時と永遠


     亡き妻の記念に
 

     序

 時と永遠の問題は古今を通じて哲學及び宗教の最も重大なる關心事に屬する。それはまた最も困難なる問題の一である。本書は舊著『宗教哲學』において展開されたる解決の試みに基づき、それの敷衍擴充を企圖したものである。尤もここかしこ修正にをはつた處もある。この問題は哲學と宗教とが互の敬意と理解とをもつて相接近することによつてのみ解決されるといふことは著者のかねてより信ずる所である。外面的方便的なる利用や借用又は盲從や迎合などを意味する接近は、いつも行はれがちの事ではあるが、双方の品位を損ね純潔を汚すものとして、遠ざくべきである。本書は哲學の立場に立つたゆゑ勢ひ宗教哲學の觀點を取つた。
 本書に使用した術語は今日學界における慣例に從ひ異を樹てることは力めて避けたが、止むを得ずただ一つの例外を殘した。それは「將來」と「未來」との兩語に關するものである。それらは通常大體において同義語として使用されるが、今日の學界は、おほかた長き過去を有する習慣の惰性によつてであらうが、「未來」に對して偏愛の念を抱くらしく、計畫や希望の如き積極的態度に對應する場合にさへ、この語を用ゐる傾きがある。これは自ら省るべきことである。立入つた論述は本文(二節、四三節)に讓るが、兩者は少數の場合ながら實質においても必ずしも一致せず、一致する多數の場合においても、「將來」は單純に積極的に事柄の根源的意義を言ひ表はすものとして優先權を要求する。來らむとしてしかも未だ來らぬといふのが「未來」である。派生的現象といふべきである。言語上の表現に徴するも、將來は簡單に動詞の一變化によつて言ひ表はされうるが、「未來」の場合には副詞が特に添へられねばならぬ。それ故本書はあらゆる場合に通ずる總稱として「將來」を採用した。

   昭和十八年一月
 著者
 

    目次

第一章 自然的時間性
第二章 文化及び文化的時間性
  一 文化
  二 活動と觀想
  三 文化的時間性
第三章 客觀的時間
第四章 死
第五章 不死性と無終極性
第六章 無時間性
第七章 永遠性と愛
  一 エロースとアガペー
  二 神聖性 創造 惠み
  三 象徴性 啓示 信仰
  四 永遠と時 有限性と永遠性
  五 罪 救ひ 死
  六 死後の生と時の終りの世
 

    第一章 自然的時間性

        一

「永遠」は種々の意味において時乃至時間性を超越乃至克服する何ものかと考へられ得るゆゑ、「時と永遠」の問題は種々の形において種々の觀點よりして取扱はれ得る。吾々は今これを宗教哲學の觀點より取扱はうと思ふ。これはプロティノス以來の歴史的傳統の壓倒的壓力によつてすでに促される事でもあるが、又特に、「永遠」の觀念が、後の論述の示すであらう如く、宗教においてはじめてそれの本來の力と深みと豐富さとを發揮し得ることによつて實質的にも要求される。「永遠」は宗教に本來の郷土を有する觀念である。このことによつて「時」乃至「時間性」の取扱ひ方も一定の方向を指し示される。表象の内容をなすだけの又は單なる客觀的存在者として理論的認識の對象をなすだけの永遠は、宗教においては殆ど無用の長物である。このことに應じて、吾々の論究は時乃至時間性に關してもそれの特殊の形に重點を置かねばならぬであらう。これは時と永遠との相互の密なる聯關よりして當然期待される事柄である。すなはち、吾々は體驗の世界に深く探り入つて、吾々自らその中にあり又生きる「時」、即ち生の「時間性」の本來の姿を見究めねばならぬ。
 吾々は日常生活においてすでに、世界のすべての事物・存在及び動作を支配する一種の秩序の如きものとして、又それに屬することによつて吾々の認識が萬人に共通なる尺度と法則とを得るものとして、時を表象し理解する。しかしながらかくの如きは決して時の根源的の姿ではない。それは、われわれ自らその中にあつて生きる所のものを、われわれの前に置きそとの世界に投射して客體化したものであつて、すでに反省の作用によつて著しく變貌を遂げた派生的形象である。時の根源的の姿を見ようとする者は、一應かかる表象を全く途に置き棄てて根源的體驗の世界に進み入らねばならぬ。尤も體驗の理解は反省において行はれねばならぬ故、その際反省の産物である客觀的時間の姿は、吾々の視野を遮り目的物を蔽ひ隱し、かくて、すでにアウグスティヌス(Augustinus)も歎いた如く(一)、吾々の仕事を甚しく困難ならしめる傾きがある。さもあれ體驗的時間の眞の姿を明かにすることは吾々にとつて最も肝要なる基本的課題である。
 
(一) Augustinus: Confessiones. XI, 14.
 

        二

 吾々は、主體は、「現在」において生きる。現に生きる即ち實在する主體にとつては「現在」と眞實の存在とは同義語である。然らば體驗される即ち根源的の姿における時は單に現在に盡きるであらうか。若し人がややもすれば考へ易い如く又多くの學者が事實考へた如く、現在が延長をも内部的構造をも缺く一個の點に過ぎぬならば、この歸結は避け難いであらう。點は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によつて區劃さるべき筈の「將來」も「過去」も實は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであらう(一)。しかしながらかくの如きは體驗における時を無視して客觀的時間のみを眼中に置く誤つた態度より來る誤つた結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、後に立入つて論ずる如く、客觀的時間の場合には避け難き事であり、從つて現在を點として表象することも許される事、又特に時を數量的に取扱はうとする場合には、避け難き事であらう。しかもかかる考へ方の覊絆を脱すべく力めることが、時の眞の理解に達しようとする者にとつては、何よりも肝要なる先決條件なのである。
 現在は決して單純なる點に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内部的構造を具へてゐる(二)。體驗においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在は過去と將來とを缺くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく來り絶え間なく去る。來るは「將來」よりであり、さるは「過去」へである。將に來らんとするものが來れば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や直ちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間無き流動推移が時である。かくの如く將來も過去も現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。ここでは生ずるはいつも滅ぶるであり、來るはつねに去るである。動く生きるといふことが現在の、又從つて時の、基本的性格である。時のある限り流動は續き從つて現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは單に内容のみと考へるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。主體の生の充實・存在の所有として、現在は内容を離れて單獨には成立ち得ない。むしろ内容に充ちた存在こそ現在なのである。内容と共に絶えず流れつついつも新たなのが現在である。
 來るを迎へることにおいて將來は、又去るを送ることにおいて過去は成立つとすれば、その來るはいづこよりであり又その去るはいづこへであるか。考察を嚴密に體驗の範圍に限定する限り等しく「無」又は「非存在」と答へねばならぬやうにも思はれる。さて、將來を未だ有らずとの故をもつて非存在と看做すは多分多くの異議を呼ばぬであらうが、之に反して過去即ちすでに有つたものを單純に非存在への移行と同一視することには力強き反對が起るであらう。人は先づ過去が囘想又は記憶の内容となつて存在し又影響を及ぼすことを論據としてそれの非存在性を否定するであらう。しかしながら、後にも論ずる如く、囘想の内容として主體の前に置かれるのは、實は反省によつて客體化されたる何ものかであつて、それの有り方は過去ではなく現在なのである。囘想は現に生きる主體の働きとしてそれの内容はかかる主體に對する客體として存在するのである。次に、人はかく問ふであらう。體驗されるものは何等かの形において有るもの、從つて「無」や「非存在」はそれ自らとして體驗され得ぬものである以上、非存在への移り行きも亦體驗を超越する事柄でなければならず、かくては時の内部的構造に屬する一契機として體驗されるといふ過去も結局空想に過ぎぬのではなからうか。將來に關しても同じ論法が適用され得るとすれば、體驗上の事柄としては結局現在のみが殘るのではなからうかと。さてこの異議に對しては、吾々は、無や非存在が單純にそれ自らとして體驗されぬことは、決してそれが何等の形においても體驗されぬことを意味せぬと答へよう。單純にそれとしての他より切離されたるものとしての無や非存在は、實は反省によつて客體化されたる意味内容である。かかるものとしてそれは却つてむしろ一の有であり一の存在である。無を無として單純に攫まうとする働きは却つてそれを有として存在としてのみ手中に收め得るのである(三)。それにも拘らずそれが論理的の矛盾や背理として葬り去られず、思惟され理解される意味内容として成立ち得るのは、それが體驗に基づき體驗に源を有する事柄であるからである。體驗はこの場合にもあらゆる論理的疑惑を打拂ふに足る。缺乏・空虚・消滅等すべて無を契機とする事柄の體驗において又それを通じて無は體驗されるのである。時の體驗においても同樣の事態が存在する。現在は將來より來るや否や直ちに無くなつて行く。かくの如く有るもの存在するものが無くなること從つて現在における過去の體驗こそ無の體驗に外ならぬ。すなはち、時は生の存在の最も基本的なる性格として、それの體驗は無の體驗の從つてそれの思惟や理解の最も深き活ける泉なのである。無くなることの體驗を反省において處理することによつて吾々は無そのものの思惟や理解へと進み得るのである。
 過去は無くなること非存在に陷ることであり、過去となつたものは無きものであるといふ眞理を、體驗の明白に教へる所に從ひつつ素直に承認することは、「時と永遠」の問題の解決に向ふ途上實に基本的意義を有する極めて重要なる第一歩である。等しく肝要なる第二歩は「將來」の正しき理解である。吾々はさきに、無きところより來るを迎へるを將來の體驗の本質となし、從つて現在と區別される限りにおいて將來を非存在となす、考へ方を假りに一應許容した。これは、將來がまた「未來」とも呼ばれ、その場合呼稱そのものにおいてすでに非存在が表現されてゐる事實に徴しても、人々の傾き易きややもすれば最も自然的と見え易き解釋である。しかしながら立入つて精細に觀察すればこの解釋は誤つてゐる。今體驗の語る所に耳を傾けるならば、時において、現在における「將來」の契機において、主體が待ち迎へるのは無や非存在でなく、又非存在より來る存在でさへもなく、單純に存在である。非存在へと去りたる存在(現在)を補ふべく新しき存在(現在)が來るのである。存在を迎へる働きそのものは、主體にとつては、それの本來の自己主張(自己の存在の保存及び擴張)の基本的傾向に背進するどころか、むしろその傾向の最も自然的なる發現である。その限りむしろ喜びの體驗といふべきである。その限りそこには無の契機は全く見出されない。それ故將來を無造作に「未來」と呼び替へるのは、それの根源的性格の理解の上からは、當を得たといひ難い。過去と結び附けそこよりしてそれの意義を解釋することによつてはじめて將來は未來となるのである。すなはち「未來」は「將來」に對してむしろ派生的觀念である。將來が未來となり來るものが無より來るものとなるのは、現在即ち存在が絶えず流れ去つて同じ現在として止まることがないからである。何ものかがそれへと向ひ來る現在は、その何ものかが、それに來り着く現在とは異なつてゐる。一つの今へと向ふものは他の今に到着せねばならぬ。更に言ひ換へれば、過去あるがため現在はそれに向つて來る將來にいつまでも出會ひ得ずに去るのである。將來を未來たらしめる無の契機は將來そのものに本來具はるのでなく過去が提供するのである。すなはち過去による現在の流失と存在の喪失とを補ふべき任務を有する限りにおいて將來が未來となるに過ぎぬ。それ故將來は必ずしも未來ではない。若し滅びぬ現在無くならぬ今――即ち永遠――が成立つたと假定すれば、そこで先づ姿を消すは過去であるが、未來も過去と運命を共にせねばならぬであらう。しかも、後の論述の明かにするであらう如く、將來はそこでもなほ現在の維持者として依然その存在を續けるばかりか、むしろ滅びぬ存在の源として新しき意義に輝くであらう(四)。
 
(一) Aristoteles, Physica. 217b seqq. においてすでにかくの如き論難に出會ふ。
(二) Confessiones. XI, 14 seqq. 總じてアウグスティヌスの時の論は觀點と所見とを異にするものも尊敬と感謝とをもつて仰ぎ見るべき劃期的業績である。
(三) このことをはじめて明かにしたのはプラトン(「ソピステース」篇において)の功績である。
(四) 今日わが國の學界においては「將來」を無造作に「未來」と呼ぶことが殆ど流行といつてもよき程廣く行はれてゐる。これは自省すべき、場合によつては、斷然改むべき不穩當なる習慣である。「將來」と「未來」とが實質的に一致する場合においても、前者は單純な積極的な正面より見ての言ひ表はしであり、後者は裏に※ はつて主として事柄の含みを見ようとする派生的態度の所産である。言語上の表現について觀るも、「將來」は「來らむ」「來らば」などによつて代表される動詞の形――文法學上「將然段」と呼ばれる形――によつて直接に單純に言ひ表はされ得るが、「未來」を言ひ表はすためには何らかの副詞を附け加へることが必要である。同じ事態はギリシア語の to mellon ラテン語及び近代諸外國語の futurum においても明かに見られるであらう。
 

        三

 以上の諸點を從つて時の眞の姿を更に立入つて理解するため、今それを存在論的に主體の存在におけるそれの意義の觀點より考察すれば、吾々は時が現實的生即ち自然的文化的生における主體の基本的構造であるを知るであらう。時間性は人間性の最も本質的なる特徴である。主體の存在は他者への存在である(一)。それは他者との關係交渉において成立ち又維持される。しかるに一切の存在の基礎を置くものは自然的生である。「自然」(phusis)といふ語はギリシアの古へにおいては基本的根源的存在の意に用ゐられ、かくて人爲的作爲的なるものの反對を意味するに至つた。ありのまま・單純・直接等の意味あひはそれに附隨する。吾々が今自然的生と名づけるものにおいては、實在する主體は實在する他者と直接的なる關係交渉において立つ。かくの如く生きるのが生の最も基本的根源的姿である。この土臺の上に文化的人間的生は建設される。生が上の段階へ進むにつれて時間性も幾分の變形を見るであらうが、本質的姿を決定するものは自然的生である。ここよりして時間性が人間性の地盤にいかに深く根を張つてゐるか、いかに強く殆ど宿命的に生の性格を色づけてゐるかは理解されるであらう。
 主體は實在するものとして飽くまでも自己の存在を主張する。すなはち他者に對して自己の存在を維持し更に擴張しようとするのがそれの本質的傾向である。さてかくの如き傾向を有する實在者の直接性における交りとして、自然的生は次の二重的性格を示す。主體はそれとの關係交渉に立つ他者が無くしては虚空に飛散消失して壞滅に歸せねばならぬゆゑ、即ちそれの行くへを遮つてそれに抵抗を與へ緊張を促しつつそれの自己主張を誘發する實在者を俟つてはじめてそれの實在性は維持されるゆゑ、――しかして更に主體の生内容はかかる實在的交渉に際して他者を意味し代表するそれの象徴としてのみ成立つゆゑ、――實在的他者は主體にとつて實在性及び生の内容の、從つてあらゆる存在の、維持者乃至供給者であるといはねばならぬ。しかしながら他面において、自然的生は實在者と實在者との直接的なる從つて外面的なる接觸乃至衝突であるゆゑ、主體にとつてそれは他者よりの壓迫侵害であり、又存在の喪失である。自然的生を生きる限り主體は存在を獲得しつつしかも同時に喪失する。ここでは生ずるは滅ぶるであり來るは去るである。
 自然的生のこの絶え間なき流動推移においてこそ時及び時間性の最も基本的の姿即ち自然的時間乃至自然的時間性は成立つのである。「現在」は主體の自己主張に基づき生の充實・存在の所有を意味するものとして中心に位しそこよりして時の全體を包括する。之に反して「過去」は生の壞滅・存在の喪失・非存在への沒入である。しかしてこれら兩者を成立たしめる主體と他者との接觸交渉に對應するものが「將來」である。將來は絶えず流れ去る現在絶えず無くなり行く存在を補給しつつ維持する役目を演ずると同時に、又それの過去への絶え間なき移り行きの原因ともなる。將に來らんとするものはいつも來つて現在となりつつ、しかも他方それの向ひ行く現在にいつまでも出會ふことなしにをはる。將來と現在との間に存するこの矛盾的關係は畢竟主體と他者とが生及び存在の眞の共同に達し居らぬことを指し示す。後に説くであらう如く、永遠性における時間性の克服は主としてこの點に手掛かりを見出すであらう。
 吾々の見解は歴史的瞥見によつて一段の力を添へるであらう。アウグスティヌスの「時」の論はこの題目について思索する何人も研究の出發點となし又終始指導者となさねばならぬ劃期的業績である(二)。時の實在性が「現在」に存することを承認しながら、その現在が延長を有すること一定の内部的構造を具へてゐることを洞察して、根源的體驗における時の眞の姿を明かにしたのは彼の不朽の功績である。かれは時を精神の延長(distentio animi)と呼び、これを、現在が單純無差別なものでなく、將來と過去とを包括することに置いた。すなはち彼に從へば現在は三つの樣態乃至契機より成立つ。時は主體の基本的なる存在の仕方であるゆゑ、これら三つの契機には主體の三つの基本的動作が對應する。すなはち現在は直觀(contuitus)將來は期待(expectatio)過去は記憶(memoria)において成立つ。云々。基礎的段階をなす自然的時間とそれの上に建設される文化的時間との區別に、アウグスティヌスが想ひ到らなかつたことは確かにこの説の缺陷である。「期待」は自然的時間における將來に對應するとして許されようが、「記憶」は、後に論ずる如く、文化的歴史的生の段階に屬する働きである。しかして文化的生が自然的生よりの解放の企圖を意味することを思へば、上述の如き缺陷と聯關して、かれの説いた「時」が單純孤立の状態にある主體の生き方を意味するに過ぎなかつたことは、當然の事態といふべきであらう。彼は將來が、實在的他者との關係交渉において自己の存在を維持する人間的主體の生き方を示す、といふ眞理を認識し得ずにをはつた。彼が永遠を時と單に區別し對峙せしめるに止まつて、それとの活きた聯關において眞にそれの克服者として理解し得るに至らなかつたのも、同一缺陷の發露である。
 ベルグソン(Bergson)の才氣溢れる「時」の論において吾々は、派生的第二義的意義しか有せぬ表象より根源的體驗において與へられる時の根源的姿に立戻らうとする、正當なる努力を認める。彼が實踐的目的に向ふ、從つてその意味において將來に向ふ、主體の動作を根源的體驗より遠ざけようとしたことも、今それに聯關する特色あるかれの形而上學的所信を考慮の外に置くならば、文化的時間を第二義的のものとする點においてたしかに正當である。又同樣にかれの形而上學を離れて考へれば、かれが時を「持續」において成立つとしたことも又時における内容の融合滲透を説いたことも、空間的に表象される客觀的時間より特に體驗的時間を區別し後者の根源性を強調しつつ、それの延長性それの内部的構造を主張したものとして、識見の卓拔を思はしめる。しかしながら彼が根源的體驗における時より將來を抹殺したことは勿論謬見である。そのことの結果として「持續」は過去と現在とのみより成立つものとなる。この場合過去は正しき順序を顛倒して現在に先立つもの從つて後者に對して存在を補給するものとなる。すなはち過去の内容は現在のそれと融合滲透を遂げつつ持續換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持續としての時は文化的時間より將來を取除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいづこに源を有するであらうか。いふまでもなく、主體が單獨孤立の立場に置かれたことが一切の誤謬の原因である。持續を體驗する主體は、他者への生に沒頭する本來の態度を置き棄て、自己の姿を自覺の鏡に寫さうとする反省の位置に退いてゐる。認識の方法は直觀といはれてはゐるが、これは抽象的思惟を却けるだけのもので、根源的體驗に比べてはすでに反省の立場に移つてゐる。
 
(一) この點に關しては拙著「宗教哲學」及び「宗教哲學序論」の諸處、並びに本書第七章一參看。
(二) Confessiones. XI, 14 seqq.
 

        四

 以上述べ來つた時及び時間性の本質的構造よりして吾々は、永遠性との對立及び聯關において觀られる場合特に重要性を發揮する諸の特徴、時間性の形式的特徴ともいふべきもの、を導き出しつつ理解し得るであらう。第一は時の方向である。時の方向は將來より現在を經て過去へ向ふとも、又反對に過去より將來へ向ふとも考へられる。この矛盾は時の觀念の中に伏在する問題を示唆するとしての意義はあらうが(一)、その問題は、後の論述の明かにするであらう如く、時間性の異なつた段階を區別することによつてのみ解決を見る。自然的體驗的時間即ち時間性の最も基本的根源的姿においては、方向は將來より過去へと向ふ。しかもこの方向は斷然動かし得ぬものである。過去になつたものは無に歸したものである。單純率直なる非存在である。無くなつたものは取返へしのつかぬもの、主體の處理の手の屆きかねるもの、この意味において絶對的なるものである。昔を今になる由もないのが時の本然の姿である。ここに時の「不可逆性」(Unumkehrbarkeit)は成立つ。要するに有より無へ存在より非存在へ向ふのが時の最も根源的方向時間性の最も本質的性格である。
 次に、時間性は無常性と可滅性とを意味する。時と時における存在とは、絶え間なき流動推移の中に有より無への方向を取りつつ、息みもせず振返へりもせず、ひたすらまつしぐらに壞滅の道を進む。以上と聯關して第三に、時間性は斷片性不完成性を意味する。時間的存在はいつも滅びつつある從つていつも缺乏に陷りつつある存在である。現在において主體は自己の存在を所有はするが、その所有は直ちに喪失であり、その存在はいつまでも確保されるに至らない。いつも完きを得ずいつも自己の所有に達せずいつも斷片的なのが時の本質的特徴である。第四、時間性は主體と實在的他者との直接的關係交渉において成立つものとして、一方まつしぐらの沒頭を、他方主體性の本質をなす自己主張に加へられる拘束を意味する。これは主體が自己の任意なる自由なる決意や努力により取除かれ得る事態ではない。いかにとも致方なきいはば宿命的事態である。第五、生ずるは滅ぶるであり、有は無に等しく、生の意味の實現も達成されず、一切が果無き幻にをはる處、しかも主體がこの事態を自らの力をもつていかにともなし得ぬ處、には生の意味の否定、幸福の喪失、空虚の感、不安哀愁落膽等は避け難き歸結である。「永遠」は時の克服である限り生のこれらの特徴の絶滅を期せねばならぬであらう。
 
(一) Lotze: Metaphysik. II, 3 參看。
 
 

    第二章 文化及び文化的時間性

      一 文化

        五

 自然的時間性を根源とし基體として文化的時間性は成立つ。この時間性を理解するため、吾々はいま道を文化及び文化的生の一般的基本的構造の考察へと取らねばならぬであらう。
 文化は實在的他者との直接性における關係交渉よりの離脱、自然的生における沒頭・拘束・緊張よりの解放、を意味する。もと主體は獨立の中心を有しその中心よりして生きる存在者である。それの本質即ち主體性は實在性において成立ち自己主張として働く。かくの如き實在者としての主體が、等しく實在する他者にひたと行きあひ正面より衝突しまつしぐらに自己の貫徹擴張へと突進する以上、究極は他を滅ぼし自らも滅びる外に途はないであらう。主體の存在は他者への存在であり、他者との關係交渉を離れて主體性は成立ち得ぬが、自然的生における限り、他者への存在は徹底すれば實は事志に反して却つてむしろ自滅的存在となるのである。この難關を克服し他者の壓迫侵害より解放されて自由の天地に飽くまでも自己主張を續けようとする所に文化的生の本質は存する。それ故吾々の現實的生はいかに原始的であり幼稚であり低級である場合にせよ、存立を保つ限り、すでに何等かの程度何らかの形において文化を含んでゐる。自然的生は根源へ遡る理論的分析によつてはじめて到達され開示される基本的契機に外ならず、決して事實上單獨に存在するものではないのである。
 文化的生における主體の解放及び自由は「客體」の成立によつて行はれる。主體の存在は飽くまでも他者への存在であり主體性は飽くまでも自己主張に存するが、今や實在者は他者の位置より退いてその代りに客體がその場處を占める。客體は實質上よりは觀念的存在者である。これはもと自然的生において主體の生の内容をなし又實在的他者の象徴であつたものが、この持場を離れ遊離の状態に入り他者として特異の存在を保ちつつ、いくばくかの隔りにおいて主體の前に置かれたものである。客體の分離は、その反面として、主體の分離である。主體と客體とのこの分離この對立が「反省」である。反省によつて自覺・自己意識は客體の意識とともに表面に浮び出る。かくて主體は「我」又は「自我」として成立つ。自然的生においては主體は實在的他者へ向つたまま前後左右を顧る遑がなかつた。文化においてそれははじめて寛ぎとゆとりとを得、自由と獨立とを樂しみつつ、自己の存在の主張貫徹に邁進し得るに至る。さてこのことはいかにして行はれるであらうか。このことを、從つて文化の本質を、理解するためには、吾々は客體の示す二つの面それの有する二重の性格を今少し立入つて考察せねばならぬ。

        六

 客體は客體としてもとより單純に主體に屬し單純に意識の内容をなすものではないが、觀念的存在者としては、それは實在者と異なつて遙かに主體に接近した位置に立ち、わづかに半ば獨立性を保つものである。それの存在は主體への乃至主體に對する存在である。すなはち、實在的存在者が獨立の中心として存在しその中心より生き働くとは異なつて、觀念的存在者はかくの如き獨立の中心を缺く。主體が實在者として飽くまでも隱れたる中心を守り自己を他者の所有に委ねるを拒むとは異なつて、客體は觀念的存在者として隱れたる中心と奧行とを有せぬ平面的なる顯はなる存在者である。それの存在は主體の中に取入れられ、主體のもの、主體の自己に屬するものとなつてはじめて安定を見る。いはば宙に浮いた存在である。顯はなるものとしてそれは觀らるべきものである。すなはち主體のそれに對する態度は結局觀想(Kontemplation)でなければならぬ。
 客體は觀念的存在者であると同時に他方又他者である。それに對して主體は自己主張をなす。しかしながら實在的他者に對しての場合と異なつてここでは主體の自己主張は、客體の有り方の特異性に應じて、他者を排斥しつつ自己を貫徹しようとする形を棄て、他者において隱れたる自己を顯はになしつつ自己を實現する働きとなる。自己實現こそ文化的生の基本的動作である。ここより觀れば、主體に對してそれの顯はなる自己即ち現實的自己となることによつて客體の任務は果されるのである。すなはちそれの他者性は可能的自己性に存する。さて主體の自己實現は隱れたるものを顯はになし、實在的中心より觀念的存在の明るき周邊へ表へと自己を表はし出す動作である。これは「表現」と名づくべきであらう。文化的主體性が自己表現に存するといふことは吾々がライプニッツの天才的洞察に負ふ眞理である(一)。尤も彼はこれをあらゆる實在者、換言すれば中心を有し中心より動作する――しかして傳統に從つて彼が實體と名づけた――一切の存在者に推し廣めたが、このことも、後の論述で明かにされるであらう如く、客觀的實在世界の認識が現に實行しつつある所を形而上學的原理の地位に高めたに過ぎないのである。
 客體は主體の表現としてのみ他者的存在を保つ。このことによつて客體的存在者相互の間にも同樣の關係が成立する。客體内容は相互には他者の間柄に立つが、各は主體の自己表現であることによつて、更に一が他を表現するに至る。かくてここに客體の世界に固有なる一事態が發生する。すなはち、客體は觀念的存在者として、實在的存在者としての主體との關係に立つが、そのことによつてそれは更に「意味」としての性格を擔ふに至る。意味には、内なるもの乃至隱れたるものを表はし出すといふこと、次に共通の中心によつて統べ括られることにより互に共通性乃至聯關を保つこと、がそれの本質的特徴をなす。全く孤立したるいはば一點に盡きる客體は、他者を離れたる主體と同じく、抽象乃至空想の産物に過ぎぬであらう。意味の無き客體は暗黒に等しく、もはや表現の任務を果し得ぬとともに、又觀らるべきもの觀想の對象でもあり得ぬであらう。かくの如く客體は主體によつて支へられつつ中心を有することによつて意味を獲得するが、又逆に主體も客體において表現を遂げることによつて單に隱れたる暗闇の存在にをはるを免れる。かくて主體は隱れたる中心に立ちその中心より生き又働くに相違ないが、顯はなる觀られ解される存在、意味ある存在を保つ限り、その存在は客體のそれに盡きる。客體及び客體的聯關、意味聯關、を離れて主體そのものを捉へようとする企てはすべて徒勞に歸せねばならぬ。主體の自己表現として客體は徹頭徹尾主體を代表する。
 尤もこれは客體が表現の任務を成遂げそれにおいて主體の自己が現實性に到達した限りにおいてのみ起る事態である。しかもかくの如き事態は決して完全に事實とはなり得ぬのである。客體は主體の表現ではあるが同時にそれに對して他者の位置に立つ。他者である限り客體は主體に對して單に可能的自己であるに止まる。それは、それにおいて主體の自己が實現さるべきものとしての、換言すれば、その自己實現に對する質料としての意義を擔ふものである。しかしながら純粹の可能性に盡きるとしたならば、顯はなる自己は全く姿を消し從つて客體も存立を失ふであらう。それ故客體はあくまでも形相及び現實性の性格をあはせ保たねばならぬ。かくして客體の成立從つて文化的主體の成立のためには、一方において自己性と現實性と形相と、他方において他者性と可能性と質料と、の兩者は缺くべからざる本質的契機としていつも共に具はつて居らねばならぬ。一方のみの徹底は結局一切の壞滅を意味するであらう。今他者性を徹底させるならば、それは實在的他者性に逆轉し、文化は自然的生及びそれの自滅の墓に葬られるであらう。之に反して自己性を徹底させるならば、自己を實現し盡して全く表面化した主體は、働きの向ふ先の他者と同時に働きの發する中心をも失ひ、實質なき夢の如く幻の如く消え失せるであらう。他者を失ふことは主體にとつては等しく死を意味するであらう。
 
(一) ライプニッツは exprimer 又は 〔repre'senter〕 といふ語を用ゐた。
 

        七

 客體の二重性格より來る文化的生の構造を正しく理解するために、吾々はここに「表現」と「象徴」とを特に區別しようと思ふ。これら二つの概念は必ずしも相背くものではない。むしろ半ばは相蔽ふものである。考へやうによつては表現は象徴作用によつて行はれ、象徴は何ものかの表現であるとも又すべての表現は象徴であり逆にすべての象徴は表現であるとも言ひ得るであらう(一)。共に表はす作用(表現)とも指し示す作用(象徴)とも名づけ得るであらう。共に一と他との二つの契機を含み、相分かれるものと相通ずるものとの二つの面を有する。しかしながら今吾々は表現においては特に同一性の契機を、象徴においては特に他者性の契機を強調しつつ、兩概念の適用の領域を特に區別することによつて、別つべきを別ち明かにすべきを明かにしようと思ふ。
 前にも述べた如く「表現」は全く主體の勢力範圍内に留まつてゐる。それは顯はとなつた主體の自己であり、動作として解すればこの自己を顯はにする動作である。そこになほ殘留する他者性は客體のそれに過ぎず、從つてむしろ可能的自己性を本質とする。尤も主體は隱れたる中心として儼然存立するに相違ないが、表現の主體である限りそれは完き自己を表面に現はし盡し、かくて自滅を遂げることによつてはじめて行くべき處に行き着くのである。幸ひにかくの如き自滅を免れるとしても孤立は到底避け難き歸結である。文化においても主體は事實上實在的他者との關係交渉を全く離れることはない。しかしながら文化が文化である限り實在的他者は本質上不用である。ここでは主體の直接の對手は、實在的他者に對して遊離状態に置かれたる客體であり、主體の自己を顯はにすることにそれの存在の意義は盡きる。このことは客體の基體をなす實在者が「物」と稱せられる場合にのみならず「人」と名づけられる場合にも等しく當嵌まる(二)。文化においては我と他の人との共通なる生内容共通なる客體世界は建設され維持されるが、「我」と「汝」との間に成立つべき實在者間の關係、嚴密の意味の人格的關係、はここでは無きに等しい。假りに我以外人と稱すべき何等の實在者もないとするも、原理的に考へれば、文化はなほ存在し得るのである。文化の世界に現はれるであらう他の人は、自己實現自己表現がそれにおいて行はれる質料としての客體に過ぎぬ。それの原理的性格よりみれば、それは單なる「物」であるに盡きる。内在性乃至孤立性はかくの如く表現乃至それの主體の本質的特徴である。ライプニッツの「モナド」(單子)の説はこの事態の極めて明瞭且つ適切なる言表はしといふべきであらう。文化の世界においては主體は「窓無き」モナドなのである。このことはヘーゲルの如く主體を「絶對的精神」にまで擴大した場合にも變りが無い。文化は飽くまでも自己實現であり表現であり、從つて根柢においては内在的動作、主體を孤立に導く動作である。そこには主體に對立する嚴密の意味の他者即ち實在的他者は存在しない。總じて文化主義は形而上學にまで發展する場合には汎神論への道を取る傾きがある。絶對的主體即ち所謂神に對する他者はその場合自己實現の質料の意義しか有せず、無よりの形成乃至創造が説かれてもその「無」は可能的有の性格を有する質料に過ぎぬであらう(三)。
「象徴」(Symbol)は表現とは異なつて實在的他者との關係交渉において發生する現象である(四)。主體の生内容が遊離して客體となり主體の顯はなる形相の意義を獲得することが表現とすれば、その同じ内容が主體の領域を超越したる彼方の實在的中心と結び附き、從つて自己を顯はにするのでなく他者を顯はにする任務を擔ひ、かくて實在的他者を指し示し代表するものとなる場合に象徴は成立つのである。表現が内在的なのに反し象徴は超越的である。それは一の中心と他の中心とを結び附ける線の上に位し、それ無くば到底相交り難きむしろ相反撥する外なき二つの實在者の間に立ち、兩者を繋ぐ楔を提供し、かくて或る意味においては實在的他者が主體の中に入り來るを可能ならしめるものとして、主體を孤立の状態從つて自滅の運命より救ひつつ、生本來の性格である他者への存在を確保せしめる。中心が存する限り象徴も存し、逆に象徴があることによつて中心も亦あるのである。象徴が去り從つて他者の語る言葉を聽かぬに至れば、主體にとつては死の外に何もないであらう。生が文化的段階まで昇れば象徴は同時に表現であるが、表現は必ずしも象徴ではない。任務を成遂げることによつて表現は却つて主體を自滅に誘ふが、之に反して象徴は自己をますます堅く他者と結びつつ存在の基礎を鞏固にする。表現は吾々を時間性より救ひ得ぬが、後に論ずるであらう如く、象徴をたよりに吾々は永遠の世界に昇るのである。
 
(一) Cassirer: Philosophie der symbolischen Formen. 3 Bde. は文化のあらゆる領域を象徴作用によつて説明しようとする頗る注目すべき試みを示してゐる。
(二) 「人」と「物」との區別については拙著「宗教哲學」二九節以下參看。
(三) 本書第七章三六參看。
(四) 「象徴」に關しては本書は「宗教哲學」において説いた所に基づいて「表現」との區別を一層明確にした。「宗教哲學」五・二六・四一・四四・四五・四七・四八等の諸節參看。
 

      二 活動と觀想

        八

 論述の本筋に歩みを進めよう。前に述べた如く客體性は他者性と自己性、可能性と現實性、質料と形相との二つの契機二つの面より成立つ。客體の成立にいづれ一つをも缺き難きこれら二者の間に存する聯關乃至緊張こそ文化的生の眞相である。言ひ換へれば、客體の世界はいづこにも兩契機の共存を示すが、客體そのもの從つてそれの構成要素である兩者そのものは等しく自己の表現である故、兩者は更に分離乃至對立する客體として顯はとならねばならぬ。かくて客體の世界は、主體の自己實現の動作にとつては、各の契機がそれぞれ優勢を占める二つの形象乃至領域より成立つこととなる。かくの如き二つの客體領域の聯關として主體の自己實現は行はれるのである。言葉を換へて説明すれば、すでに前に述べた如く、客體は主體の自己表現であるが、その自己は客體内容の聯關としてのみ顯はなのである。客體と客體との聯關を離れて主體の自己性は捉へらるべくもない。今假りに聯關が姿を消し單一なる内容のみ殘つたとすれば二つの契機は同時に消されねばならぬであらう。しかもこのことは客體一般の消滅從つて主體の自己性そのものの消滅を意味するであらう。自己性と他者性との二つが客體の契機である以上、いづれも客體としての存在を保たねばならず、從つて兩者は一と他との間柄に立ちつつしかも相聯關する、相異なつた客體内容として顯はにならねばならぬ。更に言ひ換へれば、客體の世界が成立つためには、各自二つの對立する契機より成る客體内容が他方更に相互に聯關において立たねばならぬ。しかるにその聯關そのものは客體的存在を保つものとして更に二つの契機より成ることを、言ひ換へれば、それらの内容が自己性と他者性との相異なつた意味と任務とを擔ふ、相聯關する二つの領域として相分離相對立するを要求する。かくの如き聯關において又それを通じて自己實現は行はれる。以上は更に簡單に次の如く言ひ換へることが出來よう。客體に對して立ちそれにおいて自己を實現するものは隱れたる中心に立つ主體である。その主體が客體へと働きかけることにそれの自己實現は存する。しかもこの自己實現は、文化的動作として成立つためには、それ自らとして顯はにならねばならぬ。すなはち主體は客體となることによつてはじめて客體に働きかけるのである。從つてそれの自己實現はそれぞれ内容と意味とを異にする二つの客體、一つは自己性の位置に他は他者性の位置に立つ二つの客體、の間の聯關として成立たねばならぬ。さてかくの如き聯關として成立つ限り文化的生は「活動」(〔Aktivita:t〕)の性格を示す。文化的生の最も基本的本質的なる性格は活動である。
 ここに吾々は文化がいかに自然的生の基礎の上に立つかを見、かくてすでにここに文化的時間性がいかにそれの根源である自然的時間性の影響のもとに立つであらうかを望み見ることが出來よう。文化的生に活動としての性格を與へるものは自己性と他者性との兩契機の共存と聯關とである。その場合他者性は、可能性として質料として活動を可能ならしめるが、他方その活動の本質である自己實現の成就を妨げる。客體は他者であるが故にそこに主體は自己を顯はになし得るが、しかも同時に他者である限り、主體と對立しそれといくらかの間隔を保ちつつ後者を顯はならぬ自己に留まらしめる。他者は主體をしてそれとの關係交渉に立つ中心たらしめ自己たらしめるが、又他方においてその自己を隱れたるものたらしめつつそれを無能力從つて非實在的ならしめる。しかるに客體はもと他者の象徴が自己の表現へと轉籍したものであり、それの有する他者性は結局發生地の殘り香に過ぎぬ。その他者性の根源は實在的他者性に求めらるべきである。吾々はさきに自然的生における他者の二重性格について語つた(一)。他者は從つて將來は一方主體の現在を可能ならしめ存在の供給者の役目を務めつつ、他方現在を從つて存在を非存在へ從つて過去へ陷入れる。そのことの歸結として時は絶え間なき流動を示し存在はいつも未完成のままなる斷片的なる結局無意味なる状態に留まる。この事態に應じて文化的生においては自己性と他者性との兩契機は一方互に相俟ち相促がしつつ、しかも他方には相牽制し相排斥するのである。かくて文化的活動はつねに現實性への方向を取りつつしかもつねに目的地を絶えず移動する地平線のかなたに求めねばならぬ。際限を知らぬ連續と安定を見ぬ緊張とは文化の必然的に陷る運命である。
 
(一) 三節參看。
 

        九

 吾々はさきに客體に對する主體の態度は觀想に存すると言つた。しかるに今や文化の基本的動作は活動であることが明かにされた。これら二つの命題は相矛盾せぬであらうか。觀想と活動と―― 〔theo_ria〕 と praxis と――はギリシアの昔より哲學において相爭ふ二つの陣營を區別する旗印であつた(一)。兩者は果して相容れるであらうか。相容れるとすれば兩者の關係は何に存するであらうか。吾々は次の如く答へよう。活動が文化的動作の一般的性格である以上觀想も亦一種の活動である。ただそれは特殊の意味をもち特殊の方向へ志向する活動である。簡單にいへば、それの目指す所志す所は、自ら活動でありながら活動の性格を脱却し克服することによつて、文化的生の本來の意味を徹底させるに存する。これは活動を成立たしめる客體内容の二つの契機の間の緊張が緩和されつつつひに解除されることによつて行はれる。吾々は自己性と他者性との二つの契機が二樣の表現を見ることについて語つた。活動にとつて特に固有なのは、客體界が兩契機を代表する二つの形象乃至領域に分かれ、それらの間に働きかけるものと働きかけられるものとの關係が成立つことである。この緊張が緩和されるにつれて、形相はますます實現に近づき、自己はますます表現を進め、可能性はますます稀薄となり、隱れたるものはますます顯はとなるであらう。客體が客體として主體に對していくらかの隔りにおいて對立してゐる間は、各の内容を構成するものとしての兩契機の共存はなほ殘されるであらうが、異なつた内容と内容との聯關を支配する緊張はますます解除され、かくて主體は活動者たるを止め客體の曇りなく淀みなき透明なる姿に見入りつつ靜かに休息するであらう。自己を表現し盡したる主體は客體の蔭に隱れもはやわが姿をあらはに對立的位置に置かず、ただ隱れたる中心としてのみ存立を續けるであらう。すなはちそれは生の舞臺より退場するであらう。活動においては働きかける自己が顯はになつてゐる故生は主觀性を帶びるに反し、觀想においては客觀性が特徴をなすであらう。しかしながら觀想本來の傾向は更にここにも安住を許さぬであらう。客體がいくばくかの隔りにおいて主體と對立してゐる間は、たとひ各の内容を構成する内在的契機としてにせよ他者性は從つて自己性もなほ殘存するとすれば、そのことは活動の性格がなほ克服されぬを意味するのではなからうか。一定の内容が客體としての存在を保つ以上は、それは決して單純ではあり得ない。それは兩契機を含むものとしてすでに一と他との聯關を示すものでなければならぬであらう。
 以上はまた次の如く言ひ換へることが出來よう。他者性には三種類がある(三)。第一は實在者が實在者に對する他者性、第二は客體が主體(實在者)に對するそれ、第三は客體相互の間におけるそれである。自然的生より文化的生への上昇は第一の實在的他者性よりの離脱であるが、そのことは又同時に第二第三の他者性の發生でもある。後の兩者の間では第二即ち客體そのものの他者性が根源的である。客體性に本質的に具はる他者性は、更に客體面において客體内容同志の間における一と他との關係を惹き起すのである。さて客體性に對する主體性は隱れたる中心實在的中心である。この中心が客體的他者性においてそれを質料となしつつ自己を顯はにする。かくて客體は自己性と他者性との兩面兩契機より成立つに至る。しかるにこれら兩者の分離は單にそれだけでは留まり得ない。すなはち兩者は單に客體面に内在し潛在する構成的要素であるに止らず、むしろそれであるがゆゑに、それ自身顯在的とならねばならず、かくて客體面において自己性と他者性との相區別される二つの領域として顯はにならねばならぬであらう。譬喩的に言ひ表はせば、自己性と他者性とは、反省によつて先づ成立つ客體面の、いはば表裏相重なる二つの層をなす。しかるにこれら二つの層が分離した以上、客體面はいかばかり薄くあらうとも、實は厚みがあり奧行があり立體的なのである。そのままに留まつたならば、裏にある層は全く隱れたる存在を保たねばならぬであらう。それ故この裏面が表面へ浮び出で從つて内容に内在する兩契機がともに表面化し客體面における二つの異なつた領域として顯はになり、他者性は客體内容同志の間における聯關となることが、客體成立における必然的なる第二歩でなければならぬ。客體面は、表裏兩層の存在とそれによる緊張とにより、又そのことの歸結として、裏面が表面に進出しようともがくことによつて、穩かなる滑かなる平面的存在を持續し得ず、彎曲を見動搖を來すを免れぬ。これが即ち活動である。さて觀想の目指す所は客體面の凹凸を矯正して純然たる平面に還元するに存する。しかしながらこの事は果して又いかにして成遂げられるであらうか。客體が、たとひ觀らるべきもの顯はなるべきものとしてにせよ、主體と對立してゐる間は、それの純粹なる平面的存在は望み得べきでない。それ故一旦活動の性格の克服へと發足した主體は、更に一切の他者性の克服へ歩みを進めねばならぬであらう。すなはち主體は、自己を表現し盡し殘る隅なく顯はとなることによつて、全く客體のうちに融け込み、逆に客體は他者であるを止めて全く主體の所有に歸入し、かくて兩者の完き合一が成就されるまでは歩みをとどめ得ぬであらう。しかもこのためには、いかに少しばかりとはいへ主體客體の隔りの前提の上に立つ觀想にとつては、自己を徹底させることによつて自己の破棄を企てる外に途は無いのである。古來神祕主義はかくの如き境地に達しようと努め又その努力の成功を信じた(四)。惜いかなその成功は却つて一切の夢幻化虚無化に等しいであらう。他者の無き主體は死するより外はないのである。
 以上の事態は觀想が生の最高の姿ではあり得ず、從つて文化的生は更に一段高き生の姿によつて克服止揚さるべきであるを教へる(五)。しかしながらそのことの立入つた究明はここでは割愛して、吾々はなほも文化的生の考察を續けつつ時間性の理解へ歩みを進めねばならぬ。吾々は文化的生が本質上活動であるを見た。しかるに活動するものである限り、主體は飽くまでも自己を主張し乃至露出し、同時に又飽くまでも他者との關係交渉を離れず乃至離れようとしない。ここに時間性との聯關は成立つのである。言ひ換へれば、實在する主體が自己主張としてのそれ本來の性格を抛棄せぬ以上、主體の基本的構造である時間性は、文化的活動においてもそれの基本的構造をなさねばならぬ。ただ他者がこの場合客體であることによつて時間性はいくらかの變貌を見るのである。時間性の性格において觀られたる文化的生の具體的の姿は「歴史」である。それ故文化的時間は歴史的時間としてのみ成立つ。勿論その場合吾々は歴史といふ語を最も廣き包括的なる意義において理解する。かく解して歴史の内部的構造が更に立入つていかなる姿を示すかは吾々の課題に關はりなき問題として今は考察の外に置かねばならぬ。時間性の觀點より觀れば、例へば主體が個人であるか集團であるかなどの問題は度外視して差支がない。
 
(一) 次の二書參看。Boll: Vita contempletiva. (1922) . ―― 〔W. Ja:ger〕: Ursprung und Kreislauf des philosophischen Lebensideals. (1928) .
(二) 「宗教哲學」一九節參看。
(三) 三種類の他者性については「宗教哲學」の諸處殊に四四節參看。
(四) 神祕主義については「宗教哲學」二一節以下、四五節、參看。
(五) 「宗教哲學」二六節以下、三七節以下、參看。
 

        一〇

 吾々は歴史的時間性の立入つた論述に移る前に、今ここに、活動の一種に屬しながらそれの克服を志しかくて時間性にいくらかの變貌を來すであらう觀想の働きについて、尤もこの特殊の觀點よりして、更に展望を擴げよう。觀想は大體「美的觀想」――特に觀照ともいふ――と「認識」との二つに大別することが出來よう。美的觀想においては客體は自然的實在性より遊離してはゐるが、この遊離状態にそれを維持しようとする態度は顯はには現はれぬ。内容は實在的他者の象徴としての意義を棄てるが、なほ自然的生の具體性に留まつてゐる。之に反して認識においては遊離したる觀念的存在者はそれの獨立性乃至優越性において維持堅守される。すなはち客體は固定を見る。このことに應じて内容は抽象性普遍性の方向へ進む。自然的生よりの距離はますます著しくそれよりの解放はますます明かとなる。さて觀想においては、前に述べた如く、それの志す所が成就されるとすれば、主體は自己を表現し盡して全く客體の蔭に隱れるゆゑ、後にも論ずる如く、時間性は超越されねばならぬであらう。尤もかくの如き究極地に到達するためには、主體は觀念的存在者をそれの純粹の姿において抽き出しつつ、それの獨立性乃至優越性を徹底せしむべく特別の努力を試みねばならぬであらう。しからばそのことは、觀念的存在者をそれ本來の性格に留まらしめたのでは、果して成功するであらうか(一)。前に述べた如く、文化が自己實現自己表現としてのその本質に副ふやうな存在を保つためには、客體はますます自己性從つて顯在性を強めますます他者性從つて潛在性を弱めねばならぬ。觀想こそこの任務に當るものであるが、しかもそのことの究極の歸着點は一切の他者性の克服であり、このことは結局觀想そのもの延いては主體そのものの自己破棄に外ならぬであらう。それ故客體の固定は却つてむしろ他者性の強化を要求せねばならぬであらう。このことは先づ次のやうにして行はれる。すなはち、主體は振返つて自然的生及び自然的實在性との聯關を求めつつ根源へ遡ることによつて客體の他者性を確保しようとする。その場合觀念的内容は實在的他者の象徴となることによつて、否むしろ根源的體驗において有したる象徴性を取返へすことによつて、實在性を獲得するであらう。尤もその恢復は單なる繰返へしではなく、或は整理であり或は展開であり或は擴充である。かくてここに客觀的實在世界とそれの認識とが成立つ。このことは既に日常生活において行はれるが、それを修正しつつ完成し徹底的に成就せしめようとするのが學問即ち所謂科學の任務である。科學の對象である客觀的實在世界――簡單にいへば所謂客觀的世界――は自然的生及び自然的實在性との聯關を認識によつて維持しようとする働きの所産であり、從つて科學の對象としての「自然」は、カントの洞察した如く、文化的活動の所産である。自然的生に根源を有するもそれより區別されねばならぬ。尤も客體内容のうち、實在的他者の象徴としての意義を獲得せず又それ自身實在者の位に据ゑられることなしに、それ本來の姿において他者性の固定を見るものもある。數學的並びに論理的思惟の對象の如きはこの類に屬する。
 客觀的實在世界の認識は主體が反省の立場に立ちながら、しかも、一旦少くも志向の上においては遠ざかつた、實在者との關係交渉に再び接近するを意味する。さて實在者との交りはすべての生の基礎であり根源であるが、根源を去りたる反省はいかにして又その根源へ復歸し得るであらうか。このことは根源的生が潛在的にすでに反省を内に含むことによつて可能となるのである。すなはち、反省は全く新しきものの突然の發生ではなく、すでに隱然具はつてゐたものが、表面に現はれ出で獨立性を獲得することによつて、固有の本質を自由に發揮することに外ならぬのである。すでに述べた如く、いかなる生も現實的状態においてはすでに何等かの程度において文化的であり又體驗の性格を具へてゐる。それはいかに朧げにせよ氣附く又知るといふことなしには行はれぬ。尤もこのことはなほ自然的生の闇みの中に囚はれてゐる。それが解放されたものが反省に外ならぬ。解放の動作として反省は根源的生との聯關を前提する。この聯關が維持されるが故に復歸も亦可能なのである。今かくの如き復歸を「囘想」(又は記憶)と名づけるならば、認識は囘想によつて成立つのである。尤もそれは認識が成立つて後の、從つて認識の一種としての、囘想とは異なつて、更に根源的なるもの認識そのものの成立根據をなすものである故、カントの用語を襲用すれば、「先驗的(transzendental)囘想」とも名づくべきであらう。しかるにこの囘想は更に根源的體驗と反省との聯關從つて兩者における主體の同一性を前提する。尤もこの「先驗的同一性」は反省の立場において主體の自己實現自己表現においてはじめて顯はとなり、はじめてそれと意識される。客體内容相互の聯關意味聯關を離れて直接に主體の同一性自我の同一性を捉へようとする企ては徒勞にをはらねばならぬであらう。
 客觀的世界の認識と相並んで主體の自己認識も成立つ。すでに述べた如く、客體は主體の自己表現であり、自己の顯はになつたものとして自己性の契機を含む。客體として又客體においての外は主體は自己を顯はにしない。ここに主體の自己認識の可能性の根據は與へられる。この認識は、客體が從つて主體の表現が主體自らの象徴となることによつて、言ひ換へれば、主體自らが主體自らとの交渉に入り、かくて隱れたる自己即ち認識動作の中心と顯はなる自己即ち認識される自己との二つが、分離對立しつつしかも同一性を保有し乃至貫徹することによつて行はれる。このことは單に形式論理的に考へれば或は不可能のやうにも思はれようが、反省の立場において客體が主體より分離しながらしかも可能的自己として自己の表現たる意義を保有することを思へば、むしろ必然的とさへいふべきであらう。その場合客體面が自己性の層乃至領域と他者性の層乃至領域とに分かれをることは、表現を象徴に發展せしめつつ實在者――この場合主體自ら――に關係づけ、かくして表現より認識への轉換を可能ならしめる。自然的生において實在者――この場合他者――の象徴として實在者(主體)の生内容をなしたものは、ここでも客體としての遊離状態を經て再び實在者の象徴として實在者の生内容たる意義を恢復する。この意味において吾々はここでも先驗的囘想の働きを見出すであらう。ただ客觀的世界の認識と異なつて自己認識は、根源的體驗において他者の象徴であつた觀念的存在者がその元の位置に復歸するのではなく、むしろ反對の方向を取つて新たに主體の象徴の位置に推し進められるのであり、從つてその限り復歸よりはむしろ前進を意味する。そのことと聯關して、第一、この認識は單に自然的生の主體に關してばかりでなく、あらゆる段階の生の主體に關して行はれ得る。第二、自己認識は自然的生よりの解放としては前進を意味する故、それの踏み出した歩みは更に新しきいはば高次の反省によつて新しき高次の客體の遊離へと進むであらう。ここに再び道は分かれる。正しき道はかくの如き高次の反省を通じて更に高次の自己認識へ進む。プラトンがイデアと呼んだ高次の存在はかくして生の最も高き自己認識の課題と内容とをなすであらう。ここに正しき意味の「哲學」の世界の展望が開かれる(二)。
 さてそのことは、立入つていへば、次の如くにして行はれる。すでに論述した如く、反省の段階において顯はとなる生の姿は、活動の性格を擔ひつつ二つの領域より成立つ。客體面が一方隱れたる主體的中心に對して他者でありながら他方それの表現であることは、第一段として、その同一面が自己性と他者性との兩契機より成立つことを要求し、更に第二段としては、主體の中心よりの働き掛けが顯はとなりつつ、客體面において自己性と他者性とを代表する二つの領域が分かれ出で相聯關することを要求する。すなはち主體は客體として顯はになることによつてはじめて客體に働き掛けるのである。それら二つの領域乃至二種類の形象は、一つが働き掛けるもの形作るもの他は働き掛けられるもの形作られるもの、一は形相他は質料、の間柄において立つ。反省の立場において自己認識の對象をなす主體の姿もかくの如き構造を示すのである。その場合他者性と質料との側に立つ形象は實在性を代表し、自己性と形相との側に立つ形象は内容を代表するはいふまでもない。實在性はなほ隱れたるものに當り内容はすでに顯はなるものに當る。かくの如き構造はすでに日常生活において具はるが、學問即ちこの場合所謂精神科學において確立と擴充とを見るであらう。然らばさきに高次の反省と名づけたもの即ち新しき高次の客體の分離はいかにして行はれるか。それは、自己性と形相との位置に立つ形象を、他者性と質料との位置に立つものより引離し、それに獨立性と――反省の立場においては勿論さうでなければならぬが――優越性とを付與しつつ、固定することによつて行はれる。自己性の契機のみを代表するものとして斯の如き形象即ち純粹形相は、生の最も顯はなる姿それの眞實の存在――プラトンが 〔onto_s on〕 又は ousia と呼んだもの――を開示するであらう。他者性を代表する形象は後ろに置き棄てられるゆゑ、客體面の凹凸波動は跡を絶ち、實在性の曇りは吹き拂はれて、隈なく澄みわたる客體面に、各それ自らの明るさに照りはえる存在の靜かな姿のみが、見入る觀想の眼に留まるであらう。これが哲學の世界である。文化的生の及ぶ限り自然的生よりの解放は哲學において最も完全に行はれる。
 尤も異なつた第二の道を取る可能性はなほ殘されてゐる。客體の他者性の強化それの實在性への徹底はかくの如き純粹形相純粹客體の場合にも行はれ得る、少くも歴史的事實としてはしばしば行はれた。プラトンよりヘーゲルに至るまでの觀念主義の形而上學が即ちそれである(三)。この場合イデアは第二段的高次的客體であり、從つてそれ自らとしては根源的體驗における實在的他者へ還元されるを拒むゆゑ、主體の高次の自己認識として以外には實在者の象徴としての意義を獲得することはもはや不可能である。それ故、哲學への唯一の正しき道を取るを肯んぜぬ思想家たち、カントが獨斷論者と呼んだ人々、はそれを直接に實在者の地位に据ゑる外はないであらう。かくて本質上は何の背景も奧行もなく底の底まで顯はなる純粹形相がそれ自らとして實在者を以つて自任するに至る。かくの如き形而上學は、その他の點においていかに傾向や内容を異にしてゐるとしても、等しく皆過まつた基礎の上に立ち不當の權利を僭するものに外ならぬ。
 
(一) 「宗教哲學」一六節、二六節、參看。
(二) 「宗教哲學序論」殊に六節、一六節以下、參看。
(三) 「宗教哲學」殊に一六節、二〇節、參看。
 

      三 文化的時間性

        一一

 徹底したる觀想に在る主體は自己を表現し盡して全く客體の蔭に隱れ、自己實現として活動としての姿を表面に現はさぬ故、その限りにおいて時間性は離脱される。ただ自然的生と自然的實在性とへの復歸を意味する客觀的實在世界の認識においては時間性はなほ殘る。かくて歴史的時間とは異なる客觀的時間(又は宇宙的時間)が成立つ。主體は姿を隱すゆゑ、これは主體自らがその中にあつて體驗する時、即ち主體自らの性格をなす時間性ではなく、客體の世界客觀的實在世界の性格・形式・法則などとしてのみ成立つ時間性である。すなはち生きられる時ではなく觀られる時である。吾々が日常生活において時を測り時を語り存在並びに出來事の時間的位置を定める場合の時乃至時間性はこれである。時計の時天文學の時もこれである。主體も、外的客觀的實在世界の一部と特に親密なる關係に立ち、廣き意味において身體と呼び得る表現を遂げる限りにおいては、この時の中に生存する。嚴密なる充實したる意味における文化的時間即ち歴史的時間の場合とは異なつて、ここでは活動に固有なる客體面の波動凹凸は跡を絶ち平坦なる客體面のみ殘る。客觀的時間は通常直線の形に表象される。もと文化的時間の變種であり、それの破片の引伸ばしと見ることが出來る。恰も曲線の破片が直線と見える如くに。尤も歴史的文化的生において他者性を代表する形象が根源としての實在的他者へ歸屬せしめられる場合には、文化と歴史とは客觀的實在世界を基體となし、それを形作りそれにおいて自己を實現し表現するといふ意義を得る。その限り歴史的時間は客觀的時間を部分的要素として包含する。しかしながらそのことは全體としての文化的歴史的時間の構造の理解には何の影響をも及ぼさぬであらう。今や吾々は幾多の紆餘曲折を經てこの課題へと直進すべき時となつた。

        一二

 文化は自然的生の土臺の上に建設される故、文化的時間性は自然的時間性よりの全面的影響の下に立つが、今は差當り出來るだけその影響より切離されたる純粹の姿を眺めつつそれの構造を明かにすべく力めようと思ふ。
 文化的生においては主體は主體性を從つてそれに固有なる自己主張を飽くまでも保存し、ただ他者のみ自然的實在性を離れて客體となる。しかるに客體の存在は主體へのそれであるに過ぎず、それの本質は主體に對して可能的自己乃至自己表現であるに存する故、その限りここでは自然的根源的時間における「將來」も「過去」も姿を消し、主體の時間的性格としての「現在」のみが殘る。文化的生の時間的性格は現在に盡きるといふも過言でない。主體は無くなつた過去を悼むに及ばず未だ來らざる將來をかこつこともなく、ただひたすら現にその中に生きる現在を樂しむのである。このことは、他者が純粹の客體性に留ることを少くも理想とする美的及び理論的觀想において最も完全に行はれる。時間性の觀點よりみれば、物の美しき又は眞なる姿に見入る喜びは現在を樂しむ喜びである。
 かくの如く一切を支配し一切をその雰圍氣の中に包む主體の現在性の内部的組織に屬するものとしてのみ歴史的時間の「過去」と「將來」とは成立つ。兩者はここでは自然的時間におけるものと異なつた新たなる意義を得る。
 それに新しき意義を與へつつ「過去」を成立たしめるものは「囘想」(又は記憶)の働きである。囘想の内容としての過去は無に歸した有の再現である。かくの如き再現の働きに、しかし又それの成果にも囘想といふ名が與へられる。その場合再現されて現在する有は勿論客體的存在に過ぎないが、ここに、非存在が存在に向ひ無より有が呼び起されつつ、自然的時間においてとは正反對の方向に存在の移動が行はれるといふ現象が發生することは特に注目に値ひする。
 客觀的實在世界に屬する乃至はそれと關係づけられる經驗的事實としての囘想には種々の科學的説明が與へられるであらう。例へば特定の出來事の影響や痕跡が殘ることによつてなどの如くに。しかしながら、かかる説明がすでに囘想の働きを前提するといふ難點を除いても、囘想は單に同一内容の保存や持續ではなく、むしろ同一内容がそれとして認識されることを意味する。しかるにこのことは更にその内容その客體が同一主體に屬すること同一自己の表現であることを前提する。主體が自己意識にまで昇り「自我」として成立ち自己と客體との對立及び關係において生きること、即ち反省の段階に昇り自由の境地に進んだこと、によつて囘想は可能にされる。
 尤も反省の立場文化の段階においては、それの時間的性格が現在に盡きる如く、一切は有であり存在である。そこには嚴密の意味においての無は存在しない。客體としての「無」や「非存在」は、主體の現在の内容をなすものとして、それ自ら一種の有、存在の一種の仕方である。從つて囘想は、それの可能性の根據である反省の立場においては、一つの有り方にある何ものかと他の有り方にある同じ何ものかとの間に存する聯關意味聯關において成立つといふべきである。しかしながらこれだけでは過去の性格を可能ならしめる囘想の意義を盡したとはいひ難い。反省の立場においての無といふ有り方が更に體驗――この場合自然的生の體驗――においての無を代表する場合にのみ囘想は有意味となるのである。しかしてこのことは反省の主體が更に根源への復歸をなし得ること、その意味において、すでに前に述べた如く、先驗的囘想をなし得ることを前提とする。しかるにこの事は、すでに前に述べた如く、すべての生從つて自然的生が體驗としてすでに反省の契機をうちに包含することによつて可能なのである。すなはち反省は無より有を生ずるのでなく、すでに潛在的にあるものが顯在的にあるやうになるを意味する。尤もかく言ひかく考へる場合吾々は反省の立場に立ち、體驗における生の從つて實在性の契機と反省の從つて内容的觀念的契機とを區別しつつ兩者の間に聯關を設定する故、前者即ち實在性も亦一種の觀念的内容となるが、これは何事によらずすべて體驗へ又根源へと遡らうとする際に起る困難であつて、もはや反省の立場において解決し難き問題である。それは生の基本的事實として、身自らその中にあつてその事を生きる外に途がないのである。吾々がすでに自己認識に關して出會つた困難、即ち隱れたる實在する主體と顯はなる觀念的主體との同一性の困難も、立入つて見詰めれば、結局同じ困難であり、皆等しく吾々が主體の先驗的同一性と名づけたものに還元される。それは根源的體驗と反省とにおける主體の同一性であり、實在する主體と客體面に觀念的聯關として表現される主體との同一性であり、從つて又認識する(實在的)主體と認識される(觀念的)主體との同一性でもある。かくの如く反省そのものがすでにこの同一性を前提する故、それは理解し得る事柄ではなく、その中に生きつつ體驗される生の基本的事實なのである。
 さて囘想は無に歸したる内容の再現である。その内容の實在的有は無の中に葬り去られたるままもはや呼び返へすすべがない。存在は觀念的存在として再現を見る。このことはいふまでもなく反省の働きによつてなされる。すなはち、觀念的存在者が實在者を離れて遊離し新しき特異の存在に入り、しかも聯關と同一性とを保つことによつて囘想は可能となるのである。しかしてこの囘想によつて文化的時間における過去は成立つ。
 かくして成立つた過去は主體及びそれの現在の中に包まれつつそれとの聯關において立ち、それの一契機乃至一領域として特異の役目を務める。すなはちそれは無に歸したる存在の再現再生として、反省の立場に立つ主體に存在の供給者の任務にあたる。客體の存在を維持し補給するものとして、それはそれにおいて主體が自己を實現すべき質料の意義を持つ。すなはち文化的生における他者性の領域にそれの時間的性格として對應するのが過去である。自然的時間において存在の供給者は將來であつた。文化的時間においてそれと同一の任務に當るのが過去である。さて客體の他者性は究極は實在的他者性に根源を有する故、文化が實在的世界との聯關を保つのは過去によつてである。かくの如くにしてここに時の方向の一種の顛倒が行はれる。滅亡を意味した過去が却つて他者の位置に立ちつつ存在の供給者となる。ここに根源的時間性の或る形或る程度の克服が存することは否むべくもない。
 過去が他者性の領域に對應するに對し、「將來」は自己性と形相との領域に對應する。過去が受動的であるのに反し將來は能動的である。一は働きかけられるもの他は働きかけるものである。
過去より存在を受取つた主體は、かく與へられたるものを、將來として前面に顯はになつた自己によつて形作りつつ、自己實現自己表現をなさうとする。時は過去より現在を經て將來への方向を取つて進む。
 過去も將來も現在の共通の地盤の上に立ち、否むしろ同一現在同一自己の中に全く包括され、それの内部的分化乃至組織としてのみ成立つ。兩者は等しくともに同じ現在同じ自己の有り方であり、ただ異なつた有り方としてのみ區別されるに過ぎぬ。かくしてここに現在を介して兩者の間に交互的聯關が成立する。先づ過去は、存在の供給者として形作らるべき質料として客體の他者性の領域として、それにおいて自己を實現する主體の動作を制約し制限する。又そのことによつて將來に影響を及ぼす。客體が實在するものの世界との聯關を保つは過去によつてであり、過去の根源は實在する他者又は主體である。中にも、認識によつて維持固定される實在的他者との聯關は從つて客觀的自然は、過去の背景をなしつつそれの他者性を強化するに特に役立つ。しかしながらかくの如き自然も客體に屬し從つて可能的自己としてのみ文化的意義を有し、又過去も結局主體の現在に包括されて成立ち從つてそれの支配の下に立つ故、文化的歴史的時間においては、過去は自然をも含めて自己の過去としてのみ成立つのである。主體が自己の過去の土臺の上に立ち、それを與へられる可能性與へられたる質料となしつつ、それにおいて又それに應じて自己を實現し表現する處にのみ歴史は存在する。
 過去がすでにさうであるが、まして將來は自己の將來としてのみ有意味である。將來は文化的生における形相及び自己性の領域に對應するものとして、現在を介して過去に働きかけそれを形作る。將來は自由の領域である。それは又活動における自己性の契機を表現するものとして觀想と特に親密なる間柄に立つ。活動する主體は自由の世界を求めつつ來るべき現實を將來に望み見る。これは觀想の働きによつて行はれる。かくの如く活動の一契機として將來に向ふ觀想は通常特に「構想」又は「想像」と呼ばれる。
 過去に囘想が對應する如く將來には構想が對應する。過去は他者性の側に立つものとして吾々を實在者特に自然的實在者へと導く、客觀的自然、即ち自然科學の對象をなす客觀的實在世界は、かくして、客體の他者性を強化しつつ過去の鞏固なる背景を築き上げる。囘想は自然科學と特に親密なる間柄に立つといふべきである。これに反して將來とそれに對應する構想とは吾々を哲學の方向へ誘導する。自己認識において自己性と形相との位置に立つ客體的形象を、他者性と質料との位置に立つものより引離して固定することによつて、哲學の對象であるイデア・純粹形相が成立つことはすでに前に述べた如くである。これを吾々が今到達し得た理解によつて補足すれば、將來に向ふ構想こそ哲學の母胎といふべきであらう。將來に屬する限り、客體は又それの觀想である構想は、活動の一契機に過ぎぬ。客體面の凹凸高低が、質料と他者性とを代表する形象を切棄てることによつて、平らに均らされ純粹形相の世界が展開されることによつて、活動は觀想に席を讓り將來は純粹の現在の中に融け込み、活動の一契機であつた構想は眞の存在、存在の純なる靜かなる姿、の觀想――直觀――へと進展を遂げる。哲學の對象であるイデアが活動と結び附く時イデアール(理想)の地位を獲得するのも、又生の現實の理解に際し規範乃至價値としての意義を發揮するのも、ここよりして解し得るであらう。又自然科學より哲學への道がはじめより塞がれてゐることも容易に看取される事柄である。自然科學は客體面における他者性の強化による自然的生への復歸として哲學とはまさに正反對の方向を取る。哲學が將來への方向の徹底ならば、自然科學は反對に過去への方向の徹底なのである。
 過去と將來とは交互的聯關において立つ。この場合吾々が特に注意し強調する必要のあるのは、重心が斷然將來へ傾いてゐることである。そのことは、將來が自己性と形相との領域に對應するものとして、自然的生よりの解放自由の世界への向上を志す文化的生にとつては、過去に比して遙かにそれの本質に適合したものであることによつて、すでに一般的に明かにされるが、立入つて考察すれば特に次の如き具體的の事情に基づく。すなはち、歴史的時間において現在を介して將來に影響を及ぼす過去は、客體的存在を保つものとして純粹の他者ではなく、可能的自己の範圍における他者性の契機に對應するものに過ぎず、すでに主體の自由に委ねられたるものであり、從つてすでにはじめより將來的性格を有し、すでに將來によつて色どられ影響されたるものである。過去は常に將來の支配の下に立つ。單なる事實性實在性はもとより主體の處理を拒むであらう。しかしながら内容は、即ち文化的意義における存在は、觀念的存在、意味としての存在である。それ故歴史における過去は決して單なる既定的事實ではない。それは將來の異なるにつれて變貌を見るべき存在である。歴史的事實は、「歴史的」と呼ばれ得る限り、主體の生の移動と共に絶えず變貌する流動的性格を擔ふ。過去の囘顧は將來の展望によつて絶えず新たなる姿と新たなる色彩とを展開する。かくの如く將來の優越性のもとに現在を介して行はれる過去と將來との交互的聯關において歴史は成立つ。歴史において人はいつも新たなる將來に生き、更にそのことによつて、又いつも新たなる過去に生きる。かくて過去は全く取返へしのつかぬ決定的宿命的なる事柄では無くなる。

        一三

 以上論じ來つた所によつて吾々は文化的時間の特質を明かになし得た。ここでは主體とそれの「現在」とが一切を支配する。過去も將來も等しく現在の内部的組織に屬するものとしてそれによつて包括されそれの部分乃至契機(要素)をなすに過ぎぬ。自然的時間においても或る意味においてすでに現在は過去と將來とを包括した。これは時が根源においては時間性として主體の性格として成立つことの必然的發露である。現在が首位を占めることは時間性のあらゆる姿の共通の特質をなすのである。しかしながらその共通の地盤を一足踏出すや否や道は分かれる。自然的時間においては現在は兩面において自己以外のものと境を接しそれの壓迫侵略に屈した。すなはちそれは一方實在的他者よりの拘束に從ひつつ他方非存在の中に滅び去らねばならなかつた。現在の内部的構造は宿命的必然性へのそれの服從を意味した。しかるに文化的生においてはかくの如き制限は撤廢され、必然性と拘束とを哀訴したものが却つて自由と解放とを謳歌するものとなる。そのことに應じて文化の世界客體の世界は存在のみの世界となる。そこには嚴密の意味の無や非存在の住むべき場處が無い。「考へられるものと有るものとは同一である」といふパルメニデス(〔Parmenide_s〕)の有名な句は文化的生のこの特徴を簡明に適切に言ひ表はしたるものとして典型的意義を有する。過去は存在の墓であることを止めてむしろ存在の泉となる。かくて時の流れは逆流する。過去より發し現在を經て將來へ向ふ。しかも過去も將來も現在に從屬する特殊領域に過ぎぬ故、時の流れは内に留り、外より來り外へ消え失せることがない。かく考へ來れば、文化的歴史的時間は或る形或る程度における時間性の克服であることは疑ふ餘地がない。しかしてこの克服は畢竟「過去」のそれである。過去は全く面目を新たにし自然的時間において有した絶對性を抛つて、むしろ主體によつて從つて現在と將來とによつて形成され處理されてはじめて成立つものとなる。文化的歴史的時間が支配する限り、生は内部的構造においては活動の性格を擔ひ從つて變化と運動との姿を示すであらうが、しかも全體としては、生きることを知つて滅びることを知らぬであらう。形相及び自己性と質料及び他者性との兩面が共に具はつて兩者の聯關としてのみ生が成立つ以上、主體は變り行く將來の展望を樂しみつついつも新しき希望に躍るであらう。現在への喜びを基調として自由と進歩との朗かなる旋律が生の情調を活かすであらう。これに優る幸福ははたしてこの世に求めらるべきであらうか。
 しかしながら、文化的生は自然的生を又歴史的時間は自然的時間を基體としてその上に立つものであり、從つてそれを擔ふ地盤の制約と影響とを脱し得ない。一切を擔ふ「現在」は依然絶え間なき移動轉化を示す現在である。無の中より浮び上る如く見える過去はただ絶えず無の中に沈み行く現在によつてのみ支へられる。生は滅びることを知らぬであらうが、それは現在が持續する限りといふ條件の下においてに外ならぬ。その恆常性は結局瀧つ瀬を彩る虹のそれ以上のものではあり得ぬであらう。外觀は平和と幸福とをたたへる如くであらうが、立入つて實質的内容を檢討すれば、他者性と自己性との兩契機從つて過去と將來との兩領域は、相俟ち相促しつつ、しかも他方において互に牽制し互に反目しつつ、文化の存在の意味である自己實現をいつも未完成のままに置去りにする。生はいつも缺乏の中に留まりいつも完きを得ずにをはる。過去と將來とのいつも新たなる色彩華やかなる交互聯關は、結局絶えず壞滅の中に消え失せて行く自己の姿を蔽ひ隱さうとするはかなき幻の衣に過ぎぬであらう。文化主義人間主義世俗主義は畢竟かくの如き自己欺瞞の所産でなくて何であらうか。
 

    第三章 客觀的時間

        一四

 客觀的時間は文化的時間の變種に過ぎぬ。それは觀想の立場において時間性の取る特殊の性格である。しかもこの立場においては主體は客體の蔭に隱れ單に動作の隱れたる中心としてのみ存立を保つ故、この時間性の主體に對する意義は稀薄である。徹底的にいへば、後の論述で明かであらう如く、時間性よりの離脱こそこの立場にふさはしき態度なのである。しかしながら、觀想が客觀的實在世界の認識といふ形を取る場合には、すでに論じた如く、自然的生への或る意味の復歸が行はれる。具體的にいへば、かかる認識が實在者のそれとなるためには、吾々は客體内容及びそれの聯關の考察だけで足りるとはなし得ぬ。例へば理論的物理學においてさへ實驗が必要である如く、吾々は實在的他者に出會ひ行當りそれと自然的直接性の間柄に立たねばならぬ。しかるに自然的生への聯關がなほ殘留する處には時間性も亦殘留する。かくして成立つのが客觀的時間である。客觀的實在世界の認識が觀想である限り主體は影をひそめ活動の性格は表面より退く故、この時間性は主體自らの性格をなすことなく、ただ客體の世界の性格をなすに過ぎぬ。さてこの時間性の構造を理解するためには吾々は客觀的實在世界の構造を明かにせねばならず、しかもそのためには吾々は遡つてこの世界がいかにして成立つかを知らねばならぬ。
 すでに論じた如く、客觀的實在世界は客體を實在的他者に歸屬せしめることによつて成立つ。このことは客體面の擴がつたものが新たに實在的中心を得從つてそれの表現となることを意味する。しかもこの場合その新しき中心は主體と實在的關係交渉に立つ實在的他者である。客體は實在的他者の表現、即ち、それにおいて後者が隱れたる中心としての自己を顯はにすることによつて自己主張自己實現を行ふ所のものとなる。言ひ換へれば、實在的他者は客體に對していはば新たにそれ自ら主體の位置に立つに至る。これは認識する主體の動作によつて行はれ、その限りにおいては、主體の自己實現の活動に基づき、從つて文化的生の一形態として成立つ事柄であるが、傍ら又、自然的生への復歸をも意味することはすでに述べた如くである。かくの如く主體の自己表現としての客體が實在的他者の自己表現となることによつて、文化の段階における實在的他者との交りは行はれるのである。主體の自己表現と實在的他者の自己表現とが客體において一に歸することは、それに象徴としての意義と資格とを付與することに外ならぬ。實在性とは中心に立ち中心より生きる存在の謂ひである。すなはち、實在するものは他の何ものかの自己のうちに入り來るを許さず、他者の侵略に對し飽くまでも自己を防衞し、更に進んでは他者を侵略しつつ自己を主張貫徹する。主體の生内容が、主體の自己に屬するものが、實在する他者を指し示し代表することがなかつたならば、主體と他者との交りは行はるべくもない。かくの如き實在的交渉の最も基本的直接的なるもの原始的根源的なるものが自然的生である。文化的生はかかる原始的交渉よりの解放を本來の性格として有するものであるが、假りにこの本質的傾向が貫徹されたとすれば、すでに論じた如く、一切はたわいもなき夢や幻の如く飛び散り實在する主體は空虚のうちに融け去るであらう。客體の他者性の強化によつてこの危險を食ひ止めるのが客觀的實在世界の任務であり、しかしてそのことは自然的生への一種の復歸によつて行はれる。しかもこの復歸を成就するは認識である以上、認識が文化的生においていかに重要なる役割を演ずるかは、この方面よりしても明かに看取されるであらう。それは一方より觀れば觀想の性格を擔つて文化的生の本質的傾向の貫徹を志し、しかも他方、自然的生への復歸を遂げることによつて同じ生を崩壞より救ひ、それに根源への復歸と實在的基礎とを確保する。これは日常生活においてすでに行はれ居る事であり、認識が學問へと發展擴充を見ることによつて、それの本來の志向は完遂される。
 以上によつて擬人性が客觀的實在世界の認識の必然的特質をなすことは明かとならう。認識の直接の對象をなすものは客體としての觀念的存在者であり、これの根源的意義は主體の自己表現であるに存する。主體は自己の表現を通じてはじめて他者を認識し得るのである。實在する他者そのものは決してわがうちに入り來らず、しかもわれに屬するものが同時にわれのそとにあるものを代表する處に認識は成立つのである。若し主體の表現と他者の表現とが一に歸して主體における他者の象徴を成立たしめることが無かつたならば、認識は到底不可能にをはるであらう。ここに古へより認識の客觀的妥當性を否み又は疑はうとしたあらゆる教説の究極の根據が見出される。若し推理によつて、從つて反省の立場に立ちつつ客體内容の聯關をたどることによつて、實在者に到達する以外に途がないならば、吾々はいかに力めようとあせらうと到底表現の世界意味の世界觀念の世界を脱し得ず、ライプニッツの語を借りるならば、「何物かが出入し得るやうな窓を有せぬ」自己と稱する密室に監禁されたる囚人でをはり、かくて懷疑論や觀念論は避け難き歸結となるであらう。幸ひにも自然的生が認識に實在的根據を與へる。吾々は直接に實在者に出合ひ行當り、そのことによつて直接に實在者との交りに入る。かくて主體の生内容は他者の象徴となり、主體の自己表現と他者の自己表現とは一に合する。認識に實在的根據を與へるものはかくの如き直接的體驗である。客觀的實在世界の認識はかくの如き體驗への復歸を求めそれとの聯關を打建てることによつてはじめて可能にされる。
 かくの如く客體が自己表現でありながら同時に他者の象徴であることは、推理を從つて疑問を超越したる生の根源的事實である。しかしながら他者の象徴たるべき客體が飽くまでも自己の世界に留まることも否み難き事實である。客體は客體としての本來の性格においては實在的他者との聯關を有するものではない。むしろかかる聯關を離脱する點にそれの本質は存するのである。實在者と出會ふことによつてかかる聯關は設置され象徴性は成立するにしても、この新しき性格は、認識の立場反省の立場においては、本來無きものがあとより附加はつたのであつて、主體の自己表現としてのそれ本來の性格はそのことによつて何の動搖をも來さぬのである。それ故象徴性は、この場合、本來一定の性格を有するものがその性格を保存しつつしかも同時に他者を代表し、自己の内在性を維持するものがしかも同時に超越性を獲得することを意味する。それ故表象の上においても、他者を表現するものは、主體を表現するものを基礎とし材料とし模範とすることによつてはじめて成立つ。他者は勢ひ擬人的に表象されるのである。吾々はもとより體驗において直接に他者の言葉を聽く。しかもその言葉の理解は自己の言葉人間の言葉によつて行はれる外はない。この世の現實的生の續く限り擬人性は認識の、從つて認識を契機として含むあらゆる生の姿の、免かれ難き運命である。しかしながらこの代價を拂ふことによつて、吾々は自己の限界を超越してあらゆる存在の祕密にも參與するを許されるのである。

        一五

 吾々は今ここに客觀的實在世界における存在の基本的形相即ち所謂範疇について立入つた論述を展開すべきではない。それは吾々の任務を超えたる、しかも甚だ困難なる課題となるであらう。吾々はただ當面の問題に必要なる程度に考察を限らう。客觀的實在世界の範疇のうち最も重要なるは實體性と因果性とである。實體性は、上に述べた所より直ちに推測し得る如く、畢竟主體性に外ならぬ。因果性は客體間の聯關意味聯關が實在的聯關に變じた場合に生ずる。すなはち、二つの客體乃至客體群が各別々の實在的中心の表現たる意義を擔ひつつ相聯關する場合には、そこに因果關係が成立つ。それは主體と實在的他者との關係に象られたるものである。この關係において主體は生の中心として外へ向つて働きつつしかも外より働きかけられる。能動性と受動性とは自然的生における主體の二重的性格をなす。そのことに應じて客觀的實在世界においては實體は互に能動者であり又受動者である。因果關係は相互作用として成立つ。客觀的世界像は人間の姿に象られて成立つといつても過言ではないであらう。
 尤もこれは客觀的實在世界が實在的である限りにおいて起る事態である。吾々は認識の實在的妥當性が自然的生への或る程度の復歸によつてはじめて可能となるを見た。しかるに自然的生は前後左右を顧みることなしに他者へとまつしぐらに突進する。それは認識の本質をなす觀想とは正に正反對の性格を持つ。心理的に言ひ表はせば、知性よりはむしろ意志乃至衝動として働く。かくて吾々はここに客觀的實在世界の認識の二重的性格に特に注意を向けねばならぬに至る。觀想そのものの本來志向する所より言へば、これは克服さるべき事態である。自然的生の名殘りを出來るだけ稀薄にすることによつて、可能ならば純粹客體へまで昇ることによつて、認識本來の志向ははじめて充たされるであらう。ここに、近世自然科學が現になしつつある如く、出來るだけ擬人的表象を遠ざけ、主體性を示唆するあらゆる規定を除かうとする努力が必要となる。しかしながらこの努力の成功には限度がある。例へば假りに力や作用を意味する規定を除き得たとしても、外面性・他者性・關係性を意味する規定は、我にあらざる我に對立する存在乃至それの聯關が除き得ぬ限り、なほ殘り留まるであらう。空間は實にかくの如きものである。
「空間」の本質を理解するためには、吾々は時の場合と同じく客觀的實在世界の基本的構造をなす客觀的空間より根源的體驗へと遡つて、自然的生における根源的空間性を見究めねばならぬ。すでに述べた如く、自然的生において主體は實在的他者と直接的關係交渉において立つ。その場合吾々は二つの面又は契機を區別し得よう。第一は他者との交りにおける主體そのものの内部的構造であり、時間性はそれの性格をなす。第二は他者へと向ふ限りにおける主體の姿、即ち他者への存在としてのそれの基本的姿である。これが即ち空間性である。簡單にいへば、内に向ふ主體の姿が時間性、外に向ふ姿が空間性である。かくの如く空間性は根源的生の對他的對外的性格をなすものとして外面性相對性の最も基本的根源的なるものである。
 それ故、自然的生が或る程度までそれ本來の權利を囘復することによつて客觀的實在世界が成立つに至つて、空間がそれの基本的形相をなすは當然といふべきであらう。客體の世界はそれの背後の主體的存在者に歸屬せしめられることによつて實在性を獲得する。實在者相互の關係は空間的でなければならぬ。實體は空間的存在を保ち、それの相互作用としての因果關係も空間の中において行はれる。空間性は客觀的實在性の最も基本的規定となる。空間性は根源的體驗まで遡れば時間性に對して決して優先權を有するものではない。主體の生の内部的構造より切離されたる單なる對他性對外性の形式として、それは時間性と比べてむしろ抽象的派生的であるを免れぬ。しかしながら客體の固定ついでは實在化が行はれるとともに、それは優先權を主張するに至る。主體の内部的構造を示唆するやうな規定を排除しながら、しかも飽くまでも主體性を保存しようとするためには、これが殘されたる途なのである。すなはち客觀的實在世界の空間性はそれの實在性に基づく。それが空間的存在を保つのはそれが主體として表象されるより來ることなのである。主體と實在的他者性の間柄に立つことによつて客體は主體性を獲得し、そのことによつて更に空間性を獲得する。
 かくの如くにして自然的生の支配の及ぶ限り空間性の支配も亦及ぶ。觀念的存在の成立とともに類を異にする他者性が現はれるに相違ないが、そこでさへ空間性の覊絆はなほ纒はつてゐる。純粹形相純粹客體の世界乃至は永遠的世界の具體的譬喩的表現が空間性の像を借りねばならぬのはここより來る(一)。觀念的世界そのものがすでに「上」の世界なのである。空間性は根源的には自然的生における實在的他者性であり、觀念的存在の成立とともにこの他者性は超越されるが、自己實現の新たなる領域においても自己性の支配の及ばぬ限り即ち他者性の勢力の殘る限り、自と他との區別の存する限り、根源的原始的他者性との聯關は存續するのである。ましてや自然的他者性への復歸を意味する客觀的實在世界が全く空間性の支配の下に立つは當然である。ここでは空間性はもはや譬喩的表現としてではなく、實在者そのものの本質的性格として威を揮ふ。かくてそれは客觀的時間即ち客觀的實在世界の時間性において最も重要なる契機をなすに至る。
 
(一) プラトンの eidos 又は idea は、「見得べきもの」(horaton)と區別して特に「思惟し得べきもの」(〔noe_ton〕)と呼ばれをるに拘らず、本來「かたち」又は「すがた」を意味する。すなはち高級なる「見得べきもの」である。比較的嚴密なる概念的論述を試みてゐる「國家」篇によつても、それは「思惟し得べき場處」又は「空間」(〔ho noe_tos topos〕)において存在する(Poaliteia 517 b)。なほプラトンの思想がプロティノスを介して、ダンテの「天國」篇に影響したことは多くの學者の認める所である(例へば Th. Whittaker: The Neoplatonists. P. 199 ff)。
 

        一六

 客觀的時間は文化的時間の舞臺より主體が退場して生ずる故、活動に固有なる客體面の凹凸波動はここでは消え失せ、世界の平坦なる等質的なる客觀的形相乃至秩序としての時のみが殘る。尤も現實的生においては客體内容に主體性を付與する擬人觀が強く働く故、その擬人觀の形態又は程度に應じて、客觀的時間の構造も可なり複雜なるものとなる。例へば、相互に作用しあふ客觀的實體は、いはば各私的の時間性を有するが如く表象される。萬物は滅び易く萬事は常無しといふが如き判斷も、客觀的實在世界に關する判斷としては、擬人觀の産物である。認識としての性格が向上を見、擬人性がますます克服され客觀性がますます確保されるにつれて、一切事物を等しく支配の下に收める、單純なる等質的なる、いはば公的なる、客觀的時間が立場を固める。ここでは過去も將來も去り、留まるはただいづこも同じ現在のみとなる。かくの如く等質化平等化したる現在においては、他者性關係性はもはや空間のそれでのみあり得るであらう。なほ時について語らうとすれば、それは空間的の或る規定例へば長さといふが如きものに置換へられるであらう。そこには嚴密の意味の方向即ち時の不可逆性は存在せず、いかなる變化も運動も逆に元に戻すことが可能となるであらう。現に物理學の基本的法則が時の方向に對して全く無頓著であるとは學者の説く所である(一)。時を全く空間に還元し四次元の世界を説くことが、自然科學説として正しいか否かはその道の人の判斷に委ねらるべきであらうが、かくの如き思想そのものが時間性の客觀化を極端化したものとして優に成立し得ることは疑ひの餘地が無い。
 しかしながら客觀的時間は空間ではない。それは、空間化され殊に空間的像を借りずには表象し得ぬものであるが、依然時間である。主體は姿を隱くさうとはするが決して自ら無きものにしようとはしない。客觀的時間が文化的時間の變種である限り、文化的生從つて又自然的生の主體は儼然蔭に立つてゐる。そのことによつて、一切を包括する等質的なる内部的分化を有せぬ現在は、一定の方向を得、一定の方向を取つて動くもの流れるものとなる。かくて時の流動推移が成立つ。但し嚴密の意味における時の内部的構造、過去と將來との律動、はもはや逝きて歸らぬものとなつた以上、時の流動推移は現在(今)の連續に過ぎぬものとなる。包括的なる一つの現在はいくつもの小現在に分裂し、かくて等質的ながらも他者性を内に含む、存在の客觀的秩序としての時が成立つ。これが客觀的實在世界の最も基本的秩序である空間の助けによつてはじめて存在すること、又それの像の助けを借りてはじめて表象され得ること、は當然といふべきである。かくて客觀的時間は、時の點即ち今(現在)の連續として、一定の方向に向ふ直線として表象される。各時點の關係は單に外面的即ち空間的である。一が他に非ず一は他と相容れぬといふだけに盡きる。一定の方向を有するゆゑ「前」「後」の別はある。しかもこれさへ、すでにアリストテレスの見拔いた如く(二)、本來は空間的規定なのである。それが過去及び將來とは全く別の事柄であるはもはや特に言ふを要せぬであらう。
 空間化したる時間に外ならぬ客觀的時間においては、それの内部的構造は、空間においてと同じく、等質性即ち同一内容の單なる連續單なる繰返へしに盡きる。一と他とを區別するものは、單に、他であること、互に他であること以外にはない。このことは根源まで遡つて次の如く理解することが出來よう。根源的空間性は根源的體驗における實在的他者性である。あらゆる他者性はここに根源を有する。反省の段階において客體の遊離が行はれるとともに、そこに客體的乃至觀念的他者性は成立つ。客體の世界が一部分の復歸を行ひ、こなたの主體を去つたままの姿でかなたの實在者即ち實在的他者に歸屬せしめられるとともに成立つ他者性こそ、客觀的實在世界の基本的秩序としての客觀的空間である。かくの如くであるとすれば、今客觀的空間より實在性を指し示す特徴を取除けば、殘るは客體的に顯はとなつた他者性、客體内容同志の間に成立つ純粹の他者性以外にはないであらう。このことはそのまま客觀的時間にも當嵌まる。そこに支配する他者性は單に一と他とは異なること互に他であることに盡きる。すなはち、「今」即ち時點の連續においては、一つの「今」を他の「今」より區別し得るものは内容的の何ものでもない。從つて一つの今が、最後のものとして、それに續く他の今の存在を拒む特殊の資格をもつことは、はじめより否まれる。かかる連續においては限界といふものは存在しない。すなはち始めも終りもあり得ない。尤も時は一定の方向を取つて進むことを特徴としてゐる故、空間の場合と異なつて、終りの無いことが特に際立つた本質的特徴となる。これが即ち時の(即ち客觀的時間の)「無終極性」(Endlosigkeit)である。更に又次の點も考慮に値ひする。客體の面において觀念的他者性の支配する處においては、存在以外には何ものも無い。有と區別して無について語る場合、その無は一種の有即ち異なつた有り方に過ぎぬのである。これを時に當嵌めて言ひ換へれば、客觀的時間においては現在あるのみ、有即ち現在に對して無は單に他の有即ち他の現在に過ぎぬのである。すなはち、そこには存在從つて現在の連續あるのみ、この連續に斷絶を命ずるであらう眞の非存在はそこには見出されないのである。實在的他者性のある處には、一が他を滅ぼすこと有が無に歸することがあつた。そこには嚴密の意味における無が成立した。そこでは現在は過去となることによつて終極に達したのである。無終極性こそ客觀的時間の最も著しき特徴といふべきである。
 
(一) Eddington: The Nature of the physical World. P. 63 ff. 參看。
(二) Physica, 219 a.
 

        一七

 ここに時間性の或る程度の克服のあることは否むべくもない。それどころか、客觀的時間の無終極性は昔より廣く、殊に通俗的には一般に、永遠性そのものと看做され時間性の完き克服であるかのやうに考へられた。しかしこれは甚しき誤解である。客觀的時間は生きられる時ではなく觀られる時であり、從つてそこでは主體は舞臺の前面より姿を消すに相違ないが、しかもいはば黒幕に隱れて依然存在を續ける。認識する主體は依然活動する主體、しかも實在する世界の中にあつてそれと交渉を保ちつつ活動する主體である。そこに主體と客觀的時間との關係交渉は成立たねばならぬ。この觀點よりみて、時の無終極性、終りなき果てしなき時、は何を意味するであらうか。それは活動の無意味を意味するのである。存在と存在との果てしなき連續は、存在がいつまでも充實と完成とに達せぬこと、主體の自己實現がいつまでも志を遂げ得ぬことを語る外はないのである。一つの存在より他の存在に移ることによつて主體はいつも同じく存在に出會ふ。しかもその存在はいつも同じく可能的存在に過ぎず、可能性の現實化はいづこにも進歩發展を見ず、いつまでも成就すべくもない。直線的存在は畢竟中心の無き存在である。すでに述べたる如く、客體は主體を中心にもち、それを外へ表はし出すべき任務を遂げることによつてはじめて有意味なるものとして成立つのであるが、ここにはむしろ反對に、實現し表現すべき何の中心も自己もあり得ぬ單なる存在の等質的連續、果てしなき直線的連續があるのみである。
 以上は自然的時間性における根源まで遡ることによつて一層明瞭となるであらう。根源的體驗においては、現在は從つて存在はいつも無くなり行き滅び行く存在である。生ずるものは滅び來るものは去る。いづれも不安定的斷片的缺乏的である。これが時間性の根源的性格である。しかもこの性格が客體面に現はれたものが無終極性である。各の存在は無くなる缺ける落着かぬ存在であるが故に他の存在を要求し、かくて次へ次へとその要求は引繼がれ終極する所がないのである。言ひ換へれば、根源的時間性において有は無と離し難き聯關を保つが故に、客觀的時間において存在は單に他であることによつてのみ區別される次の存在へと移り行くのである。自然的時間性においては、存在は嚴密の意味における非存在によつて境ひされる。有は無と離すべからずに結ばれるが、その無は有の外にある。これは、後に説くであらう如く、克服されたる契機として無を内に含む永遠的現在と異なる時間的可滅的現在の特徴であつて、それによつて現在及び存在はいつも過去及び非存在に取つて替はられるのである。有と無とのかくの如き聯關の客體面に現はれたるものが、有と有との極みなき連續である。すでにしばしば説いた如く、文化的時間從つて客觀的時間においては、現在が一切を含み時は現在に盡きる。そこには非存在や無は嚴密には存在せず、それはむしろ異なる存在異なる有の別名に過ぎぬ。有の外にあつてそれに境ひする無は、ここでは有の外にありそれと外面的に接續する他の有に外ならぬ。本質的に非存在と過去とに落込む存在と現在とは、ここでは本質的に他の存在他の現在へと連らなる存在及び現在となるのである。時間性の根源的性格をなす存在の可滅性・無常性・不安定性・斷片性・不完成性は、かくの如くにして果てしなき連續即ち無終極性として發現を遂げる。無に境ひする有に代へるのに有に連らなる有を以つてする點において、しかしてこれが體驗より觀念への轉向を意味する點において、根源的時間性の或る程度の超越は認められるが、他方においては、その都度の出來事であつた時間性の缺陷を無際限に連續する出來事として恆久化する點において、却つて、その缺陷の引伸ばしともなるであらう。ヘーゲルが無終極性を「惡しき無限性」と呼んだのに傚へば、終りなき果てしなき客觀的時間は「惡しき永遠性」と呼び得るであらうが、時間性の克服であるかの如く見えて實は却つてそれの缺陷の延長である點を思へば、「僞りの永遠性」の名が或は一層當を得たものでもあらうか。
 

    第四章 死

        一八

 死について考へ殊に死の必然性を知り死を覺悟することは人間の貴き特權と考へられる。死の意義ほど自己について深く省察する人にとつて重大なる問題は少いであらう。しかもそれは、客觀的乃至自然的現象としての死が同じく客觀的乃至自然的現象としての生に對していかなる關係に立つか、根本的にいつて、かかる現象としての死ははたして又いかにして必然的事實として承認されるか、などの問題と混同せらるべきでない。假りにかかる必然性が理論的確實性を得たとしても、この意味における必然的事實としての死は、單に理論的に從つて冷靜に認識される客體であるに止まり、吾々が自ら生きる生の意義に對しては、原理的には、沒交渉である。死の事實の客觀的觀察、特に又すべて生きるものは(從つて吾も)死なねばならぬといふ客觀的認識は、死の意義の自覺がすでに或る程度まで明かに存在する處においては、それの確實性を強めるに役立ち得るであらう。さうでない場合には、外部より觀察されたる死の現象が、吾々自らにとつて重大關心事である死といかなる程度において同一であるかさへ明かでない。場合によつては、かかる觀察や認識は死の現象を外面化することによつて、無造作なる早合點の自信や氣安めを促し、かくてむしろ死の内面的理解の妨碍とさへなり得るであらう。プラトン以來ギリシア哲學を風靡し從つて中世及び近世の哲學や宗教思想に深き影響を及ぼした死の觀念――精神(靈魂)の身體よりの分離としてそれを定義しようとする死の觀念――はこのことの顯著なる實例に數へらるべきであらう。
 かくの如き客觀主義の立場に立つてギリシアのエピクロス(Epikouros)は死への關心の愚を證明しようとした(一)。死は畢竟身體と精神とを組成する原子が分離乃至分散することに外ならぬ。兩者の結合が續く間從つて吾々が存在する間は死は來らず、死が來つた時は吾々はもはや無い。生きる者にとつては死は無く、死したる者は自らすでに存在しない。知覺の能力あつてこそ「よし」「あし」も意味があらうが、死はあらゆる知覺の喪失に外ならぬ。云々と。さて、死の本質と意義とが、客觀的に觀察認識される一事實、客觀的實在世界に屬する一現象、であることに主として存し乃至盡きるとしたならば、天變地異に出會ふと同じ意味においては吾々が自らの死に出會ふことのないのはいふまでもない。出會ふことが無いと知りつつ、しかもそれに出會ふことを人生の不幸として忌み又は恐れるならば、これに優る愚はあり得ぬであらう。――しかしながら、かくの如くに死を見るは全く誤つた觀點を取るものである。吾々が死を嫌ひ又は恐れるのは、死と稱する一種の客觀的出來事に出會ふを嫌ひ又は恐れるのではない。むしろ吾々自らが無くなることを、言ひ換へれば、何もの何事にも、從つて客觀的出來事としての死にも、出會はぬやうになることを嫌ひ又は恐れるのである。
 尤も死は直接的體驗の事柄ではない。そのことを示唆する限りにおいてはエピクロスの言は正しい。時間性は直接に體驗される自然的生の構造である。しかしながら、現在がいつも無に歸することと死とは決して同一でない。自然的生においては、主體はその都度の現在に生きつつ、その現在がその都度滅び行くを體驗するのみである。しかるに死は過去より將來を通じて同一なる主體從つてあらゆる時を包括する現在の消滅を意味する。これは文化的時間性の段階においてはじめて可能となる事柄である。主體が文化的生にまで昇り、自己の統一性全體性の觀念が生じてはじめて死は問題となる。自然的生においてはその都度の現在はあるも一切を包括する現在は無い。かかる現在は客體面において又客體間の聯關を通じて自己を表現する主體を俟つてはじめて成立する。
 
(一) Diogenes Laertius, X, 124 seqq. ―― Lucretius Carus: De rerum natura, III, 830 seqq. 參看。
 

        一九

 しかしながら、すでにしばしば論じた如く、文化的意識に對しては嚴密の意味における無は存在しない。それ故、一切を包括する現在に浸つたまま遡つて生の根源を究めるを怠る文化主義にとつては、無と同樣嚴密の意味における死も實はあり得ぬ事柄である。「自由なる人(智者達人)は死を思ふこと何事よりも稀れである、死ではなく生の省察こそかれの智である」といふスピノーザの言は、徹底したる文化意識の心の底からの聲であらう(一)。近時の民俗學は興味ある一事實を明かにした。それは未開の原始民族の間においては死の觀念が極めて稀薄なことである。原始人にとつては生きる者が飽くまでも生きるといふことは自明の事柄であり、生が死をもつて終らねばならぬといふことはむしろ不可解である。特に惠まれた個人ばかりでなく全き種族が生きながらに樂土に移されるといふ思想は決してめづらしくない。死こそ却つて不自然であり特に説明を要する事柄なのである。死の必然性が心に刻み込まれるに至つた後も、彼等は死を生の終極とは考へず、むしろ單に異なつた形における生の延長と考へる。死は彼等にとつては特殊の生き方に過ぎぬ。又その生き方に關する考へ方も生と死との區別を最大限において拭ひ去る如きものである。すなはち、彼等にとつては死者は全體として――一部分としての靈や魂などでなく、同樣の名をもつて呼ばれる場合にも後の思想とは異なつて――全體としての死したる人自らが、生きてゐた時乃至死んだ時そのままの身體そのままの姿で生を續ける。ただ場合によつては――今日もなほ幽靈を信ずる人々の考へる如く――或は影の如く或は煙の如く輕く稀薄となるといふ相違があるのみである。云々(二)。
 さてかくの如きは、自然人又は原始人と呼ばるべき諸民族の單純素朴なる考へ方として根源的體驗の最も忠實なる反映であると無造作に解釋され易い。かかる諸民族の日常意識が自然的と呼ばれる根源的體驗によつて最も深く色附けられたものであり、そこでは文化的意識は未だ力強き徹底的なる發現を見ず、從つて彼等の文化の内容はなほ幼稚低級なる段階に留まつてゐるは疑ふべくもないが、それにも拘らず、彼等はすでに一定の文化を有する文化人である。根源的體驗に關する省察は文化人としての彼等によつて行はれたものであり、從つてその省察及びそれの表現としての解釋の當否は、彼等の一般的日常意識が比較的原始的根源的體驗の色彩を濃厚に示す故をもつて無造作に解決せらるべきではない。すなはち、彼等の死の觀念はむしろ彼等の文化意識より來つたものであり、幼稚にせよ低級にせよ、彼等が文化の段階に立つことを極めて明かに示すのである。生のみを思つて死を思はぬ點においては、彼等は近世の大思想家スピノーザと全く同じ立場に立つのである。ただ後者が文化主義を深き自己省察をもつて思想的に徹底せしめたとは異なつて、彼等は單純に無邪氣にその同じ立場に生きてゐるの相違があるのみである。文化的生においては、有のみあつて無がない如く、又時間性の觀點よりいへば現在が過去をも將來をも併呑する如く、生のみあつて死はないのである。從つて死の存在と意義とに或る程度まで目覺めた場合には、死は實は生の一種の形に過ぎぬこととなる。死をもつて魂と身體との分離となす思想は、アニミズムの影響の下に立つたローデ(Rohde)が考へたやうに(三)、一方原始民族と他方プラトンとを繋ぐ共通の點であるのでなく――雲泥といつてもなほ言葉の足らぬほどの思想上の隔り、殊に比較を絶する後者の自己省察の深さは今は考慮に入れぬとしても――むしろ單に死の本質に關する思想においてさへ、兩者の間に可なり大なる不一致が存在することは近時の研究によつて明かにされたことであるに相違ないが(四)、それにも拘らず、死を生の一形態と看做す點においては兩者は全く一致する。しかしてその一致點は文化主義そのものの必然的發露に外ならぬ。現在に耽溺して足元の地盤が絶えず動搖し絶えず非存在へと消え行くに氣附かぬ文化人は、死の實相を正面より見詰めるを怠つて乃至嫌つて、死を生の一形態と見る幻覺に知的乃至情的滿足を貪る。あらゆる時代あらゆる民族あらゆる社會層あらゆる文化類型を通じて、この思想が多種多樣の形態において――例へば、或は靈魂の不死性乃至は輪※ の思想として、或は賞罰の觀念と結び附きつつ、或は解脱救濟の一契機をなしつつ、或は單純素朴なる信念として、或は巧緻深遠なる思辨として――實に汎人類的にあまねく弘まり行渡つてゐる事實は、それが人間性の本質にいかに深く根ざしてゐるかを語るであらう。惜しいかな、かかる思想は、支へる胴體も養ふ臟腑もなしにただ頭惱だけとして生存しようとする人間にも比ぶべき、甚しき誤謬であり、場合によつては、自己欺瞞でさへあるのである。
 
(一) Ethica, IV, 67.
(二) 次の諸書參看。〔Ankermann: Die Religion der Natur-vo:lker (Bertholet-Lehmann: Lehrbuch der Religionsgeschichte. Bd. I) ――Preuss: Tod und Unsterblichkeit im Glauben der Naturvo:lker (1930) . ――〕 Walter Otto: Die Manen (1923) . この最後の書は歴史前時代のギリシア人の死者の觀念に關して Rohde の解釋に修正を加へた功績を有する。なほ 〔Le'vy-Bruhl: Les fonctions mentals dans les socie'te's infe'xieurs. P. 416 (Engl. Tr. P. 353)〕 參看。
(三) Erwin Rohde: Psyche.
(四) W. Otto: Die Manen. 參看。
 

        二〇

 要するに、死に對する關心もそれの理解も否それの觀念そのものさへも、文化の段階に昇ることによつてはじめて可能にされる事柄ではあるが、しかもそこに留まつただけでは死の實相は到底捉へ難い。嚴密にいへば、文化の世界には生のみあつて死は無いのである。かくて吾々は事柄の更に深き根源に考察を向け、文化的生の基體である自然的生へ時間性の根源的體驗へと遡るべく促される。死は直接的體驗の事柄ではないが、それにも拘らず、時間性の直接的體驗にまで自己省察を向けることによつて、はじめて自らの意味をもつ特異の獨立の事柄として成立ち又理解されるのである。
 死は自然的時間性、時の不可逆性、の徹底化である。主體のその都度の現在だけではなく、全き現在の即ち生の全體の壞滅、無への沒入が死である。統一的全體的主體にとつて存在の維持者である實在的他者との交渉が斷たれ、從つて根源的意義における將來が無くなることが死である。對手を失つた主體、將來の無き生、これが死である。吾々はすでに、根源的時間性において現在が過去へと存在を失ひつつ、しかも將來より補給されるを見た。絶えず非存在へと過ぎ去りつつしかもなほ現在が成立つのは、將來があり他者との交渉があるからである。存在の補給路が全く斷たれたる現在、全く孤獨に陷つた主體、去るあるのみ待つもの來るものの全く無くなつた生は滅びる外はない。主體のかくの如き全面的徹底的壞滅こそ死である。
 かくの如き本質を有する死は、すでに述べた如く、もとより直接的體驗の事柄ではない。それは全體としての自己を理解しようとする主體が、自己の存在の本質的性格として感得する事柄である。吾々が生きる限り死には出會はぬゆゑ、死はいつも可能性としてのみ存在する。しかもそれが主體の自己實現の一契機として主體の自由に基づく可能性ではなく、實在的他者との關係交渉に根源を有する可能性である點に、それの本質的特徴は存する。時間性はすでに主體自らの好むと好まぬとに關はりなくそれの存在を支配する必然的運命的現象であつた。時間性の徹底化である死においては、この必然的運命性も亦徹底的となる。それは主體の最深最奧の本質に喰込み、それの全き存在と自己とを徹底的に破壞するいかにするも遁がれ難き運命の意義を擔ひつつ、主體の本質的性格を形作る可能性として傾向として與へられるが故に、理解する外なき事柄覺悟する外なき運命である。又かくの如きものであるが故に、或は理論的に又は實踐的に、或は解釋により又は行爲により、囘避し得る事柄であるかの如き態度を取る餘地は殘されてゐる。死は時間性の徹底化として根源的體驗に根ざしながら、文化的生まで昇つてはじめて成立つ事柄である點に、必然性と可能性とを一に合するそれの複雜難解なる本質は存するのである。しかしながら一たび根源的體驗まで遡つてそれの實相を見究め得たならば、それは單純に容易に人間性の最も意味深き最も本質的なる性格として理解されるであらう。人間の存在は死への存在である。現在を樂しみつつ生の甘き夢に耽る人間主義の人間に覺醒を促しつつ、わが正體わが眞の現實を知らしめるのが死の意義である。人間性に醉ふ人間にとつては無も有の一種に過ぎなかつた。かれに有は無に打勝ち得ぬこと、存在は非存在において超え難き限界に達すること、を教へて生の嚴肅なる實相に目覺めしめるものは、「死を忘るな」の自戒の言葉である。スピノーザの智者は生のみを思つたが、眞の智者は生と共に必ず死を思ふであらう。
 以上の如く文化的主體が自然的生の主體を自己の根源として理解する處に死の意義は開示される。それ故、すでにしばしば、或は客觀的實在世界の認識並びに主體の自己認識に關して、或は文化的時間性に關して、それらの成立の根據として明かにされた、反省の主體と體驗のそれとの同一性、先驗的同一性、はここに死の觀念に關しても、理解の基本的制約をなすことが明かであらう。しかもここではその同一性は最も徹底的なる形において承認を要求する。自然的生及びそれの自己主張が人間的生のあらゆる形態あらゆる現象の基體乃至根源であることは、他の場合にも勿論看取される事柄であるが、ここにおいてほど痛切に強烈に自覺を促しつつ生の中心に迫り來る處はないであらう。
 死は時間性の徹底化である。從つて時間性の克服は死のそれにおいてはじめて完きを得、逆に又死の克服は時間性のそれによつてはじめて成就される。ここよりして次の事どもが歸結される。第一。時間性及びそれに基づくこの世の苦惱はややもすれば死そのものによつて克服されるが如く思はれ易い。死をもつて生の一種の形とする思想がいかに根強く人心を支配しをるかを思へば、この考へ方感じ方が通俗的に揮ふ勢力は首肯かれる。しかしながらそれが全く錯覺に過ぎぬことは上の論述によつてすでに明かにされた。尤もその思想の一理あるは許容すべきであらう。死は他者よりの離脱として主體にとつてはたしかにこの世を去るを意味する。死は或る意味においてはたしかに時間性及びこの世の苦惱よりの解脱である。ただ惜しむべきはその解脱は同時に解脱する筈の主體の壞滅を意味することである。世の惱みは主體の自己主張の抑壓否定に基づくとすれば、死は却つてこの世の惱みの徹底化といふべきである。ここより觀れば、世の惱みこそむしろ死の前兆又は先驅と解すべきであらう。
 第二。吾々は時間性の克服である永遠性は同時に死の克服でなければならぬこと、又死の克服は永遠としてのみ成就されることを知る。生の繼續に過ぎぬ不死性の觀念が、永遠性の又從つて死の克服の要求に副はぬことは、すでにここよりしても明かである。永遠性の正しき理解を求むべき方向もすでにここに指し示されてゐる。主體の現在が將來を失ふことが死であるならば、永遠は過去が無く將來のみある現在である。それと聯關して、死は他者よりの完き離脱であるに反し、永遠は他者との生の完全なる共同でなければならぬ。孤獨は死を意味し、永遠は愛としてのみ成立つのである。
 

    第五章 不死性と無終極性

        二一

 時間性そのものの範圍において、すでにそれの或る程度の克服が行はれることは、吾々がしばしば説いた所である。すべての時間性の根であり源である自然的時間性は文化的時間性において變貌を遂げるが、その變貌は修正を意味したのである。文化的生の時間的性格は現在に存する。それの支配の及ぶ限り有と存在とあるのみである。根源的體驗においては存在の墓であつた過去はここでは却つて存在の母胎となる。この時間性の世界に屬する限り何ものも滅びることを知らぬ。主體は現在を樂しみ將來を望みつつ自己の實現に生きる。
 しかしながら、この活動と享樂と希望との美しき世界も根柢においては實は砂上に築かれたる玩具普請に過ぎぬ。一切を擔ひ支へる筈の現在は絶えず壞滅の中に葬り去られる。又それは將來に、從つて他者に、依存する存在である。時間性のこの性格の徹底化こそ死である。死の運命性において、必然性乃至強制性を兼ねたるそれの可能性において、人間性の深刻なる悲劇は存する。時間性の克服は死のそれでなければならぬ。永遠性は不死性として成立たねばならぬ。
 「不死性」(Unsterblichkeit)はプラトン以來「靈魂」の不死性乃至不滅性として知られてゐる。しかるにこの觀念は、古き榮えある傳統にも拘らず、甚しく意義の明瞭を缺き、殆ど學問的使用に耐へぬ嫌ひがある。これは一つには、「靈魂」も「不死性」もともにすでに原始民族の間にも存する通俗的觀念であり、學問的論究乃至原理的省察の立場に取上げられた後においても、學者や思想家の立場の相違以外なほ通俗的意義の影響によつて極めて複雜不鮮明なる事態が釀し出されたにも由るが、他方又特に、時間性の理解を可能ならしめる研究態度に關する根本的自覺の不足乃至はその理解そのものの薄弱さに由る所が少くない。古來多くの偉大なる哲學者たちが好んで取扱つた題目でありながら、靈魂不死説ほど説得力に乏しき教説は他に稀れであらう。試みに歴史上最も代表的意義をもつた二三について見よう。プラトンの「パイドン」(〔Phaido_n〕)を繙くならば、論述の目的が靈魂不死説の證明に存するに拘らず、この證明は、プラトン自ら告白を惜まなかつた如く、理論的に甚だ薄弱であり、それの意義と價値とはむしろ材料又は論據として繰出されてゐる諸教説殊にイデアの説に存するに人は驚くであらう。メンデルスゾーン(Mendelssohn)の同名の著書は、名聲の高かつたにも似ず、又外形上は輪郭や登場人物をプラトンより借り來つたに拘らず、啓蒙時代の流行思想を内容とする飜案的乃至模倣的作品に過ぎず、それの存在の意義は哲學的よりはむしろ文學的のものであつた。メンデルスゾーンによつて「一切の粉碎者」と命名され、又かれによつて代表された當時流行の靈魂不死説を事實粉碎した、カントがそれに代へて「實踐理性の要請」の名のもとに提案した新しき靈魂の不死性の證明について見るも、強き深き信念や世界觀を背景として持つてゐるにも拘らず、證明そのものは甚しく粗笨である。「純粹理性批判」において「靈魂」(Seele)の形而上學的概念を粉碎し又眞の實在者の超時間性を力強く主張したその同じ人が、靈魂の無終極的――從つて勿論時間的――存續を「要請」(Postulat)の名のもとに、即ちかれ自らの説明によれば、根據は實踐的法則に存するもそれ自らは依然理論的なる命題として、よくもかく無造作に説き得たと、人は驚かずにはゐられぬであらう。
 死そのものがすでに客觀的認識の對象として取扱ひ得ぬ事柄である以上、不死性も亦自己理解においてはじめて開示される事柄、信念としてのみ成立つ事柄である。これを理論的に根據づけ得るが如く取扱ふのは、すでに研究の發足において態度を誤つてゐる。吾々の研究はその自己理解その信念そのものを、なし得べくは、生におけるそれの源まで遡つて究め、かくてそれの眞の姿を明かにすることによつて、またそれの正しき理解を得るを目的とせねばならぬ。吾々は勿論批判を試みるであらう。しかしながら、その批判は理解としてのそれ、言ひ換へれば、事柄そのものより、即ちこの場合不死性そのものの本質より、それの本來志向する所意味する所より、する批判でなければならぬであらう。

        二二

「靈」及び「魂ひ」乃至それらに該當する語は、通俗的には今日まで多くの場合死と聯關して用ゐられる(一)。原始民族の間に行はれる思想によれば、人間の死後なほ生殘るものは人間そのものであつて人間の一部分ではないことは、すでに述べた如くである。それは死骸そのものであるか、或は死骸の傍ら別の存在を保ちつつしかも結局何等かの意味において死骸と同一なるその人自身である(二)。死骸と區別されるやうになつても――これは火葬の場合特に明かに行はれることであるが――靈又は魂ひはいつも全きその人である。今最も豐かなる將來によつて惠まれ殆ど典型的發展を遂げたギリシア人について觀れば、ホメロスの詩に「プシュケー」(〔Psukhe_〕)と呼ばれ居るものは、かくの如き靈又は魂ひなのである。これは死者その人であつて、生前かれの一部分をなした何ものかが離れ出たといふが如きものではない。人間が生きてゐる間生命を司るいはば生命力ともいふべきものがなほその外にある。ホメロスではこれは「テュモス」(thumos)と呼ばれてゐるが、一般に血液又は呼吸と結び附けられ乃至同一と考へられる。これは死と共に消え失せ乃至いづこへか去つて、もはやその人とは從つて靈魂とも無關係である。魂ひをして生前の生に關與せしめぬことが原始的思想の特徴である。かかる立場においては、現に生きてゐる生の主體が、自らの死について乃至死後の運命について深き内面的省察をなすは縁近きことである。死は客觀的出來事として取扱はれる。尤もこの客觀的出來事はわが身にも振りかかつて來る故、死後の存在は生者の關心を呼ぶであらう。死後の國の王であるよりは貧しき人の地を耕す賤の男でありたい(三)、と叫んだアキレスの如く、死後の存在に、たとひ消極的意義においてにせよ、思ひを向けることは常に行はれる事であらう。しかしながら、自己の運命よりも、むしろ專ら他の人々との關係、言ひ換へれば、殘つた人々の吉凶禍福に及ぼす影響の觀點よりして死後の存在は考察される。生者にとつては自己の死後の運命よりも、死者即ち他の者の魂ひに對して自己の取るべき態度が問題なのである。さて魂ひが生者の生と結び附き生の力生の原理といふ意義を持つに至つたのは、多分イオニアの哲學者においてであらう。これは畢竟ホメロスの「テュモス」を學問の立場より「プシュケー」と呼び替へただけに過ぎぬやうではあるが、死後の存在を呼ぶ名が生を司るものに與へられるに至つたことは、思想史上意義深き出來事である。ソクラテスにおいて、魂ひの司る生が、智慧や眞理や善惡や正不正などを主なる内容乃至關心事とするものとなつたのは、更に一段の進歩である。すなはち魂ひは文化的生の主體を意味するに至つたのである。しかしながら、文化意識の發揚をわが天職と信じた彼が死後の運命について多くを語らず多く心を勞しなかつたことも、文化的時間性の本質を思へば、當然といふべきであらう。ここに必要なる最後の一歩を踏出したのは周知の如くプラトンであるが、かれをそこまで進み得しめたものはオルフィク教の影響であつた。この宗教團體においては自己の死後の運命が關心の中心に置かれた。ここに至るまでの徑路は決して簡單ではなかつたであらうし、又研究上決して容易なる課題ではないであらうが、その發展の重要なる契機としては、死後の生の主體と生前の生の主體との同一性の觀念の成立が、特に擧げらるべきであらう。これは一時學界を風靡したアニミズムが、又それに從つてローデが、原始人共通の觀念として説いた「魂ひ」(プシュケー)の觀念に當るものである。この場合生者の魂ひは單に死者の魂ひの後方への延長に過ぎぬ觀があり、殊にオルフィク教においては、魂ひは生れる前すでに天上に存在した神的存在者が人間の身體に假りの宿りを求めたものに過ぎぬ故、關心の中心に立つたのは、今現に生きてゐる人間的主體の運命といふよりは、むしろ死後はじめて自己本來の天地に到着乃至歸還するであらう外來的寄留者、場合によつては、現實の生と沒交渉なる一種の神話的存在者としての魂ひの運命に外ならなかつた。プラトンがかかる思想の影響を受けながらなほ哲學の傳統の上に立ち、關心を今現に生きる生殊に文化的生の主體としての魂ひに集中したことは意味深き出來事である。そのことによつて、今現に生きる人間的主體が自己の運命としての靈魂の不死性に對して抱く關心は可能にせられ、又哲學的理解の事柄となり得たのである。しかしながらオルフィク教の影響は、文化的生の偏重を意味するかれ自らの觀念主義と相俟つて、魂ひと身體とをあまりに相隔たらしめ、その事の歸結として、死及び死後の生を、全き人間ではなく單に一部分に過ぎぬ魂ひにのみ關する事柄にをはらしめた。死を主として客觀的世界の出來事と看做す原始人以來の客觀主義は、死を魂ひと身體との分離として理解せしめることにより、この傾向を助長した。プラトン以後魂ひは極めて豐富なる理解の歴史を經たが、それの基本的意義は大體かれに至るまでの發展において盡されて居り、多くの場合、殊に學問的考察においては、それは殆ど「心」又は「精神」の同義語として用ゐられる。すなはち、それは一方死者であるとともに他方生を司る力乃至生の主體であり、しかしてかくの如く生との聯關において見られる時、それは人間の最も肝要なる部分をなすに相違ないが、全き人間を意味せぬことがそれの本質的特徴である。この特徴は、語義の複雜曖昧によつてすでに惹起された、それの學問的用語としての價値に對する疑念を、更に深める。吾々の論究の題目は、人間主體がいかにして時間性を又死を克服し永遠性を體得するかである。所謂靈魂の不死性はこの問題と聯關し乃至それによつて包括される限りにおいてのみ考慮に値ひするに過ぎぬであらう。かかる事情の下においては、吾々は古きたふとげなる傳統には敬意を表しつつも、この觀念この名稱をむしろ哲學的原理的論究より遠ざけるに如くはないであらう。
 原始民族の間において死に關心が向けられる限りそれは存在の・生の・特殊の形態を意味したことはすでに述べた。不死性の觀念はここに胚芽としてはすでに存在するが、未だ明かに成熟したる形において現はれてゐない。死後存續する靈も場合によつては、例へば生存者の祭祀の絶えた時などは、いつしか消え失せることは可能である。死の根源である時間性の原理的克服が、何等かの形においてすでに存在する處にのみ、不死性の觀念は有意味に成立つのである。そのことは客觀的時間性においてすでに見られる。これは文化的時間性の一變種ではあるが、文化的生本來の性格をなす活動において主體性が特殊の形象乃至領域として客體面に顯はになつてゐるのと異なつて、ここでは、成功不成功は別として、すでに原理的に主體よりの離脱の試みがなされてゐる。そのことの歸結として、時は無際限の延長を見、かくて「無終極性」が時間性の性格として成立つてゐる。永遠性を意味する不死性は先づ差し當りこの形を取らねばならぬであらう。果せるかな、これはプラトン以來カントに至るまで歴史の主流として不死性の觀念が事實上取つた形なのである。
 
(一) 一九節註二に引用された諸書及び次の諸書參看。Er. Rohde: Psyche. ―― J. Burnet: The socratic Doctrine of the Soul. (Essays and Addresses, P. 126 ff)
(二) 何らかの聯關を有するものを直ちに同一と考へることは原始民族の精神構造の特徴である。〔Le'vy-Bruhl〕 はこれを明かにした功績を有する。尤も氏がそれを 〔mentalite' pre'logique〕 と呼んだのは、氏自らの主張とはむしろ正反對に、却つて氏がヨーロッパ人式考へ方に囚はれてゐるを示す。現代文化人とは甚しく異なつた、場合によつては正反對なる考へ方をするといふことは、それが論理前であるといふこととは決して同じでない。少しく強く言ひ表はせば、これはヘーゲル派の人々がアリストテレスやカントの論理を 〔mentalite' pre'logique〕 と呼ぶであらう場合と似てゐるのである。
(三) Od. XI, 489.
 

        二三

「時」に始め及び終りがあるかなきかについて、すでにデモクリトス(〔De_mokritos〕)やプラトンの昔考察が向けられたことは、アリストテレスの記述よりして察せられる(一)。すでにそれらの兩思想家においてもさうであつたやうに、この問題は多くの場合世界乃至それの内容に關する宇宙論的自然哲學的考察に聯關して取扱はれる。創造と終末とによつて世界の存在が兩方面より限局されるといふ宗教思想を抱いたアウグスティヌスやトマス・アクィナスその他ヨーロッパ中世の思想家達が、同じ觀點を取つたのはもとより然るべき事である。カントの第一アンティノミー(二律背反)も間接にはこの問題に觸れてゐるが、但しこれも世界の始めと終りとに關する宇宙論的問題に聯關してである。尤も「空虚なる時」(die leere Zeit)といふ觀念は論理的抽象の産物に過ぎず、時は本質上何等かの存在何等かの内容の構造・秩序又は形相としてのみ現實には存在する故、歴史的傳統の示す上記の如き態度もあながち理由なきことではない。ただ吾々は時そのものの本質それの實相を、根源的體驗にまで遡つて究めることを忘れてはならぬ。かくすることによつて吾々は時そのものの本質とは沒交渉なる他方面の學説や思想によつて理解を晦まされ妨げられるを免かれるであらう。多くの人々の如く、客觀的時間そのものを殆ど問題とするに及ばぬ自明の事柄であるかのやうに前提し、ただそれの始めや終りの有り無しについて論ずるは、全く方法を誤つたものといはねばならぬ。言ひ換へれば、吾々は主體及びそれの根源的の生き方と聯關させつつ、先づ時を生き方として時間性として理解し、更に時及び時間性において根源的なるものを究めることによつて、それの諸層諸段階を區別しつつ明かにするを力めねばならぬ。アウグスティヌスとベルグソンとは、すでに前に述べた如く、この正しき方向へ吾々を導いた尊敬すべき先達である。尤も道そのものはもとより吾々自ら開き歩み進まねばならぬ。
 吾々自らの答はさきに客觀的時間性について論じた所によつてすでに與へられてゐる。吾々は無終極性を客觀的實在世界の時間的性格となすものである。尤もこれは、カントが恐れたやうに、無際限に延長する時に絶對性を許すのではない。生が更に新たなる乃至一層高き段階に進み得るならば、即ち立入つていへば、永遠性が生の眞中に現はれるならば、時間性從つて時の無終極性はそのことによつて制限と克服とを見るであらう。ただ自然的生を基體としその上に築かれる文化的人間的生の續く限り及ぶ限り、時の無終極性は效力を有するのである。
 さて、無終極性が時間性の克服ではなく、むしろ根源的時間性の本質的性格をなす可滅性斷片性等の延長に外ならぬことは、すでに力説した所である。不死性の觀念の基礎をなすものが、吾々が「惡しき永遠性」乃至「僞りの永遠性」と呼んだこの無終極性である以上、その觀念が基礎を失つて崩壞を免れぬは見易き歸結である。それ故無終極性としての不死性は時間性の克服ではなく從つて死の克服でもない。それは自己の源と基ゐとを忘れた文化的主體の陷り勝ちな幻覺に過ぎないのである。根源的時間性の克服されぬ限り死の克服も亦不可能である。然らばその幻覺はいづこより來るか。死の理解を誤るより來る。死が時間性の徹底化として壞滅であり無への沒入であるを解せぬより來る。言ひ換へれば、死を客觀的實在世界の事件として客觀的にのみ觀るより來る。時が客觀的時間性に等しいならば、すでに述べた如く、そこでは存在と存在との、現在と現在との、連續があるのみ。死は一つの存在より他の存在への移動を意味する外はない。更に立入つて何であるかに關はりなく、それは本質上存在の變形に過ぎぬであらう。それ故死に出會ふであらう主體は死そのものよりは存在の壞滅を恐れるを要せぬであらう。若しこれを恐れる必要があるとすれば、それは他の事情他の理由に由らねばならぬであらう。それ故、永遠性と不死性とを求め又は信ずるものにとつては、かくの如き事情や理由の存在せぬこと、乃至は積極的に、生を無終極的に繼續せしめる事情や理由の存在すること、が切なる關心の事柄となるであらう。
 
(一) Physica, 251 b.
 

        二四

 ここよりして吾々はプラトン以來の古き長き歴史を有する所謂靈魂不死性の論證の意義を理解する新しき手蔓を得るであらう。それらの論證は、純理論的觀點よりみれば、極めて薄弱なる論據及び推理の上に立つてゐるであらうが、背後にあつてそれを支持しそれに生命を與へる思想や信念は、生の源より發したものであり且つそれぞれ典型的意義を有する。それらのうち最も有力なる又最も代表的なる二つを吾々は今試みに「存在論的」(或は本體論的 ontologisch)及び「目的論的」(teleologisch)と名づけよう。存在論的論證は、靈魂正しくいへば主體そのものの眞の存在・本質的性格より出發し、それと他者との關係交渉を原則としては考慮に入れぬものである。これと異なつて目的論的論證は世界のうちにあり又生きる主體、即ち他者との關係交渉において立つ主體を考察の對象とする。
 古代はプラトン及びプロティノスより、中世はトマス・アクィナス、近世はライプニッツやメンデルスゾーンに及んで、最も廣く行はれた姿においては、存在論的論證は主體の單純性を論據とする。物體が空間的存在を保つものとして複合的であり互に外面的に境を接する存在者より成立つのに反して、靈魂は單純であり從つてむしろ複合的なるものに統一を與へるものである故、組成する要素に分解されず從つて壞滅することがない、といふのがそれの論旨である。今局部及び全體の理論的價値を眼中に置かずただ遡つてこの思想の根源を尋ねてみれば、それは客體に對する主體の單純性即ち自己性に求むべきである。主體の自己性はすべての客體的存在者に意味と聯關とを與へるものとしてそれ自らは單純であり、之に反して客體は他者の位置に立ち他者性從つて差異性・數多性を含むものとして複合的である。今假りに、客體の意味聯關に斷絶を命じつつ新たなる内容と從つて新たなる聯關とを與へるであらう他者、更に遡れば、一般的に客體性及び客體的他者性の源である他者、即ち實在的他者との關係交渉を離れて主體を純粹なる自己性において遊離させることが可能であるとするならば、そこには自己性、從つて存在、時間的性格として言ひ換へれば現在、以外の何ものもないであらう。文化的時間性がかくの如き目的地を志すことはすでにしばしば論じた所である。しかるに同じくすでにしばしば論じたやうに、他者性より遊離したる自己性は人間的生のいづこにも成立ち得ないのである。文化的生は他者における、客體及び客體的聯關における自己實現であり、しかもそれは更に自然的生の基礎の上に立つ。然るに自然的生の主體、一切の生を擔ふ最も根源的意義における主體は、實在的他者との關係交渉においてのみ存在する。若し主體がそれ本來の自己主張自己の存在の主張を徹底的に貫徹し得たならば、言ひ換へれば、純粹の自己性において單純性において成立ち得たならば、それの壞滅はあり得ぬことであり、存在論的論證の目指す所志す所は達成されるであらう。しかしながらそのことは全くの空想全くの幻覺に過ぎないであらう。一切の生の源であり基ゐである自然的生は本質的性格として時間性可滅性を示す。文化的生が本來志す所はこの時間性可滅性の克服であり、又そこに或る程度その方向への前進は見られるに相違ないが、目的地の到達は本質的に不可能である。そのことは主體の單純性が不可能であるに基づく。主體が存在の主張を貫徹し得るか否かは畢竟他者との關係が決定する。
 
(一) 〔Platon: Phaidon. 78. ―― Plotinos: Enneades. IV, 7. ―― Thomas Aquinas: Contra Gentiles. II, 55. ―― Leibniz: Monadologie. ―― Mendelssohn: Pha:don. Zweites Gespra:ch. (Gesammte Schriften. Jubila:umsausg. III, S. 78 ff.)〕
 

        二五

 目的論的論證は存在論的論證と異なつて主體と他者との關係より出發する。その際問題となる主體はもとより同樣に文化的主體であるが、存在論的論證がそれを自己性の純粹なる姿において一切を支配する單純なる力として取扱ひ、他者を考慮に入れる場合にも、それを主體の完成されたる純粹なる表現として從つて他者性を自己性に對してはあるとも無きに等しきものと看做す態度を取つたのと異なつて、この論證は他者を眞面目に考慮に入れる。他者は先づ客體であり、更にそれを實在的他者に歸屬せしめることによつて成立つ客觀的實在世界である。簡單にいへば、主體はここでは世界内存在において考察される。かくの如き觀點よりみられたる主體は他者において自己を實現する働きの中心乃至出發點である。すでに述べた如く活動こそそれの基本的性格である。文化的生をこの性格において把握するを特徴とする近世哲學において、特にこの論證乃至それの原動力をなす信念が顯著なる進出を遂げたのは謂はれあることである。明かにそれと言ひ表はされたる思想乃至論證の形においては吾々はそれを啓蒙時代の思想家達、カント、レッシング、ロッツェ等において見るが、氣分乃至感情としてあこがれ乃至信念としてはそれは文藝復興期以來到る處に躍動してゐる(一)。後の世に語り繼ぐべき朽ちぬ名を立てるといふが如き最も通俗的なる汎人類的なる信念よりして、カントの「理性」フィヒテの「自我」ヘーゲルの「精神」などの諸思想に至るまで、文化的主體の價値と優越性と威力とが感ぜられ認められ信ぜられる處には、目的論的論證は、胚芽としてなりとも、すでに存するといふべきである。
 かかる思想の多種多樣の諸形態を歴史の觀點よりして殊に類型論的に取扱ふは興味深き事柄ではあるが、もとより吾々の任務より遠ざかる。吾々の任務はここではそれらの根柢にあつてそれらをして不死性乃至無終極的存在の觀念への方向を取らしめる基本的思想を、生の根源的性格よりして理解し批判するに存せねばならぬ。さて、目的論的論證は文化的主體の基本的性格である自己實現及び活動より出發し、それの完成、即ち主體の終極目的の實現、のために必要なる制約として生の無終極性を推論する。完成は或は完全性(Vollkommenheit)或は最高善(〔Das ho:chste Gut〕)或は幸福などとして表象される。これらはそれぞれの特異性を有し、例へばカントの道徳の無制約的價値に基づく最高善の思想と、殆ど時を同くして啓蒙時代を風靡した幸福乃至完全性の思想との間には少からぬ隔りは存するが、根本の點においてはそれらはすべて一致する。活動の種類もここでは問題をなさぬ。觀想もここでは活動としての性格においてのみ考慮に入れられる。當爲 Sollen を内容とする活動もここでは主體の自己主張であり、從つて主體の事實上の性格をなす意志作用に外ならぬ。カントの思想はここに興味深き事態を示してゐる。かれが文化的主體――「理性」――の終極目的と考へた「最高善」は、一方道徳律をそれの制約として内に包含する點よりして最高の Sollen でありながら、他方また實踐的理性の全體的對象としてむしろ Wollen に屬せねばならぬ(二)。カントは最高善の基礎をなす自由の觀念については Sollen と Wollen との同一性をそれと言明さへしてゐる(三)。すなはち感性――吾々の用語をもつてすれば、自然的主體――に對しては Sollen であるものも理性――文化的主體――にとつては Wollen であると。要するに種類如何を問はず活動が文化的主體の自己實現といふ性格を擔ふ以上、それは主體そのもの、自己の存在の貫徹へと邁進する根源的生そのものの發現として、自己の完成へと努力するは當然である。しかるにこの努力が成功を見るか否かは、主體そのものにではなく、むしろそれと他者との關係に依屬するのである。他者は可能者として質料として主體の活動及び自己實現を可能ならしめるが、又同時にそれに妨碍を與へる。自然的生においては勿論さうであつたやうに、文化的生においても他者性は消滅することなき必然的契機である。目的論的信念はこの事態をさまざまの形及び程度において考慮に入れつつ、しかも活動の完成主體の終極目的の達成がそれの無終極的存在の制約の下に行はれ得るを主張するものである。この主張ははたして正しいであらうか。
 自然的生においての如く文化的生においても他者性は時の流動の源である。若し他者性が完全に自己性によつて同化され完全に自己實現の從順なる具と化し得たならば、純粹なる現在のみ殘り將來も過去も姿を消すであらう。これは活動の靜止に歸したる状態に外ならず、かくてここに時間性は完全に克服し盡されるであらう。しかしながらかくの如き事態は決して現實とはなり得ないのである。文化的生の成立は他者性の存在を制約とする。しかも他者性の存在する限り、それより發する妨碍や壓迫は跡を絶たぬであらう。このことは自然的生においては現在の過去へ無への絶え間なき沒入を意味した。かくの如き基礎の上に築かれればこそ文化的時間も流動を示すのである。そこでは現在は過去及び將來を内部的契機として包容し、從つて主體性の基本的性格としての活動は、現在において又現在を通じての過去と將來との聯關として成立つが、しかもこの聯關は中心の移動する過程として絶えず繰返へされねばならぬ。この繰返へしが文化的主體によつて體驗されるばかりでなく、客觀的實在世界の形相乃至秩序として固定されたものが客觀的時間である。それは移動する現在の等質的連續を本質とする。この連續は終極する所なく、從つて無終極性は客觀的時間の本質的性格をなす。さて目的論的論證はいかなる現在も絶えず移動しいかなる活動もいつも不完成にをはるを知らぬものではない。さればこそそれは個々の現在個々の活動の缺陷を、それらの極みなき連續によつて填補しようとし又しかなし得ると信ずるのである。すなはち無終極性はここでは時間性の克服者の資格において、主體性の最も本質的性格である自己主張自己實現に、それの重要なる一契機をなしつつ、協力する。眞に又完く生きるとはここでは極みなく生きるを意味するのである。
 しかしながら無終極性は決して時間性の克服ではなく、却つてむしろ時間性そのものの本質より來る缺陷の延長擴大に過ぎぬことは、すでにしばしばあらゆる觀點より論じ盡された所である。無終極性の意味における不死や永遠的生は生の完成どころか却つて未完成の連續不完成の徹底化なのである。假りに完成が可能とすれば存在の極みなき繼續はむしろ無用となるであらう。生そのもの活動そのものの本質に、完成を許さぬ何ものかが蟠まつてをればこそ、無終極の延長が必要となるのである。その本質的缺陷はいづこより來るか。他者との關係より來る。さて生きるとはいつも他者と生きることである。しかしてあらゆる生の基ゐでありあらゆる時間性の源である自然的生においては他者との交りは直接性において行はれる。前後左右を顧ることなしにまつしぐらに彼方へ突進する主體は、等しくこなたへ突進する實在的他者に行き當る。生はここでは直接に單純に自己主張である。しかもかくの如き盲目的自己主張は事志と違つて却つて自己の崩壞にをはらぬを得ぬであらう。時間性の惱みは、すでにしばしば説いた如く、實にここに淵源する。文化的生において直接に他者として交るは客體であり、客體はそれ自らにおいて實在的中心を有せぬ觀念的存在者として主體にとつては可能的自己の位置に立つ故、その限りにおいては他者の壓迫侵害は解除され、その限りにおいては時間性の惱みは緩和を見るに相違ないが、しかもここでも他者の完全なる消滅は主體にとつては同じく自己の消滅を意味する故、主體の自己實現を可能ならしめるものはここでもむしろ同時に妨碍者なのである。このことは自然的生においてと同じであり、そこに根源を求むべきである。それ故他者との交りが何等かの變革を見、主體が他者の壓迫侵害より解放されるのでなければ、時間性の克服は望み難いであらう。
 
(一) 〔Mendelssohn: Pha:don. Drittes Gespra:ch. ―― Kant: Kritik der praktischen Vernunft. Ak-ausg. S. 122 ff. ―― Lessing: Erziehung des Menschengeschlechts. ―― Lotze: Mikrokosmus.3  Bd. III. S. 74 ff.〕 これらの思想家達は興味ある共通點と相違點とを示す。今後の二者についてみるに、死後の生が現在の生と聯關を有し從つて死者と生者とが共通の生を生きることを説き、主體がそれの目的の完成を自ら體驗すべきであるといふ要請にその思想を基づけた點は、兩者一致するが、レッシングが輪※ の思想の復活を計つたのに反して、ロッツェはこの世とかの世との聯關だけで滿足してゐる。ともに或る意味において原始人の思想に復歸した點も興味ある事實である。
(二) Kritik der praktischen Vernunft. S. 109 f.
(三) この點に關しては「宗教哲學」二〇節一一一頁以下參看。――Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. S. 449; S. 455.
 

        二六

 かくの如き變革は他者も主體も根本的に新たなる性格を發揮することによつて齎される。しかるに自然的生が飽くまでも主體の基本的性格をなす現實的世俗的生においては、主體そのものが自發的に他者との關係を根本的に刷新することはあり得ぬ故、事の正否は一に他者に懸かつてゐる。後に詳しく論ずる如く、生が文化より更に宗教の段階に昇り、他者がそれの隱れたる深みを自ら啓示することによつて主體も根柢より革まり、かくて他者との交りは人格的生として新たなる性格を發揮するに至つて、そこにはじめて時間性は嚴密に眞實に克服され永遠性は實現されるであらう。尤も文化的生の段階においても他者の特質が考慮に入れられることによつてすでにその方向への努力ははじめられてゐる。それは結局は不成功にをはるにせよ、永遠性への向上の眞摯なる又生の本質より來る必然的なる努力として吾々の立入つた考慮を要求するであらう。
 第一の努力はすでに今現に檢討の對象をなす靈魂不死性即ち無終極性の意味における(僞りの)永遠性の立場において行はれる。すなはちそこでは一歩を進めて他者、この場合客觀的實在世界がそれの他者性にも拘らず主體の自己實現に協力し、活動を妨碍せずむしろ促進すると看做される。現實的性格においては實在的他者は必ずしも主體に協力はせぬ故、或る種類或る程度の超越が要求される。かくて現實的主體と直接的交渉に立つ實在者以上の純粹眞實なる高次の實在者が定立される。これは經驗的科學と區別されたる形而上學の立場である(一)。形而上學の構造は決して一樣ではない。最も著しき類型を擧げれば、超越性の際立つて鮮かなるものと然らざるものとがある。第一は自然的生及び自然的實在性よりの離脱を確保するを力めつつ、純粹客體即ち純粹の觀念的存在へと昇り、これをそのままに實在化することによつて高次の實在世界に達しようとする(二)。客觀的實在世界即ち(廣義の)自然よりの離脱は維持される故、自己認識がそれへの本格的の通路を示すであらう。これが嚴密の意味の形而上學即ち觀念論的形而上學である。これとは異なつて第二の型は客觀的實在世界の認識の取つた道をひたすらそのままに前へ進まうとする。すなはち、客體の世界よりする自然的生及び自然的實在性への復歸はそのままに承認され、ただ客體相互の聯關が終極及び完成へと連れ行かれる。今ここに吾々の問題となるのはこの種の形而上學である。尤もすでにしばしば論じた如く、無終極性と不完成性とは客觀的實在世界の本質的性格をなす故、何らかの形及び程度において純粹なる觀念的存在への上昇なしには、即ち觀念論的形而上學の協力なしには、いかなる形而上學も成立不可能である。ただ高次的實在者を直接に客觀的實在世界と結び附ける點、通常行はれる用語を以つてすれば、それの内在性を説く點に、かかる「實在論的」形而上學の特徴は存するであらう。さて高次的實在者として説かれるものは、或は世界的秩序或は世界的理性或は攝理などであるが、客體の實在化は、すでに説いた如く、それの擬人化を意味する故、それらは結局「神」の觀念によつて包括統合され、それにおいてはじめて明瞭なる徹底的なる表現を見るであらう。その場合神の觀念は宗教における同じ名の觀念とは、絶對的實在性を意味する限り一致し、從つて宗教的觀念と何らかの結合を遂げる可能性は與へられてゐるが、ここではそれは客觀的認識の對象として成立つのである。すなはちここでは神は、客觀的實在世界の觀念的聯關――秩序・理性・攝理等――において自己を表現しつつそれを完成しそれに終極を與へる、包括的全體的なる、しかも他者である主體、いはば客觀化され最大限度に擴大されたる文化的主體である。かくてそれの自己實現は本質的必然性を以つて人間的主體の自己實現を完成と終極とに導くであらう。これは通常テイスム(Theismus 有神論)の名をもつて呼ばれる、東西古今に亙つて極めて廣く行はれる世界觀である(三)。理論的學的論據を具へたものとしてはプラトンの 〔De_miourgos〕(造物者)の思想が多分それの最初のしかも典型的なる實例であらう。この有神論の協力により或はそれの前提のもとに、人間的主體の不死性永遠性は確乎たる基礎の上に置かれるが如く見える。
 さて客觀的實在世界の認識ははたして一切を包括し統合する絶對的實在者の觀念を歸結として要求するであらうか。世界の聯關や秩序ははたして完成と終極とを示すであらうか、乃至許すであらうか。形而上學ははたして可能であらうか。吾々はカント哲學の根本問題の一つであつたこの問題を今ここに論議する遑もなければ又必要もない。吾々は有神論が一個の信念として兔に角すでに成立つてゐる事實より出發し、ただそれがそれの存在理由に副ひ得るか、課せられたる任務を果し得るか、を問へば足りる。すなはち吾々がここに問題となすべきは、有神論の世界觀がはたして人間的主體の本質よりの要求である自己主張の貫徹自己實現の完成を保證し得るかである。吾々の答は勿論否定的でなければならぬ。有神論は一個の世界觀である。それは觀想の立場に立つて、世界の秩序が、又その秩序において自己を表現する絶對的主體が、何であるかいかにあるかを教へようとするものである。この立場においては人間的主體は結局傍觀者の地位に甘んぜねばならぬ。神は必ず自己主張を貫徹し自己の活動に終極と完成とを齎すといふ。假りに眞に然りとするも、それは神といふ他者の事客觀的實在者の事、人間的主體にとつてはよそごとである。人間的主體がその活動の完成に參與し得るかは必ずしも明かでない。それは事實として依然時の眞中に生き死及び壞滅の暴威に晒されてゐる。それの體驗するは完成に達することなき自己の活動のみである。今試みに一歩を進めて人間的主體が世界的實在者の自己實現に參與すると假定しよう。しからばこの事は、神が一定の限られたる期間人間の文化的生において自己を表現するを意味する外はない。しかるに自己表現者が人であらうと神であらうと、生そのものの本質的性格が變革刷新を見ぬ以上は、時間性の克服は到底絶望である。しかしてこのことは吾々を最後の根本的の點に導く。他者、この場合神、は客觀化され擴大され、優越性を意味する種々の屬性や稱呼をもつて飾られてゐるにせよ、本來文化的主體であるを本質とする以上、時間性に關しては人間的主體と全く同一性格を擔ひ同一地盤に立たねばならぬ。かくの如き他者の活動が、人間的活動をそれの本質より來る不完成性斷片性より解放するとは、はたして望み得る事であらうか。それどころか、かくの如き他者そのものが、はたして自ら時間性の桎梏に呻くを免れ得るであらうか。答は明かに「否」である。かくて吾々は客觀的實在世界とそれの「僞りの永遠性」とに斷然訣別を告げねばならぬ。
 
(一) 以下の論述に關しては「宗教哲學」の諸處、殊に一五節以下、二七節以下、四五節參看。
(二) 本書一〇節參看。
(三) 所謂有神論に關しては「宗教哲學」二七節、二八節、特に四五節參看。
 
 

    第六章 無時間性

        二七

 吾々はなほ文化的生の領域に留まる。しかしながら活動はこれを後ろに見棄てねばならぬ。殘るは觀想である。吾々が觀想及びそれの時間的性格について語つた所は大要次の通りである(一)。觀想も一種の活動である。ただそれは自ら活動でありながら活動の性格を脱却し克服することによつて文化的生本來の志向を貫徹しようとする。そのことは主體が自己表現を成就して他者を自己性の實現の從順なる器と化せしめるを意味する。客體は主體を表現し盡し主體は殘る隈なく顯はとなることによつて、もはや働きかける自己性も働きかけられる他者性も跡を留めず、自己性と他者性との間の緊張動搖は全く解除を告げるに至る。自らの隱れたる中心を有せぬ觀念的存在者としての本來の性格を完全に發揮し得た客體に對し、主體は靜かに息ひつつ客體の澄み切つた顯はなる姿に見入るのみである。これが觀想である。觀想において文化的生の時間的性格も徹底を見る。文化的生においては主體とそれの「現在」とが一切を支配し、過去も將來も現在の内部的構造を構成するものとしてそれによつて包括されてゐる。しかるにこの内部的構造は、客體面において自己性と他者性との兩契機を代表する二つの領域が區別されつつ併び存し、兩者の聯關において活動が成立つより來るのである。然らば今活動としての性格の克服は何を意味するであらうか。それは過去と將來とを包括する内部的構造の崩壞を意味するであらう。言ひ換へれば、觀想の時間的性格は純粹の現在、過去をも將來をも知らぬ單純なる「今」でなければならぬであらう。そこでは「あつた」とか「あらう」とかいふやうなことは全く無く、ただ「ある」といふことのみあるであらう。純粹の現在はまた純粹の存在、内にも外にも非存在をもたぬ絶對的存在であるであらう。
 これこそ昔より哲學が「永遠」と呼び來つたものに外ならぬ(二)。パルメニデスにおいては永遠といふ名こそないが、思想そのものはすでに明瞭にあらはれてゐる。その語をはじめて用ゐたのは多分プラトンであらう。プロティノスはこれらの人々の築いた基礎の上に立つて周知なる概念的規定を試みた。かれの思想はプロクロス、アウグスティヌス、ボエティウス、トマス・アクィナスなどを通じて中世以來の思想を全面的に支配してゐる(三)。かれ以後今日に至るまで眞に新しと見るべき思想は未だ現はれぬといつても過言でない。さて哲學が自己を超えて更に高きを示す生の展望に達することなく、文化的生の最高段階としての自己の地位に安らかに留まらうとする時は、「永遠」の觀念のかくの如き理解は本質上必然的なるものとなるのである。すでに論じた如く、客體面において自己性と他者性とを代表する二種類の形象乃至領域の間の聯關が存在する間は、活動の性格はなほ殘留し、從つて純粹の觀想、即ち觀想の本質の要求する通りの事態はなほ實現を見ない。高次の反省の立場に立つて、自己性及び形相の位置に立つ客體内容を、他者性及び質料の位置に立つものより引離し、獨立性と優越性とを付與しつつ固定するのが哲學である。哲學によつて純粹の觀想は實現を見、純粹形相・高次的客體は成立つのである。時間性の觀點よりみられたるかくの如き高次的純粹客體の擔ふ性格こそ、「無時間性」(Zeitlosigkeit)の意味における永遠性に外ならぬ。
 無時間性の思想そのものはすでにパルメニデスにおいても現はれてゐるが、無時間性を特徴として持つ高次的客體の存在の性格と意義とを根本的に究明し、かくて哲學にそれ固有の對象を與へるとともに、永遠性の理解に對して眞に創造的貢獻を示した人はプラトンである。客觀的實在世界における存在が、一般的にいへば外面性・關係性(相對性)、立入つていへば空間性しかして特に時間性の支配の下に立ち(四)、かくて例へば美しくあるといへば、この處この時この點において又この人に對して美しくあるといふに過ぎず、從つて或は有り或は無く、或は生じ或は滅びるのとは全く異なつて、イデアは外面性・關係性を超越し、生じることも滅びることもなく、飽くまでも自己性及び自己同一性を、從つて純粹單純なる存在及び形相・眞實の存在及び形相を保つもの、否かくの如き存在及び形相そのものである(五)。しかして時間性の觀點よりみられたるかくの如き純粹的高次的存在のもつ性格こそ永遠乃至不死(〔aei on, athanaton, aio_n, aio_nion〕)である(六)。プロティノスはこの根本思想をそのままに繼承しつつ更に進んでイデア的存在者どもの全體を一つの世界、思惟的世界(〔kosmos noe_tos〕)、に取纒めたが、そのことに應じて永遠性の概念的規定において特に全體性に重點を置いた(七)。これは、吾々もすでに論じた如く、時間性の特徴が斷片性不完成性に存することを思へば、純粹客體の擔ふ性格として極めて適切といふべきであらう。全體性は直ちに無限性(apeiron)を呼び出す(八)。ここに無終極性としての僞りの無限性に對して完成性を意味する眞の無限性が現はれる。
 
(一) 本書九節、一〇節、一二節參看。
(二) Platon: Timaios. 37 d seqq. ―― Plotinos: Enneades. III, 7, 3-5. ―― Proklos: Elementa theologiae. 52 seqq. ―― Augustinus: Confessiones. XI, 11 seqq. ―― Boethius: De consolatione philosophiae. V, 6; De Trinitate, 4. ―― Thomas Aquinas: Summa theologiae. I, 10.
(三) 例外と見るべき Heidegger については「宗教哲學」五一節註一參看。
(四) この點に關しては一四節以下參看。
(五) Symposion. 211 a seqq.; Phaidon. 78 c seqq.; 79 d; 80 b.
(六) 「ティマイオス」(37 d)においてはなほ aidion といふ語が用ゐられる。これは後世(Boethius: De Trinitate. 4 參看)行はれるに至つた aeternitas(永遠性)と sempiternitas(無終極性)との區別の發端ではあるが、 Cornford (Plato's Cosmology. P. 98) も注意してゐるやうに、この區別はプラトンにおいては未だ十分明かではない。現著者の見る所では、プロティノス(III, 7, 5)における兩語間の區別もこれとは趣を異にする。
(七) 後に行はれた概念規定 totum praesens (Augustinus) と totum simul (Boethius, Thomas Aquinas) とはここに源を發する。ここにもすでに aei paron to pan …… hama ta panta …… (III, 7, 3) などの句がある。
(八) Plotinos. III, 7, 5.
 

        二八

 以上の如き「無時間性」が眞に又嚴密の意味において時間性よりの離脱であることは疑ふべくもない。無終極的時間は時間性の超越どころか却つてむしろ延長擴大であつた。今やはじめて時間性を全く超越したる存在の一領域が吾々の目の前に展開された。忽ち來り忽ち去り時の流れに攫はれて一切の存在が絶えず壞滅のうちに葬られ果てしなき幻滅の旅に追立てられたのとは正反對に、ここには動くことなく滅びることなき存在がはじめて姿を現はした。文化的生の本來の目的である解放と自由とはここにはじめてしかも完全に成就されたかに見える。
 しかしながらこれは餘りにも性急な判斷である。ここに無時間的從つて超時間的と認められる存在は果して時間性を克服し得るであらうか。純粹形相即ちイデアは他者性より切離されたる從つて純粹なる自己性を意味する客體である。今かくの如き客體が成立つたとすれば、それは主體の完全なる自己表現を意味せねばならず、從つてそれの超時間性は同時に主體そのものの超時間性を意味し乃至保證せねばならぬであらう。さてこの事は果して可能であらうか。ここに吾々は觀想の二重性格を想ひ起さねばならぬ(一)。觀想は一種の活動である。客體が本來觀念的存在者であることに應じて、主體は自己をそれにおいて表現しつつ、顯はになつた自己としての客體の蔭に隱れて息ひを樂しまうとする。しかも觀想が觀る働きであり、觀られるものと觀るものとの關係交渉において成立つ以上、客體は飽くまでも他者の位置に立たねばならず、いかに短縮されるにせよなほいくらかの隔りにおいて主體に對立せねばならぬ。從つてその限りにおいては安息の目的は達せられず、活動としての性格は依然殘る。このことは時間性が依然克服されずに留まることに外ならぬ。さて然らば活動性從つて時間性の克服は何を意味し何によつて達せられるであらうか。他者性の克服を意味し又そのことによつて達せられるであらう。先づ客體面における他者性は次第に稀薄に、客體相互の間の聯關はますます緊密になるであらう。聯關そのものは主體の自己性の表現であり、從つて同一性に根ざし同一性を意味する故、聯關の緊密化は内容の同一化でなければならぬであらう。論理的法則の支配をますます強化する哲學は、かくして必然的に一者(プロティノスの用語に從へば to hen)――すべての他者及び他者性に打勝つた一者――の觀念に到達するであらう。全體性乃至無限性は必然的に一元性(一者性)へ進展する。しかしながら、この勝利は實は却つて自己の破滅に外ならないのである。一點に吸收された客體は、内容無き聯關無き從つて意味無き何ものかとして、もはや表現の任務を果たし得ず觀られるものであり得ぬに至るであらう。かくて一切の有は無のうちに沒し一切の光は闇の中に消えるであらう。第二に、主體と客體との間に存する他者性の克服も吾々を同樣の危機へ誘つて行く。それにおいて自己を表現すべき他者を失つた主體は、主體性を失つて結局壞滅に歸せねばならぬであらう。全く主體の所有となつた客體はもはや客體でないやうに、全く自己を表現し盡し顯はとなり切つた主體は、隱れたる中心としての實在性を失つて夢幻のうちに消え失せねばならぬであらう。觀想主義の必然的歸結である主體と客體との完全なる合一は自己を徹底せしめることによる自己の破棄以外の何ものでもないであらう。時間性の克服は他者性の克服によつて成就されるであらうが、他者性の克服そのものは勝者である主體にとつて却つて自滅を意味するであらう。「流れる今」(nunc currens)を支配する筈の「止まる今」(nunc permanens)は實はあらゆる「今」の喪失に過ぎないであらう(二)。
 それ故主體は依然活動者として留まらねばならぬ。しかるに活動においては他者性は自己性と共にそれの成立の缺くべからざる契機をなす。根源的なのは客體そのものの他者性である。客體性に本質的に具はるこの他者性は客體相互の聯關における他者性として表現される。自己性の表現である聯關が一と他との關係としてのみ成立ち、更に立入つては、自己性を代表する形象乃至領域と他者性を代表するそれとの、從つて又働きかけるものと働きかけられるものとの關係として成立つのは、皆客體性に固有する他者性の致す所である。更に根源まで遡れば實在的他者性に到達せねばならぬであらうが、そのことは今ここでの問題ではない。さて活動としての觀想はこの他者性に打勝ち自己性を貫徹しようとする。そのことは客體内容において質料的のものを輕んじ形相的のものを重んずることにおいて現はれる。これは立入つていへば聯關の強化と自己性能動性を代表する内容の純化及び強化とである。例へば、聯關は因果的より論理的へ進み、原因は理由と化し、つひには一切は原理となり乃至は原理のうちに融け入り、又統一と全體とは次第にあらゆる差異と部分とを包括し支配し吸收しようとする。哲學はこの傾向の貫徹を計るもの乃至貫徹そのものを以つて自ら任ずるものに外ならぬ。萬能を誇り純粹客體以外何ものの存在をも認めぬといふやうな狂氣じみた幻覺に耽らぬ以上――かくの如き幻覺が若し事實として存在したならばそれは文字通りの狂氣であらうが――哲學はそれの志向を充たすために客體の世界において存在の區分と選擇とを行はねばならぬ。プラトンの二種類の存在(〔duo eide_ to_n onto_n〕)の説はこのことの最も獨創的典型的なる又影響最も大いなる實例である。しかしてそのことは、自然的生より文化的生に昇る際に行はれた反省の働きを更に徹底させ、第二段の高次的反省によつて自己性形相性を意味する内容を切離して遊離せしめ、獨立的優越的なるものとして固定することによつて行はれる。それ故文化的生の全體といふ觀點よりみれば、哲學は主體の自己實現の一契機を一時的に特に抽き出し、それのみに注意を集中し他を忘れるものに外ならぬ。抽き出される自己性の契機は生に形相を與へそれの性格を決定するもの、即ちそれの有り方の眞の姿、それの眞の存在、それの本質――プラトンが 〔onto_s on〕 又は ousia と呼んだもの――である故、それの觀想と理解とに力を集中することによつて、生の自己理解は高められ深められるのである(三)。然しながらそのことは畢竟一定の目的を成遂げる有效適切なる手段として、不用なるもの妨碍となるであらうものを一應片附けること目前より遠ざけること差當り忘却することであるを、吾々は忘れてはならぬ。純粹の形相の世界本質の世界に入らうとするものは、活動性と時間性とを示唆し意味するであらうあらゆる規定を戸口に置き棄て置き忘れねばならぬ。すべての學問が或る程度しかある如く、哲學は特に勝れたる徹底的なる意義におけるかくの如き忘却術である。それはおのが任務に忠實なるためには、わが家としての時及び時間性を忘れわが行くへの死をも眼より遠ざけねばならぬ。しかしながら忘れること見ぬことは決して無くなすことでも打勝つことでもない。主體の時間性は儼として存續し依然その暴威を揮ふ。「我を忘れて」永遠の眞理の觀想に沈潛した自我が再び「我に歸つた」時、はたして時の流れに押流されて溺死を強ひられる自己を見出さずにゐられるであらうか。
 
(一) 以下の論述に關しては本書八節、九節、一〇節參看。
(二) Boethius: De Trinitate. 4. 「止まる今」は中世以來 nunc stans といふ形において哲學的超時間性の稱呼として行はれた。
(三) Lotze: Logik. Drittes Buch, 2 tes Kapitel. (Phil. Bibl. S. 510 ff) 參看。ロッツェはイデアの有り方を嚴密の意味の存在即ち Sein 乃至 Wirklichkeit より區別して Gelten(妥當)と名づけ、兩者を混同したとしてプラトンを非難した。プラトンのイデア説が形而上學へと發展したことに對する抗議として、從つて哲學――觀念主義理想主義の哲學――の最も純眞なる最も本來的なる動機と性格とに忠實であらうとする努力としては、この解釋はたしかに正しい。Windelband は價値哲學の立場よりしてこの Sein と Gelten との區別を思索の中心に持ち來つた。永遠性の觀念に關するかれの解釋(〔Pra:ludien: ”Sub specie aeternitatis“〕)は形而上學への進展の道を取らぬ點において、又主體の時間性を率直に承認してゐる點において、典型的意義を有する卓越した業績である。
 

        二九

 時間性を限界より遠ざけようとする努力は歡喜と慰安とをもつて報いられるであらうが、結局一時凌ぎかりそめの氣安めに過ぎぬ。客體が自己實現の質料的契機として主體のうちに取入れられ處理に委ねられるべきである限り、時間性の克服は望み得べきでない。取るべき途は客體の獨立性從つて他者性を強化するより外にない。すでに論じた如く(一)、客觀的實在世界もこの途を取つた。そこでは客體は實在的他者・自然的實在者に歸屬せしめられた。しかしながら純粹客體の場合にはこの途ははじめより塞がれてゐる。自然的實在性を二段の反省によつて超越した純粹なる高次的客體には、そこへの復歸ははじめより拒まれてゐる。それ故哲學は觀念的存在者そのものに實在性を付與しそれを直接に高次的實在者の位に据ゑる外はない。これ即ち形而上學である(二)。形而上學には大體において二種の類型の存することはすでに論じた通りである。内在的形而上學は客觀的認識をさらにそれの原理へと、客觀的實在世界をさらにそれの根源の高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。それ故觀念主義の形而上學以外に形而上學は無いといつても過言ではないであらう。さて觀念的存在者は、純粹の本質においては、殘る隈なく顯はなるものとして、何ものかがその中に入り來るを拒む隱れたる中心、實在者としての中心、を全く缺く故、それを直接に實在者の位に据ゑることは本來禁じられてゐる事柄である。しかもプラトン以來數多くの大思想家たちがこの許されぬ道に踏入つた事實は、實在者との交はりによつてのみ生は成立つこと、從つて實在者への希求は人間性の最深最奧の本質に根ざすことを教へる。究極まで押詰めれば、高次的實在者において滿足を見ようとするはもと宗教的要求である(三)。このことの立入つた論述はここでは割愛せねばならぬが、その要求が觀念主義の形而上學的宗教によつてではなく人格主義の愛の宗教によつてのみ充たされる如くに、永遠性への憧憬もここではつひに滿足を見ずにをはらねばならぬであらう。
 すでに有神論の世界觀に關して述べた如く(四)、高次的實在者が本來觀想の對象である以上、それの超時間性が果して又いかにして人間的主體の時間性の克服に役立ち得るか、は甚しく疑問である。高次的實在者が時間的制限より解放されてゐると認識することは、しか認識するものがその制限に服從してゐることと、何の矛盾をも來さぬではなからうか。しからば今高次的實在者が、時間性の世界と關係交渉に入ることによつて、人間的主體を上の世界に引上げる、といふやうな事柄を想像して見てはどうであらうか。觀念主義の形而上學にとつて何事にもまさる難事は、永遠的なるものと時間的なるものとの間に聯關を設けることである。プラトンをはじめとしてスピノーザやヘーゲルなどに至るまで、すべて二種類の存在の思想に忠實であつた思想家たちは、等しくこの問題に躓いた(五)。彼等は解決を試みなかつたのではない。しかしながら單に聯關を説くこととそれを理解し得る事柄にすることとは決して同一でないのである。それどころか、假りに解決が成功して聯關が眞理として認識されつつ設定を見たとすればどうであらうか。そのことによつて聯關そのものも聯關の一端に立つ時間性もともに時間的存在を置き棄て、無時間的超時間的客體として永遠の世界に新しき住居を見出すであらうが、それにも拘らず、時間的存在を保つものは依然として同じ存在を繼續せねばならぬであらう。時間性の觀念が超時間的であることは時間的存在者が依然時間的であることに何の影響をも及ぼさぬであらう。高次的實在者は、客體的觀念的存在者がそのままの姿で實在者の位に高められたるものとして、本來主體性を缺く。それには時間的存在者に働きかける活動性が缺けてゐる。力・活動・發展・原因・主體・客體等のイデー・形相・範疇が、靜かなる永遠の世界に仰ぎ見らるべき高貴なる光り輝く存在を保つてゐるとしても、吾々が現にそれの中に生きてゐる可滅的時間的世界は、それより何の御蔭を蒙ることもないであらう。若し高次的實在者が――通俗的にいへば、神が――直接に客觀的實在世界において高次的絶對的主體として活動するといふことならば、吾々はすでに論評した内在的形而上學的世界觀としての所謂有神論に立戻らねばならぬであらう。しからば、時間的世界の眞中に活動する實在者がいかにして時間性より自由であり超時間的性格を保ち得るか、といふ反對の方向よりの難詰は直ちに襲ひ來るであらう。
 
(一) 一〇節、一四節以下參看。
(二) 一〇節、二六節參看。
(三) 「宗教哲學」一五節以下參看。
(四) 二六節參看。
(五) 拙著「スピノザ研究」參看。――ヘーゲルの辯證法はこの問題に答へようとするものであるが、かれの説いたすべての聯關すべての發展は觀念世界の事件に過ぎぬ。「すべて合理的なるものは現實的であり、すべて現實的なるものは合理的である」といふかれの言において「現實的」或は「實在的」はプラトンの 〔onto_s on〕 に外ならぬ。
 

        三〇

 尤も超時間的實在者――神――を觀ることによつて、觀想乃至直觀によるそれとの結合共同合一などによつて、人間的主體自らが超時間的永遠的神的と成るといふ思想は、古今の宗教及び哲學を通じて甚だ廣く行はれてゐる。純粹なる嚴密の意味における神祕主義はこの傾向の徹底したるものに外ならぬが、そこまで、即ち神と人との完全なる合一といふ點まで進まず、神祕主義的傾向乃至性格を有する程度に止まる諸思想においても、永遠性の問題に注意が向けられるとともに、單に客體ばかりでなく人間的主體の永遠性が説かれるが常である。宗教史上最も色どり豐かなる最も生氣に富む殆どクラシック的と稱すべき時代を形作つた、ヘレニスティク時代に廣く行はれた一思想は、「神を見ることによつて神と成る」といふのであつた(一)。哲學者のうちでは吾々はプラトン、スピノーザ、フィヒテ等を擧げることが出來よう(二)。「有限性の眞中において無限者と一になり、一瞬時において永遠的である――宗教の不死性はこれ」といふ、人口に膾炙するシュライエルマッヘルの言は、同じ思想を簡潔に印象深く言ひ表はしたものに過ぎぬ(三)。
 この思想はいづこより來たであらうか。言ふまでもなく觀想の本質より來たのである。觀想において主體の對手は觀念的存在者としての客體である。活動としての性格は蔽ひ隱され、主體は顯はとなつた自己の透き徹つた形相の前に立つ。客體は固有の實在的中心を缺く奧行きも底もなき平面的存在者として、主體と、あらゆる隔りや暗さの克服されたる完全なる合一に入ることによつて、それ本來の使命を完うする。しかしてかくの如き客體の本質的性格をなすのが無時間性である。これは客觀的時間の無終極性に基づく不死性や(僞りの)永遠性の如く推理や信念の事柄ではなく、直接に現に今客體の性格として體驗される事柄である。そればかりか、無終極性が未完成從つて不滿足の連續を意味したのに反して、ここでは主體は、過去も將來もなき純粹なる現在に安住しつつ完成されたる生の歡喜に浸ることが出來る。しかもその生は客體との合一としてのみ完成を告げる。無時間的存在者の觀想において主體が自己の超時間性をも體驗し得るやうな氣持ちを味ひ得るのは謂はれある事である。しかしながらそれは結局氣持氣分に過ぎぬ。眞實に體驗するは單に客體の無時間性のみである。高次的實在者が眞に實在者であるならば、主體のそれとの直接的合一はもとより不可能の事である。主體は自己の中心を守り超時間的存在者も他者の侵入を拒む以上、兩者が、この場合特に主體が、外面的接觸以上に進むことははじめより禁ぜられてゐる。それ故超時間的存在者が合一を許すとすれば、そのことはそれが觀念的存在者としての資格においてのみなし得る事である。かくて問題は後戻りする。觀念的存在者が主體の超時間性を惹起しも保證もなし得ぬことは、もはや繰返すを要せぬであらう。
 しかしながら殘つた道がなほ一筋ある。それは體驗より更にそれの前提に遡り、それを可能ならしめるであらう事態又は事實を推理によつて想定することである。觀想の主體が客體を近きもの親しきもの乃至合一するものとして體驗することは、兩者が別々の存在を保ちながらも本來それの存在において即ち本質に於いて、乃至場合によつては實在性において、同一であることの證據でなければならぬ。本來同一なるもののみ合一し得る。主體が超時間的なる客體を認識し乃至それと合一し得るのは、それ自らすでに超時間的であるがためである。云々。さてこの思想が文化的生の立場を終極的のものと看做すより發生したものであることは甚だ明かに看取される。その立場においては嚴密の意味においては現在のみある如く又有のみ存在のみある。現に有るものは有るものより同じものは同じものより來らねばならぬ。それ故ここでは嚴密の意味における死があり得ぬ如く、又嚴密の意味においての無もあり得ず、從つて無より有の生ずること即ち創造もあり得ぬのである。宗教の領域においては神祕主義はこの傾向を明瞭に典型的に現はしてゐる。哲學乃至形而上學の領域においては、通常汎神論と呼ばれる世界觀がこの思想の上に立つことは言ふまでもないが、この思想の勢力は更に汎ねく到る處に及んでゐる。吾々は今當面の問題に關しても等しくこの根本思想の發露を見るのである。
 認識は似たもの乃至同一なるものの共同乃至合一であるといふ思想が、文化主義觀念主義の世界史的代表者であるギリシア人の間において廣く行渡つてゐるは當然といふべきであらう。明白なる例外はアナクサゴラスただ一人といつても言ひ過ぎではない。「地をもつて地を見水をもつて水を見る」云々とエムペドクレスは、甚だ素朴なる形においてではあるが、すでに明瞭にこの思想を言ひ表はした(四)。アリストテレスに從へば(五)、認識は主體と客體との合一によつて行はれる。現實的となつた認識は對象と同一である。認識せられるもの從つて――一切は認識せられるものである故――一切のものに成るといふのが理性の本質である。しかしながらそのことは、認識の未だ行はれぬ前すでにそれと對象との同一性が、(人間の認識能力の場合には)可能的に乃至(その可能性を實現させる動力としての所謂能動的理性においては)現實的に、存在するを前提する。云々。「太陽の如くなつた眼のみ太陽を見、美しくなつた魂のみ美を見る」といふプロティノスの句(六)は同じ思想を言葉美しく表現したものに外ならぬ。なほ彼に從へば、永遠的神的なるものを觀ることによつて自らも永遠的神的となる魂ひは、實は忘れたる故郷に歸り行くのである。スピノーザに從へば、客體と主體との一致乃至合一を意味する認識は、實體(substantia)の同一性一元性によつて根據づけられる。人間の永遠性は神への直觀知及びそれの直接的必然的歸結である神への知的愛より來り、かれ自ら神の永遠的樣態(aeternus modus)であることに基づく。從つて人の神に對する愛、永遠的愛、は神が自己を愛する愛と同一である。云々。
 さてこの思想、文化主義の魂ひの泉より迸り出たこの思想を文化的生の基本的性格をなす自己實現と結び附けて眺める時、吾々は次の如き事態が直ちに眼前に現はれ來るを見るであらう。主體の自己表現のある處には必ず現在があり存在があり同一性がある。これらは皆等しく自己性に基づく。しかるに自己性は自己實現の活動によつてはじめて現實的となる。主體がはじめより即ち現實的にのみ超時間的であるならば、勿論問題は存せぬであらうが、かかる主體は實は純粹客體となつた主體、主體のイデア、主體性に過ぎず、それの無時間性超時間性はむしろ自明の事柄であるが、そのことの代償として、それは現實的に主體であるを止めたものである。アリストテレスやプロティノスの nous ヘーゲルの Geist(精神)の如き實は皆これである。それらは超時間的なる自己觀想――アリストテレスの用語に從へば、〔noe_sis noe_seo_s〕――として存在し、客體としても主體としても超時間的ではあるが、すでに述べた如く、かくの如き單に觀られるだけの超時間性無時間性は時間性に喘ぐ現實の主體にとつては單に畫かれたる餅に過ぎぬであらう。主體が客體と根柢においては同一乃至同種類であり從つて等しく超時間的であるとすれば、かくの如き自己かくの如き本質は實現されて現實的形相とならねばならぬ。しかるにそのことは主體の活動を從つて時間性を意味するのである。それ故強ひて永遠性や不死性を求めるならば、無終極的時間性のそれ以外にはないであらう。プラトンの靈魂不死性の一論證は、この事態を明瞭に反映してゐる點において、吾々の注目を呼ぶ(七)。彼は純眞なる觀念主義の立場に立つて二種類の存在を説く。一は肉眼に見えぬもの、あらゆる地上の汚れを拭ひ落して清淨なるもの、單純なる姿のもの、いつも自己と同一なるもの、永遠的・不死的・神的なるもの、しかして他はすべて反對の性格を擔ふものである。靈魂は第二の即ち地上の存在者に屬する。しかしながら、永遠的存在者と同じ族に屬するものとして、それは天上高く、死せぬもの變らぬもののもとに昇り、いつまでもそこに留まり、それと交はることによつてこの世の流浪を免れつつ、自らもいつも同一なる存在を保つ。云々。吾々はここに純眞なる觀念主義者の典型的體驗の告白を聽いて、深き感激に打たれる思ひする。しかるにプラトンが靈魂の不死性と考へたものは、かくの如くいかなる刹那にも、勿論生の眞中において、達せられ得る魂ひの向上永遠者との合一ではなく、却つて死後實現せらるべき無終極的存在であつた。上に述べた思想はかれがこの意味における不死性を證明すべき一論據として展開したものに過ぎないのである。しからば永遠的生が地上において獲得されぬ理由はいづこに存するか。靈魂が身體と共同生活を營み、從つて純粹の觀想に生き難いによるのである。すなはち、純粹の觀想乃至永遠者との完全なる合一が、既定の事實としてはじめより現實的であらぬ限り、練習(〔melete_〕)が必要となる、しかもこの練習は死後はじめて實を結ぶのである(八)。さて、練習はいふまでもなく時間的活動としてのみ成立つのではなからうか。それの目的が死後に達せられるといふは、純眞なる觀念主義の立場よりみれば、達せられぬと告白すると何の擇ぶ所があるであらうか。自らの力を恃みて、或は高次的實在者・永遠者をわがものとなすことにより、或は自らすでに神的であり超時間的であることにより、この世よりの解脱や救ひを計る人間的主體は、絶望の一語をもつて報いられる外はないであらう。
 
(一) キリスト教經典においてはコリント後書三ノ一八がこの思想を示してゐる。なほ次の諸書參看。Bousset: Kyrios Christos1 . S. 197 ff.(”Vergottung durch Gottesschau“ といふ見出しの處)。――Reitzenstein: Die hellenistischen Mysterienre Iigionen3 . S. 357 f. ―― J. Weiss: Urchristentum. S. 406.
(二) Theaitetos 176 b においては哲學の效果として「神に類似すること」が擧げられてゐる。「パイドン」の靈魂不死性の思想については後の論述參看。―― Plotinos. IV, 7, 10; III, 7, 5. ――スピノーザの scientia intuitiva 及び amor dei intellectualis の説。――〔Fichte: Anweisung zum seligen Leben. V, 487 f.; Grundzu:ge des gegenwa:rtigen Zeitalters. VII, 235 f.〕(ここでは特に明瞭に言ひ表はされてゐる)。――ヘーゲルにおいては、主體は永遠の世界に入りそこの住民とはなるが、それは主體性の觀念として即ち純粹客體としてである。かれの觀念主義は甚だ徹底したものである。
(三) 〔Reden u:ber die Religion1 . S. 133.〕 かくの如き主體の永遠性は Anschauen des Universums によつて實現されるのである。
(四) Fr. 109.
(五) 「宗教哲學」二六節參看。可能性は結局現實性に基づくといふアリストテレスの思想は、本文に論じた文化主義の根本思想より來るのである。所謂 〔nous poie_tikos〕 の説も一部分はこの方面より理解さるべきであらう。「成る」といふことの前には必ず「有る」が立つてゐるのである。
(六) I, 6, 9. ゲーテの有名な句の源はここにある。
(七) Phaidon 79 d.
(八) 純粹客體の體驗の記述が極めて鮮明であるに反し、それを根據としての靈魂不死性の論證は甚だ不鮮明、殆ど混亂状態を示してゐる。死が靈魂と身體との分離であるならば、死といふ單なる事實そのものはすでに解脱を意味せねばならぬであらう。しかるに哲學は死の練習として説かれてゐる。ここにいふ死は單なる事實としての死ではなく、哲學的練習をなすもののみに與へられる解脱を意味し、それを死と呼ぶは比喩的表現に過ぎぬものとなるであらう。すなはち哲學的練習に身を委ねるもののみ死後その練習の成果を收め得るのである。さて、カントやその他の近世の思想家たちの考へたやうに、この練習は死後も繼續されるのであらうか。靈魂不死性の思想はこの歸結を要求するであらうが、プラトンは、オルフィク教の影響の下にかれが説いた終末論の示す如く、一定の期間にこの練習を限局した。しかしながら更に一層根本的なる矛盾は練習を必要としたそのことに見られる。靈魂がそれ自らとしてすでに超時間的であるならば、何故に練習を要するのであらうか。尤もプラトン自身もこの論證には理論的滿足を感じなかつた。かれは結局これを抛棄して次の(即ち最後の)論證へと移つて行つた。要するに、彼にとつては魂ひの眞の永遠性は、いついづこにおいても實現され得る乃至されねばならぬ永遠者の觀想においてのみ成立つのであるが、神祕主義者の如くかりそめの氣分や感激に絶對的信頼を置く能はず、主體の現實的生が活動であり自己實現であることを明かに覺るだけの着實さを持つてゐた彼は、つひに收拾し難き混亂に陷つたのである。
 
 

    第七章 永遠性と愛

      一 エロースとアガペー

        三一

 時間性の上に出でそれに打勝たうとする傾向は文化的生においてもすでに存在した。否、時間性の克服は文化的生の本質に具はる最も固有の傾向であるとさへいひ得るであらう。さて吾々人間にとつて「ある」は「生きる」であり、生きるは自己主張である。しかも他方においてこの生は他者への生であり、他者との交はりにおいてのみ成立する。人間的存在の全體を支へる根源的生においては主體の對手として向うに立つ他者は實在的他者であり、それとの間柄は直接性である。この自然的生の本質的性格をなすのが時間性である。從つて時間性の克服は生のこの自然性の克服でなければならぬ。問題は、交はりにおいてある他者とそれとの間柄と、これら相聯關する二つの事柄の性格如何に關はる。これら二つと聯關して主體そのものの性格も亦定まる。文化的生は、主體の自己主張並びにそれの直接性はそのままに留保し、ただ他者の性格を變更することによつて向上と自由とを、又從つて時間性よりの離脱を企圖した。この向上の道を絶頂まで登り詰めた哲學においては、無時間的性格を許され得る他者、純粹形相・純粹客體、との交はりさへ實現されて、離脱の努力は成功をもつて報いられたかのやうにさへ思はれた。しかしながら一切の努力は結局失敗にをはらねばならなかつた。文化的生においては、他者は、可能的自己としてそれ自らの中心從つて實在性を缺き、主體の自己實現の契機をなすを本質としたが、それだけに、主體の生存の基ゐであり源である自然的生即ち實在的他者との交はり、並びにその源より發する時の流れに對しては、手を拱いてそれのなすがままに身を任かせるより外に途がなかつた。それ故時間性の克服は、生の部分的彌縫的改修の企てが擲たれて、根本的全面的革新が成就されるに及んではじめて可能となるであらう。すなはち、實在的他者との全く新たなる交はりが成立ち、かくして他者も主體も全く面目を新たにする處においてのみ、永遠性の確立は望み得べきであらう。「愛」こそかくの如く全く更新される生の姿である。吾々は文化の境を越えて宗教の領土に進み入らねばならぬ(一)。
 
(一) 以下の論述に關しては「宗教哲學」三七節以下參看。
 

        三二

 愛は主體の他者との生の共同である。主體は生きるもの自己を主張するものである故、愛はかかる共同を成立たしめ乃至維持する努力と動作とを包含する。共同は活きた關係であり、靜止と固定とを許さない。又それは單なる接觸でもなければ、ましてや衝突ではない。これらは、それ自身としては共同に對して無頓着であるか乃至はむしろ破壞的である。之に反して共同は合一和合としてのみ成立つ。
 かくの如き共同は人間の現實的生の缺くべからざる基本的制約をなしてゐる。吾々が人倫的關係と呼ぶものは、皆かくの如き即ち愛の共同であるか、乃至はその共同の基礎の上にのみ成立ち得る關係である。人と人との間の一致和合がなくては、吾々は一刻も生存することが出來ぬ。現實的生の構造が複雜なるに應じて、共同の形態も多種多樣であるが、結局一切は愛の關係に歸着する。このことは事實の示す所でもあるが、又特に生の本質の原理的討究によつて明かにされるであらう。
 主體の主體性は、動作の中心であること、即ち自己の存在を維持貫徹し増進擴張すること、簡單にいへば自己主張、に存する。すなはちそれは自己の存在への存在に存するといふべきであらう。しかるにこのことは主體がそれに向つて自己を主張する對手の存在を包含する。すなはち主體性は他者への生、他者への存在である。このことは日常の體驗の極めて明白に教へる所である。吾々は根源的に人に對してあるが、又場合によつては物に對してもある、いづれにせよ何ものかに對してある。進まうとすれば何ものかへ進み、伸びようとすればどこかへ伸びる。吾々はこの現實の事態より抽象して單純にひたすらに外へと伸びる力だけを表象することは出來る。しかしながら、かくの如き力がそれ自體に實在すると、言ひ換へれば、かくの如くただ徒らに當てもなくいはば眞空へと伸び擴がる力に主體の本質が存すると、考へるならば、それは空想を現實として押賣りしようとするにも等しいであらう。今對手なき、他者との交渉を離れたる絶對的主體といふ觀念が、それ自身矛盾なしに成立ち得ると假定すれば、それはそれを客觀的事態として眞理として表象し承認し主張する主體の存在を俟つて、すなはち客體的他者としての存在を保つことによつて、はじめて可能であるといふことを、吾々は特に銘記すべきである。主體性從つて實在性の兩面性――即ち一方自己主張であるものが他方他者との關係交渉であること、他者への生としてのみ自己の存在への存在が成立つこと――ここに生の最も根本的なる問題が宿つてゐる。時間性と永遠性との問題もここに胚胎する。
 吾々は今、すでに論述した所に基づいて、愛及び共同の觀點よりして、生の諸段階の特質に關し考察を進めよう。一切の根源に位し生のあらゆる形態を支へる基礎的層は自然的生である。それは主體と實在的他者との直接的交渉において成立つ。他者との交渉があり從つて接觸がある限り、相共にする何ものかがなければならぬ。現に主體は他者を離れて單獨に孤立しては存立し得ぬのである。ここに共同に類する或る關係が存在するはいふまでもない。自然的生がすべての生の基礎をなすことを思へば、この關係はすべての共同の基礎をなすといひ得るであらう。しかるに他方より觀れば、この關係こそむしろすべての共同の破壞の口火なのである。直接性において他者と交はる主體、他者に對してただまつしぐらに自己を主張する主體にとつては、他者は障碍と反抗とを意味する外はない。從つて自己主張の成就は他者の滅亡を意味せねばならぬであらう。逆にまた、他者が飽くまでも他者として存立する以上――この存立は主體そのものの存立の必要條件である――他者との交はりは主體にとつては壓迫侵害であり、自己の存在の亡失であるであらう。そこまで徹底を求めぬとしても、自然的生における他者との直接的交渉は、純粹に外面的なる單純に對他的なる關係である。吾々は根源的空間性をここに見出した(一)。この空間性こそ一切の互に相容れぬ自と他との關係の典型であり根源である。主體と他者との共同即ち和合合一はここに見出すべくもない。それどころか、むしろ共同の破棄絶滅こそ徹底したる自然的生の落着く先である。主體性の兩面性はここでは極めて露骨なる自己矛盾として暴露してゐる。更に又時間性及びそれの缺陷や矛盾もここに源を發する。將來(他者)との關係によつて存在を保つ現在(主體)は同じ關係によつて又過去へ非存在へと押遣られる。有はいつも無に歸し、來るものはいつも去り、一切は時の流れに誘はれて果てしなき壞滅の道をたどる。時間性の克服は自然的生のこの自己矛盾よりの解放でなければならぬ。
 この解放こそ文化的生の志す所である。すでに論じた如く、主體が實在する他者との直接的交渉より離脱しその交渉の齎す自滅の危險より解放されて、自由の天地に飽くまでも自己主張を續けようとする所に、文化的生の本質は存する。今や主體は對手との間に何ものかを置くことによつて直接の衝突を避け、かくして共存共在を成就しようとする。客體こそかかる中間的媒介的存在者である。さて共同の成立に際し媒介の役を務めるものは、共同の形相乃至段階が異なるにつれて、多種多樣である。アリストテレス(二)はかかる媒介者を「ト・ピレートン」(〔to phile_ton〕 愛せらるべきもの)と呼び、「善」と「快」と「有益」との三つを擧げた。しかしながら、單にかくの如き普遍的なる價値觀念に限らず、特殊の固定したる人倫關係乃至はかかる關係における特殊の資格、次に又流動的なる諸關係例へば「隣りの人」乃至はその反對として「遠き人」(遠き後の世の人)など(三)、更に諸種の思想・法則・理想など、皆ピレートンであり得る。これらは共同の成立乃至維持に對し制約や理由を提供し、かくて又各種の共同の姿と内容の特質とを規定する。特に強調せらるべきは、これらの條件や規定を媒介としてはじめて共同が成立つこと、從つて共同における直接の對手はそれらであつて、それらによつて媒介される實在的他者ではないことである。今愛を主體の態度の側より觀れば、それは他者無くしては自ら有るを欲せぬこと、他者によつて規定されるものとして自己を規定し自己の存在を主張することと呼び得るであらうが、その場合の他者はいつも直接には媒介者そのものである。直接性を擲つことによつて、しかし同時に新たなる直接的交渉に入ることによつて、はじめて共同と愛とは可能となる。今かくして成立つ共同をプラトンに從つて術語的に「エロース」(〔ero_s〕)と呼ぶならば、エロースこそ文化的生の段階において、尤もそこにおいてはじめて、成立つ愛である。
 
(一) 一五節參看。
(二) Ethica Nicomachea. VIII, 1155 b.
(三) ニーチェはキリスト教神學の 〔Na:chstenliebe〕 に反抗して”Fernstenliebe“(將來に生きる創造的愛)を説いた。〔Also sprach Zarathustra. I Teil: ”Von der Na:chstenliebe.〕“
 

        三三

 共同と和合とはいふまでもなく全く相離れたるもの全く孤立してものの間には成立ち得ない。主體は關係交渉によつて他者と結び附けられねばならぬ。しかもこのことは直接的接觸を必要とする。間接性は直接性の基礎の上にのみ成立ち得る事柄である。自然的生の特徴は一切が直接的である點に存する。そのことの歸結として實在者は實在者と衝突し、かくて相携へて壞滅の道を進まねばならぬ。文化的生の任務は媒介者を中間に置くことによつて、言ひ換へれば、新たなる他者と直接的交渉に入ることによつて、衝突の危險を克服して和合一致を成就するに存する。かくあるとすれば、吾々は更に進んでこの他者が又それとの交渉が、どのやうなものであるかを究めねばならぬ。論じ來つた所によつて極めて明かである如く、かかる媒介者は客體としての他者以外にはあり得ない。しかるに客體の存在の仕方は觀念的のそれである。かかるものとして他者は、主體にとつては、それにおいてそれを通じて自己を主張する所のもの、即ち主體の自己實現の契機に外ならぬ。客體的他者は本質上主體の勢力範圍に屬し、主體と特に親密なる間柄に立つ。すなはちそれの本質的意義は可能的自己であるに存する。主體(自我)は客體を己のうちに取入れ、己のものと否己れ自らとなすことによつて、主體性を貫徹する。他者性が自己性のうちに吸收されることによつて、主體と他者との衝突も爭鬪も取除かれ、和合と共同とは可能にされる。エロースとしての愛はかやうにして自己性の擴張によつて成立つのである。それはいかなる對手においてもいつも自己を見出す。他者はいつも第二の自己である(一)。愛において主體は、わが生わが自己が近きもの狹きもの小なるものより出で、いかに遠きもの廣きもの大なるものをも恐れずに伸び行き擴がり行き、つひには全き世界一切の存在をも支配の鵬翼の下に收めるに至るを知るであらう。かくて根源的空間性即ち自と他とを隔てる外面性は全く克服されるやうに見える。しからば時間性はどうであらうか。もはや繰返へすを要せぬ如く、文化的生の主體即ち自我はいつも現在において生きる。それの時間的性格は現在である。ここでは現在は過去をも將來をも單なる内容として部分としてわがうちに包括する。それ故エロースにとつても嚴密には現在があるのみである。愛せられるものの過去も將來も今現に有るもののやうに愛する我の關心を呼ぶ。いかに遠き昔もいかに遙かなる後の世も愛の感激を斥けぬ。愛の幸福は來つて加はるであらう何ものをも又缺けて去り行くであらう何ものをも知らぬ。愛はいつも一切を所有する。愛の歡喜に充たされるならば一瞬時も全き永遠そのものである。
 しかしながらこれが砂上の樓閣に過ぎぬことは、文化的時間性について論じた所によつてすでに明かであらう。一切を支へる全能の現在は實は絶え間なく滅び行く現在なのである。文化的生が自然的生の土臺の上に立つ以上、愛も後者の性格によつて制約されるを免れぬ。自然的生において發見されたる主體性の二重性格は、形を變へて文化的生にも入込み、生の根本の蟲食み自己矛盾に倒れしめる。愛も主體の自己實現として活動の性格を擔はねばならぬ(二)。しかるに活動は自己性と他者性との兩契機の必然的竝立と從つて兩者間の必然的緊張とに基づく。客體にとつては、主體に對して他者であることが本質的であるが、又自己實現自己表現の意味と任務とを有するものとして、主體の自己性に屬することが同樣に本質的である。一方のみの徹底はいづれも生の破壞にをはらねばならぬであらう。他者性のみ徹底すれば、生は自然的直接性に逆轉する外はない。共同は全く影をひそめねばならぬであらう。之に反して自己性のみ徹底すれば、自己を實現し盡した主體は生の中心を失ひ、生の源の枯れ果てることによつて、他の觀點より言ひ換へれば、他者を餘す所なく併呑しもはや働きかけるべき何ものをも對手として有せぬことによつて、自ら自滅の墓穴を掘るであらう。自己性と他者性との間の不一致は活動としての生を可能ならしめるが、又絶えず流れ絶えず移りつついつまでも未完成のまま斷片的のままに止まることをその生に強ひる。そのことに應じてエロースとしての共同はいつも斷片的不安定的である。愛は他者に達し他者を所有してはじめて滿足する。しかるにここでは得るは即ち失ふであり、滿足はいつも新たなる不滿足に早變りする。プラトンの巧妙なる寓話の教へる如く、エロースは、「貧しさ」(Penia)が己が苦境を遁れようとして「工面の善さ」(Poros)と野合を遂げて生んだ混血兒に外ならぬ(三)。他者への憧れ他者への思慕こそこの愛の本質である。
 愛は永遠について語るを好み永遠に變らぬを誓ひさへもするが、文化的生の段階において從つて人間性の及ぶ限りにおいては、時間性の覊絆を脱することの不可能は明かである。愛において主體は他者との共同を求めるが、その共同が成立つことは、言ひ換へれば、他者が自己のうちに取入れられることは、取りも直さず、共同の消滅と新たなる共同への新たなる希求とに外ならぬであらう。共同の可能なるためには他者が飽くまでも存立することが必要である。かかる他者は實在的他者に求める外はない。このことは自然的生が文化的生の基體としていかに重要なる役割を演じてゐるかを指し示すであらう。しかるにこの自然的生はそれの二重性格によつてあらゆる活動を從つて愛をも自己矛盾に陷らしめ、かくて時間性の桎梏に呻かしめる。それ故時間性を克服し永遠性を成就するためには、自然的生そのものを、從つてそれと聯關して、活動としての生の性格を克服せねばならぬ。しかしてこのことは他者との間に搖ぎなき生の共同を確立するを意味する。主體も他者も衝突や侵害によつて互の存在を壞滅に陷れるを止め、かくして兩者の間に一致和合の完成を見るに至つたならば、生のあらゆる不安定性未完成性斷片性はおのづから跡を絶ち、永遠性はそれの充ち足る姿を現はすであらう。
 さてこの任務の遂行には古へより哲學と宗教とが當つてゐる。哲學的永遠性即ち無時間性についてはすでに詳しく論述した。觀想は活動の一種でありながら、しかも活動の性格の克服、更に根源まで遡れば、自然的生の支配よりの解放を目指して動く。從つてそれの行へは、他者としての客體が全く自然的實在者との聯關を打切つて、自由獨立なる自主的存在を確保した處に存せねばならぬ。哲學が對象とするものはかかる純粹客體である。純粹客體は一切の時間性を離脱し過去現在將來の別を超越して、とこしへに變らぬいつも同じき存在を保つ。かくの如き無時間的超時間的存在こそ哲學が永遠性と名づけるものである。これらの諸點についてはもはや立入つて繰返へす必要はないであらう。かくの如き純粹觀想においては對象從つて他者と主體との間に極めて親密なる共同が成立つ。活動において存在した客體面の凹凸、自己性と他者性との間の緊張はここでは取除かれ、僅かに客體が客體として成立ち得るだけの他者性しか殘り留まらぬ故、主體(自我)と他者との間に成立つ一致和合は最高度のものである。それ故、この立場においては、哲學における乃至哲學によつて到達される主體と對象との間柄は、愛の最も優秀高級なるものと看做さるべきであらう。歴史的事實としては、プラトンが最も勝れたる意味においてエロースの名をそれに與へて以來、アリストテレスやプロティノスを始めとしてかれの思想の影響の下に立つた思想家たちのうちには、何等かの形において直觀と愛との、取分け神の(に對する)直觀と愛との、同一性乃至極めて親密なる聯關を説いたものが多い。後の思想に深き影響を及ぼしたアウグスティヌスの caritas(愛)の思想においても、それと神の直觀との關係は、それが或は後者の前階であるかの如く或は後者を包含するかの如く幾分の不明瞭を留めてはゐるものの、極めて親密であつたことは爭ふべくもない(四)。スピノーザの amor dei intellectualis(神の知的愛)の如きも最も傑出した一例として擧ぐべきであらう。
 しかして、哲學における純粹觀想が文化的生の本質をなす自然的生よりの解放の徹底である如く、哲學の本質をなす純粹客體としての眞理への愛も亦文化的エロースの徹底化である。エロースは對手の實在者との共同を觀念的存在者をして媒介せしめる。かかる媒介者こそそれにとつては直接的交渉に立つ他者なのである。今自然的生との聯關を斷ち切り從つてあらゆる土臺と支柱とを取除いて、直接的交渉者の獨立性を設定し貫徹したとすればどうであらうか。そこに現はれる姿は純粹客體との共同としてのエロースの外はないであらう。時間性よりの離脱はかくの如き飛躍上昇を要求するであらう。この點に關してもプラトンは(「饗宴」篇において)示唆に富んだ先蹤を遺した。愛は先づ自然的實在者即ち人又は物、特に人に向ふ。その際媒介をなすは美である。しかるに美しき對象への愛は又他方「よきものが永遠に自己のものであること」へと向ふ。すなはち善において價値において自己を實現しつつ永遠性不死性を獲得することがエロースの努力の向ふ所である。その際美は、善の特に優秀なるものとして、結局一切の價値を支配し包括する。さて、愛がなほ自然的實在者へと向ふ間は、不死性(永遠性)は、或は子孫における生の存續の如き或は後の世に遺される不滅の名不朽の功績の如き、いはば間に合はせの代用品をもつて滿足せねばならぬ。しからば眞の不死性はいかにして獲得されるか。自然的實在者との聯關を斷ち切ることによつて。すなはち、主體は先づ活動より觀想へと轉じる。次にそれは美しきものの段階を、物質的のものより精神的のものへ自然的のものより文化的のものへと、しかも特にそれらを美しくあらしめる共通性に注意を拂ひつつ、一段一段と昇る。昇り切つた處突然眼前に立現はれるものは何であらうか。美そのもの――時や處やその他すべての關係性を超越し、基體としての自然的實在者をも離脱し、それ自らとしていつも同一なる自己の姿と生ずることも滅びることもなき永遠の存在とを保つ、自主獨立的存在者としての美、美のイデア――のくすしく妙へなる姿である。この純粹形相の直觀において主體は客體と完全なる合一を遂げかくて不死性(永遠性)を成就する。
 ソクラテスとの比較は甚だ興味深き聯關と對照とを示すであらう。かれにおいてはエロースは指導者と被指導者との間に成立つ生の共同であり、その共同は實踐的人倫的活動の諸能力を養ふに必要なる識見の獲得を目的とする。その場合それらの諸能力の定義即ち概念規定に關して論議は交はされるも、それはかの主要目的達成の一手段に過ぎぬ故、概念的認識が獨立性や優越性を主張するやうなことは全く見られない。アリストテレスは、認識の原理に關して歸納法と普遍的概念規定とを發見乃至主張したことを、ソクラテスの功績として擧げた(五)。すなはち彼の解釋によれば、ソクラテスは物の本質が概念的普遍者に存するといふ眞理を發見し、ひたすら概念的規定即ち定義の獲得へと努力したといふのである(六)。しかしながらこれは、アリストテレスが自己の哲學的立場より、即ちソクラテスをもわが先驅者となさうとする意圖より、下した主觀的解釋に過ぎず、ソクラテスにおいてはむしろ一切が實踐的なるものを目指したことは、かれの著しき特徴として特に強調すべきである。このことと聯關して、かれにおいては觀想が優位を占めるといふことはなく、又それの對象が自然的生との聯關を離れて獨立性を保つといふこともない。更に又このことと從つて人倫的活動の強調と聯關して、彼においてはエロースは飽くまでも人倫的共同從つて實在者の間の共同に踏留まつてゐる。プラトンは指導者と被指導者年長者と年少者との間に存するかくの如き生の共同をそれの人倫的從つて實在的基礎より切離し、媒介者の役を務めたに過ぎなかつた觀想とそれの對象とに終極性を與へることによつて、哲學的エロースの思想を創造した。エロースとしての愛の立場においてはこれこそ本來の傾向の徹底といふべきである。
 
(一) esti gar ho philos allos autos. ―― Aristoteles: Eth. Nic. 1166 a.
(二) 活動に關しては八節以下參看。
(三) SymP. 203.
(四) 次の二書參看。Holl: Gesammelte Schriften. III. S. 81 ff. ―― A. Nygren: Eros und Agape. II, S. 321 ff. ――中世的世界觀の詩的代表者として、ダンテの「天國」篇も勿論一例として擧げることが出來よう。例へば人口に膾炙する次の句參看。
 〔Licht der Erkenntnis ganz erfu:llt von Lieben〕,
 〔Lieben des wahren Guts, voll Fro:hlichkeit〕,
 〔Voll Fro:hlichkeit, die Worte nie beschrieben〕.
    (Par. XXX, 40. Nach Gildemeister.)
(五) Metaphysica. 1078 b, 17 ff.
(六) Zeller がこれを採用して以來これは最も廣く行はれた解釋である。それの誤謬を示し正さうとしたことは H. Maier (”Sokrates.“1913) の功績といふべきであらう。
 

        三四

 以上論じ來つたエロースより區別されるものとして、「アガペー」(〔agape_〕)の名を以つて呼ばれる愛がある(一)。これは歴史的にはキリスト教の世界において特に力強き原理的主張を見特に顯著なる術語的理論的表現を遂げたが、實質的にはいづこの世界にも見られ得るもの、日常の生においても、すべての人倫的共同に眞の生命を與へつつ、この世ならぬかなたの世界の閃きを示すものである。エロースは自己實現の性格を擔ふ生の共同である。故に若し、不可能なる極限の場合ながら、この性格が徹底化を見たと假定すれば、主體は他者を完全に自己のうちに取入れ完全に克服することによつて自己を無際限に擴張するであらう。その際「現在」は完全に一切を支配し盡す故、全き永遠はわれの所有に歸するであらう。無限者と合一し一切の存在をわが懷に抱いた我は全身をもつて窮みなき歡喜と幸福とに浸るであらう。しかしながらかくの如きは、すでに論じた所で明かである如く、身の程知らぬ文化的人間的主體の誇大妄想に過ぎず、エロースの完全なる成功は取りも直さずそれの完全なる失敗に外ならぬのである。しかるに之とは根本的に異なつて、アガペーは正反對の方向を取る。それは他者より發して自己へと向ふ。それは他者を原理とし出發點とする生の共同である。他者を主となし自己を從となすこと、他者を規定者自己を被規定者となすこと、はそれの基本的特徴である。この愛が志す所を成遂げ本來の性格を徹底せしめたならば、自己は無に歸して他者のみ有る生の共同が成立つであらう。このことは自己實現を本質とする現實の人間的主體にとつては勿論不可能の事である。現實の人倫關係は原則的にはエロースとして成立つてをり又しかせねばならぬのである。アガペーの本質には超越性がはじめより宿つてゐる。しからばそれはエロースの如く本來の不可能事を要求するだけのものであらうか。或は却つてこれこそ眞實の愛であり、エロースはこれによつて活かされることによつて、否むしろこれによつて克服され止揚されこれのうちに死し葬り入れられることによつて、はじめて愛として甦へり自と他との共同として成立ち得るのではなからうか。
 吾々は先づ少しく立入つてアガペーの諸特徴を考察しよう。人間の現實的生は自然的生の土臺に築かれたる文化的生としてのみ成立つ故、エロースの性格を全く離脱したる純粹の單獨のアガペーといふが如きものはもとより現實的には見るを得ぬ事柄であるが、後者の出現は前者に一定の特色と傾向とを與へることによつてそれと知られる。人と人との愛を、あらゆる人倫關係を離れ從つてそれを媒介する觀念的存在者を全く離れて成立ち得るものの如く考へるは、もとより甚しき謬見であるが、特定の制約の下に立つそれらの共同に、その制約を超越し場合によつては克服して新しき意味と精神とを與へる所に、アガペーの働きは見られるのである。このことはややもすれば、あらゆる差別を撤廢した博愛、あらゆる特殊の人倫關係を離脱して人類一般を眼中に置く人類愛、などの意義にのみ解され易い。しかしながら遠近・廣狹・大小・普遍・特殊等の差別が規定原理として愛の成立を支配する間は、いづれの方向に傾くにせよ、その愛は依然エロースの性格を擔ふのである。人と人との共同はもとより人間性の地盤の上に行はれる。しかしながらその共同の特徴が人間性を唯一乃至最高の規定原理とするといふことに盡きるならば、それは結局人間的主體の自己主張自己實現の一形態であるに過ぎぬであらう。之に反してアガペーの第一の特徴はむしろ媒介するあらゆる規定原理を超越乃至克服して無制約的に他者を原意とする點に存するのである(二)。主體の側よりいへば、それによつて成就さるべき何事かがあるのでもなく、又それを促がす何事かの必要があるのでもない。他者の側よりいへば、あらゆる性質・資格あらゆる價値觀念は全く超越乃至克服される。いづれにせよ共同を理由づける何ものも存在しない。尤もいつまでも努力の性格を脱し切れぬ現實的生においては、アガペーは自己實現の努力の土臺の上に建設されねばならぬ故、それは先づ、他者によつてのみ規定され從つてあらゆる媒介的規定の制約を離脱した點において、又その意味において、自由なる共同への努力の形を取らねばならぬであらう。
 主體性は自己の存在の主張であり從つて愛の共同も自己實現の地盤にのみ發育し得るといふ事態はアガペーの本質の理解を甚しく困難ならしめた。アリストテレスがすでに洞察した如く、人間性の立場においては、いかなる愛も根源においては自愛なのである(三)。それ故アガペーの體驗に惠まれた人々も、それの理解へと自己省察を試みる場合には、人間的主體の基本的性格をなす自己實現の姿に眩惑されて、アガペーの特殊の性格を見失ふ恐れがある。後の思想に深甚の影響を及ぼしたアウグスティヌスの如きその事の最も顯著なる一例と見るべきであらう(四)。彼においては caritas ――ラテン語において agape に當る――は自愛(amor sui)の一種、ただ最も卓越した一種に過ぎぬ。すべての愛は自愛であるといふ根本的性格においては變りはないが、ただ對象を異にするのである。愛の對象は善即ち價値である。最高價値即ち神へと向ふ愛が、乃至人への愛としては神への愛の特殊の從屬的發現形態と見るべきものが、カリタス(アガペー)なのである。若しかくの如くであるとすれば、エロースとアガペーと間には、ただ程度的部分的相違があるのみであらう。價値は主體の自己實現の制約乃至契機をなすものとして觀念的存在者である。かくてアウグスティヌスが共同の對手としての實在者を殆ど見失はうとした點も注意に値ひする。愛の對象である限りにおいては神も人も結局觀念的存在者、プラトンがイデアと呼んだものに過ぎぬであらう。さてかくの如きがエロースの思想の行くへであることはすでに述べた通りである。
 以上述べた所と聯關して又それの歸結として、アガペーの第二の特徴をなすは自己抛棄、犧牲、獻身、去私、沒我、等の語によつて言ひ表はされたる主體の態度である。尤もいかなる愛も他者との共同である故、いづれの場合にも自己性の或る形或る程度の克服はあり得る。卑近な一例を取れば、財を蓄積するために肉體的感能的快樂を擲つも一種の自己克服であるに相違ない。しかしながら、かくの如き場合においては、否遙かに高尚純潔なる場合においても、いつも一つの自己が他の比較的價値の高き自己のために犧牲に供せられるに過ぎぬ。そこには部分的自己の相對的抛棄があるのみである。しかるにエロースとは方向を全く逆に取るものとしてアガペーにおいては、自己の全體性の無條件的抛棄が要求される。尤もこのことは決して人間的偉大さを示すやうな花々しき英雄的動作や人を驚かせるやうな目ざましき歴史的大事件を特に意味するのではない。それは日常萬般の些細なる事情の下平凡なる行爲においてもそれを活かす精神としていつも要求されるのである。すなはち、あらゆる人倫的間柄において對手において人格を見、人格に對して取るべき態度を取るのがアガペーである。人格を簡單に定義すれば、カントに從つて、手段として用ゐられることなく自己目的としてのみ成立つもの、といひ得るであらう(五)。これを言ひ換へれば、他者は飽くまでも他者として留まり、自己實現の一契機に墮ちることがなく、それとの共同において主體はいつも他者を本とし他者より出發し、從つて自己性を投出して他者において他者よりして生きるところに、人格性は成立つのである。
 
(一) 語學的乃至文獻學的諸問題に關しては 〔W. Bauer: Gr.-deutsches Wo:rterbuch zu den Schriften des N. T. u. s. w.; Gerh. Kittel: Theologisches Wo:rterbuch zum N. T. Bd. I.〕 參看。但し語學的文獻學的觀點より觀たのみでは到底問題を解決し難きことは、プラトンが(SymP. 180 b)〔agapao_〕 を殆ど 〔erao_〕 や 〔phileo_〕 と同義に用ゐてゐる一例によつてもすでに證明される。――Nygren: Eros und Agape. 〔2 Ba:nde〕. は類型論的論究とキリスト教における發展の歴史的敍述とを兼ね備へたものとして、アガペーの觀念に關して最大の貢獻をなした書である。ただ「神への愛」にそれの重要性にふさはしき評價と理解とを寄せ得なかつたことが、この書の惜むべき缺點である。
(二) 所謂「隣人愛」(〔Na:chstenliebe〕)はこの意味においてのみアガペーの實現形態となり得る。
(三) Eth. Nic. IX, 8.
(四) アウグスティヌスに關しては「宗教哲學」三九節、及びその後に現はれた Nygren 第二卷の卓れたる敍述及び解釋、參看。
(五) 「人格」に關しては「宗教哲學」二九節以下參看。
 

      二 神聖性 創造 惠み

        三五

 アガペーの本質的特徴が以上の如くであるとすれば、ここに極めて重要なる歸結が現はれて來る。それは、アガペーにおいて共同の對手として立つ他者は可能的自己の性格を保つこと無き眞實の他者でなければならぬ、といふことである。しからば、それがエロースにおいての如く觀念的存在者であり得ぬこと、むしろ反對に、實在的存在者でなければならぬことは、おのづから明かであらう。しかるに今までに知り得た實在的他者は、主體と自然的直接的交渉において立つ自然的實在者の外にはなかつた。若しそこへ立戻るとすれば、そのことは文化的生によつて試みられた共同のためのあらゆる努力の無意味と、しかして生の原始的自己爭鬪の有意味とを、宣言するに等しいであらう。生がここに最も重大なる危機に遭遇したことは疑ひの餘地がない。若しここに新たなる天地が開かれぬならば、生は絶望の淵に沈む外に途はないであらう。しかも吾々當面の關心事である永遠性の問題にとつても、解決の成否は一にこの難關を突破し得るか否かに懸かつてゐる。主體の存在を非存在への沒入より救ひ、滅びぬ現在を確保することは、實在的他者との共同に俟つほかはない。かかる他者は果して又いづこにあるであらうか。ここに吾々は宗教への轉向點に立つ(一)。
 宗教的體驗において主體に對して他者として立つもの――通常「神」と名づけられるもの――の最も基本的なる特徴は、宗教自らの言葉を用ゐれば、「神聖性」である。神は侵すべからず近寄るべからざるもの、あらゆる現實的存在、世間的又は世俗的と呼ばれる存在、より全く隔離したるもの、自己を主張しつつそれへと近寄り侵し來りそれをわが内に取入れようとする人間的主體に對しては、本來の極みなき尊嚴と威力とを發揮して惜氣もなくこれを壞滅の中に葬り去るものである。存在論的に言ひ表はせば、それは實在者、主體にとつては實在的他者であり、飽くまでも妥協せず讓歩せず徹頭徹尾實在性他者性に留まる點において、絶對的實在者・絶對的他者である。かくの如きものとして、それは一方、主體に對して可能的自己の性格を保つ觀念的存在者とは異なつて、飽くまでも眞實の他者であり、しかも他方、自然的生における實在的他者が、主體とまつしぐらに相衝突し壞滅をもつて主體を脅かす代りに自らも主體の侵害の危險に晒される、時間性可滅性に委ねられたる他者に過ぎぬとは異なつて、飽くまでも他者性を守り拔き貫き通す實在的他者である。愛の共同の對手としてそれは正に必要條件を充たす如く見える。現に宗教的體驗は最も重要なる内容として神の愛と神への愛とについて語る。ただ問題は絶對的實在者・絶對的他者との共同が果して又いかにして可能であるかに存する(二)。
 この共同が成立つためには神の神聖性、絶對的他者の絶對的他者性實在性、は飽くまでもそれとして貫徹されねばならぬ。このことは何を意味するか。人間的主體が全く無に歸せねばならぬを意味する。自と他との共同は、究極においては何であらうとも、とに角先づ直接性における交はり即ち接觸でなければならぬ。媒介が可能とするも、それはいつも媒介の任に當る直接者の存在を必要とするであらう。しかるにここでは主體と他者との間に媒介の任に當り得る第三者は存在し得ないのである。今假りに觀念的他者がそれとすれば、これは主體を再び文化的生とエロースとへ押戻すであらう。實在的他者がそれとすれば、それが絶對的實在者でない以上、主體は更に逆轉を續けて自然的生と根源的時間性とへ墜落せねばならぬであらう。假りにかかる歸結を考慮の外に置くとするも、第三者と絶對的他者との間には結局同じ問題が繰返へされねばならぬであらう。かくて主體は絶對的他者と先づ直接的交渉に入らねばならぬのである。神との共同に入らうとするものは先づ自ら神の面前に立たねばならぬのである。神聖なる者の尊嚴と威力との前には逃げ隱れはもともと全く不可能なのである。若し現實に存在する諸宗教のうちに、絶對的他者と人間的主體との間を媒介する第三者を説くものがあるとすれば、その場合その第三者は實は第三者でなく神そのものであるか、さもなければ、神は實は神でなく、言ひ換へれば、神聖性は不徹底なるものにをはるか、に外ならぬであらう(三)。それ故、繰返へしていへば、人間的主體は共同に入るとともにすでに先づ神を直接に接觸せねばならぬ。しかるにこのことは、上に述べた如く、壞滅を意味する外はないであらう。何ものをも燒き盡さねば止まぬ神聖性の猛火の中に灰燼に歸した主體は、いかにして生の中心・働きの出發點としての實在性・主體性を保有乃至獲得し得るであらうか。
 
(一) 「宗教哲學」四二節以下參看。
(二) K. Barth (”Kirchliche Dogmatik.“I, 2. S. 425 ff.) は愛はいつも對手(〔Gegenu:ber〕)對象(Gegenstand)をもつ、即ちいつも他者(der Andere)を愛すると説いて、その限り、正しき理解を示したが、舌の根の乾かぬ間に ander といふ語を無造作にも andersartig に置き換へてゐる。すなはち、神が人の愛の對象である以上、その對象は對象であるが故に主體である人間とは全く類(性質)を異にする存在者でなければならず、逆に人間は神と全く類(性質)を異にする存在者即ち罪人でなければならぬ、といふのである。驚くべき殆ど無鐵砲ともいふべき論の立て方である。尤もややもすれば論理よりも修辭によつて思想の力よりも感情の勢ひによつて動く癖のあるこの神學者においては、このことは或はむしろ恠しむに足らぬであらう。「他者」及び「他者性」の三つの異なつた意義に關しては本書の諸處殊に九節參看。
(三) それ故、例へばキリスト教神學の説くキリストの神聖は、神の神聖性の必然的歸結とさへいひ得るであらう。
 

        三六

 神聖者はそれの絶對的實在性をもつて破壞の力として働くばかりでなく、又建設の力として働く。あらゆる存在を奪ひ取る力はまたあらゆる存在を與へる力である。神は全能であり一切事物の根源であるといふ思想はあまねく諸宗教に行渡つてゐる。「創造」の思想も、それの一形態として、同じく神聖性の積極的方面に源を發する。しかしてこの思想こそ吾々を上述の難關より救ふものなのである。世界が、そこに見られるあらゆる秩序や形態や生命を缺如する、渾沌たる何ものかより造り出されるといふ思想は、未開人並びに古代人の宗教の間に極めて廣く弘まつてゐる。かかる世界發生の原動力としては通常宗教的崇拜の對象である神が考へられる。この場合形造られて世界となるべきものは何ものかとして即ち存在者としてすでに前提されてゐる。しかるにかかる働きは創造といふよりはむしろ形成と名づけらるべきものである。神の働きは質料と形相との間を往來する自己實現・自己表現從つて活動の性格の擔ふ。神は文化的生の像を借りて表象されてゐるのである。かかる表象が神聖性を表現するに不適當であるはいふまでもない。神の絶對的實在性は他の仕方をもつて表現されねばならぬ。「創造」の觀念が即ちそれである。これは神の働きに質料又は制約として豫め前提されるであらう何等かの存在者を否定する點にそれの特徴を有する。神は何ものの牽制をも又促進をさへも受けることなく、ただ自らの本質の計り知れぬ深みより、何ごとによつても理由づけられることなく又何ものの媒介をも俟つことなしに、徹頭徹尾自由に他者の存在を設置する。このことは通常「無よりの創造」(〔Scho:pfung aus Nichts, creatio ex nihilo〕)と名づけられる。これはもと古代宗教の世界形成の神話に端を發したものであるが、キリスト教において體驗の深化によつて醇化されつつ、それの最も重要なる教義に數へられるに至つた。すでにパウロにおいて明瞭なる思想的表現を見たが、後世に最も深き影響を及ぼした神學的概念的表現はアウグスティヌスにおいて見出さるべきであらう(一)。
 さて神の愛はかくの如き創造、無より有を呼び出す働きなのである。逆に言つて、宗教においては創造は人間的主體を壞滅の淵より救ひ出す神の愛として特に體驗される。その他の意義は、宗教においては、この基本的體驗によつて根據づけられたるもの乃至はそれより派生したるものとしてはじめて考慮に値ひする(二)。しからば神の愛としての創造はいかなる働きであるか。それは他者を、この場合人間的主體を、無に歸せしめると共に、有へと、即ち實在するもの自らの生の中心を有するものとして、從つて實在的他者として、無より呼び出し造り出す働きである。吾々は今この事を次のやうに理解することが出來よう。
 眞の愛の成立には、人間的主體がそれへと向つて立つ所の他者が、絶對的他者・絶對的實在者であることが必要である。この必要は宗教的體驗が神聖と呼ぶ所のものによつて充たされた。この場合神聖者は人間的主體の愛の對手をなすものである。しかるに愛がかくの如く人の側のみの事柄である間は、それは、それを成立たしめる筈の又しかなし得る筈の絶對的他者そのものによつて、却つて壞滅の運命を見ねばならぬのである。愛の共同は主體にとつて存在そのものに必要である。愛が成立つことによつてのみ、それは他者への又他者との存在としてのそれの本然の性、主體性、に生きることが出來るのである。自然的生を超越して文化的生に昇り、エロースにおいてこの要求を充たさうとした主體は、つひに失敗にをはらねばならなかつた。しかるに今や最後の試みである宗教への飛躍も同樣の危險に晒されることが明かになつた。この場合難關の突破は全く主體の權限と能力とを超越する事柄である。若し可能とすれば、その可能性は全く他者の側にのみ存するであらう。このことは何を意味するか。神聖なる他者は、神聖なるとともに、否神聖なるが故に、また愛であること愛の主體であることを意味する。すなはち、神の愛が人の愛に先だつこと、後者の根源としてそれをはじめて可能ならしめるものであることを意味する。
 神聖者は上述の如く絶對的實在者である。從つてそれ以外に存在はあらう筈がない。若しあるとすれば、それは絶對者そのものに過ぎぬであらう。しかるに單獨に自己のみに生き自同性にのみ留まる絶對者は、無限に擴がつた圓周の圓心が中心たるを止めておのづから消滅に歸するが如く、結局空虚そのものにをはるであらう。それ故絶對者は自己の外に何ものかを有せねばならぬであらう。さて、この何ものかは、或は思惟の事柄であり從つて觀念的の何ものかであるか、或は事實であり從つて實在的の何ものかであるかである。今思惟の事柄であるとすれば、絶對者は、立入つて何と考へられようと、例へば實在者從つて充實したものと考へられようと或は反對に空虚そのものと考へられようと、結局他者性を媒介として自己同一性を貫徹しようとするもの、他者において自己を實現しようとするものとして、言ひ換へれば、文化的主體の像によつて、表象される外はないであらう。これは率直に單純に空虚に留まるべきものがただ一時遁がれの手數をかけるといふだけに過ぎぬであらう。之に反して他者を事實的存在の事柄とすれば、それはただ宗教的體驗においてのみ與へられる。宗教的體驗の外においては、絶對者も他者も先づ客體として從つて思惟の事柄として與へられねばならぬ。ただ宗教的體驗においてのみ主體は自ら實在者として實在する絶對者と交渉乃至共同に立つを知る。絶對者が實在する他者を自己の外に有することは、事實としてはただここでのみ與へられる。すなはちここでのみ絶對者の問題は眞實の問題として成立ち得る。
 その問題は簡單にいへば次の通りである。絶對者神聖者と關係交渉に立たうとするものそれと接觸するものは無に歸する外はなく、それに對して他者であるものは非存在者以外にあり得ぬならば、いかにして主體は我自らは現にそれの面前に立ちそれの他者として存立し得るのであらうか。創造と神の愛とがこの問に對する答へである。「無よりの創造」はややもすれば、無先づあり神がそれに働きかけてその中より有を造り出す、といふ風に表象され易い。しかしながらかかる表象に譬喩的表現以上の意義を許したならば、甚しき誤解を免かれ難いであらう。神の働きを時間的に畫がくことの不穩當を除いても、そこでは神の働きが文化的活動の像によつて表象されるため、無は嚴密の意味の無ではなく、存在の一種の仕方、この場合可能性乃至質料としての有り方に過ぎぬものとなつてゐる。周知の如く、文化主義に徹底したギリシア人はかくの如くに 〔me_ on〕(無)を考へた。しかしながら無は有の傍ら又は外にそれ自らの存在を保つものとして存在してゐるのではなく、單なる契機しかも克服されたる契機として有のうちに包含されてゐるのである。主體を無であらしめ壞滅の中に葬る絶對的他者の同じ働きが、又それにそれの有するあらゆる存在を、殊にそれ自らの中心と獨立性とを、與へるのである。「無より」といつて無を先行せしめるのは、他者との共同においてのみ成立つそれの性格が無の克服の土臺の上に成立つこと、從つて無を止揚されたる契機として内に含むことを意味するに外ならぬ。言ひ換へれば、創造によつて有も無も一擧に成立つのである。ただ無は有の中に滲込みそれを稀薄にする成分從屬的成分に過ぎぬ。無の克服によつて絶對者は人間的主體に主體性を與へつつ、しかも依然自ら絶對性に留まるのである。否それどころか、絶對者は無とそれを克服する有とを一擧に成立たしめることにおいて、又かくして成立つた共同においてのみ絶對者なのである。今この事態を自然的生の場合と比較するならば吾々はそれがいかに重大なる意義を有するかに驚くであらう。自然的生においては有は無を克服されたる契機としてうちに含むことなく、即ち無を經由することなく、直接的にまつしぐらに自己を主張したればこそ、主體は他者とただ衝突するのみ、主體の存在と他者の存在とは共存に達し得ず、そのことの歸結として主體はわが外へ無へと押出され陷入れられたのである。ここでは有は無に先行した。そのことは有は無に歸し自己に留まり得ぬことを意味した。しかるに今や創造は事の順序を全く顛倒することによつて主體を壞滅より救ふのである。無を外にではなくはじめより内に有する主體のみ自然的生と從つて時間性とを克服して眞實の愛に生き得るのである。
 
(一) パウロ、ロマ書四ノ一七。邦語譯に「無きものを有るものの如く呼びたまふ」とあるは少なくも不穩當である。原語の”〔kalountos ta me_ onta ho_s onta〕“において 〔ho_s onta〕 は古代の解釋家もすでに説いた如く 〔ho_ste einai〕 の意に、即ち「無より有を呼び出す」の意に解すべきである。かかる語法が古典ギリシア語においてもすでに存在したことは、いづれの文法書にも記されてゐる事柄である。――アウグスティヌスについては特に Confessiones. XII, 7 參看。――パウロにおいて「無よりの創造」が宇宙論的觀點よりではなく、神の愛の宗教的體驗の觀點よりして解されてゐることは特に注目に値ひする。
(二) 哲學においてはすべての理論的形而上學と同樣に世界創造の思想が甚だ貧弱な根據しか有せぬことは今更ら取立てて言ふまでもない。
 

        三七

 創造において人間的主體は神の愛を體驗する。我にとつて絶對的他者である神は、しかも我に近寄り接觸し、否、我の存在の最深最奧の中心にまで入込んで、我を根本より改造する。接近を嚴禁する神は、いはば自らその禁を犯し自己を抛棄して、他者との滅びぬ共同を設置する。この共同は何ものか又何事かによつて媒介されるのでなく、何等かの理由や目的によつて制約されるのでもなく、自己目的であり無條件的である。共同は共同のために共同によつて成立つのである。この共同の設置こそ創造である。人はこれを理解しようとして、これをいくつかの要素又は契機に分析しそれらの間の聯關や秩序を説くであらう。しかしながら、前にも述べた如く、かくの如きは、あらゆる時間性を超越した神の動作を時間性の制約の下に立つ人間的文化的生の型に嵌めて表象するのであつて、吾々はこれによつて恰も神の本質の客觀的理論的認識に達し得るかの如き錯覺に陷るを常に警戒せねばならぬ。すなはち吾々は合理主義の誘惑を斥けていつも宗教的體驗の語る所に耳を傾けるを怠つてはならぬ。しかしてかくの如き態度を取る時吾々は創造が決して神の單なる自己主張自己實現の動作ではなく、他者本位の愛の行爲であるを解するであらう。神においては愛と創造とは全く同じ事柄の二つの異なつた見方呼び方に過ぎぬといつても過言でないであらう。吾々日常の經驗に徴するも、純眞なる愛は自己省察によつては知り難きものである。今假りに吾々自身アガペーまで昇り得たとして――かくの如き自信ははじめより自惚自己欺瞞の危險に晒されてゐるが――しか假定して、吾々の自己省察の目の前に先づ浮び出るものは、活動の性格を帶びた自己實現の姿である。自己省察によつて知られる愛はエロースなのである。ただ他者が愛の主體であり、吾々自らが愛せられるものとして、身にしみじみと愛の力を感ずる時、吾々は人間にあり得る限りの眞の愛の淨き閃きに打たれる。人の愛と同樣に神の愛に關しても、吾々は愛せられる者として即ち宗教的體驗において、はじめてそれの何ものかを知るのである。宗教的體驗を離れて神の愛そのものを直接に認識しようとすれば、今假りに人間の認識能力にこの不可能事が許されるとしても、吾々は自己省察によつて得たる人間的愛の像にかたどつて、從つてエロースとして、表象するより外に途はないであらう。しかるに宗教的體驗より出發し、それをあらゆる理解の基準とすれば、吾々は神の愛が他者本位の行爲であること、しかも他者を無に歸せしめることによつて滅びぬ存在を與へる創造の動作であること、を明確に知覺し理解し得るであらう。神の愛は、人間においての如く、與へられたる他者より出發するのでなく、他者を創設することによつて、否しかなすことにおいて成立する。神に對しては他者であるといふことと滅びぬ眞の存在を保つといふことは全く同義である。かくの如き創造としての愛は「惠み」と呼ばれる。惠みは通常受ける資格を缺くものに與へられる愛と解せられる。無に等しきもの無の中に葬り去らるべきものに向けられ無を轉じて有となす愛は、惠みの最大なるもの、最も嚴密の意味における惠みといふべきであらう。惠みは又いつも一方的である。それ自らとしては愛せられる資格なきのみか、愛する力をさへ全く缺いたものに向けられる愛ほど一方的のものはないであらう。愛の共同はかくの如き惠みの創造の働きによつて又それにおいて成立つのである。
 かくして成立つ愛の特質と構造とに關する考察の歩みを更に進めるに先だちて、吾々はここにしばし立止まつて、ここまでの吾々の理解が永遠性の問題の解決にいかなる成果を齎すであらうかを一瞥しよう。吾々が人間的主體より出發しそれを基準とし原理としてゐる間は、吾々は飽くまでも時間性に踏み留まりいつまでも永遠性に遠ざかつてゐる。古へより人は、或は主體自らに内在する本然の力を頼みとし、或は主體の自己主張を援助しそれの目的を達成せしめる世界乃至世界の根源としての最高存在者の力に縋つて、時間性と死とを克服する不死性の慰め豐かなる信念に到達しようとした。又或る人々、人類の最も卓れたる精神的指導者たちは、時間性とともにこの世の塵を拂ひ棄て、淨き純なるもののみの住む天上の世界に高く昇ることによつて、かくて無時間的永遠的なるものと愛の合一を遂げ又樂しむことによつて、自らも永遠性不死性を享受し實現し得ると信じた。しかしながらそれらの企圖それらの願望は悉く失敗と失望とを以つて報いられねば ならぬのである。眞の永遠性はアガペーにおいて又それによつてのみ達成される。絶對的他者との共同の成否のみ永遠性の成否を決定する。しかるに今やかくの如き共同かくの如き愛は絶對的他者そのものの創造の惠みによつて成立つことが明かになつた。この惠みに生きる限りにおいて人間的主體は永遠的生を生きる。永遠性は主體が、全く虚しくなり無に歸した自己を、自己のあらゆる存在を、かなたより來る愛の力・他者の力に獻げ打任かせ、他者よりして又他者においてのみ有り生きるものとなる處にのみ、生の新たなる思ひがけもなき性格として成立つ。言ひ換へれば、神の愛において又それによつて永遠性は成立ち、しかして、その愛に與かることによつて即ち自らも愛の主體となることによつて、否かかるものとして極みなき惠みにより創造されることによつて、人間的主體の永遠性・永遠的生は成就される。自らの力を恃まず、他者の力に一切を委ね、他者の惠みの賜物をすなほに受け容れる虚しき器となること、否しかさせられること、こそ永遠の世界へ通ふ一筋道である。

      三 象徴性 啓示 信仰

        三八

 以上論述した所によつて、愛の共同においてのみ永遠性が求めらるべきことは明かになつた。しかしながらここにその共同の成立についてなほ立入つた論究を必要とする疑問が殘されてゐる。神の愛によつて成立つ共同において、無より創造されたる人間的主體はいかにして主體性を維持し得るであらうか。主體性を保つ以上主體は自己主張をもつて再び他者に衝突し更に新たに無におとしいれられて結局壞滅にをはるのではなからうか。絶對的實在者の外にそれと何等かの關係交渉に立つ獨立の實在者が存在することは全く不可能ではなからうか。かくて主體の主體性は神の絶對的實在性と兩立し難きが如く見える。――さて吾々は比較的手近かな疑問より先づ檢討をはじめよう。一旦無の中より浮び出た主體は更に再び無の中に沈み入るのではなからうかとの問に對しては、吾々は無よりの創造に關してすでに述べた所を想ひ起せば足りる。無より有へ呼び出されたる主體は決して單純なる有ではなく、又かくの如きものであらうともせず、むしろ再び沈み入らねばならぬであらう無を克服されたる契機としてすでに自己のうちに持つてゐる。無はそれの外に獨立の別個の存在を保ち、それが陷いり來るを待つてゐる如きものではない。無を豫め内に包含するが故に主體は壞滅を免れるのである。無の克服が一旦行はれた以上、主體は無の外にいはば安全地帶に避難して純粹の有を保ち又樂しんでゐるといふが如きものではなく、克服されたる無が主體の存在の中心それの本質の核をなしてゐるのである。すなはち主體は――時間的表現が許されるならば――いつも又絶えず無を克服しつつあるのである。それ故、古へよりしか呼ばれてゐる如く、主體の存在の維持はいはば「連續的創造」(creatio continua)なのである。
 しかしながら、かくの如く主體は幸ひに壞滅を免れるとするも、結局主體性を失つて絶對的實在者のうちに吸收され埋沒するのではなからうか。地の表面の突出は山と名づけられて自らの存在を樂しむ如く見えるが、實は地そのものそれの形それの有樣に過ぎぬ如く、神よりして神において神へと有り又生きる自我、自己を他者へ投出した主體、は結局絶對者の存在の仕方それの自己表現の形相として、全く表面的從屬的なる、いはば幻に近きかりそめの存在を保つに過ぎぬのではなからうか。主體性には自らの中心より生き又働くことが本質的特徴である。これは、無より救はれたる、しかし無を核心に有する、絶對者を離れては全く無に等しき、人間的主體においては全く不可能ではなからうか。汎神論はいふに及ばず、通常有神論又は人格神論(Theismus)と呼ばれ宗教的色彩の濃厚さを自らも誇り人も許してゐる世界觀でさへ、この峻嚴なる論理的歸結を囘避し難い。神と人との關係は、プロティノスにおいての如く自然的流出と解されようが、スピノーザにおいての如く幾何學的必然性をもつてする因果性と解されようが、目的論的有神論においての如く世界の終極目的とそれの手段との關係と解されようが、或は又ヘーゲルにおいての如く他者を媒介として自己を實現する絶對的精神の辯證法的發展よりして理解されようが、――いづれにせよ、自己實現乃至自己表現の觀念以上に出るを知らぬ立場においては、絶對者は主體として自然的乃至文化的主體の型によつて理解される故、從つて又他者性は結局可能的自己性に外ならず克服されて消滅することに本分を有する故、この難問は到底解決不可能にをはらねばならぬであらう。
 ここに吾々はさきに「象徴」と「表現」とについて語つた所を想ひ起すべく促される(一)。これらの兩概念の意義をすでに述べた如く規定するとすれば、表現は自己實現の活動の基本的性格をなすに反し、象徴は實在的他者との交渉を成立たしめる原理である。實在するものは決して他の實在者をわがうちに容れず、他者の侵害に對し飽くまでも抵抗をなす。このことは、更に立入つて推究めれば、實在者は主體性において自己主張の動作において成立つことを意味する。それ故自と他との兩實在者の交渉は、若し直接性においてのみ即ち兩者本來の傾向に任せたままで行はれるとすれば、一方の或は双方の、しかして他なくして一のみあることは本質上不可能である故いづれにせよ双方の、壞滅にをはる外はないであらう。かかる歸結に到達せぬ限り即ち自他共存が或る程度成立つてゐる限り、そのことは、他者が他者性超越性を保ちながら、しかも自他相通ずる何ものかによつて主體と相結ばれてゐることを必要とする。生が本質的に他者への生である以上、このことはそれのいづれの段階においても何等かの形において行はれねばならぬ。この任務に當るのが即ち象徴である。象徴は、理解を試みようとする場合、即ち反省と自己表現との立場に立つて取扱はうとする場合、極めて不可解なる殆ど自己矛盾的なる事柄として現はれるであらうが、吾々が現に生きる限りそのことと共に最も根源的なる事實であり、從つて存在の最も基本的なる原理である。日常生活もこれによつてはじめて成立ち得るのである。しかしながら今まで論じ來つた諸段階においては、生の象徴性は不徹底であつた。自然的生においては、それはわづかに壞滅を免れしめる程度のものであり、未だ共同を成立たしめるには至らなかつた。文化的生においては、共同は、他者性が象徴性を離れて自己表現を意味する限りにおいて、觀念的他者との間においてのみ成立つたのであり、從つて實在的他者との間においてはわづかに間接的にのみ成立つたのである。生の象徴性は、自然的生が基體をなす限りにおいてのみ、保たれたのである。しかるに自然的生の徹底化はむしろ自己壞滅從つて象徴性の破棄に存する外はない。それ故、自然的生從つて時間性の危機より救ふものは逆に象徴性の徹底化でなければならぬであらう。
 吾々はかくの如き徹底的象徴性を神の愛・創造の惠みにおいて見る。さて、象徴性の最も手近かな又身近かな實例、あらゆる人倫的交渉の最も基本的根源的形態、あらゆる象徴性の理解の基準となるべき典型的體驗、は言葉である。「言葉」は人倫的交渉を媒介する固定したる客體的形象即ち符徴記號そのものの意義にも用ゐられるが、これはむしろ派生的意義であつて、根源的意義は、必ずしも固定したる客體的存在を保つを要せぬ何らかの形象即ち何等かの生内容が、他者を表はし指し示す象徴となることによつて、人と人との、實在者と實在者との、交渉乃至共同が成立つことに存する。それ故、古の思想家達殊にアウグスティヌスが明かなる概念的表現に移した如く、創造は「言葉によつて無よりなされる創造」と呼ぶことが出來よう。絶對的他者と人間的主體との共同は、神先づ語ることによつて絶對者自らの語る言葉によつて成就される。人間的主體は、何ものをも殘すことなく一切の存在を提げ、單に生の内容ばかりでなく中心そのもの主體性實在性そのものをも携へ、全き自己と自己實現とを捧げて、徹頭徹尾他者の象徴となる、否、ならしめられる。自然的生を基礎とするあらゆる生においても、實在的他者との交渉は象徴を通じて行はれるが、その場合象徴となるものは生の内容のみであつて生の中心ではない。主體性實在性そのものは象徴の外にある。從つて象徴となりたる乃至なりうる内容は自己表現の性格を飽くまでも保存する。共同が成立つとしてもそれは部分的斷片的であり、何等かの制約理由の下に立つ。幸ひに眞實の共同、他者を出發點とし原理とする共同、の閃きは見えるとしても、それは忽ちにして消え失せ、殘るはたかだかかかる共同への努力のみとならう。これはエロースの立場であり、根柢において他者への單なる憧れの性格を保つのである。之に反して成就されたるアガペーにおいては、主體性までが象徴化する。主體のあらゆる存在は中心に至るまで他者へと獻げられる。それの全き自己は無に歸する。このことはすでに他者の働きであり惠みである。しかもこれは事の終極ではない。無を克服されたる契機となしつつ、ここに更に同じ他者の惠みによつて有が生れ出る。かくの如き死を通じてはじめて成就される生、しかも他者への生、こそアガペーであり、かくの如き徹底的象徴化こそ創造である。今宗教的用語をもつて言ひ表はせば、神の見る所欲する所は我の見る所欲する所となり、我は神の意志を爲す以外に我自ら爲す所なきに至るであらう。主體性まで象徴化されるに至らぬ間は、「自己」の象徴化は命令・當爲等の性格を脱し得ぬが、他者の惠みの徹底によつて、當爲は現實に、爲すべき事は爲す事に化し、生は新たなる中心より新たなる力として新たなる内容を具へておのづから湧き出るであらう。共同はもはや表面と表面との接觸ではなく、全體と全體との合一であるであらう。しかもこの合一が自と他との二つの中心の間に行はれることが愛の本質的特徴である。絶對的他者とのかくの如き全面的合一においてこそ永遠性は成立つのである。そこにはこの共同を破るものも二つの中心を引離すものも全く無い。創造の惠みによつて支へられることによつて、主體は無の淵の上に立ちながらしかも壞滅に沈み入るを免かれ、滅びることなき存在と現在とに生きるであらう。それは又他者との完き共同完き合一において生きる故、他者はそれの完き所有に歸するであらう。アウグスティヌスが「神を樂しむ」(fruitio dei)と呼んだものは、彼においては、自己實現による他者との完全なる共同他者の完全なる所有を意味したが、そのことは今や他者の惠みによつてはじめてここに事實となり得るに至つた。自己實現にたよる間は、こなたの一歩の前進はかなたの一歩の後退となり、我が近づくと共に他者は遠ざかり行くであらう。自己を潔く他者の足元に投げ出し他者の言葉を受容れる空らの器となすことによつて、はじめて他者はわが所有に歸する。しかも他者の所有は同時に無に打勝つた新たなる滅びぬ自己の所有である。創造の惠みによつて神の愛によつて、主體は自己實現の性格を全く無の中に葬り去り、愛の主體として新たに生れ出る。自ら愛の主動者であらうとした間は愛は自己陶醉の夢に過ぎなかつた。他者の愛に一切を委ね打任せることによつてはじめて愛は從つて永遠性は現實となるのである。
 
(一) 本書七節參看。
 

        三九

 神の愛への自己の抛棄、從つて從順・信頼・感謝等の態度は宗教的用語においては「信仰」と呼ばれる。信仰は神の愛の呼び掛けに對する人間の答へ、惠みによつて生れ出でたる新たなる自我の新たなる態度、言ひ換へれば、人の神への愛である。根本的に考へれば、信仰は、偉大なる宗教家たちの説いた如く、人間の業即ち自己實現の活動ではなく、むしろ反對に、人間における神の業である。それ故それは創造に對應するそれの半面ともいふべく、その意味においては、永遠性の領域に屬し、時間性乃至罪惡などよりも更に根源的なる觀念といふべきであらう。ルッテルが、信仰は人が罪人であることにではなく神が神であることに基づく、と考へたのはこの眞理を捉へ得たものである(一)。しかしながら信仰のこの本質は、人間の現實的生が全く時間性の支配の下にあり永遠性は單純なる事實として實現を見てゐないことによつて、特異の發現を遂げねばならぬ。このことは勿論、神の愛が單純なる事實として何人の目の前にも現前してゐるのではないといふことと、密接に聯關する。吾々は今この點に考察を向けようと思ふ。
 神の愛が單純にさながらに事實となつたとすれば、永遠性のみあつて時間性のなき存在が現はれるであらう。しかしながら人間の現實的生は飽くまでも自然的生の上に築かれ飽くまでも時間性を本質的性格としてゐる。從つてこの世の愛はエロースであり自己實現であり活動である。しかも、この根も幹も枝も葉も人間的なるものが、新たなる地に培はれることによつて、かなたの世にはじめて咲き出るであらう全く思ひがけもなき變り種の蕾を結ぶに至る。しかしてこの「不思議」この「奇蹟」は神の側よりいへば啓示として人の側よりいへば信仰として行はれるのである。「啓示」は隱れたるものが顯はになり超越的なるものが内在化することである故、廣き意味においてはあらゆる象徴は啓示と呼びうるであらう。實在者は他の實在者をわが内に容れることなく、後者は前者に對して超越的であり隱れたるものである。兩者の交はりはただ象徴によつてのみ行はれる。しかして象徴は一の内にあつて他を代表し指し示すものである故、それは又隱れたるものを顯はにするといひ得よう。しかしながら宗教的用語としての啓示はかくの如き場合をいふのではない。神聖者との交はりが主體のあらゆる存在の徹底的象徴化であることに應じて、徹底的に超越的なるもの徹底的に隱れたるものの内在化のみが、ここでは啓示の名をもつて呼ばれる。自然的文化的生においては、主體の生内容乃至客體内容が實在的他者の象徴であり、乃至象徴として實在的他者に歸屬せしめられるが、この象徴性は一義的直線的である。若し立入つて論理的認識論的分析を施せば、實在者に對する遠近の別は現はれ、思惟による觀念的内容の聯關は、それ自らによつてではなく更に根源的なる内容即ち體驗内容と聯關せしめられることによつてのみ、象徴性を得るであらう。しかしながらこの聯關は、吾々の用語をもつてすれば、むしろ表現關係であり、象徴性はその場合においても飽くまでも一義的連續的である。そこには、一つの實在者の象徴である内容が、そのことにも拘らず、同時に他の乃至全く類を異にする實在者の象徴を兼ねるといふやうな多義性・不連續性は存在しない。しかるにかくの如き事態は宗教的象徴の場合においては發生するのである。尤も神の愛が單純なる事實となり永遠性のみが純粹に存在の性格をなすに至つたと假定すれば――かくの如き事態は後にも説く如く宗教的主體の切なる希望の對象であるに相違ないが――假りにこの事態が實現されたとすれば、一切の存在は、直接的にしかも殘る隈なく餘す蔭もなく、神聖者を顯はにする象徴となるであらう。そこでは、現實の世界においては避けられぬ或る程度の間接性、即ち觀念と觀念との間に存する多義性、一がそれ自らでありながら更に他と聯關しつつ他を表現し又は他によつて表現され、更にいづれも内容的他者でありながら同一自己性の表現としての性格を擔ふといふ程度の多義性さへも全く跡を絶つ。かくの如き純粹なる徹底的なる共同は宗教的用語が「神を見る」と名づけるものである。しかしながら現實の生はこれとは正に反對の事態を示してゐる。神聖なるものは現實の世界においては徹底的に、いはば二重に二次元的に、隱れたるものである。ここでは一切の存在は時間性を本質的性格として持ち、從つていかなる存在も直接的に一義的に永遠者の象徴ではあり得ない。この世の言葉は決してさながらに神の言葉ではありえぬのである。しかもこの時間的の生世俗的の世において神の愛は事實とならねばならず、永遠は顯はとならねばならぬ。すなはち時間的世俗的の存在は先づ自ら無に歸して隱れたる神聖者永遠者を顯はにする器として新たなる有を得ねばならぬ。しかしながらあらゆる存在は現實的生の續く限り依然自己本來の意味自己の舊き姿を保存する。野の百合は飽くまでも百合であり空飛ぶ鳥は飽くまでも鳥である如く、この世の生は飽くまでも自己實現でありこの世の愛は飽くまでもエロースである。それ故神の愛の現實化はこの世の姿この生の性格をそのままに留保しながら、しかも同時に他方それに、徹底的に隱れたるもの超越的なるものを顯はにし内在化するといふ任務を負はせねばならぬ。これが宗教において「啓示」と呼ばれるものである。それ故啓示は多義的不連續的いはば曲線的屈折的なる象徴である。具體的にいへば、神聖なるもの永遠的なるものは或は物或は人或は出來事として、或は歴史において或は自然において、啓示される。又異なつた對象が同時に啓示となる場合には啓示の間に根源的と派生的との又その他重要性の相違の現はれる場合もあらう。いづれにせよ啓示は――尤も本質に必ずしも副はぬやうな諸現象は事實としては到る處に見られるが――永遠性と時間性との間に勢力範圍を適宜に割當てることによつて協定を結び妥協を遂げるやうなものではなく、例へば半ば神半ば人であるやうな對象を押立てるやうなものではなく、兩極にそれぞれの完全なる支配を許すものである。時間的存在も永遠的存在も飽くまでも各自の性格を維持乃至主張する。從つて啓示の任務に當る對象は一方において永遠者神聖者を本質的に顯はにするものでありながら、他方においては反對に本質的に隱すものである。要するに、時間性とそれの領域に屬するものとが、完全に克服されずにそのままに保存される點に、啓示の本質的特徴は存する。このことはそれが暫有的なる事態であり、究極的なるものはなほ更に求めらるべきであるを示唆する。
 神の愛としての啓示に對する人の側の答が、すでに述べた如く、「信仰」である。すなはちそれは人の神への愛に外ならぬ。啓示の多義性兩面性に應じてそれも反對の傾向を從屬的契機として必ず含有する。それは從順・信頼・感謝等でありながら、未だ克服し切れぬ契機としてそれらの反對を、少くも反對の可能性を内に含む。それは完成されたる愛の如く對象の完全なる失ふことなき所有による歡喜に留まることは出來ない。それはいつも足らざるもの缺けたるものをもつてゐる。それは一面憧れでありエロースの性格を擔ふ。眞の愛の如く直接的でありながら又他方媒介をも必要とする。從つてそれは決心・決斷・選擇等の契機をも含む。確實性である傍ら又他方不確實性疑惑の危險をも宿す。すなはち、それの確實性は直觀的でありながら、しかも理由づけ根據づけ關係づけの上に立つ。このことはそれに信念としての性格をも與へる。かくてそれは實在者との共同として實踐的でありながら、しかも同時に一定の表象一定の思想の把握として理論的でもある。かくの如き構造を有する故、神への純粹の愛や神を見る働きなどに比べては、神を信ずる働きは暫有的前階的意義しか有せぬであらう。それにも拘らず、信仰は、それの最深最奧の本質においては、愛そのものであり、全き自己とあらゆる存在とを提げて神の惠みに委ねつつ、ただ神よりして神において神へと生きることである。
 啓示の徹底的なる、しかもそれにも拘らず、多義的不連續的屈折的なる象徴性は、宗教的表象に即ち信仰の理論的内容に、徹底的譬喩性の性格を齎す。この譬喩性は、時間性が全く克服され愛が純粹に完全に成就されれば、おのづから全く消滅する。しかしながらこのことは、信仰の表象が理論的表現の範圍内において暫有的前階的であり、從つて理論的に見て妥當なる終極的表現に席を讓るといふことではない。古へより合理主義者は、信と知との區別をこの意味に解し、概念的學問的認識が、神學や哲學が、信仰の不完全なる方便的表現に取つて替はると考へた(二)。これは許し難き謬見である。時間性の續く限りこの世の留まる限り、宗教的表象の譬喩性は消滅することがない。徹底的譬喩性の範圍内においては表現法の變化や進歩は見られるであらう。例へば具體的表現が理論的に加工整理されて概念的表現に移されるといふやうなことは起り得るであらう、否起らねばならぬであらう。しかしながらそのことは決して譬喩性よりの解放を意味せぬのである。永遠者はこの世にとつては徹底的に超越的である、實在的にも性質的にも超越的である。それ自らとしてはそれはこの世のあらゆる人間的表現をないがしろにする。神と人との共同と交渉との任に當る象徴は徹底的であり、表現の入込むべき空隙を殘さない。表現はもと自己性が或る程度の解放を見たる場合にのみ即ち反省の立場においてのみ許される。表象や概念は時間的生においては共同を媒介する任務に就くであらうが、何等の媒介をも要せぬ眞の愛の完き共同においては、存在さへも與へられぬ。この徹底的象徴性がしかも觀念的表現に移されるのが徹底的譬喩性である。神の言葉は全く人の言葉を超越する。しかも人の言葉に移されることによつて宗教的表象は成立つのである。啓示が一方全き人間性を保ちながらしかも他方全き神性、隱れたる神性、を顯はにするのに應じて、宗教的表象はこの世ながらの觀念性・表現性を飽くまでも留めながら、しかも表現を超越するかなたの世の音づれを傳へる。これが徹底的譬喩性である。それは或る一部の觀念や表象の譬喩性ではなく、觀念性そのものの譬喩性なのである。このことは通常宗教的表象の象徴性と呼ばれるが、すでに述べた如く、用語の明確を期するためには、むしろこの名を避けるを適當とする。
 かくの如く徹底的譬喩性は時間性そのものと本質的に聯關する。それは一方において永遠性との不一致を意味し、しかも同時に他方一致をも意味する。しかも兩極の不一致は徹底的であり相互の歩み寄りを許す如き程度的のものではない。かくてここにも吾々は無の中より有を創造する惠みに出會ふのである。時間的存在がそれ自らで留まりながら、しかもその自己を無の中に葬り更に無の中より象徴としての新たなる存在を得ることが啓示である如く、表現の譬喩性は創造によつてのみ成立つ。吾々が口ごもりながらも神について永遠について語りうるのは、吾々自らの力、乃至は表現に本來具はる資格によるのではなく、徹頭徹尾神の惠みによるのである。
 
(一) 次の書參看。〔P. Althaus: Gottes Gottheit als Sinn der Rechtfertigungslehre Luthers (”Theologische Aufsa:tze“ II) S. 21 ff.〕
(二) 合理主義については「宗教哲學序論」七節以下參看。
 

        四〇

 信仰は愛――この場合人への愛――として働く。神との共同は人倫的共同において實を結ぶ。永遠の世においては一切の存在は神聖者の象徴・神の言葉となる故、人倫的關係において「我」の對手として他者として立つ「汝」も被創造者としての性格を與へられる。このことはその「汝」が絶對者のうちに融け入り消え行き實在性と主體性とを失ふといふのではないことは、「我」についてすでに論述した所によつておのづから明かであらう。象徴化は絶對者に對して主體性を保ち得る唯一の途である。神は窮みなき惠みによつてこの唯一の途を徹底的に進むのである。神を離れては無に等しく神の生に與かることによつて自主的存在と生の中心とを與へられるといふのが、創造せられるといふことの意味である。そこでは自己を無くなすこと虚しくすることは却つて自己を得ることを意味するのである。さて、人間性にまで自覺的文化的存在にまで達したるものにとつては、神聖者の象徴となることは、すでに述べた如く、更に進んで愛の主體となることである。それ故永遠者の支配下においては愛は必ず交互的である。汝も我となり我も汝となる。「汝」は絶對的實在者を顯はにする象徴としてのみ實在性を得るゆゑ、實在者としてはそれは神の神聖性永遠性に與かる。人格の神聖性從つて人格性は創造の惠みによつてはじめて成立つのである。しかもそのことは「汝」も亦愛の主體として創造されるを意味する。かくの如くにして、絶對的他者神聖者の愛・創造の惠みによつて我の愛とともに愛せられる汝が成立ち、そのことにより又そのことと共に、更に我も愛せられる汝として成立つ。神より發したる愛は、かくの如くにして、永遠的愛の共同、それと共に又、人格及び人格性を生み出し又完成する。これこそ、宗教的用語をもつて呼べば、「聖者の交はり」(communio sanctorum)である。永遠性はかくの如き神聖なる人格と人格との間の互の交はりとして成就される。この交はりにおいては主體の動作は他者の純粹の象徴と化する。神の純粹の象徴と化した人格はそのことによつて又他の人格の純粹の象徴となる。かくて他者は主體の自己實現の質料たることを全く止める。文化的動作即ち活動が「表現的」乃至「形成的」と名づけらるべきに對して、人格的動作は「象徴的」といふべきであらう。ここでは主體は自己表現に媒介され從つて妨碍されて他者を手放したり見失つたりすることがない。神と共にあり神を悦ぶことによつて又そのことにおいて、我は汝と共にあり汝を悦ぶのである。共に感謝し共に歡喜する――これが永遠的生の内容である。
 しかしながら啓示の兩面性に應じて永遠性の光は時間性のレンズを通り屈折されてこの世に現はれる。神聖なる愛の交はりは人倫的共同としてのみ實現される。この對象の立入つた考察はもとよりここでは割愛されねばならぬ。吾々は永遠性の觀點よりそれがいかなる變貌を來すであらうかを一瞥すれば足りる。信仰においての如く、愛(人への愛)も決して單純なる純粹なる共同ではない。それは何よりも先づ共同への努力、他者への憧れである。それは共同の缺乏より出發せねばならぬ。すなはちそれはエロースの性格を擔はねばならぬ。從つて又それは何ものかの媒介を必要とする。媒介者はこの場合においてもそれ自らとしては觀念的存在者である。しかしながらここで道が別れる。純粹にエロースにおいては目標は他者における自己の貫徹である。そこには行くへに立塞がる神聖者の侵し難き尊嚴といふが如きものは無い。他者性の任務は、自己性の處理に委ねられそれの實現の契機をなすことに存する。之に反してアガペーは神聖者との共同を目掛けて進む。このことはそれの媒介者に侵すべからざる權威を與へる。カントが定言命法(der kategorische Imperativ)と名づけ、無制約的當爲性を強調した、人格尊重の義務の法則はかかる媒介者の最も顯著なる一例であらう。しかしながら、かくの如くはじめより普遍的當爲性を有するものばかりではない。人倫的共同の種々の特殊の具體的形態の背後にあつてそれを制約し規定し促進し支持する、しかして多くの場合むしろ事實的勢力として主體を支配する諸の法則や秩序も、かくの如き建設的意義を有する限り、神聖なる愛の光を浴びて、一方侵すべからざる權威を發揮するとともに、他方恩として惠みとして仰がれるであらう。アガペーが抽象的なる人間性や人類などの如きものを對象とするが如く考へるは甚しき誤解である。この世においては具體的の人倫關係、特殊の人の道を離れてアガペーはあり得ないのである。アガペーそのものへ乃至信仰への努力を存在理由とする諸種の共同體も、特殊の人倫關係の内部において乃至それと並んで從つて同樣に特殊性を有する人倫關係としてのみ、愛の實現の地盤でありうるであらう。永遠的愛の獨占はいかなる共同體にも許すべきでない。尤もこのことは、現實に存在するいかなる共同體にも又それのいかなる事實的内容にも、平等の權利や價値を認めるといふことではない。愛は本質上永遠的なるものとして飽くまでも超越性を保ち、從つて時間的現實に對しては當爲の源となり又批判の規範を提供する。
 人格の神聖性と聯關して主體の態度に更に一大變革が行はれる。純粹のエロースは價値ある對象へと向ふ。自己實現を目的とするものとしてそれはこれを促進する制約として他者を求める。それが他者を悦ぶのは結局他者において自己を悦ばんがためである。之に反してアガペーは他者本位であり他者を基準とする。それはいつも對手において神聖なる實在者、神の惠みによつて創造されたる人格を見る。信仰によつてのみ把握される他者のこの眞の姿は、この世の性格によつていかに歪められ醜くされようと、愛は飽くまでそれ本來の態度を固守する。この態度の顯著なる現はれは例へば敵に對する愛において見られるであらう。永遠の世においては敵は無い。他者は神聖者の象徴となつて自ら愛の主體であるであらう。しかるにこの世の性格は、第一に愛を一方的ならしめ、第二にあらゆる價値的自己實現的考慮を無視して自己に反對するものにさへ向はしめるのである。次に、永遠の世においては實在者は純粹の共同完全なる和合において滅びぬ完成されたる存在を保つ故、何等の爭ひも又何等の苦しみ悲しみも平和と歡喜とを脅かさぬであらう。しかるにこの世の姿はそれとは正反對である。ここでは他者は自然的文化的主體であり、從つて永遠の愛に背きつつ世の惱みに悶える主體、絶えず存在を失ひ缺乏と壞滅とに委ねられる「汝」である。この窮状より彼を救ふことが、それ故、我の急務とならねばならぬであらう。我は人の罪惡と苦惱とをわが身に背負ふことによつて、自己を他者のものとなしつつ、他者の存在の、從つて結局は他者の主體性、自然的文化的のみならず人格的主體性、の維持と促進とに邁進するであらう。慈しみ・憐れみ、進んでは奉仕・獻身等が我の態度となり乃至はそれとして要求されるであらう。――かくの如く生きるものは今現に時の眞中にこの滅びつつある世に在りながら、すでに滅びぬ現在において永遠的生を生きるのである。

        四一

 吾々の論究の成果は永遠は愛において成立つといふことである。すなはち、第一に、永遠は主體的のものであり、客體的のもの單に靜かなる存在ではない。次に、それは共同であり、それ自らの孤獨なる存在に安んずるものではない。すべて實在的主體的のものにおいては、「存在する」は「働く」「生きる」と同義である。しかしてすべての生すべての動作は他者へのそれであり、單獨孤立を斷然拒否する。かかる存在は完成されたる共同においてはじめて維持貫徹される。共同の成立つ限りにおいて存在は壞滅を免れる。時間性の觀點より見られたる存在が現在であるとすれば、滅びぬ現在即ち永遠は愛の共同においてのみ成立つのである。かくの如き生は缺乏と壞滅とを知らぬ。完成性と全體性と、從つて又濁りなき淀みなき生の喜びはそれの特徴をなすであらう。
 永遠性の以上の如き本質がすでに或る程度までイデアリスムの哲學によつて洞見されたことは、吾々がエロースについて論じた所からも察し得られるであらう(一)。アリストテレスがプラトンの思想に加へた修正の最も主なるものは、存在を生乃至動作(energeia)と同一視したことである。存在を靜止せる自己同一性に置くことには滿足し得ずして動的性格をそれに付與しようとする傾向はプラトンの後期の思索にも見えるが、それが貫徹されて世界觀の中心に置かれるに至つたのはアリストテレスにおいてである。時間的存在においては生は運動として實現される。それは可能性より現實性への推移としていつも缺乏より充實へと向ふ。それ故純粹の現實性純粹のエネルゲイアにおいては充實あるのみ、從つて運動は無い。さて、かくの如き動作はただ觀想においてのみ可能である(二)。觀想(〔theo_ria〕)の本質は、觀られるものと觀るものと、認識の客體と主體と、が同一形相において合一すること、主體よりいへば、それ自身客體の形相に成ることに存する。それ故その本質の純粹なる實現は、主體と客體とが全く同一であり、從つてあらゆる努力あらゆる運動を超越して、兩者の合一がいつもすでに成遂げられてゐる處にのみ見られる。このことは純粹なる完全なる自己認識、思惟の思惟、である神において事實となつてゐる。人間的主體はそれの思惟をもつて神の思惟に與かることによつて、又無上の歡喜と幸福とに與かる。云々。アリストテレスは永遠性の概念そのものの論究は試みなかつたが、神を永遠的と呼び、又特に永遠的生が神のものであるを説き、人間に關しては神の思惟に與かる限りの理性を特に不死的・永遠的と呼んでゐるを思えば、彼が神においては自己との生の完全なる共同を、人においては神との完全なる生の共同を、永遠性の本質と解したことは、全く疑ひを容れる餘地が無い(三)。かくの如き傳統を繼いで、時間性との聯關において永遠性の周到なる論究と明確なる概念規定とを試み、イデアリスムの哲學の永遠觀を完成したのはプロティノスである。後の思想は彼の祖述以上に多く出でぬといつても過言ではないであらう。主體と客體との完全なる合一、即ち他者性を背景とする完全なる同一性、が彼においても永遠性の本質的特徴である。かれの特に際立つた功績は、永遠性が生において成立つことと、全體性乃至無限性を特徴とすることとを強調した點に存する。アリストテレスにおいてと同じく彼においても、神即ちこの場合 nous は純粹なる完全なる觀想であり、人間はこの神的觀想に與かることによつて、即ち觀想の働きをもつて神との合一を遂げることによつて永遠性を獲得する。
 この思想は、永遠性が生の共同從つて愛において成立つことを認めた點において、眞理の深き洞察を宿してゐる。しかしながらその愛は觀想主義の立場におけるエロースとしての愛以上に出でなかつた。尤もエロースは本質上憧れであり缺乏を前提としてのみ成立つゆゑ、何等かの意味においてそれの超越が行はれねばならぬ。このことはここではエロースをしてそれ本來の目的を遂げしめることによつて行はれてゐる。すなはち、エロースがそれへと目がけて努力はしながらも到達はなし得なかつた客體――この場合無論純粹客體――との主體の完全純粹なる合一がここでは永遠性なのである。しかしながら、すでにしばしば論じた如く、活動を克服しようとする觀想の志向は果して成遂げられるであらうか。成遂げられたとすれば、それはあらゆる他者性の消滅從つて主體性そのものの壞滅と同じではなからうか。生と名づけ得るものはいつも他者性を含む。他者性の消滅した處には生もなく又勿論生の共同もあり得ない。次に、假りに神そのものの永遠性は許すとして、人間的主體は果してそれに參與しうるであらうか。神そのものはあらゆる活動あらゆる時間性を超越してゐるとして、時間的生を生きエロースによつて地上に活動を續けてゐる人間的主體は、いかにして又果して天上の永遠の世界まで昇りうるであらうか。エロースの目的がすでに完全に達成されてゐる神においてはもはやエロースは無い。神よりして人へと愛の手は差し延ばされない。人が神へと向上の努力を試みねばならぬ。その努力は果して報いられるであらうか。答は明白に「否」である。人間的主體が自らの力を恃みて永遠を手掴みにしようとする僭越なる企圖は、簡單に幻滅をもつて報いられるであらう。之に反して、己を虚くし一切を他者に獻げるアガペーにおいてのみ、眞の共同從つて眞の永遠は達成されるのである。ここでは他者性は眞實の他者性即ち實在的他者性である故、飽くまでも消滅することなく、それ故又眞實の共同を可能ならしめる。しかもその他者性は、絶對的實在者にとつては、外より與へられたる、直接的衝突を意味する、外面的他者性ではなく、絶對者そのものが愛よりして、即ちそれの本質をなす永遠的共同そのものよりして、設置した他者性である故、言ひ換へれば、神においても愛は自己性の實現・自己同一性の貫徹には存せず、他者本位他者主張の動作である故、そこに成立つ共同は、それを或は損ね或は滅ぼすであらう何ものをも含まず又かかる何ものにも出會はぬであらう。その共同は、エロースにおいての如く、終極を從つて完成を見ることなき存在の連續によつて、眞の中心をもたず又眞の中心に達することなき運動によつて、行はれるのでなく、直接に中心と中心とを結合しつついつもすでに終極完成に達して居り留まつてゐる動作に存する故、生と存在とは徹頭徹尾全體的である。かかる存在かかる生においてこそ吾々は眞の無限性に出會ふのである。
 
(一) 三二節、三三節參看。
(二) 活動と觀想とについて吾々がしばしば述べた所を參看。
(三) 永遠性に關するアリストテレスの、殆ど典據を擧げる必要のないほど有名な、思想については、例へば次の諸書參看。Metaphysica Vol. XII; De anima Vol. III, 4 seqq; Eth. Nic. Vol. X. ――不死性永遠性を有する人間の理性(nous)が個人のものか否か等の問題に關しては、古代より論議が行はれ、近時 Brentano (”Psychologie des Aristoteles,“1867) と Zeller (”Kleine Schriften,“Bd. I) との間に有名な論爭が行はれたが、それの解決如何は吾々當面の問題には沒交渉である。
 

        四二

 吾々は神の愛によつて人の愛がいかに根據づけられるかを見た。神聖なる愛の光に照されて一般に現實の生と世界とがいかなる趣きいかなる相貌を呈するかをも、吾々は考察に入れねばならぬ。自然的文化的生において主體と交渉に立つ他者は廣き意味において「物」と名づけられて「人」と區別される(一)。この場合「人」は必ずしも生物學上人といふものと同一ではない。ここに人といふのは人倫的共同において人格としての資格を保つものである。それ故、人が人格としての待遇を受けず、單に手段として用ゐられる場合において乃至しかせられる限りにおいては、生物學的には適切に人と呼ばれるものも「物」としての存在を保つに過ぎぬ。すなはち、物は、廣き意味においては、文化的生において主體の自己實現の活動に質料として出會ふもののすべてである。人倫的共同において嚴密の意味における人即ち人格である同じ實在者も、文化的活動の質料としての意義を擔ふ限りにおいては物である。「物的」と區別され「人的」と世に呼ばれてゐるであらうものも、「資源」や「資材」としては、嚴密の意味においては、等しく物的なのである。客體は、自然的實在者の象徴としての意義を有する場合のみならず、觀念的存在者としてそれ自身の存在を保つ場合にも、等しく物である故、物の領域は純粹客體・イデアの世界にまで及ぶ。文化の形成作用の生産物も、生産の活動に對しては成就されたる形相の地位に立つであらうが、受用の活動に對してはなほ質料の地位に留まるを思ひ、又觀想の活動があらゆる存在を包括するを思へば、物の領域は全き存在の世界に及ぶといふべきである。
 さて、かくの如き物の世界又それに對應する文化的生は永遠の光を反映していかなる變貌を來すであらうか。永遠性は愛において成立つ故、愛の主體であるもの乃至あり得るものにおいては、時間性に蔽はれながらも、それの眞の姿はなほ明かに輪郭を示すであらうが、物の世界についてはこのことは困難となる。人倫的共同の立場に立てば、自然も文化も、或はその共同より發生したるもの或はそれに對してのみ存在の意義を有するものとして、次に又その共同の制約である場合には、それの成立に必要なる乃至は成立を支援する前提の意義を有するものとして、いづれにせよかくの如く、むしろ派生的又は從屬的意義を有するに過ぎぬであらう。そのことに應じて、神の愛は人格性及び人格的愛においては根源的に啓示されるが、物の世界における啓示は、これを認めるかがすでに問題であり(二)、認めるとしても、派生的從屬的以上の意義は許し難いであらう。要するにこれは結局宗教的信念がそれぞれの立場より解決すべき問題であるが、哲學はその解決の取るべきであらう大體の方向は示唆しうるであらう。先づ時間的存在の基礎をなす自然的實在者が神の創造の惠みより除外される理由は、假りにあるとするも、極めて薄弱を免れず、之に反してそれのうちに包容される理由は極めて有力であるであらう。それの存在は直接性において成立つものとして結局無に歸すべきものではあるが、しかも存在であるには變りが無い。誤つた方向を取つてゐるにせよ、そこに存在の肯定主張があることは爭ふべくもない。若しそこにあらゆる存在を非存在の中に葬りながら更に新たに非存在の中より呼び出す創造の惠みが全く働いてゐないとすれば、それが、何であるか又いかにあるかは別問題として、とに角「有る」といふ儼然たる事實はありえぬであらう(三)。かくの如くにして、主體の前に立塞がつてそれの前進を阻み又それと接觸することによつて主體を無へと押遣る自然的他者の實在性は、歪められたる形においてにせよ、神聖者の象徴、神の言葉を傳へるものとなるであらう。觀念的存在者も、同樣の理由によつて、何等かの形において神の創造に屬し、殊に純粹客體として自然的生に對して優越性を保ちつつそれよりの解放を企てるイデアは、神の愛と何等かの深き聯關に立つであらう。このことは、すでにのべた如く、人倫的共同を制約乃至媒介する秩序や法則についてはすでに明かに斷言しうる事であるが、その他の場合哲學が對象となすすべてのイデアについても、明確に規定することは困難とするも、推測はなしうるであらう。かくの如くにして物の世界との交渉も、根源まで遡れば、神との對話と名づけうるであらう新たなる意味を發揮するであらう。文化的活動も單なる自己實現に留まるを止めて神の言葉の實現となるであらう。人倫的共同と文化的活動とが現實の生において親密なる聯關に立つを思へば、文化的活動も、人に對する愛と聯關して、神の愛に對する人の答へとして人の神への愛の特殊の形態として、永遠性に參與しうるであらう。
 
(一) 物と人との區別に關しては「宗教哲學」二九節以下參看。
(二) この問題は最近キリスト教神學において「自然的神學」(theologia naturalis)の問題として盛に論議された。「宗教哲學序論」一四節以下參看。
(三) 四五節、罪の赦しの處參看。
 

      四 永遠と時 有限性と永遠性

        四三

 以上論じ來つた所によれば、永遠性はすでにこの世において體驗されるのである。永遠と時とは相反する性格を擔ひ、永遠的存在は自然的文化的生に對して飽くまでも超越性を保つに拘らず、他方また内在的である。自然的文化的生を生きる同一主體がすでに永遠の世と親密なる聯關に立ち得るのである。このことは勿論神聖者の愛の啓示によるのであつて主體そのものの自らの力によるのではないが、一たびその啓示の立場に立てば、永遠性と時間性との親密なる聯關も明白なる事實となる。永遠は決して時と沒交渉ではない。それの内容的規定は愛の觀念によつて得られたが、それの形相的規定いはばそれの定義は時間性を手蔓としてそれとの關係において得られねばならぬ。吾々はたびたび「滅びぬ現在」について語つた。これが永遠性の第一の本質的特徴である。現在は主體の存在の仕方であり、滅びぬ現在も亦さうである。すでに十分明かになつた如く、愛の共同こそかかる存在の仕方である。滅びぬ現在は過去と全く相容れぬ。過去は、吾々が特に強調した如く、それの根源的意義においては、有の無への沒入、存在の壞滅である。それ故過去の徹底的克服が永遠性の第二の本質的特徴でなければならぬ。然らば將來はいかになるであらうか。これは永遠においても保存される。根源的時間性においては將來は實在的他者を指さす。彼方より來るものを迎へ待ち受ける主體の態度において將來は成立つ。永遠的存在と愛とにおいても、實在的他者として又それよりして、即ち彼方より、來るものを迎へる態度は依然留まる故、否それどころか、かかる態度こそ愛の本質的性格をなす故、永遠においても將來は保存される。永遠を成立たしめる愛が他者と主體との生の純粹完全なる共同であるに應じて、永遠そのものは將來と現在との純粹完全なる合一である。このことによつて現在も將來も面目を全く一新する。この世の生の基礎をなす自然的生においては、來るを迎へることは一方現在の成立を意味しその限り主體と他者との共同の微弱ながらも準備をなすのであるが、他方現在の壞滅を意味し却つてあらゆる共同を妨碍し不可能ならしめる。之に反して永遠においては、主體は來るを迎へることによつて無を克服しあらゆる壞滅を免れる。「將來と現在との完全なる一致」、「將來の完全なる現在性」こそ永遠性である。創造は、諸民族の神話の好んで語る如く、時の始めにおいてただ一囘起る出來事ではなく、永遠の世において絶えず起りつつある出來事である。創造のある處では一切は常に新たに常に若く常に生き常に動く。窮みなく湧き出る將來の泉よりいつも新鮮なる存在を汲み受けつつ、いつも若き現在の盡きぬ喜びに浸る――これが永遠である。かくの如く將來が完全に現在と一致し現在を支配する處には過去ばかりでなく「未來」の居るべき場處が無い。既に述べた如く、「未來」は將來が現在と一致せぬ處に發生する派生的現象である(一)。「將に來らむ」が將來の根源的意義であつて、未來即ち來らむとするものが未だ來らぬのは、自然的生の本質的缺陷によつて將來が蒙る制限に外ならぬ。永遠の世においてはこの制限が全く解除される。ここでは將に來らむとするものは正に即ち必ず來るのである。永遠性の體驗乃至待望が存在する場合なほ「未來」について語るならば、それは無思慮の甚しきものといふべきであらう。要するに、永遠性は無時間性の如く時の簡單なる否定ではない。それは時の克服であるには相違ないが、他方またそれと内在性の關係を結ぶ。時間性の缺陷である可滅性・斷片性・不安定性等の如きは現在が將來との合一を企てて失敗にをはるより來ると解すべきである。主體は本質上他者との共同を求める。しかるに自然的生においては共同の準備ともいふべき直接的交渉はつひに主體の壞滅への道となつた。これが時間性である。生のその本來の願望が成就したとすれば、それが永遠性なのである。それ故時は永遠への憧れ、逆に永遠は時の完成といひうるであらう。又神聖なる神の啓示・惠みの創造がこの世のあらゆる存在の本にあつて自然的實在性の源をなす如く、永遠も時の根源をなすと解しうるであらう。尤もいかにして時が永遠より發生したかは別の問題であり又あらゆる理論的探究を超越する問題でもある。
 永遠性は空間性をも克服する(二)。この場合克服は、時間性の場合とは異なつて、純粹の否定に等しい。根源的空間性は、すでに述べた如く、主體と實在的他者との間に存する排外性、純粹の外面性である。これを時間性の觀點よりみれば、現在と將來との間の離反不一致が空間性なのである。これは永遠性において徹底的に取除かれる故、非空間性がそれの本質的特徴をなすといふべきである。しかるに時間性との内面的聯關はそこでも全く斷ち切られることはない。過去を克服し將來と現在との完全なる合一を成就することによつて、永遠性は時間性を克服しつつむしろ完成する。永遠性においては將來と現在と、他者と主體との間柄は徹底的に共同であり從つて内在的である。徹底的内在性は空間性の徹底的克服に外ならぬ。今振り返つてみれば、觀念性において空間性は一應克服された。そこでも空間的表象はすでに譬喩性を帶びた。しかしながらそこでは他者性は自己性と對立しつつなほ克服し切れぬ外面性として殘つてゐた。しかるに永遠性においては他者性と自己性との對立さへ全く跡を絶つ。自然的生が基體として支配を續ける間は空間性の餘威はなほ殘る。之に反して自然的生が全く克服され、自己が他者の完全なる象徴と化する永遠性においては、空間性の殘り香さへも全く消え失せる。ここに吾々は時間性と空間性との根本的相違、しかして又前者の優越性を見る。
 
(一) 二節參看。
(二) 一五節參看。
 

        四四

 時と永遠との問題はおのづから「有限性」と永遠性との關係に思ひを向けしめるであらう。有限性と時間性とは通常殆ど同一事の兩面に過ぎぬが如く考へられる。しかしながらこれは當を得ない。存在が何らかの制限・限界・缺陷を有する場合、即ち一般的にいつて非存在と本質的に結び附いてゐる場合には、それは有限的と呼ばれる。スピノーザがそれを部分的否定(ex parte negatio)と定義したのは典型的といふべきであらう(一)。時間的存在は勿論この定義に相當する。時において存在する主體は實在的他者・他の主體と互に相容れぬ關係に立ち、他を制限しつつ自らも制限され、又自らであることによつて取りもなほさず他ではなくなる。又それはかくの如き交渉の歸結として絶えず無の中非存在の中へ陷沒する。有限性が時間性と極めて親密なる聯關にあることは爭ひ難い。然らば有限性はいかなる場合にも永遠性とは縁遠き乃至は相容れぬ位置に立つのであらうか。この點に關しては通常行はれてゐる思想は根本的修正を要する。永遠性に關する吾々の論究は次の事態を明かにした。人間的主體は、神聖者の創造の惠みによつて、無を外に乃至外に向つて有するを止め、それを自己の核心に本質の奧深き中心に、克服されたる契機として有するに至つて始めて時間性を克服し永遠性を成就する。さてかくあるとすれば、主體は有限的であることによつてのみ永遠的でありうるのではなからうか。永遠性が主體の眞の存在の仕方であり、時間的存在者はそれに憧れそれへと昇るべく努力せねばならぬとすれば、かかる有限性こそ眞の有限性、本質において有限的なるものの本來の性格純眞の姿といふべきである。この有限性は、かの時間性に等しき有限性の如く、單に部分的否定即ち半ば有半ば無といふが如き妥協的存在ではなく、一方徹底的に即ち本質の中心まで無でありながら、他方徹底的に有即ち滅びぬ存在である。今これを眞の有限性と呼ぶならば、時間性と表裏の關係にある有限性は、「惡しき有限性」の名を與へらるべきであらう。
 眞の有限性において主體は絶對的他者の愛に安住し、そこより離れて自己の獨立を求めるといふことがない。それの主體性それの動作の中心は、他者の純粹の象徴としての自己を主張することに盡きる。從順と信頼とがそれの態度である。しかるに自然的生における主體は、本質においては有限的であり無の上に立ち無を自己の中心に抱きながら、あたかも純粹の有であるかのやうに振舞ひ、ただひたすらに自己主張へとのみ驀進する。生の直接性・自然性とはこのことである。しかしてこのことは本來の有限性の否定從つて永遠性の否定を意味する。主體は無よりの離脱を求めることによつて却つて滅びぬ存在を失ふ。これが時間性である。時間性においては主體は無をわが外に追ひ遣つてひたすらわが有をのみ主張する。そのことの歸結としてそれは却つてわが外にある無のうちに追ひ込まれ、絶え間なき壞滅の運命をたどるに至る。ここに惡しき有限性は成立つ。すなはち、それは主體が自らの力を恃みわが本然の姿である眞の有限性を脱却し、いはば、神によつて造られたるものであり神の惠み無くしては無に等しきものでありながら、惠みの賜物を逆用して、自ら神に成らうとした僭越反逆の振舞ひの現はれである。この惡しき有限性よりして、惡しき永遠性としての無終極的時間が發生することは、すでに説いた所で明かであらう。時間性の克服は主體が自己本來の面目を取戻し、神の愛へ從つて眞の有限性の故郷へ立還へることにのみ存する。
 
(一) Ethica. I, 8. schol. 1.
 

      五 罪 救ひ 死

        四五

 ここよりして吾々は時間性と「罪惡」との親密なる聯關へと導かれるであらう。時間性は主體の状態、しかも從ふべく強ひられる運命的状態であつて、罪惡と同一ではない。時間性そのものに罪惡を置くならば、永遠性も時間性の單純なる否定に過ぎぬ無時間性に求められ、かくて時を知らぬ純粹の存在・純粹の眞理の觀想に身を委ねることが、時間性の克服の道となるであらう。愛において永遠性を發見した吾々にとつては單なる時間性が罪惡そのものではないことはすでに明かである。しかしながらそれは何等かの意味において罪惡の歸結でなければならぬ。愛より從つて神への從順よりの離脱、神聖者への不從順反逆こそ罪惡である。かかる罪惡は時間的存在の根源にあつて永遠よりの墜落と時の發生とを惹き起す。すなはち、罪の報いは時間性とそれの徹底化である死とである。
 時間性及び死の根源に罪があるといふことは、その罪を人間的主體の個々の動作に歸屬せしめることの誤謬を明かに示すであらう。それは永遠より時を發生せしめる根源的動作において求められねばならぬのである。しかしながら人間の現實的生はいつも時間性の性格を擔ふ故、その動作は時に先立つもの、生れる前のものでなければならぬ。かかる言ひ方はすでに時間的規定によるものであり譬喩的でしかあり得ぬはいふまでもない。古より宗教的及び哲學的想像は、例へばヘブライのアダムの説話の如く或はプラトンの「パイドロス」における魂ひの墜落の説話の如く、具體的形容とこの世ながらの潤色とをもつて理解に役立たうとしたが、超時間的墮罪といふが如きは吾々のあらゆる表象や概念を超越し、勿論理論的には全く近寄り難き事柄である。吾々はすべての時間的動作・全き時間的存在の根源において、それに先行する制約として、それの本質的性格を規定し付與するものとして、永遠と時とを繋ぐ何らかの動作を前提すれば足りる。これは個々の時間的動作の根源にあるものである故、神學的乃至哲學的思索はこれを「原罪」(peccatum originale)「根本惡」(〔das radikale Bo:se〕)などの名をもつて呼んだ。この原罪は動作の時間性を超越して過去の動作をも支配するものである以上、言ひ換へれば、過去の自己に對する責任といふ事實が明かに示す如く、現在を去つて無に歸することが原罪の支配よりの解放を意味せぬ以上、過去の克服としての永遠性の光はここにも明かに反映してゐる。さて、原罪は人間的主體の動作を單純なる直接的なる自己主張とならしめる。時間的なる個々の動作の罪惡性は、この自己主張の直接性に基づき、それを克服して愛の實現の基體となすを拒み、かくて神の愛に對する不從順の態度を取るに存する故、有限的主體にとつては時間性の克服はこの根源的罪惡のそれでなければならぬ。
 罪の克服は宗教的用語においては「救ひ」又は「救濟」と呼ばれる。それは眞の有限性へ主體の本然の姿への復歸として、神聖者の惠みによつてのみ行はれ得る。本然の姿とは、主體が自ら固有の力によつて實現する存在の仕方をいふのでなく、自己が全く無に歸し彼方より與へられるものによつて充さるべき空虚なる器となることをいふのである。すなはち救ひは創造としてのみ行はれる。被創造者としての本來の面目を自ら抛棄して、あたかも自ら創造者であるかのやうに、ただひたすら自己の主張にのみ耽り、そのため却つて壞滅の道をたどるに至つた主體を、徹底的に無に歸せしめることによつて、新たなる主體性・眞の有限性を與へつつ愛の主體として創造する――これが救ひである。この救ひは、自然的文化的主體が惠みの光に照されて愛の閃きを示す限り、すでにこの世にはじまるといひうるであらう。しかしながら、この世の續く限り主體の態度はなほ自己主張であり、それの生の性格はなほ時間性を脱しない。現實的生の續く限り罪も時間性もなほ克服されずにある。かくの如き生はいかにして愛の閃きを示しうるであらうか。示されたと思はれるものは、むしろ自覺を惑はす鬼火の如きものではないであらうか。救ひは全く神の惠みによる事柄であつて、人間が自己省察によつて知り得る自己の状態や業績などを本としてかれこれ論議しうる事柄ではないのである。それ故、罪も時間性もなほ克服されぬこの世において救ひがいかなる姿を取るかについては、吾々は神の惠みの特殊の發動と啓示とに俟たねばならぬ。「罪の赦し」が即ちそれである。
 罪の赦しは罪惡の事實を前提した上の神聖なる愛の最も基本的なる動作といふべきである。罪無き世は永遠の世であり、そこでは勿論罪の赦しの事實も又必要もなく、有限的主體は神聖なる愛の喜びに浸りつつ、とこしへの現在に生きるであらう。又生の自然的文化的段階に強ひて立留まり共同への憧れを強ひて抑へようとする、從つて僞りの有限性に強ひて滿足しようとする、絶望的努力に耽るやうな人間的主體に對しては、勿論罪が存在せぬ如く赦しも亦空想に過ぎぬであらう。しかしながら罪の事實が一たび視界に入つた以上、罪の赦しの基本的重要性はたちどころに明かになるであらう。底知らぬ無の淵に惠みの手に支へられてわづかに墜落を免れてゐる有限的主體にとつては、惠みに對する反逆である罪惡は壞滅を意味する外はない。惡しき有限性の方向へとはいへ、とに角主體としての存立を保つてゐることそのことがすでに反逆を反逆として認めぬ惠みの賜物なのである。この世この生そのものがすでに罪の赦しの上に立つてゐる。それは個々の行爲に對してはじめて發動するといふが如き生やさしき表面的な事柄ではない。ここよりして吾々は神の創造が永遠的存在の根柢にあるばかりでなく、時間的存在そのものも創造の惠みによつて成立つことを知り、あらゆる厭世的世界觀を免れうるであらう。あらゆる覺束なさ醜さあらゆる惱み苦しみあらゆる虚僞不徳不明あらゆる爭鬪破壞にも拘らず、人間の生は、文化の方面においても人倫の方面においても、神聖なる全能なる愛の力によつて支持されてゐる。自然的文化的生が根もと深く罪を宿しながらなほ神の惠みを容れる器となり、信仰より愛へ眞の人倫的共同へと向ひつつ、時の眞中に現はれる永遠的生の蕾を宿す幹となりうるのも、ただ罪の赦しによるのである。かくて與へられたる持場において及ぶ限り能ふ限り自己の職責を果し、私を棄て己を虚くして人に又公に奉仕することが、罪の赦しをすなほに受けつつ惠みに答へる道となる。貧者の一燈・やもめのレプタ(一錢)もここでは窮みなき尊さに輝く。人事を盡して天命を待つは永遠の生を生きる者の正しき道であらうが、人事を盡しうるそのことがすでに天命によるのである。かくの如く罪の赦しはそれ自ら時の眞中における永遠の現はれであり、又永遠のあらゆる内在化の基礎である。

        四六

 罪の赦しが神聖なる愛の啓示であることは、それ並びにそれに聯關する諸現象に超時間的性格を與へる。罪の赦しそのものはすでに超時間的なる根源的罪惡と個々の時間的行爲の罪惡性とをひろく共に包括する。個々の行爲は時間的である限り赦しに對しては過去に屬する。しかるに過去は、根源的意義においては、無に歸することである故、過去の罪惡に對する赦しの動作從つて神の愛は、無より有を呼び出すことによつて、更にその有を克服することによつて、二重に過去を克服しつつ、永遠性の威力を發揮する。このことは更に次の事柄によつて一層明かにならう。罪の赦しは責任を不問に附することである。責任を負ふ限りすべての罪惡は「罪責」(Schuld)である。罪惡も罪責も不問に附せられることによつてそれ自身無くなるものではないが、他者と主體との關係はそのために根本的變革を來す。罪惡においては、神との關係は倒逆され、本然の姿に背いて共同への反抗となる。これを元に戻すべく反逆そのものの眞中に飛び入る惠みが即ち赦しである。人間的に言ひ表はせば、それは敵に對する神の愛の現はれである。このことは更に遡つて、罪惡の負ふ責任が永遠者に對するそれであることを痛切に教へる。人間的主體は愛せられるものとして、愛の深さを身に覺えることによつて、はじめて自己の罪責のいかに大なるかに目覺めるのである。自然的文化的生にのみ留まる間は、犯したる罪惡は畢竟自己實現の失敗不成功に過ぎぬであらう。不快を感じ遺憾に思ふといふことは或は見遁がされようが、責任を感じ罪を悔いるといふことは、許し難き僭越といふべきである。根源まで遡れば過去は無に歸したるものである。存在せぬものに對しては遺憾の念を抱くことさへすでに事理に背くであらう。文化的生においては囘想によつて過去は或る程度の克服を見現在の性格を得るであらうが、現在となつた過去は、すでに明かにした如く、主體の勢力範圍に屬し主體によつて處理され變更されうる事柄である。主體は進んでそれに善處しそれを善用し過ちは改め禍は轉じて福となせばよいのである。それ故責任は、それの本來の意義を徹底させれば、文化的生が許し難き又及び難き超越的なるものを指し示してゐる。責任は自己が動かし得ず處理しえぬ何ものかへ、從つて結局實在的なる他者へのそれでなければならぬ。眞實に純粹に絶對的に他者性を保つものは神聖者以外にはない故、責任は結局神に對してのみ成立つ事柄である。自己に對する責任について正當に語りうるのは、その自己が他者の、結局は、神聖者の象徴・神の言葉の意味を有する場合にのみ限られる。然らずして自己に對する責任について語るならば、それは自己實現の努力の目標を不正當に飾る言葉の綾に過ぎぬであらう。尊嚴と權威とをもつて何ものかが我に迫り來る時、當爲と命令とが從順と獻身とを我に要求する時にのみ、責任について正當に語られるのである。罪惡はこの意味の責任に對する違反として罪責であり、更に神聖者に對する反逆である。罪責の自覺は「悔い」(悔悟)と呼ばれる。これは時間性を全く克服したる永遠者との關係においてのみ成立つ事柄である。ここでは過去の行爲も單に善處すればよき事柄ではなく、主體が全き自己をもつて責任を負はねばならぬ事柄となる。かくて罪責は必然的に悔いとなる。この悔いに神の側において對應するのが罪の赦しである。否それどころか、悔いそのものはすでに罪惡への沒頭よりの解放を指し示すものとして、それ自身すでに神の救ひの業であり、罪の赦しの基礎の上に成立ち、むしろそれと表裏一體をなす。神に關しては、赦しを悔いの報酬となすは本末顛倒である。赦されたればこそ悔い得るのである。
 ここよりして死も新たなる意義を發揮するであらう。死は、すでに論じた如く、時間性の徹底化であり、他者を離れ單獨化しつつ自己を主張する主體の必然的に陷る運命である。かくの如き自己主張が罪惡であり、從つて死はまた罪の報いである。そこまで達して罪の恐るべき意義は徹底する。しかしながらこの生の留まる間は死は到來する事實ではなく、覺悟のみの事柄である。覺悟する死は人間がこの世において直面し體驗しうる死の唯一の姿といふべきである。死の恐怖のうちにもすでにそれの必至從つて覺悟の要素は或る程度まで含まつてゐるが、死に對する態度がこの段階に留まるならば、死より遁がれようとする欲望をなほ脱し得ず、從つて、死が無に歸すること生の壞滅であることの自覺にまで徹せず、從つて又、單なる生活慾・原罪の單なる發動の虜であるを免れぬであらう。嚴密の意味における死の覺悟に達するに及んではじめて人はこの世の生の行くへに目覺めるのである。それ故死の覺悟は主體が本然の姿に立戻るための重要なる一歩、神聖者との眞の共同へと踏出されたる一歩といふべきであり、從つて悔いの一つの形態、しかも罪惡そのものの明かなる自覺なしにも起りうる故、悔いの最も原始的乃至基本的なる形態といふべきである。すべての純眞なる悔いは神聖者の愛によつて成立つ故、死の覺悟も亦惠みの賜物であり罪の赦しの發現である。人は決死の尊さについて語る。しかしながら死の決心をなすことそのことが尊いのではない。例へば、この世の苦惱を遁れんがための決死は、死を生の存續となす前提の上に立つものとして、自己矛盾を含む愚擧であるが、更に自己の責任を遁れようとする卑怯の振舞でさへある。總じて輕々しく死を決するは、他者に委ねらるべきものを自ら處理しようとするものであつて、神聖者に對する冒涜である。之に反して、神聖者の言葉・神の召しに應じての、責任と本分との自覺よりしての決死は、眞の永遠の閃き、神聖なる愛に答へる純眞なる愛の輝きである。ここまで達すれば、人は更に一歩を進めて死そのものをも惠みとして受けるであらう。罪の赦しの背景のもとには、生がすでに惠みであり、死は又更に惠みである。滅ぶべきものが滅びるのは、生くべきものが生きるための前提として、無より有を呼び出す永遠者の發動でなくて何であらうか。

      六 死後の生と時の終りの世

        四七

 しかしながら罪の赦しにも拘らず、時の眞中における永遠の啓示にも拘らず、罪も時もなほ嚴として存在する。神の惠みは動いてはゐるが、なほ完き支配には至らぬ。これはなほ安住を許される究極地ではない。それ故最後に罪そのもの時そのもの從つて死そのものが完全に克服されねばならぬ。これこそ永遠の完全なる到來純粹なる顯現である。吾々は今は信仰の平らならぬ鏡に歪められて映る永遠の姿に見入つてゐるが、その姿はいつかは遮るものも隱すものもなくさながらに顯はにならねばならぬ。將來の現在性・將來の現在との完全なる一致において永遠性は存する故、この顯現は將來の方向に求められる。それは「希望」又は「待望」の對象である。さて永遠が時の眞中に顯はになる限りそれは信仰の對象である。それが永遠であり神聖者の創造の惠みである限り、それの完全なる顯現の保證はすでに信仰のうちに含まれてゐる。信仰は永遠の完全なる到來の約束といひうる。それが約束であり保證であり、從つて自らの以外乃至以上の何ものかを指し示す限り、信仰は希望となるのである。超越的なるものへ向ふものとして、いかなる宗教も何等かの希望の上に立つてゐる。しかしながら信仰も希望もそれ自身究極的なるものではあり得ない。それらは道案内に過ぎぬ。目的地に到着するとともに姿を消さねばならぬ。永遠と愛との完き顯現は宗教の退場を意味する。
 さて完き永遠の到來はいかにして行はれるであらうか。先づ第一に、時及び時間性の克服は完成されねばならぬ。時の終りにおいて又それを通じてのみ永遠は完く顯はとなり得るのである。しかもそのことは完成されたる事實としての死の到來を意味する。時間性と時間的生とが行く處まで行くことは、それの勢力の崩壞を意味するのである。死を求め死に向つて進むことが生の本質である。求めるものに、死に達することは生の完成であるが、この場合又消滅でもある。死が單に覺悟の事柄である間は、無は有の外にあり、生と存在とは壞滅を目掛けて行進を續ける。その間は無へと向ふ有はなほ存在する。目標に達したとすればどうであらうか。有が無の中に吸收されることによつて有は無くなるが、又有の外にあり有を待受ける無も同じく無くならねばならぬ。ここにはじめて徹底的に克服されたる契機として無を徹底的に内に含む永遠性の成立は可能となるのである。すなはち事實としての死の到來は生の、時間性の、克服であるとともに又死そのものの克服でもあるのである。古へより彼方の世の光に目覺めた人々が生の單なる繼續を、例へば殊に輪 ※ 轉生の如きを、苦として乃至罰として感じたのは謂はれある事である。

        四八

 かくの如く救ひの徹底、罪と時と死との完全なる克服、は死の後に又時の終りを經てのみ達成される。かくの如き純粹なる永遠及び永遠的生は時の眞中に生きるわれわれ人間にとつては全く超越的である。この世に内在する永遠は屈折しながらもなほこの世を照す光として體驗の範圍内に存し、從つて體驗内容を概念的に整理し擴充することによつてなほ概念的表現に移すことが出來る。啓示の體驗の及ぶ限り譬喩的表現のみ唯一の可能なる表現であるが、しかもそれは體驗の直接の表現として可能でもあり又許されもする。しかるに來るべき純粹の永遠は體驗の事柄ではない。それは現に啓示されては居らぬ。假りに啓示されたとすれば、屈折性を離脱してさながらの姿においてしかなされねばならぬ故、この世において可能なる唯一の表現としての譬喩的表現もそこでは全く無力とならねばならぬ。現實的生に對して克服及び超越の傍ら根源と完成とを意味するものとして、何らかの手掛りは與へられるであらうが、記述そのものは構想力の仕事、想像の領分に屬する事柄である。古へより預言や詩がこの任務に當つて來た。宗教的表象をなほ宗教そのものの立場に立ちつつ概念的に整理しようとする神學でさへ、この場合、上述の三重の性格にもとづいて、構想力の進むべき方向と警戒すべき岐路とを指し示すといふ批判的なる仕事以上の事はなし得ない。哲學に殘される任務は、更に一段高き反省の立場に立つて、その批判の原理の自覺を提供する以外には無い。
 來るべき永遠は死後の生を意味する。それの表象は靈魂の不死性と復活との二つの相對立する形態において歴史的に與へられてゐる。不死性の思想についてはすでに論述した。復活はペルシア教ユダヤ教キリスト教などにおいて見られる(一)。一旦死したる人が甦へる・再び生を取戻すといふのがこの思想の心髓である。今は歴史的敍述に立入る遑はない。これら兩思想の相違は通常、身體を死後の生の一要素として否定するか、或は肯定乃至重視するかに存する、と考へられる。この問題も決して等閑りにすべきでないはいふまでもない。身體の尊重は人格性の尊重を意味する。實在する主體として人間は決して精神と同一ではない。單なる精神は抽象的分析の所産に過ぎず、全き人間の片割れでしかない。この事は勿論生物學的心理學的にも言ひ得るが、人格の觀念まで進めば一層強く言ひ切りうる事柄である。人間が眞に實在者として生きるためには人格まで昇らねばならぬ。しかるに人格は共同においてのみ成立つ。共同は象徴を通じてのみ行はれる。身體は象徴による共同の行はれる場處又は通路である。人格の意味における人と人との交はりは廣き意味の言葉を通じてのみ行はれる。顏色・身振り・目・耳等は人格的共同の最も重要なる器官である。身體の交はりを通じてのみ人格の共同は行はれるのである。それ故「身體の甦へり」は人間の人格としての復活を意味する。精神の意味における靈魂の不死性の觀念は人間學的に誤れる乃至甚しく不十分なる理解に基づくといふべきである。しかしながら、すでに述べた如く、靈魂は原始的段階においてはむしろ全き人間を意味した。それは決して身體なき人ではなく身體を具へた人自身である。ただ生前と異なつた存在の仕方をなす相違があるのみである。尤も今日の文化人より見れば、生活と運動とを止め腐敗に進みつつある身體を傍らに眺めながらなほ身體を具へた人間の存在を信ずるは不合理のやうに思はれようが、原始人はかかる論理的困難には思ひ附かず又累はされもしなかつた。且つ輪※ の思想を抱く宗教者や靈魂の不死性を説く哲學者たちにおいても、身體を離れたる靈魂は實在性において不完全なのではなく、むしろ完全となるのである故、人間學的見解の正否を別とすれば、等しく全人格を意味するともいひうるであらう。かく考え來れば、身體が來るべき完全なる永遠的存在に與かるか否かは第一義的重要性をもつ問題ではなくなる。根本問題はむしろ死の意義如何に存する。吾々は死を生の壞滅・存在の非存在への沒入と解した。死は人間的主體が存在を續けつつ一つの有り方より他の有り方へ移る轉向點ではなく、全く無くなること無に歸することである。かかる意義を有すればこそ、それは時間性の徹底化であり罪の報いであり、又反對に、罪の赦しの現はれ惠みの働きでもあり、時間性より永遠性への轉向點でもありうるのである。しかるにキリスト教の思想家たち(二)が最近まで取り來つた如く、生の壞滅存在の歸無としての死の理解を避ける態度を取るならば、たとひ復活の思想を主張したとしても、靈魂不死性の思想に踏み留まると五十歩百歩の相違に過ぎぬであらう。それらの人々はプラトン風に死を靈魂と身體との分離と解し、身體は崩壞するに拘らず靈魂はそのまま存在を續けると考へた。靈魂の死後の存在の仕方については、或るものはそれを天において神を見神を樂しみつつ送る淨福の状態と解し、他のものは知覺を失つた一種の睡眠状態と解したが、かかる相違は根本問題の前には殆ど取上げるに足らぬ些事である。彼等はかくの如き相違以上には等しく一旦崩壞に歸したる身體の新生への復活を説くも、人格の中心が靈魂に置かれてゐる以上、これも同樣些事であるを免れぬ。或る學者(三)は存在と生とを從つて又非存在と死とを區別し、死は生の亡夫であつて存在の亡夫ではないと論じ、死を存在の仕方の變化とする見解に飽くまでも執着してゐるが、一見いかにも尤もらしく聞えるこの辯解も、存在を客體的存在と解し、主體的存在としての生をそれより區別し、むしろその類概念の下に包攝される種概念として取扱はうとする立場を暴露するだけであつて、詭辯でないまでも強辯であるを免れぬ。ここにはかくの如き無造作な形式論理的處理を許さぬ重要な問題が宿つてゐる。存在と生とは概念としては勿論二つであつて一つではないが、根源的生まで遡れば、實質においては全く一に歸する。又永遠が、無時間性におけるが如く、觀想の對象をなす靜かな存在ではなく、愛として生の共同としてのみ成立つことはすでに述べた通りである。吾々は死を生及び存在の亡失となす見解を飽くまでも堅持せねばならぬ。このことによつて時より永遠に亙る死の嚴肅深刻なる意義ははじめて貫徹されるであらう。
 以上の如く、死後の生に關して歴史的に與へられたる表象のうちでは、復活が最も卓れたるものであるに相違ないが、それは一旦無に歸したるものが無の中より新たに有へ呼戻されるといふ意に解されねばならぬ。言ひ換へれば、死後の生は創造によつてのみ可能である。しかしてこのことは、事新しくいふまでもなく、惠みの賜物であるを意味する。靈魂不死性乃至それに類する死後の生の思想において根本的誤謬と認むべきは、人間的主體が、或はそれ自らに内在する本質の單獨の力により、或は客觀的世界乃至それの背後に立つ神の聰明有力なる援助により、いづれにせよ自らの力によつて、死に打勝ちつつ固有の存在を繼續するとなす點に存する。この思想の根源を突止めれば、有はあくまでも有であり、自己はあくまでも自己であり、他者と相容れず無を斥けるといふ自然的文化的生並びにそれの惡しき有限性と根本惡との立場に還元される。この立場即ち現實的生の立場に立つ以上、有が底の底まで無であるといふこと、自己が殘る隈なく他者の象徴となるといふこと、は考へ難き事である。永遠の光に照されぬ以上、考へ難き事を有り得ぬ事として排斥するは當然である。しかもこの不可能事が事實として起るのが惠みである。すでにこの現實的生においても愛の啓示はかかる不思議かかる奇蹟であつた。その奇蹟の徹底化、永遠そのものの、屈折による閃きだけではなく、目のあたり見る否全身をもつて浴びる光の直射が死後の生なのである。復活は徹底的創造に外ならぬ。自然的文化的生においても、惡しき有限性即ち他者を斥ける自己主張においてさへも、創造が隱れ濳んでゐた。信仰と愛とにより啓示に身を打任せることにおいて、無より有への轉向は隱されつつも姿を顯はにした。來るべき永遠においてそれは純粹に完全に徹底的に顯はになるのである。かくの如く言ひ表はすのがすでに時間的前後の型に從ふ譬喩的表現であるが、今更に大膽なる一歩を踏み出して、前後を通じての繼續從つて同一性について語るべく試みるならば、それは、不死性の思想が誤つて考へた如く、人間的主體の側にあるのではなく、ただ獨り神の側にのみあるのである。神の眞實まこと、何ものにも打勝ち何事をも貫徹する神聖者の主體性・人格性こそ萬事の本であり源である。
 ここにこそ吾々は人間的主體の主體的人格的同一性の根源を見る。主體の同一性は現實的生においてもすでに直接的體驗を超越する事柄である。主體の自己性は客體内容の聯關において又それを通じての外には把握されぬ。内容は主體に對して他者であり又相互に他者である。主體は先づ客體としての他者において、しかして更に客體内容の聯關において自己を表現する。かかる表現において又それを通じての外に自己性の成立つ場處はない。これはすでに述べた通りである。しかるに自己表現(實現)は主體の活動であり、活動としては時間性の性格を擔ふ。主體が現在に生きつつ過去を現在に呼び出すことによつて活動は行はれる。そのことをなすのは囘想である。囘想なしには自己性の把握從つて自覺は行はれぬ。具體的にいへば、アイ……の系列において、イをそれに先立つアとの聯關において把握するためには、無に歸したるアは有として再生されねばならぬ。しかるにこのことは更に、無に歸したものと今現に有であるものとの同一性從つて反省より體驗への復歸――いはば先驗的囘想――更に又それの根源として主體の同一性――先驗的同一性――を前提する(四)。この先驗的同一性が結局囘想即ち無よりして有の發生の前提であり根源である。囘想は二樣の、即ち經驗的と先驗的との二樣の形において客體内容の意味聯關の制約である故、吾々が經驗的に客體内容の聯關において又それを通じて主體の自己性從つて同一性を把握しうるのは、一切の根源に先驗的と名づくべき同一性が濳みながら存在するからである。この主體性こそ過去の無を克服して現在の有となし、かくて又自然的生と文化的生との從つて體驗と反省との内面的聯關を可能ならしめるのである。ここに吾々はすでに神の主體的同一性と創造的動作との朧げなる啓示を見るであらう。その啓示は更に自然的文化的生の主體と愛の主體との同一性において一層顯はとなる。吾々は時間的生を生きながらすでに永遠の光を反映しうるのは、愛の主體としての神の同一性、神の眞實まことによるのである。死は時間的生の主體の壞滅を意味する。生はここに決定的段階に達する。しかもその壞滅より無の眞中より新たに永遠の生に生れる主體はすでに死したる主體と同一なのである。この世における存在の保存がすでに創造であり惠みであつた。ましてや彼方の世に新たに生れる主體の同一性は惠みの最も深き最も大なる發動でなければならぬ。かくの如き神の眞實まことに答へる人の眞實まことが愛である。その愛がこの世の曇りに光を失ひつつしかも信頼として現在に輝くのが信仰、期待として行くへを照すのが希望である。人格の同一性は主體が本來無造作に所有する性質又は資格ではなく、この世においては、人間の側よりみれば、ただ渾身の努力をもつてわづかに接近しうる理想である。しかもその努力その理想そのものがすでに神の惠みの賜物なのである。
 
(一) キリスト教においては、中世以來ギリシア哲學の影響のもとに本文の二つの觀念は混同され、學者は靈魂不死性の論證をさながらに踏襲することによつてキリスト教的信仰の確保を計つた。兩者の根本的相違に學者が氣附いたのはやつと近時の事である。次の諸書參看。C. Stange: Unsterblichkeit der Seele (1925) . S. 121 ff. ―― Ders.: Das Ende aller Dinge (1930) . S. 122 ff. ―― P. Althaus: Die letzten Dinge4  (1933) . S. 110 ff.
(二) Althaus: Die letzten Dinge (1933) . S. 135 ff.
(三) R. otto: 〔Su:nde und Urschuld (1932) . S. 87.〕
(四) 一〇節、一一節參看。
 

        四九

 さて、顯はになつた永遠、到來した死後の生の内容はいかなるものであらうか。宗教的構想力は、すでに論じた時と永遠と、こなたの生とかなたの生との間に存する三重の關係、いはば永遠の形式的性格の指し示す線に沿うて動かねばならぬ。永遠的生は時間的生に對して、第一にそれの根源であり、次に克服であるが、更に最後に完成である。時間的生においてすでに永遠的生は内在する。そこで蒙るあらゆる歪曲、そこで出會ふあらゆる抵抗にも拘らず、それはすでにそこに啓示され、すでに生の性格を更新してゐる。吾々は同じ方向の究極的完成・徹底的純化を目標となしうるであらう。尤も目標が目標として、現にこの世にある吾々にとつては、なほ到達されぬ彼方のものであることは、常に嚴格なる警戒と自己批判とを要求するであらう。
 死後の生永遠的生の核心をなすは、神の愛に基づく人の神へ並びに人への愛、神と人との又人と人との共同、創造者と被創造者とを成員とする聖者の交り、でなければならぬ。そこではこの愛の共同を妨げ濁らせるであらう何ものももはや存在しない。自己乃至自己表現は底の底までも他者の象徴となり、自己性と他者性との完全なる合一が成就される故、一方なほ實現を要する自己性も、他方なほ自己性の外に殘る他者性も無い。生は他者の源より發して少しの淀みもなくまた他者へと流れ戻る。全き自己が他者のものであるとともに全き他者は自己の所有に歸する。生はあり生の共同や往來はあるが、それらはこの世の活動におけるが如く妨げや躓きや又缺乏や努力やを知らぬ。あらゆる媒介性は全く影をひそめてただ直接性のみ殘る。しかもその直接性は勿論自然的生におけるそれでなければ、又觀想において目差されるそれでもない。永遠における人の神への生は古へより「神を見る」と呼ばれてゐる。しかしながらその「見る」は、人と人とが相見る場合にしかいふ「見る」の類であつて、物を見る場合のそれとは根本的に區別されねばならぬ。すなはち、客體内容を聯關をたどつて從つて媒介を通じて見るのでなく、又直接に見る即ち直觀する場合の見るでさへもなく、主體と主體と人格と人格とが、双方を結び附けつつ同時に隔て遮るであらうあらゆる中間的媒介的存在者を排除して、直接的なる交はりと共同とに入り乃至留まる場合の「見る」である。あらゆる文化的活動はいふに及ばず信仰と希望とさへも消え失せてただ獨り殘る完全なる愛の人格的共同が譬喩的にしか呼ばれるのである。尤もかくの如き人格的共同においては、表現と象徴とは全く一に歸する故、一切は顯はとなり透明となり、主體は一切を通じて一切を直接に知るであらう。譬喩的表現はいふに及ばず、あらゆる思惟も推理も姿を消して完全なる知り方としての直觀のみ愛の共同の一契機としては殘るであらう。さて、かくの如き一切の一切との完全なる共同においても創造者と被創造者との別は消え失せぬであらう。それどころか、すでに述べた如く、この別が儼然として正しく明かに存立することが人間的主體の眞の有限性であり、かかる有限性においてのみそれの永遠性は成立つのである。死の恐れも罪の悔いもなく、しかも希望と信仰とさへも時間的世界に置き棄てられたこの處では、有限性は受ける惠みへの感謝と充ち足れる賜物の喜びとして顯はになりつつ留まるであらう。完全なる純粹なる愛と感謝と歡喜――ここに永遠に生きる者の盡きぬ淨福は存する。
 死後の生は時の終りの世である。それは單獨なる存在ではなく、相共にある存在、即ちその意味においてすでに世界である。この新たなる永遠の世界は時の終りにおいて時間的存在が完全に克服されてはじめて現はれる。人間的主體が死を經てはじめて永遠の生に甦る如く、世界もまた終末に達せねばならぬ。死は單に主體そのものを見舞ふばかりでなく、主體が相共にある一切の時間的存在者の共通の運命である。この現實的世界は自然的文化的生の全體並びにそれのうちに含まれる乃至それと聯關する一切の存在を包括する。人間の世界即ち文化の世界と、人間的及び文化的より特に區別されたる意味における自然の世界と、がそれの内容である。時の終りに顯はになるべき永遠への希望は當然文化及び自然の世界の運命について關心を呼ぶであらう。滅びる世界ははたして新たなる存在に甦るであらうか。人間的主體とそれの共同とに關して與へられたと同樣の答はここにも與へられねばならぬ。世界は創造の惠みによつて滅びるであらう、しかして更に新たなる存在をもつて死の中より生れ出るであらう。これは、世界が人間的主體とすでに時間的存在において共通の運命を分かつてゐることより、當然期待しうる事柄である。先づ死についていへば、時間性は文化の世界並びに自然の世界の心髓にまで蟲食んでゐる。壞滅と死とは兩者の行くへに待ち構へてゐる。尤も文化を死より救はうとする企てはしばしば哲學によつて試みられた。その最も有力なる又根本的なるものは無時間性の思想において見られる(一)。すでに詳しく論じた所をここに繰返すを止めて要點をかいつまんで言へば、この思想は、文化の内容より時間性と從つて主體性と聯關する要素を出來る限り取除いて殘つた所を純粹客體として遊離せしめ、かくの如きものの存在の仕方において永遠性を見出さうとするものである。これは文化的主體が一時我を忘れて夢幻の世界に遊んだ如きものであつて、主體そのものが儼然として存立せねばならず、しかして時間性可滅性がそれの本質をなす以上、純粹の空望に過ぎぬことは、すでに述べた通りである。文化的主體を離れては文化の内容は單なる分析的抽象作用の所産に過ぎず、それ自らの實在性など保ちうるものではないのである。第二は吾々がすでに無終極的存續の意味における不死性に聯關して論述した目的論的形而上學である(二)。これは第一とは逆に文化的主體そのものの自己主張・自己實現の活動より出發し、それが時間性の制限を克服して自己を貫徹する必然性を説くものである。その場合主體は單に個體としてではなく共同體として、しかして最も典型的なる形においては、人類として取上げられる。すなはち民族乃至特に人類の歴史は文化の實現の舞臺と看做される。尤も、共同體は個體に比べていかに力強くあるとはいへ、人間的主體が自らの力だけを恃んで自己主張自己實現を時間性の猛威に反抗して成就するといふことは餘りの誇大妄想とも感ぜられるであらう故、世界秩序・世界理性・攝理などの觀念的存在者が援助を與ふべく呼び入れられる。それらは主體性を離れてはイデアとして純粹形相として無時間的存在を許されるであらうが、單なる客體としては勿論何等の實力をも有せぬ故、それ自らの實在性を付與されねばならぬ。しかるに、ヘーゲルの名言の教へる如く、實體(Substanz)は主體(Subjekt)とならねばならぬ。人間的主體の後援者であるべき他者はかくして絶對的主體の位に高められる。それが哲學的形而上學にいふ神である。さてかくの如き神が眞に文化の擁護者、人間的主體の自己實現の原動力であるためには、單に自然的生の主體の意味において即ち自己主張の盲目的實力としてのみならず、又特に文化的主體の意味における、從つて觀念的内容において又それを通じて自己實現を行ふ主體でなければならぬ。無限的絶對的その他の尊稱によつて人間的主體とは區別されるであらうが、それの生内容・自己實現の内容をなすものは結局人間的文化そのものの内容に外ならず、ただ存在の仕方において優越性を許されるだけのものに外ならぬであらう。或は人間にそれの文化内容を與へる親切なる指導者と考へられようが、或は人間の文化の歴史において自己を表現し實現する絶對的主體と考へられようが、根本において本質においては、それは結局大型に引伸ばされたる人間の寫眞に過ぎぬであらう。時間性とそれの必然的歸結である死とを克服すべき實力はかかる主體には許され難いのである。かくしてその實力の源は主體性には求められず却つて内容に、時間性との交渉に入るに先だつてそれ自らの純粹の存在を保つ純粹客體に、イデアに、それの無時間性に、求められねばならぬであらう。神乃至絶對的精神即ち絶對的主體に對してはむしろ實體の地位を占める、無時間性の意味においてのみ永遠的なる、この Idee が、〔An und fu:r sich〕 に對するこの Ansich が却つて實力の源でなければならぬであらう。かくの如きものとしては Idee も主體性を具へ自己實現をなすものであらうが、それは結局主體性の觀念、觀念の自己實現に過ぎず、有限者の出現に先だつ神の覆はれぬ姿とも考へられようこの觀念世界も結局肉も血もなき單なる「影の國」(幽靈の國)に盡きるであらう。文化及びそれの歴史にそれ自らの永遠性、自らの力による死の克服を許さうとする企ては、かくして、悉く失敗をもつて報いられる。人間の文化・人間の歴史は時の終末とともに同じく終末に達し同じく死と壞滅との淵に溺れねばならぬ。
 然らば自然はどうであらうか。ここに自然といふのは、吾々が生の原始的基本的段階として論じた自然的生と親密なる聯關にあるが、全く同一ではない。それは實在者の世界において文化的主體性まで昇りえぬ一切のもの、從つて人間を除外した凡ての實在者の總體に通常與へられる名である。それとの交渉は勿論先づ自然的直接性において行はれるが、それ以上に出でて人倫的共同に入ることがないのがこの實在的他者の特徴である。文化にたづさはる限りそれは質料として物としての役目を務めるに過ぎぬ。人間的主體も文化的乃至人倫的主體として觀られぬ限り、即ち單にそれの自然的乃至客觀的實在性において觀られる限り、自然に屬する。吾々は自然と自然的直接性において接觸し、それの象徴として何等かの體驗内容を受取るが、この内容は反省の段階において客體に高められ更に實在的他者に歸屬せしめられ、かくして客觀的實在世界としての自然及びそれの認識は成立つ。その場合反省及び文化的存在へ昇りうるは主體のみであつて、他者は依然自然的實在性の段階に留まる。從つて自然は自由の無き強制乃至必然の支配する領域である。時間性と空間性とはそれの最も基本的なる特質をなす。かくの如き自然が時間性と共に壞滅に歸すべきは理の當然である。文化の世界が死の運命を免かれ得なかつたのも畢竟は自然的生がそれの土臺をなすからであり、自然は自然的生において主體に出會ふものである以上、人間以外の全き自然は、それの成員並びにそれら相互の關係の一切を携へて、壞滅の運命を文化と共にせねばならぬであらう。
 さてかくの如く世界は滅びるが、滅びたままには留まらない。それは新たに若き存在に甦へるであらう。これは無よりして有を呼び出す創造の惠みのなす所である。しかも人格の共同の場合と同じく、ここでも復活は同時に完成である。しかしてこのことはここでも一切が新たに創造されながらしかも同一性が保存されることを意味する。その同一性はここでも結局愛の主體としての神の同一性、神の眞實まこと、に基づく。この世の一切の時の終末とともにレーテー(〔Le_the_〕 忘却)の流れに打沈められて過去となる。それが無よりして有へ再生するのは、この世そのものの力いはばそれの記憶力によるのではない。この世は全く無に歸する。ただ神の根源的囘想の眞實まこと、愛の主體としてのかれの人格的同一性のみこの不思議をなし得るのである。時間性のあらゆる汚れを拭ひ去られて永遠の光に映え輝く若き新たなる天地が、それのうちにいかなる内容を包含するかは、殆ど全く想像をさへも無力にする。ただ次の事どもは或は言ひ得るであらう。この世においても、愛の光の輝く處では、自己實現を本質とする文化的活動もすでに神の言葉の實現を意味した。すべての存在の基礎をなす自然的實在者も永遠的實在者の象徴となつた。このことはかなたの世において徹底と完成とを見るであらう。自然の盲目的抵抗は神の尊嚴と榮光とに變はるであらう。この世の藝術や知識は滅びるであらうが、神の言葉があらゆる形容を絶したる美しき淨き姿として響きとして、わが永遠の耳目を充たすであらうことを誰が否定し得ようか。この世においては文化的生の優越性に應じて觀念が權威を揮つた。愛が又永遠的實在性が唯一の存在であるかなたの世においては、神の神聖なる囘想力は却つてむしろこの世において輕んぜられた具體的個體的内容に復活の優先權を許すやも計られぬ。この世のままなる人倫的關係はかの世においては滅びるであらう。しかしながらこの世においてすでに神意を傳へ得たものは、かなたの世において更に明かに力強く同じ言葉を語るのではなからうか。かの世にての再會といふが如き通俗的信念も、無造作に根も葉もなき迷信として貶すことは、この世の智慧を恃んで神の眞實まことを裏切る業であり得ぬと、誰が言ひ切りうるであらうか。
 要するに、來らむ世においては、この世における人も物も、又人と物との交はりも、その形のままでは滅びる。しかしながら、それの内容は、從つて文化及び自然の内容も、永遠の囘想によつて無より有に呼び戻される限り、壞滅より救ひ出されて、一切であり又一切を包む無限の愛を、神と人と又人と人とを往來する滅びぬ生を、有らしめ乃至豐かにするものとなるであらう。
 
(一) 二七節以下參看。
(二) 二五節、二六節參看。
 



青空文庫より引用