雲仙岳
南欧の俤
上海通いの急行船「郵船」の上海丸で神戸を立ったのが、七月二十二日の午前十一時。丁度来島海峡で日が暮れるので、暑さ知らずの涼風に吹かれながら、瀬戸内の最も島の多く美くしい部分を日の中に見られるから、夏の雲仙行としては郵船に越すものはない。長崎へ着いたのが翌朝の九時、阜頭へ着くと、迎えの自動車が待っており、すぐそれに乗込むと、一路島原半島を目指したのである。同行者は上野さんと大塚さん。
この前雲仙に上った時は、茂木から、船で小浜に渡っているので、今度はわざと陸行を選んだのである。千々岩灘に添う十五里の沿岸道路は、平坦な道の少い代り、風景の捨難いところが多く、退屈を覚えない。江の浦辺りから海が見え出し、海上にはいくつかの小島も見え、無数の漁船も見える。或時は松並木の間から、或時は断崖の上からそれを眺めて行く。その間湾を隔てて、いつも私達を見守っているのは、雲仙の懐かしい温容である。
愛野の地峡をぬけていよいよ半島に入ると、風景は更に一段の趣きを加える。道は雲仙の山脚が海に落ちこんでいる急峻な部分に通じているので、可なり険しい絶壁の上を、屡々《しばしば》通らなければならぬが、そのために風致は歩々《ほほ》展開して行く。
この沿岸道路の趣きが、ヨーロッパで最美の道路として知られているあのリビエラ沿岸、いわゆる碧色海岸のニースとモナコ間によく似ていると人はいう。私もこの前それに折紙をつけた一人である。軒蛇腹道とも別称されるほど、しかく絶壁の上につけられた海岸道路から、松の生えた小島などを、南欧特有の青い空の下、碧玉の海面に見出しながら、ドライブする趣きは、ここと少からぬ共通点を持つ。外人がこの沿岸道路を非常に喜ぶのもなる程とうなずかれる。この道路ではところどころコンクリートの柵を廻らし、危険に備えてある点も甚だよく彼に似ている。この沿線中、誰でも最初に深く印象づけられる景色は愛野の地峡をぬけて、断崖の上から千々岩灘の碧湾に直面した時の眺めである。
見下す眼の下には、見事な長い半円を描く千々岩の松原と、この半円に添うて、いつも二段位に長いカーブを作って縁取している白波が見える。白波と松原との中間に、緩やかな傾斜を持った大きな砂浜がある。それを見下しただけでもいい眺めであるが、少し眼を移すと松原の尽きる辺りに、雲仙火山群の一つである猿葉山の険しい山脚が、海に走って形作っている木津の半島が紺碧の海に突出しまたそれを隔てて更に、国崎半島が野母半島と相対して、大きく千々岩灘を抱擁していて、碧湾の中には白帆を張った無数の漁船がばら撒いたように散っているのだ。それは全くピトレスクで、眺望の佳麗を以て知らるる雲仙の序曲であるにふさわしい。
ここから小浜までの間は好風景の連続で、わけても富津の真上から、その小さい築港と、港の鼻に突き出している弁天崎の遊園地を見下した景色は宝石のような纏まった美しさを持つ。この愛野、小浜間には小浜鉄道が開通されてあって、私も一度試乗して見たが、それは短い間にいくつかの隧道を通じ、断崖の上のみを駛るので眺望の点において遥に自動車道以上であることを附記して置く。
小浜温泉場に着いたのが十二時。一角楼というのでゆるゆる昼食を取る。長崎方面からの雲仙上りは普通小浜からするので、千々岩から上る木場道というものもあるが小浜の方が道もよし便利でもある。小浜からは二里半の上りで、三間乃至二間半の立派な自動車道がついている。この二里半は上り一方の峠道で、曲折の多いだけ、景色の変化も多く、高くなるにつけ視界は美しくひろげられて行く。大分上ったところの「駕立場」は藩侯登山の折の休憩所で、ここの眺望は雲仙の第一景として知られている。雲仙の主峰普賢を初め妙見、仁田峠、絹笠、高岩、野岳と数えて来れば遥にそれ以上の展望美を有する地点は十指を屈するも足らぬが、さりとてここの展望にもまた特色があっていい、美くしい橘湾が目の下に見え、対岸の西彼杵、北高来の陸地を越した向うにはまた、湖水のように入込んでいる大村湾が瑠璃色をたたえている。野母半島の彼方には、玄界灘が果しもなく、別にまた橘湾と玄海を結びつける天草灘があり、大小の天草列島が、その間に星散碁布する。これだけの展望があればまず、旅客を魅するに十分といえよう。殊にまた手近の脚下を見ると、雲仙の山脚が長く遠くその尾根をひいている翠微の中に聯環湖であり山上湖であるところの諏訪池がたたえられ、それが曲玉のような形をして、翡翠の色を浮べているのが、さながら神秘の湖であるかの如く見える。この諏訪池がまたどれほど、駕立場の展望を美化しているか知れない。
駕立場から雲仙公園は近い。程なく二千二百尺を上って、県営のその公園につき、温泉旅館九州ホテルで靴の紐を解いた。私はこの前もその同じ部屋に泊ったので、旧知の宿は心易い。暫く休息している中、これも旧知である公園主事の園さんが見える。北海道の札幌と朝夕の温度が同じだというその涼しさに、私達は蘇生った気がする。兎も角一浴をとすすめられて、一度温泉に浸って来た上、浴衣がけになって、取あえず地獄めぐりを試みる。
ここの地獄は別府の海地獄、血の池地獄のような大きなものはないが、別府のように散在的でなく大小三十余の地獄が一ヶ所に集中されてあるので、却て壮観である。この点は北海道の登別温泉に似ているが、周囲の風致において、広さにおいて彼を凌いでいる。これ等の地獄は絹笠山と矢岳を火口壁とした爆裂火口丘の跡に存在するもので、大体において北方の大地獄群と南方の小地獄群とに帯山の丘陵によって分たれる。周囲は鬱蒼たる山や丘陵で囲まれ、いずれに向いても赤松の夥しい存在が、少からず風致を助ける。硫化水素の臭いが四辺をこめ、山や丘陵や、赤松や、濛々《もうもう》たる蒸気の間から、吹なびく風のまにまに隠見する趣きは、一種の地獄風景観を形作る。
切支丹物語
私達は九州ホテルの裏口から、地獄めぐりの逍遥道路を経て、一々の地獄を点検して行く。まず最初に天然記念物として保護されている泥火山がある。三、四坪の凹地に浅い湧泉を湛え、その底から青みがかった灰色の火山岩の分解物からなる泥土を一分間に数回ずつ噴出し、そこここに所謂泥火山を円錐形に作り上げ、それが流れて裾野となる有様は、火山から熔岩の流出する趣きと異らない。またそれが一定の高さに堆積し、ガスの噴騰力に打勝つと、ガスは山腹に新火口を求め、そこに小さな寄生火山を噴起せしめる。すべてが火山の活動状態と寸分の差がないので、小さいものではあるが、最も完全な標識的のものとして、その泥火山は学術上著名なものになっている。
地獄の沿道には三途の川、剣の山、死出の山、老の阪、賽河原などがあり、地獄には叫喚地獄、難産地獄、無間地獄、妄語地獄、殺生地獄、八万地獄、お糸地獄、清七地獄等々があって、微苦笑させられるが、それらの地獄の名にも似ず、環境の美くしさにはまた驚かされる。それ等の地獄を縁づけている丘陵には、地獄の煙のなびきかかるところに、岩石をはうようにして、葉のこまかい、園芸品種としても名高い雲仙つつじ が、一面にはびこっていて、上の方へのぼるに従い、山つつじ 、瑶珞つつじ が、赤松の間に茂っている。その花時の美くしさは何ともいわれぬので、私のこの前来た時は、丁度つつじ の花盛りだったのである。また秋になるといろいろの落葉灌木が紅葉し、殊に瑶珞つつじ が真紅になる。地獄の上を血のように染めるもみじ 時の美くしさは想像に難くない。
その瑶珞つつじ は地獄附近では定時風で、いつも蒸気が激しく吹きつけるところに群落を作り、目立って繁茂していることが目につく。雲仙つつじ は地下一尺の所まで熱気が来ている地上にも、平気ではびこっている。殊にまた硫黄を最も多く噴出し、四辺の岩石を黄色に染めている叫喚地獄や邪見地獄の上の、硫気が絶えず靡いて行く辺にある赤松の葉色が、取わけ鮮麗な緑色を呈しているのも面白い研究資料であろう。私はまた莎草科の一種である「しまてんつき」が熱湯の流れているところに最も鮮やかな色を見せて茂っており冷めた湯の流れているところでは貧弱な生存を続けているのを見た。更にまたさまざまの地獄から沸泉が湯煙を立てて流れて行く水路の底が美くしい碧玉の色に染まっていることを見逃すことは出来なかった。この碧玉色の本体も高温の湯の中に繁殖する単細胞の藻類であって、今はその繁殖時期であるため、一しおあざやかな碧色を呈しているのであった。自然の中、最も植物に心を惹かれる私に取ってはこうした現象に接することは興味深いことだった。
私は叫喚地獄の前に立ち、無間地獄の前に立った。いや、地獄の名などはどうでもいい。すさまじい囂音が、大地の底からうなりを立てて耳も聾するばかりに響く。硫化物や硅酸などを表面に沈澱させている岩石の下は、ぐらぐらと煮えくり返り、噴気孔から烈しい勢いで吐き出される硫化水素や、水蒸気がもうもうとして立昇る。灰色の池は全面沸々としてすさまじい音を立てている。一歩踏みあやまれば、全身は直に麋爛し尽くすであろうことを思うと身の毛もよだつ。
私が目をつむると、忽ちそこに恐ろしい幻影があらわれる――。
裸体にされた幾組の男女が、かしこの岩石の上、こなたの熱泉のほとりに引据えられている。牛頭馬頭に似た獄卒が、かれ等に苛責の鞭を加えている。かれ等はただ黙々として、その鞭にたえているので、地獄の地鳴りにも拘らず、死のような沈黙が四辺を支配する。かれ等の胸から一様に光を放って私の眼を射るのは小さな十字架であった。いな十字架の幻影であった。彼等のあるものは、手足を荒縄で縛られ腹這いに寝せられて、背中に熱泉を注ぎかけられている。彼等の焼けただれた皮膚の臭気が硫気にまじって私の鼻をつく。あるものは足を吊られて、逆さまに噴気孔に下げられている。それは一幅の凄惨な地獄絵図でなくて何であろう。
忽ち濛々《もうもう》たる白煙が、一切を私の目から拭き消したと見ると、すぐまた現れた地獄絵図には、一人の若ものが気息奄々《きそくえんえん》の姿で、地獄の傍に横たえられてある。彼は十六日間責め通されてなお改宗を肯じないのだ。彼の全身は悉く腐爛し、口も眼も鼻も癩患者のようにただれ、彼より発する堪え難い悪臭が恐ろしく鼻をつく。それだのに彼はなお莞爾として、天の栄光をたたえているのだ、彼の上にはシメオンという教名が、イルミネーションの如く、空に燦として私の眼を射る。
けれども、私は更にまた驚くべき光景を見た。大叫喚の地鳴りを立てている岩石の上に、赤い湯もじ 一つにされ、突立たせられている一人のうら若い女性がある。丈なす髪はかの女の踵まで届くかに見える。かの女のかぼそい首筋には巨大な重石が、ふっくりつぼみのように膨らんだかの女の双乳を隠すばかりに結びつけられてある。かの女はよろめく度に、幾度かたぎり立つ地獄の中に落ちこもうとしては、渾身の力をもって僅に支えている。けれどもかの女の顔色は自若として変らない。かの女はそうして幾日も幾日もためされている。かの女の上にもイルミネーションの文字鮮やかに、イサベラと記されたのが、私の眼に読まれる。ああ、けれどもかの女はいつまでそれにたえられるであろう!
私自ら、眩めくように覚えて、眼をあいた時は、ただ美くしい自然と地獄の噴煙とのみが目の前にあった。切支丹物語りと雲仙地獄、この二つを切離して考えることは出来ない。日本西教史の幾ページを彩る雲仙地獄の凄惨な物語りは、原城の歴史と共に雲仙を訪れるものの、必ずや記憶によみがえるところであろう。
スロープ
私は地獄めぐりを済ませると、夕暮間近の景色を観賞するため、ここから十数町を隔つるゴルフ・リンクスへ出かけた。私はゴルフ・リンクスとして、これほど美くしい眺めと、親しみ易い温か味を持ったところを知らない。たしかに六甲以上であって、東洋一と呼ばれているのも恐らくは過褒ではあるまい。私はゴルファーではないが、ここのリンクスには何とも知れぬなつかしい憧憬を持つ。面積が六万坪あることや、延長が三千碼におよぶことなどは、私にはどうでもいい。それがまた日本一のパブリック・リンクスで、外のリンクスのいずれも貴族的であるに引かえ、誰でも二十銭の入場料さえ支払えば、ゲームの出来ることなども、これまたどうでもいい。ここの瀟洒な休憩所へ勝手に来て、無料でこのリンクスのなごやかな、ひたひたと人に話しかけて来るような環境の美しさに、陶酔することが出来るというのが何よりなのである。私はこの意味で雲仙のゴルフ・リンクスを礼讃する。
リンクスは東雲仙火山と西雲仙火山の接触地点にあって、すぐ背後に矢岳を負い、矢岳と野岳との間の最低地空池を控え、野岳と連接する妙見岳の裾野が、見事なスロープを作り最左方石割山との間に、寄生火山を持つ第一吹越の障壁で、北を限った一大盆地がそれである。この盆地を美化するためには、見事な松林がリンクスの中央に、中の島の如く延びて来ている。このリンクスの美くしさは、畢竟スロープの見事な裾野の美くしさであり、四面山に囲まれた盆地の美くしさである。そこには目を遮る何ものもなく、空池の低地には池のほとり、滑らかな芝生から裾野へかけ、数百の馬が放牧されて画趣を添え、同じく一面の芝生であるリンクスの遥の斜面には点々として豆の如く、ゴルファーや普賢から下って来る人達がうごめいている。殊に今は避暑のシーズンで、千に近い外人の避暑客があるので、青衣紅衣の洋婦人が、このスロープを明るくして、散らばっている趣きは、全くエキゾチックで、軽井沢ででもなければこの光景は見られない。
雲仙の最高峰普賢はここから見えぬが、普賢を背後に隠している妙見岳が、独りそのたえ なる姿を抽んでて、このリンクスに君臨している。五月になると、裾野一帯はつつじ で彩られ、秋になると、麓から真紅に染められて行くことを想像して見るがよい。四面山に囲まれて、全く塵境を離れた、処女の肌のように滑らかなこのリンクスの美くしさは、夕暮が近づいて、静けさが加わるほどますます発揮される。私達は飽かずリンクスの美を鑑賞した上、迎えの自動車で引返したが、夏の日の暮れるに遅く、まだ日足があるので、折柄の時雨空を冒し、稚児落の滝を見て帰るため、木場道をくだらせた。
木場道は雲仙から千々岩に下る道で、これも自動車を通ずるが、カーブが甚だしいのと道が狭くて急であるから、多く小浜道が選ばれるのだ。併しこの道は絹笠山と妙見の山脚の間を下るので、幾筋にも走っている小さな尾根を見下しながら。また谷間をS字形に縫っている真白な行手の自動車道を蒼翠の間に見出しながら、いつでも千々岩灘と千々岩松原を、両山脚の間に見て、一気呵成におりて行く趣きは、時々ひやひやさせられるが興味が深い。時雨がやんだり落ちたりしていたが、折柄の灰色雲を破って入日が漏れ、それがハレーションを起して、脚下の千々岩灘も空も一様に、ぎらぎらと輝き渡った海天一色の荘厳な光景は私達を魅了した。雲仙のハレーションは名物の一つでもあった。
天きらふ鈍色雲に入日さし、かがよう海の果し知らずも
木場道の三分一位を下ったところで自動車を駐め、谷を分け下るとすぐ稚児落滝である。この滝は温泉名所の一つではあるけれども周囲の岩石が酸化鉄の色を帯びて赤く、水も清冽でないので、滝としての風致を欠く。わざわざ見るほどの滝でもないと失望したが、ただ稚児落の伝説を知ってこの滝に対する時、そこに感興を覚ゆるのみである。
帰途別所の盆地を過ったが、ここには県営の大きなプールが出来るはず。見事な原始林に添うて、清冽な清水の無尽蔵に湧出しているところであるから、それを利用すればどんなに大きなプールでも出来よう。プールと共に小児達の水遊び場を作り、水の遊園地とするはずで、やがては雲仙名所の一つとなる日も近いであろう。
私の第一日の行程は終りを告げた。案じられるは普賢に上ろうとする明日の天候である。この前上った時は、山上で雷雨に逢い、どこも見えずじまいに、骨まで濡れて下りて来たので、今度は是非とも天気を見定めてからでなければ上れないのだった。園さんの話しによると、この一週間ばかり普賢にいつも霧がかかり展望が得られないので、今日の時雨空から推すと、明日も到底霧晴れは望まれまいというのだ。私はひどく失望しながら、よし、それなら幾日でも霧の晴れるまで待とうと決心したのである。と、その夜の十時前、私が寝台に入ろうとすると、ノックして入って来たのは園さんで、空はすっかり晴れ、この模様では、明日の山上も日本晴れになりそうだから、六時に宿を立って普賢に上ることにしようというのだ。それを聞くと私の胸は躍った。喜びと期待に満ちて寝台に入り、ぐっすり寝込んで五時に目をさまして見ると空はあつらえ向きに、からっと晴れ渡っている。
朝の手水を済ませ、浴衣がけにパッチ、紺足袋に草鞋ばきという、どんなに汗をかいても心配のない、気楽な身ごしらえの出来上ったところへ、園さんが同じく身ごしらえをかためて「このごろにない上天気です」とにこにこしながら出て来た。まだ外人等は寝入りばなで、食堂はがらんとしているから、私と園さんは異様な風体のまま食堂に闖入し、パンとハムエグスか何かでそこそこに朝飯を済ませサンドウィッチを作らせた上、人夫を引具し、勇ましくも(!)雲仙の第一峰に向け出発した。時は昭和二年七月二十四日午前六時。
霞の海
私は登山に先だち、一くだり雲仙岳の概念を与えて置く必要を感ずる。人はただ無雑作に雲仙と称するけれども、雲仙岳はしかく単純な一個の山を指すのではない。普通雲仙岳と呼ばれるのは、普賢、妙見、国見、絹笠、野岳等を一括した総称で、時にはその最高峰普賢にこの代表的の名を与える事もあるが、その実雲仙岳という単位の山岳はないのである。地理学上の雲仙岳は二座の火山群から成るところの二重火山で、九千部山と千々岩岳、それに地獄火山とこの三個の中央火口丘を有してその周囲に鳥甲山、吾妻山、鉢巻山、矢岳、絹笠山、野岳、高岩岳を外輪山とする西雲仙火山と、普賢岳を中央火口丘とし、国見、妙見、江丸山等を外輪山とする東雲仙火山との交錯から出来上っている連峰を指すのである。噴出の年代からいうと西雲仙火山が旧く、東雲仙火山は新たに噴出したものである。西雲仙火山の範囲は大きく、東雲仙火山の範囲は狭い。私達が昨日見て来た地獄は旧火山である西雲仙中央火山丘の一つが、その後絶えず繰返された爆発のため山形を失い、現在の地獄盆地を現出したものに外ならないと、地質学者は説く。そして私が今上ろうとする普賢は、新火山の中央火口丘なのである。私達はこの火口丘の外輪山である妙見岳の外側面、凡そ三十度の緩傾斜をなしている裾野から、西雲仙旧火山の外輪山である野岳の内側面に添うて、妙見と野岳を連ぬる一線仁田峠を目ざして上って行くので、ゴルフ・リンクスを横ぎって進むのである。温泉所在地から普賢の絶頂まで二里、リンクスから仁田峠まで三十町と註される。
野岳がこの登山道路の東を塞いでいるので、朝日を遮ってくれるから、私達は蔭の道を進むことが出来る。朝の谷間を登る爽快さには身体もひきしまる。道端には淡紅の花を簇開する小灌木「しもつけ」がまだ咲残り、帯紫色の鐘状花蛍袋や、虎の尾がちょいちょいその間に交る。「がくうつぎ」が白い花をつけて灌木の間を彩る。小禽や藪鶯の声がひっきりなしに聞えて来る。もしそれが五月であるならばこの辺は谷といわず、岨といわず、見渡す限り、色さまざまに咲き誇る各種のつつじ が、大群落をなしているのであるが、今は花がなく、ただ遅れ咲きに咲いている赤花の山つつじ が、点々見出されるだけである。
私達は汗もかかずに三十町を上って、海抜一千八十米(三五六五尺) の仁田峠へ来た。空気はそれほどひやひやしており朝日はまだ山を出ない。峠へ来て初めて谷をぬけるので、忽然として海洋美の大観に接する。普賢へは上らなくとも仁田峠は見落とすなといわれているほどその風景は美くしい。私は仁田峠と、普賢の絶頂と、高岩岳の展望を、雲仙の三大景観として推奨したい。しかし雲仙の美はこの三大景観に止まらず展望の利くところはどこでも美くしいので、それは一面島原半島の海洋美であって、海洋美を兼ねることによって、山岳美の高調される雲仙の如き名山は、誠に類稀なるものといわねばならぬ。
この朝の仁田峠の展望は、全く素ばらしいものだった。私達は今妙見岳の鞍部、直下三千尺の渓谷赤松谷を見下した真上に立っている。海岸線に向って幾つかの尾根が、美しいひだ を作って、放射状に走っている。赤松谷は爆発火口原であるが、その急峻な傾斜面には赤松が生え、樅が生え、椎、樫などの雑木が、鮮麗に頂の緑を見せて鬱蒼としている。更にその末が裾野となって、緩やかな傾斜で海岸に延びており、そこに千々岩灘とは反対の側の有明海が紺碧の色をたたえて展開する。
有明海を隔てて一眸の中に入る肥筑の山野、墨絵の如く有明海に斗出している宇土半島、半島の突端からつづく天草列島――盆景の小島の如く浮んでいる島の数の如何に多いことよ。列島の彼方に別にエメラルドの色をたたえているのは八代海である。けれども今目路の限り、紫がかった薄絹の帷の様に、朝霞が一面に棚引いているのだ。八代海はすでに半以上ぼかされて霞と海の見界はつかない。この霞の海の荘厳さはこれを何に譬えよう。それはただ一抹にぼかされた霞の海であるだけではない。九州の連山、天草諸島、すべてが遠きも近きも、一様にその裾を消して、頂のみをこの霞の中に現しているのだ。それがくっきりと濃い桔梗色であり、また紺青色である。
遥に思いもよらぬ後方の群を抜いた空に、ぽっかり浮んでいるのは祖母の頂である。離れて久住の頂が、やや低いところに見える。英彦が見える、市房が見える。日向の連山のいくつかが、断続してその黛を描く。殊に私を喜ばせたのは、左方に当たり肥後の連峰の黛からぬきんでて紺青色の阿蘇の上半部とそれに靡きかかる噴煙を、はっきりと眺め得たことであった。霧島の噴煙ももっと晴れれば見えるとのことであったが、今日はそれまでは見えない。更に近間の宇土半島と並んで、熊本の金峰山が、その上半部を最も濃い桔梗色にぼかしているのが目につく。三角の三角岳も同じ色に鮮明にぼかされている。これ等幾十と指点することの出来る山や島の頂線のみが上下相重畳して、鮮明にはてしのない霞海の中に、無言の交響楽をかなでている荘厳な光景は、これを現実と見るには余りに清浄であり、神秘的である。殊にまた右手の霞の海の果てに、横線を劃して積雲の層が見事に現れていることが、この光景を一層浄化しているかに見える。きのう、私が地獄絵図を見て来たならば、今目のあたりに見る光景は、極楽浄土絵でなくて何であろう。もしまたこの積雲の間に、二十五菩薩を画いたならば、それは実に素ばらしい来迎図でなければなるまい。
その紅葉時
今まで海に面していた眸子を転ずると、峠へ出るまでは見えなかった普賢の峻峰が、突如として道の行手を遮って、目の前に表われる。また左手の真上には妙見の内側面が、私達の踏んで来た外側面の緩傾斜に引かえ、凡そ六十度の急傾斜をなし、切っ立てたような巨巌の絶壁となって、私達の頭上を圧迫している。私はまた暫くこの崇高な普賢と妙見の山容に魅せられて立った。
この峠から普賢へ上るためには、ここからまた左へ落込んでいる薊谷の渓谷を下らなければならなかった。それは降ってまた昇るのであるが、暫くは密林帯で、数町の間樹木に蔽われて、日の目も漏らぬトンネルのような幽邃な谷がつづく。降り口の辺は犬つげ の巨木が最も多く、松は姿を消し、かえで 、くろびいたや 、うりはだかえで 、ときわかえで 等深山性の椒樹属の樹木が次第に多く、その間にまさき 、あぶらちゃん 、のぶのき 、くましで 、うつぎ 、にしきぎ 、くろもじ 、うるしの 木、山はぜ 、丁字桜、山ぼうし 、かまづか 等の落葉喬木が繁茂し、いずれも秋季黄紅葉する樹木である上に、つたうるし や蔓は随所の樹木岩石を鎖し、山つつじ 、瑶珞つつじ なども交っているので、如何に紅葉植物が、全山を蔽うているかに驚くであろう。
この薊谷は旧噴火口の跡なので道の両側には無数の熔岩が、大小錯落として横たわっているが、霧が深いのと、年代を経ているので、悉く苔蒸し、樹木は多く熔岩の集団の上に根を張っているのである。その苔蒸した熔岩にはまた髯のように糸すげ が生えており、豆づた や岩がらみ が纏っていて、地肌の見える岩はなく、その一ツ一ツが庭にでも据えようものなら大したものである。そうした谷間を暫く進んで行く中、熔岩の上に瑠璃色の可憐な花をつけている小灌木を発見したが、それは思いがけぬ深山紫陽花であった。深山紫陽花は登るに従って多くなり、道端から分岐している小さな谷々の中には、紫陽花が一面に咲いて、谷を瑠璃色に染めているところもあった。幽邃な霧深い谷間が、夢のような色に染まっているのを見ると、何とも知れぬ懐かしみに打たれる。
山ぎりのかゝる谷間を夢のごとほの青くして咲ける紫陽花
山紫陽花はこの谷間と妙見の外では見なかったが、妙見では一方の日を受ける谷の岨に淡紅色の「しもつけ」が群落を作り、一方の蔭の谷では、紫陽花がまた群落を作っているのを見て、お伽噺の谷にでも来たような美しさに打たれたことをここに書き添える。
しもつけと紫陽花と咲く水無月のとき色の谷るり色の谷
谷を上って峰がまた転ずると、今度は薊谷と共に雲仙の二大渓谷であり、また同じ旧噴火口であるところの鬼神谷の真上に出る。ここでは国見岳(四四二〇尺)が正面に見え、左に妙見右に江丸と外輪山が、環状に堵列して普賢に向っている有様がよく分かる。鬼神谷は深くその間に落込んでいるので、暫くこの落葉樹林に包まれた美くしい渓谷を見下しながら、岨伝いに進んで行く。道はますます嶮しくなるが、次第に絶頂に近づき、巨大なくましで が純林風に蟠屈している中をぬけて出ると、天地は忽ち開けて、一千三百六十米(四四八八尺)の普賢の絶頂に立つ。
高さからいうと、山岳としてはいうに足らぬが、さてもその展望の雄渾秀麗なることよ。雲仙がその景観において、山岳中の首位に推されることの当然さを、一たび普賢の絶頂に立ったものは、誰でも首肯するであろう。仁田峠の展望を素晴らしいといった私は、普賢の展望を何と形容していいか、辞なきに苦しむ。この眺望に接した私の歓喜を、この法悦境をどういい表わしたらいいであろう。仁田の展望は、よしそれが風景のエキスであっても、普賢の展望の三分一に過ぎない。更にこれに三分二を加えたものが普賢の展望で、従って美の包容量も三倍される。しかも同一展望でも、仁田峠より更に約一千尺を上ったこの絶頂からそれを眺める時、爽快の感情が加わること、いうまでもない。
ここでは、東西雲仙の連峰は悉く脚下に朝宗する。これ等の連峰はまた、幾十の枝峰、皺襞を作り普賢そのものも六峰に分岐し、深い襞を作っているので、これ等を足元に見下す心地よさは、全く羽化登仙の快味である。それ等の山々谷々は、悉く紅葉植物に蔽われているので、同一色のくすんだ針葉樹林などと違い、現在においても葉色にさまざまのニュアンスとトーンが出ており、眼に甚だ心地よい刺激を与える。もしそれ、紅葉時の全渓燃ゆるような美しさを、紺青の海を周囲に控えた普賢の頂上から見下した壮観は、想像したたけでも心がおどる。実際雲仙の紅葉は他に比肩するものなく、日本一の折紙がつけられているのである。
無比の展望
私は今妙見、国見に対し西北面して立つ。東南に面する仁田峠とはまさに正反対である。正面には千々岩灘が見える。国見の頂の彼方に大村湾が見える。佐世保軍港の無電局が鮮明に見える。また野母半島を越して玄界灘の水平線と思わるる霞の奥に、五島列島が淡く並んで見える。国見と江丸山の彼方には、有明海が彎曲して現れる。有明海の彼方には肥前の山野が望まれ、多良岳は最も近く聳えている。かくて僅に愛野の地峡を残して、四面環海の中に立つ雲仙の第一峰は、東西南北いずれに面しても、優れた風光に恵まれ、目に何等の遮ぎるものもなき雄大無比の鳥瞰的展望を展開する。それは実に雲仙が他のヨリ高き幾多の山岳に優越せる一大特色で、この特色は一にまた玄界灘、八代海、大村湾、千々岩灘、天草洋、有明海等幾多の区分された海洋と、天草諸島をはじめ多数の島嶼と、更に屈曲極まりなき海岸線を持つ陸地との交錯によって、地理的に変幻無比の地形が、その周囲に構成される賜物に外ならぬ。私は再び繰返すが、海洋美と山岳美と渾然融和して、大風景を形作る雲仙の如き名山を知らない。
名に高き山は多けどこの山の大き眺めにあに如かめやも
この山の海の眺めにたぐへては屋島も鳥羽もなほ如かずけり
見渡せば霞の海に紺青の眉のみ描く八十の島山
私がこの前普賢に上った時、雷雨に逢った事は既記したが、山雨まさに至らんとする前の普賢の印象も、長く忘るる事が出来ない。山上はただ濃霧の海で、数尺先はもう見えず、それでいて疾風が渡ると、魔術の杖を加えたように濃霧が部分的にサッとふき消されるその瞬間に、脚下の薊谷や、鬼神谷の大渓谷が、神秘の帷を引いたように、鮮明に一部分をあらわすのだ。それもただ文字通りの瞬間でかき消される。国見や妙見にはつつじ が美しく咲いていたので、その美くしい色彩が、虚無の間に瞬間的に見えてはまた消えるその夢幻的な濃霧の遊戯を見ただけで、私は酬いられた気がした。
殊に私の立つ絶頂の岩壁に、クリーム色の深山石楠花が清らかに咲いていて、それがおぼろに霧に包まれ触れば消えもするかのようほの白く夢見るように咲いていた趣は、この世の花とも思われぬまでの、純潔さと神々しさをさえそこに点出したのである。この石楠花はどんなに私の心を惹きつけたであろう。少し絶頂を下った普賢の祠の大岩壁にも、この石楠花は一面に咲いていて、これも霧のまがいに隠見する風情は、下界のものにのぞかれるのを吝むかのように見えた。
ほの白く山きりかゝる岩の上に触れば消ぬがに咲ける石楠花
霧の間に深山石楠花咲つゞくその岩影は去りがてぬかも
それは当時の私の実感であり、また普賢の祠を離れるまでは、霧のみでまだ雨にならずにいてくれたことは何たる幸であったろうと、今でも感謝せずにはいられない。
絶頂を下りて四、五町のところに、その普賢の石の祠はある。石楠花の咲いていたその背後の絶壁は、高さ九十尺幅百二十尺の屏風を立てたような角閃安山岩から成立つ。雲仙一帯を構成する火山岩はすべてこの安山岩で、長石、角閃石、黒雲母等それに雑る斑晶の多少の差を認めるに過ぎない。祠を少しく離れたところに、小さな火口湖であるところの普賢池がある。池の周囲には繍線菊が多く、いまだに名残の花をつけている。ここからうつぎ やくましで の林を分け、数町下ると、そこに明暦三年の爆裂孔で、熔岩トンネルを形作っている鳩穴がある。直径百四十尺、深さ三十五尺のグロテスクな大きな穴で、夏も氷が張りつめ、涼風が腋下を掠める。冬の雲仙は霧氷で有名であるが、雲仙が霧氷にかけられる時、この鳩穴は玉簾をかけつらねたように数十尺の大氷柱が隙間もなく懸垂し、この世ながらの水晶宮を現出するそうである。
この辺からの谷間は極めて陰湿で、累々《るいるい》たる熔岩の集団には、こけ がいよいよ深く、樹々《きぎ》の枝には「さるおがせ」がつき、谷間にはししがしら 、いので 、かなわらび 、しけしだ 、おおしだ 等水竜骨科の隠花植物が群生し、木漏日ももらさぬ薄くらがりに、大きな葉をひろげた広葉天南星や、まむし 草などが思うさまにその成長をつづけ、むしろ薄気味悪い位。しめったひやひやした空気が汗ばんだ肌に心地よい。そういうところをぬけ、つめたい氷のような風の吹出している二、三ヶ所の風穴の前を通ったりして、鬼神谷の上へ出るとそこで元来た旧道に合する。私達はここでサンドウィッチなどをひろげた上、そこからまた細い山道を伝わって、八町の上りに過ぎない妙見へ上って行った。
ロッキー・ヒル
私達はすぐ妙見の頂に出た。妙見は普賢より四十米低いに過ぎないが、この内側面に面した方は急峻で、普賢がその前に来り、且密林に蔽われているため、ただ西南の展望を有するに過ぎぬ。また普賢のすべて密林に蔽われていると違い、ゴルフ・リンクスに面するところの、緩傾斜をなしている外側面は、主に小灌木の密集を見るのみである。その小灌木の大部分は深山霧島性のつつじ で、そのつつじ が絶頂まで茂っている趣きは普賢と全く相違している。全体つつじ は千五百尺以上の高度には生育せぬものとされているのに、ここでは四千四百尺の絶頂まで咲きつづくので、それは全く他に類を絶している。
絶頂の苔蒸して、雅味を帯んだ妙見の小さな石の祠のあるあたりには、つつじ の株最も多く、現在では蛍袋が夥しく花をつけており、しもつけ もまだ残んの花を見せている。この辺は弁当でも開くには最もよく、普賢ほどの展望はなくとも、野岳からゴルフ・リンクスを見下した景色は明麗であり、九千部岳、千々岩岳を中心として鳥甲、吾妻、鉢巻等を外輪山とする西雲仙火山の大観が得られることを取るべしとする。
私達は妙見を降りて、今度は野岳(三五〇〇尺)の上へ降った。野岳はまたつつじ の名所で、特に各種のつつじ が多く頂上がほぼ平坦になっているので、そのまま遊園地の趣を呈する。泊岩の奇岩の累々《るいるい》たるあたりは、これまた自らなる庭園で、小さな盆地には水を湛え、黄楊、つつじ などの群生しているものは、皆刈込んだような形をしており、有明海、天草灘を振分けに眺めるそのすぐれた風景と相待って、愛すべき別天地を形作っている。
私達がゴルフ・リンクスの休憩所まで帰って来たのは午後一時だった。
私は午後の三、四時までを九州ホテルで休養した上、夕暮、上野さんや園さんと、白雲池から白雲牧場の方を散歩して見た。白雲池は美しい絹笠山の麓にあって、山上湖であるに相応しい静かな環境を持った油絵のような池である。殊に避暑外人の借りているバンガローがそのほとりにあって、金髪の女や幼女が、青や黄や赤や、スマートな服装をして池辺に戯れたり、ボートを漕いだりしているのも、外国らしい感じを抱かせる。牧場は、やや離れたところにあって、山に放牧されてある数百の羊の群が、二頭の番犬に前後をまもられて、柵内に帰って来る趣きは、これまた油絵そのままである。
私は翌日、私のいわゆる雲仙三大景観の一つである高岩山に登って見た。高岩山は外人がロッキー・ヒルと称し、雲仙に来たものの、必ず上るところになっているほど、しかくかれ等の間に、有名になっているのであった。海抜八八〇米(二八九〇尺)に過ぎず、普賢などに較べて遥に低いが、巨巌の最も多く露出している山であることが異彩を放ち、また、雲仙火山群の最南端の山であるゆえに、天草諸島を最も近く俯瞰する眺望はすぐれており、またここへ来て、はじめて島原の九十九島を望見し得ることにおいて、風景の上に特色を持つ。なお矢岳の山脚と相接するところに、宝原の高原があるが、この高原がまた見渡す限りのつつじ 原で、すぐ目の下にこのお花畑を見下す五月の高岩山が、如何に美しいであろうかは、容易に想像されよう。
天草灘に面したこの山の南西腹は最も急峻で、すさまじい岩石が、殆ど柱状節理をなし、層々《そうそう》相重なって断崖に臨んでおり、山上にも多くの巨岩が、天を摩して聳立 している有様は、耶馬渓の鳶巣山にも比すべきであろう。殊にこの山は雲仙の連峰から、やや離れて孤立しているため、却て雲仙連峰を顧望するによく、有家島原方面に、緩やかな大傾斜を作る美しい雲仙の裾野を、一眸の中に収める気も晴れやかな大観は、高岩に上って得られるのである。
小地獄温泉
高岩の帰途、その途中に当る小地獄温泉の榊屋というに休息し、一浴を試みた。ここは新湯、古湯等の他の温泉場と数町を隔てた谷間の別天地をなしていて、新湯の現代式なのと相違し、全く田舎の湯の宿の気分の漲っているところである。私共が昼食を取っている時、田舎芸者の出稼ぎである二十あまりの白粉をぬった法界節屋が、お煙草盆に、これまたまっ白にぬり立て、メリンス友仙の単衣を着せた三人ばかりの女の子を引率し、宿の前へ流して来たのも、湯の宿情調を助けるものだった。丁度その夜、同じ法界節屋が、新湯へも流して来ていて、各ホテルのポーチ先で、女の子にかっぽれ や深川などを踊らせていると、ホテルの外人達がよってたかって見物し、一踊り済むと、女の子が持って廻る帽子に銀貨を投げ入れてやる趣きは、外国の避暑地のカジノやキュールサールに見る同じ光景であることが私の興味を惹いたことをつけ加えて置く。
ここの地獄は、ただ一ヶ所であるが、地獄の大きくて湯の豊富なことは雲仙第一で、共同浴場ではあるが、そこに湯滝の設備があり、清潔でもあり、湯治の目的には相応しいところであると思われた。食事には上野さんも来会し、この温泉場の元勲で、詩書に堪能であり、雲仙陶器の創始者と知られ、同時に七十三歳を迎えた今年のはじめから、雪白の頭に、黒髪をおびただしく生じはじめたことで、評判になっている本多親基翁も来会された。食事後私達は本多翁をも加えて、ここから三里の諏訪池を見に行く。
絹笠山
諏訪池には自動車道が通じているが、まだ利用されないので、所々草茫々《ぼうぼう》たる中を押分けながら私達の自動車は通って行く。池は島原半島の最大湖で、海抜六百尺の高地にあり、三個の連環湖であることが趣を添え、四面蒼翠に囲まれ、諏訪神社の古びた祠が松林中にあり、池には貸ボートや釣魚の設備があって、更に一段と手を加えれば、夏の遊び場として優れたところとなるべき素質を持っている。
私達は諏訪神社の森蔭で休息した上、諏訪池から帰ったが、その夕べ今度は千々岩灘の入日を見るべく絹笠山に上った。この山は大毎寄附の基金よりなる気象観測所のあるところで、温泉一帯の地に最も風致を添えている美しい山である。赤松に蔽われている笠を伏せたような形が、その趣きが、京都の金閣寺の背景である同じ呼び名の衣笠山によく似ている。高さは八六〇米の手ごろの山で、その山裾をめぐり、延長二里の逍遥道路が設けられている。私達はその山の展望岩のところへ来て日の入りを待った。ここの展望も雲仙の最も美しい景観の一つとして知らるるものである。
千々岩灘に対して立つ時、足下に深く落込んでいる渓谷は、絹笠の山脚と妙見の山脚が作る山領谷である。山領谷の尽くるところに富津の猿葉山が峙ち、その山裾である赤松の点々生えた、土佐絵のような弁天崎が湾に斗出している。妙見の長い山脚を越えて、千々岩岳、吾妻岳、九千部岳などが蒼茫として暮行く姿を見せ、右方有明海の彼岸には多良岳が美しい輪廓を描く。左の方に目を転ずると、早崎の瀬戸から天草灘へかけ、大小幾多の島々の影が海天一色の間に、次第に融け込んで行く。日ぐらしのコーラスが谷に谺して一斉にその日の最後の礼讃を捧げる。
入日が彼杵半島の山の端に近よるにつれ、半天は徐々《じょじょ》に紅色に彩どられる。その紅が反対の側の天草灘に棚引く横雲に反射する。千々岩灘に散らばる漁船の白帆がその瞬間金色に輝き渡る。それは実に美しくも荘厳な自然である。高岩山をロッキー・ヒルと呼んでいる外人は絹笠山をまた夕陽丘と称しているそうであるが、私はかれ等がよく自然と親み、常に先んじて好風景の地点を発見し且巧にポイントを捕えている点を感ぜざるを得ない。邦人の多くが案外風景に無関心であり、最近までは雲仙の美を説くものさえなく二、三十年来独り外人のみがその風景美を独占していた事実を顧みると大いに忸怩たるものがあろう。
大樟林
翌日。
昨日絹笠の展望岩から見下した山領谷の谷底にある大樟林が森林公園の予定地だというので、今日はそこを見るため、上野さんを東道役として、園さんと三人、早朝出立、木場道の中途まで自動車で行き、そこから急峻な谷間を分け下る。殆ど谷を降り尽したところに、その大樟林はある。面積は三町歩あまり、梢にいる小禽が高くて撃てぬと狩猟家である上野さんの説明通り樟はいずれも高くのびており殆ど純林をなしていて、木漏日が僅にさし、堆かいほど落葉が積んでおり、木の間に横たわっておる熔岩は悉く苔蒸し、羊歯が生え、天南星が大きな葉をひろげて、陰森幽邃な別天地を形作られる。
渓流の音が聞こえるので、そこへ降りて行くと、突然一羽の雉が私達を驚かして横さまに木の間を掠め飛び去ったのも、時に取っての一興であった。渓流は細いが、水は清冽で、その辺は巨大な岩石が重畳しており、樟に雑って大榎の茂っている薄暗い広場があって、そこにお誂え通り小やかな狐格子のついた山神の祠がある。樟林を出ると一方には妙見の山脚が絶壁をなして間近に迫って来ており、一方はまた絹笠の山脚がゆるやかに延びて、美しい傾斜面を作っている。それはこの一帯を包容する時、森林公園として、まことに適当の候補地であることを首肯させる。この谷間を登山鉄道が通過する予定になっているそうで、やがてこの地が雲仙名所の一に数えらるる日も遠くはあるまい。
谷深み五百枝大楠立ちならぶしゞまの森に雉子こもらふ
かさ/\と落葉ふみ行く大楠の森のこもれ日影の淡しも
小浜温泉
私達は樟林をぬけて小浜の方に降って行ったが、三々五々小浜の方から手分けして私達を探しながら上って来る人々の捕虜となってしまった。この人達は私に畑中の巨大な百二十畳敷けるという鬼岩を見せた上、小浜街道から自動車に乗せ、この人のために千々岩灘に橘湾の名を与えた湾頭の橘中佐の銅像を見せ、美しい千々岩の松原を見せた。松原で長い間待たせられた上で、今度は小浜鉄道に乗せられた。小浜と愛野間僅に五哩を走る小鉄道で、島原鉄道と連絡しているので、雲仙登山には好都合の訳であるが、何分一時間半以上の間隔をおいて発車するので、実用には縁遠く、その上小浜へ下りても温泉場までまた十八町歩かなければならないとは、何と不便な鉄道であろう。しかし沿線の風景のいいことは、前にもいった通り一寸類がない。
小浜の伊勢屋へ着くと、そこで私の歓迎会が開かれるというのである。山領谷の難所を下り、鬼岩や松原を引廻されたので、汗びっしょりになっている私は、取あえず温泉に一浴を試みる。温泉は六ヶ所ほどに湧出し、量も頗る豊富であるが、代々湯太夫たる、土豪本多氏の私有に属し、今におよんでいることが他の温泉と趣きを異にする。温泉は雲仙の白濁色に引かえて、無色透明、浴場も清潔なので入り心地がよい。ここには四十余の旅館があり別府浜脇のごとく木賃制度が行われておる。雲仙温泉が多く外人を迎えているに引かえ(古湯は内地人専門ではあるが)小浜は内地人で栄え、雲仙と共に唇歯輔車の関係にある。雲仙探勝は小浜を根拠とするも悪くはない。
九十九島
私が町長の本多さん初め、伊勢屋の主人、津田老人などに自動車で送られて、雲仙に帰ったのが三時。それから四時過ぎやや日蔭の出来るのを待って、九州ホテルに暇を告げ、園さんと共に島原に下った。然しそれは雲仙と別れたのではない。風光明媚で聞えた島原に一夜の宿を求めることも、目的の一つではあったが、島原から行くことが便利であるところの「普賢新焼」の熔岩流を見るためであった。
雲仙島原間の自動車道は五年前私の来た時は工事中であったのでそれまでは島原へ降るためには、かなり難儀な普賢下りをしなければならないのだった。この自動車道は雲仙で一番見事な道路で野岳の山脚を大廻りするため、勾配もカーヴも緩慢でドライヴには持って来いであるが、その代り旧山道なら三里に足らぬところを六里も迂廻するのであった。
島原の狭い町をぬけて南風楼についたのが六時前、老女将初め昔馴染で、商売離れての手厚いもてなしに旅の心がどれほどくつろいだことであろう。旅館ではなくて、別荘のような気持のするこの楼の二階から、有明海を隔てて、肥前の多良岳や、肥後の山々を望み、九十九島に対する明麗な風光は、旅情を慰むるに十分である。私達は取あえず入浴して浴衣に着かえた上、用意してあった遊船で宿の主人が案内に立ち、夕暮の九十九の島目がけて漕ぎ出でたのである。
九十九島は寛政四年に東雲仙火山群最東端の眉山が爆発し、山体の東半部が海中にけし 飛び、出来上った島々で、成立後百三十余年に過ぎぬ新島嶼である。この眉山爆発のためには、大震災大海嘯が起こり、有史以来の惨状を呈したので、死者二万八千余人と註せられるが、その記念に残されたものが、この九十九島であるとすれば、何とそれは高価な犠牲の払われた美しい島であることよ。これ等の島々の大半は海底に没し、若くは波浪に砕かれてしまったが、それでも現存している島、大なるは二、三町歩にわたり、小なるは一片の岩礁に過ぎぬものもあるが木ぶりのよい黒松の茂っている美しい島の数は二十以上を数えることが出来よう。その島々が親山たる眉山の翠を背景として、静かな不知火の海に羅列する光景は、まさに西海の松島である。
九十九島は、雲仙から降る自動車道路からは僅に南端の数島が見え、また南風楼の方からは、北端の数島が見えるだけで、島原の町に入ると、そこは湾入した港で、島を眺める便宜はなく、九十九島を眺めるためには、是非とも船によらなければならない。船を島々の間に乗り入れてこそ、始めて九十九島の、真の美しい風景に接することが出来るのである。私はこの九十九島の風景についても、多くを書きたいが、雲仙を主とするので、ここには略する。
私達は舟遊び気分の何ともいえぬ心地で、櫓の音緩く蒼然として暮れ行く島々の間を縫い廻った上、南風楼に帰った。
眉山の裾ひく海の清みかも九十九の島の松しげみかも
島原の静けき海に影ひたすつくもの島は見れど飽かぬかも
不知火の九十九の島の夕潮に漕ぎたもとほる小舟かなしも
南風楼の日の出
はしけやし手にも取らまく紅色の大き朝日は海を出にけり
私はここの日の出がいいといわれている南風楼へ二度泊って、二度ながら見事な日の出を迎える事が出来たのは幸だった。
熔岩流
六時前に朝の食事を済ませると、人夫を連れて、道案内に来てくれた町の助役さん、宿の主人、園さんと自動車で宿を出たのが正六時。目的の新焼熔岩流を見るためである。
この熔岩流は寛政四年の眉山の大爆発と同時に噴出したもので、普賢の中腹飯洞岩の古焼即ち明暦三年噴出の熔岩流の尽きておるところから噴出し、穴迫谷に添うて千本木の平野まで流れて来ており、その流れが蜿蜒三十町に及んでいるというので、私はその凄まじい、まだ生々しい熔岩流の状態を見たいのであった。
案内記などというものは随分いい加減なもので、それによるとこの熔岩流はまだ百三十余年にしかならぬ新らしい噴出なので、風化分解の作用がまだ行われず、従って草木も繁茂していないとあるので、至って殺風景な、実際生々しい熔岩の累積を見ることとばかり想像して、風景の上から何等の期待をもって尋ねて来た訳ではなかった。雲仙登山者でわざわざこの熔岩流を見に来る者は殆どなく、たまたま見に来るものがあっても、僅にその末端である千本木から仰望して帰るだけであるが、この熔岩流こそ雲仙を見、雲仙を知ろうとするものの、是非とも登攀せねばならぬ最美な渓谷の一つであることを、私自らその熔岩流の内部に入って初めて発見したのである。
島原の町から町営の運動場まで一里足らずの間は、自動車を通ずる立派な道路があるが、それから千本木の熔岩流の末端まで十数町の間は徒歩せねばならぬ。私達は緩い傾斜地を上り、漸く熔岩流に近づくことが出来た。熔岩流の幅はそこでは六、七十間にひろがり四百尺程の高さで、四、五十度の角度をなして行止っている。即ち熔岩の断崖がそこに出来ているのであるが、下半部の下積みになった熔岩は石垣状を呈し、上部にはどうしてこんな大きなものが流れて来ただろうと思われる巨大な熔岩が突兀として乱立している。熔岩の上には松が生えているのもあり、一寸面白い風景を形作っているが、断崖風景としては平凡なもので、ただそれが蜿蜒三十町にわたる火の海の流れであった当時を追想することによって興味を呼ぶに過ぎない。その上ここから望見しただけでは、この熔岩流の全体を望見するなどは思いもよらぬので、私は聊か失望しながら、せめては熔岩流の大観に接することの出来る地点だけは見出したいものと、熔岩の流れに添うて上って見ることとした。
そこには島原から普賢に上る樵夫道に過ぎぬ旧山道が通じていてここを一里半上れば普賢の絶頂に出られるのである。私達は十町ほど上って見たが、この山道と熔岩流の間に雑木の生茂った谷があり熔岩流はずっと堆高く馬背なりに流れているので、私達の視界にはこの熔岩流の高い縁だけほか見えないのである。のみならず、山道には松が生えていて眺望を妨げ、どこまで行っても熔岩流を大観することは出来そうもなかった。併し大きく乱立している熔岩の多くには木振のいいひねた松が生え熔岩そのものも皆紫褐色に十分さびており、それに蘚苔が鎖していて、想像して来たような生々しい赤ちゃけた熔岩では決してなかった。私にはこの熔岩流の内部の光景が、荒涼そのもののような殺風景のものとは思われぬ上、中へ分け入ってこそ初めて大観に接しられるのではないかと思ったので、分け入り口を求めながらなお数町を上って見た。
案内の助役さん初め、宿の主人、園さん、人夫などもこの熔岩流に添うた山道は何度も通っているが誰も熔岩流の中へ分け上って見たものはないのだった。聞いて見てもわざわざ中へ入って見るようなものは一人もないとのことに、私の好奇心は一層そそられた。その中に漸く適当な入口を見出し、人夫が草を薙ぎ払った後からつづいて谷を越え、熔岩流のただ中に攀じ登って見た。
一大盆景
忽ち私の眼前に幻のように表われた大きな光景――私はその瞬間の印象を忘れることは出来ぬ。それは何という豪壮な、同時にまた秀麗な眺めであったろう。熔岩流は外部から望見して想像していたような、馬の背状の単純なものではなく、幅も広いところは二、三町にわたり、それが平らに流れているのではなく、熔岩流それ自らの中央部は深く落込み別にまた渓谷をなしているのである。この偉大な熔岩の流れは、樹木の鬱蒼たる穴迫谷の大きな渓間を、一段高く埋めてうねうねと走っているので、三十町にわたるその全熔岩流を何の遮られるものもなく、一目で見上げ見下すことの出来た大観はそれだけでもう素晴らしいものである。
見上げるとさながら長蛇のごとく谷を縫って、普賢の絶頂を目がけ走り上っているこの新熔岩流の尽頭からは、また黒褐色の一段と深い古焼、即ち明暦三年の熔岩流がこれまた七、八町の間、急峻な傾斜面を見せて接続しており、古焼新焼と相聯繋して、左右の濃い蒼翠の間を蜿蜒として爬行し、さながらそこに巨巌の行進曲を奏でている様に見える。それは実に驚くべき壮観といわねばなるまい。
けれども更に私の眼を驚喜せしめたものは、熔岩流の間に育くまれたところの自然の美しさであった。この熔岩流の中へ来て見ると熔岩の集団はいよいよ生々しいどころではなく、同じ安山岩であっても、角閃石に多くの黒雲母を雑えた、また構成の比較的脆弱なもので、殊に凝灰岩をもまじえているので、風化浸蝕作用は案外早く行われ、岩石という岩石は悉く蘚苔をつけていないものはないのである。またこれらの岩石には蘚苔の外に一ツ葉が群生し、豆つた や木蔓がまつわり、はぜ 、ひめうつぎ 、丸葉うつぎ 、小松などが石付となってひね ており、殊につつじ は最も夥しく岩石の間に点綴し、高く延びずに這うように茂っている。また小松や小灌木の枝には「さるおがせ」がひげ をたれているところを見ると、この渓谷の如何に霧深いかを想像させる。これらの小灌木は土壌のない岩石の上に、霧によって育くまれているといってよい。
それらの植物の間に、最も私を喜ばせたのは、雲仙では普賢の絶頂でなければ生えていない黄花石楠花がここでは至るところの岩石の根占となって、つつじ と共に生えていることである。一々の岩石をあさって行くと、それらの灌木の外に、日蔭のところには獅子頭や羊歯類が生えており、しのぶ がつき、岩松がつき、春蘭もまた夥しくその間に散在している。それは全く庭園の境地であり、園芸植物の宝庫であるといえる。かくて熔岩の一ツ一ツは実に見事なる巨大の盆石で、三十町の熔岩流は実にまた驚くべき一大盆景なのである。
この大きな盆景を隔てて眉山の秀麗な峻峰と相対し、眉山の裾をひく不知火の海には九十九島が絵のように浮んでいる。雲仙には薊谷、鬼神谷のような、上から見下して美しい渓谷はあるが、渓谷それ自らの内部にこれほどの美を包容する渓谷はない。公園主事で雲仙の字引といわれる園さんもはじめてこの景色を見て驚けば、島原生抜きの宿の主人も助役さんも生れて初めて見たこの渓谷に見とれるのであった。この美しい熔岩流が今まで外部からのみ瞥見され、誰にも開かれずに秘められていたことを思うと、この処女谷を発見し得た私の幸と喜びは大きい。園さんは直ちにこれを雲仙名所として、私達の入り込んだ口に標示杭を立てるという話で、新焼の名は殺風景であるから何とか命名したい、あなたの名を取って幽芳渓としてはという話も出たが、私は遠慮し、眉山に対しているから対眉渓はどうかなどと話したことであった。
わが庭に移して見たき石付の松の数々岩の数々
美しきこの処女谷を見出でたるわが喜びの似るものもなき
私達はここで持って来たサイダーや折詰などをひろげて、暫く休息した上島原へ引返したが、私は自分の探勝を機縁として、この谷の島原名所の一つに加えられることを喜ぶと共に、その美しい自然が――岩の間に群生する石楠花や、つつじ や、しのぶ や、さては木振のよい石付の小松や、春蘭などが心ない登山者のために掘取られるのではないかと、杞憂に堪えない。もし私の記事によってこの渓を探勝せられるものがあるなら、希わくは自然の愛護を忘れぬようにして欲しい。
私は十二時の汽車で長崎へ立つはずなので、十一時宿へ帰りつくと大急ぎで服装を改め、食事もそこそこに老女将に送られて島原を辞した。
青空文庫より引用