朧夜
春に近い夕方だ。官立寄宿学校のひと棟になつてゐる少年寮では、大勢の者が芝生の広い中庭に降りてあちこちに塊つてゐた。当時評判だつたハレー彗星がいよ/\現はれるのを観察しようと云ふのである。五十を越した篤学者で、強度の近眼鏡をかけた、痩せて半白の髯を生やした寮長は、懐中から厚ぼつたい銀側時計を出して時間を見計つてゐた。が、さういふ間も、生徒が不精してスリッパの儘庭に降りて来ようとすると、「こら/\。靴をはいて、靴をはいて」と一々丹念に注意してゐた。実際、黄ろく枯れた芝生には、霜解の土がジクリ/\とにじんでゐた。
理科の講師で、綺麗に髪を分けた飯島といふ理学士は、庭の程よい処に望遠鏡を据ゑつけてゐた。太つて快濶な法学士の野田副寮長と、穏和で口数の少ない――何となく病後らしい文学士の森島和作とは、お附合でやはり庭に降りて来て、小さい生徒達のなかに混つてゐた。
いかにも爽々《さは/\》した、一刻千金といふ言葉がふつと頭に浮ぶやうな夕暮である。遠くの賄部屋では、夕食の用意の皿の音を勢よく起ててゐる。建物の裏からは満開を過ぎた梅の蒸すやうな匂が漂つてゐた。それはしかし、あの四君子に喩へられてゐるやうな清楚なものではなく、何処か梅自身欝々と病んでゐるかのやうな、重たい香りだつた。
――丁度この夕方の五時頃からH彗星が肉眼で見える筈だつた。それは地球との数十年目の邂逅であつた。だから春に向ふ都会一帯の陽気な動揺のほかに、この彗星の噂が盛んに新聞に書きたてられて以来といふものは、何か人心に好奇心と、それから一種の気味悪さをいろ/\の臆測入りで与へてゐた。かういふ評判の彗星を、今この寄宿舎の中庭でも大勢たかつて観察しようと云ふのである。
十分、十五分。――しかし肝心の彗星はなか/\現はれない。
森島和作と野田とはすぐに飽きて、建物の窓の下に据ゑてあるベンチに腰を下しながら、互ひに不精な口のきゝ方で雑談を始めた。それは傍から見れば何だかつまらなさうではあるが、しかし実は長い友達の間にしか交はされることのない、親しい愛情のかよつた会話だつた。何故ならば二人は古い幼な友達なのだ。そしてこの官立寄宿学校は――この小学部から中学部、それから高等学部と前後十五年制になつてゐる特殊な組織の学校は――彼等のどちらにとつても母校だつたのである。
野田は前々年に法学士になるとすぐ、この学校から話があつた。元々の楽天家だつたから、彼は普通の授業のほかに少年寮の副寮長などといふ、大抵の者ならば先づ厄介がる役目までも二つ返事で承諾してしまつた。そこで彼は昔の学生服のかはりにフロックコートを着け、昔よりは立木の少し延び、建物の少し色褪せた寄宿舎に、暫くぶりで快濶に帰つて来た。
だが森島和作の方は少し異つた径路をとつて、此処で野田と落ち合つたのである。彼は平穏無事に此処の中学部を終へると、突然高等学校の試験準備を只事ではないやうな熱心さで始めて京都の三高に入つてしまつた。これは同級生の誰にとつても意外な事だつた。その上和作は元の友達とはパツタリ便をしなくなつた。只彼が京都大学で哲学講座を持つてゐる××博士を敬慕しはじめて、三高を出るとその儘大学の文学部に移つた事だけが、昔の仲間に伝はつた。
処が最近野田は人づてに、和作が毎冬の京都の寒気で身体をこはしたあげく、近頃は流行感冒のあとをこじらせて、医者から他の土地に移るやうに勧告されたといふ話を耳にしたのだ。――まめ な彼は早速和作との間に二三度音信を往復すると、もう和作が東京で静養しながら生活費を得るやうな方法を、工夫してやつてゐた。そのあげくが和作はやはり此の寄宿学校で独逸語の授業のほかに、少年寮の図書係といふ呑気な役目を世話して貰ふ事になつたのである。この図書係といふ役は、手当が余計に貰へる関係から野田が独りぎめに添へて置いたものだつた。果して和作はその野田の心遣ひを心から喜んだ。
……京都の土地で職を求める事、郷里の母をやがて呼ぶ事、そしてまだ数年は××教授の傍で一心に研究する事――さういふすべての空想や計画をすつかり擲つて、和作はこの正月東京に戻つて来た。彼はつい ひと月前から職に就いたのだ。――昔馴染の周囲のなかで、彼は病後の疲れに似た、何かの安らかな休息を感じてゐた。
後ろの遊戯室にパツと電燈が点き、その影が、芝生に明るく落ちた。窓を勢よくあけて一人の生徒が首を出した。同時にピンポンの軽い音が聞えて来た。
「先生!」とその少年は活溌に話しかけた。「まだ星は出ないんですか」
「まだ、まだ」と野田はそつちを見ずに、不精な答へ方をした。「急いては事を仕損じるよ」
「ぢやあ、もう一番!」勝負事で愉快に昂奮してゐるらしい声を、その生徒はその儘部屋のなかへ向けてゐた。「せめて四人は薙ぎ倒さなくつちや!」
「先生!」もう一人、今度は神経質らしい生徒が野田を見つけて、同じ窓から呼びかけた。
「五人抜に入りませんか。僕あ今ずる されて負けちやつたんですよ」
「誰だい」野田は太つた身体を後ろにねぢつて見た。「何だ、徳兵衛か。徳兵衛が相手なら左手で沢山だね」
かう云つて彼は鷹揚にワツハツハと笑つた。が、森島和作は「徳兵衛」といふ名前を聞くと後ろを鋭く振返り、その少年の顔を凝つと見つめてゐた。
「チエツ。徳兵衛だなんて本当に困りますよ」眉を寄せながら、甘えるやうな高い声で云ふのである。「先生がそんな仇名をつけたんで、皆が揶揄つて仕様がないんです」
が、部屋のなかのピンポンの連中は、それを聞きつけると一斉に、「徳兵衛。徳兵衛」と囃し立ててゐた。
「チエツ。チエツ」その少年は大袈裟に口惜しがつた。
「知つてるだらう? 加納君の子供だよ。つまり徳次郎の甥さ」と野田が和作を見返つた。
「君がよく遊びに行つてゐた頃に、水兵服か何か着て部屋の入口までやつて来た、あの男の子だよ」
「さうだつてねえ。……この間はじめて教はつて、驚いたよ」
和作はベンチの背にあてた片腕に首を載せ、前のまゝの動かぬ眸で少年を見据ゑてゐた。彼は我知らず動揺してゐたのだ。
「君は」と和作が少時おいて、突然、その少年に話しかけた。「どうも鶴子叔母さんにそつくりだね」
だが彼はやはり固くなつて、顔を子供のやうに赧らめた。少年の方でもそのやうな事を真顔で云はれたので、同様に羞む様子を見せた。
「さうか知らん? 今日は特別にいゝ血色をしてゐるから、さう思ふんだらう? 今日は加納にあ大出来さ。いや、悪口ぢやないよ」と野田は、子供を扱ふ事にはもう馴れたといふ調子で喋るのだ。「君はいつもそのくらゐ運動してゐるといゝんだよ。あんまり図書室にばかり入り込んでゐるつて、此間寮長に叱られたらう? ちやんと知つてるぞ」
「叱られるもんですか」野田の人の悪い微笑に受身になつて、加納といふその少年はムキに反抗した。「運動をもつとし給へとは云はれたけれども、本を読んぢやいけないなんて、云はれませんでしたよ」
「うまいゴマカシを云ふやつだな」野田はまた大声で笑つた。
「だつて本当なんですからね。……え?」加納は部屋のなかを振り向いて、何か友達に聞き返してゐた。「ぢやあ、先生、僕の番なんです。星が出たら忘れずに知らせて下さいね」
「あれあ燥ぎ出すと、なか/\利巧で面白いやつなんだが、普段はどうも陰気で困るよ」ピンポンの軽い音のます/\高まつてゐる窓陰に、加納が引込んで行つた後で野田は顎でその方を指しながら云つた。「しかし頭はいゝのだ。敏感過ぎるくらゐだね。加納の家には例外さ」
「……うむ」和作は後ろにねぢつてゐた身体をもとに戻しながら、ぐつたり足を投げ出してゐた。彼は口を噤んでゐた。その少年の叔母の鶴子が聯想に浮んでゐたのである。
「徳兵衛か。古い仇名だなあ!」
暫くして和作は、彗星のやがて出るといふ前方の空を凝視しながら、不意に大きな声をたてた。
「さうだ。三代目の仇名だもの」
――古い事から書かう。今から十何年前の事だ。彼等のずつと上の級に加納信徳といふ生徒がゐた。友達と一緒にその頃の歌舞伎座に「一寸徳兵衛」の狂言を立見に行つたのが元で、同じ徳の字から徳兵衛といふ仇名をつけられた。これがそも/\の起源であつた。その信徳は夙うに卒業してしまつたが、齢の大分違ふ弟の徳次郎が、丁度野田や和作と同じ級に入つて来たのである。そして卒業生の口から伝はつたのだらう。この徳次郎もその儘徳兵衛の仇名を受け継いだ。また時代が変つた。さて今度は信徳が大学に移るとぢきに結婚して出来た長男の信一が、また同じ寄宿舎に入つて来て、野田の口からもう一度その古びた仇名を貰つたのだ。年月が移り二人の人間が卒業して、仇名だけが寄宿舎の建物と一緒に残つたわけである。だが和作はそんな仇名を耳にすると、何か色褪せた過去の匂をかぐ思ひがした。……が、それは彼にとつて特別の理由があつた。
和作はその頃、寄宿舎から加納の家によく遊びに行つたものだつた。それは和作の亡い父親と、当時死んで間もなかつた徳次郎の父との関係から来てゐた。二人は同じ藩の先覚者で、××伯系統の政治家であつた。たゞ早く死んだ和作の父親が不運で、長寿ではなかつたが兎も角も十何年か後れた徳次郎の父は、得意時代の一部を見たわけだつた。――和作が加納の家にはじめて行つた頃、切下髪の品のいゝ老婦人が出て来て、「あなたが和作さん? ふうむ。妾はあなたのお父さんを、よう存じてをりますよ」かう和作の顔を覗き込むやうにして云つた事がある。その時和作は妙に胸に響く懐しさに打たれた。この懐しさはいつまでも消えなかつた。そして段々繁く加納の家に出入りするやうになつた。
主人の亡い家に争はれぬ物静かさを持つた、庭木の多い加納の家庭は、和作がこの最初の印象をそつくり保つには応はしい場所だつた。和作のいつも通る徳次郎の部屋といふのは二階の六畳だつた。――出窓の前の青桐を透して屋根庇の陰に、下座敷の寂そりした障子の腰だけが見えた。其処からは時々若夫人の声が響いて、すぐに消えるのだつた。常子のほかには徳次郎と二つ違ひの妹の鶴子がゐたが、これは二階からその声の聞きとれるほどの活溌な質ではないらしかつた。どうかすると袴をはいた学校帰りの姿が、廊下の角にチラと見えることはあつたが、それもすぐに下座敷の寂びた状態に吸ひ込まれてしまふのが常だつた。「この家は厳格なんだな」と和作は思つた。
しかしそれにも拘らず、彼にはやはり加納の家の成育盛りの娘を持つた家庭に独特な、目に見えない派手な空気を何処かに漂はせてゐる事実を感じないわけにはゆかなかつた。寄宿育ちの和作にとつて、この艶めかしい空気は子供の時にはじめてかいだ海の匂に似てゐた。梧桐が茂り、大きな葉が陰影をさし延べると、彼は前よりも大胆に枝を見透かして、下の物音を注意深く窺はうとした。やがて和作はその日本風な謎を解きあかされた。紹介された。
鶴子はやつと下げ髪から替へたての、まだ何処か身につかない可笑しな感じのする束髪に結つた娘だつた。彼女は十七で、見かけよりはずつと稚げであつた。彼女は一度引き合はされると、もう兄の部屋に何の躊躇もなく入つて来て、まだ知り合ひになつて日の浅い和作に宿題の手助けを頼んだりした。和作の方が却つて、そんな事をしてもいいのか知らといふ様な眼差を徳次郎に向けなければならなかつた。しかし徳次郎は妹の世話には冷淡だつたし、第一学科のことはあまり得意でなかつた。――これがごく普通な事柄になつてしまふと、今度は英語の本をそつと持つて来て、「ねえ、お願ひ。寄宿舎に持つて帰つていゝから仮名をつけて置いて頂戴」こんな事を云ふやうになつた。彼女は子供らしく徳次郎を批難した。子供らしく秘密を弄んだ。が――書籍包のなかにタヅコ、カノウと下手な羅馬字で署名してある英読本の手触りをさぐつて見ると、和作はやはり何か友達を売つたやうな心地になつた。下座敷の寂そりしたあの謎が、今では却つて平凡なものにうち変つたやうな気さへした。……
しかし、鶴子は子供らしい秘密をもつと増やして行つた。拡げて行つた。
かういふ関係の正体を、和作自身よりも簡単明瞭に察したのは、怜悧な若夫人の常子だつた。突然鶴子は二階に登つて来ないやうになつた。その代りに青桐は意味ありげに繁茂した。常子は意味ありげに和作を持てなした。徳次郎は意味ありげに気弱な顔を見せた。――この漠然とした意味ありげなものが、和作には何物よりもこた へた。死んだ父との深い聯想をこの家に持ち、父の壮年時代の謂はゞ形見をこの家に感じてゐただけに、彼の受けた打撃は大きかつた。そして彼は物の音響が遠のくやうに、この都会人の家庭から遠のいた。
――親しい友達が小川の上で手をつないで両岸の径を歩く。一寸した切株に出逢ふ。二人は一時のつもりで手を離す。だが川はだん/\と広くなつて行き、二人の手と手との間隔は大きくなる。――その頃の英語の教科書で習つたこの感傷的な喩へ話は、和作の心に適切だつた。
彼の頭のなかでくる/\と動いてゐたものが稍々《やゝ》静まる時期に入るにつれ、和作は加納家に対してはじめて正体のはつきりした屈辱を感じるやうになつた。鶴子の子供らしい親しみが加納の家に「法度」だといふのではなく、和作といふ人間に対する評価からすべての現象の生じたことを、今更はつきりと呑み込んだのである。
中学部を卒業すると、和作は急に思ひ立つて地方の高等学校の入学試験を受けた。彼には東京人の上手に立ち廻る社交術が堪らなかつた。彼は穀物の素朴さを思ひ出した。残りの日数の少ない点からも、彼の試験勉強は気狂じみたものだつた。京都の三高に入学した事の通知は、徳次郎には出さなかつた。
和作の気狂じみた一本気は、入学した後もずつと続いた。もと彼には、不運だつた父親を持つた息子に特有な、自分の未知の生涯に対する負けん気が潜んでゐた。それがいま焚きつけられたのだつた。
それから今に六年経つ。
……「見えた。見えた」といふ声がした。影絵になりはじめた人群がガヤ/\と動揺した。部屋のなかに残つてゐた生徒も中庭で遊んでゐた生徒も一斉に集まつて来た。野田と和作も立ち上つてその仲間に入つた。
最後の明るみの残つてゐる夕空に、いつの間にか肉眼で見えるやうになつた彗星がくつきりと現はれてゐた。斜めに落ちかゝつたやうな位置で皎々と懸つてゐた。細かい羽根のやうな冷たさを含んだ尾は、途方もなく大きい穹形でゆるく消えてゐた。それは人間には一寸諳では画かれない線だつた。柔和な顔付で凝つとそれを仰いでゐた和作の顔色は思はず変つた。人間性とはあまりに違ふ冷やかさを持つたものに対する驚きと畏怖とのまじつた顔色だつた。
寮長は顎髯を上に向け、南画のなかの人物のやうに背中を丸くして、一心に凝視めてゐた。強度の近眼でよく見ようとする努力のために、今年の芽を可愛く萌いてゐる花床を知らず/\踏んでゐた。野田副寮長は帽子を阿弥陀にずらし、両方の手を胴にあてて、愉快さうに観察した。理学士は忙しさうにピントを合せた。
空の闇が少しづゝ深くなるにつれ、彗星は一層くつきりと目立つて来た。彗星は時々冷え/″\とまたゝいた。それはいかにも長い軌道の旅を過して来たものの、倦まず撓まずといふやうな無関心を保つてゐた。いかにも何万年となく何万回となく、一旦環り出したらいつまでも同じ歩みで環つてゐるものの冷やかさを持つてゐた。――その冷やかさには、人間がぢきに形態を変へなくてはならないなどといふ事は、「そんな事は知らないよ」と云つたやうな、始めから生きてゐないものの不気味な魅力が含まれてゐた。
「……成程」
と和作は独りで感服した。そして彼は膚寒を感じたやうに身震した。何百万光年、何億光年――そんな遙々《はる/″\》とした距離の長さに考を向けてゐると、彼の平常の尺度は混乱して、気の遠くなるやうな心地を感じるのだ。
「さあ/\。見たい者は来給へ。押し合つちやいけないぜ!」
望遠鏡から眼を離した、ハイカラな理学士が快活に云つた。生徒達は、忽ちドヤ/\とその周囲に塊つて、順々に機械を覗いた。そして少年の澄んだ声でひとり/\感嘆詞を発して行つた。
「ね、よく見えるだらう? どうだい、彗星がこんな見事なものだとは思はなかつたらう?」理学士は上機嫌で、そんな風に雄弁に説明してゐた。「しかしあれで実に軽い、つまり稀薄なもので出来てゐるんだぜ。どんなに淡い霞にしても、それを透して向う側の星を見たら、多少は星の光が薄らぐものだけれど、彗星となるとそれが少しもないんだ。彗星の尾を透して他の星がはつきり見えるんだ。覆衣のやうな春霞とよくいふが、彗星はあれで春霞よりもう一枚上手に軽いわけさ」
和作は思はず微笑した。この年上の理学士が、彼には無邪気な感じがしたからである。
「それあいゝがあつちに雲が出たよ」和作はぽつと浮んで来た幾つかの雲を見つけて、彼に注意してやつた。
「あゝ成程。しかし急には拡るまい」そして又理学士は望遠鏡を覗いてゐる生徒を、一人々々見廻した。「いゝなあ君達の時代は! 君達の時代が、かういふものを見るには一番印象が深いんだよ。せい/″\覗いて置き給へ。僕がまだ子供で彗星を見た時分には、田舎の事でまだまだ開けなかつたものだから、村の人間がしきりと箒星は凶事の徴だと云つて心配するのさ。僕も夜分畑に出て見ながら、どういふ凶事が降つて来るのだらうと思つて、子供なりに悲しかつたよ。あの印象は一生忘れられないね」
「それあ先生」と生徒のひとりが尋ねた。先刻遊戯室から首を出した加納信一だつた。「やつぱりハレー彗星だつたんですか」
「何? 君は新聞を読まないね」さう云つて理学士が微笑むだ。「ハレー彗星を二度も見覚えるといふやうな、長寿な人は先づ少ないよ。七十五年が一まはりで、地球の傍に来るのだからね」
「七十五年で一まはり!」
「なんだ。七十五年ぐらゐで驚いちやあ困るね」そんな事を云つてゐる理学士は、軽い愉快な昂奮状態にあるらしかつた。「それよりか千八百十一年彗星といふ名のやつは加納君。三千年で一まはりだよ。その他われ/\が現在出逢つたきりで、永久にお別れだと思ひ込んでゐる種類の彗星でも、実は非常に大きな円を画いてゐて、或ひは何万年かの後にやつと一まはりで又やつて来るかも知れないんだ。さういふ事は人間一代や十代では分らないのさ。人間はつまらないものさ……。現に十万年で一まはりといふ彗星も、ある事になつてゐるのだからね」
「……十万年?」信一が神経質な鋭い眼を、あてどなく挙げた。「十万年といふと、大変だなあ」
「いゝ加減で止せばいゝのに」
和作は上機嫌でゐる理学士の方をチラと見た。信一の神経過敏を彼は気に懸けたのである。
「やあ、こつちに落つこちかゝつたやうな格好をしてゐらあ」望遠鏡を覗く順番にあたつた信一の同級生が大発見と云はんばかりに怒鳴つた。「あれで先生どつちの方角に飛んで行くんです?」
「いやに原始的な恐怖だね」理学士は相変らず興に乗つた気分で笑つてゐた。「しかし君ばかりぢやないよ。この頃でも学者連が、地球と打つかる/\。危い/\つて騒いでゐるんだよ」
「ぢやあ」その生徒は吃驚して眼を機械から離した。「あの――新聞に出てゐた事は、あれあ本当なんですか」
「まづ大丈夫だね、今度は大丈夫だね」理学士も今はくつきりと銀色に冴えてゐるその異様な形を仰いだ。「……しかし厳密に云へば、これは彗星に限つた事ではないが、今後永い間のうちにはさういふ衝突も全然ないとは断言出来ないんだね」
「なぜですか? 先生!」
「いゝ加減にしないか!」和作は妙な不安から、心のなかで強く云つた。
「なぜつて」と理学士は考へ込むやうな様子をした。「われ/\の太陽系は宇宙に拡がつてゐる銀河系のほんの一部分なんだ。粟粒よりも小さい一部分なんだ。そのわれ/\の太陽系は広い宇宙を旅してるんだ。無論宇宙の広さに比べては、それは蝸牛の歩みに等しいけれども、それでも少しづゝ、旅してゐる事は確かなんだ。だから何十万、何百万年の後には、他の星との衝突が全然ないとも限らないんだ。だからわれ/\の世界は……」
「あゝ、そいつあ厭だなあ!」
和作は凶い予感を受けたやうに、その声のする方へ振り返つた。
すると彼は、信一が友達の群から一人離れて、只ぽかんと立つてゐるのを見つけた。……首を妙に凝固させて、無感覚な表情で眼をひと処に据ゑてゐた。血の気のない唇をしつかり結んでゐる様子も普通ではなかつた。と、信一は弱々しく手を額にあてた。
「加納君!」
和作は大声で呼びかけた。信一が振り返つた。和作はその眼に表情のないのに驚いた。
「加納君、どうした」彼は急いで近寄つた。
信一は何か答へようとした。だが同時に眩暈を感じたと見えて、又もや手で額を覆ひながら近寄る和作を待ち切れず、靠れかゝるやうに倒れて来た。
「誰か!」和作は支へながら呼んだ。「誰か早く」
野田が飛んで来た。二人は信一を前後から抱へながら、家のなかに担ぎ込んだ。……和作が足を踏みしめながら昇降口の階段を登つて行く時に、「あいつ、何時もあゝなんだよ。弱虫なやつ」と云つてゐる同級生の冷笑と、建物のなかに淀んでゐた例の欝々と病んだやうな梅の重たい匂とが、薄暗闇をとほして彼の感覚を掠めた。
三十分ばかりした後、和作は廊下の角の副寮長室で野田と差向ひになつてゐた。二人は今しがた冬のをはりらしく熱いほどの麦飯を頬張つたばかりであつた。――いま野田は立上つて和作のために茶を入れてくれた。茶道具は桜草の鉢の陰にかくれた。事務机と本棚と寝台しか具へてない、簡素で小さいその部屋はスティームで十分暖かだつた。
「……まあ、僕は傍にゐなかつたんだから、よく分らないが」椅子のうへに足坐をかいた野田が、話のさきを続けた。そしてしきりに繰り返してゐた。「兎に角卒倒するのはいかん。子供らしくなくていかん」
「いや子供らしい恐怖には違ひなかつたがね」と和作は何となく信一を弁護してゐた。「飯島君の薬も利き過ぎたのさ。――宇宙論なんぞまだ早いのだ。――みんながそろ/\恐がり出した時に、いゝ加減にやめて置けばよかつたんだよ。――あゝいふ宇宙論といふのは結局小乗論ぢやないか」
「そりやさうだ」
野田は大きく首肯いた。
「煙草を禁めてあるくらゐなら、小乗論は勿論いけないよ」
しかし野田の方では、その飯島が、食後の休息に隣の部屋に来てゐはしまいかといふ懸念を持つてゐた。
「つまり信一は血統を重んじなかつたといふ事になるんだよ」彼は冗談に外らせてしまつた。
「もう少し徳次郎の愚図に似るとよかつたんだ。星を見てゐて――蒼くなつて倒れる――どうも徳次郎らしくない」
今度は和作は苦笑した。
野田は、加納の家といふと急に冷やかな態度をとる和作を、近頃もうこれで二三度目撃した。どうしたのだらうと野田は思つた。加納の家庭の空気がこの数年のうちにすつかり変つたので、和作には気に入らなくなつてゐるのではないかとも思つた。そしてその事ならば彼も賛成だつた。彼は不意に、あけすけに尋ねた。
「一体、君はこの頃の加納家の感じが気に入らないのかい?」
「うん?」和作は目に見えて動揺しながら野田を見据ゑた。
「しかし加納の家も変つたなあ!」……わるかつたかなと思ひながら、野田は椅子の背をぐつと反らせて、感歎するやうに云つた。「君はあの家の、引越したあとのハイカラ建築を知るまい?……何故あんなに落着いた日本館を売つてしまつたんだらう。あれあ確かに常子夫人の趣味だな。可哀想なのは鶴子さんさ」
「なぜ」
「なぜつて君、生活から趣味からすつかり姉さんに圧倒されてしまつてゐるんだからね。まだ結婚しないでゐるといふのも、未亡人が淋しがる点もそれはあるかも知れないが、まあ姉さんのお眼鏡で話を探してゐるからだよ。全く大事なお人形さ。……さう思つて見るせゐか、あの鶴子さんといふ人は何となく、綺麗なわりにパツとしない人だなあ」
「さうかね」和作は怒つたやうな返事をした。「兎に角僕はもう、ちつともあの家には行かないんだから……」
かう云ふと彼は無愛想に、茶卓の方へ半身を伸ばしてしまつた。野田は吃驚して彼を見つめた。だが野田はその和作の横顔から、番茶を味つて飲む人間の表情しか観察する事が出来なかつた……
――扉にノックの音が聞えて、寮長が首を出した。
「あゝ、其処でしたか」和作を見つけると寮長はその儘入つて来た。「森島君、少しお頼みがあるんだがね」
「何ですか」
「実は御めんだうだが、君一つ帰りがけに加納を家まで送つて行つて貰へまいかね」寮長はそのとほりに気の毒さうな顔を見せた。「もうあらかた神経の方は鎮まつたやうだが、人気のない医局に今夜寝かすのもどうかと思ふんだ。さうかと云つて、癒つたとも云へない者を普通に扱ふのも心配でね。まあ家で一両日安静にしてゐるのが一番いゝだらう。少し寛大だが、あれ はちつと特別扱ひにしてゐるのでね」
「誰か他に人はないでせうか」和作は一寸困惑して云つた。
「それがね、私はこれから寮長会議があるし、野田君は当直だし、小使は夜分一人きりになつてゐる処を空けさせる訳にも行かぬし、まあ、君の都合がわるければ飯島君に、方角は違ふが頼んで見ようと思ふのだが」
それはいけない、と和作は考へた。
「君、送れ」――野田が彼を真面に見て、無造作に合図した。と、不思議に和作は、自分の細々した感情をその野田にすつかり預けてしまふ心持になつた。
「君がいゝ」――野田は何故かまた繰り返した。
「ぢやあ行かう」と和作は立ち上つた。「すぐでよろしいのですか」
「和作、この間忘れて行つた蝙蝠傘を持つて行けよ」野田が窓の方に背を向けた儘、優しく云つた。「雨になつて濡れでもすると、又いけないぞ」
信一がマントの姿で連れられて来た。二人は玄関に出て靴をはいた。和作は風邪をひき易くなつてゐる身体に夜気を感じて、外套の襟を立てた。
「……君はたゞの眩暈ぢやなかつたんだらう」
今電車が出たばかりの市外線の停車場で、まだ血の気のない顔色を見せながら待合室の腰掛に倚りかゝつてゐる信一に、和作は思ひ切つて口を切つた。「たゞ急に気分が悪くなつたのかい、それとも……」
すると信一は顔を挙げ、少しばかり微笑んで見せた。
「それとも」と和作は追かけるやうにして訊ねた。「飯島先生の話でどうかなつたのぢやあ、ないのかい?」
もしさうならば、本当に気を替へてやる必要があると思つたのだ。
信一はしかしわづかに強ひてゐるやうな微笑をやはり消さなかつた。
「もしさうなら、決してあんな話を気にかけるんぢやないよ。――人間はツマらないものだなんて云ふ奴は馬鹿だよ。――人間は小つぽけでもいゝんだよ」
和作の手厳しい語調に、信一は思はず懶さうな眼を大きく見張つた。
「僕は小つぽけだつて何が構ふものか。僕たちには種族つてものがある。分るだらう。たとへば僕の京都にゐる先生が年をとつてしまへば、僕はそのかはりにうんと働かなくつちやならないよ。その僕が老いぼれたら、今度は君ぐらゐの齢の人が僕の仕事を引き受けるのさ。人間が小さいつたつて、どこが不都合かね。人間は小つぽけだから人間らしいんぢやないか」
だがこんな少年の信一を前に置いて、独りで力んでゐる自身を、和作はわれながら「どうかしてゐる」と気付かずには居られなかつた。
「何のための妙な昂奮なのだらう」
彼はさう思つた。
眼前の信一の少年らしい打撃が現在の自分とも全然無関係ではないためなのだらうか。死ぬる事と只消えてゆく事とを、どうか同じものにしたくないと思ふ焦慮の火を自分のうちに抱いてゐるそのためなのだらうか。それとも……
それともこれから思ひがけなく加納の家に行かなくてはならないのだといふ、その意識のためなのだらうか。
だがその事を考へると、和作は先刻野田に見せたと同じやうな不機嫌な顔付になつて、それきり黙り込んでしまつた。
電車が来た。和作は信一を隅の座席に倚りかゝらせた。そして二人はもう口を利かなかつた。
――――――――――――――――
同じ晩の八時過ぎに、山手線の停車場と丘向ふの公園とのどちらにも近い加納の家では、親兄弟揃つて賑かな食事をすませたところだつた。主人の信徳も宴会には招ばれず、徳次郎も出歩いてはゐなかつた。が、未亡人は箸を置くとすぐに、レウマチスが痛むと云つて女中に支へられながら、これだけが新築の邸のうちで唯一つの日本間である隠居所に入つてしまつた。未亡人はもうすつかり老いこんでゐた。
「お母さん、すぐにお退けですか」
と、頭を丸刈にして濃い髭をたくはへた、一寸将校のやうな感じのする信徳が、何気ない口調で容体をさぐつた。彼は家の者が時々閉口するほどの細かい世話焼きだつた。
「ぢやあ、折角焚いたものだ。皆あつちへ行つて、あたりながら菓子でも喰はう。ボン/\燃えてるぜ」
信徳は他の者を見廻しながらさつさと立つて、大きい備付の煖炉のある客間に入つて行つた。――それはこの日珍らしく未亡人が気分のいゝ顔付で母屋に出て来たので、信徳は若夫人に云ひつけて家中で一番居心地のいゝその部屋の煖炉に石炭をくべさせ、其処を半日の間一家の中心にしてゐたのだつた。そして今しがた皆で食卓につく際にも、信徳は母親のために火絶えを用心して、石炭を沢山投りこんで置いた、その事を今云つたのである。
常子と徳次郎とは「それぢやあ一つ……」といふ格好で立ち上つた。母親の煙草盆に火を入れてゐた鶴子は、自分を振り返つた嫂に、「すぐよ」かう云つて離の方に起つた。そこで二人だけがさきに、郵便物や書類や編物袋などを携へて、云はれた応接間に入つて行つた。――窓が多くて温室のやうな感じのするその部屋では、大きな石を畳んで煖炉に石炭が一ぱい快くゆらいで居り、三人はその周囲で肘掛椅子の位置を定めると楽々とした。
かういふ休息は、形式から云つても信徳を殊に満足させた。一家が水入らずに暮すといふ考へは、何処か西洋風の匂をも含めて、彼の口喧しいくらゐ世話好な性質に心から適合するのだつた。彼には、同胞が成人するにつれて幾分なりとも互ひに遠々しくなるやうな事があつては自分が済まないといふ妙に律気な心持があつた。――つい 最近外交官補になつた徳次郎などはこの兄の永年の細かい世話にもう倦々《あき/\》して、外国在勤に廻される筈のこの秋を心待ちしてゐる形だつた。が、信徳のこの遣り口には、外見の昔臭い割合には実が籠つてゐた。末子の位置だけに鶴子はそれを感じてゐて、心のなかでこの兄に深い愛情を向けてゐた。
「鶴子は何してゐるんだい」
鉛筆を持つて書類に目を通してゐた信徳が、不機嫌な顔を挙げた。常子は形勢を察したので扉のところに行つて「鶴子さん」とさう呼んだ。……彼女が呼び終るまで故意と不機嫌な顔を崩さずにゐた信徳は、それで気が済んだやうに又眼を書類に落した。常子はその世話焼かげんを可笑しく思ふのだつた。
扉が緩く開いて、当の鶴子が両手に縫仕事を持ち、顎に夕刊をはさんだ呑気な格好で入つて来た。
彼女は二十二になつてゐた。地味な紫の羽織と、やはりそんな風の黒つぽい着物を着せられてゐた。彼女にはそれが似合つて美しかつた。が、それにも拘らず、鶴子にはやはり野田の云つたやうに美しさのどうも栄えないところがあつた。それは彼女が自身の美しさに朝夕生々した自覚を持つ、といふやうな性質を欠いてゐるためらしかつた。
鶴子は信徳の傍に行つて夕刊を渡すと、嫂の隣に腰かけて小さい姪の袖口の綻をなほしはじめた。――彼女が万事派手な嫂とそのやうに居並ぶと、その対照は一寸妙だつた。
「まあ、鶴子さん。またそんな事をしてゐたの」と常子が眉を寄せて見せた。「あとでもいゝのに」
「えゝ、一寸出来てよ」鶴子はその儘ずん/\縫ひ続けた。そして少しめんだうな個処に来た。
「本当によして頂戴」常子はそれを見て鶴子の手を遮つた。「女中にお委せなさいよ。みんな手がすいてるぢやないの」
「えゝ。えゝ」
鶴子はしかしかういふ世話にかまけてゐると、自分の性質に一番適した仕事をしてゐるやうな安堵をいつも感じるのだつた。
――夕刊を簡単に取り替へ/\見通してゐた信徳が、残らず無造作にまとめて徳次郎に渡しながら、
「どれもこれもH彗星の事で持ちきりだ。あ――」欠伸まじりに云つて、また元の書類に目を移してしまつた。
「公園にも人出がある見込つて、書いてありますね。そんな気配かしら」
徳次郎は腰をあげ、後ろの窓を勢よく開けて首を出した。
「やあ、駄目、駄目。すつかり薄い雲が出て、どん/\拡つてゐますよ」空を仰いでゐる事が声の響き工合で分るのだ。「……生温かいところを見ると明日は雨かな」
「曇つちや、天文台でもやつぱり困るんでせうね」と常子が口を入れた。「でも明日もやつぱりよく見えるのか知ら」
「さうそ」信徳がそれには構はずに云つた。「天文台で思ひ出したが、俺とお前の宛名で学校から(それは寄宿学校の意味だつた)招待状が来てゐたぜ。何とか博士の彗星の講演があるさうだよ。行つて見るかい?」
「あまり有難くありませんね」
徳次郎は浮かない顔付で答へた。
「学校と云へば」と信徳が同じ寛ろいだ調子で喋つた。「この間電車で野田に逢つたぜ。野田の話だとあの森島ね、森島和作か。あれが今度高等部の講師になつたさうだね。お前、知つてるか」
「えゝ、知つてゐます」気弱な徳次郎はそれをまだ家の誰にも話さなかつたので、工合の悪い顔をした。
「俺は野田にはじめて聞いたんだが、あいつは文科は哲学を出たんだつてね。ふーん」和作に対する印象の淡い信徳は感心して見せた。「昔自家にちよい/\来た時分には、俺はよく知らんが、何でもお前の部屋で騒いだりして、いやに活溌な奴らしかつたぢやないか」
「いや、やつぱりさういふ変つた所もありましたよ」
「誰? 森島さん?」常子が引受けて云つた。「えゝ、えゝ、あの人は昔から哲学者よ。変人よ」
……鶴子が悠くり顔を挙げた。
だが常子はその様子を見てとると、「ねえ、鶴子さん」かう呼びかけて立ち上りながら、長椅子の上に放つて置いた大きな編物袋を取つて来て快活に喋り出した。
「ねえ、あなたにお見せするものがあるのよ。御批評が願ひたいわ」彼女は袋の中から女の子の靴下の出来かけを出して見せた。「昨日お友達にこんないゝ毛糸を教へて戴いてね、すぐと帰りに買つてやりはじめましたの。そのかはりこれは一番大よそゆきよ」
「まあ、柔らか」鶴子は懶さうに手の甲にあてて見た。「ほんたうに柔らかね」
「こゝの処から四本棒を五本使ふのよ。わたしねいま別に信一の靴下も編んでゐるんですけれどね、裏と踵には木綿をどし/\刺し込んでやるの。まあ山賊の靴下ね。だつて一週間に二三足といふ勢で、生優しく継げない穴を開けられちやあ、こつちが堪らないわ」
常子は眉を大げさに顰めて見せながら、この間も、鶴子の一寸した表情の動きをも注意してゐた。
四人は又もや黙り込んだ。
煖炉の石炭が信徳の好みどほりに、居心地よく燃え上つた。
そして五分ほど経つた。
――不意に玄関で呼鈴が鳴つた。四人は一斉に顔を挙げた。
「俺の客だつたら書斎に通せよ」信徳が機嫌の悪い声で常子に云つた。
「誰だらう。今時分」
不規律な客にかけては兄よりも自分に多い徳次郎が、聞き耳を立てた。だが彼にも、公園の周囲を行く電車のポールの音しか聞えなかつた。
女中が入つて来た。
「どなた?」常子は玄関がすぐ其処なのを用心して、小声に尋ねた。
「信一様でいらつしやいました」
「信一? どうしたのだらう」
「何か御気分が悪いとかで、学校から先生のやうなお方が附いておいでになりました」
「やうなお方といふ事はないぢやないの。お名刺は」来客を叮嚀にもてなさないと気持の悪い常子が、不機嫌に云つた。
「戴きました。その儘お帰りになる御様子でしたが……」
「いゝから早く頂戴」彼女はテキパキと名刺を受取つたが、それを一瞥すると急に今までの気忙しさを忘れたかのやうに、「あ、さう」と云つて何気なく立ち上つた。
「兎に角信一を休ませろよ。俺、玄関に行つてやらうか」信徳が気早に、持ち前を出しかけた。
「はい、はい。いま致しますよ」妙に思慮深い色が常子に現はれてゐた。「ではと、信一を長椅子まで連れて行つて、少し横にならせて置いてお呉れ。それから鶴子さん。済みませんけれど体温を計つてやつて頂戴な」
鶴子が部屋を出て行つた。
「あなた。……これなんだと思つて」用心深く間をおいてから、常子は名刺を突き出して見た。「お二人で噂なさるからよ。その罰よ。――森島和作氏。……いかゞ?」半端な笑顔を保ちながら読み上げた。「ひとつ御挨拶して来てよ」
「ほう」と云つた徳次郎には弱々しい困惑の色が現れた。
「森島? それあ気の毒だつたな。此処へ通すか」何の先入主も興味もない信徳が、前と同じ調子で云つた。
「さうねえ。でも玄関で帰るつて仰有りはしないかしら」着ずまひを直しながら常子はもう小刻みに扉口に急いだ。「よくつてよ、わたしがよくお礼云つて置きますから」
……常子は義妹を心から愛してゐた。それは自身の結婚の経験はもう過ぎた婦人の持つ、独特の愛情だつた。彼女は自分が一から十まで世話を焼く事が出来るといふ責任感も含めて――或ひはそれゆゑに一層――鶴子の幸福をいろ/\と工夫案配してゐた。さういふ位置にあつて彼女は鶴子が美しさから云つても気質から云つても可成立派な娘なのに、何となく万事引込思案で印象の栄えないのをしきりと気に懸けてゐた。……だがいま常子には、鶴子のために非常にいゝ縁談のあてがほん の緒ほど出来かゝつてゐた。そのために彼女は、鶴子の事にかけては家中で一番神経質になつてゐた。
「……本当に玄関で帰つてくれるといゝが」
常子は薄暗い廊下に満ちてゐる春の空気を感じながら、それを心から願つた。以前から非常に遠慮深い時と、その全く反対の時との予想のつかぬ和作を思ふと、彼女は昔ながらの妙な不安を受けた。
「さうだ。……どうしても玄関で帰つて貰はなければ」
一家の平穏のためにはどんな些細な邪魔でも嫌悪したい本能から気の引き緊るのを感じながら、彼女は玄関の厚い硝子戸をゆつくり開けた。
だが戸外には、いま廊下に漂つてゐたと同じしつとりした、動かぬ空気があり、漆喰の庇の陰から照らしてゐる燈が石だゝみの上にぽつ と落ちてゐるばかりだつた。
「おや」
常子は扉を開けた儘立ち尽した。
「……まあ、よかつた。帰つてくれたのだ」
彼女は何かの香気のこもつてゐさうな夜気を大きく吸ひながら、こみ上げて来る安堵の表情を抑へる事が出来なかつた。
「まあ、よかつた、よかつた」
幸福を無事に護りおほせた気持になりながら、彼女はスリッパアの音を立てて、その儘信一の横になつてゐる奥の方へ入つてしまつた。
――――――――――――――――
森島和作は、加納の住居のある閑静な邸町から電車通の往来に、電車通の往来から更に街路樹と街燈の並んでゐる眩しい大通りに出てゐた。彼はまだ自分の後ろに、あの植込みに取巻かれた建物の冷静さを感じてゐた。
彼にはその建物の屋根や壁が、夜の寒気だの不慮の災だのをしつかり防ぎながら、闇のなかで凝つと微笑んでゐたやうに思はれた。彼は温室から今出て来たばかりの人のやうに深呼吸をした。
「やはりあれでよかつたのだ。俺はほかの世界の一家を驚かす前に、出て来たのだ」
……そして彼は古外套の下に決断力を感じた。
和作は大通りの賑かな人道を、夜店の前に立ち止る人を縫ひながら大跨に歩いた。
――空にはいつの間にか変化が行はれてゐた。一時間ばかり前からどん/\解けて拡がつてゐた霞のやうなあの淡い雲は、今はもう都会の上を低く覆つて、肝心の彗星も何もかも、すつかり隠してしまつてゐた。そしてあとには浮々した春の夜気が、独り顔に空間を領してゐた。それは宇宙の巨大、人間の微小といふやうな比喩を無理にも暗示してゐた先刻の空とは、似ても似つかないものだつた。
月の在処だけが茫んやり分る。……
和作は三高時代に読んだ、「朧夜や顔に似合はぬ恋もあらん」といふ句をふと思ひ出した。そして歩きながら月の在処を凝つと視た。
だがやがて、彼はさういふ自身を冷やかに観察してゐる自分に気づいた。彼は赧くなつた。彼は腹立しく頭を振つた。
あれはたわいもなかつた事ではないか! 鶴子の結婚の噂が耳に入れば、やがて跡方もなく消えてしまふ程度のものではないか!
二丁目、三丁目と彼は同じ早さで、数間先きを茫んやり見ながら歩いて行つた。
「過去、眠れ」稍々《やゝ》あつて彼は、激したやうに自分に云つた。「あんな過去……」
沈んだ空虚が来た。そして又例の病後の疲れが、彼の身体を徐々に占めた。こんな事ぢやいけない。彼は古外套の下の決断力を焚きつけた。
「さうだ。……春になつたら身体をなほして、早くまとまつた仕事に手をつけなくては!」
彼は、京都を去る時に××先生から大体の方針を親切に教へられて来た、或る研究のことを思ひ出したのである。――この健康さへ恢復したら、そしてその仕事にさへ手を着けたら、もう少しは今の自分を笑つて見下せる自分になれるだらう。かう考へた。
和作は焦りがちな今の自分を、労つてやりたい心持で一ぱいになつた。
五丁目と突き当つて、濠端の電車の交叉点に出た。和作は歩き過ぎを恐れて電車に乗つた。寄寓してゐる家に帰れば丁度十時になると思つた。だがこんな浮々した朧夜に、果してその儘眠つかれるかどうかを気遣つた。
(大正十二年四月)
青空文庫より引用