一体此語は、不合理と言はぬ迄も、われ/\の思惟を超越した結果を、必然的に喚び起す意味であるから、正当な除去の方法とは、人皆考へてゐぬのである。喰ひ合せをこはがるのと似た、先人の経験に対する、漠然とした信用と見てよからう。而も、祈祷や医薬の中に籠るべきものまで雑つてゐるのが、後世のまじなひ で、語原の意識がまだ失はれずして、内容は既に、多分の変移を来して居るのである。
まじ は、精霊の不純な活動を言ふ語で、能動者を人と限らず、精霊自身なることもあるのが、霊の純・不純の作用に恐れもし、讃美もした大昔の時分のまじ なる語の用語例である。オモ乳汁チシルや貝殻がやけど を癒したのは、まじなひ に籠りさうだが、実は、正当な薬物療法で、クシを其最いやちこな効果を持つもの、と考へてゐた、くする (くす――くし)と言ふ行ひであつたと思ふ。
くする は霊の純用で、まじなふ の古い形まじこる は、其不純な活用である。
まじなふ は、近代風の語にウツすと、悪魔の氏子となることである。まじもの を外に使ふ者があつて、自分が悪い結果を受けた時即、まじこる と言ふのである。
まじこり を呪咀トコヒの結果と見るのはわるい。他に関する悪意と言ふよりも、利己的な動機の為に、人を顧る暇のなかつた場合をすのである。とこふ は社もあり、人も崇める神の現れであることもあるが、まじこり は多く雑神ザツシンウモガミ浮浪神ウカレガミ新渡神イマキノカミの作用であつたものと見える。



青空文庫より引用