雲南守備兵
孫伍長
一九四〇年……曽つて雲烟万里の秘境として何者の侵攻も許さなかった雲南府も、不安と焦燥の裡にその年を越そうとしていた。
五華山を中心に、雅致のある黄色い塀や、緑の梁や、朱色の窓を持つ古風な家々を、永い間護って来た堅固な城壁も――海抜七千尺に近いこの高原を囲む重畳たる山岳も――空爆の前には何の頼みにもならなかったのである。
その宵も南門外の雲南火車站に着いた小さな貧弱な列車からは、溢れるように避難民が吐き出されて火車站のフランス風の玄関から、新市街へ流れ出していた。
ここの人々は、今ではその後に十万から二十万以上にも殖えていたが、人が殖えるごとに、
「仏印国境から日本軍が攻めて来る」
という噂が、だんだん確からしさを帯びて来て、住民達の憂欝と、焦燥と、自棄の中に街全体を落つきのない騒然たるものにしていた。
孫伍長は、群集に押し出されるように火車站の構外へ出ると、街燈の下に立止まって、大きく呼吸をついた。前線に派遣されて以来三年振りで見る故郷の印象の、何という変り方であろう。
そこには、相変らず、古風な低い屋根の、ぎっしりつまった懐しい街はあるが、夜空は妙に赤く、何か火事場を思わせるような慌しい空気が漂よっている。
彼は、何時も脳裡の隅にうずいていた家族に対する不安が大きくのしかかって来るような気がして、厳封の上公用と書いた重い荷物をしっかり抱え直すと、避難民の群を追うように、足早に歩き出した。
“お母さんや弟はどうしているのか、早く公務を済ませて行って見よう”と。
何度手紙を出しても、返事のない家族や、近所に住んでいた親しい人達の身の上を考えていたのである。
城内にある軍務司長官署へ着いたのは八時頃だった。
命じられた通り、沈団長の名刺を出して、軍務司長の副官、周少佐に面会を求めると、会議だというのに副官はすぐ出て来て、忙しそうに、用件を簡単にと云った。
孫伍長はかたくなって敬礼し、自分の官姓名を名乗ると、そのままの姿勢で念を押した。
「周玉明少佐殿でありますか」
「そうだ、周玉明だ」
少佐は、孫伍長が会釈して上衣のボタンを外し顔をしかめて肌着の中に手を入れるのを、無表情な顔をして見ていた。そして、彼がやっと引張り出した書面を無造作に受取って読み始めたが急に緊張した様子で云った。
「その荷物の内容を税関に見せはすまいな」
「はッ、公用の判がありましたし……」
「よしよし、時に手紙の内容は大体聞いて来ただろうか……」
副官は何気ない調子で訊いたが、荷物に眼を据えて注意深く孫伍長の様子を窺っていた。
「いいえ、内容は存じません。私は、ただ軍の機密であるから副官殿にお渡しするまでは身をもって守れ。万一の場合は破棄せよと命じられただけであります。それで、その時は書面を食ってしまうつもりで参りました」
副官は、うふッと吹き出しそうにしたが、直ぐ威厳をつくって真面目な顔をした。
「よし、御苦労だった」
そして、この忠実そうな伍長を改めて見た。
孫伍長は、戦線にいる兵と同じ様な、あの鋭い眼をしていた。陽に灼けた顔も骨っぽく、身体もがっしりしている。汚れ切った眉廂の剥げた軍帽から、どす黒くなった襟章や、色の褪せた軍服の裾まで、硝煙の匂いがこびりついていて大分歳を老けさせているが、口元に残っている子供らしさが、まだ二十を幾つも出ていないのを語っていた。
「いい兵隊を見つけて寄越したもんだ、これなら安心だろう」
と副官は思った。そして、返事は、二、三日遅れるだろうから、その間、休暇を貰ってやる。ゆっくり骨を休めて、十五日の早朝来いと云った。
孫伍長はやっと重荷を下したのと二重の嬉しさに礼を云って引下ろうとした。
「宿はあてがあるのか」
「は、母が小西門外に居りますから」
「小西門外に」
副官は、ちょっと眉を寄せて考えたが、
「そうか、ここに母親がいるのか、それはよかったな」
と明るく云って立った。そして、これは重かったろうと荷物をひっくり返し、公務とした軍務司長への宛名を下にぶらさげて廊下へ出ると、前後を注意深く見廻して、恐しく急ぎ足で去って行った。
貧民窟
孫伍長は、門を出ながら、副官はどうして荷物を逆様にしたり、あんな落つかない様子で持って行ったのだろう、一体何が入っていたのかと妙な気がした。
それに、副官が、自分のような異常な抜擢をうけている伍長に、何故前線のことを少しも訊かなかったのかと、不思議でもあり、少し不満でもあった。
“しかし、とに角、三日も休暇をくれたのだからな、俺をいい軍士だと思ったに違いない”
彼はそんなことを考えながら、勝手知った城内を斜に突切って、自分の家の方へ急いでいた。
だが、孫伍長は、小西門を出て、城壁沿いに暫く行くと、慌てて前後を見廻した。
“道を間違えたかな”
崩れた跡の形まで覚えている城壁は、夜空にどっしり横にはっているし、屋根の反返った古い鐘楼も黒々と聳えていて、角の薬屋の剥げた金看板も元のままなのに、彼の家へ行く横町がないのだ。
横町がないというより、あの埃々《ごみごみ》した饐えたような匂いのする街全体がないのである。
そこには、安っぽいバラック建のような二階建が並んでいて、その背後に入って見ると、同じような家々が隙間もなく建ち、その一角の広い板囲いの中に、工場のようなものが建ちかかっていた。
孫伍長は、暫く呆然として立っていたが、角の薬屋まで引返して来ると、
「一体この裏の街はどうなっちゃったんだね」
と、店先から詰問するように入って行った。
売台に倚りかかって大きな算盤をはじいていた店員は、戦線を感じさせる孫の姿に、怯えた眼をして主人を振返った。
「この裏の黄泥巷さ、随分変っちまったが……」
「ああ、この貧民窟ですか。命令ですっかり取払いになりましてね。大分騒ぎましたけど官署 のやることをどうにもなりはしませんや。気の毒なもんでしたよ。その日から寝る所もないのですからな」
「それで、あれだけの人間が何処へ行ったんだろう」
「さア、不断だって、何処へどう行っちゃうか分らない人達ですからね、軍夫にとられたり、鉱山へ送られたり……」
「だがまさか女子供までそんなことはしないだろう」
孫伍長の顔色がなかった。
「何処へどう散ってしまいましたかな……騒ぎにつけ込んで、大分白※ 蟻なんかが入込んで来ましたからね。やっぱり魔窟や、奴隷に売られたり、工場だの鉱山へ売られて行ったんでしょう。なにしろ、こう諸式が高くなったところへ、巣を追い立てられちゃア、ここらに住んでいた連中に親も子も云っちゃ居られませんからね」
「しかし、誰か一人や二人、この近所に居ないものかな。俺は直ぐ前線へ帰らなけりゃならないんだが、その前に是非会い度い人があるんだ」
薬屋の亭主は入って来た服装のいい客に、気をとられながら、
「それはどうも、なにしろ、一町内全部立退いてしまったんですからな……そうですね……盛り場の裏街へでも行ったら、ここに居た者の一人や二人には逢えたかも知れませんな」
と、店員の方へ振向いて、
「おいおい、子供の欲しい御婦人なら鹿宝がいいだろう……これは四川から来たんで、鹿の胎子を丸薬にしたもので御座いますがね」
と、棚の箱を出して客に話しかけた。
「有難う」
孫伍長は亭主の背中へ、そう言葉を投げつけて薬屋を出たが、どうしていいのか分らなかった。
“俺は何故、母や弟を探しているのだと云えなかったのだ。そう云えばあの薬屋の亭主も、もう少し親身になって考えてくれたかも知れないのに、黄泥巷の者だというのが、何で恥ずかしいのだ”
彼は泪の滲みそうな気持に襲われた。何という寂しさだったろう。孫伍長は、その時、自分が前にも一度、同じこの場所で、これと同じ寂しさを感じながら泣いたことがあるような気がして、あたりを見廻した。
それは、彼がまだ子供の頃で、隣の小孩と遊びに行って、玉帯江の岸へ落ちた小孩の着物をかわかすのに遅くなり、ここまで来ながら、家へ帰れず、二人で暗くなった空を眺めて泣いていたことを思い出したのだ。
叱られるのは怖かったが、あの頃は父もまだ生きていた。母親もまだ丈夫だった。
孫はそんなことを思い出して、
“お母さーん”
と大声で叫びたいほどの寂しさに襲われたが、その横町に駈け込むと、
「春生! 春生!」
と、何度となく弟の名を呼び続けた。そして呼び続けながらその街を通りぬけてしまった。
“裏街へ行けば誰かに逢える”
彼は、その言葉に暗示されたように、夜空を仰ぎながら、放心した体で、明るい方へ、明るい方へと歩いていたが、やがて、およそこの土地に相応しくない、赤や緑のネオンサインで、毒々しく飾り立てた茶館や、飲食店のずらりと並んでいる横町に出た。
「兵隊さん、何時帰って来たの?」
軒下の白い顔が笑いかけたが、孫がぴたりと立止まると、ぎょっと身を硬くして後退りをした。
安建築の入口から、外国のジャズが往来へ躍り出して来る。
酔った男や女の声がそれに絡み合って流れて来る。
孫は、棒のように突立ったまま、女を睨みつけていたが、軍帽を被り直すと、逃げるように歩き出した。
しかし、何時の間に出来たか、この不夜城に、そんな家は何軒も続いて、ぞろぞろ群集が歩き廻っている。
漸く角へ出ると、そこには外国の男と女が抱擁している大きなポスターを掲げた新築の映画館が、四つ角の空をネオンサインで燃えたたせている。
大学生らしい男が五、六人、何処かで飲んで来たのだろう、いい機嫌で雑沓を押し分けながら道一杯に並んでやって来た。
学生達は、自分達の前に立った孫伍長の骨ッぽい顔や、汗と埃にまみれた軍装を見ると、圧迫されたように左右に開いて通り過ぎたが、その中の一人は、なれなれしく寄って来た。
「失礼ですが、戦線から帰って来たのですか」
孫は、呶鳴りたかった。が、彼は隊にいても何処に居ても、大学へ行った人間というのは、時々将軍や大官の伜が交っていて苦手だということを知っていた。
「はア、今夜は公用で鳥渡帰って来て、休暇を貰ったところです」
「どうです前線の様子は?」
「あなた方には想像も出来ませんよ」
それが、せい一杯の皮肉だった。
「おいおい、往来で何を云ってるんだ。丁度いい、今夜は前線の勇士を歓迎して大いに飲もうじゃないか。兵隊さん、いや失敬! 伍長殿飲もうじァないですか」
「自分は飲めません」
「飲めなきゃア大いに語ろう。ね、いいでしょう、江南の戦況はどうでした? 今は何処です、国境ですか?」
学生達は、みんな引返して来て、躊躇する彼の腕を左右からとってスクラムを組んだ。そして、もう何者も恐れるものはないという風で大道狭しと元来た通りへ引返して行った。
慷慨
「伍長! そう憤慨するな、奴等だって生きて行かなきゃならないんだ。そりゃ国難をかえりみない戦争成金や、富豪や、奸商は無論やっつけなきゃならないが、しかし、一般の者はだね、夜が明けてから夕方の三時までは、日本の爆撃を恐れて何も出来ないんだ。まるで雲南府は死の街なんだ……せめて夜ぐらい羽根を伸ばさせてやれよ」
学生も酔っていた。孫も、四方から盃をさされて、気が大きくなっていた。
「しかし百万弗も出したというアメリカの戦闘機はどうしたんです。自分は前線で一台も見たことはない」
実際、孫のいう通り、支那の空軍は、ソ聯の援将のみで なく、米国のジョン・ジョウエット大佐の指導下に、ウイリアム・D・ボーリイという男が、百万弗にのぼるカーチス戦闘機を売込んだばかりか、汎米航空会社と合弁で支那に飛行機製作所を設立し、十五人の米人技師が支那の熟練工二千五百人を使って操業を開始していた。しかし、それも日本軍に、めちゃめちゃに叩かれてしまったのである。
「まアもう少しの我慢だ、今に活躍するよ」
仕立のいい洋服を着た一人が、声を低くして云った。
「彼等を今責めるのは可哀想だよ。飛行機工場だって解体して、二百万弗もの機械や設備を、南京、漢口と日本の爆撃に曝されながら持ち運び、漢口から一千哩もある仏印国境まで移転したのだ。しかもそこも又危くなって、ビルマに近い荒野の中へ再建したばかりだからな」
「え? ビルマ国境?」
「君だって驚くだろう、それほど大変な仕事だ。場所は秘密だが、そこはボーリイヴィルと名をつけてね。三千五百人の支那人が住む近代都市になっている。しかも彼等の修理部隊として各地に散っている二千五百人の職工と、家族を、三百哩から千二百哩も離れた所から、この新工場へ全部呼び寄せにかかっているんだ」
孫伍長は、眼を据えて疑わしそうに云った。
「そんなことが出来るんだろうか」
親米派の学生はおさえつけるように呶鳴った。
「出来るも出来ないもあるもんか。やるんだ、やらなきゃアならないのだ」
「吾々《われわれ》学生だってそうだぞ」
一番最初に声をかけた肥った学生は、かなり酔が廻っているらしく孫に盃をおしつけながら云った。
「おい伍長! われわれ学生はな、北京、上海、南京、漢口から三十一の大学と専門学校の生徒が、出来るだけ多くの本と機械や器具をかつぎ出してここまで来たんだ……伍長! お前は怒るかも知れないが雲南は支那のシベリヤだぞ。そりゃ一年中花は咲いてるかも知れないが、千数百哩の遠隔の地だ……そこへ汽車もない、船もない、驢馬も使えない山野を踏破してやって来たんだ……おい伍長、俺達は茶館で飲んでいるばかりじゃないぞ……学生だって困っているんだ。俺ア今朝も校門の塀に、洋服を売りたしと書いたビラが七枚もブラ下っているのを見て泣いて来たんだ。だが糞ッ、日本の学生なんかに負けるもんかッ」
孫伍長は肩を小突きまわされ、迷惑そうに頷いた。
「伍長! 貴様分ったのか、分ったのか貴様、前線から帰って来たと思って、俺達を威圧しようなんと思ったら承知しないぞ」
「おい郭、何を云うんだ」
「お前達ァ黙っとれ、伍長ッ貴様アさっき避難民が入り込んで雲南府が穢れたようなことを云ったが、映画館や茶館が出来る位が何だッ」
「郭やめろ、無礼だぞ」
友人達は心配して押えつけようとしたが郭はきかなかった。
「伍長、お前怒るのか、おい!」
彼は孫の首ッ玉へかじりついて云った。
「俺は伍長の不幸な話を聞いたから敢えて云うんだ。貴様ア避難民の住宅や、工場の為に一家を離散させられたと思ったら間違いだぞ。ここへ中央の勢力が入った以上、もう、あんな貧民窟の獣見たいな生活は何人にも許されないんだ」
孫伍長は、青くなって黙り込み、学生達はぎょっとして二人を見たが、その学生は泣いているのだ。
「俺は雲南へ来て中国の領土の中に、こんな未開の地があるのを知って実に情ないんだ。奴隷娘の学校があるとは何だ……俺はあすこで、奴隷あがりの妾に、後から奴隷に来て妾にされた娘が、嫉妬から灼熱した鉄棒で頭を焼かれ、脳が死んで身体だけが生きている娘を見た。食うものもろくに食わせられずに、叱言の代りに眼を指で刳りとられた娘も見た。こんな雲南の奴隷娘や、悲惨な少年坑夫の話を、ここで生れた君は知らない筈はないだろう。人間の子供は豚より安いんだ。一弗か二弗で買った奴は、食うものもろくにやらずに使い倒して、片輪になると捨ててしまう。その無恥な売買の市場があの貧民窟だ」
「なにッ」
「俺を殴って気が済むなら俺をなぐれ……だが伍長、怨むなら、あんな無恥な野蛮な習慣をいいことにして、人間を搾って金を儲ける人非人を怨め……取払ったのは当然だ。俺は中国の名誉の為に雲南人の自覚を要求するんだ。伍長ッ、お前からだぞ、貴様の弟だってどうされているか分るかッ、これを憤慨しない奴ァ人間じゃアない、叫ぶならお前が第一に改革を叫ばなければならない人間だぞッ」
孫伍長は、郭の胸倉をとって唇をびくびくさせていたが、いきなり彼に抱きついて泣き始めた。
何が起るかとハラハラしていた学生達は、ほっとした様に二人を引き分けたが、その一人は卓を叩いて叫んだ。
「おい、もう陰気な話はやめろ、これから吾々は孫伍長の家族を探そうじゃないか。先ず伍長がさッき逃げて来たという裏街の探検から始めるのだ」
「よし賛成だ」
「俺も行く」
「伍長、しっかりしろ、逃げて来たなんて意気地がないぞ」
学生達は、伍長を中に一塊りになって茶館を出ると、銘々《めいめい》自分の行動に立派な理由を見出して、それにすっかり満足しながら、魔窟のある露地の方へ意気揚々と押し出して行った。
陋巷の子
翌朝……孫伍長は、愕然として※ 《カン》の上から飛び起きた。
僅かに二坪あまりのその部屋は寝台代りの※ の外は煉瓦を敷いた土間で、卓が一つ、入口にあせた棉門※ 《メンメンレン》が垂れている。
彼は慌てて軍服をつけて所持品を調べたが、何も失くなっているものはない。
ずきずきする頭をおさえて昨夜のことを考えると夢のようである。
曲りくねった露地のような所を随分歩き廻って、また二、三軒で、無理に飲まされたのを覚えているが、後は分らなかった。
彼は昨夜一晩で随分色々なことを知った。
この近くにも、アメリカの戦闘機戦術で有名なチェン何とか大佐が校長をしている訓練場があるとか――航空生は金持や身分のある息子ばかりなので、我儘で成績があがらないとか――ビルマ雲南ルートへ外国の技師と大変な苦力が送られたとか――前線の中隊長や、大隊長でも知らないようなことばかりを聞いた。
彼は学生というものは、どうしてあんなに色々のことを知っているのか、不思議に思うのと同時に、アメリカから一億弗……それも雲南のドルで八十億ドルにもなる借款のかた に、この地方の錫だの色々のものをとられるので、坑夫を集めるのに大童だと云う話にひどく憂欝にされた。
“弟はそんな所へでも引張られてしまったのではないか、お母さんはどうしたろう”
彼は急に不安になって、部屋の中を見た。
と、装具の音に気がついたのか棉門※ 《メンメンレン》をあけて入って来た者がある。まだ、十三か十四だろう、痩せた、青い顔をした娘である。孫伍長はこれにも奴隷娘を想い出しながら訊いた。
「学生さん達は何処にいるね」
「今朝早く帰りました」
「え?」
ひねこびた娘は成熟た顔をして云った。
「今朝までのお勘定を頂いてあるんです。ゆっくりしてっていいんでしょう」
そして、さげて来た土瓶の茶を注いで、孫伍長に寄り添った。
「いや、俺は帰る。おふくろを探さなきゃアならないんだ」
彼はそういうと茶も飲まず、悲しそうな顔をしている娘に、小さな紙幣を一枚やって、その家を飛び出した。何ということなく見るに堪えない気持だった。
朝の雲南府は、昨夜学生の云った通り死の街のような静けさだった。一体昨夜のあの人の波は何処へもぐり込んでしまったのか。
悠々と歩いているのは頭に青い布を巻いたり、漆塗りの麦稈をかぶったりして、銀の房飾りを肩にかけた原住民族の※ 々《ロロ》族と、乞食の様な貧乏人ばかりだった。伍長は、そうした雲南府の貧しい街という街を歩き廻った。
だが、母と弟の消息は、ほんの手懸りさえつかめない。一体あれだけの人間が何処へ行ってしまったのだろう。翌日も、又その翌日も彼は血走った眼をして捜し歩いた。警察へも役所へも行って頼んで見た。
しかし、彼等は一伍長の家族を探すには、あまりにも多忙だったのであろうか。彼の休暇が切れて、周副官のところへ出頭する日まで、何の調べも出来ていなかった。僕等が探してやると云った学生達からも、無論、音沙汰はない。彼等は、そう云っただけで、孫伍長の宿はもとより隊の所属も訊きはしなかったのである。
孫永才は、何を信じ、誰を頼るべきか分らなかった。
そうは云うものの、あの学生達も、みんないい人間で、仮令、酒を飲んで議論して、政府や誰彼を非難するにしても、国のことを心配しているらしく見えた。
“しかし、あれでいいのだろうか”
孫は思った。あの人達は俺達よりずっといい身分に生れているし、難かしい議論も出来るし、色々なことを知っている。
だが、本を抱えて逃げて来る位が精々で、踏みとどまって闘おうとする人ではないのだ。
しかも、金を出して戦線に出るのを逃れている癖に、酒場で酒を呑んで偉そうなことばかり云っている。
前線の兵は貧乏人の伜ばかりだ。俺達は、ものこそ云えないが、命を賭けているんだ。孫伍長は、あの晩も、もう少しで郭を殴るところだった。が、彼は、泣いて叫ぶ郭のいうことにも理窟があるような気がした。そして、自分に学問のないのを思うと、その殴るということさえ、果して正当なのかどうか、ハッキリした理由を云い現しかねて躊躇してしまったのだ。
“貧民窟で生れたのは自分の責任ではない”
彼は覚えた軍隊語で、せめて、それだけでも云ってやりたかったがそんな事を云って笑われたらと、それも云えぬ口惜しさに泣いたのだった。
二度目に周副官に会った時、副官は、怪訝な顔をして云った。
「孫伍長、どうした? 顔色がよくないようだが、母親に甘やかされて前線へ行くのが辛くなったのか?」
孫伍長は、何と答えたらいいか判断に困った。まごついた彼は、ベソをかくような笑い顔をした。
副官殿に話して見たって、今となってどうなるものか、伍長の母親と弟がどうなろうと公務は公務だ、前線へ行けば死骸も分らない将兵が何十万と居るではないか。
で、彼は勢よく答えた。
「孫伍長は元気であります。お蔭様で、もう心残りはないのであります」
「そうか、それはよかった。これは返事だ。同様機密だから、そのつもりで沈団長に手渡しするのだぞ」
「はいッ」
「団長に吉報だと云ってお渡ししてくれ……それから話は別だが、お前にも進級の話があるかも知れん。まア一生懸命にやれ」
「はッ」
「では列車に遅れないように早く行け」
副官は上機嫌だった。
“母……弟……吉報……進級”
孫伍長は列車に乗り込んでからも、それが頭から離れない。
伍長になったことでさえ母や弟は驚くであろうに、軍曹になって長剣を帯びて行ったらどんなに喜ぶだろうか。しかし、その母達の行方も分らないとは何ということだ。
彼は、自分が立派な軍人になって、母や弟や、隣の小孩や、誰や、かやに取まかれている所を想像しながら、汗ばむほど拳を握りしめていた。
“偉くならなきゃア駄目だ、偉くなれば、お母さん達を捜し出すことでも何でも出来る。誰も口にこそ出さないが、省長の龍雲閣下だって※ 々族の出身だし、中国の英傑馬占山将軍だって字も読めない人じゃアないか……俺は学問こそないが、機転の利くことでも、腕力でも射撃でも、隊中に恐しい奴は居ないのだ……雲南府の黄泥巷に生れた俺が、今に何をするか見ているがいい”
孫伍長は、車窓に走る鋭い岩山や、奇流の泡立つ深い嶮峡を睨みながら、凝っとそんなことを考えていた。
守備隊
太陽は沈みかけていた。
小さな汽車が、喘ぎながらやっと山の頂から、また数哩の谷間へ下りた所に、鉱山街、箇旧が横たわっている。
孫伍長は、軽機関銃を持った一分隊を率いて、この街の上にのしかかる禿山の裾の褐色の、丘を登って行った。
兵は敵前のように緊張していた。
吉報を受けた筈の沈団長は、あれから十日もたたぬうちに、何故か、突然、箇旧守備隊長に転補され、腹心の僅かな将校と兵を伴なって、前線から、この街へ着任したのだ。
が、守備隊の兵の中には、この更迭に不満で不穏な態度を見せる者があった。何処から聞いたか、新任の沈大佐が苛烈な男だという噂に怯えたのだ。
この地方の錫鉱山は半官半民のものを筆頭に七百ヵ所――孫伍長はその中でも、激しい反感を持っているという鉱区の守備交替の役を買って出たのだ。そこは、命令をうけても新任の守備隊長の許へ、出頭しようともしない、黄中尉という乱暴者が守備していた。
丘を越えると、行手の山道は、灰色の岩に深くジグザグに刻み込まれ、血が流れて赤黒くかたまったように、遠い禿山の山腹まで続いている。
その山道には、小さく、赤い動物が、点々と行列をつくって這い廻っているのが見える。
太陽は、いよいよ沈んで、暗灰色の雲も、山岳も、丘の起伏も、深く黒い影をつけて、血の色をした海が波打っているようである。
兵は丘を降りかけて思わず立竦んだ。彼等は印度支那・雲南間を殆んど踏破して、怪獣の出没する熱帯ジャングルも知っているし、奔流の上一千呎の垂直に近い絶壁の側面について走ったり、百七十二箇所のトンネルをくぐる※ 越鉄路の難所も、瘴癘無人の魔所も見て来たが曽つてこんな陰惨な光景に出会ったことはなかった。
今では、西蔵の拉薩も世界の秘密ではなくなったが、これこそは、文明から数世紀も隔絶された、戦慄すべき場所なのである。
「おい、急げ、陽が落ち切っては仕事が仕難いぞ」
孫伍長も、この鉱区の物凄い相貌にはぎょっとしたが、強いて勢いよく、先頭に立って歩き出した。
暗灰色の空に突きたっている山岳の斜面へ、傷痕のようにつけた赤黒い鉱山道で蠢いていたのは、荷をつけた駄馬と小さな人間の行列だった。
駄馬は大きな袋を背に縛りつけられ、その重さによろめいている。
孫伍長は、その行列とすれ違って、身震いした。
駄馬は、鼻先から脚の先まで赤かった。鉱石を入れたらしいズックの袋も赤い。疲れて息を切らしながら、やっと歩いている十からせいぜい十五まで位の子供達も、頭から血が噴いているように赤かった。
駄馬の袋や、子供達のぼろぼろの頭巾や、肩から腰まで垂れたぼろ布には、鉱石の赤い埃が一杯かぶさっているのだ。
「おい、守備兵は何処にいる?」
「あの丘のような石小屋です」
背後を鞭で示した子供の眼は、妙にギラギラ光りひどく痩せている癖に咽喉がむくんで腫れていた。
“あの副官の野郎、おやじをどえらい所へ寄越しやがった。なにが吉報なのだ”
孫伍長はペッと唾を吐いた。が、彼は子供の時から、騙されるのと殴られるのには慣れていた。性格でもあろうが、殴られる度にむきになって、どうやら伍長まで漕ぎつけて来たのだ。
「元気がないぞッ。こんな山ン中の獣になめられるな!」
彼は部下を呶鳴りつけて歩度を早めた。
石小屋というのは山を背負って低く、出張って銃眼のある櫓を持っていて、土と同じ色の塀に囲まれていた。
軽機を背後にかくして近づいて行くと、
「止れッ」
と衛兵が二人、狭い門の前で銃を構えて呶鳴った。
「交替兵だよ。守備隊長の命令書を持って来たんだ」
孫は、わざと自堕落な口調で馴々《なれなれ》しく云った。
「見せろ! 一人だけ来い」
「遙々《はるばる》来たのに水臭いことを云う奴だな」
孫伍長は云い乍ら独りで近づいて行ったが、左右の銃眼から一人も通すまいと狙っているのを見ると大きな声で叫んだ。
「おい、隊長に莫迦な真似はやめろと云え。三十分以内に交替しないと砲撃されるぞ。向うの丘に砲を二門据えたのが見えないのか」
銃眼から銃口が音もなく消えた。
衛兵の一人が驚いて中へ駈け込んだ。と間もなく、大男の四十位の中尉が、帽子も被らず半ズボンで、鉄鞭を持って出て来た。
彼は生若い伍長が直立して敬礼するのに対して、馬鹿野郎と呶鳴った。軍人より匪賊という型だった。
「さっさと帰って隊長に云え。いきなり交替しろたア何だ。交替させるなら交替の出来るように色をつけてからしろ……ここの坑夫は五人に一人逃亡を狙っているんだからな。俺達が撃ち合っているうちに何百人居なくなるか、俺が騒動を起したら全鉱区でどんなことが持上るか、フン、砲撃するならして見ろ」
中尉は孫伍長をなめ 切っていた。
「中尉殿は命令に従わないのでありますか」
「命令? 小僧ッ、伍長が将校に命令するのか」
「守備隊長殿の命令であります。一応命令書を御覧下さい」
孫伍長はポケットを探った。
「命令が何だ。この山を越えりゃア守備隊長も糞もあるもんか。俺を向うに廻してこの鉱区の守備が勤まるなら……」
言葉の終らないうちに、銃声がして、ううッと中尉が鉄鞭を振り上げながらよろめいた。
孫伍長はポケットの中で撃った拳銃を無造作にとり出して倒れかかる中尉へ更に数弾を浴せかけた。犬でも射殺するような態度だった。
そして呆気にとられている二人の衛兵に、薄煙りの出ている拳銃をしゃくって云った。
「みんなに相談して来い。この中尉の仇をとって全滅の覚悟をするか新任の沈大佐殿に従うか」
衛兵が、銃をあげて仲間の抵抗を止めながら駈け込んだ隙に、孫伍長は、部下を呼込んで、その一角に素早く軽機関銃を据えさせた。
しかし、残った守備兵は、孫伍長の遣り口に気を呑まれたのと、兵に責任は無いと保証されたのに、安心して、下士以下一人も反抗するものはなかった。
そして、勤務に精通した下士一人に、兵二人を残して、箇旧の守備隊に復帰すべく、鉱山を下りて行った。
孫伍長が、僅かな兵で、不穏な鉱区の守備兵と難なく交替したことは忽ち鉱区の評判になった。殊に、暴れ者で、代々の守備隊長を手古摺らせていた黄中尉を、伍長の彼が、まるで犬かなんぞのように射殺したという話は、孫伍長を有名にすると同時に、新任の隊長を恐れさせた。
沈大佐は、その効果の消えないうちに、各鉱区へ腹心の部下を配して着々と勢力を固めた。
「一体、孫伍長の始末はどうなるんだ。何と云ったって相手は上官だぜ」
守備兵達は折に触れては話題にした。が、中尉は、戦時何とか令によって反乱者とされ、孫伍長は軍曹に進級して、前任守備隊長と深い関係のあった鉱山だと噂されている箇旧でも有数な鉱山の守備を命じられた。
坑道の底
朝から晴渡った日だったが、孫軍曹は、憂欝な顔をして、長剣を靴の踵で蹴りながら、鉱区を見廻っていた。
彼は、新しい襟章も、佩剣も、一向嬉しくないのである。
考えれば分らないこと許りである。
“第一線から、こんな所へ左遷されて、守備隊長は何だっていい気になっているんだろう。此の頃の馬鹿な御機嫌はどうだ”
彼は、この鉱山にいると流刑にでもされたような気持になるのだった。
無論、黄中尉の一件を知っている新しい部下は、彼に対して実に忠実である。
まるで腫ものに触るように怖れているのだ。あれ以来、上官と雖も彼をぞんざいに扱う者はない。
鉱山事務所の者や、坑夫に至っては、彼と擦れ違うにも小さくなって端を通るのである。
それより、何より不愉快なのは、坑夫の半数を占める十二、三から十五歳位の惨めな少年坑夫達までが彼を怯じ恐れていることだった。
箇旧の最近の錫鉱山労働者は、全鉱区で約十万人を上下しているがその中半分はこうした児童なのだ。
その児童のまた五、六割が八ツから十二歳ぐらいまでで、法規を逃れる為に十五歳以上と偽って届けてあった。
孫軍曹は、見廻中も、出来るだけ子供の坑夫を見まいとした。自分の任務は鉱区の治安維持と外部の者の侵入を警戒しさえすればいいのだ。子供には関係はない。しかし、弟の年頃位の児童が居ると、思わず顔を見ずには居られなかった。
草も生えぬ、岩の山道を、毎日々々、小馬や駄馬と共に、列をなして鉱石を運ぶ少年達――。
そのボロ着物にたまっている赤い鉱石の粉末、妙に光る眼、栄養不良の体躯――。
孫軍曹は、それを見る度に、黄中尉の守備する鉱区へ向った夕暮の陰惨極る印象を思い出すのだ。
“俺に、あんな思い切ったことの出来たのは、あの地獄の血の海のような丘を見て、気がどうかしていたに違いない”
その晩、彼は部屋へ帰って来て、机に向うと、手帳にそんなことを書いた。
「軍曹殿御用中ですか」
「なアに悪戯書きだ。国境で壕に埋められたことがあってから、俺の分隊で遺書や日記を書くのが流行ってね、やり始めて見たんだが、俺はどうも字が下手でね」
孫は、苦笑いしながら手帳を内ポケットにしまい、机の上の字引を抽斗へ放り込んだ。
「何か用か」
「鉱山事務所から応援を求めて来ましたが……」
「な、何が起ったのだ」
軍曹は立ち上って武装しようとした。
「いえ、少年坑夫が逃亡を企てたのです」
「…………」
「誰かやらないと、吾々《われわれ》も責任を問われますが――」
孫はジロリと徐を睨んで返事をしなかった。ぞっとするような眼だ。
と、だあーんと遠くで銃声が聞えた。
「おい、子供でも撃つのか」
「はあ、一発でとまらなければ、射殺していいのであります。それでも脱走者が絶えないのであります」
「可哀想なことをしやがる」
軍曹は第二の銃声に、眼をつぶって顔をしかめた。徐上等兵は、思いも寄らぬものを見たという顔付きをして、孫を見守っていたが、急に慌てて云った。
「軍曹殿、誰れか応援に出して置きませんと――」
「いいようにしてくれ。だが、子供なんか射殺しても、俺はちっとも喜びはしないぞ」
「はッ、要領よくやります」
孫軍曹は、飛び出して行く徐上等兵を見送って、机の脚を蹴った。
“何だって、こんな明るい晩に逃げるのだ……いやな仕事だ。これが兵隊の仕事なのか……ふん、俺の仕事なのか”
そう呟いて部屋の中を歩き廻っていたが、鈍い銃声の響く度に、額に八の字を寄せて舌打ちをした。
徐上等兵が四名の兵と帰って来た時には、孫軍曹は彼らしくもなく部屋の机に肘をのせて頭をかかえていた。
薄暗いランプの灯がゆらめいて、油煙があがっている。
四名の兵が、挙手の礼をして、上等兵が報告しようとすると、彼は手を振って、何も聞き度くないという身振りをした。
しかし、彼は兵達が出て行くと、慌てて徐を呼びとめた。
「徐上等兵、殺されたのはどんな少年だ」
「新規募集をして補充した者です。この頃は子供も少くなって、大分大きいのが来ますし、大きいのはどうしても坑外で使うようになりますので、よく逃げるのであります」
「じゃア坑内にはまだ小さいのが居るのか」
「はア、坑道は非常に狭いものですから、大人は働きにくいのです」
「俺を案内してくれ。一度見て置こう」
「自分も前の守備隊長のおともで一度見たきりですが、坑内を御覧になるのですか」
徐上等兵は困った顔をした。鉱区でさえ、守備兵を置いて外来者を一歩も入れない秘密の国である。兵と雖も屡々《しばしば》坑内へ入ることは鉱山事務所で厭悪するのである。
「差支えないだろう。俺達に事務所雇いの衛兵の手伝いまでさせて、逃亡者を見張らせるなら、坑夫達がどんな風にやっているか位、見せて置くのは当り前だ」
孫軍曹は云い出したら聞かなかった。
翌朝孫軍曹は躊躇する上等兵を連れて少年達の家へ向った。
彼等は坑口の近くに、石灰石を固めた高さ一丈にも足らぬ低い家に住っていた。
それは四、五坪の便所も何もない小屋で、ここに二十人の子供達が、駄馬や、小馬と一緒に飼われているのだ。
彼等は、朝の五時から坑内へ入って、午後の一時に坑内の仕事を終る。それからまた、その鉱石を日の暮れるまで運ぶのである。
「これで逃げようとしなければ死にかかっているんだ」
孫軍曹は吐き出すように云った。
しかし、少年達は、雲南省、貴州省、其の他から、どんどん新規募集され、雇主の代理人に、前借の中から高い口銭を引かれながら、後から後から連れて来られるのだ。
それは雲南の都会で、娘の子が奴隷に買われるのと、形式こそ違うが同じ奴隷である。
数人の少年達は、小屋の中に転がっていた。殴ろうがどうしようが起きられない病人である。彼等の二割は何時でも病気だ。しかも坑内でも小屋でも密集しているので伝染病の蔓延は早く、鉱山の一般死亡率は三割と云われていた。
彼等はコレラや肺炎の予防に、龍や虎や、猛獣の形に彫った樟脳の塊りを、血の出るほど高い金で買わされて、街の人達の様にそれを鼻にあてて安心するのだが、十万人のうち二万の男と、一万人の児童が毎年墓場もなく、何処かへ消えてしまうのである。
坑口の入口には武装した衛兵が居て、守備隊長と御一緒の時以外はと、入坑を断ろうとした。
これは軍隊とは別の鉱山主の私兵なので、軍隊は鉱区全体を守備監督し、彼等は鉱山主の私財、奴隷を守っているのである。
「お前は俺を知らねえのか」
衛兵は、評判の孫軍曹に睨まれると震え上ってそこを通した。
坑道の竪坑や斜坑は、驚くほど狭かった。孫軍曹は一度来たことのある徐上等兵を先に立て、腰をまげて歩いた。
衛兵の知せに後を追って来た監督らしいのが、呼吸を切らしながら恐る恐る云った。
「ここは駄目です。とても入れますまい」
「しかし子供達は入っているんだろう」
孫軍曹の口調は皮肉だった。
「でも、この竪坑は狭くて深いのです。底までは七百尺もありますしそれに華氏の百二十度という暑さですからな……とても……」
「そんな所でよく生きてるもんだね」
少年達は、丸裸身で、その狭い竪坑をのぼり、坑道を通って鉱石を運んでいた。
坑道の長さは、平均二千尺もあった。そして丈夫な一人前の坑夫は約六十封度ほどの錫の鉱石を日に四回坑外まで運ぶのである。
少年達は、長い牛の骨を持っていたが、時々それで、汗にこびりついた埃を擦り落していた。彼等は地上に出るまでに、汗ぐっしょりで倒れそうになるが、顔を洗うどころか、入浴なども全然知らず、雨水を飲むことさえ、たまにしか許されない。
“これに比べれば、貧民窟だろうが何だろうが俺達の生れた黄泥巷は極楽だ”
孫軍曹は、もう見るに堪えなかった。彼は徐上等兵を眼で促して、黙々として坑内から出ると、
「徐上等兵、お前はお寺の地獄の絵を見たことあるか」
と云った。
「地獄の絵がどうかしたのですか」
「さしずめ、俺達ァ、あの、赤鬼、青鬼だと云うんだよ」
彼は、そう云いながら、監督や衛兵をジロリと見て、挨拶もせずに歩き出した。
落盤
「今日は、坑内を御覧になったそうだが……」
その午後、孫軍曹の部屋を訪問した鉱山の経理は、半ば威嚇するような、また媚びるような複雑な表情をして云った。
「坑内のことに就いては、沈大佐殿にも既に御諒解を得ているので……どうか一つ、あなたもよろしく願いますよ。こういう仕事ですからね。外部へ知れていいことばかりはないので……これはそのほんの手土産代りですが」
「何ですかこれは?」
「そう改まって仰有るほどの金じゃアありませんが、街へ出た時にでもお役に立てて下さい」
年輩の経理は厭味な笑を作って――若いの、分っている癖に、あっさりとって置け――という眼付をした。
「はああ、あれを見た口どめという訳ですね」
「そ、そういう訳じゃありません」経理はむっとしながら云った。
「私共は大佐殿の命令に背いたことはしていないのですからね……それとも何か不都合な所でもありましたかな」
「惨めなものですな子供達は……第一、あの身体の青さはどうです、まるで草の葉のような色じゃないですか」
が、経理は、笛のように咽喉を鳴らして笑っただけである。
「あ、ありゃアあなた……仕方がありませんよ。錫の鉱石の中に、酸化砒素というやつが入っていますんで、日がな一日細かい鉱砂を吸っている奴等は、砒素に中毒しているんです……しかし、そんなことを気にしてはいられません……私共は単に私利私慾の為に錫を採っているのではないのですからね、これも国家への御奉公です。今、錫を出さなかったら、あなた……」
孫軍曹は、乗り出して来る経理の鼻をぴしゃりと打つように云った。
「戦争に錫が必要だ位のことは仰有らなくても分っています」
「いいえ、あなた、単にそれだけじゃありませんよ」
経理は、自分が国家の政策に就いても色々の知識を持っているということを示すのを、邪魔されるのを恐れるかの様に、甘ったるい猫なで声を出して喋り出した。
「箇旧の鉱山は我々の抗戦を力強いものにする為にですね、アメリカから一億弗……億ですよ。それを借款する担保に入っている、この錫がですよ」
が、雲南府で学生にそれを聞いている孫軍曹が、少しも驚かず、そんな事は知っているという風に薄笑いを浮べているのを見て、経理はついほんきになって本音を吐き出した。
「それだけじゃあない、実は中央政府は、これを機会に、何とか箇旧の錫鉱山に難癖をつけて、全部政府の直営にしようと企んでいるのです。ようがすか、そんな事になったら、われわれの龍雲省長閣下はどうなります。閣下の腹心の幕僚は何とかその分前に食込むとしてですね、年々二千五百万ドルからの錫をこの蕃地から出す七百の鉱山主はどうなります……猛運動をして漸くここの守備隊長になられた沈大佐も、莫大な徴発金がとれなくなれば、部下のあなたも、甘い汁は吸えなくなるということになるんですよ」
「沈大佐が猛運動をしてここへ来た」
「そうですとも。ここは月給の百倍も収入のある土地ですからね。沈大佐も、軍務司長あたりに莫大な贈物をしたという噂ですよ……まあ何にしても、あんた方と吾々《われわれ》は同じ利害関係を持っているんですからな……一つ仲良く行きましょう……」
「…………」
経理は、それでも、むっと黙り込んでいる孫軍曹に、怒りの色を浮べたが、それも一瞬で、声を落して囁いた。
「蒋閣下のように二百万の兵を殺し国を焦土にして国民を路頭に迷わしても、外国へ亡命すれば向うの銀行に十億近くも預金のある人はいいですがね……われわれ、今稼いで置かないと何処へ追払われるか分ったもんじゃない。だから、どんな事をしても今のうちに沢山錫を採らなきゃア……何処へ行って暮すにも金だ。沈大佐だってそれを考えたんですよ……お互も一つうまくやろうじゃないですか」
「そりゃあ本当なんですか。世の中ってものはそんなものですか」
孫軍曹は、自分のもの知らずを、悲しむかのように悄気返った。
「嘘にも本当にも、中国の将軍連は戦に負けて亡命しても、百万二百万の金を持っていないものはないじゃアありませんか。世の中は利口に立廻らないと馬鹿を見ますよ」
経理は立ち上って、そう云い乍ら、孫軍曹の肩を軽く叩き、この男も蒙古犬だが、うまく仕込めばいい番犬になるだろうと、そんなことを考えながら出て行った。
孫軍曹は、うちのめされたように項垂れていた。
“俺が万一の時には命を賭けても守ろうという決心で、国境から遙々《はるばる》雲南府まで持って行ったあの機密書類が、買官の依頼状だったのだろうか。あの厳重に密封した重い荷が、軍務司長への贈物だったのか。周副官が吉報だと云ったのも、そう云われれば頷かれる”
彼は十七の時から、軍隊にとられて教育され、抗日は救国に絶対必要であること、蒋主席の尊敬すべき大人物であること、沈大佐の忠誠なる軍人であることに、少しの疑いも持たなかった。
それが今、一朝にして崩れかけているのだ。
“蒋主席や、あの厳格な沈大佐殿が、本当にそんなことをしているのだろうか”
孫軍曹は、沈大佐がまだ少佐の時従卒となって、以来順調にここまで来た。
三年前、命が惜しければ残り、出世がしたければ前線に来いと云われ、命は惜しみませんと答えてついて来たのだ。
少佐殿も大佐になられた。俺も軍曹だ。その間、随分叱られもしたが、人一倍可愛がられもした。
“嘘だッ嘘だッ、経理の野郎、俺を買収しようと思って、でたらめを云やアがって”
彼は目の前の金包を鷲掴みにして、経理の後を追った。
その時例の坑口の入口では坑夫達が何か興奮して走り廻っていた。
「どうしたんだ」
「落盤です。子供が三、四人埋まってしまったのです」
「なに埋った? 何処だ、なにを愚図々々《ぐずぐず》しているんだ、早く掘って出してやれ」
孫軍曹は現場へ駈けつけたが、誰れも手を下そうとする者はない。衛兵が仕事の手を休ませないのだ。
孫は激怒した。しかし、衛兵と監督は、三人や四人の子供を助ける為に、五十弗も百弗もかかる工事をやって採鉱を遅らしたら、自分達が首になるというのだ。
「俺がやらせたと云え。文句を云う奴があるなら俺が相手になる……子供達を早く掘って助けてやれ」
が、それでも躊躇する坑夫達を見ると、孫は鷲掴みにしていた金包を破いた。
「さ、早い奴に褒美をやる」
赤肌の大地に、明るく銀貨が音を立てて飛ぶと、坑夫達は大人も子供も仕事を放り出して群がって来た。
「そこを掘れ、後は助けてからだ」
坑夫達は歓声をあげた。坑内に知らせに行くもの、指図するもの、衛兵も、もう手がつけられなかった。孫軍曹の噂を知っている坑夫達は、彼の保護に安心して、続々坑内から出て来ると、新しい工事に加わった。
孫軍曹は、掘起した岩の上に仁王立になって指図しながら、事務所から出て来て苦り切った顔をしている経理に、
「錫も大切ですが、人間の命は何より大切ですからな」
と云った。
少年達が再び歓びの叫びをあげて小さな穴から、地下へ這い込んだのは、それから数時間の後だった。
引上げられた少年達は殆んど気を失っていた。坑夫達は、彼等を地上に寝かし、あるものは自分達のボロ布で扇ぎ、ある者は自信あり気に揃って不思議な祈祷をやり始めた。
彼等の世界に医者というものはないのだ。
「医者は居ないのか、ここに医者は居ないのか」
孫軍曹は、そう呶鳴っていたが、坑夫を分けて手負に近づくと、愕然としてその一人を抱きあげた。
「おい、しっかりしろ、おいッ」
孫は、興奮に青くなって叫びながら、抱えた手負を荒々しくゆすぶっていたが、額にたれた髪を撫であげて、落盤に酷く打たれている致命的な傷に気がつくと、突き放つように死骸から身を退いた。
「馬鹿野郎、こんな所で死にやアがって……何だって俺が坑へ入った時出て来やがらねえんだ」
「軍曹さん、万里を知っているんですか」
「俺の生れたところの奴だ。俺の家から一町とは離れて居ない……おい、この鉱山に、この万里より二つ三つ下の、春生という子供はいないか……おい、誰か知っている者はないか、春生という子供を……」
真剣な、何時もの彼に似合わない縋りつくような調子だった。
が、誰も答える者はなく、しーんとして、子供達は済まなそうな顔を見合せるばかりだった。
「そうか、誰も知らないんだな」
孫軍曹は、弟や母の安否を、また新しく思い出しながら力なく立ち上ると、残りの銀貨を投げ出した。
「約束だ、何かの足しにしろ。それから他の怪我人は小屋へ運んで置け。上等兵に手当をして貰ってやるからな」
そう云うと憂愁に沈んだ顔をして帰って行った。
保身の道
「こうして鉱山を降りて来ると、生きかえる様な気がするな」
守備隊長に呼ばれて、使の兵と一緒に出た孫軍曹は、箇旧の街に近い丘を下りながら云った。
「花は咲いているし、樹は青いし」
この高山地帯に四季はない。何時も四、五月頃の気候で、ひどく高い山の上か、低い谷間でなければ、そう暑くも寒くもないのだ。
丘の中腹の塀に囲まれた、兵営の様な大邸宅の中庭にも、花壇の花が咲き誇っている。
「鉱山はたまらないぞ、あの子供の奴隷を見ているのは……」
「軍曹殿、そんな弱気では駄目ですね。あの邸宅をご覧なさい。みんなあの子供達の働きで贅沢をしているんですぜ……雲南ドルで年収二、三百万ドル、中には百人も武装した護衛を連れて歩く奴がいるんですからな」
「ふーん、君は箇旧には古いのかね」
「もう四年になりますがね、前の守備隊長の時には、徴発金を納めない鉱山主の所へ、よく懲罰に押しかけたもんでさ」
「そうかね、俺も子供を撃つ位なら、その方へ廻るね」
「はッはッは、黄中尉の様にやりますかね」
迎いの古兵は媚びるように云った。
「しかし、軍曹殿が、鉱山の餓鬼どもを気にするのは変ですよ。奴等はああいう風に生れついてるんでさ、放してやったって、又、他処で同じようなことをしなきゃア、結局食えないんですからね。ああいうものを一人前の人間に見ていちゃアきりがありませんや」
孫軍曹は、そんな馬鹿なことがあるもんか、現に万里と同じ生れ、同じ育ちの俺でさえ、貴様の上官の軍曹になっているではないか、万里だって、売られる前に軍隊へでもとられていたら、白人とでも五分に闘う、一人前の男になっていただろうと思った。
が、彼はただむっつりと黙り込んでいた。
案内された守備隊長の新しい邸というのは、丘のはずれの、街を見下ろす、高いユーカリ樹の林の中に建っていた。
フランス式の別荘風で、大佐の邸というより将軍の別邸と云った贅沢な建物である。
広い庭の隅に、何を建増するのか、運動選手のように背中に番号をつけた囚人達が、足につながれた鉄鎖の音をさせながら働いていた。
雲南府の街中でも見る光景で、初めてのことではないが、孫軍曹はその鎖の音に何とも云えない厭な気がした。
沈大佐は洋風の机の前で書類を調べていた。孫軍曹を見ると、艶のある、右と左と大きさの違う眼をぐっと開いて、
「貴様は世界一の大馬鹿者だぞッ」
と呶鳴った。軍曹は来たなッと思ったが、最大級の言葉を使うのは大佐の上機嫌の時の癖なのでそう驚きもしなかった。
「何とか云え……貴様は役にも立たん小孩の死骸を掘出すのに、鉱山中の坑夫の仕事を数時間も邪魔したそうだが」
「大佐殿、小孩は生きながら埋められたのでありまして――」
「莫迦! 埋ってしまったものが生きているか、死んでいるか誰に分る。以後坑内のことに干渉は許さん。いいか、覚えて置け。抗戦には金が要るんだ。国家は今、如何なる犠牲を払っても、多量の錫を美国へ送らなければならないのだ」
「しかし、大佐殿」
孫軍曹は、私邸に呼ばれている心安さや、部屋の様子や、大佐の態度に、従卒時代の親しみを感じながら、ぼそぼそと云った。
「少年達の待遇は……その……極度に酷いのでありまして、美国人にでも知れましたら、黙って居らんだろうと思うのであります」
「貴様、何処でそんなしゃれた文句を聞き噛って来たんだ。それだから世界第一の大馬鹿者だというんだ。美国だって箇旧の錫がどうして採鉱されているか位知らんで金を貸すか。その金の為に戦争が続いて何百万の兵隊が死のうが、箇旧で中国の子供が全滅してしまおうが、美国が今更何を云うか。人道主義は向うの売物なのだぞ。その売物の人道主義を何で美国が買うんだッ。奴等の買いたいのは錫なんだ。いいか欲しいのは錫なんだぞ。馬鹿者奴! 分ったか」
大佐は、自分の言葉に調子づき、一気にまくし立てて軍曹を見守ったが、その大きさの違う眼は(小僧、呶鳴られて内心ふくれてるな、だが、お前なんぞに話しても分らんだろうが、俺の今云ってることは真相なんだぞ)と云っていた。
孫軍曹は答えなかった。大佐は、そのむっつりした態度に、ぴくっと眉を動かすと、顎で扉を締めさせて、低い調子で云った。
「孫、考えなくちゃいかんぞ」
「はあ?」
「抗戦の前途ももう先が見えて来たんだ。将軍連はみんな保身の道に……つまり、この戦争がどんな風に結末がついてもいいようにだ、自分の地盤と金を作ることに一生懸命だ……吾々《われわれ》だけが前線で頑張って見たところでどうにもなるもんじゃない……自分が前線からここへ来たのも分るだろう……いいか、だから、つまらん事に力みかえらんで鉱区の成績をあげさせろ。俺に一々《いちいち》口を出させんでも、お前は、ここでは恐れられているんだからな……あの鉱山が成績があがれば、それを標準に全鉱区からうんと徴発金を収めさせることも出来るんだ」
「…………」
大佐は孫軍曹の心の中を見透すように注目した。何処を見ているか分らないような気味の悪い眼である。
「無論、お前にもそれだけの事はしてやる。これはお前だから云うのだが、これからは金を掴んだ奴が勝だ。お前にしても、何時まで、先の知れた下士でもあるまいからな」
孫軍曹は、やはり返事をしなかった。が、彼は、もう反対は出来なかった。大佐がこういう調子で出た時に逆らったら、どういう結果になるか、知り過ぎていたのである。
彼は、べそをかいたような顔をして腰をかがめた。
「よし」
大佐はこれで用が済んだというように机を叩いた。そして抽斗から紙幣の束を掴み出し、厚さを計って一部分、引きぬくと、顎と一緒に軍曹の方へ突き出した。
そして軍曹が泣き出しそうな顔をして躊躇しているのは自分の知遇に感激しているものと思い込んで、
「遠慮するな、今夜はゆっくり街で垢でも落して行け」
と云った。
大佐の部屋から引下って来た孫軍曹は、中庭の隅で吠え立てた、獰猛な西蔵犬を射殺しかねないほど興奮していた。犬はつないであったのだが、彼は滅茶滅茶に拳銃でもぶッ放したい気持だった。
“鉱山の経理が云ったことは本当だ”
あの雲南府の官署で、荷物を持って行った副官の妙な態度も、左遷だと思ったのが、大佐にとってはなるほど吉報だった訳も初めて分ったのだ。
彼は、銃を担った右の肩が、ちょいとあがっているのと同じように永い間の習慣で沈大佐に威圧され、何も云うことが出来ずに金を受取ってしまった自分が悲しかった。
“吾々だけが頑張ったって、どうなるものか……沈大佐はそう云ったが、それでは両親に別れ、妻や兄弟に別れて、故郷を何百里も離れ、物凄い戦に斃れた兵隊はどうして浮ばれるんだ”
孫軍曹は大佐の邸を出ると、悄然としてあてもなく街の方へ下りて行った。
生きた死骸
“俺は一体どうすればいいのだ”
彼は独り悶え苦しみながら街を歩いていた。
雲南府に使して以来、彼の見聞した人生は、あまりにも広く複雑であり、予想外で、彼の知識では、自分達の廻りに色々な不正があることは感じられても、一体何が世の中をこんなことにしているのか掴みようもなかった。
しかし、何れにしても、彼が教えられ、且つ信じていた、上官に忠実であることが国家に忠誠を尽すことであり、国家に忠誠を尽すことが身を立てることであるという信念は、全くぐらついてしまったのである。しかも残されたものは、やり場のない、激しい忿懣の情であった。
彼は、民家の空地に咲いている花を見ても、今は何か焦立たしい気持にされるばかりで、道端の商人から色のついた飴を買う女にも――水中に 野菜の車を曳かせ行く農夫にも――銀の飾りの重そうな革帯をして、身体より大きい豹の生皮をかついで来る※ 々《ロロ》族にも――纒足した女の履く、小さな桃色の可愛らしい靴を売っている男にも――
“馬鹿野郎ッ、なんにも知らねえで呑気そうに、手前達はまごまごしていると、みんな亡ぼされてしまうんだぞ”
と叫びたくなるほど腹立たしかった。
“しかし、そのお前は何をしている”
孫軍曹は、憲兵のように革帯へ吊した拳銃へ手をやった。
“これで鉱山主や大佐の金儲けのために、あの子供達を脅して、まだ追い使うつもりなのか? 俺アそんなこたア真平だッ”
彼は、吐き出すように呟いたが、油の炒ける強い臭いを漂わして軒から煙を出している飯店に気がつくと、酒でも飲んで見たらと思った。
が、彼が、その店先へ入ろうとした時、出会い頭に、襤褸を投げたように飛んで来たものがあった。
小孩の乞食である。
「出て行けッ、飛 んでもねえ餓鬼だ、お客になんかねだりゃアがって、二度と店へ入って来やがったら叩き殺……ヘッへッ、へ ……いらっしゃいまし、どうも飛 んでもない粗相を……」
罵りながら軒先へ出て来た店の者は、軍曹の姿に慌てて追従笑いをした。
「つい、癖になるもんですから」
孫は、それに見向きもせず、
「可哀想に酷いことをしやがる。どうした。怪我をしやアしないか」
と云いながら、倒れている子供を抱き起した。
痩ッこけた手足、緑がかった青い皮膚、額から鼻のあたりまで酷い傷痕があって、両眼がつぶれている。
一見して鉱山でやられた犠牲者だった。
孫軍曹は、ぎょっとした様子で凝っと小孩の顔を見ていたが、堪らなくなったらしく面をそむけた。そして、泣きじゃくっている小孩をしっかり抱えて店の中へ入って来た。
店の者も、居合せた客達も、驚いて軍曹と乞食を見守った。
孫は店の者が、真青になって後退りをするほど、殺気を帯びた凄い顔をしていた。彼は、激しい怒りに、血走っているような鋭い眼を据え、歯を食いしばって、深い影を刻んだ頬のあたりを痙攣させていた。
「おい、あの軍曹じゃないか、黄中尉をやっつけた」
その囁きに、店の者は震え上った。
店の、とっつきに居た、年寄の客は、その様子を見ると、孫に席を譲りながら、
「それ見ろ、だから乱暴なことをするなと云ったのに……さ、よく謝った方がいいだろう」
店の者は年寄にそう云われて、怖々《こわごわ》近づいて来た。
「旦那、ど、どうぞ御勘弁を、あなたがおいでになったとは知りませんもんでしたから……」
孫は黙ってその男をジロリと見たきりで、年寄の居る、隣の食卓の前にかけると、盲目の小孩を膝の上へ抱き上げた。
「おじさん、あ、有難う」
小孩は、抱きしめられた痛さに、顔をしかめながら、嗚咽とともに云った。
そして骨と皮ばかりの細い手で、怖々軍曹の佩剣に触れ革帯にさわり、逞しい腕に、そっと手をかけた。が、その手の甲にはらはらと落ちる生ぬるいものに、ぎょっとして見えぬ眼を瞬いた。
孫軍曹は泣いていた。いかつい肩が震えている。
「兵隊のおじさん!」
孫は、その怯ず怯ずした小孩の声をきくと、いきなり荒々しく肩をかかえ込んで顔を引寄せた。
「春生! お、俺が分らないのか」
「え?」
小孩は、自分の名を呼ばれてびくッと身体を硬くした。
「永才だ、春生ッ」
「ああッ」
小孩は刺されたように叫び、顔をあげて見えぬ眼で兄を見ようとしたが、わあーッと声をあげて泣き出しながら、孫の胸に顔をおしつけて身悶えした。
「春生、どうしてこんな所へ来たのだ……お母さんはどうした?」
春生は、泣きじゃくりをやめて、何か云いかけたが、又わッと泣き出して、兄の身体を力まかせにゆすぶった。
隣の年寄を初め居合せた客達は、この有様に息をのんで、ひっそりとしてしまった。
孫は、弟の必死にしがみつく力に椅子の倒れかかるのをおさえて足をふん張っていたが、頬をこすりあげて云った。
「春生、男のくせに何時までも泣く奴があるかッ。お母さんはどうした」
「兄さんだって……兄さんだって、泣いてるじゃアないか……お母さんは、どっかへ行った。二人で一緒に居たら、二人とも何も食べられなかったんだ……家はなくなるし、寝るところもないのでお母さんは病気になるし……」
孫は歯をくいしばって頷くのがようやくだった。
「…………」
「あたいは劉さんていう痘痕のおやじが、鉱山へ働きに行けば、お母さんにもお金をやれるし、子供でも戦争の役に立つんだと云ったから路三や、万里なんかと一緒に来たんだ」
「お母さんとはそれっきりなのか、それとも何処に居るか知っているのか」
春生は、寂しく首を振って、兄の胸をちからまかせに掴んだ。
「兄さん、それっきりなの。あたい達は屋根のない火車に乗って、山の天辺や、谷底や、猿の沢山いる所を通って、随分遠くまでやって来たんだ……騙されたんだ……騙されたんだ……兄さん、口惜しい、みんなも口惜しがっているんだ」
「うむ、鉱山のことは俺も知っている」
「兄さんに分るもんか。あたいの鉱山では、あたい達はもう来た時の半分も居ないんだ……あたいは爆発で眼が見えなくなって……銅貨十枚で、国へ帰れって……でも、病気や、怪我で死んだり、酷いのは逃げ損ったものをみんなの前に連れて来て、鉄砲で頭を……」
春生は云いかけて、ぎょっとした様に言葉を切り、兄の革帯から手を離してそのまま黙り込んだ。
「どうした? 何を怖がっているんだ」
「兄さんも……兵隊さんだね。兄さんも……」
春生は、悲しそうに、そう云って項垂れてしまった。
「春生、お前は俺もそんなことをしていると思ったのか。俺は子供なんか撃ったことはないぞ。俺は事務所の衛兵じゃアない」
春生はそれを聞くと、慌しく、もう一度兄の身体を撫で廻して見た。そして、見えぬ眼から溢れる泪を、頬に流しながら叫んだ。
「あ、長い剣だ……拳銃もある……兄さん、兄さんは将校だね……ねえそうだね……ああ、お母さんに見せたらどんなに喜ぶだろう、お母さんは兄さんのことを随分心配してたよ……あたいも兄さんが一目でも見えたら……」
孫軍曹はたまらなくなって弟をひっ抱えた。
「春生! お前の居た鉱山はどの鉱山だ」
「洪開元将軍の鉱山なの、あすこは一番酷いんだって――」
「洪司令官の鉱山だ?」
孫は眉をあげて、「畜生!」と唸った。
と隣にうなだれて聴いていた老人が、不意に手をあげてそれを制した。
老人の眼には泪がたまっている。服装こそ粗末だが、この辺の土民とは何処か違っている六十近い親爺である。孫軍曹は、その好人物らしい老人の顔を不思議そうに見た。
「若い方……余計なことだが年寄の老婆心と思ってな」老人は遠慮勝に低い声で云った。
「こんな場所で将軍の鉱山の噂はいけませんぞ」
「何故」
「何故と云われると鳥渡困るが、洪将軍は退職なすっても、この辺では守備隊長も遠慮する御人じゃ……君子危きに近寄らずでな」
老人の眼は油断するなと云っている。
軍曹はおとなしく頷いた。そして暫く考えていたが、手をあげて店の者を呼ぶと、弟に何でも好きなものを註文しろと云った。
洪将軍というのは、もう大分前にこの地方の軍司令官をしていた有力者だが、孫は、この有名な将軍までが、こんな子供達を酷使して、金を作っているのかと思うと、新たな憤りに手足が震えた。
死の晴着
洪開元将軍の鉱区というのは、この地方でも有数のものだった。
しかし、その内部は極度に秘密にされていた。
一九三五年に、国際聯盟が、公衆保健の権威であるスタンパー博士を箇旧に派遣して、錫鉱山の事情を調査させたことがある。その時にも、聯盟の代表であり、加盟国支那の公認を得ていた博士さえ、三週間の滞在中、郊外の鉱区域に、僅か二度、短時間の視察を許されたきりなのである。
しかし、博士は、この地方に多年住んでいて事情をよく知っている宣教師達の助力により夥しい情報を手に入れて帰国し、国際聯盟からその報告書を発表している。
この権威ある報告書や、その数字などを参考として、簡単に説明すると、洪将軍の鉱区は、彼が司令官時代に、その官職を利用して、群小の小鉱山主に対して恐怖政治に近い政策をとり、多数の小鉱区を支配した上、とうとう現在の鉱区を獲得したものなのだ。
将軍の鉱山経営法は、残忍な中でも残忍なものだと噂されていた。
この雲南錫鉱有限公司の鉱山では、春生が戦慄して語ったように、統計によっても、確かに一年間六十パーセントの児童坑夫が居なくなるのだった。
そのくせ、この鉱山には、この会社を今日あらしめた技師長に、英国の紳士H・デューラン氏が居たのである。
しかし、箇旧唯一の白人であり、紳士であるデューラン氏は、少年奴隷の消失などに、神経を痛めるような男ではなかった。
氏は、雲南錫鉱公司を群小鉱山から卓絶したものとする為には、錫のコストを出来るだけ下げる必要を痛感すると、数字の命ずる所を忠実に守って、先ず一番大きい採掘費を極度に切りつめた。
つまり出来る限りの尠い労力と費用とで、小さな、狭い、しかも豊富な鉱脈に達する深い坑道を作ったのである。
狭い坑道には小さい坑夫が最も適当だった。
小さい坑夫は、駆使し易く、且つ賃銀が低廉だった。
児童の賃銀は一日一片であった。
そしてこの消耗品たる少年奴隷の供給は、洪将軍が無限に保証し、逃亡者は弾丸をもってくいとめた。
錫のコストは無論下るだけ下った。これでH・デューラン氏を技師長とする雲南錫鉱公司は、群小鉱山が競ってこれに倣うほどの成績をあげたのである。
そこで将軍は見込通り年々巨富を積み、H・デューラン氏も亦、祖国イギリスに安価な錫を供給することに成功して、得々とこの辺疆の地で、英国第一流の紳士としても恥ずかしからぬ貴族的な生活を楽しむことが出来たのである。
孫軍曹が、皿の料理を貪り食う弟から聞いた鉱山の噂では、勿論、そうした組織だったことは分らなかった。
しかし、彼は弟から、少年坑夫は、その僅かな賃銀の中から、会社の売店で売る法外に高い雑貨を買わせられたり、甚しいのは監督とぐるで鉱山へ入り込む商人から阿片を売りつけられたりして、金など持っている少年は殆んど無いが、英国人の技師長は、途方もない金をとって、将軍と同じように威張っていると説明されて、大体鉱山の様子を察してしまった。
それにしても、雲南省は如何に阿芙蓉の産地で阿片が安いとは云え十歳前後の子供が阿片の中毒患者だとは何事だろう。
春生の語るところによると、監視達の機嫌をとる為に阿片を買う少年達は、仕舞には肉体の苦しさや、疾患の痛みをまぎらす為に、だんだん阿片に親しんで、短い生涯を阿片のために生きているようになるのだという。
十万の少年奴隷を苛む、酷使、栄養不良、疾病、砒素、阿片、銃殺……しかも、天下にこれを救おうとする者は一人も居ない。
孫軍曹は、惨めな弟の姿に、十万の少年奴隷の運命を見た。
“これでも、世の中に、天道などというものがあるのだろうか。大勢の母親達がこれを見たら、何と云って泣き叫ぶだろう”
彼の怒りは、もう、習慣などというものを越えて、心の底に凝結してしまったのだろうか。
例の鋭い眼を据えて考え込み、飯店の亭主が出て来てしきりに詫をいうのも聞き流して、真青な顔をして飯店を出た。
灰色の低い雲が、空一杯にかぶさっている箇旧の街は、もう暮れかかっていた。
「兄さん」
春生は、背後の跫音に気兼して小さな声で云った。
「何処へ行くの?」
「とに角、どっかでお前の着物を買わなくちゃア……春生、お前、足が悪いのか」
「何でもないんだ……膝のところが少しはれ ているけれど、もう鉱山へ入りゃアしないから直き癒るよ」
弟は、兄を心配させまいとして、平気で歩こうとし、兄は弟を抱えるようにいたわり乍らゆっくり歩いた。
「兄さん、あたい、着物なんかいらないや」
「何故? そんな恰好をしてると、またさっきの様な目に遭うぞ」
「でも、あたい一人になったら、どうせ、又誰かに奪られてしまうもの」
「なに、着物まで剥がれたのか?」
「うん、あばたの劉ってやつに金を貰ったとき、お母さんが買ってくれたのを大事に持っていたんだけど……鉱山を下りて箇旧へ来る途中で……」
「だ、誰れに剥がれたんだ?」
「誰だか分りゃアしないよ……あたいは眼が見えないし……身体が弱り切っていて……」
孫軍曹は弟の顔が見られなかった。彼は弟の頭を撫でようとして、そこにも深い傷痕を感じ、自分の痛い所へでも触れたような顔をしたが声だけは明るく云った。
「まあ、いいや、奴等も着る物がなくて困っていたんだろう。着物ぐらい幾らでも買ってやるからな」
そして一軒の估衣舗を見つけると、弟に着物をきかえさせて、街外れまでやって来た。
「兄さん」
春生は、突然立留って膝をつきそうになった。いい着物をきせられた嬉しさに、昂奮していたが、ここまで兄と一緒に歩いて来るのに、疲れ果てて了ったらしく、呼吸をぜいぜいいわせている。
「どうした、くたびれたか、かまわないからそこへ腰をおろせ」
孫永才はそう云って着物のよごれを気にする弟を丘の斜面にかけさせた。
「兄さん」
春生は、自分の疲れを見せまいと気を張りながら、着物を撫で廻して云った。
「随分立派な着物だね……あたい……こんな柔かい着物初めてだ」
「うん、よく似合うよ。鐘楼横の范家の令郎のようだぞ」
春生は、嬉しそうに顔をくちゃくちゃにして笑った。
「お母さんが見たら喜ぶね」
「うん」
「あの奪られた着物をきせてくれた時だって、泣いて喜んでいたんだものね」
「……むむ……」
春生は、兄の重い返事に、突然、顔を曇らせて、腕を組むように自分の両袖をしっかりおさえながら、
「でも、兄さんが隊へ帰ってしまったら、あたいはまたこれを奪られてしまう」
荒凉とした鉱山区が、遠く見える丘の斜面に、杏黄色の緞子の長掛子 を着て、横たわっている春生の姿は痛ましかった。
壊れた上半面……緑色になった、か細い頸、手足、異常に腫れている節々……着物の色が美しければ美しいほど、それは死骸が晴着をきているとしか思えない。
それを凝っと見ている孫軍曹の眼には、もう涙の影もなかった。
彼の瞳は、まるで斥候に出された兵のように、冷たい光を湛えて周囲を見廻し、癖のある例の肩をひいて油断のない身構えをしている。
「兄さん、兄さんは何処にいるの」
春生は、死のような静寂の中で、暗黒の恐怖に戦慄し、手さぐりで兄を求めると、その胸に頭を倚りかけた。
「兄さん、兄さんは、もう隊へ帰らなければいけないんだろう」
「春生、心配しなくてもいい、俺はもう隊へは帰らないんだ」
「え?」
孫永才は、やるなら今だと思った。
親にも見せられないこの姿……この衰え切った敗残の弟を、こんな無情な世の中に生かして置くほど惨いことがあるだろうか。
“俺が死んだら、春生はどうなるのだ”
彼は、盲目の春生が、何時会えるか分らない母を慕って、踏んだり蹴ったりされながらこの嶮しい山や峡谷を越えて、雲南省まで辿りつこうとする姿を想像するだけでも堪らなかった。
と云って、この弟を連れて守備隊を脱走するなどとは、思いもよらぬことである。
彼は弟を抱きしめながら心で叫んだ。
“春生、堪忍してくれ……俺はもう奴等の邪道に我慢が出来ないのだ。俺は誰が何と云おうがやっつける……これはお前や路三の仕返しだけではない。何百万の、お前と同じような子供達や、その親達のためなんだ、俺はお前だけを殺しゃしない、兄さんも死ぬ気なんだ……奴等の中で一番酷い奴を一人二人殺っつけたら、鉱山主達も少しは目を覚ますだろう”
孫永才は、狂気染みた眼をして、丘の斜面を見守りながら、弟の頸に手をかけようとしたが、肉親の情に突き上げてくる涙をおさえるのがやっとだった。
「どうしたの? 兄さん……兄さんは震えているんだね……兄さんは?」
春生は、両手で兄の顔をさぐり、荒れた骨ばかりの指先で頬を撫でて見た。
「兄さんはどうして隊へ帰らないの?」
「俺は兵隊が厭になったのさ」
春生は、ぎょッとして黙り込んだ。そして暫くすると叫ぶように云った。
「嘘だ……いやになったなんて……兄さんはきっとあたいの為に……兄さんッ」
弟は、兄の服を掴んでゆすぶった。
「兄さんは、脱走しちゃあいけない……折角……出世したのに……折角……兄さんでも捕まれば殺される……あたいは知ってるんだ……兄さんにそんな事をさせる位なら……あたいは死んだ方がいいんだ……兄さん」
春生は濡れた頬を兄の胸にこすりつけて云った。
「ほ、ほんとうはね、兄さん……ほんとうは鉱山を追い出される時、あたいは云われたんだ(どうも此奴はもう長くはないから)って……あたいなんかどうなったって……兄さんッ……兄さんは偉くなってお母さんを……」
「春生ッ」
孫永才はそのいじらしさにもう何も云えなかった。まして、その手で殺すどころではない。
“こんな歳でもう自分の死ぬ時のことを考えている。こんな歳で……”
彼はいきなり春生をかき抱き、犇と縋りつく弟と長い間慟哭していた。
陽は、もう丘の稜線に沈み懸って、陰欝な雲の裂目から、鉱区の一部をあの血の様な色に染めていた。
孫永才は、びくっと頭を起した弟に小突かれて顔をあげた。
赤い陽を浴びている丘の斜面に、二人を蔽うような大きな人の影が写っている。
「誰だッ」
永才は声と共に振り返った。
「わしだよ、さっきの飯店にいた親爺だよ」
老人が丘の上から答えた。
「お前は俺を尾行して来たのか」
老人は、答える代りに手に紙包をぶらさげて静かに下へ降りて来た。彼の永才を見る眼は、心の底まで見透しているように静かだった。
「一体お前さんは、誰なんだ」
「この丘の向うで、錫をとっている者だよ」
「なに、鉱山主だと」
永才の油断のない眼が、鋭く老人にそそがれている。
「いや、いや、錫をとると云ってもな……わしのは、その子と同じように鉱山で怪我をした盲目の子供と二人でやっているのだ……」
「…………」
「わしの鉱山には坑道もなにもないが、それでも竈くらいの熔鉱炉もある……それで結構二人や三人が食べるのに不自由はない……月に何度か、ほら」
老人は、脂の滲み出した紙包を振って見せて、
「あの飯店へ行って、こうして子供に土産を買ってくるのが楽しみなのだ……若い人、短気はいけませんよ……暮しようは色々ある……幸などというものは、その人々の考えようにあるのだ」
「盲目の子供があんたの所にも……」
「うむ」
老人は春生の着物と、永才を見較べながら云った。
「鉱山ではよくやられるのだ、可哀想に……どうだね若い人、今日はおとなしく守備隊へ帰ったら……かっとした時には、ろくなことはしないものだ、落ついてよく考えるんだね、わしでよかったらこの子は預ってあげるよ」
孫永才は鸚鵡返しに叫んだ。
「え? 預ってくれる?」
「ああ、砒素の毒なら消す薬草があるし、頭さえ確かなら、まだまだ将来のある子供だからね。あんたが無茶なことをしないと約束するなら引受けよう。そして休暇に会いに来るがいい。時期を待てばまた道も開けるだろう」
孫永才は、その言葉に縋りついて老人に弟を頼み込み、丘の土民小屋に二人を送って行った。
「老人、では何分頼みます。孫永才はこの恩を忘れません」
「そうか、やっぱり孫軍曹だったね」
老人は、孫をジロリと見て云った。
「だが、孫軍曹の弟でも、土民の子でもわしのところでは一緒だからね。そのつもりで居ておくれ」
孫は、腰をかがめて頷いた。老人の言葉は却って孫を安心させたのである。彼は、弟の頭をさすりながら云った。
「じゃあ春生、兄さんは直きに会いに来るからな、おとなしくして、よくいうことをきくんだぞ」
「兄さんッ、行っちゃア厭だ」
「春生ッ、折角老人が世話をして下さるというのに、何を云うんだ。さっき自分で言った言葉をもう忘れたのか」
「まあいい、子供だもの無理はないさ」
「有難う御座います。お蔭様で安心して行けます」
「では約束を忘れずにね。短気はいかんよ」
「ええ大丈夫です」
孫永才は、思い切って小屋を出ようとした。
「兄さんッ」
春生は、声をあげて兄を追った。孫は、よろけかかった弟を抱いて涙を浮べたが、言葉は荒々しく叱りつけた。
「意気地なしッ、そんな了見でこれから先他人に負けずに一人前になれるか。落盤に押しつぶされた万里のことを考えて見ろ。何万とこの鉱山で殺された子供達のことを考えて見ろ。同じ箇旧に俺もいるんだ……お前なんか、不幸と云える身じゃアないぞ」
「はい」
「よしよし、分った、分ったな」
老人は春生の手をとってさすりながら、眼で永才に行けと云った。
灯なき街
山間の鉱山街は、やがて暗い夜の底に沈んだ。
憂欝な面に、凄愴な殺気をかくして孫軍曹が、老人にそれとなく戒められて、丘の起伏に長い影を引きながら、鉱区の黄昏の中に溶け込んでから、まだ間もないのに、街は死んだように寂しかった。
此処も、支那の奥地の例にもれず、住民達は禍を恐れて宵から戸締りも厳重にひっそりしてしまうのだ。
東側の鉱区を持って三千人余りの子供達に養われている若い律勲は書斎で仏蘭西製の精巧な受信機でラジオの音波を探っていた。
部屋の壁にはロマン・ローランの初版らしい全集などが贅沢な戸棚に金色の背を光らしていて、その前に立ったり、かけたりした人達が緊張した顔をしてダイヤルを廻す華奢な指先を見つめている。
土地の商総務会の役員で、日本の大学を出たという王在廉と、洪将軍と、H・デューラン氏、それに将軍の腰巾着で小さな鉱山主の呉昌などである。
ラジオの真横の安楽椅子に埋っていた王は、威勢のいい行進曲のメロディーが流れ出して来ると、椅子から乗り出して、
「それだ、愛国行進曲だ」
と云った。JOAKの海外放送をキャッチしたのだ。
「ふうん」
退職の洪将軍が、俺はこんなことに驚きはしないぞという顔をして椅子にかけ直した。
ロンドンのボンド街あたりで仕立てたらしい、凄く贅沢な服を着たH・デューラン氏は、律が仏蘭西留学中の通を振り廻して出した一九一〇年産のブルゴーニアを注いだ盃を手にして、その音楽に冷笑を送っていた。
と、音楽時間もまもなく止んでアナウンサーが喋り出した。
「何です。ニュースですか」
日本語の分る王が、しッと手を振った。
「……諒山進駐の皇軍部隊長に申上げます。諒山進駐の皇軍将兵の方に申上げます。東京中央放送局海外放送に対する御丁寧な礼状、本日確かに拝見いたしました。係員一同は感激して居ります。それで一両日中更に各位の十分御満足が頂ける豪華版で、慰問の夕を催すことに致しました。どうぞ、御身体を御自愛下さいまして御健闘下さるよう御願い致します。吾々《われわれ》も皆様の武運長久を祈りつつ、微力を尽す考えで御座います。どうか御機嫌よく。本日の放送はこれをもちまして」
律は、王に首を振られて、ぷつんとスイッチを切った。
「少し遅かった。諒山にいる兵から礼状が届いたとその返事をしていやがる」
王は、吐き出すように云って説明した。
「箇旧はどうかな、やっぱり爆撃は免れられないだろうな」
「まあ、夜はこの通りですから大丈夫でしょうが……雲南府はまるで死の街だというし、蒙自も大分やられてますからな」
「いい具合に雲が出たが、これが晴れたら危いもんだな」
「うむ」
と将軍が唾を吐いた。
「鉱山はいくらやられても大したことはないでしょうが」
「しかし、そうはいかんぞ。それに坑夫は今までのように手に入らんし、一時に大勢殺されて、相当損害だからね。第一混乱中に逃亡されては敵わんからな。技師長、どうです御意見は?」
「さア」
H・デューランは、冷い顔をして云った。
「昼間は森の中へでも押込んで寝かしてやって夜働かせるんですね。わしは輸送上の打合せに、香港まで行って来なければなりませんがね……わしが居なくても、錫は出して貰わなければなりません」
「しかし」
若い律勲は困惑の色を見せた。
「この際、しかしはありませんよ。これは意志の問題なんで、貴方の学んだパリのソルボンヌ大学では、どういう教育をしたか存じませんがね」
彼は書棚の本を冷笑的な眼でジロリと見て、
「英国ではそんな不徹底な事業家は育てませんよ。倫敦で頑張っている人達の事を考えて下さい。それから今まで箇旧の錫鉱山に対して英国がどれだけの厚意を示したかということも……蒋主席は米国とどんな条約を結んだか知りませんがね……」
H・デューラン氏は、みんなを上から見下して、無暗に服の襟を両手で引張りながら、
「大体、龍雲主席も中央軍の雲南入りを承認して以来、頼りないです。今度来た守備隊長などに勝手な真似をさせる法はない。もしあの若僧が中央軍の廻し者なら、吾々は考えなければならない。洪将軍、どうです」
洪将軍は、ニヤニヤ笑っていた。それは、あんたの云わんとすることは分っている。しかし、奴を片づけるのなら、それを今口に出しては拙いという意味を伝えようとしているのだ。そして彼は、何気なく呉昌の方を見て、眼くばせした。
「いや、技術長のお説は一々《いちいち》尤もですよ」
呉昌は、洪将軍の意をうけて、大袈裟な身振りをしながらデューラン氏に近づいた。
「律氏もそれはよく承知しているんです……ただこの少爺は書斎の理想家ですからな……時に、どうです皆さん、爆撃でもされては、もう悠りする晩はないでしょうから、今夜は一つ雲鶴楼へでも行って、蜜蜂のバタ揚げに、焼鴨の胆でもやりながら、牌を闘わしては……」
「よかろう」
洪将軍が真先に立ち上って、
「では、邸から芸娘にわしのこれを届けさせて貰おう。シンガポールから届いた極上のがあるんだ。あれをやったら、ここのは吸えんよ」
と、妙な手附をして阿片を吸う真似をした。
一行は護衛の私兵や従僕の燈籠に送られて、灯のない街を雲鶴楼に向った。
熱帯に近い土地であるが、高原地帯だけに流石夜気は肌に気持がよかった。
「将軍、この街にも、仏蘭西風のホテルの一つ位、もうあってもいいですな」
若い律氏は、留学中のことを追想するような口調で云った。
「なにしろ二千五百万ドルと云えば全世界の十二分の一の錫ですからね。箇旧も世界的の存在ですよ」
「いや、いや、ここは誰れに来て貰わなくていい所なんだ。やはりホテルなど要らんね」
洪将軍はそう答えると、ぐぇッと妙な唸り声をあげた。
律も、呉昌も、燈籠を持っていた従者も、一斉によろめいた。
それと同時に、バリバリバリバリッと、竹を割るような鋭い音が一行を薙いだ。
前後にいた護衛の者達は、叫喚をあげて左右に逃げた。
が、流石に、その中の一人二人が、夢中で音のした方向に拳銃を乱射し始めると、私兵達は転がるように地に伏して叫んだ。
「襲撃だ」
「その塀の陰だ」
銃声は一時に右からも左からも起った。が、狙われた塀の裾から、不気味に火を噴いて、バリバリバリと又一薙ぎする機関銃の音が夜空に響くと、私兵達は暗い大地にはりついて、身動きもせず沈黙してしまった。
と、一番後に居た一人二人が、脱兎の如く元来た道に逃げ出した。機銃は、その物音に再び火を吐いた。が、それは死角だった。
「しまった。応援が来るぞ」
塀の裾で、溝の凹みに浸りながら軽機関銃にしがみついていた男は、口の中で呟きながら、ジリジリジリと下った。
それは、一度鉱山へ帰りながら、どうしても我慢が出来ず、チェッコ製のこれをかつぎ出して来た孫永才だった。
彼は便衣に着かえ、大胆にも軽機関銃を菰包みにして持ち、H・デューラン氏の邸に来た。
無論、腕ずくで襲うつもりだったが、門番の私兵の迂濶から、彼が律氏を訪問したことを知ったのである。
が、律氏の邸の警戒は厳重だった。彼は洪将軍まで来ているとは気がつかず、その帰りを待伏せていて、意外な獲物にありついたのだ。
孫永才は、逃げるなら今だと思った。
彼は軽機をいきなり持ちあげると、一散に走った。
が、その跫音は相手に勇気を与えた。
「逃げた!」
叫びと共に飛び上った私兵達は、横町に拳銃を撃ち込んで来た。
孫は、機銃を腰だめにして、バリバリッ、バリバリッと威嚇しながら一散に走ったが、相手は次第に大声をあげて執拗に追い、街は騒然とし、そこにもここにも追手がいるような気がした。
彼は不安になった。そして、あの老人の所へと郊外の丘に見当をつけて走り出したが、その行手に一つ、官銜燈らしい灯を中にして一団の人影が向って来るのを見ると、軽機を溝へ放り込み、側の煉瓦塀に飛びついてそれを跳び越えた。
希望の丘
翌日の昼近く――洪将軍達が何者かに襲撃され、重傷を負ったという噂が拡まって、箇旧の鉱山主達が色を失った頃である。
郊外の丘にある薄汚い土民小屋の近くで、老人と若い男が懸命に錫の鉱石を選っていた。
そこは丘の斜面に溝を掘った台地で、溝を流れる水があっちこっちに赤い泥水を溜め、その傍に赤い色の土が積んであった。
老人と若い男は、平ったい盆の上に赤土をとっては、水溜りで泥を洗っているのだ。
老人は、なれた手付で、盆の外へ水と一緒に土をふるい出し、重い鉱石を選りどりながら云った。
「わしは、そういうことをするなら、春生を預るのではなかった。あんたは大物をやって来たと云ったが、一体箇旧にどんな大物がいるのだね。第一、英国の技師長は微傷もしていない。又あの白人を殺したにしてもだ、失礼だがあんな者達を何人殺したって箇旧はどうにもなりはせん」
「しかし、黙ってやらして置いたのでは、少年達の浮ぶ日はありませんよ」
老人は皺だらけの瞼をあげてキラリと瞳を光らした。
「そりゃア闘うのはいい。だが、お前さんのやりかたがくだらなくはないか……結局は奴等と心中するようなことになるんだ」
「くだりませんかね」
孫永才は、命懸けでやって来た事をくさされて不平の色が濃かった。
「洪を殺しても又洪が出来る。律を亡してもまた代りが出来る。まるで穢いものに蛆がわくようなものだ。昔から幾度そんなことを繰り返して来たか」
老人は、ざぶざぶざぶと鉱石の土を洗いながら溜息をつくように云った。
「ではどうすればいいのです」
孫は、盆の中のものを放り出した。
「天日にさらすんだな。天下の耳や目の集るところでは、人間はあまり酷いことや恥ずかしいことはしないものだ……あれ達は、それが痛さに兵を置いて自国の者にさえ鉱山を見せまいとしているのだ。お前さんにはあの弟を一人前にしてやるという仕事もあるし、母親も探さねばならないという仕事もある。血を流すだけが闘いではない筈だ」
老人は盆の鉱石をぽんと放り上げて続けた。
「わしのいう闘いなら春生にも出来る。これが分らなければここへ来て貰い度くない。街外れの飯店で春生を見た者は、あれが孫軍曹の弟だと知っている者もあるのだからな」
が、孫永才は答えなかった。
「ああ、喋っていて陽が大分動いた。春生たちがお腹を空かしているだろう。さ、帰るとしようか」
老人は、考え込んでいる孫永才を、鳥渡憐れむように見たが、直ぐいそいそとした様子で立ち上った。孫永才には、老人のいうことが、分った様でやはりハッキリ分らなかった。
彼の頭に残ったものは、憎いH・デューランを撃ちもらしたことと自分が命を捨ててかかった仕事をくだらないと云われたことだった。
彼は、歓ぶ春生達と、貧しい食事を済ますと、万一にも迷惑をかけては相済まぬから、当分遠ざかって考えると、老人に囁いて小屋を去った。そして野菜売りに変装して少しばかりの荷をかつぎ、執拗にもH・デューラン氏の裏口から入り込んだ。昨夜の今日で警戒は慎重を極めている。彼は、夜になったら機会はないと知ると、僅かな隙を見て床下に這い込んだ。二時間、三時間、五時間、六時間……
彼の辛棒 は、彼の憎しみと同様に強かった。そして、その間にH・デューラン氏の居間らしいところを突きとめた。
デューラン氏は、不意の襲撃に怯え切って、香港に一時避難する仕度の為に、書斎と居間の間を忙しく歩き廻っていたのである。
が、孫永才は、もう護衛の私兵に包囲されていると同然だった。
それに時々、頭の上で唸る西蔵犬らしい動物の声に胆を冷した。
“成功しても命はないかも知れぬ”
彼は何時か真暗になった床下で、母と、幼馴染の小孩のことを思った。
“だが二人に会えずに死ぬのも運だ。どうせ死ぬなら男らしく死ね”
彼はそう思うと、匕首を出しいいように入れ直し、手探りで拳銃の弾丸を調べて、見廻りの足音の過ぎるのと一緒に、床下を這い出そうとした。が、彼はもう一歩という所で大地にひれ伏した。凄まじい銃声だった。
それと同時に邸内は騒然として、襲撃だ、襲撃だ、という叫びと共に立騒ぐ物音が表の方へ流れて、応射し始めたらしく銃声は益々《ますます》激しくなった。孫は何が何だか分らなかった。が、本能的に、今だっ、と床下から飛び出して、邸内に駈け上ると、見当をつけた居間の方へ飛び込んで行った。蹴放すように開けた扉の向うに、背の高い白人の姿が見えた。デューランだ。彼は、孫を見ると驚愕の瞳をひらいて、開けっ放しのスーツケースの中へ手を突込んだ。
「野郎」
孫は、いきなり引金を引いたが、銃声と一緒に真黒なものが飛びかかったかと思うと、右の腕に灼熱した鉄を刺されたような痛さを感じてよろめいた。小牛ほどもある西蔵犬に噛みつかれたのだ。弾丸はそれている。デューランは拳銃をつかんで振り返ろうとしている。
孫は、あーッ駄目だッと思うと、西蔵犬に噛みつかれたまま、デューランに跳りかかって、頭で彼を突き倒すと、左に匕首をとって相手の顔を滅多斬りにしてしまった。
恐しい悲鳴に駈けつける足音を聞いた孫永才は、自分でも、どうして腕から離れない犬を、射殺したか分らなかった。彼は、部屋を飛びだすと背後に拳銃の音を聞きながら、もう応射する気力はなく、莫迦になった右腕をかかえ込んで闇の中を一散に走っていた。
彼はあっちにも、こっちにも、喚声と、夜空に響く銃声を聞いた。兵変だ、兵変だッ、という叫びも、自分を追う声のような気がして無我夢中だった。
孫永才が、弟のいる小屋へそっと逃げ帰って来たのは、それから小一時間もたってからだった。
彼は、老人や弟に迷惑をかけるのを惧れて、兵匪のように商家へ押入って、傷の手当をさせ、遠く廻り道をして帰って来たのだ。
「春生、老人はどうした?」
「さっき豚を持って来た飯店の小僧が、洪将軍の私兵と守備隊とが衝突して大変だというもんだから、私達に一歩も出るなと云い置いて」
「そうか、それであの騒ぎなんだな」
孫永才は、片手で春生の手をとって云った。
「春生、驚くんじゃないぞ。兄さんは、洪将軍や、鉱山主を、昨夜機関銃でやっつけて来たのだ」
「ええッ」
盲目の二人は驚愕して一度に右左から孫に取縋った。
「それに、それに今夜は白人を滅多斬りにして来た。もう、ここにはいられないのだ……だが、何時か、きっと迎い に来るからな……それまで身体を丈夫にして」
「兄さん、あたいはいやだ。死んでもいいから一緒に連れて行って」
「春生! お前はまだそんな無理を云って俺を困らすのか」
孫永才は、片手で弟をひっ抱えた。
「孫軍曹、声が高いね」
それは老人だった。
「老人、申訳ありません」永才は老人の前に跪いて云った。
「おさとしもきかずに勝手なことをしながら、お留守を狙って来たのではありません。別れを云いにたった一目弟の顔が見たくて……」
「兄さんッ」
老人はその様子を凝っと見ていたが「孫軍曹」と改まって云った。
「わしは、あんたに教えられたよ。わしはあんたの遣り方を軽蔑していたが、偉いことをやったものだ。わしは初めて人間の情熱というものが、怖いもんだということをこの眼で見たよ」
孫は傷の痛みを堪えながら怪訝な顔をして老人を見た。
「わしは世の中を捨ててこうしていても、考えることだけは色々考えた。そして考えているということで自ら満足していたんだが……この年になって今更のように、たとえ考えても何もしないことは、考えないも同じだということを知ったのだ。これはどうやらお前さんの勝らしい」
「え」
「まア、あの丘へ来て御覧……お前さんの使った機関銃を発見した洪の部下は、沈大佐が将軍を暗殺させたと思い込んで守備隊長を襲撃した。守備隊と洪将軍の私兵は、そこら中で撃ち合っているし、鉱山は鉱山で大変な騒ぎだ」
「鉱山がどうかしましたか」
「うむ、爆撃されるという噂で動揺している所へ、またこの騒ぎで坑夫達は勝手に避難し始めたのだ。何万という人数だ、もう誰にもどうも出来はしない」
「そりゃア、本当ですか」
「あの物音が聞えないかね」
二人の少年はじっと耳をすませていたが、おおっと歓喜の色を顔に漲らして外へ出ようと永才を促すのだった。
老人と孫は顔を見合せ乍ら、少年の手をとって銃声の聞える丘の上に出た。何という鉱山の美しさだろう。
丘の起伏には炎々《えんえん》たる松明が空を焦がして、馬が、人が、小さく、列をなして影絵のように避難して行く。
「兄さん、本当だね、馬も一緒だね」
「春生、分るのか、そんなことまで分るのか」
「分るねえ、陳さん、赤い火がゆれているのまで分るさ。声も足音もちゃんと聞えるし……」
春生は、努めて晴々《はればれ》と兄に云った。
「兄さん、あたいにはまだ色々なことが分るんだよ。もう陳さんや、老先生に色々なことを教わったし、学校へあがって勉強すれば、眼明きに出来ないような仕事も出来ると思うんだ」
「むむッ」
「老先生……そうですね」
山の稜線を下って静かに動く長蛇の灯を見ていた老人が、春生の言葉に振り返った。
「そうだとも、今に何でも出来るようになる」
そして孫に改まって訊ねた。
「洪将軍の兵と沈大佐の兵とではどうだな」
「守備隊には洪将軍の息のかかった連中が多いですからね。いざとなるとどうなるか。この兵変は長引くかも知れませんね」
「孫軍曹、決行するなら今夜だね」
「え?」
「箇旧を脱出するなら今夜をおいて外はない。わしの、あの小さな熔鉱炉で出来た錫と通鑑を貸そう。二人を連れて行ったらどうだ」
「でも、それでは老人が……」
「いや、わしのことなら心配はいらない」
老人は、孫を促して小屋へ引き返すと、キラキラ光る錫の延棒を出して云った。
「これは旅費なり避難民の証明なりにするがいい。国境はとても警戒が厳重だろうが、柳城へ行くと云って澳門に出るのは割に楽な筈だ……澳門でこの人を頼って行けば、又新しい道も開ける。わしが誓って保証の出来る人物だ。そして二人の子供達は、上海の盲唖学校へ入れるように頼んで置こう」
孫永才は、流石に脱走となると、一抹の寂しさを感じない訳には行かなかった。だが、この蒋政権に、将領に、今更何の未練があろう。彼はもう決心すると老人の厚意を泣いてうけた。
「道は遠いぞ、だが、そこにお前さん達はきっと明るい世の中を見つけるだろう」
老人は、一匹の驢馬に錫をつけて手をとり合って行く三人を、小屋の見えなくなるまでついて行った。
「老人もお達者で……」
「有難う」
老人は、振返り遠ざかる孫永才を、銃声の聞える丘の上で見送っていた。
彼は、赤黄いろい灯が点の様になってもまだそこに立っていた。
蝸牛角上何事をか争わん……石火光中此の身を寄す……富に随い貧に随いしばらく歓楽す……口を開いて笑わざるは是れ痴人のみ……老人は、何時かそんな詩を低吟していた。
が、老人はうたいながら、わしももう、これを誦った詩人と同じように古くなったと思った。中国にも、もうこういう心境で生きて居られる時代はとっくに過ぎたのだ。
“孫永才よ、子供達よ、大きくなれ、偉くなってくれ……祖国よ、お前も激しい試煉を超えて益々《ますます》偉大になってくれ”
老人はそう呟いて眼に一杯泪をため、遠い銃声の中で何時までも凝然と立っていた。
青空文庫より引用